「ヒリモア」万国公法の内宗教を論ずる章(撮要)

COMMENTARIES UPON INTERNATIONAL LAW

ヒリモア R. J. Phillimore

柴田昌吉訳




○万類の動物中、人類を除くのほか、いつも上帝の上帝たるをるものあることなし。」人類はたとい暴虐野蛮の種族といえども、その尊信するところの神の正邪はしばらくき、神を拝することを知らざる者なし、と「シセロ」の説に見えたり。〈「ヒリモア」万国公法第二巻三百二十一葉にあり。〉
○物理の要するところ、人と教とは人間の幸福において互にあい連結するをもって、これを担当すべき人の督理とくりに多少相従わざるを得ず。」ゆえに「グロチュス」判然ときいわく、宗教の益は原来げんらい上帝の恩徳を講解するにもっぱらなりといえども、人間の交際においてもまたその功力はなはだ大なりと。」これよりして「プラト」は深くその道理をし、宗教をさして政権の保障、性法の(ママ)鎖なりとえり。〈三百二十二葉〉
○予あえて言う、一国その国教の情状により他教を禁ずるをもってその国の本分となすは、さまたげなかるべしと。しかれどもこれがため惨酷ざんこくの所業をほどこすも可なりと云うにはあらず。」宗教の用は人と上帝との交感にとどまるのみならず、およそ世間の事業これによりて端緒を開くの稗補ひほあり。かつ宗教はもっぱら人の本心上に帰するといえども、また生民行状の根底となるべきものにして、ついに人道の第一義に帰す。」某国の他教を禁ずる、必竟ひっきょう自国の平安を保つの主意にいづるがごときは、すなわちこれを禁ずるの権利あり。(以上千八百十二年第四月「ロルドウェレスリー」が貴族議院において述告する説にかかる。)〈三百二十二葉〉
○教会の説諭にいわく、およそ人民、該撒カエサル(シーサル)〉の物はみな該撒に、上帝の物はみな上帝に帰すべし、と。また曰、世の官職は上帝の設くるところなり、と。また曰、およそ人民たるものは、ただに責罰のために敬服するのみならず、ことに良心のために敬服すべし、と云々うんぬん。〈三百二十五葉〉

宗教の事に与聞よぶんする権利を論ずる章(撮要)


 〈上略〉回教征戦の名実につきては、なお深く推究せざるべからず。また耶蘇ヤソの宗徒たる者は、明かにろん正しく、かつ事勢やむを得ざるにあらざれば、あえて凶器をろうせずと云えることあり。これ吾輩のいまだ信ぜざるところなり。(以上「ギッボン」の説に係る。)
 右は著名なる歴史家の説にして、耶蘇教土の君士但丁〈(コンスタンチノポル)〉のことに係る。けだしこの説は真道の基本にれり。〈「ヒリモア」万国公法第一巻五百十六葉にあり。〉
○同宗の教を奉ずる縁故をもって、事に与聞する権利において区別すべきものあり。この区別、事において肝要かんようなりとす。」耶蘇教を奉ずる一国ここにあり、その教と同派のものを信ずるぼう宗徒のためにこの徒を管轄する他国(この国もまた耶蘇教を奉ず。ただし別派なり)の事に与聞せんと要するは、すなわちその理あり。これ区別の一なり。また耶蘇教を信ずる総宗徒のため、もしくはその一宗徒のために異教を信ずる他国の事に与聞せんと要す、またその理あり。これ区別の二なり。〈第一巻五百十七葉〉
○このたぐいの与聞(耶蘇教諸国の間につきていう)の特理は、これを至要しようの諸盟約中にくわう。これをもって一定の権力を生じたり。〈同五百十八葉〉
○与聞の一事は、たいていその土地の住民よりこれを求むるを常とす。よろしく注意すべきことなり。〈同五百十九葉〉
○この道(すなわち与聞の権利を云う)は、なおさらにこれを拡充せざるべからずと云い、かつ宗教の事につきて衆人を凌虐りょうぎゃくする国あらば、兵力をもってその事に与聞するも万国公法の許すところにして、あたかも国乱久しくまず、流血きねただよわすの日にあたり、兵力をもってその国を勧解かんかい処分すると同日の論なりと云う。この二説に至りては、いずれもまさに弁論せざるべからず。
 右等みぎらの事件に至りては、他国の内政に与聞せざる善政の度外どがいおくべきものなり。ゆえにこの種の事をはかるはその実はなはあやうしとす。〈同五百廿葉〉
○〈上略〉ゆえに周密謹慎なる「マルテン」、説あり。いわく、すべて宗教の事よりたんを開き、あるいは宗教の事に托して起したる戦争は、左の四件をあらわす。」外国と戦端を開きし原由げんゆは、その実、宗教の事のみにあらず。これその一なり。政法と教権と一致するときは、その国はたして教論を起す。これその二なり。政法上の事故のためには宗教の執念も、たちまち退却す。これその三なり。政法のためには、ただちに教権に反対したる挙動をなすもの少なからず。これその四なり。
○「セント、プリースト」(千七百六十八年より千七百八十五年まで土耳其トルコ国に在留せし仏国の使節)、かつて東方にある天主教徒のため仏国主の行いし護教の法を論ず。そのげんいわく、そもそもわが国王は東方の天主教を保護するの説を唱えて信教の念を飾るといえども、その実は、わずかに外貌がいぼうの虚飾にすぎざるのみ。ゆえにこの事態に徹底せざる徒をして迷わしむ。また仏国のくんに土国人の宗教にあずかるの権利ありとは、土国の君もたえて想像せざりしところなり。わが先官「レ、マルキス、デ、ボンネ」氏、このことの建言中に云えることあり。曰、他国の君主とそのまじわり懇親なりとも、その国教の事に至りては与からしむべからず。このことにつきては土国の人も、なお他国の人と同じく、おおいに感覚するところあらんと。そもそも仏国の土国をたいするを見るに、友誼ゆうぎ懇親によるのほか、さらに他意あらず。ゆえに土国のために害ある約はたつべからず。この理、領解しがたきにあらず。これをもってわが指令書の中にも、しゅとして土国の嫌疑けんぎかもすべき諸事を避け、宗教の事にかかわる条款じょうかんに至りては、ことに過多の寛裕を与えたり。
 この一事に関する公法中の真理を証するには、右に引用せる証拠のほか、さらにこれより正確なるものあるべからず。〈同五百二十葉〉
欧羅巴ヨーロッパの通商をさまたげ、かつその平穏へいおんみだせし希臘ギリシア国の戦争をたいらげんがため、耶蘇教の諸大国、魯西亜ロシア国とともにこれを和解、鎮定ちんていせり。けだし欧羅巴諸国の和解をなせしは希臘国のもとめに応じたるなり。〈同五百廿八葉〉





底本:「明六雑誌(上)〔全3冊〕」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年5月17日第1刷発行
底本の親本:「明六雜誌 第六號」明六社
   1874(明治7)年4月28日
初出:「明六雜誌 第六號」明六社
   1874(明治7)年4月28日
※「廿」と「二十」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「「ヒリモア」万国公法のうち宗教を論ずる章撮要さつよう」となっています。
※校注者による冒頭の解説は省略しました。
※校注者による脚注は省略しました。
※〈 〉内の二行書きは原文のルビです。
※〈 〉内の一行書きは原文の割注です。
※初出時の訳者名は「柴田氏」です。
※イギリスの国際法学者フィルモアの『国際法注釈』(R. J. Phillimore, Commentaries upon International Law, London, 1871)の第八部第二章および第四部第一章からの抄訳です。
※引用文の冒頭に始めかぎ括弧がないのは底本通りです。
※「注意すべきこと」の「き」がないテキストが存在すると底本の補注に記載されています。
入力:田中哲郎
校正:hitsuji
2020年10月28日作成
2021年8月29日修正
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