荒野の呼び声

解説

山本政喜




 貧乏なためにろくろく学校へも行けず、様々な雑役をやつたり、製罐工場で一時間十セントの給料で犬のように働かされたりしたジャック・ロンドンは、その後密漁者の仲間にはいつたりして、ならず者と一しよに無茶な生活をつづけたが、その間にも読書し思索することを怠らなかつた。そういう生活から足を洗い、朝鮮、日本、シベリヤの近海まで出漁する海豹猟船に乗りこんで、船員としての修業を立派に果たして、下船すると再び腰をおちつけて工場労働者となつたが、その間にも読書と思索の努力をつづけ、母のすすめによつて書いた「日本沖の颱風」が新聞の懸賞作文の一等賞に入選したりしたこともあつた。
 漂然として全国放浪の旅に出て、社会のどん底と社会の裏面に否応なしに直面すると若いジャックの頭に一つの人間観、社会観が出来てきた。それは人生は一つのゲイム(競技、勝負事)である、という考えかたである。
 人生は一つの大きな、いつまでも継続する、急速に変化する、人間の全精力を吸収する、そしてしばしば決死的なゲイムである――万人がそれをやり、万人がそれに冒険的に参加する。もともと宇宙の原始力なるものがこのゲイムによつて、形の無かつた物に今日の自然的形態を与えたのであり、生命そのものが相争うエネルギーのゲイムから生じて、均衡を保ちリズムをもつ秩序をかち得たのである。そこで、生命はこの広い大地を戦場として、適応のゲイムを重ね、一方に脱落者を生ずると共に、他方には勝利者即ち生存者をだした。次には人間が陽のあたる場所を得んとする自然とのゲイム、それから周囲の生物とのゲイムの結果は、相つぐ勝利によつて人間の事実上の世界支配となつた。人間の世界支配が進むと共に、その人間の間に、人間と人間の間、民族と民族の間、部族と部族の間、群と群の間、各個人と他の凡ての個人の間のゲイムが進行する。
 こういう考えからして、若いジャックは、世界が自分に挑戦してくるこの大きなゲイムに参加するためには、先ず第一番に自分の今の苦しい環境を脱せねばならぬと結論した。先ずこの環境を脱して、別の新たな環境に入らねばならぬ。もしおめおめと生れたままの環境に服していたならば、ただの賃銀奴隷、あくせくと働くばかりの人間として終るだろう。
 彼の先人アンブローズ・ビアスが[#「アンブローズ・ビアスが」は底本では「アンブローズ・ピアスが」]言つたことがある――下層階級の者がその艱難と困苦を免れる唯一の方法は、下層階級からはいのぼつて、上流階級に入りこむことである。この考えをジャックは直ちにとつて、自分はよじのぼるのだ、しかもできるだけ早くよじのぼるのだと決心した。
 よし、自分はこのゲイムに男らしく参加しよう。いつまでも資本家の手中の人質であること、産業の搏奕打ちが[#「搏奕打ちが」はママ]ゲイムをやる時の多くのコマの一つになること、それはよした。今から資本家にたちまじり、対抗し、打負かしてやるのだ。そのためには一般市場に優れた商品を提供せねばならぬ。では自分はどういう商品をつくり出すことができるか?
 資本はもちろん一文ももたない。頑健とはいえ、筋肉や体でなし得ることは高が知れている。そこで彼は「世界の市場に売ることのできる一番よい商品は頭脳である」という結論を得て、出来るだけ早く「頭脳商人」となることにきめた。そして売ることの出来る頭脳商品は文学であつた。
 生活の経験は年齢とは段違いに積んでいたし、読書には精魂を傾けていたし、創作にも自信があつたのだが、更に系統的な学問の必要を感じて、カリフォルニヤ大学に入学することを志し、その前提として十九歳の身をもつてオークランド・ハイスクールへ入学した。しかし一年生で良い成績をとると、卒業までの長い期間に我慢がならず、一日に十九時間も机に向つて勉強をつづけ、十二週間の終りには大学の試験を受けて、それにパスした。ところが大学の最初の一学期がすむと、大学に通うことの無意味を感ずると共に、養父が病気のために一家を支えることが出来ないので、その生活費を稼ぐことの方が急務となつてきた。
 しかしジャックは再び肉体労働にかえることはせず、早速「頭脳商品」の生産にとりかかつた。自分の部屋に鍵をかけてとじこもり、毎日十五時間絶え間なく書きつづけた。方々へ送つた原稿は、しかし、みんな戻つてきた。その度に衣類などを売つて食いつなぎとしたが、ついには売るものもなくなつてしまつた。
 やむを得ず洗濯屋に仕事を見つけて、母親に月々三十ドルの給料を貢いだが、ジャックの心中は甚だ悶々たるものであつた。
 一八九六年の夏にクロンダイク河で有望な金鉱が発見され、いわゆるゴールド・ラッシュがはじまつた。ジャックは百八十度転回してこのゴールド・ラッシュに参加することにした。義姉イライザの夫シェパードも齢六十を越えながらこの熱にうかされていたので、イライザが五百ドルの金をだして、二人の仕度をととのえてくれ、一八九七年三月二十日に二人はサン・フランシスコから出帆した。
 船着場のスキャグウエイとダイエイには無数の「一旗組」がたまつている。食料と荷物の運搬料が高いし、自分で運ぶことは殆ど不可能だからである。多くの者がここであきらめて帰つてしまう。シェパードがその一人となつて引揚げてしまつた。ジャックは小さな舟を買い、仲間の数人と一しよにそれに食糧を積んで、チルクート峠の麓まで曳き舟で運んでいつた。
 難所のチルクート峠も自分等で荷物を背負つて越してしまつた。
 湖水を渡る舟がないので引きかえす人たちを尻目にかけて、ジャックの一行は平底舟を二そうもこしらえ、それで湖水を渡つた。ホワイトホースの急潭もジャックの熟練剛胆によつて乗りきつた上に、ここで行きつまりになつていた無数の探金者たちに頼まれて、その人たちの舟を渡してやり、数日間に三千ドルの料金を稼いだ。
 途中で時間を食つたためにドースンの町から七十マイルも手前のスチュワート川に達した頃には、冬将軍が襲来して、ジャックの一行はユーコン河の岸の無人の小屋の中に雪のために閉じこめられてしまつた。しかし医者や判事や教授、技師というような人たちが五十何人もこのあたりに立往生していて、お互いの間で楽しい冬籠りをたのしみ、それに毛皮猟師やインディヤンや、新顔古顔の探金者たちが代る代る参加した。
 ジャックはその冬の間にユーコン河のいくつもの支流に沿つて金鉱をさがし、ヘンダースン川で砂金に掘りあてて大いに喜んだが、それは砂金ではなくて雲母であることが判明して、ジャックの夢は破れた。そして彼は探金を断念した。
 春になつてドースンの町に入り、酒場で探金者たちの長い身の上話や経験談に耳をかたむけ、賭博宿で博奕打ちの生態を観察し、金鉱発見のずつと前からいる毛皮猟師たちや古顔の探金者たちにこの地方の古事来歴をたずねた。そしてジャックは自然と人間をあらためて観察すると共に、再び「ユーコン河上で私は自己を発見した」のであつた。
 六月に故郷へ帰つた時には一文の金もなく、金を得んとするゲイムには完全に負けたのであるが、自分では意識しなかつたにせよ、後年の頭脳商品の生産のための豊富な材料を身につけていたのである。
 養父ジョン・ロンドンが既に死んでいたので、再びジャックは一家族の扶養を引受けねばならなかつたが、彼は食うための仕事は殆どかえりみずに物語を書くことに専念した。初めは中々反響がなく、苦しい生活をつづけたが、やがて「奥山道の男へ」、「白い沈黙」などが活字になり、二十三歳の七月には短篇小説と随筆が五つの雑誌に発表されて、いよいよ本格的な作家になる緒についた。
 やがて「北国のオデッセイ」がアトランティック・マンスリ誌に採用され、ホートン・ミフリン出版社は[#「ホートン・ミフリン出版社は」は底本では「ホートン・フリン出版社は」]短篇集の出版を約してきた。
 この頃ジャックはベッシー・マダーンと結婚し、それを祝福するかのように、マックルーアズ誌が三つの短篇を買いとり、ミフリン社は短篇集「狼の息子」を出版した。結婚生活は妻と母の不和のため、生れた子供が女であつたため、借金がかさんだため、苦しいものであつたが、彼の作家としての才能は批評家の間に好評を博し、マクミラン社長ブレットは彼に手紙を送つて、彼の短篇小説は「これまでこの国で書かれたこの種の作品中で、最上級のもの」であると称揚し、更に幾つかの短篇の発表を引受けた。
 折しもボーア戦争の報道のためアメリカ通信社から南亜派遣の交渉があり、ジャックは直ちに引受けてロンドンに渡つたが、着いて見ると解約の電報がきていて、彼は異郷のただ中に無一物で放置されることになつた。普通の人なら完全に打ちのめされるところであろうが、ジャックにとつてはむしろこれは与えられた好機であつた。彼は早速ロンドンのイースト・エンドに潜入して、そこの生活に浸りつつ観察することにきめた。イースト・エンドは当時有名な貧民窟で、不潔と病気と犯罪の巣であつて、旅行案内社の者は、そんなことをしていると寝首をかかれるといつてとめたくらいであつた。ジャックは古着屋で出来るだけみじめな服装を選び、アメリカから密航してきた船乗りをよそおつて、イースト・エンドの人たちの中へはいりこんだ。
 この経験の記録が後で「奈落の人々」に結晶したのであつて、それはジャック自身が最も愛好し最も自信をもつ作品であり、事実下層社会を取扱つた世界的名著の一つにかぞえられている。
 十一月にニューヨークへ帰りつくとすぐ、マクミラン社長ブレットはその出版を引き受け、二カ年間月々百五十ドルの支払いを約束した。
 やがてジャックは熾烈な創作慾にもえたち、あらゆることを忘れて三十日間書きつづけて「荒野の呼び声」を書きあげた。そしてそれをサタデイ・イヴニング・ポスト誌に投じて採用されたが、マクミラン社長ブレットは印税でなく出版部数全部に対する原稿料二千ドルという条件で、単行本として早速出版することを申し入れてきた。こういう大金を一時に手に入れたことはなかつたし、今までのブレットの庇護に感謝して、ジャックはそれを喜んで受け、同書のすべての権利を譲り渡した。はからずも「荒野の呼び声」は批評家ばかりでなく一般の読者から歓迎されて年々に増刷をかさね、アメリカ国内で今日までに六百五十万部を売つたといわれている。イギリス、ドイツ、ことにソヴィエトで出版された部数は莫大なものである。一冊の書物でこれほどの売れゆきを見せた書物はバイブル以外にはあまりないと思われる。
 この物語はもちろん一つの動物文学なのではあるが、大抵の動物文学が安易な寓話に陥りがちであり、さもなくば動物を人間から切り離して英雄化しているものが多いのに「荒野の呼び声」はファブルやシートンに近いリアリズムをもつて動物の世界を描き、しかも人間の社会生活と個人的性格に密接に関聯させた、ユニークな動物文学である。動物をも人間をも進化論の立場から見、殊に人間の個人的社会的生活は、自分の生活経験から得た社会主義的観点から見ている。随つて寓話でもなく、単なる教訓でもない。人生批判が全篇ににじみ出ている。それが本書を動物文学の逸品以上のものとしているのである。
 そのような名作であることが認められたのはずつと後のことであつて、本人は勿論そういう自信をもつていたわけではなかつた。ジャックはその二千ドルの金をにぎると、前から欲しがつていたスプレイ号という小型帆船を買いとり、食糧と毛布をもちこんでその中に寝泊りし、昔の船員生活にかえつて、時には海上を帆走したりしながら、毎朝ハッチに腰かけて千五百語くらいの原稿を書きつづけた。それは「海賊」であつた。
 妻のベッシーは子供らと一しよにヴァレー・オヴ・ザ・ムーン(月の谷)のグレン・エレンという避暑地に丸太小屋を借りて住んでいたので、ジャックはその妻子の住居と船の間を往来していたが、或る晩山越えの途中、馬車が谷間におちてジャックは脚にひどい怪我を負つた。その看護には、ずつと前から知り合つて親しくなつていたチャーミアン・キトリッジが大変熱心にあたつてくれた。それからしばらくジャックは家族と一しよに林間生活を楽しみつつ、「海賊」の執筆をつづけ、七月の末にはその前半を完成して、家族をはじめ避暑にきている人達の集まりにそれを朗読してきかせた。
 しかしその間にジャックの結婚生活は破綻していた。ジャックはベッシーとわかれてチャーミアンと結婚しようと決心し、そのことを妻に話して別居した。チャーミアンは早くからベッシーはジャックに適当な妻でないと考え、自分ならばジャックの才能を最もよく生かす妻となることができると信じていたのであつた。母親のクレアラは、三年間もベッシーと争いつづけていたのに、この別れ話には反対して、ベッシーの肩をもつた。
 こういういきさつのためにジャックは困惑して執筆もおぼつかなくなつてしまつたが、折柄「荒野の呼び声」が批評家から好評され、ブレットの金をかけた宣伝も手伝つて、一般読者に歓迎され始めたので、彼は意を決して「海賊」の前半をブレットの許に送つてみた。するとブレットがそれを絶讃したので、センチュリー誌がそれを連載することになり、ジャックは喜んで精力を集中し、三十日間夢中になつて執筆をつづけ、ついに完成することができた。
 一九〇四年に日露戦争がはじまると、ジャックは五つの新聞シンジケートから特派報道員に招聘されたが、最も条件のよいハースト系通信社の特派員となつて、日本へ渡航した。日本の軍部は報道記者の従軍を拒否したが、ジャックは一人で都合して朝鮮に渡り、ついに第一軍に従軍して、他のどの特派員よりも多くの、そして詳細な報道を送ることができた。
 帰国してみると離婚訴訟がはじまつていて、ジャックは一生涯のうちで一番不幸な時をすごすこととなつた。
 しかし前に出た「海賊」がすばらしく評判になつていて、発行後三週間目にはベスト・セラーの第一位になつていた。褒める者ばかりではない、ひどく悪くいう者もあつたのだが、とにかく万人がこの作を問題にし、ジャックは稀に見る天才だと考えるようになつていた。
 それに元気づけられたジャックは旺んに執筆をつづけると同時に、方々から招かれるままにしばしば出かけては講演を行い、相当の報酬を得た。その創作のために当代一流の名士になつていたのだし、剛健な男らしい態度と、社会改革の熱意と、明るい笑いと、軽妙な諷刺とが聴衆を魅了したのであつた。
 そしてこの頃に彼が書きあげた小説には、多数の短篇のほかに、「ホワイト・ファング」、「アダム以前」、「鉄の踵アイアン・ヒール」などの優れた中篇ものがある。「ホワイト・ファング」は「荒野の呼び声」と同じくすぐれた動物文学であると共に優れた人生批判の文学である。「荒野の呼び声」のバックとは逆に、犬との混血である牝狼の仔ホワイト・ファングが、人間に飼われてだんだん犬に化してゆくことを主題とした物語で、「荒野の呼び声」とならんでジャックの傑作の一つである。
「アダム以前」は「荒野の呼び声」の中にバックの夢幻として描かれている原始人間を書いたもので、下手をすればたあいもないものになる危険のある主題をジャック・ロンドンらしく読んで面白いものに仕上げている。
鉄の踵アイアン・ヒール」は一種のユートピヤ文学と考えてもよい作品である。鉄の踵アイアン・ヒールというのは大財閥の寡頭政治のことであつて、その大財閥が人民を搾取し虐待するために、サン・フランシスコとシカゴに暴動が起り、鉄の踵がそれを無残に粉砕する、というテーマの未来記が本書である。その人民の指導者であり、蜂起の組織者であつたアーネスト・エヴァハード(真面目、常に堅固という意味)は一九三二年の春に逮捕されて秘かに処刑されたが、その後継者たちが、その仕事をついで発展させてゆく、そのことをエヴァハードの妻が回想してこの物語を書いた。そしてそれが七世紀後に発見されたので、それに註をつけて今発表する。という形式になつているので、ベラミーの「顧みればルッキング・バックワード」が紀元二〇〇〇年から一八八七年を回顧したという形をとつているのと似た構想であるが、「顧みれば」の方は遠い未来であるだけに、想像があまりに飛躍しすぎて、あまりにもユートピヤ的になつているのに比して、「鉄の踵」は書かれたときから見て比較的近い将来のことで、著者がいち早く観察し得た人間社会の底流の可能的発展を、極めてリアルに描きだしている。本書を読んだ人たちは皆、本書の中に描かれていることのあまりに多くが、その後の人間社会と国際関係のうちにそのまま現われてきたことに気付いて驚歎している。
 ジャックが執筆に講演に活躍している間に、ベッシーとの離婚訴訟の判決が下り、チャーミアンとジャックは正式に結婚した。そして一九〇六年頃から「スナーク号の巡航」に書かれている様な、ジャックの一世一代の大冒険の準備がはじまつた。(その詳細を知るには、「スナーク号の巡航」やロンドン夫人の「ジャック・ロンドン伝」を読まねばならない。)
 ジャックはこの頃生活気分に一つの行きつまりを感じ、生来の冒険好きからして、船で世界一週を試みて気分の転換と、新たなインスピレイションを求めたい衝動を感じていた。チャーミアンはもともとジャックのその様な面に共鳴していたのだから、しきりにその決行を慫慂した。そこでジャックは有り合わせの船では満足せず、自分の好みにしたがつて設計した船(スナーク号)を七千ドルで建造させ、それに乗つて太平洋の諸島を七年間かかつて巡航しようと決心した。そこでこの航海の記事出版の前借の交渉をはじめる一方、チャーミアンの叔父ロスコー・イームズを監督としてサン・フランシスコでスナーク号の建造に着手させた。
 しかしこの時勃発したサン・フランシスコ大地震につぐ火事で、造船材料を焼失するという憂目を見た上に、ロスコーの無能と、不正直のために、金ばかりかかつて、仕事は進まず、出航予定の十月一日になつても、金は一万五千ドルもつぎこみながら船は半分しか出来ていないという有様で、しかも大雑誌で前借を承諾してくれるものは一つもないという窮地に陥つた。
 結局二万五千ドルもつぎこんでしかもまだ未完成の船をホノルルに廻航して、そこで完成するつもりで海上に乗りだしてみると、船は泥の中にはまりこんでしまつた。それをどうにか引きあげ、修理して出発したのが一九〇七年四月二十二日、乗り組んだ者は、航海術を知らぬ船長と、機関のことを知らない学生の機関士と、料理を知らない料理人と、日本人のボーイと、ロンドン夫妻であつた。
 殆ど不正の材料ばかりで出来た船は、甲板からも船腹からも船底からも不断の水漏れになやまされ、至るところ故障ばかりで、しかも航海術の心得ある者は一人もないので、船はただ地獄のまわりを漂つているようなものであつた。
 ジャックは航海術の書物をひつぱりだして研究した結果、「太陽と月と星の観測によつて航海することは、天文学者や数学者のおかげで、やさしいこと児戯に等しい」ことをさとり、ロスコー始めみんながさぼつているのもかまわず、チャーミアンを舵輪当直につけて、自分一人で船を進ませた、しかもこの海の刺戟に感興をおぼえ、ハッチに腰掛けて「マーティン・イーデン」の構想を練り、しきりにペンを走らせるのであつた。
 ホノルルにつくとすぐ、必要な金を得るために、雑誌の原稿を書きとばすことにとりかかり、それに数週間をついやした。しかしまた一方では、ロンドン夫妻はハワイ島人の大歓迎を受け、饗宴と水泳と魚捕りを楽しんだ。
 十月の半ばに船長と機関士をとりかえて、マルケサス群島に向つて出発したが、この航路は帆船で不可能とされている難航路なので、嵐とスコールに目茶苦茶に悩まされながら、二カ月を費してついにマルケサス群島の[#「マルケサス群島の」は底本では「マルサス群島の」]ヌクヒヴァにたどりついた。この航海でも役に立つ人間はジャックとチャーミアンだけであつて、彼等が難船せずに乗り切ることが出来たのはまつたく一つの奇蹟のようなものであつたが、ジャックは、海図にも載つていない水域を航海することに少年のような歓喜をおぼえ、いるかふかを捕つては毎日の生活をたのしみ、しかも毎日「マーティン・イーデン」を一千語ずつ書き加えていつた。
 マルケサス群島で野生の山羊の猟をしたり、土人のお祭りの舞踏や祝宴を見たりして、十二日間滞在してから、パウモツ群島を経てタヒチ島に向つた。タヒチ島に廻送されてあつた郵便物で故郷の様々な窮状を知り、それを片附けるために単身帰国し、一週間滞在している間に、殆ど完成しかけていた「マーティン・イーデン」の出版契約をむすび、負債を払つて母の生活を安定させ、雑誌原稿その他出版についての問題を解決して四月にはタヒチ島へ戻つてきた。
「マーティン・イーデン」はジャックの小説のうちでも最も自伝的な小説であり、最も快適な気分の時に書かれた最も成熟した小説である。おそらくアメリカの古今の小説のうちで最もすぐれたものの一つである。
 スナーク号は再び出航して、六月にはフィジー諸島のスヴァに着いた。そこでハワイで雇入れた船長が上陸したまま戻つてこないので、それからはジャックが船長となつて、ソロモン群島の間を縫つて航海をつづけた。その間ジャックをのぞく全員が病気にかかつたが、ジャックは医者の役を一手に引受け、しかも機会ある毎に島々に上陸しては、探検し、写真をとり、蒐集し、ノートをとることをおこたらず、更にマラリヤで床についている時以外は、毎日必らず一千語は書くという習慣を守りつづけた。
 しかし一九〇八年九月にはジャックも熱帯性の皮膚病にかかり、オーストラリヤのシドニーの病院に入院したが、治癒がはかばかしくなくて五カ月もたつたので、この旅行はこれで切りあげることにして、スナーク号を売りはらい、三千ドルの金にかえてサン・フランシスコへ帰つてきた。
「私は口には云えないほど疲れている。それで充分の休息をとるために帰国した」と新聞記者にも語り、事実健康をそこねた上に、借金が山ほどかさんでいたので、ジャックの前途は暗かつたが、やがて健康も回復し、仕事にかかつてみるとどしどし進行した。いくつもの短篇を書き、サタデイ・イーヴニング・ポスト誌には次の一年間に十二篇の小説を書く契約を結んだ。しかしこの頃での一番の大作は「燃ゆるパーニン[#ルビの「パーニン」はママ]デイライト」であろう。これはクロンダイク地方とサン・フランシスコを舞台にとり、クロンダイクで数百万金を稼いだ精力的な若い男バーニン・デイライトが、社会理想に燃えてその富を弊履の如く捨てることを書いた、ややセンチメンタルではあるが、人間の理想性を鼓吹する好箇の長篇小説である。
 自分の力がつきたどころではなく、ようやく円熟の時期にはいりかけたのだという自信を得たジャックは、更にチャーミアンが姙娠したという知らせにも有頂天になり、いよいよ最後の夢、余生を送る憩いの家、の実現にとりかかつた。シーダーと葡萄園と果樹園とマンザニタの森に囲まれたヒル・ランチの谿谷に、「狼の家」をたてはじめたのである。それは様々に考えているうちに、だんだん大きなものとなり、二十三室もあつて、何世紀ももつような石の土台の上に建てられることになつた。
 ジャックは一九一〇年の春、夫と別居している義姉イライザを招いて、農場の管理をしてもらうことにした。
 しかしチャーミアンの生んだ子供は女児であつて、しかも三日しか生きていなかつた。二人は海上の遊覧旅行に出たり、魚釣りをしたりして、心の痛みをいやすのに夏の数カ月をついやさねばならなかつた。
 ジャックはしかし毎日の仕事の憂さからのがれるために、昔のように酒に浸りはじめた。酒場には入りこんで誰かれの見さかいなくウィスキーを振舞い、梯子酒に酔いしれた。
 しかしそのような乱酔の間に、「ジョン・バーリーコーン[#「ジョン・バーリーコーン」は底本では「ジョン・パーリーコーン」]」の構想がうかび、やがて完成された。この小説もやはり半自伝的なもので、作家を志す若者の飲酒癖との悪戦苦闘と、その最後的克服を描いた、野心的な作品である。この小説は「マーティン・イーデン」以上に好評を得て多くの読者を獲得した。一般の人は本書を読んでジャックはアル中患者だなと考えたが、中には、殊に牧師たちは、これは飲酒の害悪を教える道徳的教訓と解する者もあり、禁酒聯盟、酒場撲滅聯盟などではこれを宣伝材料として利用した。それが映画化されると、酒造会社から巨額の金を提供してその上映を阻止するという騒ぎまでもちあがつたし、禁酒聯盟では本気でジャックを大統領候補に指名する運動をおこした。一九一九年に合衆国で禁酒法が通過したが、それには「ジョン・バーリーコーン[#「ジョン・バーリーコーン」は底本では「ジョン・パーリーコーン」]」が大いに寄与したことに間違いはない。
 八万ドルの費用をつぎこんだ「狼の家」も一九一三年の八月には完成にちかづき、八月十八日には最後の掃除をして受け渡しもすみ、翌朝ジャック夫妻が移り住む準備をはじめたその晩、「狼の家」はきれいに焼けてしまつて、何世紀ももつ石の土台だけが残つた。そして十万ドルの家と共に、ジャックの胸の中の或るものが焼けおちて、永久に消え去つてしまつた。
 しかしこの一九一三年には、彼の作品が最も多く発表された。即ち四つの長篇が雑誌に連載され、四冊の単行本が出版された。そのうちの二冊は「ジョン・バーリーコーン」と「月の谷」であつた。だから世間及び出版界はジャックの創作力が超人的にのびてきたものと考えていたが、実際にはジャックは本当にエネルギーを消耗していた。不健康がつのると共に、頭脳の把握力が衰えかけていた。もはや酒の力を借りねば仕事をつづけてゆくことができなかつた。そしてこの頃に執筆した短篇は多く以前からあつかつてきたテーマのむしかえしが多く、力作としてはただ、「エルシノーア号の暴動」くらいのものであつた。
 一九一五年二月ジャックはチャーミアンと共にハワイへ出かけ、静養につとめた結果相当健康を回復して、グレン・エレンへ帰つてきたが、やがて尿毒症が悪化してきた。しかもジャックは病気に悪いからといつても酒をやめることもできない状態にまで陥つていた。酒はやめねばならなかつた。頭脳商品の生産によつて資本家に対抗しようと決心して以来、ものを書くということはジャックの生存の意義であり、生活の刺戟となつていたのだが、それが今では堪え難い重荷となり始めていた。だから二万五千ドルの契約で軽い映画物語「三の心」を書く時には、はじめて真剣に考えて書く苦労からのがれて、楽な気持で毎日千語ずつなぐり書きしたということである。「三の心」を完成してから、ジャックは書いた、「この物語は一つの記念の祝である。この完成によつて、私は四十回目の誕生日と、五十回目の著作と、著述業の十六年目を祝うのだ。」
 ジャックの頭脳はますます疲労し、それに自分は発狂するのではないかという脅迫感の重圧が加わつてきた。一九一六年一月、模範農場の実験に失敗すると、更にひどく打撃を受けて、チャーミアンと共にハワイへ逃避したが、それは何の役にもたたなかつた。彼は顔がむくむほど肥満して、眼は光を失い、体中が痛くて、気むずかしくなり、すつかりしおれこんで帰つてきた。
 それでもジャックは死ぬ前の最後のあがきのように、なおも創作の筆をとつたが、さすがにその中には、彼の著作のうちで一番楽しいアラスカの物語といわれる「古代のアーガスのように」と、彼の青年時代のノスタルジヤとしての傑作と云われる「王女」などがある。
 一九一六年十一月二十二日の朝、ジャック・ロンドンはその寝室で意識を失つて倒れているところを発見された。それはニューヨークに向つて出発することになつていた日のことであつた。床の上に二本の薬瓶が空になつて倒れており、テーブルの上の便箋には、モルヒネの致死量が計算してあつた。つまり自分は発狂するかもしれないという脅迫観念からして自殺を敢行したのであろう。
 ジャックはその晩死んだ。
 有名な園芸家ルーサー・バーバンクの夫人は、ジャックの死の記事を新聞で読むと、若い人たちに向つて、アメリカの悲しみを代表するようにして云つた、「笑うのはお止しなさい。ジャック・ロンドンが死んだのです。」

 ジャック・ロンドンの全作品を見渡してみると、大体次のような部類にわけられる。(一)自分の生存のための苦闘を描いたもの。(二)陸上と海上の放浪生活と冒険を描いたもの。(三)人間が人間に加える不正義の観察。(四)歴史前の過去の夢想と社会の変動の予想。
 何といつてもジャック・ロンドンの名をなした最初の作品は、いわゆる「ユーコン物語」として一括されている北地の物語群である。その最も有名なものは「荒野の呼び声」で、「雪の娘」はクロンダイクの金鉱ラッシュを仔細にわたつて描写し、「人間の信仰」はボナンザ金鉱に関する物語、「霜の子供等」も探金地域の優れた描写、「生命の愛」という短篇集はジャック・ロンドンの最もすぐれた短篇を集めたものとされ、その中の「茶色狼」はバックを思わせる犬のことを書いたものである。「ホワイト・ファング」は「荒野の呼び声」と相対して傑作のダブルヘッダーである。その他北地に関係する物語のうちには「バーニン・デイライト」、「失われた顔」、「煙のベリュー」等がある。
 作者の海を知り海を愛していたことを示す作品としては、「スナーク号の巡航」、「海の狼」、「漁場監視人の物語」、「エルシノア号の暴動」などがある。「スナーク号の巡航」には、モロカイ島の癩患者のこと、タヒチ島の礼儀正しい人達のこと、ソロモン群島の未開な土人のこと、等が仔細に描かれている。作者の最後に近い作品「島々のジェリー」は熱帯の蛮地に優秀な犬を送つた場合の物語。その他太平洋の島々に関する物語には「冒険」、「太陽の息子」、「矜りの家」などがある。
 作者の社会と文明の将来に関する見解を示す作品には、作者が一番自信をもつている、ロンドンの貧民を描いた「奈落の人々」、小児労働の禍害を描いたクラシック「神の笑う時」、階級の争闘を書いた「階級の戦争」と「鉄の踵」、浮浪者の生活を描いた「道路」、自伝的小説「マーティン・イーデン」、「ジョン・バーリーコーン」等がある。
 作品の偽科学的な想像力の作品として、原始人を描いた「アダム以前」、自己催眠と再生を取扱つた「星の放浪者」、地球の人類絶滅と人類の再生を取扱つた「深紅死病」がある。短篇集「強者の力」の中には同様なストーリーがいくつかある。
訳者





底本:「荒野の呼び声」角川文庫、角川書店
   1953(昭和28)年4月5日初版発行
   1970(昭和45)年6月30日21版発行
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※地名、人名の誤植を疑った箇所は誤記注記としました。
入力:sogo
校正:砂場清隆
2021年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード