詩人といふ者

草野天平




 詩のやうなものをただ書きさへすれば、それでもう詩人だといふやうなことは絶対に云へない。志を持つ人、といふと少し固く道徳的な感じがするが、少くともその感じに非常に近い、或る充実して爽やかな気持を得るために歩く人、又は歩き得た人、これこそ間違のない真の詩人だといふ気がする。
 詩といふのは、この綺麗な道中の無言の姿であるか、或ひは真の一声であるべきで、それは寸分の隙間もないその物のやうな本当さでなければならない。恐らく純粋といふものはかうした道のその都度その都度の極つた気息といつたもので、只これしか無いといつた感じのものではないかと思ふ。然しこの極つた気息、つまり本当といふことは容易なことではない。心の一番底まで届き、そして出るといふことで、簡単な業ではないのである。それは一種崇高といつてもいい涙ぐましいほどの努め方をして始めて可能なのである。それは何に向つても構はない。ただ「泣くほど」なのである。この泣くといふことが詩で、その善し悪しはどの程度のことにどれだけ本気の気持で泣いたかといふ、その広さと深さと正直さによつてはつきり決まるのだ。これが心に通じ心を打ち心を爽やかにする。本当といふことは何物にも動かされない気持であり、それが本質に届きまた人の望む本質でもある。
 だからこの順でゆくと、後味の悪いものは一切詩ではないのだ。矛盾、対立、誇張、露骨、安易、卑下、傲慢、混乱等、かうしたものは詩ではない。それは不満足の心から起る人間の一状態で、嘘ではないけれども全き幸福を齎すものとは思はれない。
 昔、東洋と西洋は、或ひは一つのものだつたかも知れない。恐らくはさういふものだつたやうな気がする。この分裂は本当は詩ではないのだ。肉体と精神が別々になるといふことは成長の過程であつて、誰一人文句をいふことは出来ないが、然しこの矛盾は決していい気持のものではなく、いい気持でないからこそ詩ではないのだ。此処に一個人の場合と世界の場合の救はれない根源があるのである。詩人は、この分裂を身を以てもとに還す自然人でなければならないし、文化を正す智慧と確信を持つ者でなければならない。
 自分は、はつきり云ふけれども、日本の詩人の中に真に詩人らしい詩人がゐないやうに思へて仕方がない。どの詩を見ても、大抵或る時のフトした気持の情であり味であつて、極くうはべの、実に自分を甘やかした涙である。この程度のことに泣き、そして詩を感じるやうでは、如何に苦労してゐないかといふことがはつきり解る。一つの詩を公にする場合、当然しつかりとした責任を持つべきであらう。此の世に何を与へ、如何にしたいか、そして如何にすれば正しいか。その位のことは勿論考へていい筈である。やはり涙は、個々に流す涙と、全体の為に一切流さない涙、つまり体全体が、一種のうるほひとなつてゐるやうな智と愛の姿にならなければ嘘である。
 詩人は食へないと何処へ行つても言ふ。これは確かだ。然し本当はこれではいけないのではないかと思ふ。詩人は、精神の純粋を考へると共に、肉体の純粋も同時に考へて、救はれながら食はうと努めなければならないものではないだらうか。金などに縛られるのではなく、寧ろそれとは逆に金を捨てて自由を得、その法則にかなつた自然さで快く食へる人間でなければならないのだ。詩人はこの現実を慾の世の中と見るべきではない。もつと広く自然と一つになつた現象界と見るべきで、力を籠めずに涼しく、そして一つ一つに関心を持つて、ただ在るべき者なのである。識るといふことを感じさせたり、不自然の力が籠つたりする間は、遍くまた快く食へるといふことにはならないのだ。そればかりではなく、念ふ心と念はれる心といふものも、さう出鱈目なものではない。分に応じて多くも少くもない、実に旨く出来た互に負目の感じられない食が生れて来るのである。恐らく純粋の食といふものはかうしたものではないだらうか。
 詩人は何時もかうして天上と地上と自分とそして人間世界を観、確かに立ちながら、全体を一にし、この一を完全な相とする為に歩く。
 さうでなければ屹度、関連の中の独立した人間として何か欠ける箇所が出来るやうに思へて仕方がない。





底本:「定本 草野天平全詩集」彌生書房
   1969(昭和44)年4月25日初版発行
   1974(昭和49)年9月20日二版発行
初出:「新潮」新潮社
   1952(昭和27)年8月号
入力:大久保ゆう
校正:Juki
2010年9月13日作成
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