雑器の美

柳宗悦





 無学ではあり貧しくはあるけれども、彼は篤信な平信徒だ。なぜ信じ、何を信ずるかをさへ、充分に言ひ現せない。併しその素朴な言葉の中に、驚くべき彼の体験が閃いてゐる。手には之とて持物はない。だが信仰の真髄だけは握り得てゐるのだ。彼が捕へずとも神が彼に握らせてゐる。それ故彼には動かない力がある。
 私は同じやうなことを、今眺めてゐる一枚の皿に就いても云ふことが出来る。それは貧しい「下手げて」と蔑まれる品物に過ぎない。奢る風情もなく、華やかな化粧もない。作る者も何を作るか、どうして出来るか、詳しくは知らないのだ。信徒が名号を口ぐせに何度も唱へるやうに、彼は何度も何度も同じ轆轤の上で同じ形を廻してゐるのだ。さうして同じ模様を描き、同じくすり掛けを繰返してゐる。美が何であるか、窯芸とは何か。どうして彼にそんなことを知る智慧があらう。だが凡てを知らずとも、彼の手は速やかに動いてゐる。名号は既に人の声ではなく仏の声だと云はれてゐるが、陶工の手も既に彼の手ではなく、自然の手だと云ひ得るであらう。彼が美を工夫せずとも、自然が美を守つてくれる。彼は何も打ち忘れてゐるのだ。無心な帰依から信仰が出てくるやうに、自からうつはには美が湧いてくるのだ。私は厭かずその皿を眺め眺める。


 雑器の美など云へば、如何にも奇を衒ふ者のやうにとられるかも知れぬ。又は何か反動としてそんなことを称へるやうにも取られよう。だが思ひ誤られ易い聯想を除くために、私は最初幾つかの注意を添へておかねばならない。ここに雑器とはもとより一般の民衆が用ゐる雑具の謂である。誰もが使ふ日常の器具であるから或は之を民具と呼んでもよい。ごく普通なもの、誰も買ひ誰も手に触れる日々の用具である。払う金子とても僅かである。それも何時何処に於ても、た易く求め得る品々である。「手廻りのもの」とか「不断遣ひ」とか、「勝手道具」とか呼ばれるものを指すのである。床に飾られ室を彩るためのものではなく、台所に置かれ居間に散らばる諸道具である。或は皿、或は盆、或は箪笥、或は衣類、それも多くは家内うちづかひのもの。悉くが日々の生活に必要なものばかりである。何も珍しいものではない。誰とてもそれ等のものを知りぬいてゐる。


 併し不思議である。一生のうち一番多く眼に触れるものであり乍ら、その存在は注視されることなくして過ぎた。誰も粗末なものとのみ思ふからであらう。宛ら美しきものが彼等の中に何一つないかのやうにさへ見える。語るべき歴史家でさへ、それを歴史に語らうとは試みない。併し人々の足許から彼等の知りぬいてゐるものを改めて取上げよう。私は新しい美の一章が今日から歴史に増補せられることを疑はない。人々は不思議がるであらうが、その光は訝りの雲をいち早く消すであらう。
 併しなぜかくも長くその美が見捨てられたか。花園に居慣れる者はその香りを知らないと云はれる。余りに見慣れてゐるが故に、とりわけ見ようとはしないのである。習性に沈む時反省は失せる。まして感激は消えるであらう。それ等のものに潜む美が認識されるまでに、今日までの長い月日がかかつた。私達は強ちそれを咎めることは出来ぬ。なぜなら、今までは離れてそれ等のものを省みる時期ではなく、まだそれ等のものを産み、その中に生きつつあつたからである。認識はいつも時代の間隔を求める。歴史は追憶であり、批判は回顧である。
 今や時代は急激にその方向を転じた。凡てのものが今日ほど忙しく流れ去ることは又とないかもしれぬ。時も心も亦は物も、過去へと速かに流れた。因襲の重荷は下ろされたのである。私達の前には凡てが新しく廻転する。未来も新しく又過去も新しい。慣れた世界も今は不思議な世界である。吾々の眼には、改めて凡てのものが印象深く吟味される。それは拭はれた鏡にも等しい。一切が新しく鮮かに映る。善きものも悪しきものも、その前には姿を偽ることが出来ぬ。何れのものが美しいか。それを見分くべきよき時期は来たのである。今は批判の時代であり意識の時代である。よき審判者たる幸が吾々に許されてある。私達は時代の恵みとしてそれを空しくしてはならない。
 塵に埋もれた暗い場所から、ここに一つの新しい美の世界が展開せられた。それは誰も知る世界であり乍ら、誰も見なかつた世界である。私は雑器の美に就いて語らねばならない。又その美から何を学び得るかを語らうとするのである。


 毎日触れる器具であるから、それは実際に堪へねばならない。弱きもの華やかなもの、込み入りしもの、それ等の性質はここに許されてゐない。分厚なもの、頑丈なもの、健全なもの、それが日常の生活に即する器である。手荒き取扱ひや烈しい暑さや寒さや、それ等のことを悦んで忍ぶほどのものでなければならぬ。病弱ではならない。華美ではならない。強く正しき質を有たねばならぬ。それは誰にでも、又如何なる風にも使はれる準備をせねばならぬ。装うてはゐられない。偽ることは許されない。いつも試煉を受けるからである。正直の徳を守らぬものは、よきうつはとなることが出来ぬ。工芸は雑器に於て凡ての仮面を脱ぐのである。それは用の世界である。実際を離れる場合はない。どこまでも人々に奉仕しようとて作られた器である。併し実用のものであるからと云つて、それを物的なものとのみ思ふなら誤りである。物ではあらうが心がないと誰が云ひ得よう。忍耐とか健全とか誠実とか、それ等の徳は既に器の有つ心ではないか。それはどこまでも地の生活に交はる器である。併し正しく地に活くる者に、天は祝福を降すであらう。よき用とよき美とは、叛く世界ではない。物心一如であると云ひ得ないであらうか。
 彼等は勤め働く身であるから、貧しく着、慎ましく暮してゐる。併しそこには満足が見える。彼等はいつも健やかに朝な夕なを迎へるではないか。顧みられない個所で、無造作に扱はれ乍ら、尚も無心に素朴に暮してゐる。動じない美があるではないか。僅かの接触で戦くほどの繊細さにも、心を誘ふ美しさがある。併し強き打撃に、尚も動ぜぬ姿には、それにも増して驚くべき美しさが見える。而もその美しさは日毎に加はるではないか。用ゐずば器は美しくならない。器は用ゐられて美しく、美しくなるが故に人は更にそれを用ゐる。人と器と、そこには主従の契りがある。器は仕へることによつて美を増し、主は使ふことによつて愛を増すのである。
 人はそれ等のものなくして毎日を過ごすことが出来ぬ。器具とはいふも日々の伴侶である。私達の生活を補佐する忠実な友達である。誰もそれ等に便りつつ一日を送る。その姿には誠実な美があるではないか。謙譲の徳が現れてゐるではないか。凡てが病弱に流れがちな今日、彼等のうちに健康の美を見ることは、恵みであり悦びである。


 そこにはとりわけて彩りもなく飾りもない。至純な形、二、三の模様、それも素朴な手法。彼等は知を誇らず、風に奢らない。奇異とか威嚇とか、少しだにそれ等のたくらみが含まれない。挑むこともあらはなさまもなく、いつも穏かであり静かである。時としては初心な朴訥な、控目がちなおももちさへ見える。その美は一つとして私達を強ひようとはしない。美を衒ふ今日であるから、わけてもそれ等の慎ましい作が慕はしく思へる。
 それ等の多くは片田舎の名も知れぬ故郷で育つのである。又は裏町の塵にまみれた暗い工房の中から生れてくる。たづさはるものは貧しき人の荒れたる手。拙なき器具や粗き素材。売らるる場所とても狭き店舗、又は路上の蓆。用ゐらるる個所も散り荒さるる室々。だが摂理は不思議である。是等のことが美しさを器のために保障する。それは信仰と同じである。宗教は貧の徳を求め、智に傲る者を誡めるではないか。素朴な器にこそ驚くべき美が宿る。
 作は無慾である。仕へるためであつて名を成すためではない。丁度労働者が彼等の作る美しき道路に名を記さないのと同じである。作者はどこにも彼の名を書かうとは試みない。悉くが名なき人々の作である。慾なきこの心が如何に器の美を浄めてゐるであらう。殆ど凡ての職工は学もなき人々であつた。なぜ出来、何が美を産むか、是等のことに就いては知るところがない。伝はりし手法をそのままに承け、惑ふこともなく作り又作る。何の理論があり得よう。まして何の感傷が入り得よう。雑器の美は無心の美である。
 名も無き作であるから、私達は作者の歴史を綴ることは出来ぬ。作る者は優れた少数の個人ではなく、あの凡夫と呼ばれる衆生である。あの驚くべき器の美が民衆より生れたとは何を語るであらう。嘗て美は凡ての共有であつて、個人の所有ではなかつた。私達は民族の名に於て、時代の名に於て、その労作を記念せねばならぬ。知に劣る民衆も、作に於ては秀でた民衆である。今は個人のみ活きて時代は沈む、併し嘗ては時代が活き、個人は自からを匿した。僅かな作者から美が出るのではなく、美の中に多くの作者が活きた。雑器は民芸である。


 注意さるべきは素材である。よき工芸はよき天然の上に宿る。豊かな質は自然が守るのである。器が材料を選ぶといふよりも、材料が器を招くとこそいふべきである。民芸には必ずその郷土があるではないか。その地に原料があつて、その民芸が発足する。自然から恵まれた物資が産みの母である。風土と素材と製作と、是等のものは離れてはならぬ。一体である時、作物は素直である。自然が味方するからである。
 原料が失はれたら、寧ろその工房は閉ぢられねばならぬ。材料に無理がある時、器は自然の咎めを受ける。又手近くその地から材料を得ることなくば、どうして多くを産み、廉きを得、健やかなものを作ることが出来よう。一つの器の背後には、特殊な気温や地質や又は物質が秘められてある。郷土的薫り、地方的彩り、このことこそは工芸に幾多の種を加へ、味はひを添へる、天然に従順なるものは、天然の愛を享ける。この必然性を欠く時、器に力は失せ美は褪せる。雑器に見られる豊かな質は、自然からの贈物である。その美を見る時、人は自然、自からを見るのである。
 之のみではない、凡ての形も、模様も、原料に招かれるのだと云ふべきであらう。その間にはいつも必然なゆかりが結ばれてくる。よき化粧とは身に施すものではなく、身に従ふものであらう。原料を只の物資とのみ思つてはならぬ。そこには自然の意志の現れがある。その意志は、如何なる形を如何なる模様を有つべきかを吾々に命じる。誰もこの自然の意志に叛いて、よき器を作ることは出来ぬ。よき工人は自然の欲する以外のことを欲せぬであらう。
 このことはよき教へではないか。神の子たるを味はふ時、信の焔は燃えるであらう。同じやうに自然の子となる時、美に彼は彩られるであらう。詮ずるに自然に保障せられての美しさである。母のその懐に帰れば帰るほど、美はいよいよ温められる。私はこの教へのよき場合を雑器の中に見出さないわけにゆかぬ。


 日々の用具であるから、稀有のものではなく、いつも巷間に準備される。毀たれるとも更に同じものがそれに代る。それ故生産は多量であり又廉価である。之は数量のことに過ぎぬと思ふであらうが、この事実こそは工芸の美に不思議な働きを投げる。時として多産は粗雑に流れる恐れもあらう。併しこのことなくして雑器の美は生れてこない。
 反復は熟達の母である。多くの需要は多くの供給を招き、多くの製作は限りなき反復を求める。反復は遂に技術を完了の域に誘ふ。特に分業に転ずる時、一技に於て特に冴える。同じ形、同じ絵、この単調な循環が殆ど生涯の仕事である。技術に完き者は技術の意識を越える。人はここに虚心となり無に帰り、工夫を離れ努力を忘れる。彼は語らひ又笑ひつつその仕事を運ぶ。驚くべきはその速度。否、速かならざれば、彼は一日の糧を得ることが出来ぬ。幾千幾万。この反復に於て彼の手は全き自由をかち得る。その自由さから生れ出づる凡ての創造。私は胸を躍らせつつ、その不思議な業を眺める。彼は彼の手に信じ入つてゐるではないか。そこには少しの狐疑だにない。あの驚くべき筆の走り、形の勢ひ、あの自然な奔放な味はひ。既に彼が手を用ゐてゐるのではなく、何者かがそれを動かしてゐるのである。だから自然の美が生れないわけにはゆかぬ。多量な製作は必然、美しき器たる運命を受ける。
 それは驚くべき円熟の作である。あの雑器と呼ばれる器の背後には、長き年月と多くの汗と、限りなき繰返しとが齎らす技術の完成があり、自由の獲得がある。それは人が作るといふよりも、寧ろ自然が産むとこそ云ふべきであらう。「うま」と呼ばれる皿を見よ、如何なる画家も、あの簡単な渦巻を、かくも易々と自由に画くことは出来ないであらう。それは真に驚異である。凡てが機械に帰る近き未来に於ては、嘗て人の手が如何なる奇蹟をなし得たかを信じ難くさへなるであらう。


 民芸は必然に手工芸である。神を除いて、手よりも驚くべき創造者があらうか。自在な運動から、全ての不可思議な美が生れてくる。如何なる機械の力も、手工の前には自由を有たぬ。手こそは自然が与へた最良の器具である。この与へられた恵みに叛いて、何の美を産み得るであらう。
 不幸にも経済的事情に強ひられて、今は殆ど凡てが機械の業に委ねられる。そこからも或る種の美は生れてこよう。強ちそれを忌み嫌つてはならぬ。併しその美には限りがある。人は無制限に無遠慮にその力を用ゐてはならぬ。それはいつも規定の美に止まるであらう。単なる定則は美の閉塞に過ぎない。機械が人を支配する時、作られるものは冷たく又浅い。味はひとか潤ほひとか、それは人の手に托されてある。その雅致を生み、器の生命を産む面の変化、削りの跡、筆の走り、刀の冴え、かかるものをまで、どうして機械が作り得よう。機械には決定のみあつて創造はない。今のままなら、遂に人の労働から自由を奪ひ、喜びを奪ふであらう。嘗ては人が器具を支配し得たのである。この主従の二が正しい位置を保つ時、美は温められ高められた。
 手工芸の終りが近づいて来た今日、祖先が作つた雑器こそは、貴重な遺品である。民芸が手工である時期は、今や過去に流れようとしてゐる。苦しい事情はかかるものの復興を阻止してゐる。今日の不合理な勢ひの許では、一度廃れると、民芸として栄える日は二度とは戻り難いであらう。只伝統を守り続ける地方のみが、今も正しい手工芸の道を歩む。さうして僅かばかりの個人がそれを助けようと努力してゐる。併し「手工に帰れよ」といふ叫びは、いつも繰返されるであらう。なぜならそこにこそ最も豊かに、正しき労働の自由があり、正しき工芸の美が許されてゐるからである。かくて手工のしるしである今日までの民器が、愛を以て顧みられる日は来るにちがひない。歴史は傾くとも、その美に傾きはない。時と共にその光はいや増すであらう。


 この世界に来る時、作る心も作られる物も、又は用ゐる手法も凡てが至純である。この単純さこそは要求せられた器の性質である。人はこの言葉を粗野といふ字に置き換へてはならぬ。この性質にこそ美の保障がある。よき芸術で単純さを欠いたものがあらうか。又は錯雑が美を産んだ例が沢山あらうか。単純を離れて正しき美はない。物は雑器と呼ばれてはゐるが、純一なその姿にこそ却つて美の本質が宿る。人は芸術の法則を学ぶために、寧ろ普通な誰も知る是等の世界に来ねばならぬ。
 悟得するものは無碍である。自然に任ずる是等の作も自由の境に活きる。よき手工の前に、単なる掟は存在を有たない。物に応じ心に従つて、凡てが流れるままに委ねられる。如何なる形も色も模様も彼等の前に開放される。どれを選ぶべきか、定められた掟はない。それが何の美を産むか、かかることに拘る心さへ有たぬ。併し誤りはない。彼が気儘に選ぶのではなく、自然が選ぶ自由に、彼を托してゐるからである。
 この自由こそは、創造の母であつた。雑器に見られる極めて豊かな種類と変化とは、このことを如実に語る。変化は作為が産むのではない。作為こそは拘束である。凡てが天然に托される時、驚くべき創造が始まる。技巧の作為が、どうしてあの奔放な味はひを産み得よう。又はかくまで豊かな変化を発し得よう。ここには徒な循環がなく、単なる模造がない。常に新たな鮮かな世界への開発がある。
 あの「猪口」と呼ばれる器を見よ。その小さな表面に、画き出された模様の変化は、実に数百種にさへ及ぶであらう。而もその筆致の妙を、誰か否むことが出来よう。ありふれた縞ものの如きでさへ、同一のものは却つて見出し難いのを知るであらう。民芸は驚くべき自由の世界であり創造の境地である。


 不断遣ひのものであるから粗略にされて、遠い過去のものは僅かより残らぬ。残るともその種類は乏しいであらう。日本に於て工芸が特に多様になつたのは、ここ二、三世紀の間である。漆器、木工はもとより、或は金工、或は染織、下つては陶磁器。それ等は多種な調度に適応せられた。雑器のよき歴史が漸く傾き始めて、正しい手工が終りに近づいたのは明治の半頃である。だが匿れた地方には、まだ手法や様式の伝統が支持されて、古格を保つものが少くない。今日残る雑器は、江戸時代のものが多いのであるから、種類もあり数も乏しくはない。
 徳川の文化は平民の所有であつた。文学に於てさうであり、絵画に於てさうである。残された雑器も、民衆によつて保持された文化のよき一部を占める。只それは浮世絵の如き、都びた繊細な文化を語るのではない。素朴な確実な郷土の風格を保有する。優美な姿はなくとも、悉くが便りになる篤実な伴侶である。若し共に暮すなら、日に日に親しみは増すであらう。それ等のものが傍にある時、真に家に在るくつろぎを覚えるであらう。
 概して見るならば、美の歴史は下り坂であつた。昔に競ひ得る新たなものは稀であらう。時代が下降するにつれて技巧は無益な煩雑を重ねた。手工はその重荷に悩むで、生気は次第に失せた。丹念とか精巧とか、それ等の特質はあるかもしれぬ。だが単純に包まれる美の本質は殺されて了つた。自然への信頼は人為的作法に虐げられて、美には凋落の傾きが見える。だがこの悲しい歴史に交はつて、ひとりこの流れに犯されなかつたのは、実に雑器の類である。ここには病原が少い。美術の圏外に放置せられたためか、作る者は美の意識に煩はされずしてすんだ。末期に於ても健全な美を求めようとするなら、私達はこの領域に来ねばならぬ。姿は貧しくはあらう。併し何ものの間に伍しても、その確かな存在が破れる場合はない。試みに一個の焼物を選んで、その裏を見られよ。よく支那や朝鮮のあの高台の強さに比べ得るものは、かかる雑器に於てのみである。この世界に弱さはない。否、弱きものは日々の器たるに堪へることが出来ぬ。

一〇


 併し力は之に止まらない。固有な日本の存在がそれによつて代表される。もとより絵画に於て彫刻に於て、日本自からの栄誉を語る幾多のものがあらう。併し概していふならば、唐土の遺風を脱し得たものは少く、韓土の影響を離れ得たものも乏しい。ましてそれ等に拮抗し得る力と深さとに充ちるものは稀だと云はねばならぬ。偉大である支那の前に、優雅である朝鮮の前に、私達は私達の芸術を無遠慮に出すことが出来ぬ。
 併し雑器の領域に来る時、その稀な例外の一つの場合に来るのである。そこには独自の日本がある。充分な確実さと、充分な自由と、充分な独創とがここに発見される。それは模倣ではない、追従ではない。世界の作に伍して、茲に日本があると言ひ切ることが出来る。故国の自然と風土と、感情と理解との、まちがひもない発露である。真に一格の創造である。人は雑器と呼びなすものに、独自な日本を語ることを、遠慮がちに感ずるであらうか。ゆめさう思つてはならぬ。広く日本の民衆から、かかる作が生れたことをこそ誇つてよい。ましてそれ等の器を日々の友としてゐたことを喜び合はねばならぬ。その栄誉は個人の所有ではなく、民族の共有である。民芸に於て日本の美が見出されることほど、力強い事実はないではないか。若し民衆の生活にかかる美の基礎がなかつたなら、如何に心もとなく忠へるであらう。私は日本民族の栄誉のためにも、積る塵の下から雑器を取上げねばならぬ。

一一


 無学な職人から作られたもの、遠い片田舎から運ばれたもの、当時の民衆の誰もが用ゐしもの、下物と呼ばれて日々の雑具に用ゐられるもの、裏手の暗き室々で使はれるもの、彩りもなく貧しき素朴なもの、数も多く価も廉きもの、この低い器の中に高い美が宿るとは、何の摂理であらうか。あの無心な嬰児の心に、一物をも有たざる心に、知を誇らざる者に、言葉を慎しむ者に、清貧を悦ぶ者達の中に、神が宿るとは如何に不可思議な真理であらう。同じその教へが、それ等の器にも活々と読まれるではないか。
 而も奉仕に一生を委ねるもの、自からを捧げて日々の用を務むるもの、倦むことなく現実の世に働くもの、健康と満足とのうちにその日を暮すもの、誰もの生活に幸福を贈らうと志すもの、それ等の慎ましい器の一生に、美が包まれるとは、驚くべき事柄ではないか。而もよく用ゐられて手ずれを受ける時、その美がいや増すとは何の天意であらうか。信仰の生活も、犠牲の生活であり奉仕の一生ではないか。神に仕へ人に仕へ自からを忘れる敬虔な者のその姿が、主に仕へる器にも見られるではないか。現実に即するものに、現実を越えた美が最も鮮かに示されるとは、如何に微妙な備へであらう。
 自からは美を知らざるもの、我に無心なるもの、名に奢らないもの、自然のままに凡てを委ねるもの、必然に生れしもの、それ等のものから異常な美が出るとは、如何に深き教へであらう。凡てを神の御名に於てのみ行ふ信徒の深さと、同じものがそこに潜むではないか。「心の貧しきもの」、「自からへり下るもの」、「雑具」と呼びなされたそれ等の器こそは、「幸あるもの」、「光あるもの」と呼ばるべきであらう。天は、美は、既にそれ等のものの所有である。


 過去の時代に於いてかかる雑器の美を認めたのは、初代の茶人達であつた。彼らには並ならぬ眼があつた。人々は忘れ去つたのであらうが、今日万金を投ずるあの茶器は、「大名物」は、その多くが全くの雑器に過ぎない。かくも自然な、かくも奔放な彼等の雅致は、雑器なるが故だと云ひ得よう。若し彼等が雑器でなかつたら、決して「大名物」とはなり得なかつたであらう。人はあの「井戸」の茶碗を省みて、七個の見処があると云ふ。後には遂にそれが美の約束とまで考へられた。だがもとの作者にそれを聞かせたら、如何ばかり困却するであらう。その約束で作られる後代の模作品に、たえて優れた作がないのも無理はない。既に雑器の意を離れて、美術品として工夫されたに過ぎないからである。人々はあの深く渋き茶器が、無造作な雑器であつたことをゆめ忘れてはならない。
 今は茶室を造るにも数寄をこらすが、その風格は賤が家に因るものであらう。今も田舎家は美しい。茶室は清貧の徳を味はふのである。今は茶室に於て富貴を誇るが、末世の誤りを語るに過ぎぬ。今や茶道の真意は忘れられて来たのである。「茶」の美は「下手げて」の美である。貧の美である。
 史家もあの「大名物」を讃美する。だが少しも他の雑器に就いては語らない。宛ら他には何も無いかのやうに考へてゐる。だが茶碗や茶入は夥しい雑器の中の僅か一、二種に過ぎない。美の玉座についてゐるそれ等のものの姉妹が、まだ限りなく塵の下に埋もれてゐる。かかる雑器に美を認めないのは、彼等が茶器の美に就いても既に知るところがないからであらう。
 許されるならば、私は片田舎の忘れられた民家に於て、塵につつまれる雑器を取上げ、新しく茶をたてよう。この時こそ道の本に返つて、初代の茶人達と心ゆくばかり交はることが出来よう。
(一九二六年)





底本:「日本の名随筆 別巻71 食器」作品社
   1997(平成9)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「民藝四十年」宝文館
   1958(昭和33)年7月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード