朝鮮の友に贈る書

柳宗悦




 私の知れる、または見知らぬ多くの朝鮮の友に、心からのこの書翰しょかんを贈る。情の日本は今かくするようにと私に命じている。私は進み出て、もだし難いこの心を貴方がたに話し掛けよう。これらの言葉が受け容れられる事を、私はひそかに信じたい。もしこの書を通して二つの心が触れ得るなら、それはどんなにか私にとっての悦びであろう。貴方がたもそのさびしい沈黙を、私の前には破ってほしい。人はいつも心を語る友を求めている。特に貴方がたの間においては、人間の愛が心の底から求められているのだと、私は想う。かく想う時、どうして私はこの訪れを果さずにいられよう。貴方がたもこの書翰を手にして、私に答える事をためらっては下さらぬであろう。私はそれを信じたい。
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 私はこの頃、ほとんど朝鮮の事にのみ心を奪われている。何故かくなったかは私には説き得ない。どこに情を説き得る充分な言葉があろう。貴方がたの心持ちや寂しさを察する時、人知れぬ涙が私の眼ににじんでくる。私は今貴方がたの運命を想い、顧みてまたこの世の不自然な勢いを想う。あり得べからざる出来事が目前に現れている。私の心は平和ではあり得ない。心が貴方がたに向う時、私も共に貴方がたの苦しみを受ける。何ものか見知らぬ力が私を呼ぶように思う。私はその声を聞かないわけにはゆかぬ。それは私の心から人間の愛を目覚ましてくれた。情愛は今私を強く貴方がたに誘う。私は黙してはいられない。どうして貴方がたに近づく事がいけないのであろう。親しさが血にき上る時、心は心に話し掛けたいではないか。出来得るなら、私は温かくこの手をさえさし出したい。かかることはこの世において自然な求めだと、貴方がたも信じて下さるだろう。
 人は生れながらに人を恋している。憎しみや争いが人間の本旨であり得ようはずがない。様々な不純な動機のために国と国とは分れ、心と心とが離れている。不自然さの勢いが醜い支配に※(「りっしんべん+敖」、第4水準2-12-67)おごっている。しかし永続し得る不自然さが何処にあり得よう。凡ての心は自然へと帰りたがっている。凡てが自然に帰るならば、愛はもっと繁く吾々の間を通うはずだと私は思う。何事か不自然な力が、吾々を二つに裂いているのである。
汝曹なんじがともがら互に愛せよ」と教えはいう。しかしかかる教えが現れるよりも先に、人情は生れながらに「互を愛したい」と求めていると私は想う。愛は聖者の教えであるが故に深いのではない。人情に基くが故にその教えが深いのである。人が自然な人情のままに活き得たら、この世はどんなにか温かいであろう。この世に真に貴いものは、権力でもなく知識でもない。それは一片の温かい人情であるといつも想う。しかし何が故か、人情の生活は踏みにじられて、金や武力が世を支える柱だと考えられる。かかる勢いはさながら「互を憎め」とさえいうように見える。国と国とはいつも戦いの用意をおこたらない。しかし人情に背くかかる勢いが、どうして永遠な平和や幸福の贈り手であり得よう。ただかかる不自然さがはびこるばかりに、心が心から本意なくも裂かれているのである。長い間代る代るの武力や威圧のために、どこまでも人情を踏みつけられた朝鮮の歴史を想う時、私は湧き上る涙を抑え得ない。
 朝鮮は今寂しく苦しんでいる。巴紋ともえもんの旗は高くひるがえらず、春は来るとも李華はとこしえにそのつぼみを封じるようである。固有の文化は日に日に遠く、生れ故郷から消え去ってゆく。幾多の卓越した文明の事跡は、ただ過去の巻にのみ読まれている。往く人々の首はうな垂れ、苦しみやうらみがそのまゆに現れている。話しする声さえ、今はその音が低く、民は日光をいとって暗いかげに集るようである。如何なる勢いが貴方がたをかくはさせたのであるか。私は貴方がたの心や身が、どんなに暗い気持ちにおおわれているかを、察しないわけにはゆかない。貴方がたにはさぞ血の涙があるであろう。人は大かたの苦しみは忍ぶ事も出来よう。しかし愛と自由とを欠く処には、どうしても住む事が出来ないのである。ただに貴方がたばかりではない。この世の如何に多くの人々がかかるものを追い求めて、どれだけしばしばその故郷をさえ棄てて、あてどもなくさすらいの旅に出たであろう。凡ての人は自由な空気を求めている。人情の温かさをしたっている。私はこれを想い彼を想い、抑え得ない同情を貴方がたに感じている。かつて何処の国に情に基く政治があったであろう。愛による武力があったであろう。争いは道徳に欠け、戦いはいつの場合にも宗教を持たない。この事は真理を知る民にとっては苦痛である。私は日本がいつも正しく温かい日本である事をねがう。もし無情な行いに※(「りっしんべん+敖」、第4水準2-12-67)おごる事があるなら、その時、日本は宗教の日本ではあり得ない。今日不幸にも国と国との関係は、まだ道徳の域にすら達していない。いわんやその間に宗教的な愛が保たれようはずがない。もろもろの不正や罪悪が時として国家の名によって弁護される。いつも真理に国家が従うのではない。国家に真理が順応し変化されるのである。かくてしばしばこの世には不自然な勢いが白昼を歩くのである。人は多くその罪を疑ってはいない。それは避け難い不完全な世の出来事としていつも看過される。しかしかかる行いのために苦しむ民がここにあるなら、それは一国の恥辱ちじょくであり、また人類への侮辱であろう。正しい日本はかかる行いを改めるのにはばかる事があってはならぬ。吾々はいつも真理にまで国家を高めたいと希うのである。私はそれが私自身の行いでないとはいえ、少くともある場合日本が不正であったと思う時、日本に生れた一人として、ここに私はその罪を貴方がたに謝したく思う。私はひそかに神に向ってその罪の許しを乞わないではいられない。日本が神の国において罪深いものとして見られる事は、私の忍び得る所ではない。私は日本の栄誉のためにも、吾々の故国を宗教によって深めたい。私は目撃者ではないとはいえ、様々なひどい事が貴方がたの間に行われたのを耳にする時、私の心は痛んでくる。それを無言のうちに堪え忍ばねばならぬ貴方がたの運命に対して、私は何というべきかを知らない。私は心ひそかに許しを求めながら、こう心にささやいているのである。「もし日本が不正であるならば、いつか日本の間から貴方がたの味方として起つ者が出るにちがいない。真の日本は決して暴虐を欲してはいないのである。少くとも未来の日本は人道の擁護者でありたいと希っているのである」と。貴方がたはかかる声を信じては下さらぬだろうか。
 この頃日に日に貴方がたと私たちとは離れてゆく。近づきたいと思う人情が、離れたいと思う憎しみに還るとは、如何に不自然な出来事であろう。何ものかの心がここに出て、かかる憎しみを自然な愛に戻さねばならぬ。力の日本がかかる和合をもたらし得ない事を私は知っている。しかし情の日本はそれを成しげ得ないであろうか。力強い威圧ではない。涙もろい人情のみがこの世に平和を齎らすのである。私は人間としての貴方がたが、情には心を柔らげて下さる事を信じている。私は日本が如何なる道によって、吾々の争いをぬぐい去ろうとするかを知らない。しかし私はただひとりの個人に過ぎないとはいえ、私の心に湧き上る情愛において、貴方がたの中に深く活き得ないであろうか。私は多くの日本の人々が未だ発言しないとはいえ、私と共に情の日本人である事を熟知している。吾々は朝鮮の運命に対して、冷やかである事を欲しない。
 この世にはどれだけ多く、許し得ない矛盾が矛盾のままに行われているであろう。私は仮りに日本人が朝鮮人の位置に立ったならばといつも想う。愛国の念を標榜し、忠臣を以て任じるこの国民は、貴方がたよりも、もっと高く反逆の旗を翻すにちがいない。吾々の道徳はかねがね、かかる行為を称揚すべき立場にいる。吾々は貴方がたが自国を想う義憤の行いをとがめる事に、矛盾を覚えないわけにはゆかぬ。真理は普遍の真理であっていいはずであるが、時として一つの行いに二つの名が与えられ、ある時は「忠節」とも、ある時は「不逞ふてい」とも呼ばれるのである。数えればこういう矛盾は、どれだけこの世に多いであろう。多いにつれて、どれだけ無数の人々が暗い陰に悩まねばならぬであろう。その境遇に在る貴方がたを想い、またかくせしめた「暗黒の力」を想う時、私は心に傷を受ける。時としては心が激し、時としては寂しさに沈んでくる。いわんや貴方がたには胸を圧せられる苦しみがあるであろう。貴方がたは今何に慰めを求めているのであろう。その運命を何と感じているであろうか。夢にだに安らかな想いはないであろう。御身おんみらの上に少しでも平和あれかしと私は祈っている。
 しかし私は人間になおも燃える希望を抱いている。いつか自然は人間のうちから正しいものを目覚めざますにちがいない。日本がいつか正当な人倫じんりんに立つ日本となる事を信じたい。これはいずれの処を問わず、凡ての国家が懐抱する理想でなければならぬ。私はいつか真理によって日本が支えられる日の来るのを疑わない。私は今若い日本の人々がこの理想に向って努力している事を知っている。貴方がたは人間としての日本人をもしりぞけて下さってはいけない。私の正しい観察によれば、個人として朝鮮の人々に、憎しみの心を持つ人はほとんどないのである。否、吾々は藝術を通じていつも朝鮮が卓越した国民であった事を想いめぐらしている。かつて露国と戦いを交えたその間においてすら、吾々は露国の偉大な思想や文学を、日に深く学んでいたのである。二つの国が裂かれるのは、個人と個人との憎しみによるのではない。私は情において吾々の同胞が隣邦の友を忘れてはいないのを信じている。少くとも未来の日本を形造る人々は、理にうとく情に冷かでは決してないであろう。
 もし日本が暴力に※(「りっしんべん+敖」、第4水準2-12-67)おごる事があるなら、いち早く日本の中から貴方がたへの味方が現れるであろう。私は人間の本質を信じている。人間としての日本人に希望を抱いている。人間は不正な事に満足し得る人間ではない。悲惨な事やさびしみに冷やかな人間ではない。圧迫や争闘は衷心ちゅうしんからの求めではない。今の世は不純な勢いをかもして、心ならずも醜い生活を続けている。しかし打ち明ければ、愛に悦び人情にうるおう生活が、人間の心からの求めなのだと私は想う。この世に暗黒の時が来ようとも、それは人間の本質をも奪う事は出来ぬ。自然はいつもよみがえる力を固く支えている。今は国と国とが隔てられ、人と人とが背いている。しかし異邦の人と互に心を打ち明け得たら、どんなにか人類は厚い幸福に浸るであろう。見知らぬ人との交情は、わけても親しさの想いが濃いであろう。人間はかかる幸福を求めている。吾々もまた貴方がたも、この求めにおいてはいつも一つであると私は信じている。
 貴方がたと私たちとは歴史的にも地理的にも、または人種的にも言語的にも、真に肉身の兄弟である。私は今の状態を自然なものとは想わない。またこの不幸な関係が永続していいものだとは思わない。不自然なものが淘汰とうたを受けるのは、この世の固い理法である。私は今、二つの国にある不自然な関係が正される日の来ることを、切に希っている。まさに日本にとっての兄弟である朝鮮は、日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも、日本にとっての恥辱の恥辱である。私は私の日本が、かかる恥辱をも省みないとは思わない。否、未来の日本を信じている。情の日本を疑わない。精神に動く若い人々は、日本を真理にまで高めねばならぬ任務を感じている。貴方がたも私と共にそれを信じてほしい。人間そのものの本質を信じる事によって、再び希望を私と共に甦えらせてほしい。
 ここにある治政の方針が人間の道に背くとしたら、かかる政治は永続しないであろう。如何なる力も、神意には背くことは出来ぬ。背くなら、いつかその宿命として内部から瓦壊されるにちがいない。人間は神意によるその本質において、凡てのものの捷利者しょうりしゃとならねばならぬ。それが出来ないなら、それは個人としての、または国民としてのぬぐい得ない恥辱である。ここに不正な力にしいたげられる国があるなら、必ずや人間の正義は起って、その虐げられる国の味方となるであろう。人間の誠心にはかかる勇気が断じて消えない事を私は信じている。私は虐げられる人々よりも、虐げる人々の方が、より死の終りに近いと思う。前者に対しては人間の味方が起ち上るだろうが、後者には必ずや自然の刑罰が加えられる。「剣をとる者は剣にて亡ぶべし」とイエスは告げた。この世に永らえ得る悪の栄えはないのである。
 ここに反省を乞いたい一事がある。吾々が剣によって貴方がたの皮膚を少しでも傷ける事が、絶対の罪悪であるように、貴方がたも血を流す道によって革命を起して下さってはいけない。殺し合うとは何事であるか。それが天命にさからい人倫にもとることを明確に知る必要がある。それはただにむごいのみならず、最も不自然な行いである。それは決して決して和合に至る賢明な道とはならぬ。殺戮さつりくがどうして平和を齎らし得よう。吾々はいつも自然な人情の声にこそ耳を傾けねばならぬ。愛し合いたいとそれは言っているではないか。どうして吾々は人情のままに活きる事が出来ないのであろうか。自然に逆ってまで争うとは如何なる心であるか。自然の深さを知りぬいていた老子は「不争の徳」を鋭く説いた。
 私は再び反省を貴方がたに希いたい。争いの武力や憎しみの政治が不純なものであるなら、朝鮮もまたその存在をかかる力の上に建設してはいけない。私は武力や政治には少しだに信仰を持たない。それは国と国とを結びはしない。人と人とを近づけはしない。古往今来これらの道を通して内から愛し合った国と国とがどこにあろう。政治や軍力の平和は利害の平和に過ぎない。さもなくば強制の平和に過ぎない。私は真に朝鮮とわが故国との間がかかる関係に終る事を欲しない。貴方がたも貴方がた自身の武力や政治に信頼をおいてはいけない。かかる力はどの国であろうとも人間の心を温めはしない。一国の名誉を悠久ゆうきゅうならしめるものは、武力でもなく政治でもない。その宗教や藝術や哲学のみである。もし信任し得る政治があるなら、それはプラトーンや孔子が説いた如き政治であらねばならぬ。しかし不幸にも現代はかかる聖賢の声を用いる事を恐れている。しかし吾々はかかる偉大な古人の教えが吾々をあざむかない事を信じねばならぬ。私は貴方がたが朝鮮の存在を精神の上に安泰せしめられん事を切に望むのである。これは実に吾々においてもまた固く保持せねばならぬ理想であると私は信じている。
 貴方がたは今の政治者に絶望を感じられたにちがいない。しかし人間そのものにも絶望して下さってはいけない。真の愛や平和を求める心は、その中になおも温かく包まれている。それは自然の意志によって甦えらねば止まぬであろう。如何に世は寒いにしても、草はいつか地の懐からえ出るであろう。よし刃の勢いに攻められる事があっても人間そのものが朝鮮の運命を固く保護すると私は確信する。否、私はいつか朝鮮が人情に最も温められる国の一つであるのを切に感じている。世は如何に殺伐になろうとも、人情はこの世から消えないであろう。貴方がたは過去の苦しい歴史にてらして、何処の人間をも、もう信じ得ないといわれるだろうか。しかしその淋しい声の中から、もう一度人間を呼んでみてほしい。おお、その時私は貴方がたの中に進み出よう。ここに貴方がたの手を握りたい一人の人間がいると言い出よう。しかし私を見るや、またも偽りの日本人かと言って私をしりぞけるだろうか。しかし私は私の誠心が、今までの日本人でない何ものかを私の顔に現すまで、貴方がたの前から退くまい。私は貴方がたが真に人間を恋している方だという事を信じている。私にさえ誠心があるならば、それは吾々の距離を近づけるにちがいない。もし近づき得ないなら、それは貴方がたの罪ではなく、なおも私の誠心が足りないからだ。私は再び私をきよめて出直そう。
 日本は未だ人間の心に活ききってはいない。しかし若い精神的な日本がここに現れて、いつか刃や力の日本を征御し尽す事を信じている。私はかかる日が現れて、朝鮮と日本との間に心からの友情が交される時の来るのを疑わない。少くとも私はこの悦びに向って不断の努力をささげよう。私は悪が善にちおおせるとは思わない。私は人間の深さを信じ、真理の力を信じている。必ずや正しい道が最後の捷利者である事を信じている。また自然の美しい意志がいつか満される事を疑わない。また刃よりも愛が絶大な力の所有者である事を疑わない。または柔かい人情が、平和の固い守護者である事をも信じている。よし様々な汚濁おじょくの勢いがはびころうとも、私は宗教が真にこの宇宙を支配する力だと信じている。また藝術がこの世を浄め、美しくする力だと信じている。争いは本流を作りはしない。愛に飢える人情がこの世の家庭を作るのである。人間の心の底には、どうしても奪い得ない情愛の求めがあると私は信じている。
 私は重ねて貴方がたに私の心を伝えたく思う。決して今の武力や政治を通してのみ、人間を判じて下さってはいけない。人間のうちに潜む深い性質はかかるものを越えて、真に平和や愛情をしたっているのである。悲しくもまだ今の日本は、自ら正義の日本であると言い切る事は出来ない。(何処の国がかかる大胆な発言をなし得るであろう)しかしこの国に住む人々は、その本性において悲しい事や罪な事に冷やかではないと知ってほしい。また愛や人間の道について、その心を注ぐ事を忘れはしないと知ってほしい。また不正な事に関しては、不正であるという明かな反省が、吾々の間にある事をも知ってほしい。人間の正しい運命を保持しようとて、今吾々は努力しているのである。それらの人々は、真に貴方がたの淋しさや苦しさに対しての味方である。これは私一人の推量ではない。私の多くの知友が私と同じ感を抱いている事を私は知りぬいている。
 私が先年『読売』紙上に「朝鮮人を想う」と題する一文を寄せた時、日本の見知らない多くの人々から、どんなに厚い共鳴の手紙を受けたであろう。もし貴方がたの心に交る時が来るなら、吾々はどんなにか深い自然な友情を、貴方がたに感じることであろう。朝鮮が日本を愛し、日本が朝鮮を愛するとは、如何に自然な感情であろう。私は吾々の血が、いつか互に肉身の兄弟だという愛の本能を、吾々の心に甦えらす事を厚く信じている。貴方がたはそれを疑うだろうか。そう信じては下さらぬだろうか。私はそう信じて下さる事を切に望んでいる。


 私は朝鮮に関してはほとんど何らの学識を持たない。また朝鮮の事情について、豊かな経験を所有する一人では決してない。しかし私にこれらの躊躇ちゅうちょがあるとはいえ、ここに私をして発言せしめる資格を全く欠いているのではない。私は久しい間、朝鮮の藝術に対して心からの敬念と親密の情とを抱いているのである。私は貴方がたの祖先の藝術ほど、私に心を打ち明けてくれた藝術を、他に持たないのである。またそこにおいてほど、人情にこまやかな藝術を持つ場合を他に知らないのである。私はそれをながめてどれだけしばしば貴方がたを、まともに見る想いがあったであろう。それは歴史以上に、心の物語りを私に話してくれた。私はいつもそこに貴方がたの自然や、人生に対する観念を読む事が出来る。貴方がたの心の美しさや温かさや、または悲しさや訴えがいつもそこに包まれている。想えば私が朝鮮とその民族とに、抑え得ない愛情を感じたのは、その藝術からの衝動に因るのであった。藝術の美はいつも国境を越える。そこは常に心と心とがう場所である。そこには人間の幸福な交りがある。いつも心おきなく話し掛ける声が聞えている。藝術は二つの心を結ぶのである。そこは愛の会堂である。藝術において人は争いを知らないのである。互いにわれを忘れるのである。他の心に活きるわれのみがあるのである。美は愛である。わけても朝鮮の民族藝術はかかる情の藝術ではないか。それは私の心を招くのである。どれだけしばしば私はその傍らに座って、それと尽きない話をかわしたであろう。
 私は朝鮮の藝術ほど、愛の訪れを待つ藝術はないと思う。それは人情にあこがれ、愛に活きたい心の藝術であった。永い間の酷い痛ましい朝鮮の歴史は、その藝術に人知れない淋しさや悲しみを含めたのである。そこにはいつも悲しさの美しさがある。涙にあふれる淋しさがある。私はそれを眺める時、胸にむせぶ感情を抑え得ない。かくも悲哀な美がどこにあろう。それは人の近づきを招いている。温かい心を待ちわびている。
 貴方がたの過去の運命やまた思想は如何なるものであったろうか。その地理や隣邦との関係から来る避け得ない環境のために、温かく平和な歴史は永く保ち難かったであろう。まして東洋の静かな血が通い、仏陀ぶっだの教えによって育てられた心には他の生活が如何に無常に思えたであろう。貴方がたは静かな森の中や、人里のまれな山深くに心の寺院を建てた。それは真に修道にふさわしい場所であった。淋しさのみが淋しさを慰めるのである。声なくして静かにたたずむ悲母の観音は貴方がたの愛した姿であった。高麗の陶磁器は日々人の心に親しみたいための器であった。それは古代においてのみではない。李朝の代に及んでも日常の凡ての用品にさえその心を深くにじませた。為すこと行うことに、見るもの触れるものに、貴方がたはその静かな淋しい心を反映させた。日々眼に触れるそれらの器具の淋しい姿は、必ずや貴方がたの心の友であったであろう。互いに慰められつ慰めつ日々を送ったにちがいない。それは情に柔らかな作品であった。私は今それらの作をありありと心に想い浮べている。流れるように長く長く引くその曲線は、連々として無限に訴える心の象徴である。言い難いもろもろの怨みや悲しみや、憧れが、どれだけ密かにその線を伝って流れてくるであろう。その民族はふさわしくも線の密意に心の表現を托したのである。形でもなく色でもなく、線こそはその情を訴えるに足りる最も適した道であった。人はこの線の秘事を解き得ない間、朝鮮の心に入る事は出来ぬ。線にはまざまざと人生に対する悲哀の想いや、苦悶の歴史が記されている。その静かな内に含むかくれた美には、朝鮮の心が今なお伝わっている。私は私の机の上に在る磁器を眺めるごとに、寂しい涙がその静かな釉薬ゆうやくの中に漂っているように想う。
 しばしばこれらの作品は私にこう話し掛ける。「人生はいつも淋しくしめやかに見える。長い間私たちの民族は苦しい歴史を続けてきた。しかし誰もそのもだえる心を察してはくれない。また何処にも私たちの心を打ち明け得る友を持たない。私たちはせめてもの想いに、これらの器具にその情をらしたのである。それらのもののみは、私たちを欺かない日々の友であった。後に生れてくる人々よ、ねがわくはこれらのものをかたわら近くに置かれよ。それは声なくともいつも人情を恋している。これらのものを愛し用いて、われらの心を温め給えよ、温められようとて私たちはこれらの作を造ったのである。」おお、私はかかる声が器の底からしぼり出る時、どうして私の手をそれに触れずにいられよう。
 ある時その淋しい姿は亡霊の如く浮び出て、私にこうも告げた。「他国の人々よ、どうしてそう酷い事を吾々の民族にしむけるのであるか。私たちの虐げられた運命が貴方がたの歓楽になるのであるか」。私はかかる叫びを聴く時、真に断腸の想いがある。「なぜなぜ私たちに愛を贈らないのであるか」、あるものはかく私に尋ねている。「これほど人情に飢える吾々に答える人情はないのであろうか」と咏嘆の声が聞えてくる。「わけても血に近い日本の人たちよ。兄弟の愛に吾々を結ぼうとなぜしないのであるか。吾々は同じ母のふところに眠り、同じ伝説に生い立った昔を想い廻らすことがあるではないか。かつて私たちの僧は経巻を携え、仏躰ぶったいを贈り、寺院の礎を飛鳥あすかの都に置いたのである。宗教に栄え藝術に飾られた推古すいこの文明は、私たちの心からの贈物であった。それらのものは今もなお昔ながらの姿を残している。それにどうしても再度ならずも、吾々の文化を馬蹄ばてい蹂躙じゅうりんして、厚い友情を裏切ろうとするのであるか。かかる事が日本の名誉であると誰が言い得るのであるか」。私はかかる直接な訴えになじられる時、答え得る言葉を持たない。
 私がその器を淋しく見つめる時、その姿はいつも黙祷もくとうするかのようである。「神よ、われらが心を遠く遠く御身の御座にまで結びつける事を許されよ。見知らぬ空にいます御身のみは、われらを慰めることを忘れ給わぬであろう。御胸にのみわれらがいこいの枕はあるのである」。たわやかな細く長く引く線は、そう祈るが如く私には思える。これらの声が聞える時、どうして私はそれらの作品を、私の傍から離し得よう。おお、私はそれを温めようとて、思わずも手をそれに触れるのである。
 四年前〔大正五年・一九一六年〕私が朝鮮を訪ねて以来、ただの一時でもそれらの作品のいずれかを私の室から離した事がない。それはいつも私に話し掛けたいように見える。私はそれを冷たい暗い場所に長くしまうに忍び得ない。私がそれを机の上に置く時、それは悦んでくれるかのように思う。それはいつも私を待っていてくれる。私はそれに近づかないわけにはゆかぬ。ましてその美しい姿は、私の心を引きつけている。それを眺めそれに手をく時、私には心と心とが触れ合う想いがある。それはいつも私の情愛の友だ。私もまた彼らの親しい友だ。それが淋しく悲しい姿に見える時、私も淋しく悲しい想いにおそわれてくる。それが私の傍に在って悦ぶように思える時、私も心に嬉しく思う。かくして二人はいつも共に悲しみや悦びの世界に歩む。
 それは親しさの作品である。愛に憧れる作品である。それは人の心をいつも招いている。人の情を待ちわびている。どうして私はそれを音ずれずにいられよう。ここに私がいると私はいつも心にささやくのである。その作者よ、心安かれよと私は念じている。かくしてそれが私の室にある限り、私たちはいつも二人で暮している。私は孤独ではない。その作品も孤独ではないように思う。孤独の寂しみに堪えないで、それらのものは作られたのではないか。私はそれを孤独にしてはならない。私は朝鮮の藝術よりも、より親しげな美しさを持つ作品を、他に知る場合がない。それは情の美しさが産んだ藝術である。「親しさ」Intimacy そのものが、その美の本質だと私は想う。いつもかく想う時、どうして私は、その作者と同じ血を受けた今の朝鮮の人々に、親しさを感ぜずにいられよう。私は早く貴方がたから離れている関係を破らなければならぬ。
 しかしかかる「親しさ」においてのみ、私は朝鮮の藝術を解しているのではない。私はその内に潜む驚くべき美に対して、全き敬念をささげないわけにはゆかぬ。それは親しさであると共に、真に驚くべき美の示現である。悲惨な運命に虐げられた朝鮮は、その藝術の美においては君皇の位に列している。何人なんぴともその悠久な美を犯す事は出来ぬ。生命は短く、藝術は長いと詩人は歌う。しかし藝術に現れた朝鮮の生命こそは、無限でありまた絶対である。そこには深い美がある。美そのものの深さがある。静かな内へ内へと入る神秘な心がある。それは神殿を飾るに足りる藝術である。朝鮮は、よし外に弱くとも、その藝術において内に強い朝鮮である。厳然として自律する朝鮮である。
 ある者は支那の影響を除いては、朝鮮の藝術はあり得ないかのようにいう。あるいはまた支那の偉大に比べては、認め得る美の特色がないかのように考えている。実に専門の教養ある人々すら、時としてかかる見解を抱くようである。しかし私は、かかる考えが真に独断に過ぎなく、理解なき謬見びゅうけんに過ぎぬのを感じている。私はそこに日本においてと同じく、支那の影響を否みはしない。しかしどうして支那の感情が、そのままに朝鮮の感情であり得よう。特に著しい内面の経験と美の直観とを持つ朝鮮が、どうして支那の作品をそのままに模倣もほうし得よう。よしその外面において歴史において関係があったにせよ、その心とその表現とにおいて、まごう事ない差違があると私は解している。
 朝鮮の内なる感情がその民族において固有であり、内なる歴史がその経験において独特であるに従って、その藝術もまた真に独歩である。批評的歴史家はその国是こくぜを事大主義であるという。しかし少くとも藝術においてはそうではない。朝鮮の藝術そのものが、それ自身の美において偉大である。どこにつかえるべき他の大があったであろう。今日法隆寺や夢殿に残された百済くだらの観音は、支那のどの作品に劣るであろう。またどの作品の模倣であり得よう。それらは日本の国宝と呼ばれるが、真に朝鮮の国宝とこそ呼ばれねばならぬ。またはここに慶州石仏寺の彫刻をえらんだとする。それはもとより唐代の作と関係があるにちがいない。しかし他にならい他につかえた痕跡のみであろうか。そこには真に動かし得ない朝鮮固有の美があるではないか。私はその窟院を訪ねた日を忘れる事は出来ぬ。そこは朝鮮がいつも保有する深さと神秘との絶える事のない蔵庫である。人々はまた高麗の陶磁器を宋窯の模倣であるという。しかし試みにその器に流れる線を一分でもいずれへかめてみよう。吾々はたちどころに高麗の美を見失うのである。藝術は真に心の微妙な発現である。それはそれ自身であって如何なる他の性質にも還元し得ない作である。高麗の美は決して宋の美ではあり得ない。両者にはその成分において技巧において近い素質もあろう。しかし現された美には、まがいもない差異が厳存する。高麗の器に流れる微妙な線の美しさは、少しでも宋窯に求める事は出来ぬ。それは真にそれ自身の線であって、一分だにそれを変えるなら、それは既に朝鮮の心から離れるのである。李朝の作においてもそうである。みんの磁器と李朝のそれとのどこに類似があろう。どこに明の「大につかえた」李朝の美があろう。そこにはそれ自らの心があり生活がある。朝鮮の美は固有であり独特であって、決してそれを犯す事は出来ぬ。疑いもなく何人の模倣をもまたは追随をも許さぬ自律の美である。ただ朝鮮の内なる心を経由してのみあり得る美である。私は朝鮮の名誉のためにもこれらの事を明晰めいせきにしたい。その藝術が偉大であるとは、直ちにその民族が美への驚くべき直観の所有者であるという意味である。しかもそれは粗野な美にあるのでもなく、強大な特質にあるのでもない。それは実に繊細な感覚の作品である。私は朝鮮民族の、美に対する敏鋭な神経に対しては、実に疑い得るいささかの余地をも持たぬ。私はその藝術を通して厚い敬念を朝鮮に捧げる心を禁じ得ない。それは如何なる人たるを問わずまさに抱かねばならぬ驚歎である。この名誉こそは永く厚く尊重されねばならぬ。しかるに何事であるか、その藝術的素質に豊かな民が、今醜い勢いのためにその固有の性質を放棄する事を強いられているのである。私はこの世界の損失に対して傍観するに忍び得ない。藝術への尊敬こそ国と国とを近づけるのである。世界を美にまで揚げるのである。日本はかつて朝鮮の藝術や宗教によって、その最初の文明を産んだのである。今日この事は感謝を以て記憶されねばならぬ。私は悠久な朝鮮の藝術的使命を畏敬いけいする事が、日本の執らねばならぬ正当な態度であるべきを想う。世界の藝術に独特な位置を保有する朝鮮の名誉は、今後もなお永続されねばならぬ。その民族が絶えない限り、かかる藝術は再度ならずよみがえるであろう。一国の藝術、または藝術を産むその心を破壊し抑圧するとは、そもそも罪悪中の罪悪である。
 吾々の間に朝鮮の作品が賞美せられてから、長い年月は過ぎた。しかも今日それははなはだしい市価をさえ呼んでいる。しかし専門にそれを研究する学徒においてすら、その美の内面の意味を捕えて、その民族固有の価値を認得しようとする者は絶えてないようである。何故朝鮮の藝術を讃える事によって、その作者である民族をも讃えないのであるか。昔の時代は去ったとしても、民族の血の質にまで変りがあろうはずがない。よし事情の変移はあろうとも、素質をまで否む事は到底出来ぬ。今日朝鮮に藝術が現れないのは、単に製作の余裕が与えられないからである。それはむしろ吾々にこそ責任があるであろう。私は朝鮮が真に美しい藝術を再び産む事を信じたい。私は近来二、三の友と知るに及んでますますその希望を強めている。もしも美術館にその古藝術を保護する事が、邦人のよい仕事の一つであったなら、それらのものの未来の作者を畏敬する事を、どうして吾々の任務から取り去ったのであるか。過去の朝鮮を愛して未来の朝鮮を敬わないのは、過去の朝鮮に対する侮辱に過ぎない。過去への全き尊敬は未来への信頼に活きねばならぬ。私はいにしえの朝鮮が驚くべき藝術を私に示す事によって、現代の朝鮮にも深い希望を持つ事を学ばしめたのを感謝している。為政者が朝鮮を内から理解し得ないのは、一つには全く宗教や藝術の教養を持たないからである、ただ武力や政治を通して、内から結び得る国と国とはないはずである。真の理解や平和をこの世に齎らすものは、信を現す宗教である、美に活きる藝術である。かかるもののみ第一義である。第一義なものにのみ、人は真の故郷を見出すのである。信や美の世界には、憎悪がなく反逆がない。とこしえに吾々の間から争いの不幸を断とうとするなら、吾々は吾々の間を宗教や藝術によって結ばねばならぬ。かかる力のみが吾々に真の情愛と理解との道を示すのである。人はそれを理想に止まるというであろうか。しかしこれが唯一な、しかも最も直接な交りの道であるという事を真に悟らねばならぬ。まさに為さねばならぬ規範の命は、躊躇ちゅうちょなく為されねばならぬ。
 私は朝鮮に住む日本人の、いわゆる親しい経験に対しては多くの信頼を持たない。内なる朝鮮に入り得ない限り、それはただ外面の経験に過ぎぬ。かかる経験は、少しだに理解の裏書とはならぬ。人々には宗教的信念も薄く、藝術的洞察も乏しいのである。不幸にも人々は貴方がたを朋友として信じる事を忘れている。彼らはただ征服者の誇りで貴方がたをいやしんでいる。もし彼らに豊かな信仰や感情があるなら、必ずや貴方がたに敬念を払う事に躊躇しなかったであろう。もしも朝鮮代々の民族が、その藝術において何を求めているかを知り得たなら、おそらく今日の態度は一変されるにちがいない。多くの外国の宣教師は、みずからを卓越した民だと妄想している。しかし同じ醜さが、優秀だと信じる吾々の態度にもある事を私は感ぜずにはいられない。しかし敬念や謙譲の徳がない処に、どうして友情が保たれよう。真の愛が交されよう。私は日本に対する朝鮮の反感を、極めて自然な結果に過ぎぬと考えている。日本が自らかもした擾乱じょうらんに対しては、日本自らがその責を負わねばならぬ。為政者は貴方がたを同化しようとする。しかし不完全な吾々にどうしてかかる権威があり得よう。これほど不自然な態度はなく、またこれほど力を欠く主張はない。同化の主張がこの世にあがない得るものは、反抗の結果のみであろう。日本のある者が基教化を笑い去るように、貴方がたも日本化を笑い去るにちがいない。朝鮮固有の美や心の自由は、他のものによって犯されてはならぬ。否、永遠に犯され得るものでないのは自明である。真の一致は同化から来るのではない。個性と個性との相互の尊敬においてのみ結ばれる一があるのみである。
 私は今度朝鮮に対する私の情を披瀝ひれきするために、一つの音楽会を貴方がたにささげたく思う。会は五月初旬京城において開かれるはずである。私はこれが貴方がたへの情愛と敬念とのしるしである事を希う。また藝術的天賦てんぷに豊かな朝鮮民族への信頼のしるしでありたく思う。その民族がことに音楽に対して敏鋭な愛情を持つ事を、私はしばしば耳にしている。貴方がたは私のこの企てを受けて下さるであろうか。私と私の妻はこの会を通じて貴方がたにえる時の来るのを、どれだけ心待ちしているであろう。もし心が心に交り得るなら、それは如何ばかり深いこの世での幸いであろう。新聞紙上に伝える所によれば、私たちの渡鮮は藝術を通じて朝鮮を教化するためだと書かれている。しかしこれは全くの誤伝に過ぎない。それは皮浅な眼で私たちの企てを解釈した報道に過ぎない。私には教化とか同化とかいう考えが如何に醜く、如何に愚かな態度に見えるであろう。私はかかる言葉を日鮮の辞書からけずり去りたい。朝鮮の友よ、見知らぬ多くの友よ、私の如き者を例外だと思って下さってはいけない。希くば精神に活きる私の多くの知友が、正義や情愛をしたう心に忠実である事を信じてほしい。若い日本の人々は、真理の王国を守護する事を決して忘れはしない。それらの人々は既に貴方がたの味方である。私たちは貴方がたを、近い友として理解する用意を欠かないであろう。貴方がたと私たちとの結合は真に自然そのものの意志であると私は想う。未来の文化は、結合された東洋に負う所が多いにちがいない。東洋の真理を西洋に寄与するためにも、また東西の結合を全くする上にも、東洋の諸国は親密な間柄であらねばならぬ。わけても血に近い朝鮮と日本とには、もっと親しさや情愛が濃いはずであらねばならぬ。吾々はかかる友愛を、いつかまた支那や印度との間にも結ばねばならぬ。かかる結合が未来の文明に対して、深大な意義を持つ事を貴方がたも信じて下さるであろう。それはただの夢想ではない。深く要求せられた自然の声そのものであると思う。私は海を越えて厚い心を貴方がたに寄せる。私は貴方がたがこの心を受けて下さる事を疑わない。共に吾々は自然の心に帰らねばならぬ。人情の自然さに互を活かさねばならぬ。情愛にこそ真の平和があり、幸福がある。真理はそこに固く保たれ、美はそこに温かく活きるのである。
 私は貴方がたを想う。その運命を想い、その衷情ちゅうじょうを想う。私はこの書翰しょかんを貴方がたの手にゆだねたい。これを通じて私の心が貴方がたの心に触れ得るなら、この世の悦びが一つ私の上に加わるのである。更にまた私の心を貴方がたが訪ねて下さるなら、二重の幸いが私にくだるのである。この世においては、かかる事が真に深い幸福を意味するのである。見知らぬ力がかく為させ給う事を私は心に念じたい。
 私は貴方がたの上に祝福を祈りつつ、ここに筆をこうと思う。
(一九二〇年)





底本:「民藝四十年」岩波書店
   1984(昭和59)年11月16日初版第1刷発行
   2009(平成21)年9月4日第28刷発行
初出:「改造」
   1920(大正9)年6月号
入力:大野裕
校正:富田倫生
2013年1月21日作成
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