雲石紀行

柳宗悦




津和野


 四年ほど前津和野つわのを訪ねたことがある。なまこべいの武士屋敷が両側にならんでいる。古格をこれだけよく保った町も珍しい。私はまた美しいこの通りを見たいと思った。だが山間の孤立したこんな町が、どんな運命をもつか。過去の町として見れば美しい、だが来るべき町として、心元ない感じを受けた。二度訪れる折が来た。そうして今度は明るい気持ちでその町を見ることが出来た。地理的にもすべてが遅れがちなこの町を、一人で背負っても立とうとしている人間に逢えたからだ。望月氏のもっている津和野への愛はこの町をよみがえらすだろう。外からいじめられるこの町は、内から深まるよりみちはない。企てられつつある学藝と工藝と林業とに津和野の運命はかかっている。そうしておそらくそれより正しい基礎はあるまい。私には過去の津和野が面白かった。しかし今は十年二十年後の津和野のことが一層面白く思える。

益田にて


 石見いわみ益田ますだには二つ心を引かれるものがある。一つは最も有名な雪舟せっしゅうの庭、一つは名もない粗陶器。誰も後者について語ったものはなかろう、ここで味方になって弁護しよう。もっともかまは益田のものではないが、今も細々と場末の荒物屋に残り、大概はほこりだらけになって高い棚の隅か、縁の下にうずくまっている。
 見放された人間のように、居所もろくにないのである。窯は小野村おのむら喜阿弥きあみだといわれる。益田から西方一と駅である。そこで鉄釉てつぐすりわんやらつぼやら土瓶どびんやらが出来る。まだマンガンやらクロームに犯されていないから、釉がほんものである。黒ければ漆のように、赤ければ亀甲きっこうのように光る。のり入れだという小壺は形が卵のようで、ふたが美しい、焼け具合で耀変ようへんが来ると、例の大名物油屋あぶらや肩附かたつきを想わせる。今時利休りきゅうでもいたら、早速中から名器をえらび出すだろう。土瓶は近来どこの窯でも堕落し切ってしまったが喜阿弥の飴薬あめぐすり土瓶は昔のままである。卓上で紅茶の土瓶にでも使ったら誰だって見直すだろう。
 汁茶碗は十個一くくり二十五銭で買える。勿体ない感じを受ける、東京の数寄者すきものなら一個二十五銭でも悦んで買うだろう。私はこれらのものがあるがために二度益田に足を運んだ。だがどの益田の人が、こんな悦びを受けてくれるか。名もない喜阿弥の陶工のために、これらの短い言葉が役立つことを望む。

石見の焼物


 津和野に入ると石見いわみに入ったという想いがする。なぜなら緑の山や森の背景に赤瓦あかがわらが急に輝き出すからである。それは自然をかえ建築をかえる。こればかりは他の国々では見られない。
 瓦の窯は浜田あたりから東へ海沿いに数多く続く。町を過ぎれば峠の左右は凡て窯場である。村があり人が住むというよりも窯があり瓦が働く江津ごうつ温泉津ゆのつそうして大田に至るまでかかる窯は続く。いずれの窯も極めてみごとである。
 山の傾斜面を利用して少くも十五、六、多くて二十四、五の室を有ったのぼがまを建てる。特に豪奢ごうしゃなのはその屋根である。瓦がお手のものだからである。階段をなして居並ぶ形は、それ自身に美しい建築である。日本に窯多しといえども、石見の窯の如く見て美しきものはない。とりわけ温泉津の如きせまい谿谷けいこくにそれが集る時、どのカメラも画筆えふでも休んではいられまい。
 だが石見のこれらの窯では赤瓦のみではない、大甕おおがめを焼き、捏鉢こねばち、すり鉢、べに鉢、片口かたくち、壺類を焼く。厖大ぼうだいな窯であるからそれも多量に焼く。なかんずく来待石きまちいしを使った赤褐色の大甕が多い。不景気のためかどの広場にも山の如く積んである。よくもこれだけのものが生れると思うほどである。何にしても石見は焼物の石見である。
 だが不思議にたえないことがある。どの町のどの唐津屋からつやのぞいて見ても、石見のものはすくない、瀬戸、美濃みの、有田、信楽しがらき等と、他国のものが店を支配し家庭を支配する。それは石見では小ものを焼かないからである。茶碗、湯呑ゆのみ、皿、小鉢、土瓶、土鍋どなべ等、家庭で一番つかうものを石見では見捨てている。
 私からすればこれは大きな落度である。一番土地の者が需要する器物の大部分を省みていないのである。窯にゆけば石見の焼物に逢える、だが石見の家庭でそれが見られるのではない。
 土が適しないのか、そうではない、その土でおそらく何でも出来るのである。職人がいないのか、そうではない、練習さえつめばあの腕で何でもこなせるであろう。焼く場所がないのか、そうではない、大ものを焼く間に小ものを入れる個所はうんとあるのである。だが総ては習慣である。瓦と大甕と、壺と、すり鉢とがほとんど一切である。文明は進んでゆく、甕や壺の需要は将来、今までのように莫大ばくだいではない。石見の焼物は方向をかえる必要がある。
 今は絶好の一転機である。ただ惰性で動くなら、あの立派な石見の窯場はやがて見すぼらしいものになるであろう。石見を愛する者は、その焼物の将来を考えていい、見ようによっては行く先は洋々としている、なぜなら新しい未開地の領域がその製作を待っているからである、石見三十余万の家庭が器物の供給を待っている。石見の窯がそれを作らないばかりに、他国から買い集めているではないか。
 石見の窯元では、自分たちの作るものが「粗陶器」だといって卑下する。いわゆる「雅陶器」ではないというのである。しかし石見の焼物に対する私の愛着も希望も、粗陶器の窯だということに集まるのである。もし雅陶器を作っている窯なら、私の期待は非常に薄い。私は工人たちにこう呼びかけよう。
 君たちは救いに近い道を歩いているのだ。まだ悪い趣味の犠牲にならずにいるのだ。まだ実用の上に作品を築いているのだ。まだ単純な自然な工程を執っているのだ。まだ技巧の病いに犯されてはいないのだ。そうしてこれらの性質こそは、工藝にとって何より立派な資格なのだ。
 かえってこれらのことの上に君たちの仕事を進めていいのだ。古来の名品は皆そういう性質の持主なのだ。ただ私はこう注意しよう、もっと作るものの範囲をひろげて、卓上で日々使う器物、皿、茶碗、土瓶、鉢等々にも仕事を進める必要がある。そうして特に現代の生活に入用な器物を作ってゆくことが肝心かんじんである。かつて必要なもの、必ずしも今必要ではない。なるたけ今の時代が求めるものをと心掛けないと、仕事には破滅が来る。
 特別なむずかしい技法に腐心する必要はない。錯雑な形や緻密ちみつな模様等に迷うことはいらない。今までのように簡単であっていい。誰も出来ないような作を作るより、誰にでも出来るような安全な作を作る方が、ずっと本条である。また実用品はそれ以外な個所に踏みはずしてはいけない。そうしてどこまでも用途の世界を進むことが肝要である。不思議であるが美をねらうより、用をねらう方が作品を正しいものにするだろう。そうして正しい作品より美しい作品はない。
 粗陶器に私が望みを最も多くかけるゆえんのものは、それが「実用」の器物だということにある。石見の焼物はどこまでも石見らしいものであっていい。それは石見という土地が与える材料を、どこまでも活かすこと以外に道はない。材料をいじめたり殺したりすると、作品はきっと弱くなる。その材料にはどんなうわぐすりが合うか、どんな焼方が合うか、どんな形が合うか、自然の賜物たまものを素直に受けそれを大切にすることが大事である。そうすれば常に「石見の焼物」たる特色を失うことがないだろう。私はしばしば焼き具合で来待石が赤色になるとき一等品、黒色が二等品だということを聞かされた。しかしそれは問屋が強いるおろかな分類に過ぎない。私はしばしば黒ずんだものにはるかに美しいものを見た。
 なぜそうなのか、赤の方には余りに人間の意向が働き、黒の方には自然の意思が働いているからだといっていい。赤色というようなことに余り滞ることは、仕事をむずかしくする。そうしてむずかしい仕事は危険を含む。それよりも、素直になだらかに仕事を進める方が遥かによい。それこそ仕事を容易ならしめ永続せしめるゆえんとなろう。粗陶器を作る石見の窯、質素なる焼物、実用の品、私はそこに一番希望を感じる。

出雲の焼物


 出雲人は怜悧れいり、石見人は剛直ごうちょく、こう古書にも書いてあるという、同じ県下の国ではあるが、自然も人間も異なると見える、車が波根を過ぎて田儀に進めば国境である、見れば赤瓦あかがわら石州せきしゅうは早くも終り、黒瓦の雲州うんしゅうに入る、堅き瓦と柔かき瓦、ここにも二州の差が見える。
 出雲の町々を歩けば、早くも店先や台所におかれる焼物が異なってくるのである、ただちに眼に入るのは石州で見なれない黄色をした土焼どやきである、それは雲州でも名高い布志名ふじなの窯である、ここが世にいう「出雲焼」の重な製産地である、歴史は古いと思える、品物は今いわゆる「雅陶器」と「粗陶器」との二種に分れる、上物の土は三代から、下物の土は報恩寺ほうおんじから取るという。
 舟木一家に残る古い焼物図絵を見ると「御誂物手鑑おんあつらえものてかがみ」とか「御好御写物おんこのみおんうつしもの」とか「御誂物絵図」とか題したものが残っている。藩の御用命で上等の品も作られたことがわかる。だが布志名焼の名誉がそれらのものにかかっているとは思えない。なぜなら皆京焼とか、織部おりべとかの弱い写しに過ぎないからである。そこにはとりわけ「出雲」がない。だが一度古く出来た大鉢やいわゆる呉須茶碗ごすぢゃわん等の失透釉しっとうゆうのものに来ると、すばらしい美しさである、骨もある腰も強く、すべてが豊である。
 今日このような風格を備えたものを求めれば、むしろ、そこで卑下されている粗陶器以外にはない。私は喜んで片口や鉢や捏鉢を買った。英国のギァレナを思わせる。だが布志名の窯が今一番力を入れ多く作っているのはそれらのものではない。黄色の地に絵附けをしたいわゆる「出雲焼」である。大社たいしゃにおまいりするとみやげ物としてどの店にも山ほど並べている。だが出雲の焼物の中でこの「出雲焼」ほど醜悪な貧弱なものはない。
 そこでは土が死んでいる。こし過ぎて質を全く殺してしまった。はだはなめたように病的である。絵のつたなさ俗さ、形の弱さいじけさ、そうして色の薄っぺらなこと、どこにもがない。近くに報恩寺の窯がある。宍道湖畔しんじこはんにただ一つさびしく建っていて、今は親子二人水入らずで働いている。そこではほとんど粗陶器ばかり作る。だがこんな窯の方にこそまだ作物に命が残っている。へまな人間の智慧で意匠をこらすようなことをかえって知らないからである。そこでは自然が味方をしている。
 出雲は不昧公ふまいこうの出雲である。公の存在は出雲の地理をかえ、人間をかえ、習慣をかえ、工藝をかえた。石見には見られない多数の雅器がこの国に起こったのも理由がある。楽山らくざんの如き布志名の如き皆彼の翼の下で養われた。だがその茶道から生れた出雲の焼物で一つ特筆すべき面白いものがある。土地の人はそれを「呉須茶碗」とか「ぼてぼて茶碗」とか呼ぶ。遠く伯耆ほうき因幡いなばにもおよんで「五郎八ごろはち茶碗」ともいわれる。古いものは主として緑青か白の失透釉を用いたが、後には宝珠ほうしゅの玉の模様を入れ、色も黄色のが多い。時として無地天目てんもくのものも見かける。普通の茶の湯に用いるのではなくササラのような茶筌ちゃせんで茶の花をたて、御飯やら煮豆やら漬物等を少し入れて飲むのである。いわば茶道が民衆化されて起こった習慣と見ていい。
 薄茶の茶碗は早くも趣味の超過にあって堕落し切ったが、かかる茶碗ばかりは実用に即したゆえに、純粋の器物として残った。かかる無銘のものは、すべて在銘のものよりはるかに素直でいい。その茶碗の美しいのを能義のぎ郡でも焼いた。広瀬の八幡窯、母里もりの皿山、安来やすぎの皿山、それぞれに美しいものを産んだ。だがそれらの窯で出来る品物には、いつも二種類のものが見られる。一つは京焼あたりの都風をまねて出来たもの、一つは農家等に届ける雑器類、それらのものを今日見ると例外なく後者だけに生々したものが残っている。趣味にいんしたものが、如何に窯を痛めているかが判る。それゆえそれらの窯では不思議にも皆美しいものと醜いものとを同時に焼く。そうして後者の方に高い値段をつける。われわれのようなものには有難い現象でもある。安いものの方にいいものがあるからである。荒っぽいものだけを焼く石見から来ると出雲の焼物はずっと文明に見える。一面進んでいるといっていい。実際作家の間にもどうして前に進もうかと腐心している心が見える。
 今市近くに万祥山の窯がある。技術からいって最も優秀である。また作品の変化も多い。京都あたりの今日の個人作家にしてゆこうという苦心が見える。しかし惜しいかな、技巧と美とを同一だと誤認しているきらいがある。腕はよいが方向は悪い。だが出雲の職人たちには自覚がわきつつある。それは何事かを産むだろう。袖師そでし窯の主人や、布志名浅利氏等に逢うてその感を深くする。出雲にはよき材料があり、よき伝統があり、よき職人がまだ沢山いる。どうしたらその窯業が将来正しく栄るか。私はその答えを別に書き起こそう。

工藝と人物


 雲石二州の窯を転々として歴訪した私は、いずれの所でも仕事が困難に見えた。もとよりそれは主として経済的関係に基因する。不景気によると異口同音にいうが、私からすればもともと組織が悪いのである。たとえば今のように問屋制度の如きが続くなら、窯の煙はだんだん細くなってゆく一途いっとだろう。製産者が下敷にされるにきまっているからである。今の内組合でも作って製作者と販売者とが互に助け合わねば前途は心細い。それがないために今までどんなに多くの窯場が倒れたことか。
 しかしこのことばかりではない、今の焼物は作る品に行きづまっているのである。時代は進み生活は変り、習慣が移ってゆくのに、焼く品はほとんど昔のものに固着している。売れないということの一原因は作物に転廻がないからである、事情は何しても悪い、しかし私に唯一の希望を抱かしめるゆえんのものは、各地で、仕事へのもだえと自覚とが見え出しているからである。私は各所で熱心な当業者に会うことが出来た。皆何かを求めているのである。この求めは単に経済的打開に対してのみではない、いい作物を産みたいという志が多分に動いている。すべてこの窯の運命は今目覚めた人間の出現を何より要求するのである。
 職人の技術は、今も昔の如くすぐれている。人間にそう変りがあろうはずはない。だが今は昔のようにいいものが出来難い。時代が変っているからである。工藝には社会の状態がすぐ反映する。周囲の事情で職人の美に対する感覚がまげられてしまったのである。このままではなにもいいものが出来ない。中でいいものがあれば大概は昔の伝統をそのまま継いだものばかりである。何か新工夫を凝らしたものがあれば、どれもほとんど醜い、何がこのような事情を救ってくれるか。私はよき指導者の必要を切に感じないわけにゆかない、すべての当業者は腕を有っている、仕事は続けたいのである。だが方向が分らないのである。何を目標に進んでいいか、このことへの目鼻がつかないのである。昔は事情がよかったゆえに、何をどうこしらえても大概は美しく出来たのである。しかし今はそうではない。何を作っても伝統的なものの外は大概は醜くなってしまうのである。もう一度喪失した美への了得りょうとくを取戻すことが緊要である。それには指導者が要る。道案内が要る。それを得ればどの工藝も、もう一度息をふき返すであろう。
 未来に工藝を栄えしめるためには二つの種類の指導者が必要である。第一には工藝を産業として成り立たしめるために、制度の指導者が要る。制度が悪いといずれの仕事も長続きしない。そうして多くは製産者の萎縮いしゅくで仕事に破滅が来る。その結果作物は下落する。ここにいう制度とは主として製産と販売とへの制度である。
 両者を円滑に運ばせる組織である。前述したように問屋制度の如き根本的に間違っている。だが組織への指導者のほかに、もう一人の道案内が要る。それは何がほんとうに正しい工藝品だかをよく分った人でなければならない。一言でいえば美が分っている人にして初めて指導者の資格がある。かくの如き人を得ると否とで、工藝の運命は左右される。工藝にはどの道人物が要るのである。だがいい坊さんが世の中に少いように美への理解者がこの世にそう沢山いるわけがない。このことが問題を複雑化する。各県で各工藝に指導者を招く。
 私はしばしば指導されたという作品を目撃した。しかし残念なことには十中八、九まで悪いのである。誤った方針のために、ひどいものを作らされているのである。職人たちに知的判断はない、何がいいか悪いかを区別する力はない。それゆえに指導者が要るのである。だが同時にそれが極めて危険な場合も起こってくる。間違った先生に教わって間違ったことを覚えこむ生徒が多いのと同じである。それゆえ指導者を選ぶということが肝心かなめである。選び方が悪ければ、道を踏みはずすより外はない。教わらない方がまだいいことになってくる。美は遊戯ではないのである。
 思いつきや、趣味や、また技巧等から生れる工藝はどれも二義的である。そんなことに工藝を依存させてはならない、いわゆる「雅陶器」にろくなものがないのは当然である。よき指導者は第一に材料の事を考えるだろう、どう使ったらその材料が一番活きまたどんな品にその材料が一番適するか。このことこそ工藝の基礎になる。よき案内者はまた常に「用」を忘れないだろう、用が工藝の本質だからである。用に活きない品物はかえって美しくなり難い。そうして用という限り、現代生活への実用品となることが一番当然である。作品の種類は時代と共に変化していいのである。またよき指導者は大通を案内するだろう。誰でも一番安全に歩める道を示すだろう。わずかの者より歩けない危険な道を案内するなら、彼はおろかな教師と呼ばれていい。素直で平易で健康な世界へ、と導いてくれる道案内が何よりも必要である。工藝には人物が要る。熱心な製作者と、聡明な指導者と、二者相待つならきっと未来を切り開くことが出来よう。





底本:「柳宗悦 民藝紀行」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
   2012(平成24)年6月15日第9刷発行
底本の親本:「柳宗悦全集著作篇第十二卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年1月5日初版発行
初出:津和野「大阪毎日新聞 島根版」
   1931(昭和6)年5月7日
   益田にて「大阪毎日新聞 島根版」
   1931(昭和6)年5月8日
   石見の焼物「大阪毎日新聞 島根版」
   1931(昭和6)年5月9日、12日
   出雲の焼物「大阪毎日新聞 島根版」
   1931(昭和6)年5月13日、14日
   工藝と人物「大阪毎日新聞 島根版」
   1931(昭和6)年5月16日、17日
※初出時は「雲石探美行」と題する記事の中で連載されています。
入力:門田裕志
校正:砂場清隆
2019年5月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード