森数樹兄と一緒であった。昭和九年九月一日、
奥羽地方民藝調査の折、秋田を訪うた。だがこの古い町に期待したほどの品物はなかった。
黄八丈はあるが、本場のにはどうしても劣る。
角館でも作るが、もう生産が薄い。漆器は
能代に名を奪われている。(もっともこの黄味を帯びた
春慶は、色や
塗の関係から上品であっても弱々しく、形も冷たく、同じ品ならまだしも
飛騨高山産の方が力がある)。秋田の町では
岩七厘が目に
止るが、これも町の産物ではなく北秋田郡
阿仁の村で出来る。
樺細工も町で見かけるがこれは角館が本場である。
紫根染はあるが、これは
花輪から来たのであろう。秋田が秋田で産む品を求めても、ほとんど得るものがない。大きな城下町であるし、北方の主要な都であったから、昔は相当に色々な品が作られたに違いない。だが伝統は早く消え去ったと見えて、眼に映る品はほとんどなかった。(あるいは未だ気附かないものがあるかも知れぬ。もしそうなら次の訪問の時是非
廻り
逢いたい)。
町々を縫って廻ったが、かつぐ袋はまだ軽かった。ついに町はずれ近くなった時、ふと小さな
鍛冶屋が目に止った。狭い店に低い棚を設け、品物がほんの少しまばらに置いてあった。往来の
埃が店を一層貧乏くさくさせた。だが急に私の眼を射たものがある。念のため駆ける車を戻して店に寄った。何たる
幸なことか、私は間違わなかった。それは美しい
山刀である。背の
角が
隅入りで、厚みも多く形もよく、家の
記なのかこれに
瓢箪模様が一個入れてあった。
柄もいい。だがそれだけではなかった。今まで見たどの
五徳よりも美しい形のものがあった。その
傍には最も
可憐な
吉原五徳が置かれてあった。土地では「鉄きょう」という。品物を見ると、どれもこれも一つの共通した特色があって、他の品とは
明かに違う。作った者の形に対する優れた本能が感じられた。一つの
金鎚にもそれが見出された。
主人はまだ若かった。だが金物を
鍛える頑丈な体の持主ではなかった。それだけにまたその代りに神経がよく働くのかも知れない。どの品にもぼんやりした所がない。私たちは展覧会のため、沢山買おうとしたが、店の持合せはわずかよりなかった。細々と営む店のことだから、材料がつづかないのか、買手が少ないのか、仕事が出来ないのか、品物の数は貧しかった。だが吾々は更に注文を頼まずにはいられないほど、それらの品物に心を
惹かれた。受取証には秋田市
保戸野表鉄砲町伊勢谷運吉と記してあった。
展覧会に集った吾々の友達は皆、これらの品々を非常に
悦んだ。私は知らない人々に売られてゆくのを惜んで、民藝館のためにまず幾つかを買い求めた。
追注文はかなりの数に及んだ。リーチもその一人だった。リーチの考案になった書斎の火鉢には、特にその五徳を入れていたのを覚えている。英国で展覧すべき品々の中にもそれらのものは加っていた。私たちは再度督促し追注文を急いだ。だが一通の手紙が届いた。あれから病気で作れないでいるが、まもなく直ると思うから、もう少し待ってくれとの意味が乱れた文字で記してあった。だがそれぎりだった。会も終ったので私たちも催促の手紙を出さずにしまった。だが品物を見る毎に妙に彼の病気のことが思い出された。もう直った頃だろう、また何か作ってもらおう。そう思いながら私も長らく筆不精に過ぎた。
一年は経った。私は河井と二人で計らずも奥羽の旅に出ることになった。山形、岩手、青森と廻り秋田へと道を取った。私はその店を訪ねる日が、再び来たことを悦んだ。河井も品物のことはよく覚えている。それは十一月四日の朝早くだった。私たちはどこよりも先に鉄砲町を訪ねてその店を捜した。しかし一年前に在ったはずの所に店はもうなかった。不思議に思って票札を探したところたしかに「伊勢谷」とあるが名が違っている。
「ここに伊勢谷という鍛冶屋さんはいませんか」
「ああ伊勢谷さんですか、亡くなったですよ」
淋しい気持が急に私を襲った。どんなにがっかりしたことか。無銘の職人たちは大方こうやって消えてゆくのだ。
活きている間にもう一度私たちの悦びを伝えたかったのに。今から思えばなぜ彼の品物の写真を入れた『工藝』の図録を彼に届けなかったのか。彼は彼の作物がどんなものだかをおそらく
識らなかったろう。またそれらの品をかくも悦ぶ人たちがこの世にいることを夢にも思わなかったであろう。吾々の度々の督促を特別な意味には取らなかったに違いない。彼は彼の仕事を平凡に考えていたであろう。それが他の地方の品々と、どこが違うかに深く気附きはしなかったであろう。出来たら鍛冶屋の身分に終りたくはなかったであろう。死んだ方が楽だとさえ思ったことがあるかも知れぬ。だがもし吾々の悦びを何かでもっと伝えることが出来たら、元気になってくれたかも知れぬ。早い死をそうまで早めずにすんだかも知れぬ。だが不幸な彼は早死してしまった。秋田の人といえども彼の存在に気附く者はほとんどいなかったであろう。否、近くに住む人たちといえども彼の死をろくに痛みはしなかったであろう。ましてその仕事を想い起しはしないであろう。彼は
永えに
暗から暗に葬られてゆく無銘の一職人に過ぎないのである。
だから私は彼のためにせめてこの一文を草しておきたい。私は彼の顔すらも充分に覚えてはいない。まして彼がどんな家に生れどんな生い立ちをし、どんな性格を
有ち、幾つで死なねばならなかったか、
凡て知らないのだ。だがそれが明るいものであるにせよ、暗いものであるにせよ、知らないままに任せよう。だが私は彼の作物を知っている。その二つ三つのものを私の傍らに置いている。そうしてどこがいいかを熟知している。私はこのことを何か記しておきたいのだ。
彼のことを想い、同じような運命の無数の名もない職人たちのことを想う。彼に対してのみではない。私は正しい仕事を
遺してくれる凡ての職人たちの味方でありたい。そうであることが私の使命の一つではないか。
亡き伊勢谷よ、おれは君の作ったものを民藝館のために買っておいたことを実によかったと思うよ。ふりかかった運命などにどうかこだわってくれるな。仕事が運命を守ってくれるよ。このことは誰の身の上にだって実は同じものだ。この短い一文が心の
便りにもなるなら
嬉しい。(昭和十年十一月五日夜家に帰って記す)
私たちは、酒田に降りることを怠らなかった。河井と二人である。昭和十年十一月四日昼。
庄内には産物が多い。ここと鶴岡とで私たちは旅を結ぶことに決めた。町々を探るには人力車に限る。自動車は眺めを粗末にする。歩いては不案内で時が
費える。有難いことに今でも地方では人力車が吾々を待っていてくれる。
国は北だから晩秋の風が身にしみた。しかし空は青々と、吾々の
訪れに味方してくれた。どこの細道も知りぬいている人力である。
小路をぬって目指す町へと向った。だがある横町を過ぎた時、はたと私たちの眼に映ったものがある。車を急に止めさせて降りた。軒の低い古家で、右の片隅に貧しい飾り棚を設け、
硝子ごしに様々な
彫のある
金具が並べてある。どれも
埃でぼんやりしている。だが幸にも私たちはこれを見逃さずにすんだ。これこそは私たちが前から求めていた
船箪笥の金具をうつ
鍛冶屋ではないか。今までどうしても見つからなかったのである。越州の
三国と、佐州の
小木と、
羽州の酒田とが、船箪笥を造った三港であることは前から聞いていた。だが
遷る時が需用を消した。箪笥は少しは今風のものに置き換えられたが、金具ばかりはほとんど絶えた。それがこの酒田で見つかったのである。
もう六十に近いと思う小柄の
爺さんが、貧相な
眼鏡をかけてしょんぼりと仕事をしている。誰からか頼まれた直しものである。見ると船箪笥風の
引出である。小さなその工房は
赤錆びの金具で埋まったままで足の入れ場もない。店の左手には
上さんの
商いなのか、わずかの柿を台に広げて売っている。金具造りだけではもう暮せないと見える。店先の低い天井には様々なものがぶらさげてある。
錠、
鍵、
蝶番、
提柄、
鉤、
座金、屋号や
紋入の金具等々。どれもこれも埃だらけで何年も手に触れる者がなかったと見える。
だが私たちは、どんなに心を
躍らせたことか。二人はほったらかしてある沢山の金具の中から、夢中になっていい品々を探し求めた。こんな爺さんがこんなにも力のある見事な金具を造り出すのか。吾々は色々と問いかけたが、地の言葉は外国語よりもっとむずかしい。だが私たちは次のことを知ることが出来た。代々船箪笥や土蔵の金具を作って来たが、先年八十四歳で父親が死に今は自分が仕事を継いでいるが、もう昔のようないい仕事を求める人がいなくなったことを話した。思い設けぬ妙な客にさぞ奇異な感を抱いたことであろう。「何かもっと品物を見せてくれないか」、爺さんは余り探そうともせず、そんな物を何にするのかと不思議がるように見えた。私たちは
床の上に行儀よくしかし
錆つかせたまま並べてある道具類を踏むのを許してもらって、店の奥から見事な、一個の大作を引き出すことが出来た。(これはやがて民藝館に陳列されるであろう)。求められるままに
金子を支払った時、爺さんは事の外
悦んだように見えた。吾々も思わずこの店を知ったことをどんなに悦んだことか。帰りがけに名を尋ねたら、ゴム印で
捺した紙切れをくれた。それにはこうあった。酒田市
十王堂町弐八金具店白崎孫八。
これはおそらく船箪笥の金具を作った最後の工人ではあるまいか。しょんぼりした店の構え、もう年老いた彼の体、埃と錆とに包まれた品物、何もかももう過去に属して、行く末は長くはないと思える。誰もあの見事な
彫のふっくらした金具を
需めはしなくなった。安ものの薄手のへなへなな品でなくば売れはしない。正直な仕事はここでも貧乏を招く。だが正しい品物はいつか光る。また何かに
甦ろう。船箪笥はもう過去の品でいい。だが金具の美しさや、その手法の正しさは姿をかえて何かに
活かせる。活かさなければ
勿体ないではないか。この真理を粗末にしてはすまない。だから私たちは世に敗れた無銘の工人たちに代って、その仕事を品物で文字で語ってゆこう。人は
逝くとも世は変るとも美しさは活きる。私は老いたその職人のために、更にまた正しい工藝の名誉のために、これだけのことを記して置きたい。
爺さんよ、また
逢えたら逢いたいものだ。そうして次にはもっと技術の工程や、紋様の取り方や、仕事の性質や
草々のことに
付て聞かせてほしい。永年の経験は宝なのだ。達者でいてくれ、吾々二人とも同じようにそう望んでいる。(昭和十年十一月六日夜)
追記、右の覚書を記しておいてから三年ほどの後、再び酒田を訪うたが、老人はもうこの世の人ではなかった。おそらく老人の傑作だと思える
蔵戸の
大錠前は、今民藝館の壁に掛っている。その雄大な仕事を見るにつけ、この名も知れない作者のことを思い起すであろう。私はこの短い手記が計らずも老人への
手向けとなったことを残念に思うが、今にして考えれば書き記しておいてよかったと思う。