北九州の窯

柳宗悦




 もし日本の各地に散らばる窯を、地図に赤く印し附けたら、それは山を飾るつつじの如く日本を美しくいろどるであろう。その区域の普遍と種類の多様とにおいて比敵する国はおそらくないかもしれぬ。日本人はとりわけ焼物が好きである。かつてそうであるが今もなおそうである。かくまでに焼物を愛する心は、他の国で見ることができぬ。茶器の場合の如き、他国のものをも自らの創作にしたかの観がある。茶入も茶碗も日本にだけ歴史があるからである。
 だが日本の焼物は真に様々である。様々であるから、一様に美しくはなく、また一様な美しさではない。派手なもの、渋いもの、おごれるもの、貧しいもの、飾るもの、用いるもの、等しく焼物とはいうが美においては右と左とに別れる。見る眼により心の置場により選ぶ美の道は異なる。色鍋島いろなべしま唐津からつとは持主が違うであろう。もし二つとも有っているなら、どっちでもいいような持主であろう。
 だが質において種においてこの二つの方向をともに肩を並べて産んだのは九州の窯である。特に筑紫つくし一帯の諸窯は文禄ぶんろくえきこの方、花の如く咲き乱れた。あるいは温室にあるいは野辺にその香を競うた。その壮観はよく他窯の比べ得るところではない。(近時本山氏の事業として大宅氏の試みられし発掘、または水町、金原両氏の努力によって幾多の古窯跡が明るみに出された。採集された陶片はすでに数万に上るであろう。上御用窯から下粗陶器に至るまで、千変万化である、これによって筑紫地方の窯業史も、筆を新に染直そめなおさねばなるまい)。
 去る四月末、私は旬日をそれらの地方に過ごした。だが私の選んだ任務は、古窯の調査ではない、また発掘せられたものの吟味ではない。長い伝統を引いて今日も如何なるものが作られつつあるかを知るのが眼目であった。いわば活きつつある窯の調査である。丁度古作品がこの探求に重要である如く、新作品の調査は古器物の歴史にまた鑑賞に重要なものとなろう。だが私がとりわけ注意したのは雑器の世界である。派手な領域ではなく、質素な下使しもづかいの実用品である。
 それには二つの理由がある。その領域に一番古い歴史のつながりがあるからである。派手なもの、上手じょうてのものは、時に従って流れる姿を追うている。だが日常の用品は粗末にされたためか、かえって昔のままに残されている場合が多い。このことは第二に古作品の有つ美しさがこの領域に今も一番よく保たれていることを意味する。正しい作は貧しいものにかえって多いのである。それは意識の罪にわずらわされることが少いからである。温室の花は虫に弱い、野の花はこれに比べてはるかすこやかである。私は今も咲くその健かな花を見るために旅立ったのである。

高取


 福岡と姪浜めいのはまとの間に西新町にしじんまちがある。そこの皿山に歴史で名高い高取たかとりの窯がある。立つ煙は今もにぎやかである。やや登り坂の両側に仕事場が軒を並べている。筑紫の窯を語るものは高取を忘れない。
 だが今何を作りつつあるか、仕事には明確に二つの区別があるのである。窯にも大小あり物にも上下の差が見える。一つは広い意味での茶器であり、一つは雑器である。高取は遠州えんしゅう七窯の一つとして名が高い。その名の半以上は遠州に負うているといってもいい。もし茶器を作らなかったら、早く名を失い窯を失っていたかもしれぬ。筑紫地方にはそのような運命に沈んだものが非常に多かったと考えられる。
 だが高取は今何をなしているか。心ある者は意外に想うであろう。それが歴史的に誇る茶器において最も醜いものを作りつつあるのである。そうしてその醜いものを最も窯の誇りとしているのである。そうしてそれらのものは優雅な陶器として最も高い代償を要求しているのである。それもそのはずである。作るのに手間を要し時間を要するからである。
 だが材料の精製は、第一に土の本性を殺してしまった。そうして意匠の工策で意識の毒を盛り過ぎている。わざとらしき釉、ひねくれた姿、人々はそれを雅致がちだと思い込むほど盲目になった。これを喜んで作る者が悪いのか、買う者が悪いのか、それとも注文する者が悪いのか。遠因は実に遠州好みそのものにあるといっていいのである。古いものでもその傷跡があるが、今出来のものは輪をかけて弱々しく不自然である。それにはほとんどあの「わび」とか「さび」とか「渋み」とかの茶境はない。茶道の成りのはてはいつもここまで来る。あの萩焼はぎやきの如きも全く同じであって、茶の病でぬきさしならないのである。
 だが一度陳列棚に大事に飾られている茶器から、野天に置き放しに列べてある雑器の方へ行くと、息がつげる。大甕おおがめ、酒甕、捏鉢こねばち徳利とっくり花立はなたてつぼ、これが広っぱに山のように積んである。博多はかたあたりの町を歩いて必ず荒物屋にあるのは、皆ここから供給される。そんなものを窯元でも買手でも美しい等と認めてはいない。しかし認めないほどの品物だから、かえって延び延びした自由さが残っている。それらのものの中には真に美しい形と釉とにめぐえる。あと半世紀も経って高取をかえりみる人が出たら、そうして彼が美に明るい人であるなら、茶器を棄ててこれらの雑器をこそ取上げるであろう。なぜならそこに最も活々した高取があるからである。そこでは土も釉も形も作る折の心も皆延び延びしている。そうしてこのことこそ品物の美を保障する肝心な力である。
 高取は遠州で名を得ているが、しかし不思議にもそのために生命を失っている。窯は雑器では名を得ていない、しかしいつかそれがために名を得るであろう。何も高取ばかりではない、窯が趣味で指導される時、病が入りこむのである。これに比べそれが実用の品で立つ時、病から免れるのである。私はそのまがいもない命数を高取で読むことができる。もともと初めの茶人たちは実用の品からのみ茶器を選んでいるではないか。趣味で作られるものほど、無趣味なものはないのである。考えていい公案である。

有田の焼物


 有田を訪う者はあの泉山いずみやまを忘れまい、日本の津々浦々に「伊万里いまり」の名で通る焼物の大部分は、原料をそこに仰いでいる。試験所の松林氏に案内されて、石素地いしきじの泉であるその山に入った。忘れ難い印象である。三百年の間人は続いて山を逐次ちくじに掘下げていった。あそこの穴は李参平りさんぺいの掘った個所と指さされて見ればそれはすでに高いがけの上に掛る。四囲にこけむして草が繁る。この巨大な窯場の濫觴らんしょうかと思えば感慨無量である。そそり立つ白壁に身を囲まれてたたずめば、人間の試みが何をなしたかの物語りが心に迫る、一つの不思議でなくて何であろうか、ここから運び出された白い石に人間の運命や美の歴史がこめられているのである。そうしてなおも人間はその石と結び合おうとしているのである。それが如何に取扱われ、何に造られ、どんな姿を示しているか、町にずれば店頭の品がすべての光景を私たちに語ってくれる。
 広い意味で伊万里といえば、上は柿右衛門色鍋島かきえもんいろなべしまたぐいから下は「くらわんか」や猪口ちょくに至るまでも包含させる。古作品である場合それらのものはとりどりに美しさがある。もとより皆有田でのみ出来たのではない。その近在一帯に白素地しろきじを焼いた窯が幾つも散在した。有田の名で通らずに伊万里と呼ばれたのは、伊万里の港から一切が運び出されたからである。今も有田の町を歩めば店という店が磁器で埋まっている。昔ながらに仕事は盛んである。瀬戸と並んでまさに日本の二大窯業地である。どの店も不景気で悩んでいるとはいうが、ともかく、窯の大きさその数、働く人々、作らるる品、流布される地域、それを想うと厖大な仕かけである。そうして山の緑も店の飾りも町の様子もまた仕事場も、瀬戸よりははるかに明るく綺麗である。
 だが私は無数の焼物に取り囲まれて何を捜しあてたか、何を求め得たか。私は告白するが何ものをも持ち帰ることができなかったのである。私に気がなかったのか、そうではない。私は今できの磁器でいいものを一番求めていたのである。何か拾い上げようと努力さえしたのである。もし日々使えるものがあったらとこちらから進んで捜したのである。だが各地で出来る「陶器」にはあれほど多くいいものがあるのに「磁器」に至って何ものもないとは如何なるわけか。皮肉にも有田で私が悦んで求めたものは、有田の作ではない土焼の土瓶であった。それも立派な構えをした飾り窓の中においてではない、哀れな荒物屋の一番高い棚の一隅から取り下ろしたのである。
 職人が悪いのか、決してそうではない。彼らの腕は驚くべきものだといっていい。轆轤ろくろにしろ、削りにしろ、絵附えつけにしろ、ダミにしろ、その伎倆ぎりょう技術は見る者を「不思議」の世界に導くであろう。彼らの腕は昔の如く素晴らしいのである。手工がどれほどの技術をもち得るかをここで学ぶことすらできる。それなら材料に罪があるのか、決してそうではない。昔の名器も今のそれもきわだった差違はない。同じ泉山の材料を仰いでいるのである、ある意味では更によいといってもいい。材料を昔よりも自由に大じかけに掘りあてているからである。
 だがどうして今の磁器にいいものがないのか。あの柿右衛門の歴史は古く伊万里の名は高く、香蘭社こうらんしゃの努力もすでに長い。それなのになぜ私を満足させるものがないか。
 ただ一つ昔に比敵するものの存在をここに忘れてはならないかもしれぬ。それは今泉氏の色鍋島である。長い伝統が今も続き、現代を去ってひたすらに昔を守る。形も模様も色彩も決められた道をはずさない。それは古作品をすら越えるといわれる。近時古い色鍋島が国宝の位置を得たが、もしそれを摸造せしめるなら、寸分たがわぬほどの名器をきっと造り上げるであろう。それは専門家にもしばしば見わけがつかないのである。
 だが色鍋島そのものに対する不満を語らずとも、その仕事のぬぐい難い欠点は、単なる繰返しに過ぎないということである。それも摸写というにとどまろう。私たちの驚嘆は今でも昔のままの品が出来るということに集まる。だがその価値はすでに獲得されたのであって、今獲得したのではない。有田を訪うものは今何をしつつあるかを知りたいのである。そうして今出来のものに価値ある作を捜したいのである。
 有田は今何をしているか、どんな作り方をしているか、昔に負けないいいものが出来ているか。どんな新しい生命を打ち開いているか、如何いかに昔からのつながりを活かしているか。だがこれらのことを問う時、有田の今の仕事に見るものはもうない。まして昔をしのぐほどのものはない。否、有田のみではないおそらくこれは磁器をつくるすべての窯の共有の欠点である。なぜ作物に堕落が来たか、私はそれを解剖せねばならない。
 波佐見はさみの中尾山から「くらわんか」や五郎八ごろはち茶碗の破片が沢山出る。古くそこで石焼きの雑器を大量に作ったのである。長与ながよ近在の窯跡から例の染附そめつけ猪口ちょくの断片が沢山出る。その他木原とか黒牟田くろむたとか点々として石焼の雑器が各地から発掘される、当時は一番安ものに過ぎないが、今から見ると日本の染附として最も延び延びした自由なものである。絵がうまく、ダミが自在で削りがまた活々している。形も素晴らしく、模様の変化もまた極まりがない。素地も決して純白ではなく、ほんのりと色づいている。雑器であったためこれらのものは長く棄てられてきたが、近時その美的価値がやかましくいわれ、蒐集しゅうしゅうする者が甚だふえた。誠に技巧から見れば幼穉ようちなものといえよう。手数からすれば、今の有田のものの足許にも及ぶまい。だが不思議である。これらの雑器には一物いちもつがあるのである。美になくてならない一物を含んでいるのである。そうしてその自然さや自由さや単純さは、美になくてならないその一物を育てるのに、いい道条みちすじとなっているのである。
 かつて河井(寛次郎)が「日本の磁器は、くらわんかまでだ」といったことがある。その意味は、それらの雑器以外のまた以上の磁器には堕落が来やすく、弱みがあるというのである。私は彼の直覚に全々まるまる賛成する。今の有田がなぜ活々したものを産めないか。止るべき道を越え、進むべき道を踏みはずしてしまったからといえないだろうか。私はどこがその欠点なのかをなおも尋ねよう。
 私は有田の職人たちが優秀な技術の持主であることを書いた。だがその能力が何に使われているかを考える。それはえきなきことに浪費されているといえないだろうか。仕事を見ると一つでも多く筆を加え、一つでも多く色を添え、少しでも多く手間をかけたものが入念の作として尊ばれるのである。だが錯雑なものが、美を保ち難いのは通則ではないか。この誤った考え方が手法の浪費を伴い、作を痛め弱くしてしまったのである。美はかほどまでな丹念さを何も必要としない。それらの入念さは、美にとってなくてはならぬ一物ではないからである。
 絵附を見るとうたたその感が深い。一本の線も引きちがえることを恐れ、一つのダミも線からはみ出すことを怖れる。仕事は甚しく臆病おくびょうである。人はこれを丁寧という辞に置きかえる。しかしかかる丁寧さが美を保障すると思ったら間違いである。あの支那のみんの染附を想い浮べる。十枚の皿があるならそれは一々違っているではないか。一つの線一つのダミはその時々に自由である。どう線を変えようが、どうダミを打とうが皆美しくなっているのである。有田のそれは規則の如くいじけている。得たものは丹念であろうが、失うのは「生命」である。
 だがもう一つの弱点は焼き附けられた絵画そのものにひそむ。磁器は主として染附と結び合う、それ故描かれる絵が重要な役目をつとめる。だが絵画と結ばるるが故にここに困難が加り危険が伴う。なぜならいい絵を描くことは、それ自体がむずかしいからである。出来たものを見るとまずい絵を、驚くべきうまい技術で焼き附けてあるというに過ぎない。そうしてすべての図案家は愚かにも絵画と図案とが如何にちがうかをまるで知らないのである。見ればその過半は単なる写真的な絵に過ぎなく、模様化がほとんどないのである。絵がなまで、煮つまった所がない。あの模様になくてならない単純化がほとんどないのである。それはまだ写実的絵画であって工藝的な模様の域に達していない。絵附は有田の特色でありながら、これによって今は死んでいる。
 磁器の素地きじに伴う種々煩瑣はんさな工程、これを土素地つちきじに比べるなら如何に大きな差違であろう。おそらく病根は素地を余りにも精製するそのことから発する。あの簡単な「くらわんか」や猪口類の雑器においては、遥に総ての工程が単純である。このことが磁器でありながら磁器に伴う多くの危険から免れた原因ではないか。そこでは素地も形も絵附も自然である。遥かに自由で延び延びしている。
 だが不思議である。素地をめ、強いて純白をねらい、形をむずかしくし、絵附を丹念にし、一切を錯雑にして作り上げる。暇でもあるのか、かくして時間と精力とを浪費する。そうして醜いものを強いて作る。矛盾でなくして何であろうか。今の有田には見るべきものがほとんどない。そうして栄誉ある古作品の前には恥かしいもののみである。一列一帯に同じようなまずいものを同じようにうまく作る。皆がゆきづまっているのである。だが想えば想うほど、今歩みつつある道は狭い。それだけに転向すべき新世界が無限にあるのである。材料も技術もすでに整っている。あとは正しい方向のみである。(六、五、三〇)





底本:「柳宗悦 民藝紀行」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
   2012(平成24)年6月15日第9刷発行
底本の親本:「柳宗悦全集著作篇第十二卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年1月5日初版発行
初出:前文「西武毎日新聞 佐賀版、長崎版」
   1931(昭和6)年7月17日
   高取「西武毎日新聞 佐賀版、長崎版」
   1931(昭和6)年7月18日
   有田の焼物「西武毎日新聞 佐賀版、長崎版」
   1931(昭和6)年7月24、25日、8月1日
※初出時の表題は「北九州の窯を見る」です。
入力:門田裕志
校正:木下聡
2019年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード