とにかくえらい力だね。仮りにこんな家にわれわれに住めといわれても、とても住めないね。これを住みこなすのは大変な力だ。生活の中にこれだけの夢を現わすことはたいしたものだ。
(特にそのうちの数枚を指して)これなぞはことに面白いね。これは制限されたスペースの中に所定の字数を
隅の
(黄牛角製煙草筒をとり上げ)この筒だけなら見所がある。西洋ではこれで出来たコップがあるが、光線が
なかなか味の好いものだ。これは始めてのものだ。如何にも建築を建物らしくするやり方だなあ。(士林渡口の
どうにかして一本手に入れたいものだが。さっきの道端の子供のもってたのを譲ってもらえばよかったね。こんな品物が絶えるのは惜しい。
いい建物だ。これを
信仰がまだ生きている。繁昌しているという点だけなら成田の不動さんなどはあるが、日本中でもこんなに信仰と生活がなまなましく結びついているのはないね。
台湾の在来の陶器には何といってもまだ骨が残っている。漢代以来の力というものがまだ失われていない点は驚くべきものです。日本などでは少数の地方窯以外は、ほとんど全部弱々しいものを作っている。これは日本の恥です。ところが台湾や南支の在来の陶器は、世界のどこに出してもひけをとらない実に立派なものがある。そういうものを日常使っていた民族に向って、今の内地製品のようなものは恥しくて到底提供されるものではない。貴方のおっしゃるように、彼らには水さえ漏らなければというような、そんな気構えで仕事を始められるのは大変な間違いでしょう。成程彼らはいいものと悪いものの区別がわからないかも知れない。美しさを見出すのはどうしても日本人です。だからその日本人が美しいものを提供して、彼らの美意識をひき上げなければならない。日本人にはそれだけの責任がある。それにはまず相手のもっている立派なものを認めてそれを尊重することです。
林本源の邸宅も面白かったが、ここはまた格別だ。人の棲んでいる家は生きている。
これは今まで台湾でたべた菓子の中では一等だ。味が本ものだ。
面白い街だね。台湾で始めて街らしい街を見た。日本にはこういうのはちょっとないね。佐渡の宿根木港がちょっとこの気分がある。暮しぶりがにじみ出ている街とでもいおうか。
とにかく大した力のものだ。力そのものだね。こんなに強いものはちょっと他にないね。こんなものを平気で使いこなすのは、暮しに幅がある証拠だ。
台湾に来て一番驚いたのは神棹だね。そのあるものは世界のどこへ出しても第一流の工藝品で通るものだ。そしてどんな貧家でも実に立派なものを持っているのは驚く。
単に往来をまっすぐするために、立派な建物をこわすなんて、そんなことをするのは実に馬鹿なんだね。もう二度と建たないものじゃないか。こんなのは道の方で
ちょっと住んで見たいね。これだけのうちなら
軒の
こりゃよかった。僕はお菓子屋をとても見たかったんだ。(公定価格の点で上製の菓子の製造停止中なることを聞いて)内地でもこんどは特別技術のあるものには公定価の例外を認めることになった。
廟に坐っている老人てものはいい顔をしているものだなあ。老人になると顔が彫刻的になる。
内地だと、これも買って帰るんだがなあ。(大きさの点で運搬に困るという意)
どうも孔子様みたいな
実に面白い竹だ。遠くからさきのひろがっている様子を見るとまるで絵のような感じだ。バーナード・リーチが見たらすぐ絵にするな。近づいて密生する根元を見るとその力には驚くね。
この村はいいなあ。村全体がいいじゃないか。白壁の家並が実に美しい。
なかなか風情のあるものだな、相思樹ってものは。大きくなるといいものだな。台湾に来ると樹の美しさが目立つ。
なかなか上品なものだ。今どれだけこれを弾く人が残っているかしら。
しかしあの籃蒸の仕事というものは大したものだな。構造といい形といい大した力だ。伝統というものは実に驚くべき仕事をするものだなあ。
とにかくあれだけの生活様式を創造しているところは偉い。台湾人の家庭では始めて見る暮しぶりだ。
家具では何といっても
日本でも姫路の天守閣などは偉いものだね。あれが生きた生活にとりまかれていた時代というものは素晴らしかったに違いない。
器物でもこの生きて使用されている場合にぶつかるまでは本当のことは判らないものだ。朝鮮のものなども、度々朝鮮へいってその場合を見たので、始めてよく判った例が多い。
うまいものだね。昨夜の(斗六梅里氏の)より好いかも知れないよ。技術も形も素晴らしい。あの角のぐりぐりしたところは実に味があるね。
こんな木は始めてだ。これはもっとどうにかすれば非常に面白いものになるがなあ。
こんなものでも実に面白いところがあるなあ。こういうものまで美しく作ってしまうということは、驚くべきことだよ。
もっと先きのところを
これなぞはいや味がなくていいね。
これはしっかりしたものだ。こういうものを作ればいいんだ。いくらでも出来るんだがなあ。
技術的には進んでいるな。技術は大したもんだ。
勿論こういうものは
こりゃ好い染めだ。うまい色だね。この色さえあれば随分色々なものを染められる。
こんなものも実に面白いなあ。形の力だなあ。
こりゃ好いね、なかなか。この
こりゃ好い厨子だ。こんなのはなかなかないんだね。
こりゃ鹿港に負けない所があるね。いかにも暮しがあるな。
実に街らしい街だ。坂などあって旧態が遺っているからね。
これは何処から来たものかね。ちょっといいね。
なにしろ昔はこういうものばかりで大変だな。悪いものの出来ない時代なんだからね。
しっかりした強い味だ。これは本格な食べ物だ。こんなものを貧乏人まで食べているんだ。
ここのは皆いい。これまで見たうちで一番の彫刻だ。やはりちょっと時代が古いとものがよくなるな。これなど保護建造物に指定すべきではないかな。
これが今まで見た城門のうちでは一番だね、台北、新竹、台中などをこめて。
これも当然保護建造物にすべきだな。孔子廟ではこれがやはり一番だね。
いいところだ。じっと坐りに来たいな。半日ほどこうして屋根や雲や人を眺めているといい気もちだろうな。
この塀の、門のところでちょっとあがっているところなど、何でもないけれどいいものだなあ。
格子も皆それぞれ面白い。
ああいう生活も面白いものだな。とにかく楽んでやっているから好い。楽んでいる人を見るのはいい気もちだな。
不思議なものだな。こりゃ始めてだ。やはり阿蘭あたりから来たものが
これは面白いところだね。やっぱり仕事をしているところは面白いものだね。なにか生き生きした感じがあるね。
こりゃうまいものだ。内地にはちょっとないあまさだね。
こりゃ上等の
この構造には感心したね。竹の仕事をするにはもって来いの構造だ。実に面白い。河井(寛次郎)などに見せたら一ぺんに喜んでしまうね。
えらいよ。でたらめじゃないからね。子々孫々までの計画を永く考えて実行しているんだからね。
これも
珍らしいものだ。どこに売っているかしら。
浜田(庄司)も竹屋根をやっているんだけど、これには負けるな。
幸福なる重さだよ。
こりゃまるで茶室だね。浜田や河井が見たら騒ぎだね。
こういう村ってものは実にすばらしいものだな。暮しの中に仕事があり、仕事の中に暮しがある。
こりゃ感心した。町などの仕事とは違うからな。まして近頃の工場などとは大変な相違だ。
こういうところでせめて半年ほど仕事をしたいな。
これでは悪いものは出来ないや。内地人の手さえはいらなきゃ間違いないんだ。
こりゃ際限なく見所のある村だな。今まで見た中では台湾第一の村だね、仕事場としては。町なんかで作っているものとはまるで違う。
河井の(指導による京都の作品)はきれいだけど、しかしあの美は洗練された都会の美だ。こっちはもっと骨があるな。全く長枝竹という材料の美だなあ。
ああ面白かった。こりゃこの村一つ見るだけで台湾にわざわざ来た値打があった。
大家族制度を組織として実にうまく生かしているな。工藝村としては理想に近いものだ。われわれが考えてもああうまくはゆかないな。
十か十一くらいの子供があんなにうまく作るんだからな。
組合が出来ているのはいいな。あれはいいことだ。組合が正当な働きさえすれば仕事はいつまでも乱れないのだ。
村の人も皆いい人じゃないか。裕福だからかも知れないが、あれじゃ裕福にもなるよ。
この村は大いに研究する価値がある。工藝問題の本質に触れているなあ。村岡(景夫)君見たいな人と、それに河井でも芹沢(介)でもいい、誰かデザイナーを連れてきて一緒に仕事したいな。河井なぞ夢中になっちまうだろう。こりゃ河井に今夜手紙を書いてやろう。
うまいものだ。これは驚くべきものだね。しっかりしているな。実に強い力だ。完全で直しようがない。
竹は性格がはっきりしているから、用いる場合は一部屋竹だけのセットにすべきだ。木とはなかなか合わない。
竹のセットは東京だったら大たい夏の感じだね。涼しさを贈ってくれる。
こういう仕事ってものは伝統的にやり方がきまっていて、慣れたうまいものを作るものだな。
性格があるね。まるで木のような感じだね。内地では見られない竹の美しさだ。
いい建物だ。生徒は幸福だ。
石(
この井戸の形もなかなか面白いものだ。
建物ってものは責任があるよ。自分が建ててもその外観ってものは公共のものだからね。大いに考えてやってもらわないと困る。
船の中で、まず竜山寺をごらんなさい、台湾一です、という話を聴いた。ところが実際を見るとあんなひどいのはないね。まずあのゆき方の極致だね。
いったい本島人のものや高砂族のものだというと、軽蔑している場合が多いと思うが、立派なものだ、自信をもって使っていいのだということを知らせる必要があるね。例えばこれなんぞは日常の雑器なのだが、これほどの赤絵なんて、今の世界にはどこへいったって出来ないんだからね。
高砂族のうちにだって尊敬すべきものが数々あることを知らなければいけない。われわれに出来ない立派な技術をもっているってことを、素直に認めなければ。
台湾の焼物は、こんど始めて判ったが、こんなに盛んだとは思わなかった。何しろこれだけの地盤があるんだからね。
とにかく内地の模倣をしないってことを一つのモットーにするんだね。内地のものを負かすのはわけはないよ。
工藝品は形があるからね。形のあるものは正直だから勝負は早い。これほど勝負のはっきりするものはないんだ。いいものを作れば、どうしたって頭をさげさせることが出来るんだからね。
彼らは知らず
いったい日本人は美しい物だというと大騒ぎをする。大騒ぎをして鑑賞するのはまだ本物じゃないんだ。平気で美しい物を使いこなす、そこまで行かなくちゃ。美しいものしか生れない時代にはそういう生活が普通だったのだ。
竹細工は是非生かすといいな。材料だってあるし、内地にはない技術なんだからね。あんな技術ってものは世界中どこへいったってありゃしないよ。
竹の柱ってものは実に
在来の形があるでしょう、前の方が開いた。実際からいってはきよくもあるし、形から見てもその方が力があるんだ。
いい形の
こういうディテールは非常に面白のがあるね。こういうのを
(漂白しない林投繊維で出来た帽子を見て)こりゃこの方がいいや。強い。漂白した方はどうしても感じが弱いね。こりゃどうにかすれば大した帽子が出来るぜ。是非この方が好いってことにしなければ。いつまでもあんな馬鹿な手間(神戸まで漂白に出す)をかけることになる。
こういう建物としてはゆく所までいったものだね。しかしこれも一種の力だね。力の持続が大変だ。われわれなら馬鹿々々しくなってやめてしまうよ。やっぱり大きい民族意志に支えられているものだね。この力をもっと有効な方に向けさせれば大したものが出来るはずだ。日本人にはない、えらい力だよ。
(
(平煉瓦の化粧張りの壁)この組み方は実に面白いものだ。
これは面白いものだ。すぐ利用出来るじゃないか。
(台湾の一等品は内地の三等品だという話について)しかし、そりゃおそらくこっちの方がいいんじゃないかな。内地のリファインメント必ずしもよくないものだ。あれは使用者には無関係の現象だよ。中間の商人の都合から起ったものだ。帽子などにしてもそうだね。
一たい台湾を知るのは台湾だけを見ていてはなかなか判りにくい。内地、朝鮮、支那、あるいは広く世界を通じて比較しての台湾の位置というものを知らないと、ほんとのことは判るものではないと思う。私は台湾の見聞は非常に経験が浅いが、工藝問題については、今いった比較上の台湾の位置ということについて、多少は物をいい得る資格があると思っている。
その目で台湾を見まして、本島のものに非常に尊敬すべきものが多いということが判って大変愉快に思っている。まず高砂族では織物が圧倒的に
高砂族を原始民族として、低いものに見るのは一面当然でもあろうが、われわれの方が頭を下げて教えを乞わなければならない点があるということは、これまた当然認めなければならない。現代日本の第一流の染織家の何人がこれほどのものを作り得るだろうか。断じて何人も作り得ないことを私は確言することが出来る。
これと同様のことはまた本島漢人の作品にも感ぜられるのであって、たとえば焼物を例にとりますと、実は台湾には焼物は何もないと聞かされ、そうであろうかと想像して来たのですが、来て見てその盛んなことに驚いた。その製品は普通台所用のいわゆる粗陶器でありまして、一般には非常に安物でつまらぬものと考えられているものです。しかし、この普通品の粗陶器の中に漢代以来の骨と力とが伝えられている。東洋の「形」の正しい格が保たれているのでありまして、これと同様の力は朝鮮にはまだ幾分ありますが、日本内地では一、二の
陶器は時局の進展と共にますます島内で自給すべき必要が濃くなって来ることと思いますが、内地のものを取り入れようという考えは間違いである。とても内地のかなわない面がある。折角内地にもない東洋の力を保存しているものを、今の弱々しい内地品で弱めるということは、実に馬鹿な話です。こちらの形、こちらの手法を生かして、こちら独特の方法で将来進んでゆかれることを希望します。これが将来の日本工藝の力を強める一つの原動力ともならなければならないと考えるのであります。
次に現在の台湾で一番欠けているものは一つは染織工藝であろうと思います。しかし先日来見ました所では台湾には繊維の種類が非常に多い。この点ではむしろ恵まれている土地ではないかと思う。広義の麻の系統、ことに
また
茶系統の色彩は台湾のように植物の多いところではこれまた容易だと思う。薯榔の如きものを使えばいいのでありますし、黄色にはフクギ、クチナシ、キハダのようなものが必ずありましょう。また藍と黄色があれば緑は自由に出来ます。蘇木があれば赤が出来、これと藍とで紫も出来る。染めの伝統は台湾では少いようでありますが、これらの自然染料を研究利用することによって、台湾は優に自給することが出来ると思う。
次に木具に移りますが、私が台湾で一番驚いたのはどの家庭にもある正庁の神棹であります。もっとも中には末梢的ないやな装飾のついたのもあるが、これは主として金持ちの家庭であって、中流以下の家庭のものは概して非常に立派である。あれだけのものを使っている家庭というものは、内地には滅多とあるものではありません。それを台湾ではどんな貧家でも使っている。実に驚くべきものです。将来の台湾家具は、こうしたものから無数のデザインと非常な力とを汲みとることが出来るはずであります。
竹細工では殊に台南州関廟のに非常に打たれた。組織といい、仕事場といい、その仕事ぶり、その製品、そしてその販売組織、あれだけうまくいっている工藝の村というものは、おそらく世界のどこを探しても、めったにあるものではない。工藝の村としてはわれわれが頭で考えている一つの理想に近いものがこの世に実在してるような感じがして実に驚嘆しました。一時日本内地工人を
本島の竹細工は農具その他雑用品が多いから、あらいところがある。それを内地風に繊細にしようとするのですが、しかし技巧的に見ても、台湾には随分すぐれたものがある。例えば嘉義で出来る
当地の水牛角細工なども本島独特の風で発展させていただきたい。
台湾はいろいろな面において東亜各地の要素が
こちらで生活するには、こちらに住むことに喜びを感じなければいけない。僕は関廟に住いたくなったほどです。
焼物には南支製の粗陶器に実に立派なものがある。台湾の窯業家の将来手本とすべきものが充分にある。
台湾の竹椅子を見て、
支那のものはなかなか
こちらにはこれだけいろいろな木の種類があるのだから、いいモザイクが出来ますね。
竹の家は民家としては世界一だね。この味ってものは他にないものだ。刺竹の柱の
刺竹の幹を曲ったなりで柱に用いている。曲っているとか
もしこの竹の家がもっと早くから内地に知れていたら、たしかに茶室の一様式を作っていたに相違ない。
竹の家のいい写真を出したら、皆が驚くぞ。
こちらへきて、形で驚いたのは刺竹だね。根の集った力ってものは大変なものだね。
こういう立派なもの(パイワンの織物)を見ると、これを作り出す生活を尊重して生かしてやりたいという気がすぐ起る。そうしなければ済まないような気がするんだが、それがほんとなのじゃないかなあ。
立石君の民俗図絵は面白いね。あれは是非つづけて一冊にまとめてほしいものだね。
寒渓はタイヤルの特色がよく生かされている。そして村や住居が清潔で衛生的に改善されていてなかなか立派だ。この点アミ族の場合とは
宜蘭の媽祖廟の神棹はこんど見たもののうちで最もいいものの一つだ。
宜蘭の民家の門にある低い扉にはなかなかいいのがあるよ。
宜蘭は皆で一度一緒に行くといいな。
こういうものを普段平気で使いこなすその生活の幅、強さ、厚みというものは大いに尊敬しなければならない。そしてその力を摂取しなければならない。
今日の東京の生活はこれに