多々良の雑器

柳宗悦




 多々良(たたろう)のことを私が初めて耳にしたのは、昭和二十年頃、黒牟田くろむたの窯を訪ねた時、その村の円楽寺で一個の植木鉢を見たその時でした。それは張付紋はりつけもんの品で大変心を惹いたので、黒牟田のものかと尋ねましたら、多々良窯のものだという返事を受けました。そうして多々良はここから一里ほど奥にある窯だという話でした。残念にもその折はもう夕方で、多々良まで足をのばす事は出来ませんでした。
 爾来じらい多々良のことをもっと知りたく、文献等を注意しましたが、ほとんど現われてきませんでした。おそらくこの窯は、数多くある北九州の窯場のうち、今まで最も忘れられている窯場の一つだと思われます。もっとも古窯蹟のあった場所としては知られているようですが現在もなお焼き続けていることについては、誰も記してはおりません。しかしこの窯のことが私の心を異常に引くようになったのは、もう八、九年も前に村岡景夫君と長崎を旅した時、とある骨董店こっとうてんのうす暗い一隅に大甕おおがめを見出した時からです。それは極めて大きな作で、見たこともない十字形の紋様が張り付けてあって、その上からうすく流釉ながしぐすりがかけてあり、生焼なまやけでぼんやりそれが見えていました。私はこの大作を早速買入れ、遠く東京まで輸送してもらいました。そうして円楽寺で見た植木鉢と、大変似通った所があるので、必定ひつじょう多々良のものだと考えるに至りました。後にこの大甕は、結局棺だということが分ったのです。私はかつて黒牟田から佐賀に通じる街道で、名もない窯場を訪れた事がありますが、そこではこの形の大甕を棺として焼いていましたので、右の一個も棺だという事が分ってきました。
 そのうち吾々の仲間で多々良窯を訪ねる人々がえてきて、この窯の話を聞く度に多々良への興味は次第につのってきましたが、とうとう縁が結ばれず、今日までに及んだのです。しかもこの三年間は病床で暮して来ましたので、ついに待望の訪窯を果すことが出来ずにいたのです。ところが夏民藝館の田中洋子さんが九州帰省のみぎり、土地の窯々を訪ねる旅に出たので、是非多々良に立寄ってもらうことを頼むのを忘れませんでした。しかしその時までは、果してどんな品をこの窯で焼いているのか、見当もつきませんでした。ところが田中さんが旅から帰ってきて届けてくれた品々を見るや、その不思議な性格に、いたく心を打たれたのです。極めて下々の質素な品々で、「湯たんぽ」とか「あんか」とか「塩入しおいれ」とか(これを土地では塩笥しおげといっているそうです)、その他様々な雑器なのです。このほかこの窯では徳利とっくり雲助うんすけも作り、大ものでは甕類、井戸側、焼酎甕しょうちゅうがめ捏鉢こねばち等も作るそうです。もっともこんな種類の品は、何も多々良に限っているわけではありませんが、その一切が全く他にない独特の形をしているので、一見するや大いに心をかれました。それに、まるで朝鮮の雑器そのままの感じさえあるのです。
 ところでこの十一月、たまたま民藝館で恒例の新作展が開催されるに際し、田中さんの斡旋あっせんで更に色々の品が出品されました。この会は地方各種の民器を初め、吾々と縁の深い作家たちも出品する会なのです。
 ところが去年は出品された地方民藝に、見るべき品が大変少く、良い品はほとんど凡て個人作家たちのものでした。そのためある人たちからは、民藝品が少いという苦情が出たほどでした。もっとも地方工人との連絡は容易な事ではなく、その募集がいつも円滑に行かないためもあるのですが、察するに「新作展」と称するので、地方の人々には、出品しにくい点があるのかとも思われます。
 さて、去年の如く今年も地方から出品される民藝品は余り多くはありませんでしたが、その中でいたく光っているのが多々良の雑器でした。そうして個人作家の作を越えて、見直さるべき美しさが、そこに濃く現われている事を切に感じました。それでこの事について、私に気附かれることを少し書き記しておきたい心を起したのです。ちなみに多々良は佐賀県武雄市武内町多々良です。
 多々良の窯は、前述の如くおそらくその地方の人々が知っているだけで、まだどんな史家からも充分に注意され、記録されたことがないかと思われます。しかしこの事は、一面にはこの窯が外からの影響を、ほとんど受けずに静に昔のままに残っていることをも意味するのです。見るとほとんど他の土地や他の窯と交渉がないと見えるほど、品物がうぶで純粋なのです。そうしてその純度は、やがて品物に良さが保たれていることを意味するのです。それで私は何故こんな下々の雑器が美しいかを、一入ひとしお省みないわけにはゆきませんでした。そうしてここにはおそらく二つの根本的な性質がひそむのを感じるのです。
 第一は、昔ながらの伝統がよく保たれて、今もこんな仕事を守り続けている事です。その特異な形態は、決して個人の創意に依るものではないのです。おそらくそれは凡て極く平凡に、仕来しきたりのふうけ継いだものです。そうして土地の習慣や、需用に応じて、昔ながらに同じものを繰返しているに過ぎないのです。その伝統も、おそらくさかのぼってゆくと、朝鮮の窯にまで至るほど、古く遠いものだと思われます。出来たものを知らないで見ると、全く朝鮮のものかと思われるほどで、もし類似品を探すと、それが日本にはなく、かえって朝鮮に見出されるという面白い事実にさえ会えるかと思われます。
 こんな伝統の継承はいたく平凡で、考えようによっては進歩も何もなく、いわんや新しい生活に応じるものではなく、多くの方々から軽蔑さえされるかと思われます。実際作られたものを見ると、何もかも旧生活のもので、しかも土地くさい泥くさい所があって、新しい文化の風とは大変に遠いものです。ところがこんな事とは別に、品物としてとても美しいところがあって、何か一緒に暮したい心をそそるものがあるのです。そうしてこういうものと暮せたら、きっと心が静かにされるようにさえ感じるのです。
 今述べたように、伝統的だということが第一の性質ですが伝統的なものは何も多々良のものに限っているわけではないので、何か別に一理由があって、その美しさを育てているのを感じます。そうしてそれはおそらく作る人たちの暮しの質実さ素朴さに、深く由来するように思われるのです。
 さて、第二の理由としてこの暮しと仕事について述べてみたいと思います。まず窯の人たちの貧しい暮しが、かかる素朴な醇乎じゅんこたる美を生んでいる大きな基礎だということを、感ぜざるを得ないのです。この窯のものは、何も素晴らしい材料を用いているわけではなく、土色はくすんで寒いくらいです。それにこの暗さをおおう化粧土さえも用いた歴史がなく、また釉薬うわぐすりも色のえた瑞々みずみずしいものを用いたためしがなく、ただ赤土をうすくいて、これに灰をぜ、無雑作にてのひらで掛けているに過ぎないのです。それに焼き方が乱暴なのか、不注意なのかとかくなま焼けに終るものが多いのです。作り方は紐作ひもつく蹴轆轤けろくろの由ですが、こんな事情がこの焼物自体を大変貧しいものにしているのですが、更にその背後にはとても貧しくおごりのない素朴な暮しがあって、こんな貧しい姿を焼物に与えつづけているのだと思われます。
 ですから多々良の雑器の美しさは、工人たちの、または村人全体の暮しによく順応しているものなのです。この素朴さはいとも必然なもので、どうしてもそうなってくる事情のもとで、かくなっているのだと思われます。この必然さが仕事に無理を与えず、穏やかさを与えているのです。ですから貧しいのに、決して貧しさを恥じているのでもなく、さりとて貧しさをわざと標榜ひょうぼうしているのでもなく、ここにこれらの雑器の動かす事の出来ぬ強みがあるのを感じます。貧しさなどと申しますと、如何にも暗い消極的な性質だと考えられましょうが、かえって本当の富はこのうちにひそむのではないでしょうか。宗教では東西を問わず、「貧の徳」をたたえましたが、そこには当然の理がひそむのです。それを逆説的な表現ですが「貧の富」と呼んでよいでしょう。この「貧の富」が多々良窯の品にはあるのです。
 聞くところによりますと、これらの品の多くは、土地では今でも物々交換の形で、はけているのだそうです。私はまだつまびらかにはしませんが、九州は真宗しんしゅうの信心の盛んな所ですから、あるいはこの村にも、この庶民の仏教が活きていて、醇朴じゅんぼくな信仰生活が、村人の間に行われているのかとも想像されるくらいです。
 都会の人たちには色が暗かったり、用途が遠かったりして、縁が薄いものに思われるかも知れませんが、何か吾々の心にそくそくと迫ってくるものを感じさせるのは、そこに何か本当の美しさが宿っているからだと思われます。「本当の美しさ」と申しましたが、それは自然さ純粋さ健康さを持つからでありまして、かかる性質をとかく欠きがちな最近の工藝品に比べ、何か真実なものに触れる想いがするのは、果して吾々だけの感じでしょうか。
 こういう品々を見ると、今の生活に縁遠いとしても、心の問題としてはかえって、身近に取り上げるべき内容の多いのを感じますが、こういう質素な品々から教わるものは、
 第一は伝統の力に、個人の力を超えるもののある事。
 第二は暮しが作る品の性格を左右すること。
 ここで暮しというのは、結局人間の心の在り場を定める力でありまして、どんな作も心の現われになってくるので、暮しの事は凡ての作者によって、もっと深く省みらるべき事かと思われます。
 さて、多々良の焼物は、誠に古くさいといえば古くさいのですが、それがそのままで美しく感じられるのは、そこに何か新旧の別を超えた性質が潜むからだといってよいでしょう。土地の人々にとっては、もともとこんな品が新しいか古いかの疑いすらないでしょう。今も土地では需用があるので、昔ながらにただ作っているに過ぎないのです。ですから新しさがないのは当然ですが、さりとて古さへのためらいや、疑いもないので、必要な雑器として坦々たんたんと作っているのです。ところがこんな心境が、いたずらに新しさを求めてあせる作家たちの心より、もっと自由なものを与えているのだと思われます。
 私どもから見ますと、何か大いに特色のある焼物なのですが、その特異な形態にすら、ほとんど無関心で作っているのです。一々主義主張で作ったりする近代の知的な作家たちの心境とは、凡そかけ離れたものです。しかし考えますと、この新旧の差などにこだわらずに作るということが、この作に自由を与え、こんな特色あるものにさえ、特色があるという意識をすら与えずにすんでいるのです。これがまた工人たちの心に静けさや自由を与えているのだと思われます。窯の人たちは、きっとこんな一文を読んだら怪訝けげんな想いをさえ抱くでしょう。田中さんが窯を訪ねた時、「何のためにきたのか」と不思議そうな顔をしていたそうです。私どもからすると、こういう所が何か醇乎たるものが、昔のままに保たれている証拠だと思われてなりません。
 またこういう品を見ると、如何にも色が暗くて、いろどりがなく明るいものを好む近代人からは馬鹿にされましょうし、またこんな品をめる吾々も攻撃されるかと思いますが、しかしこんな静けさ質実さこそは、高い美鑑賞が落ちついてゆく境地ではないでしょうか。まして東洋人のみが親しみ得る美の境地なのかと思われます。茶心がある人(即ち奥深い美しさを求める人であったら)だったら、誰でも心を惹かれ早速用いたいねがいを起すのではないでしょうか。とても渋い美しさがあるからです。渋いなどというと、若い方々からは嫌われるかもしれませんが、しかしそれは美しさへの体験がまだ乏しい所から起る評で、それを積めばおそらくこの渋さの美は、いつか世界の人々から最も注目される新しい美理念となってくるかと思います。そこには新旧の差別を入れることの出来ないものがあるので、見ようによっては、かえって最も新しい深い美と考えられてくるでしょう。「渋さ」はいわば「永遠の今」につながるものがあるからです。
 面白いことに、今年度の新作展には作家の作で色々美しいものも出ましたが、どうしてもこの多々良の品々の方に勝ち味がありました。しかし多くの方はこんな下々げげの品を、将来の製作目標には出来ないといわれるでしょう。それに前述の如く現代の生活からは遠いものだと評されるに違いありません。かかる批評が間違っているとは思われませんが、吾々はこういう品々から、その外形は古くとも、内側から心の問題を、もっと新しく受取るべきだと思います。この事を省みますとこの古くさく思われる品々が、吾々の心にとても新鮮な問題を贈ってくれるのを感じます。それ故、古くさいどころか、真新しい、否むしろ未来にさえつながる新鮮な心の糧を豊かに含んでいる事を見出されるでしょう。
 ここに古くして古からざるもの、下々にして下々に終らぬもの、貧しくしてしかも富むものの在る事を、否むことは出来ません。要するにこういう雑器から、吾々は一番心の問題を受け取りたく、それに対しては、大した実例として吾々の前に置かれているのを強く感じます。





底本:「柳宗悦 民藝紀行」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
   2012(平成24)年6月15日第9刷発行
底本の親本:「柳宗悦全集著作篇第十二卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年1月5日初版発行
初出:「民藝 第八十四号」
   1959(昭和34)年12月発行
入力:門田裕志
校正:砂場清隆
2019年9月27日作成
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