筑紫の平野を車は東にと走る。見渡す限り金色に光る菜の花の敷物である。あの黄色を好んだ画家ホッホが見たら狂喜したであろう。不思議にも美しい自然は絵画を通して私たちの眼に入る。
田主丸や吉井を通れば、
土塀や土蔵の家々が町の古い物語りを話しかける。これも泥絵の画工たちが重々私たちに「覚えよ」といってくれた題目である。だが私の心が急ぐのは国を一つ越えた先の
日田である。平野の尽きたところに筑後川が
迸る。河は急に二つの山を引きつけて岩を砕きながら私の方に走る。しぶきをあびながら岩角に
佇んで糸を垂れる者が見える。彼は
香魚の季節のおそいのを
怨んでいるのであろう。「うるか」はこの地の呼び物である。
漸次河が
谿に沈むを思えば道が坂にさしかかったことが分る。
虹峠を
降ると県標が佇む。福岡県から大分県に入るのである。筑後が
豊後に代るのである。それよりもここで日田郷に入るといった方がいい。この道は日田あっての街道である。
隈、
豆田を合せて今、日田町という。山間には思い掛けない都である。土地の人は日田を「ヒタ」と言い慣わす。ここは水郷である。水郷であっての日田である。
幾条の流れが
何処から
来り、如何に合さり、何処へ行くのか、地図のみが知っている。
玖珠川、大山川、
三隈川、花月川、そうして筑後川、それらの凡てを一身に
繋ぐのが水郷日田である。だがここは平坦な水郷ではない。緑に深い山の影が水に近く映る。流れつく
筏はなおも谿が深いことを語る。山水の妙が自らこの
匿れた町に仕組まれている。まだ
訪う折を有たない人に私は日田行を勧める。
だが私が今日はるばるこの日田を訪うたのは水のためでもなく、また春のためでもない。誰が私の目的を察し得ようや。またどこに私と同じ目的で
此処に来た者があろう。私はその自然にその歴史に心を誘われたのではない。この郡の山間で貧しく作られる焼物に心を
惹かれて来たのである。それはどんな歴史にもまだ書いてはない。また日田のどんな産物にも挙げてはない。「日田もの」と近在の陶器屋で呼んではいるが、土地の
雑窯を意味するに過ぎない。町の人といえどもそんな粗物に意を留めたことはないのである。それに
窯は更に五、六里も奥の山間にある。馬の背で町に運ばれて売られる時も、多くは十数銭で買えるのである。高くとも円を越えるものは
稀である。それに分布区域も山に
遮られて遠くまでは届かない。焼く人といえどもむしろかかる世渡りを恥かしくさえ思っているであろう。かくして誰からも省みられず貧しい歴史をつづけている。だが日田郡はその郡のどんな技師が手本に造るどんな品よりも美しいものをこの窯から得ているのである。
四年ほど前に戻る。私はかつて
久留米の一軒の陶器屋で不思議な品々を見つけた。それはどうしても今出来のものとは思えない。それほど手法が古く形がよく色が美しい。あるものは遠く
唐宋の窯をさえ想起させた。心を惹かれながらそれらの数々の物を棚から下ろした時、凡てが同じ一つの窯で焼かれているのを知った。そうしてその窯が日田郡大鶴村に在ることを洩れ聞いたのである。それ以来その窯のことが心を離れなかった。文献を書物に探ったが、あらゆる努力は失敗であった。
自ら土地を踏むより致し方がない。日田行は私の
果さねばならない旅となった。私は時折地図に思いをはせた。だが私はその町に着くまでは、どのあたりに窯があるかをさえ
詳にすることが出来なかった。
土地の人はそこを
皿山と呼んでいる。この名は各地に窯を訪ねる人には既に親まれている呼び方である。皿を造る所、焼物の出来る場所、それを皿山と呼ぶ。朝鮮でよく
沙里というに等しい。日田の皿山は大鶴村に属し、小字は小鹿田である。不思議にもこれを「おんだ」と読む。豆田を過ぎて筑後川に沿うて下り、
夜明村から北へと折れれば大鶴村に達する。その行程は四里。そこからは車がきかない細道である。漸次
谿に沿うて北へと登る。
商いの店もない淋しい村々が続く。
柳瀬、中崎、桐尾、本入などを過ぎて小鹿田に至る。その間二里半、そこを右に折れて道の至り得たところが峠である。乙舞峠という。年老いた一本の松が旅人には
憩いの茶屋である。降りることわずかばかり、十軒ほどの家が谿間に固く寄り沿うて集まる。そこが目指す皿山である。それは人も知るあの
英彦山の近くである。彦山村には更に三里、
小石原には五里、往き来のほとんどない寒村である。
だがこの窯は北九州の古窯を知る者にとっては異常な興味をそそる。なぜならあの慶長頃から元禄にかけて
旺盛を極めた朝鮮系の焼物が、今日ほとんど煙滅し去った時、ひとりこの窯ばかりは伝統を続けて今も煙を絶やさないからである。あの
三島象嵌が略化されて、これが
白絵櫛描きの法に転じたことは誰も知るところである。だが北九州であれほど盛であったその手法を今も活き活き続けているのはこの窯ばかりであろう。
武雄町の南に弓野があるが今まさに
斃れようとしている。肥前の
黒牟田や筑前の小石原にも多少残るが、もう昔の勢いはない。筑後の
二川はなおも
指描で
甕や鉢を飾る。しかし変化は多くはなく種類もまた狭い。しかるに日田の皿山に至っては今も様々なものに櫛描や指描や
刷毛目などの手法を用いる。北九州の古陶を知ろうとする者は、活きたこの窯に来ねばならぬ。
どうしてこんな不便な山奥に窯の煙りが立ち始めたのか。村の年老いた者の話によれば、今から凡そ二百余年前に筑前朝倉郡小石原村から
来って陶法を伝えたのだという。それ故歴史は二世紀余りを過ぎる。今は八室を有つ一つの登り窯を共有で
焚き上げる。月に二度も火を入れるというからわずか十戸ほどのこの村も日々多忙である。寒い冬もなお仕事を休めない。村の者たちは男も女も皆陶工として生れ、陶工として死んでゆく。そこでは八十を越えたと思えるようなお
爺さんが、今も
轆轤で水引きをしている。窯以外に村を支える道はない。別に名はなく皿山で通るのも無理はない。
様々なものがここで出来る。白絵、
刷毛目、櫛描、指描、
流釉、
天目、柿釉、飴釉、黄釉、緑釉等々々。作る品は実用品ばかりである。
水甕、酒甕、大壺、小壺、鉢、土瓶、急須、茶碗、徳利、
花立、
湯呑、皿、
擂鉢、植木鉢、
水注等々々。その範囲はいたく広い。小さな窯場でこれほど多様なものを造る所も珍らしい。このことだけでも不思議な窯である。凡てを自給せねばならぬ山間
僻陬の地理が、このことを長く要求し、今もその習慣が続いているのであろう。土地の農夫たちは古くからの暮し方を容易に変えない。
峠を降りて村に入れば耳に聞えるのは水車の響きである。焼物の土を砕くのである。音の
間はいたく長い。大きな受箱が少しの水を待っている。急ぐ用もないのである。待ちどおしく思うのは吾々の心だけと見える。だがこの
緩かな音があってこの窯があるのである。もしせからしい機械が入って来たら、この村はたちまちつぶれるであろう。機械に職が奪われてしまうからである。狭い谿間は家のふえることをすら防いでいる。早く機械が動いたなら生産の過剰に、たちまちものがはけなくなるであろう。この村とこの窯とには、待ちどおしい水車が一番仕事を助ける。
この窯では美しい緑釉を使う。白絵の上にそれを流すと色がいよいよ
冴える。調子が静かでしかも深い。だがどんな材料を使うのか。お
爺さんたちは私に話してきかせる。それは銅のこわれた古鍋を買って来て、上に一つまみの塩を載せる。そうして火にくべる。塩が銅に焼けついて黒い粉が出来る。それを掻き集めてこまかく
擂る。出来上ったものが即ち銅の
釉薬である。窯に入れると美しい緑に生れ変る。それが昔から教わった法だという。今日の化学的な言葉でいえば、まさに炭酸銅である。だが不思議である。おくれたこんな方法が結果としては最上である。研究所から出てくるどんな銅釉より、もっと美しい色を出すからである、土は裏山から取ってくる。沢山ある赤土である。野天に二、三段の
溜を掘る。上から下に流れるにつれて
水簸はすむのである。谿間から
赤褐けた泥を取ってくる。黒い鉄釉も、柿も飴も黄もそれで万事ことが足りる。掘れば白絵の土も手許にある。釉掛けは
生のままである。決して素焼をしない。
莢も棚も使いはしない。積んでじか火にあてる。もともと安ものを作るのである。趣味などで作っているのではない。万事が粗野である。だがそれで充分である。否、それでないと充分でない。なぜならこのような事情ばかりが、凡ての自然な
雅致を保障するからである。
窯は始まって以来変らない。伝統が凡てである。同じものを同じ形を同じ釉がけを今も続けている。私は近くの村で三十年も使っているという
酒甕を見た。だが今作っているものと寸分の違いがない。ここで美しい
黒土瓶を焼くが、近頃武雄
在で発掘された元禄時代の土瓶と形も釉もさしたる違いがない。それ故現に作られる日本の土瓶のうち最も古格を保つものといっていい。この窯には時代がないのだといった方が早い。思いようによってはまさに時代遅れの窯である。それを
謗る人もあろうが不思議なことには最も進んだ科学が産むものより、ともかく美しい。これを想うと今の知識の頼りなさがしみじみと身に迫る。神学校の先生たちを、あの篤信な善男善女に比べるのと同し感じである。工学博士の建築を田舎家に比べる時とも同じである。一方には比較出来ない学問の優越さがありながら、ただ
一物に欠けているのである。美になくてならぬ肝心のその一物だけがないのである。
かかる日田の山奥の窯場に来て、私たちは時代離れに心酔してはならない。だが同時に時代遅れを笑うわけにゆかない。私たちは何が美を産むかを学びたいのである。その一物さえ
掴めれば、町に出ようと機械に
交ろうと知識をふやそうと、どんなことをしてもいいのである。進んだ時代はあと帰りをする必要はない。時代が与える境遇に処していいのである。だがもし肝心の一物が掴めていないなら、私たちは新しい文化を誇ってはいられないのである。丁度古い時代に
耽溺してはならないのと同じである。日田の皿山はまさに現代の反律である。だがそれだけに学ぶ点が極めて多い。吾々に欠けている一面を豊富に有っているからである。そうしてかかる一面には時間に左右されない力がある。
山の日は早く暮れる。わずかばかりの金を払って背負い
嚢に
天目の
土瓶やら、
飴色の「うるか」
壺やら、黄色の茶碗やら、緑釉の小壺などを入れて村と別れる。私には大事な宝物である。重くても軽い。峠にかかると五、六頭の牛が降りてくる。見ると各々細長い
筏を路の上に引きずってくる。山から垂れる水で赤土の道はすべりがいい。
後に一人ずつ人がついて路からはずれる材木を
鶴嘴で
掻き集める。それが河のように流れて降りてくる。山に筏が動くのは生れて始めてである。なぜこの窯が今も昔のように作るかがよく分る。再び峠の頂きに来る。振り返ってまた来たい心が
切りに
湧く。私は近いうちにそれを果したいと今も思っている。 昭和六年五月二十六日