北支の民藝(放送講演)

柳宗悦




「北支の民藝」というのが私に与えられた課題であります。民藝という言葉は最近広く用いらるるに至りましたが、時としては非常に誤った意味にとられていますので、最初にこの言葉の正しい意味を簡単に申述べる方が至当かと思われます。民藝というと、何か骨董品こっとうひんのことででもあるかのように思われがちであり、またしばしば趣味品という聯想を有たれるようでありますが、そういうものを指しているのでは毛頭ないのであります。元来民藝とは一般の民衆が日常用いる工藝品を指すのであります。即ち、日々の生活を助ける実用的な器物の世界をいうのであります。それゆえ生活の必需品であって、決して生活を離れた趣味品とか、骨董品とかを意味するのではないのであります。民藝品が重要な意義をもたらす所以ゆえんは、これら日常の器物に、一番民族性の直接な表現があるからであります。民藝品の貧弱な国は、やがて国そのものの文化の低いことを意味します。それに民藝品は実用品であり、いわば働き手であるため、必然に健康な性質が呼ばれてくるのであって、この健康性ということこそ、やがて民藝の大きな美的内容を形造るものであります。さて、北方支那にはどんな民藝品があるか。大体一国の民藝は二つの大きな基礎の上に立って発展するものであって、第一はその国の自然であり、第二はその民族の歴史であります。支那の民藝を解するにはまずその自然の悠大さを考えに浮べねばなりません。御承知のように支那は厖大ぼうだいなる大陸であります。仮りに、山東から足を踏み入れるとしましょう。すぐ目前にはてしもない平野が打ち続き、悠久な大黄河だいこうがの流れがその間を貫いています。奥に至れば峰また峰であって、あの万里ばんりの長城がその頂きを縫うが如くに連らなっています。人文を編み込んだこの広大な自然景は、半島の朝鮮や、島国である日本などに見るべくもない光景であります。気候は激しく暑く、また激しく寒いのであります。かかる大自然を背景として、その間に暮す生活がどんなものであるかは、十分に想像のつくところであります。強いもの、鋭いもの、大きなもの、確かなもの、そういう性質がなくば、よくこの大自然に応じてゆくことができないでありましょう。
 だからその生活の一番直接な表現である民藝品が、如何いかにその性質において朝鮮や日本のものとことなるかは当然のことであります。それはどこまでも地上に確乎かっこたる存在を占める安定な形や、幅や、重さや、強さを現わしているのであります。それに支那の文化の足跡は遼遠りょうえんであります。各時代の歴史はそれぞれの偉大な王侯や、英雄を有ち、また重く強い民衆をひかえているのであります。しゅうしんや漢や六朝りくちょう、つづいてとうそうげんみんしんの各時代は、それぞれ巨大な歴史を有って居ります。そうして各方面において文化は高度に発達したのであります。それらの各々の時代はいずれも独自の表現を有って居りました。そうして多くの知慧ちえと経験とから成る伝統が連綿として打ちつづいて居ります。支那の民藝は、一日にして出来たものではありません。また一個人の考案になるものでもありません。その背後には大きな自然と、長い長い歴史とが控えているのであります。
 特に北支は累代るいだいの大きな都の置かれた土地とて、そこに生れ育ち栄えた民藝はその種類において、特筆すべきものが非常に多いのであります。特に北京は明清両代にわたって北支の文化の中心地でありました。ただに王宮のあった政治の中心地たることを物語るのみならず、この都こそは、あらゆる手工藝品が発生し、生長しまた北支一帯の地方的産物が集中した土地でありました。現在といえども北京の魅力は衰えて居りません。町々を歩くと、ほとんどありとあらゆる工房が軒を並べて、あるいは木工具を、あるいは金工品を、あるいは織物を、あるいは革細工をと、互に技を競って居ります。
 金工品は特に真鍮器しんちゅうきを中心に見事な、様々のものを産み出して居ります。北京ペキン正陽門外の店々から私たちは容易に優れた品々を選び出すことが出来るでありましょう。また崇文門外にある家具の町を訪えば、真に堂々たる支那工藝品の展観を見ることが出来ます。紫檀したん材の家具は広く名がありますが、雑木においても見事なものを作り、形の確かさは、世界にも匹敵するものが少いでありましょう。大国でなければ産めない大きさや、重みや、強さの美が遺憾なく示されて居ります。机、卓、箪笥たんす、棚、大戸棚、腰掛など、あらゆる部門にわたって優れたものを作ります。それは壮観であって、圧倒的な力をさえ感じます。
 町々を歩くと、しばしばあの唐三彩とうさんさい彷彿ほうふつさせる緑釉りょくゆうの陶器を、山と車に積んで通るのを見かけます。これは北京近郊で作られるものでありますが、北京近在には他にもこの種の焼物を焼く窯は少くありません。しかしそれらの窯場の中で最も見事なのは、北京城外東方にある瓦窯かわらがまであって、その規模の厖大なる、真に驚くべきものがあります。窯の上に往来あり建物あり、遠くから見るとさながら城壁の如くで、壮観なるものであります。あの紫禁城しきんじょう天壇てんだんに用いられている黄色や紫や、緑のいらかを焼く仕事は、今もなお盛であって、支那という名が「陶器」を意味するのは、故なきにあらざるのを感じます。
 北京の魅力は市日いちびにも現れて、一定の日ににぎやかな市が立ちますが、なかで有名な竜福寺の市の如きは、雑器の大展観たる趣きを呈します。一と渡り日常に要る器物がさまざまな姿を見せて山と陳列されます。や、ざるや、靴や、くしや、鳥籠や、虫入れに至るまで、あらゆるものが買手を待っています。これらはほとんどすべて純粋に支那のものであって、如何にこの国の手工藝がまだ活々いきいきとしているかを知ることが出来ます。由来北京は、世界の骨董市として名が有りますが、そういう古器物のほかに、民衆が日常用いる雑器で、今なお素晴らしいものが、数々売られ、用いられているのであります。
 大体支那は大国の風があるせいか、その暮しぶりを見ると、外国の影響に染まっているところが少く、固有の風習をよく維持して居りますから、従って、用いる器物にも、濃く支那が現れているわけであります。このことは、やがて支那の民藝が依然として、強靱な民族性を有っていることを語っているのでありまして、生産も主として伝統的な手工藝の道を守っているのであります。それも地方的特色のあるものが少くありません。
 陶磁器の方でいうと、支那の二大窯業地ようぎょうちの一つたる磁州じしゅうは、北支にあって、今なお千年近き仕事を続けて居ります。この磁州が最も栄えたのは宋時代であって白い地に鉄の黒で自由に模様を描いたのを以て名があります。いわゆる「絵高麗えこうらい」と総称されるものは、実にこの磁州の風を始めとするのであります。ですが幾世紀後の今日もなお、描き続けているのであって、今日北支一帯の家庭の台所に、この磁州の焼物を見ないことはないほどであります。あまり普通であるため、土地の人々は別に注意して居りませんが、中から選び出してくるならば、実に名器と呼ばれていいものが、決して少くはありません。鉄絵の筆は今も活々として居ります。絵も何もないただの白無地のものにも、味いきくすべきものがしばしば見受けられます。田舎の各地に残る無釉むゆうの陶器や、緑釉のものや、また、この磁州の鉄絵のものなどを見ますと、漢、唐、宋の古代が、今もなお息を有っていることを知るのであります。
 北支の窯場としては、別に山東の博山があります。済南からそう遠くない処でありますが、ここでは、いまも黒釉即ち天目釉てんもくゆうで、なかなか見事なものを作ります。大体民藝は一番忠実に伝統を受け継ぐものでありますし、かつ雑器であるためか、かえって無造作に自由に作られ、昔の生気を失っていないものが多いのであります。黒釉で有名な油滴ゆてき天目と称するものがありますが、今でも形や色を実にうまく作ります。知らなかったら、きっと宋代の油滴と間違えるほどであります。この博山は、また硝子ガラス細工を以て名があり、今も仕事を続けて居ります。
 北支の工藝で、世界に名を成したのは、絨毯じゅうたんであります。特に天津てんしんと北京とは有名で、今日も仕事はさかんであります。年々海外に輸出する額は、決して少くありません。日本では室内に絨毯を用いる習慣が余りないので、優れた発達の歴史を有ちませんが、支那の家屋には甚だ必要であって、その歴史は古く、今日まで随分見事なものが作られて居ります。それが続き今も生産は盛であります。最近のものは著しく模様が悪くなり、色調も俗になったことは、甚だ遺憾なことであります。材料も手法も健全なものがあるので、模様と色彩とさえ改めれば、再び立派なものによみがえるでありましょう。
 この十数年来、北支の刺繍ししゅうやレースは、輸出品として相当の成績を見せて居りますが、しかしこれらのものは欧米人の指導のために支那固有の美がなく、これを北支の産と呼ぶことは至当ではありません。刺繍はむしろ在来のものに見るべき品多く、それに用いる「花様子」と呼ぶ型紙の如きにも、支那の特色が活々しているのを感じます。
 河北省の石家荘附近は、綿の産地であり、手織綿布に見るべきものがありますが、近時石門駐在の特務機関が、進んでこの地方の織物の発展に意を注ぎ、既に見るべき成績を挙げているのは、北支の民藝のため慶賀に堪えない次第であります。
 実際北支一帯だけでも、よく調査し得たならば、固有な民藝の種類は随分な量に上るでありましょう。現在のように何も急速に変化しつつある時期においては、それらの民藝品の保護と生長とこそは急務であると思われます。それが豊富に残存しているのを見るにつけても、三つのことが直ちにされねばならぬことを痛感致します。第一は調査であります。現在如何なる地方に如何なる品物が生産されているか、またどれだけの工人たちが働いているか、どんな伝統が残っているか、どんな材料が用いられているか、これらの調査こそは急を要すると思われます。第二にはそれらのものの蒐集しゅうしゅうであります。早く消え去って再び帰らぬものもあると思いますので、一日も早くそれらの民藝品を各地にあさり、それを集め、保存し、展観することは大きな価値ある仕事だと信じます。もし、支那に民藝館が建てられたら、世界一を以て誇るスエーデンの「北方美術館」も、遠く支那のそれには及ばぬことを見出すでありましょう。そうして第三には、それらの手工藝の保存維持とその将来への発展を志すことであります。もし新しい生活の新しい需用に応ずるものを作り得るなら、その意義は将来の文化に対し、極めて大きなものとなるでありましょう。民藝をただ過去の品に終らせてはなりません。将来正しい民藝がなおも栄えるように志さない限り、民藝の特色は消え失せてしまうでありましょう。
 今日、日本及び支那が共存共栄の実を挙げねばならない時に当って、この民藝の領域で、真に協力せねばならないことが、多いのを切実に感ずる次第であります。由来日本人は、鑑賞にたけた直観の持主であって、おそらく支那の民藝の価値を一番よく認識し得るのは、支那人よりもむしろ日本人でありましょう。これに対し支那人こそはものを作り産む力を今なお豊富に有っているのであります。それ故見る日本人と作る支那人とが協力して仕事をするならば、大きな結果が得られることは疑いのないことであります。民藝の仕事を通じ、日支の両国が力をあわせることは、決して単なる夢ではなく、また夢に終らせたくないことだと思います。ともかく民藝を栄えしめることによって、支那固有の美をますます発揮せしめることは、日本人の任務であり、友誼ゆうぎであると考えます。それに私たちがそこから教わるもの、学ばねばならぬものが多くあるのであって、その価値を認識しその発展に志すことは、やがて東洋の固有な美を、ますます生長せしめる所以ゆえんだと信ずるのであります。





底本:「柳宗悦 民藝紀行」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
   2012(平成24)年6月15日第9刷発行
底本の親本:「柳宗悦全集著作篇第十五卷」筑摩書房
   1981(昭和56)年5月5日初版発行
初出:「北支の民藝」東京放送局
   1941(昭和16)年1月25日
入力:門田裕志
校正:砂場清隆
2021年2月26日作成
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