『
和訓栞』に依れば
蓑の語源は「
身荷の義なるべし」とある。身に担うの意に
基いたのか。この外に異説の文献は見当らぬ。蓑を「簔」とも書くが正しくない。『
和漢三才図会』は一説を立て、元来は「衰」という字であったのを後人が艸を加えて「蓑」となしたのだという。「衰」は古語である。また「
正倉院文書」や『
延喜式』などを見ると、「

」という字が用いてある。草で出来た衣を意味するから適切な文字と思えるが、正しい漢字ではないようである。日本で作った俗字であろうか。
昔から「みの」は「にの」とも発音された。
出雲国飯石郡では今もこれが通音である。『天治字鑑』十二
(廿八)に「蓑 弥乃」。『万葉集』十二
(卅二)に「久方の雨のふる日を我が門に、にの笠きずて、きたる人や誰れ」とある。富山県では「みのご」という言葉を用いる。これは女用の蓑でやや小型である。
蓑とは「
雨衣」を意味すると『
倭名類聚抄』などに記してある。または「草雨衣」とか「御雨草衣」などとも昔から説いた。その作り方、材料などについては『三才図会』の述べる所が最も要を得ているから引用しよう。
「按、蓑雨衣也。用
レ茅打柔編為
レ之。漁人行人以禦
レ雨。或以
レ藁為
二密薦
一上施
レ菅作
レ之。農人為
二雨衣
一。」
同じ蓑という文字も、用いる場所であるいは「田蓑」とか「山蓑」とか呼び、あるいは用途に準じて「腰蓑」とか「馬蓑」とか名づけ、あるいは出来る地名で「加賀蓑」とか「登美蓑」とかいう。「登美」(または「等美」)はおそらく大和の
富雄村の意であろう。また「大蓑」「小蓑」などと呼ぶ。また、蓑帽子(
羽前村山)蓑毛帽子(羽前
庄内)などいって頭からかぶるものがある。羽前
置賜で「にぞ」と呼ぶ帽子があるが、これは「にの」の
転訛ではないだろうか。「にの」は「みの」の通音である。
蓑の元来の用途は前に記したように雨衣である。雨衣には昔は「油衣」があり、「
合羽」があったが、起原はもとより草で編んだ蓑の方がずっと古い。雨の時にも雪の時にも用い、また野に働く時、旅に出る時、誰も便利を感じた用具である。
上公家より
下農夫に至るまで、誰にも用いられた。
古書を
繙けば蓑に関する文献は様々あるが、中で最も古いのは『日本書紀』と思える。「
素盞嗚尊結
二束青草
一以為
二笠蓑
一」と同書一
神代巻に記してある。だから草を結んで蓑を作った歴史は甚だ古い。だが蓑は日本で生れたものか、これも
必定支那から
教った技であったと考えられる。今日台湾で使う支那系の蓑を見たが、日本のそれが由来した跡が想像出来る。支那の文献は『日本書紀』よりもっと古い。『
列子』を開くと次の文字が出てくる。「吾君方将
下被
二蓑笠
一而立
中乎

畝之中
上」。これで見れば歴史は遠い。「
蓑笠」という
対句は、丁度「梅に
鶯」の如くほとんどつきものとして日本ではしばしば歌にさえよまれたが、この言葉も既に早く支那にあったことが分る。古詩に「何
レ蓑何
レ笠」などという句もある。「何」は
荷うの意である。江為の詩に「何時洞庭上、春雨満
二蓑衣
一」とあるから、支那では「
蓑衣」なる言葉も用いた。
蓑が元来雨衣であることは今記した通りであるが、暑い地方ではこれを
日除けにも用いた。
薩摩地方の「ひみの」の如きいい例である。もとより「日蓑」の義であって、夏の日除である。
蓑は各地で用いるため、呼び方に固有なものが多い。加うるに形によって名づけるもの、材料によるもの、手法によるもの、地名によるもの、その他色々に分れる。また同じ呼び方でも地方により形を全く異にするものなどあって複雑である。
最も古くからある名称は「けら」という言葉で、今は主として東北に残る。特に津軽地方のものは名高い。「みの」と「けら」とを同じ意にとる所もあり、使い分けしている所もあるが、そもそも「けら」の語源は何なのか。今日までの唯一の手がかりは、『延喜式』六、
斎院に「螻

」、同十五、内蔵に「螻蓑」とあるのみである。蓑を着た様が、短い硬い羽を有つ
螻の姿に似た所から来たのであろう。今日残る「けら」という奇異な名称は、この遠い昔の言葉をそのまま受け
承いでいるのであろう。
手法の発達した津軽地方では、「織げら」「
伊達げら」などいう言葉を用いる。編み方の美しさを誇る名である。材料によって「まだげら」、「うりきげら」、「くごげら」、「がまげら」、「みごげら」、「わらげら」、「稲苗げら」、「うみぐさげら」、「くもげら」など色々いう。
羽後や陸中や陸前あたりでは、
背中当のことを「ねこげら」と呼んでいる。背中当はしばしば蓑と区別されない。「ねこ」は「ねこがき」(猫掻)という言葉がある如く、編むのが爪で掻く動作によるからである。蓑を作ることを「みのかき」といっている。
「けら」に
次で不思議な呼び方は「ばんどり」である。越中、越前、
飛騨地方では蓑のことを「ばんどり」とか「まんどり」などいう。「ばんどり」というのは鳥の名にもあり、また
雀を「はどり」など呼ぶ地方もあるから、「けら」が虫の形に由来する如く、「ばんどり」は鳥の形に
因るのかも知れぬが、未だ定かではない。しかし新潟県、山形県、特に庄内地方では、「ばんどり」は蓑ではなく、荷を背負う時用いる背中当である。庄内の「ばんどり」は独特の形態を有つもので、全く蓑と区別すべきであるが、蓑とある種の背中当とには、構造の極めて近いものがあるため、しばしば同じ名で呼ばれる。
次に不思議な呼び方は
上州地方の「けだい」である。これが
訛って甲州地方では「けでえ」となる。更に信州では「けって」なる言葉を生み、陸中には「けんだい」なるいい方が残る。
材料による名があることは、前述のように「けら」の場合でも分るが、蓑も「ひろれみの」とか「ごんじみの」とかいうのはその例である。「ひろれ」は蓑草で、本名は「みやまかんすげ」だというが、
越後、羽後あたりでは「ひろろ」とか「ひろら」とかいう言葉を使う。
備中地方ではこの草で編んだ蓑を「ぼうりょう」と呼んでいる。「ごんじ」は蓑によく用いる「うりき」の別名で、ある地方では「おっかわ」ともいう、青皮の意である。「まだ」に似ているが、「まだ」より
柔かい。
ついでだから蓑に
因んだ幾つかの言葉も
此処に添えておこう。前に記した如く、よく用いられるのは「
蓑笠」の言葉で、もとより蓑と笠と二つのものを示した言葉だが、いつも共に用いてつきものである。「蓑になり笠になり」などという
諺もある。表になり裏になって
庇う意味である。「蓑笠はてんで持ち」の句は必要なものは各自で
有てとの心。「蓑造る人は笠を着る」といえば互に寄り合う暮しのこと。「蓑笠を著て人の家に入らぬもの」と
訓したのは、
素盞嗚尊の故事により、物事を断られる意に用いる。この蓑笠は『万葉』の古歌にも見えることは前に引いた歌の例でも分る。
活物にこの字を
冠らせたもので誰でも思い起すのは「蓑虫」である。蓑を着た如き様からかく呼んだのはいうまでもない。この頃は利用の道も立ってその
繭が役立つが、昔はいい例にはとられておらぬ。『
枕草子』には「みのむし、いとあはれなり」と記し、『
宇津保物語』には「みのむしのやうにて、むくめき参らん」などと書いてある。次には「
蓑亀」、これは蓑の如く
苔がはえた亀の義で、
賀慶の
徴になって目出たい。続いては「蓑貝」「
蓑螺」「
蓑五位」などを挙げることが出来よう。いずれも形の
聯想からつけた名である。植物では「蓑草」の一字かと思う。『三才図会』に「香茅、俗云、太末保、又云、蓑草、云云、農家用
レ之作
二雨衣
一」と記してある。『
赤染衛門集』に「三笠山
麓の露の露けさに、かり試みし野辺のみの草」とある。
次には「蓑毛」という言葉、これには三つの意味があるという。一つは蓑の乱れたる如き様。『太平記』に「雨の降るが如くに
射ける矢、二人の者共が
鎧に、蓑毛の如くにぞ立たりける」。一つは
鷺の
頸に垂れたる蓑の如き毛のこと。『
拾玉集』に「すごきかな、
加茂の
川原の河風にみのげ乱れて
鷺立るめり」。
為家の歌に「ゐる鷺のおのが蓑毛も片よりに、岸の柳を春風ぞふく」。またの別の意味には筆の穂に用いる馬の毛を蓑毛とも呼ぶ。
またしばしば用いられたのは「
蓑代」とか「蓑代衣」とかいう言葉であって、「代」は代用の意であるから、蓑の代りをして雨を
凌ぐ雨衣のことである。『
狭衣』に「みのしろも、われ脱ぎ着せん返しつと、思ひなわびそ天の羽衣」。『後撰集』に「降る雪のみのしろ衣打着つゝ、春来にけりと驚かれぬる」。
「蓑箱」。字が示す如く蓑を入れる箱であって、大名の行列の時に、
供人が
担う横長い箱である。『
我衣』に「大名ニミノ箱アリ、
然バ陣中ハ、ミノヲ
用ト見エタリ」云々。『
本朝世事談綺』に「
合羽は中古のもの也、上古は蓑を用ゆ、軍用には
猶蓑也、今蓑箱といふあり、蓑を
納る具也」。
表具師の使う言葉にも「
蓑貼」というのがある。
襖や
屏風の裏打などに蓑の如く紙を重ねて貼るをいう。また「蓑
抑」などともいう。
「
隠蓑」なる言葉は『信綱記』にもいう如く、「鬼
之持たる宝は、かくれ蓑、かくれ笠、
打出の
小槌、延命小袋」など、ここでは重宝な宝物の意味である。『
宝物集』に「
抑人ノ身ニ何ガ第一ノ宝ニテ有ケル、――人ノ身ニハ隠蓑ト
云物コソ
能宝ニテ有ベケレ、食物ホシキト思ハヾ、心ニ任セテ取テンズ、人ノ隠テ云ハン事ヲモキヽ、又
床シカラン人ノ隠ンヲモ見テンズ、サレバ
是程ノ宝ヤハアルベキ」云々。蓑もとんでもない出世をしたものである。
だがこれらの言葉よりも大事なのは「蓑売」とか「蓑市」とかいう言葉である。今も田舎の
市日に逢えば、蓑売が何枚かの品を
列べて
鬻ぐのを見かけることがある。昔は需要が多かったからこのために市日が立って
盛であったようである。蓑市で最も有名なのは江戸の
浅草であった。『
東名物鹿子』に「
弥生の中の八日、近郷より蓑を持ち寄りて
浅草寺の門前に
商ふ。是を浅草のみのいちといふ。蓑市や
桜曇りの
染手本」。
だがこの蓑市は『
東都歳時記』などには春三月十九日、冬十二月十九日と記す。いずれも浅草
雷門前で市が立った。隔年に祭礼が行われない年は、十八日に変ったという。
ここで文献を去って事実に帰ろう。事実も現在の事情から見て、いい得ることを簡略に述べよう。まず分布のことが想い浮ぶ。しかし農家のある所、ほとんど蓑を見ない個所とてはない日本である。どの国もそれぞれに形を選び材料を選ぶ。一々を追えば形態の変化やその系統をほぼ
辿ることが出来よう。だがある国は粗末に作りある国は
念入に作る。凡てを細かく調べねば充分な研究とはならないが、
佳い作は他のものを背負う蓑ともいえる。注意の眼はそれらのものによけい注がれていい。だから私は考察の範囲を
暫く縮めよう。
集めて見ると特に北半の品々が際立って立派である。そうして北に登る毎に美しくなる傾きがある。最北の津軽は中で最も立派である。大体北方で発達するのは、雪がちな土地のこと故蓑を用いる機会が多いことと、長い雪の冬にかかる物を作る時間が与えられていることとに
因ろう。これに加えて農民の生活やその製作品に、中国に比べて古い伝統がよく残っていることに起因しよう。風土と地理と歴史との特殊な背景がこの発達を促し、今も需要があって、製作が持続されていると考えていい。
大体からいうと、栃木県、福島県、宮城県、山形県、秋田県、岩手県、青森県などで特色あるものを作るが、特に後の四県が見事なものを作る。中でも北津軽、南津軽、岩手、
鹿角、仙北、
最上、村山の諸郡は蓑の王土と呼んでいい。新潟県、富山県などにも作り方に面白いのがあるが、さまで美しくはない。琉球や台湾のような例外もあるが、概して中部以南のものは特色に乏しい。
しかしこれらの見事な蓑は北国一帯に在るとはいうが、どの村でも作るということはない。ある村で素敵に美しいものを作るが、隣りの村では全く作らないというようなことが多く、不思議な現象に出会う。だからある村は特に良い蓑の産地として名が知れてくる。このことは他の工藝品の場合でもしばしば見られることであって、これがために品物に地方的な色彩がいや増してくる。
かつまたどの地方でも勝手に好むものを作っているのではない。その村に伝わる一定の形や作り方があり、また好んで用いる材料も
定まっていて、凡てが伝統的な仕事だと知れる。式を
猥りにくずさないから、背後には遠い歴史が重なるのであろう。このことがあるため、国々や村々で特色あるものが生れる。例えば羽前で用いるものは
編襟の幅が広いが、近くの羽後ではごく狭いのを作る。
一概に蓑とはいうが、大体二様に分けて然るべきかと思う。第一は雨や雪の時に
纏う蓑であって、いわばこれが正式である。用途の上から一番幅広く出来、しばしば前に合わせる所に左右の
翼が附けてある。第二の用途はこれで雨も
凌ぐが、同時に荷物を背負う目的から出来る。それ故背中の部分が念入りに編んであったり、また丈夫な材料を
分厚く用いたりする。ある土地では第一のものを「みの」と呼び、第二のものを「けら」といい分ける。これらの中で特別に装飾的な意味を有つものがある。津軽の「けら」の如きその例で、「
伊達げら」という名さえある。村から町へ出る時の一種の晴着のようなものである。さてこれら二様の蓑は、各々の用途に準じて、
異る材料が選択される。材料には種々あるが、もとより一番多いのは
藁蓑である。藁一式で作る。上等になると「みご」を使う。丈夫を旨として凡てを
棕梠で作る場合もある。琉球の如きその一例であるが、台湾のも棕梠蓑であるから、これは南方系のものといえよう。それらのものは一体雨蓑に多く、その他水はけのいい細くかつ長い草類が用いられる。しかし荷物を背負う用途を兼ねるものは、必然材料に丈夫なものが選ばれてくる。
茅、
菅、
蒲、岩芝、くご、
葡萄、
胡桃、特に愛されるのは
科の皮。科は地方によっては「まだ」とか「まんだ」などと呼ぶ。これに類した材料に「うりき」がある。最も特殊な材料としては「すがも」と呼ぶ海藻を使う。水切れはよいが、しかしどちらかというと、化粧であって丈夫ではない。もとよりそれらのものは単独に用いられる場合もあるが、しばしば二種三種違った材料を
並せて用いる。更に編みを二重にして内側は藁を、外側は葡萄や科を用いる場合がなかなか多い。編み方は決して一様ではない。かがるのは麻糸が多い。
編みに特に念を入れるのは襟廻りの部分である。秋田県ではこれを「じなし模様」と呼んでいる。襟模様の義である。各地で材料を色々と
凝る。多くは草を色糸で編む。時には色糸だけで模様に編む。しかし材料の特別なのを用いるのは、津軽地方の「織げら」と呼ばれるもの、即ち「伊達げら」の類である。襟廻りは白の
紙縒りが主でこれに黒糸を用い、また時としては赤や緑や茶やその他色糸をこれに差してゆく。
形は土地々々で違い、また編み方こしらえ方も多様である。裏即ち内側はしばしば網状に組んである。この網状のものでは、
越中や
岩代に見事なのを見かけた。これらの形態や構造の変化を調べたら一冊の本になるであろう。
昔のものには風をふせぐために、網で上を
被うたのがある。中で加賀蓑は名があった。『我衣』に「蓑ノ上品ハ加賀ヲ第一トス、表ヘ糸ノアミヲハリ、
風吹ニ着テミノケ吹チラズ」云々とある。
さてこれら日本の蓑類を見ると、その美しさは、もとよりその形や材料や、色調などに
因ることが多いが、特に大切な要素は襟廻りの装飾的な編み方にある。この部分は何も純粋な装飾的附加物ではない。襟の所はすれやすいため、丈夫にする必要があり、それには細かく編むに
如くはない。ここで編み方が考えられ、また編み方から来る当然の模様が生れたのである。だから実用に発した装飾で、用と結ばれる美のいい実例をここで見ることが出来る。
就中「伊達げら」には編みに入念なのがあり、模様を出し色どりを加えたものに逢う。織物に近い感をさえ受ける。模様に色々の変化はあるが、一番多いのは
矢絣である。続いて石畳や、
菱紋、
稀には文字も見かける。矢模様は編み方から生れる必然な模様の一つではあるが、民俗のもつ信仰的な象徴として見る方が更に妥当かも知れぬ。というのは中央に神社や鳥居を編み出したものを時折見かけ、これには皆矢が添えてある。魔を射る矢か、勝を
象る矢か、希願の的に当る矢か、ともかくこれらの意味を有つと考えられぬことはない。次に多いのは
盃紋である。いつも中央に置く。矢絣の模様は
陸奥、陸中、羽前、羽後の蓑類によく見かける。これらの模様の系統をアイヌの仕事に関係させて考えるのが至当かどうか。遠因はあるであろうが、むしろ模様の類似よりは仕事の性質に、
互に近似したものが見出せるというまでではないだろうか。
蓑は男も女も等しく用いるが、しかし「伊達げら」の如きは男が女のために特に作るものであって、仕事も細かく色も美しく、丹念に作る。村から町へと出る晴着として、どの女も大切にする。実際これを作るには、長い幾夜かを費すのであって、材料も
吟味するから安くは出来ない。
蓑は今も重要な民具の一つである。雨の時、雪の時、外に出る者、外で働く者に、なくてはならない民具である。こんなものがもう絶えてしまった都会に住めば、何か遠い時代の遠い世界の品物のように思われはするが、しかし歴史はなおも続いている。はなれた地方に行けば、まだ
重宝な品物である。田舎家の軒に蓑が数多く掛かる風情は、今も旅の眼を喜ばせてくれる。田舎ではしばしば時間が消えるのである。昔がすぐ今に
繋がる。だから今でも昔のままに作る。織物や近くはゴムが発達して雨具に大きな変遷は来たが、農家にとって蓑は材料が手近に得られ、自家で作れるから経済的な意味からも続いてゆく。それに野良で用いれば雨に対し雪に対し便宜なものであるに違いない。丁度農家における
茅葺屋根と同じ意味あいがあろう。土地と生活とに添った品物である。
しかし、茅葺と同じように、いつかは時代の力に押されて、
漸次消え去ることであろう。それは時の法則であって致し方ないことであるが、しかし廃れるままに放置しておくのは賢明な措置ではないであろう。蓑としては衰えても仕方がないが、その手法は何かに活かして、持続させたいものである。例えば円座の如き、または小敷物の如き、または
籠類の如きにその材料と編み方とを適応したら、立派な作物が生れるであろう。
かかる仕事は方法の
如何によって充分成算があろう。私が特に農村の副業としてかかる品の発展を熱望する
所以は、これによってただに北国の貧村が
潤うのみでなく、真に地方的な産物として栄えると思えるからである。農村から生れる品は特にその地方色を尊んでいい。さもなければ価値は弱まるであろう。都会の風を追って作ったとて意味が薄い。農村は
須らく土地の材料と伝統の手法とを活かし、これを現代の生活に即した品物に置きかえることをせねばならぬ。あの見事な雪国の蓑は吾々に幾多の夢を贈るではないか。志と情とがあれば夢が
現に代ることは眼に見えているのである。