青銅の基督

――一名南蛮鋳物師の死

長與善郎





 父秀忠と祖父家康の素志を継いで、一つにはまだ徳川の天下が織田や豊臣のやうに栄枯盛衰の例に洩れず、一時的で、三代目あたりからそろ/\くづれ出すのではないかと云ふ諸侯の肝を冷やす為めに、又自分自らも内心実はその危険を少からず感じてゐた処から、さし当り切支丹きりしたんを槍玉に挙げて、凡そ残虐の限りを尽した家光が死んで家綱が四代将軍となつてゐた頃の事である。
 実際、無抵抗な切支丹は、所謂いはゆる柔剛その宜しきを得て、齢に似合はずパキ/\と英明振りを発揮して、早くも「明君」と云はれた家光が、一方「国是に合はぬ」事は何処迄も厳酷に懲罰して仮借する処がないと云ふ「恐ろしさ」を諸侯に示すには得易からざる無難な好材料であつた。「何と云つてもまだあの青二才で」とたかくゝつて見てゐるらしく思はれた諸侯達を、就職のとつぱじめから度胆を抜いてくれようと思つてゐた若将軍の切支丹に対する処置の酷烈さと、その詮索し方の凄まじい周到さとはたしかに「あはよくば又頭をもたげる時機も」と思つてゐた諸侯の心事をおびやかし、その野望を断念せしめて行くには効き目は著しかつた。奥羽きつての勢力家で、小心で、大の野心家であつた伊達だて政宗さへ、此年少気鋭な三代将軍の承職に当つて江戸に上つた際、五十人の切支丹の首が鈴ヶ森でねられるのを眼のあたり見て、その耶蘇ヤソ教に対する態度をガラリと変へた程であつた。
 かくて何でもかんでも徳川の基礎を万代に固める事が自家一代の使命であると心得てゐた家光は諸侯と直接刃を交へて圧迫するやうなまづい手段に依らずに、諸侯がとも角も同意しない訳に行かぬ理由と名義の下に、此日本の神を否定し、仏を否定し、国法を無視し、羊のやうな柔和な顔をして、其実国土侵略の目的を腹に持つてゐる狼の群を鏖殺みなごろしにする事に依つて、間接に徳川の威勢を天下に示し、同時に自分の反照を眼のあたり見る事が出来る事を此上もなく面白がり、喜んだ。何となく気味のわるかつた姻戚の伊達政宗迄が思ひがけない奥羽での切支丹迫害の報告書を奉つた時、彼は自分がもうそれ程迄におそれられてゐるのかと云ふ得意の為めに、まだどこか子供々々したおもかげのぬけきらぬ顔をあかくし、パタ/\とその書面を叩きながらそれを奥方に見せに座を蹴つて立つた程であつた。
 併し切支丹が神の道と救ひの教へを説くと称して実は日本侵略が目的であると云ふ事は只彼の構へた口実ではなかつた。実際彼はさう信じてゐたので、それは又その筈であつた。朝廷に最も勢力のあつた神道主義者と仏僧との耶蘇教に対するあらゆる反対讒訴ざんそ姑息な陰謀は秀吉時代からの古い事であつたが、まだその他に商業上の利害の反目からフランシスコ・ザ※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)リオ以来日本の貿易と布教とを一手に占めてゐた葡萄牙ポルトガル人をおとしいれようとして、元来西班牙スペインの広大な領土は宣教師ばてれんを手先に使つて侵略したものだとまことしやかに述べ立てる西班牙人があり、又家康の時には更に西班牙と葡萄牙とを商敵とする新教国の和蘭オランダ人が現はれて家康の前に世界地図をひろげ、耶蘇教国の君主すら宣教師を危険視して国外に放逐してゐる位であるなぞと云つて眼の前で十字架をへし折り、聖母の画像を踏みつけて見せた事もあつた。のみならず捕獲した葡萄牙の商船から発見したものだと称して偽造の密書――所謂「和蘭の御忠節」を勿体らしく捧呈したりしたのである。
 さなきだに切支丹には誤解される点が実に多かつた。罪を犯して悔い悲しむ者は、罪を犯さぬつもりでゐる過ちのない傲慢な者より救はれ易いと云ふ意味が罪その物を肯定する教と見做みなされた事も当然な事であつたが、又霊魂みたまの救はれる事の為めに肉体の死苦を甘んじると云ふ事がやがて死の讃美に思はれ、そしてその死に民衆を「そゝのかす」ばてれん達は又国民を亡ぼして行く者と見做された事なぞもすべて尤もな事には相違なかつた。
 つ慶長の初めには疫病が流行はやり、天変地異がつゞいた。こんな事を仏僧や神官が神仏の怒りとして持ち出さずにはおく訳はなかつた。秀吉はそれには耳をさなかつたが、切支丹の一婦人に懸想してその婦人を妾にする事が出来なかつた時、始めて本当に切支丹を憎いと思つた。彼はその女を裸にして竹槍で突き殺させた後で、今日吾々が子供の時から耳にタコが出来るほど学校で聞かされた常套語の元祖を放つた。
「外国の土に善くふからと云つてその木をすぐ日本へ持つて来て植ゑると云ふ事は間違つてゐる。日本には日本の桜がある。」
 そして自ら朝鮮を侵略して行つた此猿英雄は一度でそれがらし得るつもりで、先づ廿六人の「侵略者」を長崎の立山で磔刑はりつけにし、虐殺の先鞭をつけた。
 家康は秀吉よりも一層切支丹を最初から嫌つてゐた。徳川の運命と同じく、切支丹の運命にとつて致命的であつた関ヶ原の決戦が済み、切支丹の最も有力な擁護者であつた石田三成、小西行長、黒田孝高等が滅び失せて後は元和八年の五十五人虐殺を筆頭に露骨に切支丹迫害が始められた。かくてそれ迄は自ら洗礼をうけ、或は切支丹に厚意を持つてゐた西国の諸侯は幕府の嫌疑を怖れるが故に改宗し、切支丹の討伐にかゝつた。そして爾後切支丹の根絶やしは徳川家代々の方針となつた。
 寛永十五年正月、島原の乱が片付き、続いて南蛮鎖国令が出て後、天文十八年以来百余年の長きに亘り、二千人以上の殉教者と三万数千人の被刑者とを出して尚しふねく余炎をあげてゐた切支丹騒動なるものは一段落ついた様に見えた。
「一つ時はほんに日本全国上下を挙げてなびいた位えらい勢ひぢやつたもんぢや。信長が本能寺で討たれた頃にや三十万からの生粋きつすゐの信者がをつた相な。それが此通り消え細る迄にやお上の仕打ちも随分と思ひ切つてごいには酷ごかつたが、片つ方も、亦つこいとも執つこいもんぢやつた。がかうなつて見れや此れや此国に切支丹が容れられなかつたと云ふなあ、それが結局天主でうすの御所存ぢやつたのかも知れんてな。」
 こんな疑念がひそかに切支丹に厚意を持つ人々の念頭にもきざしかけてゐたその頃の事である。それでもなほ全国市町の要所々々には
      定
きりしたん宗門は累年御禁制たり、自然不審なるもの有之者これあらば申出づべし、御褒美として
 ばてれんの訴人   銀三百枚
 いるまんの訴人   銀二百枚
 立ちかへり者の訴人 同断
 宗門の訴人     銀百枚
同宿並にかくし置き他よりあらはるるに於ては其処の名主並に五人組まで一類共可処厳科也げんくわにしよすべきなり仍下知如件よつてげちすることくだんのごとし
奉行
したゝめたひのきの高礼がいかめしくてられてゐた頃の事である。
 長崎の古川町に萩原裕佐と云ふ南蛮鋳物師いものしがゐた。


「おい。お佐和。此間のあの『虎』をどこへやつたんだ。」
「よくもかう珍なものを集めたものだ」とつい人がをかしくなるほどすゝぼけた珍品古什こじふの類を処狭く散らかした六畳の室の中を孫四郎は易者然たる鼈甲べつかふの眼鏡をかけて積んである絵本を跨ぎ、茶盆を跨ぎして先刻から机の上、床の間、押し入れの中としきりに引つくり返して何か探してゐたが、かう荒々しく声をかけた。
「ぬしは又売つちまつたんだらうが。え? 俺にかくして。」
 孫四郎の調子にはもうやゝ、とげがあつた。その刺にさゝれて、隣りの四畳で針仕事をしてゐた細君はやぶれたふすまをあけた。
「まあ、『又』なんて誰がいつそんな事をしましたらうか。」
 やゝ上気した頬の赭味あかみのために剃つた眉のあとが殊にあをく見える細君はかう云ひ乍ら羞ぢらひげに微笑ほゝゑんだ会釈ゑしやくを客の裕佐の方へなげ、「まあ、此散らかし方! まるで屑屋さんのやうですわ。」と尻上りの調で云つて一寸突つ立つた。
「貴様、探して見い、ありやせん。」
 孫四郎は邪慳にかう云ひ捨てて敷けば却つて冷た相な板のやうに重い座蒲団をドサリとわきへ放りなげ、長煙管ながぎせる雁首がんくびで、鉄に銀の象嵌ざうがんをした朝鮮の煙草箱を引き寄せ乍らその長い膝をグツと突き出して坐つた。
「それやこんなものよりやずつと傑作ぢや。此間の縁日の虎を早速やつて見たんぢやがな。」
 彼はかう云つてひよろ長い体の居ずまひを直し、裕佐が縁近く持ち出して胡坐あぐらをかいて見てゐた一枚の絵を煙管でさした。それは山田長政が象に乗つて暹羅シヤムの国王の処に婿入をする図で、版画にする原画であつた。
「ほうら。ありましたがな、こんな処に。矢つ張り貴郎あなたが御自分でおしまひになつたんですわ。」
 細君は嬉しさの余り長い白い脛を一寸あらはして、束になつてくづれてゐる錦絵を跨ぎ、安心と怨めしさとが一緒になつて堅くなつた表情を向け乍ら一枚の絵を夫に渡した。そして「いつだつてかうなんですの。」とやゝとげ/\しく云つて、そのとげ/\しさに自ら上気した顔を更にぽつと赭らめ乍ら裕佐に笑顔を見せ、チラリと又夫を顧みて、次ぎの間へ去つた。
「あつたか。」孫四郎はうけ取り乍ら一言かう言つて、大事さうにフツと一息かけ、
「こゝへ来て御覧。こゝの方がまだ明るい。」
と云ひ乍らその絵をサラリと敷居の上へなげ、飲み残しの冷たい茶をゴクリと一息に呑むと今度は眼鏡の球を袖口でこすり乍ら下から覗き込むやうにじろり/\と裕佐の顔を視入るのだつた。
 諏訪神社の縁日に虎の見世物が出て非常な人気を博した事はついその十日程前の事であつた。孫四郎の絵ではその虎の檻が街頭に引き出されてゐる。「朝鮮大虎」「大入々々」「大人一文小児半文」と書いた札を背にしてしきりに客を呼んでゐる男が一方にゐる。かと思ふと張り子のやうな虎が檻一杯に突つ立つていかめしく睨んでゐるその檻の前には「おらんだ人」と肩書きのある紅毛碧眼の異国人が蝙蝠傘かうもりがさをさした日本の遊女と腕を組んで、悠長にそれを見物してゐる。ステッキをついて猩々しやう/″\のやうに髯を生やした馬鹿に鼻の高い「おろしや人」が虎よりは見物人の方を見乍ら長閑のどかにパイプをかしてゐる。大小をさした丁髯ちよんまげ[#「丁髯ちよんまげの」はママ]侍のわきには日本の子供と中国の子供とが遊んでゐる。――
「ふむ。――」裕佐は思はずその絵のユーモアに微笑まされた。「なるほどこれや面白い。」
「近来の傑作ぢやらうがな。へツへ」
 むしろ好んで皮肉をてらふやうなその歪んだ口許くちもとに深い皺を寄せ乍らにや/\とほこりがに裕佐の顔を見てゐた孫四郎はかう云つて高く笑ひ出した。
「傑作ですね。版にしたら又一しほ面白いでせう。」
 その笑ひ声の下品さに嫌気を感じ乍らも裕佐はかうほめざるを得なかつた。「あの虎は君が画くと面白からうと僕も思つてゐたんです。」
「へ、へ。中々見逃しやせぬよ。」
と孫四郎は又雁首に煙草をつめながら、
「往来にさらしてある見世物に『大入』はをかしいが、そこがかう云ふ愛嬌ぢやでな。」かう云つて又笑つた。たしかに齢よりは十位けて見えるがその実漸く四十になつた許りの此絵師は当時長崎きつての唯一の版画師であつた。
 実の処裕佐は口に出してほめた上に内心感服――むしろ驚いてゐたのであつた。「実際変な奴だ」と彼は思ふのだつた。人間としては猶ほ更の事、画家としての孫四郎にも彼は決して飽き足りてはゐなかつた。孫四郎は趣味のみに生き、自分は趣味のみに生きる事は出来ない。趣味のみに生き得る孫四郎の趣味はどうしても偏頗へんぱで局部的であり深みがない。自分はよし趣味によつて絵筆を執り、のみる事があるとも、その趣味はいつしか消えて見えなくなり、それに代つて全身の心が現はれ、直ちに万人の心をピタリと打つ底の生ける魂がげんとして作品を支配しきる処迄行かなくては気がすまない。
 孫四郎の画くものが現に面白い事は否定出来なかつた。唯「面白い」と云ふ丈けにすぎぬ芸術は所詮二流以上のものではあり得ないと裕佐は思つてゐた。併しその一流の境を求める自分はまだそのおもかげうかゞはれる仕事すらしてをらぬのに、孫四郎はとも角その「面白い」自家の一道を既に掴まへてゐる。「山田長政」や「虎」の絵にはその「掴んだ」と云ふ感じが顕著に出てゐる。そして彼はその狭い道の上で傍眼わきめもふらずにめき/\と進みつゝある。孫四郎の到底了解し能はぬ底の傑作にも広く共鳴を感じ得る自分は、まだその広汎な理解と燃えたぎる深い内心の欲求とを寸分も生かして居らぬのに孫四郎はとも角その卑俗な趣味の偏狭に徹底して、それを自家の製作の上に生かし、悠々自適してゐる。かくて裕佐はその先輩に飽き足らぬ乍らも一方羨ましく思ひ、その「面白さ」さへもない自己の仕事を顧みて淋しく感ぜずにはゐられなかつた。
「どうも僕は少しいろんなものに引かれすぎるのかな。」
 裕佐は思はずかう嘆息を洩らしてれ芭蕉の乱れてゐる三坪ばかりの庭の方を向いた。
「いろんなものに引かれるのは結構ぢやないか。つまりそれ丈け、おぬしは眼があるのだからな。」
 さう出られれば「勿論」と裕佐は云ひ度くなるのだつた。しかし自分のうちにはたしかに孫四郎なぞの窺ひも得ぬ何かがあると自信してはゐるもののまだその現の証拠を実現した訳ではない。実現してのあたり見た上でない以上矢張り内心不安であり、空虚である。畢竟ひつきやう誰にでもある単なる自惚うぬぼれ、架空の幻影ではないかと疑ふ。自分で疑ふ位なら人が見縊みくびる事に文句は云へない。
「とに角僕は何か一つの道に徹底したいよ。差し当り僕はどうもその事を願はずにはをられない。自分が結局どの道にも徹底出来ないたちなのでないかと云ふ気がどうもしてな。」
 裕佐は又おとなしくかう云つてかゝへた膝をゆすぶつた。
「ふむ、徹底すると云つたつて、こんな一文や二文のおもちや仕事に徹底したんぢやおぬしは満足は出来なからう。もつとえらい仕事でなけれやな。――わたしの仕事なぞは貧乏人の子供相手の乞食仕事だ。之れで随分丹精はして造る。こんな阿呆らしいやうな絵草紙一枚だつて見かけよりや骨を折つとるんだ。しかしいくら骨を折つたつて結局子供だましの夜鷹よたか仕事だ。でもこんなのらくらの遊び人の絵をとも角も一文や二文で買つてくれ手があるから不思議さな! どうで雪舟も山楽も拝む事の出来ぬ肴屋や八百屋の熊公八公がわたしの御上客だ。殿様だ。それがわしには相応しとるて。へツへツへ。奴等にや又わしのやうな乞食絵師が相当しとるんだ。だからわしのやうな者もなけれやならんのさ。雲上人相手の白拍子しらべうしばかりぢや世の中は足らん。熊公八公相手の夜鷹もなけれやな。どうだ。君も徹底して夜鷹になるか。」
 孫四郎はかう云つて煙脂やにだらけの黒い口をあいて笑つた。
 裕佐が此版画家に対して何よりも嫌に思ひ、それがために友に飢ゑてゐ乍らもさう繁々と訪ねて深くつき合ふ気にどうもなれなかつたのは実に此男の下等な偽悪趣味であつた。
 人の心持ちを何でも下等に浅薄に解釈して独り見抜いたやうな得意の薄笑ひを浮べ、人がそれに不快を感じて何かヘコマすやうな事を云ふと誰も呶鳴どなりもしないのに「まあさ、さう呶鳴らんでも」と云つて笑ふ。笑へば必ず故意の冷笑である。いかなる場合にも冷笑することが人生で最も優越な事であると思ふ事にしてゐるらしい此男は、人情として笑ふ事が必ず不可能である場合にも必ず意識してヘラ/\と笑ふ、何がそんなにをかしいのかと訊けば「何もかもをかしいのだ。自分自身も可笑しいのだ」と答へて又笑ふ。無論決して本当にをかしいのではない。只をかしがる事が好きなのである。をかしがつてゐたいのである。そして又をかしがり度いために凡て人生一般の対象物をその冷嘲の的となる下賤な階級迄引きずり降ろさずにはおかないのだから相手が不快がるのは無理はない。そして相手が苛立てば苛立つほど彼はます/\その犬儒主義を享楽する上に満足を感じて、相手が何でそんなに苛立つのか合点が行かぬやうな顔をして冷静にかまへるのみである。それが彼の「勝利」なのだ。
 併し、今彼のくだ/\しい毒舌を聞いた者は、彼の冷かな犬儒趣味が決して単なる彼の興味から出るものではない事を容易たやすく見抜き得たであらう。表面氷の如く見える彼の自己冷嘲の奥には苛立たしい刺があり、ひねくれた者の弱い火があつた。その火は彼の裏切つて蒼ざめた顔をぽつと赭くしてゐた。
「しかしとに角君は画家ですよ。僕は画家ではない。」
「夜鷹」と云ふやうな言葉をつかふ孫四郎の興味に例の厭気を催しながらもその上気した顔を見ると何となく気の毒のやうな気がして、裕佐はかう云つた。
「低いなりにもな。ハ、ハ。わしは之丈けの絵商人さ。何と云つたつて。併しおぬしなぞは生れから云つてもわしなぞとは仕事の訳がちがはなけれやならん。それにまだ若いし――あせる事はないさ。すこしも。」
 何の親切気もない調子でかう云ふと彼は長い立て膝を抱へ乍らその冷却した顔を又横に向けた。
「此間の又兵衛張りの人物画はどうした。面白く行きさうだつたが。」
「駄目だ。ふむ。」
 只「人物画」とは云はずに「又兵衛張りの」と一寸嫌がらせを附け加へずにはおかない彼の癖に、裕佐がかうぶつきら棒に応じたのを、孫四郎はなほ平然として訊いた。
「君、鋳物をやる気はないんかね。阿父おとつさんの伝法でやつて行きや、忽ち日本一だが。」
「ふむ、誰もまだあの術を知つてゐるものは他にないからな。」裕佐は孫四郎の言葉の意を自分の方から云つた。
「あれでも其道のコツを飲み込む才がありさへしたら案外面白い、いい仕事が出来るもんぢやないかとわしは思ふがなあ。」
 俺がやつたらと云ふ顔附きで孫四郎はかう云ひながらあをい頤をなでた。
「さうも思へるが、どうも僕にや……」
「物足らんか。望みが太いでな。はゝ。」
 かう云つて孫四郎は形だけの欠伸あくびをした。
ねえさん。一寸出てみなされ。又お通りですよ。」
 此時上り口の格子戸をガラリとあけて、かう娘の声が聞えた。
「あら、さう。もうそんな時刻でせうか。」
 かう云つて細君は襖を開けて現はれ「萩原さん。一寸出て御覧なさらない。おいや?」と口についた糸を指で取つて丸めながら二人の方を向いて云つた。
「何です。」裕佐がかう云ふのを「丸山連さ。」と孫四郎は「知つてゐるくせに」と云はぬ許りに押へつけるやうに云つて、「おいやな事もなからう、切支丹ぢやなし。なア。」と裕佐の顔を流し眼に見て附け加へながら立ち上つた。
「でも貴方なんぞ御覧なさらない方がいゝわね、毒ですわ。」細君はむつつりと下を向いてゐる裕佐の方にかう云つて出て行つた。
 異国に対して厳酷であると共に臆病であつた幕府は当時長崎在留の異国人の住居を出島の廓内くるわうちに禁制すると共に、一方丸山の遊女を毎夜そこにつかはし、はべらしめて、紅毛オランダ人の歓心を買ふ事につとめてゐた。
 雨の日も灯ともし頃になれば、三十人、四十人の遊女がさはればボロボロと剥げて落ち相な粉飾に綺羅きらを尽し交代に順番に応じて、奉行から差遣の同心に駆られ、曳きずられて、丸山から出島へと練つて行くのであつた。そして其の翌暁よくあさには前夜のそれとは見まがふ程の落剥はがした灰色の姿に変つて三々五々蕭条と又丸山へ戻つて行くのであつた。
「さあ、此方こなたもそろ/\お出掛けなさるか。今夜こそ一ちよあれを描いてやらんにや。」
「何を。」と裕佐は「もう此処へは決して二度と来まい」と心に呟き乍ら云つて起ち上つた。
「おらんだ屋敷さ。『紅毛人遊興の図』だ。」
 孫四郎はかういひ乍ら半紙を綴ぢた帳面を懐に入れ、矢立ての墨をあらためて、腰にさすと変に興奮した体で衣紋掛けの羽織を取つて引つかけた。
「まあ、又お出かけ。萩原さん誘惑されないやうに用心なさいよ。」
 出て来た夫の出で立ちを見ると細君は光る目で裕佐の方を見乍らかう云つた。
「へ、へ、誘惑されちやいけませんは皮肉だな。」孫四郎は延び上つて行列の方を見乍ら云つた。
「どうだ。一緒に行くか。童貞の青年。」
「いや僕は此処で失敬します、では又。」
 裕佐は細君の方に向つてかう云ふと、薄暗い人込みの中にすぐ姿をかくして了つた。


「俺は弱過ぎる。なぜかう人を求めるのか。後で必ず後悔する事が分つてゐるのに。」
 裕佐は何遍も自分にかう云つた。そして時々後ろを振り向いた。背の高い孫四郎が群衆の上に延び上つて、その蒼ざめた小さな皮肉な顔で笑ひながらどこ迄も自分の跡を見送つてゐるやうな気がしてならなかつた。彼はその視線を背中に感じてムズ/\するやうに体をふるはした。「行列を盗み見てゐるあの眼のあやしさを見ろ、わしが誘惑するもないもんだ。へ、あの猫被り奴。」こんな事を何もかも見抜いたやうな調子で細君に云つてゐる孫四郎を後ろに想像すると、彼はたまらない悪感を感じ乍らも、不思議にその予言に支配されるやうな気がしてならなかつた。
 然し大股に急ぐ彼の歩調はいつの間にかのろくなり勝ちだつた。眠むくてたまらぬ者が気がついては眼を無理に開き乍らもつい居睡りをする様なものであつた。何とも云へぬ淋しさが重い黒雲の様に上から彼の頭を抑へつけてゐた。自分を信じない者が唯孫四郎に止まるなら「あんな奴に俺の何が分つて堪るものか」と平気でゐられる。併し孫四郎の冷たい表情の裏には同じ相好さうがうの運命の顔があるやうな気がした。それを自分の莫迦ばからしい気のせゐであるといかに思ひ、その不快な幻影を払ひ退けようと頭を打ち振り乍らも脳裡にこびりついた孫四郎の顔は只孫四郎の顔とは思へず、その皮肉は只孫四郎の皮肉とは思へなかつた。此方が力なく反抗すれば向うは更に恐ろしい声で「あいつに何が出来るか、へツへ!」と反響し相に思はれた。
 彼はステッキで堅い地を叩き、咳払とも、叫びともつかぬ声をしぼり出して空を仰ぎ、そして歩いた。通りでは遊女の列にからかふ男の下等な笑ひ声や、甲高かんだかい気違ひじみた女の声が聞こえた。一種の本能で裕佐はその行列を見るのはいやだつた。それで小路に入つた。しかし何方へ向つて? 彼は自分の家の方へは行かなかつた。彦山の中腹を少し降りた処に父の建てた自分の古家。六十になる出戻りの伯母と二人で彼が住んでゐるその家には朝日はよく照るのだつた。日が照つてゐる間そこは彼にとつて真に落ちつける唯一の温い自家うちであり、「道場」であつた。彼はそこにまつつてある「伎芸天」と共に暮して少しも淋しくなく、孤独の楽しみに充実して酔つてゐる事が出来た。しかしそこは画の家である。日が向ひの稲佐嶽いなさがだけに隠れて、眼下の町々にちらほら灯りが瞬き始め、さら/\と云ふ夕の肌寒い風が障子の穴から忍び込むが否や、彼に全く新しい第二の一日と世界とが始まり、彼は落ちつきを失ふのだつた。天上に二三の星が何かを招くやうにきらめき、地上にぽつ/\と明りが光りそめる事は朝赤児が眼を明くのと同じ新鮮な感じで彼ををのゝかすのであつた。かくて夜の世界の不安と寂寥と、戦慄と魅力とが魔の如く彼を襲ひ、捕へた。魔に捕へられる事は恐るべき苦痛であり、又寒い喜びであつた。何かが抵抗すべからざる力で若い彼の心臓を湧き立たせ、真昼の端正な「伎芸天」迄が妖艶、婀娜あだな姿に変じて燃える眼で彼を内から外へいざなりたてるのであつた。
 その家に帰る事は思つた丈けでも恐ろしい苦痛な事であつた。それが苦痛でなくなる迄彼は外で、夜の世界で、疲れ切らなければならなかつた。
 彼は大波止おほはとの海岸の方へ向つて浜から来る汐臭い秋風にふるへながら歩いた。いつも其処を通る毎に癖のやうに引きずられて立寄るシナ店の前をも彼は今気がつかずに通り越してゐた。
 彼は海岸へ出た。蕭条たる十一月の浜辺には人影一つなく、黒い上げ汐の上をペラ/\と撫で来る冷風のみが灯りを点けた幾十の苫舟とまぶねを玩具のやうに飜弄してゐた。岸に沿つて彎曲してゐる防波堤の石に腰かけて杖を垂らせばその先きの一二寸は楽に海水にひたる。犇々ひし/\と上げくる秋の汐はひさしのない屋根舟を木の葉のやうに軽くあふつて往来と同じ水準にまでもたげてゐる――彼はそこに腰をかけた。
 海に突き出して一つの城廓のやうにやかた右手めてに見える。点々たる星の空の下にクツキリと四角に浮き出すその家の広間の中は、煌々くわう/\としてどの位明るいのかと想はれる。たしかに白昼よりも明るいにちがひない。しかも何と云ふ物々しい、無気味な明るさであらう。そこには人の家らしい落ちつきや、幸福は微塵もない。島を囲む黒いさゞなみがぴたぴたとそのいしずゑを洗ふ如くに、夜よりもくらい無数の房々がその明るい大広間を取り巻いてゐる。そこからは落寞たる歓楽の絃歌が聞こえ、干乾ひからびた寂しい笑ひ声が賑やかに洩れて来る。――それは普通和蘭屋敷オランダやしきと呼ばれてゐる「出島の蘭館」である。
 裕佐はその異様な家の方に向つて歩き出した。そして歩き乍ら彼はキヨロ/\と四辺あたりを物色した。孫四郎を彼は探してゐたのである。出島へ渡る為めにははしけに乗らなければならない。艀の渡し守は奉行から遣はされてゐる侍である。異国人と、遊女と、仏僧の外そこへ行く事の許されぬ禁錮の島へ孫四郎の行く訳はない。「どうせ嘘にきまつてゐる。あの道楽者が今更らしくこんな処へ絵なぞ描きに来るものか。」と彼は思つた。しかしさう思つて振り返つた瞬間、彼は大きな、白い、首の長い一つの顔を見たやうな気がしてギヨツとした。彼は身顫ひし、そして怖い物見たさのやうにもう一度それを見た。それは番小屋の後ろから高く首のやうに突き出た新しい白木の高札であつた。
 ばてれんの訴人   銀三百枚
 いるまんの訴人   銀二百枚
 立ちかへり者の訴人 同断
同宿並にかくし置き他よりあらはるるに於ては――云々
の文句が威脅するやうに墨黒々とそれに書かれてゐる。それは人間の書いた字ではなく、鬼の書いた字のやうに思はれた。「ばてれん」とは教父、宣教師の事であり、「いるまん」とは法の兄弟即ち準宜教師の事であり、「立ちかへり者」とは一旦宗門を転んで再び切支丹に帰つた者のことである。
「誰だ。」歩いてゐた侍は寒むさうに腕をこすり乍ら訊いた。
 裕佐は返事をしなかつた。
「何者だ。」
「鋳物師だ。」
「鋳物師とは何だ。」
「銅を鋳る工匠だ。」
「銅を鋳る。そして何をつくる。」
「何でも、富士山でも、君の首でもつくる。」裕佐は一寸からかひ度い気持ちになつた。
「貴様よく来るな。島へ行き度いのか。」
「或る女を見度いんだ。だけど行つちや上げないよ。」
 そして彼が去らうとした時、眼の前にあつて手に取るやうにみだらな高声の聞こえて来る和蘭屋敷の二階に女の叫び声が聞こえて、けたゝましい跫音あしおとと同時に大きな菊の鉢が窓から落ちた。そして石に砕ける音がした。一時しんとした後、猫を抱いた日本の女の小さい顔と、その上にのしかゝつた恐ろしくおほきな毛むくぢやらの男の顔とが現はれ、そして彼等は何かいがみ合ひ乍ら笑つて、赤いカーテンをおろした。


「あなた、もしや――これではなくつて?」
 女はふつくらした人差し指で膝の上に十字を描いた。
「何だ、それは。」男は眼を円るくして女の顔を凝視した。
「これよ。」と女は又書いた。「分つてらつしやるくせに。」
「切支丹か?」
しつ!」
 女はあわてて制し乍ら眉を寄せて、四辺の気配をうかゞひ、ほつと息を吐いてからまつすぐに彼の眼を見て、うなづいた。
「僕が? なぜ。」
「只、そんな気がしたのよ。さうぢやなくつて?」
「さうぢやない。あれ等から云へば、僕は異端邪宗の徒だ。」
「誰でも罪な、けがれた事をしてゐる時は神聖なものの事を口にしたり、思ひ出したりしくないものですわ。でなくちや呑気に楽しめませんものね。」
「ところが僕はそんな神聖なものを信じちやゐないよ。奴等の云ふやうな意味では。」
「さうお。なぜ?」
 女は又彼の眼を視入りながら追及した。
「なぜと云つたつて僕は切支丹は嫌ひだからさ。」と男は声を低めて云つた。「奴等は奴等の仲間でない者は人間ぢやないと思つてゐやがる。良心のない者だと思つてゐやがる。ふむ。羊の皮をかぶつた奴等の謙遜な傲慢さ位胸糞のわるいものはないよ。」
「それはまつたくですわね。今時の信者つたら本当に駄目ですわ。虫がよくつて、不信実で、卑怯で、後でおきまりの痛悔こんちりさんがらつさを唱へさへすればどんな恐ろしい地獄の罪でもキレイにつぐのはれると思ひ込んでゐるのですものね。始めからゆるされる事を当てにして、きりしと様のお像でも何でも踏めと云はれれば平気で踏むのですもの。切支丹でないと誓へと云はれれば平気で偽の誓ひも立てますしね。あんな不貞節な虫のいゝ事で救はれるなら本当に救はれる事位お安い事はありませんわ。」
「さうでない者だつてまだゐるにはゐるが。」と男は一寸横を向いた。「とに角お上と云ふ奴があんまり滅茶めちやいぢめ方をしやがるからみんながいぢけちやつたんだ。人間が堪へる力にも限度があるからな。」
「それは無論よ。無理はありませんわ。」と女はしめやかに云つた。「人間はるく悧巧にならないでは生きてゐられないのですものね。誠だの、正直だの、熱い情けだのなんてそんな間抜まぬけなものは今時の人はみんな捨てちまはずにはゐられないのだわ。昔の勇ましい信者達は何と云ふお馬鹿さんだつたのでせう!――おゝ、だけど寒いわね。」
 女は障子をキチンとしめにつまを乱して起つた。
「あら、花火。」と彼女は縁の欄干に手を突いて云つた。「寂しい花火だこと。」そして又右を向き「今晩は。お馬鹿さん。」と云つて手を振つた。
「此方へ這入れよ。寒い。」と男は火鉢を抱いたまゝ動かずに云つた。
「人に顔を見られるのが嫌だから? こそ/\泥坊さん。」と女は男の方を向いて白い歯を見せた。
「何だかおぬしのお客はわしの知つてる仁のやうな気がするがな。へ、へ。」と彼方で男の声がした。その声を聞くと客はぞつとしたやうに体をふるはせた。
「貴方のお連れのやうな人ぢやなくつてよ。もう少し取り柄のある人だわ。見にいらつしやい。」
 かう云ひ乍ら女は障子をピシンとしめて這入つて来た。そして男の手を両手で取つて「おゝ冷たい。」と云ひ乍ら眉を寄せ、紅い下唇をむいて見せた。
 二人は少時しばらくぢつと顔を見合せながら坐つてゐた。
「君、信者だらう。」やがて男が云つた。
わたしが? 信者? へえ、これは面白い!」女は笑つた。「何か云はうと思つて云ふ事がないもんだからあんな事を。」
「かくしたつて分つてゐるよ。少なくとも以前はさうだつたらう。え?」
「まあ妾、そんな女に見えて? 妾一度信者になつたらどんな目に逢つたつて転ぶやうな女ぢやなくつてよ。」と彼女は云つた。「だけど妾、あの方の事は中々くはしいのよ。今日は師走の、八日だわね。だから、さん、じゆわん、えわんぜりした様の御命日だわ。おゝもうぢき降誕祭なたらが来るわね。それからお正月――あゝあ。――」
「さうだよ。君は信者だ。僕は探偵だから一眼で分る。」
「止して下さいよ! あんまり冗談を云ふと罰が当るわ。」と女は遮切つて、やゝ真剣に眼を光らせた。
「信者がこんな商売をしてゐると思つて?」
「ぢや、君は、僕が信者である事は金輪際許されない事だと思ふのかい。」
「さあ、許されない事はないでせうよ。あなた善い人ぢやありませんか。」
「処が君にそんな商売をさせてゐるのは誰だ。僕のやうな『善い人』ぢやないか。」
「だつて、本当に人を救ふ事の出来るやうな善い人でも、魔がさせば、人の魂を殺す事も出来るものだわ。殺す事があるものだわ。」
「無論僕は善い人でも信者でもないさ。邪宗徒だ。だが不幸な境遇で罪な商売を強ひられた為めに信者になれないやうな宗門なら、俺はそんな宗門を呪つてやるよ。」
「お志、有り難う。ところが妾は又妾のやうな堕落した罪人がさうたやすく這入る事を許されて、髪の毛だけでも救はれる事が出来るやうな宗門ならちよつとも有り難いとは思はなくつてよ。それどころか軽蔑しますわ。妾は妾のやうなものに堅く門を閉ぢて決してうけ入れないやうな厳しい宗門をこそあがめますわ。讃美しますわ!」と女は強く云つた。
「ぢや、『まりや・まつだれな』は救はれてはならなかつたのかね。」
「止して下さい! ちがひますよ!」と女は叫ぶやうに云つた。「あの方は始めから清かつたのです。よしどんな事をなさつたにしろ魂の清さがまるでちがひますわ。そして本当に心の底の底から悔恨なすつたのだわ。だから救はれなすつたのよ! 妾なんぞ始めから魂が腐つてゐて悔い改める心なんぞ爪の垢程だつて持つてやしない。大違ひよ。そんな比較をされちや妾は腹が立つわ。だから妾、自分が救はれようなんぞとは夢にも望んでゐなくつてよ。却つて救はれない事を望みますわ。讃美しますわ! 本当によ! 妾は此儘このまゝで地獄に堕ちて行けば本望なんですの。」
「そんなら、僕も地獄に行くさ! 甘んじて喜んで。お前と一緒に!」
「へむ。いらつしやい。」
 女はない調子で低くかう云ふと、蒼褪あをざめた顔に、かすかな小皺をたゞよはせて冷やかに笑つた。そして「まあ御馳走の遅いこと。どうしたんだらう。」と独り言を云つて、ポン/\と手を打つた。
「お前、俺を信じないのかね。俺の誠を。」
 男は燃えるやうな眼で女の眼を見つめて云つた。
「信じなくつてよ。」
 女は眼をらしもせず、冷然と男の眼を見返へして答へた。
「しかし今俺の事を『善い人』と云つたぢやないか。」かう云ひ乍ら男は愚劣な事を云つたもんだと思つたらしく顔をあかくした。
「えゝ善い人は善い人よ。結局ね。一寸信者らしい感じを妾に起させたくらゐ。」女はねむたさうに答へた。
「だがじつのある男だとは思はないんだな。」
「えゝ。少なくとも或る道にかけては。貴方は若いやうで齢取つてゐるのね。何だか貴方が亢奮して被仰おつしやる事は、お爺さんが若者の言葉をつかつてゐるやうだわ。どこか不自然な、虚偽なところがあるわ。」
「虚偽。俺が。ふむ。さう思へるかね。」
 男は一度赭くなつた後で苦々しくかう云つて、ごろんと仰向けに横になつた。そして女の心底を読まうとするやうにけはしく女の顔を睨み見た。
「さう思へてよ。妾にはもう貴方は分つた。」
 女はどこ迄も冷然と答へた。「貴方、誰か妾に似たいゝ人があるんぢやなくつて?」
「え?――」男はギツクリとして耳根みゝもと迄赭くなつた。
「ホラ?――赭くなつた! 赭くなつた! 詰まつたでしよ?」
 女は男と共にサツと上気したやうに顔を赭くして膝を叩いた。そして刺々とげ/\しく笑つた。「サア、白状なさい。貴方はどうせ妾の眼力をくらませはしないわ。まつすぐに白状しておしまひなさい。妾ちつとも怒りやしなくつてよ。ゆるして上げるわ。どうせ妾、貴方に惚れてる訳ぢやないんだから。」
「宥してくれ。だが……」と男は云つた。「俺が君に対して不実だと云へば嘘だ。君が信じないのは当り前だが、君はもう俺にそんな借り着のもんぢやない。決して。」
「よくつてよ。そんな苦しい弁解をしないでも。貴方はまだ坊つちやんね。」と女は笑つた。「失恋した男の人はよくその恋人に似た似而非女えせをんなをあさるものだわ。そしてその恋人の幻をその似而非女の形骸でまやかしてゐる事に自分で気がつかないんだわ。女こそいゝ面の皮だわね。そのくせ厚かましく実があるなぞと思はせようとするんだわ。自分は不実な男と思ふのが、自分でいやだもんだから! だけどそれでいゝのよ。今式でいゝのよ。ねえ、その人は切支丹?」
「うむ。信者の娘だ。」
「まあ、可哀相に。それで貴方は断わられたのね。なぜそんな偏狭な事をするんでせうね。貴方のやうな可愛い人に。妾に出来る事なら、一肌ぬいで上げるんだのに。そんな顔するのお止しなさいよ、妾ちつとも貴方に嫌味を云つてるんぢやないわ。妾、貴方が妾なんぞに実があつて下さる事を冗談にも望んぢやゐなくつてよ。本当に! 貴方の深い実は何かもつと他の尊いものに捧げられてゐれやいゝのよ。天国にあるその恋人の神聖な幻にでもね。こんなきたならしい、漆喰しつくひの人形のやうな女のむくろなんぞに捧げられべき質のものではないわ。妾ちやんと知つててよ。そして貴方も御自分でちやんとその事を知つてなさるのだわ。だから貴方のやさしい燃えるやうな言葉にはうつろな響があるのは当り前すぎるわ。いくら貴方がそれを御自分では不満足でもね。」
 そして女は起ち上り、沈んだらしく黙り込んでゐる男のわきへ近づくと、長煙管の煙をフツとその顔へ吐きかけた。
「貴方、怒つた?」
 男は飛び上り、しびれる程の力で女の手頸をぎゆつと掴んで引き寄せると、その白い濃厚な薫りのする胸に噛む如く接吻した。と、女の肌に頸から吊してあつた細い黒檀の数珠じゆずとその先きにぶら下つてゐる銅貨のやうなものがちらりと見えた。
「や、何だ。これや。めだいか?」
念珠こんたすよ! それでも。」
 ムキに男に抵抗して遮二無二しやにむに鎖を引きちぎられた時、女は投げ出すやうにかう云つて男を睨んだ。それは古い南蛮渡りのこんたすであつた。
「お前、こんなものを持つてゐるのか。」
と男は夢中でそれを灯りの下へ持つて行き乍ら訊いた。
「異人さんから貰つたのよ。引つさらつて来たのよ。」と女は云つた。「一昨日をとゝひの晩だつたかしら、和蘭屋敷で。あそこにはそれはほしいものがうんとあつてよ。あいつ等は狒々ひゝだから、妾達がほしいと云へば垢だらけの襦袢とだつて何でも交換してくれるわ。此指輪だつてさうよ。」女はかう云つて、琥珀こはく群青色ぐんじやういろの指輪を一つづゝはめた両手を餉台ちやぶだいの上に並べて見せた。
「ほう。何と云ふいゝ色あひだ。肌の味だ。」男は女の言葉も耳に這入らぬらしくかう云つて、そのこんたす見惚みとれながら何遍もそれを撫でてゐた。
「妾の肌のあぶらがついたからよ。」
「そして此彫り物も素敵だ。さんたまるやかな。」
「びるぜん様ではないわ。まるやまつだれな様だわ。」と女は云つた。「貴方、『びるぜん』て横文字でどう書くか知つてる? 知らないでしよ? ほゝ、妾、教はつたから知つてゐるわ。」
 女は餉台の上に飲みかけの茶をこぼし、その水を人さし指の先きにつけてあやしく Virginis と書いた。そして自分で怪しむらしく小頸をかしげ/\終りの is を消しては書きした。
「それ見ろ。お前は矢つ張りあれにちがひないよ。どうしても。」
あれあれですつてへえ! あれがこんな神聖なものをこんなけがれた肌に平気で着けてると貴方思ふの?」女は笑つて云つた。「信者が見たらどんなに怒るか知れはしないわ。冒涜だつて。でも妾はさうぢやないんだから平気よ。只飾りつけてるんだわ。」
 かう云ひ乍ら女はそつと男に近寄り、急にそのこんたすを引つたくつた。そしてあわてて袂の中にそれをかくし乍ら「しつ!」と云つて睨み、何喰はぬ顔ですました。
 その時、襖があき、酒と肴とが運ばれた。
「さあ、お前さんも、」と彼女は云つた。
「一つお上り。口をあいて。口をよ。」さうして彼女は杉箸を裂き、一切れの寿司をつまんで運んで来た男に云つた。
「口をおあきつてばさ!」彼女は男がさし出した手の平をぴしやりとつて云つた。男はいやしく笑ひ乍らあんぐりと黒い口を開いた。
「馬鹿な、犬さん。さあ、お帰り。之はおあづけよ。」
 彼女は大きな飯の塊を無理に男の口に押し込み、その無様ぶざまに頬張つた口つきを見てあは/\と高く笑ひ乍ら、もう一片の海苔巻きをつまんでその男の掌の上へポイと投げた。
「ワン/\、之はどうも、えらい御馳走様。へツへツ」
 賤しくかう笑つてピシ/\と膝節の音を立てながら起ち上つた時、そのつるりとした男の顔は無気味な赭味をさしてゐた。そしてその細い眼がこんなに大きく開くのかと驚かれるほど大きく眼をむいてギヨロリと女を睨むと再び眼を細くして声もなく口を一杯に開き、そして去つた。
「あれは犬なのよ。本当に犬なのよ。」
と女は一寸の間、気配けはいうかゞつた後で云つた。「お上から廻はされてこんな処に迄化けて這入りこんでゐるのよ。」
「あれを嗅ぎ出しにか。」
「えゝ。だから妾犬扱ひにしてわざとお客の前で足の指を舐めさせてやつたりするわ。するとあの犬本当に舐めてよ。」
「お前を恨んで、疑つちやゐないのか。」
「疑つてるでしよ。無論。妾は又わざと疑らせてやるのよ。このこんたすだつて此方から見せてやつた事があるわ。あんまりしつこく神棚の奥をのぞいたりなんかするから。」
「そんな無茶な事をして掴まつたらどうするんだ。」
「掴まつたつて殺されるだけだわ。殺されれば妾本望だわ、こんなからだ、いつだつて……妾、貴方見たいに臆病ぢやないわ。」
 そして彼女はからかふやうに一寸男の顔を見、にこりと笑つて酒を飲んだ。
「妾もう自分の先きの短かい事を知つててよ。」
「あゝ、哀しい。又ちやるめらがきこえるわ。ほら、ね」女は深い溜息をいて云つた。「そりやさうと、貴方は彫物師さんね。ぢやなかつた、鋳物師さんね。」と彼女は摘まんでぶら下げたこんたすを眺め乍ら又急に元気な調子で云ひ出した。「貴方、これほしい? ほしけれや上げるわ。その代り貴方、これをお手本にして一つ妾を彫つてくれない? 綺麗に。上手に。え? そしたら妾こんな嬉しい事はないわ。此妾が聖母様に似ようつてわけだから!」
「何の事だ。」
「まあ分らないの? 貴方は妾を造るつもりで実は貴方の胸の中に生きてゐる恋人の像を造るのよむろん! そしてそれが貴方の胸の中の恋人に似れば似る程それは屹度きつとまるや様のやうに神々しく美しくなるのだわ。そしてそれが又どこか妾にも似るのよ! あゝ何と云ふ光栄でせう!」
「よろしい!」男はうなるやうに云つた。「俺はそれを造るよ。屹度。それを見たらお前は俺がどんな人間か始めて少し分るだらう!」
「えゝ、どんな実のある人かそれを見たらね。妾にではなくつてよ。だけど、さうしたら妾、貴方の奥さんになるわ。」
 さうして女は又男の眼を睨み、高らかに笑つた。
 通りを流す哀れなちやるめらの音の中に秋の夜は更けて行つた。


 朝日の照り返へしに眼がチク/\としみるやうな石だゝみの道を裕佐は自分の家の方へ歩いてゐた。何と云つて弁解してもおのづと滅入り込んで行く胸の暗さを抱いて悄然としな垂れた彼の姿は惨めであつた。誰がけがれてゐると云つて、世にも自分程良心の汚れてゐる者はあるまい、誰も彼も俺を買ひ被つてゐると彼は幾度か心の中に云ふのだつた。自分の軽蔑してゐる孫四郎さへも、自分よりは単純な、正直者に思はれた。彼は通りの誰を見ても謙遜な心持ちで一種尊敬の念を起さずにはゐられなかつた。「綺麗な靴を穿いてゐた者は心してぬかるみをよける。だが一旦靴が泥にそまると、だん/\泥濘ぬかるみを恐れなくなる。そして遂に靴が泥だらけになると、もうどんな泥の中にも踏みこんで平気になつて了ふ。」彼は人から伝へ聞いたある宣教師のこんな言葉を思ひ出して、本当だと心から思つた。たしかに俺の靴はもう泥だらけだ。俺にはもう本当に罪を悔いる事は出来ないのだ、否、感じる事も出来ないのだと彼は思つた。併しさうして滅入りながらも彼はそこにも或る虚偽がある事を意識した。事実彼は未だ酔つてゐた。むせ返へるやうな前夜の幻に酔つてゐた。けはしく睨んでゐるその奥で見る者の心をぎゆつと捕へ、底知れぬ闇の世へ引つさらつて行くやうな、しくも甘い眼つき、脅かすよりはむしろそゝのかすやうに八の字を寄せるその狭い額、その淡紅な薄い唇、むせ返へるやうなみづ/\しい黒髪のあぶらと、化粧した肌の香ひ、――その女が、散々いやがらせ毒吐どくづいた後で「貴方、怒つた?」と云つて上から彼の顔に煙を吐きかけた時の笑顔。その顔が彼の脳裡に刻み込まれて離れなかつた。
 彼がその女、――名は君香と云つた――に逢つたのは昨夜が二度目であつた。最初彼女が和蘭屋敷へ赴く列の中にゐたのをちらりと通りで見た時、彼は実に撃たれたやうに驚いたのであつた。「何と云ふそつくりな似方であらう!」そして彼は自分の胸の動悸を自ら聞ける程に喜んだのであつた。「俺はあの女を買ふ事が出来る。そしてあの女に依つて恐らく、あの人に触れ得ぬ悶えをまやかす事が出来る。」と第一に彼は思つた。「そして同時に俺の一方のかねての野望をも充分満たす事が出来る。俺はその口実を得た。」次に彼はかう思つた。と、急に胸が押しつぶされるやうに苦しくなり出した。彼は頭を振り、力任せに自分の股をなぐり、又項垂うなだれ、そして自家うちへ帰ると、其の夜つぴて悩みあかすのであつた。「何と云ふ見下げた、卑劣な奴だ。俺は。」
 しかし夜が明けるが否や、さをな顔をした彼は鼠色の沖から吹き来る浜風に身をふるはせ乍ら、出島の渡しのわきにたゝずみ、一舟々々、七八人づゝ組みになつて蕭条と戻り来る遊女の群を充血した眼で見守つてゐるのであつた。五番目の舟に君香はそのやつれた小さい顔を茶色のおこそ頭巾につゝんで乗つてゐた。そして館の二階の窓に寝間着姿の半身を乗り出して、にや/\とぼんやり彼女等を見送つてゐる二三の外人に向つて唾を吐き、「馬鹿。」と云つて、後ろ向きに腰をかけると、頭痛がするらしくその蒼い米かみを押へてゐた。
 裕佐は彼女の跡をつけた。そしてその家を見届けると、自家へ帰つて午迄寝た。彼が妓楼と云ふものに始めて上つたのはそのゆふべであつた。
 彼は今も君香の事を想ふと、その幻が、彼の久しい恋人であつた信者の娘、モニカの幻とごつちやになり、一つになり、そしてモニカの幻は前者のそれの後ろに次第に消えて行くやうな気がした。否、後ろに消えて行くと云ふよりは、それより高く、上に、暁の星の如くうすれて行く如く思はれた。その二つの幻が混同する事は彼にはまぎらしやうのない苦痛な事実であつた。彼が二年の間一すぢにこがれに焦れ、その焦れが崇拝になり、遂にそれが絶望と定まつた時、次第に熱情的な占有の欲望が静かな諦めの祈りと変り、宗教的あこがれと変じ、一方天高く遙かに仰ぎ見る如きぬかづいた心で居ながら、而もその人が世にも不幸なはかない者に思はれて、慈悲の眼で、陰から見守つてやりたくなる。その秘めやかな宗教的記念。その記念故に今迄とも角も身の過ちを免れて来られたのに、その記念に対する美しい欲望の実相は、実に此の遊女に依つて充たした処のものであつたのかと思はざるを得ない事は彼の心を止めどなく傷つけ、真暗にせずにはおかなかつた。それにも拘はらず、彼はその女の事を想ふと、幸福に充たされずにはゐられないのであつた。
「何だか貴方の亢奮して被仰おつしやる事は不自然で、虚偽な処があるわ。」とあいつは云つたつけな。そして「自分を不実な男だと自分で思ふのが嫌だもんだから、強ひて人に自分を実のある者と思はせようとする厚かましくも。」とも云つたつけな。彼はほゝ笑みながらひとつた。「あいつはからかつてゐるんぢやない。実際本当の事を云つたのだ。しかし見てゐろ。その不実者が何をするか――おゝさうだ!」と彼は何かに思ひ当つた如く、ステッキを打ち振つて云つた。「俺は、あいつを身うけすることが出来るのだ。俺は身うけしてやるだらう! 屹度! さうして俺は今の世間の小狐共から遊女にうま/\釣られた、あの間抜けが。と笑はれて見たい。それは俺から一層緊張した力を引き出すであらう、素敵だ! あいつは俺を嫌つてはゐないな。たしかに、自惚ではない!」
 彼はその時の幸福を想像して、躍り上る程の力を内に感じ乍ら荒々しく自家の格子戸をあけた。一夜を妓楼に明かした彼は伯母への手前、さう云ふ場合にすぐそれと気取られるやうな憔悴した後暗いさまを見せまいとして、わざと此方から伯母を圧倒するやうな態度に出ようと其瞬間に思つたのである。
夜前やぜん此の御仁おひとがお見えになつてな。」と伯母は不安な調子で云つた。「お前に何ぞ御用があると云つてぢやつた。」
 そして彼女は大きく切つた檀紙に沢野忠庵と認めた名札を渡し乍ら裕佐の顔色を覗つた。
「沢野忠庵」と裕佐は其名札を持つて立つた儘いぶかし気に首をひねつた。「聞いた事のある名だがどんな人ですね。」
「日本人ぢやないのよ。異人さんでな。それも御前、また二た目とは見られぬ恐ろしい顔のな、それが又和服で、しかもお役人らしい羽織袴を着てぢや。」かう云つて伯母は溜息をついた。
「さうですか。はゝ。」と裕佐は何んだか笑ひ度くなつて笑つた。「何とかことづけてゐましたか。」
「又来ると云つてぢやつた――お前」と伯母は声を低めて云つた。「あれは、ばてれんぢや無からうか。」
「さあ。近頃のばてれんと来たら非人にでも、おんばうにでも平気で化けるから、或はさうかも知れないが。」裕佐は尤もらしく頸をかしげて云つた。「しかしそれにしても変ですね。僕に用があるなんて。事によると天狗かな。」
 天狗とは当時迷信家達の間に悪魔とか、中国で謂ふ「鬼」とか云ふ意味に使はれて居た。
「さうよ! ほんに!」伯母は思はず恐怖の真面目さを以つて云つた。「あゝ何と云ふ厭なものが舞ひ込んだもんぢやらうか。妾はもう恐ろしうて。恐ろしうて。あの仁がばてれんの化けた者ぢやとしても、お上のお役人ぢやとしても、どつちにしてもお前の身にい事はない気がするでな。ほんに天狗よ。」
「之を御覧なさい。何しろ僕はこんな物を持つてゐるのですからね。」
 裕佐はさう云ひ乍ら、懐から例の念珠を出して見せた。
「まあ、お前、それは!」
 伯母は、内心恐れきつてゐたものを面と見せられたやうに眼を円くし、魂消たまげたやうに裕佐の顔とこんたすとを見比べたなり、小皺だらけの耳の根迄赭くして、歯のない口をモグ/\と動かした。
「は、は、は!」と裕佐は大声で笑つた。「僕は鋳物師ですからね。どんな物だつて参考に入り用なのですよ。まあ、見て御覧なさい。面白いでせう。」
 遊女君香を愈※(二の字点、1-2-22)身うけする段になつた時伯母が必ず、強制的に反対しない迄も、必ず喜ばないであらうことを想ふと彼は、今から一寸此伯母にいけずをし度くなるのだつた。そして彼は恐ろしい疑惧と、絶望の淵に沈んで居る伯母を残したなり、口笛を吹きながら自分の「道場」へと立ち去つた。
「おゝ桑原くはばら。あれは悪魔に見込まれたのぢや。切支丹ぢや。そして妾もそれで掴まつて共に殺されるんぢや!」
 彼は伯母が後でかう呟いて身も世もあらず滅入込めいりこんでゐる様を想像して、心から気の毒に思ひ乍らも、をかしくなつて独り笑つてゐた。そして例のこんたすに幾度も接吻しつゞけながら室の中を歩き廻つてゐた。


 裕佐は其日の日暮れ近く迄客を待つてゐた。しかし誰も来なかつた。で、彼は先刻から選り揃へておいた七八冊の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵入りの漢書――それは皆彼の父が丹精して手に入れたものであつた――を風呂敷に包み、又、彼の父が始めて南蛮鋳物の術を習ひに幕府から欧羅巴ヨーロツパへ派遣させられた時の土産である小さい浮彫の鋳物を懐ろに入れると、包みを抱へてふらりと表へ出た。
 古書と古道具の一切を売買する銅座町のある店で彼はその漢書を売り、又其の浮彫を見せた。それは「大天使あるかんじよミケル」が龍と闘つてゐる黙示録の中の一図で、むろん基督教に関係のある物ではあるが、直接耶蘇の生涯を題材にしたものではないので、単なる異国の美術品として、門外漢に見せても直ぐ様疑られるおそれのある品ではなかつた。
「結構なもんですなア。何ですか、之も譲つて戴けませうか。」
 狡猾相かうくわつさうな主人はよだれを流さん許りの表情を隠し得ずにかう云ひ乍ら彼の顔色を覗つた。
「いや、それは売るんぢやないんです。」
 裕佐は思はずかう答へた。彼はそれを売るつもりで持つて来たのであつたが、それを主人に見せると同時に急に惜しくなつた許りでなく、何故かそれは自分にとつて売つてはならぬ意味のある物のやうに俄かに思はれてきたのであつた。さうしてさう答へたのにホツと安心した一息をもらして、漢書の金を受け取ると、又その鋳物を懐ろにして愴惶さうくわうと店を出た。
「之で俺は又、二度や三度はあの女に逢ふ事が出来るのだ。確実に。」
 かう思ふと彼はもう胸がぞく/\と躍るやうに身を顫はせた。そして亢奮した足取りで、北風に逆らひ乍ら坂道を上つて行つた時、
「萩原さん。」と後から思ひがけない声がした。
 彼は振り返つた。そして一人の青年が小走りに彼を追つて来るのを見た。
「藤田君?」
と裕佐は云つた。そしてサツと顔を赭らめ乍らも何か思ひがけぬ喜びに出逢つたやうに、にこ/\して逆戻りに其方へ近づいて行つた。
「暫く。どうも貴方ぢやないかと思つた。」
と青年は寒気の中を急いだ為めにその健康な色の頬をなほ林檎りんごのやうに紅くし、汗ばんだその額を一拭ひして、息を吐き乍ら云つた。
「本当に暫く。すつかり御無沙汰して了つて。」裕佐は少しもぢ/\して云つた。「皆さん、御変りないの。」
 さうして彼は頬を赭くした。「皆さん」と云ふ言葉がすぐ或る人を指しての意味に此青年に取られる事を想ひ乍ら、而もその意味に取つて貰ひ度い為めに。
「え、有り難う。皆丈夫です。」と青年は何か工合悪気に下を向いて答へた。「此方こそ御無沙汰してゐます。」と口籠るやうに云つた後で、「之から何方へ?」と訊いた。
「別に何方へと云ふ訳でも――」
「さう。ぢや、よかつたら少し一緒に歩きませんか。久振りに……」
 美しい青年はそのぱつちりした大きな黒い瞳に、弟の兄に対するやうな親しみをこめて裕佐の顔をのぞいた。彼は一つの包を持ち、紺飛白こんがすりの着物に羽織も着ず、足袋も穿かずに、ヒヾの切れた足にほゝ歯の下駄を穿いてゐた。
「え、歩きませう。」と裕佐は云つた。「何処へ行つたんです?」
「何、一寸町へ。売り物があつて。――」
「売り物?」
「えゝ、」青年は少しはづかし相に云つた。「造花を売りに。」
「造花、造り花をですか。」
「えゝ、一寸必要があつて。」そして彼は包みの中から一つの白百合の造花を出して見せた。
「こんな無細工なものだからどうせ少ししか売れやしません。」
「君が造つたんですか。」
「いゝえ、皆んなで造つたんです。僕の母や姉や近所の人達で。」
 裕佐は俯向いて、黙り込んだ。
「此頃では始終造花を売つて居られるんですか。」彼は突拍子もなくこんな事を訊いた。
「いゝえ。――今日丈けです。今夜は降誕祭なたらですから。」
降誕祭なたら。――今夜がですか。」
「本当は今夜ではありません。明後日です。」彼は四辺あたりを見乍ら云つた。「――けれども本当の当日には詮索がきびしいから仮りに今夜ひそかな御祝祭をするのです――よかつたら来て御覧なさいませんか。」
 裕佐は赭くなつた。偶然にも吉三郎と云ふこの青年も自分も共に町へ売り物に行き、そして共に若干の金を懐ろにしてゐる。併し自分のは女を買はんが為めの金であり、吉三郎のは聖なる人の誕生を祝し、それを記念せん為めのひめやかな集りを飾らうとしての金子である。「むろん俺には切支丹とならない立派な理由があるのだ。そして俺があの女を『買ふ』と云ふのも、それには否でも応でも金銭が必要とされる不快な事情からで、決して所謂いはゆる遊蕩ではない。何で恥ぢるに当るものか。」少しでも真面目な心ある凡ての遊蕩者が初めに必ずする如く彼は心の中にかう弁解した。
 しかしさうは思ひつゝも彼は此青年と並んで歩き乍ら何となく自分を汚れたものに感じないわけにはゆかなかつた。吉三郎は自分より三つしか齢下ではない。しかもいつまでも童顔の失はれぬ、あふるゝ日光のうちに伸び/\と育つ若木のやうなそのまつすぐな善良さ、顔の明るさ、星の如く澄んで微塵の濁りも見えぬ子供のそれのやうな綺麗な瞳、そのみづ/\しい健康な体の全体に現はれてゐるふつくらとしたやはらかみ。それらは此の世の意地悪を知らず、皮肉を知らず、淫慾の妄想に苦しめられる不眠の夜な/\を知らぬ者の如き顔である。単純な信仰者にのみ見られる平和の顔である。その人と今並んで歩く自分の顔のいかに不健全に病人の如く蒼ざめ、頽廃して見える事であらう。彼は自分のぞべ/\した絹の着物と青年の粗末な着物の対照からも、ついかう意識せずにはゐられなかつた。
「此奴は単純なんだ。羊や兎のやうに。しかしその単純が何だ。」
 彼はかう思つて呑気に吉三郎を子供扱ひしようと思ひ乍らも、どこかに引け目を感じずにはゐられないのが自分で不快であつた。「よかつたら来て御覧なさいませんか。」と吉三郎に云はれて、「いや、僕は或る遊女の所に行かなければなりませんから」とは云へるものではない。
「僕がですか?」裕佐は口を切つた。「しかし僕は信者ではありませんからね。」
「構やしません。来て下されば嬉しいのです。」と青年は云つた。「尤も万一の事があつては御迷惑ですから、無理におすゝめもしませんが。」
「発覚ですか? そんな事は平気ですが。――貴方のお家で僕が行つては御迷惑でせう。」かう云つて裕佐は自分の言葉の刺に顔を赭くした。
「そんな事あるもんですか。」と青年は苦し相に打ち消した。「それに僕の家でやるんではないんです。わきでやるんです。遅く夜中に。」
「しかしいづれ貴方のお家の方もいらつしやるんでせう。」
「えゝ。父は病気で来られませんが母と姉とは行きます。貴方がいらつしやれば姉は喜ぶでせう。」
 此一言を聞くと裕佐は耳の根迄をサツと赭くした。彼はさはつて貰ひ度くない、その癖全くさはられなかつたら又不満である傷口にさはられたのである。それは永い涙の忍従と苦がい/\血とによつて漸々やう/\皮をぶせた許りの深い傷手いたでであつた。而も再び皮を引剥がされた傷口からは、皮の出来る前よりは更に治し難い程の痛みを以つてだく/\と血が流れ出さずにはゐなかつた。彼はえ度い口を封じられたやうに全身を顫はせた。
「止しませう。――お気の毒だから。貴方の方にも僕自身にも。」
 裕佐は青年の同情ある慰め言に却つて立腹したかのやうに顔を火の如くほてらせて苦々しくかう云つた。
 吉三郎は苦し相に口をつぐんだ。
「今時の切支丹は実際駄目です。」と青年はやがて口を切つた。「彼等は基督の精神を本当に了解して消化する丈けの力がないのです。それで只教義を鵜呑みにしてゐるのです。だから形に囚はれてゐて動きがとれず、偏狭なら偏狭なりに毅然とした強い処があれば又美しいのですがね、あの島原の乱此方、実際教会には偉大さが無くなつて了ひました。」
「真の基督教はしかし」と俯向いてゐた青年は又続けた。「自由な宇宙的精神がすなほに共鳴してうけ入れ、愛する事の出来るものでなくては生命がないと僕は思ふんです。僕も一時は親兄弟にそむいて教義を捨てようかと本当に煩悶した者です。僕は此の宗門に深い疑ひと反感を持つてゐました。殊に肉体に対しての解釈に於て。しかし今では自分を切支丹であると自分で許す事に何等の矛盾を感じてはゐません。なぜなら真に本当の神をみづからの内に信じる者は畢竟切支丹です。だから僕は切支丹です。」
「君は本当に神を信じられるのですか。」
「おゝ信じますとも!」青年はきつぱり云つた。「神を信じる。私には之より当り前な事があらうとは思へません。私自身の意識の存在を信じるのとちつともちがひはありません。」
「君は生れつきの信者ですからね。しかし僕にはそんな信仰はない。」と裕佐は云つた。「又必ずしもその信仰を必要と感じてもゐません。」
「嘘ですよ。貴方だつて実は信じてゐるんですよ。」と青年は断言的に云つた。「信仰はその人の生れ乍らの性質です。胸です。自覚すると否とは別としても。貴方は神の性質を先入主で誤解して居られるんぢやないでせうか。切支丹の唱道してきた人格的な神の先入主によつて。それは実際一寸奇異な事です。なぜと云つて、神といふものの観念を始めて本質的に明かにして、それを精神的な実在と正しく解釈した人は基督です。その神の観念の本当な確立丈けでも基督の人類に対する功績は絶大なものです。然るに、その教へを奉ずる切支丹によつて多くの人は神に対する窮屈な先入主を抱くやうになつたのです。無理のない事ではありますがね。人間と云ふものは何でも物を人格的にしか考へられない原始的な癖を持つてゐるものですから。しかも教養のある貴方方迄がそれに引つかゝるのは詰らない事です。そんな筈はありませんよ。貴方は宇宙の精神的中心、――何と云つたらいゝか、――つまりそれがちやんと儼存してゐる事で宇宙の大体の平衡と秩序とが保たれて、無事に進んで行き、それが少しでもかしぐと世界の運命が狂ひ出すと云つたやうな無形の核心を貴方が感じられないなんて、人類や個人は無論の事、万物の幸福と安穏とがつにそれに係つてをり、それに従へば平安を得、離叛すれば絶望に陥る一つの宇宙的意識――良心がある事を。静かに考へて見られれば貴方がさうしてとも角も人生に絶望せずに、平穏に生きて居られるのは只盲目な偶然な自然の現象だとのみ思へますか。」
「さうです。只自然と運命の為めです。其他の信仰はすべて生死の法則に支配されるか弱い生物の人間がその弱さの為めに自分で考へ出した作り物ですよ。」と裕佐は云つた。「あしたに生れて夕に死んで行くはかない運命の人間には厖大ばうだいな宇宙の力に対して、先天的に一種宗教的な性質を与へられてゐる事は事実です。それなしには人間は自然に対抗出来ないのです。神や悪魔に対する信仰はその宗教的性質が生み出す一種の感じです。その感じは人間の本能と共に進化しては行くでせう。しかしいくら進化した処で結局感じは感じです。幻に対する感じです。僕は幻を信仰する事は出来ませんね。」
「併しその幻がなかつたらどうでせう。貴方は生きてゐられると思ひますか。」青年は確信のほゝゑみを浮べ乍ら云つた。「それなしには貴方の生活は根柢から無意味になるのですよ。根柢から! そして生き甲斐を感じる事は愚か、生活を持ち続けて行く事も出来ないと僕は思ひますがね。いや、断然出来る事ぢやありませんよ。たとひ一つ時でも。人間はそんな強い者ぢやありません。」青年はその美しい眼を輝かして云つた。「人間は決して完全な無意味に堪へられるものではありませんからね。どんな虚無主義者だつて虚無主義と云ふ主義を立てて生きずにはゐられない丈けの何かを与へられてゐるんです。彼等だつて自分の満足する事をすれば必ず嬉しいし、空虚な時は必ず淋しいのです。それならその喜びや、淋しさはどこから来るのでせう。『良心から』と貴方は被仰おつしやるでせう。それならその良心はどこから来たものでせう。確かにそれは幻に対する感じにすぎないと云へるでせう。しかしその幻は吾々人間にとつては実在なものです。儼然たる生きた実在です! 肉体にとつては太陽が神であり、精神にとつては神が太陽です。悪魔主義者にはその悪魔が変態な神です。虚無主義者には虚無が神です。そしてその人達の生活は各※(二の字点、1-2-22)それに近づいて行く事です。」
「むろんさう云ふ風に云ふなら僕には僕の宗教がありますよ。しかしそれは君の云ふやうなものとは全く別なものです。僕は決して安穏ではありません。それどころか、かなり不安で絶望的にさへなり勝ちです。それは神に遠ざかつた生活をしてゐるからだと貴方は云ふでせう。しかし僕は又それが好きでもあるんですよ。僕は動乱を好んでゐます。神に祝福された平安も求めないではありませんが、又必ずしもそれが得られなくとも僕は平気なのです。」
「それはね、貴方が矢つ張り心の奥底で無意識に神を信じて居られるからの事なんですよ。」と青年は音もなく彼等の上に落ちて来る褐紫色の桜のわくら葉を拾ひ乍ら云つた。「しかしまあ、貴方は芸術家です。だから芸術によつて神にふれて行かれればいゝのです。貴方の天賦は矢張り神が貴方に授け給うたものなのですからね。その天賦を殺して基督信徒にならるゝ事を神が望み給ふとは僕は思やしません。否、むしろそれは神に対する反逆です。なぜと云つて吾々の心霊は一の親である精神によつて万人共通的に作られてゐる同じ性質のものです。だから貴方が貴方の神に近づきふれて行けば行く程、つまり貴方は普遍的な全一な神に近づいてゆくのです。貴方は貴方の神にぬかづく事によつて万人の神に額づくのです。個人にどうしてそれ以外の事が出来るでせう。」
 裕佐は全く意外であつた。彼は此青年の頭のいゝ事を知つてはゐたもののまだ見た処は依然として子供のやうな此童顔の青年から此等の事を聞かうとは全く思ひがけないのであつた。彼は青年の進歩におどろいた。
「よく人が単に自分を切支丹と認めない丈けの為めに、自分自身の信仰を否定して、ことさら神を迄否定する傾きがあるのは実際悲しむべき馬鹿げた事だと思ひますね。良心の鋭い、理性的な人であればあるほどさうなる傾きがあるのは全くなげかはしい事です。」青年はつゞけた。「それらの人は皆めい/\自分のうちに神を感じる事の出来る頼もしい人達なのです。しかし今時それらの人は皆余りに基督教に囚はれるのです。なぜと云へば今時本当に良心と理性との眼覚めた人が一度も基督教に囚はれずに済むと云ふ事は恐らく不可能な事だからです。人間が本当に救はれる唯一の合理的な福音がフランシスコ・ザ※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)リオによつて吾々の前に持ち来たされたのです。実際それはあらゆる精神と信仰との堕落し、衰微しきつた今日に於て全く唯一の光明であり、救ひの門だつたのです。いやしくも精神的要求の豊かな人が自分を無良心だと思はずに、その門に冷淡で無頓着である事は出来る事ぢやありません。その苛責かしやくと拘泥に打ち克つて、大した格別な動機もなくて信者になつたものです。それらの人は又自分が信者になれないのは発覚して殺される事が怖いからだと人から思はれたり自分でも思ふ事が業腹ごふはらなので、只自分の空しい勇気を示したい丈けの為めに洗礼をうけたりしたものです。そしてさう云ふ馬鹿々々しい『いさぎよさ』に負けない丈けの強さとひがみを持つた人は無理に悪魔主義になつてその尊い生命を持ちくづし、自棄やけに棒に振つて了ふのです。――貴方が苦しまれた事は私はよく知つてゐますよ。」
「全くもし芸術がなかつたら僕は破滅したでせう。」と裕佐は遮切さへぎつた。「――しかし今では僕はまるでちがつた考を持つてゐます。僕は異端です。それは決して自暴自棄からではありません。僕は悪魔主義者でもなければ神主義者でもない、一種の自然快楽主義者です。そしてその事にすこしも良心の苛責を感じてはゐません。実際の処僕はもう宗教には冷淡です。僕に信仰があらうと無からうと、それを君がきめる事は勝手ですが、僕にはどつちでもいゝ事なのですよ。」
「さうです。結局どつちでもいゝと云ふ放任した気持ちに迄ならなくては駄目です。それは自暴自棄に似てゐて、凡そ反対なものです。」
「ふむ。その意味とはちがふのですが。」裕佐は冷やかに苦笑して云つた。「併し君の親切な厚意さから出る故意の誤解を僕は拒まうとは思ひません。僕の方から云はせれば、君こそ単に基督のお弟子としてのみをはる事は惜しくてならないのですが。しかし僕は、君が自由思想家になる事を君に勧めようとは思ひません。それは人間として僭越な事ですからね。だから君も僕を此儘に打つちやつといてくれ給へ。」
「無論です。人は要するにめい/\の人生観によつて生きるよりないのですからね。又それでいゝのですからね。」青年は淋し相に云つた。
「しかしもし今日本で基督の像を真に生けるが如く写す事の出来る人がゐるとしたら、それは貴方丈けと云ふ事を僕は知つてゐます。お世辞ではありません。だから僕は安心して貴方を信じてゐますよ。」
「ふむ恐縮ですね。」と裕佐は云つた。「しかしとも角僕はその百合ゆりの花を一つ買はせて貰ひ度いものですね。いけませんか。」
「どうぞ買つて下さい。――しかし一寸此処で休んで行きませうか。」
「此処でもいゝが、あの神社の中はどうですか。あそこにはもう少しキレイな茶店があります。」
「神社仏閣は僕らに少し鬼門なのですよ。只の参拝者のやうな風をしてそれとなく礼拝しない者を探りに来てゐるお役人がよくゐますからね。」
「うるさい狂犬達ですね。ぢやまあ此処にしませう。」
 そして二人は或る見晴らしの縁台に腰をかけた。


 眼下に一目に見渡される町々の家にはもう明りがついてゐた。
「綺麗ですね。何と云ふ沢山の明りでせう。あれを一々みんな人がけてゐるのですね。」青年は真面目にかう云つた。
「天には星が光り、地上には人が明りをつける。僕は此処でよく夕方此の景色に見惚れて了ひます。人が明りをつけると云ふ事は実際神秘な感じのものですね。只夜になつたから明りをつけると云ふ以外に深い意味を持つてゐます。何だか涙ぐみ度いやうな、可愛いやうな、有難いやうな感じではありませんか。」
「本当に、いかにも地上らしいいゝ感じですね。」裕佐もかう云つた。
「地上らしい、実際です。だから愛さずにはゐられません。祈り度い心にならずにはゐられません。同じ明りでもあの星のいやに落ちついた冷やかな無限の明りとの感じの違ひを御覧なさい。何と云ふはかない、いぢらしい感じでせう。泡のやうに生じてはすぐ消えて行く此の儚ない人間と云ふもののいかにも点け相な明りではありませんか。人間は本当に可哀相なものですね。」
 そんな事を云はれると裕佐は泣きながら笑ひ度いやうな気持にもなるのだつた。此青年の姉に失恋した彼は幾度こゝへ来てぼんやり腰を卸し、深い溜息を吐いては、こみあげて来るその涙を羽織の裏に隠した事か知れなかつた。
「僕も此処へはよく来たものですよ。」
「さうですかね。――僕は此処へ来て此の景色を見るといつも何だか悲愴な厳粛な気持ちになつて祝福し度い心に充たされるんですよ。此町は実に苦しんだのですからね。恐らくこれ程精神的に苦しんだ土地は日本国中他にはないでせう。そして今でもなほです。変な言ひ草のやうですが僕は此町その物が何だか可哀相で仕方がないのです。」青年は一寸黙つた。
「あの立山を見ると僕は実際ゴルゴタのカル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ル山を見るやうな敬虔な気持ちになつて心が引きしまらずにはゐられません。僕等もいづれは彼処へ引張られて行く時が来るのでせうが。――」
 青年は右手に半ば諏訪山すはやまにかくれて禿鷹はげたかの頭のやうに見える真黒な丘をさしてかう云ふと、俯向うつむき乍ら下駄の歯で士を掻いてゐた。
 裕佐は言葉もなく黙つてゐた。そして魔物を見るやうにその黒い丘をちらりと見ると体を顫はせた。
 彼は昔その丘に一度は伯父に連れられ、一度は母に連れられて、切支丹の虐殺を見に行つた事があつた。
 八つの時伯父に抱きあげられて黒山のやうな人の垣の頭越しにその刑場を見た時、十幾本かの十字架を遠巻きにいぶし立ててゐるその薪の火がその十字架に燃えうつり、燃えうつつた火に肉に喰ひ込む程くゝりつけてある荒繩がぷつりと切れて、自分と同じ位の小さい子がその十字架から落ちて倒れ、煙の中を小走りに走つて、隣りの十字架に素裸のまゝで縛りつけられて唇を噛み、眼をきつと天に向けてゐるその母親の処に駈け寄つて、泣き叫び乍らその胸にひしと抱きついた――それをちらりと見た時、彼は泣きも得ず只地団太ぢだんだを踏んで、なほ終り迄それを見続けようとする伯父の頭髪を滅多矢鱈やたらにむしつた。伯父は上気して顔を真赤にし、彼がグツと云つて一時息が吐けなかつた程荒々しく地びたに放りなげ、そして周囲の人を見乍ら「意気地なし奴」と云つてとげ/\しく笑つた。放り出された彼は転げ乍ら伯父の足を力一杯ピシヤ/\となぐつた。そして腹の底からの軽蔑と憎悪とを以て伯父を睨みつけ乍ら「帰らうよ! 帰らうよ!」と火の如く叫んで聴かなかつた。
「此の弱虫奴が! だから来るなと云つたに!」伯父はかう云つてにく/\しげに少年を睨み乍らも彼を引きつれて帰つた。
 少年は生長し武士道によつて教育された。「気が弱い」「意気地なし」と云ふ事は彼には此上ない恥辱に思はれて来た。彼は又熱心な忠君愛国主義者になつた。そして日本の国土を狙ふ夷狄いてきの悪魔にかれた者、国賊が虐殺される事は当然な正しい制裁だと考へるやうになつた。彼は十字架を作つてはそれをぶち壊はす遊戯に快感を感じ、切支丹と指を差される者には石をぶつけた。そして、彼が十六の秋、丁度父が外国へ行つて留守であつたので、無理にいやがる母の手を引いて又虐殺を見に行つた。
 その時の虐殺ぶりは、彼等がそこへの途中脳貧血を起して頭を抱へ乍ら戻り来る何人かに行き逢つたほど又一層ひどいものであつた。併しそれはなほ彼の病的な好奇心を戦慄させ刺戟した。「今日こそは見てやるぞ。参つてはやるまい。」彼は心の中で幾度もかう自分を励ました。
 濛々もう/\と煙が立ち昇つてゐる刑場に近づくと火葬場の煙の如き異臭が風に送られて来る。掃き清められた広い刑場の奥手には白衣を着た女達がずらりと髪の毛を木の釘にくゝりつけられた儘だらんとぶらさげられてゐる。彼等は体の重みの甚しい苦痛の為めに閉ぢた眼がつるし上り、顔は蒼い土色をし、そしてその引きつつた髪の毛根ねもとからは血がしたゝつてゐる。中には自分の重みの上になほその子供を帯にくゝりつけ垂れ下げられてゐる。そしてそれを遠巻に焚木の煙がじり/\といぶしてゐる。
 彼等と向き合にその夫と、父と兄弟と、外人のばてれん達とが並んで坐らせられてゐる。或る者は竹の鋸で少しづゝ徐々とそのさし延べた頸背くびせをひかれてゐる。ばてれんの前には又釜が置かれぐら/\煮つめられてゐるその硫黄の毒気は、凡て管によつてその男の口に当てはめられ、鼻は塞がれてゐる。男はむせる事も、咳する事も出来ず、苦悶したまゝ顔は見る/\真黄色になり、どす黒い土色になり、そして皮膚がばさ/\と剥げ落ちて行くのである。
 凡てそれらは拷問である。刑者にとつて殺戮さつりくは欲する所ではない。被刑者がもしその苦痛に堪へず宗門を「転ぶ」と一言云ふならば彼等はすぐその場に刑をとかれるのである。併し、信徒の強情が不退転であればある丈け拷問の残虐は工夫を進めたのである。而もいかなる死苦の中にも彼等は、「舌を噛み切つて自ら死ぬるやうな創造者に対する罪」は許されてゐないのである。
「ぜすす・まりや! ぜすす・まりや!」
「きりえ・れんぞ、きりえ・れんぞ」
「あべ・まりあ、あーめん・でうす!」
 女達は無理にむき開いた眼で天を仰ぎ乍ら唱へた。
ぱらいぞは確かだ。光栄なときを忍べ!」
「身を殺して霊を殺す事の出来ぬ者を怖れるな。あーめん!」
 信者達は或ひは自らを或は他を励ましてかう云つた。そして拷問の中に一人々々その地上の生命を「神の御手に還し」て行つた。
 裕佐は、併しその鋸びきを見た訳ではなかつた。役人がその大きな竹の鋸を持つて現はれた時、彼はもう既にひどい脳貧血を起してゐた。彼はそれでも幾度か空を見たり、霜枯の草を見たり又つぽの丘の樹木や家に眼を向けて心をまぎらし、気を確かに持たうと努めた。「国賊だ。いゝ気味なんだ。」彼は又強ひてかう呟いても見た。そして事実みづ/\しい女の肉体に対する残酷なさいなみ方は彼の性慾に異様な苦しい挑発を促してゐたのであつた。彼はその事に驚き羞ぢ乍らも一方その残忍な肉感――それは決して快感ではない――を自ら誇張し、煽動しようと努力してゐる。しかし或る女の腰紐にその肥つた乳呑児が暴れ乍らくゝりつけられるのを見た時、彼は遂に我を忘れて叫び、そして後ろにゐる男に倒れかゝつた事を自ら知らなかつた。――そして彼は家へ帰つても寝かされてゐた。
 その時以来彼は陰欝な「黙りん坊」と呼ばれる青年になつた。
 彼は人間の精神と云ふものの力を眼のあたり見た。人間の思想、信仰、救はれようとする願望、それのいかに怖るべく強く、動かし難いものであるかを見た。人が肉体によつて生きてゐるのでなく、実に精神によつて生きてゐるものである事、精神は生死よりも強いものである事を現実に見た。肉体としては到底堪へられよう筈のない事を、人は精神の故に敢然と堪へるのみでなく、却つてそれを望み、喜んでうけるのである。「精神一到何事か成らざらん」と云ふ事を彼は小さい時から聞かされもし、信じてもゐた。しかしそれがかく迄実際に怖るべきものであるとは彼は決して想像も出来なかつたのであつた。――彼は本当にそれ迄知らずにゐた或る世界の前に驚き、打ちのめされたのであつた。――そして其の事は彼に勇気と深い悲しみとを与へた。
 かく迄人を怖るべく強きものにする力ある宗門には何か自分の全く知らない或る非常な物があるにちがひないと彼は疑ひ出した。人々が「国賊」と呼ぶ「彼等」が事実それにちがひないとしても、それだからといつて憎み排斥しきる事の出来ぬ何かしら尊い威力を彼等の中に彼は感じない訳には行かなくなつた。一体その様な不純な野心からあれ程の決心と威力とが出で得るものであらうか? 何方が正しいのか? それはとも角としても彼は何だかその「彼等」に好意と一種の尊敬を感じないではゐられなくなつた。そして自分が空虚な詰らぬ者に思はれて来た。
 併し一方彼は又そこに他の疑念をも抱かざるを得なかつた。なぜあれほど迄の残虐を忍んでも宗門を転んではならないのか。転んだ者は仲間から排斥されるのか。人間の魂が救はれると云ふ事の為めにはそれほどの肉体の犠牲がどうしても必要なのであらうか。天地はもつと悠々としたものである。其の天地の中に人間が生かされてゐる処にはもつと自由と、赦しとがあつていゝ訳である気がする。さうでないとすれば人間にその犠牲にすべき肉体を態々わざ/\与へた者は余りに無慈悲である。「一方が不正な為めだ。基督教が残酷なのではない。」と彼は考へた。しかしさう考へても何だか基督は厳酷にすぎる人のやうに思はれた。その宗門は余りに窮屈な、苛酷なものに思はれた。此世にはもつと此世に調和した自由な宗教があつていゝ訳ではないか。――そんな気がした。
 彼は生長し、基督教に対する自分の誤解を覚り、そして良心が苦しんでゐた時、此青年の姉に恋をした。
「貴方は天主様とその子のきりしと様をお信じなさるか。」
と恋人の父は訊いた。
「信じません。――まだ。」
「それでは……」と父は宣言した。「不信徒の方との婚約は許されてゐませんから。」
 そして彼は失恋した。
 彼は失恋し、そして芸術を得た。「以技芸天為我妻」彼は自分の室の襖にかう太く書いた。


「此処にも高札がつてゐますね。あれを見て平気ですか。」
 裕佐は此の切支丹とのひそ/\話を見られては疑はれはしないかと、つい何度も四辺を見廻はしては心に羞ぢるのであつた。それ故彼は石段の上り口に突つ立てられてゐる禁制の高札を指してわざとかう訊いた。
「平気ですよ。僕はもう。慣れてゐますから。」と青年は答へた。そして彼の意を察したものか、「しかし遅くなりましたね。僕はもう帰らなくつてはなりませんが。」
 かう云つて彼は立ち上ると改めて注意深く周囲を見廻はした。
「実は先刻貴方をお招きして見たのは、今夜は少し特別な訳があるんです。貴方にも一度見せ度い人がゐるのです。」
「僕に見せ度い人ですつて。」
「えゝ。或る長老です。八年ぶりで天草から脱走して来られたんです。それは立派な人ですよ。」
「もしかしたら行くかも知れませんが。――何時どこでですか。」
 青年は彼の耳に或る事を私語さゝやきそして去つた。
「誰が行くものか。」裕佐はその後ろ姿を見送り乍ら暗い心に呟いた。彼は青年の自分に対する熱い厚意と同情に感じないではゐられなかつた。吉三郎はたしかに彼の失恋に同情して、彼が自暴自棄に陥る事を怖れ、強ひて彼に希望を持たせようとして、彼としては珍らしくいろ/\な「慰め言」を言つたのである事も裕佐には分つてゐた。しかし裕佐が何よりも彼から聞く事を求めてゐる唯一の事、「私の姉は貴方を愛してゐます。そして貴方方の結婚を私はきつと纏めるでせう。」其事を青年は云はなかつたのである。その一言が聞けない以上、青年の千百の慰め言や、勇気づけの感想は、彼にとつてたゞに煩さい無駄口であるに止まらず、更に彼の忘れかけてゐる傷口を新しく掻き破る丈けの事である。
「あの馬鹿奴。長老が俺にとつて何だ。」
 彼はその愛する青年の事をかう云つてステッキで石を打ち、百合の花を叩き捨てようとして捨て得ず、掌の中に握りつぶし、そして立ち上つた。
「忘れよう! 彼処あそこへ行きやいゝんだ!」
 彼は頭を打ち振り乍らかう呟いて、石段の降り口の方に向つた時、後ろから青年と行き違ひに来る男の声を聞いた。
「何でもな、男には皆『ノ』の字が附くんぢや。ジワンノ。カラノ。ミギリノ。などと言ふ風にな。女子をなごぢやつたらジワンナ。カラナ。イザベリナ。と云ふやうに『ナ』が附くんぢや。」
 それは聞いた事のある声だつた。裕佐はハツとして、思はず立ち止まつた。その瞬間その男は裕佐に追ひつき乍ら、
「おや、萩原ぢやないか。」と声をかけた。
「さうだ。萩原だ。君は……」
「わしぢや、分らんかね。富井ぢやよ。」
「分つてるくせに、とぼけるな」と云ふやうに男は云つた。そして頭巾づきんを取つた。
「わしは今な、おぬしの家へ行つたのぢやよ。おぬしは近頃毎日のやうに家を明かすと云つて伯母さんはこぼしてぢやつたぜ。」孫四郎は歯の抜けた口を開いて声もなく笑ひ乍ら云つた。「御心配なさるな。あの仁は堅いでと、わしは云つて来たぢや。はつは。」
「だが変な処で逢つたな。どこへ。今頃。」
 彼は又かう云ひ乍ら、裕佐の身なりをわざとらしくじろ/\と凝視みつめて附け足した。「どうしたね。えらう伊達だてななりをしてござるぢやないか。わしの処へ見える時とはまるで別人のなりぢや。」
 そして彼は又意味あり気に前の方を頤でしやくつて見せた。その小路を行けば丸山へ出ると云ふ事を諷するやうに。
「丸山へ行くのさ。」と裕佐は云つた。「僕が丸山へ行くと云ふ事が君はそんなに興味があるのかね。」
「さうさね、清廉高潔な君子然たる仁がびく/\ものでこつそり悪所通ひをやつてゐる処を見つけちまふなぞは兎角人の面白がるこつちやてな。へ、へ、さもしいもんで。」
 裕佐は一言も云はず、すぐ其場で此男と別れようかと思つた。孫四郎が自分を偽善者と思ひ、嘘吐きと思つてゐる事は彼には分りすぎてゐた。しかし孫四郎の前で、又誰の前でも「俺は遊ばない。女にふれた事はない」とは彼は一度も云つた事はないのである。「俺は遊ばない」と称して、蔭で遊ぶのは偽善であらう。しかし、恥を知らぬ、自堕落な連中が、どこ迄も只道楽を道楽として臆面もなく下等に馬鹿話を吹聴ふいちやうし合つてゐる時、一人沈黙を守るのは偽瞞でもなければる事でもない。懺悔や告白はひそかに自分の神の前に於てのみ神妙に為すべき事であつて、人前で、殊に孫四郎如き者の前で軽々しく喋々てふ/\すべき事柄ではない。少なくとも打ち明けるべき場合に、打ちあけべき相手になら自分は決して蔭日向を好む男ではない。――と裕佐は思つてゐた。その心持ちが微塵も分らずに「こんな何食はぬ顔をしてゐて……」と簡単にこそ/\者ときめてゐる孫四郎の心事が彼には此上もなく不愉快だつたのである。
「それやさうと、わしは今一寸その事でおぬしを訪ねたのだがな。」と孫四郎は急にわざとらしく調子を改めて云ひ出した。
「おぬしの処に今夜沢野と云ふ仁が行きやせなんだか。」
「沢野。あゝ、来た相だけれど、俺は逢はなんだ。」
「左様か。おぬしあの仁知らんかな。もとキリシトファ・フェレラと云つてゐた天国の門番さんぢやが。」
「さうして今では地獄の番犬になり下つた男ぢやないか。」
「はゝ。まあそんな処かも知れぬ。あの踏絵を発明したのはあの男ぢやからな。」
「あの発明も最初はえらい効き目のあつたもんぢやが。」と連の男が云つた。「もう此頃ぢや信者達は皆こすうなり居つたで。中々あんな事位ぢや手にはをへんて。」
「いや、それでもな、満更役に立たぬでもないさ。何せ、今迄んのは紙ぢやからな。大勢が踏んで踏んづけて汚ないボロ紙になつちまふと、もうぜすすまるやもあつたもんぢやないわ。何が画いてあるかてんで分りやせんのだから。それを踏んだかてさうひどく気が咎めもせんのぢや。只の反古紙ほごがみを踏むと思へばな。」
「本当にえらい発明。」と裕佐は云つた。「そしてその犬を僕に紹介してくれたのは君なんかね。」
「まあ紹介と云ふ訳でもないが。何せさう云ふ訳で、今迄の紙の踏絵ぢや一向役に立たぬで、何か彫り物で、いつ迄もその有り難いお像がはつきり残るやうな物を作る工人はなからうかとあの男がわしの処へ訊ねに来たもんぢや。」
「それで僕に思ひ当つてくれた訳か。」
「さうぢや。わしの知つてゐる彫物師は他にもあるが、そこが親友の間柄ぢや。へゝ。おぬしの専門は南蛮鋳物ぢやが金物なら木彫よりはなほ磨滅する憂ひもなしな。わしがさう云つて話すとあの唐人先生、日本にさう云ふ鋳物師があるとは知らなんだ、鋳物で出来るならもとよりそれに越した事はないと云ふ大喜びさ。どうぢや。一つやつて見んかね。儲けもんぢやぜ。」
「ふむ。そしてそれを君や世間の有象無象うざうむざうに踏んづけさせてくれようと云ふんだね。――有り難う、僕は御免蒙るよ。」
 裕佐はさう云つて、挨拶もせず不意に横道へ曲つた。
 しかし一人になるが否や、どうしてこんな乱暴な別れ方をしたのかと彼は悔やむのであつた。なぜか彼は、常々厚意を持つてゐた孫四郎の細君の姿をふと考へた。そして彼等夫婦の仲と、寂しい愛とを思つた時急に哀れな気がして来た。もし自分の憤りが単にひねくれた邪推にすぎなかつたとしたら本当に気の毒な事をした、余りに大人気おとなげなかつたと思つた。併し彼はなほ憤りを鎮める事は出来なかつた。「そんな事はない。彼奴はその位のいたづらをし度がる奴だ。もう彼奴とは愈※(二の字点、1-2-22)絶交だ。」彼は強ひて自分にかう云ひ乍ら蒼い顔をして妓楼ののれんをくゞつた。


 女はすぐ出ては来なかつた。物悲しいほどの寂しさに滅入めいつてゐた裕佐は、しかしその女の室に入つて、見慣れたいろ/\のものを見ると次第に心持が甘く明るく変つて行くのであつた。彼はごろんと肱枕を突き、何気なく欄間の額を見てゐた。誰が書いたものか南画風な淡彩で、白髪な中国人と赭ら顔の遊女とが「枕引き」をして遊んでゐる図である。絵は飄逸へういつを狙つてやゝ俗になつてゐるが下手ではない。それに『木まくらの角は丸山たをやめに心ひかるるみつうちの髪』と云ふ狂歌の讃がしてある。
呑気のんきな奴だな。」と彼は思つた。しかし今の彼にはそれが少しもいやではなく、却つてそんなものを見てゐる事でくさ/\した気分がのんびりと柔らげられて行く事が快かつた。
 しかしその途端、突然襖があき、いつもにまして絢爛けんらんな装ひをした君香が入つて来るか否や、「貴方おしらべよ。」
と低く鋭く云つた。
 裕佐は一寸ぎつくりとした。先刻変に大胆な心持ちで孫四郎の連の前でいろ/\な事を口走つた事を想ひ出したのであつた。然し彼は横になつた儘自分の前に生人形の如く突つ立つてゐる女を眺め乍ら云つた。「何だ。冗談だらう。」
「嘘だと思ふなら之を御覧なさいよ!」と女は真剣に云つた。「貴方を探訪たづねて来たのよ。」そして彼女は奉行所の役人丈けが持つてゐる大きな名札を見せた。
「はゝ。驚かしやがるな、犬奴。」それを見ると裕佐は笑つた。「だがどうして奴、俺が此処にゐる事を嗅ぎつけやがつたのかな。」
「それが犬だからよ。」と女はやゝ安心したらしく云つた。「貴方、此犬を知つてるの?」
「いや、まだ逢つた事はない。」
「貴方、大変な者と関係が出来ちやつたのね。これは貴方、あの仲間からユダと云はれてゐる転びばてれんだわ。――妾を検べに来たのかしら。」
「さうかも知れぬ。とに角逢つてやるから此処へ通せよ。」
「妾の事だつたら平気よ、あゝ屹度きつとさうよ。白楼の犬が犬同士密告したんだわ。ほつほ。面白い! 妾、からかつてやらう。」そして女は起つて行つた。
 再び襖があき、二人の男が這入つて来た。一人は七尺の鴨居かもゐを頭を下げてくゞる程の大男の異国人であり、一人は、ずんぐりとしたその供の下役であつた。大男は不器用に和服の羽織袴を穿き、四辺あたりを圧する程の悠揚さでギゴチなくそこに坐ると軽く頭を下げた。
「御遊興のお邪魔をして済みません。」と下役は礼をし乍らいかつい調子で云つた。「此の沢野さんは日本語にはもうカナリ堪能なんですが、しかし万一の不便があつてはと云ふんで、私が幾分通訳の意昧でお伴に上つた訳です。」
「先夜は宅へおいで下すつた相で失礼しました。」裕佐は赤面し乍らも落ちついて云つた。彼は自分がかう云ふ場所へ来てゐる時、それを狙つてわざ/\冷やかしのやうに訪ねて来る此の役人の心に不愉快を感じてゐた。しかしさう云ふ反抗的な気持ちで此男に逢ふが否や、彼の気持ちはぐらりと変つて、落ちついてゐる以上に此の異国人に対して何となく一種の不愍ふびんさを直覚的に感じたのであつた。
 実際此の巨大な異国人の感じは一種異様な驚くべきものであつた。室に這入つて来る処を一眼見た時、彼は癩病人に逢つた如くハツとして、思はず顔を背向そむけた程無気味であつた。頬のこけた蒼白の顔の上部、両のびんと額とは大火傷の痕の如く赭黒く光つてひつつれてゐる。そして眉間みけんと、左右の米噛みの処に焼け火箸で突いた程の穴の痕が残つてゐるのである。それが何を語るものか裕佐には忽ち覚られるのであつた。
 切支丹の拷問に「囚徒」を逆吊りにして、その頭の欝血と、胸を臓腑が圧迫する事の為めに、口からは素より、遂には眼と鼻とから迄出血して、大抵七八時間の「早さ」で往生するのを防ぎ、為めに、眉間と米噛みとに小さい穴をほがしそこから欝血をしたゝらすことによつて死を長びかす仕方のある事を彼は聞いてゐた。此のばてれんのフェレラは嘗てその拷問には堪へたのである。しかし更に一層残酷な拷問、――温泉嶽うんぜんだけの沸騰する熱湯の中に逆吊りに浸たされた時、彼は遂に夢中で転宗を叫んだのであつた。転宗を一度叫んだ以上彼はもう「天国とは縁が切れた」のである。而もなほその厳しい監視と、堪へ難い迫害とは続くのである。かくて彼は思ひきつて自己に対する自棄な反逆から、奉行に身を売り、切支丹探しの犬となり、踏絵の法を案出して、奉行の歓心を得ようとした。「どうせ天国にそむいた上は地獄の鬼となれ。」彼はさう云ふ捨鉢な気持ちになつたのであつた。
「富井さんからもうお聞きになつたかも知れませんが……」
 フェレラはその硫黄の灰のやうな色をした頤鬚を逆に撫でながら横を向いてかうボツ/\云つた。「貴方に一つお頼みしたい事がありまして。」
 人の顔をジロ/\とぬすみ見はするが、決して真面まともには見ず、人に顔を見られる事を臆したやうな風で口籠る如く丁寧な言葉をつかふ此男の様を見ると、仮令たとへそれが此男の「手」かと疑つても裕佐は苦しい程気の毒になるのだつた。
「えゝ分つてゐます。聞きました。」裕佐は急いで云つた。「踏絵の事でせう。」
「さうです。その事です。」フェレラは始めてほゝ笑みを見せて云つた。「お願ひ出来ますでせうか。」
 その時君香が自分で茶を持つてそこへ這入つて来た。そして二人を見て、「入らつしやい。今晩は。」と、につこり微笑み乍ら云つて茶を注いだ。
「実は少し急がれてゐますんで……」と下役が口を切つた。「と云ふのは、御存じの通り、踏絵の検べは毎年正月の末に行はれる事に定まつてゐるんで、なるべくならば来年のそれに間に合せたいと思ふんです。それで貴方がもし幸ひにそれを承諾して下さるとすると、一刻も早くお願ひしておく方がいゝと考へたんで、実はこんなお席へ迄出しやばりたくはなかつたんですが――」
「へえ。さう?」君香は茶化したやうな調子で横から云ひ出した。「だけど、どうして此人が妾のお客である事が貴方方にお分りになつたんですの? 此人はまだそれやこそ/\の坊ちやんで、妾の処へなんぞ通つてる事を、どんな親友にだつて打ちあけられる人ぢやないんですのにね。」
「私達は今そこで偶然富井さんに行き逢つたのです。そして随分そこらの楼を訪ねたのです。」とフェレラは云つた。
「富井さん? あゝ、あのいやな奴。」と女は云つた。そしてフェレラの顔をぢつと見入り乍らつゞけた。
「異人さん。貴方、いゝお声ね。説教でもなすつたらさぞよく通るでせうね。だけど――貴方、随分苦労なすつたでしよ? 一通りならない煩悶をなすつたわね。そして今でもまだ貴方のお顔にはちやんとさう書いてあるわ。いゝえ、妾、苦労人が好きなんです。呑気人は嫌ひよ。」
「ふむ。さう見える筈です。此顔ですから。」とフェレラは冷やかされたと取つたらしく苦笑した。「私怖いでせう。」
「えゝ、子供は泣くでせうね。ほゝ。だけど凡そ怖いのとは反対よ。貴方、昔はさぞ立派だつたでせうね。ほんとにどんなに立派だつたでせう。今だつて貴方が其処に坐つていらつしやると何だか他の人達が貧弱で、見すぼらしくつて気の毒なやうですわ。だけど、」と君香は小頸こくびをかしげた。
「貴方のお顔には何か肝心なもの――何と云つたらいゝかしら――まあ命の光り、水気と云つたやうなものが、すつかり失せて了つたわね。その立派なお鼻から両方の口許くちもとへかけてのいやな皺なんぞは昔はなかつたもんにちがひないわ。きつと後で出来たもんだわ。さうでせう? 妾、之でも人を見抜く事は名人なのよ。だけど唯一人、どうしても気心の知れない人があるの。それは此人!」彼女はかう云つて裕佐をした。
「ふむ。」裕佐は赤面し苦々しくかう云つて横を向いた。
「ふむ、ですつてさ。あの口の端を一寸引つ吊つた処を見て下さいよ。あれが此人の唯一のお得意な皮肉の表情なんですの。『ふむ』位で人をごまかさうたつてごまかされるやうな妾ぢやないわ。妾かう云ふるい人は嫌ひ。」
 さうして彼女はその眉を上げ、下眼をつかふやうにして頤を出した。
「沢野さん、之から時々妾の処に来て下さらない? おいや? もう貴方、自由なんでしよ? こんな街をうろついてゐて富井さんに逢ふ位なんだから。妾あなたの淋しい気の引けたやうな処を見ると何だか涙ぐみ相になつてよ。貴方又体が馬鹿に巨きいからなほその寂しさが眼につくんですわ。丁度不幸な人の住んでゐる家が大きくて立派であればあるほど哀れな感じが深いやうなもんだわ。貴方がいくら威張つて、すごい眼付きをして歩いたつて矢つ張り駄目よ。後ろから見ると貴方はまるで死刑囚のやうよ。どうしてでせう。貴方は貴方の今迄経て来た煩悶丈けでも尊敬される資格があるのに。だけど、妾が占ふ処によると――」彼女は顔を横にねせて下から見るやうにして云つた。「貴方はきつと終りをまつたうしない方だわね。貴方はきつと病気ぢや死なない方だわ。」
「さう思ひますか!」
 黙然としてゐたフェレラはその蒼白な頬に異様な赭味をさし、濁つた眼に無気味な光りをたゝへて女を見た。
「おゝ美しい顔!」と女は思はず云つた。「あら、もう消えちまつた。暗い空の中にひらめく稲妻のやうだつたわ。」そして彼女は立上り乍らやゝ乱れてゐるつまをそろへた。「妾、今の貴方の顔に惚れちまつたわ。本当に。夢の中で見た事のある悪魔るしへるの顔にどこか似てゐるわ。それよりも弱々しかつたけれど。貴方本当に来て頂戴ね。妾全身の愛で夢中に可哀相がる事の出来る人に飢ゑてゐるんですの。妾自分が愛されようなんて気はもう全で微塵もなくつてよ。だけど妾心から可憐相かあいさうだと云ふ気にならなくつちや本当に愛する事は出来ないんですもの。だからかう云ふ――」と裕佐を指し乍ら「温和おとなし相でゐて心底の骨の強い人には妾決して惚れる事は出来ないの。此人はこんな人の善さ相な顔してゐてしんはそれは氷のやうにきついんですからね。ほゝどうもお八釜やかましう。」
 そして女は去つた。
「如何でせう。今の話は。」
 間の抜けたやうな沈黙を破つて、下役は眼で笑ひ乍らかう云つた。
「折角ですが――多分お断りする事になるでせう。」
 むつつりしてゐた裕佐は下役の冷やかすやうな顔をぽかんと見てゐた後で思ひ出したやうにかう云つた。
「どうしてですか。」
「第一に材料が今の僕の気持ちに全で向かないからです。それに自分の作物を人の下駄にする気もしませんからね。」
「下駄。はゝ、しかし鋳物でしたら、同じ物が幾つも作れるんぢやないですか。だから其中の幾個かは踏絵につかはれても、他に別のを残しておけるでせう。」
「しかし幾つ作つた処でどれも自分の子である事に変りはありませんからね。それに又たとひ作り度い気があつたにした処で、僕には碌なものを造れる自信もないのですよ。」
「何も作品としてさう非常な傑作でなくともいゝのです。只本当の信者がいくら自分をごまかさうと思つてもつい気が咎めてそれを踏みにくくなる丈けの一種の神聖さ、――信者にとつての犯し難い威厳と云つたやうなものがそこに現はれてさへゐればよいので、その程度に作つて頂ければ御礼は奉行から相当に差し上げられる事になつてゐるのです。」
「私達は」とフェレラが云つた。「無暗むやみに人を疑つて許りゐる役人のやうに思はれてゐますが、そして又信者達からはさう思はれるのが当然ですが、貴方方に迄そんな疑ひの謎をかける者では決してないのです。其点は安心して下さい。」
「考へては見ませう。しかし作る気がしないものは何とも仕方がありませんからね。」
 役人達は十中九迄諦める事になつて帰つて行つた。

一〇


 裕佐が其夜妓楼を出たのはの刻に近かつた。頭はズキ/\と痛んでほてり、体は疲れてゐた。雪もよひの闇空から吹く新鮮な冷風が心地よくびんや顔に当つても枯れ果てた心の重苦しさはなほらなかつた。自分は一生結局つまり之と云ふ何の仕事もせず、いたづらに生の悪夢にひたつて平凡に死んで行く運命の者ではなからうか。併しその事は案外此頃の彼には簡単に諦められる事のやうな気もしてゐたのだつた。仕事が結局何だ。事業本位で齷齪あくせく膏汗あぶらあせを流して生き、且つ死ぬる事が、与へられた束の間の生のうちに次から次と美しき幻を追ひ、充実してそれに酔ひながら死ぬる享楽本位の生活よりも果してどれ丈け人生本来の意義に叶つた事か、それが第一疑問である。事業、それも畢竟或る享楽を目的とするものにすぎぬとすれば、直接その結局の目的の為めに生きる事が現世に於て軽蔑され、手段たる事業の為めに生きる事が尊敬されようと、それが死と云ふ絶対者の前にどれ丈けの根本的差別をなすものであらう。畢竟只「自分の気のまぎらし方の区別」に過ぎなくはないか。そんな気が近頃の彼には※(二の字点、1-2-22)しば/\真面目に起るのであつた。「かといつてその自分の享楽の為めに他人が眼に見えて不幸になり、多くの運命が狂はせられる事が事実に於て自己の享楽の障りとなり、苦となるとするならば、自己の享楽が他人の享楽と一致する処に生ずる更に深い調和的な享楽の慾を満たす法は何であるか?」彼はさう考へて、「それはね、貴方が矢つ張り識らず/\神を信じてゐるからの事ですよ。」と云つた吉三郎の言葉を思ひ出した。そして自分にとつて享楽が享楽となつてゐたのは君香が自分を真に愛してゐると思つてゐたからの事で、それは又自分が矢張り何かの事業によつて自己を不滅化する処に得られる幸福の意識を欲してゐ乍ら、その事業が自分に覚束おぼつかない事を思ふが故に、その空虚をまぎらさうとして無理にあんな空な享楽主義を肯定したかつたからの事だと思つた。「もしあの女が……俺が全心をこめて愛してゐる心算つもりのあの女が」と彼は更に考へた。「一緒に死なう」と俺に促したら、「よし死なう」と其時俺は云ふであらうが、いざとなつたら矢張り決して死にはしないだらう。そしてあの女の死んで行く様を案外冷然と見てゐるかも知れない。あの女がいつも俺に「じつがない。狡るい。」と云つたり、「此人はこんな人の善さ相な温和しい顔してゐて、しんはそれは氷のやうにきついんですからね。」と云つたりしたのは皆本当だ。しかしさう思ふと彼は自分が厭になると共に可哀相になり、腹が立つて来た。
「あいつだつて……」と彼は思つた。「俺が思つてゐるやうな女ではない。せめてそれ丈けが俺の意識の上での生活の望みであり慰安でもあるあの女の誠は畢竟『あその誠』にすぎなくて、それを身うけが出来るなどと夢みてゐた俺は矢張りお芽出度い坊つちやんに過ぎなかつたのだらうか。」
 君香が始め悪く云つてゐたフェレラを一眼見るが否や急に態度が変り、哀憐の情を起したらしい其心理は彼には合点も行き、気持ちよくも思へたのであつた。しかし君香が冗談のやうに皮肉のやうに饒舌しやべつた言葉の中には、とても只笑つては聞き流せない実感らしいものが多くあつた事を彼は疑へなかつた。彼女の云つた事はどこ迄が真実で、どこまでが嘘なのか、彼にはさつぱり見当がつかなかつた。フェレラは彼女の昔の情人にでも似てゐて、それを「夢に見た事のある悪魔るしへる」なぞとごまかしたのではなからうか。それは自分の好きなものをわざそしり、内心嫌ひなものをことさらに褒める遊び女らしい一つの技巧に過ぎなかつたであらうか。或は唯単に嘲弄であつたのであらうか。
「疑つてもゐないくせに疑つたやうな顔して実のある処を見せようつたつて其手は喰はなくつてよ。」と彼女は後で云つた。「嘘つき。あれつぽちの事で苦しめる柄でもないのに。」とも云つた。「無論よ、妾、貴方を思ふ存分苦しめて上げ度いわ。貴方はもつと苦しまされる必要があるのよ。だけど妾は甘いからそれが出来ないのよ。あゝ妾貴方を本当に苦しめてやり度い。それは貴方を愛するからよ。貴方の為めを思ふからよ!」彼女は又こんな事も云つた。
 彼はそれらのことを想ひ出して、泣き乍ら笑ひわめき度いやうな気がした。「あゝもしあいつ迄が俺を見捨てたら、あいつの愛がまつたく信じられなくなつたら?……」
 ふと彼は吉三郎の明るい顔を思ひ出した。そして「あいつは幸福だな。」と呟いた。
「オイ、自暴やけに寒いと思つたら其筈だ。雪だぜ。」と一人のくはの様なものを担いだ男が云つた。「此土地に歳暮くれの中に雪が降るなんて、陽気の奴、気が違ひやがつたな。」
「本当に俺ア霜だとばつかり思つてたに。」と、もう一人の男が云つた。「なにぢき上つちまわアな、一寸たア積るめえよ。」
「なるほど雪だ。」トボ/\と暗い坂道を上つてゐた裕佐は始めて気がついたやうにかう呟いて、墨のやうな重い空を見上げた。チラ/\と大きな雪の片々が顔や肩にふりかゝるのが彼には快かつた。
「お前、金鎚を持つて来たか。」又一方の男が訊いた。
「そんなもの持つて来るもんかな、馬鹿臭え。」ともう一人が答へた。
「だがまア、行く丈けは行くだ。行つて見て誰も来てなかつたら帰るのよ。掘つて見ましたが、何矢つ張り犬の死骸でしたつて云やア済むんだからな。」
「本当に悪い悪戯いたづらをしやがるな。十字架をおつつといて猫の死骸をほじくらせやがる。それつてえも役人共が死んぢまつた者の棺桶をほじくり返へして迄検べるやうなしつつこいマネをしやがるからだ。」
「何も死んだ者を検べる訳ぢやねえ。それで後に生き残つてる自家うちの者を検べるんさ。だけど又片つ方も片つ方だ。死骸の頭へ頭陀袋づだぶくろ位掛けられたからつて御苦労さんに土ん中の棺桶の蓋をひつぺがして迄はづさなくつたつてよさ相なもんぢやねえか。頭陀袋一つで亡者が浮ばれねえつて訳でもあるめえに。」
「両方が意地の張りつくらをしてけつかるんだ。お蔭でこちとら迄こんな雪ふりの夜更けにこき使はせやがつて、だが来たからにや只ぢや帰らねえつて。」
 こんな事を彼等はブツ/\云ひ乍らやゝ千鳥足で裕佐の前を歩いて行つた。
 裕佐は自家うちへ帰る気はなくなつてゐた。彼は今何よりも眠りを求めてゐた。一切を忘却の川へ流し捨て、翌朝の日光と共に自己を生れ変つた如く新鮮な、生き/\した者にして呉れる眠りの「救ひ」を求めてゐた。それらが得られ相に思へるならすぐにも彼は飛んで帰り度かつた。しかし帰つた処でその救ひは到底得られ相もないのみか、只果てしない覚醒の闇になほも身を任し続けるよりない事は眼に見えてゐた。其時二人の労働者の会話が計らずも彼の好奇心と、望みとをひしと捕へたのであつた。
「よし、あいつ等にいて行つて見よう。」
 そして彼は何かを予感する如く、彼等の後に黙然と従つた。
「オイ、道を間違へやしねえか。墓地はこつちぢやねえぜ。」
薄野呂奴うすのろめ。もうあそこに墓が見えてるぢやねえか。袈裟けさを着た坊主がしやがんでるやうな恰好をしてよ。」
「なるほど、近道をしたんだな。――ヤ、人がゐるぞ。何か白いものが動いてるぢやねえか。」
「ぼけちやいけねえぜ。オイ、手前先刻の酒ですつかりぼけちまひやがつたな。あれや杉の木に雪がつもつたのが風で揺れてるんぢやねえか。」
「さうぢやねえよ。や、提灯かな。はゝ。なるほどあそこに新しい塚があらア。あれだな、うめえ/\。」
「何だ、手前掘るつもりなんか。」
「わけはねえや。どうせ泥をぶつかけてあるばかりなんだからな。それに棺桶だつて直ぐ蓋ア開けられるやうに釘を外へ打ち抜いてあるんだからひつぺがすなア造作はねえや。」
「ふむ。それや自家うちの者が頭陀袋を取り外す為めのことだ。もう今頃行つたつてちやんと本式に釘づけにしちまつてあらアな。見ろ。ふくろふめがホウ/\と笑つてけつから。」
「釘づけだらうがかすづけだらうが構ふ事アねえて。そいつをぶつこはしや、銀の十字架かめだいか取れようつてもんだ。さうすれやそいつをぶして銭にした上に褒美の酒手さかてが貰へるつて訳だ。」
 併し裕佐は自分の後ろに、半町ほど離れて、二人の婦人らしい人影が跟いて来るのを見た。彼は一寸立ちどまり、そして彼等がその墓地へ、その新塚へ、行く者であるかどうかを見届けようとした。併し二人の婦人はその墓地の手前で立ち止まり、何かを私語さゝやくらしく左手の道を指し、そして非常な早足で其方へ曲つて行つた。
「きつと降誕祭なたらへ行く連中かも知れない。」と裕佐は思つた。「だが何んであんなに急ぐんだ。まだそんな時刻でもないに。」と、又二人の去つた後を丁度又半町程の距離で、更らに二個の黒い影が忍びやかに跟けて来るのを彼は見た。闇眼でよくは判らないがその一方は非常に背高く、そして二人は黒いマントのやうなものを頭からかぶり、一言も口を利かず少時しばらく立ち止つてぢつと此方を見てゐる様子であつたが、又二人の婦人の跡をつけて左手へ曲つて行つた。
「何だらう。」裕佐はやゝ不安の気に襲はれていぶかり始めた。「事によつたら、あの一人はフェレラではなからうか。もしさうだとすれば……」と彼は考へた。「彼等はもう今夜降誕祭なたらのある事に感づいてそれを探りに行くのではなからうか。」
 さう思ふと彼は一種不安の緊張の為めに身をふるはした。「よし。あいつらの後を俺が又跟けて行つてやらう。」そして其方へ向つて彼は大股に歩き出した。
「降誕祭へは俺は行くまい。」と彼は又ひとつた。「あの人に逢ふ事は恐ろしい。そして此けがれた体の俺が行く事はその神聖な祭りの清浄をけがすものだ。俺は只窓から中を盗み見てやらう。只一眼! そして俺は外で見張をしてやるんだ。」
 彼は急いで後へ引返し、曲り角を左へ折れると坂の頂上にちらりと明りが見えた。その灯の赤さによつて、「焚き火をしてゐるな。」と彼は思つた。「あり難い。そしてあの茶屋へ行つたら多分様子が知れるだらう。」
 彼がその茶屋であり又一膳飯屋でもある家に這入つて行くと、二人の男は後ろ向きに土間の炉縁に腰をかけて焚き火にあたつてゐた。
「ぢや卵酒でもつけますか。温まりまするで。」
 五十前後の歯を黒く染めた主婦は這入つて来た裕佐に莞爾につこりとお辞儀をし乍ら「お寒う、おあたり。」と云つた後で、又二人にかう訊いた。
「いや、肉類も卵も禁止だ。今は一寸、精進物の他はやつてならん折なんでな。」一人の男は頭から足の先き迄ギロリと裕佐を見た後でかう云つた。「只熱燗あつかんに漬物でも添へてもらへれや結構だ。」
「此犬共奴。」と裕佐は思つた。「降誕祭なたらと悲しみの節とを間違へて下手な化け方をしてやがるな。」彼はかう心に苦笑し乍らわざとそのマントのやうな物を着た男の前に廻つて「御免」と云ひ乍ら煙草に火をつけた。大男は頭巾を眼深まぶかにかぶり、黒い毛織の襟巻きを鼻の頭が隠れる迄ぐる/\と頤に捲きつけて俯向きながら、その恐ろしく大きな痩せた両手を火にかざしてゐたが、ゆつくり頭をもたげるとハツとしたやうに、
「や、萩原さん、先刻は失礼。変な処で逢ひましたね。」かう云つて底光りのする眼で愛想よく彼に会釈した。
「どうも貴方らしいと思つたんです。」裕佐もハツとし乍ら云つた。「今頃こんな処にお務めですか。」
「御苦労さんです。一寸用がありましてね。」フェレラはその連れを顧みて苦笑しながら云つた。「で貴方は? 何か墓地に用事でもおありになつたんですか。此夜更けに。」
「あんまり気違ひじみた世話やきを見るとつい此方迄物好きな気持ちになるもんで。」裕佐は一寸黙つた後でかう云つた。「何しろ死んだ者の体の検査迄しないと気が済まない世話やきが居るんですからね。」そして彼は二人の「をかしな男」に逢つた事と、その二人が何をするか見ようと思つて跡をつけて見た事を有体ありていに話した後で附け足した。「それに僕は雪の中を歩く事が好きなんですよ。此土地では珍らしいから。」
「さう。雪の夜は美しいもんです。」フェレラは云つた。「しかし貴方は今夜もつと美しいものを見られるでせう。――それは多分先刻お願ひした貴方の仕事にいゝ材料になるでせう。」
「何です。それは。」
「降誕祭です。ぜすすの誕生を信者達が祝ふ祭りです。それは美しいもんです。」
「さうでせうね。そして貴方方はそれを捕縛しに来てゐるんですね。」
「ふむ。ところが奴等だつて中々さう容易たやすく捕まるやうな間抜けはしませんよ。もう心得てゐますからね。」と連れの与力が云つた。「第一今夜はその祭りの当夜ではないんです、御存じの通り。だから奴等は用心深く先き廻りをしてこんな晩にやるんです。こつそりと。それもどこでやるんだか全で分りやしません。」
「なるほど、それで貴方方は此処の内儀かみさんから場所を嗅ぎ出さうと思つて、あの仲間らしく思はせようとしたんですね。――だがさう云へば今貴方方の前を二人の婦人が歩いて行きましたね。」
「えゝ、茂木の方へ。」と又与力が云つた。「よくやる手ですが、私達が跡をけてると思ふんで、足跡をくらますつもりでわざと大浦の方へ曲つたやうな風でした。へツへ。」
「だが大抵分つてはゐます。」とフェレラは云つた。「どうせすぐ近所に祈祷が洩れ聞こえるやうな人里の中で彼等は集まりはしませんからね。いつも大抵茂木のはづれにある醤油屋のくらを彼等は密会所にしてゐます。行つて御覧なさい。もうそろ/\始めてゐる時分です。」
「私達は今夜は捕縛なんぞはしませんよ。御覧の通りの支度ですからね。只一寸様子を見る丈けです。何しろ向うは大勢ですからな。」と与力が口をそへた。「え、道ですか? 茂木の入り口の処で右に細い田圃道がありますがね。何でも人通りの少ない筈の処に足跡が多かつたらそこを行きやいゝんです。へツへ。時ならぬものが降つてくれたお蔭で足跡を見つけるにや丁度ちやうどいゝ都合でさ。」
 そして二人は顔を見合せてにやりと笑つた。
「茂木までは少し大変だな。それに風も出て来た。」裕佐は呟くやうにかう云つて一寸外を覗いたが、主婦の処へ行つて茶代を払ふ振をし乍らそつとその手に銀貨を握らせた。そして今夜此の近くに切支丹の集まりがあるのを知らないかと低くおごそかに訊ねた。主婦は眼を円くし、銀貨と彼の顔を見比べてゐたが実際何も知らない様子であつた。
 裕佐は外へ出た。

一一


 雪はもう止んでゐた。そしてサラ/\と淡雪をふり落とす松の梢の上に高く、二三の星が深淵の底に光る金剛石のやうに寒くまたゝいてゐた。
 彼は急ぐと云ふより寧ろ走つてゐた。そして発作的に何遍も後ろを振り返つた。彼等が自分の跡をけて来ないと云ふ事は彼には一層無気味な事であつた。彼等はいやに余裕綽々しやく/\としてゐる。そして凡てを見抜いてゐるらしい。信徒の集会所は茂木であると彼等は云つてゐるが果して本当にさう思つてゐるのであらうか。併しもし今夜の密会所を彼等が知つてゐるとするならば、彼等は何であんなに空とぼけて迄それを探らうとするのであらう。さう思ふと「矢張り知つてはゐないのだ。」と彼は安心もした。しかし何故自分に、此の何者であるか分らぬ自分に、彼等は軽々しくその秘密な知識を打ちあけるのであらう? 彼は自分の去つた後で彼等がカラ/\と笑つてゐるのを眼に見るやうな気がした。「何でもいゝ。早く知らせなくてはならない。」
 彼がさう思つて目あての家の方へ道を曲らうとした時道端の納屋の後ろから突然ぬつと一人の男が現はれた。
「待つてゐました。萩原さん。」と其男は青年らしい声で云つた。「貴方が此道を通られはしないかと思つて来てゐたんです。此処を通つてはいけません。雪に足跡がつきますから。」
「だがぐづ/\してはゐられませんよ。もうそこの茶屋には与力が来てゐるんですから。」
「もう?」吉三郎は流石さすがに驚いたやうに云つた。「しかし大丈夫です。奴等はあの場所を知つてゐる筈はありません。さア此処を飛ぶんです。よござんすか。」
 そして彼は三尺程の溝を飛び越え、熊笹の茂つてゐる一間余りの崖をぢ登ると上から手を差し延べた。裕佐がその後に続いた時、そのくさむらの中からは藪鶯がチヽ、キヽ、と啼いて飛び散つた。崖の上は桑畑であつた。
「えらい処へ案内して済みませんでしたね。」青年は元気よく太息を吐き乍ら笑つた。「だが本当によく来て下さいましたね。其代り今夜のは本当に今迄にない立派な降誕祭なたらです。」
「長老は来られましたか。」
「えゝ、実はもう七日程前から私の処におかくまひしてあつたんです。私は是非貴方に一度あの長老を見せたかつたんです。」
「しかしよく天草から無事に渡つてくる事が出来ましたね。」
「熱心な信者の船頭がうまく隠してお連れして来たんです。何しろもう七十近い齢で八年の間あの天草でまるで無人島同様な所に乞食のやうな生活をして、僅かな信者を作り乍らかくれてをられたのですからね。しかしその矍鑠くわくしやくとした気力と、つや/\しい顔の輝きとの少しも変らないのには全く驚きますよ。」
 風と闇とに抵抗して二人は道らしい道へ出てゐた。そこは峠の絶頂で眼の下に底知れぬ闇の如く黒くひろがつてゐる千々岩灘ちゞはなだが一眼に見え、左手にはさながら生ける巨獣の頭の如く厖大に見える島原の温泉嶽うんぜんだけ蜿々ゑん/\と突き出てゐる。ごう/\とたけつて彼等に吹きあたる風の音は、その既に幾十の人命を呑みくらつてなほ飽きたらぬ巨獣のえる如く思はれた。と、又遙かに――縹渺へうべうの彼方には海上としては高過ぎ、天空としては星の光りとも見えぬ、海とも空ともつかぬあたりに天草のいさり火が吹きすさぶこがらしに明滅する如く微かにまたゝいてゐるのであつた。
「御覧なさい。こゝへ来るともうこんなに沢山の足跡が見えるでせう。あそこに箒のやうに風で曲つてゐる森が見えますね。」と吉三郎はグツと襟を押へて掻き合はせ乍ら云つた。「あの森の下にその家はあるんです。どうです。まるで見えないでせう。昼間なら家根は見えるんですが。」
「しかし万一発見された場合には、逃げ道はあるんですか。」
「えゝ、無論です。しかしどうせ私が外で見張り番をしてゐますから、踏み込まれるやうな心配はありませんよ。」
 まつたく其の家はすぐ側まで行つてもそれと知らずには一寸気がつかない程、闇の中にあつて闇にとけ込んで見える不思議な一軒家であつた。
「さあ、裏から廻はりませう。さうすれば此の真つ暗に見える『天の岩戸』の中にどれ程の光りがたゝへられてあるか、貴方は喫驚びつくりなさるでせう。」
 併し其の「岩戸」の中の光景は「裏から廻つて」這入つて見ずともその一分の光りも洩れぬ壁に耳をあてればカナリ充分に想像は出来るのであつた。その厚い壁を通してそこからは裕佐が嘗て夢想にも聞く事の出来なかつた世にも美しい合唱が洩れ聞こえて来るのだつた。
「あはれみの御母おんはゝ天つ御みくらに輝ききらめける皇妃にてましま
御身に御礼をなし奉る
流人るにんとなるエワの子供ら
御身に叫びをなし奉る
此の涙の谷にてうめき泣きて御身に願をかけ奉る――」
「聞こえますか。あれはさるべんじなと云つて、『まりあ』に憐れみを乞ふおいのりの歌です。今夜は殆んど一晩中祈り歌ひ明かすので、降誕の祝ひの歌の他にあゝいふのも歌ふんです。」
 歌はなほつゞいた。
「あはれみの御眼を我等に垂れ玉へ
いつくしき御手の御執り成しによりて此の悩みのさすらひの後に
御胎内の尊きにておはひりをの若君を我等にあらはし玉へ
深く御柔軟、深く御哀憐すぐれておは
びるぜん、さんた、まるやの御母
おうら/\のびす。おうら/\のびす。」
「此処が這入り口です。牛小屋ですがね。」吉三郎はかう云ひ乍ら納屋のやうに見える裏口の戸を開けた。「御覧なさい。貴方始めてですか。之も毎年やる儀式なんです。」
 炉にあか/\と焚かれた火の余燼が綺麗に掃き清められた小屋の中をほんのりと温く照らした。一隅には一匹の黒白のまだらの牛が新らしい藁をタツプリと敷いて静かに口を動かし乍ら心地よげに臥してゐた。牛の前には赤飯を盛つた盆が供へられ、そのわきになみ/\と「ぶ湯」の水をたゝへた飼桶かひばをけが置いてあり、その水に灯かげがあかく映つてゐた。勿論、火が焚いてあるのは「御子」が凍えぬやうにとの意味である。
 吉三郎は指でコツ/\と合図をするやうに扉を叩いた。と、ぱつと扉が開き、あふるゝ許りの光り――裕佐にはさう感じられた――が滝のやうにそこからほとばしり出るのであつた。
「吉三郎さん?――お一人?」
 扉口に立つた女はかう張りのある声をかけて扉に片手をもたせながら、胸にかけた小さい金の十字架がぶらりと前に垂れる程頭をかゞめて薄暗い小屋の中の方をのぞくやうに見た。
「いや。一緒。丁度うまくお会ひ出来たんでね!」吉三郎は元気よく云つて、まぶし相に眼をしばたゝき乍ら呆然と傍に突つ立つてゐる裕佐の方を顧みた。
「あら、さう。――」女は一歩退しりぞいて一寸眼を伏せた。「妾、随分、心配してゐたのよ。」
「だらうと思つてゐました。さあ、萩原さん。上つて下さい。」
「いゝんですか。」裕佐はおそれるやうにモヂ/\と口籠つた。「僕は上るつもりではなかつたんですが。」
「いゝどころではありませんよ。無論。」
 吉三郎はかう云つて自ら上り乍ら、此の「よくやつて来た珍客」に何か歓迎のお愛想を云はないかと促すやうに姉を見た。
「本当にようこそ。――随分大変で御座いましたでせう? こんな山ん中で。――」
 むしろ努めた感じで之丈けの事を云つたモニカの調子は、最早もはや心に思ふ半分も云ひ現はし得ぬ、羞ぢらい深い娘の口調ではなかつた。ましてそこにチャーミングな余情を含ませんが為めのわざとらしいあまい「舌足らずさ」ではない。かと云つて、それは又善良な教養のある人妻にのみ見られる一種の世故慣れた母らしい落ちつきの声でもない。決して無愛想な調子ではないが、気の利いた世俗的な感じでは更にない。冷たいと云ふにしては奥底に「心」がありすぎる。しかし只温かく、柔和なと云ふのともちがふ。それでゐて角立たしい気持ちがあるのでは徴塵もない。
「随分暫くでございましたね。」
 むしろ弟の方に体を向けながら彼女は又かう云つて裕佐の前に高島田に結つた頭を下げ、軽く手を突いた。そして「暫く。」と吃るやうに漸く云つてあわてて其処に坐り、ぺこんと頭を下げた裕佐の赭くのぼせた顔をちらりと見ると、かすかに苦し気な微笑をたゝへ乍ら又弟に顔を向けた。が、其時彼女の頬にひらめく如くさした赭味は、四尺とは離れてゐなかつた弟の眼にもとまらないらしかつた。
 彼女が島田に結つてゐる処を見るとまだ人妻でない事はすぐ知れる事であつたが、その縹緻きりやうと、年輩とを以て未だに独身でゐるのはなぜかと云ふ怪訝けげんも同時に誰にも起る筈である。一度ならず二度迄も信者からの縁談を彼の女が断つた真の理由を知つてゐるものは唯弟の吉三郎のみであつた。
「あの姉はね、母になる事を怖れてゐるんですよ。自分の運命が『畳の上で』息を引取る者とは違ふ事を何となく迷信的に自覚してゐるのですよ。僕はさう思つてゐます。」吉三郎は嘗て裕佐にかう云つた事があつた。
「あゝ、さう。」起ちかけた彼女は又何か弟にさゝやかれて無造作に低く云つた。「あの詰らない花を貴方、買つて下さいましたのですつてね。お蔭様でこれけでも飾りが出来ましたんですのよ。」
 外見は廃家のやうに見えるその五十畳許りの家の中央には枝葉を繁らせた大きな松と竹とが樹てられ、その枝にさした幾十の紅白の蝋燭があか/\とともつてゐた。そこに又一々「あーめん・ぜうすぺてろ何某」「同じく、よはんな何某」などと認められた五色の紙切れと、造花の白百合とが無数に結び垂れ下げられてあつた。正面には高くふたつの燭台の間に聖像がかけられ、そのわきの壇上にはばてれんらしい黒衣の老人が腰をかけて一人の男と何か熱心に話してゐた。そしてその前には白襟に黒の礼服を着た多くの女達と、男とが並んで、頭をたれながらその話に耳を傾けてゐた。
「あちらにいらつしやいませんか。およろしかつたら。今長老様のお話が始まつてゐる処ですの。」モニカはかう二人にさゝやくと、軽く一礼してそつちへ去つた。
「まあ自由にして下さい。努めないで。」と吉三郎は云つた。「僕は又見張りに行つてゐなければなりませんから。」
「いや、今度はわしが行つてゐますぢや。」と一人の百姓らしい男が傍から立ち上つて遮切つた。
「貴方許りに行かせちや相済まない。」
「でも貴方は年寄りだから。――それに風が強いのですよ。」
「なあに、風位。かう見えたつてわしやまだ/\あんたなどよりは頑丈ですて。へツへ。」
 年寄りはもう下駄を突つかけてゐた。吉三郎がなほ危ぶんで「大丈夫ですか。本当に。」と訊いた時にはもう外へ出てゐた。
「さうだ。私は貴方のその問ひを待つてゐたのだ。それは大事な問題です。」と長老の声は響いた。「だが吾々はあにまに於て神の国に生きる事が出来ると同時に肉体に於てカイザルの国に属してゐるのですからね。今の現世に於て、吾々は何と云つてもカイザルの支配を受けない訳に行かないのです。が、吾々が捷利せうり――即ち救ひを得る道は、徒らにその事実にあらがふ事でなく、いやしくも自分の霊がそこなはれ、縛られ、殺されるのでない限りは、此運命を諦め、出来るならばそれに超越して、カイザルのものはカイザルに返へし、忍べる処迄は彼等の要求に譲り、ゆるして、只霊に於て益※(二の字点、1-2-22)神の国と其のたゞしさとを求める事である。吾々はそれでいゝのであつて、又どうせ自由なものは霊丈けなのですからな。吾々は肉体に於ていかに束縛され、迫害を受けるとも、もし霊に於てたゞしく生きるならば、常に神の愛を感じて喜び、自由である事が出来るのですからな。」
「しかし奴等の無法と云つたら――」一人の男は膝を乗り出した。「もうお話にも何もならねえチヨツカイきの悪魔で御座いますでな。」
「たしかに悪魔の暴力は今殊にはげしい。神の国とその義しさを求める事が強ければ強い丈け吾々は苦しまされるのです。」長老は少し顔を曇らせた。「しかし悪魔は決して最後のものではない。必ずその後にまだ何かある。吾々はその悪魔の後にゐるものに試煉を受けてゐるのです。しかし――」長老は一段声を強くして云つた。「吾々は基督が十字架につかれた事をいやが上にも生かさなくてはならない。吾々の使命が皆基督と共に十字架につけられる処にあるとするならば、基督があれほどに進んで自ら十字架の苦難につかれた意味はどこにあらう。それは却つてその重大な意義を消すことになる。殉教者は尊まれなくてはならない。が、云ふ迄もなく殉教のみが尊まれてはならない、吾々はカイザルの支配下に生きながら、而も身を殉ぜずに立派に義しく生きた多くの聖者のある事を知らなくてはいけない。吾々の幾多の先輩は既に義しき者の強さを遺憾なく発揮し尽したのです、吾々は今義しき者の賢さを示さなくてはならない。『蛇の如くさかしくあれ』と云ふ事は素より放縦な狡猾をさして云ふのではない。併し深く身を愛する事は霊を大切に守る事である。その霊と肉とは只自分の物ではなく、神のもので又隣人のものである。もし基督の教へが父なる神を真心をこめて愛し、その義しきを求め、又隣人を愛することであると同時に、又その神によつて与へられた身の生を神ならぬものの為めに空しく抛げ捨てるやうな愚かな不敬な事をせずに、それを深く愛し尊重して自然に生きる処に自づと神の恵みを受けて無信徒の知らぬ楽しみを楽しむ事にあるのでないとするならば、基督は十字架にはつかなかつたのでありませう。」
「しかし乍ら皆さん。」長老は語をついだ。「私達の尊い先輩が造り、今又此のわたし達が現に造りつゝある日本での切支丹の事蹟は決して単に日本一国の史上に於てのみの異彩のある光りではありません。永久に神の国とその義しさとを求める凡ての熱烈な真心のかゞみとなるでせう。日本人はその美しい真心を強く持つ上に於て他のいかなる国民にも決して劣らぬ者である事を吾々切支丹によつて程強く示したことは嘗てないのです。此事実は永久に日本国民の深い力となり、希望となるでせう。わたしは遙々遠い国から此心を求めて、此心にふれ度くて貴方方の処に来た。基督と云ふ大なる星の導きと、その光りの暗示とによつて、遙かに離れてゐる二つの小さい星がまたゝき合ふやうに、私と云ふ一つの心が、貴方方と云ふ心を尋ねて、はるかに暗い長い海上を、荒い波や風と戦つて此処迄辿たどり来た。そこには暗礁があり、そして岸に着いてゐる私を岡へ上げなかつた。私達はお互に岸の上と岩の上とから呼び合つた。叫び合つた。八年の間。而も遂に貴方方の真心が一つの強大な引力に結晶して私を其暗礁から引きずり上げ、此処へ連れて来たのです。私の心は今貴方方の百合のやうにやさしい清らかな愛と、燃えるが如き真心とのさ中に抱かれ、ひたつて、今死んでも悔む処もない程の法悦に酔つてゐます。私の期待はそむかれなかつた。あゝ此の地上に於て此の如き深い喜びが神から恵まれるのでなしにどこにあり得ませう! あゝ真心ほど美しく、その力ほど強いものはないのだ。併しもしそれが真理の巌の上に立ち、その光りによつて輝くのでないならば、それは決して此世を導いて行く力とはなり得ないのです。吾々は基督によつて示された真理と、神との名に於てなほ益※(二の字点、1-2-22)団結を固くしなければなりません。それは此のくらき世に光りを燈し、それを守らんが為めである。あゝ、我等をしてなほ強く此の聖なる団結を増さしむる神への愛をいやまし玉へ。あーめん」
 長老がかう云ひ終るか否や群がる男女達は各々のその胸に十字をかき、長老の傍に集まりひざまづいてその衣のひだに接吻した。
「あーめん・ぜすす! あーめん・ぜすす!」
 しかし彼等が口々にかう呟いた丁度其時であつた。長老の真後ろにあつた「非常口」の扉が突然カタリと音がして一寸程開いた。とサツと其処から風が吹き込んで聖像の両側にある燈を消した。忽然として我れを忘れた歓喜と此世ならぬ陶酔との絶頂にあつた一同の顔は一斉に化石した如く蒼くこはばり、そして彼等は、ハツと一時に息をひそめて、※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらいた視線を其方に向けた。
 そこには真暗闇の中に燭火の反射によつて二つの眼が光つてゐるのが見えた。一同は棒のやうに立ち上つた。
「静かに!」と長老は制した。「あわててはいけない。私にお任せなさい。」
 そして彼は静かに後ろに振り向いた。

一二


 吉三郎は長老の身を守らうとして逸早いちはやくそのわきに来て立つてゐた。併し彼がその「二つの眼」と長老との間に立ち塞がつたやうに吉三郎とその二つの眼との間に裕佐は割り込んだ。
「君達は黙つていらつしやい。」と裕佐は低く鋭く吉三郎に云つた。「そして誰も掴まる必要はない。さあ、早く、あつちから!」と裏口をさした。そして彼はその扉口をガラリと開けた。
「はあ! 貴方は矢つ張り『見に来て』ゐましたね。」
 その闇の中の男は云つた。
「さあ外で話をしよう! 外で!」裕佐は自分で外へ出乍ら云つた。「犬は人間の座敷に立ち入る資格はない!」
 そして彼は扉を閉めようとした。併し扉は何かを間にはさまれたやうに動かなかつた。
 二つの眼は蛇のやうに動かず、ぢつと長老を見つめてゐたが、
「おゝ。アントニオ・ルビノ! ルビノ!」
と低くふるへるやうに叫んだ。その声を聞くと長老はやゝ愕然としたらしく反響するやうに重くこたへた。
「おゝ汝はキリシトファ・フェレラ! フェレラ!」
「フェレラ」と云ふ語を聞くと家の中の一同は又湧き立つ様にざわめいた。「ユダ! ユダ!」と云ふ声が聞こえた。そして一二の侍は隠し持つてゐた刀を執つた。
 その時、呼び笛の声が高く響き、もう一人の男が闇から現はれて、そのしきゐに足をかけた。裕佐は繩を持つてゐるその右の手頸を掴んだ。
「何だ貴様は!」その男は抑へられた手を強く振り乍らわめいた。「仲間か!」
「さうだ。俺は此の仲間の頭だ! 掴まへるなら俺を掴まへろ!」
「おゝ長老様! 早く/\お逃れになつて!」
 モニカはかう叫んで、長老の膝にすがりついた。
「わたしはいゝ。海神はわたしが所望の宝なんだ。わたしを投げれば海は鎮まる。」
 長老は自若としておごそかに云つた。しかしモニカは聞かなかつた。
「いゝえ、役人は貴方様のいらつしやる事を知つてはゐなかつたのです。どうして貴方様をこゝに残して妾達は逃れられませう!」
「わたしの云ふことを聞きなさい!」長老はやゝ激した如く顔を赭くして命令するやうに云ひ放つた。「わたしはもう既に身を隠しすぎたのだ。時を待ちすぎたのだ。しかしそれは何の為めだ。貴方方真に生きねばならぬ人達を守らんが為めではなかつたか! さあ、早く!」
 そして彼は鋭く裏の戸口を指すと、又後ろに向いて捕手の方に一歩近づいた。
「さあ、わたしを捕へなさい。昔の親友よ! 大なる神は屹度君の罪をもゆるし玉ふだらう。」
 長老は厳かにかう云ひ乍ら、自分の裏に一同をかばふ如くその大きな両手を拡げた。そして一眼フェレラの眼をきつと視ると眼を閉じた。
 フェレラは水のやうに真蒼になり、無言のまゝ静かに繩を取り出した。しかし彼が閾の上に立ち上るが否や、彼はフラ/\としてよろめき、そしてもう一人の男の足許に倒れた。

一三


 半時間程を経て後、裕佐は一人道もない峠の上を歩いてゐた。いばらやかやの為めに傷ついた足や手から血を流してゐる事も知らぬらしく夢中によろ/\と歩いてゐる彼の姿はさながら夢遊病者のやうであつた。そしてある草原へ来た時彼はそこが雪で濡れてゐる事も考へず、自づと倒れるやうにそこに身を転ばした。
 何と云ふ一夜であつたのであらう。ガン/\と鳴り響く混沌たる彼の頭の中には最前からの一切の光景、人物の顔――のやうな墓場の景から茶屋の中でのフェレラとの異様な邂逅かいこう、青年の顔、昼の花園の如き光りと色とにあふれた祭りの光景とその歌、モニカの顔、長老の顔、そして最後に突然蛇のやうな眼を持つた探偵者の襲撃が一座の有頂天を破つた時「おゝ、長老様。早く/\お逃れになつて!」と叫んで、その膝許に身を投げた時のモニカと、それに対して儼然と答へた時の長老の姿、フェレラの昏倒。
 それらが一時に彼の頭の中にグル/\と渦の如くとめ度なく廻転し、そしてその一つ/\の印象がくつついたり、離れたりした。凡てが全く夢としか思はれなかつた。
「さうだ。俺は此の仲間の頭だ! 捕まへるなら俺を掴まへろ!」俺はあんな事を云つたのだな。――ふとかう思つて彼はゾツと身をふるはせた。併し「俺には矢つ張り勇気があるんだな。真心から出る勇気が、」と思ふ子供らしい意識が彼の顔に満足気な微笑を浮べさしてゐた。
 実際彼は指揮官フェレラの実に思ひがけない昏倒の為めに、捕縛が「その場けとしては」とも角不成功にをはつた事を思ふと、もうその後を「どうなつたか」と追究して考へる気にはなれなかつた程満足な自意識に酔つてゐた。そして自意識がそのやうに満足した時にのみ人の心に湧然と起つて来る一種の愛感――凡ての悲劇的運命の中に生死を賭して真剣に生きてゐる人々、その緊張した一々の顔――に対するなま/\しい哀憐が彼の胸のうちに苦しく痛ましく起つて来るのであつた。そしてその「悲劇的な運命」の人々の顔が、抽象的に人類全体の一つの不幸な姿に見えて来た時、彼の眼に熱い涙が浮んで来た。
 彼がその涙にうるんだ眼で、ういつの間にか去つて微かに遠雷のやうに聞こえる嵐の音に耳を傾けながら、降る如く一面に星の現はれた空をぽかんと仰向いて見上げてゐた時、突然何か驚くべきものを見たやうに彼は「アツ」と云つた。彼が驚いたのは当然であつた。彼が何心なくぽかんと視入みいつてゐた大空の一角には、実にことさらに星を其形に並べてちりばめたとしか思はれぬ巨大な十字形の一星座が判然と見えるのであつた。愕然として思はず彼が半身を起し、そしてその恐ろしい巨大な十字架に相応する丈けの基督のすがたをふと心に描いた時、突然稲妻のやうに、ある天啓が彼の頭に閃いたのであつた。
 彼の眼の前に、再び、現実のそれよりはなほ一層高き神秘なる美と権威とに於て、長老と、モニカとの結合体が髣髴はうふつと現はれた。その結合体が星座の大十字の中に燦然さんぜんとして見えた時、彼はその前にひれ伏したが、次の瞬間彼は「オヽ!」と叫んで飛び上つた。
「オヽ、これだ! 之だ!」彼は拳を空に打ち振つてわめいた。「オヽ、今こそ、俺はあの聖像を造らう! あゝ、もう俺に造れる! 造れる! 有り難い!」

一四


 其翌日、彼が伯母に起された時にはもうひるを過ぎたうらゝかな日が真上から長崎の町を照らしてゐる頃だつた。くまなく晴れ上つた紺青こんじやうの冬の空の下に、雪にぬれた家々のいらかから陽炎かげろふのやうに水蒸気がゆらゆらと長閑のどかに立ち上つてゐた。
 伯母は彼の枕許で役人が来た事を知らせてゐた。
「え? 役人?」
 裕佐はドキリとして思はず身を起した。「掴まへに来たのか?」彼は昨夜捕手に向つて云ひ放つた自分の夢中な言葉を不意に思ひ出した。
 しかし彼は其の瞬間さつと顔色を変へたが、案外すぐ落ちついた気持ちに返つた。そして一寸黙つて考へた後で決然と玄関へ立つて行つた。
「何です。」彼は突つ立つた儘訊いた。
 しかしフェレラはゐなかつた。
「いや、別に、新しい用事で上つた訳ではありませんが。――昨夜は失礼しました。」
 役人は頭を下げた。それはフェレラと共に彼を妓楼に訪ねた「通訳の件」であつた。
「昨夜お願ひした事ですが、――実は早くはつきりした御返事を伺ひ度いので。――矢張りどうしてもお願ひ出来ますまいか。」
「いや。」と裕佐は急に安心と、喜びの為めに勇んで云つた。「やりますよ。お引うけしませう。」そして彼は附け足した。「実はその事を今日貴方の方へ云ひに上らうと思つてゐたのでした。」
「え? 承諾して下さる。さうですか。それなら願つたり叶つたりです。」役人は安堵したほゝ笑みを洩らし乍ら云つた。「どうぞ精々よく作つて下さい。お出来ばえがよければよい丈けお礼の高もえるのですから。はゝ。」
「それでは本当によく出来れば出来るほどつまりお礼は減るわけですね。」裕佐は一寸かう云ひ度くなつた。しかしそれより彼はもうその嬉しい仕事の想像に気を取られてゐた。そして只、「承知しました。」と云つた。
 役人は時々様子を見に来させてくれと云ひおいて帰つて行つた。
「どうです。かう云ふ天狗ならいつでも来て貰ひ度いでせう。」と彼は元気よく伯母に云つた。「大黒さんが来たやうに嬉しいでせう。」
「ほんに妾はもうこんな嬉しい事はないよ。いよ/\お前にも運が向いて来たのだね。」伯母は袖で眼を拭き乍ら云つた。
「はゝ、本当にさうですよ。」
 裕佐はかう云つたが、何だか胸がくすぐつたいやうな気がした。「さア、此金で、俺はあいつを身うけする事が出来るんだ。もしそれが出来る事なら!」彼はかう考へてゐた。そして晴々してゐた彼の顔は俄かに曇つて来た。
 しかし其時伯母が彼の顔をのぞき乍ら云つた。
「だけど、お金はとれても惜しいもんぢやね。そのお前が丹精して造つたものが人の足に踏まれるんぢやと思ふとな。」
「ふむ。心にもない事を、人の気を察したつもりで。」と裕佐は苦々しく思つた。「もし察したつもりで云ふならば、それを踏む事を強ひられ、踏まねば殺される切支丹の方の事を思ふがいゝ。」
 しかしさう思つた時、裕佐は更に或る恐ろしい不安にドシンと胸を打たれたのであつた。「俺が作るその踏絵をあの人も、そしてあの弟、――立派な思想と信仰とを抱いたあの美しい有為な青年も踏む事を強ひられる事になるのだ。彼等はそれをう踏むであらうか? 踏んでくれるならば有り難い。それは自分の神聖な作品であつても、もしあの人の浄い足がそれを踏むならば俺はいやではない。否、むしろそれを本望とするであらう! だが、あの人、あの熱心な信女しんによはそれを為し得るであらうか?」
 彼はそこにゐられなくなつて、自分の室に入り、まだ畳んでない床の上に寝転び乍ら考へつゞけた。「もし俺がそれを作つた為めに、そしてそれがよく出来てゐる事の為めに、それを踏むあの人の良心がなほ一層苦しみを増し、それをなし能はない事になるとするならば、俺はあの人を、恋人を自ら殺す事になる!」
 そして彼は悶え、一刻前の凡ての輝ける希望と、喜びとは忽ち底知れぬ絶望と懊悩あうなうとに変つた。
「あゝあ、」彼は凡てがいやになり真つ暗になつて力無くめいた。
「しかし……」彼は又考えた。「あの人は今迄幾度となくあの踏絵の試煉を経て来たのだ。仮病をつかつて役人を欺く事は殆ど不可能な事である。矢張り否応いやおうなしに苦しい痛恨こんちりさんを頼りに踏んで来たものにちがひない。たとひそれは皺くちやな、何の反古ほごか知れない程の紙であらうと、あの人はとに角それに堪へたのだ。」それは彼には実に意外な事に思はれたが、又嬉しい意外の事であつた。「さうだ。何の画像か読めぬほどの紙屑であらうと、判然たる鋳物であらうと、それが聖像であると云ふ意識に於て変りはない筈である。それならばあの人は今迄幾度かそれを為し得た如く、今度の俺の聖像に於てもそれを為し得るであらう。」
 彼は又彼女の傍に賢い弟の吉三郎がついてゐる事と、昨夜の長老の説教とを思ひ出した。「いや、あの人は軽々しく『神ならぬ物の為めに神から与へられた身を空しく犠牲にするやうな愚かな不敬な真似はしない』であらう。――そして、さうだ。俺は又その試煉の時の前にはあの人達を訪ねて是非それを――宗教的意味に於ては単なる物質の破片にすぎぬ鋳像を、俺の為めに踏んでくれるやうに頼んでおく事も出来るのだ。」
 そして彼は又希望を取り戻した。

一五


 その日の夕方、彼はもう仕事にとりかゝつてゐた。
「踏絵にすると否とはとに角として、俺はあれをとに角作らう。作らずにはおけない。たゞ作る事それ自身の為めに。」
 そして彼はもう安心して、その仕事に没頭してゐた。
 彼はもう「あの人」の事も考へなかつた。君香の事も忘れた。そして長い間寂しい闇の野中へ行き暮れ、不安にさ迷つてゐた者が、一道の光明――人家の明りをハツと見つけて、只もうひた走りに其処へ行きつく事を考へる他には何も考へない時の如く、机にかゝりきつて、幾枚かの下図を引いた。
 一歩も外出せず、不眠の夜をつゞけた余念ない三日の没頭の後に下図はまづ望みどほり出来上つた。そして下図が出来上るや否や彼は粘土のね上げに取りかゝつた。そしてその捏ね上げがすむと彼は青銅鎔炉にかゝつてゐた。
 自分のどこからこんな無限な精力が出て来るのかと彼は自分でおどろいた。
 彼の仕事が進むにつれて彼の処にそれを「拝見」に来る者が多くなつた。それは彼の伯母が「お上からの仰せつけで」自分の甥が名誉ある仕事を「お引きうけ申し」てゐる事を近所にふれ廻はしたからであつた。むろん昼間は誰も彼の仕事部屋に這入る事は厳禁されてゐた。が、中には只の物好きな見物人のやうな顔をして「拝み」に来る信徒の女もゐた。
「まあ、何と云ふ結構な。――有り難い。こんな有り難いお像を拝んだ事はほんとに妾始めてでござんすわ。」
 其女はうつかりかう口を滑らして自分の信徒である事を明してゐた。然し芸術なぞの分りやうのないかう云ふ普通の人の心でも打つ何かが自分の作に宿つてゐると思ふ事は裕佐には嬉しかつた。
「萩原さん。おごらんけれやいかんぜ。あんた、俄かに大福長者になれるんぢや。」
「あんた方の仕事はえゝなア。当り出したら大したもんぢや。」
 こんな事を云ふ男達も少なくなかつた。
 年は改まつて裕佐は二十七になつた。
 元日の朝彼は窓に立つて昇る太陽を拝んだ。「わが仕事に祝福を垂れ給へ。願はくはそれを我が意の如く成さしめ給へ。生命いのちの主よ。」彼はかう口の中に祈つた。
 彼の仕事は着々と云ふ程には捗取はかどらなかつたが比較的早く進んだ。
「ぢや、月末の踏絵式までには結構間に合ひますな。」見に来た役人は云つた。
「それ見い、やつて見れば、お主にはこれ丈けの腕はあるんぢや。だからわしがあんなにすゝめたんぢやに。――」と孫四郎は或る晩来て云つた。
「よう出来とるよ。ちと西洋式な香ひは多いが、まあ西洋の材料ぢやからな。此の襞のつけ方などは此の大天使あるかんじよミケルの襞にそつくりぢや。が、決して劣つとりやせん。」
 彼はわざと「龍と闘へる大天使ミケル」の浮彫と、裕佐の作とを手にとつて見比べながらかう云つた。が、裕佐はもう此男の「ケチを附ける癖」には腹も立たなかつた。何物も只褒める丈けでは済まさない此男が之丈けの事でも云ふのは余程感心した事を意味するのが裕佐には分つてゐた。
 或る晩裕佐は君香に手紙を書いた。

 新年お目出度う。お変りはないか。俺が久しく君の処に御無沙汰してゐるのは君が想像するやうに、君の揶揄からかひに憤慨しての事ぢやない。たしかに俺は「坊つちやん」だが、巨人の坊つちやんだ。だからあんな事など気にしてはゐない。俺は今或る仕事の為めに生れて始めての「急がしさ」に追はれきつてゐる。それは君がいつか俺に「参考品」としてあのこんたすをくれて、「之を手本にして妾の像を作つて下さいね。云々」と云つた、まあ、そのやうな仕事だ。全くあのこんたすは今や全で別物のやうな生きた力で、俺の役に立つた事をお礼する。お蔭で俺は今度もしかしたら、始めていゝ仕事をしたと云ふ自分の満足を買へる上に、大分金儲けをするかも知れない。少なくとも女一人を身うけする事が出来る位の金は優に得られる予定だ。だが俺は「不実」だから君を身うけしようなんぞとはもとより思つてゐない! 一寸そんな事を考へた事もあるが、まあ君の身はあの「紅毛オランダの犬」に任せる事にしよう。
 尤も今夜あたり、俺は一寸君を訪ね度くはある。しかしつゝしむ事にした。俺の仕事は多分明日あたり出来上るのだ。仕事の神は猜疑深く、おまけに君のやうに悪戯気に富んでゐるから、俺はもう一日と云ふ処で其神にたゝられる事を怖れる。もう一息と云ふ処でその神は、と角そんな悪戯をやり度がるのだ。今夜もし君の処へ行つたら、俺の仕事はきつと呪はれて滅茶々々な失敗にをはるだらう。だから俺は行く事を控へる。それはたしかに「悪所通ひ」だからね!
 しかし此の「関所」を通り越したら行くよ。いくら君がいやでも!
 しかしまあ君の健在を祈らう。俺の体はひよろ/\だが、元気は大したものだ。まだ君をいやがらせる位の力は十二分持つてゐるよ。
不実の男より
 君香殿
 翌日の朝、彼の仕事は出来上つた。降誕祭なたらから廿五日目であつた。
 三人の役人がそれをうけ取りに来た。
 裕佐は綿で包んだ青銅のピエタを見せた。
「ハア、之ですか!」
 三人の役人はそれを見るとハツとしたやうに顔の色をかすかに変へた。そしてその聖像ピエタと裕佐の顔とを交る/″\見比べた後で、役人同士又互に顔を見合せた。
「見事に出来上りましたな。」
 二人の役人は同じやうな事を一斉に云つた。
「之を今日頂いて行けるのですね。」もう一人は云つた。
「まだそれ一つしか出来てゐないのですから。」と裕佐は答へた。「貴方の方に上げるのは同じ物をもう一つ二つ作つてからにして下さい。」
「しかしとりあへず奉行に御覧に入れ度いのですが。奉行も随分楽しみに待つて居られますんで、とに角之を拝借して行く事は出来ますまいか。」
 裕佐は断る訳には行かなかつた。そして「どうか大事にして下さい。」と惜し相に云つた。
 三人の役人は鄭重にその聖像を抱へて帰つて行つた。

一六


 奉行からは其後何の便りもなかつた。そしてその聖像は四日経つても帰つては来なかつた。裕佐は苛立いらだつて来た。彼は出来上つた許りの自分の作をもつと自分の傍においてゆつくり眺め度かつた。それに即しきつた苦しい製作者の立場から、鑑賞者の自由に離れた立場に移つて、心ゆく限り眺めて楽しみ度かつた。人にも見せたかつた。殊に誰よりも早く吉三郎姉弟に見せ度かつた。「あの豚共奴に見せるべき真珠ではないんだ。勿体ない!」彼はかう奉行の冷淡に腹を立てて取り還しに行かうとさへ思つた。
 しかし其晩であつた。
 彼は例の如く遅く床に這入つて仕事から一層癖になつた不眠に悩んでゐた。外には冬らしい風がさら/\と吹いてゐる様子であつたが、家の中はしんとして、一間隔てた六畳から伯母のかすかないびきが聞こえてゐた。
 其時彼の室の窓を何かコツ/\と叩く者があつた。漸くまどろみかけてゐた彼はハツと眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらき、そして黙つて耳を澄ましてゐた。風で折れた木の枯枝が窓の戸に当るのかなと思つた。しかし又コツ/\と叩く音は聞こえた。たしかにそれは人の指が叩く音である。「もし人とすれば誰だらう。」かう思ふと彼は俄かにいろ/\の想像の亢奮の為めに顔が赭く輝いた。彼の頭の中に恐ろしい想像と、嬉しい想像とが一時に混乱した。しかし恐ろしい想像の方が強くなつた。「きつと吉三郎だ。之は碌な事ではない。」彼は最早かう決め込み乍ら、寝間着の襟をかき合はせて立ち上つた。そして決心した者の如く、二歩許り歩いてその窓の雨戸をあけた。
「誰です。」彼は云つて闇の中を睨んだ。
「妾よ!」
 其処に立つてゐた一人の女性は黒い頭巾を取つた。
「君香か!」彼はギヨツとして思はず叫んだ。「ど、どうしたんだ!」彼は眼をこすつた。
しつ! 静かに!」君香は四辺あたりを素早く見廻はし乍ら云つた。「一寸、出ていらつしやい! 大変な事なのよ!」
「何だ!」裕佐はヒラリと窓を飛びこえて外へ出た。そして戸を閉めた。
「貴方、大変よ!」君香は鋭く云つた。「貴方ぐづ/\してゐると明日にも掴まるのよ! だからさア、早く妾と一緒にお逃げなさい!」
「一体、何の事なんだ! どうした訳なんだ!」
「貴方の作つた聖像が今奉行所で問題になつてゐるのよ。そして貴方は切支丹と云ふ事になつたのよ!」
 裕佐には何の事かさつぱり訳が分らなかつた。
「貴方に分らないのは当り前よ。だけど、つまりあの聖像はあんまりよく出来すぎたのよ。無論妾は見た訳ぢやないけれど、お役人達は、たしかに貴方のお作の神聖な力に打たれたのよ。それであんな物を切支丹に見せたらそれを踏む気はしなくなつて、却つてなほ有り難がつて信心深くなるだらうつて云ふのよ。そしてあんな神々しいものを作る事が出来る貴方自身も矢つ張り切支丹にちがひないと云ふ事になつたのよ。」
「馬鹿な!」裕佐は呆然として只かう云つた。「そしてお前、一体どうして、どこからそれを聞いたんだ!」
「あの『赤毛の犬』から聞いたのよ。」
「赤毛の犬? フェレラからか?」
「さうよ! 貴方は馬鹿ね! 妾があの赤毛の犬をあんなに可愛がつて見せたのは一体何の為めだつたかつて事が貴方にはまるで分らなかつたのね!」
「え? それでは……」
「それだから貴方は坊つちやんだつて云つたのよ!」女は罵詈ばりするやうに言つた。「まさかこんな事が起らうとは妾だつて考へてゐた訳ぢやないけれど、あの犬を掴まへて、舐めさせておきやきつと何かの役に立つ事があるとあの時妾ふつと思つたからよ! そして妾貴方の悪口を言ひ乍ら根掘り葉掘り今度の事をすつかりばらさせてやつたのよ!」
「本当か。いつ!」
「今夜たつた先刻さつきの事よ! あの犬は此頃もう気が少し変になつて、妾の処に全で入りびたりなのよ。」
「何と云ふ気違ひ奴、だが彼奴あいつがいくら決め込んだつて此方がさうでない事を明かにすれや何でもない事ぢやないか!」
「まあ、どうして、そんな事が出来ると思つて! どんな手段でよ! そんな誓ひ位でそれが出来る事なら妾だつてこんな心配をして上げはしないわ。貴方、自分の胸と頭を断ち割つてあの犬達に見せる事が出来て?」
「よし。それなら逃げる許りだ!」裕佐は一瞬間黙つて、考へた後で云つた。「面白い! お前と一緒ならどんな無人島へでも行くぞ! だが一寸待つててくれ!」
「何か取つて来るの? そんな暇はなくつてよ!」と女は云つた。「お金は妾が少しは持つてゐてよ! さアお逃げなさい。すぐ!」
「だが、どこへ!」
「天草へ行くのよ! 妾の故郷へ! あそこは無数の島があつて昔から奉行の手が届かない唯一つの隠れ場所なのよ。そして妾の家にいらつしやい! そしてしばらく様子を見てゐるのよ。それは妾が知らせて上げるわ!」
「何だ。お前は行かないのか!」
「妾は行く事は出来ないのよ! 行き度いんだけれど。今夜妾が飛び出たんでもう妾の後には追つ手がついてゐるのよ。今頃はきつともう大騒ぎをして探してゐてよ。そして妾が掴まれば貴方も掴まつて了ふわ!」
「誰が一人で行くものか! 俺はそんな処で寂しさと憤慨の為めに死んぢまふだらう。お前が掴まれば俺も掴まつてやる許りだ!」
「よくつてよ。とに角そこ迄一緒に行くわ! さア、此の妾の丹前におくるまりなさい。」
 二人は闇と風との中を浦上の方へ向つて走り出した。
 裕佐には運命の実相はどうしても信じられないのだつた。それは本気で信じられるには余りに馬鹿々々しい話に思はれた。しかし身うけし度いと願つてゐた女と夜逃げをすると云ふ事が彼の若い浪漫的な興味を燃やしてゐた。そしてその興味が、それでもなほ一方に起る恐怖ともつれ合つて彼ををのゝかせてゐた。しかし峠の茶屋にさしかゝつた時彼女は云つた。
「お待ちなさい! 事によつたらもう此処に来てゐるかも知れなくつてよ。妾見てやるわ。貴方一緒に来ちやいけなくてよ!」そして彼女は一人で進んで行き、中を一寸のぞくと彼を手招きした。
「一体何と云ふ事になつたのであらう! もし之が本当に冗談でないとすると! そして誰が、何の権利があつて、人をこんな目にはせるのだ!」と思ふと、裕佐は、むら/\と殺伐な怒りに燃えたつのであつた。そして彼女の後について、その茶屋へ這入つて行かうとした時彼女の叫び声が聞こえた。
 彼女は早くも彼等を見つけて隠れてゐた二人の男に手を押へられてもだえてゐた。
「お離しつてば! 掴まつてやるから!」そして彼女は男の手に噛みついた。
「ふむ。お前丈けの事ならいくらでも離してやるさ!」男は軽く女の頭を突きのけ乍ら云つた。
「だが他に誰かゐるだらう。お前がわざ/\此夜半にかけつけて行つて駈け落ちを誘つた色男がよ!」
「此処にゐる!」
 裕佐はそこへ出て突つ立ち乍ら云つた。「それがどうしたんだ!」
 二人の男は嬉し相ににやりと笑つた。そして女の手を離した。
「へ、あんぢやうおいでなすつたな。色男。用事は馬にあるんぢやない。此の牝馬に乗つてゐる貴様にあるんさ。」
 さう云つた男は降誕祭なたらの晩に裕佐がその手頸を握つた与力であつた。
「貴様は切支丹だとあの時云つたつけな。」
「皆を助けてやり度い為めにだ! だが俺が切支丹だつた処でそれが何だ! 貴様に何の関係があるんだ!」
「当り前よ。あつてたまるもんかな! だが国家にはあるんださうだ。」
「お前さん達此人を切支丹だと思つてゐるのかい! 藪睨みの当てずつぽにも程があるよ!」と君香はつんざくやうに笑つた。「もし此人が本当にさうだつたら何で自分の仲間を殺すやうな踏絵なんぞを作るだらう! それ丈けで分らないつてまあなんて馬鹿な役人だらうね!」
「役人が馬鹿だらうと悧巧だらうと俺達の知つたこつちやねえや。とに角一緒に来りやいゝんだ。さア。」
 裕佐は無念相に黙つて考へてゐたがキヨト/\した娘の持つて来た熱い茶を飲んだ。
「よし、行く丈けは行つてやつてもいゝ。そして俺を切支丹だと疑ふなら俺はあの踏絵を自分で踏んでやらう。さうすれやいゝ訳だナ!」彼は茶を飲む事によつて考へた事を云つた。
「処があの踏絵を作つた者の罪は、それを踏まない者の罪よりは重いんだ相だ。」復讐心に燃えた眼を横に向け乍ら与力は云つた。
「まあ、何ですつて?」裕佐よりも早く君香は叫んだ。「それなら一体踏絵と云ふものの意味はどこにあるんだらう! そんな事ならわざわざ面倒な踏絵なんぞを踏ませなくつたつて、疑つた者をどん/\片つ端から殺して行きやいゝ訳ぢやないか。その方がよつぽどお前さん達らしいわ!」
「まつたくさな! たしかに理窟はあらア。」と与力は云つた。「奉行の前でさう云つて見ろよ! 其通り! さうしたら多分御放免にあづかるだらうて!」
「さア。貴様はおとなしくうちへ帰れ。な。親方は心配してら。大事な玉がげちやつたつて。」ともう一人の男が君香の手を取つて云つた。
「多分明日の晩あたりは又お芽出度く此の色男に逢へるだらうよ。そしてお祝ひの酒盛りでもやるがいゝやな。」
「もうどうせ遁げたつて駄目だよ。お前の為に網の目の様に非常線を張らせられてあるんだからな。」与力は又裕佐に向つて云つた。「おとなしく従つて来るのが一番悧巧だよ。」
 そして四人は茶屋を出た。

一七


 裕佐は奉行の前の訊問に於て、態度が「尊大」であつたのが非常な損であつた。そして彼に「手頸を掴まれて動けなかつた」与力の復讐心がその損をなほ大きくした。
「とに角踏絵を踏まない者は処刑をうけるのが掟だ。なぜうけるかと云ふと国法にそむく切支丹、つまり国賊と云ふ事になるからだ。それは分つてゐるな。そして貴様はあの時自分でわざ/\その国賊であることを与力に宣言してくれた相だからな。」と代官は云つた。
「しかし君達が僕を疑り出したのは君達に頼まれたので僕が作つたあの踏絵からではないか。」と裕佐は云つた。「だから僕はそれを踏んでやらう。何なら、それをこゝでぶちこはして見せてやらう。君達の眼の前で。」
 彼は君香が与力に云つた言葉をも繰返へした。
「いや、わしはあの像が傑作である事は認めるんぢや。」奉行は云つた。「あの傑作はわしの方で大事に所蔵するだらう。信者の心を本当に試めすにはあれ位の傑作でなくちや役に立たぬでな。その点君の功労は永く記念しておくだらう。しかし、」奉行は流石さすがにやゝ云ひ渋り乍ら云つた。「甚だ奇怪な行きがゝりになつた訳であるが、あの作に現はれてゐる君の信仰、――それはたしかに普通一般の信者のそれよりは力強く、深く、怖るべきものであるが、此処にゐるすべての同僚が等しくそれを認めるが故に、遺憾ながら我等は君を死刑に処せねばならぬ。それはつまり君が信者として又一種の伝道者として、ばてれん同様に重んぜらるべき者であると認めるからぢや。」
 奉行は息を吐いてり返り、静かに四辺を見廻はした。
「しかしそれでは――」と彼は又語調を柔らげて云つた。
「否、それ丈でも充分処刑の理由にはなつてゐるのぢやが、更に万全を期して云ふならば、それ丈けの理由を以て君を処刑する事はまだ幾分一人決めの推量に依る処分であるとの非難をうけても仕方がないと云へる。吾等は法官としてどこ迄も一人決めの推量を排し、現実の証拠を尊重する。ぢやからして、その証拠を見ようではないか。今度の踏絵の調査に於てぢや。君の傑作がもし吾々の不吉な想像を裏切らなかつたら、君は自分の仕事の成功の証明に免じて冥すべきぢや。が、反対にもし吾々の想像を裏切つたとしたらぢや、君は生命の無事を大いに祝すべきぢや。」
 かくて、審問は終つた。
 が、其晩長崎の町には踏絵の鋳造者萩原裕佐が「特別なおなさけを以て」秘かに斬罪に処せられたと云ふ噂が拡まつた。

一八


 正月の二十八日から三十一日迄、四日間に亘つて踏絵の儀式は奉行所に於て荘重に行はれた。そしてその儀式には裕佐の作「青銅のピエタ」がつかはれた。
 三日間のうちに十五名の踏み得ざりし者が現はれた。かゝる事は前例のない事であつた。
 最後の日、更に四人の者がそれを踏まない事の為めに捕へられ「検べ」の為めに残された後、モニカは白無垢しろむくの装束を着け、したゝる如き黒髪を一と処元結もとゆひで結び、下げ髪にして静々と現はれた。
 水を打つた如き式場の中央に藁筵わらむしろを敷き、その上に低い台を置き、更にその上に、踏絵は置かれてあつた。そして其左右には与力が向ひ合ひに床几しやうぎに腰を卸し、一々の者の「踏み方」を疲れた眼できつと睨み見てゐた。二千人以上の其日の「踏み方」はをはつて、もう日暮に近かつた。
 モニカは神色自若としてその前に進み、ひざまづき、先づその像を手にとつてぢつと打眺めた。
「あゝ貴方は、矢張り、信心を持つていらつしつたのですね。有り難う。」役人にも聞こえぬ程の低い声で彼女はかう呟いた。そして急にそれを抱きかゝへる如くひしと胸に押し当て、接吻し、又それをうや/\しく台の上に置くと手を合はせて拝んだ。勿論彼女は其場に引き立てられた。
 彼女の後にすぐ君香はつゞいた。君香は同じ事をし、そして自分を掴まへた役人に云つた。
「妾は信者ではないのよ。それは本当。だけど妾には此のお像を踏む事は出来ないわ! 人間としてそんな事は出来ないわ。さあ繩をおかけなさい。地獄の犬殺しさん達。」
 そして彼女は曳き立てられ乍ら云つた。「あゝ嬉しい! 妾は今日の日をどんなに長く待つてゐただらう!」
 翌日の夕方立山の刑場には廿一の新しい十字架が樹てられてゐた。しかしそこに曳き立てられた者は廿一人ではなかつた。廿一人がその十字架にくゝりつけられた後、更に二人の男囚が意外な処から曳き立てられて来た。それは長老アントニオ・ルビノと萩原裕佐とであつた。
 此二人の面被ヴエールが剥がされた時、二人の女が十字架の上で叫び声を挙げ、そしてその一人は其場に気絶をした儘息を引き取つた。それは君香であつた。彼女はその一週間前から全く絶食してゐたのであつた。
 長老は一同に最後の言葉をかける事が出来ないやうにその口を布でふさがれてゐた。
「あゝ長老様! もう何も被仰おつしやる事はございません。妾達は勝ちました。天国は妾達の物でございます!」
「おゝ何と光栄な喜び!」モニカは煙の中でかう云つた。
 裕佐は刀を持つて自分の方に進んで来る男を見ると唐突にその胸を蹴飛ばした。そしてまつしぐらに竹矢来の方に向つて走り乍ら「助けてくれ! 誰か! 誰か! 吉三郎!」
と叫んだ。血走つた彼の眼は狂ふ如く此の友を探してゐた。あたかもその友の救ひに最後の望をかけてゐたやうに。しかし彼の縛された手には繩がついてゐた。その繩で彼は後ろに引き倒された。彼は起き上り、そして自分を捕へに来た者を再び蹴らうと足を上げた時、「助けてやらう。おなさけだ!」と云ふ声が後ろにして、刀が背中から彼の胸を突き抜いた。彼は足を宙に上げたまゝたふれた。
 かくして奇怪なる運命の操りによつて生涯としては廿七を最期に、仕事としては「唯一つの聖像」を此世への供物くもつとして彼はあへなく死んだ。
 其時その刑場で一人の版画師が「二人の女と南蛮鋳物師の死」と云ふ諷刺画を描いてゐた。
「あゝお蔭でわしにも傑作が出来たわ。」その男は、矢立を帯に突つ込むとかう云つてそのなま/\しい残忍な画を役人達の前で一同に見せ乍らトゲ/\しく大きな口をあいて笑つた。云ふ迄もなくそれは孫四郎であつた。
 しかし「貴方は矢張り信心を持つていらつしつたのですわね。」とモニカが云つた事は誤りであつた。
 萩原裕佐は最後迄決して切支丹ではなかつたのである! 彼は只一介の南蛮鋳物師にすぎなかつたのである!
(一九二二年一一月二九日)

 附記
寛文の頃長崎古川町に萩原といふ南蛮鋳物師がゐた事、そしてその踏絵の神々しく出来すぎた為め信者と誤られて殺された事は事実である。又拷問の仕方や、始めの歴史叙説は無論、沢野忠庵と云ふ転び伴天連ばてれんが踏絵を発明した事も事実であり、アントニオ・ルビノと云ふばてれんが殺された事も事実である。但しそれらが同時代であつたかどうかは自分は知らぬ。此作の生れるヒントを与へてくれた長崎の永見氏に此処で記念としてお礼を述べておく。なほ参考として小野氏著「切支丹の殉教者」及び「日本に於ける公教会の復活」「幕府時代の長崎」「長崎年表」を見た事を記しておく。又此作にはことさらに多少の時代錯誤を敢て許しておいた。例へば寛文時代に浮世絵の版画が長崎にあつた事などは歴史的には錯誤であるが、元来純然たる歴史小説ではなく、史材にヒントを得た余の創作であるから、史的事実は歴史に拠つて貰ふ迄の事である。
(大正十二年一月)





底本:「現代日本文學大系 36 長與善郎・野上彌生子集」筑摩書房
   1971(昭和46)年2月25日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第13刷発行
底本の親本:「改造」
   1923(大正12)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:富田倫生
2011年11月28日作成
2012年1月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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