老子は
楚の
苦縣の
郷、
曲仁里の
人也。
姓は
李氏、
名は
耳、
字は
伯陽、
諡を

と
曰ふ。
周の
(一)守藏室の
史也。
孔子、
周に
適き、
將に
禮を
老子に
問はんとす。
老子曰く、『
子の
言ふ
所の
者は
其人と
骨と
皆已に
朽ちたり、
獨り
其言在る
耳。
且つ
君子は、
其時を
得れば
則ち
(二)駕し、
其時を
得ざれば
則ち
(三)蓬累して
行る。
吾之を
聞く、
良賈は
(四)深く
藏して・
虚なるが
若く、
君子は
盛徳ありて
容貌愚なるが
若しと。
子の
(五)驕氣と
多欲と
(六)態色と
(七)淫志とを
去れ。
是れ
皆子の
身に
益無し。
吾が
子に
告ぐる
所以は
是の
若き
而已』と。
孔子去つて
弟子に
謂つて
曰く、『
鳥は
吾其の
能く
飛ぶを
知り、
魚は
吾其の
能く
游ぐを
知り、
獸は
吾其の
能く
走るを
知る。
走る
者は
以て
(八)罔を
爲す
可く、
游ぐ
者は
以て
(九)綸[#「綸」の左に「ツリイト」のルビ]を
爲す
可く、
飛ぶ
者は
以て
(一〇)
を
爲す
可し。
龍に
至つては、
吾其の
風雲に
乘じて
天に
上るを
知ること
能はず。
吾今日老子を
見るに、
其れ
猶ほ
龍のごとき
邪』と。
老子、
(一一)道徳を
修む、
其學は
自ら
隱して
名無きを
以て
務と
爲せり。
周に
居ること
之を
久しうして、
周の
衰ふるを
見、
廼ち
遂に
去つて、
(一二)關に
至る。
(一三)關令尹喜曰く、『
子將に
隱れんとす、
彊ひて
我が
爲めに
書を
著はせ』と。
是に
於て
老子廼ち
書上下篇を
著はし、
道徳の
意を
言ふこと五千
餘言にして
去れり。
其の
終る
所を
知る
莫し。
或は
曰く、『
老莱子も
亦楚人也、
書十五
篇を
著はして
道家の
(一四)用を
言ふ。
孔子と
時を
同じうすと
云ふ』と。
蓋し
老子は百
有六十
餘歳、
或は
言ふ二百
餘歳と。
其の
道を
修めて
壽を
養へるを
以て
也。
孔子死してより
後百二十九
年にして、
(一五)史記に『
周の
太史
、
秦の
獻公を
見て、「
始め
秦、
周と
合して
離れ、
離れて五百
歳にして
復た
合し、
合して七十
歳にして
霸王たる
者出でん」と
曰ふ』とあり。
或は
曰く、『

は
即ち
老子なり』と。
或は
曰く、『
非也』と。
世、
其の
然るや
否やを
知る
莫し。
老子は
隱君子なり。
老子の
子、
名は
宗。
宗、
魏の
將と
爲り、
段干に
封ぜらる。
宗の
子は
注。
注の
子は
宮。
宮の
玄孫は
假。
假、
漢の
孝文帝に
仕ふ。
而して
假の
子解、
膠西王
の
(一六)太傅と
爲る。
因て
齊に
家せり。
世の・
老子を
學ぶ
者は
則ち
儒學を

け、
儒學も
亦老子を

く。『
道、
同じからざれば、
相爲めに
謀らず』とは、
豈是を
謂ふ
邪。
(一七)李耳は
無爲にして
自ら
化す、
清靜にして
自ら
正し。
莊子は
(一八)蒙人也。
名は
周。
周嘗て
蒙の
(一九)漆園の
吏たり。
梁の
惠王・
齊の
宣王と
時を
同じうす。
(二〇)其學は

はざる
所無し。
然れども
其要は
老子の
言に
本づき
歸す。
故に
其著書十
餘萬言、
大抵率ね
(二一)寓言也。
(二二)漁父・
盜跖・
篋を
作り、
以て
孔子の
徒を
詆※[#「言+此」、U+8A3F、19-7]し、
以て
老子の
(二三)術を
明にせり。
(二四)畏累虚・
亢桑子の
屬、
皆空語にして
事實無し。
然れども
善く
(二五)書を
屬し
辭を
離ね、
事を
指し
情を
類し、
用て
(二六)儒・
墨を
剽剥す。
當世の
(二七)宿學と
雖も
(二八)自ら
解免すること
能はざる
也 其言(二九)洸洋自恣以て
己に
適ふ。
故に
王公大人より、
能く
之を
(三〇)器とせざりしなり。
楚の
威王、
莊周の
賢なるを
聞き、
使をして
(三一)幣を
厚うして
之を
迎へしめ、
(三二)許すに
相と
爲すを
以てす。
莊周笑つて
楚の
使者に
謂つて
曰く、『千
金は
重利なり、
卿相は
尊位也。
子獨り
(三三)郊祭の
犧牛を
見ざる
乎。
之を
養食[#「養食」の左に「ヤシナフ」のルビ]すること
數歳、
衣するに
(三四)文繍を
以てし、
以て
(三五)太廟に
入る。
是の
時に
當つて、
(三六)孤豚たらんと
欲すと
雖も、
豈に
得可けん
乎。
子亟かに
去れ、
我を

すこと
無かれ。
我寧ろ
(三七)
涜の
中に
遊戲して
自ら
快うせん。
國を
有つ
者に
(三八)覊せらるること
無からん。
終身仕へず、
以て
吾が
志を
快うせんかな』と。
申不害は
(三九)京人也。
故鄭の
賤臣なり。
(四〇)術を
學び、
以て
(四一)韓の
昭
に
干む。
昭
用て
相と
爲し、
内、
政教を
修め、
外、
諸
に
應ずること十五
年、
申子の
身を
終るまで、
國治まり
兵彊く、
韓を
侵す
者無かりき。
申子の
學は、
(四二)黄老に
本づき、
(四三)刑名を
主とせり。
書二
篇を
著はす。
號して
申子と
曰ふ。
韓非は
韓の
(四四)諸公子也。
刑名法術の
學を
喜む、
而して
(四五)其歸は
黄老に
本づく。
非人と
爲り
口吃[#「口吃」の左に「ドモル」のルビ]し、
(四六)道説すること
能はず、
而して
善く
書を
著はす。
李斯と
倶に
荀卿に
事ふ。
斯自ら
以爲へらく、
非に
如かずと。
非、
韓の
削弱せらるるを
見、
數
書を
以て
韓王を
諫む、
韓王用ふること
能はず。
是に
於て
韓非、
((韓王ノ))國を
治むるに、
其法制を
修明し・
(四七)勢を
執つて
以て
其臣下を
御し・
國を
富まし
兵を
彊うして・
以て
人を
求め
賢に
任ずるを
務めず、
反つて
(四八)浮淫の
蠧を
擧げて・
之を
(四九)功實の
上に
加ふるを
疾へ、
以爲へらく、
(五〇)儒者は
文を
用て
法を
亂し、
而して
(五一)侠者は
武を
以て
禁を
犯す。
(五二)寛なれば
則ち
名譽の
人を
寵し、
急なれば
則ち
介冑の
士を
用ふ。
今は
養ふ
所は
用ふる
所に
非ず、
用ふる
所は
養ふ
所に
非ずと。
廉直の・
(五三)邪枉の
臣に
容れられざるを
悲み、
(五四)往者得失の
變を
觀る、
故に
(五五)孤憤・五
蠧・
内外儲・
説林・
説難、十
餘萬言を
作る。
然れども
韓非は
説の
難きを
知り、
説難の
書を
爲ること
甚だ
具はれるも、
終に
秦に
死し、
自ら
脱るること
能はざりき。
(五六)説難に
曰く、『
凡そ
説の
難きは、
吾が
知の
以て
説くこと
有るの
難きに
非ざる
也。
(五七)又吾が
辯の
能く
吾が
意を
明にするの
難きに
非ざる
也。
又吾が
敢て
(五八)横失して
能く
盡すの
難きに
非ざる
也。
凡そ
説の
難きは、
(五九)説く
所の
心を
知つて
(六〇)吾が
説を
以て
之に
當つ
可きに
在り。
説く
所、
(六一)名高を
爲すに
出づる
者なるに、
之に
説くに
厚利を
以てせば、
則ち
(六二)下節とせられ、
而して
卑賤とせられ、
必ず
棄遠せられん。
説く
所、
厚利に
出づる
者なるに、
之に
説くに
名高を
以てせば、
則ち
無心にして
事情に
遠しとせられ、
必ず
(六三)收められざらん。
説く
所、
實は
厚利を
爲さんとして
顯に
名高を
爲す
者なるに、
之に
説くに
名高を
以てせば、
則ち
陽に
其身を
收めて
實は
之を
疏んぜん。
若し
之に
説くに
厚利を
以てせば、
則ち
陰に
其言を
用ひて
顯に
其身を
棄てん。
此を
之れ
知らざる
可からざるなり。
夫れ
事は
密を
以て
成り、
語は
泄るるを
以て
敗る。
未だ
必ずしも
(六四)其身之を
泄さざるも、
而も
((説者ノ))語((適
))其の
匿す
所の
事に
及ばんに、
是の
如き
者は
身危し。
貴人(六五)過端有り、
而して
説者、
明かに
善議を
言ひ
以て
其惡を
推せば
則ち
身危し。
(六六)周澤未だ
渥からざるに、
而も
(六七)語極めて
知なれば、
説行はれて
功有るときは
則ち
(六八)徳亡く、
説行はれずして
敗有るときは
則ち
疑はれん、
是の
如き
者は
身危し。
夫れ
(六九)貴人、
計を
得て、
自ら
以て
功と
爲さんと
欲するを、
説者與かり
知れば
則ち
身危し。
(七〇)彼顯に
出だす
所の
事有り、
廼ち
自ら
以て
也故と
爲すに、
説者與かり
知れば
則ち
身危し。
(七一)之に
彊ふるに
其の
必ず
爲さざる
所を
以てし、
之を
止むるに
其の
已む
能はざる
所を
以てする
者は
身危し。
故に
曰く、
之と
大人を
論ずれば
則ち
以て
己を
(七二)間すとせられ、
之と
(七三)細人を
論ずれば
則ち
以て
((己ノ))權を
(七四)鬻ぐとせられ、
其の
愛する
所((ノ人))を
論ずれば
則ち
以て
(七五)資を
借るとせられ、
其の
憎む
所((ノ人))を
論ずれば、
則ち
以て
己を
嘗むとせらる。
其辭を
(七六)徑省すれば、
則ち
(七七)不知として
之を
屈し、
(七八)汎濫博文なれば、
則ち
之を
多しとして
(七九)久しとす。
(八〇)事に
順ひ
意を
陳ぶれば、
則ち
怯懦にして
盡さずと
曰ひ、
事を
慮ること
(八一)廣肆なれば、
則ち
(八二)草野にして
(八三)倨侮なりと
曰ふ。
(八四)此れ
説の
難き、
知らざる
可からざる
也。
凡そ
説の
務め、
説く
所の
敬する
所を
飾り・
而して
其の
醜む
所を
(八五)滅するを
知るに
在り。
彼自ら
其計を
知とせば、
則ち
其失を
以て
之を
(八六)窮むる
無かれ。
自ら
其斷を
勇とせば、
則ち
(八七)其敵を
以て
之を
怒らす
無かれ。
自ら
其力を
多とせば、
則ち
(八八)其難を
以て
之を
(八九)概する
無かれ。
異事の
與に
計を
同じうするを
規り、
異人の
與に
行を
同じうするを
譽めば、
則ち
以て
之を
飾つて・
傷ふ
無かれ。
與に
失を
同じうする
有らば、
則ち
明かに
其の
失無きを
飾れ。
大忠は
(九〇)拂辭する
所無く、
(九一)悟言は
(九二)撃排する
所無く、
廼ち
後に
其辯知を
申ぶ。
此れ
親近せられて
疑[#ルビの「うたか」はママ]はれず・
(九三)之が
難を
盡くすを
知る
所以也。
(九四)曠日彌久して
(九五)周澤既に
渥きを
得ば、
深く
計るも
疑はれず、
交
爭ふも
罪せられず、
廼ち
明に
利害を
計りて
以て
其功を
致し、
直ちに
是非を
指して
以て
(九六)其身を
飾る。
此を
以て
相持する、
此れ
説の
成る
也。
伊尹は
(九七)庖と
爲り、百
里奚は
(九八)虜と
爲る、
(九九)皆由つて
其上に
干めし
所也。
故に
此二
子は
皆聖人なるも、
猶ほ
身を
役して
世を
渉る
此くの
如く
其れ

きこと
無き
能はず。
則ち
(一〇〇)能仕の
設づる
所に
非ず。
宋に
富人あり、
天雨りて
墻壞る。
其子曰く、「
築かずんば
且に
盜有らんとす」と。
其鄰人の
父も
亦云ふ。
暮にして
果して
大に
其財を
亡ふ。
其家甚だ
其の
子を
(一〇一)知として、
鄰人の
父を
疑へり。
昔鄭の
武公、
胡を
伐たんと
欲し、
廼ち
(一〇二)其子を
以て
之に
妻せたり。
因つて
羣臣に
問うて
曰く、「
吾、
兵を
用ひんと
欲す、
誰か
伐つ
可き
者ぞ」と。
關其思曰く、「
胡伐つ
可し」と。
廼ち
關其思を
戮して
曰く、「
胡は
(一〇三)兄弟の
國也、
子之を
伐てと
言ふは
何ぞや」と。
胡君之を
聞いて、
鄭を
以て
己に
親しむと
爲して、
鄭に
備へず。
鄭人胡を
襲うて
之を
取れり。
(一〇四)此二
説は
其知皆當れり。
然れども
甚しき
者は
戮せられ、
(一〇五)薄き
者は
疑はる。
知の
難きに
非ざる
也。
(一〇六)知に
處する
則ち
難きなり。
昔、
彌子瑕、
衞君に
愛せらる。
衞國の
法、
竊に
君の
車に
駕する
者は
罪、
(一〇七)
に
至る、
既にして
彌子の
母病む。
人聞き、
往いて
夜之を
告ぐ。
彌子矯つて
君の
車に
駕して
出づ。
君之を
聞きて
之を
賢として
曰く、「
孝なるかな、
母の
爲めの
故に
罪を
犯せり」と。
君と
果園に
游ぶ。
彌子、
桃を
食うて
甘し。
((彌子))盡さずして
君に
奉る。
君曰く、「
我を
愛するかな、
其口を
忘れて
我を
念ふ」と。
彌子色衰へて
愛弛び、
罪を
君に
得るや、
君曰く、「
是れ
嘗て
矯つて
吾が
車に
駕し、
又嘗て
我に
食はすに
其(一〇八)餘桃を
以てせり」と。
故に
彌子の
行未だ
初に
變らざるに、
前には
賢とせられて、
後には
罪を
獲る
者は、
(一〇九)愛憎の
至變也。
故に
主に
愛せらるれば
則ち
知當りて
親[#「親」の左に「シタシミ」のルビ]を
加へ、
主に
憎まるれば
則ち
(一一〇)罪當りて
疏[#「疏」の左に「ウトサ」のルビ]を
加ふ。
故に
諫説の
士は、
(一一一)愛憎の
主を
察して
而る
後之に
説かざる
可からざるなり。
夫れ
龍の・
蟲たる、
(一一二)擾狎して
騎す
可し。
然れども
其喉下に
(一一三)逆鱗の
(一一四)徑尺なるあり。
人之に
嬰るるあれば
則ち
必ず
人を
殺す。
人主にも
亦逆鱗有り。
之に
説く
者能く
人主の
逆鱗に
嬰るる
無ければ
則ち
(一一五)幾し』と。
人或は
其書を
傳へて
秦に
至る。
秦王、
孤憤・
五蠧の
書を
見て
曰く、『
嗟乎寡人、
此人を
見之と
遊ぶを
得ば、
死すとも
恨みじ』と。
李斯曰く、『
此れ
韓非の
著はす
所の
書也』と。
秦因つて
急に
韓を
攻む。
韓王始め
非を
用ひず、
急なるに
及んで
廼ち
非を
遣りて
秦に
使はす。
秦王之を
悦び、
未だ
信用せず。
李斯・
姚賈、
之を
害み
之を
毀つて
曰く、『
韓非は
韓の
諸公子也。
今、
王、
諸
を
并せんと
欲す。
非、
終に
韓の
爲にして、
秦の
爲めにせず、
(一一六)此れ
人の
情也。
今、
王、
用ひず、
久しく
留めて
之を
歸さば、
此れ
自ら
患を
遺す
也。
(一一七)過法を
以て
之を
誅するに
如かず』と。
秦王以て
然りと
爲し、
(一一八)吏に
下して
非を
治めしむ。
李斯、
人をして
非に
(一一九)藥を
遺らしめ、
自殺せしむ。
韓非、
自ら
(一二〇)陳ぜんと
欲すれども
見ゆるを
得ざりき。
秦王後に
之を
悔い、
人をして
之を
赦さしむれば、
非已に
死せり。
申子・
韓子は
皆書を
著はし
後世に
傳ふ、
(一二一)學者多く
有り。
余、
獨、
韓子の・
説難を
爲り
而も
自ら
((禍ヲ))脱るること
能はざりしを
悲しむ
耳。
太史公曰く、
老子の
貴ぶ
所の
道は、
(一二二)虚無にして
因應し、
無爲に
變化す、
故に
著書、
(一二三)辭稱微妙にして
識り
難し。
莊子は
(一二四)道徳を
散じて
放論す、
要は
亦之を
自然に
歸せり。
申子は
(一二五)卑卑、
(一二六)之を
名實に
施す。
韓子は
(一二七)繩墨を
引いて
事情に
切に、
是非を
明かにす、
其れ
極めて
(一二八)慘※[#「激」の「さんずい」に代えて「石」、U+7909、28-2]にして
恩少し。
皆道徳の
意に
原づく。
而して
老子は
深遠なり。
【一】守藏室の史。書物庫の記録官。
【二】駕。馬車に乘ること、即ち出でて世の爲めに盡すを云ふ。
【三】蓬累。斷蓬の如く移轉する也。
【四】多くの貨物を倉庫に藏め置けども、一見、物無きが如きを云ふ。
【五】驕氣。高慢なる氣象を云ふ。
【六】態色。容態ぶることを云ふ。
【七】淫志。志の散漫なることを云ふ。
【八】罔を爲す。網にて捕へる也。
【九】綸を爲す。釣絲にて釣る也。
【一〇】
を爲す。絲を付けたる箭にて射る也。
【一一】道徳。老子の道徳は儒教の道徳と異なり、虚無清淨なり。
【一二】關は散關とも函谷關とも玉門關ともいふ。
【一三】關令。關所を守る役人。尹は姓、喜は名。
【一四】用。作用也。
【一五】史記。六國の時の史官の記録なり。此語は周本紀・秦本紀を參照せよ。
【一六】太傅。輔佐役。
【一七】李耳即ち何等の作爲する所無くして民自ら化し、清淨平靜にして民自ら正道に歸す。此二句は敍傳中の語、誤りて此に入りしなるべしと古人云ふ。
【一八】蒙。縣の名。
【一九】漆園。城の名。
【二〇】博學なるをいふ。
【二一】寓言。寓は寄する也。他の人又は他の事物に寄せて我が本意を示す言なり。
【二二】
漁父、
盜跖、
篋。皆莊子の篇の名なり。
詆
。そしるなり。
【二三】術は道なり。學術なり。
【二四】皆莊子の書中にある人名。
【二五】書を屬し辭を離ね。書をつづり辭を陳ぬる也。事を指し情を類し。世事を指陳し人情を類推する也。
【二六】儒墨を剽剥す。孔子墨子の學を攻撃する也。
【二七】宿學。老成の學者。
【二八】莊子と論戰して、其鋒先を免るること能はず。
【二九】洸洋自恣。廣大にして自分勝手なること。
【三〇】器。すぐれたる人物として用ふる也。
【三一】幣を厚うす。禮物を手厚くする也。
【三二】宰相と爲すべきことを條件として之を聘せし也。
【三三】郊祭。郊外にて天を祭る也。犧牛は、いけにへの牛。
【三四】文繍。縫箔したる衣。
【三五】太廟に入る。太廟に引き入れる也。
【三六】孤豚。仔豚也、仔豚ならば犧牲に用ひられざる故に云ふ。
【三七】
涜。濁水也。
【三八】覊。束縛せらるること。
【三九】京。縣の名。
【四〇】術。刑名、法術の學を云ふ。
【四一】
韓の昭
に干む。昭

に面接して仕官を求めし也。
【四二】黄老。黄帝老子。
【四三】刑名。刑名は形名也。名を以て實を責むる學。
【四四】諸公子。末流の公子。
【四五】其歸。其歸著點也。
【四六】道説する。物を言ひ談をすること。
【四七】勢。君主の地位、權力をいふ。
【四八】浮淫の蠧。輕薄淫靡の小人を云ふ。蠧は害蟲也。
【四九】功實。功勞實力ある人を云ふ。
【五〇】儒者は文學を以て古を引き今を譏りて國法を亂す也。
【五一】義侠を立つる人は、武力を以て國禁を犯す也。
【五二】國家無事の時には、名聞ある人を人物と思ひて之を寵愛し、一朝事ある時は、急に介冑の武士を用ひて其急に應ずる也。
【五三】邪枉の臣。よこしまにして枉れる小人を云ふ。
【五四】往古の成敗得失の變を觀察する也。
【五五】孤憤・五蠧・内外儲・説林・説難。竝に韓非の著はしたる韓非子の篇名。
【五六】韓非子説難の篇を參照せよ。煩簡同じからず、順序も亦異なり、蓋し太史公の刪易、傳寫の譌倒、皆之れ有る也。
【五七】原文「又非吾辯之難」の難は衍字なり。
【五八】横失。失は佚也。横矢[#「横矢」はママ]に縱横に説くを云ふ。
【五九】説く所。我が説を進むる人を云ふ。
【六〇】我が辯説を以て先方の心に合はしむることに在る也。
【六一】名譽を高くせんとする者を云ふ。
【六二】下節。節操見識の低き者也。
【六三】收用せられざる也。
【六四】其身。説者。
【六五】過端。過失の端緒也。
【六六】周澤云云。先方の己を信ずること未だ厚からざるを云ふ。
【六七】語極めて知。説く所極めて理に當る也。
【六八】徳亡く。徳とせられざること。
【六九】貴人、他人より一策を得ること有り、是れを自己の智慧より出でたるが如くにして己の功と爲さんとするに方りて、説者、其出處を知るときは、邪魔とせらるるが故に、其身危し。
【七〇】也は他の字の誤なり。貴人、表面には或る事を爲し、裏面には他の事を爲さんとするに、説者、其事情を知るときは、油斷ならずとせらるるが故に、其身危し。
【七一】之は貴人、人君をさす。
【七二】間。譏刺也。
【七三】細人。小人也。
【七四】鬻。賣る也。
【七五】己の助を借り度いのだなと邪推する也。
【七六】徑省。捷徑に省略する也。
【七七】知識缺乏せりとして之を屈辱す。
【七八】汎濫博文。説の範圍廣大にして引證該博なり。
【七九】久し。長たらしい也。
【八〇】事に順ひ意を陳ぶ。事柄のままに意見を陳べて、大言壯語せざる也。
【八一】廣肆。廣博放肆。
【八二】草野。鄙陋也。
【八三】倨侮。倨傲侮慢也。
【八四】此れ游説の困難なる所以にして、心得置かざる可からざる也。
【八五】滅する。諱みて言はざる也。
【八六】窮むる。追窮する也。
【八七】其敵。敵對の説也。
【八八】其難。敢てし難きをいふ也。
【八九】概。阻碍する也。
【九〇】拂辭。怫然として引退するを云ふ。
【九一】悟言。さとす言葉。
【九二】撃排。攻撃排斥也。
【九三】難は辭の誤。知は得の誤。當に韓非子に從ふべし。傳寫の誤なり。
【九四】曠日彌久。長日月を經過するを謂ふ。
【九五】打解け信用せらるるなり。
【九六】其身を飾る。爵祿を得るをいふ。
【九七】庖。料理人。
【九八】虜。囚虜。
【九九】是れ皆其の君主に任用せらるる手段として此に出でたる也。
【一〇〇】能仕は能士なり。才能ある士なり。設は恥の誤。當に韓非子に從ふべし。
【一〇一】知。賢なり。
【一〇二】其子は其女子なり。
【一〇三】兄弟の國。婦の黨を婚兄弟と曰ひ、壻の黨を姻兄弟と曰ふ。
【一〇四】此二説。鄰人の父と關其思とをいふ。
【一〇五】薄き者。甚しからざる者也。
【一〇六】其智を施し用ふること則ち難き也。
【一〇七】

。斷足の刑。
【一〇八】餘桃。食殘しの桃。
【一〇九】愛憎の變化甚だしき也。
【一一〇】韓非子には「智當らず罪せられて疏を加ふ」に作る、今史記改めて「罪當りて疏を加ふ」に作る、文義尤も勝れたり。
【一一一】愛憎の主。主の愛憎と曰ふが如し。
【一一二】擾狎。ならすこと。
【一一三】逆鱗。さかさまの鱗。
【一一四】徑尺。直徑一尺。
【一一五】幾。庶幾なり。游説の成功に近き也。
【一一六】此れ人情として當然の事なり。
【一一七】過法。苛酷なる法。
【一一八】司法官の手に下して、韓非を糾彈せしめし也。
【一一九】藥。毒藥。
【一二〇】陳。陳辯なり。
【一二一】申子・韓子の著書を學ぶ者少からず。
【一二二】虚無にして實體無く、自然に因り變化に應じ、何等爲す所無くして、千變萬化す。
【一二三】辭稱。言辭なり。
【一二四】老子の道徳の意を布衍して、縱横放肆の議論を爲す。
【一二五】卑卑。卑近。
【一二六】道徳を刑名法術に施行する也。
【一二七】繩墨を引いて。墨繩を引いたやうにとの意。法則ずくめなるをいふ。
【一二八】慘※[#「激」の「さんずい」に代えて「石」、U+7909、28-註【一二八】] 慘忍刻薄也。恩少し。情愛少き也。
老子者。楚苦縣

郷曲仁里人也。姓李氏。名耳。字伯陽。諡曰
レ
。周守藏室之吏也。孔子適
レ周。將
レ問
三禮於
二老子
一。老子曰。子所
レ言者。其人與
レ骨皆已朽矣。獨其言在耳。且君子得
二其時
一則駕。不
レ得
二其時
一。則蓬累而行。吾聞
レ之。良賈深藏若
レ虚。君子盛徳容貌若
レ愚。去
下子之驕氣與
二多欲
一。態色與
中淫志
上。是皆無
レ益
レ於
二子之身
一。吾所
レ以
レ告
レ子。若
レ是而已。孔子去。謂
二弟子
一曰。鳥。吾知
二其能飛
一。魚。吾知
二其能游
一。獸。吾知
二其能走
一。走者可
二以爲
一レ罔。游者可
二以爲
一レ綸。飛者可
二以爲
一レ
。至
レ於
レ龍。吾不
レ能
レ知
下其乘
二風雲
一而上
上レ天。吾今日見
二老子
一。其猶
レ龍邪。老子修
二道徳
一。其學以
二自隱無
一レ名爲
レ務。居
レ周久
レ之。見
二周之衰
一。迺遂去至
レ關。關令尹喜曰。子將
レ隱矣。彊爲
レ我著
レ書。於
レ是老子迺著
二書上下篇
一。言
二道徳之意
一。五千餘言而去。莫
レ知
二其所
一レ終。或曰。老莱子亦楚人也。著
二書十五篇
一。言
二道家之用
一。與
二孔子
一同
レ時云。蓋老子百有六十餘歳。或言二百餘歳。以
二其修
レ道而養
一レ壽也。自
二孔子死
一之後。百二十九年。而史記周太史

見
二秦獻公
一。曰。始秦與
レ周合而離。離五百歳而復合。合七十歳。而霸王者出焉。或曰。

。即老子。或曰。非也。世莫
レ知
二其然否
一。老子。隱君子也。老子之子名宗。宗爲
二魏將
一。封
レ於
二段干
一。宗子注。注子宮。宮玄孫假。假仕
レ於
二漢孝文帝
一。而假之子解。爲
二膠西王

太傅
一。因家
レ于
レ齊焉。世之學
二老子
一者。則
二儒學
一。儒學亦
二老子
一。道不
レ同。不
二相爲謀
一。豈謂
レ是邪。李耳無爲自化。清靜自正。
莊子者。蒙人也。名周。周嘗爲
二蒙漆園吏
一。與
二梁惠王齊宣王
一同
レ時。其學無
レ所
レ不
レ
。然其要本
三歸於
二老子之言
一。故其著書十餘萬言。大抵率寓言也。作
二漁父。盜跖。

篋
一。以詆
二※
[#「言+此」、U+8A3F、5-5]孔子之徒
一。以明
二老子之術
一。畏累虚。亢桑子之屬。皆空語。無
二事實
一。然善屬
レ書離
レ辭。指
レ事類
レ情。用剽
二剥儒墨
一。雖
二當世宿學
一。不
レ能
二自解免
一也。其言洸洋自恣以適
レ己。故自
二王公大人
一不
レ能
レ器
レ之。楚威王聞
二莊周賢
一。使
二使厚
レ幣迎
一レ之。許以
レ爲
レ相。莊周笑謂
二楚使者
一曰。千金重利。卿相尊位也。子獨不
レ見
二郊祭之犧牛
一乎。養
二食之
一數歳。衣以
二文繍
一。以入
二太廟
一。當
二是之時
一。雖
レ欲
レ爲
二孤豚
一。豈可
レ得乎。子亟去。無
レ汚
レ我。我寧游
二戲汚涜之中
一自快。無
レ爲
二有
レ國者所
一レ覊。終身不
レ仕。以快
二吾志
一焉。
申不害者。京人也。故鄭之賤臣。學
レ術以干
二韓昭
一。昭

用爲
レ相。内修
二政教
一。外應
二諸
一。十五年。終
二申子之身
一。國治兵彊。無
二侵
レ韓者
一。申子之學。本
レ於
二黄老
一而主
二刑名
一。著
二書二篇
一。號曰
二申子
一。
韓非者。韓之諸公子也。喜
二刑名法術之學
一。而其歸本
レ於
二黄老
一。非爲
レ人口吃。不
レ能
二道説
一。而善著
レ書。與
二李斯
一倶事
二荀卿
一。斯自以爲不
レ如
レ非。非見
二韓之削弱
一。數以
レ書諫
二韓王
一。韓王不
レ能
レ用。於
レ是韓非疾
丁治
レ國不
レ務
下修
二明其法制
一。執
レ勢以御
二其臣下
一。富
レ國彊
レ兵。而以求
レ人任
上レ賢。反擧
二浮淫之蠧
一而加
丙之於
乙功實之上
甲。以爲儒者用
レ文亂
レ法。而侠者以
レ武犯
レ禁。寛則寵
二名譽之人
一。急則用
二介冑之士
一。今者所
レ養非
レ所
レ用。所
レ用非
レ所
レ養。悲
二廉直不
一レ容
レ於
二邪枉之臣
一。觀
二往者得失之變
一。故作
二孤憤。五蠧。内外儲。説林。説難。十餘萬言
一。然韓非知
二説之難
一。爲
二説難書
一。甚具。終死
レ於
レ秦。不
レ能
二自脱
一。説難曰。凡説之難。非
下吾知之有
二以説
一之難
上也。又非
下吾辯之難。能明
二吾意
一之難
上也。又非
二吾敢横失能盡之難
一也。凡説之難。在
下知
二所
レ説之心
一。可
中以
二吾説
一當
上レ之。所
レ説出
レ於
レ爲
二名高
一者也。而説
レ之以
二厚利
一。則見
二下節
一。而遇
二卑賤
一。必棄遠矣。所
レ説出
レ於
二厚利
一者也。而説
レ之以
二名高
一。則見
三無心而遠
二事情
一。必不
レ收矣。所
レ説實爲
二厚利
一。而顯爲
二名高
一者也。而説
レ之以
二名高
一。則陽收
二其身
一。而實疏
レ之。若説
レ之以
二厚利
一。則陰用
二其言
一。而顯棄
二其身
一。此之不
レ可
レ不
レ知也。夫事以
レ密成。語以
レ泄敗。未
二必其身泄
一レ之也。而語及
二其所
レ匿之事
一。如
レ是者身危。貴人有
二過端
一。而説者明言
二善議
一。以推
二其惡
一者。則身危。周澤未
レ渥也。而語極知。説行而有
レ功。則徳亡。説不
レ行而有
レ敗。則見
レ疑。如
レ是者身危。夫貴人得
レ計。而欲
二自以爲
一レ功。説者與知焉。則身危。彼顯有
二所
レ出事
一。迺自以爲
二也故
一。説者與知焉。則身危。彊
レ之以
三其所
二必不
一レ爲。止
レ之以
二其所
一レ不
レ能
レ已者身危。故曰。與
レ之論
二大人
一。則以爲
レ間
レ己。與
レ之論
二細人
一。則以爲
レ鬻
レ權。論
二其所
一レ愛。則以爲
レ借
レ資。論
二其所
一レ憎。則以爲
レ嘗
レ己。徑
二省其辭
一。則不知而屈
レ之。汎濫博文。則多
二而久
一レ之。順
レ事陳
レ意。則曰
二怯懦而不
一レ盡。慮
レ事廣肆。則曰
二草野而倨侮
一。此説之難不
レ可
レ不
レ知也。凡説之務。在
レ知
下飾
二所
レ説之所
一レ敬。而滅
中其所
上レ醜。彼自知
二其計
一。則無
下以
二其失
一窮
上レ之。自勇
二其斷
一。則無
下以
二其敵
一怒
上レ之。自多
二其力
一。則無
下以
二其難
一概
上レ之。規
二異事與同
一レ計。譽
二異人與同
一レ行者。則以飾
レ之無
レ傷也。有
二與同
レ失者
一。則明飾
二其無
一レ失也。大忠無
レ所
二拂辭
一。悟言無
レ所
二撃排
一。迺後申
二其辯知
一焉。此所
レ以
二親近不
レ疑。知
一レ盡
二之難
一也。得
二曠日彌久而周澤既渥
一。深計而不
レ疑。交爭而不
レ罪。迺明計
二利害
一以致
二其功
一。直指
二是非
一以飾
二其身
一。以
レ此相持。此説之成也。伊尹爲
レ庖。百里奚爲
レ虜。皆所
三由干
二其上
一也。故此二子者。皆聖人也。猶不
レ能
レ無
二役
レ身而渉
レ世。如
レ此其
一也。則非
二能仕之所
一レ設也。宋有
二富人
一。天雨墻壞。其子曰。不
レ築。且
レ有
レ盜。其鄰人之父亦云。暮而果大亡
二其財
一。其家甚知
二其子
一。而疑
二鄰人之父
一。昔者鄭武公欲
レ伐
レ胡。迺以
二其子
一妻
レ之。因問
二群臣
一曰。吾欲
レ用
レ兵。誰可
レ伐者。關其思曰。胡可
レ伐。迺戮
二關其思
一曰。胡。兄弟之國也。子言
レ伐
レ之何也。胡君聞
レ之。以
レ鄭爲
レ親
レ己。而不
レ備
レ鄭。鄭人襲
レ胡取
レ之。此二説者。其知皆當矣。然而甚者爲
レ戮。薄者見
レ疑。非
二知之難
一也。處
レ知則難矣。昔者彌子瑕見
レ愛
レ於
二衞君
一。衛國之法。竊駕
二君車
一者。罪至
レ
。既而彌子之母病。人聞。往夜告
レ之。彌子矯駕
二君車
一而出。君聞
レ之而賢
レ之曰。孝哉。爲
レ母之故而犯
二
罪
一。與
レ君游
二果園
一。彌子食
レ桃而甘。不
レ盡而奉
レ君。君曰。愛
レ我哉。忘
二其口
一而念
レ我。及
三彌子色衰而愛弛得
二罪於
一レ君。君曰。是嘗矯駕
二吾車
一。又嘗食
レ我以
二其餘桃
一。故彌子之行未
レ變
レ於
レ初也。前見
レ賢而後獲
レ罪者。愛憎之至變也。故有
レ愛
レ於
レ主。則知當而加
レ親。見
レ憎
レ於
レ主。則罪當而加
レ疏。故諫説之士。不
レ可
レ不
下察
二愛憎之主
一而後説
上レ之矣。夫龍之爲
レ蟲也。可
二擾狎而騎
一也。然其喉下有
二逆鱗徑尺
一。人有
レ嬰
レ之。則必殺
レ人。人主亦有
二逆鱗
一。説
レ之者。能無
レ嬰
二人主之逆鱗
一。則幾矣。人或傳
二其書
一至
レ秦。秦王見
二孤憤五蠧之書
一曰。嗟乎。寡人得
下見
二此人
一。與
レ之游
上。死不
レ恨矣。李斯曰。此韓非之所
レ著書也。秦因急攻
レ韓。韓王始不
レ用
レ非。及
レ急迺遣
レ非使
レ秦。秦王悦
レ之。未
二信用
一。李斯姚賈害
レ之。毀
レ之曰。韓非。韓之諸公子也。今王欲
レ并
二諸
一。非終爲
レ韓。不
レ爲
レ秦。此人之情也。今王不
レ用。久留而歸
レ之。此自遺
レ患也。不
レ如
下以
二過法
一誅
上レ之。秦王以爲
レ然。下
レ吏治
レ非。李斯使
三人遺
二非藥
一。使
二自殺
一。韓非欲
二自陳
一不
レ得
レ見。秦王後悔
レ之。使
二人赦
一レ之。非已死矣。申子韓子皆著
レ書。傳
レ於
二後世
一。學者多有。余獨悲
下韓子爲
二説難
一而不
上レ能
二自脱
一耳。
太史公曰。老子所
レ貴道。虚無因應。變
三化於
二無爲
一。故著書辭稱。微妙難
レ識。莊子散
二道徳
一放論。要亦歸
二之自然
一。申子卑卑。施
三之於
二名實
一。韓子引
二繩墨
一。切
二事情
一。明
二是非
一。其極慘※
[#「激」の「さんずい」に代えて「石」、U+7909、8-1]少
レ恩。皆原
レ於
二道徳之意
一。而老子深遠矣。