國譯史記列傳

司馬遷

箭内亙訳註




箭内亙による譯

伍子胥ごししよ人也ひとなりうんうんちち伍奢ごしやひ、うんあに伍尚ごしやうふ。其先そのせん伍擧ごきよふ。(伍擧直諫ちよくかんもつ莊王さうわうつかへて、(一)けんなるり、ゆゑ其後世そのこうせいあり。平王へいわう太子たいしり、けんふ。伍奢ごしやをして太傅たいふたらしめ、費無忌ひぶきをして少傅せうふたらしむ。無忌ぶき太子建たいしけんちうならず。平王へいわう無忌ぶきをして太子たいしめにしんめとらしむ。しんぢよかほよし。無忌ぶきかへりて平王へいわうはうじていはく、『しんぢよはなはなり。わうみづかめとりてさら太子たいしめにめとし』と。平王へいわうつひみづかしんぢよめとりて、はなはこれ愛幸あいかうし、しんむ。さら太子たいしめにめとる。無忌ぶきすでしんぢよもつみづか平王へいわうび、つて太子たいしりて平王へいわうつかふ。一たん平王へいわうしゆつして太子たいしたばおのれころさんことをおそれ、すなはつて太子建たいしけんざんす。けんははさい女也ぢよなり平王へいわうちようなし。平王へいわう※(二の字点、1-2-22)やうやく※(二の字点、1-2-22)ますますけんうとんじ、けんをして城父じやうほノ地)をまも(二)邊兵へんぺいそなへしむ。これしばらくして、無忌ぶきまた日夜にちや太子たいし(三)たんわうつていはく、『太子たいししんぢよゆゑもつて、(四)怨望ゑんばう※能あた[#こと、45-12]はず。ねがはくはわうすこしくみづかそなへよ。太子たいし城父じやうほりてへいしやうたりしより、ほか※(「危」の「犯のつくり」に代えて「矢」、第4水準2-82-22)しよこうまじはり、まさりてらんさんとほつす』と。平王へいわうすなは其太傅伍奢そのたいふごしやして、これ(五)考問かうもんす。伍奢ごしや無忌ぶき太子たいし平王へいわうざんするをる。つていはく、『わうひと奈何いかん(六)讒賊ざんぞく小臣せうしんもつ(七)骨肉こつにくしんうとんずる』と。無忌ぶきいはく、『わういま太子ヲせいせずんば、其事そのことり、わうまさ(八)とりこにせられんとす』と。ここおい平王へいわういかつて伍奢ごしやとらへて、(九)城父じやうほ(一〇)司馬しば奮揚ふんやうをしていて太子たいしころさしむ。きていまいたらず、奮揚ふんやうひとをして太子たいしげしむらく、『太子たいしきふれ、しからずんばまさちうせられんとす』と。太子建たいしけんげてそうはしる。無忌ぶき平王へいわうつていはく、『伍奢ごしや、二あり、みなけんなり。ちうせずんばまさうれひさんとす。其父そのちちもつ(一一)としてこれし、しからずんばまさうれひさんとす』と。わう使つかひをして伍奢ごしやはしめていはく、『なんぢの二(一二)いたさばすなはきん。あたはずんばすなはせん』と。伍奢ごしやいはく、『しやうひとりやじんばばかならきたらん。うんひとりや(一三)剛戻がうれいにして(一四)はぢ[#「言+句」、U+8A3D、46-11]しのび、大事だいじす。かれきたらばあはとりこにせらるるをて、其勢そのいきほひかならきたらざらん』と。わうかず。ひとをして二さしめていはく、『きたらばわれなんぢちちかさん。きたらずんばいましやころさん』と。伍尚ごしやうかんとほつす。うんいはく、『の・兄弟けいていすは、もつちちかさんとほつするにあらず。のがるるものらばのちうれひしやうぜんことをおそるるなり。ゆゑちちもつし、いつはつて二すなり。二いたらばすなは父子ふしともせん。なんちちえきせん。(一五)かばあたはうずるをざらしめんのみ他國たこくはしちからもつちちはぢすすぐにかず。ともほろぶるは(一六)なり』と。伍尚ごしやういはく、『われくともつひちちめいまつたうする※能あた[#こと、47-4]はざるをる。しかれどもちちわれもつせいもとむるに、しかかず、のちはぢすす※能あた[#こと、47-4]はずんばつひに・天下てんかわらひらんをうらのみ』と。うんふ、『し。なんぢちちころすのあたむくいよ。われまさせんとす』と。しやうすで(一七)とらはれにく。使者ししや伍胥ごしよとらへんとす。伍胥ごしよゆみりて使者ししやむかふ。使者ししやあへすすまず。伍胥ごしよつひげ、太子建たいしけんの・そうるをき、いてこれしたがふ。しや子胥ししよぐるをくや、いはく、(一八)楚國そこく君臣くんしんまさへいくるしまんとす』と。伍尚ごしやういたる。しやしやうとをあはころせり。
伍胥ごしよすでそういたる。そう(一九)華氏くわしらんり。すなは太子建たいしけんともていはしる。鄭人ていひとはなはこれ(二〇)くす。太子建たいしけんまたしんく。しん頃公けいこういはく、『太子たいしすでていし。てい太子たいししんず。太子たいしめに(二一)内應ないおうせよ。しかうしてわれ其外そのそとめば、ていほろぼすやひつせり。ていほろぼさば太子たいしほうぜん』と。太子たいしすなはていかへる。こと(二二)いまくわいせず。(太子建※(二の字点、1-2-22)たまたまみづかひそか其從者そのじうしやころさんとほつす。從者じうしや(二三)其謀そのはかりごとり、すなはこれていぐ。てい定公ていこう子産しさんと、太子建たいしけん誅殺ちうさつす。けんり、しようなづく。伍胥ごしよおそれ、すなはしようともはしる。(二四)昭關せうくわんいたる。昭關せうくわんこれとらへんとほつす。伍胥ごしよつひしよう獨身どくしん歩走ほそうし、ほとんどだつするをざらんとす。ものしりへり。かういたる。江上かうじやう、一漁父ぎよふの・ふねるあり、伍胥ごしよきふり、すなは伍胥ごしよわたす。伍胥ごしよすでわたり、其劒そのけんいていはく、『此劒このけんあたひきんもつ(二五)あたふ』と。いはく、『楚國そこくはふ(二六)伍胥ごしよものは、ぞく萬石まんせき(二七)爵執珪しやくしつけいたまふ。ただに百きんけんのみならんや』と。けず。伍胥ごしよいまいたらずしてみ、中道ちうだうとどましよくふ。いたる。(二八)呉王僚ごわうれうまさこともちひ、公子光こうしくわうしやうたり。伍胥ごしよすなは公子光こうしくわうつてもつ呉王ごわうまみゆるをもとむ。これひさしうして平王へいわう其邊邑そのへんいふ鍾離しようり邊邑へんいふ卑梁氏ひりやうしとも(二九)さんし、(三〇)兩女子りやうぢよしくはあらそうて相攻あひせむるをもつて、すなはおほいいかり、兩國りやうこくへいげて相伐あひうつにいたる。公子光こうしくわうをしてたしむ。其鍾離そのしようり(三一)居巣きよさう[#ルビの「きよさう」は底本では「きまさう」]いてかへる。伍子胥ごししよ呉王僚ごわうれういていはく、『やぶなりねがはくは公子光こうしくわうれ』と。公子光こうしくわう呉王ごわうつていはく、『伍胥ごしよ父兄ふけいりくせらる。しかうしてわうつをすすむるは、もつみづか其讎そのあたむくいんとほつするのみつともいまやぶからざらん』と。伍胥ごしよ公子光こうしくわうの・(三二)内志ないしあり・わうころして自立じりつせんとほつし・いまくに外事ぐわいじもつてすからざるをり、すなは(三三)專諸せんしよ公子光こうしくわうすすめ、退しりぞいて太子建たいしけんしようともたがやす。
ねんにして平王へいわうしゆつす。はじ平王へいわうの・太子建たいしけんよりうばところしんぢよしんむ。平王へいわうしゆつするにおよんで、しんつひつてのちれり。れを昭王せうわうとす。呉王僚ごわうれうつて、二公子こうしをしてへいしやうとしいておそはしむ。へいはつしてへいうしろつ。(呉ノ兵かへるをず。呉國ごこく(三四)うちむなし。しかうして公子光こうしくわうすなは專諸せんしよをして呉王僚ごわうれうおそさしめて自立じりつす。れを呉王闔廬ごわうかふろとなす。闔廬かふろすでつてこころざしすなは伍員ごうんしてもつ(三五)行人かうじんとなし、しかうしてとも國事こくじはかる。其大臣そのだいじん郤宛げきゑん伯州犂はくしうれいちうす。伯州犂はくしうれいまご※(「喜+否」、第4水準2-4-49)はくひげてはしる。また※(「喜+否」、第4水準2-4-49)もつ大夫たいふす。さき王僚わうれうところの二公子こうしの・へいしやうとしてちしものみちえて、かへるをず。のち闔廬かふろ王僚わうれうして自立じりつせりとき、つひ其兵そのへいもつくだる。これじよほうず。闔廬かふろつて三ねんすなはおこし、伍胥ごしよ※(「喜+否」、第4水準2-4-49)はくひと、つてじよき、つひもとはんせる二將軍しやうぐんとりこにす。つて(三六)えいいたらんとほつす。將軍孫武しやうぐんそんぶいはく、『たみつかる、いまならず。しばらこれて』と。すなはかへる。四年よねんつてりくせんとをる。五ねんゑつつてこれやぶる。六ねん昭王せうわう公子嚢瓦こうしだうぐわをしてへいひきゐてたしむ。伍員ごうんをしてむかたしめ、おほいぐん豫章よしやうやぶり、居巣きよさうる。九ねん呉王闔廬ごわうかふろ子胥ししよ孫武そんぶつていはく、『はじえいいまからざるをへり、いまはたして何如いかん』と。二こたへていはく、『將嚢瓦しやうだうぐわむさぼりて、(三七)たうさいみなこれうらむ。わうかならおほいこれたんとほつせば、かならたうさいすなはならん』と。闔廬かふろこれき、ことごとおこしてたうさいともつ。漢水かんすゐはさんでぢんす。呉王ごわうおとうと夫概ふがいへいしやうたり、したがはんとふ。わうかず。つひ(三八)其屬そのぞく五千にんもつて、將子常しやうしじやうつ。子常しじやう敗走はいそうしてていはしる。ここおいて、かちじようじてすすみ、いつたびたたかつてつひえいいたる。(三九)己卯きばう昭王せうわう出奔しゆつぽんし、(四〇)庚辰かうしん呉王ごわうえいる。昭王せうわう(四一)出亡しゆつばうして雲夢うんぼうる。たうわうつ。わう※(「員+おおざと」、第3水準1-92-77)うんはしる。(四二)※(「員+おおざと」、第3水準1-92-77)うんこうおとうとくわいいはく、『平王へいわうちちころせり。われ其子そのこころすも、またならずや』と。※(「員+おおざと」、第3水準1-92-77)うんこう其弟そのおとうとの・わうころさんことをおそれ、わうずゐはしる。へいずゐかこむ。(呉 隨人ずゐひとつていはく、(四三)『(往昔しう子孫しそん漢川かんせんりしものは、ことごとこれほろぼせり』と。隨人ずゐひとわうころさんとほつす。わう※(「棊」の「木」に代えて「糸」、第3水準1-90-9)わうかくし、(四四)おのれみづかわうり、もつこれあたらんとす。隨人ずゐひとわうあたへんことをぼくす。不吉ふきつなり。すなは(四五)しやし、わうあたへず。
はじ伍員ごうん申包胥しんはうしよまじはりす。うんぐるや、包胥はうしよつていはく、『われかならくつがへさん』と。包胥はうしよいはく、『われかならこれ(四六)そんせん』と。へいの・えいるにおよび、伍子胥ごししよ昭王せうわうもとむれども、すでず。すなは平王へいわうはかあばいて其尸そのしかばねいだし、これむちうつこと三百、しかのちむ。申包胥しんはうしよ山中さんちうげ、ひとをして子胥ししよはしめていはく、『の・あたはうずる、(四七)以甚はなはだしきかなわれこれく、「ひとおほものてんち、てんさだまつてまたひとやぶる」と。いま故平王もとへいわうしんにして、したしく北面ほくめんしてこれつかへたり。いま死人しにん(四八)※(「にんべん+膠のつくり」、第4水準2-1-85)りくするにいたる。(四九)天道てんだうきよくなからんや』と。伍子胥ごししよいはく、『めに申包胥しんはうしよ(五〇)しやしてへ、「われ(五一)れてみちとほし、われゆゑ(五二)倒行たうかうしてこれ逆施ぎやくしするのみ」と。ここおい申包胥しんはうしよしんはしりてきふげ、すくひをしんもとむ。しんゆるさず。包胥はうしよしんていつて晝夜ちうやこくし、七じつ其聲そのこゑたず。しん哀公あいこうこれあはれんでいはく、『無道ぶだうなりといへども、しんあることかくごとし。そんするかるけんや』と。すなはくるま五百じようり、すくうてつ。六ぐわつへいしよくやぶる。
※(二の字点、1-2-22)たまたま呉王ごわうひさしくとどまり昭王せうわうもとむ、しかうして闔廬かふろおとうと夫概ふがいすなはかへり、自立じりつしてわうる。闔廬かふろこれき、すなはててかへり、其弟そのおとうと夫概ふがいつ。夫概ふがい敗走はいそうし、つひはしれり。昭王せうわう内亂ないらんあるをすなはえいり、夫概ふがい堂谿だうけいほうじて堂谿氏だうけいしす。たたかつてやぶる。呉王ごわうすなはかへる。のちさい闔廬かふろ太子夫差たいしふさをしてへいひきゐてたしめ、る。おほいきたらんことをおそれ、すなはえいつて※(「若+おおざと」、第4水準2-90-18)じやくうつる。是時このときあたり、伍子胥ごししよ孫武そんぶはかりごともつて、西にし彊楚きやうそやぶり、きた齊晉せいしんおどし、みなみ越人ゑつひとふくす。其後そののち四年よねん孔子こうししやうたり。のちねん、(呉王ゑつつ。越王勾踐ゑつわうこうせんむかつて姑蘇こそやぶり、闔廬かふろゆびきずつく。(呉ノ軍卻ぐんしりぞく。闔廬かふろきずみてまさせんとす。太子夫差たいしふさつていはく、『なんぢ勾踐こうせんなんぢちちころししをわすれんか』と。夫差ふさこたへていはく、『あへわすれじ』と。是夕このゆふべ闔廬かふろす。夫差ふさすでつてわうとなる。※(「喜+否」、第4水準2-4-49)はくひもつ太宰たいさいとなし、(五三)戰射せんしやならふ。二ねんのちゑつち、ゑつ夫湫ふせうやぶる。越王勾踐ゑつわうこうせんすなは餘兵よへい五千にんもつて、會稽くわいけいうへみ、(五四)大夫種たいふしようをしてへいあつくして太宰※(「喜+否」、第4水準2-4-49)たいさいひおくり・もつはしめ、(五五)くにして(五六)臣妾しんせふらんことをもとむ。呉王ごわうまさこれゆるさんとす。伍子胥ごししよいさめていはく、『越王ゑつわうひと(五七)辛苦しんくふ。いまわうほろぼさずんば、のちかならこれいん』と。呉王ごわうかず。太宰※(「喜+否」、第4水準2-4-49)たいさいひはかりごともちひてゑつ(五八)たひらぐ。
其後そののちねんにして呉王ごわうせい景公けいこうして大臣だいじんちようあらそ新君しんくんわかしとき、すなはおこしてきたのかたせいつ。伍子胥ごししよいさめていはく、『勾踐こうせんしよく(五九)あぢはひかさねず、(六〇)とむらやまひふ。まさこれもちふるところらんとほつするなり此人このひとせずんば、かならうれひさん。いまの・ゑつあるは、ひとの・腹心ふくしんやまひるがごときなりしかるにわうゑつさきにせずして、すなはせいつとむ。またあやまらずや』と。呉王ごわうかず、せいち、おほいせい艾陵がいりようやぶり、つひ(六一)すうきみほろぼしてもつかへる。※(二の字点、1-2-22)ますます子胥ししよはかりごとうとんず。
其後そののち四年よねん呉王ごわうまさきたのかたせいたんとす。越王勾踐ゑつわうこうせん子貢しこうはかりごともちひ、すなは其衆そのしうひきゐてもつたすけ、しかうして重寶ちようはうもつ太宰※(「喜+否」、第4水準2-4-49)たいさいひ獻遺けんゐす。太宰※(「喜+否」、第4水準2-4-49)たいさいひすで※(二の字点、1-2-22)しばしばゑつ(六二)け、ゑつ愛信あいしんすることことはなはだしく、日夜にちやめに呉王ごわうふ。呉王ごわうしんじて※(「喜+否」、第4水準2-4-49)はかりごともちふ。伍子胥ごししよいさめていはく、『ゑつ(六三)腹心ふくしんやまひなり。いま其浮辭詐僞そのふじさぎしんじてせいむさぼる。せいやぶるは、たとへば石田せきでんのごとく、これもちふるところし。(六四)盤庚はんかうかういはく、(六五)顛越てんゑつ不恭ふきようあらば、これ(六六)※(「鼾のへん+りっとう」、第3水準1-14-65)ぎてん[#ルビの「ぎてん」は底本では「さてん」]めつし、遺育ゐいく[#「遺育」の左に「ノコリソダツ」のルビ]するからしめよ。しゆいふへしむるかれ」と。(六七)しやうおこ所以ゆゑんなり。ねがはくはわうせいててゑつさきにせよ。しからずんば、のちまさこれゆともおよからんとす』と。しかるに呉王ごわうかず、子胥ししよせい使つかはす。子胥ししよくにのぞみ、其子そのこつていはく、『われ※(二の字点、1-2-22)しばしばわういさむ。わうもちひず。われいまほろぶるをん。なんぢともほろぶるは、えきなり』と。すなは其子そのこせい(六八)鮑牧はうぼくしよく[#「屬」の左に「タノム」のルビ]して、かへつて(六九)はうず。太宰※(「喜+否」、第4水準2-4-49)たいさいひすで子胥ししよひまり。つてざんしていはく、『子胥ししよひとり、剛暴がうばうにしておんすくなく、(七〇)猜賊さいぞくなり。其怨望そのゑんばうおそらくは深禍しんくわさん。前日ぜんじつわうせいたんとほつす。子胥ししよもつ不可ふかす。わうつひこれつて大功たいこうありき。子胥ししよ其計謀そのけいぼうもちひられざりしをぢ、すなはかへつて怨望ゑんばうす。しかうしていまわう又復またませいつ。子胥ししよもつぱもとひていさ(七一)こともちふるを沮毀しよきす。いたづらやぶれてもつみづか其計謀そのけいぼうたんことを(七二)ねがふのみ。いまわうみづかき、國中こくちう武力ぶりよくつくしてもつせいつ。しかうして子胥ししよいさもちひられず、つてしや(七三)佯病やうびやうしてかず。わうそなへざるからず。わざはひおこすことかたからじ。※(「喜+否」、第4水準2-4-49)ひとをしてひそかこれうかがはしむるに、せい使つかひするや、すなは其子そのこせい鮑氏はうししよくせり。人臣じんしんつて、うちず、そと※(「危」の「犯のつくり」に代えて「矢」、第4水準2-82-22)しよこうり、みづかもつ先王せんわう謀臣ぼうしんすに、いまもちひられず、つね(七四)鞅鞅あうあうとして怨望ゑんばうす。ねがはくはわうはや(七五)これはかれ』と、呉王ごわういはく、『げんきも、われまたこれうたがへり』と。すなは使つかひをして伍子胥ごししよ(七六)屬鏤しよくるけんたまはしめていはく、『これもつせよ』と。伍子胥ごししよてんあふいでたんじていはく、『嗟乎ああ讒臣※(「喜+否」、第4水準2-4-49)ざんしんひらんす。わうすなはかへつてわれちうす。われなんぢちちをしてたらしむ。なんぢいまたざるときより、諸公子しよこうしつをあらそふ。われもつこれ先王せんわうあらそふ。ほとんとつをざらんとせり。なんぢすでつをるや、呉國ごこくわかつてわれあたへんとほつせり。われかへつてあへのぞまざりき。しかるにいまなんぢ諛臣ゆしんげんき、もつ長者ちやうしやころす』と。すなはその(七七)舍人しやじんげていはく、『かなら墓上ぼじやううるに(七八)もつてせよ、もつ(七九)つくからしめん。しかうしてまなこゑぐり、東門とうもんうへけよ。もつゑつこうつてほろぼすをん』と。すなは自剄じけいしてす。呉王ごわうこれいておほいいかり、すなは子胥ししよしかばねり、るに(八〇)鴟夷しいかはもつてし、これ江中かうちう(八一)うかぶ。呉人ごひとこれあはれみ、めに江上かうじやうノ山)につ、つて(其山ヲなづけて胥山しよざんふ。
呉王ごわうすで伍子胥ごししよちうし、つひせいつ。せい鮑氏はうし其君悼公そのきみたうこうして陽生やうせいつ。呉王ごわう其賊そのぞくたんとほつす、たずしてる。其後そののちねん呉王ごわうゑいきみし、これ※(「士/冖/石/木」、第4水準2-15-30)たくかう[#「皐」の「白」に代えて「自」、U+81EF、56-7]くわいす。其明年そのみやうねんつてきたおほい※(「危」の「犯のつくり」に代えて「矢」、第4水準2-82-22)しよこう黄池くわうちくわいし、(八二)もつ周室しうしつれいす。越王勾踐ゑつわうこうせんおそうて(八三)太子たいしころし、へいやぶる。呉王ごわうこれき、すなはかへり、使つかひ使つかはしへいあつうしてゑつたひらぐ。のちねん越王勾踐ゑつわうこうせんつひほろぼして王夫差わうふさころし、しかうして太宰※(「喜+否」、第4水準2-4-49)たいさいひちうす。其君そのきみ不忠ふちうにして、そと(八四)重賂ぢうろけ、(八五)おのれ比周ひしうせるをもつなり
伍子胥ごししよはじともともぐるところもと太子建たいしけんしようといふものり。呉王夫差ごわうふさとき惠王けいわうしようしてかへさんとほつす。葉公せふこういさめていはく『しようゆうこのんでひそか死士ししもとむ。ほとん(八六)わたくしらんか』と。惠王けいわうかず。つひしようして邊邑※(「焉+おおざと」、第3水準1-92-78)へんいふえんらしめ、がうして白公はくこうす。白公はくこうかへつて三ねんにして、子胥ししよちうす。白公勝はくこうしようすでかへり、てい其父そのちちころししをうらみ、すなはひそか死士ししやしなひ、ていむくゆるをもとむ。かへつて五ねんていたんとふ。(八七)令尹子西れいゐんしせいこれゆるす。へいいまはつせざるに、しんていつ。ていすくひをふ。子西しせいをしていてすくはしむ。(子西、鄭トともちかつてかへる。白公勝はくこうしよういかつていはく、(八八)ていあたあらず、すなは子西しせいなり』と。しようみづかけんぐ。ひとうていはく、『なにをかもつす』と。しよういはく、『もつ子西しせいころさんとほつす』と。子西しせいこれき、わらつていは(八九)しようたまごごとのみなにをかさんや』と。其後そののちさい白公勝はくこうしよう石乞せききつともおそうて令尹子西れいゐんしせい司馬子※(「棊」の「木」に代えて「糸」、第3水準1-90-9)しばしきてうころす。石乞せききついはく、『わうころさずんば不可ふかなり』と。すなはこれおびやかす。わう(九〇)高府かうふく。(九一)石乞せききつ從者じうしや屈固くつこ惠王けいわうひ、げて昭夫人せうふじんきうはしる。葉公せふこう白公はくこうの・らんすをき、其國人そのこくじんひきゐて白公はくこうむ。白公はくこうやぶれ、げて山中さんちうはしり、自殺じさつす。しかうして石乞せききつとりこにして、白公はくこう(九二)尸處ししよふ。はず。まさんとす。石乞せききついはく、『事成ことならばけいらん。らずしてらるるは、もとより(九三)其職也そのしよくなり』と。つひあへ其尸處そのししよげず。つひ石乞せききつる。しかうして惠王けいわうもとめてこれつ。
太史公たいしこういはく、怨毒ゑんどくの・ひとける、はなはだしいかな、(九四)王者わうしやこれ臣下しんかおこな※能あた[#こと、58-7]はず、いはん同列どうれつをや。さき伍子胥ごししよをしてしやしたがともせしめば、なん(九五)螻蟻ろうぎことならんや。(九六)小義せうぎてて大恥たいちすすぎ、後世こうせいる。(九七)かなしいかな子胥ししよ(九八)江上かうじやうくるしめられ・みちしよくふにあたり、こころざしかつ須臾しばらくえいわすれんや。ゆゑ(九九)隱忍いんにんして功名こうめいせり。(一〇〇)烈丈夫れつぢやうふあらずんば、れかこれいたさん。(一〇一)白公はくこう自立じりつしてきみらざりせば、其功謀そのこうぼうまたふにからざるものありしならんかな。

箭内亙による註

【一】顯なる有り。世に名を著はせるをいふ。
【二】邊兵。國境の兵。
【三】。缺點。
【四】怨望。うらむ。
【五】考問。拷問に同じ。
【六】讒賊の小臣。費無忌をさす。
【七】骨肉の親。太子を指す。
【八】。擒に同じ。
【九】城父。地名。
【一〇】司馬奮揚。司馬は官名、奮揚は名。
【一一】。人質。
【一二】致す。呼び寄せる也。
【一三】剛戻。剛情にして人に戻るをいふ。
【一四】[#「言+句」、U+8A3D、46-註【一四】]。恥辱。詬と同じ。
【一五】太子已に出亡せり、故に員、楚王が過を悔ゆる意無く必ず其父を殺さんことを知る也。
【一六】爲す無きなり。何の用もなき事也。
【一七】。捕縛。
【一八】楚國の君臣は、ゆくゆく兵難に苦しむことと爲るべし。
【一九】華氏の亂。宋世家を參照せよ。
【二〇】善くす。好遇する也。
【二一】内應。内部より裏切りするをいふ。
【二二】未だ會せず。未だ機會を得ざる也。
【二三】其謀。内應の謀也。
【二四】昭關。關所の名、下の昭關は其關守。
【二五】。漁父を指す。
【二六】此に至りて始めて漁父が伍胥を識るを見はす。
【二七】爵執珪。爵位の名。
【二八】按ずるに原文の「事」の字は衍文なるべく、當に「呉王僚、方に公子光を用ひて將と爲す」と讀むべからん。下文の「呉王」は即ち僚をさすなり。
【二九】。養蠶。
【三〇】兩女子。兩邑の女子。
【三一】居巣。楚の邑の名。
【三二】内志。國内に事を擧げんとする志也。
【三三】專諸。勇士の名。
【三四】内空し。國内に兵が居らぬ也。
【三五】行人。諸※(「危」の「犯のつくり」に代えて「矢」、第4水準2-82-22)の國への使する官也。
【三六】。楚の都。
【三七】。楚に屬する二國の名。
【三八】其屬。夫概の私屬。
【三九】己卯。己卯の日。
【四〇】庚辰。庚辰の日、即ち己卯の翌日。
【四一】出亡。出奔也。雲夢。澤の名。
【四二】※(「員+おおざと」、第3水準1-92-77)※(「員+おおざと」、第3水準1-92-77)の令。
【四三】呉は姫姓にして、周と同姓なり、故に此を以て楚の罪をむる也。
【四四】王子※(「棊」の「木」に代えて「糸」、第3水準1-90-9)、楚王の身代りと爲りて殺されん※[#こと、51-註【四四】]を望めり。
【四五】。謝絶する也。
【四六】。保存する也。
【四七】以甚。以は已と通ず、太だ也。
【四八】※(「にんべん+膠のつくり」、第4水準2-1-85)。辱むる也。
【四九】天道の循環の極即ち天定まり人を破る時無からんや。
【五〇】。答禮。
【五一】年老いて爲すべき事多きに喩ふ。
【五二】理に順うて行ふに遑あらざるを云ふ。
【五三】戰射を習ふ。兵士をして戰射を練習せしむ。
【五四】大夫種。大夫は位、種は名、其姓は文と曰ふ。幣を厚くす。鄭重なる贈物を贈る也。
【五五】國を委す。自國を差出すをいふ。
【五六】臣妾。越王は呉の臣となり、越王の夫人は呉の婢妾となるをいふ。
【五七】は耐ふる也。辛苦艱難に耐へ忍ぶ也。
【五八】。媾和する也。
【五九】一菜にて食するを云ふ。
【六〇】死を弔ひ病を問ふ。死者には祭祀料などを與へて之を弔慰し、病者には醫藥などを與へて之を見舞ふ。
【六一】此句甚だ疑ふべし、恐らくは誤あらん。
【六二】。賄賂。
【六三】腹心の病。深く臟腑を犯したる病也。
【六四】盤庚の誥。書經の盤庚の篇。
【六五】顛越。狂顛僭越。是非を顛倒し、法度を越ゆる也。
【六六】輕きは鼻を割く刑に處し重きは之を殺し盡して、生き殘らしむること無く、其不良の種を此土地に移して良民に傳染せしむること無かれ。
【六七】。殷なり。
【六八】鮑牧。當に鮑氏に作るべし。鮑牧は此時已に死せり。
【六九】。復命なり。
【七〇】猜賊。猜忌にして人を害ふ也。
【七一】事を用ふる者、即ち太宰※(「喜+否」、第4水準2-4-49)の計を沮みそしる也。
【七二】。僥倖を希望する也。
【七三】佯病。僞つて病と稱する也。
【七四】鞅鞅。怏怏と同じ。楽まざる貌。
【七五】之を殺せの意。
【七六】屬鏤。劍の名。
【七七】舍人。家臣を云ふ。
【七八】。あづさ。棺材なり、國亡び王死せば、必ず用ふる所あり。
【七九】。棺をいふ。
【八〇】鴟夷の革。馬革の嚢。
【八一】。投げ込みしをいふ。
【八二】以て周室に令す。原文「以令周室」は「令以周室」の倒置にして、「令するに周室を以てす」と讀むべきならん。呉、中國に霸たらんと欲し、周の天子の命令を以て諸※(「危」の「犯のつくり」に代えて「矢」、第4水準2-82-22)に告ぐる也。
【八三】呉の太子。名は友。
【八四】重賂。重き賄賂。
【八五】己と比周。越の賂を受けて越王と徒黨を組むを云ふ。
【八六】。陰謀也。
【八七】令尹。楚の官名、宰相也。
【八八】鄭は云云。今我が讎は鄭に非ず、乃ち子西なりとの意。左傳に云はく、鄭人、此に在り、讎遠からずと。其意略ぼ同じ。
【八九】勝は云云。勝は卵の如きものに過ぎず。何事をか仕出かすことを得んやとの意。此言、左傳に記する所と異なり。左傳には、「子西曰く、勝は卵の如し、翼けて之を長ぜり」とあり、是れ蓋し其の勝に恩あるを恃む也。
【九〇】高府。地名。
【九一】石乞の從者。徐廣曰く、一に「惠王の從者」に作ると。從ふべし。屈固。※[#「くさかんむり/遠」、U+85B3、58-註【九一】]固の誤、即ち箴尹固なり。左傳哀公十八年に見ゆ。
【九二】尸處。死骸の在所。
【九三】其職なり。其本分なり。當然の事なりとの意。
【九四】王たる者が其臣下に對してすら怨心毒心を起させてはならぬ。
【九五】螻蟻。けら、あり、などの小蟲。言ふに足らざるをいふ。
【九六】小義を棄つ。父を質として召したれども行かざりしをいふ。大恥を雪ぐ。遂に父の讎を報いしをいふ。
【九七】伍胥の志の悲むべきをいふ。
【九八】江上に窘めらる。伍胥が歩走して江に至り、幾ど追ふ者に獲られんとせしをいふ。
【九九】堪へ難き艱苦を押し忍びて、遂に功名を成就せり。
【一〇〇】烈丈夫。義烈の男子。
【一〇一】白公も亦父の仇の報ぜられざるに因りて、怒りて子西を殺せり。壯烈の志氣無きにあらず。若し王を劫して自立せざりしならば、其功業謀略亦甚だ盛んなるもの有りしならん。白公が自立して君と爲りしを深く惜む也。

原文

伍子胥者。楚人也。名員。員父曰伍奢。員兄曰伍尚。其先曰伍擧。以直諫楚莊王。有顯。故其後世有楚。楚平王有太子名曰建。使伍奢爲太傅。費無忌爲少傅。無忌不太子建。平王使無忌爲太子婦於上レ秦。秦女好。無忌馳歸報平王曰。秦女絶美。王可自取而更爲太子上レ婦。平王遂自取秦女。而絶愛幸之。生子軫。更爲太子婦。無忌既以秦女自媚平王。因去太子而事平王。恐一旦平王卒。而太子立殺一レ己。乃因讒太子建。建母蔡女也。無平王。平王稍益疏建。使建守城父。備邊兵。頃之。無忌又日夜言太子短於一レ王曰。太子以秦女之故。不怨望。願王少自備也。自太子居城父上レ兵。外交※(「危」の「犯のつくり」に代えて「矢」、第4水準2-82-22)。且欲入爲一レ亂矣。平王乃召其太傅伍奢問之。伍奢知無忌讒太子於平王。因曰。王獨奈何以讒賊小臣。疏骨肉之親乎。無忌曰。王今不制。其事成矣。王且禽。於是平王怒囚伍奢。而使城父司馬奮揚往殺太子。行未至。奮揚使人先告太子。太子急去。不然將誅。太子建亡奔宋。無忌言平王曰。伍奢有二子皆賢。不誅。且楚憂。可其父質而召上レ之。不然。且楚患。王使使謂伍奢。曰。能致汝二子則生。不能則死。伍奢曰。尚爲人。仁。呼必來。員爲人。剛戻忍[#「言+句」、U+8A3D、14-1]。能成大事。彼見來之并禽。其勢必不來。王不聽。使人召二子。曰。來吾生汝父。不來今殺奢也。伍尚欲往。員曰。楚之召我兄弟。非以生我父也。恐脱者後生上レ患。故以父爲質。詐召二子。二子到。則父子倶死。何益父之死。往而令讎不一レ報耳。不他國。借力以雪父之恥。倶滅。無爲也。伍尚曰。我知往終不一レ父命。然恨父召我以求生。而不往。後不恥。終爲天下笑耳。謂員可去矣。汝能報父之讎。我將死。尚既就執。使者捕伍胥。伍胥貫弓執矢嚮使者。使者不敢進。伍胥遂亡。聞太子建之在一レ宋。往從之。奢聞子胥之亡也。曰。楚國君臣且兵矣。伍尚至楚。楚并殺奢與一レ尚也。伍胥既至宋。宋有華氏之亂。乃與太子建倶奔鄭。鄭人甚善之。太子建又適晉。晉頃公曰。太子既善鄭。鄭信太子。太子能爲我内應。而我攻其外。滅鄭必矣。滅鄭而封太子。太子乃還鄭。事未會。會自私欲其從者。從者知其謀。乃告之於一レ鄭。鄭定公與子産殺太子建。建有子名勝。伍胥懼。乃與勝倶奔呉。到昭關。昭關欲之。伍胥遂與勝獨身歩走。幾不脱。追者在後。至江。江上有一漁父乘一レ船。知伍胥之急。乃渡伍胥。伍胥既渡。解其劒曰。此劒直百金。以與父。父曰。楚國之法。得伍胥者。賜粟五萬石爵執珪。豈徒百金劒邪。不受。伍胥未呉而疾。止中道乞食。至呉。呉王僚方用事公子光將。伍胥乃因公子光以求呉王。久之。楚平王以其邊邑鍾離與呉邊邑卑梁氏倶蠶。兩女子爭桑相攻。乃大怒。至兩國擧兵相伐。呉使公子光伐一レ楚。拔其鍾離居巣而歸。伍子胥説呉王僚曰。楚可破也。願復遣公子光。公子光謂呉王曰。彼伍胥父兄爲楚。而勸王伐一レ楚者。欲以自報其讎耳。伐楚。未破也。伍胥知公子光有内志。欲王而自立。未上レ説以外事。乃進專諸於公子光。退而與太子建之子勝野。五年而楚平王卒。初平王所太子建秦女。生子軫。及平王卒。軫竟立爲後。是爲昭王。呉王僚因楚喪。使二公子將兵往襲一レ楚。楚發兵絶呉兵之後。不歸。呉國内空。而公子光乃令專諸襲刺呉王僚而自立。是爲呉王闔廬。闔廬既立得志。乃召伍員以爲行人。而與謀國事。楚誅其大臣郤宛。伯州犂。伯州犂之孫伯※(「喜+否」、第4水準2-4-49)亡奔呉。呉亦以※(「喜+否」、第4水準2-4-49)大夫。前王僚所遣二公子將兵伐楚者。道絶不歸。後聞闔廬弑王僚自立。遂以其兵楚。楚封之於一レ舒。闔廬立三年。乃興師與伍胥伯※(「喜+否」、第4水準2-4-49)楚拔舒。遂禽故呉反二將軍。因欲郢。將軍孫武曰。民勞未可。且待之。乃歸。四年。呉伐楚取六與一レ潛。五年。伐越敗之。六年。楚昭王使公子嚢瓦將兵伐一レ呉。呉使伍員迎撃。大破楚軍於豫章。取楚之居巣。九年。呉王闔廬謂子胥孫武曰。始子言郢未一レ入。今果何如。二子對曰。楚將嚢瓦貪。而唐蔡皆怨之。王必欲大伐一レ之。必先得唐蔡。乃可。闔廬聽之。悉興師與唐蔡楚。與楚夾漢水而陳。呉王之弟夫概將兵請從。王不聽。遂以其屬五千人楚將子常。子常敗走奔鄭。於是呉乘勝而前。五戰。遂至郢。己卯。楚昭王出奔。庚辰。呉王入郢。昭王出亡。入雲夢。盜撃王。王走※(「員+おおざと」、第3水準1-92-77)※(「員+おおざと」、第3水準1-92-77)公弟懷曰。平王殺我父。我殺其子。不亦可乎。※(「員+おおざと」、第3水準1-92-77)公恐其弟殺一レ王。與王奔隨。呉兵圍隨。謂隨人曰。周之子孫在漢川者。楚盡滅之。隨人欲王。王子※(「棊」の「木」に代えて「糸」、第3水準1-90-9)王。己自爲王以當之。隨人卜王於一レ呉。不吉。乃謝呉。不王。始五員與申包胥交。員之亡也。謂包胥曰。我必覆楚。包胥曰。我必存之。及呉兵入一レ郢。伍子胥求昭王。既不得。乃掘楚平王墓。出其尸。鞭之三百。然後已。申包胥亡山中。使人謂子胥曰。子之報讎。其以甚乎。吾聞之。人衆者勝天。天定亦能破人。今子故平王之臣。親北面而事之。今至※(「にんべん+膠のつくり」、第4水準2-1-85)死人。此豈其無天道之極乎。伍子胥曰。爲我謝申包胥曰。吾日暮塗遠。吾故倒行而逆施之。於是申包胥走秦告急。求救於一レ秦。秦不許。包胥立秦廷。晝夜哭。七日七夜。不其聲。秦哀公憐之曰。楚雖無道。有臣若是。可存乎。乃遣車五百乘。救楚撃呉。六月。敗呉兵於一レ稷。會呉王久留楚求昭王。而闔廬弟夫概乃亡歸。自立爲王。闔廬聞之。乃釋楚而歸。撃其弟夫概。夫概敗走。遂奔楚。楚昭王見呉有内亂。乃復入郢。封夫概於堂谿。爲堂谿氏。楚復與呉戰敗呉。呉王乃歸。後二歳。闔廬使太子夫差將兵伐一レ楚取番。楚懼呉復大來。乃去郢徙※(「若+おおざと」、第4水準2-90-18)。當是時。呉以伍子胥孫武之謀。西破彊楚。北威齊晉。南服越人。其後四年。孔子相魯。後五年。伐越。越王勾踐迎撃。敗呉於姑蘇。傷闔廬指。呉軍卻。闔廬病創將死。謂太子夫差曰。爾忘勾踐殺爾父乎。夫差對曰。不敢忘。是夕闔廬死。夫差既立爲王。以※(「喜+否」、第4水準2-4-49)太宰。習戰射。二年後伐越。敗越於夫湫。越王勾踐乃以餘兵五千人。棲會稽之上。使大夫種厚幣遺呉太宰※(「喜+否」、第4水準2-4-49)。以請上レ和。求國爲臣妾。呉王將之。伍子胥諫曰。越王爲人。能辛苦。今王不滅。後必悔之。呉王不聽。用太宰※(「喜+否」、第4水準2-4-49)。與越平。其後五年。而呉王聞齊景公死。而大臣爭寵。新君弱。乃興師北伐齊。伍子胥諫曰。勾踐食不味。弔死問疾。且欲之也。此人不死。必爲呉患。今呉之有越。猶人之有腹心疾也。而王不越而乃務齊。不亦謬乎。呉王不聽。伐齊大敗齊師於艾陵。遂滅鄒魯之君以歸。益疏子胥之謀。其後四年。呉王將北伐一レ齊。越王勾踐用子貢之謀。乃率其衆以助呉。而重寶以獻遺太宰※(「喜+否」、第4水準2-4-49)。太宰※(「喜+否」、第4水準2-4-49)既數受越賂。其愛信越殊甚。日夜爲言呉王。呉王信※(「喜+否」、第4水準2-4-49)之計。伍子胥諫曰。夫越腹心之病。今信其浮辭詐僞而貪齊。破齊譬猶石田。無之。且盤庚之誥曰。有顛越不恭※(「鼾のへん+りっとう」、第3水準1-14-65)殄滅之。俾遺育。無使種于茲邑。此商之所興。願王釋齊而先越。若不然。後將之無一レ及。而呉王不聽。使子胥於一レ齊。子胥臨行。謂其子曰。吾數諫王。王不用。吾今見呉之亡矣。汝與呉倶亡。無益也。乃屬其子於齊鮑牧。而還報呉。呉太宰※(「喜+否」、第4水準2-4-49)既與子胥隙。因讒曰。子胥爲人。剛暴少恩猜賊。其怨望。恐爲深禍也。前日王欲齊。子胥以爲不可。王卒伐之而有大功。子胥恥其計謀不一レ用。乃反怨望。而今王又復伐齊。子胥專愎彊諫。沮毀用一レ事。徒幸呉之敗。以自勝其計謀耳。今王自行。悉國中武力以伐齊。而子胥諫不用。因輟謝佯病不行。王不備。此起禍不難。且※(「喜+否」、第4水準2-4-49)使人微伺一レ之。其使齊也。乃屬其子於齊之鮑氏。夫爲人臣。内不意。外倚※(「危」の「犯のつくり」に代えて「矢」、第4水準2-82-22)。自以爲先王之謀臣。今不用。常鞅鞅怨望。願王早圖之。呉王曰。微子之言。吾亦疑之。乃使使賜伍子胥屬鏤之劍曰。子以此死。伍子胥仰天歎曰。嗟乎。讒臣※(「喜+否」、第4水準2-4-49)亂矣。王乃反誅我。我令若父霸。自若未立時。諸公子爭立。我以死爭之於先王。幾不立。若既得立。欲呉國上レ我。我顧不敢望也。然今若聽諛臣言以殺長者。乃告其舍人曰。必樹吾墓上梓。令以爲一レ器。而抉吾眼。縣呉東門之上。以觀越寇之入滅一レ呉也。乃自剄死。呉王聞之。大怒。乃取子胥尸。盛以鴟夷革。浮之江中。呉人憐之。爲立祠於江上。因命曰胥山。呉王既誅伍子胥。遂伐齊。齊鮑氏殺其君悼公而立陽生。呉王欲其賊。不勝而去。其後二年。呉王召魯衞之君。會※(「士/冖/石/木」、第4水準2-15-30)[#「皐」の「白」に代えて「自」、U+81EF、17-14]。其明年。因北大會※(「危」の「犯のつくり」に代えて「矢」、第4水準2-82-22)黄池。以令周室。越王勾踐襲殺呉太子。破呉兵。呉王聞之。乃歸。使使厚一レ幣與越平。後九年。越王勾踐遂滅呉。殺王夫差。而誅太宰※(「喜+否」、第4水準2-4-49)。以忠於其君。而外受重賂。與己比周也。伍子胥初所與倶亡故楚太子建之子勝者。在呉。呉王夫差之時。楚惠王欲勝歸一レ楚。葉公諫曰。勝好勇而陰求死士。殆有私乎。惠王不聽。遂召勝。使楚之邊邑※(「焉+おおざと」、第3水準1-92-78)。號爲白公。白公歸楚三年。而呉誅子胥。白公勝既歸楚。怨鄭之殺其父。乃陰養死士鄭。歸楚五年。請鄭。楚令尹子西許之。兵未發。而晉伐鄭。鄭請救於一レ楚。楚使子西往救。與盟而還。白公勝怒曰。非鄭之仇。乃子西也。勝自礪劍。人問曰。何以爲。勝曰。欲以殺子西。子西聞之。笑曰。勝如卵耳。何能爲也。其後四歳。白公勝與石乞襲殺楚令尹子西。司馬子※(「棊」の「木」に代えて「糸」、第3水準1-90-9)一レ朝。石乞曰。不王。不可。乃劫之。王如高府。石乞從者屈固。負楚惠王。亡走昭夫人之宮。葉公聞白公爲一レ亂。率其國人白公。白公之徒敗。亡走山中自殺。而虜石乞。而問白公尸處。不言將烹。石乞曰。事成爲卿。不成而烹。固其職也。終不其尸處。遂烹石乞。而求惠王復立之。
太史公曰。怨毒之於人。甚矣哉。王者尚不之於臣下。況同列乎。向令伍子胥從奢倶死。何異螻蟻。棄小義大恥。名垂於後世。悲夫。方子胥窘江上。道乞上レ食。志豈甞須臾忘郢邪。故隱忍就功名。非烈丈夫孰能致此哉。白公如不自立爲一レ君者。其功謀亦不道者哉。





底本:「國譯漢文大成 經子史部第十五卷 史記列傳」東洋文化協會
   1955(昭和30)年5月30日複版発行
※底本では箭内亙による譯と註をそれぞれ「箭内亙による譯」「箭内亙による註」の中見出しのもと入力しました。
※底本では「箭内亙による譯」中の註番号に該当する註をなるべく訳と同じページになるように囲み枠を作成して組まれています。
※底本では原文はまとめて巻末に掲載されていますが、本テキストでは副題毎にファイル末に「原文」の中見出しのもと入力しました。
※表題は底本では、「國譯史記列傳こくやくしきれつでん」となっています。
※副題は底本では、「伍子胥列傳ごししよれつでんだい六」となっています。
※原文中の「成大事」は訳中では「大事だいじす」となっています。
※原文中の「乃掘楚平王墓」は訳中では「すなは平王へいわうはかあばいて」となっています。
※「讎」に対するルビの「あだ」と「あた」の混在は、底本通りです。
※「ほとんど」と「ほとんと」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った「居巣きよさう」を、本文中の他の箇所の表記にそって、あらためました。
※譯と原文の整合性が取れないところは中華書局版標点本『史記』を参照しました。
入力:はまなかひとし
校正:みきた
2025年2月2日作成
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●表記について

こと    45-12、47-4、47-4、58-7、51-註【四四】
「言+句」、U+8A3D    46-11、46-註【一四】、14-1
「皐」の「白」に代えて「自」、U+81EF    56-7、17-14
「くさかんむり/遠」、U+85B3    58-註【九一】


●図書カード