「平家物語」ぬきほ(言文一致訳)

宮本百合子訳




     葵の前

(高倉)
 其の頃何より優美でやさしいことの例に云い出されて居たのは中宮の御所に仕えて居る局の女房達がめしつかわれて居た上童の中に葵の前と云って陛下の御側近う仕る事がある上童が居た。およびになるほどの御用がなくっても主上は常に御召になって居るので主の女房も召しつかう事が出来ずかえって主の女房が葵の前を御主人のようにもてなしていらっしゃった。昔のひなうたに「女を生んでも悲しんではならない。女は運よくさえあれば妃ともなれば又妃は后ともなると云う事がある。」かどうかわからないけれども此の御方はきっと末には女御后とも云われる様にも御なりになるだろうと内々、人のうわさをする時などには葵女御等と云って居た。主上はいつの間にか此の噂を御ききになってからは一寸も今までの様に御召にならなかった。是んな事のあったのはほんとうに御志のつきたのではなく、只、世の中のそしりを思召ての御心であった。御心のつきて遊ばされた事ではないので御心がさわやかでなく、御供なんかも一寸もめし上らずよくも御寝遊ばされないほどであった。その時摂※(「竹かんむり/(金+碌のつくり)」、第3水準1-89-79)の松殿が此の事を聞いて「さて、そんなに御考えるつみになるような事があるならば参内して御なぐさめ申さねばならない」と大急ぎで参内して申し上げるには「その様に御心までなやませ給うようになるまで世間をはばかって居らっしゃってはしようがございません。只今すぐその人を御召遊ばしませ。姓や素情を御さぐりになるにはおよびませんですから。やがて基房がよいようにとりはからいましょうから」と申し上げたらば主上は「位を退ってからはそのような事のあった例もたまにはきいて居たけれどもちゃんと位に居ながらそのような物を召された例はまだ一度もきいた事がない。それに私の御代に始めて始めたら後の世の笑草そしり草となるであろう」と仰せてお聞入にならない。関白殿も何ともしようがないので急いで車にのって御退出なってしまった。或る時主上が御手習の御ついでにみどりの薄様の香の香のことに深いのに故い歌ではあるけれ共このような時であったろうと思召されて、
忍ぶれど色に出にけり我恋は 物や思ふと人の問ふまで
と御書になって御腹心の殿上人が御取次して葵の前に給わった。葵の前はそれを賜った悲しさがやるかたないので一寸、かげんが悪いと云って御暇たまわって家に帰り障子を閉めきって其の御書を胸にあて顔にあて悲しみ悶えて居たがかえってから十四日目と云う日にとうとうはかなくなってしまった。主上は此の事を御ききつたえになって大変御歎に沈んで居らっしゃる。君が一日の恩のために妾が百年の身をあやまつと云ったのも此の様な事を云うのであろう。彼の唐の太宗の鄭仁基が娘を元観殿に入れようとした時に魏徴が貞女既に陸士に約せりと云ったので元観殿に入れようとしたのをやめられたのにも勝った主上の御心ばせだと人々が申して居た。葵の前がはかなくなってからは君は始終葵の前の事許り思って居らっしゃってとうとう御悩遊すと聞えたので中宮の御方の御所より御看病の女房達を沢山およこしになったと云う事である。
  上どう 上童、うへわらはと云ふべきのを此頃は字音のさへに称へしなるか或は原書に上童と書きてありしを仮名にどうと書きあやまりしにもあるべし。上童は少女の中宮などに奉仕し又は女房にも召し仕へしなり。

     小督

 葵の前の事があって主上が大変御歎きになったので中宮から沢山の御看病の女房をおよこしになった中に、桜町の中納言*重教の卿の御娘の小督の殿と云って禁中一の美人でその上、二人とない琴の上手な女房が居らっしゃった。その頃まだ少将であった冷泉の大納言隆房の卿が節会に参内せられた時、一目見て恋された女房である。始めは恩をこめた歌心をこめた文を送られたけれどもその数はつもるばかりでなびく様子もなくて長い間たったけれ共女と云えば情にもろいものだと云うその心をこの女房も持って居られたのだろうか、とうとうなびいておしまいになったので、少将は大変によろこんで此の上なく可愛らしいものに思って愛して居らっしゃったけれ共、程なく又内裏から召されて参内してしまったので少将は残りおしくて、せめて参内でもして居たらば余所ながら会う事も出来るがそれをそらだのみにふだん何かにかこつけて参内して小督の殿の局の前をあっちこっちと通り又はみすの外に佇みなんかして歩いて居られたけれどもついでの情もかけぬ気か召使の物さえも出て来ないので少将は情なく思って或時一首の和歌を書いてみすの内へ投げ入れた、それは、
思ひかね心は空にみちのくの ちかのしほがまちかきかひなし
 小督殿は文を見てどうか返事をしたいとは思ったけれ共心を落つけて考えて「私はこのように君に召し置かれて参って居る上はどんなに少将が云っても言葉をかわしたり返事をしたりするものではない」と心にきめて、その文を上童に持たせてみすの外へ出させたので少将はなさけない、うらめしい人とは思って歩く気にもならないで居られたけれ共流石さすが人目も空恐しいので出された文をふところに入れて歩き出されたけれ共どうかんがえてもそれではあんまりなと又立ちかえって
玉章たまづさを今は手にだにとらじとや さこそ心におもひすつとも
 今となってもう此の世では会う事さえ叶わないならもう一っそなまじ生きて居て見向いてもくれないような情ない人を恋しがって悶て居るより只もうこのまんま死んでしまいたいと許り思って居る。目の前で互に居て会って居る様で心ではあって居ないなさけない恋もあり又、お互にあわないではなれて遠く居ても互にこんなに思の深いのにと云って恨んで嬉しい恋もある。始から会わないでお互に思って居る恋よりも目ではあって居ながら心であわない恋の恨許はどうしようもない情ないものであると思いになった。此の冷泉の少将も入道相国の聟である。
「此の小督が世の中に居る間は世の中がよくないであろうから此の小督をつかまえて何とかしなくてはならない」と相国の云ったと云う事を小督の殿は人の話にきいて「私の身はどうかしようと思えばどうにでもなるけれ共何より君の御事が心配だからどうかして」と思いわずらったすえ「どうしても逃れるよりしかたがない」と思いきめて、或る日の暮に出入する童等にまぎれて内裏を忍び出て行方知らずに失せてしまわれた。君は失せた小督の事に思い沈ませられて供御なんかも召さずゆっくりと御寝にもならないと云う事を入道相国がきいて「君は小督の事に思い沈んでいらっしゃるのだろう。それなら」と御なぐさめ申す女房達を一人も参らせないで参内する臣下達らもとやこうとそねまれたので誰も入道の勢を恐れて参内する人もないので禁中の有様今までとは打って変ってその静かで淋しい事はいたいたしいほどである。君は小督の事に思い沈ませられて昼は夜の御殿に許り居らっしゃって夜は南殿にお出ましになって月の光に御心をすませていらっしゃる。丁度頃は八月の十日余の事なので一寸もくまない空だけれども御涙に曇って月の光はおぼろおぼろである。主上は人や候人や候とおっしゃったけれ共御返事をする者もなかった時にややたってから弾正の大弼だいひつ仲国、その夜丁度御前近う宿直して居たので「仲国」と御答え申して御前に参ると「仲国近う参れ、相談したい事がある」と仰あるので仲国御前近う参ると「あんまり突然な事であるけれどももしか小督の行方を知って居ないか」と仰せになったので「どうしてそうぞうさなく知る事が出来るでございましょうか」と申せば「ほんとかまちがいかは知らぬけれども嵯峨の国の折戸をした家に居ると云う物もあるが、主人の名を知らなくとも尋ねて来て呉れまいか」との仰、仲国は「主人の名も知らなくてはどうしてぞうさなく尋ぬる事が出来るでございましょう」主上は「ほんとうに」と龍顔に御涙が流れて居る。仲国は此の仰せを承るかたじけなさにつくづくと考えると「ほんとうにあの方の内裏で琴をお引きになった時常に笛の役に召されて参って居たものをたとえどこへご座いらっしゃるにもせよ此の月の隈ない美くしさに君の御事を思い出されて琴をお引にならぬ事はよもないだろう。嵯峨にある家はそう多くはないからその戸毎をまわって尋ね奉ったならば其の方の琴の音ならばどこに居ても聞き知る事が出来るものを」と思ったので「さようならばたずねて参りましょうか。たといたずね合っても御書を頂戴いたしませんではあてのない事だとおっしゃるかも知れません」と申したので主上は御書を御書き遊ばして給い「料の馬に乗って行け」と仰せになったので仲国は御馬を給わって明月に鞭をあげてあてもなくあこがれて行く。おじかなく此の山里と詠じた嵯峨野の秋の暮の景色にさぞや哀を思ったろう。片折戸にした所を見つけては若し此の処に居らっしゃりはしないかとあるこうあるこうとする馬の口をひかえひかえて耳をすましてきいたけれ共琴ひく音はしなかった。或は此の月の美くしさにさそわれて御堂などへ御参りになっては居ないかと釈迦堂を始めとして御堂御堂をまわってたずねたけれ共小督の殿に似た人さえもなかったので内裏を出る時にはいかにもたのもしそうに申して出たのにたずねる人にはまだ会わず空手でかえったならさぞ御機嫌が悪い事だろう。是の所からどこかへ落ちてしまいたいけれどもどこへ行っても日本国でない身をかくすべき宿もないので「どうもしようがない、法輪はもう近くだから」と法輪の方へ行くと亀山の近くに松林の一つあるところにかすかに琴の音が聞えた。嶺の嵐か、それとも松風か、もしやたずねる人の琴の音か覚束なくは思うけれ共駒を早めて鞭をうつほどもなく片折戸にしたる門に琴を引きすまして居る様子はまがうかたなく小督殿の爪音である。楽は何かときくと男思うて恋うとよむ想夫恋をひいて居られる。楽は沢山あるのに只今此の楽をおひきになるあわれさ、仲国「お可哀そうに此の御方もまだ君の御事を思召して忘れておしまいにならなかったと見える」と嬉しくて腰笛を腰からぬきとり馬から飛んで下りて門をほとほととたたいたので琴をひくのをハタととめてしまわれる。「是は内裏から仲国と申す者が御使に参りました。おあけ下さいませおあけ下さいませ」とたたいてもたたいてもとがめる音もしなかった。けれどもややあってから内から人の来る景合(ママ)したのでうれしくまって居ると鎖をはずし門をあけ、いたいたしいような美くしい小女房が顔許り出して「是は内裏なんかより御使をたまわる様な所でもございませんからまさしく間違えでございましょう」と云ったので仲国は返事をして門をたてられたり鎖をかけられたりしては悪いからと思ったのだろうか、やがてそう云う小女房を押しあけて内に入って小督の殿のいらっしゃる妻戸の間の縁にいざりよって云ったのには「どうしてこんな御住いにいらっしゃいましたか。君は貴女の御事故に思い沈ませられて御供もめし上らず御寝もゆっくり遊ばされず、只あてのない情ない事だと明暮思って居らっしゃいますが、御書を給わってまいりましたものを」とおそばに居た女房に御取次をたのんで君の御書奉るので開いて御覧になるとまさしく君の御書である。やがて御返事を御書になって結びながら女房の装束を一重ねそえてみすの外へおし出されたので仲国はその女房の装束を肩に打ちかけながら「外の人の御使でございましたなら御書の御返事の上は子細ございますまいけれ共君の内裏で御琴をおひきになった時常は笛の役に召されてまいりましたその御奉公をいつのまに御忘れになったのでございましょう。直々の御返事を承わらなくては口惜うございます」と申したので小督の殿も「ほんとうにそうでもあろう」とお思になったと見えて身ずから御返事をなさる。「貴女もかねて知って居らっしゃる様に太政の入道殿のあんまりおそろしい事許りおっしゃるとききましたのがあさましくて或る暮方に内裏をしのびまぎれ出て来たので、このような住居の有様なので琴なんぞひく事もなかったのにあすあたりから大原のあたり思い立って行く事のあるので、あるじの女房が今夜だけの名残をおしみながら居る内に早夜がふけましたから今は立ちぎく人もありますまいなどと様々にこしらえて云うのでしみじみ昔の事もなつかしくて手なれた琴を引いた所をぞうさもなくすぐきき出されてしまった」と云って御涙にむせび給えば仲国も思わず袖をぬらしてしまった。仲国の云うには「明日から大原の辺に思召立たせられると云う御事はきっと御様などお変えになるのでございましょう。そんな事を遊ばしてはいけません。主の女房御出し申してはいけません」と云ってつれて居ためぶ吉祥などと云う男をとめておいて我身一人内裏へかえって来た時は夜ははやほのぼのと明てしまった。料の御馬をつながせながら、女房の装束をはね馬の障子になげかけ「今はもう御夢も深ういらせられるだろうからだれにたのんで申し入れよう」などと思いながら南殿の方へ行くと十六夜の月はもう南の御庭をわたって西の中間へさし入って居るけれ共君はよるの御殿にも御入りにならないで仲国を御待ちがおに夕べの御座いらっしゃった。南にかけり北に向う、寒雲を秋のかりにつけがたし東にいで西にながる、只せんぼうを暁の月によすと、高らかに御詠じになって居らっしゃる所に仲国が大急ぎで参り、小督の殿の御返事を奉ると主上はななめならず御よろこびになって「相談するものもないからお前迎に行って」とおっしゃったので、仲国は平家のおもわくもはばかったけれ共是も勅定だからと云うので牛車を清らげにさして嵯峨に参り此の事を小督の殿に申したけれどもしきりに参らないとおっしゃったけれ共様々にすかして迎えとってかすかなる所にしのばせまいらせて主上夜な夜なお召になって居る内に姫君が一人お出来になった。此の姫君と申すのは坊門ボーモンの女院の御事である。
  *桜町中納言は入道信西の子なり。此卿いたく桜を愛し神に祈りしかば桜花久しく散らざりしより桜町の名ありしなり。

     小宰相の身投

 今度摂津の国の一の谷で討死した人々には越前の三位通盛薩摩の守忠教但馬守経政若狭守経俊淡路守清房尾張守キヨ貞備中守師盛武蔵守知章蔵人大夫成盛大夫敦盛十人と云う事である。十の首が都におくられると一所に越中守の前司盛俊の頭も同じに京に送られた。中にも本三位の中将重衡の卿は一人だけ生捕にされてしまった。二位殿は此の由を聞いて弓矢取る武士の軍場に死ぬのこそあたりまいな事であるのに可哀そうに前の三位の中将が一人生捕にされてどんなにかいろいろな事を思って歎いて居るだろうと云っておなきになった。北の方大納言の佐殿は様をかえて尼になろうとなすったのを大臣殿も二位殿も「貴女をどうして尼さんになんかして世の中をすてさせる事が出来ましょう」と様々に制しておとめになったので様を変る事も出来ず只ふし沈んで泣いて許り居らっしゃった。其の外一の谷で討死した人々の北の方はたいがいの方はみな様をかえられてしまった。中にはあわれなのは越前の三位通盛の侍にくんだ瀧口時貞と云うものが軍場かえって北の方の御前に参って申したのには「上様は今朝湊川のすそで敵七騎の中に取こめられてとうとう御討れになってしまいました。殊に手を下して御首を討ちまいらせたのは近江の国の住人、木村の源三成綱と申しました。私もすぐ御供申し上げにどんなにもなる身でございますが、かねがねの仰せには『私がどのようになったとも後世の御供をしようなどとは思っていけない。必ず心をきめて北の御方の御行方を御見とどけ申せ』とおっしゃって居らっしゃったので甲斐ない命をたすかってここまでまいりました」と申したので北の方は何とも返事をなさらないでかつぎを引きかついでお泣になる。人の話に、三位の君は御討になったとききながら「此の事のもしまちがいではないだろうかしら、又生きておかえりになる事もあるかもしれない」と只一寸旅にでも出た人をまつように此の三四日の間は頭をのばして待って居らっしゃったのもあわれな事である。けれ共今になっては只むだに日数もすぎて「もしやもしや」と思って居たたのみの綱もつきたのでよりどころない心細さを感じられた。二月の十三日一の谷から八島へむかって海を渡られる暁つき近くに北の方、乳人の女房に向っておっしゃるには「ほんとうに思えばはかない哀なものだ、三位の君のあした、打ち出ようとする夜に軍場に私をよび招えておっしゃるには『弓矢取るものの軍場に出るのは常の事だけれ共今度はきっと死ぬだろうと思うと世にくらべるもののないほど心細い。さて考えれば此の通盛のはかない情に都の内をさそわれ出て歩みなれぬ旅の空に出てからもう二年にもなるのに一度もいやなかおをなさらなかったのはほんとうに此の通盛がいつの世までも忘れない嬉しい事だと云って、そして此のように体のつねでないのもよろこんで通盛が三十になるまでは子と云うものがなかったのにさては浮世のわすれかたみにと云うのであろう。そしてこのようにいつまででもきりのない波の上、船の中の住居だから身々となる時のきまりわるさ、心苦しさをどうしたらよいだろう』なんかと云って居られた言葉も今ははかないかねごととなってしまった。まだこの世に居らっしゃった六日の前のあかつきをもう此の世のかぎりと知れたならばきっと後の世を契ったものをあいそめたその夜の契さえ今は中々うらめしくて彼の物語にある、光源氏の大将の朧月夜の内侍のかみ、弘徽殿のほそどのも私の身の上にひきくらべて一しお哀深う思う。まどろめば夢に見ん、さむれば面影に立つと云うたのもほんとうの事に思われる。それだが又、身々となってから幼児を育てて置いて亡き人のかたみと思って見たならば悲しみはまさるともなぐさめられる事はきっとあるまい。なまじ生きて居たらば思わぬうきめもあろう。志草のかげで見るも心うい事であろう。此のようなついでに火の中水の底へでも入ってしまいたいと思って居る、書いて置いた手紙を都の方へお送りなって下さい。ついでに後世の事を云って置きましょう。装束をどんな聖にでも賜って我の御世をともらって下さいね。何よりもこのなごりがいつのよまでも忘れないほど悲しい」と云っていろいろ行末、こし方の事をかきくどいておっしゃると乳母の女房は「マアどうしたのでございましょう。日頃は人が来て物を申しあげるのにさえはっきり御返事もなさらないような御方が今夜許り此の様にいろいろおかきくどいておっしゃるのはほんとうに火の中水の底にでもお入りになるのであろう」とかなしく思って「今度一の谷で討死をなされた御方の北の方の御歎はどなたも同じでございます。けれ共皆様は御様を化えさせられてしまいました。六道四生の道は別々でございますもの、貴女様もどの道へか行らっしゃって上様と同じ道を行らっしゃるのはむずかしゅうございましょう。それに又、身重の人の死んだのは殊に罪深いときいて居ります。身々とも御なりになったのち幼き御子様を御育になって亡い人の形見と御らんなってまだそれでも御心がいがなかったら此のみの様をかえ亡い人の御菩提を御ともらいなさいませ。たとえ千尋の海の底におしずみになるのでも私をつれておいで下さいまし――」と様々に悲しみなげいたので北の方はそのように云われて悪かったと思われたと見えて「ほんとうはそんな気はないけれ共あんまり思がつもったのでつい、云ったので何にもそんなに驚いたり泣いたりする事はありませんよサア、夜もふけた様だからねましょう」とおっしゃると乳母の女房はうれしがって北の方のわきにねてしばらくまどろんだと思う頃北の方は起きなおって舷へ出られた。漫々とはてしない水の上だからどこを西とはわからないけれ共月の入りかけて居る山の端をその方がくだろうと思って静かに念仏をなさると沖の白砂に友にまようたと見えて千鳥がしきりになく。海の面をすべってきこえて来る、かじ取りの音やエイヤエイヤとするかけ声のかすかにきこえて来るのも一しお哀をそえて居る。「南無西方、極楽世界の教主みだ如来、あきもあかれもせぬ内に別れてしまったいもせの習い、私もまた歩みますどうぞ来世では一つはち(ママ)の上に」とかきくどきながら「南無」の一声と一所に波の底に入ってしまわれた。哀な事である。二月の十三日一の谷から八島へ渡るあかつき近い時のことであったので誰もこの出来事を知らなかったけれ共並びの舟に一人のかじ取りが舟をこいで居たのが之を見つけて「アアお可哀そうに、なんと浅間しい事だろう。あの御舟に乗って居らっしゃった女房の只った今海にお入りになってしまったのはマア」と大きな声で云ったのを乳母の女房がききつけて、そばをさぐって見るといらっしゃらない。「アレアレ大変大変」と叫び出したので人々がみな起きて来て舟をとめて水夫を海に入れてさがさせたけれども見つからない。それでなくっても春の夜はかすむ習いなので四方の村立つ雲がフワフワと浮かれて来て月の光をかくす夜半なのでまた、阿波の鳴戸のしらせで満汐引く汐が早いのでまして御着物も波と同じに白いのでさがしてもさがしても見つからなかったけれ共、しばらく立ってからようやくかつぎあげて見ると練色の二つぎぬに白い袴をきていらっしゃる。髪も袴もしお水にぬれてベトベトになってせっかく取りあげたけれ共もう甲斐がない。乳人の女房はもうつめたくなった御手にすがりついて「マア、何と云う浅間しい事を遊ばしたのでしょう。私はまだ貴女様が御乳の中に居らっしゃる時分からお育て申してこのかた今日まで片時もはなれず、都に出でになる時でさえ年を取った親をふりすててまでここへ御供申したのになぜこの様なうきめを御みせになるのでございましょう。たとえ因ねんでございましょうとももう一度丈生のある御声を、昔の御姿を今一度お見せ下さいませ。マア、ほんとうになんて云う」と云っていろいろに歎いたけれ共甲斐がなく、少しかよって居た息もたえてとうとう死んでしまわれた。こうして居てもしようがないから、故三位の君のきせながが一領のこって居たのでそれにおしまとめて又海へかえしてしまった。乳人は「私も」と一所に飛び込もうとしたのを人々にとめられて船底にたおれて歎いて居たけれども自分から髪をきって三位の弟の中納言の律師忠快に頭をそっていただいて泣きながら戒をたもって居た。男に別れた女の様をかえるのはありふれたあたり前の事だけれ共身を投げるまでした事は例の少い事である。忠臣は二君に仕ず、貞女両夫にまみえずと云ったのもこのような事を云ったのであろう。此の北の方と云うのは故藤の刑部卿教賢の御女で上西門院に宮仕えして小宰相殿と申して居た。それをまだこの頃中宮のスケであった越前の三位通盛が此の女房を一目見て歌をよみ、文をつくして長い年月恋をなして居られたけれ共なびく様子もなかったので三位が三年目と云う時に今度をかぎりにと文を書いて年頃取りつたえて居た女房に賜って「どうぞ此を彼の君に」とたのまれたので御所へもって行くと丁度その時小宰相殿が里から参内なさる道で行きあったので御車のそばを走りすぎる様な様子をして其の文を車の内へなげ入れて行ってしまった。小宰相殿は「今此の手紙を車の内になげ込んだのはどんな人でしたか」と御たずねになったけれ共、お供をして居たものがみんな知りませんと云ったので車の内において置くのもはずかしいからと袴の腰にはさんで御所にいらっしゃった所が、所もあろうに女院の御前に其の文を落してしまった。女院は此を御見附になって御所中の女房達をおよびになって「今めずらしい物を見つけたが此の文の主はだれかしらん」とおっしゃると皆んな神や仏にかけて「みんなぞんじません」と云った中に小宰相の殿許りは顔を赤くしてそっぽをむいて何ともおっしゃらない。女院は重ねて「御前は、どうかどうか」と御尋ねになったのでしかたがなく「あの通盛の」と許りおっしゃった。女院は前から、そんな事のあるうわさをきいて居らっしゃるのでその文を開いて御らんになると、筆はたっしゃだけれ共いかにもわけの有さうな、よわよわしい筆つきで、
我恋は細谷川のまるき橋 ふみかへされてぬるるそでかな
 女院「マア、是の歌はまだ一度も会わないのをうらんでの歌と見える。マア、心づよい事だ事、なぜおなびきにならないのです。あんまり人の心のつよいのも身をほろぼすものとなるものだのに、中頃に、みめかたち、心ざま世にすぐれて居たときこえた小野の小町と云う人はいろいろ人の云うのをうるさいと見えてたいへん心づよくかまえて居たのでのちには、あの人は心づよい人だからと云うきまりがついたのかかまう人もなくなったので関寺のほとりにすまって往来の民に物をもらい、破れあれたあばらやに住み野辺に生る若菜、水のきしに生る根せりなんかをつんで露の命をささえたと云うためしもあるものですもの。もうおなびきなさい。私が自分で返事をしましょう」と女院から御返事があったとか云う事、
たゞたのめ細谷川の丸木橋 ふみかへしては落ちざらめやは
 三位の君は有がたくも女院から小宰相殿をたまわって此の上ないものと寵愛して居られたが又小松殿の次男の新三位の中将資盛がまだこの頃少将であって節会に参内して見初めてさまざまにしたけれ共なびく景色もなかった内に三位殿の上になってしまったと云う話がきこえたので右京の大夫の局と云って中宮の御そばに仕えて居た資盛の北の方がそねましい心にでもなったのか一首の和歌を送られた。
いか許り君なげくらん心そめし 山の紅葉を人にとられて
 資盛の返事には、
何とげに人のおりける紅葉ばに 心移して思ひそめけん
 是も中々優美にやさしい事の例である、と云いつたえて居る。みめ形の美しいのは幸の花だと云うとおりで小宰相殿を女院から賜って今度のように西海の旅にまでもつれていらっしゃって、終には死んで同じ道に行かれるのも哀な事である。

     内裏女房

 又、其と同じ頃三位殿の侍に木工右馬のジョー正時と云う者があった。或時八條堀河の御堂に御参りに来て守護の武士に云うには「私は三位の中将殿の御やしきに数年召つかわれた侍の木工右馬の允と云う者です。都を御出になる時にも御供して行くのがもっともだと思いましたけれ共何分八條の女院に参って居る身なので弓矢の事などは一寸も存じませんのでおいとまをいただいてここにとどまって居ました。けれ共うそかほんとうか三位の中将殿が都に御出になるのももう一日二日だとかきいて居りました。どうか御情で御ゆるし下さってもう一度御目にかかりたいと思って居るんですがいかがでございましょう」と云うと守護の士は「ナニ、腰の刀さえ置いていらっしゃればかまいませんよ、御やすい事です」と申したので正時はそれならばと腰の物を土肥の次郎にあずけて三位の中将殿に御目にかかる。「オ、そこに居るのは正時か、是へ是へ」とおっしゃれば正時は御側近くへ来て今までの事や、行末の事などを夜中語り明して居らっしゃった。夜が明ければ正時御いとま申上げ出て来る。三位の中将は「ソウソウ、いつか御前にたのんで置いた手紙の主は今どこに居らっしゃるね」とおっしゃるので「院の御所にいらっしゃいます」と申しあげたら「せめて手紙でもあげて御返事でもいただいてそれでも見てなぐさもうと思うけれど」とおっしゃるので「お安い御用でございます」と正時は御答えする。三位殿はななめならず喜んでやがて手紙を書いて御渡しになる。正時がそれをもって出ると守護の武士が「あれはどこへおやりになる御手紙だろう」と云ったので三位殿は「かまわないから見せてごらん」と土肥の次郎に御見せになる。実平は開いて見て「オヤオヤ此は女房の方におやりになる御手紙でしょう、かまいません」と云って出したので正時は宿にかえって其の日一日をまち暮して夜になってすぐまわりのしずかになるのを計って例の女房の住んで居らっしゃる局のやふきのあたりにたたずんで聞いて居ると此女房も三位の殿の事を云い出して泣いて居らっしゃるので正時は、此の御方もまだ三位の殿の事をお忘にならなかったと嬉しくてつま戸をホトホトとたたくと内から「誰か」と云う。「私は三位殿の御使の正時で」と云うと戸をあけられる。あげたその御半紙を開いて御らんになると一首の歌が書いてある。
涙川うき名をながす身なりとも 今一度のあふせともがな
 すぐ返事を書いて正時にお渡になる。正時八條の御堂に行って三位殿にあげると開いて見るとこれも又一首の歌を書いてある。
君ゆへに我もうき名を流す共 そこのみくづと共に消えなん
 三位殿は此の手紙を御らんになって大変に心をなぐさめられる。そのあと、三位殿は守護の武士に向って「もう一度芳恩にあずかりたいのだけれ共どうだろうか」とおっしゃると武士共は「何でございますか」と云ったので「別の事ではないけれ共きのうの文の主にあって死んだあとの事なども云っておきたいと思うのだが」とおっしゃると守護の武士は「一寸もかまいませんから」と云ったので大喜びで正時に此の事をおっしゃると正時はかいがいしく牛車をさっぱりと用意して院の御所に行って此の故を申し上げると女房もあんまり思いがけない事だったので大変喜んですぐに出ようとなさるとまわりの女房達が「マア、かるはずみな事、そんな事はおよしになった方がようござんしょう。まわりには武士共が大勢居るのに見っともないではありませんか」と云いあうけれ共此の女房は「今日会わなかったらいつ会えるか知れないのですもの」と急いで車にのって八條堀川の御堂に行って案内をたのむとおっしゃるので三位殿は、「私のまわりには武士共が沢山居てあんまりきまりがわるいから、車からお出になっちゃあいけませんよ」と門のわきに車を立ててずゥーと夜がふけて人のねしずまってから三位殿が自分から車のある所に行って会って今までの事行末の事なんかを夜っぴてはなして居られた。だんだん朝になって来たので人目にかかってはと云うので車のながえをめぐらして又もとの道へかえって行かれる。どこをやどと急いで行らっしゃるのだろう又、ただいつと云って□□(二字不明)られたのだろうか、忍びきれぬ悲の様子は車の外までもれただろう。そのあとからすぐ正時を使にして歌を送られた。
会ふ事も露の命ももろ共に こよひ許りや限りならまし
 女房は、自分から墨をすり筆をとって返事を書かれたけれ共自分の翡翠ひすいのかんざしを結いてあるきわから插しきって返事にそえて送られた。その返事には、
逢事の限ときけばつゆの身の 君より先に消ぬべきかな
 三位殿はそのかんざしを御らんになって日頃の女房の志のまことの色があらわれてその心の内の苦しさは声に出て叫ぶほど苦しく思われた。やがてその女房は院の御所をまぎれでてまだ二十三と云うのに花のたもとに引かえて墨ぞめの袖にやつれはてて東山の双林寺の近所に住んで居られた。此の女房と云うのは大原の民部入道親範の女で左衛門のカミの殿と云った御人である。

     横笛

 その頃いろいろ物哀な話はあったけれ共中にも小松の三位の中将維盛卿は体は八島にあっても心は都の方へ許り通って居た。そしてどうかして古郷にとどめて置いた小さい児供達も見もし顔を見せたいものだと思って居られたけれ共、丁度いいたよりついでもないので与三兵衛重景や童の石童丸は舟の様子を知って居るからと舎人武里と三人許りつれて寿永三年三月十五日の夜のあけがた八島の館をしのびでて阿波の国の結城のうらから船にのって出てしまわれた。鳴戸の奥を渡って和歌の浦、吹上の浦や衣通姫の神様になっておあらわれになったのをまつったと云う玉津島の明神、日国前の御前の渚をこぎすぎて紀伊の湊にお着になった。ここから浦々をつたい島々を通って陸を(ママ)って都へ行きたいとは思われたけれ共叔父の三位の中将重衡卿が一人生捕にされて京の田舎につれて行かれて生はじをさらして居らっしゃるのでさえ恥かしいのに又維盛までがつかまえられて父の名誉を汚す事もすまないからと都へ行きたいとは幾度も心が進んだけれ共考えに考えてそこから高野の御山にのぼってかねて知りあいの御僧さんを御たずねになる、この僧さんと云うのは三條の斎藤左衛門大夫茂頼の子の斎藤瀧口時頼と云ってもとは小松殿につかえて居られたけれ共十三の時本所に来た建礼門院の雑仕の横笛と云う女があった。その女を瀧口が大変に愛して通って居たと云う事が評判になったので父の茂頼が此の事を聞いて或る時瀧口をよんで云うには「私は御前一人ほか子をもって居ないから誰かよい人の縁の者にでもして出仕するついでにでもしようと思ったのにあんなくだらない横笛とか云う女になれあったとか、ほんとにお前は親不孝者の骨せう(ママ)じゃ」なんかといろいろにいましめたので瀧口は思うに「西王母と云う者も昔はあったようだけれ共今はないし、又東方朔と有名な物も名許りきいて居て目の前に見た事はない。老少不定のさかいは石火の光と同じ様なはかないものである。たとえ人が定まった命をたもつと云っても七十や八十にはならず、その短い内に人の体の盛と云う時はたった二十余年ぎりである。その短い間に自分の心にしたがって自分の愛して居るものをしじゅう見ようとすれば親の命をそむいて不幸になる。又、親の命にしたがえば女の心はめちゃめちゃになってしまうだろう。短い世の中にいやなものを一寸でも見て何にしよう。浮世にそむいて仏のまことの道に入るのはこの上ないよい思いつきだ」と瀧口は十九でもとどりかりて嵯峨の奥の往生院に住んで念仏許りして暮して居た。横笛は此の事をきいて「たとえ様をかえたとおっしゃってもなんぼなんでも、私をすてはなさらないだろう。様をおかえになった事がほんとうにお可哀そうだ。たとえ様をおかえになるにしてもなぜ自分にそうと知らせて下さらなかったのだろう。たとえ彼の方がどんなに心づよくおっしゃってもどうしてどうかしてもう一度御たずねしたいてお恨したい」とある暮方に内裏を忍び出て嵯峨の方へあこがれて行らっしゃる。
 頃はきさらぎの十日すぎの事なので梅津の国の風はよそのここまで床しい匂をはなしてなつかしく大井川の月影はかすみにこめられて朧にかすんで居る。この一方ならない哀な様子を誰故と思ったろう。往生院とはきいて居たけれ共たしかにどこの坊に居らっしゃるとも知らないのでここかしこの門にたたずんでたずねるのも哀である。ここに住みあらした僧坊に念誦の声がしたのを横笛は瀧口の声ときき知ったのでつれて来た女房を内に入れて云わせたのは「御様子の御変りになったのを拝見したいと横笛がここまで参りました」と云い入れたので瀧口は胸がおどって浅ましさに障子のすきまから見たらばねこたれがみのみだれて顔にかかった間から涙の雨露が所せまく流れて今夜一晩ねなかったと見えて面やせた景色、自分からすぐに入ってたずねたいのにそれもあんまりなとたずねかねた有様はほんとうに見る許でも可哀そうでどんな道心者でも心よわくなるだろう。瀧口やがて心を取りなおして人を出して「私はそんなものではございません。きっと間違えでもございましょう」ととうとう会わないでかえしてしまった。そののち瀧口入道は主の僧に向って云うには「とても世の中に遠ざかったしずかな所で念仏するのには一寸もじゃまではございませんがあきもあかれもしないで別れた女に住居を見つけられてしまいましたからたとえ今夜一度だけはこのようにかえしましたけれ共またしとうて来たりするときっと心が動くでございましょう。そうするとこまりますから御暇を申しあげます」と云って泣く泣くそこを出て高野の御山にのぼって法憧院梨の坊と云う所に行すまして居らっしゃった。横笛もそうやって居る時でないから都にかえり様をかえ奈良の法華寺に行すまして居ると云う事をきいたので入道は此の事をきいて大変よろこび高野の山から一首の歌を送られた。
そるまでは恨みし事どもあづさ弓 まことの道に入るぞうれしき
 横笛の返事
そるとても何か恨まんあづさ弓 ひきとどむべき心ならねば
 横笛は思いのつのったためか程なくはかなくなってしまった。それをきいた入道はますます行いすまして居らっしゃったので父も不幸をゆるし、したしい人は高山の御山の聖の御坊と云ってもてなして居るし、もとのみを知って居る人は瀧口入道と云って居た。其後三位の中将が瀧口をたずねて行って会って見ると都に居た時には布衣に立烏帽子衣紋をつくろい髪をなで、あんなに美くしかった男と誰が思うだろう。出家してからは今日始めて御らんになるのだけれ共まだ三十にもならないのに老僧のような姿にやせ衰えてこい墨染の衣に同じ色の袈裟、香の煙のしみ込んだよく行いすました道心者の様子をうらやましく思われた。晋の七賢が竹林寺、漢の四皓がこもったと云う商山ごもりの住居もこの様子にはすぎなかったろうと見られた。

     義王

 昔は源平の両家が朝廷に仕えて居て、みいつにもしたがわないで朝権を軽んずる者があればおたがいにいましめ合って居たので代のみだれもなかったけれ共保元の乱に為義が斬られ、平治の乱の時に義朝が誅せられたあとは末の源氏があると云っても名許りで或は流れて居る。或は誅せられてしまったので一向平家の向をはる物がないので平家ばかり一人はん昌して何か思って居てもその勢におそれて頭を出す者もないのできっと末になってから何事かありそうに見えた。かように入道相国は一人で天下四海をも掌に握ってしまってからは人の笑や世のそしりなんかにはとんじゃくなく思いはかられない事許りなすった。その頃京洛中に又とないと云われた白拍子の義王、義女と云う姉妹があった。これはトジと云う白拍子の娘である。入道は中にも義王を最愛して西八條の屋敷にとめて置かれた。このようなわけなので妹の義女も人々は限りなく重くもてなして居た。そして母のトジも入道は大切にしてよい家を作ってやって毎月朔日ごとに米百石、金百貫を車で送って居られたので家の中もとみさかえて楽しい事はかぎりがない。それだもんで京洛中の白拍子は義王の大切にされるのをうらやむ者があれば又そねむ者も沢山あった。うらやむ者は「マア、何と云う義王御前と云う方は幸な御目出たい方だろう。同じ遊びものとなるならばあの方の様にあってほしいものだ。きっとこれは義と云う字を名につけたので此の様にめでたいのだろうから、私もつけて見ましょう」と或は義一とつけるものがある。あるいは義二と、義徳、義福、義寿、義宝なんかとつけた。又、そねむ者は「何で名によったり、文字によったりする事がありますか。マア、――、そうならばみんな義の字をつけてみな栄えるはず、果報はただ何でも生れつきの運ですもの、何と云ったって」と云ってつけないものもたくさんあった。そもそも、我朝に白拍子の始まったのは鳥羽院の御時に島の千歳、和歌の前と云う二人が舞い始たのが始めだとか。始は水干に立烏帽子白いさやまきをさして舞ったもんで、男舞と名づけられたので中比から刀、烏帽子をよして白い水干許りでまったので白拍子と名づけられたのである。そしてこうやって義王がここにすえられてから三年目と云う春の頃に又仏と云って優しい美しいあそびものが又出て来た。この女は加賀の国の者と云う事である。この頃京洛中の上下の人は昔から多くの白拍子はあったけれ共、この様な人はまだためしがないと云ってこぞって此をもてなして居た。或る時仏御前が云うには「私は天下にかくれない白拍子だと云っても、今さかえて居らっしゃる平家の太政入道殿へ呼ばれて行かないのが不平でしようがない。遊者の推参はあたりまいの事でかまわないのだから」と或る時仏は車に乗って西八條の館へ参った。侍人が入道の所へ来て「仏と云って美しい遊びものがまいりました」と云うと「何しに来た、元は遊者は人に呼ばれて来るものだのに、呼びもしない所に来るとは、その上義王が居る間は神と云っても仏と云ってもサアサア早くかえしてしまえ」とすげない仰をうけて出て行くと義王が云うには、「遊び者の推参はあたりまいの事、それに年もまだ若いと聞いて居りますもの、丁度思い立って来たのにすげない御あいさつでさぞ恥かしいでございましょう。又、昔は私も歩んで来た道なんで人事とも思われませんもの。たとえ舞を御らんにならずとも歌をおききにならないでも、お呼になっておあいになった上おかえしになったならばさぞ有がたいと思うでしょうに。お呼び遊ばせよ」と云ったので「そんなら、および」と呼びかえさせてあって「ナント、仏、今日は御目通はするはずでなかったけれ共、義王が何と思ったのかしきりに云うので呼んだのじゃ、このように又呼ばれて見れば声をきかせないのも残念だろうから何でもかまわないから今様を一つうたえ」と云うので仏は今様を一つうたった。君を始めて見る時は千世も経ぬべし姫小松、御前の池なる亀オカにつるこそむれ居て遊ぶめれとこれを二三遍うたいすましたんで人々がみな感心してしまった。入道相国も面白そうに「おう、お前は今様は上手だったか。今様が面白いならば舞もきっと面白いだろう、何でも一つ」と鼓うちを呼んで一つまわせる。此の御前は年も十六の花の蕾のその上にみめ形ならびなく美くしゅう、髪の様子、舞すがた、声はよく、節も上手なので、何でまいそんじる事があろう。心も飛んで行きそうにまった。見て居た人はだれもおどろかないものはない。入道は舞姿をめでになったと見えて仏に心をうつしてしまわれた。生れつき此の入道と云う人はせっかちだもんで舞の終るのがもどかしく思われたと見えて始めの和歌一つうたわせまだ終りのうたのおわらない内に仏を抱いて内に入ってしまわれる。仏御前の云うには「私はもとより推参ものですげない御言葉をいただいてかえりかけたのを義王御前の御口ぞえでようやく御呼び下さったのでございますもの、御心にかないましたなら又御呼びいただいてまいりましょうから今日はただおいとまを下すっておかえし下さいませ」と云うと入道「ナンデ、かまうものか、何でも浄海が云うままになって居ればいいんだから、だけれ共、義王に遠慮するならば義王の方をひまやろう」と云えば「ソレソレ、それがいやなのでございます。私と一所に居るのでさえもどんなにか恥じ、半腹痛く思うのにそんなに義王御前を出そうなんかとおっしゃってはいよいよでございます」と云ったけれ共何とも云わないで「義王、早くかえれ」と云う使が度々三度まで来たので義王少しも身を休めてなんか居る時でないと部屋の内をはき、ごみをひろわせ、見っともない物なんかをすててもう出て行く様にきまってしまった。前かたからこんな事はあろうと思って居たけれ共さすがにきのう今日の事と思って居なかったので此の三年の間住みなれた障子の間をもう出るのだから名残もおしく悲しくもあり泣いても甲斐のない涙とは知りながら涙が流れてとまらない。義王は出たけれ共、それでもあんまり名残惜しい、せめてもと又かえって住みなれた障子にこう書きつけた。
萌へ出づるも枯るゝも同じ野辺の草 いづれか秋に会はではつべき
 義王は心を取りなおして車に乗って出たけれ共心はすすまないでも涙許りすすんだので、
今さらに行べき方も覚えぬに なにと涙のさきに立つらん
とよみながら義王は宿にかえり障子の内にたおれ伏して泣くより外にする事がない。母は此を不思議に思って「どうしたかどうしたか」ときいても返事も出来ない。つれて居る女にきいて始めてそう云う事があったと知った。こう云うわけだもので京洛の上中の人々は「アラ、義王は西八條殿から暇をいただいて出されたと云う事だ。サア、あって遊ぼう」と或は手紙をよこす人、或は使者をよこすものがあったけれ共義王、「今さら面目なくて人にあって遊びさわぐ事は出来ない」と云って手紙をとりあげて見もしなかったからまして使に会ったりなんかする事はなかった。そうこうして居る内にその年もくれ春の頃にもなったんで入道は義王の所へ使をよこして「義王、その後に別に何事もなかったか。仏があんまり退屈そうに見えるから来て舞でもまい、今様でもうたって仏をなぐさめてくれ」と云ってよこしたんで義王はあんまりの事に返事もしない。入道は又「サア、義王、なぜ返事をしないのだ。来ないのならば早くその事を云ってよこせ。入道も返事によっては考えがある」と云っておよこしになる。母のトジは「あれ程おっしゃるのにナゼ御返事をしないんですか」「上ろうと思えば今に上りますと申しましょうが行かないのに何と御返事を申しましょう。呼ぶのに来なければ考えがあるとおっしゃるのは都を追い出されるのかそれでなければ命をおとりになるかこの二つにはすぎないでしょうに、たとえ都の内を出されても、どっかには落つく所がありましょう。又、たとえ命をとられても何でおしい事があるもんですか。一度、いやな物に思われて二度とふたたびお目にかかる事なんかあるもんですか」とまだ返事をしない、母は重ね「男女の縁と宿世の縁は今がはじまった事じゃあないじゃありませんか。千年までも末の世までもと契ってもやがて別れる間もあり、又只一寸と思いながら永くはてる人もあり、今世の中で一番あてにならないものは男女の間だと云って居るじゃあありませんか。まして御前達は遊者の身で一日二日呼ばれて居てさえどんなにか有難い事だのにまして此の三年もの間呼ばれて居たのだから、後の世までの思い出にこれにすぎた事はないじゃあないの。呼ぶのに来なければ考えがあるとおっしゃるのは都の内を出される事はあるかも知れないけれ共まさか命をおとりになるほどの事はありますまいが、たとえ都を出されてもお前達はまだ若いからどこに行ってもくらすにはこまらないだろうけれ共私は年をとった身でありながらなれないまずしいくらしをすると思えばそれだけでも悲しいのだもの。只、なんにもおねがいがないから私を都の内で暮す事の出来る様にして下さい。それが私の今生後世の孝行ですから」と涙を流しておっしゃったんで「そんならば行ってまいりましょう」と泣く泣く立ちかけたけれ共一人で行くのも何だか変だと妹の義女もつれて行く。同じ様な白拍子二人、すっかりで四人、一つ車にのって西八條の御館へ行く。入道は、先の内よばれた所よりズット下った所に坐をとって置かれた。「コレはマア何と云う事だろう。そして何のおとがめでこんなに、坐敷さえ下げられて、マア何と云うつらい事だろう。それにつけても今日自分は何しに来たんだろう」と思うと又悲しさがこみ上げて来る。そのけしきを人に見られまいと顔をおさえる袖の下からも涙があまってながれた。仏御前、「ここは先の中御呼入になった事のない所でもございませんもの。ここに御呼び遊ばせ。それでなければ私が出て御目にかかりましょう」と云ったけれ共入道が「何々」と云ってさからうのでどうする事も出来ない。其の後入道があって「どうだネ義王、その後何か変った事もあったかネ。仏があんまり退屈そうだから何か今様一つ歌ってくれ」とおっしゃるのでこうやって来たからには、入道殿の云いつけと云えばどうしてもきかなくてはならないものだと思って落る涙をおさえて今様を一つ歌った。
月更け風おさまつて後、心の奥をたづぬれば仏も元は凡夫なり、我等も思へば仏なり、いづれも仏性具せる身をへだつるのみこそおろかなれ
と二三度うたいすましたので、人々はみんな可哀そうに思った。入道相国は「よくうたった。又舞も見るのだけれ共一寸さしつかえが出来た。これからは呼ばないでもふだん来て舞をまい、今様でもうたって仏をなぐさめてくれろ、ヨイカ」とおっしゃる。義王館にかえっても障子の内に身を伏して泣くよりほかはない。
 親の云いつけにそむくまいと思って又苦しさをしのんでいやな所に行けば坐敷さえ下げられた苦しさ、なお此の世に生きて居たら、又、此のような苦しい事を見ききしなければならないだろう。こう云うついでに火の中か水の底へでも入ってしまいたいと悲しんだ。姉が身をなげ様と云うと妹の義女も身をなげ様と云うので母のトジは「ホンニうらむのももっともだけれ共この間までは入道殿はそれほど情知らずの人とは一寸も思われなかったんで、いつもいつも教えさとしてやった事が今となって見ればほんとうに悪るかった。姉が身を投げると云えば妹も身をなげようと云って居るのにこの年とった私一人のこってどうしたらいいだろう。だから私も一所に身をなげる外しかたがない。もしまだ死ぬ時も来ない親に身をなげさせるのは五逆罪であろう。ミダ如来は西方浄土を荘厳し一念十念をもきらわず十悪五逆罪をもみちびこう」と云う。
 義王「ほんとうに死ぬ時も来ない親に身を投げさせるのは五逆罪うたがいがない」と云って身をなげるのを思いとどまって二十一で様をかえてしまった。妹の義女も一所にと約束した事だから十九だのに様をかえてしまった。母のトジは「あんなに盛の二人の娘が様をかえるの世の中に私が年をとった白髪をつけて居ても何にもならない」と云って四十五で様をかえてしまった。三人は嵯峨の奥の山里に念仏して往生必定臨終正念と祈った。こうやって居て春がすぎて夏も来た。秋の風が吹き初めると星の沢山の空をながめながら天を渡る梶の葉におもう事をかく頃となった。ものを思わない心配のない人でさえもくれて行く秋の夕べの景色はかなしいだろう。まして心配のある人の心の内がおしはかられて可哀そうである。西の山の端に入りかかる日を見ては「あすこいらはきっと西方浄土でしょうからいつか私達もあすこに生れて心配なしにすごすことが出来るでしょう」それにつけても昔の事の忘れられないでいつもつきないで出るのは涙許りである。日は段々たそがれたので三人の人達は一つ所にあつまって仏前に花や香をそなえあかりをほそほそあげながら念仏して居た所に閉じ塞いだ柴のあみ戸をホトホトとたたく音がした。三人の人達は念仏をやめて「これはきっと私達のような無智文盲な物の念仏して居るのをじゃましようと云って魔の来たのにちがいない。しかしもしもそんならばあんな竹のあみどをおしあけて入る事はぞうさないでしょうに、早くあけよう、助とたのみにするのは仏一つ、たとえ命をとられるとも、この頃たのみ奉る念仏をして心しておこたってはいけませんよ」と云って三人は手をとりあって閉めきった竹の編戸を思いきってあけると魔なんかではなく思いがけない仏御前が出て来た。義王は走り出て仏の袂にとりついて「こんな所でお目にかかるのはほんとうに夢の様でございます事、昼でさえも人のまれな山里へ今うして来らっしゃったのでございますか」と云ったらば仏御前「今更、あの時の事を云えば新しい事の様ですけれ共又、申さなければ考えて居ない様ですから申しますよ。元から私は推参のもので望のない仰をこうぶって遠く出たのを貴女の御口の御かげで召されたとは云え、すぐに貴女の御ひまをお出されになった事をうかがって一寸も人の事とは思われずいつか又自分の身の上もこうでしょうと思ったのにまして障子に書いておおきになった『いづれか秋に会はではつべき』と云うのもうなずかれましたが又いつだったか貴女の呼ばれて今様をおうたいになった時坐敷さえさげられた事が心苦しくてもうもう口で云われないほどでございました。あれからあとはどこに居らっしゃるともききませんでしたが上のごろここに居らっしゃると云う事を聞き出して、今の御身がうらやましくて、どうか御暇を下さいませ下さいませと申しても一寸も御許し下さいませんの。どうしようかとよくよく考えて見れば此の世での栄花は夢の又夢のようなはかないもの、たのしんだり栄えたりしても何になりましょう。一度死んだ人の身は又と再びうけにくいもので又仏教に入るにも一度入りそこなえば又入るじきがない、ホッと吐き出た息のまだ入らない内、パッと云う間に死んでしまうのは、かげろうや稲妻なんかよりもはかないものだと思うとどうしても心がとまらないのでどうしようと思って居ると今日の昼頃に思いがけないよい時があったので逃げ出してこのようになってまいりましたんですよ」とかついで居る衣をどけたのを見るとあんなにはなやかに栄えて居た姿とあべこべに尼の姿になって出て来て「日頃の罪はこの姿にめんじておゆるし下さいませネ、もしゆるすと云って下さるなら皆様と同じ庵室で念仏して御一所に後の世の幸を祈りましょうし、まだゆるさないとおっしゃるならばこののちどこへでも足にまかせて迷って行ってどんな岩のかどでも苔の上でも松の様にたおれてしまうまでも念仏してみだ三尊の来迎にあずかりましょうから」と涙をとめどもなく流して云ったので義王「マア、お恥しい、私は貴女の心の底のそれほどまで御きよいのを一寸も知らないで、今日まではこれほどまでお思いになる方とは一寸も存じませんでしたのに、今までの事はみんな浮き世の仕業でございますもの。もうママして人のうらみなんかは思いはいたしません。自分の身のつらさを知るはずだのにどうかすると貴女の事が忘られないで心にかかって今の世も後の世も御仏に仕える事はじゅう分に出来かねるように思われて居りましたのに貴女は何にも後に思をひかれないでとしもまだ十七だと云うのにこの汚れた世をそむいて清い世の中をおねがいになるお心こそほんとうの道心者でいらっしゃいますよ。私が二十一で様をかえたのも人はめずらしい事に云い又自分でもそう思って居りましたけどいま貴女の出家にくらべて見れば事のかずにも入りませんものネ、昔の事なんかなんでもう思うもんですか、サア、みんな一所に行いすましましょうネ」と四人同じ庵室の中に念仏して共に後世の幸をいのったけれ共おそい早いはあったけれ共おしまいには皆同じ様に往生の望をとげたときいて居る。その後入道は仏の行方がわからなくなったので、手に手をわけてさがさせて見たけれ共見つからなかったので浄海は「仏はあんまり美くしかったんでてんぐが取ってつれて行ってしまったんだろう」と云って居た。其の後半年許りたってからそこに居ると云う事が聞き出されたけれ共そんな風になったものを今更と云ってもうたずねさせなかった。それだもんで後白河法皇の長講堂の過去帳にも義王義女仏トジ等のが尊霊と一所に書き入れられたと云うことである。

     海の花

 南の国のいつも蒼い色をして居る内海に一匹の人魚が棲んで居ました。その長い黒髪やふくよかな乳房、よく育った白くて長いうでなどをもったその姿はこの海の女王として恥かしくありませんでした。細くそろってたえず銀色の光をはなして居るうろこをしっかりとまとって、赤いさんごの林の間、青こけのむした大岩の間、うす紅の桜海老、紫に光る海魚等の間を黒髪を長く引いて遊んで居る様子はこの内海をかざる花でした。けれども海の王の年を経た海蛇はなぜかこの人魚の陸近く遊ぶことをゆるしませんでした。まだ若い何事によらず血をわかす女人魚はまだ一度も見たことのない陸と云うものをいろいろに想像してはなつかしがって居ました。或る時、春の日の光りの暖かさが海の底までしみ通るような日にこの美くしい女人魚は陸をあこがれながらこの美くしい姿を思うままにうらやませながらとある岩の上に泳ぎつかれた体をやすませて居りました。そのまっくろな可愛い形をして居る瞳をクルリクルリと動かせながら四辺を見て居ましたがフト先を見るとそこには陸の上の人影や草木の色や家の色までがすいて見えて居ました。「オヤ」女人魚は驚きと喜のまぜこぜになった小さい声を出して叫んで自分の目をうたがうようにジッとそこを見つめて居ました。
 自分と同じ名の女と云う名の人間は白や紅や紫のやのうすい衣をまとって二本の足でかるく歩きまわって居たり草はみどりの葉の間に五色の花をつけて家の色はその間に白やかばに春の日光の中に光って居る。そうしたようなどことなくものめずらしい景色はハッキリと人魚のそのつみのないひとみにうつりました。幾年かの久しい間陸にはげしいあこがれをもって居た女人魚はあきることも知らずにそこを見て居ました。まもなく、日は落ちてしまったのでうす黒い中を女人魚はその住家へもどりましたけれどもそのはでやかな女と云うものの衣の色や草木の色などはどうしても忘れることが出来ませんでした。それから日に幾度となくこの岩に身をまかせては外界の様をながめて居ました。始めはただながめて居るだけでその女人魚の心は満足して居ましたけれど今ではどうかして自分も彼の群の中に交って思うように暮して見たいと思い始めた、その思は前に陸を見たいと思ったその思いにも劣らないほどつよいものでした。或日女人魚はこの大した力を持って居る心の虫にそそのかされてズーッと恐ろしがりながらその岩から上へ上へと上って見ました。段々女の衣の色ははっきりとなって草木のみどりの色もあざやかになりまさりました。その色にさそわれるように女人魚は段々早くしずかな波の底からうき上りました。波まにチラッとその白銀のうろこのかがやいた時女人魚の体はもう波とすれすれのところ頭とか美くしいかおはあたたかい日の光にまばゆいほどかがやいて居ました。スーッスーッと渚近くよってその大きな岩のかげに身をひそめて人の群の高いさざめきやかすかなきぬずれの音をきいて居ました。恋によったようにうっとりと魂をうばわれたようにボンヤリとしてその様を見ほれて居ました。高らかに笑う女の声も今まできいたことのないものでしたし、うすい衣の裾のヒラヒラ胡蝶の様になるのも今までは見たことのないものでした。女人魚は美くしさに、うらやましさにその女達の動くように自分も身をもみながらどうぞして人間の仲間に入れるようにとねがって居ました。今まで光線のよわい海の底の中でうす絹ではりつめたように育って来たこの女人魚のはだにはあらわな強い日光はあんまりまぼしすぎ、つよすぎました。女人魚の心は段々ボーッとそして甘い気持になりました。その強い日の光はとうとう海の美しいたとえない花をしぼませてしまいました。
 大きな岩によってうっとりと、見ほれききほれて居るように美くしいしなやかな姿をした女人魚にはもうよんでこたえる魂と云うものがありませんでした。美くしい薄命な海の花はしずかに音もなく散ってしまいました。

     運命の車

 いくら大きな目をあけて見ても見えきれないような大きな一つの車の輪がある。その輪のはじからは大きな恐ろしげなつめたいかぎが出て居る。その中心からつづいた棒を一人の女がにぎって自分の勝手の様にまわして居る。その車はまわるごとに地球の上に住んで居る人間の頭の上を一度ずつきっとかすって行く。そのたんびに人間は知らず知らずに一人ずつぶらさげられて行く、或る時はしずかに順々に引く所から高い所にあげてそしていつまでもそこに手をとめていきなり大変な勢で地面にたたきつけたり又或る時は急に高く急に低くしてもう少しで落ちそうにしてもまだおとさずにまた高くあげて低い所までもって来てソーと地面におく、その車の動くたんびに人間は富んだり貧しかったりして青くなったり赤くなったりして居る。そうしてさんざん動したあげく人間は段々やせてしまいには骨とかわ許りになってしまう。そうすると運命の握権者は「ようやっとこれで一人かたづいた。又このあとがある」と云って車をまわす。

     逢魔ヶ時

 逢魔ヶ時のうすあかりの都大路を若い男女、老いた男、幼い児共、みなせわしそうに西から東東から西に走って行くようにあるいて行く。逢魔ヶ時は今、若い女のかげにも老いた男の身にも一つずつの悪魔はうすいかげと一所について居る。耳の長い目の丸い体のほそい尾の長い魔は一人一人がすれちがう時にきっとその袂や裾や帯の間から一寸頭を出しておたがいに顔を見合せて人にはきかれない小さな声で「私はこれからこの若い美しい女をだんだんとおそろしい崖に近づけてそしてそこでポンとつきはなしてやらなければならない」とか「この立派な青年を金銭のためにうんとくるしめてそして自分で早く身を終る様にするのが私のつとめだ」等と云い合ってやがてヒヒヒヒと黄色な歯を出して笑いながらその人のあとをついて行く。つかれて居る人は一向そんな事には気をとめないで只気ぜわしく落つかないで歩いて居る。やがて時も段々にすぎて月の光が少し仄に出て来ると魔どもは小さい尾を背にまいて「今日の逢魔ヶ時はもうすんだまたあした」と云ってその帯なんかの間からそっとぬけ出して街のくぼちをおっかけっこをして居るように走る落葉等に交ってカサコソと変な音を立てて町をころがりぬけ又町を通りぬけして森の洞の住家にかえってしまう。そしてその恐しげな口で「又あしたまたあした」と云って居る。世の中の人達は何もしらないで只あせって居る。





底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年11月25日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第6刷発行
※底本の解題には、「「平家物語」を典拠にしているものは「義王」までの六編である。」との記述があります。
※「*」は注釈記号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付きます。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年4月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について