現代語訳 平家物語

第十二巻

尾崎士郎訳




重衡被斬しげひらのきられ


 本三位中将重衡は、伊豆の狩野かのの介宗茂の許に預けられたままになっていたが、南都の大衆が、しきりに、その処分を迫ってきているので、頼朝としてもそのままにしておくこともできず、源三位入道頼政よりまさの孫、伊豆蔵人大夫頼兼が守護して、奈良へ連れて行くこととなった。
 都へ入ることは許されなかったので、大津から山科やましな醍醐だいごを通ることとなった。この道筋からは、重衡の北の方、大納言佐殿が忍び住む日野は程近かった。
 重衡が生捕られた後も、先帝に従って壇の浦まで行き、先帝の入水に続いて入水しようとするところを、源氏の武士に留められて、やがて京に帰り、日野に住む姉の大夫三位たいふさんみに頼って、そこに落着いていたが、風の便りに重衡卿のことを聞くにつけても、恋しさはつのる一方であったが、そうかといって、逢うことは、もちろん思いのほかのことであったから、唯、終日泣き暮していたのである。
 重衡は、日野の傍まで来ると、一目、奥方に逢いたい気持をどうしても押しかくすことができずに、守護の武士に申し入れた。
「道中、いろいろと親切にして頂いて、まことに嬉しく思っておりますが、一つ、わがままをお許し下さるわけには参らぬか。と申すのは、私、子は一人もおらぬ身故、その方の気遣いはござらぬが、ただ長年連れそった女房が日野にわび住居を続けていると聞いております。伺いますれば、ここから日野には程近いとやら、せめて此の世にあるうちに今一度逢っておきたいのですが、暫くお許し願えるでしょうか?」
 涙ながらに頼む重衡に、警固の武士も胸をつかれて、快く許した。
「大納言佐局は、おいでになりますか、唯今、奈良へおいでの途中、重衡卿が立ちながらでもお目にかかりたいと申されておりますが」
 使いの者の口上を聞いたとき、大納言佐局は自分の耳を疑ったのであったが、直ぐに走り出すと、日頃の慎しみも忘れて、どこに、どこにと叫びながら、縁先近くへ飛び出してきた。
 そこには藍摺あいずり直垂ひたたれに、折烏帽子おりえぼしの、色の黒いやせた男が、じっと立っているのであった。その人こそ、奥方が夢にも忘れたことのない重衡であった。
「夢ではござりませぬのか、うつつであったのですね」
 佐殿は、そういったまま、あまりの変り果てた夫の姿に、唯、呆然ぼうぜんと見とれていた。
 重衡は、涙ながらに話し出した。
「去年の春、一の谷で討死するつもりであったのが生捕りにされた上、さらし者にまでなり、今度は奈良の大衆の手に渡されて斬られることになったのじゃ。せめてもう一度そなたに逢うことができれば、この世に思い残す事はないと思っていたのだから、もうこれで死んでも惜しくはない。何か形見と思うのだが、出家も許されぬ身でのう」
 淋しく笑いながら、急に思いついたらしく、重衡は額にかかる髪の毛の、口あたりまで届くところを一むら、喰いちぎって渡すのであった。
「私とてもお別れした後は、どんなに死んでしまおうかと思ったものの、の世にないのとは事変り、ひょっとしてもう一度、お目にかかれるかも知れないと、そればかりを楽しみに生き長らえて来たのでございます。でも、それも今日限り、貴方様のいないこの世など、何の未練もなくなってしまいます。今までは、とにかく生きておいでだということが心の支えになっておりましたが、明日から、どうやって過して良いのかわかりませぬ」
 と、重衡にすがって泣くのであった。
「それにしても、そのお召物では、余りに見すぼらしい、せめてお召し替えだけでも」
 と、北の方はあわせ小袖こそでに、浄衣じょういを添えて差し出した。衣服を取り更えると、重衡は、今まで着ていた狩衣を差し出した。
「こんな物でも形見になろう、持っていてくれ」
「せめて一言何か書いて下さいましたら、もっと嬉しゅうございますが」
 北の方は硯を差し出した。重衡はすぐ筆をとって、

せきかねて涙のかかるから衣
  のちの形見にぬぎぞかえぬる

 すると、北の方の返り歌は、

ぬぎかうる衣も今は何かせん
  きょうを限りの形見と思えば

「縁あらば再び、来世で契り逢おう、そなたも、一つはちすに生れるようよくよく祈っていてくれ。そろそろ、日も暮れて参った、余り待たせても悪いからのう」
「でも、もう少し、もう少しいて下さいませ」
「いや、いや、いつまでいても同じこと、余計別れが辛くなる、わしの心持も察してくれい。どうせ逃れられぬ身じゃ、一時、長居すればするだけ、心が乱れるだけじゃ、又来世で逢おう」
 心強くもいい切って、北の方の手を振り払うようにして門の外へ出た時には、目の前が、ぼうっとかすんで何も見えなかった。これがこの世の最後の別れと思えば、もう一度、顔を見、声を聞きたいと、腕を引きちぎられるような思いであった。北の方が泣き叫ぶ声は、遠く門外まで聞えてきて、一層重衡の足を鈍らせるのであった。
「むしろ逢わねばよかった、なまじ顔をみたばかりに」
 と思うと、今度は逢ったことが、かえって口惜しく思われてくるのである。奈良へ向う道々、重衡は、じっと押し黙ったまま、悲しい思い出にふけるのであった。
 重衡の身柄を引取った奈良の衆徒のうち、血気にはやった者は、のこぎり引きだの、生き埋めだのの極刑を主張する者も多かった。しかし、良識ある老僧たちは、この残酷な意見を押し留めた。
「確かに、重衡卿は大犯の悪人で、仏法の敵であるが、といって、それではあまりにも、僧徒の身としては穏かでない。これは、警固の武士に任せて、木津こづのあたりで斬らせるのが良いと思うが」
 結局、老僧の意見が通り、重衡は再び武士の手に返された。
 当日になると、重衡卿が木津川のほとりで斬られるとの噂を伝え聞いた人々が、何千人も見物に押しかける騒ぎであった。
 重衡が京へ来た時、いろいろと昔の恩を忘れずに仕えて呉れた木工右馬允知時むくうまのじょうともときは、この日も、最後を見届けようと、馬をとばしてかけつけてきた。彼が刑場に着いた時、重衡は、今まさに斬られようとしているところであった。知時は、人混みをかき分け、かきわけ、重衡の傍近くに近づいていった。
「知時でござります。殿のご最後を見届けんものと思って参ったのでござります。何か、知時の役に立つことでもありましたら、何なりと仰せ付け下されませ」
「有難いぞ、知時、そなたの志、いつまでも決して忘れはせぬ。余りに罪深い身故、せめて仏でも拝み奉ることができたらと思うのじゃが」
「それしきのことなら、お安いご用でござります、暫くお待ちを」
 知時は、守護の武士と相談して、近くから阿弥陀仏一体を借り、河原の砂の上に置いた。知時は、自分の袖のくくりひもを解いて仏の御手に片端をかけ、重衡にもう一方の端を握らせた。重衡は、仏に向っていうのであった。
「重衡が大逆の罪を冒しましたのも、これ皆、私の心からではござりませぬ、この世に生れて、王命を拒否し、父の命に背く者がおりましょうか。いずれにしても、決して辞することのできぬ命令であることは、御仏もご承知下されましょう、罪はたちまち報いとなって現れ、今や私の運命も尽き果てようとしております。後悔千万、悲しんでも、尚余りあるところですが、唯円教意逆即是順ゆいえんきょういぎゃくそくぜじゅんの文句は肝に銘じております。一念弥陀仏、即滅無量罪、願わくは、逆縁を以て順縁となし、最後の念仏により、極楽往生の遂げられんことを、お願い申します」
 高らかに念仏を称えて、首をさし伸べた。
 重衡の顔は安らかであった。日頃の悪行の報いとはいえ、この有様に涙を流さぬ者はなかった。刑後、重衡の首は、治承の戦に伽藍がらんを焼き亡ぼした時に陣を敷いた般若寺はんにゃじの大鳥居の前に釘づけにしてさらされた。
 重衡の斬られたことを聞いた北の方は、首はなくとも、せめてむくろだけでもと輿を持って引取りにいった。むくろはそのまま河原にさらされていた。丁度時候が暑い時で、生前美しかった死体もみるかげがなく、腐りかけていた。北の方の気持はどんなであったろう。やがて法界寺という寺で、これを※(「田+比」、第3水準1-86-44)だびに付した。やがて首も、大仏のひじり俊乗坊しゅんじょうぼうに頼んで、貰いうけ、同じように、荼※(「田+比」、第3水準1-86-44)に付した。その後、北の方は出家して、夫の後世を弔ったといわれる。

大地震


 長らく専横を極め、乱脈の限りを尽した平家も滅亡し、京の町をはじめ、諸国、各荘園とも次第に秩序が整い、人心は安定し始めていた。ようやくこれで平和な世の中が来る、と上下貴賤の別なく喜び合うのであった。
 ところが七月九日の正午頃であった。突然、大地が揺れ動いた。地震であった。九重の塔も六重までが振り落され、三十三間の御堂みどうも、十七間までが倒れ、皇居を始め、諸々の神社仏閣から、一般の民家にいたるまで、倒壊するもの数知れない有様であった。雷のように恐ろしい音をたてて舞いあがるちりは、煙のようであった。太陽の光は見えず、夕暮にも近い暗さであった。この地震は、京都ばかりか、相当の遠くにまで及び、大地は裂け、山は崩れ、海は大津波が荒れ狂い、人々は逃げる場所もなく、埋もれて死んだ人は、白河、六波羅のあたりにも、何人いるかわからなかった。
 地震の起ったとき、法皇は、丁度、新熊野へご参詣のところであったが、周囲に死傷者が続出したので、急いで六条殿へお還りになった。主上も鳳輦ほうれんに乗られ、急いで池のほとりまで出御になり、法皇は南庭に幕を打ち廻して避難なさった。女院、各宮方も車にお召しになり、それぞれ安全なところへ避難された。天文博士たちが参内すると、
「今夜、十時、十二時には必ずゆり返しが参ります」
 という報告をしたので、人々は一層恐ろしさに身をすくませた。
 この大地震も、入水なさった幼い主上始め平家一門の怨霊おんりょうのたたりではあるまいかと、人々はうわさをして一層恐れおののくのであった。

平大納言被流へいだいなごんのながされ


 文覚もんがく上人が、頼朝に源家再興の旗印を上げさせるきっかけをつくったという、例の義朝の髑髏しゃりこうべは、実は偽物であった。唯、頼朝に謀叛心を起させようという、上人の計略であったのだ。ところが本物の義朝の首をひそかに供養していた男があった。義朝に長年使われていた染物職人が、弔う人もない義朝の首を哀れんで、そっと東山円覚寺に納めていたのであった。このことを知った文覚は、その男とともに首を探し出して鎌倉へ持っていった。頼朝は、片瀬川まで出迎え、喪服姿で鎌倉に入った。文覚を上座に据え、自分は庭に立って父の首を受取ると、感無量の面持で胸に抱えるのであった。やがて義朝の首は新しい墓所に埋められ、そこに寺を建て、勝長寿院しょうちょうじゅいんと名づけた。朝廷でも、義朝に正二位内大臣の位を贈り、その霊を慰めた。同じ頃、平家一門のうち、幽囚の日を過していた人々の処分が鎌倉から発表された。
 それに依ると先ず、平大納言時忠は能登国、讃岐中将時実は上総国、内蔵頭信基は安芸国、兵部少輔雅明は隠岐おきの島、二位僧都全真は阿波国、法勝寺執行能円は備後国、中納言律師忠快は武蔵国と、それぞれ流罪が決まった。
 平大納言時忠は、今生のお別れに、建礼門院のいられる吉田を訪れた。
「この度、能登に流罪と決まり、今日、配所へ赴くところでござります。何としてでも都に残り、貴女様のご用などを務めさせて頂きたいと思っておりましたが、それも叶わず、これからはどのようにご不自由になろうかと、そればかり気にかかって、中々行く気になれません」
 泣くなく申し上げる時忠に、門院も、涙を押えられぬご様子で、
「昔なじみといえば、今はもうそなた一人になってしまいましたのに、その一人が行ってしまっては、心細いこと限りありませぬ、誰が訪れてくれる人がありましょうか?」
 と、これまた、嘆き悲しむのであった。
 この時忠という人は、そもそも出羽前司具信でわのぜんじとものぶの孫で、兵部権大輔で、左大臣を贈られた時信の子であったが、故建春門院の兄として、また高倉天皇の外戚として、羽振りをきかせていた上に、清盛入道の北の方が姉であったから、この世の栄華は思いのままであった。正二位の大納言となり、検非違使別当には三度もなったが、別当時代には相当残酷なことも平気でやってのけ、強盗、窃盗せっとうを捕えると、右のひじから切り落して追放などしたので、悪別当などというあだ名を貰ったこともある。かつて、法皇の院宣を持って、西国まで下った平三左衛門重国の顔に、浪方なみかたという焼印を押して帰したのも、この時忠であった。元々、法皇も、亡き建春門院の兄でもあり、好意は持っておられたが、身の程知らぬ悪行が祟り過ぎて、しまいには、すっかり法皇を怒らせてしまったのである。時忠の娘婿となった義経も、いろいろとりなしてみたが、ついに流罪と決まってしまったのである。
 時忠の息子で、侍従の時家は十六歳であったが、幸に流罪に漏れ、伯父の時光卿の許にいたが、父の出発には母と共に、尽きぬ別れを惜しむのであった。
 一度別れれば、恐らくは二度と再び逢見ることのできぬ親子、夫婦の別れは、何にもまして辛いことであった。ついこの間までは、西国の波の上に、不自由な暮しを続け、平家一門の滅亡を間のあたりに[#「間のあたりに」はママ]見、今日は、人里離れた北の国へ旅立つ大納言の心境は、余りにもわびしいものであった。
 いつか都を離れて近江国堅田かただの浦まで来た時、大納言は泣くなくこう詠んだ。

帰りこんことはかた田に引く網の
  目にもたまらぬ我が涙かな

土佐房被斬とさぼうのきられ


 義経が、頼朝の不興を蒙っているらしいという噂は、間もなく京の街に拡がっていった。そうこうするうちに、頼朝から付けられて義経に仕えていた大名たちが、目立たぬように宿所を引き払うと、一人、二人と、鎌倉へ帰ってしまった。頼朝とは実の兄弟で、父子の契りまで結んだ仲であり、平家追討には、最も目ざましい働きをした義経が、何故、頼朝から疎んじられるようになったのか、誰も彼もが不思議に思うのであった。実はこれは例の屋島攻めの際、摂津国渡辺の浜で起った梶原景時との逆櫓さかろ論争が、大きな役割を果していた。元々義経を嫌いであった景時は、この時以来、心の奥深く、仇敵として義経を見るようになっていた。折あらばとばかり、義経の失脚を心掛けていたのであった。景時の、ちびりちびりと注ぐ毒舌は、次第に頼朝の内にあった公正な判断を狂わせていった。頼朝は、ついに義経を討つことを決意したのであった。しかし、戦乱が鎮まって、折角、人心が安定した京の街を、これ以上騒がせることは、頼朝としても望むところではなかった。そこで、土佐房昌俊しょうしゅんという荒法師に命じて、秘かに義経を暗殺せよという命令を与えたのであった。土佐房は僅かの手勢を連れ、鎌倉を発ち、京に向った。
 土佐房上洛の噂は、いち早く義経の耳に入っていた。
「これはただごとであるまい、恐らくは、義経を油断させて討とうというのであろう。向うが押し掛けて来る前に先手を打って、先に連れて参れ」
 と武蔵坊弁慶に命じて、土佐房を義経の宿所に引っ張って来た。
「土佐房、今頃、何故の上洛じゃ、何か、鎌倉殿からのお言伝てはないのか?」
「格別のお言伝てもござりませんでしたが、唯、お言葉で、「九郎殿がいるお陰で、京都も平穏に治まっているようで大変うれしい、この上も、守護の役目よくよく務めよ」と伝えて呉れと仰有っておられました」
 土佐房のしゃあしゃあと取澄ました顔を義経は、口惜しそうににらみつけた。
「よくも、ぬけぬけとそんなでたらめがいえるものじゃ、真実はこの九郎を討ちに参ったのであろう。大名などを討手に遣わせば、大事に至ることを嫌った鎌倉殿のお謀みで、そなたが物詣でを装ってわしを討ちに参ったに違いない」
 義経の余りに図星を指した言葉に、実は土佐房は内心ぎくりとするものがあった。しかし、そこは老練な彼のことで、おくびにも出さず、ひどくびっくりした様子をみせた。
「また何故にさようなことをお考え遊ばすのでしょうか、私は唯、宿願あって、熊野詣でを思い立って、上洛して参ったものでございます」
「わしは、景時の心ない讒言に依って、鎌倉へ入る事も許されず、そのまま、又京へ帰された、これは一体どういうことなのじゃ」
「さあ、その点は私にも見当がつきませぬのう、ともかく、この私に限って、うしろ暗いことは何一つございませぬ、どうしてもお疑いが解けぬとあっては、起請文きしょうもんを書きまする」
「鎌倉殿から悪く思われている身では、今更、起請文を書かれても仕方ないのう」
 義経の機嫌の悪さに、土佐房は、一時ごまかしにと即座に七枚の起請文を書き、焼いて飲んだり、或は神社に奉納したりして誠意を示そうとした。さすがに義経も、それ以上は追窮もできず、その日は許して帰した。土佐房は長引いては事はかえって面倒と覚り、その夜、夜討ちをかけることにして武者所にふれ廻った。
 土佐房の疑も一先ず解けたので、義経の家来たちも宿所に引揚げた。
 義経が日頃、寵愛していたしずかという白拍子の娘があった。歌や踊りがうまいばかりか機転のきく娘で、この夜も何となく気にかかるまま、様子を伺っていると、どうも唯ならぬ騒がしさが感じられるのである。
 静は義経にいった。
「都大路には、武者所の者が一杯でございます、今時分、どうも様子がおかしゅうございます。今日参りました土佐房とやらの仕業ではありますまいか、人をって探らせてみた方がよろしゅうございます」
 静の言葉を尤もなことと思った義経は、昔、清盛入道が使っていた禿かぶろで、手許にいる者のうち二人ばかりを見せに遣った。だが、二人は行ったきり、いつまで経っても帰って来ないのである。
「どうもおかしゅうございます。女ならば、目にも立たぬかも知れませぬ」
 静は、今度ははした女を一人出して遣った。間もなく女は、息を切らせ、真青な顔をして飛んで帰ってきた。
「大変でございます、禿らしい者が二人とも土佐房の宿所の門口に斬り捨てられております、それだけではありませぬ、鞍置馬がずらりと並び、幕を張りめぐらした内では、具足に身を固めた侍どもが、今にも寄せる気配でございます。とても、物詣でとは真赤な偽としか思えませぬ」
 義経はこれを聞くと直ぐ身仕度を始めた。静が後から鎧を着せた。義経は無造作な装立ちで、太刀だけを引っつかむと、中門の前に置かれた馬にひらりとまたがり、門を開けて、土佐房今や遅しと待ち構えていた。間もなく、四、五十騎が、ときの声をあげて、攻め寄せて来た。
 義経は、あぶみを踏張り立ちあがり、大音声をあげた。
「夜討ちでも、昼討ちでも、この義経を討てる者が、日本国にいるわけはないぞ」
 義経の威勢におされて、五十騎は易々と道を開いた。その内、江田えだの源三、熊井くまいの太郎、武蔵坊弁慶といった面々が、「すわ、殿の御大事」と、方々から集ってきて、義経の手勢は、六、七十騎になった。土佐房も、ここを先途と戦ったが、とても義経の敵ではなく散々に駆け散らされて大半が討たれた。土佐房だけは何としたものか、漸くその場を逃れたが、程なく、鞍馬山の僧正ヶ谷そうじょうがたにに忍び隠れていたのを、義経の昔なじみで、鞍馬の僧がからめ取り、義経の許へ送ってきた。
 かちの直垂に頭巾姿の土佐房を大庭に引き据えると、義経は笑いながらいった。
「どうじゃ、土佐房、起請文の罰てきめんじゃのう」
「覚悟の上でござる、どうせでたらめをかいたのじゃから、罰は当然のことでござります」
 今はすっかり土性骨を据えた土佐房は、少しも悪びれるところがなかった。
「良い度胸じゃ、主命を重んじ、私の命を軽んずる、そなたの志、義経、感心いたした。命惜しくば、助けて鎌倉へ帰そうか」
「随分、情ないことを仰有るものでござりますなあ。鎌倉殿のご命令で、都へのぼりました私、命はすべて鎌倉殿に捧げております。どうして取り戻すことなど思いもよりませぬ。もし、お情があるならば首をお斬り下さいませ」
 というのであった。土佐房は六条河原に引出され、首をはねられたが、その豪気な態度には誰もが感心したのであった。

判官都落


 頼朝と義経が不和になる以前、頼朝から義経の許へ遣わされた雑色ぞうしきがいた。
「中々才気のある男で、重宝な奴じゃから使いなさい」
 という頼朝の言葉であったが、その実、ひそかに義経の動静を探り知らせる為に遣わしたものであった。足立あだちの新三郎という男であったが、土佐房の斬られたのを見て、夜を日に次いで鎌倉へ急報した。
 頼朝は今は止むを得ぬと、弟の参河守範頼を大将に討手を差し向けようとした。範頼はさすがにその命令を直ぐに承服できず、再三再四断ったが、聞き入れられなかった。仕方なく、物具をつけて暇乞いにいった。すると頼朝は、
「そなたも九郎の二の舞をするではないぞ」
 と、範頼に向っていったので、範頼はすっかりおじ気づいてしまった。甲冑を脱ぎ捨てると、京へ上る事はやめ、毎日十枚の起請文を書き謀叛心のないことを証明したが、これも、とうとう最後には討たれてしまった。
 第二の討手の大将は、北条四郎時政であった。時政上洛の知らせに、義経も覚悟を決めた。落ち行く先をいろいろと考えた末、九州の豪族、緒方おがたの三郎惟義これよしを頼って行くことにした。惟義は、平家一門を一歩も九州へ上陸させなかったほどの男であったから、義経も、すがる気持になったらしい。
「加勢を頼みたいが」
 といってやると、
「承知しても宜しいが、唯、御内にお仕えしている菊池きくちの次郎高直は、年来の敵故、お渡し下さって首を切ったらば、ご加勢もいたそう」
 という返事であった。今は、一本のわらにもすがりたい心持の義経は、心ならずも菊池を六条河原に引き出して首を斬ったので、惟義は喜んで味方に加わった。
 義経は院の御所へ行き、大蔵卿泰経やすつねを通じて、奏聞した。
「義経のご奉公の数々、今更申しあげる必要もないと思われまするが、それを鎌倉殿は、郎党どもの讒言ざんげんを取上げられて義経追討に乗り出して参っております。京の内外を騒がすのは、義経の望むところではござりませぬ故、暫く鎮西の方へ難を避けたいと思いまする。それに就きまして、院の御所の宣旨を賜わり度く存じまする」
 義経の奏聞は、法皇始め公家たちの間に動揺をもたらした。
「もし、院のお文を差しつかわした事を、頼朝が聞いた場合に具合が悪かろう」
 という頼朝の思惑をはばかる法皇と、また、
「義経が京にいて、再び、京が戦乱のちまたになるよりは、とにかくお文を差し遣わして、鎮西でも何処でも、都を離れていて貰った方がよかろう」
 という意見の対立があったが、結局、公家たちの意向が通って、院の御下文おんくだしぶみが義経の手に渡った。それには、緒方三郎始め、臼杵うすき戸次へつぎ松浦党まつらとうの面々が、義経の下知に従うべきことと記されていた。
 義経たち一行は、十一月三日の早朝、忍びやかに都を出て、鎮西に向った。まことに静かな勇将の退場であった。
 摂津源氏で、太田太郎頼基おおたのたろうよりもとは、
「門の前を黙って通させたらば、鎌倉殿のお覚えも悪かろう」
 と、家の子郎党六十余騎を引き連れて、河原津というところに追い付いて攻め駆けた。しかし義経は五百余騎、頼基の六十余騎とでは、とても相手にならない。頼基も身に傷を受け、多くの死傷者を出して引き揚げた。
 義経は、討ち取った首をさらし首にして、門出の血祭にあげ、幸先良しと大物だいもつの浦に急いだ。そこから船で、西国へ下る予定であったが、一行が船に乗りこむ頃になると、急に吹き始めた西風は、海上に出るといよいよ吹きつのり、義経主従を乗せた船は、住吉の浦に打ち上げられてしまった。止むなく吉野に籠ろうとしたが、ここでは吉野法師に攻められ、奈良に落ちのびようとすると、奈良法師に攻められて、再び都に帰ると、今度は奥州を指して落ちていったのであった。
 都から連れて行った女房どもは、足手まといになるまま、住吉の浦に残された。女たちが松の下で、泣き伏しているのを見つけた住吉の神官たちが同情し、都へ送り帰したのであった。
 義経と共に大物の浦を出発した信太三郎先生義教しだのさぶろうせんじょうよしのり、十郎蔵人行家、緒方三郎惟義らは、海上で散りぢりになったまま、行方が知れなかった。
 これも平家の怨霊の祟りであろうと人々は噂し合った。
 東海道をひた押しに京へ急いだ北条時政は、六万余騎を引連れて都に入った。時政も直ぐに院の御所へ赴くと、義経始め、行家、義教追討の院宣を申請した。義経追討の院宣が下ったのは、十一月八日である。三日には、義経に賜わった院宣であった。十日も経たないうちに朝廷の方針は、百八十度も転回するほど、余りにも頼りない、無定見なやり方だと、批判の声は大きかった。
 頼朝は、日本国の総追捕使そうついぶしに任ぜられた。これを機会に、田地一段ごとに、兵粮米ひょうろうまいを五升割り当てて徴発したい旨を朝廷に申し入れた。法皇は、
「昔から朝敵を平げた者には、国の半ばを与えることになっておるが、頼朝の申すところ、いささか分に過ぎた願いと思う」
 と仰せられたが、公卿たちは、頼朝のいうところにも一理あるからお聞き入れ願いたい、としきりに申し上げたので、法皇もついにお許しになった。
 ここに頼朝の発案になる守護、地頭職が生まれたのである。

六代


 義経に代って新たに、京都の守護役に任ぜられた北条時政は、
「平家の子孫と思われる子供を見つけ、在所を教えた者には、望みの物をとらせる」
 という布告を出した。欲に目のくらんだ人の中には、この時こそ恩賞に預ろうと、血まなこになって探し廻ったものもある。中には、平家とは縁もゆかりもない賤しい家の子なのに、顔形が上品であるという理由だけで、六波羅へ引っ立てられたものもいた。
「これは、何々の中将殿の若君、この子は何とかの少将殿の公達」
 といかにももっともらしい名前をつけられ、それを嘆き悲しむ父母たちは、
「あれは、乳母でござります」
「あの男は、郎党でして」
 なぞといわれる始末で、時政としても、どちらの説を信じてよいものやらもわからず、いたいけない子供たちを殺すのは、余りにも殺生が過ぎるとは思うものの、主命とあればこれもいたし方なく、水に漬けたり刺したりして生命を絶った。
 時政が、一番その行方を知りたがっているのは、三位中将維盛の息子、六代御前である。そうそうたる平家の嫡流で、年も十二、三歳になっているはずであったから、何としてでも探し出したいと思っていたが、こればかりは一向に消息もつかめなかった。時政も、今は、これまでと諦めて鎌倉へ帰ろうかと思っていた矢先、一人の女房が六波羅へ訴え出た。
「京の西方遍照寺へんじょうじの奥、大覚寺という山寺の北の方、菖蒲谷しょうぶだにというところに、三位中将の忘れがたみの若君と姫君が奥方とともに忍び隠れておられます」
 さてこそ、と思った時政は、人を遣ってそっと様子を伺わせた。
 女房のいったことは本当であった。僧院の別棟に人目を避けて、暮していたが、平家の公達を探し出して殺すという噂を聞いてからは一層慎重に、外へは一歩も出ずにひっそりと暮していたのだが、この日、若君の可愛がっていた白い小犬が、ちょこちょこと庭へ走り出したのにつられて、六代も、うっかり庭へ追って出た。女房が驚いて、六代を急いで内へ引っ張りこんだ。
「もし人が見たら何となされまする、危いことでございます」
 間の悪いことに、そのとき、様子を伺っていた時政の家来は一部始終をすっかり見てしまっていた。すぐ六波羅にとんで帰って報告すると、
「それこそ、六代御前に違いない」
 と、翌くる日、兵を連れた時政は、この坊の囲りをひしひしと取り囲んでから、使いのものをもって申し入れた。
「小松三位中将殿の若君六代御前のお住居と承ります。鎌倉殿の代官として北条四郎時政がお迎えに参上いたしました。早くお出ましになった方がお身のためかと思いまする」
「あれ、六代を取りこめに参った、どうしたらよかろうか?」
 奥方はすっかり気が転倒して、良い考えも浮ばない。斎藤五、斎藤六の二人は、何とか若君一人逃れ出るすきはないかと、あちこち走り廻ってみたが、その警戒の厳重なことは、ありのはい出る隙もないほどである。
 乳母の女房をはじめ、日頃は話声一つにも気を配っていた家の者たちも、今は唯、声を限りに泣き叫ぶばかりであった。
 家中挙げての悲しみの前に、強気の時政も、すっかり弱り果てていたが、役目とあらばいたし方なく、
「未だ世間も騒がしく、どのようなことで、狼藉ろうぜきするものも出ぬとは限りませぬので、一時、私どものところへお移り頂くだけのことで、決して他に深いわけはないのですから、そのようにご心配なさらずに、早くお出まし下されませ」
 すると、六代御前は、健気けなげにも母に向っていうのであった。
「仕方がござりませぬ、いつまでこうやっていても同じこと、まして武士どもが、家の中に打ち入って無理強いに連れて行くことでもあれば、もっと厭な思いもしなければなりませぬ。たとえ、いったん、北条の許へ参りましても、暫くしましたら暇を貰って帰って参ります、どうぞ、あまり、お悲しみにならないで」
 とかえって母御前を慰める様子が一層いたいたしかった。
 奥方も、泣くなく六代の髪をかき撫で、衣服を改めさせて、いよいよ別れというときに、小さい黒木の数珠じゅずを取り出して渡すのであった。
「これで念仏を唱え、極楽へ参るのですよ」
「はい、今は、何とかして、父上のおられるところへ参りたい一心でございます」
 六代が眼に涙を一杯ためてそういうと、傍で聞いていた十歳になった妹君が、
「父上のところなれば、私も行きたい」
 といって走り出して兄君の後を追いそうになったので、慌てて乳母が抱きかかえた。
 六代御前は今年十二歳であったが、とても十二とは見えぬほど、大人びて落着いていたから、十四、五歳に見られた。行末どんな立派な貴公子になろうかと思われるほど、眉目みめ形の整った紅顔の美少年だったが、敵に弱味を見せまいと、袖で涙をかくしておられる様子が哀れであった。
 斎藤五、斎藤六の二人は、若君の輿こしにぴたりと寄り添って、北条が貸して呉れた馬にも乗らず、はだしで六波羅までついて来た。
 しかし、六代をうばわれた奥方の嘆きは、はたの見る目も痛わしく、地に伏してもだえ泣かれるのであった。
「何でも人伝てに聞けば、平家の子供たちは年齢に従い、水に入れたり、土に埋めたり、または刺し殺し、押し殺しなぞして殺すというけれど、あの子は、どうやって殺されるのであろう、年よりは大人びているから、首でも斬るつもりかのう。これまで片時も傍を離さず、掌中の珠と愛しんで育て、殿に先立たれてからは、せめてこの子たちの成長を楽しみに生きてきたのに、この先、生きる甲斐もない。まったくこの三年、いつ見つかるか、いつ捕えられるかと、生きた心地はしなかったけれど、それにしても、こんなに早くその日が来ようとは思いもかけなかった、長谷観音のご利益もなかったのであろうか?」
 考えれば考えるだけ、奥方の悲しみはつのるばかりで、夜になっても一向に寝つこうとはしないのであったが、時にうつらうつらとまどろむと、何だか、今あの子が、白い馬に乗って来たようだったが、と目を覚ましては、また涙ぐむのであった。
 そうこうするうちに、夜も明けはじめて来た。斎藤六が帰って来ると、家中のものは走り出して迎えた。
「どうであった?」
「若君はご無事か?」
 口々に問いかける女房たちに、六は、
「今のところは別にお変りございませぬ、お手紙を書いて下されました」
 といって、奥方の手に手紙を渡すのであった。
「まあ、何と気のつく子じゃろう、こんな時に手紙まで書いてくれるとは」
 と、またまた溢れ出そうになる涙を拭いながら、奥方が手紙を開けてみると、
「ご心配のことと候えども、今のところは、未だ何のこともなく候故、くれぐれもご安心下されたく候。唯、母上、妹、乳母、その他、家中の者どもの恋しい顔ばかりが眼にうかび候」
 と記されてある。奥方はその手紙をひしと抱き締めると、突っ伏してしまうのであった。
「時刻が経ちますと、あちらが気にかかります故、お返事を頂いて帰りとう存じまするが」
 六に促されて奥方は、泣くなく筆を取るのであった。
 乳母の女房は、とても、じっとして家の中におられなかったので、足に任せて、そこここを泣きながら歩き廻っていた。その様子を見るに見かねたのか、ある人が耳よりのことを教えて呉れた。
「この奥の方に、高雄たかおという山寺があり、そこに住まわれる文覚上人というひじりは、鎌倉殿のご信任厚い僧で、何でも貴族の子をお弟子に欲しがっておられたようじゃよ」
 乳母は、それを聞くなり、飛び立つように山寺へ駆けつけた。文覚は、血相変えて寺にとびこんできた女房に、始めは驚いたが、事の次第を問いただすと、
「実は、平家小松三位中将の北の方が、親しくなされていた方のお子さんを養い育てておりましたところが、どういうわけか、小松三位殿の子息と間違われ、昨日、六波羅から武士が参って連れていってしまったのでございます。生れ落ちた時からお育てした大切な若君を余りにもむごうござります、何卒、命を助けてお上人様のお弟子にでもして下さりませ」
 文覚も半狂乱の女房の様子には、心を動かされたらしかった。
「して、その武士と申すは何と申す者じゃ」
「確か、北条とか申していたように思いまする」
「うむ、判った、北条ならば、いささか面識もある。一つ頼んであげよう」
 文覚は、手早く身仕度をして、六波羅へ出かけていった。
 乳母は、さっきよりは少し落着いて、この朗報を一刻も早くと、奥方のところへ急いで帰った。乳母の顔を見ると、今まで泣いていたらしい奥方は、
「まあ、そなた、無事であったのか、お前がどこぞの川にでも身を投げたと思い、私も、よっぽど、後を追おうかと思っていたところであったのに、一体どこへいっていたのかい?」
 乳母の話を聞き終ると、奥方の顔にも微かな喜びの色が浮ぶのであった。
「そのお坊様が、北条殿から貰い受けて下されたら、もう一度逢うこともできるのですね」
 奥方は、見知らぬ僧の姿を頭に描きながら、そっと手を合わせるのであった。
 時ならぬ文覚の訪問を受けた時政は、問われるままに、始めからのことを話し出すのであった。
「鎌倉殿のご命令にて、平家の子孫を探し出しておりましたが、中でも、鎌倉殿の仰有おっしゃるには、維盛卿と新大納言成親卿の娘御との間に生れた男の子は、平家の嫡流でもあり、年も大分大きいから、必ず探し出して首を斬れとのきついご命令だったのです。しかし一向にお行方もわからず、私も諦めて帰るつもりでおりましたところ、一昨日になって、ある女の密告で漸く居所が知れ、昨日、こちらにお連れしたのですが、それが何とも美しい若君でござって、この私自身、どうにも首を斬る気にもなれず、そのままお置きしてあるのですよ」
 と言うのである。文覚が案内されて行って見ると、六代御前は二重織物ふたえおりものの直垂を着け、黒木の数珠をまさぐりながら、端然と坐っていた。髪の毛のかかり具合から、姿、形まで、何ともみやびやかで※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ろうたけた物腰は、とてもこの世の人とは思えぬような美しさである。それが眠られぬ一夜を過したせいか少し面やつれして、凄艶せいえんでさえあった。六代は、文覚の姿に、何を考えたのか、涙ぐんだまなざしでじっと見つめたので、さすがの文覚も、そこにいたたまれない気持になった。
「たとえ、先々、仇敵あだかたきになろうとも、この人を殺すのは、あまりにもむごい」
 文覚は、その場で決心した。
「二十日の間、この文覚に免じて命を伸ばしてやって欲しいのじゃ、わしは、このままつっ走り鎌倉までいってお命を預り申して来るつもりじゃ。かつて鎌倉殿が伊豆に流罪の折、鎌倉殿のために、院宣を頂いてきたのはこのわしだ。そのとき、わしの願は何でもかなえてやると申された頼朝殿、よもや、その言葉をお忘れはなさるまい」
 と、直ぐそのまま、鎌倉に向けて出発した。斎藤五、斎藤六は、文覚を生身の仏のように思いこんで手を合わせるのであった。早速、奥方のところへこのことを知らせにゆくと、とにかく、最後の決定権は鎌倉にあるものの、二十日間生命の伸びたことにほっとした様子で、これも日頃信仰する観音様のお助けかと思うのであった。
 しかし、二十日という日数はまたたくうちに経ってしまう。二十日近くなっても、文覚は一向に姿を見せなかった。奥方始め、斎藤五、六の両人も、気が気でなかったが、北条時政も思いは同じである、といっていつまでも、べんべんと京にも留まっておられぬ身の上である。ようやく心を決めると、
「文覚殿との約束の日数も過ぎたし、京都で年を過すわけにもゆかぬから、明日出発ということにいたそう」
 これを聞いて、斎藤五、六は、すっかり青くなった。再び奥方のところに行き、涙ながらに話すのであった。
「文覚上人もお帰りなされず、北条殿も、待ち切れずに明日出発とのことでござります」
「では、とうとう、あの子も」
 そういったきり奥方は後の言葉が続かなかった。一度は覚悟したものの、文覚の出現でもしやという一縷の希望を持っていただけに、その衝撃はかえって大きかったのであろう。
「でも、もし上人様が、お許しを頂いて帰ってお出でにでもなった時、既に斬られた後だったら、どうするのじゃ? 誰か、上人様に行き逢うところまで六代を連れて行くように、頼んで下さる人はないものであろうか? して殺されるのは何時頃の様子じゃ?」
「北条の家の者が、念仏を称えたり、涙を流したりしているのを見ると、明朝ではないかとも思われるのですが」
「可哀想に、あの子はどんな様子か?」
「人の見ている前では、決して涙をお見せにならず、数珠をまさぐって、さあらぬ態を装っておられまするが、人のいない時は、こっそりお泣きになっていらっしゃるようです」
「無理もないのう、今宵限りの生命と思えば、どんなに心細いことか、大人びて見えてもまだ子供だもの、それにしても、あれから二十日ばかり、一度も相見ることもできずに、もう二度と逢えないのであろうか」
 奥方は、またひとしきり涙に暮れるのであった。
「して、そなたたちは、どうするのじゃ」
「このまま、何処までも、お供いたしまして、もしおなくなりになるようなことがありましたら、お骨を高野に納め、出家して後世をお弔い申上げたいと思いまする」
 斎藤五、斎藤六の二人は、再び六波羅へ戻っていった。
 時政が六代御前を連れて都を出発したのは、師走しわすも押し迫った十二月の十六日であった。斎藤五も六も、馬にも乗らず、六代の輿に寄り添うようにして歩いてゆくのである。
 此処ここで斬られるか、いやあすこであろう、警固の武士が馬を早めれば、いよいよと思い、言葉をかける人があると、今度こそかと、そのたびごとに輿の中の六代は身の縮む思いを味っていたのだった。しかしここぞと思うところも事なく過ぎ、いつか一行は駿河国に入っていた。此処まで来れば、鎌倉は目と鼻の先である。六代の命も、もう長くはないと思われた。やがて、千本松原まで来ると、六代の御輿が下され、敷皮が敷かれた。
「ここまでお連れいたしたのも、もしや、文覚殿に行き逢うのではないかと思ったからでござります、しかし残念ながら文覚殿のお姿、影さえも見当りませぬ、これより先は、鎌倉殿の思惑もいかがかと思われます。鎌倉殿には、近江で、お斬り申したとお伝えしておきましょう、何卒お覚悟下さいませ」
 そう言いながらも時政の目から、涙がはらはらと落ちるのである。
 六代は、斎藤五、斎藤六の二人を傍近く招き寄せ、
「私が死んだら、そなたたち二人は都に帰り、母上には、鎌倉へ無事に送り届けたと伝えてくれぬか、いずれ判ることかも知れぬが、母上のお嘆きが目に見えてならぬのじゃ」
 と、しっかりした口調でいうのである。やがて若君は、肩のあたりに懸かる髪を、小さい手で前へかきわけると、静かに西に向って、手を合わせ念仏を称えて、首をさし伸べた。
 この日、首斬役は、狩野工藤三親俊かののくどうぞうちかとしであったが、太刀を脇にひっ下げ、左手から後に廻り、あわや、太刀を振り下ろそうとしたが、どうにも目がくらんで打ち下すことができなかった。
「とても斬る気にはなれませぬ、誰方どなたか他の者に仰せ付け下さい」
 といって辞退してしまったので、止むなく斬手をあれこれと選んでいたが、誰も尻ごみして、中々適当な人物がいないので、意外に時間を喰い、ようやく新しい首斬役が決まって、六代の後へ廻ろうとしたときである。松林の向うからひづめの音が聞えてきた。遥か彼方かなたから月毛の馬に乗り、「おおい、おおい」と叫びながら馬を走らせてくる僧衣の男があった。
 傍まで来ると、息を弾ませながら馬から下り、時政のところに来て、
「これご覧下されい、鎌倉殿からのお教文でござるぞ」
 というや否や一通の書面を差し出した。正しくそれは、頼朝の御教書みきょうしょで、
「維盛卿子息六代殿、高雄の文覚殿が暫く乞請けなされる故、疑なく文覚へ預け入るべし」
 と書かれ、名前の下に判も押してあった。斎藤五や斎藤六はもちろんであったが北条の家人一同も、どっと喜びの声を挙げた。
 そこへ文覚上人も追付いてやって来た。六代殿の乞請けが成功したので、上人も、ひどく得意そうであった。
「いや、中々手間取ってのう、とにかく、若君の父、三位中将殿は初めからの戦の大将軍で、度々の戦にも出陣したからというて、どうしてもお許し下されぬのじゃ。この文覚に逆ろうては後で罰が当りますぞよ、などと申し上げてもお聞き入れなくてのう、わしも今度という今度は、もう駄目かと思ったが、丁度那須野で狩があってのう、文覚もその間中狩場へついていって、ご機嫌を見計らっては申し上げたので、鎌倉殿もわしの根気よさにとうとう根負けなされたというわけじゃよ。これで遅くなったことがお判りになったであろう」
「まったく良いところでございました、一足お使いが遅ければすんでのこと、過ちを犯すところでござりました」
 と時政も、ほっとした表情をしてみせた。
「それでは、本来なれば都までお供いたしとうござりますが、鎌倉には大事の用もございます故、これにてお別れ申します」
 といって空いた馬を斎藤五と斎藤六に与え、時政は再び鎌倉へ、文覚上人は六代と共に左右に別れていった。
 吉報を早く都にいる母君に知らせようと、文覚は夜を日についで道を急いだが、尾張熱田まで来ると、その年も暮れ、都に着いたのは正月五日であった。ひと先ず、二条猪熊いのくまの文覚の宿所で旅疲れをいやした六代御前は、夜になると早速、母の所へ駆けつけた。
 見なれた、なつかしい門の前へ来て、戸をたたいてみたが、中からは人の住む気配もない。その代り、破れた築地の穴から六代の可愛がっていた小犬が、ちょこちょことはい出して来た。
「母上は、一体、何処へ行ってしまわれたのじゃ?」
 犬は唯、ちぎれるようにしっぽを振るばかりである。斎藤六が、築地を乗り越え、中から門を開けた。家の中に入ってみたが、最近、人の住んでいた様子はなかった。
「折角、生命が助かって帰って来たというのに、母や幼い妹たちは一体何処へ行ったのであろう、これでは何のために生きて帰ったのかわからぬではないか」
 六代は、ひと晩じゅう泣き明かした。夜が明けるのを待ち兼ねて近所のものに聞き歩くと、
「何でも、年内は東大寺御参詣とか伺いましたが、正月は長谷寺にお籠りとも聞きました」
 という返事である。斎藤五が長谷にいって、ようやく奥方にあうことができた。事の次第を聞いた奥方も乳母も、夢ではないかと喜び合うのであった。直ぐに大覚寺に駆けつけたが、一月振りでの対面とはいいながら、その苦しかった一月の間に、またしても見違えるほど大人びた六代の姿を見て、
「どんなに苦労したことだろう」
 と思えば、先立つものは、涙ばかりであった。それにしても、これから先のことを思いると、奥方は、
「早く出家をなされて、鎌倉殿のお疑いを晴らさねばなりませぬぞ」
 というのも親心であろう。文覚は、六代御前の美貌を損うことを惜しんで中々髪を切らせようとしなかったが、身柄は高雄に引き取り、大切に養っていた。

六代被斬ろくだいのきられ


 いつしか月日も経って、六代御前は十四、五歳になった。姿形も殊の外に美しく、彼がその場にいるだけで、あたりがぱっと明るくなるような端麗さを持っていた。奥方は、日一日と立派な青年に成長していく姿に、
「ああ、昔ならば、今頃は近衛の少将にでも任ぜられ、華やかな姿を見られたものを」
 と、はかない夢を追うのであった。
 ところで、一旦は文覚にねだられて許したものの、頼朝の心には、やはりこの平家の御曹子おんぞうしのことは気にかかってならなかった。それ故、文覚のところに便りあるごとに、
「維盛卿の子息は、どのような人物か? 昔、貴殿が頼朝の人相を見たように、朝敵を平らげ父の仇を討つような男であろうか?」
 と、何度も問い合わせがあるのである。その度ごとに文覚は、
「この子は、どだい、平家の嫡流らしからぬ骨なし男でござります故、ご安心あるがよろしゅうござります」
 といってやるのであったが、そのくらいのことではごまかされぬ頼朝は、
「いやいや、謀叛といえば、喜んで味方に加わる血の気の多い上人のいう事では当てにはならぬ、この頼朝の代はともかく、子孫の末になって、どういうことになるかも知れぬからのう」
 と、決して心を許そうとはしなかった。風の便りに頼朝の心中を聞いた奥方は、今は一日も早く出家するようにすすめたので、文治五年、十六歳で髪を下した。
 やがて、山伏に姿を変え、これも一緒に出家した斎藤五、斎藤六の二人を供にして亡父の後を弔うため、先ず高野へのぼった。そこで滝口入道にも逢い、維盛の出家の様子、入水じゅすい前後の模様などを詳しく聞いた後、父と同じ道を熊野へと向った。浜の宮の前から、父の渡った島にも渡ろうと思ったのだが、折悪しく向い風で船が出ず、それは断念し、ただ、遥かな海上を眺めながら、
「一体どのあたりに、ご入水なされたのであろうか」
 としばらく立ちつくしていた。その浜辺に一夜を明かし、更に翌日は僧を招んで、仏の霊を慰めた上、再び京に帰ってきた。
 当時の主上は後鳥羽院であったが、専ら、遊芸、漁色の道に心をうばわれ、政道はひたすら皇后の生母、きょうの局の自由にまかせていた。心ある人々は誰しも眉をひそめぬものはなかったが、中でも、もともと叛骨精神旺盛おうせいな文覚が、これを見過すようなことはなかった。
 高倉天皇の第二皇子、守貞親王は、その性聡明な方で人望も厚く、頼もしい方であったから、文覚は、何とかこの皇子を御位に即けたいと前々から思っていた。しかし、さすがに頼朝の在世中は手出しもできなかったのだが、建久十年、頼朝が死ぬと、文覚の謀叛気は、のこのこと首をもたげた。
 しかし、たちまち役人の耳に入って、文覚は、八十歳に余る身を隠岐島に配流の身となった。文覚は京を出るとき、
「今日、明日とも知らぬ老残の身を、都の片ほとりへ置くならばともかく、隠岐へ流すとは余りにも情を知らぬ。毬杖冠者ぎっちょうかんじゃ(毬杖の好きな天皇)よ、そのうち、そなたを、わしのところにきっと迎え取るぞよ」
 この言葉どおり、後鳥羽院は、承久の乱には隠岐に流されたのであった。
 その頃、六代御前は、三位禅師さんみのぜんじと名乗って高雄の奥で修行専一に励んでいた。すると鎌倉から、
「ああいう人の子で、あの謀叛気の多い人の弟子では、この先が思いやられます。頭は剃っても油断なりませぬ」
 と再三、再四、申し入れがあったので、朝廷から、あん判官資兼すけかねが召し捕りに向い、関東へ引き渡したが、田越川たごえがわで岡部泰綱の手にかかって、ついに一生を終えた。これで平家の血統は、完全に途絶えたのである。





底本:「現代語訳 平家物語(下)」岩波現代文庫、岩波書店
   2015(平成27)年4月16日第1刷発行
底本の親本:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社
   1960(昭和35)年2月12日初版発行
初出:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社
   1960(昭和35)年2月12日初版発行
※著者名は、本来は「尾※(「山+竒」、第3水準1-47-82)士郎」です。
入力:砂場清隆
校正:みきた
2022年11月26日作成
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