現代語訳 平家物語

第八巻

尾崎士郎訳




山門御幸


 寿永二年七月二十四日夜半、後白河法皇は按察使大納言資賢あぜちだいなごんすけかたの子息右馬頭資時うまのかみすけときただ一人を供にして、折からの闇にまぎれ人目を忍んで、御所を出た。行先は鞍馬くらまの奥である。迎えた鞍馬寺の僧たちは突然のことに驚いたが、
「ここはまだ都から近うございますので、危険でございましょう」
 と口々にいうので、さらに奥へ入った。笹の峰、薬王坂などの険しい道を進み、ようやく横川よかわ解脱谷げだつだににある寂定坊じゃくじょうぼう辿たどり着かれた。ところが多くの僧たちは騒ぎ立てた。
東塔とうとう御幸ごこう頂きたい」
 というのである。難をさける身であるから、再び東塔の南谷にある円融坊に行かれ、そこを御所とされた。そこへ武士、寺僧たちが集まって御所を厳重に守護した。しかし、ここにもすでに多くの噂が伝わっていた。天皇は平家と共に西海に落ちられ、上皇は吉野の奥に身を隠されているという。女院や宮々も八幡やわた、賀茂、嵯峨さが太秦うずまさ西山にしやま、東山などの片田舎に難を逃れている。平家一門は都より落ちたが、源氏はまだ京に入っていない。京は主のない都となった。
 そのうちに、法皇が比叡山におられると聞き伝えた殿上人たちは、われもわれもとお迎えにかけつけた。入道殿と当時いわれた前関白基房さきのかんぱくもとふさ当殿とうどのと呼ばれた近衛、それに太政大臣師長もろなが、左右大臣、内大臣実定じってい、大納言忠親、中納言実宗などの外、参議、三位、四位も集る。世に重んじられ、位階昇進に望みをかけ、所領官職を持った人たちは、すべて法皇のところへやってきた。まるで都が遷ったような円融坊の賑わいであった。もともと狭いところに都の人たちが押しかけたのであるから、堂に入り切らぬ者は外で右往左往し、一眼でもいい、自分の参上の趣きを法皇に認めてもらおうとしてひしめきあった。喜んだのは比叡山の大衆たちである。山門の名誉この上なし、と彼らはまるで山門に政府でも出来たように悦に入っていた。
 法皇は二十八日都へもどられた。この時は木曽義仲が勢五万余騎を引き連れて守護したが、近江おうみ源氏山本冠者義高やまもとのかんじゃよしたかは、白旗を高く風に靡かせて先陣となった。威風あたりを払う入京は都人の目をみはらせたが、一際目についたのは白旗である。平家一色の京に住みなれた人々は、珍しい源氏の白旗を新しい歴史の動きとして見つめた。実に二十余年ぶりの白旗の都入りであった。そのうちに、十郎蔵人行家くらんどゆきいえ、数千騎を率いて宇治橋を渡って京に入る。陸奥みちのくに新判官義康しんはんがんよしやすの子、矢田判官代義清やだのはんがんだいよしきよが大江山を越えて都へ、また摂津国、河内の源氏勢も協力して都へ攻めのぼる。たちまちのうちに京の街は源氏勢で埋めつくされた。
 そして義仲、行家はただちに院に呼ばれた。勘解由小路かげゆのこうじ中納言経房つねふさ検非違使別当左衛門督実家けびいしのべっとうさえもんのかみさねいえの両人は、院の殿上の間の板縁に出ていた。そこへ現れた義仲の装立ちは、赤地の錦の直垂に唐綾縅からあやおどしよろいを着こみ、腰に銀づくりの太刀を帯び、二十四本の切斑きりふの矢を背に、重籐しげとうの弓を小脇にかいこみ、かぶとはぬいで鎧の高紐にかけてかしこまった。行家は紺の錦の直垂に黒糸縅の鎧、二十四本の大中黒おおなかぐろの矢を背に、塗籠籐ぬりごめとうの弓を脇にはさみ、兜を同じく高紐にかけて控えた。法皇から平家追討の仰せが下った。前内大臣宗盛をはじめ平家一族を討てとの命である。かしこまって法皇の命を受ける義仲の顔には、別に深い感動の色もない。退出するとき、両人とも宿所がない旨奏上すると、すぐさま宿所が与えられた。義仲は大膳大夫成忠だいぜんのたいふなりただの宿所の六条の西洞院にしのとういん、行家は法住寺殿の南殿みなみどのと呼ばれた賀陽かやの御所であった。
 そのとき幼少の天皇が、外戚の平家に連れられて、西海の波の上に流浪されているのを法皇は嘆き、天皇と三種の神器とを無事に返せと度々西国にいる平家に申し伝えていたが、無論平家は一向に聞き入れなかった。ところで、先帝高倉天皇には四人の皇子があり、一人は安徳天皇で、二の宮は皇太子にしようと平家が連れて落ち、都に残ったのは三の宮と四の宮であった。八月五日、法皇は二人の宮を院に呼んだ。皇太子決定のためである。まず五歳になった三の宮をそばに呼ぶと、
「これこれ、どうじゃな」
 といえば、しばし老人の顔を見つめた三の宮は、急に怯気おじけ立ったものらしく、わっと泣きだした。側近の者があわててなだめたが一向にきき入れぬ。機嫌を損じた法皇は、もうよいと室外へ連れ出させた。これに反して四歳の四の宮は呼ばれると、にこにこしながら法皇の膝にのぼり笑顔で法皇の顔を眺めた。まことに人懐っこい態度であったから、法皇はひどく喜んだ。老いの目に涙が溢れた。
「可愛い子じゃ。縁もゆかりもない子供が、この老法師を見てこんなに懐しそうにするのは、わしの本当の孫に相違ないからじゃ。この笑顔も高倉院の幼いときを思い出させる。これほどの忘れ形見を今まで会いもせずにいたとはなあ」
 と、四の宮を愛撫しながら、涙を押えることが出来なかった。
 浄土寺の二位は、この時まだ丹後といっていたが、法皇の御前にかしこまった。
「では、御位はこの宮でいらせられましょう」
 といえば、
「いうまでもないことじゃ」
 こうして皇位継承は短時間のうちに決定した。内々で占わせてみると、四の宮即位せば百代の後までも日本のあるじたるべし、と出た。四の宮の母は七条修理大夫信隆しちじょうのしゅりのだいふのぶたかの娘、建礼門院が中宮であらせられた時に宮仕えしていたが、高倉院の目にとまり常に召されて寵愛されているうちに、次々と多くの皇子をもうけたものである。
 この信隆には娘が多かったが、そのうち一人でも女御か后にでもと、かねてから願っていた。あるとき、白い鶏千羽飼えば、その家から必ず后が出る、という話を聞き、家に白い鶏千羽を養った。そのためか、娘がはからずも皇子をたくさん産んだのであるが、信隆は皇子が誕生しても、平家や中宮に遠慮して皇子を大切には扱わなかった。これを清盛の奥方の二位が聞き伝えた。
「よいよい、構うことはない、私がお育てして皇太子にしてさし上げましょう」
 と乳母までつけ、大切に育てたものであった。
 その皇子たちの中でも四位の宮は、清盛の奥方の兄、法勝寺ほっしょうじ執行能円しゅぎょうのうえん法印の養君やしないぎみとなっていたが、平家の都落ちで法印は西国に、彼の妻とこの四の宮を残して行ってしまった。しばらくして妻のところへ、法印の使いが来て、
「四の宮をおつれ申しあげて、共にわが許に参れ」
 という。彼の妻はひどく喜び、急いで支度を終えると四の宮を連れて邸を出て、西の七条まで来た所に、妻の兄であった紀伊守範光が懸命に引止めたのであった。
「そなたは気でも狂ったのか。こんな気狂いじみたことをされてはいかぬ。この宮のご運、今にも開け給うというのに、何ということをされる」
 その翌日、法皇からお召しの使いが四の宮のところに来た。およそ物事には定められた成行きということはあるが、この四の宮の運命を守った功績の人といえば、紀伊守範光をあげることができよう。とはいえ、四の宮は範光の忠義を心にとどめていないのか、何の沙汰もなく空しく月日がたってしまった。
 ある時、範光はもしやと思って歌二首を詠み、宮中に落書らくしょしたのであった。

一声はおもい出てけほととぎす
  おいその森の夜半の昔を

うちもなおうらやまし山がらの
  身のほどかくすゆう顔のやど

 四の宮はこれをお聞きになった。知らなかったのは我が身の愚かさゆえ、と範光を召すとただちに正三位に任ぜられた。
 寿永二年八月十日、木曽義仲は左馬頭さまのかみとなり、越後国を賜わった。その上、朝日の将軍という院宣も頂いた。十郎蔵人は備後守となり、備後の国を頂く。義仲が越後を嫌ったので代りに伊予を賜り、十郎蔵人が備後はいやだと断わったので備前が与えられた。その他源氏のもの十余人が受領、検非違使、靱負尉ゆきえのじょう兵衛尉ひょうえのじょうなどに任ぜられた。そして八月十六日、前内大臣宗盛以下平家一門百六十余人の官職をすべて剥奪、殿上の間から除籍された。除籍を免れたのは、平大納言時忠へいだいなごんときただ内蔵頭信基くらのかみのぶもと讃岐さぬきの中将時実ときざねの父子三人である。これは天皇と三種の神器を京に返すよう交渉が執拗にくり返されていたが、その交渉の相手が時忠であったためであるといわれる。
 さて、翌十七日、平家一族とその勢は筑前国三笠郡太宰府に着いた。ようやく一息ついた一行に京都より従っていた菊池次郎高直は、肥後の国境大津山の関所を開いてお迎えの準備をしたいと願い出ると、すぐ肥後に一人でもどっていった。国に帰った彼は自分の城に引きこもると、一向に迎える準備もしなければ、部下を連れて太宰府を守りに来る様子もない。不安を感じた平家からの度重なる使いにも返事はなかった。次郎高直の離反は今や決定的である。その他、九州全域の侍たちは、われらは平家の味方、天皇のおんために馳せ参ずる決意、などと立派な返事を出しながら、誰一人として太宰府に来る者はいなかった。ただ一人、岩戸いわとにいる大蔵種直たねなおが伺候しているだけである。かつて平家の全盛時代に恩を受けた武士たちも、落目の平家には冷たかった。
 十八日、平家は安楽寺へ参拝して、夜もすがら歌を詠み、連歌をするなど神を祭っていたが、その中で本三位中将重衡が悲痛な歌を詠んだ。逆境に神を祭り、歌を詠んで僅かに心を慰めていた時、俄かに人々の心底を衝く歌が現れた。人々は辛い現実に再び立帰ると共に身の不遇を泣き、あらためて望郷の念にかられたのであった。

住みなれしふるき都の恋しさは
  神も昔におもい知るらん

 そして二十日には、京で法皇の宣命せんみょうで四の宮が閑院殿かんいんどので即位した。摂政には近衛がそのままなり、蔵人頭や蔵人などの任命があって、人々は退出した。法皇の前で泣いたばかりに機会を失った三の宮の乳母は、これを聞くと泣いて口惜しがったが、些か遅すぎた。
 天に二つの日なし、国に二人の王なし、というが、平家の悪行のために京と田舎いなかに二人の国王がいられることになったのである。

宇佐行幸


 四の宮即位の情報は、間もなく九州の平家に伝わった。安徳天皇を擁し三種の神器を抱えこんで、錦の御旗は手中にあるはずの平家も、落目となってはこの即位の話ほど衝撃をうけたものはなかった。共に帝皇をいただいてその正統性を現実に証明するとなれば、恐らく武力以外にはあり得ない。さればといって事態はすでに落人おちうどの境遇にあり、捲土重来を期する気魄も乏しいとなれば、現在の平家としては愚痴をこぼすだけが落ちである。
「ああ残念なことをした、こうなると知っていたなら、三の宮も四の宮もこちらがお連れして来ていたものを」
 こうした声が幾度なく互に交されて、何時止むとも知らない。一門の者は、愚痴をいうことが身の上の慰めでもあるかのように嘆きあった。ついにこれにたまりかねたか平大納言時忠は、きっとした口調で話しはじめた。
「今更悔いてもせんなきことじゃ。たとえ残りの宮方を一人余さずお連れ申しても、同じ事態にはなったであろう。高倉宮の御子の養育役、讃岐守重秀がご出家させて北国へ連れ落ちていることは諸卿もご存知であろう。木曽義仲が都へのぼるとき、この御方を天皇にさせ奉らんと、還俗げんぞくさせてお連れしているから、その時はこの方を御位につけよう、同じことじゃ」
「お言葉ですが、出家された宮が還俗されたとしても、その宮を皇位におつけすることは出来ますまい」
 と人々はこの論理に救いでもあるかのように語調を強めた。
「それはそうかもしれぬ。しかし還俗された方が帝位につかれた例は異国にもあるのじゃ。またわが国にもある。天武天皇がまだ皇太子であらせられた時、大友皇子に襲われて髪を下しご出家になって吉野の奥へ難を避けられたが、後に大友皇子を亡ぼされ御位につかれた例もあるのじゃ。また、孝謙天皇も、あるとき大菩提心を起されて出家遊ばされ、法基尼ほうきにと申されたが、後再び位につかれて称徳天皇と申されたことがある。木曽が崇めている還俗の宮を位につかせられたとしても、差支えあるまいと存ずる」
 時忠の言葉は、人々を直ちに説得はしなかったが、もし都に新帝を樹立する決意があれば、その方法は幾らでもあるという現実に目覚めさせたことだけは事実である。一同は自分たちの奉ずる天皇の存在は忘れて、専ら都の新帝即位の事態に悩み果てていた。
 九月三日、都の法皇は伊勢へ公卿の勅使を立てられた。その使いは参議長教ながのりである。法皇が伊勢へ勅使を立てられたのは、朱雀、白河、鳥羽三代の先例があるが、何れもご出家以前のことである。出家以後の例としては今度が始めてであるという。
 平家は九州で都を定め、内裏を造ろうと評議を重ねてはいたが、とても実行には至らなかった。天皇はこの頃、岩戸いわとの少卿大蔵種直の家を仮の御所としていた。人々の家も野や田の中に散在する始末であるから、さながら大和の十市とおちにいるような感じである。天皇の内裏となった種直の家は木立深い山の中にあった。丸木で造った山小屋の風情がなかなか風雅であるという者もいたが、これはそのかみ、斉明天皇が三韓交渉の折、筑紫の朝倉に進んだとき造られたまる殿どのになぞらえたものであった。天皇はここから宇佐神宮へ行幸になった。大宮司公通きんみちの家が皇居となり、社殿が公卿、殿上人の宿となった。廻廊には五位、六位の官吏がつめ、庭には四国、九州の武士たちが鎧兜をつけ、弓矢を携えて集まっていた。古びた神社も装いを新たにしたような賑いであり、境内の朱色の玉垣までが輝くように思われた。一行は七日間参籠した。満願の暁、祈願する宗盛に突如夢のお告げがあった。宝殿の前で朝敵退散、平家興隆を祈りつづけていた宗盛は夜明ければ満願と知って、気力を持ち直して祈っていた。夜が明けそめるのか社殿の中も薄明るくなった時、宝殿の扉が音もなく開くと、尊くも気高い声が奥より聞えた。

世の中の憂さには神もなきものを
  何祈るらん心づくしに

 宗盛、はっと目覚めて姿勢を正した。奥からの声は一度きりである。しきりに胸騒ぎがする。不吉な影が身うちをよぎる。お告げの意味を考えて忽ち暗然とした表情になった。それにしても意外な夢のお告げである。この世のさまには神の力も及ばぬというのである。

さりともと思う心も虫の音も
  弱り果てぬる秋のくれかな

 こう古歌を口ずさむ宗盛の顔にはしかし諦めたような穏かさがあった。宗盛はこの夢のお告げを誰にももらさなかった。やがて参籠がつつがなく終った。喜びの一行と共に太宰府へ向う彼の顔は、寥々りょうりょうたる微笑ほほえみをたたえていた。
 九月も十日を過ぎた。配所に月を見る思いの平家一族には、秋風が身にしみた。おぎの葉をそよがせて吹く夕べの風に、ひとり旅寝の床もわびしく、片敷く袖もぬれがちである。いずこも同じとはいうが、流浪するにも似た旅の空の淋しさは、誰の胸にもひしひしと迫った。九月十三夜の月は、この太宰府の秋の夜空にも皓々こうこうえてはいるが、仰ぐ人の心には京で楽しく月を賞でた夜の思いが湧く。空を仰ぐ目が何時しか涙に曇れば、月もおぼろに定かでない。人々は月明の夜に己が感懐を託して歌を詠んだが、いま心を慰めるのは、この夜の月ではなく華やかな過去である。人々の歌には押え切れぬ昔への懐慕があった。
 薩摩守忠度の歌、

月を見し去年こぞの今宵の友のみや
  都に我を思い出ずらん

 修理大夫経盛の歌、

恋しとよ去年こぞの今宵の夜もすがら
  契りし人の思い出でられて

 皇后宮亮経正の歌、

分けてし野辺の露とも消えずして
  思わぬ里の月を見るかな

緒環おだまき


 九州の豊後国ぶんごのくに刑部卿三位頼資ぎょうぶきょうさんみよりすけの所領であるが、代官にはその子の頼経朝臣よりつねあそんがなっていた。この頼経のところへ京の父から急使がとどいた。父の手紙を開けてみると、
「九州の地へ落ちた平家は、すでに神に見離され君にも捨てられたるもの、帝都を逃げて今や波の上に漂う落人おちうどなり。然るに九州の者どもこれを迎え取り、お仕え申すとは不埒ふらち、わが所領においては一向随うべからず。汝東北の国々と同心して、彼の一族を九州の地より追い出すべし」
 という文面である。そこで頼経はこの国の住人緒方三郎惟義おがたのさぶろうこれよしを呼ぶと、父の手紙を見せて平家掃討を命じた。
 この緒方三郎惟義というのは、ただ者ではない、恐ろしい者の末裔まつえいである。その昔、豊後国のある片田舎に住む夫婦に、一人娘がいた。まだ夫もなく慕いよる男もなかったが、ある夜、若い男が娘を訪れた。気品があり、その優しい態度に娘は心を惹かれた。そして男は毎夜毎夜娘の所にかよった。そして月日が重なるうちに、この娘は身ごもった。母が、
「お前のところに来る者は、どんな男じゃえ」
 と尋ねると、
「来る時は見まするが、帰る時は知りませぬ。暁方何時とは知らず帰ってしまわれるのです」
 と答えた。ともかく娘の男の素姓を知らねばならぬ。そこで母は知恵をさずけた。その夜、男は何時ものよう、水色の狩衣姿で娘のところに現れた。娘は男に悟られぬように狩衣のえりに針をさし、麻糸の玉の緒を結んだ。男は常と変らず優しかった。一夜が明けると、もう男の姿はなかったが、ねやから戸外へ一条の麻糸がのびている。娘は従者十人余り連れて糸を追った。糸は里から山にのびている、これを追う娘の足は早かった。何者であれ、一眼いい交した男の姿は見たかったのである。やがて娘の一行は豊後の外れ日向との国境、姥嶽うばがたけのふもと、そこにある岩屋へと着いた。糸はその中へ明らかにのびていた。一足進んだ娘はとどろく胸を押えて、中をうかがった。中からは妙なうめき声が聞える。娘は意を決すると大きな声で問うた。
「貴方のお姿を一眼でもと思って、ここまで尋ねて参りました」
 といえば、はたとうめき声が止んで、しばらくしいんとしていたが、やがて岩屋の中から太い声が聞えた。
「わしは人の姿をしておらぬ。お前はわが姿を見れば肝も魂も飛ぶ驚きをするだろう。どうかわしの子を産んでくれい、お前にできる子は男の子だ、弓矢、剣を取らせれば九州に並ぶ者なき者になるはず。わしの姿などはどうでもよい、無事に帰って子供を頼む」
 しかし娘は重ねていった。
「どのようなお姿でありましょうとも、私には常々のお情けを忘れることはできません。一眼でもと思いつめて、私はお尋ねしたのです。どうかお姿を見せて下さい、昼の私はお気に入らぬのですか」
 岩屋の奥では物音一つしなかった、娘は石のように立ち尽して返事を待っていた。すると岩屋から地響きの様な音が伝わってきた。忽ち一行の前に、とぐろのさしわたし五、六尺、頭から尾まで十四、五丈と思われる大蛇が這い出してきた。その喉笛のどぶえには娘がえりに刺した筈の針がささっている、娘は悲鳴をあげると地にくずおれた、従者たちは叫びをあげて逃げ散った。やがて一人の従者が失神した娘をこわごわ助け起し、ようやく家に連れ帰った。間もなく娘は一人の男の子を産み、母方の祖父が引き取って育てた。その子は逞しく育ち、まだ十歳にもならぬというのに背は高く顔は長く、七歳で元服させた。祖父の名が大太夫だいたいふというので、大太だいたと名づけた。夏も冬もこの子の手足に何時もあかぎれがあった。人これ見て胝大太あかがりだいたとも呼んだが、武力は常人を超え、九州で恐れぬ者はいなかった。
 さて緒方三郎惟義は、この大太の五代目の孫である。不敵で、行なうことがすべて大胆である。頼経の命を受けるや、直ちにこれを院宣である、従わなければ朝敵の汚名を受くるぞ、と号して九州中へあまねく回し文をした。そのため相当な武士までも惟義の命に従わざるを得なかった。惟義の先祖である大蛇は、日向国で尊崇されている高知尾たかちおの明神の神体であるという。

太宰府落ち


 太宰府に落ちて、やや小康を保った平家は、九州に都を定め、皇居を造るべきであるなど、公卿たちが相談してはいたが、惟義これよし謀叛むほんせりとの報が伝わると、俄かに動揺した。内裏建設も直ちに沙汰止みである。しかし惟義への対策は何とかせねばならない。協議の席上、新中納言知盛はいった。
「あの緒方三郎は小松殿の家来であった者です。小松殿の若君のどなたか一人出向かれて、彼をなだめられたら如何でしょう、主筋の方のお言葉なら必ずや聞き入れると存じますが」
 これは名案であると、新三位中将資盛が五百余騎を率いて豊後に向った。惟義と会見した資盛は言葉をつくしてなだめたが、惟義は一向に従わない。
「折角のお頼みですが、惟義はっきりお断り申し上げる。私はこのまま貴方様方を捕えたいとさえ思っております位。しかし大事を前に控えての小事は、今問題になりません。小勢の貴方たちを捕えようと帰そうと、大勢には影響いたしません。このままお帰りになっても、今後大したことはお出来になりますまい、そう思うて捕えないだけです。ともかく、さっさとお引取り願いたいものです、太宰府の方々がこれからどうなろうと私は知りませんぞ」
 といって追い帰した。資盛が失望の色を浮べて太宰府に帰ってくると、これを追うように惟義の次男、野尻次郎惟村が使者としてやってきた。
「われわれはかねてから平家の重恩を受くる身にございますれば、主君に向うことなどできませぬ。兜をぬぎ、弦をはずして降るべきとは存じまするが、後白河法皇のご命令には、平家を速かに九州の地より追い出せ、とのことにございます」
 この言葉に平大納言時忠は、緋色の緒のついた袴、葛糸織くずいとおりの直垂、立烏帽子たてえぼしという姿で惟村の前にあらわれると、きつい語調でいった。
「ここにいらせられる君は、天孫より四十九代にあたる正統、人皇八十一代の帝であられるぞ。天照大神、正八幡宮もこの君をお守り遊ばされておる。また、故入道清盛殿は、たびたびの乱に逆賊を鎮め、九州の者たちも内裏へ召すなど、多くの恩賞を与えられておられた。この恩を忘れ、東国の叛徒頼朝や北国の凶徒義仲に瞞されて、勝ったなら国を預けよう、荘園を与えようなどいう言葉を信じ、鼻豊後はなぶんごの指図に従おうとは、もっての外の振舞じゃ、よく惟義に申し伝えい」
 この時忠の言葉の中で鼻豊後というのは、豊後の国司刑部卿三位頼資が大きな鼻の持主であったからである。惟村は急ぎ帰ると父にこれを伝えた。惟義はふふんと嘲笑った。
「まだ勝手なことを抜かしおる、落ち目になっても大きな口をきく奴じゃ、昔は昔、今は今だ。そういうつもりならこちらにも覚悟がある、よろしい兵を集めろ。大軍で一挙に追い出してくれよう」
 と、ほとんど最後は怒気をふくんでいい放った。惟義の下知が八方に飛び、各地から兵が呼び集められた。噂を聞いて公卿たちは怯えたが、憤然と起った武士もいた。源大夫判官季貞すえさだと摂津判官盛澄もりすみである。
「彼奴のような者をそのまま捨て置いては、今後のためにならぬ。後輩への影響も少くない。まことにけしからぬ奴じゃ、召し捕えて参りましょう」
 と兵三千余騎を連れると筑後国を越え、高野たかの本庄ほんしょうに向った。ここで惟義の軍と戦うこと一日一夜、しかし九州各地から雲霞の如く集り押し寄せる惟義の大軍には、勇敢な攻手もかなわず引き退いた。
 そのうちに太宰府に、惟義が三万余騎を以てすでに寄せるとの報が伝わった。平家は取るものも取りあえず、慌てて逃げ支度をはじめた。折からの豪雨の中、混乱を極めた落ちようであった。あれほど心頼みにした天満天神の注連しめとも別れるのは心細く、行先に不安の念を抱く者は多い。天皇は粗末な腰輿ようよを召された。輿こしをかつぐ者もないのである。葱花そうか鳳輦ほうれんとは名ばかりであった。御母建礼門院を始め高貴の女房たちも袴の裾をかかげ、内大臣宗盛以下公卿殿上人は指貫さしぬきのももだちをはさんで、はだしのまま逃げた。水城みずきの戸を出れば、われ先きに箱崎の津へと必死になって落ちて行く。宮中の礼儀も、挙措きょその優雅もあったものではない。そして強風を交えた豪雨である。横なぐりに車軸を流す雨が叩きつければ、土砂を巻きあげる突風が襲う。衣は風にちぎれるばかりに舞い、雨に全身はびっしょりとぬれた。都を落ちてから最もみじめな逃げぶりである。しかし今この悲しみに泣いている余裕は、誰にもなかった。はだしの足で雨にぬかるむ地をひたすら急いだのであった。住吉すみよし、箱崎、香椎かしい宗像むねかたを伏し拝み、天皇の都へ帰られる日一日も早からんことを祈り、垂水山たるみやま鶉浜うずらはまなどの険路、難所を越えた。何れも慣れぬ足での強行である。天皇の足に血が何時しかにじんできた。果てもないと思われる砂地へ一行は踏みこんだ。雨風はすでに止んだが、空は低く重く地に迫っている。彷徨ほうこうの足取りはもつれて、天皇が立ち止れば御足の下の砂が紅に染まり、白い御袴も血に汚れた。かの唐の太宗の命を受けて印度に向った玄奘三蔵げんじょうさんぞうが、流砂りゅうさを渡り葱嶺そうれいを越えた苦難の旅も、これほどではあるまいと思われた。三蔵のは求法ぐほうのための困苦である、それは自他の利益もあったであろう。これは闘戦の道である、来世の苦しみは思うだに悲しいことといえようか。
 さて、原田大夫種直はらだのだいふたねなおは二千余騎で京都から平家の供をしていたが、数千騎で迎えに来ていた山賀兵藤次秀遠やまがのひょうどうじひでとおとはかねて不和の仲、彼がいるならわしは供をせぬ、それにこの中にあって争いが起きるのは具合悪かろうと、途中で引返してしまった。これで貴重な兵の主力は去ったのである。
 まもなく平家は葦屋あしやを過ぎた。これは都から福原へ通った時、往還に見なれた摂津の葦屋の里と同じ名前である。そういえばこの風物も何か似かよっているようにも思える。人々が思わず望郷に誘われれば、追われる身に一時忘れていた悲しみが俄かに湧き起る。みじめな現実に気力も失せた。もうこの国にいたくないと泣き出す者もいる。新羅しんら百済はくさい高麗こうらいに逃げたいと夢のようなことをいえば、いや雲の果て、地の果て、海の彼方に行きたいと叫び出す者もいる。そうだ、海の彼方ならこの苦しみもあるまい、とみぎわに駆けて強い風に波頭が白い飛沫をあげる暗い海を狂おしく見つめる者もいた。疲労と絶望が都の弱い公達きんだちの神経を乱したのである。ようやく兵藤次秀遠につれられて、山賀城に籠った。しかし疲労をいやす暇はなかった。山賀にも敵が寄せるとの知らせに、一行はわれ先きにと逃げ出し、小舟に分乗して漕ぎ出せばもう陽は落ちていた。荒れる夜の海上を闇を衝いて渡り、暁の訪れる頃、豊前の柳浦やなぎがうらに辛うじて着いた。一息つけば公達の里心が出てくる。またしても公卿会議が開かれ、ここに都を定め、内裏を造ろうということになる。だが場所はなかった。そうこうするうちに、ここにも長門の源氏が押し寄せるという。忽ちのうちに逃げ支度もそこそこにして再び海の上に出た。
 十月の頃である。小松殿の三男の左中将清経ひだりのちゅうじょうきよつねは、かねてから何事も深く思い込むたちであったが、ある夜月の美しさに誘われたか、舟を沖に漕ぎ出し舷に出て横笛を吹き奏で、朗詠をして心を慰めていた。供の者も波穏かな海原に月を打ち仰ぎ、笛の音を聞いてしばし辛い身の上を忘れていた。やがて笛を収めた清経は、海を眺めて一人つぶやくようにいった。
「都は源氏の勢に攻め落され、九州からは惟義に追い出された。網に囲まれた魚のように逃げ場もないのがわれわれじゃ。何処に逃げても同じこと、行先にはまた憂きことが待構えておろう。生き永らえても詮なき身じゃ、わが身ももはやこれまでか」
 といって供の顔を見て淋しく微笑んだ。やがて静かに読経をし、念仏を唱えるが早いか、清経は身をひるがえして海に飛びこんだ。月明らかな海原の波が割れて清経の姿は消えた。月の光を浴びた彼の姿は美しかったと、涙ながらに供の女は語っていた。
 長門国は、新中納言知盛の所領であった。ここの目代もくだいは紀伊刑部大夫通資みちすけという者であったが、平家の一行が小舟で海の上に漂っているということを聞くや救いの手をのべた。大船百艘余りを整えると平家に提供した。仏にでも会ったように感激した平家一門は早速これに乗り移ると、やっと生気を取り戻したようであった。船を連らねて四国に渡れば、阿波あわの民部重能しげよしの指図で讃岐の屋島の磯に形ばかりの内裏や御所が急造された。これが出来あがるまで賤しい民家を皇居とするには及ぶまいというので、大船の一艘が御所となった。天皇がこの有様であるから、宗盛以下の公卿たちの仮住いは漁夫の小屋である。小屋に入り切れぬ者は船の上に泊った。
 波に揺られる船上の御所に、安らかな時のある筈はない。磯の小屋に夜を過す平家も心の安らぎはなかったのである。月を浮べてたゆとう海のようにその憂いは深く、霜をいただいた葦の葉のように脆い運命である。に騒ぎ鳴く暁方の千鳥の声が人々の恨みをまし、磯にこぐ梶の音が夜半に悲しく伝われば、小屋に伏す者の心を傷めた。眠られぬ夜は続き、平家の人々は人の影にも怯えていた。遥か彼方の松に白鷺の群がるのを見れば、ややっ、あれは源氏の白旗ではないかと浮足立ち、海に野雁が鳴けば、敵兵のときの声かと顔色を変えた。誰もが憔悴しょうすいしていた。潮風に吹かれれば玉の肌は荒れ果てて、翠黛紅顔すいたいこうがんの容色もとみに衰えてゆく。翠帳紅閨すいちょうこうけいの美殿に臥した身はいま、潮風にはためく葦すだれの小屋の中で、土の上に寝て波の音を聞く生活である。女房たちは尽きぬ思いに血涙を止め得ず、昔の美しい面影は跡さえも止めていなかった。そして、浜に立って紺碧こんぺきの海を見つめる人の数がふえ、その眼には望郷の涙が溢れていた。

征夷将軍の院宣


 一方、鎌倉の前右兵衛佐頼朝の武勇の名は一日ごとに高まっていった。そこで鎌倉にいたままで、征夷将軍の院宣を賜わることになった。その使いは左史生中原泰定さししょうなかはらのやすさだである。泰定は十月四日、家来とともに鎌倉に到着、そこで頼朝に会った。頼朝がいうには、
「この頼朝は武勇の誉によって、関東にいながらにして征夷将軍の院宣を受けたのだ。私人でこの院宣を受ける訳には参らぬ、若宮の拝殿で頂こう」
 といって若宮へ行った。八幡宮は鎌倉の鶴岡つるがおかにあり、その地形は石清水と同じもので、廻廊、楼門があり、参道十余町が見下された。
 院宣の受けとり手には誰がなるべきかの評定があり、三浦介義澄よしずみに白羽の矢が立った。義澄はすでに関東八カ国にその名を知られた武士の名門、三浦平太郎為嗣ためつぐの子孫であり、その父大介義明おおすけよしあきも君のために命を捨てた武士であった。この因縁から父大介の亡魂を子が院宣を代表で受けとることで慰めたいというのである。その日、院宣の使い泰定は、身内の者二人、家来十人を従えていた。身内の者とは和田わだの三郎宗実むねざね比企藤四郎能員ひきのとうしろうよしかずであり、その十人の家来は十人の大名に命じて一人ずつ出させた者である。三浦介は紺の直垂、黒糸縅の鎧を着こみ、黒漆の太刀を腰に帯び、二十四本の切斑きりふの矢を負い、重籐の弓を脇にはさみ、兜を脱いで高紐にかけ、謹んでかしこまった。やがて三浦介が腰をかがめて院宣を請け取ろうとしたとき、左史生が、
「唯今院宣を請け取らんとする者は何人か、名乗られよ」
 というと、口を開こうとした三浦介がはっとなった。三浦介といえば頼朝の兵衛佐ひょうえのすけと同じに聞えるからである。
「三浦荒次郎義澄と申す者」
 と咄嗟に彼は名乗った。左史生が覧箱らんばこに入れられた院宣をうやうやしく渡すと、義澄は兵衛佐頼朝に渡し、しばらくしてから覧箱だけが左史生の手に返されたが、受け取った彼は箱がずしりと重いのに驚いた。開けると砂金百両がまばゆく輝いている。
 この後、八幡宮の拝殿で泰定に酒がすすめられた。陪膳ばいぜんの者は斎院さいいんの次官親義ちかよし、五位の一人が膳部を取りつぐ役を勤めた。馬三頭が贈られ、その一頭には鞍がおかれてあった。これを引くのは大宮の侍工藤くどう一郎祐経すけつねである。泰定の宿所として古い萱ぶきの小屋が用意され、中は新しく飾られた。厚く綿の入った衣二かさね、小袖十かさねが長持に入れられて用意してあった。また紺藍摺こんあいずり白布しろぬのが千反も積んであった。この夜の宴には山海の珍味が出され、調度は華麗を極めて心からもてなされたのであった。
 翌日、泰定は頼朝の館へいった。内と外に侍の詰所があり、共に十六間の建物である。外侍とざむらいには家の子郎党などが肩を並べひざをそろえて、ぎっしり並んでいた。内侍うちざむらいには一門の源氏が上座に、末座には関東八カ国の大名小名が居並ぶ。泰定は源氏の上座に据えられた。しばらくして寝殿に向うと、上段に高麗べりの畳を敷き、広縁には紫べりの畳が敷かれてあり、そこに泰定を坐らせた。やがて御簾みすが高く巻き上げられ、頼朝が現れた。狩衣に立烏帽子、顔が大きく背は低かったが、その顔は優美で、語る言葉は明晰である。口を開いた頼朝はまずことの次第を述べた。
「そもそも平家は、頼朝の威勢に恐れて都を落ちた。その跡に木曽義仲と十郎蔵人が入って来て、いかにもわが手柄顔に官位を思うままにあげ、領地の好き嫌いまで申すとは誠に奇怪至極の振舞い方じゃ。また奥羽の秀衡が陸奥守みちのくのかみになり、佐竹冠者が常陸守ひたちのかみになって、この者たちも頼朝の命を聞かぬ。こうした者も急いで討てとの院宣を賜わりたい」
 凜然たる頼朝の威に、泰定は感嘆したらしい。すぐさま、この源氏の棟梁に随身したい希望を伝えた。
「ここですぐ名簿みょうぶを差し上げたいのですが、今は院の御使の身、都にただちに馳せ帰り、すぐにしたためて差し上げたいと存じまする。私の弟の史大夫重能しのたいふしげよしも同じ考えにございます」
 と性急に申し出れば、頼朝は笑って、
「今の頼朝の身分として、おのおの方の名簿など思いもよらぬことじゃ。けれどそのおつもりなら頼朝も戴いておこう」
 と頗る上機嫌である。しばらく雑談に時を過ごした泰定は、今日これから上洛したいというと、頼朝は今夜は当地に逗留せられい、といってきかない。ひきとめられた泰定が一夜泊まり、翌日頼朝の館へゆくと多くの餞別が彼に贈られた。萌黄糸縅もえぎいとおどしの腹巻、銀の太刀一振、重籐の弓に狩の矢をそえた品々である。馬十三頭が引き出され、三頭には鞍がつけられてあった。泰定の家来十二人にも、直垂、小袖、大口、馬、鞍などが与えられ、馬だけでも三十頭に及んだ。泰定一行の帰りの旅のために、鎌倉の次の宿場から近江の鏡宿に至るまでの各宿場には、十石宛の米が用意された。彼らの食料としては多すぎるので、余った米は窮民へのほどこしに使ったという。

猫間ねこま


 京にもどった使者の泰定は、旅装をとくのもそこそこにして法皇の御所に参上した。御所の御庭に畏まって、頼朝の様子や関東の武士たちの動静などを詳しく報告申し上げると、法皇は頼朝こそ頼りになる天晴れな武士じゃと大層感心された。また、泰定の話を聞いていた公卿殿上人も互に肯きあっては、頼朝を賞めそやしていた。公卿たちは武士の評判をあれこれ話していたが、このとき京の守護職にあった木曽義仲の批評に花が咲いた。頼朝に比べて何んという野育ちまるだしの男か、と嘲り笑われていた。義仲は色白く、顔だちもととのった偉丈夫ではあったが、立居振舞の無骨さ、いう言葉の聞き苦しさは、まったく田舎の山猿にひとしい。彼が二歳より三十の年を過ぎるまで、片田舎の信濃国木曽の山に育ったことを思えば、都風の優雅さも、洗練された作法も持ち合わせなかったのは当然であった。義仲は野人としての生地を何ら隠すことなく、天真爛漫に振舞っていたが、そのため滑稽な過ちは数かぎりなくあった。すぐれた武将であり、卓抜な戦術家でもあった彼も、都では女子供にも忍び笑いの対象とされていたのである。
 その頃、猫間中納言光高という公卿がいたが、義仲に相談することがあったので彼を訪れた。家臣が、
「猫間殿が見えられました」
 と義仲に取りつぐと、
「なに、猫が来た、猫がわしに会いに来たのか」
 と大笑いして相手にならぬ。家臣が、
「いや、猫間中納言殿という公卿の方が、殿にご面会に来られたのでございます」
 と笑いをこらえていったので、ようやく光高と会ったが、義仲は猫間とは呼ばずに猫という。
「猫殿が珍しく食事時に来られた、猫殿に馳走せよ」
「いえ、いえ、今はたくさんです」
 と驚いて辞退するが、義仲は一向頓着しない。義仲は新しいものは何でも無塩ぶえんといえばいいと思っているから、
「それ、ここに無塩の平茸ひらたけがあるのじゃ、早う出せ、早う」
 と家来をせかせて、食事の支度をさせた。陪膳役は根井小弥太ねのいのこやたである。出された食事を見て中納言は驚いた。余り見たこともない深く大きい田舎茶椀に、飯が山盛りによそってあり、おかずは三種、それに平茸の汁が添えてあった。義仲への食事も全く同じものである。義仲ははしをとるとむしゃむしゃ美味うまそうに食い始める。中納言は出された田舎茶椀のきたならしさに辟易へきえきして、とても食う気にはならぬ。主人に悪いので箸は手に取ったものの、もじもじするばかりである。この中納言を見て義仲は飯を食いながらも、しきりにすすめる。
「それをきたないと思召さるな、義仲の精進用の椀でござるよ、さあさあ」
 中納言はここで食べなかったら、主人の気持を損ねるだろうと思って箸をつけたが、専ら食う真似ばかりである。そしてすぐに箸を置いた。
「猫殿は小食でござるな。いわゆる猫おろしとは御身のことじゃな、いや遠慮はご無用ぞ、さあどしどし召上り給え」
 と大声に笑いながら食事をすすめる。進退極まった中納言は、いかにしてこの食事を食わないで済むかに懸命となり、肝心の用事も忘れてあたふたと逃げ帰った。
 その後、義仲は院の御所へ出仕することになったが、官位ある者が直垂を着るのはよくないというので、急いで狩衣に替えた。野人の装束であるから、誠に奇態な出来上りである。烏帽子の先から袖のくくり方、袴の裾にいたるまで、とても見られたざまではなかった。その彼が鎧姿に弓矢を持ち、兜の緒をきりりとしめて馬にまたがれば、威風あたりを払う颯爽さっそうとした武将である。今、狩衣姿の義仲と同一人であるとは、とても思えなかった。そしてどうやら牛車に乗りこんだが、車も牛飼もかつて宗盛の所有だったものである。久しく車も引かせず、つなぎ飼いしてあった屈強の牛に、門を出るや否や一鞭あてたものだから、牛は一散に走り出した。車の中の義仲は仰向けに倒れた、蝶のように左右の袖をひろげてばたばたもがいたが、車が止らないので起きあがれない。義仲は「牛飼」という言葉を知らないので、木曽ことばで叫んだ。
「やれ小牛健児こうしごてい、やれ小牛健児」
 一方、牛飼は小牛健児が何を意味するかさっぱりわからなかったが、やれ、というからには車をやれに違いないと解釈を下し、牛に鞭をくれると五、六町も走らせた。折柄、今井四郎兼平が馬を飛ばして追いつき、
「なんで御車をこんなに走らせるのだ」
 と怒鳴りつけた。この牛飼も内心ではしまったと思ったが、
「御牛の鼻力が余りに強いので、止めようとしてもどうしても止まりませぬ」
 といって弁解した。牛飼はここで何んとか義仲の機嫌をとっておこうと考えたのであろう。
「その手形てがたにおつかまり下さい」
 というと、昇降口の木にむずとすがった義仲は、大いに感心した口調でいった。
「うむ、これは巧みな工夫じゃ、牛健児うしごていの知恵か、大臣殿の考えか」
 院の御所に着いて、門前で車かけをはずさせ、車の後から降りようとした義仲に、京の者で雑役夫として院に召使われていた男が、
「車はお乗りになる時は後から、そしてお降りになる時は前からでございます」
 というと、
「車だからというて素通りして悪い訳はあるまい、余計なことを申すな」
 といって後から降りてしまった。この外なかなか面白いことが沢山あったが、皆は義仲を恐れて、殆んど口に出さなかった。またこの牛飼は生意気な奴、というのでとうとう斬られてしまった。

水島合戦


 ところで、平家は讃岐の屋島に本拠を構えながら、山陽道八カ国、南海道六カ国、都合十四カ国を討ち従え、着々とその勢力の拡大を計って油断ならぬ状勢になってきた。義仲はこれを聞くと、安閑としてはおられぬ、平家勢のこれ以上増えぬうちに討ち破らねば、と討手の軍を編成した。討手の大将軍には陸奥の新判官義康の子、矢田判官代義清やだのはんがんだいよしきよ、侍大将には信濃国の住人海野うんのの弥平四郎行広、その勢七千余騎である。山陽道へ向い進発した討手は、備中の水島の瀬戸に着いた、ここから屋島へ一気に押し渡るつもりである。うるう十月一日、水島の瀬戸目指して漕ぎ寄せる一艘の小舟がある。漁船か釣船かと源氏が一斉に瞳をこらせば、平家からの書状を携えた使者が乗っている。これを見ると源氏は、かねて陸にあげて干してあった五百余艘の舟をわれ先にと海へ押し出した。一方、平家はこの日に備えて集められてあった船千余艘に乗って押し寄せた。平家の大将軍には新中納言知盛、副将軍は能登守教経のとのかみのりつねである。両軍の距離が迫り合戦の始まらんとするや、能登守は大音声をあげて下知した。
「いかに四国の者ども、北国の奴ばらに生け捕りにされて、口惜しいとは思わぬか。まず味方の船を組め!」
 さすが水軍に長じた平家である。千余艘のともづな舳綱へづなが組み合わされ、綱の間には船をつないで入れ、歩み板が渡された。平らな陣地であるから行動は自在で陸の陣と異らぬ。迎撃の絶好の陣が生れた。両軍はときの声を上げて海の上で激突した。矢合わせの矢が潮風を切って飛ぶと、海の上は修羅場と化した。狭い一艘の舟の上の行動と、相互の連絡が緊密で駆け廻れる平家の陣とでは比較にならぬ。源氏はその数においても戦術においても水の上では平家に劣っていた。
 遠矢が飛び交い、漕ぎ寄せては近い者同志の白刃が交叉した。鎧に固めた身である。海に落ちることはまず死を意味した。この水上の合戦では熊手が大きな武器となった。海は忽ち血汐に染まった。斬られる者、斬ろうとして足踏み外し海に落ちる者、熊手に引き落されて溺れる者、組み合って刺されるやそのまま敵と共に海へ転がり落ちる者、平家が足場を十分に利用して戦えば、源氏はその不利を歴戦の勇でおぎなった。
 源氏の侍大将海野弥平四郎行広が討たれた。これを見た大将軍矢田判官代義清は、仇を討てと主従七人小舟に乗るや真先に進んで戦った。遠き者は矢で殺し、近き者は太刀で斬る鬼神の奮戦に、やがて小舟の弱い舟板が割れた。とみるみるうちに舟が沈んで、義清も海に消えた。平家は船に馬を乗せていたが、戦有利と見るや、船を傾けて馬を海に追い落し、海に泳ぐ馬を船に引き寄せ引き寄せ陸地へ向った。やがて馬の足が立ち、鞍の端が海面に浸るところまで来ると、一斉に馬に飛び乗った。教経以下五百余騎、水しぶきをあげて浜に駆けのぼり、喚声をあげて源氏の陣に襲いかかった。すでに大将軍、侍大将が討たれて指揮が混乱しているし、水上の戦いで味方の不利を見ていた源氏は、われ先きにと逃げ散った。天地に轟く勝鬨を、平家は此処に堂々とあげた。都を落ちてから最初の勝利であった。会稽かいけいはじをそそいだその声は、何時までも波の上に響いていた。

瀬尾せのおの最後


 水島の敗報を受けた京の義仲は、これは一大事じゃ、捨てては置けぬ、と自ら一万余騎を率いて備中へ馳せ下った。ここに一人の平家の武士がいた。備中の住人瀬尾太郎兼康せのおのたろうかねやすという者で、名の知られた武士であったが、さる五月北国での戦いに敗れ、加賀住人倉光次郎成澄の手にかかって捕えられた。このとき斬られる筈であったのを義仲が、かかる勇武の男を殺すには惜しい、と弟の三郎成氏に預けた。兼康は人づきあいもよく、優しい気性の男であったので倉光家でもねんごろに待遇していた。昼は終日仕えて木を伐り、草を刈るなど賤しい仕事を黙々とつとめ、夜は悶々として寝ることがなかった。しかし、兼康は一度も敵の中にある身を忘れなかった。機を窺って敵を討ち、一度は主君に会いたいと深く心に祈り続けていたのである。
 あるとき、この瀬尾太郎が倉光三郎に向っていった。
「私は去る五月から死ぬべき身を助けられて参りました者、旧主のことなど今はもう忘れ果てました。今度合戦がございましたなら、だれよりも木曽殿にこの命を捧ぐる心にございます。ついては、兼康が所有しておりました備中の瀬尾というところは、馬を飼うに誠によい土地柄です。貴方がその地をお貰いになれば、随分とお役に立つことと存じます。私がその地をご案内仕りましょう」
 この言葉に動かされた倉光三郎が義仲に伝えると、
「感心なことを申す奴じゃ。汝まず一足先にその地に行き、馬の草など用意させよ」
 と命じた。そこで倉光三郎は手勢三十騎ばかりと、瀬尾太郎を率いて備中国へ向った。兼康の嫡子小太郎宗康も平家の味方であったが、父が義仲より暇をもらって帰ると聞き、以前から心を寄せる家来ども百騎余りを連れて父を出迎え、播磨の国府こうで行き会った。そして倉光三郎などと連れ立って下る途中、一行は備前の三石みついしの宿に泊ったが、折柄兼康に親しい者たちが酒を持参して訪れたので、宴が開かれ深更に及んだ。期するところのある瀬尾は倉光主従に酒をすすめて酔いつぶした。泥の如く眠るのを見定めるや瀬尾たちはこれを襲い、起きる間もあたえず一人残らず刺し殺した。そして手勢をまとめると、折から国府にいた備前国の代官の所へも押し寄せ、これも討ち取った。備前国は十郎蔵人の国である。
 この後、瀬尾太郎は自分の決意をこの付近の武士たちに伝えた。
「兼康は木曽殿から暇賜わって、この地まで下って参った。平家に心寄せる人は、今度木曽殿が参られれば、矢の一つでも射かけるがよいぞ」
 この知らせを受けて、備前、備中、備後の武士たちが集ってきた。その殆んどが、馬や武具、元気な手下のものたちを平家に差し出し、自らは休養していた年寄りであったが、瀬尾の決意にうながされたか、柿色の古びた直垂の紐をつけ替え、布の小袖の裾をからげ、破れ腹巻をつづり合わせて着込んだ上に、山狩り用のうつぼ竹箙たけえびらに僅かの矢を入れて集った。老いの身に鞭打ち、残された武器をかき集めて、平家のために今一度のご奉公をと悲壮な決意をした老武者たちであったが、その勢合わせて二千余騎とはなり瀬尾のところに馳せ集った。瀬尾は備前の福隆寺畷ふくりゅうじなわてささせまりに城を構え、防禦の陣を急造した。楯垣を立て並べ、やぐらを立て、逆茂木を植え、城には幅二丈、深さ二丈の堀を掘って、待ち受けた。
 瀬尾に討たれた代官の下人どもは逃げのびて、京へこの事件を報告しようと上る途中、義仲に行き会った。下人の知らせを受けて義仲は、
「おのれ憎き瀬尾の奴め、思えばあのとき斬って捨てるべきであった。油断して奴にはかられたのは無念なことじゃ」
 と歯がみをして怒った。この時、今井四郎は、
彼奴きゃつの面つきはただ者とは思えませんでした。それで私は千度も奴を斬るべきだと申し上げていたのですが、果たして不敵な振舞、しかし大したことはございません。この兼平まず備前に下り、殿の恨みを晴らしてみせましょう」
 というと、三千余騎を率いて、備前は瀬尾の居城へ急行した。福隆寺畷の道は細い一本道、幅が弓の長さ位で、その距離は西国道で一里、左右は深田で馬の足も立たぬ。今井四郎の軍勢も心はせいているが、どうにもならない。馬の足に任せて漸く着いた。寄手が来たとみるや、瀬尾は急いで高櫓にのぼり大声でいい放った。
「さる五月から、かいなき命をお助け下すった各々方に深くお礼申し上げる。よくぞお出で下さった。私のささやかなお礼心をお見せしたい」
 と二十四本さした矢を弓につがえては放ち、つがえては放った。これを合図に瀬尾の勢からは矢が一斉に寄手の中に射こまれた。寄手は今井、宮崎、海野うんの、望月、諏訪、藤沢など一騎当千の面々が、これを物ともせず兜を傾けて飛び来る矢を防ぎながら、城に攻め寄せた。討たれた人、馬などを片っ端から堀に投げ入れ、深田を埋め、これを乗り越えて進んでいった。馬の胸や腹が隠れる泥の中もいとわず、深い谷も嫌わず、駆けこみ駆けこみおめき叫んでは襲いかかった。一歩も退かぬ決意の寄手の激しい攻撃に、瀬尾の者たちは大方討ちとられ、城は壊滅に陥った。夜になっても寄手の攻めは衰えず、遂にささせまりは破られた。かなわぬと見た瀬尾はここを退き、僅かな手勢と共に備中の板倉川のほとりに楯を並べて、最後の抵抗を試みた。しかし寡兵ではあり、老武士である。矢も射つくした。勝ちに乗じて襲う今井四郎の攻撃を支えかねて、一人一人と落ちていった。瀬尾太郎はたった主従三騎となり、板倉川に着いて緑山みどりやまに逃れた。
 この合戦に加わっていた倉光次郎成澄は、さる五月北国で瀬尾を生け捕ったものであるが、弟の三郎成氏を殺されて激怒していた。今度こそ再び彼奴きゃつをわが手で捕えてみせよう、とただ一騎馬に鞭をくれて瀬尾を追っていった。倉光次郎は遥かに落ちる瀬尾主従三騎を認めるや、必死に馬を走らせてその距離をおよそ一町にちぢめた。声のとどく間隔である。彼は大声を上げて瀬尾を呼んだ。
「そこに落つるは瀬尾とみた。武士とあろうものが敵に後ろを見せるのか。返せ返せ」
 この声を聞いた瀬尾は、かつて己れを生け捕った敵を見た。板倉川を西へ渡り、川の流れに馬をとどめて待ち受けた。倉光次郎は鞭を振い、あぶみを蹴って一気に川に乗り入れて瀬尾に追いつくや、そのまま、むずと組みついた。二人は組み合ったまま川にどうと落ちた。双方何れ劣らぬ大力の者、水の中を転げ廻りながら相手を抑えつけようと死力を尽くしているうちに、岸近い淵の中へ転げこんだ。倉光は泳げぬが、瀬尾は水練の達人である。共に水底へ沈んだ時、瀬尾の手は倉光の腰から刀を抜いて、水中でもがく倉光を抑えるや、鎧の草摺を上げて、柄も通れ、拳も突き抜けよとばかり彼を三度刺して、その首をあげた。血に染った水を体に浴びた瀬尾は、自分の馬は乗りつぶしたので倉光の馬を奪い、落ちていった。瀬尾と共に落ちた彼の嫡子小太郎宗康はこの時二十歳、肥満した体なので一町も走れぬ、目をつぶって瀬尾はわが子を見捨てて二十町余り馬を飛ばした。と、突然馬を止めると彼は郎党にいった。
「日頃は、千万の敵に向うとも四方晴れて、わが心に一片の雲だにないが、今日は小太郎宗康を捨てて行くからか、先が暗うてわしには見えぬ。この合戦に生きのびて、再び平家の軍に参るとも、「兼康は六十を過ぎる身なのに、あと幾つ生きようと思ってただ一人の息子を捨てて来たのか」と仲間にいわれるに違いない。これは心外なことじゃ」
「さればこそ、お二方そろってどのようにでもなされませ、と申したのはそのことでございます。お引き返しなされませ」
 と家来がいえば、莞爾かんじとした瀬尾は今来た道を再び馬を飛ばした。息子のいるところに着くと、小太郎宗康は歩けぬ程足が腫れてしまったので道に伏していた。馬から飛びおりた瀬尾は息子の手をとった。
「お前と運命を共にするのだ」
 といえば、小太郎は泣いて父にいった。
「たとえ私がここで自害しましても、それは私が未熟者のためでございます。私のためここで父上が命を失われるのは、五逆罪となりましょう、私を捨ててどうかお早く落ちて下さい」
「小太郎よ、もうわしは決意したのだ」
 というと、息子の傍らに腰を下して動こうとはしなかった。そこへ新手の源氏五十騎あまりがおめき叫んで追い迫った。瀬尾は射残した矢八本を引いては放ち、つがえては射た。この練達の速射に、生死はわからぬが源氏勢八騎が馬から落ちた。弓を捨てると抜いた太刀で彼は息子の首を討ち、敵の中へ駆けこむと武士の最後を見よと縦横に暴れ廻り、敵兵数多討ち取って死んだ。家来も瀬尾と共に散々に戦ったが重傷をうけて倒れ、その翌日死んだ。主従三人の首は備中のさぎもりにかけられたが、この模様を聞いた義仲は、
「天晴れ剛の者、しばらく助けておきたかった」
 と嘆賞したという。

室山むろやま合戦


 義仲は備中国びっちゅうのくに万寿庄まんじゅのしょうで勢揃えすると、一挙に平家の拠点屋島を陥そうと決心した。この時、都の留守に残してきた樋口次郎兼光からの急使が来た。
「殿ご不在の間、十郎蔵人行家殿は院のお気に入りとして、殿のことをさまざまに讒言ざんげんいたしております。西国のいくさ暫くさし控えられ、急ぎ上らせ給え」
 というのである。容易ならぬ情報である。義仲は平家を目前に眺めながら考えた。ここで決戦を行なって平家を討ち、禍根を絶って都に帰るべきか、それとも都に急ぎ帰り地歩を固めて再び下るべきか。義仲は自分の不安定な現在を思うと後者を取った。軍をまとめると夜を日についで京に急いだ。このことを知った十郎蔵人行家は、もし義仲が京に入れば自分との間に不和が起ると察知して、五百余騎を率いて京を下り丹波路を通って播磨へ向った。義仲は摂津を経て都へ入った。
 一方、平家は義仲を討とうと大将に新中納言知盛、本三位中将重衡しげひら、侍大将に越中次郎兵衛盛次もりつぐ上総かずさの五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清などを命じて先陣とし、二万余騎の兵で播磨に押し渡り室山に陣を構えた。行家は、ここで平家と一合戦し、幾分なりと功名を上げたなら義仲との間もうまく収まると考えたのか、五百余騎の勢で室山に陣取る平家の大軍を襲った。平家は五つに陣を分けた。まず伊賀平内左衛門家長が二千余騎で一の陣、越中次郎兵衛盛次は二千余騎で二の陣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清が三千余騎で三の陣を固め、本三位中将重衡は三千余騎で四の陣を構え、新中納言知盛は一万余騎で五の陣に控えた。この布陣の中に行家の五百余騎が突入した。一の陣がしばし応戦すると見せて中央をあければ、行家の軍はどっと躍りこむ。二の陣も中をあけて通した。三の陣も同様である。四の陣も突破したように思われた。そして行家の軍は最後の知盛の陣にぶつかった。その時である、先程突破した筈の一から四の陣の勢一万余騎がどっと背後から襲いかかり、これに呼応した五の陣の兵が討って出た。四囲攻撃である。袋の鼠と化した行家は謀られたと知ったが、すでに遅い。進むことも退くことも出来ぬが、こうなれば死物狂いである。死ぬならば一人で十騎はあの世の道連れ、もはや、命などいらぬという決意が五百騎にみなぎり、およそ二十分の一の源氏勢は鬼神をも倒す意気で戦った。知盛が最も頼りにしていた紀七衛門きのしちえもん、紀八衛門、紀九郎など一騎当千といわれた平家の武士も行家に討たれた。激闘数刻、雲霞の如き平家の包囲を破って脱出したとき、行家の兵は僅かに三十騎ばかりになっていた。何れも大半は身に傷を受けていたが、行家だけは、かすり傷も受けなかった。落ちのびる行家たちは播磨の高砂から船に乗り、和泉いずみ吹飯浦ふけいのうらに押し渡り、そこから河内の長野城に立て籠ってしまった。一方平家は、室山、水島の合戦で源氏を破り士気大いにあがるとともに、各地の軍勢が傘下に集って、その勢力はいちじるしくのびてきたのであった。

鼓判官つづみはんがん


 この頃、京都には源氏の兵が満ちあふれていた。兵の中にはあちこちの人家に侵入して掠奪をしたり、加茂、八幡の御領地に入っては勝手に青い稲を刈り馬の飼料にするものもいた。また人の蔵を破っては財宝を持ち出し、通行人の衣をはぎ取り、物を奪うなど狼藉ろうぜきの行ないが多かった。
「平家が都にいたときは六波羅殿といってただ恐ろしい存在だったが、人の衣をはぎ取るようなことはなかった。それが今はどうじゃ、平家と源氏が入れ替ったおかげで、とんでもないことになってしもうた」
 と京の人々は噂し合い、非難の声が次第に高まってきた。これを聞いて法皇の憤りもひと方ならず、義仲へ兵の狼藉を静めよ、との仰せが出され、その使者として壱岐守朝親いきのかみともちかの子、壱岐判官知康ともやすが立てられたが、彼は天下に聞えた鼓の名手であったので、鼓判官と呼ばれていた。この鼓判官が義仲を訪ねて対面し、法皇の仰せを伝えたが義仲はこれに対する返事もせずにせせら笑った。
「いったい鼓判官というのは皆の人に打たれなさったのか、それとも張られなさったのか」
 この無礼な言葉に知康はむっと押し黙まり、そのまま法皇の所に急ぎ帰ると、
「義仲は大馬鹿者でございます。一刻も早く追討遊ばしませ。今に朝敵になりましょう」
 と申しあげた。法皇はすぐ決意したが、しかるべき武士にはこれを命ぜず、叡山の座主、三井寺の長老に命を下して、ここの悪僧どもを召し集めた。また公卿、殿上人の集めた軍勢もあったが、どれもとるに足らぬ浮浪者や乞食法師ばかりで、子供たちと小石遊び位しか出来ぬ烏合の衆であった。そのうちに、この密かな情報を耳にした信濃源氏の村上三郎判官代が、義仲に叛旗をひるがえして法皇の側についた。間もなく法皇は義仲に対して不信の念を持たれているという噂が広まると、最初は義仲に従っていた五畿内の武士も彼から離れ、義仲も孤立の形勢になってきた。これを重視した今井四郎は主君にいった。
「これは殿、非常な大事件でございますぞ。さればとて天皇に向かい申して、弓引く訳にも参りませぬ。もはや仕方ございませぬ。かぶとをぬぎ、弓のつるをはずして降参なされませ」
 すると義仲はその言葉に耳もかさず、まるで今井四郎が敵ででもあるかのように目をむいて睨むと、声高にいい放った。
たわけたことをいうな。われは信濃を出てから小見おみ合田あいだの合戦を初めとし、北国では礪並となみ、黒坂、塩坂、篠原、西国では福隆寺畷ふくりゅうじなわてささせまり、板倉城と攻めたが、一度たりとも敗けたことはない。たとえ相手が天皇であられても同じことじゃ、兜をぬぎ、弓の弦をはずして降参することなど出来るものか、もっての外じゃ」

法住寺合戦


 昂然こうぜんとして戦う決意を明らかにした義仲は、さらに語を継いだ。
「たとえば都の守護に任ずる者が、馬の一匹も飼いこれに乗らなくて何でその職が勤まる。田圃たんぼなど幾らもあるのだ、刈ってまぐさにしてなんで悪い、馬には食わせなくてもいいというのか、法皇がお咎めになるのは筋違いじゃ。そして兵の食糧も少いのだ、食う物がなくなった若い兵どもが、西山や東山で多少人家の物を取ったりしても大騒ぎすることはないのだ。大臣家や宮方の御所へでも押し入ったのなら話は別じゃ。これは、どう考えても鼓判官の讒言と思われる。あの鼓の奴めを打ち破れ。今度こそ、義仲最後の軍となるであろう、それに頼朝への聞えもある、者ども合戦準備をせい、おくれをとるな」
 というが早いか、さっと立ちあがった。下知が次々と下され、軍がたちまちのうちに編成された。北国の勢は初め五万余騎といわれたが、その後、本国などに逃げ帰った者も多く、義仲の手許にあるのは僅かに六、七千騎だった。義仲はいくさの吉例であるといって、勢を七手に分けた。まず樋口次郎兼光に二千余騎を与えて新熊野の方から敵の背後に向わせた。残る六手の勢は各宿所から一斉に出発、六条河原で合流せよと指示を与えて進発させた。味方同志の目印として松葉が兵につけられた。
 合戦は十一月十九日の朝である。法皇の御所法住寺殿には、軍兵二万余が立て籠り攻撃を待ち受けているという。義仲は法住寺殿の西門に押し寄せて見れば、法皇勢の指揮を命ぜられた鼓判官知康が御所の西の垣根の上に立ち、赤地の錦の直垂に四天王と書いて貼った兜だけをつけていた。義仲の勢を見るとほこと金剛鈴を左右の手に持ち、鈴を打ち鳴らし、時には奇妙な舞を見せるなど、とても常態とは思えぬ。公卿、殿上人がこれ見て、
「知康には天狗でもついたのか」
 と苦笑いを浮べていたが、知康は一向頓着せず狂ったように鉾と鈴を振り廻しながら舞いつづけ、これでも軍の士気を鼓舞しているつもりであった。やがて鼓判官は寄手に向って形相物凄く大音声をあげた。
「朝敵の者どもよっく聞け。昔、宣旨を読めば、枯れた草木も花をつけ実を結んだ、飛ぶ鳥も落ち、悪鬼悪神もこれに慄えて従ったものだ。末代とはいえ、天皇に対し弓矢をもって向い奉ることが出来ようか。汝らの放つ矢は汝らの身に立つであろう。太刀抜けばわが身を斬るであろうぞ」
 といって罵った。義仲はこれを聞いて、
「破れ鼓め、気が狂いおったか。彼奴きゃつの広言を許すな」
 この下知に寄手はどっとときの声をあげた。
 この鬨の声に応じて法住寺殿の裏手から鬨の声が起った。新熊野より搦手に廻った樋口次郎兼光の率いる二千余騎の声である。義仲と共にあった今井四郎兼平、しばし敵陣を睨むと、やおら背のえびらより鏑矢かぶらやを取り出し、その中に火を入れて弓につがえた。きりきりと引きしぼって放つと、火を吐きながら飛ぶ鏑矢は法住寺殿の御所の棟に立った、と折柄の烈風にあおられた火の手は忽ち虚空に立ち上った。法住寺は火焔に包まれ、黒煙は風と共にここに籠る軍勢の上に逆巻いた。法皇勢の指揮官であった鼓判官は、青くなって真先に逃げ出した。指揮官が逃げ出す騒ぎであるから、ここの二万余騎も俄かに浮き足立ち、背後から火焔に迫られてわれ先にと逃げ出した。もとより急募してかき集めたのが大半の軍勢である。混乱はひどかった。弓取るものは矢を忘れ、矢を抱く者は弓を捨て、長刀を逆さまに抱いて駆けんとすればわが足を刺し、弓の先を物に引っかけてじたばた騒ぐ者もあった。法皇勢は鏑矢一本の火で崩壊に陥った。わめき叫びながら逃げ落ちる兵たちは、京の街路を必死に駆けた。七条通りのはずれには摂津の源氏が守っていたが、彼らは、
「落人あらば、用意して打ち殺せ」
 との院の命を受けていた。そこへ法住寺殿から逃げてきた摂津の源氏がさしかかった。屋根に楯を並べ、屋根の石を集めて待っていた勢は、それ落人ぞとわめき立ち、石を拾って投げ、投げられぬ石は転げ落した。驚いた摂津の源氏は、
「院方であるぞ、院の勢ぞ、まちがいするな」
 と口々に叫んだが、
「いわせるな、奴らの嘘は聞くまいぞ、院のご命令ぞ、打ち殺せ、打ち殺せ、一人とて逃すな」
 といっては、激しく石を投げつけた。たちまち頭を割られる者、腰を打ち折られる者、馬より落ちて這って逃げる者、そのまま死ぬ者などが多かった。また八条のはずれを叡山の僧が守っていたが、恥を知る者はここで死に、恥知らずは逃げ散った。
 ここに主水正親業もんどのかみちかなりという者が、薄青の狩衣の下に萌黄縅の腹巻を着こみ、白月毛の馬にまたがり、河原を上に逃げていたが、これを追ったのが今井四郎兼平、馬上にて矢をつがえ満月に引きしぼってひょうと放てば、狙い誤たず親業の素っ首を射当て、そのまま馬より逆さになって落ちた。この親業は清大外記頼業せいだいげきよりなりの子である。明経道みょうきょうどうの博士の子が甲冑を身につけたのはこれが始めてであるという。また法皇勢のうち、近江中将為清、越前少将信行、伯耆守ほうきのかみ光綱、その子の伯耆判官光経も義仲の武士たちに射落され首を討たれた。そして義仲にそむき院方へついた信濃源氏の村上三郎判官代も討ち取られた。按察使大納言資賢あぜちのだいなごんすけかたの孫、右少将雅賢まさかたも鎧に立烏帽子という姿で出陣していたが、樋口次郎兼光の手にかかって生け捕りにされた。天台座主明雲大僧正、三井寺の長吏円慶えんけい法親王は院の御所に立て籠っていたが、火に追われて馬で逃げ出すところを源氏の兵が見つけて矢を散々に射かけたので、ついに馬から落ちたところを二人とも首をあげられた。
 法皇も御輿に乗って出ようとしたところへ矢を雨のように射られた。慌てたお供の豊後少将宗長が、
「これは法皇の御幸であるぞ、過ちするな」
 と叫んだので、武士どもは馬から降りて輿のそばにかしこまった。法皇が、
「何者ぞ」
 と尋ねれば、
「信濃国住人八島四郎行重」
 と名乗り、輿は武士の手に引き取られ、法皇を五条内裏へ押しこめて、厳重警護した。
 豊後国司刑部卿三位頼資よりすけも御所にいたが、黒煙に追い出されて、河原へ逃げ出した。このとき、武士の下部しもべたちが彼を襲い衣類一枚残らず剥ぎ取ったので、真裸のまま寒風にさらされて呆然ぼうぜんと立っていた。頃は十一月十九日の朝であるから寒さもきびしい。河原に素っ裸の三位を見つけたのは三位の兄の家来である雑役法師で、軍見物をしようとうろうろ出かけた時に偶然見つけたのであった。急ぎ走り寄って、白い法衣二枚重ねて着ていたので一枚をぬぎ三位に投げかけた。短い法衣一枚で帯もない姿の三位は、白衣の法師を供にして街を歩き、
「あれは誰の家か、これは何者の宿所か」
 などといって立止るので、見る人たちは手をたたいて笑い転げた。
 一方、天皇は池に舟を浮べこれに乗られて難を避けられたが、義仲の武士たちは舟を目がけて矢を射ちかけたので、お供で乗っていた七条侍従信清、紀伊守範光が、
「天皇がおいで遊ばすぞ、過ちするな」
 というと、武士たちは馬から下りて畏まった。そこで天皇は閑院殿へ行幸されたが、そのみすぼらしさはとても言葉ではいいえなかった。
 院の味方につき、法住寺の西の門を五十騎ばかりで守っていた源蔵人仲兼のところへ、近江源氏山本冠者義高が戦塵にまみれ、汗びっしょりの馬に鞭をあててやってきた。
「おのおの方、一体誰を守らんとしてここにおられるのか、すでに院も主上も他所へお出でになられましたぞ」
 という。さらばわが手並のほど見せてくれんと、仲兼は五十余騎を引きつれると群がる敵陣の中へ割って入った。ここを死場所と暴れ廻り数多の敵を討ち取ったが、囲を破って脱出した時は主従僅かに八騎。この中の一人に河内の日下党くさかとう加賀房かがぼうというものがいたが、彼の乗る馬は月毛の荒馬、口力強くて御しにくいことおびただしい。そこで加賀房はいった。
「殿、この馬はかんが強すぎて私には手に負えませぬ」
 仲兼はそれならばと、自分の乗っていた栗毛の尾の先の白くなった馬を与えた。折から河原坂に義仲勢の根井小弥太が二百余騎ばかりで控えているのを認めるや、この中に八騎で突入した。敵中を突破すると、主従五騎に減っていた。折角馬を替えて貰った加賀房はこの戦闘で死んだ。
 源蔵人の家臣に次郎蔵人仲頼というものがあったが、栗毛の馬で尾の先の白い奴がとぼとぼこちらへ歩いてくるのを見つけた。下部を呼んで、
「確かこの馬は源蔵人の馬と思うが、違うか」
「いや、その馬でございます」
「矢張りそうか。この馬はどこの陣へ行ったのか、どこから出て来たか、お前知っているか」
「源蔵人様は河原坂の敵の中へ駆けこまれました。この馬はそこから飛び出して来たのでございます」
「うむ、遅かったか。殿はもはや討死なさったであろう。幼少竹馬の昔から、死なばもろともにと誓いあったのに、この期に及んで死ぬる所が別々とは無念じゃ」
 といって使いを源蔵人の妻子のところにやり、彼の最後の様子を報告させると、次郎蔵人仲頼はただ一騎河原坂へ馬を駆って、勝ち誇る敵の中に躍り入ると大音声をあげた。
「われこそは敦躬親王あつみのしんのうより八代目の後胤、信濃守仲重の子、次郎蔵人仲頼と申す生年二十七歳の者、われと思わん人は寄り合え、見参せん」
 と太刀を振りかざし、縦横無尽に敵の中を駆け破り駆け廻り、敵をあまた討ち取ったが、自分もここで討たれた。一方源蔵人はこれを少しも知らず、兄の河内守仲信とともに主従三騎で南を指して落ちていった。摂政基通も戦火を避けて都を出ると、宇治へと逃げ出して来たが、遠くからこれを認めた仲兼が疲れた馬に鞭打って木幡山こばたやまで基通に追いつき、馬から下りて畏まった。基通らは恐れおののいていた。そこへ塵にまみれ、返り血をあびた武士が前にかしこまったが、木曽の残党としか思えなかった。
「何者ぞ」
 と勇を振って聞いた基通に、
「仲信、仲兼」
 と答えると、喜色がたちまち摂政の顔にのぼった。
「そちたちも伴をせよ」
 と感激した基通にいわれて、宇治の富家殿ふけどのまで送り、自分たちは河内の国へ落ちていった。
 かくて戦闘は一日で終った。その翌二十日、木曽左馬頭義仲は六条河原に立ち、昨日斬った首をみなかけ並べ、しるしをつけて数えてみると六百三十あまりあった。この中には天台座主明雲大僧正、三井寺の長吏円慶法親王の首もあった。これを見て思わず泣く者が多かった。やがて義仲は軍勢七千余騎を集めると、馬の頭を東にめぐらせて、天にも響き地をも揺がす鬨の声を三度あげた。この声は京都の街々にも轟き渡り、人々は何事かと大騒ぎしたが、義仲勢の勝利の鬨と知って、やっと胸を撫で下ろしたのであった。
 故少納言入道信西の子息宰相長教さいしょうながのりは、法皇のいられる五条内裏へ参上して門から入ろうとしたが、警備する武士たちが遮って入るのを許さない。そこで長教は勝手知った所だけに付近の小家に入り頭を剃り、墨染の衣を身にまとって再び五条内裏へ現れた。
「かく出家したからには差支えがもはやあるまい、開けて入れよ」
 といえば、武士たちもようやく許した。長教が泣くなく法皇の御前に現れると、この合戦で討たれた主な人々のことを申し上げた。法皇は、
「明雲が非業の死を遂げるとは露とも思わなかった。このたびは、とても助からぬこのわしの代りになってくれたのだ」
 と御涙を押えかねておられた。
 十一月二十三日、三条中納言朝方ともかた以下四十九人が官職を解かれ、押しこめられた。平家の時は四十三人であったから、平家の悪行よりもひどいということになろう。義仲はまた前関白基房の姫君を無理に貰い受けると、強引に関白の婿になってしまった。その当日義仲は家臣どもを集めて評定した。
「この義仲、一天の君に向い奉って、戦に勝った。さてわしは主上になったものか、法皇になったものか、ま、今は思いのままじゃ。法皇になろうとは思うが坊主になるのは面白くない、主上になろうと思うがわらわになるのは困る。どうじゃ、それなら関白になろうと思うが」
 といえば、書記役として連れていた大夫坊覚明が[#「大夫坊覚明が」はママ]進み出た。
「関白には大織冠鎌足公の御子孫藤原氏の公達がなられるのが定めにございます。殿は源氏ですから関白はかないますまい」
 といえば、義仲は、あっさりと、
「さらば止むを得ぬ」
 と院の御厩おうまやの別当となり、丹波国を領した。院が出家されると法皇と申し、主上が元服されぬうちは童の髪形であられることを、義仲は今まで知らなかった。
 そのうちに、鎌倉にいる前右兵衛佐頼朝は義仲の都における狼藉を静めようと、範頼のりより義経よしつねに六万余騎を率いさせて上ったが、すでに京に戦闘が起り、御所、内裏みな焼き払われ、天下は暗闇となったということが伝わったので、すぐに今、都へのぼっても軍のしようもあるまい、と軍勢を尾張の熱田のあたりに止めて形勢をうかがっていた。そこへ上皇に仕えていた宮内判官公朝くないはんがんきんとも藤内判官時成とうないはんがんときなりが京都の義仲の暴挙を訴えようと尾張へ馳せ下ってきた。範頼と義経は、
「それは宮内判官ご自身が鎌倉へ下って直接申された方が宜しいと存ずる。われらより使いを出してもよいが、事情をよく知らぬ者がいって色々尋ねられても困ることが多かろう」
 といった。そこで公朝は、今度の合戦で部下が皆討たれてしまったので、十五歳になる息子公茂きんもち一人を連れて昼夜兼行の旅を続け、鎌倉へ着き、ことの子細を頼朝へ訴えた。
「鼓判官知康がつまらぬことを申し立てて主上を悩まし奉ったのみならず、多くの高僧、貴僧を失ったのはかえすがえすも惜しいこと、また不埒な振舞じゃ。こういう者を今後も召し使われれば、天下の騒動は絶ゆることはあるまい」
 と頼朝は宮内判官の報告を詳しく聞いた後でいった。これを伝え聞いた鼓判官は、青くなると共になんとか申し開きをしようと、これも夜を日についで鎌倉へ馳せ下った。頼朝に面会を求めた鼓判官は、そのまま、あっさりと断られてしまった。そこで梶原平三景時かじわらへいぞうかげときを頼って、なんとか己れの弁解を頼朝に伝えてもらおうとしたが、
「彼奴などに会うな、相手にもなるな」
 という頼朝の言葉に誰も鼓判官の相手にならぬ。毎日毎夜頼朝の館へ通いつづけたが、所詮徒労であった。そして遂に面目を失い都へ逃げ帰って、辛うじて命だけを永らえて稲荷いなりの付近にわび住いしていたという。
 こうした状勢に京の義仲は苦慮した。腹背に敵を受け、全く孤立した形である。それに手勢も少くなる一方である。現在の拠点である京も政治的に極めて不安定である。死中に活を求めようとした義仲は、西国の平家へ急使を送った。
「急ぎ上洛せられよ。共に一つになり関東へ馳せ下り、兵衛佐を討たん」
 という主旨が伝えられた。この使いに平家の宗盛をはじめ一門のものは大いに喜び、これでわれわれも助かると今にも上京しそうな様子であったが、その中で新中納言知盛は断固としていった。
「たとえ末世になるとも、義仲の如きに瞞されて都に上るなど、どうして出来よう。天子が三種の神器を持たれてわれわれと共にある以上、義仲に降参せよと、こちらから申すのが本筋でありましょうぞ」
 この知盛の気魄に押されて平家一門はたちまち義仲降伏説に賛成した。そこで宗盛は義仲の使者にこの旨伝えよと申し渡した。無論義仲は平家の申し入れを黙殺した。こうした中で入道の松殿は義仲を自邸へ呼ぶと、いんぎんに諫めた。
「入道清盛公は悪行の多い人ではあったが、稀代の善根を積まれたので、二十余年も世の中を平和に保たれたのです。悪行ばかりで世を治めることはできぬはず、ですからさしたる理由もなく押しこめた人々の官職はみな許されたがよいでしょう」
 といわれて、義仲も考え直した。荒夷あらえびすのような彼も松殿の意見に従い、押しこめた人々をみな許したのであった。これと同時に松殿の子息師家がこの時まだ中納言中将でいたのを、義仲のはからいで大臣摂政に推挙した。おりから大臣の欠員がなかったので、徳大寺実定が内大臣であったのを借りて、師家を大臣に据えたのであった。これについて世間はうるさかった。新しい摂政を仮の大臣などといっていたのである。この年十二月十日に、法皇は五条内裏をお出ましになられて、大膳大夫成忠なりただの宿所、六条西洞院にしのとういんへ移られた。同十三日年末の御修法あり、その日任官式が行なわれたが、義仲の一存で人々の任免を思うままに行なった。
 平家は西国に、義仲は京都に、頼朝は東国にと、それぞれ勢力を張り、互ににらみ合いをつづけていた。戦乱と共に中央からの諸国への威令も行なわれず、各地で群将が割拠したため、京都へ通ずる四方の関所も閉鎖同然の有様であった。朝廷への年貢も絶え、一般の物資も欠乏していた。狭い土地に閉じこめられた京の人々は、さながら水溜りの中にあえぐ魚のように頼りなかった。
 戦乱に終始した年も暮れた。明くれば寿永三年である。





底本:「現代語訳 平家物語(下)」岩波現代文庫、岩波書店
   2015(平成27)年4月16日第1刷発行
底本の親本:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社
   1960(昭和35)年2月12日初版発行
初出:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社
   1960(昭和35)年2月12日初版発行
※「按察使大納言資賢」に対するルビの「あぜちだいなごんすけかた」と「あぜちのだいなごんすけかた」の混在は、底本通りです。
※第三巻「按察大納言資賢あぜちのだいなごんすけかた」と第八巻「按察使大納言資賢あぜちのだいなごんすけかた」の混在は、底本通りです。
※灌頂の巻「玄弉三蔵」と第八巻「玄奘三蔵」の混在は、底本通りです。
※第四巻「脩範」と第八巻「長教」の混在は、底本通りです。
※著者名は、本来は「尾※(「山+竒」、第3水準1-47-82)士郎」です。
入力:砂場清隆
校正:みきた
2022年7月27日作成
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