寿永二年七月二十四日夜半、後白河法皇は
「ここはまだ都から近うございますので、危険でございましょう」
と口々にいうので、さらに奥へ入った。笹の峰、薬王坂などの険しい道を進み、ようやく
「
というのである。難をさける身であるから、再び東塔の南谷にある円融坊に行かれ、そこを御所とされた。そこへ武士、寺僧たちが集まって御所を厳重に守護した。しかし、ここにもすでに多くの噂が伝わっていた。天皇は平家と共に西海に落ちられ、上皇は吉野の奥に身を隠されているという。女院や宮々も
そのうちに、法皇が比叡山におられると聞き伝えた殿上人たちは、われもわれもとお迎えにかけつけた。入道殿と当時いわれた
法皇は二十八日都へもどられた。この時は木曽義仲が勢五万余騎を引き連れて守護したが、
そして義仲、行家はただちに院に呼ばれた。
そのとき幼少の天皇が、外戚の平家に連れられて、西海の波の上に流浪されているのを法皇は嘆き、天皇と三種の神器とを無事に返せと度々西国にいる平家に申し伝えていたが、無論平家は一向に聞き入れなかった。ところで、先帝高倉天皇には四人の皇子があり、一人は安徳天皇で、二の宮は皇太子にしようと平家が連れて落ち、都に残ったのは三の宮と四の宮であった。八月五日、法皇は二人の宮を院に呼んだ。皇太子決定のためである。まず五歳になった三の宮をそばに呼ぶと、
「これこれ、どうじゃな」
といえば、しばし老人の顔を見つめた三の宮は、急に
「可愛い子じゃ。縁もゆかりもない子供が、この老法師を見てこんなに懐しそうにするのは、わしの本当の孫に相違ないからじゃ。この笑顔も高倉院の幼いときを思い出させる。これほどの忘れ形見を今まで会いもせずにいたとはなあ」
と、四の宮を愛撫しながら、涙を押えることが出来なかった。
浄土寺の二位は、この時まだ丹後といっていたが、法皇の御前にかしこまった。
「では、御位はこの宮でいらせられましょう」
といえば、
「いうまでもないことじゃ」
こうして皇位継承は短時間のうちに決定した。内々で占わせてみると、四の宮即位せば百代の後までも日本の
この信隆には娘が多かったが、そのうち一人でも女御か后にでもと、かねてから願っていた。あるとき、白い鶏千羽飼えば、その家から必ず后が出る、という話を聞き、家に白い鶏千羽を養った。そのためか、娘がはからずも皇子をたくさん産んだのであるが、信隆は皇子が誕生しても、平家や中宮に遠慮して皇子を大切には扱わなかった。これを清盛の奥方の二位が聞き伝えた。
「よいよい、構うことはない、私がお育てして皇太子にしてさし上げましょう」
と乳母までつけ、大切に育てたものであった。
その皇子たちの中でも四位の宮は、清盛の奥方の兄、
「四の宮をおつれ申しあげて、共にわが許に参れ」
という。彼の妻はひどく喜び、急いで支度を終えると四の宮を連れて邸を出て、西の七条まで来た所に、妻の兄であった紀伊守範光が懸命に引止めたのであった。
「そなたは気でも狂ったのか。こんな気狂いじみたことをされてはいかぬ。この宮のご運、今にも開け給うというのに、何ということをされる」
その翌日、法皇からお召しの使いが四の宮のところに来た。およそ物事には定められた成行きということはあるが、この四の宮の運命を守った功績の人といえば、紀伊守範光をあげることができよう。とはいえ、四の宮は範光の忠義を心にとどめていないのか、何の沙汰もなく空しく月日がたってしまった。
ある時、範光はもしやと思って歌二首を詠み、宮中に
一声はおもい出て啼 けほととぎす
おいその森の夜半の昔を
籠 の中 もなおうらやまし山がらの
身のほどかくすゆう顔のやど
おいその森の夜半の昔を
身のほどかくすゆう顔のやど
四の宮はこれをお聞きになった。知らなかったのは我が身の愚かさゆえ、と範光を召すとただちに正三位に任ぜられた。
寿永二年八月十日、木曽義仲は
さて、翌十七日、平家一族とその勢は筑前国三笠郡太宰府に着いた。ようやく一息ついた一行に京都より従っていた菊池次郎高直は、肥後の国境大津山の関所を開いてお迎えの準備をしたいと願い出ると、すぐ肥後に一人でもどっていった。国に帰った彼は自分の城に引きこもると、一向に迎える準備もしなければ、部下を連れて太宰府を守りに来る様子もない。不安を感じた平家からの度重なる使いにも返事はなかった。次郎高直の離反は今や決定的である。その他、九州全域の侍たちは、われらは平家の味方、天皇のおんために馳せ参ずる決意、などと立派な返事を出しながら、誰一人として太宰府に来る者はいなかった。ただ一人、
十八日、平家は安楽寺へ参拝して、夜もすがら歌を詠み、連歌をするなど神を祭っていたが、その中で本三位中将重衡が悲痛な歌を詠んだ。逆境に神を祭り、歌を詠んで僅かに心を慰めていた時、俄かに人々の心底を衝く歌が現れた。人々は辛い現実に再び立帰ると共に身の不遇を泣き、あらためて望郷の念にかられたのであった。
住みなれしふるき都の恋しさは
神も昔におもい知るらん
神も昔におもい知るらん
そして二十日には、京で法皇の
天に二つの日なし、国に二人の王なし、というが、平家の悪行のために京と
四の宮即位の情報は、間もなく九州の平家に伝わった。安徳天皇を擁し三種の神器を抱えこんで、錦の御旗は手中にあるはずの平家も、落目となってはこの即位の話ほど衝撃をうけたものはなかった。共に帝皇をいただいてその正統性を現実に証明するとなれば、恐らく武力以外にはあり得ない。さればといって事態はすでに
「ああ残念なことをした、こうなると知っていたなら、三の宮も四の宮もこちらがお連れして来ていたものを」
こうした声が幾度なく互に交されて、何時止むとも知らない。一門の者は、愚痴をいうことが身の上の慰めでもあるかのように嘆きあった。ついにこれにたまりかねたか平大納言時忠は、きっとした口調で話しはじめた。
「今更悔いても
「お言葉ですが、出家された宮が還俗されたとしても、その宮を皇位におつけすることは出来ますまい」
と人々はこの論理に救いでもあるかのように語調を強めた。
「それはそうかもしれぬ。しかし還俗された方が帝位につかれた例は異国にもあるのじゃ。またわが国にもある。天武天皇がまだ皇太子であらせられた時、大友皇子に襲われて髪を下しご出家になって吉野の奥へ難を避けられたが、後に大友皇子を亡ぼされ御位につかれた例もあるのじゃ。また、孝謙天皇も、あるとき大菩提心を起されて出家遊ばされ、
時忠の言葉は、人々を直ちに説得はしなかったが、もし都に新帝を樹立する決意があれば、その方法は幾らでもあるという現実に目覚めさせたことだけは事実である。一同は自分たちの奉ずる天皇の存在は忘れて、専ら都の新帝即位の事態に悩み果てていた。
九月三日、都の法皇は伊勢へ公卿の勅使を立てられた。その使いは参議
平家は九州で都を定め、内裏を造ろうと評議を重ねてはいたが、とても実行には至らなかった。天皇はこの頃、
世の中の憂さには神もなきものを
何祈るらん心づくしに
何祈るらん心づくしに
宗盛、はっと目覚めて姿勢を正した。奥からの声は一度きりである。しきりに胸騒ぎがする。不吉な影が身うちをよぎる。お告げの意味を考えて忽ち暗然とした表情になった。それにしても意外な夢のお告げである。この世の
さりともと思う心も虫の音も
弱り果てぬる秋のくれかな
弱り果てぬる秋のくれかな
こう古歌を口ずさむ宗盛の顔にはしかし諦めたような穏かさがあった。宗盛はこの夢のお告げを誰にももらさなかった。やがて参籠がつつがなく終った。喜びの一行と共に太宰府へ向う彼の顔は、
九月も十日を過ぎた。配所に月を見る思いの平家一族には、秋風が身にしみた。
薩摩守忠度の歌、
月を見し去年 の今宵の友のみや
都に我を思い出ずらん
都に我を思い出ずらん
修理大夫経盛の歌、
恋しとよ去年 の今宵の夜もすがら
契りし人の思い出でられて
契りし人の思い出でられて
皇后宮亮経正の歌、
分けて来 し野辺の露とも消えずして
思わぬ里の月を見るかな
思わぬ里の月を見るかな
九州の
「九州の地へ落ちた平家は、すでに神に見離され君にも捨てられたるもの、帝都を逃げて今や波の上に漂う
という文面である。そこで頼経はこの国の住人
この緒方三郎惟義というのは、ただ者ではない、恐ろしい者の
「お前のところに来る者は、どんな男じゃえ」
と尋ねると、
「来る時は見まするが、帰る時は知りませぬ。暁方何時とは知らず帰ってしまわれるのです」
と答えた。ともかく娘の男の素姓を知らねばならぬ。そこで母は知恵をさずけた。その夜、男は何時ものよう、水色の狩衣姿で娘のところに現れた。娘は男に悟られぬように狩衣のえりに針をさし、麻糸の玉の緒を結んだ。男は常と変らず優しかった。一夜が明けると、もう男の姿はなかったが、
「貴方のお姿を一眼でもと思って、ここまで尋ねて参りました」
といえば、はたとうめき声が止んで、しばらくしいんとしていたが、やがて岩屋の中から太い声が聞えた。
「わしは人の姿をしておらぬ。お前はわが姿を見れば肝も魂も飛ぶ驚きをするだろう。どうかわしの子を産んでくれい、お前にできる子は男の子だ、弓矢、剣を取らせれば九州に並ぶ者なき者になるはず。わしの姿などはどうでもよい、無事に帰って子供を頼む」
しかし娘は重ねていった。
「どのようなお姿でありましょうとも、私には常々のお情けを忘れることはできません。一眼でもと思いつめて、私はお尋ねしたのです。どうかお姿を見せて下さい、昼の私はお気に入らぬのですか」
岩屋の奥では物音一つしなかった、娘は石のように立ち尽して返事を待っていた。すると岩屋から地響きの様な音が伝わってきた。忽ち一行の前に、とぐろのさしわたし五、六尺、頭から尾まで十四、五丈と思われる大蛇が這い出してきた。その
さて緒方三郎惟義は、この大太の五代目の孫である。不敵で、行なうことがすべて大胆である。頼経の命を受けるや、直ちにこれを院宣である、従わなければ朝敵の汚名を受くるぞ、と号して九州中へあまねく回し文をした。そのため相当な武士までも惟義の命に従わざるを得なかった。惟義の先祖である大蛇は、日向国で尊崇されている
太宰府に落ちて、やや小康を保った平家は、九州に都を定め、皇居を造るべきであるなど、公卿たちが相談してはいたが、
「あの緒方三郎は小松殿の家来であった者です。小松殿の若君のどなたか一人出向かれて、彼をなだめられたら如何でしょう、主筋の方のお言葉なら必ずや聞き入れると存じますが」
これは名案であると、新三位中将資盛が五百余騎を率いて豊後に向った。惟義と会見した資盛は言葉をつくしてなだめたが、惟義は一向に従わない。
「折角のお頼みですが、惟義はっきりお断り申し上げる。私はこのまま貴方様方を捕えたいとさえ思っております位。しかし大事を前に控えての小事は、今問題になりません。小勢の貴方たちを捕えようと帰そうと、大勢には影響いたしません。このままお帰りになっても、今後大したことはお出来になりますまい、そう思うて捕えないだけです。ともかく、さっさとお引取り願いたいものです、太宰府の方々がこれからどうなろうと私は知りませんぞ」
といって追い帰した。資盛が失望の色を浮べて太宰府に帰ってくると、これを追うように惟義の次男、野尻次郎惟村が使者としてやってきた。
「われわれはかねてから平家の重恩を受くる身にございますれば、主君に向うことなどできませぬ。兜をぬぎ、弦をはずして降るべきとは存じまするが、後白河法皇のご命令には、平家を速かに九州の地より追い出せ、とのことにございます」
この言葉に平大納言時忠は、緋色の緒のついた袴、
「ここにいらせられる君は、天孫より四十九代にあたる正統、人皇八十一代の帝であられるぞ。天照大神、正八幡宮もこの君をお守り遊ばされておる。また、故入道清盛殿は、たびたびの乱に逆賊を鎮め、九州の者たちも内裏へ召すなど、多くの恩賞を与えられておられた。この恩を忘れ、東国の叛徒頼朝や北国の凶徒義仲に瞞されて、勝ったなら国を預けよう、荘園を与えようなどいう言葉を信じ、
この時忠の言葉の中で鼻豊後というのは、豊後の国司刑部卿三位頼資が大きな鼻の持主であったからである。惟村は急ぎ帰ると父にこれを伝えた。惟義はふふんと嘲笑った。
「まだ勝手なことを抜かしおる、落ち目になっても大きな口をきく奴じゃ、昔は昔、今は今だ。そういうつもりならこちらにも覚悟がある、よろしい兵を集めろ。大軍で一挙に追い出してくれよう」
と、ほとんど最後は怒気をふくんでいい放った。惟義の下知が八方に飛び、各地から兵が呼び集められた。噂を聞いて公卿たちは怯えたが、憤然と起った武士もいた。源大夫判官
「彼奴のような者をそのまま捨て置いては、今後のためにならぬ。後輩への影響も少くない。まことにけしからぬ奴じゃ、召し捕えて参りましょう」
と兵三千余騎を連れると筑後国を越え、
そのうちに太宰府に、惟義が三万余騎を以てすでに寄せるとの報が伝わった。平家は取るものも取りあえず、慌てて逃げ支度をはじめた。折からの豪雨の中、混乱を極めた落ちようであった。あれほど心頼みにした天満天神の
さて、
まもなく平家は
十月の頃である。小松殿の三男の
「都は源氏の勢に攻め落され、九州からは惟義に追い出された。網に囲まれた魚のように逃げ場もないのがわれわれじゃ。何処に逃げても同じこと、行先にはまた憂きことが待構えておろう。生き永らえても詮なき身じゃ、わが身ももはやこれまでか」
といって供の顔を見て淋しく微笑んだ。やがて静かに読経をし、念仏を唱えるが早いか、清経は身をひるがえして海に飛びこんだ。月明らかな海原の波が割れて清経の姿は消えた。月の光を浴びた彼の姿は美しかったと、涙ながらに供の女は語っていた。
長門国は、新中納言知盛の所領であった。ここの
波に揺られる船上の御所に、安らかな時のある筈はない。磯の小屋に夜を過す平家も心の安らぎはなかったのである。月を浮べてたゆとう海のようにその憂いは深く、霜をいただいた葦の葉のように脆い運命である。
一方、鎌倉の前右兵衛佐頼朝の武勇の名は一日ごとに高まっていった。そこで鎌倉にいたままで、征夷将軍の院宣を賜わることになった。その使いは
「この頼朝は武勇の誉によって、関東にいながらにして征夷将軍の院宣を受けたのだ。私人でこの院宣を受ける訳には参らぬ、若宮の拝殿で頂こう」
といって若宮へ行った。八幡宮は鎌倉の
院宣の受けとり手には誰がなるべきかの評定があり、三浦介
「唯今院宣を請け取らんとする者は何人か、名乗られよ」
というと、口を開こうとした三浦介がはっとなった。三浦介といえば頼朝の
「三浦荒次郎義澄と申す者」
と咄嗟に彼は名乗った。左史生が
この後、八幡宮の拝殿で泰定に酒がすすめられた。
翌日、泰定は頼朝の館へいった。内と外に侍の詰所があり、共に十六間の建物である。
「そもそも平家は、頼朝の威勢に恐れて都を落ちた。その跡に木曽義仲と十郎蔵人が入って来て、いかにもわが手柄顔に官位を思うままにあげ、領地の好き嫌いまで申すとは誠に奇怪至極の振舞い方じゃ。また奥羽の秀衡が
凜然たる頼朝の威に、泰定は感嘆したらしい。すぐさま、この源氏の棟梁に随身したい希望を伝えた。
「ここですぐ
と性急に申し出れば、頼朝は笑って、
「今の頼朝の身分として、おのおの方の名簿など思いもよらぬことじゃ。けれどそのおつもりなら頼朝も戴いておこう」
と頗る上機嫌である。しばらく雑談に時を過ごした泰定は、今日これから上洛したいというと、頼朝は今夜は当地に逗留せられい、といってきかない。ひきとめられた泰定が一夜泊まり、翌日頼朝の館へゆくと多くの餞別が彼に贈られた。
京にもどった使者の泰定は、旅装をとくのもそこそこにして法皇の御所に参上した。御所の御庭に畏まって、頼朝の様子や関東の武士たちの動静などを詳しく報告申し上げると、法皇は頼朝こそ頼りになる天晴れな武士じゃと大層感心された。また、泰定の話を聞いていた公卿殿上人も互に肯きあっては、頼朝を賞めそやしていた。公卿たちは武士の評判をあれこれ話していたが、このとき京の守護職にあった木曽義仲の批評に花が咲いた。頼朝に比べて何んという野育ちまるだしの男か、と嘲り笑われていた。義仲は色白く、顔だちもととのった偉丈夫ではあったが、立居振舞の無骨さ、いう言葉の聞き苦しさは、まったく田舎の山猿にひとしい。彼が二歳より三十の年を過ぎるまで、片田舎の信濃国木曽の山に育ったことを思えば、都風の優雅さも、洗練された作法も持ち合わせなかったのは当然であった。義仲は野人としての生地を何ら隠すことなく、天真爛漫に振舞っていたが、そのため滑稽な過ちは数かぎりなくあった。すぐれた武将であり、卓抜な戦術家でもあった彼も、都では女子供にも忍び笑いの対象とされていたのである。
その頃、猫間中納言光高という公卿がいたが、義仲に相談することがあったので彼を訪れた。家臣が、
「猫間殿が見えられました」
と義仲に取りつぐと、
「なに、猫が来た、猫がわしに会いに来たのか」
と大笑いして相手にならぬ。家臣が、
「いや、猫間中納言殿という公卿の方が、殿にご面会に来られたのでございます」
と笑いをこらえていったので、ようやく光高と会ったが、義仲は猫間とは呼ばずに猫という。
「猫殿が珍しく食事時に来られた、猫殿に馳走せよ」
「いえ、いえ、今はたくさんです」
と驚いて辞退するが、義仲は一向頓着しない。義仲は新しいものは何でも
「それ、ここに無塩の
と家来をせかせて、食事の支度をさせた。陪膳役は
「それをきたないと思召さるな、義仲の精進用の椀でござるよ、さあさあ」
中納言はここで食べなかったら、主人の気持を損ねるだろうと思って箸をつけたが、専ら食う真似ばかりである。そしてすぐに箸を置いた。
「猫殿は小食でござるな。いわゆる猫おろしとは御身のことじゃな、いや遠慮はご無用ぞ、さあどしどし召上り給え」
と大声に笑いながら食事をすすめる。進退極まった中納言は、いかにしてこの食事を食わないで済むかに懸命となり、肝心の用事も忘れてあたふたと逃げ帰った。
その後、義仲は院の御所へ出仕することになったが、官位ある者が直垂を着るのはよくないというので、急いで狩衣に替えた。野人の装束であるから、誠に奇態な出来上りである。烏帽子の先から袖のくくり方、袴の裾にいたるまで、とても見られたざまではなかった。その彼が鎧姿に弓矢を持ち、兜の緒をきりりとしめて馬にまたがれば、威風あたりを払う
「やれ
一方、牛飼は小牛健児が何を意味するかさっぱりわからなかったが、やれ、というからには車をやれに違いないと解釈を下し、牛に鞭をくれると五、六町も走らせた。折柄、今井四郎兼平が馬を飛ばして追いつき、
「なんで御車をこんなに走らせるのだ」
と怒鳴りつけた。この牛飼も内心ではしまったと思ったが、
「御牛の鼻力が余りに強いので、止めようとしてもどうしても止まりませぬ」
といって弁解した。牛飼はここで何んとか義仲の機嫌をとっておこうと考えたのであろう。
「その
というと、昇降口の木にむずとすがった義仲は、大いに感心した口調でいった。
「うむ、これは巧みな工夫じゃ、
院の御所に着いて、門前で車かけをはずさせ、車の後から降りようとした義仲に、京の者で雑役夫として院に召使われていた男が、
「車はお乗りになる時は後から、そしてお降りになる時は前からでございます」
というと、
「車だからというて素通りして悪い訳はあるまい、余計なことを申すな」
といって後から降りてしまった。この外なかなか面白いことが沢山あったが、皆は義仲を恐れて、殆んど口に出さなかった。またこの牛飼は生意気な奴、というのでとうとう斬られてしまった。
ところで、平家は讃岐の屋島に本拠を構えながら、山陽道八カ国、南海道六カ国、都合十四カ国を討ち従え、着々とその勢力の拡大を計って油断ならぬ状勢になってきた。義仲はこれを聞くと、安閑としてはおられぬ、平家勢のこれ以上増えぬうちに討ち破らねば、と討手の軍を編成した。討手の大将軍には陸奥の新判官義康の子、
「いかに四国の者ども、北国の奴ばらに生け捕りにされて、口惜しいとは思わぬか。まず味方の船を組め!」
さすが水軍に長じた平家である。千余艘の
遠矢が飛び交い、漕ぎ寄せては近い者同志の白刃が交叉した。鎧に固めた身である。海に落ちることはまず死を意味した。この水上の合戦では熊手が大きな武器となった。海は忽ち血汐に染まった。斬られる者、斬ろうとして足踏み外し海に落ちる者、熊手に引き落されて溺れる者、組み合って刺されるやそのまま敵と共に海へ転がり落ちる者、平家が足場を十分に利用して戦えば、源氏はその不利を歴戦の勇でおぎなった。
源氏の侍大将海野弥平四郎行広が討たれた。これを見た大将軍矢田判官代義清は、仇を討てと主従七人小舟に乗るや真先に進んで戦った。遠き者は矢で殺し、近き者は太刀で斬る鬼神の奮戦に、やがて小舟の弱い舟板が割れた。とみるみるうちに舟が沈んで、義清も海に消えた。平家は船に馬を乗せていたが、戦有利と見るや、船を傾けて馬を海に追い落し、海に泳ぐ馬を船に引き寄せ引き寄せ陸地へ向った。やがて馬の足が立ち、鞍の端が海面に浸るところまで来ると、一斉に馬に飛び乗った。教経以下五百余騎、水しぶきをあげて浜に駆けのぼり、喚声をあげて源氏の陣に襲いかかった。すでに大将軍、侍大将が討たれて指揮が混乱しているし、水上の戦いで味方の不利を見ていた源氏は、われ先きにと逃げ散った。天地に轟く勝鬨を、平家は此処に堂々とあげた。都を落ちてから最初の勝利であった。
水島の敗報を受けた京の義仲は、これは一大事じゃ、捨てては置けぬ、と自ら一万余騎を率いて備中へ馳せ下った。ここに一人の平家の武士がいた。備中の住人
あるとき、この瀬尾太郎が倉光三郎に向っていった。
「私は去る五月から死ぬべき身を助けられて参りました者、旧主のことなど今はもう忘れ果てました。今度合戦がございましたなら、だれよりも木曽殿にこの命を捧ぐる心にございます。ついては、兼康が所有しておりました備中の瀬尾というところは、馬を飼うに誠によい土地柄です。貴方がその地をお貰いになれば、随分とお役に立つことと存じます。私がその地をご案内仕りましょう」
この言葉に動かされた倉光三郎が義仲に伝えると、
「感心なことを申す奴じゃ。汝まず一足先にその地に行き、馬の草など用意させよ」
と命じた。そこで倉光三郎は手勢三十騎ばかりと、瀬尾太郎を率いて備中国へ向った。兼康の嫡子小太郎宗康も平家の味方であったが、父が義仲より暇をもらって帰ると聞き、以前から心を寄せる家来ども百騎余りを連れて父を出迎え、播磨の
この後、瀬尾太郎は自分の決意をこの付近の武士たちに伝えた。
「兼康は木曽殿から暇賜わって、この地まで下って参った。平家に心寄せる人は、今度木曽殿が参られれば、矢の一つでも射かけるがよいぞ」
この知らせを受けて、備前、備中、備後の武士たちが集ってきた。その殆んどが、馬や武具、元気な手下のものたちを平家に差し出し、自らは休養していた年寄りであったが、瀬尾の決意にうながされたか、柿色の古びた直垂の紐をつけ替え、布の小袖の裾をからげ、破れ腹巻をつづり合わせて着込んだ上に、山狩り用の
瀬尾に討たれた代官の下人どもは逃げのびて、京へこの事件を報告しようと上る途中、義仲に行き会った。下人の知らせを受けて義仲は、
「おのれ憎き瀬尾の奴め、思えばあのとき斬って捨てるべきであった。油断して奴に
と歯がみをして怒った。この時、今井四郎は、
「
というと、三千余騎を率いて、備前は瀬尾の居城へ急行した。福隆寺畷の道は細い一本道、幅が弓の長さ位で、その距離は西国道で一里、左右は深田で馬の足も立たぬ。今井四郎の軍勢も心はせいているが、どうにもならない。馬の足に任せて漸く着いた。寄手が来たとみるや、瀬尾は急いで高櫓にのぼり大声でいい放った。
「さる五月から、かいなき命をお助け下すった各々方に深くお礼申し上げる。よくぞお出で下さった。私のささやかなお礼心をお見せしたい」
と二十四本さした矢を弓につがえては放ち、つがえては放った。これを合図に瀬尾の勢からは矢が一斉に寄手の中に射こまれた。寄手は今井、宮崎、
この合戦に加わっていた倉光次郎成澄は、さる五月北国で瀬尾を生け捕ったものであるが、弟の三郎成氏を殺されて激怒していた。今度こそ再び
「そこに落つるは瀬尾とみた。武士とあろうものが敵に後ろを見せるのか。返せ返せ」
この声を聞いた瀬尾は、かつて己れを生け捕った敵を見た。板倉川を西へ渡り、川の流れに馬をとどめて待ち受けた。倉光次郎は鞭を振い、
「日頃は、千万の敵に向うとも四方晴れて、わが心に一片の雲だにないが、今日は小太郎宗康を捨てて行くからか、先が暗うてわしには見えぬ。この合戦に生きのびて、再び平家の軍に参るとも、「兼康は六十を過ぎる身なのに、あと幾つ生きようと思ってただ一人の息子を捨てて来たのか」と仲間にいわれるに違いない。これは心外なことじゃ」
「さればこそ、お二方そろってどのようにでもなされませ、と申したのはそのことでございます。お引き返しなされませ」
と家来がいえば、
「お前と運命を共にするのだ」
といえば、小太郎は泣いて父にいった。
「たとえ私がここで自害しましても、それは私が未熟者のためでございます。私のためここで父上が命を失われるのは、五逆罪となりましょう、私を捨ててどうかお早く落ちて下さい」
「小太郎よ、もうわしは決意したのだ」
というと、息子の傍らに腰を下して動こうとはしなかった。そこへ新手の源氏五十騎あまりがおめき叫んで追い迫った。瀬尾は射残した矢八本を引いては放ち、つがえては射た。この練達の速射に、生死はわからぬが源氏勢八騎が馬から落ちた。弓を捨てると抜いた太刀で彼は息子の首を討ち、敵の中へ駆けこむと武士の最後を見よと縦横に暴れ廻り、敵兵数多討ち取って死んだ。家来も瀬尾と共に散々に戦ったが重傷をうけて倒れ、その翌日死んだ。主従三人の首は備中の
「天晴れ剛の者、しばらく助けておきたかった」
と嘆賞したという。
義仲は
「殿ご不在の間、十郎蔵人行家殿は院のお気に入りとして、殿のことをさまざまに
というのである。容易ならぬ情報である。義仲は平家を目前に眺めながら考えた。ここで決戦を行なって平家を討ち、禍根を絶って都に帰るべきか、それとも都に急ぎ帰り地歩を固めて再び下るべきか。義仲は自分の不安定な現在を思うと後者を取った。軍をまとめると夜を日についで京に急いだ。このことを知った十郎蔵人行家は、もし義仲が京に入れば自分との間に不和が起ると察知して、五百余騎を率いて京を下り丹波路を通って播磨へ向った。義仲は摂津を経て都へ入った。
一方、平家は義仲を討とうと大将に新中納言知盛、本三位中将
この頃、京都には源氏の兵が満ちあふれていた。兵の中にはあちこちの人家に侵入して掠奪をしたり、加茂、八幡の御領地に入っては勝手に青い稲を刈り馬の飼料にするものもいた。また人の蔵を破っては財宝を持ち出し、通行人の衣をはぎ取り、物を奪うなど
「平家が都にいたときは六波羅殿といってただ恐ろしい存在だったが、人の衣をはぎ取るようなことはなかった。それが今はどうじゃ、平家と源氏が入れ替ったおかげで、とんでもないことになってしもうた」
と京の人々は噂し合い、非難の声が次第に高まってきた。これを聞いて法皇の憤りもひと方ならず、義仲へ兵の狼藉を静めよ、との仰せが出され、その使者として
「いったい鼓判官というのは皆の人に打たれなさったのか、それとも張られなさったのか」
この無礼な言葉に知康はむっと押し黙まり、そのまま法皇の所に急ぎ帰ると、
「義仲は大馬鹿者でございます。一刻も早く追討遊ばしませ。今に朝敵になりましょう」
と申しあげた。法皇はすぐ決意したが、しかるべき武士にはこれを命ぜず、叡山の座主、三井寺の長老に命を下して、ここの悪僧どもを召し集めた。また公卿、殿上人の集めた軍勢もあったが、どれもとるに足らぬ浮浪者や乞食法師ばかりで、子供たちと小石遊び位しか出来ぬ烏合の衆であった。そのうちに、この密かな情報を耳にした信濃源氏の村上三郎判官代が、義仲に叛旗をひるがえして法皇の側についた。間もなく法皇は義仲に対して不信の念を持たれているという噂が広まると、最初は義仲に従っていた五畿内の武士も彼から離れ、義仲も孤立の形勢になってきた。これを重視した今井四郎は主君にいった。
「これは殿、非常な大事件でございますぞ。さればとて天皇に向かい申して、弓引く訳にも参りませぬ。もはや仕方ございませぬ。
すると義仲はその言葉に耳もかさず、まるで今井四郎が敵ででもあるかのように目をむいて睨むと、声高にいい放った。
「
「たとえば都の守護に任ずる者が、馬の一匹も飼いこれに乗らなくて何でその職が勤まる。
というが早いか、さっと立ちあがった。下知が次々と下され、軍がたちまちのうちに編成された。北国の勢は初め五万余騎といわれたが、その後、本国などに逃げ帰った者も多く、義仲の手許にあるのは僅かに六、七千騎だった。義仲は
合戦は十一月十九日の朝である。法皇の御所法住寺殿には、軍兵二万余が立て籠り攻撃を待ち受けているという。義仲は法住寺殿の西門に押し寄せて見れば、法皇勢の指揮を命ぜられた鼓判官知康が御所の西の垣根の上に立ち、赤地の錦の直垂に四天王と書いて貼った兜だけをつけていた。義仲の勢を見ると
「知康には天狗でもついたのか」
と苦笑いを浮べていたが、知康は一向頓着せず狂ったように鉾と鈴を振り廻しながら舞いつづけ、これでも軍の士気を鼓舞しているつもりであった。やがて鼓判官は寄手に向って形相物凄く大音声をあげた。
「朝敵の者どもよっく聞け。昔、宣旨を読めば、枯れた草木も花をつけ実を結んだ、飛ぶ鳥も落ち、悪鬼悪神もこれに慄えて従ったものだ。末代とはいえ、天皇に対し弓矢をもって向い奉ることが出来ようか。汝らの放つ矢は汝らの身に立つであろう。太刀抜けばわが身を斬るであろうぞ」
といって罵った。義仲はこれを聞いて、
「破れ鼓め、気が狂いおったか。
この下知に寄手はどっと
この鬨の声に応じて法住寺殿の裏手から鬨の声が起った。新熊野より搦手に廻った樋口次郎兼光の率いる二千余騎の声である。義仲と共にあった今井四郎兼平、しばし敵陣を睨むと、やおら背の
「落人あらば、用意して打ち殺せ」
との院の命を受けていた。そこへ法住寺殿から逃げてきた摂津の源氏がさしかかった。屋根に楯を並べ、屋根の石を集めて待っていた勢は、それ落人ぞとわめき立ち、石を拾って投げ、投げられぬ石は転げ落した。驚いた摂津の源氏は、
「院方であるぞ、院の勢ぞ、まちがいするな」
と口々に叫んだが、
「いわせるな、奴らの嘘は聞くまいぞ、院のご命令ぞ、打ち殺せ、打ち殺せ、一人とて逃すな」
といっては、激しく石を投げつけた。たちまち頭を割られる者、腰を打ち折られる者、馬より落ちて這って逃げる者、そのまま死ぬ者などが多かった。また八条のはずれを叡山の僧が守っていたが、恥を知る者はここで死に、恥知らずは逃げ散った。
ここに
法皇も御輿に乗って出ようとしたところへ矢を雨のように射られた。慌てたお供の豊後少将宗長が、
「これは法皇の御幸であるぞ、過ちするな」
と叫んだので、武士どもは馬から降りて輿のそばにかしこまった。法皇が、
「何者ぞ」
と尋ねれば、
「信濃国住人八島四郎行重」
と名乗り、輿は武士の手に引き取られ、法皇を五条内裏へ押しこめて、厳重警護した。
豊後国司刑部卿三位
「あれは誰の家か、これは何者の宿所か」
などといって立止るので、見る人たちは手をたたいて笑い転げた。
一方、天皇は池に舟を浮べこれに乗られて難を避けられたが、義仲の武士たちは舟を目がけて矢を射ちかけたので、お供で乗っていた七条侍従信清、紀伊守範光が、
「天皇がおいで遊ばすぞ、過ちするな」
というと、武士たちは馬から下りて畏まった。そこで天皇は閑院殿へ行幸されたが、そのみすぼらしさはとても言葉ではいいえなかった。
院の味方につき、法住寺の西の門を五十騎ばかりで守っていた源蔵人仲兼のところへ、近江源氏山本冠者義高が戦塵にまみれ、汗びっしょりの馬に鞭をあててやってきた。
「おのおの方、一体誰を守らんとしてここにおられるのか、すでに院も主上も他所へお出でになられましたぞ」
という。さらばわが手並のほど見せてくれんと、仲兼は五十余騎を引きつれると群がる敵陣の中へ割って入った。ここを死場所と暴れ廻り数多の敵を討ち取ったが、囲を破って脱出した時は主従僅かに八騎。この中の一人に河内の
「殿、この馬は
仲兼はそれならばと、自分の乗っていた栗毛の尾の先の白くなった馬を与えた。折から河原坂に義仲勢の根井小弥太が二百余騎ばかりで控えているのを認めるや、この中に八騎で突入した。敵中を突破すると、主従五騎に減っていた。折角馬を替えて貰った加賀房はこの戦闘で死んだ。
源蔵人の家臣に次郎蔵人仲頼というものがあったが、栗毛の馬で尾の先の白い奴がとぼとぼこちらへ歩いてくるのを見つけた。下部を呼んで、
「確かこの馬は源蔵人の馬と思うが、違うか」
「いや、その馬でございます」
「矢張りそうか。この馬はどこの陣へ行ったのか、どこから出て来たか、お前知っているか」
「源蔵人様は河原坂の敵の中へ駆けこまれました。この馬はそこから飛び出して来たのでございます」
「うむ、遅かったか。殿はもはや討死なさったであろう。幼少竹馬の昔から、死なばもろともにと誓いあったのに、この期に及んで死ぬる所が別々とは無念じゃ」
といって使いを源蔵人の妻子のところにやり、彼の最後の様子を報告させると、次郎蔵人仲頼はただ一騎河原坂へ馬を駆って、勝ち誇る敵の中に躍り入ると大音声をあげた。
「われこそは
と太刀を振りかざし、縦横無尽に敵の中を駆け破り駆け廻り、敵をあまた討ち取ったが、自分もここで討たれた。一方源蔵人はこれを少しも知らず、兄の河内守仲信とともに主従三騎で南を指して落ちていった。摂政基通も戦火を避けて都を出ると、宇治へと逃げ出して来たが、遠くからこれを認めた仲兼が疲れた馬に鞭打って
「何者ぞ」
と勇を振って聞いた基通に、
「仲信、仲兼」
と答えると、喜色がたちまち摂政の顔にのぼった。
「そちたちも伴をせよ」
と感激した基通にいわれて、宇治の
かくて戦闘は一日で終った。その翌二十日、木曽左馬頭義仲は六条河原に立ち、昨日斬った首をみなかけ並べ、しるしをつけて数えてみると六百三十あまりあった。この中には天台座主明雲大僧正、三井寺の長吏円慶法親王の首もあった。これを見て思わず泣く者が多かった。やがて義仲は軍勢七千余騎を集めると、馬の頭を東にめぐらせて、天にも響き地をも揺がす鬨の声を三度あげた。この声は京都の街々にも轟き渡り、人々は何事かと大騒ぎしたが、義仲勢の勝利の鬨と知って、やっと胸を撫で下ろしたのであった。
故少納言入道信西の子息
「かく出家したからには差支えがもはやあるまい、開けて入れよ」
といえば、武士たちもようやく許した。長教が泣くなく法皇の御前に現れると、この合戦で討たれた主な人々のことを申し上げた。法皇は、
「明雲が非業の死を遂げるとは露とも思わなかった。このたびは、とても助からぬこのわしの代りになってくれたのだ」
と御涙を押えかねておられた。
十一月二十三日、三条中納言
「この義仲、一天の君に向い奉って、戦に勝った。さてわしは主上になったものか、法皇になったものか、ま、今は思いのままじゃ。法皇になろうとは思うが坊主になるのは面白くない、主上になろうと思うが
といえば、書記役として連れていた大夫坊覚明が[#「大夫坊覚明が」はママ]進み出た。
「関白には大織冠鎌足公の御子孫藤原氏の公達がなられるのが定めにございます。殿は源氏ですから関白はかないますまい」
といえば、義仲は、あっさりと、
「さらば止むを得ぬ」
と院の
そのうちに、鎌倉にいる前右兵衛佐頼朝は義仲の都における狼藉を静めようと、
「それは宮内判官ご自身が鎌倉へ下って直接申された方が宜しいと存ずる。われらより使いを出してもよいが、事情をよく知らぬ者がいって色々尋ねられても困ることが多かろう」
といった。そこで公朝は、今度の合戦で部下が皆討たれてしまったので、十五歳になる息子
「鼓判官知康がつまらぬことを申し立てて主上を悩まし奉ったのみならず、多くの高僧、貴僧を失ったのはかえすがえすも惜しいこと、また不埒な振舞じゃ。こういう者を今後も召し使われれば、天下の騒動は絶ゆることはあるまい」
と頼朝は宮内判官の報告を詳しく聞いた後でいった。これを伝え聞いた鼓判官は、青くなると共になんとか申し開きをしようと、これも夜を日についで鎌倉へ馳せ下った。頼朝に面会を求めた鼓判官は、そのまま、あっさりと断られてしまった。そこで
「彼奴などに会うな、相手にもなるな」
という頼朝の言葉に誰も鼓判官の相手にならぬ。毎日毎夜頼朝の館へ通いつづけたが、所詮徒労であった。そして遂に面目を失い都へ逃げ帰って、辛うじて命だけを永らえて
こうした状勢に京の義仲は苦慮した。腹背に敵を受け、全く孤立した形である。それに手勢も少くなる一方である。現在の拠点である京も政治的に極めて不安定である。死中に活を求めようとした義仲は、西国の平家へ急使を送った。
「急ぎ上洛せられよ。共に一つになり関東へ馳せ下り、兵衛佐を討たん」
という主旨が伝えられた。この使いに平家の宗盛をはじめ一門のものは大いに喜び、これでわれわれも助かると今にも上京しそうな様子であったが、その中で新中納言知盛は断固としていった。
「たとえ末世になるとも、義仲の如きに瞞されて都に上るなど、どうして出来よう。天子が三種の神器を持たれてわれわれと共にある以上、義仲に降参せよと、こちらから申すのが本筋でありましょうぞ」
この知盛の気魄に押されて平家一門はたちまち義仲降伏説に賛成した。そこで宗盛は義仲の使者にこの旨伝えよと申し渡した。無論義仲は平家の申し入れを黙殺した。こうした中で入道の松殿は義仲を自邸へ呼ぶと、いんぎんに諫めた。
「入道清盛公は悪行の多い人ではあったが、稀代の善根を積まれたので、二十余年も世の中を平和に保たれたのです。悪行ばかりで世を治めることはできぬはず、ですからさしたる理由もなく押しこめた人々の官職はみな許されたがよいでしょう」
といわれて、義仲も考え直した。
平家は西国に、義仲は京都に、頼朝は東国にと、それぞれ勢力を張り、互ににらみ合いをつづけていた。戦乱と共に中央からの諸国への威令も行なわれず、各地で群将が割拠したため、京都へ通ずる四方の関所も閉鎖同然の有様であった。朝廷への年貢も絶え、一般の物資も欠乏していた。狭い土地に閉じこめられた京の人々は、さながら水溜りの中に
戦乱に終始した年も暮れた。明くれば寿永三年である。