現代語訳 平家物語

第九巻

尾崎士郎訳




小朝拝こちょうはい


 寿永三年正月一日、法皇の御所は大膳大夫成忠の宿所、六条西洞院であるから御所としての体裁は整っていない。それ故、院の拝礼もなく、また内裏での行事である小朝拝も行なわれなかった。
 屋島に立てこもる平家はここで新年を迎えたが、元旦の儀式がうまくゆかぬのは当り前である。主上はおいで遊ばすが節会せちえも行なわれず、腹巻の奉納もなく、吉野の国栖人くずびとの歌舞奉仕もなかったので、
「いかに末世とはいえ、都にいればかかる有様はなかった」
 などと嘆くことしきりであった。
 世に青陽せいようの春が訪れ、磯吹き渡る風も和やかに、陽の光も長閑のどかにはなってゆくが、ここの平家は氷に閉じ籠められた気がして、とても心のどけき春などという心境とは遥かに遠いものがあった。平家が語るは昔のこと、都の楽しかりし思い出ばかりである。京の東岸西岸の柳も今は相前後して芽を吹き、南枝北枝の梅が咲けば花が散る時期はちがっているなどと話し合い、花のあした、月の夜に詩歌管絃、まり、小弓、扇合せ、絵合せ、草尽くし、虫尽くしなど、心楽しく遊んだ思いを語り続け語り明かし、春の遅日を過すのであった。

宇治川


 寿永三年正月十一日に木曽左馬頭義仲は院に参上して、平家追討のため西国へ出発する旨を申しあげた。十三日には早くも出発ということにきまった。そこへ、頼朝が京で義仲の狼藉ろうぜきしずめようと範頼、義経を将として差し向けた軍勢数万騎が、美濃、伊勢に到着する頃だろうという報告があった。驚愕した義仲は、宇治、勢多の橋板を取り外し、そこへ軍勢を派遣して防禦ぼうぎょに当らせた。手勢が少なかったので、勢多の橋へは今井四郎兼平に八百余騎を率いさせて向け、宇治橋へは、仁科にしな高梨たかなし、山田次郎に五百余騎をつけて派遣した。一口いもあらいへは伯父の信太三郎先生義憲しだのさぶろうせんじょうよしのりを三百余騎とともに向わせた。
 東国から攻めのぼる大手の大将軍は蒲御曹司かばのおんぞうし範頼、搦手からめての大将軍には九郎御曹司義経、これに従うは東国の主な大名三十余人、その軍勢合せて六万余騎という大軍である。
 この頃、頼朝は生食いけずき磨墨するすみという二匹の名馬を持っていた。この生食をしきりに欲しがったのは梶原源太景季かげすえである。梶原は頼朝に度々生食拝領を願い出たが、
「生食は、大事起らばこの頼朝が物具つけて乗ろうと思う馬である。磨墨もこれに劣らぬ名馬であるぞ」
 といって磨墨を梶原に与えた。その後、京へ征討の軍がのぼるとき、暇乞いに来た近江国の住人、佐々木四郎に頼朝は、なんと思ったのか生食を与えてしまった。そして、
「生食は所望したものが多かったが、誰にも与えなかったものだ。お前もこれは承知しておけ」
 というと、佐々木はひと方ならず感激した。
「今度この馬にて必ずや宇治川の先陣を務めてご覧に入れます。もし佐々木死んだと聞こし召さるれば、他の者が先陣したと思し召し下さい。まだ生きていると聞かるれば、先陣はこの佐々木が仕ったと思し召し下さい」
 と頬を紅潮させて、自信の程を主君に断言した。この席にいた大名小名たちは、
「すさまじいことをいうやつだ」
 と、いわぬばかりにみんな顔を見合わせた。
 鎌倉を出発した武士たちは、それぞれ好む道を志して出立した。足柄山を越える者もあり、箱根山にかかる者もあり、思いおもいに京をさしてのぼっていった。この中で梶原源太景季が、駿河国浮島が原にさしかかった。高い丘にのぼり、馬を止めて見渡すと、前後左右、鎌倉勢の大軍がゆっくり移動している。景季の眼は何時しか武士たちの乗る馬々を評価するように眺めていた。各自趣好の鞍をおき、色とりどりの尻ひもが華やかさをそえ、左の手綱だけを口取りの男にとらせる武士、あるいは両の手綱を左右からとらせるなど、幾万という馬が陸続と野を埋めている。これほどおびただしい馬の中にわが乗る磨墨ほどの逸物はいないと思うと、景季はひとりこみあげる微笑を抑えることが出来なかった。しばらく彼は馬に一息つかせながら、磨墨の頸を軽く叩き、たてがみを愛撫して武士の生甲斐とでもいうものを感じていた。すると、そのとき、彼の眼に妙な情景が映った。たくましい一頭の馬が金覆輪の鞍をおき、小総こぶさの尻ひもをつけ、白轡しろくつわつけた口は白泡を噛んで舎人とねり数人がつきそっているが、激しい馬をとめることは出来ない。それが、よく見ると、どうもあの生食らしい、景季の顔色は、たちまち変った。彼は磨墨にひと鞭あて生食と覚しき馬に近よると、
「これは誰の持馬だ」
 と尋ねた。すると、舎人が、
「佐々木殿の御馬でございます」
「佐々木は三郎殿か四郎殿か」
「四郎殿の御馬でございます」
 という。間違いなく生食である。してみると主君はこれだけは手離せぬといわれた秘蔵の馬を、佐々木四郎に与えたに違いない。景季の顔にはみるみる怒りの色が浮んだ。
「つまらぬ。同じご奉公の身でありながら、景季を佐々木に見替えられたことは無念なことじゃ。今度都へ攻めのぼらば、木曽殿の四天王と聞える、今井、樋口、楯、根井と取組んで死ぬか、あるいは西国へ下り一人当千といわれる平家の侍どもといくさして、天晴れ討ち死しようと覚悟して来たが、わが君がそのお気持ではわしもつまらぬ。よい、それならここであの佐々木を待ち受け、彼と取り組み刺し違えてよき侍二人死んで、鎌倉殿に損をおさせ申そう」
 と内心恐ろしいことを決意すると、彼は佐々木四郎を待ち受けた。そこへ佐々木が爽かな顔をして現れた。景季の眼が光った。そ知らぬ表情で静かに近づきながら、馬を乗り並べ組み討とうか、正面からぶち当てて馬から奴を落して刺そうかと考えて近づいたが、まず声をかけた。
「いかに佐々木殿、生食賜わってのぼられるのだな」
 佐々木は、眼を異様に光らせて近づく景季を見てはっとした、途端にこの男が執拗に生食を所望したということを思い出し、また生食を与えた時の頼朝の言葉がよみがえってきた。
「おう、これは梶原殿、実は内聞に願い度いのです。今度この大事な合戦に攻めのぼる時、敵は必ず宇治や勢多の橋をはずすに違いない、その時は川を乗り渡らねばならぬ、そこでどうかして生食を欲しいと思いました。と申しても梶原殿がお願いになっても下さらなかったというこの生食、どうして佐々木ごときに下されましょう。一時諦めたのですが、なんとしても生食は欲しい、そこであとでわが君からどんなお叱りあろうとも構わぬ、と決心いたしまして出発する前夜、殿の馬番としめし合せてご秘蔵の生食を盗み出して参ったものでござるよ」
 咄嗟の気転でにこやかに梶原に話しかけた。すると、景季はからからと笑った。
「うむ、してやられたか。そうと知ったらこのわしも盗んで置くのだった」
 と高笑いに心のしこりを揉みほぐして、二人ともども進んでいった。
 佐々木四郎が拝領した生食は、太く逞しい黒栗毛、馬でも人でもそばへ寄るものに食いついたのでこの名があり、その丈は四尺八寸という。梶原が拝領した磨墨も極めて太く逞しく、黒光りのする馬なのでこの名がつけられたが、どちらも何れ劣らぬ名馬であった。
 東国より攻めのぼる鎌倉勢は尾張国より大手、搦手の二軍に分けられ、大手の大将軍には蒲御曹司範頼、これに伴う人々は、武田太郎、加賀美次郎、一条次郎、板垣三郎、稲毛三郎、榛谷はんがえ四郎、熊谷次郎、猪股いのまた小平六を先陣としてその勢合わせて三万五千余騎、近江国の野路のじ篠原しのはらに陣を張った。搦手の大将軍には九郎御曹司義経、これに従う人々は安田三郎、大内太郎、畠山庄司次郎、梶原源太、佐々木四郎、糟屋かすやの藤太、渋谷右馬允うまのじょう、平山武者所を先陣として、その勢二万五千余騎、伊賀国を経て宇治橋のきわに押し寄せた。
 義仲勢は、宇治も勢多も橋板をはずし、川底に乱杭らんぐいを打ちこみ、そこへ縦横に大綱を張り廻らし、またこれに逆茂木さかもぎをつないで流してある。時に一月も二十日過ぎ、川上の比良ひらの高根、志賀の山、長良山に積っていた雪も消え、谷川の氷も溶け、水量の増した川に音を立てて流れこんでいる。川の急流白波を噛み、早瀬は滝の如く流れ落ちる。激しい水勢であった。夜はすでにほのぼのと明けたが、川霧が深く立ちこめて、馬の毛、よろいおどしの色も定かには見えぬ。
 大将軍九郎御曹司、川の岸に駒を進めると、逆巻いて流れる水の面を見渡していたが、家来の反応を見ようと思ったのか、
「すさまじい水勢じゃ、淀、一口いもあらいへ向うか、それとも河内路へ廻るべきか。また水の引くのを待つべきか」
 と尋ねかけた。武蔵国の住人畠山庄司次郎重忠しげただ、この時二十一歳であったが義経の前に進むと、
「この川のことは鎌倉でも度々うかがっておりました。前に知らなかった海や川が急に現れたのならともかく、この川の水源は琵琶湖にございますれば、ここで待ったとて水の引くことはござりますまい。また取り外された橋板を誰かがかけてくれるものでもござりませぬ。去る治承四年の合戦で足利又太郎忠綱が十七歳でこの川を渡りましたが、彼とて鬼神ではござりませぬ。この重忠が瀬ぶみ仕りましょう」
 という。この声と共にたんとうを主に凡そ五百騎が岸にくつわを並べて今にも躍りこもうとした。と、その時平等院の東北のたちばなの小島が崎から武者二騎が激しく蹄の音を鳴らし、川を目指してまっしぐらに駆けよって来た。梶原と佐々木の二騎である。人目にはわからぬが、われこそは先陣、と二人の心の内は必死である。馬に鞭を当てる力もこもっていたが、梶原が六間ほど先へ走っていた。
 少し後れた佐々木は梶原に声をかけた。
「梶原殿、この川は西国一の大河ですぞ、馬の腹帯が延びて見え申す、しめ給え」
 といえば、梶原さもありなんと思ったか、手綱を馬の鬣にかけ、左右のあぶみを強く踏んばって腹帯をしめ直した。その隙に佐々木さっと駆け抜け、そのまま宇治川の急流に馬を躍らせた。はかられた、と知った梶原もこれを追って川に乗り入れるや、
「佐々木殿、高名立てんと不覚取り給うな、水の底に大綱が張ってあろうぞ、心得給え」
 と叫ぶと、佐々木は太刀を抜き放ち馬の足にからむ川底の大綱をふつふつ斬り払って進んだ。いかに宇治川早しといえども、乗る馬は日本一の名馬生食いけずきである。真一文字に川を渡ると対岸に打ちあがった。磨墨は川の中程から水勢のため斜めに流され、ずっと川下から岸に乗りつけた。
 岸に躍りあがった佐々木は鐙を踏んばり生食の上に仁王立ちとなるや、天に轟くばかりの大音声をはりあげた。
「宇多天皇の九代の後胤、近江国の住人佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣!」
 この名乗りにつづいて、畠山の五百余騎が、どっと川に乗り入れて渡りはじめた。対岸から山田次郎が狙いを定めて放つ矢が畠山重忠の馬の額を射ぬいた。畠山は馬から水に落ちたが、弓を杖にして立ち、岩にはねる水が兜に激しく当るのを物ともせず、水底をくぐって対岸に着いた。岸にのぼろうとすると、後から畠山をむずとおさえて離さぬ者がいる。
「誰か」
 と怒鳴れば、
重親しげちかです」
大串おおぐしの重親か」
「そうです。余りの急流に馬を押し流し、力及ばぬまま取りつきました」
 この重親は畠山の烏帽子子えぼしごであった。
「何時もお前のような奴は、この重忠に助けられるのじゃ」
 というと、大串を掴んで岸に放り上げた。投げられた大串は立ち直ると、太刀を抜いて額に当て大声で叫んだ。
「武蔵国の住人大串次郎重親、宇治川の徒立かちだちの先陣」
 これを聞いた敵味方も共にどっと笑った。
 畠山はすぐ替え馬に乗るや敵陣に駆け入ったが、魚陵ぎょりょうの直垂、緋縅の鎧着こみ、金覆輪の鞍おいた連銭葦毛に乗った武者一騎、真っ先に進んでくるのを見つけた。
「馬に乗るは誰ぞ、名乗られよ」
 と声をかけると、その武士は、
「木曽殿の家臣、長瀬の判官代重綱」
 と名乗る。畠山これはよき敵、軍神への犠牲いけにえにせんと、馬おし並べてむずと取っ組み引き落し、鞍の前輪に押しつけ、これをびくとも動かさず首をねじ切って、本田次郎の鞍に下げさせた。こうして合戦は始まったが、宇治橋を守っていた義仲勢は、しばらく寡兵で防ぎ戦い持ちこたえているうちに、東国の大軍が続々と川を渡って攻めたてたので陣は破られ、敗兵は木幡山こばたやま、伏見をさして落ちていった。一方、範頼の軍は勢多で稲毛三郎重成しげなりの計によって、田上たがみ供御くごの瀬を渡って進撃した。

河原合戦


 宇治川で義仲勢を破った義経は飛脚を鎌倉へ送り、頼朝へ合戦の模様を報告した。使いを引見した頼朝は真先に聞いた。
「佐々木は如何したか?」
「宇治川の先陣をなされました」
 との答えに、頼朝莞爾かんじとして日記をひらいてみると、
「宇治川の先陣佐々木四郎高綱、二陣梶原源太景季」
 と記してあった。
 宇治と勢多の守りは破られた、と報を受けた義仲は最後の暇を申そうと法皇の御所へ駆けつけたが、御所の前に来てみるとさていうべき言葉もない。ためらった後、彼は引き返し六条高倉に寄った。ここは京都へ来てから初めて愛するようになった彼の女がいるところである。女の家に入った義仲は最後の名残を惜しんで、なかなか出てこない。供につれていた新参の家来に越後中太家光という者があり、これが、
「敵はすでに河原まで攻め入っておりますのに、何で悠々と落ちつかれているのですか。それでは犬死なさいますぞ。一刻も早くお出まし下さい」
 といったが、義仲は返事もしなかった。そこでこの男は、
「それでは、この家光がまずお先に参り、死出の山にて殿をお待ち申し上げます」
 といって腹かき切ってこの場に果てた。さすがの義仲もこれには驚き、
「これはわれを励ます自害、奴には相済まぬことをしたぞ」
 といって直ちに河原へ向った。従うものは上野国の住人那波なわの太郎広純ひろずみを始めおよそ百騎ばかり、六条河原に進んでくると、何処からともなく東国の勢と思われるのが三十騎ばかり現れた。その中から武者二騎が進み出てきた。塩谷しおのやの五郎惟広これひろ勅使河原てしがわらの五三郎有直ありなおの二人である。塩谷が、
「後陣の着くのを待つか」
 というと、勅使河原は、
「敵の一陣は破られている。残党は知れたものだ、かまわず討て」
 と叫んで義仲勢に向い駆けこんでゆくと、後の武士もこれに続いた。義仲も今日を最後とこれを迎え撃ち、東国勢は義仲を討たんと互いにひしめきあった。大将軍九郎御曹司義経は、いくさを他の武士に任せ、自分は院の御所が気がかり故これを守護しようと、甲冑つけた五、六騎を率いて院の御所六条殿へ馳せ向った。
 院の御所では、大膳大夫成忠が東の垣の上にのぼって合戦の様子は如何にと眺めていたが、足はふるえ、顔の色も青ざめている。その時京の街をまっしぐらに御所へ向う武士の一団があった。激戦の後と見え、ひももゆるんだのか兜もあみだになり、鎧の左袖を春風になびかせ、白旗をさっと押し立てて、砂煙黒く蹴立てて飛ばしてくる。成忠はもう生きた心地もしなかった。
「情なや、木曽が参りましたぞ」
 と泣声を出すと、御所にいた公卿殿上人や女房にいたるまで、今度こそこの世の見納めと震える手を固く握りしめ、譫言うわごとのような声をだして願を立てはじめた。垣の上にいて、ふるえている成忠は武士たちが近づくにつれて、どうも木曽の武士たちとは違うことに気がついた。
「私には今日都へ入った東国の武士たちのように思えます。確かに皆笠印が入っております」
 という言葉が終らぬうちに、御所の門前に汗びっしょりの馬を乗りつけた義経は、ひらりと馬から下りると家来に門を叩かせた。
「鎌倉の前右兵衛佐頼朝の弟、九郎義経にござる。宇治の勢を攻め破りこの御所を守護のために馳せ参った。門を開けて入れ給え」
 と声高くいえば狂喜した成忠は、垣から飛び下りるはずみに腰をしたたか打って起きあがれない。それでも嬉しさが余って傷の痛みも忘れ這って法皇の御前へ参って報告した。法皇も大変喜ばれ義経を中へ入れた。
 義経この日の装束は、赤地の錦の直垂、紫裾濃むらさきすそごの鎧を着こみ、鍬形くわがた打った兜のをしめ、腰に黄金こがね作りの太刀、背に切斑きりふの矢二十四本を負い、かいこむ重籐の弓は鳥打の下を広さ一寸ばかりに切った紙で左巻きに巻いてある。これは大将軍のしるしであった。法皇は中門のれんじ窓からこれをご覧になり、
「雄々しげな者どもじゃ、皆名乗らせてみよ」
 と仰せられたので、まず義経が名乗り、ついで安田三郎義定よしさだ、畠山荘司次郎重忠、梶原源太景季、佐々木四郎高綱、渋谷右馬允重資しぶやのうまのじょうしげすけがつぎつぎに名乗った。この時、義経が連れた武士たちは、鎧こそさまざまであったが、面魂やその骨格何れ劣らぬ強者揃いであった。成忠は法皇の仰せを受けて義経を広縁ひろえんの端に呼び、合戦の様子を詳しく尋ねた。義経は、
「鎌倉の頼朝が木曽の狼藉を鎮めようと、範頼、義経の二兄弟に軍勢六万余騎をつけて京にのぼらせたのです。範頼は勢多の方から参りましたが、まだ一騎も着いておらぬ様子、私は宇治橋を攻め落し、ここの守護に参ったものでございます。義仲は河原をのぼって落ちて行きましたので軍兵に追わせておりますから、今頃は定めし討ち取ったことと存じます」
 と畏まっていえば、法皇も満足のご様子で、
「木曽の残党がまた参って狼藉するかも知れぬ。そちたちはこの御所をよくよく守護せよ」
 と仰せられたので、義経は承って四方の門を固めて待つうちに、傘下の武士たちもここに集り、その勢、瞬くうちに一万余騎になった。
 義仲は、万一のことがあれば、法皇を連れて西国へ下り、平家と合力しようという考えを持っていたので、力の強い武士二十人を連れていたが、義経がすでに院の御所を守護していると聞き、もはやうつ術はないと諦めて河原をのぼって落ちていった。義仲は六条河原と三条河原の間で幾度も討ち死しようと思っていたが、心に浮ぶは右腕と頼む今井四郎のことである。彼は涙を流していった。
「こうなることがわかっていたら、今井を勢多へ行かせるのではなかった。幼い時から死なば一つ所でと誓い合った仲だ、今別々に討たれるのは何としても無念でならぬ。もう一度今井の行方を知りたいものだ、それまでは死ぬにも死なれぬ」
 といって、なおも河原を上へ駆けのぼった。六条河原と三条河原の間で敵が襲いかかれば、取って返しては蹴散らし、引き返しては追い払った。少い手勢で雲霞の如き大軍を相手に戦って追い返すこと五、六度に及んだ。義仲はここから加茂川をさっと打ち渡り、粟田口、松坂にさしかかった。昨年信濃を出発した時その勢五万余騎、今、四の宮河原を過ぎる時義仲に従うものは僅か六騎である。まして今はあの世への旅の空だ。

木曽の最後


 義仲は信濃を出る時からずっと都まで、ともえ山吹やまぶきという二人の美女をつれていた。山吹は病のため都に留まった。巴は色白く、黒髪豊かに長く、容貌もまことにすぐれた美女であった。その上、屈強の荒馬乗りで如何なる難所といえども馬より落ちることはなく、弓矢打物とっては、鬼神にも平然と立向おうという一騎当千のたぐいまれな女丈夫であった。
 このため義仲はいくさという時には、巴に良質の鉄の鎧を着せ、強弓と大太刀持たせて、一方の大将として差し向けていたが、度々の合戦に功名を立て比類がなかったほどであった。それでこの義仲最後の軍でも多くの者が落ちたり、討死したりするうちにも巴は健在で、最後の七騎に加わっていた。
 義仲は長坂を経て丹波路へ行ったともいわれ、また、竜華越りゅうげごえを通り北国へ向かったとも伝えられたが、実は今井四郎の行方が気がかりだったので、引き返して勢多の方へ落ちていった。
 勢多を八百余騎と共に守っていた今井四郎は、範頼の軍との合戦で五十騎ばかりになって、旗を巻き都の方へ向っていた。彼も主君義仲の行方が心配だったのである。この落人たちはばったり大津の打出の浜で出会った。双方の間が一町ほどになったとき、互に相手を認め小躍りして疲れた駒の足を早めた。近寄った義仲は今井の手をしっかと握りしめて、その顔をみつめた。
「義仲は六条河原で最後の決戦をして討ち死するつもりであったが、お前の行方が気になるので敵に後ろを見せて、ここまで逃れてきたのだ」
 というと、今井は、
「お言葉まことに嬉しゅう存じます。この兼平も勢多で討ち死する心でありましたが、殿のお行方が心配で、もしお会いでもできたらと、ここまで落ちて参りました」
「さては互の契りはまだ朽ちなかったとみゆる。義仲の勢は山林に逃げ散って、まだこのあたりにはいるかも知れぬ。お前の旗をさしあげて兵を呼んでみよ」
 と義仲がいうと、今井は巻いて持たせてあった旗を高くさしあげた。これを見つけて、あちらこちらから兵が集ってきた。京から落ちて来た者でもなく、勢多から来たというのでもないが、何時しか三百余騎になった。これをみて義仲は非常に喜んだ。生色甦った彼の顔に不敵な微笑が浮ぶと、彼方に密集している敵の一団を見ていった。
「これだけの軍勢があったら、最後の一戦も出来よう。あそこに群がる敵は誰の手の者か」
「甲斐の一条次郎の手の者と聞いておりますが」
「数はどの位あろう」
「六千余騎とか聞きました」
「うむ、それでは互によき敵じゃ。同じ死ぬなら、大勢の中へ駆け入り、よき敵に会って討ち死したいものじゃ」
 というと、みるまに義仲は真っ先に進んでいった。義仲この日の装立いでたちは、赤地の錦の直垂に唐綾縅の鎧、厳物いかもの作りの太刀、鍬形打った兜の緒をしめ、背に二十四さした石打の矢がうちつづく戦闘でまだ少し残っていた。
 重籐の弓の真中を握り、金覆輪の鞍おいた木曽の鬼葦毛という有名な逸物にまたがっていた義仲は、鐙を強く踏んばって立ちあがるや、大音声をはりあげた。
「日頃から聞いてもおろう、木曽冠者を今日こそ眼にも見よ。左馬頭兼伊予守、朝日将軍源義仲なるぞ。それなるは甲斐の一条次郎と聞く。義仲を討って手柄とせよ」
 これを聞いた一条次郎は、
「ただ今名乗るは大将軍ぞ。討ちもらすな、者ども、討ち取れい」
 と下知して、義仲を取り囲み、われこそ大将軍を討とうと進み出た。義仲勢三百余騎、一団となって六千余騎中に突入し、右に左に駆け抜け駆け破り、敵陣を突破してみると、味方は、いつのまにか五十騎ばかりになっていた。
 そこへ土肥どひの次郎実平さねひらが二千余騎で義仲の行手に待ち構えた。少勢とはいえ歴戦の強者の木曽勢は、ここも蹴破って進んでいった。しかし、あそこで四、五百騎、ここで二、三百騎、百四、五十騎と次々と新手があらわれて行手を遮る。その何れも駆け抜けたあとで、味方はと気がついて見ると、主従合わせて五騎である。この中に巴は討たれもせずに加わっていた。義仲は巴を呼んだ。
「そなたは女の身、ここで落ちてくれ。わしは討ち死するつもりだ。もし人手にかからなければ自害する覚悟じゃ。この義仲、合戦の最後まで女を連れていたといわれては末代までの恥じゃ」
 すると巴はうらめしそうな眼差で義仲を見ると、うつむいたまま返事もせぬ。そして義仲のそばを離れようともしなかった。信濃を出る時から巴は、死なばこの君と共にという決意である。血みどろな乱戦に討たれもせず義仲を守ってきたのも、彼への愛情のためだけである。巴がなかなか落ちることをがえんじないので義仲は度重ねて、きびしく巴にいった。巴も彼のきつい言葉のうらにある愛情は知っている。そして遂に決意して一行を先に送ると一人待った。
「よき敵のあらわれぬものか。木曽殿にわらわの最後のいくさをご覧に入れようものを」
 と呟いて、落ち行く義仲を見送る巴の眼には涙があふれてきた。彼女の胸には義仲と共に闘った甘い思い出がうかんでくる。やがて巴の前に、武蔵国の住人、御田おんだの八郎師重もろしげという大剛力の者が三十騎余りで現れた。にっこり笑った巴は愛馬の手綱を取り直すと、敵の中へたちまち割って駆けこみ、まず御田八郎と馬を並べると、むずと組んで引き落し、鞍の前輪に御田を押しつけると身動きもさせずその首をねじ切って、放り捨てた。その後敵としばらく闘ったが、やがて巴は鎧を脱ぎ捨てると東国の方へ落ちていった。この戦闘で手塚太郎は死に、手塚の別当は逃げ去った。
 義仲は今井四郎とたった二騎となった。疲労の色濃い義仲はいった。
「日頃何とも思わぬ鎧が、今日は重とうなった」
「何を仰せられますか。御体もまだお疲れになっておらず、御馬も弱ってはおりませぬ。それは味方に続く軍勢がなき故、心臆されてそう思われるのです。この兼平一騎お伴をいたせば、他の武士千騎と思召し下さい、ここに射残したる矢七、八本まだ持っておりますから、しばらく防ぎ矢仕りましょう。殿はあの松原の中へ入られて、心静かにご自害遊ばしませ」
 義仲に背を向けて引き返そうとするところへ、新手の敵が五十騎余り現れた。兼平は、
「この敵はここでしばらく防ぎます、どうか早く松原へお入り下さい」
 というが、義仲は兼平の側からはなれようとしなかった。
「わしは六条河原で討ち死する覚悟であったが、お前と共に死のうと思って多くの敵に背を向けここまで遁れて来たのじゃ。離ればなれに死ぬよりも共に討ち死しよう」
 今にも敵に向って駆け出そうとする。今井は急いで馬から飛びおり、義仲の馬のくつわを掴むと、主君を見あげてはらはらと涙をこぼした。
「弓矢取りは、年頃、日頃、いかなる功名を立てましょうとも、最後に不覚をとれば、その身に永久にきずがつきます。御体も疲れ、馬もひどく弱っております。ここで名もない者の郎党に組み落されて討たれ遊ばすなら、さしも日本国中に鬼神と聞え給うた木曽殿、何某の家来が討ち取ったなどといわれるのが無念でございます。ただ理をまげて、あの松原にお入りになって下さい」
 といえば、義仲の眼にも涙があふれた。それならばと、義仲はひたと今井四郎の顔をみつめると、くるりと馬の首を返して、唯一騎粟津あわづの松原に向って馬を走らせた。
 今井四郎、一人で取って返し、新手の勢五十騎余りに立ち向うと、
「遠からん者は音にも聞け、近からん者は目にも見よ。木曽殿の乳母子めのとごの今井四郎兼平、三十三歳になる者ぞ。木曽方に、われありとは鎌倉殿もご存じあろう、この兼平討って兵衛佐殿にご見参に入れよ」
 というと、背に残る矢を弓につがえるより早く放ち、放ってはつがえ、引きしぼってはまたたくまに八本の矢を敵に射れば、生死のほどはわからぬが、たちまち敵八騎が馬から転げ落ちた。矢がなくなると今井四郎は太刀を抜いて斬って廻るが、この剛勇で聞えた武士の相手に向う者はなく、ただ、うち取れ、うち取れと矢を放つばかりである。兼平の鎧は自慢の代物であるから、当っても裏までは通らず、鎧の隙間に当らぬので手傷も負わなかった。
 義仲はただ一騎粟津の松原へ駆けつけたが、時に正月二十一日の夕暮どきである。薄氷の張った深い泥田とも知らず、さっと馬を乗り入れたので、人馬忽ち沈み、馬の首まで泥に埋った。鐙をしめて踏んばり、鞭も折れよと打つが馬は動かぬ。義仲はこの時でも、今井四郎の身が気がかりなので後ろを振り仰いだとき、一筋の矢が飛び来って義仲の兜の内側に突き刺さった。そのまま、彼はがっくりと馬の首に伏し倒れた。後より追って来た相模国の住人、三浦の石田次郎為久の放った矢である。そこへ石田の郎党が駆けつけて、義仲の首をとった。石田はその首を太刀の先に貫き、高く掲げて大音声で呼ばわった。
「長らく日本国に鬼神と聞え給う木曽殿をば、三浦の石田次郎為久、討ち取ったり」
 単身敵を支えて闘っていた今井四郎兼平がこれを聞き、
「こうなった今は、誰をかばって戦おうぞ。これを見よ、東国の者ども、日本一の剛の者が示す自害の手本だ」
 と、太刀の切先を口に含み、馬から逆さまに飛び落ち、そのまま息が絶えた。

樋口被斬ひぐちのきられ


 今井四郎兼平の兄、樋口次郎兼光は十郎蔵人行家を討つために、その勢五百余騎で河内国の長野城へ出向いたが、ここでは行家を討ちもらした。紀伊国名草にいると聞いたのですぐそこへ押し寄せたが、途中、都に合戦がはじまったという情報が入り、慌てて引き返して来た。軍勢を率いてのぼるうちに、淀の大渡おおわたりの橋で、今井の家来に行き会った。その家来が、
「一体どこへ行かれますか。都では合戦が起り、ご主君は討たれ遊ばし、今井殿はご自害なさいました」
 というと、樋口次郎は涙をはらはらと流した。
「各々方これを聞かれい。君への忠義厚からん方は、これよりどこへでも早く落ちて、乞食頭陀こつじきずだぎょうをしても君のご菩提を弔い給え。兼光はこれから都へ上り、敵と一戦を交え討ち死して、冥途にてわが君にもご見参、弟の今井にも今一度まみえたき所存」
 といって進むうちに、五百余騎の軍勢も、いつしか散りぢりばらばらになり、鳥羽の南門を過ぎる頃には、その手勢僅かに二十余騎になってしまった。
 樋口次郎が都へ入るというので、東国の勢も高家こうけも、七条、朱雀、作道つくりみち四塚よつづかへ馳せ向うなどして守りを固めた。ここに樋口の勢の中に、茅野ちのの太郎光広という者があったが、四塚に集り守る敵兵の中へただ一騎駆けこむと、鐙をふんばって叫んだ。
「この勢の中に、甲斐の一条次郎殿の部下の方はいらるるや」
「一条次郎の手の者でないと相手をせぬのか、誰とでも立ち向え」
 といって、どっと笑った。そこで茅野は、
「かく申す者は信濃国諏訪の上宮かみのみやの住人、茅野大夫光家の子、茅野太郎光広と申す者。必ず一条次郎殿の手の方を尋ねるのではないが、弟の茅野七郎がそこにおるからじゃ。子ども二人信濃国に置いて参ったが、父が戦場で如何なる死に様をしたか案じておる、それ故、弟の七郎の前で討ち死して、子どもたちに、父の最後を確かに聞かせんと存ずる次第。かたきを嫌うのではないぞ」
 と、群がる敵の中を駆け廻り、太刀引き抜いて三騎を斬り落し、四人目の敵と刺し違えて死んだ。
 樋口次郎は児玉党と結んでいたので、児玉の人々が寄り集まって、
「そもそも、弓矢取る者が広い世間と交わるのは、万一の際その人に頼って急場をしのぎ、しばしの命を拾うと思うからだ。樋口次郎が我らに縁を結んだのもそのためである、危難の彼を救ってやろう」
 と相談がまとまると、児玉から樋口へ使者が立てられて、意向を伝えた。
「木曽殿の身内で、今井、樋口、楯、根井と申さば天下に聞えた方ではあるが、木曽殿が討たれ給い、今井殿も自害なさった今となっては、差支えあるまいと我々は考え申す。我らの中へ降人こうにんになり給え。手前どもの勲功の賞に替えてでも、お命はお助け申そう」
 というので、音に聞えた勇将樋口次郎は、運いまだ尽きずと思ったのか、おめおめと児玉党へ降った。大将軍範頼が義経にこれを伝えたので、院へ伺いを立てて助命を請われたところ、院の御所の公卿殿上人を始め、局の女房、わらわにいたるまで、
「木曽が法住寺へ押しかけ、御所を焼き、高僧、貴僧を数多く殺した時、どこへ行っても今井、樋口の名を耳にしたもの、今これを助けられるのは残念にございます」
 と口々に申し立て助命に反対するので、止むを得ず樋口は死罪ときまった。
 同月二十二日、新摂政は解職され、もとの摂政が任ぜられた。その間わずかに六十日であった。
 同二十四日、義仲と残党の五人の首が都大路を引き廻されたが、樋口次郎は降人ではあったが主君の首のお供をしたいと申し出たので、藍摺あいずりの直垂に立烏帽子で首の供をし、翌二十五日に斬られたのである。範頼、義経の二人が色々助命を頼んだが、
「樋口は今井、樋口、楯、根井といって木曽四天王の一人、これを助命したら虎を野に放すようなものだ」
 と鎌倉から特に厳命が下ったので斬られたという。
 さて、西国の平家は昨年の冬の頃から、讃岐の屋島の磯辺を離れ、摂津の難波潟なにわがたへ押し渡り、西は一の谷を城とし、東は生田の森を大手の木戸口と定め、一の谷から生田に至るまで、福原、兵庫、板宿いたやど、須磨に立てこもる軍勢、つまり山陽道八カ国、南海道六カ国、合わせて十四カ国を討ち従えて、その軍勢十万余騎と称された。一の谷は、北は山、南は海を控えて、入口狭く奥は広い。海岸は高くて屏風を立てたような断崖であり、守るには絶好の要害の地であった。平家は、北の山際から南の海の遠浅まで、大石を積み上げ、大木を伐って逆茂木を延々と連ねた上に、海が深いので、ここに大船を並べて楯とした。城の上には高櫓を築き、四国、九州の兵たちが、甲冑に身を固め、弓矢を手にして雲霞の如く並んだ。櫓の前には鞍を置いた馬が十重とえ二十重はたえにつながれ、城では絶えず太鼓を打って士気を鼓舞していた。平家の勢の持つ弓すでに半月に引かれ、太刀は三尺の秋霜となって何時でも敵の骨を断とうと光を放っていた。高所に立て並べられた平家の赤旗が春風にひるがえれば、さながら天を焦がす火焔のごとくであった。一の谷の平家、ようやく戦意盛んである。源氏一門が互に相手を倒そうと必死の抗争を続けている間、平家は時を稼ぎ、着々戦力を蓄えていたのであった。

六箇度合戦


 平家が一の谷へ移った後、四国の武士は平家に一向に従わなかった。中にも阿波、讃岐の豪族たちは、皆平家に叛旗をひるがえし、源氏に心を通わせはじめていた。
「わしらはもはや源氏の御味方じゃが、さすが昨日今日まで平家へ従っていたものを、今日から源氏の御味方仕ると申し出ても、よもや信用してはもらえまい。それ故、これから平家に矢一つ射かけて、これをあかしとして源氏に参ろう」
 と相談し合うと、門脇中納言教盛、越前三位通盛、能登守教経父子三人が備前国の下津井しもついにいると聞き、軍船十余艘をもってここへ押し寄せて来た。これを知った能登守は激怒した。
「昨日今日まで我らの馬の草を刈った奴どもが、もう裏切ろうとするのか、その儀なら許さぬ、一人残らず討ちとってしまえ」
 と小舟に乗って迎え撃ち、これを追えば、もともとこの四国の兵ども、しるしばかりの矢を放って、これを手土産にしようという根性であるから、能登守の激しい攻撃に、これはたまらぬと近づきもせぬうちに逃げ出し、淡路の福良ふくら港にこもった。ここには源氏が二人、故六条判官為義ためよしの末子、賀茂冠者義嗣、淡路冠者義久の兄弟を大将として城を構えて待っていた。そこへ能登守が押し寄せ散々に攻め立てたので、賀茂冠者は討ち死し、淡路冠者は生け捕られた。留まって防戦したものもあらかた討ちとられた。能登守は二百三十余人の首を切ってかけつらね、討手の名を連記して福原へ差し出した。それから門脇中納言は一の谷へ移った。
 能登守の子息たちは、伊予の河野四郎が召し出したのに返事をせず出て来ないのを責めようというので四国へ渡り、兄越前三位通盛は阿波国花園城に着き、弟能登守教経は讃岐の屋島に赴いた。これを聞いた伊予の住人河野四郎通信みちのぶは、安芸の住人沼田次郎が母方の伯父であったので、一つになろうと安芸へ渡った。能登守教経はこれを知り屋島を立って追ったが、その日備後の蓑島みのしまに着き、翌日沼田の城へ押し寄せた。すると、そこには沼田次郎、四郎が共に陣を構えて待っていた。能登がどっと攻め寄せ、激しく攻撃すると、沼田次郎は叶わじと思ったのか兜をぬぎ、弓の弦をはずして降人となった。しかし河野はなおも従わず、始めその勢五百余騎であったが討ちとられて五十余騎となり、城を捨てて逃げ出した。その途中能登の家臣平八兵衛為員ためかずが率いる二百余騎に包囲され、辛うじて脱出した時は主従僅かに七騎、助け舟に乗ろうと、細道を通り汀づたいに落ちてゆくと、これを追った平八兵衛の息子讃岐七郎義憲、この男はすぐれた弓の名手だったので、弓をひきしぼって射つと、次々と五騎を射落した。河野はついに主従二騎となった。そこへ追い迫った七郎は、河野が命に替えてもと寵愛していた家来に馬を並べると、組んで共にどうと落ち、忽ち下に抑えこんで首を掻き切ろうとするとき、河野が引き返し、上になった七郎の首を斬り、深田へ投げ捨てた。
「伊予国の住人、河野四郎越智通信、生年二十一歳、いくさはこうするものぞ、われと思わん勇士はこのわれを引き留めてみよ」
 といい捨てると、そのまま伊予へ渡ってしまった。能登は河野を討ちもらしたけれど、降人となった沼田次郎を引き連れて一の谷へやって来た。
 また、阿波国の住人、安摩あまの六郎忠景ただかげも平家に叛き源氏に心を寄せた。彼は大船二艘に兵粮米、武器などを満載して都をさして上ったが、これを福原で聞いた能登守は、不埒ふらちな奴と直ちに小舟に乗って追いかけた。安摩は西宮の沖まで引き返し、能登守と海上で激しく闘ったが、
「奴を取り逃がすな」
 という能登守の下知に勇み立った兵の果敢な攻撃に、安摩も敵わずとみて退き、和泉国吹飯ふけいの浦に逃げこんでいった。
 紀伊国の住人、園辺兵衛忠康も平家に叛こうとして機会を窺っていたが、安摩が能登守に攻められて吹飯の浦にこもっているのを聞くと、手勢百余騎を連れて、そこへ行き、共に城を構えて待機していた。能登守はここへも攻め込み、一気に襲いかかると、安摩、園辺の両人は城を捨てて身一つで逃げ出し京へのぼった。残り留って防ぎ、矢を放つ兵たちも殆んど討たれ、百三十余人の首が斬られた。
 また、豊後国の住人、臼杵うすきの次郎惟隆これたか、緒方三郎惟義は、伊予の住人河野四郎通信と一つになり、その勢合わせると二千余騎になった。この軍勢をひきいて小舟に分乗すると備前国へ押し渡り、今木いまきの城に立てこもった。能登守は福原でこれを聞くや、心外なことじゃと軍勢三千余騎をもって備前へ馳せ下り、今木城を攻めたが、簡単には陥ちなかった。そこで能登守は、きゃつらは手強い敵であるから、増勢を頂きたいと使いを出し、福原からは数万騎が援軍として下されるということであった。一方城の中も闘いつかれ、物見少くなり敵兵の武器を奪い、鎧をはぎとるなどしていたが、大軍応援来るという情報が入ると、
「敵は大軍、味方は無勢じゃ。包囲されてはかなわぬ、ここを落ちてしばし一息しよう」
 と臼杵次郎惟隆と緒方三郎惟義は豊後国へ、河野は伊予へ逃げた。そこで能登守は、もはや攻むべき敵はない、と福原へ帰ってきたが、宗盛以下の公卿殿上人は能登守の何時もながらの功名に賛嘆するのであった。

三草勢揃え


 寿永三年正月二十九日、範頼、義経は院の御所へ参上、平家追討のため西国に出発する旨奏上すれば、院は、神代から伝わるわが国の三種の神器をつつがなく都へとりもどすよう仰せられた。
 二月四日、福原で平家は、故清盛入道の命日というので仏事が行なわれた。戦乱に明け暮れる毎日に、月日の過ぎるのも忘れていたが、年も明け春が訪れていたのである。世が世ならどんな寺や塔ででも、仏の供養が出来たのに、今はただ、公達が集まって嘆き悲しむばかりである。福原ではこの清盛の供養とともに、人々の任官が行なわれ、僧俗の別なく皆に官位が与えられた。中でも、中納言教盛を正二位の大納言にするということを宗盛が発表すると、

今日までもあればあるかのわが身かは
  夢の中にも夢を見るかな

 と歌で返事をして、この官位を辞退したのであった。主上は京を出られてはおるが、三種の神器を携えて天位につかれているのだから、叙位任官が行なわれても何ら不都合ではなかったのである。一方、京にいる人々は、平家がすでに福原まで攻めのぼって来ていることを聞いて勇み立つ者も多かった。その中でも、二位僧都全真は、梶井宮かじいのみやと長年の間同宿の間柄であったので、互に何かと音信を交わしていた。都の宮より文が来た。旅先のこととて、さぞかしお苦しみのことと存じますが、こちらの都も平穏ではありません、などと詳しく記し、その後に歌一首が添えられてあった。

人知れず其方そなたをしのぶ心をば
  傾く月にたぐえてぞやる

 これを読み終った僧都は、手紙を押しいただいて顔にあて、涙を流した。
 また小松の三位中将維盛は、故郷に残してきた妻子の身の上ばかり思っていた。商人などにことづけて、手紙を交わすにつれて、不安な都で生活を送る妻子の様子がわかり、心を痛めていたが、さりとてここへ迎えても妻子のためにならぬ、あれを思いこれを悩んでは、終日沈んでいた。
 さて、二月四日、源氏は福原を攻める予定であったが、故入道の忌日と聞き、仏事をすまさせるため攻撃はひかえた。五日は西方がふさがり、六の日はこれまた日が悪いというのでとりやめ、七日の朝六時に一の谷の東西の木戸口で源平両軍矢合せと決定した。しかし四日は吉日であるというので、大手、搦手からめての二手に分れ攻め下っていった。
 大手の大将軍には、蒲御曹司範頼かばのおんぞうしのりより、これに伴う人々は、武田太郎信義、加賀美かがみの次郎遠光とおみつ、同小次郎長清、山名次郎教義などがあり、侍大将には、梶原平三景時、嫡子源太景季、稲毛三郎重成、榛谷はんがえ四郎重朝しげとも、小山小四郎朝政ともまさなどを先がけとして、その軍勢五万余騎、四日の朝八時ごろ都を立ち、その日の夕方に摂津の昆陽野こやのに陣をとった。
 搦手の大将軍には、九郎御曹司義経、伴う人々は安田三郎義定よしさだ、大内太郎惟義これよし、村上判官代康国やすくに、田代冠者信綱などがあり、侍大将には土肥次郎実平、三浦介義澄、畠山庄司次郎重忠、和田小太郎義盛、佐々木四郎高綱、熊谷次郎直実なおざね、子の小次郎直家、平山武者所季重すえしげ、奥州の佐藤三郎嗣信つぐのぶ、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などを先がけとして、その軍勢一万余騎、四日の朝八時に都を立ち、丹波路を通り、二日の行程を一日で強行軍して、丹波と播磨との国境にある三草山みくさのやまの東の麓、小野原おのはらに布陣した。

三草合戦


 平家の大将軍には小松の新三位中将資盛、同少将有盛、丹後侍従忠房、備中守師盛、侍大将には伊賀平内へいない兵衛清家、海老えみの次郎盛方が任ぜられ、勢三千余騎で三草山の西麓に押し寄せて陣を張った。
 その夜八時頃、大将軍の義経は侍大将土肥次郎実平を召すと、
「平家はこれより三里離れた三草山の西麓に大軍で控えている。これを夜討ちすべきか、それとも明日襲うべきか」
 と尋ねれば、田代冠者という者が進み出て、
「平家の勢は三千余騎、味方は一万余騎でございますから、遥かに有利、明日のいくさに延ばされるなら平家方も軍勢増しましょう、今は夜討ちがよろしいと存じます」
 と述べると、土肥次郎が、
「よういった。誰しも同じ考えじゃ。夜討ちがよかろう」
 と賛意を示した。ところが武士たちは、
「この闇では馬も進めぬ、どうしたものか」
 と口々にいう。義経は、
「例の大松明おおたいまつはどうだ」
「そうでしたな」
 と土肥はうなずいて立ち上ると兵に命じた。しばらくすると小野原の民家に火が放たれて燃えあがる。これをきっかけに野にも山にも、草にも火がかけられ、火焔は天にのぼり、昼をあざむく明るさになった。
 夜討ちを提案した田代冠者は、父は伊豆国の前国司中納言為綱の子孫、母は狩野介茂光かののすけしげみつの娘、その子が田代冠者であるが、母方の祖父茂光に預けて、この子を武士に仕立てた。素姓をただせば、後三条院第三皇子輔仁すけひと親王から五代目に当るもの、素姓のよろしき上に、弓矢取らせても立派な武士であった。
 平家の方は、まさか夜討ちがあるなど夢にも知らぬ。
「合戦は定めし明日じゃ。いくさに睡眠不足は大の禁物、者ども、今宵はよく寝て明日は存分に戦え」
 といい渡した。先陣は敵との接触が何時あるかわからぬので自ら用心していたが、後陣の兵はいかによく眠るかに苦心した位であった。兜を枕にし、鎧を脱いで頭にかうなど、前後も知らず寝入っていた。その夜半、源氏勢一万余騎、三草山の西麓に押し寄せると、どっとときの声を地も揺げとばかりにあげた。仰天した平家はあわてふためくこと一通りではない。弓を取る者は矢を忘れ、矢を掴む者は弓を見失うという騒ぎの中に、怒濤の如く騎馬の音が迫る。馬に蹴殺されまいと陣の真中をあけて平家勢は逃げた。一度び本陣を割って駆けこんだ源氏は、逃げ散る平家を八方に追って討てば、たちまち五百人余りがばたばたと討ちとられ、手傷負う者はこれに数倍した。大将軍資盛、有盛、忠房は三草の陣を手もなく破られて面目ないと思ったか、播磨の高砂より舟で讃岐の屋島へ渡り落ちた。師盛だけは夜の混戦にまぎれて一人だけ離れたが、平内兵衛、海老次郎を召し連れて、一の谷に落ちていった。

老馬


 平家の宗盛は、安芸右馬助能行あきのうまのすけよしゆきを使者として、
「九郎義経が三草山の味方勢を討ち破って、ここにも攻め入るという。山の手は大事な場所、各々立ち向ってもらいたい」
 と主な家臣に言い遣わしたが、平家の公達きんだちは何かと口実を設けたり、とやかく言って誰も辞退して引き受けぬ。能登守の所にも使者が来た。
「度々のことで恐れ入るが、今度も御辺ごへんが山の手に向って頂けまいか」
 というのである。命令というよりは丁重な要請である。能登守からの返事は勇将にふさわしいものであった。
いくさは、狩や漁のように足場のよいところには行こう、悪い方は行かぬなど勝手なことをいっては断じて勝てぬものです。幾度でも構いませぬ、手強い敵のいる方へ教経は参りましょう。一方は打ち破ってご覧に入れますから、ご安心下さい」
 もちろん宗盛は大喜びであった。早速、越中前司盛俊をはじめとして能登守に一万余騎をつけた。能登守は兄の越前三位通盛と共に山の手に向った。この山の手とは一の谷の後の鵯越ひよどりごえふもとを指すのである。
 通盛は、能登守の仮屋へ奥方を呼び迎えると、最後の名残りを惜しんでいたが、これを見た能登守はひどく怒って兄にいった。
「山の手は大事な場所であるから教経が向けられたのです。ここはまことに容易ならぬ所ですぞ。今にも敵が上の山から攻め下って来たら、取るものも取るひまがありますまい。弓取っても矢つがえなければ軍の役に立たず、矢つがえてもこれを放たなければ敵を防ぐことが出来ません。あなたが名残りを惜しまれるお気持はわかりますが、そのような服装で、平時と同じようなお心では、一体いざという時、何の役に立ちましょうぞ」
 と諫めれば、すっかり恐縮した通盛はすぐ奥方を帰すと物具を身につけた。
 五日の夕暮に源氏は昆陽野こやのを立ち、ようやく生田の森へ近づいた。すずめの松原、御影みかげの松、昆陽野の方を見渡すと、それぞれ陣を張る源氏勢は遠火をたいている。夜が更けるにつれて、そのあたりは山から出る月の光のように明るい。平家も遠火をたけといって、生田の森に型の如く火をたく。点々と散在する遠火の群は、夜白々と明けるにつれて晴れた空の星屑とも見え、古歌にいう、河辺のほたるもこのことかと思われた。源氏は好む所に陣をとっては馬を休め、草を与え、兵を休ませて悠々として攻めを急がぬ。平家は何時攻めて来るか何時襲ってくるかと心休まる閑とてはなかった。
 翌六日早朝、大将軍義経は一万余騎を二手に分けた。土肥次郎実平に七千余騎をつけて一の谷の西の木戸口へつかわし、自らは三千余騎を率い一の谷の後の鵯越から降りて平家の背面を衝こうとして出発した。しかし武士たちは何時になく不安であった。恐るべき難所と聞え、地利もよくわからぬ地へ踏みこもうというのだから無理はなかった。
「ここは天下に聞えた険難の地だ。命は惜しくないが、どうせ死ぬなら敵と渡り合って討ち死したい。難所に落ちて死にたくはない。だれか、この山の案内者を知らぬか」
 とさわぎ合っていた。そこへ武蔵国の住人、平山武者所が進み出て敢然といった。
「季重こそこの山の案内です。この山はよく知っております」
 義経はさすがに驚いた。
「そうはいうが、そなたは東国の育ちではないか、今日始めて見る山の案内に詳しいとは、まこととは思えぬ」
「これはお言葉とも思えませぬ。吉野、泊瀬はつせの桜花を歌人が居ながらにして知っていると同じく、敵の立てこもる城の背後は、剛の武者ならば知っております」
 と季重は重ねていう。傍若無人、まことに颯爽とした発言ではあったが、これには義経も苦笑した。
 すると、武蔵国の住人、別府小太郎清重という今年十八歳になる者が進み出て義経にいった。
「父、義重法師が教えましたのに、山越えの狩でも、敵に襲われた時でも、深山で道に迷った時は、老馬に手綱を結んで打ちかけ、先に追い立てて歩け。そうすれば必ず道へ出るものだ、というのでございます」
 といえば、義経深くうなずいた。
「よくぞ申した。雪が野原を埋め尽しても老いたる馬ぞ道は知る、という故事もある」
 と白葦毛の老馬に鏡鞍かがみくらをおき、白轡しろくつわかませて目につき易いようにして、手綱を結んで打ちかけ、先に追い立てて、未知の深山へ踏みこんだ。
 頃は二月のはじめ、峰の雪はまだらに残って花かと見まごうばかりである。登れば白雪の峰皓々こうこうとしてそびえ、下れば青山峨々ががとして懸崖へ連なる。こけの細道を辿たどってゆけば、嵐に吹き散る松の雪は梅花のように難行軍の一行の上にふりかかる。東に西に鞭を上げ駒の足を急がせたが、なかなか進まぬ。やがて日は落ちたので、深山の中で馬からおりて陣をとった。
 そこへ武蔵坊弁慶が一人の老翁を連れて来た。義経が、
「それは何者」
 と問えば、
「この山の猟師でございます」
「それでは、山の案内はよく知っているだろう」
「知らぬ筈がございませぬ」
「そうであろう。お前に聞くが、これより平家の城の一の谷へ降りようと思うがどうだろう、降りられるものか」
「とてもとてもかないませぬ。三十丈の谷や、十五丈の岩壁など、容易に人が通れるものではありませぬ。まして馬など思いもよらぬことでござります。その上、城の内には落し穴を掘り、菱などを多く地に植えて待ち構えておりましょう、ご無理なことと存じまするが」
 義経はしばらく考えていたが、
「お前がいうそんな所を鹿は通るのか」
「鹿なら通います。世間が暖かになりさえすれば、奴らは草の深い所で寝ようと移動するものでござります。播磨の鹿は丹波を越えて行き、寒くなれば雪の浅いところで餌をあさろうと、丹波の鹿は播磨の印南野いなみのを越えて行くものでござります」
「それでは馬場と同じことだ。鹿の通える所を馬が通れぬ訳はあるまい。ともかくお前は案内してくれ」
「私めは年老いて、この身かないませぬが」
「それでは、子はいないのか」
「子供はございます」
 と老翁がいうと、熊王くまおうという十八歳になる若者を案内者として差し出した。義経はすぐ熊王のもとどりを取りあげて元服させ、父が鷲尾わしおの庄司武久といったので、その子を鷲尾三郎義久と名乗らせ、案内者として召し連れた。後に平家が滅んで源氏の世となってから、義経と頼朝の間が不和となり、義経が奥羽へ下って討たれた時に、鷲尾三郎義久と名乗って共に死んだのはこの男である。

一二のかけ


 この六日の夜半まで、義経と共に搦手の勢に加わっていた武士に、熊谷、平山がいたが、今度の合戦に目覚ましき功名の一つも立てようと決意していた。熊谷次郎は、息子の小次郎を呼んで自分の決心を伝えた。
「この搦手勢が向うところは、名高き難所、城に辿たどりつくだけでも大仕事じゃ、誰が先陣がけするかなど恐らくここでは無理じゃ。いざ参れ、これから土肥が行った西の手へ馳せて、一の谷の先がけをしよう」
 といえば小次郎も、
「おっしゃる通りでございます、誰しも父上のように考えるところです、ではすぐに参りましょう」
 といって父を喜ばせたが、そのとき熊谷次郎がはっと思い出した。
「うむ、平山もこの勢の中にいた。やつも人と一緒に足並揃えていくさするのは大嫌いな男じゃ、平山も何かたくらんでおるだろう、奴の様子を見て参れ」
 と下郎に好敵手の動静を偵察に行かせた。熊谷の推察通り、平山は熊谷より一足先に支度をととのえていた。物具もののぐの点検をしながら、
「他人はどうあろうとも、この季重は一歩も後へ引かぬぞ、引くものか」
 と、ぶつぶつひとりごとをいっている。傍らに彼の愛馬が悠然と飼料の中に首を突っこんで喰っている。平山の下郎が、
「全くよく喰う馬だ、その上に長飯と来ているから憎くなる」
 といって鞭で馬を叩く。
「そんなことするな、その馬の名残りも今夜限りじゃ」
 と下郎をなだめていたが、太刀をき、弓を携えると腹のふくれた馬に乗り、さっと闇の中に消えた。この様子を見ていた熊谷の下郎が走り帰って報告すると、
「案の定だわい」
 といって笑い、熊谷も直ちに出発した。
 熊谷次郎この夜の装立は、かちんの直垂、赤革縅の鎧、くれない母衣ほろをかけ、権太栗毛ごんだくりげという名馬にまたがる。息子の小次郎直家は、沢潟おもだかを濃く摺りこんだ直垂に、※(「てへん+君」、第3水準1-84-79)ふしなわ目の鎧を着こみ、西楼せいろうという白葦毛に乗った。旗差しの侍は、黄塵きじんの直垂、小桜を黄に染めた鎧、黄河原毛きかわらげの馬に乗った。主従三騎、味方がやがて落そうとする谷を左に道をとり、人も通わぬ田井たいはたという古い道を急ぎ、一の谷の浜辺に出た。まだ深夜である。
 土肥次郎実平は七千余騎と共に一の谷近くの塩谷しおやに控えていた。熊谷たちは夜の闇にまぎれて、悟られぬようにここを通り抜け、一の谷の西の木戸口に着いた。城を見ると物音一つなく、深い夜の中に眠るがごとく、静かに木戸、楼などが夜空に溶けこんでいる。熊谷次郎は小次郎に低い声でいった。
「ここが難所ということは誰も知っている。われこそ一番乗りと先がけを狙う者は多かろう。すでに押し寄せていて、じっと夜明けをこのあたりで待っている者も多いに違いないぞ。ここにおるのは直実だけと思ってはならぬ。どうじゃ、今すぐ名乗ろう」
 こう息子にいうと、彼は敵陣の並び立つ楯のきわまで馬を進め、あぶみふんばり立ちあがると、大音声をあげた。
「武蔵国の住人熊谷次郎直実、その子小次郎直家、一の谷の先陣ぞ」
 城の中にこの声が轟き渡ったが、
「ご苦労な奴らじゃ。よしよし物音させるな、敵の馬の足を疲れさせ、矢を射尽くさせてしまえ、討ちとるのはその後からじゃ」
 と誰も相手にならぬ。
 ともかく後に声の続く者もないので、まず先陣は確かなこととほくそ笑んだ熊谷父子が一息入れた時、蹄の音が鳴って闇の中から武者三騎が現れた。矢張り先陣を狙う源氏の武士たちである。
「誰ぞ」
 と熊谷が問えば、
「季重」
 と答える。平山であった。
「問うは誰ぞ」
「直実じゃ」
「熊谷殿か、何時来られた」
「宵のうちからじゃ」
「うむ左様か。この季重もつづいて寄せる筈だったが、成田五郎にたばかられて遅うなった。成田が死ぬる時は一所でというので連れだって来たが、「のう平山殿、余り先陣を焦り給うな、合戦で先がけする時は、味方の勢が後ろに控えいるのが大切、それでこそ高名も不覚も人に知られよう。続く者、見る者なく敵の大軍の中へただ一騎駆けこみ討たれては何にもならぬものよ」という。わしも成程と思うて坂にかかった時、馬の首を下に向け何時でも駆け下れるようにして味方の勢を待っていたのじゃ。成田も続いてやって来た。いくさの話でもしてここでわしと共に待つのかと思っていると、わしの顔を無愛想にちらと見たまま、そばをぱっと一気に駆け抜ける、うむ、奴は季重をたばかって先がけするよな、と五、六間は先にやらせたが、馬を見ればわしのよりも弱そうじゃ、一鞭あてて追いつき、「成田殿、よくもこの季重をたばかれたな」といって、そのまま後において来た。彼はずっと遅れて来るじゃろう。わしの後姿も見ておるまい」
 と今は笑いながら語った。
 やがて東の空が白み、夜は静かに明けていった。夜でわからなかったが、熊谷が薄明に見廻せば、平山など五騎がいる。熊谷は先程の話を聞き、一度名乗ったが平山の前で再び名乗ろうと馬を楯の前に進ませ、
「そもそも以前名乗った武蔵国の住人熊谷次郎直実とその子小次郎直家、一の谷の先陣ぞ」
 と大音声をあげた。城では、一晩中名乗りつづける熊谷父子をひっ捕えてみしょう、とさっと木戸口を開き、越中次郎兵衛盛次、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、後藤内ごとうない定経など剛の武者二十余騎が躍り出てきた。
 この日、平山は、滋目縅しげめおどしの直垂、緋縅の鎧、二筋引きの母衣ほろをかけていた。
「保元、平治両度の合戦に先がけした武蔵国の住人平山武者所季重」
 と大声で名乗るや、一気に駆けこんだ。熊谷が駆ければ平山が続き、平山が駆ければ熊谷がつづくなど、もみにもみ火の出るほど入れかえ入れかえ攻め立てた。平家の武者たちも熊谷、平山にかなわぬと思ったか、さっと城の中に退くと、中から矢を射かけて防いだ。
 熊谷の馬は腹を射られた。苦しんではねるので馬を下りて弓杖をついて立った。息子の小次郎も年十六歳と名乗りながら、まっ先に駆けて戦ったが、左のひじを射られてこれも馬からおり、父と並びあった。
「如何した小次郎、手傷でも負ったのか」
「やられました、が大したことはありませぬ」
「元気を出せ。よいか、鎧を絶えず揺り動かせ、裏まで射らるるなよ、しころを傾けろ、兜の内を射られぬよう注意しろ」
 と口早に教えると、熊谷は鎧に立った数多の矢をかなぐり捨て、城の内をにらむと大声をあげた。
「去年の冬鎌倉を立って以来、命は頼朝殿に捧げ、わがしかばねは一の谷にさらそうと決めた直実。室山むろやま水島みずしま両度の合戦に打ち勝ち功名したと聞ゆる越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛はおられぬか。功名も不覚も敵によるのじゃ。相手かまわず戦っても功名は得られぬぞ、いざ熊谷父子に寄り合えや、直実と組めや組め」
 とののしった。
 これを聞いた城では、越中次郎兵衛盛次が打って出て来た。装立いでたちは彼の好みのもので、紫裾濃むらさきすそごの直垂に、鍬形打った兜の緒をしめ、重籐の弓小脇にはさみ、背に二十四本の切斑きりふの矢を負い、金覆輪の鞍おいた連銭葦毛の馬にのっていた。熊谷父子目ざして駒を進め、熊谷父子の間に割って入ろうとする。そうはさせじと二人は太刀を抜いて額にあて、隙間なく並び立つや、そのまま前へ前へ進む。これを見た越中次郎兵衛、かなわぬと思ったか、城に引き返そうとする。
「なんとした、そこにおらるるは越中次郎兵衛と見た、われらが相手では不足か、馬を並べて組んでみよ、返せ返せ」
 と熊谷がののしるが、次郎兵衛は、
「それはせぬ」
 といい捨てると、後も振りかえらず城に入った。上総悪七兵衛がこれをみて、
「見苦しき殿方の振舞ぞ、きゃつが組もうといっているのじゃ、出合わぬのは心外じゃ」
 といって駆け出そうとする。その鎧をしっかと押えた次郎兵衛が、
「君の大事はこれに限らぬ、思いとどまり給え」
 と強く制止するので、彼も諦めた。
 この後、熊谷父子は替え馬に乗り、おめき叫んで駆け廻った。平山は熊谷父子が戦っている間に馬を休ませていたが、やがて続いて攻めこんできた。平家は、敵は小勢なるぞ、射とれや射とれ、と雨のように矢を放つが、かえって小勢なのでなかなか当らぬ。奴らと組んで討ちとれ、奴と組めいと下知がとぶが、誰も名乗り出る者はいない。馬の相違だからである。平家の馬は食料も少なく、疲れている上に体力もない。これと比べると源氏の馬は鍛えに鍛えた肥え馬である。押し並べれば一当てで蹴倒されることはわかりきっていた。
 平山はやがて、命より大切にしていた旗差しの兵を射られた。憤怒の形相で彼は敵の城に駆け入ると、忽ち敵兵の首をあげて仇をとった。熊谷父子も分捕り品を沢山手に入れた。熊谷父子が一番乗りであったが、城の木戸口が開かぬので駆け入れなかった。平山は後手にはなったが、城内に攻め込み、首をあげた。このため、どちらが一の谷の先がけであるかについて、後まで争いの種になった。

二度のかけ


 こうして先陣を争っているうちに、成田五郎も馬を駆って到着した。そこへ土肥次郎が七千余騎を率きつれて押し寄せてきた。色とりどりの旗差しものを浜風にはためかせながら、おめき叫んで攻め立てると、城の平家も防ぎ戦い、合戦は主力が激突して火の出るような、すさまじさに変った。このとき、生田の森を源氏は五万余騎でかためていたが、この勢の中に武蔵国の住人河原かわらの太郎、河原次郎という二人の兄弟がいた。河原太郎は弟の次郎を呼ぶとすぐいった。
「大名たちは自分の手を下さなくとも、家来の功名でわが誉をあげることができる、われわれは自分で直接手を下さねば手柄にはならぬ。いま敵を目前において、矢の一つも射かけないままこうして待っているのは、われながらあまりにも不甲斐ない。われはこれより敵の城の中へまぎれ込み、一矢射てくれようと思うが、恐らく千万に一つも生きて帰ることは期し難い。そこでお前に頼みがある、お前はここに残ってわれのため後の証人あかしとなってはくれぬか」
 というと、弟の次郎は涙をこぼして、
「私達はこの世でたった二人の兄弟です、その一人の兄を討たせて弟が残ったとしても、どれほどの栄華ができましょう。できたとしても、したくありません。離ればなれで討たれるより、一つところで討ち死することこそ兄弟ではありませんか」
 というので、二人の兄弟は手を取りあって共に死ぬ約束をした。下郎を呼び寄せて、兄弟二人の最後の様子を書き送った手紙を妻子のところへ届けさせた。二人は馬にも乗らず藁草履わらぞうりをはき、弓杖をついて、その夜城内へ忍び入った。生田の森の逆茂木さかもぎを乗り越えて城の中へ乗りこめば、星空の夜に城郭はおぼろにかすみ、お互の鎧の色さえも見えぬ。しばらくあたりをうかがっていた河原兄弟はよい足場に辿たどりつくと、急に太郎が大音声で名乗りをあげた。
「武蔵国の住人河原太郎私市高直きさいちのたかなお、同じく次郎盛直もりなお、生田の森の先陣ぞ」
 これを聞いて、城の平家は驚いた。たった二騎で大軍の中へ入りこんで来た大胆さに感心もしたが、同時にあきれもしたのである。
「おう、天晴れな武士だ、東国の武士ほど恐ろしい者はいない。しかし、この大勢の中へたった二騎で紛れこんだとしても、何ほどのことも出来まい、そのままに捨て置いて、可愛がってやれ」
 といって、この二人を討とうとする者もいない。しかし河原兄弟はここで一攻めしてわが手並を見せてくれようと、弓に矢をつがえた。太郎も次郎も共に弓の名手として名のある者、二人が張り切って弓勢高らかに放った矢は、次々と平家の兵を倒して行く。つがえては放ち、引いては散々に射かけるので、もう平家でも黙ってはいられぬ。
「こうなっては、奴らを余り可愛がってはおれぬ、構わぬ、討ち取ってしまえ」
 という下知が飛び、これに応じたのが真名辺まなべの五郎という武士である。西国では屈指の名手といわれた強弓の使い手で、備中国の住人、真名辺四郎、真名辺五郎という兄弟があった。兄の四郎は一の谷を守り、弟の五郎は生田の森にいた。
「わしが射取って見せよう」
 と強弓を左手に持ちかえて、河原兄弟を見た。
「相手は剛の者ぞ、見事射るか」
 と傍らの武士が問えば、真名辺五郎は不敵に笑うと背の矢を抜いた。河原太郎は今しも弦に矢をつがえるところである。真名辺は常人にはとても引けぬといわれた強弓に矢をつがえ、きりきりと引きしぼると、一呼吸置いた。あちこちで合戦の叫びが聞えるが、彼のまわりには一瞬、異様な静けさがあった。と、空気を破る弦の音が激しく鳴り、一条の光の走るように矢が河原太郎の鎧の胸板に飛んだ。いましも弓を引かんとした太郎の鎧に矢が当ると、そのまま厚い胸板を苦もなく貫き通した。がっくりと崩れる身体を太郎は弓を杖によろめいて立ちあがった。弟の次郎が走り寄って、矢の刺さった兄の身体を肩にかつぐや、一散に生田の森の逆茂木に走り、これを乗り越えようとした。次郎の鎧の草摺の内がのぞいたとき、真名辺の第二の矢が次郎を射った。兄を肩に次郎はたまらず転げ落ちて伏したところへ、真名辺の下郎たちがかけ寄り二人の兄弟の首をあげた。これを大将軍の新中納言知盛に見せると、
「天晴れな剛の者、こういう武士こそ一騎当千のものであろう、惜しい奴を失ったもの」
 といって感心した。
 河原の下郎たちがかけ出し、
「河原殿兄弟がただいま城内へ先がけして、討ち死なされましたぞ」
 といって叫んだ。これを聞いた梶原平三は、
「河原が討たれたか。わが党の不覚のためなるぞ。寄せる時は今ぞ、者ども駆け入って攻めよ」
 と大声で下知すると、梶原の五百余騎、生田の森の逆茂木を取りのけさせ、どっと叫んで城内へ攻めこんだ。この中に梶原の次男平次がいたが、ただ一騎先へ先へと進むので、父の平三が使者に追わせて、
「後陣の勢が続かぬうちに、先がけした者に勧賞けんじょうなしと大将軍から仰せあったるぞ」
 といわせたが、平次は、しばらく駒を止めて、

もののふの取りつたえたる梓弓あずさゆみ
  引いては人のかえすものかは

 と詠むとそのまま、むらがる敵の中へ駆け込んでいった。父の平三は、
「平次を討たすな、者ども平次を討たすな、続けよ」
 と叫びつづける。平次の兄の源太、弟の三郎が平次を追い、梶原勢五百余騎は大軍の中へ一団となって疾風の如く駆け込んでいった。群がり寄せる平家の勢の中を縦横無尽に駆け廻り討ち廻りしてから、潮時をはかり、兵をまとめてさっと引きあげた。
「皆の者、よくぞ戦った」
 とねぎらいの言葉をかけながら梶原が部下を見渡すと、嫡子の源太の姿がない。郎党の一人に、
「源太はどうした?」
「あまりに深入りなされたため、お討たれになったものと存ぜられます。遥か向うの方にもお姿は見えません」
 という答えに梶原は、はらはらと涙を流し、
いくさで先がけしようと思うのも子供のためだった、源太討たれてこの景時命長らえても何になろう、さア、者どもかえせ」
 と直ちに馬の首を返すと、再び敵城に駆け入った。
 敵の勢の中に入るや、梶原はあぶみふんばって立ちあがり、大音声をあげた。
「昔、八幡太郎殿の後三年のいくさの折、出羽の千福せんぶく金沢城を攻められし時、生年十六歳と名乗って真っ先にかけ、左の眼を兜の鉢つけの板に射つけられながら、その矢は抜かずに、つがえた矢を射返して敵を射落し、勧賞を受け、その名を後代に揚げたる鎌倉権五郎景政五代目の子孫、梶原平三景時という、東国には聞えたる一騎当千の武士じゃ。われと思わん人は寄り合え、見参せん」
 と叫びながら進むと、
「ただいま名乗るは東国で音に聞えた名だたる武士ぞ、逃すな、討ちもらすな」
 と城の武士たちは梶原を包囲して、われこそ討ち取ろうとひしめきながら駆け寄って来た。
 梶原はわが身のことはうち忘れ、嫡子の源太は何処か、源太の姿は見えはせぬかと、必死に駆け廻り、群がる敵を蹴散らして奥へ奥へと探し廻った。すると城の奥、二丈ばかりの崖下がけしたで敵と渡り合う源太を見つけた。源太の馬は射倒されて、いまは徒歩となり、兜は打ち落されて髪ふり乱れ、郎党二人を左右に従え、太刀振りかざして五人の敵を相手に死物狂いに斬り結んでいた。源太はここを死に場所と覚悟きめたか、優勢な敵にひるむこともなく戦っていた。これを見ると喜びの声をあげた梶原は、馬から飛びおりるとすぐかけ寄った。
「源太生きていたか、父の景時参ったるぞ。死んでも敵に後ろは見せるな」
 とはげます言葉にも嬉しさがこもっている。親子で三人の敵を倒し、二人を負傷させるや、景時は、
「武士たるもの、進むも退くも、その折を見るものだ。源太参れ」
 と、源太をつれて意気揚々引きあげてきた。梶原の二度のかけ、とはこれをいうのである。

坂落し


 大手は激戦になってきた。梶原に続き、三浦、鎌倉、秩父ちちぶ、足利の一族、党では猪俣いのまた児玉こだま野井与のいよ、横山、西にし党、綴喜つづき党などや、その他の私党の兵が続々と攻めこめば、平家もここに兵力のすべてを投入して戦った。源平両軍の叫ぶ声は山を響かし、馬の馳せちがう音は雷のようだった。互に射かわす矢は雨のように激しかった。手傷負っても尚戦う兵もあり、引き組んで相手と刺し合ったまま死んでゆく兵もあった。相手を地に組み伏せて首を掻く者もあれば、逆に首を掻かれる者もあり、両軍どちらも全力を傾けて攻防の秘術をつくしたが、何れに隙があるとも見えなかった。この一戦に天下を賭け、是が非でもここで源氏に大打撃を与えて、失地を一挙に回復しようとするここの平家はさすがに手強く、大手では源氏もとても勝てそうには見えなかった。
 一方、大将軍九郎御曹司義経は、七日の明方、三千余騎で鵯越ひよどりごえにのぼり、人馬を休ませていたが、その騒ぎに驚いたか、牡鹿おじか二匹、牝鹿めじか一匹が平家の城の一の谷へ逃げ下りた。平家の武士たちはこれを見て、
「奇怪なことじゃ。里近くにいる鹿でさえ人を恐れて山深く逃げ込むのが普通なのに、この人の中へ逃げ下りるとは合点ゆかぬ。これは上の山から源氏が下りて来るのではないか」
 と、大いに騒いでいるところへ伊予の住人、高市たけちの武者所清経が[#「高市武者所清経が」はママ]進み出て、
「たとえ何物であろうと、敵の方から出て来たものを通すことはない」
 というと、弓で牡鹿二頭を射とめ、牝鹿だけは見逃がした。越中前司はこれを見ていたが、
「無益なことをする方々じゃ。鹿をいま射られた矢で、敵の十人は防げたものを。殺生で合戦に貴重な矢を無駄にし給うな」
 といって制止した。
 義経は鵯越から平家の城郭を遥かに見下していたが、目もくらむ断崖を前に俄かによい知恵も浮ばぬ。彼の得意とする奇襲にはここは絶好の地だが、想像以上に難所である。しばらく考えていた義経は、
「馬を追い落してみよ」
 といった。数頭の馬を絶壁の上から追い落すと、果して崖の途中で転んで落ちて砕かれる馬、足を折ってそのまま死ぬ馬などもあったが、その中に鞍置き馬三頭がなんと崖の下に無事に降りた。これを認めるや義経は、
「よし、馬の乗り手が充分に心得て落せば、ひどい傷は受けまい。者ども下りよ、義経を手本にせい」
 と、まず彼は三十騎ばかりを連れて真っ先にこの懸崖を馬もろともに降りはじめた。そこで残りの三千余騎、彼につづいて一斉に落ち始めた。馬の足を踏み入れたところは小石まじりの砂地である。砂塵を巻いて一気に二町ばかり滑り落ちた。崖の途中の段になったところで一旦馬を停め、そこから下を見下すと、源氏の武士も背筋に冷いものが走った。こけむした大磐石が垂直に十四、五丈もあろうか、壁のように切り立っている。進むことも出来ず、後へ引き返えすこともできないので、兵たちはここでいよいよ最後かと呆然ぼうぜんとしていた。そこへ三浦の佐原十郎義連よしつらが進み出ると、
「各々方、何をとまどっておられるのか。われらの土地では、鳥一羽飛び立ってもこれを追う時は、こんなところを毎朝毎夕馬を飛ばしているものだ。三浦の難所に比べれば、ここなどは馬場みたいなもの」
 と、絶壁を真っ先きに下りはじめた。あっという間もない早業にふるいたった三千余騎が続いて崖を下りはじめた。馬と馬が触れ合い、兜と兜が接するばかりである。えい、えい、と武士たちは忍び声で馬に力をつけながら馬を静かに落して行くのだが、下を見れば目がくらむ。殆んどの武士はわれ知らず眼を閉じたまま、岩に吸い着くように下ってゆく。人間の仕業とも思えない行軍である。漸く下に落ち、大地を蹄がふまえれば武士たちの勇気は百倍した。どっとときをつくれば、山々、谷々に木霊こだましておよそ十万余騎もあろう声とも聞えた。
 村上判官代康国の勢が、各所に火を放つと平家の陣屋は、たちまち焼き払われ、猛々たる黒煙は平家の陣を襲った。あわてふためいた平家は、助かるかも知れぬと海に向って一散に逃げ出し、浜にあった船を押し出し、われ先に海に逃れようとした。みぎわには船はいくらもあったが、一艘の船に甲冑をつけた武士が、人を押しのけてでも乗りこむ。それが四、五百人にも千人にも及び、いざ沖に船を漕ぎ出したところ、みるみる三艘の船が重さに耐えかねて沈んでいった。このあと、船には身分ある者は乗せても下郎は乗せるなといって、武士たちは、雑人が船に近寄れば太刀、長刀で打ち払う。船をめぐって味方同志の凄惨せいさんな場面が展開された。源氏勢とは戦わずに、船にしがみつく雑人を、武士たちもおのれが助かりたい一心でこれを斬った、今迄共に戦って死なん、などいう間柄でもこの混乱にはすべてが忘れられ、刃だけが物をいったのである。一の谷の水際には、腕を斬られ、肱を断ち落されなどした平家の雑人が朱に染まって倒れている。一の谷の浜は味方に斬られた血で汚れた。
 しかしこの浜でも、大手でも、武蔵や相模の若武者たちは敵とわき目もふらず戦い、ここを死に場所と心にきめて敵にうしろは見せなかった。能登守教経は、今までの度重なる合戦で一度も不覚をとったことのない武将であったが、この度はどう思ったか薄墨うすずみという馬を駆って西に落ち、播磨の高砂から船に乗って讃岐の屋島へ渡っていった。

盛俊の最後


 新中納言知盛は生田の森の大将軍だったが、東より攻めよせる源氏に対して一歩も退かずに戦っていた。そこへ山のきわから押し寄せた児玉党から使者が来た。
「貴殿はかつて武蔵の国司であられたから、そのよしみでお教え申し上げる。貴殿の後ろを振り返って見給え」
 という。後ろを向くと黒煙が猛々と襲いかかってくる。すでに西は敵に破られたるかと思えば、俄かに戦意を失った知盛は、もう、どうしていいかわからなかった。人々はとるものもとりあえず、われ先にと落ちていった。
 越中前司盛俊は、山の手の勢の侍大将だった。今更落ちても仕方ないと思ったのか、そこに踏みとどまって敵を待っていた。現れたのは猪俣小平六則綱のりつな、よき敵と見て、鞭打って駆け寄ると馬を押し並べてむんずと組み、そのまま地にどうと落ちた。この猪俣は関東でも聞えた剛勇の士で、鹿の角の枝を両手で苦もなく裂いたという剛力の者である。平家の盛俊も二、三十人力と称されていたが、実際は六、七十人もかかって浜に引きあげる船を、ただ一人が動かすほどの大力の持主であった。地に落ちた二人が力を尽くしてもみ合ううち、盛俊の力がまさったのか、猪俣を取りおさえると身動きもさせぬ。下になった猪俣は、必死に刀を抜こうとするが指の股が広がって掴むことができない。声を出そうとするが、しめつけられていて声も出ない。しかし猪俣も大剛の者だったので、しばらく息を休めると、盛俊に、
「敵の首を討つには、自分も名乗り、敵に名乗らせて始めて大功となるものじゃ。名も知らぬ首とったとて、何の役にもなり申さぬぞ」
 というと、もっともだとうなずいた盛俊は、
「われはもと平家の一門であったが、身不肖によって、今は武士になっている越中前司盛俊という者。貴殿は何者か、名乗られい」
「武蔵国の住人、猪俣小平六則綱と申す。ただ今私の命を助け給えば、貴殿のご一門が何十人あろうとも、今度の勲功の賞に替えてお助け申そう」
 というと、盛俊は大いに怒った。
「盛俊不肖の身とはいえ、平家の一門じゃ。盛俊は源氏を頼もうとは思わぬ、源氏もよもや盛俊に頼まれようとは思っていまい。貴殿は憎いことを申す者じゃ」
 と、まさに猪俣の首を掻き切ろうとした。
「卑怯なり、降人となった者の首を討たるるのか」
「左様か、降るのか。それならば助けよう」
 といって許してやった。
 二人が組み打った前は、畑のように乾いた田であるが、後ろは泥深い水田であった。あぜの上に腰をおろして盛俊と猪俣は肩をならべて一息入れていた。しばらくすると、緋縅の鎧を着て、月毛の馬に乗った武者が一騎、馬を急がせてやって来た。盛俊が、けげんな面持でそれを眺めやると、猪俣は、
「あれは猪俣が心親しくしている人見四郎と申す侍にござる。この則綱を見て、やって来るものとみえ申す。ご安心なされませ」
 といいながら、人見が近づいてくると、心の中で、こやつと組もう、さすれば彼も寄って来て助けぬことはあるまいと、盛俊の隙をじっとうかがっていた。人見は六間くらいのところまで近づいた。
 盛俊は始め警戒して二人をかわるがわる注視していたが、人見四郎が近づくにつれ、猪俣への監視に隙が出来た。その一瞬をねらって猪俣は、力足をふんばって立ちあがるや、盛俊の鎧の胸板を力をふるって突き、彼をうしろの深田へのけざまに倒した。起きあがろうとする上に乗りかかるや、盛俊の腰の刀を抜き、鎧の草摺を引きあげ、柄持つ拳も通れと三度刺し、そのまま首を取った。そして、首を太刀の先に貫くと高く掲げ、大音声で叫んだ。
「日頃、平家方で鬼神と聞えた越中前司盛俊を、武蔵国の住人猪俣小平六則綱討ち取ったり」
 かくて、その日の功名の筆頭にあげられたのであった。

忠度の最後


 薩摩守忠度は、その時、西の手の大将軍であった。紺地錦の直垂に、黒糸縅の鎧をつけ、逞しい黒馬にまたがって、百騎ばかりで落ちて行こうとしているところを見つけたのは、武蔵国の住人岡部六弥太忠純おかべのろくやたただすみであった。見るからに、天晴れな武士とばかりに追っかけて、大声で呼びかけた。
「そこを落ちゆくお方、お見受けすれば、平家の大将軍と覚えまするぞ、返し給え、敵に後ろをお見せになるとは何たる卑怯」
 六弥太の言葉に忠度はちらりと後ろを振向いた。
「わしは味方じゃよ、お間違いなさるな」
 その途端、黒々と鉄漿かねをつけた歯がのぞいた。
「源氏には、かねをつけた人はおりませぬぞ、いざ」
 六弥太は、駒をかけ並べると、むんずと、忠度に組みついた。忠度の囲りにいた百騎ばかりの兵は、それを見ると、助けようともせず、わあっと声をあげて四方へ逃げ散った。彼らは、一時集めの烏合うごうの衆で、闘う気持は持っていなかったのである。
 忠度は、熊野育ちの名うての大力の上に、身のこなしの軽い早業の持主であったから、素早く六弥太を引っつかむと、
「味方だといわせておけばよいものを、余計なことを申すやつめ」
 と、馬の上で二太刀、馬から落して更に一太刀突いたが、二の太刀は鎧の上からは通らず、三の太刀も浅手であったから、首をかこうとしたところへ、遅ればせに駆けつけた六弥太の郎党が、切ってかかってきた。不意をうたれた忠度は右の腕を肩のつけねから切り落された。忠度も今はこれまでと観念したのか、
「最後の十念を唱える故、そこを退け」
 と、残った左手で、六弥太を投げとばすと、西の方に向かって高らかに、
「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」
 と唱えも終らぬうち、六弥太の刀がとんで、首はころりと前に落ちた。
「余程名のある大将軍に違いないが、一体誰だろう」
 とえびらに結びつけられていた紙をほどいてみると、旅宿花りょしゅくのはなという題で、一首の歌が書き連ねてあった。

行き暮れてしたかげを宿とせば
  花や今宵のあるじならまし

 忠度、と書かれた名前から、薩摩守であることがわかったのであった。死ぬまで歌を忘れなかったのは、いかにも忠度らしい襟度きんどだった。
 六弥太が、
「平家にその人ありと聞えし薩摩守忠度、岡部六弥太忠純が討ち取ったぞ」
 と叫ぶと、
「ああ武芸にも歌道にもひときわ優れた名将をあたら惜しいことを」
 と敵も味方も、感じ入ったということである。

重衡しげひらいけどり


 本三位中将重衡は生田の森の副将軍であった。その日の装立いでたちは、かちんに白と黄の糸で千鳥が岩に群れ遊んでいる直垂、紫裾濃むらさきすそごの鎧、鍬形くわがた打った兜の緒をしめ、黄金作こがねづくりの太刀、切斑きりふの矢二十四本を背に、重籐の弓を持ち、童子鹿毛どうじかげという名馬に金覆輪の鞍を置いて乗るという華やかなものであった。乳兄弟の後藤兵衛盛長も緋縅の鎧を着て、重衡の大切にしている夜目無月毛よめなしつきげという馬に乗っていた。この主従二騎は船で落ちようとみぎわの方へ馬を駆っていたが、源氏のしょうの四郎高家と梶原源太景季が、よき敵ぞ討ちとれや、と叫びながら、これを追った。浜に助け舟は多かったが、後より敵が迫るので、船に乗りこむひまがない。止むなく湊川みなとがわ刈藻かるも川を渡り、板宿いたやど、須磨も通って西へ落ちていった。どこまででも追わん、と決意した庄と梶原は、馬に鞭をあてあぶみを蹴って追跡するが、重衡の乗る馬は稀代の逸物、戦場で疲労した梶原たちの馬の足の及ぶところではない、距離が次第に離れ行く。
「このままでは討ちもらす、遠矢を射て落してくれよう」
 と、距離があきすぎ射当てる自信は梶原にはなかったが、もしやと思い、弓を満月に力一杯引きしぼって放てば、見事その矢は重衡の乗る馬の後のつけ根に深くささり、名馬童子鹿毛の足はみるみる崩れてきた。この有様をみた乳兄弟の盛長は、これでは自分の馬が重衡にとられるだろう、徒歩ではもう逃げることかなわぬ、と俄かに恐怖心にかられ、夜目無月毛に鞭打って逃げ足を早めた。
「これ盛長、待ていと申すに、わしを見捨てて何処に行くのか、日頃の契りを忘れたか、待てい盛長」
 と叫んだが、聞えぬふりをした盛長は、鎧につけた赤印もかなぐり捨てると、必死になって逃げに逃げた。
 盛長に逃げられ、馬も弱った三位中将は、最後の覚悟をきめた。馬もろともにさっと海へ乗り入れ、沖に進んで身を投げようとしたが、ここの海は遠浅でそれもできない。腰の刀を抜くや腹を切ってここに果てようとしているところへ馳せ寄った庄四郎高家が馬からさっと飛びおりると、
「お止め下さい、私がどこまでもお供仕ります」
 と、重衡を自分の馬に乗せて、鞍の前輪にしばりつけた。そして庄は替え馬に乗り、重衡を伴って源氏の陣に帰ったのであった。
 さて、主君重衡を置き去りにした乳兄弟の盛長は、ここを難なく逃げ落ちて、後には熊野法師の尾中法橋おなかのほっきょうを頼って、そこに住んでいた。やがて法橋が死に、その妻が訴訟のため京にのぼったとき、その供をしたが、三位中将の乳兄弟として彼は多くの人に顔を知られていたので、
「あれがご主君と共に死なずに逃げ去った盛長よ、今は後家の尼さんのお伴をしている、憎き男よなあ」
 と皆に爪弾つまはじきされ、さすがに盛長も恥じたのか、扇で顔をかくして京を歩いたという。

敦盛あつもりの最後


 平家の敗北が目に見えてきたので、平家の公達も、続々と助け舟に乗ろうと水際に引き返してきた。これを見て、よき敵を探そうと思い立った武蔵国住人熊谷次郎直実くまがいのじろうなおざねは、磯の方へと道を急いだ。折しも、見るからに華やかな鎧武者がただ一騎、岸づたいに、落ちてゆくのにぶつかった。
 萌黄匂の鎧に、鍬形打った兜の緒をしめ、黄金作りの太刀をき、連銭葦毛の逸物に、金覆輪の鞍を置いた、見るからに堂々たる大将軍である。
「そこを落ちてゆかれるは、確かに大将軍と覚えまする、帰させ給え、敵にうしろを見せ給うとは卑怯であろう」
 と大声をあげ、扇を揚げて招き返すと、水の中に一足踏み出していた武者は、もう一度水際に取って返した。
 直実が、馬上からむずと組みついて馬から引ずり下ろすのに長い時間はかからなかった。取って押えて、首をかこうと、内兜を押しひろげてみると、思いもかけぬ花のような美少年であった。年の頃は十六、七であろう、薄化粧して、鉄漿かねをつけていたが、ちょうど息子の小次郎とほぼ同じ年頃である。直実は、ふっと息をんで訊ねた。
「一体、和殿わどのは誰方でござる? お名乗り下さらば、お助け申しましょう」
「そういうご貴殿は?」
 組み敷かれたまま鎧武者が聞いた。
「これというほどの者ではございませぬが、武蔵国住人、熊谷次郎直実と申します」
「そなたにはよい敵じゃ、名を名乗らずとも、見知った者もおろうから、首を取ってお聞きになるがよい。知った者があるはずじゃ」
 と、既に観念のまなこを閉じているのを見るにつけても直実は、わが子小次郎が、かすり傷を負っただけでも心配しつづけたことを憶いだし、この若殿の父が、討たれたと聞いて、どんなに悲しむことかと思うと、手を下す気にもなれないのである。
「一人の生命など、戦況には何のかかわりもないのだからお命を助けて進ぜよう」
 と思ってあたりを見廻すと、間の悪いことに、土肥、梶原と合せて五十騎ばかりが、続いて押しかけて来るのが目に入った。
 直実は、今は助けることも諦めねばならぬと覚ったのであった。
「お助けしとう存じましたが、味方が後から迫って来ております、一旦はお助け申しても、他の者がお見逃しはいたしますまい。それよりも、私がお首をとってせめて後生を弔わせて頂きまする」
「何とでも好きなようにいたせ、早く首を取れ」
 と、せかされても直実は、あまりに気の毒で、唯、涙ばかりが先に立ち、一向に手が下せないのである。しかし心を取り直すと、無我夢中で首をかいた。
「ああ、弓矢取る身の悲しさを始めて知った。武士の子に生れなければ、こんな辛い目には逢わなかったのに」
 と、直実はつくづく、この殺生な商売に厭気を覚えたのである。
 取った首を包もうとして、鎧直垂をほどくと、錦の袋に入れた笛を腰にさしている。
「さては今朝の明け方近く、がくの音が聞こえたのは、この人達であったのか、東国の勢、何万騎の内、ただ一騎でも、こんなやさしい心を持った人がいただろうか? さすがは名門の貴公子ともなれば、いくさにも笛を離さぬものとみえる」
 この笛を義経に見せて、事の次第を物語ると、暫くは一座の者も感に迫って涙を流した。
 この笛の主は、修理大夫経盛の息子、大夫敦盛あつもりという十七歳の少年であった。
 この笛は、祖父忠盛ただもりが、鳥羽院から賜わり、経盛が譲り受けた後、敦盛が名うての上手であったところから、敦盛の手に渡り愛用されていた。小枝さえだと名づけられた笛である。
 この事があってから、直実は出家の決心を固めるようになったといわれる。

浜軍はまいくさ


 門脇中納言教盛の末子、蔵人大夫業盛なりもりは常陸国の住人、土屋五郎重行しげゆきと組み討って死んだ。皇后宮亮経正こうごうぐうのすけつねまさは、武蔵国の住人、河越小太郎重房の軍勢に取り囲まれて討ち死をした。尾張守清定、淡路守清房、若狭守経俊つねとしの三人は共に打ち連れて源氏勢の中へ割って駆け込み、冥途への語り草に存分に戦わん、と敵兵を片端から討ちとり、分捕りも沢山したが、ついに三騎とも一つところで死んだ。
 生田の森の大将軍であった新中納言知盛とももりは、部下の勢が逃げ去ったり、討ちとられたりして、息子の武蔵守知章ともあきらと侍の監物けんもつ太郎頼賢よりかたの主従三騎になってしまった。主従で水際の方へ落ちていったが、このとき、児玉党の手の内の勢と思われる団扇うちわの旗を差した十騎ばかりの武者がものすごい勢で追って来る。これを見た監物太郎は、
「しばらくここはわれら防ぎ仕ります、どうか一刻も早く落ちさせ給え」
 といって踏止ると、弓の名手である彼は、真っ先におめいて駆けよる一騎に矢を放つと、敵は首の骨を射抜かれて馬から転げ落ちた。追う武者たちの中で大将と見られる武士がたちまち知盛の馬に馳せ寄るが早いか組み打とうとした。息子の武蔵守が父を討たすまいと、その間にどっと割って入り、武者にむんずと組みつくと、二人はどうと落ちた。素早く敵を押えこんだ武蔵守は、腰の刀を抜くより早く首を掻き切った。首をあげて、立ちあがろうとした武蔵守の背後から敵のわらべが迫ってきて、その首に斬りつけ、倒れ伏す武蔵守の首を取った。これを見て怒った監物太郎は、この童に馬を寄せるや、飛びおりてこの男を押え、たちまちその首をはねた。監物は矢を射つくしたので太刀を振るって、一人、二人と敵を斬り殺して戦っていたが、左の膝がしらを射られて立ちあがることも出来ぬ、地に座したまま取り囲む敵を太刀で必死に防ぎ、そのまま死んだ。
 この二人の奮戦にまぎれて、知盛は素早く逃げ落ち海へ馬を入れた。彼の乗る馬は力のつづくことにおいて無類の名馬であった。知盛は沖に浮ぶ平家の軍船を目指して馬を泳がせた。浜から二十町はあろうか、馬は波を越え、波に乗って疲れもせずに知盛を宗盛の乗っている船に運んだ。しかしこの船はすでに人間を満載しており、到底馬を乗せる余裕はない。知盛は涙をのんで自分の命を救ってくれた愛馬を岸に追い帰すことに同意した。この時、阿波民部重能しげよしが、
「御馬は敵の手に落ちて使われるにきまっています、それよりもいっそ射殺しましょう」
 と、弓に矢を一本つがえて進み出たが、知盛は、
「たとえ誰のものになろうとも、わが命を助けてくれたこの馬を殺すことはできぬ」
 と強くいった。馬は主との別れを惜しんで、しばらく知盛の乗った船の周囲を泳いで離れず、沖に漕ぐ船をいつまでも追っていた。やがて船が遠く離れてゆくので、馬は諦めたように主のいない浜に向って泳ぎ出した。浜辺に近づき足が立つようになると、もう点のように小さく消える知盛の船に向って高くいななく。これが三度くり返された。この馬がその後浜で休んでいたのを河越太郎がつかまえ、後白河院に献上したといわれている。もともとこの馬は院のご秘蔵の馬であったが、ある時、宗盛が内大臣になった御礼奏上のため院へ参上したとき頂いたもので、これを弟の中納言知盛が預った。知盛はこれをひどく大切にして、毎月一日ごとに泰山府君たいざんふくんを祭り、馬の無事を祈っていたほどであった。それがこのたび、主人の命を助けることになったのである。馬はもと井上黒いのうえぐろと呼ばれていた。
 その後、知盛は宗盛の前で涙を流して述懐した。
「わが子武蔵守にも先立たれてしまいました。監物太郎も討たれました。今は心細くなってきました。子供がふみとどまって父を助けようと敵と組み討つのを見ながら、この子が敵に討たれるのを助けもせず、おめおめとここへ逃げてくる父親が、一体この世にいるものでしょうか。もしこれが他人のことであったら、どんなに歯がゆく思ったでしょうが、自分の身のこととなると、よくよく命が惜しいものとみえます、今こそ恐ろしいほど思い知りました。人はさぞかし卑怯な父親と心の中で私を見ることを思えば、ただ恥ずかしゅうございます」
 と、さめざめ泣いた。人の心のまことに素直な告白であった。宗盛も、
「武蔵守が父の身代りになられたのはけなげなこと、腕もきき、気丈なよき大将であったのに。あの清宗と同じ年、今年は十六歳よなあ」
 といって、わが子の右衛門督のいる方を見て涙ぐむと、居並ぶ人も等しく鎧の袖をぬらすのである。

落足おちあし


 小松兄弟の末子、備中守師盛もろもりは、主従七人で小舟に乗って、沖合目指して落ちてゆこうとしているところへ、知盛の家来で清衛門公長せいえもんきんながという侍が、馬を走らせて飛んで来た。
「備中守の御舟でござろう、お乗せ下されよ」
 と叫んだので、一旦、沖に向っていた舟をなぎさに漕ぎ寄せた。公長は馬から小舟に乗り移ったが、その途端、鎧の重みで、小舟がくるりと転覆し、主従ともども海の中にほうり出された。そこへ駆けつけた畠山の家来本田次郎、十四、五騎ばかりが備中守を熊手で引き揚げ、首をかいた。生年十四歳という若さであった。
 また、越前三位通盛みちもりは、山の手の大将軍であったが、赤地錦の直垂、唐綾縅の鎧を着け、白葦毛の馬に乗っていたが、いつしか味方とも離れ、弟能登守の姿も見失って今はこれまでと覚悟を決め、静かに自害しようと落ちてゆくところを、近江国の住人佐々木三郎成綱、武蔵国の住人玉井四郎資景らにさえぎられて、取り囲まれ、ついに首を討たれた。
 戦も今や終りに近づきつつあった。
 矢倉の前、逆茂木の下は、山のように重なり合った人馬の死体で埋まり、一の谷の戦場は薄紅うすくれないに染まるほどだった。この他にも、一の谷、生田の森、山のかげ、海の際で討たれた者を入れたらとても数え切れぬほどで、源氏方が討取った平家の首、二千余人にのぼった。
 その中には、越前三位通盛、弟蔵人大夫業盛なりもり、薩摩守忠度、武蔵守知章ともあきら、備中守師盛、尾張守清定、淡路守清房、皇后宮亮経正、若狭守経俊、大夫敦盛といった名だたる一門の諸将も含まれていた。
 此処ぞ平家反攻の拠点、と思い定めた一の谷の戦に破れて、主上をはじめ一門の人々は悄然しょうぜんと船に乗ると、あてどもなく海上を漂ってゆくのであった。紀伊路へ向うのもあれば、須磨から明石へ浦伝いにゆくものもあり、そうかと思えば、未だ行先が定まらぬのか、一の谷の沖合をさまよう船もあった。今はすっかり疲れ果て、戦い疲れた人々をのせて、唯、潮のまにまに、風にまかせて流れてゆくのである。
 十四カ国の国を従え、十万余騎の軍勢も集り、今度こそ、都へ攻めのぼる絶好の時と思っていただけに、一の谷の戦に破れた人々は、もはや考える気力もなければ、ゆく先きの目あてもなく漂いつづけるのであった。

小宰相こざいしょう


 越前三位通盛の家来に、滝口時員たきぐちときかずという男があった。通盛は生前から、「万一わしが討たれても、お前だけは何とか生きのびて、奥に最後の模様を伝えてやってくれ」と、何度も念を押すのであった。このたび、通盛が首を討たれたと聞いた時員は無念の涙を呑みながら、一人、舟に乗っている奥方小宰相の許へ知らせにやって来たのである。
「殿は、湊川の川下で遂に討死なされました。生前よりのお言いつけで、本来ならば死出のお伴を仕るべき身を、此処までたどりつきました」
 時員が、最後の様子を話しはじめると、小宰相は、ろくろく返事もできず、とうとう突っ伏してしまったのであった。
 人の話で、通盛討死のことは、うすうす聞いてはいたのだが、それでも、もしやと思う希望を捨て切れずにいただけに、小宰相の打撃は大きかった。
 ちょっと二、三日留守にした人を待つような気持で、中々通盛の死が実感にならないのである。しかしそれも、せいぜい二、三日のうちで、四日、五日と経っても帰って来ない日がつづくと、やっぱりあの方はってしまわれたのだという思いが身にしみるのであった。悲しみがつのって小宰相は、すっかり寝込んでしまった。
 明日、屋島に着くという前の晩であった。寝ていた小宰相は、不図起き上ると傍らの乳母に向っていった。
「女心とは何と浅はかなものでしょうね。いくら、殿は討たれたと聞かされても、まだ、明日になればお姿を見られるのではないか、いや今頃は、この舟を探しておいでのところではないかとばかり思いこんで、なかなか諦められません。ほんの今朝がたまでも、まだ私には殿の討死がうそだとしか思われなかったのですよ。でも、さすがに今になってみると、それは本当だという気がいたします。何しろ、誰一人として殿のご無事なお姿を見たものはないのですからね。それにつけても、憶い出されます、明日出陣という前の晩、ほんのちょっとの間、顔を合わせると、なんとなくふだんより心細そうでいらして、
「明日の戦には、どうも討たれそうで仕方がない。わしが死んだら、そなたはどうする」
 などと仰有おっしゃったのを私はこれも戦の常と、さして気にも留めず、まさかそれがこの世の別れになろうとは思いもよらなかったのが、今にして思えば心残りで仕方ないのですよ。それまで黙っていたのですが、身重になったことを申上げると、それは嬉しそうで、
「通盛、三十歳に近くなって始めて父親になるとは、何と嬉しい気持じゃのう。できることなら、男の子が欲しい。此の世の忘れ形見になろうぞ、もう幾月程じゃ、気分はどうじゃ、何せ、不自由な水の上の暮しでは、身二つになっても心配じゃのう」
 などと仰せられていました。何やら聞くところによれば、女は身二つになる時に、十に九つは必ず死ぬとかいうことであるし、恥ずかしい目にあって死ぬのも辛いことです。無事に御子をお生みしても、子供が大きくなれば、一層、殿の面影ばかりを思い出し、かえって辛いこと、又、何とか此の世に生き長らえても、憂き世のならい、どんな思い掛けぬことも起ろうかというものです。生きていて、殿を恋い慕うより、水の底に入ってしまった方がずっとましかと思いまする。今、そなた一人を残すのは気にかかりますが、私の装束をどこぞの僧にさし上げて、殿の菩提を弔い、併せて私の後生も助けて下され」
 小宰相の言葉に乳母は、涙にむせんだまま物もいえなかったが、暫くたって、
「年老いた親、幼い子供を残して、ここまでおつきして参りました私の気持もお汲み取り下されませ。一の谷で討死された方は、殿ばかりではござりませぬ、これらの奥方のお嘆きは、みな一つでござります。左様にお心弱いことでは、いけませぬ。道は一つと思っても、生れ変ってから、必ずしも、又殿にお目にかかるとは限りませぬ。身をお投げになるよりは、無事に身二つになられ、幼い和子わこをお育てしながら、尼になって殿の菩提を弔うことこそ何よりと存じまする」
 乳母の心に打たれたのか、奥方は、
「いえ、いえ、今のは、ほんのたとえなのですよ、世の恨めしさ、別れの辛さに、よく身を投げたいと申すではありませんか? でもめったにできることではありませぬ。また、もし私が思い立ったとしても、そなたに告げずに一人で死ぬということはありませんよ、安心して下さい。さあ、もう大分更けてきたようです、休んだ方がよいですよ」
 身投げのことは、すっかり忘れ去ったようにいうのであったが、乳母は、その言葉を信用できなかった。とにかく、この四、五日、湯水さえろくろくのどを通らなかった人が、急に起きあがってあんなことを仰有るのは、唯事ではあるまいと思い、
「どうしても、身を投げると仰有るのでしたら、千尋ちひろの底までもお供いたします。一人残されては、一時いっときたりと生きようとは思いませぬ」
 と、何度も念を押すのであった。それでも気にかかるので、今夜ひと晩は、寝ずに起きていようと心を決めたが、それでも、ほんの一瞬まどろんだらしい。その僅かな隙をねらって、小宰相は舟端まで出てくると、忍び声で、念仏を百遍唱えた。
「南無西方極楽世界の教主弥陀如来、願わくは浄土へ導き給え、亡き殿と再び一つはちすに迎え給え」
 と涙ながらにかき口説くと、そのまま、ざんぶと身を躍らせた。
 丁度、真夜中のことで、誰一人気のついた者はなかったが、ただ一人、寝ずに起きていた楫取かんどりがこれをみつけ、大声で呼び立てた。
「おおい大変だ、女房が一人入水なされたぞ」
 この声に、どの船の人も目を覚まして起き出して来た。乳母もその声で、はっと目が覚めた。慌てて傍らを見たが、小宰相の床は藻抜けのからである。
「ああ、何ということをなされたのじゃ」
 と言ったなり、おろおろするばかりである。そのうちに、人々が大勢で海の上を探し廻ったが、唯でさえ、おぼろな春の宵である。水の中に潜って探しても、日の光は雲にさえぎられて、中々見つからなかったから、大分経って引き揚げた時は既に事切れていた。
「これ程まで、思いつめておられたのなら、なぜ、私をお伴にお連れ下さらなかったのですか、せめて、一言でもお名残りを申し上げたかった」
 と、なきがらに取りすがって悶え焦がれたが、もちろん一言の返事も聞くことができなかった。そうこうするうちに、いつしか春の空も明けてきた。いつ迄、こうもしていられないから、通盛の鎧が一領残っていたのを着せて、二度と浮き上らぬようにと海の底へ沈めた。乳母が、今度こそと続いて海に入ろうとするところを、人々にとめられ、仕方なくその場で髪を下し、通盛の弟、中納言律師忠快りっしちゅうかいの手で頭を丸め、主の後世を弔うことになったのである。
 小宰相局は、頭刑部卿則方とうのぎょうぶきょうのりかたの娘で、上西門院の女房であり、当時、宮中でも名うての美貌で知られていた。
 通盛と小宰相が、言い交わすようになったのにはこんな話がある。
 小宰相十六歳の時のこと、上西門院が法勝寺ほっしょうじへ花見にお出でになった。この時、中宮亮ちゅうぐうのすけで供奉したのが、通盛である。門院の女房達の中に、花も恥じらう、うら若い乙女(小宰相)を一目見た時から、すっかり心をうばわれてしまった。歌を詠み、恋文を書いては送ったが、小宰相からは、なしのつぶてである。それでも思い諦めず、通盛は何度も何度も手紙を書き、思いのたけを歌によせた。それが三年の間続いたのであるが、小宰相もさるもので一向に取り上げようとしないのである。さすがに通盛も、望みの空しさを覚り始めた。「これでも返事を寄こさぬのなら、仕方ない、諦めよう」と最後の手紙を使いに託した。ところがいつも文使いをしてくれた女房に逢えず、すごすご引下ろうとしていると、小宰相の車が御所へ入って来た。悶々の想いを抱いて待ちわびている通盛のことを考え、使いの者は思い切って、通り過ぎるように装い、車のすだれの中へ手紙を投げ入れた。
 開いてみると、又々、通盛の文である。御所へ参内する途中では他に置く場所もないので、仕方なくはかまの腰にはさんで出仕した。雑事にまぎれてうっかり忘れているうちに、ところもあろうに、門院の前に取り落したのである。ちらと小宰相の袴から落ちたのを百も承知で、門院は面白そうにいわれた。
「珍しい物を拾いましたよ、誰方のお持ち物でしょうね」
 誰一人知らないという女房達の中で、小宰相だけが真赤になってうつ向いていた。
 門院も、内々、通盛が小宰相に、とうから執心の事は気がついていたことなので、興味深く思われ、ご自分で文をお開きになった。
 におやかにこうのたきこめた手紙には、これまた類い稀な筆跡で、
「貴女のように強情な方も珍しい。それがかえって私の恋心を一層あおり立てるのです」
 などと細々と書かれた上、最後に、

わが恋はほそ谷川のまろき橋
  ふみかえされてぬるる袖かな

 という歌が入っていた。
 門院は小宰相を招き寄せると、
「これは、逢わぬことを恨んだお手紙ですよ、心強いのも程々になさい。もうお返事をさし上げても構わないでしょう」
 と門院自ら筆を取ると、

ただ頼めほそ谷川のまろき橋
  ふみ返しては落ちざらめやは

 と返歌をしたため、通盛の許へ送り届けた。門院の暖かい計らいで結ばれた二人は、こまやかな愛情にあふれた生活を送るようになり、その仲は傍目も羨むほどであった。
 都落ちにも、一緒に西国の波の上までも供をして、ついに死出の旅路へ手に手を取って、わけいったものであろうか。





底本:「現代語訳 平家物語(下)」岩波現代文庫、岩波書店
   2015(平成27)年4月16日第1刷発行
底本の親本:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社
   1960(昭和35)年2月12日初版発行
初出:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社
   1960(昭和35)年2月12日初版発行
※著者名は、本来は「尾※(「山+竒」、第3水準1-47-82)士郎」です。
入力:砂場清隆
校正:みきた
2022年8月27日作成
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