一の谷の合戦で討たれた平家一門の首が都に帰ってきたのは、
この
まもなく、首といっしょに一人
源九郎冠者義経、
「昔から、
法皇も内々、同じ意見であったから、義経には、不承知の旨が伝えられた。義経の不満は大きかった。戦功の大きさに比べても、法皇のやり方は片手落ちに思えるのである。重ねて、義経は法皇に許可を求めた。
「保元の昔からかえりみますれば、祖父
重ねがさねの訴えには、法皇も志を屈せざるを得なかった。こうして、かつては
維盛から後事を託された斎藤五、斎藤六の兄弟も、この観衆の中にいて、そっと姿をやつしていたが、見知った首、知り合いの首が過ぎる度に、いつしか、顔中、涙でびっしょりになってしまった。いくら姿を変えていても、これでは、余りに目に立ち過ぎると、早々にその場を引き揚げて、北の方のいる
帰ってきた二人の姿を見ると、北の方は気もそぞろに問いかけた。
「どうだったの。殿のお姿は見えましたか」
「小松殿のご兄弟の中では、備中守
一人一人、名を数えあげると、
「とても人ごととは思われません、いつ我が身のことになるかも知れぬのに」
とすすりあげるのであった。
「何でも、人の話ではございますが、このたびの戦では、小松ご兄弟は、
「では、殿は
「そのことも聞いて参りましたが、何でも、戦のはじまる前に、ご病気におなりになって、屋島でご養生とか、――此の度の戦にはお加わりになっていないそうでございますが」
「あのようなご不便なところでご病気とは、どんなにお
幼い若君、姫君までも、いっしょになって心配する有様であった。
この肉親の心が、遠く海を距てた維盛にも伝わらぬはずはない。屋島で、病後を労わっていた維盛も同じように、妻や子の上に思いをはせていたのである。
「奥も、
と、使いの者を一人仕立てて、京の奥方の許にそれぞれに三つの手紙を書いてわたした。
「敵の中に、か弱い女の身で、和子二人を抱え、どんなに苦労されているかと思えば、心はたちまち、京の空に舞い戻る心地がする。そなた達三人、此処へ迎えて、親子四人が寄り合って暮したいのは山々だが、此の地とても永久に安穏というわけでなし、わが身一人の辛さなれば、どんなことでもがまんするものを、そなたたち三人をこの憂目に合わすのは、何としても心苦しく、ついに思い止まった。
尽きぬ恋しさと、慕情をこめて書かれたこの手紙の最後には、一首の歌がしるしてあった。
いずくとも知らぬ逢瀬 の藻塩草
かきおく跡を形見ともみよ
かきおく跡を形見ともみよ
また子供たちには、
「毎日、どうやって暮しておるかと、そればかり案じている。急いで父の傍に迎えるつもり故、その日を楽しみに、母上を大切にして待っていてくれることのみ念じている」
と書かれてあった。この手紙を見た北の方は、喜びと同時に一層悲しさがこみあげてきて、もう、なつかしい夫の文字をたどることもできないのである。
いよいよ、返事を書く段になって、若君と姫君が尋ねた。
「父上には何と書いたらいいのでしょう」
「それはお前方の思ったとおり、心に感じたままをお書きなさい」
二人は黙ってうなずいていたが、書かれた返事は、
「どうして今まで、お迎えには来て下さらぬのでしょう? 一日一夜とて、父上の恋しくない時はないのに、今度は本当に早くお迎えを下さい」
と、たどたどしい筆跡であった。
使いの者は、四、五日
「この世に、親子、夫婦の愛情の
と、しみじみいうのであった。
この哀れな姿を見た人々は、
「何の罪の報いか、気の毒なことよのう、いくらもある公達の中で生捕りになって、生き恥をさらすとは、前世の宿縁としてもあまりにも
と、ささやき合った。
六条河原から、車は故
やがて、院の御所から、院宣のお使いとして来たのは、蔵人左衛門
院宣の趣旨は、
「屋島へ帰りたければ、一門にいい送り、三種の神器と引き替えに、命を助けて屋島に送り帰そう」
というのであった。
重衡は、じっと聞いていたが、おもむろに口を開いた。
「内府宗盛以下、一門の内一人たりといえども、この重衡の命と引き替えに、三種の神器を戻そうなどと思う者はありますまい。まあ、母の二位ぐらいは、その気になるかも知れませんが、先ず脈はありません、といってこのまま院宣をお帰しするのも恐れ多いので、とにかく一応は、一門にも言い送ることにいたしましょう」
使いに選ばれたのは、
宗盛には、院宣の趣旨を書き送ったが、私書は許されていなかったから、屋島にいる愛妻の北の方へ言伝てを頼んだ。
「はかない旅の空でも、一緒の時は、互いに慰め合い励まし合ったものだが、今別れわかれになり、どんなに淋しがっていることであろう。しかし夫婦の契はこの世だけではない、生れ変ったら、必ずまた逢って夫婦になろうと思う」
泣くなく言伝てをする重衡に、重国も涙を押えかねるのであった。
重衡が、かつて召し使っていた家来の中に、
「私は長年、中将にお仕えしたものですが、西国へもお供したいと思いつつ、八条女院にもお仕えしていたので、それも果さず、日を送っておりましたが、このたびのお気の毒な様子を拝見し、今一度お目にかかってお慰めいたしたいと思うのです。私は合戦のお供もしたこともなく、弓矢取る身でもございませんから、決して無法な
と、実平に懇願した。実平はもともと情に厚い侍であったから、この男の一人ぐらいと、刀を取上げて面会を許した。
右馬允が御堂に入ってみると、重衡は深い物思いに沈んだ様子で坐っていた。心なしか頬のあたりにも、やつれがみえて余計に痛々しかった。
右馬允の姿に重衡は、夢かとばかり驚いて、とっさに言葉も出ないらしい。唯、両眼から涙があふれ出てくるのであった。しばらく落着いてから、あれこれ昔話をしては、帰らぬ日のことをいろいろなつかしがっていたが、
「そなたの顔を見て思い出したが、以前、そなたに文の使いをして貰った例のひとは、まだ内裏にいられると聞くが本当か?」
「本当でございますが、何かお言伝てでも?」
「実は、西国に下る時も、一言何か言おうと思いながら、あの騒ぎで果せず、気になっていたのじゃ。きっと向うでは、わしを実のない男と思っているに違いない。今、文をやりたいと思うのだが、持って行ってくれまいか?」
「そのようなことはお安いご用、お文を下されば喜んで参ります」
重衡は、嬉しそうに手紙を書いて渡した。警固の武士は一旦、手紙と聞いて色めき立ったが、重衡が中を見せたのですぐ納得した。
知時は内裏に行くと、夜になって人目につかなくなってから、
「いくらもある人の中から選りに選って、三位中将だけが生捕りになって大路を引き廻されるとは余りにもむごい、人はみな、奈良をやいた祟りだというけれど、実際、手を下して焼いたわけでもなく、心にまかせぬままにされたことなのに、罪だけ着せられて、お気の毒な」
そういいながら泣いている様子である。知時も思わず
「一寸お伺い申します」
知時が声を掛けると、中から同じ女の声で、
「何御用です?」
「三位中将からのお文を預って参りましたが」
声を落して告げると、中から転がるように飛んで出てきた女房があった。普段は、人と逢うのさえ恥ずかしがっている人なのに、その時は夢中であったらしい。
「どこに、どこにお文がありますのか?」
と手ずから重衡の手紙を開くと、むさぼるように、読みふけるのであった。西国で捕われの身になって以来の様子や、暗雲に閉された行末のことなど、こまごまとしたためられ、最後に一首の歌が記されてあった。
涙川憂き名を流す身なりとも
今ひとたびの逢 うせともがな
今ひとたびの
女房は唯、悲しみに言葉もなく、文をかき抱いて泣き伏していたが、暫くしてから、自分も筆をとって、重衡に別れて
君故にわれも憂き名を流すとも
底のみくずとともになりなん
底のみくずとともになりなん
三位中将はこの手紙に一層恋しさを募らせ、何とかして、もう一度逢うことはできないものかと考えた末、かねがね、情ある計らいをしてくれた実平に、
「実は、重ねがさねのお頼み、恐縮に存じますが、日頃、年頃なじみを重ねておりました女に、一目だけ逢わせては頂けないでしょうか?」
といって頼んだ。実平は、女に逢う分なら差し支えないと思って許したので、重衡は車を借りて迎えにやった。重衡からの迎えの車と聞いた女房は、夢かとばかりに驚いたが、とるものもとりあえず、車に乗ると堀川にかけつけた。重衡は、最前から気がかりで、車寄せに立って待っていたが、車が入ってくるとかけ寄ってきた。
「武士が見ておりますから、そのまま、車の外へはお降りになりますな」
重衡は、自ら車の
「西国落ちの時も、どんなにお別れに行きたいと思いながら、余りの騒がしさにそれも許されず、一言もお便りせずに黙って発ったことを、何としても申しわけなく思っていたのです。あちらに着いてからも、手紙を上げ、お返事ももらいたいとは思いながら、戦、戦の連続で、思うようにまかせず、気になったまま年月を過してしまいました。それがこのように情ない身になったからこそ、また貴女にもう一度逢えたのかも知れません」
話しながらも、涙はとめどなく流れるのであった。二人の物語はいつ果てるとも見えないうちに、夜も次第に更けていった。
「近頃は物騒だからもうお帰りなさい、さあ早く」
重衡はわれとわが心にむち打って、車を出させるのであった。別れ際に重衡は一首の歌を贈った。
逢うことも露の命ももろともに
こよいばかりやかぎりなるらん
こよいばかりやかぎりなるらん
すると、女房の返しに、
かぎりとて立ち別るれば露の身の
君よりさきに消えぬべきかな
君よりさきに消えぬべきかな
その後は二度と、逢うこともできず、文通だけは通わせていたが、重衡が斬られたと聞いて、女房も長い黒髪を絶ち、尼になって重衡の
院宣のお使いとして屋島に下った平三左衛門重国は、二月二十八日に到着した。
平家一門が早速集って院宣を開いた。
「天下の御一人天皇が、皇居を出られて既に数年が過ぎた。その間、三種の神器も、玉体と共に南海四国を転々とするのは、余りにもおそれ多く、これぞ朝家の嘆き、国を亡ぼす基である。そこで、この度、一門の重衡卿は捕われの身となり、東大寺焼失の張本人として、頼朝からも死罪を要求してきてはいるが、独り親しい者たちに別れ、日々、南海をしのび、恋しい者を慕う気持は哀れである。もし三種の神器を返し奉らんという気があれば、特に重衡の命は許し、再び屋島に帰すことも可能である、
つづいて二位殿は、特に許されて書いた重衡の手紙を開いてみた。
「今一度、私の姿を見たいおつもりなら、三種の神器のことを、宗盛卿によきようにお取計らい下さい。それ以外には、生きて再び逢うこともかないますまいと存じます。よくよく母御前を頼んでの一言、哀れと思し召し候え」
そのうち、一門の重立った者が集り、院宣の対策のための会議が開かれた。その席上、後の障子が開いて、重衡の手紙を持った二位殿が現れ、宗盛の前に倒れ伏して、さめざめと泣くのであった。
「これを、これをご覧下さい、あの子が書いた手紙でございます、何とまあ
「母上、こればかりは無理なお頼みかと覚えます。宗盛とても、重衡を思う気持、人後に落ちませぬ、といって、重衡一人のためにあの尊い三種の神器をかえしたとあっては、世の聞えはともかく、頼朝にも恥ずかしい思いがいたします、その上」
そこで宗盛は語を強めると、一座をきっとにらみ廻した。
「三種の神器を持ってこそ、正統の帝王でございます。今、これをおかえししてしまっては、一門の苦労も水の泡、誰しも子は可愛いものではございますが、といって、中将一人のために、他の者を犠牲にすることは許されませぬ」
宗盛の荒い語気も、この場の二位殿には通じなかった。彼女の心は、今は重衡一人のことしか念頭になかったのである。
「故入道に死に別れて以来、甲斐ない命を長らえてきたのも、あの子あればこそじゃ、その中将が、一の谷で捕われたと知っては、もう生きた心地はせぬ、湯水さえ
絶叫するような二位殿の悲痛な声の前では、今は
「たとえ、院宣の通り、三種の神器を都へおかえししても、果して重衡卿の命を助けるかどうかは怪しいものです。それよりもこの際は、やはり、宗盛卿の仰せ通り、この事をはっきり明記してお返事申し上げるのがよろしいかと思います」
今は二位殿も、泣き疲れ、叫び疲れて、唯
今はすべてを諦めた二位殿は、泣くなく返事をしたためた。重衡の北の方、大納言
院宣に対する返事は、ざっと以下のようなものである。
「院宣は二月二十八日、讃岐の屋島に到着いたしました。さて院宣にも記されてある通り、重衡のことに就てのお計らいはともかく、われら一門、通盛卿以下一の谷にて討死した者も多く、今更彼一人をおゆるしあられたとて、大勢に影響はないものと信じます。おそれ多くもわが君は、故高倉院よりご譲位をうけ在位四年、天下の
院宣のお使いが、平家一門の返事を持って帰ってきた。重衡は、もともと不可能なこととは思っていたものの、さすがに
「まったく考えるだけでも無理なことであった。一門の者は、この重衡のいくじなさに腹を立てたであろうか?」
重衡は淋しそうに笑うのであった。これで重衡の行末もほぼ決ったようなものである。これからは唯、鎌倉へ下る日を待つばかりであった。ある日、重衡は実平に向って、
「出家をしたいのだが、どんなものであろう?」
といって相談を持ちかけた。
「私の一存ではどうもなりませぬ、九郎
この話を聞いた義経は、更に院の御所に奏聞した。院の御所からは、
「とにかく、頼朝に引き合わせた上で、出家なり、何なりいたすがよい」
重衡はこの返事を聞いて黙ってうなだれていたが、
「それでは勝手ながらもう一つのお願いがあります。年来、お教えを蒙っております
これは別に拒否する筋合もなかったから、直ぐに許され、聖が迎え入れられた。
「もはや命運尽き果てました、この上は、後生をいかに過すかということばかりを考えております。かつて殿上人と呼ばれ、公達と敬われていた時は、日々の政務や雑用に追われ、未来の幸不幸も考えたこともありませんでした。更に、世の中が乱れてからは、毎日、生きるか死ぬかの戦場暮し、唯、もう人はどうあろうともわが身一人が可愛くて、ほかのことは考えたこともなかったのです。ところで、私の悪業と
涙ながらに訴える重衡の言葉に、法然も心を打たれてしばらく押し黙っていたが、まもなく、
「
こんこんと教えを説く上人の言葉を聞きながら、重衡の顔にも次第によろこびの色が浮んでくるのがわかった。
「折角お出で下さいましたおついでに、
「もちろん出家せぬ人も、戒は受けられますのじゃ」
法然は、重衡の額に
お
この硯は、重衡の父、入道相国が、砂金を宋の皇帝に送ったお礼として貰ったもので、
重衡は硯を法然の前に置いていった。
「これは人にやらずに、お目につくところに、お置き下され、ご覧下さる度に私のことを思出し、何卒、ご念仏なされて下さりませ。又お暇があれば、経などもあげて下さればどんなに嬉しいでしょう」
法然は、硯をふところにおさめると、泣くなく別れを告げたのであった。
頼朝の命に依って、中将重衡が東国に向って出発したのは、三月十日であった。お供には
侍従は、かつて華やかにときめいた人が捕われの身となって、こんな
旅の空埴生 の小屋のいぶせさに
ふる里いかに恋しかるらん
ふる里いかに恋しかるらん
重衡も返歌を贈った。
ふる里も恋いしくもなし旅の空
都も終 のすみかならねば
都も
重衡は侍従の歌を嬉しく思って景時に尋ねた。
「優しい心の女性とみえるが、何と申す者じゃ?」
「実はもうご存じかと思っておりましたが、熊野の長者の娘、侍従と申し、宗盛卿がまだ、当国の大守であられた時、召し出されて厚いご寵愛を受け、都にも連れて行かれた者でござります。卿のご愛惜は深く、暇を下さらぬため、故郷に残した老母の身が気がかりで、丁度、花の盛りの頃、こういう歌を詠んだのです。
いかにせん都の春もおしけれど
なれし吾妻 の花や散るらん
なれし
すると、卿も感心されて、お暇を賜わることができ、以後、海道一の名人といわれておりまする」
都を出て既にひと月、春もはや盛りを過ぎる頃であった。重衡卿の心は何を見ても楽しまなかった。華やかだった昔の想い出、そして苦しかったいくさの日のこと、今の哀れな境遇、更に行末に思いを馳せると、ますます胸はふさがれ、心は重くなるばかりである。
重衡と大納言佐殿との間には子がなかった。そればかりが苦労の種であったが、今にして思えば、まだ子のないことが幸いであったともいえるのだ。
やがて、小夜の中山、
重衡はそこで一首の歌を詠んだ。
おしからぬ命なれども今日までに
つれなきかいのしらねをもみつ
つれなきかいのしらねをもみつ
富士の
鎌倉に着いた重衡は、早速頼朝の前に連れて来られた。頼朝はつくづく重衡を見やりながらいった。
「君の御憤りを安め、父の恥をすすぐため、戦いを
「その点は、両方ともに間違っておると思われまする。南都を攻めたのは、唯、衆徒の悪行を鎮めるためでございました。それが思わぬ
重衡はそういうと、後はすっかり黙りこんでしまった。景時始め、並みいる人々も皆、心の内で感嘆しながら袖をぬらすのであった。
頼朝は重ねていった。
「私の敵としての平家に何の恨みもない。これもただ帝王の仰せに従ったまでのことでござる、お助けしたいは山々じゃが、何せ、南都滅亡の張本人ということになれば、南都の大衆がどのように出るか? そのいい分も聞かねばならぬでのう」
といって一先ず、伊豆国住人
彼は先ず、湯殿を作って湯あみをさせてくれた。重衡が道中の汗で汚れた体をさっぱりと洗い流し、その上で首を斬られたいとひそかに願っていたからである。その重衡の気持を汲んでくれたような取り計いであった。久しぶりの湯で、すっかり寛いだ気分になっていると、年頃二十程、色の白い優しい顔をした女が、湯殿の戸を開けて入って来た。絞り染の
「男どもにはいろいろ気骨も折れましょうが、女であれば仰有りやすうござりましょう、何でもお望みの事をおっしゃって下さいまし」
といった。
「このような身とては望みも別にありませぬが、ただ一つ出家をいたしとうて」
女は頼朝にこのことを告げると、頼朝は首を左右に振っていった。
「そればかりはわしの独断にはいかぬでのう、何せ、朝敵として預った人じゃ、許せぬと伝えよ」
女は又、重衡の許に来ると、気の毒そうに頼朝の言葉を告げて帰っていった。
その物腰といい、態度といい、とても東国の女とは思えぬ程の、みやびやかさと気品があった。
「一体、今の女房はそも何という者でしょうか? まことにすぐれてやさしい女房じゃが」
「あれは、
警固の侍の言葉に、重衡は深くうなずくのであった。
その夕方である。雨もよいの空は、暗く低く、何となく気の
「私は伊豆の国の侍でございまして、鎌倉滞在中は、いわば殿方と同じ旅の空というわけでございますが、及ぶ限りの事はいたすつもりでございます。何なりと仰せ出され下さい。それ千手殿、そなたも、何なりと歌など歌って、酒などおすすめ参らせい」
狩野介の言葉に応じて、千手は直ぐさま、
という朗詠を、くりかえしくりかえし高らかに歌った。
「この朗詠を歌えば、北野天神が毎日三度、歌った人の囲りをかけめぐり、守護して下さるといわれているが、この私は神にも捨てられた身で、今更、唱和しても仕方がないが、まあいくらかでも罪が軽くなるというのなら一緒に歌おうか」
すると、千手はあとを続けて、
と詠じ、
極楽ねがわん人は、皆弥陀 の名号 となうべし
と、今様を四、五回歌った。漸く、酒も廻り始めて、座の空気が寛ぎ始めた。千手は琴を取り出して弾き始めた。曲は
「この曲は五常楽じゃが、私のためには、
こんどは自ら琵琶を取りあげて、

次第に夜も深くなるに従い、重衡の顔は次第にいきいきと嬉しそうに見えてきた。時々千手の前を見遣りながら、
「全く東国の女子に、かように何事にも優れた女性がいるとは知らなかった。千手の前程の人は都にさえ珍しいほどじゃ」
感嘆の声をもらしながら、今様をもう一曲所望した。
一樹の陰 に宿り逢い、同じ流れを掬 ぶも、皆是 先世の契りなり
という白拍子の歌を、千手は巧みに歌うのだった。この歌にひどく興を覚えた重衡は、続いて、
と朗詠するのであった。漢の高祖との戦に破れた
数々の慰みごとに、時の経つのも忘れていたが、気がついてみると夜は白々と明け初めていた。狩野介始め家の子、郎党達、千手の前も暇を告げて重衡の許を辞した。
その朝のことである。
頼朝が、持仏堂で法華経を読んでいると、千手が現れた。
「ゆうべはご苦労だったのう、中々取り持ちがうまかったそうだな」
頼朝は、上機嫌で千手にいった。丁度その前で書き物をしていた
「何の事でござりますか」
「いや昨夜、重衡卿のつれづれをお慰めしにこの千手が参ったのじゃが、さすがは平家の
すると、親義がいった。
「私も昨夜、聞きたい、聞きたいと思いながら、所労のため聞きもらしたは残念でした、これからはいつも立ち聞きすることにいたします。とにかく平家ご一門は、名にし負う才人揃いで、とりわけ重衡卿はその名も高い方です。いつぞや、一門を花にたとえたとき、三位中将は
「確かにそうであろうのう」
頼朝は後々までも感心したのであった。
千手の前にとってもこの時の思い出は、忘れられぬものであった。彼女は、重衡が南都へ渡され、斬られたと聞いてからは、墨染の衣に身を変えて、重衡の菩提をとむらったのであった。
屋島に毎日を過していた中将維盛は、都恋しの一念を捨てることができなかった。寿永三年三月十五日、とうとう、屋島の館を忍び出て、阿波国
無事に紀伊の港に着いたが、此処から都は陸路をたどれば程近い。維盛は、何度か都へ足を向けようという心を押えかねた。
「もう一度、恋しい妻や子の顔を見ることができるならば、何とでもしたいが、しかし、つい先頃、大路を引き廻された重衡殿の二の舞をするのも、くち惜しいし、父の名を恥ずかしめるのも厭じゃ、一体どうしたものであろうか」
維盛は考えに考えた末、ついに決心をすると、高野山目指して歩き出したのであった。
高野山には、父
滝口は十三の時、建礼門院に仕える女官で身分の低い
「
あっさりと、この世の未練を捨てると、十九歳という若さで、もとどりを切って、
横笛は、余りのことに一時
「私を捨てるというのならともかく、お姿まで変えなくともよいものを、どうしてその前に一度でも知らせてくれなかったのであろう。余りにもつれない仕打ちがうらめしい。あの方がどんなに道心堅固でもかまわぬ、一度お訪ねして思いのたけだけでもいい、聞いて頂こう」
思い立つと、矢も楯もたまらぬ女心であった。ある日の暮方、そっと都を忍び出て嵯峨に向った。春もまだ浅い夜のことで、どこからとなくしのび寄る梅の香り、霞がかったおぼろ月なぞが、横笛の心にひそやかな悩ましささえ感じさせる。
往生院という名は聞いてはいたが、果してどれがそうなのか見当もつかぬまま、あちこちたずね歩いているうちに、
「横笛がはるばる尋ねて参りました。今一度お目にかかりとうございます、お姿をお見せ下さいませ」
といわせた。
とたんに念仏の声がはたとやんだ。滝口も、恋する女が訪ねてきたと聞いては、あれほど堅く心にひめた誓いもひるむかと思われた。そっと障子のすき間からのぞいてみると、まさしく横笛が、忘れもせぬなつかしい姿で立っているのである。われとわが身に心をさいなまれながら、しかし滝口の気持は強かった。
「こちらには、そういう方はおられません、お間違いではござりませぬか」
恋しい滝口の顔が、門口に現れるのを待ち構えていた横笛は、無愛想な、見知らぬ僧の言葉に、がっくりと首をうなだれた。今はこれ以上、いう
滝口はその後で、同宿の僧に向い、
「此処は閑静この上なく、
といって暇を告げると、高野山の
滝口に見捨てられた横笛も、今はこの世に用はないと、同じく発心して尼となった。滝口はひそかにこの事を聞いて、さすがに哀れさを覚えたのだろう。
そるまではうらみしかどもあずさ弓
まことの道に入るぞうれしき
まことの道に入るぞうれしき
という歌を贈った。
横笛の返歌は、
そるとても何かうらみんあずさ弓
ひきとどむべき心ならねば
ひきとどむべき心ならねば
横笛は出家してから、まもなく奈良の法華寺で、短い一生を終えた。
滝口入道は、横笛の死の知らせを聞いて以来、ますます念仏三昧の修行に励むようになった。若い日の情熱の一切をたたきこんだようなきびしい行ない振りに、人々は尊敬の念を深くするようになり、ついには父も勘当を許した。人々は、高野の聖と呼んで滝口を敬ったのである。
三位中将維盛が滝口に逢ったのは、出家以来始めてであった。かつては、侍の中でも一きわ目に立つ美男で、その姿の良さは定評があったものである。それが、今では、まだ年というほどでもないのに、老僧のようにやせ衰え、色黒々と骨筋が張って、濃い墨染一色の
滝口入道は、思い掛けぬ人の姿に驚いたらしい。物静かな表情にも、一瞬、鋭いものがひらめくのであった。
「これは何としたること、夢ではありませぬか? それにしても、何故このような冒険をなされたので?」
「まあ聞いてくれ。人並みに都を出たのはよかったが、どうにも、都に残した妻子のことが思い切れず、日夜
「この世の事などは、一時の夢まぼろし、後生安楽を願って、来世に生きることが大切でございますよ」
滝口入道は、維盛を案内し、高野の奥の院まで連れて来た。
高野山は、都から二百里程のところにある霊場である。めったに人の声もしない。聞ゆるものは
昔、
「私、母の
すると、次第に霧が晴れ、大師のお姿がはっきりと見えてきた。観賢は、涙にむせびながら衣を着せ、長く伸びた髪をお剃りしたのであった。勅使と観賢は、お姿を拝することができたが、弟子の
弘法大師は、帝にご返事を下された。
「我、昔、
と伝えた。
大師の死んだのは承和二年三月二十一日、午前四時である。
都を離れて、波の上での海上暮しで、かつてはたおやかな貴公子であった維盛の相貌も、見違えるように変ってしまった。黒々と日焼けした肌はやせ衰えて、みるかげもなくやつれ果てた顔であった。それでも、しかし、素姓は争われぬもので、どこやらに消えぬ気品はさすがであった。
高野に着いたその晩は、滝口入道の庵室で、よもすがら昔話に花が咲くのであった。そのうちにも入道の日常の修行を見ていると、世の栄華も離れ、真理の探究にいそしむ生活の底知れぬ深さに、
どうせ逃れられぬ身ならば、自分もせめてあのようになりたい。維盛は、一夜考え抜いて翌朝、東禅院の知覚上人に出家の志を打ち明けた。
屋島から高野まで、忠実にお供をしてきた与三兵衛、石童丸の二人を呼び寄せると、
「わしはいずれにしても逃れられぬ身なれば、出家をするつもりじゃが、そなたたちは、まだ前途のある身、広い世間には、いくらもそなたたちを召し抱える者もいるはずじゃ。そなたたちは都に帰り、妻子を養い、又このわしの後生もとむらってくれよ」
与三兵衛、石童丸は、主人の言葉に一言もいわずに涙ぐんだまま、じっとうなだれていた。まもなく、与三兵衛が顔をあげるとじっと維盛をみつめた。
「それは、あまりにも情ないお言葉かと存じます。私の父、与三左衛門
重景は、暫く
「それをまたどうして、貴方様を捨てて都へ行けなどとおっしゃるのか、お心のうちが恨めしゅうございます。まして、今日世に栄えているのは源氏の
重景は、自らもとどりを切って捨てると、滝口入道に
家来達が次々に出家姿に変っていくのを見て、今は仕方なく維盛は、
と、三度唱え終ると、頭を剃った。変り果てた姿になった維盛は、もう一度昔の姿のままで妻や子に逢っておきたかったと、未練あり気な口ぶりが哀れであった。それからここまで着いて来た舎人の武里には、
「そちは急いで屋島に行け、決して都に行くではない。奥がこの有様を聞いたら、かならず尼になるという気を起すに違いないから、都にはそのうち知れる時まで知らすではないぞ。それから、屋島に参ったらこう申して呉れ。ご存知の如く世の有様も不快なことが多く、つくづく世の中が厭になりましたので、皆様に黙ってかくの如くになりました、小松兄弟の清経、師盛も討たれ、私までがかような身になって、各々方がどんなに心細く思われるだろうとそればかりが気がかりです、尚
「ご命令の程は確かに承りました。しかし私としては、わが君のご最後の様子をお見届けした上で屋島にも参りたいと思います。何卒お許しを」
と武里が願ったので、引き続いて供を許された。
一行五人、維盛主従と滝口入道は、山伏姿に身をやつし、高野山を出発した。道々熊野権現を祭ってある所ごとに、参拝しながら千里の浜の北、
「さては、気づかれたか」
そう思った維盛は、腰の刀に手を掛けて、あわやとあらば切腹の覚悟を固めていた。馬は次第に近づいて来たが、からめ捕ろうとする様子もなく、意外にも、馬から下りて静かに黙礼すると、遠去かっていくのであった。
「私と知っての上のことに違いないが、それにしても今どき奇特なお人、誰であろう」
維盛は、危難を逃れた嬉しさに、ほっとしながらつぶやくのであった。
この男は、紀伊国の住人、
「一体あの人々は誰なのですか? 何か子細でも?」
「誰あろう、あの先頭を歩いていた、やせ形の山伏こそは、小松殿の御嫡男、三位中将維盛殿に間違いない。与三兵衛、石童丸も、お供いたしておったようじゃが、それにしても、屋島を抜け出て、よくぞここまで落ちのびられた。お目にかかりたかったが、かえって、ご迷惑かと遠慮申し上げたのじゃよ。かつては平家一門のうちでも重んじられていたお方が、あの様子とは余りにお気の毒じゃ」
宗光ははらはらと涙をこぼした。
危険な旅もいつか終りに近づいて、岩田川に着いた。この川を一度渡れば、全ての悪業、
夜更けになってから、維盛は神前で心をこめて祈願した。
父重盛が在世中、この熊野本宮の前で、後世を助けるためわが命を召し給えと祈られたことなどが、今さらのように思い出されてくる。
「熊野権現の
わずらわしい世間を逃れ、仏門に
翌くる日は、本宮から舟で新宮に渡った。
那智の修行僧の中には、維盛の顔を知っている者もいたらしい。ある僧はこんな話をして聞かせた。
「此処につい最近、新しく来た
かの僧の物語を聞き終えて、座にあった人たちも思わず涙をぬぐったのであった。
熊野三山のお詣りも済み、今は心残すことのなくなった一行は、
「祖父太政大臣平朝臣清盛公法名浄海、
それから、再び舟で沖へこぎ出した。いよいよ最後の時が迫ってきていた。維盛は次第に落着かなくなって来る心を押えようとするのだが、どうにも、諦め切れぬ想いが未だに心の底に残っているのだった。丁度三月の末で、かすみのたなびく海の上は、このような人間世界の憂愁とは何の関りもなく、うららかな春の気配をふんだんに漂わせていた。一群の雁が空を渡って行くのを見ては、妻子へ言伝てを頼みたいような気持にもなるのであった。
「何というだらしないこと、ここまで来て未だに
われとわが心にむち打った彼は、海に向って手を合わせていると、再び知らずしらず、想いは故郷の妻子の身の上に馳せているのである。
「この私がいまわの際ということも知らず、都では、風の便りの言伝てを、今かいまかと待ちわびているのに違いない。私の死を知ったなら、どんなに嘆き悲しむことか」
都落ちの時に手にすがって泣いた幼ない子の面影まで、ありありと思い出されて、維盛はこれ以上念仏を称えていることができなくなった。維盛は、滝口入道に向っていった。
「まったく、妻子などという者は持つものではござらぬ、この世でいろいろ案じ心配するばかりか、後世菩提の妨げにもなるものじゃ、たった今も、妻子のことばかりが念頭にあった。かようなことを心に残せば、余りに罪が深いであろうと、懺悔をするのです」
入道も、維盛の心中を思い遣ると、無理もないこととは思ったが、ここで自分までが負けてしまっては最後だと心に決め、さあらぬ態でいうのであった。
「さようにお思いになるのも当然のことでござります、身分の上下を問わず、恩愛の道だけは思い切り難いもの。その中でも夫婦は、唯、一夜の契にてさえも、五百
入道の説得で維盛の気持も次第に落着いて来るのであった。やがて、今こそと、念仏百遍、高らかに唱え、
三人が飛びこむのを見た
「これ、ご遺言を忘れたのか、取り乱したとはいえ、余りに情ないぞ、そちはご遺言の約束を果して、後世をとむらい奉るのじゃ」
入道の言葉も耳に入らないのか、武里は船底に倒れ伏して泣き叫ぶのであった。しばらく舟を漂わせて、もしや浮き上ることもあろうかと思ったが、一人も浮きあがらなかった。経を読み、念仏を称えているうちに、いつか、海の上にも夕暮がやってきた。尽きぬ名残を惜しみながら、泣きなき二人は舟をかえしたのであった。
武里は遺言通り屋島に渡ると、維盛の弟、新三位中将に逢って遺書を手渡し、事の次第を細かく物語った。
「兄上は、この私が思うほど、われら兄弟のことは考えて下さらなかったものと見える。それにしても、
と嘆くのであった。中将はそういってから、
「何かお言伝てはなかったのか?」
「はい承って参りました」
武里は維盛にいわれた通り、
「今となっては、私もとても生き長らえそうには思われぬ」
といって、さめざめと泣く様子が、兄維盛に姿かたちが一番よく似ている人だけに、余計哀れを誘うのであった。話を伝え聞いた侍達も、暗い物想いにとらわれるばかりであった。
宗盛や、二位殿は、
「てっきり池大納言殿と、同じ道をたどられたものとばかり思っていたが、そうでなかったとは気の毒なことをした」
と、これも又一層嘆き悲しんだ。
四月一日、年号が変り
四月三日には、崇徳院を神と
平家一門を裏切り、頼朝を頼って都に留まった池大納言頼盛は、頼朝だけはかねてから、
「尼御前にお目にかかることばかりを楽しみにしておりましたが、おなくなりになった今、せめて貴方にでも逢っていろいろ昔のお礼など申し上げたいから、是非鎌倉までお下り下さい」
頼盛の家来に
「勝手ながら此のお供だけはお許し下さい。殿は、かようにご安泰ながら、ご一門の公達は、西海の波の上を生死をゆだねて漂っておられます、とても今のところ、鎌倉へ下る気が起きません。心がもう少し落着きでもしたら、後から追って参りましょう」
宗清の言葉に、頼盛は、内心の
「わしとても、一門を捨てて都に留まったことを、もとより心苦しく思っている。ただやはりわしも人の子、わが身が大事、命も惜しかったのじゃ、そうなった以上、頼朝のいうことを聞かぬわけにもゆくまい。鎌倉といえば、はるばる遠い東国、その遠路の旅でも見送りはせぬというのか? 今頃になって、わしの行動をとやかく申す前に、なぜあの時わしを止めようとはしなかったのじゃ、大なり小なり何事なりとそちに相談していたはずじゃ」
頼盛が、恨めしそうに宗清を見つめていうと、
「いえ、殿が都にお留まり遊ばしたことを悪いとは申しておりません。身分の上下を問わず、誰しも命は惜しいものでございます。兵衛佐も、危い一命を助けられたからこそ、今日このような幸運をつかまれたのでございます。私が申すのはそのことではござりませぬ。頼朝殿の流罪のとき、尼御前のおいいつけで、私は
宗清の道理にかなった言葉には、大納言もさすがに恥ずかしかったようである。とうとう宗清のことは諦め、五月四日京を発って、十六日に鎌倉に着いた。
頼朝は、頼盛の顔を見たとたんに、
「宗清はお供についておりますか?」
と尋ねた。なるほど宗清のいった通りだわい、と思いながら頼盛は、
「残念ながら、ちょっと体の具合を悪くいたしまして」
頼朝の顔に、ありありと失望の色が現われた。
「宗清が病気とは、ちょっと信じられぬことじゃ、恐らくは、あれほどの侍故、意地を張って来ぬのであろう。それにしても、昔の宗清の許に預けられた折は、心にしみる親切な待遇をしてくれたものじゃった、今になっても決して忘れはせぬ。大納言殿のお供で必ずや参るであろうからと再会を楽しみにしていたのに、何で又来てはくれなかったのであろう、知行の
といかにも残念そうであった。重立った大名達も、主の命の恩人への引出物を、それぞれ用意して待っていたので、一層がっかりしたらしかった。
一月近く鎌倉に滞在した後、頼盛は京へ帰った。
庄園所領もいっさいもとのまま、一旦取上げられた大納言の官位も再び賜わることになった。帰りには頼朝からの土産物が、延々と続いた。鞍置馬三十、
その頃、伊賀、伊勢の住人で、平家の家人だった者が寄り集り、肥後守
維盛の北の方は、近頃屋島から一向音沙汰のないのがひどく心配で、毎日、今日は来るか、明日は来るかと待っているうちに、春も過ぎてしまった。一月に一度は便りを欠かしたことのない維盛であったから、さては何事か起ったのかと、そればかり気がかりでいたところへ、「維盛卿は、屋島にはおられぬそうな」という噂が北の方の耳にも入るようになってきた。この話で、北の方はいよいよじっとはしていられぬ気持で、屋島に使いの者を出したのであった。その使いの者も中々帰ってこなかった。そのうち夏も過ぎてしまった。ある日、漸く屋島に出した使いが帰って来た。
「実は殿には、過ぐる三月十五日の未明、ひそかに屋島を抜け出でられ、高野へ参られ、ご出家の後、熊野詣でをなされ、那智の沖にてご投身なされたと、
「ああ、やっぱり、変だとは思っていたが」
北の方は、人目も構わずに泣き伏してしまうのであった。若君、姫君も、おいおい声をあげて泣き叫んだ。若君の乳母の女房は涙に顔をぬらしながら、
「今更のお嘆きは
乳母の言葉も、今の北の方には何の慰めにもならなかった。間もなく北の方は、髪を切り、尼姿となって、夫の菩提を弔うことになった。
維盛死去の報は鎌倉にも伝わった。頼朝は、
「気の毒なことをいたした。遠慮なく訪ねてくれば、命はお助け申したのに、卿の父君重盛公の事は決しておろそかに思わなかった。池禅尼の使いとして、頼朝を死罪から流罪にするよう尽力して下されたのが重盛公じゃ、この恩は忘れてはおらぬ、重盛卿の子息とあらば、よきように取計らったものを、まして出家したとあっては尚更のことじゃった」
といって残念がった。
平家一門が讃岐の屋島へ渡ってから、いろいろ不穏な噂が耳に入ってきた。すなわち、東国から新手の軍兵数万騎が、既に都に到着、屋島目指して攻め下るとか、九州からは土地の豪族、
「又々、悲しい目に逢わねばならぬのでしょうか」
女房たちが寄り集ると、話題はつい暗い未来の予想に落ちてゆくのであった。
一の谷の合戦で重立った諸将、侍が討死したので、名だたる武士は残り少くなっていた。一門にとって、せめてもの心頼みといえば、
「去年の今日、都を出たものでした。いつのまにか一年過ぎてしまって、早いものですね」
余りにも悪夢にも似た思い出の多かった一年である。一つとして、嬉しいことのなかった年月であったけれど。思い出はやはりなつかしく、今になってみれば、尚更いろいろと考え合わされて、夜の更けるのも忘れて話にうち興じるのであった。
七月二十八日、新帝、後鳥羽天皇が即位なさった。しかし、三種の神器のない即位の例は、古今未曽有のことであった。
又、蒲冠者範頼は
いつしか、都には秋の気配が忍び寄っていた。
かつては、九重の奥深く、にぎやかに春の花を
澄み渡った月を眺めながらも、思いはたちまち故郷の空、都の空、恋しい人への
君住めばここも雲井の月なれど
なお恋しきは都なりけり
なお恋しきは都なりけり
左馬頭行盛の歌である。
九月になって、源氏は、漸く軍勢を繰り出し、平家追討の戦を進めてきた。
参河守範頼が大将軍となり、従う諸将は、足利
佐々木三郎盛綱は、この浜の地理に詳しい男を一人探し出し、直垂、小袖、刀などを与えて、機嫌をとってから、
「この海の中で、馬でも渡れるところがあるか」といって尋ねた。
「そりゃあ、浜の人間でも知らん者が多うございますが、丁度うまい具合に私は知っておりますんで、海にも、川の瀬のようなところがございます。月初めには、東、月末には西の方でございます、左様、その瀬の間はほぼ海面十町程でござりましょうか、ここならば馬もたやすく入れまする」
盛綱はこの話にすっかり喜んで、家の子郎党にも知らせないで、その男と二人で、案内されるままに瀬を渡ってみた。確かにそこはさして深くなく、膝、腰、せいぜい深い所で
「この南は、もっと浅くなっておりますが、
といったので、盛綱も、そこから引き返した。この瀬のありかを知る者は、今の所、自分とその男の二人だけであった。盛綱は他の者に聞えるのを恐れて、浜へ着くとその男を刺し殺してしまった。
翌くる日、又昨日のように平家の小舟が、ここを渡って
「誰か、佐々木を呼べ、佐々木を留めい」
と叫んだ。土肥次郎実平が、急ぎ後に追い着いて、
「これ、佐々木殿、お気でも狂われたのか、溺れ死するおつもりか、大将軍がおとめなされているというのに、お留まりあれ」
と呼びかけた。しかし盛綱は、もとより自信のあるところだから、聞こうともせず、どんどん先へ先へと進んでゆく。実平も仕方なく、盛綱の後に従った。
馬の胸から、腹、
「さては佐々木にだまされたか、それ各々方、佐々木に続け」
参河守の号令一下、三万余騎が一度に馬を乗り入れた。平家方は負けじと矢で応戦してくる。源氏方はそれを物ともせず、
平家はそのまま、屋島に帰った。源氏はこれを聞き残念がったが、船がなくてはどうすることもできず、もう追い討ちをかけようともしなかった。
「昔から川を馬で渡ることは聞いているが、海を渡ったとは前代未聞じゃ」
と盛綱は、大いに面目を施し、備前の児島を恩賞として貰った。
十月になると、海はやがて波風が激しくなった。低くたれこめた曇り空から
大嘗会は十一月十八日型通りに行われた。ところで備前にあった参河守範頼は、船のないのを良いことに、