現代語訳 平家物語

第十巻

尾崎士郎訳




首渡し


 一の谷の合戦で討たれた平家一門の首が都に帰ってきたのは、寿永じゅえい三年二月七日である。
 このうわさを伝え聞いた平家の縁者たちは、一体誰の首が帰ってくるのだろう、自分にゆかりのある者でなければ良いがと、夜もろくろく眠られない始末である。
 まもなく、首といっしょに一人生捕いけどりになった三位さんみの中将も帰って来るという噂がつたえられた。この噂に心を痛めたのは、小松三位中将維盛これもりの北の方である。三位中将と聞いただけで、てっきり、それは維盛に違いないと思いこみ、悲しみのあまり床に就いてしまったのである。ところが、この三位中将は同じ三位中将でも、本三位中将重衡しげひらのことだということがわかった。しかし、そうなると今度は、小松三位の方は首の中にあるのではないかという疑いが起り、嘆きは更に深くなってゆくのである。
 源九郎冠者義経、かばの冠者範頼のりよりの二人は、これらの首を東洞院ひがしのとういんの大路を北へ見せあるいた上で、獄門にかけたいということを後白河法皇に伺いをたてた。これには法皇もお困りになったらしい。太政大臣以下、重立ったる公卿五人を呼んで相談を掛けられた。すると、期せずして五人の意見は一致していた。いうまでもなく、反対だったのである。
「昔から、卿相けいしょうという高官に就いた者が大路をさらされたことは先例がありません。更にこのたび、入京いたしましたこれらの方々は、いやしくも朝廷の御外戚でもあり、彼らをさらし者にすることは、朝家の威信を傷つける事になりましょう。義経の心中は、同情すべきでしょうが、この事ばかりは、お許しになるべきではないと思います」
 法皇も内々、同じ意見であったから、義経には、不承知の旨が伝えられた。義経の不満は大きかった。戦功の大きさに比べても、法皇のやり方は片手落ちに思えるのである。重ねて、義経は法皇に許可を求めた。
「保元の昔からかえりみますれば、祖父為義ためよしあだ、平治の乱では、父義朝よしともかたきだった平家でございます。この口惜しさ、憤りは私の身にならなければおわかり頂けぬかと思いますが、更に平氏専横の政権をくつがえし、我身を捨てて働いたのも、何を申しましょう、すべて我が君のため、我が祖先の恥をそそがんためでございます。此の度のお願さえお許し下さらぬようでは、以後、何の張合があって戦を続けることができましょうか」
 重ねがさねの訴えには、法皇も志を屈せざるを得なかった。こうして、かつては九重ここのえの奥深く、顔さえみることもできなかった平家の公達きんだちの首が、都大路を幾万という観衆に見世物にされて渡されることになったのであった。それを一目見たさに、つめかけた老若貴賤の人々も、さすがに首となって帰ってきた彼らの姿には、哀れさが先に立ち涙なくしては見られなかった。
 維盛から後事を託された斎藤五、斎藤六の兄弟も、この観衆の中にいて、そっと姿をやつしていたが、見知った首、知り合いの首が過ぎる度に、いつしか、顔中、涙でびっしょりになってしまった。いくら姿を変えていても、これでは、余りに目に立ち過ぎると、早々にその場を引き揚げて、北の方のいる大覚寺だいかくじへと道を急いだ。
 帰ってきた二人の姿を見ると、北の方は気もそぞろに問いかけた。
「どうだったの。殿のお姿は見えましたか」
「小松殿のご兄弟の中では、備中守師盛もろもり殿お一人でございました。その他には、誰々、誰々」
 一人一人、名を数えあげると、
「とても人ごととは思われません、いつ我が身のことになるかも知れぬのに」
 とすすりあげるのであった。
「何でも、人の話ではございますが、このたびの戦では、小松ご兄弟は、播磨はりまと丹波の境、三草山みくさやまを固めておられた由、義経に破られた後は、資盛、有盛、忠房の御三方は播磨の高砂たかさごからご乗船、讃岐さぬきの屋島へ落ちのびられました由、師盛卿お一方だけが離れて一の谷で討死なさったということでございます」
「では、殿は如何どうなされたのじゃ?」
「そのことも聞いて参りましたが、何でも、戦のはじまる前に、ご病気におなりになって、屋島でご養生とか、――此の度の戦にはお加わりになっていないそうでございますが」
「あのようなご不便なところでご病気とは、どんなにおつらいことであろうかのう、それというのも、きっと都のことばかりご心配になってのお病気に違いない。私とても風が吹く日には、今日は舟にお乗りか、戦があったときけば、討死なさったのではないかと、何かにつけて、お案じ申し上げぬことはないのに。それで、ご病状はどんな風か、聞かなかったのかい?」
 幼い若君、姫君までも、いっしょになって心配する有様であった。
 この肉親の心が、遠く海を距てた維盛にも伝わらぬはずはない。屋島で、病後を労わっていた維盛も同じように、妻や子の上に思いをはせていたのである。
「奥も、和子わこたちも、どんなに心配しておることであろう。たとえ、首の中にはなくとも、そうなれば、また、溺れ死したとか、矢に当って死んだとか取越苦労をするものだ。或いはもう、この世には生きてはいまいと思っているかも知れぬ、辛うじて生き長らえていることだけは知らせてやりたい」
 と、使いの者を一人仕立てて、京の奥方の許にそれぞれに三つの手紙を書いてわたした。
「敵の中に、か弱い女の身で、和子二人を抱え、どんなに苦労されているかと思えば、心はたちまち、京の空に舞い戻る心地がする。そなた達三人、此処へ迎えて、親子四人が寄り合って暮したいのは山々だが、此の地とても永久に安穏というわけでなし、わが身一人の辛さなれば、どんなことでもがまんするものを、そなたたち三人をこの憂目に合わすのは、何としても心苦しく、ついに思い止まった。云々うんぬん
 尽きぬ恋しさと、慕情をこめて書かれたこの手紙の最後には、一首の歌がしるしてあった。

いずくとも知らぬ逢瀬おうせ藻塩草もしおぐさ
  かきおく跡を形見ともみよ

 また子供たちには、
「毎日、どうやって暮しておるかと、そればかり案じている。急いで父の傍に迎えるつもり故、その日を楽しみに、母上を大切にして待っていてくれることのみ念じている」
 と書かれてあった。この手紙を見た北の方は、喜びと同時に一層悲しさがこみあげてきて、もう、なつかしい夫の文字をたどることもできないのである。
 いよいよ、返事を書く段になって、若君と姫君が尋ねた。
「父上には何と書いたらいいのでしょう」
「それはお前方の思ったとおり、心に感じたままをお書きなさい」
 二人は黙ってうなずいていたが、書かれた返事は、
「どうして今まで、お迎えには来て下さらぬのでしょう? 一日一夜とて、父上の恋しくない時はないのに、今度は本当に早くお迎えを下さい」
 と、たどたどしい筆跡であった。
 使いの者は、四、五日逗留とうりゅうした後、屋島に帰っていった。維盛は、開くのももどかし気に、先ず子供たちの便りを読んだが、たちまち両眼をくもらせると、はらはらと涙を流した。
「この世に、親子、夫婦の愛情のきずなほど強くひかれるものはない。わしはもう戦もいや、浄土を願うのもおっくうになってきた。それよりも、山伝いでもして、いかなる険路でもよい、再び都に帰り、恋しい者たちに逢ってからでなくては、死ぬのもいやじゃ」
 と、しみじみいうのであった。

内裏の女房


 生捕いけどりになった本三位中将重衡は、六条を東へと引廻された。車の前後のすだれをかかげ、左右の小窓も開かれていた。三十騎ばかりが車の前後を取り囲み、土肥どひの次郎実平さねひらが守護した。
 この哀れな姿を見た人々は、
「何の罪の報いか、気の毒なことよのう、いくらもある公達の中で生捕りになって、生き恥をさらすとは、前世の宿縁としてもあまりにも無慚むざんじゃ。清盛公にも二位殿からも、とりわけご寵愛の和子で一家の中でも尊敬されていて、院や内裏の参内の時でも、とりわけ丁重にもてなされた人であったのに、これも、南都を滅し、伽藍がらんを焼き払った罰かのう」
 と、ささやき合った。
 六条河原から、車は故中御門藤なかのみかどのとう中納言家成の八条堀川の御堂に入り、重衡は一先ず、そこに落着くことになった。
 やがて、院の御所から、院宣のお使いとして来たのは、蔵人左衛門権佐定長ごんのすけさだながであった。日頃は眼下に見下し、気にもかけなかった定長だが、今、捕われの境遇で逢ったときは嬉しかった。
 院宣の趣旨は、
「屋島へ帰りたければ、一門にいい送り、三種の神器と引き替えに、命を助けて屋島に送り帰そう」
 というのであった。
 重衡は、じっと聞いていたが、おもむろに口を開いた。
「内府宗盛以下、一門の内一人たりといえども、この重衡の命と引き替えに、三種の神器を戻そうなどと思う者はありますまい。まあ、母の二位ぐらいは、その気になるかも知れませんが、先ず脈はありません、といってこのまま院宣をお帰しするのも恐れ多いので、とにかく一応は、一門にも言い送ることにいたしましょう」
 使いに選ばれたのは、平三左衛門重国へいぞうざえもんしげくにであった。
 宗盛には、院宣の趣旨を書き送ったが、私書は許されていなかったから、屋島にいる愛妻の北の方へ言伝てを頼んだ。
「はかない旅の空でも、一緒の時は、互いに慰め合い励まし合ったものだが、今別れわかれになり、どんなに淋しがっていることであろう。しかし夫婦の契はこの世だけではない、生れ変ったら、必ずまた逢って夫婦になろうと思う」
 泣くなく言伝てをする重衡に、重国も涙を押えかねるのであった。
 重衡が、かつて召し使っていた家来の中に、木工右馬允知時むくうまのじょうともときという男があった。
「私は長年、中将にお仕えしたものですが、西国へもお供したいと思いつつ、八条女院にもお仕えしていたので、それも果さず、日を送っておりましたが、このたびのお気の毒な様子を拝見し、今一度お目にかかってお慰めいたしたいと思うのです。私は合戦のお供もしたこともなく、弓矢取る身でもございませんから、決して無法な真似まねをするつもりもございません、もしご懸念があるのでしたら、刀をお取り上げ下さい。何卒一目お目にかからせて下さいますように」
 と、実平に懇願した。実平はもともと情に厚い侍であったから、この男の一人ぐらいと、刀を取上げて面会を許した。
 右馬允が御堂に入ってみると、重衡は深い物思いに沈んだ様子で坐っていた。心なしか頬のあたりにも、やつれがみえて余計に痛々しかった。
 右馬允の姿に重衡は、夢かとばかり驚いて、とっさに言葉も出ないらしい。唯、両眼から涙があふれ出てくるのであった。しばらく落着いてから、あれこれ昔話をしては、帰らぬ日のことをいろいろなつかしがっていたが、不図ふと、重衡が思い出したようにいった。
「そなたの顔を見て思い出したが、以前、そなたに文の使いをして貰った例のひとは、まだ内裏にいられると聞くが本当か?」
「本当でございますが、何かお言伝てでも?」
「実は、西国に下る時も、一言何か言おうと思いながら、あの騒ぎで果せず、気になっていたのじゃ。きっと向うでは、わしを実のない男と思っているに違いない。今、文をやりたいと思うのだが、持って行ってくれまいか?」
「そのようなことはお安いご用、お文を下されば喜んで参ります」
 重衡は、嬉しそうに手紙を書いて渡した。警固の武士は一旦、手紙と聞いて色めき立ったが、重衡が中を見せたのですぐ納得した。
 知時は内裏に行くと、夜になって人目につかなくなってから、つぼねの裏口にひそんでいた。すると確かに、訪ねるあてぬしの声で何かいっているのが聞えた。耳を澄ましてみると、
「いくらもある人の中から選りに選って、三位中将だけが生捕りになって大路を引き廻されるとは余りにもむごい、人はみな、奈良をやいた祟りだというけれど、実際、手を下して焼いたわけでもなく、心にまかせぬままにされたことなのに、罪だけ着せられて、お気の毒な」
 そういいながら泣いている様子である。知時も思わず目頭めがしらが熱くなってきた。
「一寸お伺い申します」
 知時が声を掛けると、中から同じ女の声で、
「何御用です?」
「三位中将からのお文を預って参りましたが」
 声を落して告げると、中から転がるように飛んで出てきた女房があった。普段は、人と逢うのさえ恥ずかしがっている人なのに、その時は夢中であったらしい。
「どこに、どこにお文がありますのか?」
 と手ずから重衡の手紙を開くと、むさぼるように、読みふけるのであった。西国で捕われの身になって以来の様子や、暗雲に閉された行末のことなど、こまごまとしたためられ、最後に一首の歌が記されてあった。

涙川憂き名を流す身なりとも
  今ひとたびのうせともがな

 女房は唯、悲しみに言葉もなく、文をかき抱いて泣き伏していたが、暫くしてから、自分も筆をとって、重衡に別れてつらかった二年来のことを書き、終りに一首、歌を詠んで、知時に渡した。

君故にわれも憂き名を流すとも
  底のみくずとともになりなん

 三位中将はこの手紙に一層恋しさを募らせ、何とかして、もう一度逢うことはできないものかと考えた末、かねがね、情ある計らいをしてくれた実平に、
「実は、重ねがさねのお頼み、恐縮に存じますが、日頃、年頃なじみを重ねておりました女に、一目だけ逢わせては頂けないでしょうか?」
 といって頼んだ。実平は、女に逢う分なら差し支えないと思って許したので、重衡は車を借りて迎えにやった。重衡からの迎えの車と聞いた女房は、夢かとばかりに驚いたが、とるものもとりあえず、車に乗ると堀川にかけつけた。重衡は、最前から気がかりで、車寄せに立って待っていたが、車が入ってくるとかけ寄ってきた。
「武士が見ておりますから、そのまま、車の外へはお降りになりますな」
 重衡は、自ら車のすだれをくぐって、顔をさし出した。目と目が合った瞬間、二人の頬は涙でぬれていた。黙って、手と手を取り、顔と顔を押しあてたまま、暫くはそのままじっとしているのであった。
「西国落ちの時も、どんなにお別れに行きたいと思いながら、余りの騒がしさにそれも許されず、一言もお便りせずに黙って発ったことを、何としても申しわけなく思っていたのです。あちらに着いてからも、手紙を上げ、お返事ももらいたいとは思いながら、戦、戦の連続で、思うようにまかせず、気になったまま年月を過してしまいました。それがこのように情ない身になったからこそ、また貴女にもう一度逢えたのかも知れません」
 話しながらも、涙はとめどなく流れるのであった。二人の物語はいつ果てるとも見えないうちに、夜も次第に更けていった。
「近頃は物騒だからもうお帰りなさい、さあ早く」
 重衡はわれとわが心にむち打って、車を出させるのであった。別れ際に重衡は一首の歌を贈った。

逢うことも露の命ももろともに
  こよいばかりやかぎりなるらん

 すると、女房の返しに、

かぎりとて立ち別るれば露の身の
  君よりさきに消えぬべきかな

 その後は二度と、逢うこともできず、文通だけは通わせていたが、重衡が斬られたと聞いて、女房も長い黒髪を絶ち、尼になって重衡の菩提ぼだいをとむらった。この女房は、民部卿入道親範みんぶきょうにゅうどうちかのりの娘で、殊に愛情の深い人であったといわれる。

院宣請文いんぜんうけぶみ


 院宣のお使いとして屋島に下った平三左衛門重国は、二月二十八日に到着した。
 平家一門が早速集って院宣を開いた。
「天下の御一人天皇が、皇居を出られて既に数年が過ぎた。その間、三種の神器も、玉体と共に南海四国を転々とするのは、余りにもおそれ多く、これぞ朝家の嘆き、国を亡ぼす基である。そこで、この度、一門の重衡卿は捕われの身となり、東大寺焼失の張本人として、頼朝からも死罪を要求してきてはいるが、独り親しい者たちに別れ、日々、南海をしのび、恋しい者を慕う気持は哀れである。もし三種の神器を返し奉らんという気があれば、特に重衡の命は許し、再び屋島に帰すことも可能である、云々うんぬん
 つづいて二位殿は、特に許されて書いた重衡の手紙を開いてみた。
「今一度、私の姿を見たいおつもりなら、三種の神器のことを、宗盛卿によきようにお取計らい下さい。それ以外には、生きて再び逢うこともかないますまいと存じます。よくよく母御前を頼んでの一言、哀れと思し召し候え」
 そのうち、一門の重立った者が集り、院宣の対策のための会議が開かれた。その席上、後の障子が開いて、重衡の手紙を持った二位殿が現れ、宗盛の前に倒れ伏して、さめざめと泣くのであった。
「これを、これをご覧下さい、あの子が書いた手紙でございます、何とまあ不憫ふびんな、可哀そうなことではございませぬか、心の中では他にもどんなにか書きたいこともあったのでしょうけど、何卒、此の度は、わたしに免じて、あの子の命と、引き替えに、三種の神器をかえして下されい」
「母上、こればかりは無理なお頼みかと覚えます。宗盛とても、重衡を思う気持、人後に落ちませぬ、といって、重衡一人のためにあの尊い三種の神器をかえしたとあっては、世の聞えはともかく、頼朝にも恥ずかしい思いがいたします、その上」
 そこで宗盛は語を強めると、一座をきっとにらみ廻した。
「三種の神器を持ってこそ、正統の帝王でございます。今、これをおかえししてしまっては、一門の苦労も水の泡、誰しも子は可愛いものではございますが、といって、中将一人のために、他の者を犠牲にすることは許されませぬ」
 宗盛の荒い語気も、この場の二位殿には通じなかった。彼女の心は、今は重衡一人のことしか念頭になかったのである。
「故入道に死に別れて以来、甲斐ない命を長らえてきたのも、あの子あればこそじゃ、その中将が、一の谷で捕われたと知っては、もう生きた心地はせぬ、湯水さえのどに入らなかったのに、此の手紙を読んでは一層、思いはつのるばかり、中将が死んでは、私も生きてはいたくない。もう二度とこんな辛い想いを味わう前にいっそ私を殺してたもれ」
 絶叫するような二位殿の悲痛な声の前では、今は詮議せんぎも忘れて、一座の人々はしずまり返ってしまった。ややあって新中納言知盛とももりが、口を開いた。
「たとえ、院宣の通り、三種の神器を都へおかえししても、果して重衡卿の命を助けるかどうかは怪しいものです。それよりもこの際は、やはり、宗盛卿の仰せ通り、この事をはっきり明記してお返事申し上げるのがよろしいかと思います」
 今は二位殿も、泣き疲れ、叫び疲れて、唯呆然ぼうぜんとしているだけであった。一座の者も、情では二位殿の言葉にひかれつつも、やはり知盛の意見に同意するよりほかはなかった。
 今はすべてを諦めた二位殿は、泣くなく返事をしたためた。重衡の北の方、大納言すけ殿は、もう泣いているばかりで、はかばかしい返事も書けないのであった。
 院宣に対する返事は、ざっと以下のようなものである。
「院宣は二月二十八日、讃岐の屋島に到着いたしました。さて院宣にも記されてある通り、重衡のことに就てのお計らいはともかく、われら一門、通盛卿以下一の谷にて討死した者も多く、今更彼一人をおゆるしあられたとて、大勢に影響はないものと信じます。おそれ多くもわが君は、故高倉院よりご譲位をうけ在位四年、天下のまつりごとは、尭舜ぎょうしゅんの世を習い、ひたすら賢王の道を歩ませられておられます、頼朝、義仲等のやから、かたり合い群を成して入京いたしました故、一先ず九国に行幸するの止むなきにいたりました。さて、三種の神器は君主のしるしでござります。君主の還都なくば、神器も又還都あるべからずと思います。そもそも我ら一門は始祖貞盛よりこの方、諸国の反乱をしずめ、朝敵の謀臣を誅罰ちゅうばつし、今日に至っております。これひとえに君の為、国の為と存じます。かの頼朝は、平治の乱における左馬頭義朝さまのかみよしとも謀叛むほんに依り、誅伐せらるべきのところを、入道相国しょうこくの大慈悲をもって助け置き下されたものであります。その重恩を忘れてみだりに乱をなすこと、愚かなるも甚しく、院におかせられても当家数代の奉公、亡父数度の忠節を、もし思召し忘れずば、何卒、四国へ御幸下さいますよう、さすればわれら一門、再び院宣を賜わり旧都を回復し、君のため、一代の恥をそそぐつもりでござります。この願いお聞き届けなくば、われら一門、故国を後に、から天竺てんじくまでも三種の神器と共に渡るつもりにござります。さすれば我が国神代の霊宝も、ついに異国の宝となろうかも知れませぬ。よろしくこれらの趣きを奏聞されんことを、云々うんぬん

戒文かいもん


 院宣のお使いが、平家一門の返事を持って帰ってきた。重衡は、もともと不可能なこととは思っていたものの、さすがに一縷いちるの望みも絶たれたという想いは強かった。
「まったく考えるだけでも無理なことであった。一門の者は、この重衡のいくじなさに腹を立てたであろうか?」
 重衡は淋しそうに笑うのであった。これで重衡の行末もほぼ決ったようなものである。これからは唯、鎌倉へ下る日を待つばかりであった。ある日、重衡は実平に向って、
「出家をしたいのだが、どんなものであろう?」
 といって相談を持ちかけた。
「私の一存ではどうもなりませぬ、九郎御曹司おんぞうしに伺いを立てました上で」
 この話を聞いた義経は、更に院の御所に奏聞した。院の御所からは、
「とにかく、頼朝に引き合わせた上で、出家なり、何なりいたすがよい」
 重衡はこの返事を聞いて黙ってうなだれていたが、
「それでは勝手ながらもう一つのお願いがあります。年来、お教えを蒙っております黒谷くろたに法然房ほうねんぼうと申すひじりがございます。鎌倉へ下る前に今一度逢って、後生のことに就て教えをうけたいのです」
 これは別に拒否する筋合もなかったから、直ぐに許され、聖が迎え入れられた。
「もはや命運尽き果てました、この上は、後生をいかに過すかということばかりを考えております。かつて殿上人と呼ばれ、公達と敬われていた時は、日々の政務や雑用に追われ、未来の幸不幸も考えたこともありませんでした。更に、世の中が乱れてからは、毎日、生きるか死ぬかの戦場暮し、唯、もう人はどうあろうともわが身一人が可愛くて、ほかのことは考えたこともなかったのです。ところで、私の悪業とうわさされている南都炎上のことでございますが、君に仕える武家の習いとしては、命令を拒否することもできず、衆徒の悪行鎮圧のために、戦に赴きましたが、心ならずも不慮の災難で、伽藍がらん炎上、大将軍としては、責任を逃るることはできないと観念はいたしておりました。今日このような目に逢っているのも、ただただその報いとばかり思っております。実はそのためにも出家得度して、ひたすら仏道修業に励みたかったのでございますが、お許しがなかったのです。私の一生をかえりみれば、悪業ばかり多くて、この分では、死んでも決して往生はできないと思うのです。上人様、かような悪人でも、欣求浄土ごんぐじょうどを望めるものなのでしょうか?」
 涙ながらに訴える重衡の言葉に、法然も心を打たれてしばらく押し黙っていたが、まもなく、
穢土えどを嫌い、浄土を願い、悪心を捨て、善心を発心し給う心さえあれば、三世の諸仏も必ずやお喜びのことと思います。罪深いといって卑下なさらずとも、心をめぐらし、仏の交わりを結べば、必ず救われます。往生の得否は、唯、信心の有無だけです、決して疑うことなく深くお信じになることです」
 こんこんと教えを説く上人の言葉を聞きながら、重衡の顔にも次第によろこびの色が浮んでくるのがわかった。
「折角お出で下さいましたおついでに、かいをお受けしたいのですが、出家の身でなくても、お受けできるものでしょうか」
「もちろん出家せぬ人も、戒は受けられますのじゃ」
 法然は、重衡の額に剃刀かみそりを当て、真似まねをしてから、十戒を授けたのである。
 お布施ふせといっても、何もないので、昔からねんごろにしている侍の許に預けて置いたすずりを取りよせた。
 この硯は、重衡の父、入道相国が、砂金を宋の皇帝に送ったお礼として貰ったもので、松蔭まつかげといわれる名品であった。
 重衡は硯を法然の前に置いていった。
「これは人にやらずに、お目につくところに、お置き下され、ご覧下さる度に私のことを思出し、何卒、ご念仏なされて下さりませ。又お暇があれば、経などもあげて下さればどんなに嬉しいでしょう」
 法然は、硯をふところにおさめると、泣くなく別れを告げたのであった。

海道下り


 頼朝の命に依って、中将重衡が東国に向って出発したのは、三月十日であった。お供には梶原平三景時かじわらへいぞうかげときがつき従った。
 四宮河原しのみやがわらを過ぎれば、蝉丸せみまるの歌に想いをはせ、勢多せた唐橋からはし野路のじさとを過ぎれば、既に志賀、琵琶湖にも、再び春が訪れていた。不破ふわせき鳴海なるみ汐干潟しおひがたと次第に東へ下るにつれて、思いは果てしなく都の空へととぶのであった。ある日の夕べ、遠江とおとうみ池田いけだ宿しゅくに泊ることとなり、その日は宿の長者、熊野ゆやの娘、侍従の許に宿をとった。
 侍従は、かつて華やかにときめいた人が捕われの身となって、こんな田舎いなかの宿に泊ることになったのを、ひどく哀れに思ったらしい。一首の歌を詠んで贈った。

旅の空埴生はにゅうの小屋のいぶせさに
  ふる里いかに恋しかるらん

 重衡も返歌を贈った。

ふる里も恋いしくもなし旅の空
  都もついのすみかならねば

 重衡は侍従の歌を嬉しく思って景時に尋ねた。
「優しい心の女性とみえるが、何と申す者じゃ?」
「実はもうご存じかと思っておりましたが、熊野の長者の娘、侍従と申し、宗盛卿がまだ、当国の大守であられた時、召し出されて厚いご寵愛を受け、都にも連れて行かれた者でござります。卿のご愛惜は深く、暇を下さらぬため、故郷に残した老母の身が気がかりで、丁度、花の盛りの頃、こういう歌を詠んだのです。

いかにせん都の春もおしけれど
  なれし吾妻あずまの花や散るらん

 すると、卿も感心されて、お暇を賜わることができ、以後、海道一の名人といわれておりまする」
 都を出て既にひと月、春もはや盛りを過ぎる頃であった。重衡卿の心は何を見ても楽しまなかった。華やかだった昔の想い出、そして苦しかったいくさの日のこと、今の哀れな境遇、更に行末に思いを馳せると、ますます胸はふさがれ、心は重くなるばかりである。
 重衡と大納言佐殿との間には子がなかった。そればかりが苦労の種であったが、今にして思えば、まだ子のないことが幸いであったともいえるのだ。
 やがて、小夜の中山、宇津うつの山を越えたとき、遠くに雪を頂いた山が見えた。名を尋ねると甲斐かい白根しらねというのであった。
 重衡はそこで一首の歌を詠んだ。

おしからぬ命なれども今日までに
  つれなきかいのしらねをもみつ

 富士の裾野すそのを経、足柄山あしがらやまを越え、大磯おおいそを過ぎて、いつしか一行は、鎌倉に入ったのであった。

千手せんじゅまえ


 鎌倉に着いた重衡は、早速頼朝の前に連れて来られた。頼朝はつくづく重衡を見やりながらいった。
「君の御憤りを安め、父の恥をすすぐため、戦いをいどんで以来、平家を亡ぼすことは予想通りでござったが、まさか、そこ許とかように対面できるとは夢にも思わなかったことじゃ。この分では、宗盛卿にお目にかかることもできるかも知れぬ。ところで、南都滅亡の大悪行は、故清盛殿のご命令か、もしくは、そこ許のとっさのご思案か?」
「その点は、両方ともに間違っておると思われまする。南都を攻めたのは、唯、衆徒の悪行を鎮めるためでございました。それが思わぬ伽藍がらんの焼失を招いたのは、この身の不肖ふしょうでござりましょう。昔のことを顧みますれば、かつては源平共に朝家のお守りとして活躍したものでした。それが、源氏の運が傾いてからは、当家ばかりは繁栄の一途をたどり、遂には帝のご外戚にまでなり、二十余年の間、一身の栄華を身に受けました。昔から朝敵を平げた者は七代まで、朝恩失せずと申しますが、どうやらこれは間違いだったようですな。平家は一代にて運も尽き果て、都を出てからは、私も山野に死し海上に漂うことは覚悟だったのですが、まさか、この鎌倉まで下ろうとは思いも寄らぬことでした。これも唯、先の世の宿業しゅくごうと口惜しく思います。しかし、弓矢とる身の常として、同じ弓矢の道の敵の手に渡って殺されることは、決して恥とは思いませぬ。この上は一日も早く首をはねて頂きたい」
 重衡はそういうと、後はすっかり黙りこんでしまった。景時始め、並みいる人々も皆、心の内で感嘆しながら袖をぬらすのであった。
 頼朝は重ねていった。
「私の敵としての平家に何の恨みもない。これもただ帝王の仰せに従ったまでのことでござる、お助けしたいは山々じゃが、何せ、南都滅亡の張本人ということになれば、南都の大衆がどのように出るか? そのいい分も聞かねばならぬでのう」
 といって一先ず、伊豆国住人狩野介宗茂かののすけむねもちに預けられることとなった。狩野介は、情理に厚い武士であったから、罪人としてよりも、むしろ賓客ひんきゃくをもてなすように手厚くもてなし、旅の労をいたわるのであった。
 彼は先ず、湯殿を作って湯あみをさせてくれた。重衡が道中の汗で汚れた体をさっぱりと洗い流し、その上で首を斬られたいとひそかに願っていたからである。その重衡の気持を汲んでくれたような取り計いであった。久しぶりの湯で、すっかり寛いだ気分になっていると、年頃二十程、色の白い優しい顔をした女が、湯殿の戸を開けて入って来た。絞り染の単衣ひとえ湯巻ゆまきをつけたかいがいしい姿であった。その後から十四、五ばかりの童女が手水盥ちょうずだらいくしを入れて持ってきた。女は背中を流したり、髪を洗ったりして、てきぱきと働いた。湯あみが済んでからその女は、情の深い優しい目に、ふかい同情をこめて、
「男どもにはいろいろ気骨も折れましょうが、女であれば仰有りやすうござりましょう、何でもお望みの事をおっしゃって下さいまし」
 といった。
「このような身とては望みも別にありませぬが、ただ一つ出家をいたしとうて」
 女は頼朝にこのことを告げると、頼朝は首を左右に振っていった。
「そればかりはわしの独断にはいかぬでのう、何せ、朝敵として預った人じゃ、許せぬと伝えよ」
 女は又、重衡の許に来ると、気の毒そうに頼朝の言葉を告げて帰っていった。
 その物腰といい、態度といい、とても東国の女とは思えぬ程の、みやびやかさと気品があった。
「一体、今の女房はそも何という者でしょうか? まことにすぐれてやさしい女房じゃが」
「あれは、手越てごしの長者の娘で、このあたりでも評判の娘でございます。鎌倉殿のお目に留まって以来、此の二、三年おやかたに仕えておりますが、見目みめ形は申すに及ばず、心も気質も優しい女性でございます、名は千手せんじゅまえと申します」
 警固の侍の言葉に、重衡は深くうなずくのであった。
 その夕方である。雨もよいの空は、暗く低く、何となく気の滅入めいりそうな空模様である。そこへ、千手の前が、琵琶びわことをたずさえてやってきた。重衡を慰めよ、という頼朝の計らいであった。狩野介も、家の子、郎党十数人を引き連れて一座に加わった。しめやかな酒盛が始った。千手の前の傾ける酒に口をつける重衡の顔には、物憂い表情が漂うばかりで、一向に興あり気には見えなかった。
「私は伊豆の国の侍でございまして、鎌倉滞在中は、いわば殿方と同じ旅の空というわけでございますが、及ぶ限りの事はいたすつもりでございます。何なりと仰せ出され下さい。それ千手殿、そなたも、何なりと歌など歌って、酒などおすすめ参らせい」
 狩野介の言葉に応じて、千手は直ぐさま、

羅綺らき重衣ちょういたるなさけなきを機婦きふねた

 という朗詠を、くりかえしくりかえし高らかに歌った。
「この朗詠を歌えば、北野天神が毎日三度、歌った人の囲りをかけめぐり、守護して下さるといわれているが、この私は神にも捨てられた身で、今更、唱和しても仕方がないが、まあいくらかでも罪が軽くなるというのなら一緒に歌おうか」
 すると、千手はあとを続けて、

十悪じゅうあくといえども引摂いんじょう

 と詠じ、

極楽ねがわん人は、皆弥陀みだ名号みょうごうとなうべし

 と、今様を四、五回歌った。漸く、酒も廻り始めて、座の空気が寛ぎ始めた。千手は琴を取り出して弾き始めた。曲は五常楽ごじょうらくであった。重衡は笑いながらいった。
「この曲は五常楽じゃが、私のためには、後生楽ごしょうらくじゃ、どれ今度は私が、往生のきゅうを弾こうか」
 こんどは自ら琵琶を取りあげて、※(「鹿/章」、第3水準1-94-75)おうじょうの急を弾き出されるのであった。
 次第に夜も深くなるに従い、重衡の顔は次第にいきいきと嬉しそうに見えてきた。時々千手の前を見遣りながら、
「全く東国の女子に、かように何事にも優れた女性がいるとは知らなかった。千手の前程の人は都にさえ珍しいほどじゃ」
 感嘆の声をもらしながら、今様をもう一曲所望した。

一樹のかげに宿り逢い、同じ流れをむすぶも、皆これ先世の契りなり

 という白拍子の歌を、千手は巧みに歌うのだった。この歌にひどく興を覚えた重衡は、続いて、

ともしびくろうしては、数行すうこう虞氏ぐしが涙、夜深うしては、四面楚歌しめんそかの声

 と朗詠するのであった。漢の高祖との戦に破れた項羽こううが、虞氏ぐしとの別れの切なさを歌ったものだが、今日の重衡の心境そのままをいいあらわしてまことにみごとであった。
 数々の慰みごとに、時の経つのも忘れていたが、気がついてみると夜は白々と明け初めていた。狩野介始め家の子、郎党達、千手の前も暇を告げて重衡の許を辞した。
 その朝のことである。
 頼朝が、持仏堂で法華経を読んでいると、千手が現れた。
「ゆうべはご苦労だったのう、中々取り持ちがうまかったそうだな」
 頼朝は、上機嫌で千手にいった。丁度その前で書き物をしていた斎院次官親義さいいんのじかんちかよしが、けげんな顔をしてたずねた。
「何の事でござりますか」
「いや昨夜、重衡卿のつれづれをお慰めしにこの千手が参ったのじゃが、さすがは平家の公達きんだち、いくさに追われてのあわただしい生活では、遊芸もままならぬであろうと思ったが、どうして、どうして、あの琵琶の撥音ばちおとといい、口ずさまれた歌い振りといい、見事なものじゃったわい。わしは夜中立ち聞きしてしまったよ」
 すると、親義がいった。
「私も昨夜、聞きたい、聞きたいと思いながら、所労のため聞きもらしたは残念でした、これからはいつも立ち聞きすることにいたします。とにかく平家ご一門は、名にし負う才人揃いで、とりわけ重衡卿はその名も高い方です。いつぞや、一門を花にたとえたとき、三位中将は牡丹ぼたんになぞらえられたことがあったほどです」
「確かにそうであろうのう」
 頼朝は後々までも感心したのであった。
 千手の前にとってもこの時の思い出は、忘れられぬものであった。彼女は、重衡が南都へ渡され、斬られたと聞いてからは、墨染の衣に身を変えて、重衡の菩提をとむらったのであった。

横笛よこぶえ


 屋島に毎日を過していた中将維盛は、都恋しの一念を捨てることができなかった。寿永三年三月十五日、とうとう、屋島の館を忍び出て、阿波国結城ゆうきの浦から舟で、紀伊へ向った。お供には、与三兵衛重景よそうびょうえしげかげ石童丸いしどうまる、それに舎人とねり武里たけさとというもの三人で、夜陰にまぎれて舟を出したのである。
 無事に紀伊の港に着いたが、此処から都は陸路をたどれば程近い。維盛は、何度か都へ足を向けようという心を押えかねた。
「もう一度、恋しい妻や子の顔を見ることができるならば、何とでもしたいが、しかし、つい先頃、大路を引き廻された重衡殿の二の舞をするのも、くち惜しいし、父の名を恥ずかしめるのも厭じゃ、一体どうしたものであろうか」
 維盛は考えに考えた末、ついに決心をすると、高野山目指して歩き出したのであった。
 高野山には、父重盛しげもりの家来で、斎藤滝口時頼たきぐちときよりという侍が、今は出家して、滝口入道と名乗る立派なひじりになっていたのを頼っていったのである。
 滝口は十三の時、建礼門院に仕える女官で身分の低い雑仕ぞうし横笛よこぶえという女を知り、互いに愛し合う間柄となった。しかし父の三条斎藤左衛門大夫茂頼もちよりはそれが気に入らなかった。官位も身分もひとかどの者の娘の婿にして、息子の栄達を願っていた父親には、雑仕なぞという、いやしい、はした女に目をくれたことがどうしても不満であったのだ。父の怒りを知った滝口は、
西王母せいおうぼや、東方朔とうぼうさくといった仙人ならばいざ知らず、人の生命には限りがあるもの、いかに長命いたしたところで、七十か八十、そのうち、花の盛りといえば、たった二十余年、そのはかない人生で、愛する者を妻とすることもできず、心にかなわぬ女とともに一生を送って、何の楽しみがあろう。しかし愛しいと思う女を得んとすれば、父の命にそむくことになる。いっそ、このいとわしい世を捨てて、まことの道に生きた方がよいわ」
 あっさりと、この世の未練を捨てると、十九歳という若さで、もとどりを切って、嵯峨さがの往生院に入った。
 横笛は、余りのことに一時呆然ぼうぜんとしたようであった。
「私を捨てるというのならともかく、お姿まで変えなくともよいものを、どうしてその前に一度でも知らせてくれなかったのであろう。余りにもつれない仕打ちがうらめしい。あの方がどんなに道心堅固でもかまわぬ、一度お訪ねして思いのたけだけでもいい、聞いて頂こう」
 思い立つと、矢も楯もたまらぬ女心であった。ある日の暮方、そっと都を忍び出て嵯峨に向った。春もまだ浅い夜のことで、どこからとなくしのび寄る梅の香り、霞がかったおぼろ月なぞが、横笛の心にひそやかな悩ましささえ感じさせる。
 往生院という名は聞いてはいたが、果してどれがそうなのか見当もつかぬまま、あちこちたずね歩いているうちに、不図ふとみすぼらしい僧坊から聞えてくる念仏の声が、確かに聞き覚えのある滝口の声であることに気がついた。横笛は躍る胸を押えながら、供の女に、
「横笛がはるばる尋ねて参りました。今一度お目にかかりとうございます、お姿をお見せ下さいませ」
 といわせた。
 とたんに念仏の声がはたとやんだ。滝口も、恋する女が訪ねてきたと聞いては、あれほど堅く心にひめた誓いもひるむかと思われた。そっと障子のすき間からのぞいてみると、まさしく横笛が、忘れもせぬなつかしい姿で立っているのである。われとわが身に心をさいなまれながら、しかし滝口の気持は強かった。
「こちらには、そういう方はおられません、お間違いではござりませぬか」
 恋しい滝口の顔が、門口に現れるのを待ち構えていた横笛は、無愛想な、見知らぬ僧の言葉に、がっくりと首をうなだれた。今はこれ以上、いうすべもなかった。しおしおと首をうなだれて山路を下りていく横笛の後姿を見ながら、滝口は何度か叫びそうになるのを、こぶしを握りしめてこらえているのであった。
 滝口はその後で、同宿の僧に向い、
「此処は閑静この上なく、念仏三昧ねんぶつざんまいに日を暮すには、もってこいと思っておりましたが、どうも昔好きだった女に知られてしまっては、一度は心強く帰しても、二度、三度となれば鉄石ではないこの滝口、再び、昔の情に引きずられることもあるかと思いまする。今度は、もっと人知れぬ山深く入るつもりですから」
 といって暇を告げると、高野山の清浄心院しょうじょうしんいんに入った。
 滝口に見捨てられた横笛も、今はこの世に用はないと、同じく発心して尼となった。滝口はひそかにこの事を聞いて、さすがに哀れさを覚えたのだろう。

そるまではうらみしかどもあずさ弓
  まことの道に入るぞうれしき

 という歌を贈った。
 横笛の返歌は、

そるとても何かうらみんあずさ弓
  ひきとどむべき心ならねば

 横笛は出家してから、まもなく奈良の法華寺で、短い一生を終えた。
 滝口入道は、横笛の死の知らせを聞いて以来、ますます念仏三昧の修行に励むようになった。若い日の情熱の一切をたたきこんだようなきびしい行ない振りに、人々は尊敬の念を深くするようになり、ついには父も勘当を許した。人々は、高野の聖と呼んで滝口を敬ったのである。

高野


 三位中将維盛が滝口に逢ったのは、出家以来始めてであった。かつては、侍の中でも一きわ目に立つ美男で、その姿の良さは定評があったものである。それが、今では、まだ年というほどでもないのに、老僧のようにやせ衰え、色黒々と骨筋が張って、濃い墨染一色の袈裟衣けさごろもという簡素ないで立ちであった。しかし、おだやかに澄み渡った深い目もと、静かな額のあたりにも、行ない澄ました者だけが知る平和な安らぎが満ちみちていて、維盛は、思わず羨望せんぼう溜息ためいきをついたのであった。
 滝口入道は、思い掛けぬ人の姿に驚いたらしい。物静かな表情にも、一瞬、鋭いものがひらめくのであった。
「これは何としたること、夢ではありませぬか? それにしても、何故このような冒険をなされたので?」
「まあ聞いてくれ。人並みに都を出たのはよかったが、どうにも、都に残した妻子のことが思い切れず、日夜悶々もんもんとしておったのじゃが、この有様が他の人にわからぬはずはない。宗盛卿から二位殿までが、わしのことを、頼盛と同じく二心があるなどと思ってる様子で、屋島にも次第に居辛くなって参ったのじゃ。どうせのことなら、今一度、子供達の顔も見たいと思ったのじゃが、本三位中将のこともあって、そればかりは心にも任せず、今は唯、出家の上でどうにでも成ろうと思って、お前を尋ねて参ったのじゃよ、出家の上は、熊野くまのに行くのが宿願じゃ」
「この世の事などは、一時の夢まぼろし、後生安楽を願って、来世に生きることが大切でございますよ」
 滝口入道は、維盛を案内し、高野の奥の院まで連れて来た。
 高野山は、都から二百里程のところにある霊場である。めったに人の声もしない。聞ゆるものはこずえをわたる風の音だけで、八葉の峰と八つの谷を持ち、鈴の音は、峰の雲に響くばかりである。その歴史は遠く古く、今では瓦に松が生え、垣根にもこけがむしてしまっている。
 昔、醍醐だいご帝の御代、御夢に弘法大師が現われ、檜皮色ひはだいろの御衣を着せるようにというお告げがあった。勅使中納言資澄すけすみ般若寺はんにゃじの僧観賢かんけんを連れて、高野山に上り、御廟ごびょうとびらを押し開いた。いざ、御衣を着せようとしたが、霧が深くて、大師のお姿が見えない。観賢は前にぬかずくと、涙を流していった。
「私、母の胎内たいないを出て、師僧に仕えてこの方、戒律を破ったことはありませぬ、それなのに、何故、お顔を拝ませて頂けないのでしょう」
 すると、次第に霧が晴れ、大師のお姿がはっきりと見えてきた。観賢は、涙にむせびながら衣を着せ、長く伸びた髪をお剃りしたのであった。勅使と観賢は、お姿を拝することができたが、弟子の石山内供淳祐いしやまのないくじゅんゆうは、当時稚児ちご姿でお供に加わっていたが、拝むことができず、うち沈んでいたので、観賢が手を取って大師の膝に押しあてた。その手は一生芳香ほうこうを放っていたといわれる。
 弘法大師は、帝にご返事を下された。
「我、昔、菩薩ぼさつに逢い、直接印明いんみょうを伝えられました。かつて類のない誓願を抱いて、辺地異域にはべり、日夜万民を憐れみ、普賢ふげん菩薩の悲願に習い、生身のまま入定にゅうじょうした事を実証せんがため弥勒みろくの出現を待つものです」
 と伝えた。
 大師の死んだのは承和二年三月二十一日、午前四時である。

維盛の出家


 都を離れて、波の上での海上暮しで、かつてはたおやかな貴公子であった維盛の相貌も、見違えるように変ってしまった。黒々と日焼けした肌はやせ衰えて、みるかげもなくやつれ果てた顔であった。それでも、しかし、素姓は争われぬもので、どこやらに消えぬ気品はさすがであった。
 高野に着いたその晩は、滝口入道の庵室で、よもすがら昔話に花が咲くのであった。そのうちにも入道の日常の修行を見ていると、世の栄華も離れ、真理の探究にいそしむ生活の底知れぬ深さに、うらやましさを抱くのであった。
 どうせ逃れられぬ身ならば、自分もせめてあのようになりたい。維盛は、一夜考え抜いて翌朝、東禅院の知覚上人に出家の志を打ち明けた。
 屋島から高野まで、忠実にお供をしてきた与三兵衛、石童丸の二人を呼び寄せると、
「わしはいずれにしても逃れられぬ身なれば、出家をするつもりじゃが、そなたたちは、まだ前途のある身、広い世間には、いくらもそなたたちを召し抱える者もいるはずじゃ。そなたたちは都に帰り、妻子を養い、又このわしの後生もとむらってくれよ」
 与三兵衛、石童丸は、主人の言葉に一言もいわずに涙ぐんだまま、じっとうなだれていた。まもなく、与三兵衛が顔をあげるとじっと維盛をみつめた。
「それは、あまりにも情ないお言葉かと存じます。私の父、与三左衛門影康かげやす[#「与三左衛門影康」はママ]、平治の乱には重盛公の御供に加わり、悪源太義平あくげんたよしひらに討たれて死にました。時に私は三歳で何も知らぬ幼な児でございました。七歳にて母にも死に別れ、全く天涯孤独の身に成り果てたのを、重盛公は、わしの命の恩人の子じゃとて引き取ってお育て下され、貴方様ご元服の日、私も九歳にて元服させて下され、更に、重の一字まで賜わり、重景とご命名下されたのです。重盛卿ご臨終の時にも、何一つご遺言などは申されなかったのに、私を枕元に呼び寄せられ、そなたはこの重盛を父の形見と思い、わしも、そなたを景康の形見と思っていたのじゃ、それも今となっては空しい望みとなった。この上は、維盛をわしと思って仕えて呉れよ、とおっしゃったお言葉、未だに耳の底にありありと残っております」
 重景は、暫く瞑目めいもくしたまま、じっと考えていたが再び口を開いた。
「それをまたどうして、貴方様を捨てて都へ行けなどとおっしゃるのか、お心のうちが恨めしゅうございます。まして、今日世に栄えているのは源氏のやからばかり、それに仕えよと仰せられるのですか? 貴方様とお別れしたあと千年万年生きようと、やがては限りあるのが人の命、それよりも、今ここで頭をまるめ、極楽への道をたどる方がどれだけの幸せかわかりませぬ」
 重景は、自らもとどりを切って捨てると、滝口入道に剃髪ていはつを頼んだ。これを見ていた石童丸は、彼も八つの年からご奉公した者であったから、いさぎよく髪を切った。
 家来達が次々に出家姿に変っていくのを見て、今は仕方なく維盛は、

流転三界中るてんさんかいちゅう
恩愛不能断おんあいふのうだん
棄恩入無為きおんにゅうむい
真実報恩者しんじつほうおんしゃ

 と、三度唱え終ると、頭を剃った。変り果てた姿になった維盛は、もう一度昔の姿のままで妻や子に逢っておきたかったと、未練あり気な口ぶりが哀れであった。それからここまで着いて来た舎人の武里には、
「そちは急いで屋島に行け、決して都に行くではない。奥がこの有様を聞いたら、かならず尼になるという気を起すに違いないから、都にはそのうち知れる時まで知らすではないぞ。それから、屋島に参ったらこう申して呉れ。ご存知の如く世の有様も不快なことが多く、つくづく世の中が厭になりましたので、皆様に黙ってかくの如くになりました、小松兄弟の清経、師盛も討たれ、私までがかような身になって、各々方がどんなに心細く思われるだろうとそればかりが気がかりです、尚唐革からかわというよろい小烏こがらすという太刀たち、祖先貞盛公より、この維盛まで九代、代々嫡流ちゃくりゅうに伝わる家宝につき、もし御運も開け、都に還る事もあれば、六代にお渡し下さい、とそのように伝えて呉れ」
「ご命令の程は確かに承りました。しかし私としては、わが君のご最後の様子をお見届けした上で屋島にも参りたいと思います。何卒お許しを」
 と武里が願ったので、引き続いて供を許された。
 一行五人、維盛主従と滝口入道は、山伏姿に身をやつし、高野山を出発した。道々熊野権現を祭ってある所ごとに、参拝しながら千里の浜の北、岩代いわしろやしろまで来た時であった。狩装束した侍が七、八騎ばかり、馬をかって走って来るのが目に入った。
「さては、気づかれたか」
 そう思った維盛は、腰の刀に手を掛けて、あわやとあらば切腹の覚悟を固めていた。馬は次第に近づいて来たが、からめ捕ろうとする様子もなく、意外にも、馬から下りて静かに黙礼すると、遠去かっていくのであった。
「私と知っての上のことに違いないが、それにしても今どき奇特なお人、誰であろう」
 維盛は、危難を逃れた嬉しさに、ほっとしながらつぶやくのであった。
 この男は、紀伊国の住人、湯浅ゆあさの七郎兵衛宗光むねみつという者で、父権守宗重ごんのかみむねしげは清盛にゆかり深い侍であった。宗光が、馬を下りて、みすぼらし気な山伏の一行を見送ったので、郎党達が驚いた。
「一体あの人々は誰なのですか? 何か子細でも?」
「誰あろう、あの先頭を歩いていた、やせ形の山伏こそは、小松殿の御嫡男、三位中将維盛殿に間違いない。与三兵衛、石童丸も、お供いたしておったようじゃが、それにしても、屋島を抜け出て、よくぞここまで落ちのびられた。お目にかかりたかったが、かえって、ご迷惑かと遠慮申し上げたのじゃよ。かつては平家一門のうちでも重んじられていたお方が、あの様子とは余りにお気の毒じゃ」
 宗光ははらはらと涙をこぼした。

熊野参詣


 危険な旅もいつか終りに近づいて、岩田川に着いた。この川を一度渡れば、全ての悪業、煩悩ぼんのう、罪障が消えるといわれている。ここを渡れば熊野である。本宮ほんぐう証誠殿しょうじょうでんに参った維盛は、神殿の前にひざまずいた。さすがに天下の霊場の有様は、自ら信仰心がみなぎるような冷厳なたたずまいを見せ、詣でる人の心に、頼もしさを感じさせるものがあった。
 夜更けになってから、維盛は神前で心をこめて祈願した。
 父重盛が在世中、この熊野本宮の前で、後世を助けるためわが命を召し給えと祈られたことなどが、今さらのように思い出されてくる。
「熊野権現の本地ほんち阿弥陀如来あみだにょらい、願わくは、摂取不捨せっしゅふしゃの本願をば誤たず、浄土へお導き下さい。又、都に残った妻や子がこれから一生安穏に暮せるようお護り下さい」
 わずらわしい世間を逃れ、仏門に帰依きえした維盛にしても、妻子への執着だけは尚捨て去ることができなかったのである。
 翌くる日は、本宮から舟で新宮に渡った。かん倉山くらやまを拝み、明日あすかの社に拝礼し、那智なちの山にのぼった。数千丈の高さから、白いしぶきを散らしながら落ちてくる那智の滝には、心をつらぬくきびしさがこめられている。観音像は岩の上に鎮座し、谷の底からは始終、読経の声が流れてきた。この那智の御山は、創立以来、古くから、貴賤上下の信仰の聖地としてあがめられてきたもので、いつでも参詣する者も絶えることなく、勤行ごんぎょうする僧の数も減ったことがないといわれる程である。
 那智の修行僧の中には、維盛の顔を知っている者もいたらしい。ある僧はこんな話をして聞かせた。
「此処につい最近、新しく来た僧形そうぎょう五人の中の一人を、どうも見たような人だと思っていたのが、誰あろう、三位中将維盛殿だったのじゃ、わしも驚いたものじゃよ。ところで、あの方がまだ四位の少将だった時分よ。とにかく類い稀に美しい公達振りであったよ。丁度、安元の春、後白河法皇五十の御賀おんがの祝いがあったのじゃ、当時まだ丈夫でいられた父重盛公は内大臣左大将、宗盛卿は大納言右大将、平家一門得意絶頂の華やかな時代でのう、三位中将知盛、頭中将重衡卿以下公卿、殿上人が綺羅きら星の如く並んでいる中で、維盛卿は、桜の花をかざして青海波せいがいはを舞われたのじゃ、天性の美貌と若さに加えて、ひく手、さす手の巧みさ、鮮やかさ、まったくこの世のものとも思えぬ美しさで、あたり一面輝き渡ったようだった。故建春門院も、これには思わず感動されたらしく、関白基房殿をお使いに、御衣を賜わったのじゃ、父の大臣殿が早速座を立ち、代りに御衣をお受けし、右の肩にかけて、お礼をなされた。その時の嬉しそうな重盛公の様子はなかったそうじゃ。本人の維盛殿も満座の中で、これに過ぎたる面目はなかったであろう、この時の維盛殿の様子を、内裏の女房たちは、深山木の中にうもれた楊梅ようばいのようだと評して、後々までも話の種にしたそうじゃ、あのまま平家の栄華が続けば、大臣大将は間違いないお方であったものが、今かような世になって、変り果てたお姿でお目にかかろうとは夢にも思わぬこと、お気の毒なことよのう」
 かの僧の物語を聞き終えて、座にあった人たちも思わず涙をぬぐったのであった。

維盛入水じゅすい


 熊野三山のお詣りも済み、今は心残すことのなくなった一行は、浜宮はまのみやから舟で沖に向った。途中、山なりの島と呼ばれる小島にのぼり、大きな松の木を削って、そこへ銘跡めいせきを書きつけた。
「祖父太政大臣平朝臣清盛公法名浄海、親父しんぷ内大臣左大将重盛公法名浄蓮、三位中将維盛法名浄円、生年二十七、寿永三年三月二十八日、那智の沖にて入水」
 それから、再び舟で沖へこぎ出した。いよいよ最後の時が迫ってきていた。維盛は次第に落着かなくなって来る心を押えようとするのだが、どうにも、諦め切れぬ想いが未だに心の底に残っているのだった。丁度三月の末で、かすみのたなびく海の上は、このような人間世界の憂愁とは何の関りもなく、うららかな春の気配をふんだんに漂わせていた。一群の雁が空を渡って行くのを見ては、妻子へ言伝てを頼みたいような気持にもなるのであった。
「何というだらしないこと、ここまで来て未だに妄執もうしゅうがつきぬとは」
 われとわが心にむち打った彼は、海に向って手を合わせていると、再び知らずしらず、想いは故郷の妻子の身の上に馳せているのである。
「この私がいまわの際ということも知らず、都では、風の便りの言伝てを、今かいまかと待ちわびているのに違いない。私の死を知ったなら、どんなに嘆き悲しむことか」
 都落ちの時に手にすがって泣いた幼ない子の面影まで、ありありと思い出されて、維盛はこれ以上念仏を称えていることができなくなった。維盛は、滝口入道に向っていった。
「まったく、妻子などという者は持つものではござらぬ、この世でいろいろ案じ心配するばかりか、後世菩提の妨げにもなるものじゃ、たった今も、妻子のことばかりが念頭にあった。かようなことを心に残せば、余りに罪が深いであろうと、懺悔をするのです」
 入道も、維盛の心中を思い遣ると、無理もないこととは思ったが、ここで自分までが負けてしまっては最後だと心に決め、さあらぬ態でいうのであった。
「さようにお思いになるのも当然のことでござります、身分の上下を問わず、恩愛の道だけは思い切り難いもの。その中でも夫婦は、唯、一夜の契にてさえも、五百しょうの宿縁と申すほどでござります。しかし、生者必滅しょうじゃひつめつ会者定離えしゃじょうりは浮世の定めでございます。遅かれ早かれの差こそあれ、後れ先立つお別れでござります。たとえ、いかに長生きをなさろうとも、お嘆きは同じことです。第六天の魔王と申す邪道なる者は、人間が生死の悲しみを離れ捨て、悟りを得ることを恐れて、妻となり夫となり、その悟りを妨げようとしているのです。三世さんぜの諸仏は、妻子が、必ずや悟りを妨げることを考慮され、妻を持つことを戒められるのです。といいましても、お心弱くなられることはござりませぬ。昔、源氏の先祖、源頼義は、勅命に依り、安部貞任あべのさだとう宗任むねとう征伐に向い、十二年の間に人の首を一万六千、その他の生き者を殺したこと、たぐい知れずといわれておりますが、それでも死ぬ時は一念発心菩提心を起したため、往生の素懐そかいを遂げたといわれております。まして貴方さまは出家までなされたのです。莫大な財宝を築き、どんな供養をしようとも、一日の出家の功徳にまさることはありませぬ、罪の深かった頼義でさえ、往生を遂げておりますのに、大した罪もない貴方さまが極楽浄土に行けないということは考えられませぬ。ただ深く信仰されて、決してお疑いになってはいけません、貴方の念仏が聞こゆれば、この権現の本地阿弥陀如来は、貴方を紫雲の彼方かなたに導き参らすべく、極楽の東門を出てお迎えにお出でになるでしょう」
 入道の説得で維盛の気持も次第に落着いて来るのであった。やがて、今こそと、念仏百遍、高らかに唱え、南無なむと叫ぶとともに、水の中に身を躍らせたのである。重景も石童丸も、続いて後を追って入水した。

三日平氏


 三人が飛びこむのを見た舎人とねりの武里も、続いて飛び込もうとするのを、滝口入道は慌てて押えつけた。
「これ、ご遺言を忘れたのか、取り乱したとはいえ、余りに情ないぞ、そちはご遺言の約束を果して、後世をとむらい奉るのじゃ」
 入道の言葉も耳に入らないのか、武里は船底に倒れ伏して泣き叫ぶのであった。しばらく舟を漂わせて、もしや浮き上ることもあろうかと思ったが、一人も浮きあがらなかった。経を読み、念仏を称えているうちに、いつか、海の上にも夕暮がやってきた。尽きぬ名残を惜しみながら、泣きなき二人は舟をかえしたのであった。
 武里は遺言通り屋島に渡ると、維盛の弟、新三位中将に逢って遺書を手渡し、事の次第を細かく物語った。
「兄上は、この私が思うほど、われら兄弟のことは考えて下さらなかったものと見える。それにしても、いけの大納言のように、頼朝を頼って都に行ったとばかり思い、宗盛卿、二位殿まで、何かと隔て心をお見せになっていたのだが、まさか、熊野でご入水じゅすいとは知らなかった。それなら何故一緒に連れていって、同じ場所で死なせては下さらなかったのか?」
 と嘆くのであった。中将はそういってから、
「何かお言伝てはなかったのか?」
「はい承って参りました」
 武里は維盛にいわれた通り、唐革からかわよろい小烏こがらす太刀たちの事まで話すのであった。資盛は袖を顔に押し当てると、
「今となっては、私もとても生き長らえそうには思われぬ」
 といって、さめざめと泣く様子が、兄維盛に姿かたちが一番よく似ている人だけに、余計哀れを誘うのであった。話を伝え聞いた侍達も、暗い物想いにとらわれるばかりであった。
 宗盛や、二位殿は、
「てっきり池大納言殿と、同じ道をたどられたものとばかり思っていたが、そうでなかったとは気の毒なことをした」
 と、これも又一層嘆き悲しんだ。
 四月一日、年号が変り元暦げんりゃくとなった。この年、頼朝は、一躍、従五位下から正四位下に昇った。
 四月三日には、崇徳院を神とあがめることになり、昔合戦のあった大炊御門おおいのみかどの跡に社を建てておまつりした。これは、すべて法皇のお指図によるものであった。
 平家一門を裏切り、頼朝を頼って都に留まった池大納言頼盛は、頼朝だけはかねてから、池禅尼いけのぜんにの子として誠意を尽してくれてはいるが、他の者にどう扱われるだろうかと、そればかりが気になってびくびくしていたが、やがて鎌倉から使いが届いた。
「尼御前にお目にかかることばかりを楽しみにしておりましたが、おなくなりになった今、せめて貴方にでも逢っていろいろ昔のお礼など申し上げたいから、是非鎌倉までお下り下さい」
 頼盛の家来に弥平兵衛宗清やへいびょうえむねきよという侍があった。今度の鎌倉下りにも、この腹心の宗清を供に召し連れるつもりでいたが、宗清はどうしてもうんといわなかった。不審に思った頼盛がわけを尋ねると、暫く黙っていてから、思い切ったようにいった。
「勝手ながら此のお供だけはお許し下さい。殿は、かようにご安泰ながら、ご一門の公達は、西海の波の上を生死をゆだねて漂っておられます、とても今のところ、鎌倉へ下る気が起きません。心がもう少し落着きでもしたら、後から追って参りましょう」
 宗清の言葉に、頼盛は、内心の狼狽ろうばいを隠すことができずに、苦々しい顔になった。
「わしとても、一門を捨てて都に留まったことを、もとより心苦しく思っている。ただやはりわしも人の子、わが身が大事、命も惜しかったのじゃ、そうなった以上、頼朝のいうことを聞かぬわけにもゆくまい。鎌倉といえば、はるばる遠い東国、その遠路の旅でも見送りはせぬというのか? 今頃になって、わしの行動をとやかく申す前に、なぜあの時わしを止めようとはしなかったのじゃ、大なり小なり何事なりとそちに相談していたはずじゃ」
 頼盛が、恨めしそうに宗清を見つめていうと、
「いえ、殿が都にお留まり遊ばしたことを悪いとは申しておりません。身分の上下を問わず、誰しも命は惜しいものでございます。兵衛佐も、危い一命を助けられたからこそ、今日このような幸運をつかまれたのでございます。私が申すのはそのことではござりませぬ。頼朝殿の流罪のとき、尼御前のおいいつけで、私は篠原しのはら宿しゅくまでお送りしました。その時、頼朝殿は私に、「この恩は決して忘れぬ」といわれたことがありました。このたび、殿のお伴をして鎌倉へ下りますれば、かならずかつてのお礼にと、引出物など下され、いろいろおもてなし下さることも間違いありません。それにつけても、西国においでのご一門の公達、侍が聞いたら、何と申すでござりましょう。何卒このたびばかりは私のわがままをお許し下されませ。はるばる鎌倉下りをされることは、私とても心配には存じております。しかし、これがいくさのために下るというのでしたら、この宗清真先に先陣を承りとうございますが、此の度は唯のご道中故、つつがなくお着きになるでございましょう、もし兵衛佐殿が私のことを聞きましたら、体の具合が悪いとでも申しておいて下さい」
 宗清の道理にかなった言葉には、大納言もさすがに恥ずかしかったようである。とうとう宗清のことは諦め、五月四日京を発って、十六日に鎌倉に着いた。
 頼朝は、頼盛の顔を見たとたんに、
「宗清はお供についておりますか?」
 と尋ねた。なるほど宗清のいった通りだわい、と思いながら頼盛は、
「残念ながら、ちょっと体の具合を悪くいたしまして」
 頼朝の顔に、ありありと失望の色が現われた。
「宗清が病気とは、ちょっと信じられぬことじゃ、恐らくは、あれほどの侍故、意地を張って来ぬのであろう。それにしても、昔の宗清の許に預けられた折は、心にしみる親切な待遇をしてくれたものじゃった、今になっても決して忘れはせぬ。大納言殿のお供で必ずや参るであろうからと再会を楽しみにしていたのに、何で又来てはくれなかったのであろう、知行の庄園しょうえん始め、馬鞍うまくら、その他、数々の引出物まで用意して待っておったのに」
 といかにも残念そうであった。重立った大名達も、主の命の恩人への引出物を、それぞれ用意して待っていたので、一層がっかりしたらしかった。
 一月近く鎌倉に滞在した後、頼盛は京へ帰った。
 庄園所領もいっさいもとのまま、一旦取上げられた大納言の官位も再び賜わることになった。帰りには頼朝からの土産物が、延々と続いた。鞍置馬三十、はだか馬三十、長持三十には金銀、染物、巻絹などを入れて贈られた。頼朝に見習って、鎌倉の大小名が、我もわれもと贈り物をさし出したので、馬だけでも三百匹になった。命が助かったばかりか、財産まで増やして帰ってきたのも珍しい。
 その頃、伊賀、伊勢の住人で、平家の家人だった者が寄り集り、肥後守定能さだよし伯父おじ平田ひらたの入道定次さだつぐを大将として、近江国に討って出た。もとより、源氏の圧倒的な力の前にはあえなく崩れ去ったが、いかに主家を思う情から出たとしても、すこし身分不相応な旗挙げの仕方であった。これを人呼んで三日平氏と言った。

藤戸ふじと


 維盛の北の方は、近頃屋島から一向音沙汰のないのがひどく心配で、毎日、今日は来るか、明日は来るかと待っているうちに、春も過ぎてしまった。一月に一度は便りを欠かしたことのない維盛であったから、さては何事か起ったのかと、そればかり気がかりでいたところへ、「維盛卿は、屋島にはおられぬそうな」という噂が北の方の耳にも入るようになってきた。この話で、北の方はいよいよじっとはしていられぬ気持で、屋島に使いの者を出したのであった。その使いの者も中々帰ってこなかった。そのうち夏も過ぎてしまった。ある日、漸く屋島に出した使いが帰って来た。
「実は殿には、過ぐる三月十五日の未明、ひそかに屋島を抜け出でられ、高野へ参られ、ご出家の後、熊野詣でをなされ、那智の沖にてご投身なされたと、舎人とねりの武里が申しました」
「ああ、やっぱり、変だとは思っていたが」
 北の方は、人目も構わずに泣き伏してしまうのであった。若君、姫君も、おいおい声をあげて泣き叫んだ。若君の乳母の女房は涙に顔をぬらしながら、
「今更のお嘆きはもっともでございますが、あの本三位中将殿のように、生捕いけどりという憂き目にあう位、悲しく辛いものはありませぬ。しかし殿様は、高野でご出家、更に熊野に参った後、後世のことをよくよくお願い申した上での覚悟のご入水は、まだ不幸中の幸と申せましょう。必ず、極楽浄土へおいでになることに間違いござりませぬ。これからは残された幼い方々を立派にお育て申しあげるのが、せめて殿のお心を安らげることでござりましょう」
 乳母の言葉も、今の北の方には何の慰めにもならなかった。間もなく北の方は、髪を切り、尼姿となって、夫の菩提を弔うことになった。
 維盛死去の報は鎌倉にも伝わった。頼朝は、
「気の毒なことをいたした。遠慮なく訪ねてくれば、命はお助け申したのに、卿の父君重盛公の事は決しておろそかに思わなかった。池禅尼の使いとして、頼朝を死罪から流罪にするよう尽力して下されたのが重盛公じゃ、この恩は忘れてはおらぬ、重盛卿の子息とあらば、よきように取計らったものを、まして出家したとあっては尚更のことじゃった」
 といって残念がった。
 平家一門が讃岐の屋島へ渡ってから、いろいろ不穏な噂が耳に入ってきた。すなわち、東国から新手の軍兵数万騎が、既に都に到着、屋島目指して攻め下るとか、九州からは土地の豪族、臼杵うすき戸次へつぎ松浦まつら党などが、大挙して攻め寄せるとか、耳に入るもの一つとして平家に有利な知らせではない。
「又々、悲しい目に逢わねばならぬのでしょうか」
 女房たちが寄り集ると、話題はつい暗い未来の予想に落ちてゆくのであった。
 一の谷の合戦で重立った諸将、侍が討死したので、名だたる武士は残り少くなっていた。一門にとって、せめてもの心頼みといえば、阿波民部重能あわのみんぶしげよしが四国の武士たちを動員して、「私にお任せ下さい」といってくれたことであった。この言葉が、千万人の味方を得たほど、心強く思われる今の平家であったのだ。いつか、七月二十五日になった。
「去年の今日、都を出たものでした。いつのまにか一年過ぎてしまって、早いものですね」
 余りにも悪夢にも似た思い出の多かった一年である。一つとして、嬉しいことのなかった年月であったけれど。思い出はやはりなつかしく、今になってみれば、尚更いろいろと考え合わされて、夜の更けるのも忘れて話にうち興じるのであった。
 七月二十八日、新帝、後鳥羽天皇が即位なさった。しかし、三種の神器のない即位の例は、古今未曽有のことであった。
 又、蒲冠者範頼は参河守みかわのかみ、九郎冠者義経は左衛門尉にそれぞれ昇級した。義経は九郎判官と呼ばれるようになった。
 いつしか、都には秋の気配が忍び寄っていた。おぎの上を渡る風、かすかに聞える虫の声、ざわざわと稲の穂がゆれて、秋は日ましにその色を深めていくのである。唯でさえ秋はうら悲しいというのに、旅の空で、心細い境遇のうちに秋を迎える平家の人々の心は、一層わびしさにさいなまれるのであった。
 かつては、九重の奥深く、にぎやかに春の花をでて遊んだこともあった人たちが、都を遠く離れた屋島の浜で、秋の月を眺める気持はどんなであったろう。
 澄み渡った月を眺めながらも、思いはたちまち故郷の空、都の空、恋しい人への慕情ぼじょうとなるのも無理のないことであった。

君住めばここも雲井の月なれど
  なお恋しきは都なりけり

 左馬頭行盛の歌である。
 九月になって、源氏は、漸く軍勢を繰り出し、平家追討の戦を進めてきた。
 参河守範頼が大将軍となり、従う諸将は、足利蔵人義兼くらんどよしかねかがみの小次郎長清ながきよ、北条小四郎義時よしとき、斎院次官親義じかんちかよし、土肥次郎実平、同じく弥太郎遠平とおひら三浦介義澄みうらのすけよしずみ、同平六義村よしむら、畠山庄司次郎重忠しげただ、長野三郎重清しげきよ稲毛いなげの三郎重成しげなり榛谷はんがえの四郎重朝しげとも、同五郎行重ゆきしげ、小山小四郎朝政、長沼五郎宗政、土屋三郎宗遠、佐々木三郎盛綱、八田四郎武者朝家むしゃともいえ、安西三郎秋益あきます大胡おおごの三郎実秀さねひで天野藤内遠景あまのとうないとおかげ比気ひきの藤内知宗ともむね、藤四郎義員よしかず、中条藤次家長とうじいえなが一品房章玄いっぽんぼうしょうげん、土佐房正俊しょうしゅん、合計三万余騎が、播磨はりま室津むろつに着いた。一方平家は、小松新三位中将資盛、少将有盛、丹後侍従忠房ただふさを総大将に、飛騨ひだの三郎左衛門景経かげつね、越中次郎兵衛盛次もりつぐ上総かずさの五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清らが、五百艘の船に分乗して備前の児島こじまに着いた。これを聞いた源氏は、備前国西河尻にしかわじり藤戸ふじとに陣を構えた。船のない源氏は、指をくわえたまま五町先の平家の兵船をにらむばかりで、手も足も出なかった。平家方から血気盛りの若侍が小舟に乗って漕ぎ出して来ると、扇をあげて、「ここを渡っておいで、おいで」と嘲けるようにさし招いた。「何と小しゃくな振舞よ」と地団駄踏んで口惜しがったが、何分船のないことは足をもぎ取られたのと同じで、どうすることもできなかった。
 佐々木三郎盛綱は、この浜の地理に詳しい男を一人探し出し、直垂、小袖、刀などを与えて、機嫌をとってから、
「この海の中で、馬でも渡れるところがあるか」といって尋ねた。
「そりゃあ、浜の人間でも知らん者が多うございますが、丁度うまい具合に私は知っておりますんで、海にも、川の瀬のようなところがございます。月初めには、東、月末には西の方でございます、左様、その瀬の間はほぼ海面十町程でござりましょうか、ここならば馬もたやすく入れまする」
 盛綱はこの話にすっかり喜んで、家の子郎党にも知らせないで、その男と二人で、案内されるままに瀬を渡ってみた。確かにそこはさして深くなく、膝、腰、せいぜい深い所でびんの毛がぬれる程度であった。暫く行ったところで、男は、
「この南は、もっと浅くなっておりますが、はだかのままでは、敵が矢先を揃えて待つ所は通れませぬ」
 といったので、盛綱も、そこから引き返した。この瀬のありかを知る者は、今の所、自分とその男の二人だけであった。盛綱は他の者に聞えるのを恐れて、浜へ着くとその男を刺し殺してしまった。
 翌くる日、又昨日のように平家の小舟が、ここを渡って御覧ごろうじろ、といわんばかりにはやしたてた。今こそと思った佐々木三郎は、昨日瀬踏みしたばかりのところに白葦毛の愛馬をさっと乗り入れた。家の子郎党が七騎後に続いた。驚いたのは源氏の面々である。いかに勇猛の名高い盛綱でも余りに向う見ずなと、参河守範頼も慌てて、
「誰か、佐々木を呼べ、佐々木を留めい」
 と叫んだ。土肥次郎実平が、急ぎ後に追い着いて、
「これ、佐々木殿、お気でも狂われたのか、溺れ死するおつもりか、大将軍がおとめなされているというのに、お留まりあれ」
 と呼びかけた。しかし盛綱は、もとより自信のあるところだから、聞こうともせず、どんどん先へ先へと進んでゆく。実平も仕方なく、盛綱の後に従った。
 馬の胸から、腹、鞍壺くらつぼまで届くところもあった。もっと深いところになると馬を泳がせた。すると又浅瀬が現れるといった具合で、陸で見ていた源氏の一同は、徐々に遠去かって一向に沈む様子もない盛綱に驚いて目をみはった。
「さては佐々木にだまされたか、それ各々方、佐々木に続け」
 参河守の号令一下、三万余騎が一度に馬を乗り入れた。平家方は負けじと矢で応戦してくる。源氏方はそれを物ともせず、かぶとしころをかたむけながら、平家の船に乗り移って攻め戦った。いつか戦は全くの混戦で、源平の区別もつかぬ程、沈む小舟があるかと思うと、ひっくり返る舟もあって、戦は夜まで続いた。夜になって源氏は岸に、平家は沖に引揚げて休息をとった。
 平家はそのまま、屋島に帰った。源氏はこれを聞き残念がったが、船がなくてはどうすることもできず、もう追い討ちをかけようともしなかった。
「昔から川を馬で渡ることは聞いているが、海を渡ったとは前代未聞じゃ」
 と盛綱は、大いに面目を施し、備前の児島を恩賞として貰った。
 十月になると、海はやがて波風が激しくなった。低くたれこめた曇り空からあられが降って来ると、その淋しさは一層つのるばかりで、屋島に残る平家の一門は都の事ばかり考えて暮していた。その頃都では、大嘗会だいじょうえのため、御禊ごけいの行幸があった。執官は徳大寺左大将実定が務めた。一昨年、先帝の行事があった時、この役をやったのは、内大臣宗盛である。他に三位中将知盛、頭中将重衡などが鳳輦ほうれん御綱みつな供奉ぐぶして、ひときわ華やかさを競ったものであった。今度の役は九郎判官で、先陣に供奉していたが、木曽義仲とは違って都なれはしていたが、やはり、平家の公達の優雅なたたずまいを見慣れた目には、平家の時よりも見劣りがすると噂された。
 大嘗会は十一月十八日型通りに行われた。ところで備前にあった参河守範頼は、船のないのを良いことに、むろ高砂たかさごなどで遊蕩にふけって、すっかり戦を忘れ果てていた。あのまま続けて攻めこめば、もとより微力な平家だから一たまりもなかったのに、それを黙って怠っていたのである。うち続いた戦乱で、民衆の憂いはますます深くなるというのに、あまりにも心ない大将軍のしわざであった。そうこうするうちに、その年も暮れてしまった。





底本:「現代語訳 平家物語(下)」岩波現代文庫、岩波書店
   2015(平成27)年4月16日第1刷発行
底本の親本:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社
   1960(昭和35)年2月12日初版発行
初出:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社
   1960(昭和35)年2月12日初版発行
※著者名は、本来は「尾※(「山+竒」、第3水準1-47-82)士郎」です。
入力:砂場清隆
校正:みきた
2022年9月26日作成
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