現代語訳 平家物語

第六巻

尾崎士郎訳




新院崩御


 治承五年の正月が来た。今年の内裏の正月の淋しさは又格別で、うち続く兵乱のあとでは、正月を祝う心持にもならず、拝賀の式はとりやめ、主上も出御されず、例年の宴会さえ行なわれなかった。陰気に湿った空気が御所の内々を満たし、正月らしい華やかさはどこにも見られなかった。世間は何となく不穏の気がみちみち、今に何か起りそうだという暗い予感が人々の心をとらえていたからである。
 正月五日、南都の僧のうち重立った者は官職を解かれ、又、衆徒の殆んどが射殺され、斬殺され、ここに長い歴史を誇って君臨してきた、東大寺、興福寺も滅亡したのである。しかし、それにもかかわらず、正月八日から十四日まで行なわれる御斎会ごさいえは例年通りというお布令ふれが出たが、南都の僧の全滅した今となっては、顔ぶれを揃えるのも難しい。それでは、京の僧達にやらせようという気にもなったが、とにかく、南都から一人も出席しないのはおかしいという意見もあり、結局、勧修寺かんじゅじに隠れていた成法已講じょうほういこうが探し出されて、御斎会の儀はとどこおりなく済んだのであった。
 高倉院は、一昨年おととし以来うち続いた種々の事件で、心も体もすっかり疲れ切っておられた。とりわけ、法皇の鳥羽移り、高倉宮のご最後、福原への都移りなど、かつてないいまわしい出来事の連続で、年若い院には余りにも心の重荷がかち過ぎる激しい世の移り変りであった。
 東大寺、興福寺の滅亡を聞かれて以来、以前からすぐれなかった健康が、どっと悪くなられたようである。正月十四日、ついに、その聖徳と仁智を慕われ、人々から惜しまれつつ世を去られた。よわい僅か二十一歳、漸くこれからという花の盛りにご逝去になったのである。
 澄憲ちょうけん法印は、新院のなきがらを焼く煙をみながら、

常に見し君が御幸みゆきを今日とえば
  帰らぬ旅ときくぞ悲しき

 と詠んだ。
 高倉帝は幼い頃から、心の優しい方で、十歳になった頃から、ひどく紅葉がお好きで、わざわざ御所の内に紅葉を植えさせて、一日中あきることなくご覧になっているのだった。ある夜、突然の嵐で、この紅葉が一夜のうちに散りぢりになってしまった。庭掃除の下役人が、翌朝あたり一面散らばった紅葉をきれいに掃除した。その朝は又ひどく冷えこむ日で、不図思いついて、その紅葉で酒をかんして腹を暖めたのであった。
 丁度そこへ、やはり夕べの嵐が気になって、係りの者が紅葉の様子を見にやってきた。
 折柄ぱちぱちと気持の良い音をたてて燃えるたき火の前で、下役人が呑気のんきに酒を酌み交しているのにびっくりした。
「やあ、何という心ないことをするのじゃ、あれほど主上が大切にしておられる紅葉をこのようにいたして、お前らは恐らく禁獄になるだろう、管理不行届きの私もどんなおとがめがあるかわからぬ」
 と早くも声を震わせている。下役人も今更ながら、わが身のおろかさに気づいたが、灰となった紅葉の前で悄然しょうぜんとうなだれていた。そこへ主上がお出でになったのである。主上も昨夜の嵐が気がかりであったらしく、いつになく早い行幸であった。ところが、ちり一つなく掃き清められた山には一かけらの紅葉の影もない。
「いかがいたした。紅葉は? 風がひどくておおかた、散り尽したと思ったが?」
「はあ、それが」
「まさか一夜のうちに、消え失せたというわけではあるまいに?」
 何といっておわびしてよいかもわからず、家来の者は冷汗をかくばかりであったが、今はやむなくありのままをお話するのだった。
「なに、紅葉でたき火、酒を飲んだと?」
 どんなおとがめがあるかと体中を硬ばらせていた係の者も、意外に愉快そうなみかどの言葉に驚いて顔をあげた。
「「林間、酒をあたたむるに紅葉をたく」という白楽天の詩があるが、よくぞ存じておったのう。これにまさる風流はあるまい」
 と目を細めていられるのであった。
 また五、六年前の話になるが、あるところに行幸になったとき、夜寒の厳しさに、主上はなかなか寝つかれなかったが、不図どこかで、人の叫び泣く声を耳にされた。早速宿直の者が召されて見てまいれという仰せがあった。
 外へ出てみると、この夜更けに長持を持った少女が一人泣いているのである。
如何どうしたのじゃ?」
「ご主人様のお衣裳を持ってゆく途中を、二、三人ほどの男に取囲まれ、盗まれてしまったのでございます。一体どうしてよいのやら」
 と、途方に暮れた面持ちで泣くのであった。
 このことを帰って主上に奏上すると、
「何というひどいことを、そういう悪行を働く者がいるのも、わしの力が足らぬためじゃ。何とかしてやりたいが、その衣はどんなものだったのか?」
 とお尋ねがあった。これこれしかじかの衣裳だということをきかれると、建礼門院に、
「かようの色の衣裳は持ち合わせはないか?」
 と聞き合わせて下すった。間もなく門院からは前よりも立派な衣裳が届けられてきた。主上はそれを少女に与えると、帰りの道が危いからと、お供までお遣わしになって少女を送らせたのであった。

葵前あおいのまえ


 ある時高倉院は、中宮の女官の側仕えをする少女を、偶然の機会から愛されるようになった。それも、その場限りのたわむれごととかわり、若い純粋なお心で、親しくお側に召されては、いとしく思われる様子で、主人の女官もこのことを知って以来、むしろ少女を、自分のあるじのように大切に扱うのであった。
 二人のご交情が、日々こまやかになるにつれて、陰では、何かと、そねみや中傷の声が起るのは仕方のないことであった。
「全く女に生れれば有難い幸いですよ、いくら賤しい身分でも、皇子が生れれば、国母こくぼとも仰がれるのですからね」
 少女の名を葵の前というところから、葵の女御などと岡焼き半分に呼ぶ者まで出て来た。元来、聡明な主上は、もとよりいつかそういった非難もうけるのだろうとはお思いになってはいたが、葵の女御などと呼ばれていることを聞かれて以来、ぷっつりと葵の前を遠ざけるようになった。といって、葵の前に対する愛情が変ったわけではない。むしろ心のうちでは、前以上に切ない想いに悶々として、心楽しまぬ日を送られているのであった。
 時の関白基房は、この話を伝え聞くと、早速主上の御前に伺候した。
「聞くところに依りますれば、葵の前を遠ざけられて以来、お心楽しまぬご様子、それほどに深いご愛情ならば、何の遠慮がありましょう? 人の噂などお気になされず、是非お側にお召しおかれませ。また素姓の賤しいことをお気遣いなさるならば、そのご心配は無用かと思います。この基房が近々、養女に申しうけましょう」
「そなたの志は有難いがのう、これが譲位のあとでもあればさようなことも許されようが、在位の時にさようなことをいたすと、後々までもそしりを受けるであろう。私事のために、一代の帝位を傷つけたくはない」
 といってお聞入れにならなかった。一たんこうと決めたことは、決してひるがえしたりなさらない主上の性格を知り抜いている基房は、それ以上は言わずに退出した。しかし主上の胸中の遣瀬やるせなさは益々つのるばかりで、あるとき、古歌の恋歌を冷泉少将隆房れいぜいのしょうしょうたかふさを通じて葵の前にお渡しになった。

しのぶれど色に出にけりわが恋は
  ものや思うと人のとうまで

 薄様うすようの鳥の子紙に、水茎のあともなつかしいこの主上のお歌を見た葵の前は、主上の近くにいる苦しさに耐えかねて、里へ下ったが、まもなく病気になり、遂に薄幸な生涯を閉じた。

小督こごう


 中宮にお仕えする女房の一人に小督と呼ばれる女官があった。桜町中納言成範さくらまちのちゅうなごんしげのりの娘であり、宮中第一の美人の噂が高かった。その上、琴の名手である。多くの求愛者の中から、ようやく小督の愛をかち得たのは冷泉少将隆房で、以来隆房は清盛の娘である妻のことも忘れて、小督に通いつめているのであった。
 主上が、怏々おうおうとして憂愁の日を送られていることを心配した者たちが、この小督に目をつけたのも無理はなかった。容姿といい才能といい、これ程の女性ならば主上のお悩みも晴れるであろうと相談した結果、小督は否応いやおうなしに内裏に上ることになった。
 失望したのは少将である。といって、主上と寵を争うことは考えるだけでも不可能である。しかし、少将は、小督を忘れることができなかった。用もないのに参内しては、女房達のいる局のあたりを、あっちへいったり、こっちへ来たりして一日じゅう、うろつき廻っていた。御簾みすの中から、少将の焦躁しょうそうが手にとるようにわかる。小督にとってもそれは辛いことであった。しかし、いったん君の想い者になった今では、軽はずみな真似まねは許されなかった。いつまで経っても姿一つ見せるでなく、声すら掛けようとしない小督の態度に、少将はある日我慢しきれなくなって、小督のいるあたりの御簾を目がけて一首の歌を投げ入れた。

おもいかねこころは空にみちのくの
  ちかのしおがまちかきかいなし

 小督は、一たんは返事を書こうかとも思い迷ったが、さすがにうしろめたい気がして、側仕えの者に命じて中庭に捨ててしまった。返事が貰えると思っていた少将は、自分の手紙がそのまま戻ってきたのをみてがっかりした。しかし、人目については困るので何わぬ顔で拾い上げ、ふところに入れたが、こうまでされても、いやそれだから一層思いがいやまさるばかり、もう一度戻ってくると、

たまずさを今は手にだに取らじとや
  さこそ心に思い捨つとも

 と書いて投げ入れた。
 小督はそれを一目見ると、余りに少将が気の毒で、せめて声なりとかけてあげたいとは思ったが、やはり思い返して返事も書かなかった。少将も、小督の思いつめた心を知っては今更どうしようもなく、打ちしおれて邸に戻ると、これまた、じっと物想いに打ち沈んだまま、「死にたい」などと口走るようになった。
 小督を召して以来、主上の顔色は、日に日に元のさわやかさを取り戻してこられ、久しく聞かれなかった笑い声さえ、内裏の内からもれるようになった。「小督、小督」と、今は何かにつけて片時も傍を離さぬご寵愛に、小督の心も、次第にこの優しく美しい主上にひかれていくのであった。お側の人々もやっと愁眉を開いて、仲むつまじい二人の様子を、微笑んで眺めるのであった。ようやく高倉帝の周囲にも青春の喜びが立ち返ってきたようで、小督を見つめる若々しいまなざしには、尽きせぬ愛情の想いが、ふかくこめられているのであった。
 この様子に面白くないのは中宮である。近頃では主上のお渡りも稀で、何かにつけて、ひところのこまやかさが影をひそめている。もともと中宮は、四つ上の姉様女房で、そういう意味でのひがみもあったかも知れないのが、とにかく憎いのは小督とばかり、いつか小督を目の仇にするようになった。
 高倉帝が小督を偏愛のこと、冷泉隆房の失恋の話などは、いつか清盛の知るところとなった。
「まったく揃いも揃って、わしの婿を二人もたぶらかすとは、稀代の悪女じゃ、あの女がいる限りろくなことはない、殺してしまえ」
 清盛の怒りをもれ聞いた小督は、恐しさに身を震わせた。
「私一人のことはともかく、主上にまでご迷惑がかかっては申しわけない。やはり私は、ここにいるべき者ではない」
 思い立った小督は、誰にも知らさずこっそり内裏を忍び出た。
 小督の失踪は、主上にとっては、青天せいてん霹靂へきれきであった。昨日まで生きいきと輝いていたお顔が、一日の内にすっかり肉が落ちて、目がくぼんできた。昼は、ご寝所で涙にむせび、夜は、月の光をみながら、小督のことばかりを思い暮しておられた。
 清盛は、小督の失踪後も変らぬご執着に余計憎しみを増したらしい。
「君は小督一人に未だに恋々としておられるらしいが、それならそれでこちらにも考えがある」
 と、主上介添役の女房の参内を許さず、更に、臣下で参内する者には何かと妨害するので、宮中は人一人訪れることもなく、すっかりさびれ果ててしまった。
 それは八月十日のことであった。月の明るい晩で、例のように主上は、月を眺めては、又ひとしきり小督を想って泣いておられたが、不図思いたって人をお召しになった。弾正小弼仲国だんじょうのしょうひつなかくにが伺候すると、ずっとお側にお呼び寄せになった。
「そなたは、ひょっとして小督の行方を知ってはおらぬか」
「残念ながら、一向に知りませぬが」
「そうかのう、実は、うそかまことか、嵯峨のあたりに片折戸かたおりどした家にしのびかくれているという話なのじゃ、主人の名はわからぬが、そなた一つ尋ね探しては来てくれぬか?」
「しかし、主人の名もわからぬに、どうやって探すのでございます? すこし無理ではないかと思いまするが」
「まことよのう」
 主上はふっと溜息ためいきをつかれると、はらはらと涙を流された。そのお気の毒な様子に、暫く仲国は考えていたが、不図あることを思い出した。
 というのは、小督は琴の名手で、よく御所で琴を弾かれたことがあるが、その時、笛の伴奏を仰せ付けられるのは、いつも仲国であった。小督の琴は仲国の耳の底にはっきりと残っていて、いつどこで聞いても、聞き違えることのないほどの自信があった。今夜のような月の良い晩、あるいは、ひょっとして琴を弾かれているかも知れぬ。
 そこまで思い付くと、仲国は晴ればれとした顔をあげた。
「主人の名がわからずとも、あのあたりは人家も少く、尋ねてみればわかるかも知れません、一寸行って参りましょう。それにしても、御文ごふみを頂かないとまた、にせのお使いとも間違われても困りますから、何卒ご自筆の御文を下されませ」
「行ってくれるのか? もちろん文は遣わそう、必ず探してまいれよ。さよう、寮の馬を借りてまいるがよい」
 いつもは暗い山里の道も、今日は月の光が明るく、昼間のように白く光っている。馬にむちを当てて、嵯峨のあたりにたどりついた仲国は、これぞと思われる家の前までくると駒をとめて尋ね廻った。もしや御堂なんぞにと思い、釈迦堂しゃかどう始め二つ三つ探してみたが、無駄であった。小督の消息は依然として知れなかった。仲国は次第に焦々してきた。今頃は、内裏で良い返事を待ちわびていられる主上のことを想えば、このまま素手で戻ることなどとても考えられなかった。途方に暮れた仲国は、唯、思いついたまま、法輪寺を尋ねてみようと決めて道を急いだ。
 亀山のほとりまで来たときである。どこからか、かすかな琴の音が風に乗って聞えてきた。仲国は、思わず、ぎくりとして馬をとめた。松風の音に消されて、それはかすかではあるが、確かに琴に違いなかった。仲国が音をたよりに馬を進めていくと、片折戸した貧しげな家の中から琴の音が聞えているのである。その音色は、まごうかたなき小督の手すさびであった。暫く家の前に立ち止って耳を傾けると、何と、それは想夫恋そうふれんの曲である。
 仲国はやがて我に返って、戸をとんとんとたたいた。すぐに琴の音がやんだ。
内裏だいりより仲国がお使いに参上いたしました、お開け下さい」
 大声でいいながら、なおも戸をたたき続けたが、家の内では、こそとも物の気配がしない。じりじりして待つうちにようやく戸が細めに開いて、可愛らしい少女が顔を出した。
「お間違いではありませぬか、ここは内裏からお使いの来るようなところではございませぬ」
 仲国は、又閉められては大変と、ぐいと体をのり出して戸の中にはいった。そして家の中にもよく聞えるような声でいった。
「主上は、貴女が身をかくされて以来、すっかり打ち沈んでおしまいになり、お命さえも危ぶまれております。これこのように、じきじきの御文ごふみも預ってまいりました、ご覧下さいませ」
 仲国の差し出したお手紙を、さっきの少女が小督に取りついだ。見れば確かに主上のご筆跡である。綿々と恋慕の言葉が書き連ねてあった。小督は、今にもくずおれそうな心にむち打って、お返事を書き、仲国への引出物にと女房の装束ひとかさねを添えて渡したが、自分ではやはり姿を見せなかった。仲国は、装束を押し戴くと、
「他の者ならいざ知らず、普段から内裏で、貴女の琴、私の笛とおなじみ深い仲国がまいりましたのに、ご自身のお言葉も下さらないとは、あまりにも水くさい。主上もどんなにか、がっかりなさいますでしょう。何卒、お顔をお見せ下さい」
 仲国の懸命の言葉に、小督は奥からまろび出てきた。さすがに、重なる苦労で、すっかりやつれてはいるが、青白い月の光をうけた小督の面ざしには、未だに宮中第一の美人の面影が、はっきりと見える。
「お聞き及びのことと思いますが、清盛入道が、私のことを、いかいお腹立ちとのこと、余りに恐ろしくて内裏を忍び出たのでござります。ここに引きこもって以来、琴ともすっかりご無沙汰で過しておりましたが、明日からは大原の里に入って髪を下ろそうと思い、最後の名残りにと、この家の者もすすめるので、弾き始めたのですけれど、やはりなつかしくて、ついつい興にのったまま、弾き続けて、とうとう貴方様のお耳にも入ってしまったようなわけです」
 語りながらも、何度も袖で涙を拭う哀れさに、仲国もついつい貰い泣きするのであった。
「貴女が清盛入道を恐れる気持はお察しいたしまするが、大原にお住みになるなどとは以ての外、貴女ご自身はともかく、主上のお嘆きをどうやってお慰めしたらいいのです、どうかそれだけは思い止まって下さい」
 仲国は、お供についてきた供廻りの者に、この家の囲りを警戒して小督を出さないように命じると、馬に一むち当て、いっさんに内裏へと急いだ。内裏に着いた時は、もう東の空がほのかに白々と明け始めていた。主上は既にお休みになったかと思ったが、念のためご座所に行ってみると、さっきと同じところで、身じろぎ一つされずに月を見ながら、漢詩を口ずさんでいられた。

みんなみかけり北にむこ
寒温を秋のかりけ難し
ひんがしに出で西になが
瞻望せんぼうを暁の月に寄す

 仲国の姿に、主上は思わず身をのり出された。
「仲国、首尾は?」
 仲国の話をきき小督の書いた返事を読まれ、主上の想いは、今更に耐えきれぬものがあった。しばらく物想いに沈んでいたお顔をあげると、主上はきらきらとお目を光らせた。
「仲国、再度ご苦労じゃが、今夜のうちに、小督を連れてまいれ」
 仲国ははっと驚いた、一瞬、清盛入道の恐ろしい形相が頭に浮んだ。しかし、唇をきっと結ばれた主上の若々しいお顔に流れる決意の色を読み取ると、仲国は黙って頭を下げた。直ぐに車が用意され、嵯峨に向った。小督は、迎えの車に容易に乗ろうとはしなかった。しかし、仲国の言葉にほだされて、仕方なく承知をした。一行はこっそり内裏に帰った。再び小督を迎えた主上の喜びは大きかった。人目につかないところに、大事な宝物のように小督を置いて、夜になると、こっそりお召しになるのであった。主上のご寵愛は、以前にも増してこまやかで、小督はやがて女の子を一人生んだ。これが後の範子内親王である。
 しかし幸福な生活は長くは続かなかった。いつか清盛の耳にも達することになったからである。清盛は、小督を捕えると、無慚むざんにも尼姿にして追放した。このとき小督は二十三歳、やがて墨染の衣に傷心の身を包んで、嵯峨のほとりに庵をつくって住んだという。
 一説に、高倉院の健康が優れなくなったのも、このことあって以来といわれる。恋すらも自由にできずに薄幸な一生を閉じた帝の、悲しい恋の物語である。

廻文めぐらしぶみ


 その頃、信濃国に、木曽冠者義仲きそのかんじゃよしなかという源氏の生き残りがあった。彼は、源為義の次男、帯刀先生義賢たてわきのせんじょうよしかたの子である。義賢は悪源太義平あくげんたよしひらに殺されたが、そのとき義仲はわずか二歳の幼児で、母に伴われ、木曽中三兼遠きそのちゅうぞうかねとおの許で、二十余年間育てられた。長ずるに従い、ひときわ弓矢の道に優れた、たくましい侍になった。
 彼はある日、育ての親の兼遠に向い、
「諸国の様子をいろいろきくところに依りますと、源家再興の好機は来たようじゃ、東国では、兵衛佐頼朝ひょうえのすけよりとも、既に謀叛を起したときく。この義仲も、一日も早く平家を攻め落したいと思う。そのあかつきには、日本国に二人の将軍といわれることにもなろう」
「まことに頼もし気なお言葉、兼遠、これまでお育て申した甲斐がありました。世評の通り、八幡太郎義家公の再来のような気がいたします」
 と、兼遠は、涙を流して喜んだ。
 義仲は十三歳で元服したが、そのとき石清水八幡宮の社前にぬかずいて、
「四代の祖父、義家公は、八幡様の御子と名乗り、八幡太郎という名を頂きましたが、私もそれにならいたいと思います」
 と神前でもとどりをあげ、木曽次郎義仲と名乗った。
 前々から義仲は、兼遠に連れられて、よく都にのぼり、平家の様子などを伺っていたが、頃はよしと、廻し状を信濃の国の周辺に住む源氏の縁者にふれ廻した。
 根井ねのいの小弥太、滋野行親始め、上野国からは田子たごこおりの兵などがはせ集って、義仲の謀叛に参加する事を約束した。
 ここに木曽義仲は、いさぎよく平家打倒の旗を掲げたのである。

飛脚到来


 木曽義仲謀叛の知らせを聞いて、平家の一族は動揺した。東国の情勢不穏の折から、今また、北国も危しとあっては気が気ではない。しかし清盛だけは、自信満々であった。
「何、木曽の山猿ごときが謀叛を起すとは笑止千万、越後には、じょうの太郎助長すけなが、四郎助茂すけもちといった一騎当千のつわものが控えておるわ、謀叛謀叛と騒ぐこともあるまい」
 しかし、一族の中には眉をひそめて、どうなることかと不安に思うものも少くはなかった。
 兵乱鎮圧のため、写経の行なわれたのは二月の七日である。それから一日置いて二月の九日、河内国石河郡いしかわのこおりに住む武蔵権守入道義基むさしのごんのかみにゅうどうよしもと、同じく義兼よしかねの親子が、頼朝の軍勢に加わるために、東国へ下ろうとした矢先、平家方に嗅ぎつけられ、三千余騎という大軍に囲まれて、義基は討死、義兼は捕えられた。
 続いて十二日、九州より飛脚があって、九州の情勢を報告してきた。それは平家にとって思わしくない知らせであった。
 かねがね平家に服従の様子をみせていた、緒方おがたの三郎をはじめとして、臼杵うすき戸次へつぎ松浦まつら党といった面々が、東国源氏に加わったというのである。
 越えて十六日には、四国の動静を知らせる飛脚が着いた。それによると、四国一円はほとんど源氏の味方だということで、ひとり平家に忠誠をみせた備後国びんごのくにぬかの入道西寂さいじゃくが、源氏に心を寄せた河野四郎通清こうののしろうみちきよを討ち取ったばかりに、倅の通信みちのぶから手痛い報復をうけて殺されたという。又、かねがね平家にゆかり深い熊野別当湛増くまののべっとうたんぞうなぞも、平家への恩を投げうって源氏に味方してしまった。京にいる平家一族の耳に入るのは、今日きょうはどこの源氏が蜂起した、昨日きのうは誰それが源氏に味方したというような知らせばかりである。西を向いても、東を見ても、世はまさに、動乱の前夜にふさわしい様相を示しているのである。
 二月二十三日、公卿会議が開かれると、前右大将宗盛が先ず進み出ていった。
「このたび、東国に討手を差し向けましたが、成果ははかばかしくござりませぬ。ついては、この宗盛、このたび征夷大将軍を承わって、東国の兵乱を鎮めたいと思いまするが」
 といった。もとより異論のあろうはずはない。
「大層結構なことで」
「ご苦労なことでござります」
 公卿たちは、自分の身に直接関わりのないことなので口々に勝手な追従ついしょうをいっていた。
 やがて、宗盛を大将軍として、東国北国の凶徒追討という院宣が下った。

入道死去


 宗盛が東国へ出発するという日である。清盛の健康状態が突然悪化し、それがために出発は一時中止となった。
 翌くる日、容態は更に急変し、重病の様子を帯びてきた。「そらみたことか、悪業のたたりじゃ」と、京都の街は、その噂でもちきりであった。
 清盛は、病気の始った日から、一滴の水も咽喉のどへ通らなかった。身体じゅうは、火を噴いたように熱かった。側近のものは病床に四、五間近づいただけで、耐え難い熱さにうたれた。清盛は意識不明で、唯、「あつい、あつい」とうわ言をいうばかりである。叡山から冷い清水を汲んできて、水風呂をつくり、それに入れると、水はたちまち湯に変った。少しは楽になるかとかけひの水をかけると、焼けた石や鉄のように水がはね返ってじゅうじゅうと音をたてる。たまたま清盛の身体にあたった水は、炎になって燃えあがり、黒煙が邸中に充満するという有様で、さながら焦熱地獄であった。
 この、どさくさの中で清盛の北の方二位殿がこんな夢を見た。猛火に包まれて燃えている車が邸内に入ってきたのである。前後のお供は、馬の顔をしたのや、牛の顔をした者ばかりで、車の前には、という字の書いた鉄のふだが打ちつけてあった。
「その車はどこから」
 二位殿が、そういって尋ねると、
閻魔えんまの使いで清盛入道のお迎に参じました」
 という。
「その札は」
 と聞くと、
「数々の悪業により、無間むげん地獄に落すつもりで、無間と書くはずでしたが、間の字を書き忘れたままで」
 という返事であった。
 夢から覚めた二位殿は、逢う人ごとにこの話をしたが、誰もが薄気味の悪さに、身の気のよだつ思いであった。
 ありとあらゆる財宝を投げうって、あらゆる神社仏閣へ病気平癒のお祈りをしたが効果はなかった。
 二位殿は熱さをこらえて、枕元に、にじり寄り、
「お気の確かなうちに、何かいいおくことがおありでしたら何なりとも仰せ下さい」
 といった。さすがに日頃、傲慢不遜の清盛も、病気には勝てない。苦し気な息の下から、彼は弱々しい声で、
「保元平治の乱以来、たびたびの合戦に殊勲を立て、太政大臣に昇り、帝の御外戚にまでなることができ、思い残すことはないが、唯一つ、伊豆の流人るにん頼朝の首を挙げなかったことだけが心残りだ。墓も要らぬ、供養もいらぬ、唯一つ、頼朝の首をはねて、わが霊前に供えてくれ」
 と、烈しい調子でいった。
 清盛の死んだのは、うるう二月四日だった。その最後はあまりにも無慚むざんなものでありすぎた。
 板に水を流したところを、あっちへごろごろ、こっちへごろごろしながら、熱い熱いと、わめき叫びつつ、ついに板の上をのたうちまわって最後の息をひきとった。時に六十四歳、栄華を極めた人にしては、あまりにも哀れな死にざまである。
 同じく七日、火葬にして、骨を円実法眼えんじつほうげんが首にかけ、摂津国きょうしまにおさめた。

経の島


 清盛の葬儀の夜、いろいろ思いがけないことが起った。先ず第一に、豪華壮麗を誇っていた西八条の邸が火事で焼けてしまった。これは、まったく突然の出来事で、出火の原因もはっきりせず、放火だという声もちらほら聞かれた。
 また同じ晩、二、三十人ほどの人の声で、「嬉しや水、鳴るは滝の水」と歌いさざめく声がした。よりによってこんな晩に、踊り騒ぐなどとは、気の確かな者のすることではない、あるいは天狗てんぐのたぐいではないかと、血気にはやった若侍が百余人声をたよりにしらべてみると、かつての院の御所であった法住寺殿の中から聞えてくる。ここはこの二、三年、院のお渡りもなく、備前前司ぜんじ基宗というものが留守居をしていた。この法住寺殿の中では、時ならぬ酒盛が始っていたのである。
 基宗の知合いが、二人三人と集っていつか酒を飲み始めた。時が時だから、静かに飲もうと戒め合っていたのに、いつか酔が廻るにつれて、ついうっかり大声で拍子をとり、舞まで踊り始める者も出る始末になった。怪しい歌声と思ったのは実はこの酔っ払いどものさわぎ合う声だったのである。「時節柄、不届な奴」というわけで、三十人ばかり皆な引っくくられて六波羅へ連れてゆかれたが、酔っ払いではいたし方ないというので、無罪放免された。
 清盛の骨をおさめた経の島は、応保おうほう元年二月につくられたものであるが、一度、大風のために崩れ去ったので、同三年三月再工事にかかった。その際、人柱を立てようという意見のあったのを、かえって罪なことだと、石の面に一切経を書いて、その代りとした。そのため経の島と名づけられたが、この島のお陰で、その後、通行の船舶の安全がどれほど、保障されたかわからぬ。清盛とても決して悪業ばかり重ねていたわけではないのである。

慈心房じしんぼう


 摂津国清澄寺せいちょうじという山寺に、もと叡山の学僧で、慈心房尊慧そんえという人がいた。あるとき、夢うつつに法華経を読んでいると、五十歳見当の男が、手紙を持ってやってきた。尊慧がそれを開けてみると何と閻魔えんまの庁からの招待状である。閻魔の庁で大法会が行なわれるから、参加するようにというのである。尊慧は承諾の返事を書いたところで目が覚めた。とにかく余り気味の良い話ではない。彼はその日になるまで、念仏三昧に日を送っていた。当日午前零時近くなると尊慧はひどく眠気を催してきたので、お勤めを終えて、僧房に帰り寝所に入って寝た。二時頃閻魔の庁からの使いの者にゆり起された。いつの間にか、七宝しっぽうで飾った車に従者まで用意されている。尊慧が乗ると、途端に、車は西北の空に向ってかけのぼった。
 七宝でできた閻魔大王の宮殿は、広さも広し、高さも高い。金色に光り輝く美しさは、とても言葉でいい尽せぬほどであった。地獄の役人たちは、みな閻魔の前にかしこまって居並んでいた。その日の法会も終って帰りかけた尊慧は、
「ここまで来たからには、ついでに、未来のことも聞いておこう」
 そう思い立つと、大王の側に近づいた。
「他のものは、皆な帰ったのに、何故、貴僧だけここにまいったのじゃ」
「実は、私の死後のことを知りたく思いまして参上いたしたのですが」
「往生するもしないも、信仰一つじゃよ。そうじゃ、そなたの一生の行ないの書かれてある作善さぜん文箱ふばこをみせよう」
 地獄の役人が、大王のいいつけで文箱を持ってくると、ことごとく読みきかせた。尊慧の一生のうちの出来事も、頭の中で思ったことも何一つとして洩れなく記されていた。尊慧は涙を流しながら、
「何卒悟りを得る道をお教え下さい」
 と頼んだ。すると、大王も同情して、

妻子王位ざい眷属けんぞく
死去しさればいつきたって相い親しむ無し
常にしたがえる業鬼ごうきは我を繋縛けいばく
苦しみを受け叫喚きょうかんすること辺際へんさい無し

 というを読んで、尊慧に与えた。尊慧はひどく喜んだ。
「日本の平清盛と申す人は、摂津和田の岬四面十余町に家をつくり、本日の法会のように、数多くの持経者じきょうしゃを呼んで、説法、勤行ごんぎょうを務めております」
 というと、閻魔も大変喜んで、
「うん、あの入道は、ただ人ではない、実は慈慧じえ僧正の生れ変りで、天台の仏法を護るため、日本に再誕せられた人なのじゃ。私も日に三度は彼に礼を尽して、経を読むのじゃ、ここにその文句がある。持って帰って、清盛公に差し上げてくれ」

敬礼きょうらい慈慧じえ大僧正だいそうじょう
天台仏法てんだいぶっぽう擁護者ようごしゃ
示現じげん最初さいしょ将軍しょうぐん
悪業あくごう衆生しゅじょうどう利益りやく

 尊慧は、これを貰って帰ると早速、清盛のところにゆき、ありのままに話した。清盛は大喜びで、いろいろ尊慧をもてなした上、引出物までも贈った。後に彼を律師りっしとした。以来、清盛のことを慈慧僧正の生れ変りだという説が流布るふされたのである。

祇園ぎおんの女御


 鳥羽天皇の時代の事である。東山のふもと祇園のほとりに、祇園の女御と呼ばれる美しい女性が住んでいた。白河院の想われびとで、時々院の御幸があった。
 ある日、白河院が少数のお供を連れ、例の通りお忍びでおいでになる途中、その晩は、暗い上に雨まで降ってきて、一寸先も定かならぬ闇夜であったが、祇園女御の邸の近くの御堂のほとりで怪しい者に出逢った。頭はしろがねの針を磨いたようにきらきらと光り、片手にはつちのような形のものを持ち、もう一方の手は、これ又何やら光るものを持っていた。
「あれこそ、噂に聞いた鬼と申すもの、手に持っているのは、打出の小槌に違いない」
 一同恐るおそる顔を見合わせて騒いでいた。その頃から武名の誉れの高かった忠盛は、まだ北面の下級武士であったが、直ぐ御前に呼び出され、怪物退治を命ぜられることになった。忠盛は、近づいてよくよく怪物の正体をみると、そう大して強そうにも思われなかった。
「せいぜいきつねかたぬきといったところであろう。これを射殺したり、斬殺したりしては、あとで後悔するかも知れぬ、先ず生捕ってみよう」
 こわい者知らずの忠盛は、ずかずかと側に近づいた。怪しい正体は、しばらくするとパッと光っては、また、しばらくしてパッと光った。忠盛が力にまかせて組付くと、とたんに、
「何をなさる?」
 と声がかかった。魔性ましょうの者と思いの外、それは、まぎれもなく人間だった。
 あかりをともしてよくよく見ると、六十近い老僧で、話を聞けば、この御堂に仕えるものであった。仏前にあかりを付けようと、柄のついた瓶に油を入れ、片手の土器に火を入れ、雨が降ってきたので、ぬれないように、頭には麦藁むぎわらの端を結んで笠のようにしたものをかぶっていたのが、土器に入れた火に、この麦藁が、銀の針に見えたのである。
「それにしても、殺したりなどしなくてよかった。思慮深い忠盛だったから、人の命を傷つけずに済んだのだ。何と感心な奴だろう」
 白河院はひどく感心され、ほうびに、ご寵愛の深かった祇園の女御を忠盛に賜わったのである。
 祇園の女御は、忠盛のところへ来たとき、既に身重であった。
「生れた子が女であったら朕の子に、男なら、そちの子にせい」
 院はそう仰有おっしゃっていたが、生れたのは男であった。忠盛は、このことを奏上する機会を待っていたが、熊野行幸のとき、途中いとが(糸鹿)坂というところで休息することになった。忠盛は、袖に途中でとった山芋の子を入れると、すぐ御前に伺候した。

芋(妹)が子ははう程にこそなりにけれ

 と忠盛が奏上すると、院も直ぐさま気づかれたらしい。

ただもり(忠盛)とりてやしないにせよ

 と即座にお返事を下さった。また、この男の子が、夜泣きのくせがあって困るという話を聞かれ、一首の歌をお詠みになった。

よなきすとただもり(忠盛)たてよ末の代に
  きよく(清)さか(盛)うることもこそあれ

 このお歌から清盛と名づけられたのである。十二歳で兵衛佐ひょうえのすけ、十八歳で四位兵衛佐となったが、何も知らぬ人が、
「華族ならばともかく、成上り者の子のくせに」
 というのを聞かれた鳥羽院が、
「清盛は、華族同様の者じゃ」
 と仰有ったことがあった。
 清盛が、白河院の御子という説の伝わっている所以ゆえんである。

洲股すのまた合戦


 清盛が死んでまもなく、生前、清盛と親交の深かった五条大納言邦綱ごじょうだいなごんくにつながなくなった。同じ日に病床に就き、同じ日のうちに死ぬとは、又めずらしい契りの深さである。清盛は自分の子、四男[#「四男」はママ]頭中将重衡とうのちゅうじょうしげひらを大納言の婿にしている。
 二月二十二日、法皇は、院の御所、法住寺殿に御幸になった。この御所は、去る応保三年に造営され、比叡、熊野の両社も近くにお祭りしてあり、庭の木、池の水にいたるまで、法皇のお気に召すよう心して作られたものであったが、清盛のため、心ならずも離れていられたあいだに、邸内はすっかり荒れ果ててしまっていた。
 せめて修理してからでも、お出で下さいという宗盛の頼みも断わり、「そのままでよいから」と仰有っての御幸であった。
 故建春門院の住まわれていた御殿のあたりも、すっかりさびれ、心なしか松や柳まで年をとったようである。池の芙蓉ふようにも、岸の柳にも、一つ一つ想い出のないものはなく、涙なしには見ることもできないのであった。法皇は、白楽天の長恨歌の一節が今しみじみと思い出されてくるのであった。
 三月に入ると、南都の僧の罪が許され、知行も元通りという命令が出た。又大仏殿の再建が始まることになり、係りの奉行に、左少弁行隆さしょうべんゆきたかが任じられた。行隆が先年男山八幡宮へ詣でた時、こんな夢をみた。
 御宝殿の中から出てきた天童が、
「大菩薩の使いでまいった。大仏殿再建の奉行に任じられた時はこのしゃくをもて」
 といって笏を置いていった夢である。目覚めてみると、確かに笏が置いてあった。
「不思議なことじゃ、今どき何の必要あって大仏殿の奉行になるわけもない」
 と思ったが、とにかく、笏を持って帰り、大事にしまっておいたのであるが、夢はまったく現実になったのである。
 三月の十日、美濃国から早馬のお使いがとんで来た。
「東国の源氏は尾張国まで攻めのぼり、道路の通行を止めました」
 この知らせに、平家方も落着いていられず、左兵衛督知盛さひょうえのかみとももり左中将清経さちゅうじょうきよつね小松少将有盛こまつのしょうしょうありもりを大将軍として三万余騎の軍勢が、尾張国目指して出発した。
 迎える源氏は、十郎蔵人行家じゅうろうくらんどゆきいえ、頼朝の弟で、卿公義円きょうのきみぎえんを将軍にして、六千余騎、尾張川を挟んで対陣した。
 夜半に入って、源氏方は、尾張川を渡って夜討ちを仕かけてきた。戦は翌日の明け方まで続いたが、平家の方は少しも慌てず、
「敵は、川を渡ってまいったのだから、馬も人もぬれているはずだ、それを目当てにうちとれ」
 と下知したので、平家は多勢を頼んで、源氏をとりかこみ、
「あますな、もらすな」
 と攻めたてたので、源氏方は次第に敗色の色が濃くなってきた。
 行家は危い所を命からがら逃げだしたが、義円はついに討死した。
 平家は源氏の残党を追い、勢に乗じて川を渡り、そこかしこで最後の防戦をつとめる源氏の者どもを討ち取った。
「兵法にも、川を後にするなと書いてあるのに、源氏のやり方はまずかった」
 と世間ではいっていた。
 やがて、十郎行家は、今度は、三河国で矢作川やはぎがわの橋を取り、防戦の準備を整えて待っていた。平家の軍勢が押し寄せたが、またたくうちに攻め落され、その後、三河、遠江一円は、すっかり平家の手中におさまるかに見えたが、惜しいことに、知盛が突然の病を得、急ぎ都へ帰ったので、結局、先陣一つを破っただけで、今回の勝利は余り効果をあげることができなかった。
 前年、重盛が死に、今また、清盛にかれ、平家の勢は日に日におとろえる一方で、昔から恩顧のある者のほかは、今やすべて源氏に随いつく世の中であった。

嗄声しわがれごえ


 越後国の住人、城太郎助長は、越後守に任ぜられた。お礼返しの意味もあって、木曽征伐の軍を起した。
 ところが夜中になって、急に暴風雨が吹きまくり、時ならぬ雷まで鳴った。暫くして雨があがると天の彼方かなたから、不気味なしわがれ声が聞えてきた。
南閻浮提なんえんぶだい金銅こんどう十六丈の廬遮那仏るしゃなぶつを焼き滅した平家に味方する者が、ここにおる、召し捕れ」
 と三声叫んだのである。その声には聞く者の総身をおじけさせるものがあった。
「こんな恐ろしいお告げがございましたのですから、このたびだけは思い留まられた方が身のためです」
 ととめるものが多かったが、助長は、
「弓矢とるものが、一々おじ気をふるっていてはつとまらぬ」
 といって取りあげなかった。
 翌くる朝、城を出た軍勢が十四、五町も行かないうち、黒雲が助長の馬上を取り囲んだかとみるまに、助長はふらふらと落馬した。慌てて、輿にのせ城に連れ帰ったが、三時間ばかりで息が絶えた。この知らせに京の平家一族は色を失なった。
 七月十四日、年号が改まって、養和となった。同日、筑後守貞能は、鎮西の謀叛の征伐のために西国へ下った。同じくその日、治承三年に無実の罪で流された人々が許されて都に帰ってきた。即ち、関白基房、太政大臣師長、按察あぜちの大納言資賢といった面々である。
 師長は久方振りに院の御所に上り、秋風楽しゅうふうらくの曲などを奏したのであった。師長は以前土佐から許されて帰った時には、賀王恩がおうおん還城楽げんじょうらくを院の前でおきかせしたことがあった。その時々に応じて、いかにもふさわしい曲を選ぶ心がけは、師長ならではと人々は噂しあった。同じ日、按察大納言も、久しぶりに院の御所へ伺候した。
「お前の顔をもう一度見られるとは、夢のようじゃ、田舎住いで歌も忘れたろうが、久しぶりに今様いまようでも一さし舞ってみせてくれぬか」
 大納言は即座に立ちあがると、「信濃にあんなる木曽路きそじ川」という今様の文句を、「信濃にあった木曽路川」と、自分が見てきたところだけに当意即妙に歌いあげた。いかにも才気のあるやり方であった。

横田河原合戦


 将門まさかどの追討会が行なわれた後、純友すみとも追討のために、伊勢大神宮へくろがねのよろいかぶとをたずさえた勅使が下向した。勅使、祭主神祇じんぎ権大副大中臣定高ごんのたいふおおなかとみのさだたかは、近江国甲賀こうがで病を得、伊勢の離宮につくと間もなく死んだ。又、源氏調伏のため、立壇の法を行なっていた降三世ごうさんぜ大阿闍梨だいあじゃりは、大行事権現の、彼岸会を行なうところで眠ったまま死んだ。このように、源氏調伏のため行われる神事仏事には、一々差しさわりがおこるばかりで、どうやら神仏も、今や平家を見捨てたかのようである。また、安祥寺あんじょうじ実玄阿闍梨じつげんあじゃりは、平家調伏を祈って問題になり、呼び出されて問いつめられると、実玄は、
「朝敵を調伏せよというご命令でござりましたが、つらつら近頃の様子をみると、どうやら朝敵は平家の事らしいので、私も別に罪とも思わずにいたしましたが」
 と平気な顔で申し立てた。
「怪しからんことを申す奴だ、死罪か流罪か」などと騒いでいるうちに、いろいろ内外多事だったのでつい忘れてしまった。後、源氏の天下になってから、頼朝は、実玄の勇気に感じて、大僧正の位を贈ったといわれる。
 その頃、中宮は、院号を賜わり建礼門院となった。天皇が幼なくて母后ぼこうが院号を賜わったのはこれを以てはじめとする。
 養和の年も二年を迎えて、二月二十一日、金星が昴星ぼうせいの星座に侵入した。天文要録という書物には、天空にてこういうことが起るのは、四方に乱がおこり、国が乱れる兆である、と記されていた。また将軍が勅命をうけて、国境を出るともいわれていた。
 三月になると、新たに官の移動があり、平家の一族が、ほとんど昇格した。
 前権少僧都顕真さきのごんしょうそうずけんしんが、日吉ひえの社で法華経一万部を転読した。その際法皇の御幸みゆきがあったが、どこからうわさがとんだものか、後白河院が、山内の大衆に、平家追討の院宣を下したという話がまたたく間にひろまった。すわ一大事と、軍兵は内裏の四方を固め、平家の一族は六波羅へ参集した。本三位中将重衡は法皇をお迎えするために、三千余騎で日吉の社へかけつけた。
 すると、又々平家が山門を攻めるため、数百騎が山に向ったという風説がとんだ。これをきいて驚いた山内の大衆は、ふもとの東坂本まで下り、応戦の準備のための会議が開かれる始末であった。山内はいうに及ばず、洛中洛外も大変な慌て方で、法皇のお供をして日吉についてきた公卿殿上人も青くなって震えていた。三位中将重衡は穴太あのうのあたりで、法皇の一行と落ち合い無事に御所まで送り届けた。これでどうやらこの根も葉もない騒ぎは決着がついたのである。「物詣ものもうでさえも自由にはならぬ世じゃのう」と法皇も嘆息されたという。
 五月二十四日再び年号が変り、寿永じゅえいとなった。同じその日、城太郎助長すけながの弟四郎助茂すけもちが、越後守に任命された。不吉な兄の死を目前にみているだけに、助茂は極力辞退したが、勅命とあっては仕方なく、その代りせめて縁起のよいようにと名前を長茂ながもちと改めた。
 九月二日、長茂は木曽追討のために、越後、出羽、会津四郡の兵四万余騎をひきいて出発、信濃国横田河原に陣を構えた。
 その時、依田城よだのじょうにあった木曽義仲は、急をきいて依田城を出、これも横田河原に向った。その勢ざっと三千余騎である。敵は多勢、わが方は小勢、まともにぶつかったのでは勝味はないと、井上九郎光盛という者の提案により、急いで赤旗を七流れつくり、三千余人を七手に分って、あちらこちらから赤旗を先頭にして迫っていった。長茂はこの様子をみると、
「この国にも平家に味方する者があるらしい。これで当方も力がついた。各々方、ひるむな、退くな」
 と、俄かに勇み立って進んできた。その時、時を見計っていた木曽勢は、時来れりとばかり、七手の軍勢を一手に集め、用意した白旗をさっと掲げると、一度にときの声をあげた。越後勢は、急に現れた源氏の白旗と、時ならぬ鬨の声にあわてふためき、よくよく見きわめもせずに、
「敵は、何十万という大軍じゃあ」
 と色を失ってまごまごしているところへ躍りこんできた木曽勢のため、川につき落され、断崖だんがいから転り落ち、その殆んどが次々に討たれる有様で、長茂も傷を負いながら、辛うじて川伝いに越後国へ逃げ帰った。
 ところでその頃、都では、敗戦の報もどこふく風という調子で、宗盛が大納言になり内大臣に任命され、そのお祝の宴が、華やかにくり拡げられていたのである。東国、北国の源氏が虎視眈々こしたんたんと都に目を向け、牙をみがいているというのに、これは余りにも呑気のんきな、時局認識に乏しい平家の有様であった。
 まもなく寿永二年の正月が来た。宮中の諸式は、普段と何一つ変りなく行われた。
 二月になって宗盛は、さすがに諸国の戦乱に責任を感じ、内大臣を辞任して引きこもった。
 今や、南都北嶺の僧、熊野金峰山の僧から、伊勢大神宮の祭主神官の末々まで、誰一人として平家に味方する者はいなかった。諸国の至るところ、源氏の白旗がひるがえり、大将軍の下知を待ちながら、戦の準備に余念がなかった。
 院宣も宣旨も、こうなっては何の効き目もなく、平家の運命には次第に暗雲が低迷してゆくのである。





底本:「現代語訳 平家物語(上)」岩波現代文庫、岩波書店
   2015(平成27)年4月16日第1刷発行
底本の親本:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社
   1960(昭和35)年2月12日初版発行
初出:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社
   1960(昭和35)年2月12日初版発行
※第五巻「按察使あぜちの大納言」と第六巻「按察あぜちの大納言」と第七巻「按察あぜち大納言」の混在は、底本通りです。
※著者名は、本来は「尾※(「山+竒」、第3水準1-47-82)士郎」です。
入力:砂場清隆
校正:みきた
2022年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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