現代語訳 平家物語

第四巻

尾崎士郎訳




厳島御幸


 治承四年正月一日、法皇の鳥羽殿とばどのには、人の訪れる気配もなかった。入道相国の怒り未だとけず、公卿たちの近づくのを許さなかったし、法皇も清盛をはばかっておられたからである。正月の三日間というもの、朝賀に参上するものもいなかったが、僅かに桜町中納言とその弟左京大夫脩範さきょうのだいふながのりだけが特に許された。
 正月二十日は東宮の御袴着おんはかまぎ、ついで御魚味初おんまなはじめというので、宮中はめでたい行事で賑ったが、落莫らくばくとした鳥羽殿の法皇にはほとんど別世界の出来事のように思われた。
 そして二月二十一日、高倉天皇のご譲位があり、東宮が即位された。高倉天皇は別にご病気でもなく、ご欠点もなかったのであるから、清盛の強引な政策の仕業ともいえよう。平家の一門は、時節到来とわが世の春を謳歌し、またこれに対する非難の声はひそかに京の街を流れたのである。
 ご即位とともに、三種の神器、八坂瓊曲玉やさかにのまがたま草薙剣くさなぎのつるぎ八咫鏡やたのかがみは新帝の御所へ移され、公卿たちは古例に則った儀式をとり行なったが、このあと、公卿の控所に顔を出した左大臣藤原経宗が、ご譲位の真相を告げたので、心ある貴族たちは、悲憤し、たがいに涙を流したという。自らすすんでのご譲位でも、やはり哀れさはつきまとうものである。まして無理強いの譲位であればと、上皇のご心中を思って涙にむせぶ人々が多いのも当然のことといえる。すでに上皇の御所からは歴代の宝物は新帝の所へ移されてある。灯火ともしびの数も少く、時を告げる役人の声すら、ここでは聞くことがない。新帝の即位という華かな祝宴の中に、高倉上皇の閑院殿かんいんどのはひっそりと暗いかげを落していた。
 新帝安徳天皇、ときに御年三歳。そして、旧帝への同情を交えた「余りにも幼なすぎる」というささやきが身辺にくり返されていたのである。噂を耳にした平大納言時忠は、憤怒の面持で、故事をひき先例をあげて、即位の正当なることを述べたが、その声は、むしろ怒鳴るのに近かった。もちろん、時忠が新帝の乳母、帥典侍そつのすけの夫であることもその原因の一つであろう。時忠はいった。
「新帝が若すぎるというのは愚かな話だ。異国の例はいくらもある。周の成王三歳、晋の穆帝ぼくていは二歳、本朝をみるなら、近衛院三歳、六条院二歳である。みなおむつに包まれていたため、装束を正すことができなかったのは残念だが、いずれも摂政が背に負うとか、母后ぼこうがお抱きになるとかして、即位の式はとどこおりなく行なわれている。これはすべて書物に明記されてあるではないか。何の不都合もないのだ」
 この歴史的弁護論は当然、「そんな勝手なことがいえるのか」とか、「先例はすべて善例なのか」といったような反論を貴族の間によび起したが、しかしいずれも私語の域は出なかった。
 新帝の即位は、皇室との親族関係樹立という清盛永年の悲願をかなえさせた。入道相国夫婦は天皇の外祖父、外祖母である。ともに准三后じゅんさんごうの宣旨をうけ、年官年爵を頂戴した。絵や花で飾られた衣をまとった公卿たちでごった返す入道邸は、院の御所を思わせた。そこには、殿上人を召使いのごとくあごで使う習慣のついた、そのくせ満面のえみを浮べる入道夫婦がいたのである。
 この年の三月上旬、位を譲られた高倉上皇が、安芸の厳島へ御幸みゆきになるという話が伝わった。ご退位後の諸社への御幸はじめは、八幡、賀茂、春日などであるから、先例を破られてのご決意だったわけである。不審に思う人は多く、さまざまな臆測も例によって行なわれたが、すべて的は外れていた。上皇の安芸御幸は深い祈願が秘められてのご決意であった。厳島は平家の守護神として、別格に崇敬されている社である。これに参拝されれば、平家への協力へのあかしともなろう、清盛の心をやわらげることもできよう。が、これは表のことである。上皇の心中には、鳥羽殿に幽閉同然の毎日を送られている父法皇を、この参拝で救いたかったのである。
 しかし、この御幸は思わぬところから横槍よこやりが入って一時延期された。厳島神社に先をこされた叡山衆徒の憤激である。面子めんつをつぶされた衆徒どもは、先例をたてにとった。
「天皇ご退位後の御幸始は、八幡、賀茂、春日にあらずば、わが叡山の山王にお出になるべきである。はるばる安芸の厳島とは奇怪なこと、いかなる先例もない。ご強行になるとあらば、神輿を振り奉って、断固お止め申せ」
 出発は延引されたが、上皇御幸の主旨、まことにもっともと相好を崩した清盛のあっせんが功を奏し、御幸出立は三月十七日にきまった。
 その日、八条大宮へ御幸になられた上皇は、夜になると、ただちに厳島明神の御神事を始められ、翌十八日清盛邸へ入られた。この夕刻、上皇はさきの右大将宗盛を御前によばれた。
「明日厳島へまいるが、その途次久々に鳥羽殿へ法皇をお尋ねしたいと思うが、この旨、入道へ知らせておかねば悪いであろうか」
 すでに、安芸御幸の決意のとき、このお気持があったことは明らかである。宗盛はつつしんでこたえた。
「その儀、ご無用に存じまするが」
「それでは、早急に今宵こよい、鳥羽殿へ参り、このことを伝えてくれ。使いは卿がよろしかろう」
 使いとなって、その夜輿をとばした宗盛の知らせに、法皇は夢ではないかと喜んだ。
 翌十九日、大宮大納言隆季たかすえの徹宵の準備で御幸はつつがなく行なわれた。三月も半ばを過ぎている。霞に曇る有明の月おぼろな空の下、御幸の一行は、地に淡い影を落しながら鳥羽殿へ向った。鳥の声、空を渡るのを見上げれば、遥か北陸を目指す雁の群である。一群消えればまた一群、哀れをもよおす雁の声は、御幸の者の胸にひびいた。鳥羽殿についたのはまだ未明であった。御車より上皇は降り、門を開いて進んだ。
 すでに春は暮れなんとしている。薄暗い木立、人の気配すらない。木々の梢の花色あせて、樹葉は早くも夏を告げる装いをしている。鳴くうぐいすの声も力なく老いていた。上皇の胸には、われ知らず去年の盛儀が思いだされてきた。正月六日、朝覲ちょうきんのための法住寺殿への行幸である。訪れた上皇を迎えて、笛、鐘、太鼓が一斉に乱声らんじょうの楽を奏した。正装の諸卿は列を正してこれを迎え、六衛府の官人が幔幕まんまくを張った門を開けた。先ず上皇を迎えたのは、すでにわが季節の去り行くのを知った鶯の年老いた声である。
 法皇は知らせを受けて、寝殿のはしがくしのに上皇を待っていた。高倉上皇、今年ことし二十歳、夜明けの月の光をやわらかに浴びて立っていた。青年の優美な姿は、上皇に息子の母、故建春門院のありし日を偲ばせた。涙にくれた法皇は、この暁、二人の人にあったのである。その一人はわが子であり、他の一人は、かつての寵妃ちょうきである。父と息子との対面は静かに行われた。間近かに設けられた座についた法皇、上皇の御前に伺候したのは尼御前ただ一人、二人の話し声は低かったが、夜が明け陽が高くなるまで続けられた。
 法皇に暇を告げられた上皇は、草津から海路、安芸へ向われた。

還御


 高倉上皇が厳島にお着きになったのは、三月二十六日、清盛入道相国が最も寵愛した内侍の家が仮御所となり、なか二日の滞在中には、読経の会と舞楽がにぎやかに行なわれた。満願の日、導師三井寺の公顕こうげん僧正は高座にのぼり、鐘を鳴らして表白を声高らかに読みあげていわく、
「九重の都を出でられ、八重の潮路をかきわけて、ここまでお出でになられた陛下の御心はかたじけない極みである」
 この神前に捧げられた言葉には、上皇を始め諸臣みな感激した。
 そのあとで上皇は末社にいたるまで隈なく御幸になり、また厳島の座主尊永を法眼ほうげんの位に上らせるなど、神主たちの位階昇進を行なわれたが、入道相国の心もこれでやわらぐかと思われた。
 上皇は、二十九日、美しく飾られた船で還御されようとしたが、途中、烈風にあふられて海上が荒れたので、厳島のうちのありの浦まで漕ぎもどられた。波風静まったその日の夜おそく再び船を出され、備後国敷名しきなの港に着かれた。波路を心も晴れやかに京へ向う上皇の一行は、四月二日備前の児島、五日には播磨はりまの国山田に着かれ、ここから御輿で陸路福原へ、途中、鳥羽殿には寄られず、まっすぐ公卿殿上人お迎えの中を清盛邸へ無事に帰られたのであった。
 四月二十二日、新帝安徳天皇の即位式が行なわれたが、先年の火災で焼失した大極殿だいごくでんが使えないので、紫宸殿ししんでんが評議の末、式場にあてられた。即位式には平家一門こぞり参列したが、重盛の息子たちは喪中なのでひきこもっていた。
 蔵人衛門権佐定長えもんのごんのすけさだながが、とどこおりなくめでたく終った新帝の即位式の有様を、和紙十枚ばかりに書いて、清盛の奥方、八条の二位にうやうやしく奉ると、奥方は、これをくり返しよまれては何時迄も幸福そうなえみを顔に浮べていた。

源氏そろえ


 そのころ、後白河法皇の第二皇子、以仁もちひと親王は、三条の高倉に住んでいたので高倉宮とよばれていた。彼は十五歳の年に、近衛河原の大宮の御所で、世を忍ぶように、ひっそり元服した。宮は才芸、人に勝れ、ご筆跡もまことにうるわしく、側近のものを感心させていた。世が世なら、皇太子にもなり、皇位につかれる方であったが、故建春門院のそねみをうけて、押しこめ同然の境遇におられた。そのため、春、花ほころべばその下で能筆を振っては詩を草し、秋、月の宴には、愛蔵の笛を手にして雅曲を奏していた。花に不遇の心をうたい、月に満たされぬ思いを語る風雅の道に世を捨てたように生活していた。そして治承四年をむかえた。時に高倉宮三十歳である。
 平家一色の京に源氏としてとどまりながら、巧みな政治力でその地位を保っていたのは、この頃近衛河原に住んでいた源三位げんざんみ入道頼政であったが、ある夜ひそかに高倉宮を尋ねた。うけ入れられぬこの世に望みを捨てたのか、自然を心の友として、月日を送ってきた宮の前にあらわれた源三位頼政の顔は緊張にみちていた。何の火急の用かと不審気な宮の面を凝視みつめながら低く語る頼政の声は、宮の心に強くひびいた。
「君は、天照大神より四十八世の御子孫、神武天皇より七十八代にあたらせられる尊い御方。本来なら皇太子にも立ち、天子の位にもつかれるご身分です。しかるに君の御年すでに三十歳、今もってただの宮家でお過しになっていられる、残念なことと思召されぬか。ご病身の御方ならいざ知らず、才覚人にすぐれ給う宮が、世に捨てられたままで終られてよいと思召すか。平家の専横のため、鳥羽殿にご幽居されている父君法皇のお憤り、お悲しみを安じられようとはお思いになりませぬか」
 たたみかける頼政の声は無気味な力をもって宮に迫ってきた。
「ただちに平家撃滅のご謀叛むほんあるのみですぞ。平家、この世から去らば、宮はご即位、そして法皇へのご孝養もできます。これに過ぐるものはござらぬはず。今こそ、宮のご決意のとき。もし、決意あられて令旨を下され給うなら、宮のもとに喜び勇さんでせ参ずる源氏の兵は、諸所諸国に宮のご想像より遥かに多いのです」
 高倉宮の面をわれ知らずよぎる動揺の色を読みとったのか、頼政は膝を進めて、かねて調査してあるところを示した。謀叛成功への現実的証拠ともいうべき反平家勢力の人名表である。
「まず、この京にかくれて平家をうかがうもの、出羽前司光信でわのぜんじみつのぶの子、伊賀守光基いがのかみみつもと、出羽判官光長はんがんみつなが、出羽蔵人光茂くらんどみつしげ、出羽冠者光義かんじゃみつよし。熊野にかくれる者は故六条判官為義はんがんためよしの末子、十郎義盛よしもりです。摂津には多田蔵人行綱ただのくらんどゆきつながおりますが、こやつは新大納言成親卿の謀叛のとき、一度びは味方につきながら、途中で寝返りを打った裏切者ですから論外です。しかしその弟、多田次郎朝実ただのじろうともざね手島冠者隆頼てじまのかんじゃたかより太田太郎頼基おおたのたろうよりもとは信頼するに足る存在です。さらに、河内かわちには石川の郡を領する武蔵守むさしのかみ入道義基よしもと、その子の石川判官代義包いしかわのはんがんだいよしかね大和やまとには宇野七郎親治うののしちろうちかはるの子の太郎有治たろうありはる、次郎清治きよはる、三郎成治なりはる、四郎義治よしはる。またさらに近江には山本、柏木、錦織にしごり。美濃、尾張には山田次郎重弘、河辺太郎重直、泉太郎重光いずみのたろうしげみつ浦野四郎重遠うらののしろうしげとお安食次郎重頼あじきのじろうしげより、その子の太郎重資しげすけ、木田三郎重長、開田判官代重国かいでんのはんがんだいしげくに矢島先生重高やじまのせんじょうしげたか、その子の太郎重行。甲斐には逸見冠者へんみのかんじゃ義清、その子の太郎清光、武田太郎信義、加々美次郎遠光かがみのじろうとおみつ、おなじく小次郎長清、一条いちじょうの次郎忠頼、板垣いたがきの三郎兼信、逸見兵衛有義ひょうえありよし平賀冠者盛義ひらがのかんじゃもりよし、その子の四郎義信、故帯刀先生義賢たてわきのせんじょうよしかたの次男木曽冠者義仲きそのかんじゃよしなか伊豆いずの国には流人るにん前右兵衛佐頼朝さきのうひょうえのすけよりとも常陸ひたちには信太三郎先生義憲しだのさぶろうせんじょうよしのり佐竹冠者昌義さたけのかんじゃまさよし、その子の太郎忠義、三郎義宗、四郎高義、五郎義季、陸奥には故左馬頭義朝さまのかみよしとも末子ばっし九郎冠者義経くろうかんじゃよしつねなど。いずれも皆六孫王経基つねもとの子孫で、多田新発意満仲ただのしんぼちみつなか後胤こういんなのです」
 頼政の弁は熱をおびてきた。あたかも諸国に兵を蓄えてひそむ源氏の網の目に、平家がしぼられて行くような感さえ、宮に与えたかも知れぬ。頼政は語調を変えてつづけた。
「われら源家のもの、朝敵を武力で平らげ、宿望を達した点においては、平家に一向劣りませぬ。が、いまは宮もご覧の有様、源平は今や雲泥のへだたり、主従の間柄より劣るのが現状です。国にまいれば国司の家来、荘園では預所に使われている始末、京にあれば、公事くじ雑事ぞうじに追い立てられて、心の安まるひまもない日を送っているのです。ひるがえって今の世を見ますなら、平家の威に服しているように見えるのは表面だけのことです。誰しもその心中、折あらば平家に一太刀というのが源家一統の悲願、この頼政も人後に落ちませぬ。もし宮が思し召し給うて令旨を下されるなら、雌伏する諸国の源氏は令旨を奉じて夜を日についで京に馳せ参ずるは必定、平家滅亡に時日は要しますまい。その儀なれば、この頼政、年こそ寄りましたが、あまたの若き児、孫もござります故、引具して第一番に御許に参じ奉る次第」
 宮の胸中は千々に乱れた。軽々しく決するには事は余りに重大である。筆と笛を愛して、風雅の道に生を終るべきか、それとも剣を選んで帝位を窺うべきか、これはまた生か死かに通じよう。しばし承引の返事もなく思いわずらう宮の胸中を一条の光芒こうぼうが閃いた。相人そうにん上手うまいといわれた少納言惟長これながのことである。惟長は阿古丸あこまる大納言宗通の孫、備後前司季通びんごのさきのつかさすえみちの子だが、人相をぼくすること当時並ぶ者なしといわれ、人よんでそう少納言と敬された公卿であったが、相少納言は高倉宮を見て恐るる色もなく言下に答えた。「皇位に即かせ給うべき御相おんそう、天下のことお諦め給うな」今、宮の胸によみがえったこの言葉は、源三位頼政の進言と相俟あいまって、強い啓示となった。さては、かくなすべしとの天照大神のお告げに違いなしと宮は信じた。承引の言葉を与えた宮の顔は頼政の眼には蒼白に光って見えた。
 ことは隠密裡に運ばれた。令旨を奉じて東国へ下る密使は新宮しんぐうの十郎義盛よしもりときまった。十郎義盛は蔵人に任ぜられ、行家と改名した。行家は四月二十八日、ひそかに京を立った。近江国より始めて、美濃、尾張の源氏どもに令旨を伝達して廻るうちに、五月十日には伊豆の北条、ひるが島についた。ここの流人るにん前右兵衛佐頼朝さきのうひょうえのすけよりともに、宮の令旨をとり出して奉った。さらに頼朝の兄、信田三郎先生義憲しだのさぶろうせんじょうよしのりを尋ねて信田しだの浮島へ下り、木曽冠者義仲もおいなので令旨を伝えようと、行家は中山道へ赴いた。
 このころ、熊野別当湛増たんぞうは、平家の重恩を受けていたが、どこからこの令旨のことをもれ聞いたのか、
「新宮の十郎義盛は高倉宮の令旨を抱いて、すでに謀叛を起さんとしている。那智、新宮の者どもは、定めし源氏の味方をするであろうが、この湛増は平家のご恩を山より高く受けている身、いかで謀叛にくみしえよう。まず那智、新宮の者どもに矢一つ射かけて、その後、都へことの詳細を報告することにしよう」
 と、甲冑に身を固めた兵、一千余人を引きつれて新宮の港へ向った。新宮では、鳥居の法眼、高坊たかぼうの法眼、武士には宇井、鈴木、水屋、亀甲かめのこう、那智では執行法眼以下、その勢合せて二千人余が陣を構えた。来るべき嵐の前ぶれともいうべきこの戦は激しかった。双方ときの声をあげ、矢を射合わせて、合戦の幕は切られた。源氏の陣にはかく射よ、平家の者にはこう射よと、互にゆずらぬ弓から放たれる矢は絶え間なく飛び交い、射手のあげる雄叫びは衰えることなく続き、鏑矢かぶらやのうなりは鳴りひびいて、死闘は三日間続いた。しかし、さしも腕に覚えの法眼湛増も、家の子郎党を数多く射たれ、わが身も傷を負って、命からがら本宮熊野へ逃げ帰ったのであった。

いたちの沙汰


 さて、後白河法皇は、成親、俊寛のように自分も遠い国、遥かな小島に流されるのではなかろうかと、お考えになっていたが、そういうこともないまま鳥羽殿に治承四年までお暮しになっていた。この年の五月十二日の正午ひるごろ、鳥羽殿の中でいたちがおびただしく走り騒いだ。常にないことである。法皇は何のきざしかと自ら占われて、近江守仲兼おうみのかみなかかね、その時まだ鶴蔵人つるくらんどとよばれていたのを御前に呼ばれた。
「この占いを持って安倍泰親あべのやすちかのもとへ行き、しかと考えさせて、吉凶の勘状を取って参れ」
 仰せを受けた仲兼は、安倍泰親のもとへ急いだが、折悪しく家におらず、白川まで赴いて法皇の勅諚ちょくじょうを伝えた。やがて卜占ぼくせんした泰親が記した勘状を懐にして鳥羽殿へ急いだ仲兼は、御所の前ではたと立止った。警固の武士が厳重に門を固めている。何んと頼んでも門を通さない。御所の勝手知っている仲兼は土塀どべいを乗りこえ、大床おおゆかの下をって、法皇の御座まで進み、御座の切板の隙間から泰親の勘状を差しあげたのであった。法皇がこれを開いてご覧になると、「この三日のうちに、お喜びのこと、並びにお嘆きのこと」と記してある。法皇は、
「この憂き身に喜びのことありとは結構だが、嘆きとは何か。この上また、いかなる辛い目にあうのか」
 と仰せられた。
 さて翌五月十三日、前右大将宗盛、父清盛入道の所に行き、法皇のことを度重ねて説いたので、清盛もようやく思い直し、法皇を鳥羽殿から出し奉って都へ移し、八条烏丸からすまるにある美福門院を法皇の御所とした。この三日のうちの喜び、という泰親の占いは、これを指したのである。こういう情勢のなかで、新宮の合戦に敗れた熊野別当湛増は、急飛脚をもって高倉宮謀叛のことを都へ知らせたのである。前右大将宗盛は顔色を変えて、このとき福原の別荘にあった入道にこれを伝えた。入道相国は一瞬疑うように宗盛の顔をみつめて沈黙したが、忽ち顔を朱に染めて激怒した。
「それがまことなら、高倉宮を直ちにからめ取って、土佐のはたへ流してしまえ」
 と、こう命じた。この衝にあたったのは公卿で二条大納言実房さねふさ[#「二条大納言実房」はママ]職事しきじ頭弁光雅とうのべんみつまさである。武士には源大夫判官兼綱げんだいふのはんがんかねつなと出羽判官光長の二人。この源大夫判官というのは、源三位頼政の次男である。この人を謀叛鎮圧の使者の中に加えたというのは、平家が頼政の陰謀画策をまだ察知していないということを意味する。高倉宮逮捕の一行は、甲冑に身を固めた兵三百余騎を引きつれて、月明らかな道を宮の御所へ向った。

信連のぶつら合戦


 この日五月十五日、満月である。三条の御所で高倉宮は、雲間にかくれ移る皓々こうこうたる月を眺めていた。遥か東国に下した密使の行方、そして源氏勢の反応、あるいは俄かに可能性をおびて身に迫ってきた皇位のことに思いを廻らせていたのであろうか。雲間をよぎる月の光を浴びた宮の姿は、無心に月夜を楽しむとも見えた。この時、息せき切って宮の御所に現れたのは入道頼政の急使である。宮の御乳母の子、六条亮大夫宗信ろくじょうのすけのだいふむねのぶは使いの手紙をあわただしく宮の御前にひらいた。
「宮のご謀叛のことすでに露顕、宮を土佐のはたへお流し申さんと、官人ども検非違使別当の命を受けてお迎えに向う。急ぎ御所を出でさせ給い、三井寺へ入らせ給え。この入道頼政も即刻御許に参じ奉らん」
 意表をく知らせである。宮は狼狽ろうばいした。才覚すぐれたとはいえ、月をで虫にく風雅の道に今まで過して来た宮である。危急の際の身の処置に、殆んどなすところなく呆然ぼうぜんとするばかりであった。このとき宮の御前近くにあったのは長兵衛尉長谷部信連ちょうひょうえのじょうはせべののぶつらという侍、進み出て気転の策を申し上げた。
「かくなる上は、もう外に方途はございませぬ。女房装束に変装されて、お逃れ遊ばしませ」
 これは妙案であると、側近が手を借して、宮の髪は忽ち解かれて下げられ、衣を何枚も重ねて、市女笠いちめがさをかぶられ、顔をかくした。御所の門を出た女装の宮のお供は、からかさを持った六条亮大夫、袋にものを入れて頭にのせた鶴丸という童、あたかも若侍が女を迎えて連れて行く姿であった。三井寺へ向って北に落ちて行く一行は道を急いだ。途中に大きな溝があったので、宮は女であることを忘れ、われ知らず軽やかに飛び越えた。これを見た通行人たちは、「なんとはしたない女房の溝の越えようか」といって立止まり、いぶかし気に見つめたので、宮の一行はますます足を早めた。
 御所の留守居役は、長兵衛尉長谷部信連であったが、残っていた女房たちを御所のあちこちへ隠しおき、さて見苦しいものがあったら取り片づけておこうと部屋部屋を見廻るうちに、宮の居間の枕もとに笛が忘れられているのを見つけた。小枝さえだと名づけられた高倉宮愛蔵の一管である。「これは宮さまご秘愛の笛、余りに心かれてのご失念か、思い出されればお嘆きあるに相違なし」と咄嗟とっさに笛を掴むと宮のあとを追った。ものの五町と走らぬうちに追いついた信連が、宮に笛を差し出せば、手にした宮の顔は喜色に溢れた。
「われ死なば、この笛も棺の中に入れてくれよ。信連よ、このまま余の供をしてくれぬか」
 と宮は頼まれたが、信連は答えた。
「間もなく御所には検非違使の役人どもが参るはずでございます。その御所に人一人おらぬとはまことに残念に存じまする。その上、あの御所にこの信連いるとは世間もよく存じておること、今夜おりませぬならば、さぞかし奴らは夜逃げをしたと思いましょう、これが信連口惜しゅう存じまする。この信連は弓矢取る身、かりそめにも名を惜しみます。ご安心召されませ、押し寄せる役人どもをしばしあしらった後、一方を打破って、後程、宮のお側に参じ仕ります」
 こういった信連はただ一人御所へ引き帰した。
 御所の三条大路に面した門、高倉通りへの門もすべて開け放して、信連一人悠然と敵を待っていた。この夜の信連の装束は、萌黄匂もえぎにおいの腹巻をつけ、上には薄青の狩衣かりぎぬ、腰には衛府えふの太刀。やがて午前零時、騎馬の音が門外に近づいた。源大夫判官兼綱と、出羽判官光長の率いる三百余騎である。すでに父頼政の意を体している源大夫判官は、はるか門外にひかえて様子をうかがった。ひづめの音高らかに門内に乗り入れたのは出羽判官光長、前庭に控えると、静まり返った御所の隅にまで轟くばかりの大音声をあげた。
「宮のご謀叛はすでに露顕つかまつった。土佐のはたへお流し申さんがため、別当の命を受けて役人参上、直ちに出させ給え」
 声に応じて広縁に姿を現わしたのは信連である。
「宮はただいまご不在じゃ、したがってここは御所ではござらぬ。宮はご参拝中でいられる。夜おそく大声をあげられても迷惑じゃ。一体何事かな、落着かれて事の子細を申されてみい」
 落ちつきはらった信連の言葉に、光長は逆上した。そして前に増す大声をあげた。
「いうな、この御所でなくてどこに宮が行かれるか。いないというか、さがしてみしょう。下郎ども、御所へ入ってぬかりなく探せい」
「下郎ども、ものをわきまえぬか。馬に乗ったまま門から入るさえ無礼なことじゃ。あまつさえ下郎が御所内を捜すとはなんたること。入るつもりか、長兵衛尉長谷部信連が目に入らぬのか。近寄って怪我をするなよ」
 空にはすでに雲が切れて、月が輝いていた。広縁に身構えて不敵に立ちはだかる信連の姿に、役人たちは一瞬声もなくひるんだ様子である。しばし睨み合いのつづくかともみえたが、この時、つつっと走り出たとみるや、さや走らせた大太刀をきらめかせて広縁に飛び、信連目がけて斬りつけた男がいた。検非違使庁の下郎で金武かなたけという者、かねて大力の名をとっていた男である。金武の振舞いに、同じ仲間十四、五人も一斉に打物とって、どっと信連を襲った。一歩すざった信連は左手で狩衣の帯紐を一気に引き捨てた。その右手には抜かれた太刀があった。衛府の太刀は装飾もかねるので、一体が華奢きゃしゃな作りだが、信連のは、かねてから事あるべきを期して入念に鍛えさせたもの、野戦の用にも耐える業物である。下郎たちの振う大太刀、大長刀に信連の太刀が交叉した。力に任せた大長刀が振り下せば空を斬り、振り上げた大太刀の相手の胸を信連の太刀が襲った。軽やかな身のさばきから必殺の刃がおどり出てくる。入り乱れて打ち合ううちに、斬り立てられた役人がちりぢりに庭へ追い落された。嵐に木の葉が散るようであったといわれる。
 五月十五夜の月に照らされた御所は明るかった。敵も味方も戦いやすい条件ではあったが、敵は不案内、信連は近よるものを廻廊に誘い寄せては一刀のもとに袈裟けさがけに斬り、壁に何時しか追いつめては胸を刺した。
「宣旨の使いだぞ、手向うのか」
 と信連を持て余した役人どもがおめいた。
「宣旨とは何じゃ」
 と嘲笑あざわらうそのひまにも、信連は太刀を振った。入念の作りとはいえ、彼の太刀は衛府作りの華奢なものである。激しい打合いに刀身が曲れば、咄嗟に手で直し、それでも及ばぬ時は足で刀身を正しながら、縦横に白刃を躍らせた。幾多の合戦で身につけた信連の太刀さばきは水際立ち、彼の刃に伏した者は忽ち十四、五人を数えた。倒された仲間の血が彼らを奮起させたのか、新手は死物狂いで大長刀を打ち振りながら立ち向って来る。ひと声叫んだ横なぎの一撃を、信連が応と受け止めた時、鋼がなったとみるや、太刀の切先三寸が折れ飛んだ。飛びすざった信連にしたりと追手が迫る。太刀を捨てた彼は、もはやこれまでと切腹を決意した。鞘巻さやまきを逆手に握ろうと腰間を探ったが、しかし斬合いのうちに落したのであろう、鞘巻は腰になかった。素手の信連は襲いかかる敵の刃の下に身を沈めるや、一気に庭に降り、高倉通りに面した小門を目ざして大手をひろげて駆け出した。必死の形相で通りへ躍り出ようとする信連の横合いから、大長刀が振られた。瞬間、気合とともに地をはねた信連は刃をかわそうとした。しかし長刀の方が速かった。刃は信連の股を縫った。どうと地に転がった信連の上に役人たちが群がり、彼は生捕りにされたのであった。
 ただちに御所内に乱入した役人は血眼で高倉宮の姿を探しもとめたが、もちろん、いるはずはない。地団駄ふんだ彼らは、隠れひそんでいた女房たちに悪態の限りをつくしたあと、信連を縛りあげて、六波羅へ引き揚げたのであった。報告を受けた宗盛は大床を踏み鳴らして現れると、庭先に引き据えられた信連を見すえて、わめいた。
「おのれは、宣旨の使いと名乗る男を、何が宣旨じゃと申して斬ったとな。嘘とはいわせぬ。そのうえ、検非違使庁の多くの下郎もあやめた。断じて許さぬ。よい、河原に引き出して、その素っ首を打ち落してやる。が、その前に宮の行方をかくさず申し立てい、おのれは承知しているはずだ。こやつをきびしく糺問きゅうもんしてみよ」
 信連は不敵な表情で坐り直すと、あざ笑った。
「近頃、御所の廻りを妙な奴輩やからがうろつくのは存じておった。大したこともあるまいと、今夜も馬鹿にしておったのは拙者の間違いであったが、どうも大層なことをやるご仁たちじゃ。物音がするので出てみれば、鎧武者よろいむしゃが三百騎、余程あの御所が恐いとみえる。何用じゃと尋ねると、宣旨のお使いだという返事じゃが、昨今はあちこちで、窃盗、強盗、山賊、海賊など性の悪い奴らが、公卿がお出でになったとか、おれたちは宣旨のお使いであるなど称して悪事を働いていることは、拙者よく耳にしているのじゃ。夜半ものものしい出立の人相の悪い奴輩やからから、のっけに宣旨の使いといわれても信用はできぬ。腕に覚えがあるかどうか知らぬが、いきなり斬りかかってくる。宣旨とは何じゃと申して斬り捨てたまでじゃ。しかし生捕りとは無念。この信連、甲冑かっちゅうを身につけ、鍛えあげた太刀を持てば、押し寄せた役人どもを一人でも無事に帰してはおらぬ。宮の行方をお尋ねのようじゃが、拙者知り申さぬ。たとえ存じていても申しはせぬ。糺問などしても信連には無駄なことじゃ。侍が決心したことを拷問などでおどかされるとは、卿も侍じゃ、ご存知あろう」
 こう宗盛をにらんで答えた信連は、言い終ると固く口を結んだ。そしてそっぽを向くと、もう如何なる質問にもおしのように沈黙した。
 この信連の態度は居並ぶ平家の侍たちを感心させた。「これこそ一騎当千の侍」という言葉が互に囁かれた。またある男は、「彼の武勇は今に始ったことではない。先年、彼が院の蔵人所くらんどどころにいた時だが、手強い強盗六人を取りおさえたことがあった。この強盗は、守護の武士でも立ち向えなかった程の奴らであったが、逃げる賊をただ一人で追いかけ、二条堀川で六人を相手の斬合いじゃ。そして四人を斬り、二人は生捕った。左兵衛尉に任ぜられたのは、この時の手柄からじゃ。今斬られるには惜しい侍よ」と語る者もいた。この噂が耳に入ったのか、清盛入道は、信連を斬るのを止め、彼を伯耆ほうきの日野へ流すことにきめたのであった。
 その後、平家亡び、源氏の世になった時、信連は東国へ下り、梶原平三景時に仕えたが、あるとき、この合戦の話をすると、頼朝公がこれを聞き、「けなげなやつ」といって、能登国に領地を与えられたという。が、これは後日の話である。

高倉宮園城寺おんじょうじへ入御


 一方、女房装束に身をやつし、市女笠いちめがさで顔をかくして三井寺へ落ち行く高倉宮は、高倉小路を北にとり、更に近衛大路を東にすすんだ。月を映してさわやかに流れる賀茂川を渡れば、もう如意にょい山である。追われる身の宮は踏みなれぬ夜の山路をひたすら急いだ。御殿育ちの身である、宮の足は何時しか血にまみれ、立ち止まって一息つけば、足下の砂は紅に染まった。夏草の露は宮のすそをぬらした。疲労にもつれる足は一層重くなったが、心をはげましては山路をひたすら急いだ。宮が目指す三井寺へ到着したのは、暁方、東の空すでに白み、高い樹木の梢には朝陽がさしていた。夜を徹しての山路歩きで、宮の顔はやつれ果てていた。
「この寺の衆徒を頼みに、参ったぞ」
 という宮の言葉は、多くの寺の中から、この寺だけがえらばれたという感動を三井寺の衆徒に与えた。喜んだ寺側はただちに法輪院に御所をしつらえ、心身ともに疲れた宮に食事を差しあげたのであった。

きおう


 高倉宮が法輪院で休まれている頃、京の街は宮の謀叛むほんの噂でもちきっていた。戦乱はもはや免れまい、あわてて逃げ仕度にかかる者さえいた。と共に一体何が宮を謀叛に走らせたのかというせんさくが囁き交された。黒幕とも目される源三位頼政の名が、人々の口に上ったのもこの時である。高倉宮謀叛の知らせは京都に大きな衝撃を与えた。騒動はいつ終るとも知れなかった。
 宮を打倒平家へ走らせた源三位入道頼政は、どんな動機を持っていたのだろうか、今迄都にあってたれと衝突するでもなく穏かに過して来た侍である。何故、今年になって急に平家滅亡を心に誓ったのか。
 つらつら案ずるに、これは入道頼政が、勝手気ままな仕打を続けてきた平家の次男宗盛を憎んだためと思われる。
 三位入道の嫡子伊豆守仲綱いずのかみなかつなしたと名づけられた鹿毛かげの名馬を持っていた。宮中にまでその名が知られた逸物で、乗り心地といい、走り具合といい抜群の鹿毛で、恐らく世に二匹はいまいといわれたほどである。これを知って欲しがったのが宗盛である。早速、仲綱のところへ使者が立てられた。
「世に聞えた名馬「木の下」を所望いたしたいが」
 という。仲綱は使者に答えた。
「お名指しの馬は確かに所有しておりましたが、近頃あまり乗りつかれさせたので、しばらく休ませようと田舎に送っている次第です」
 使者の報告を受けた宗盛は、それでは仕方ないとあきらめた。ところが、平家の侍どもは口々に宗盛に告げた。
「あの馬なら一昨日おととい昨日きのうも私は見ております。現に今朝も庭で調教しているのをこの目でしかと見ました」
 怒ったのは宗盛である。何というけちな奴、惜しい余りに嘘をつきおったな、それならそれで、こちらも断じて貰いうけてやる、とばかりに使者を再び立てての矢の催促である。断わられても引き下がる男ではない。二度三度が、七度八度となって仲綱をせめ立てた。これを耳にした三位入道頼政は息子を呼んでいい聞かせた。
「たとえ黄金こがね作りの馬であっても、人がそれほど欲しがるのを、断わるのはよろしくない。侍たるものが物惜しみすると人にいわれてはならぬ。馬はやるがよい」
 父に説かれて愛馬を手離す気にはなったものの、いざとなるとその決心もにぶりがちである。漸く一首の歌を記して、馬とともに宗盛の所へおくった。歌にいう。

こいしくば来ても見よかし身に添うる
  かげをばいかが放ちやるべき

 もちろん宗盛は返歌などという礼儀は守らなかった。もっぱら愛憎二つながらまじる目つきで「木の下」をねめ廻していた。
「噂にたがわぬ名馬じゃ。馬は良い、だが持主の惜しみ方が憎い。それならば仲綱めが心を慰めてくれよう、やつの名を馬にしるせよ」
 仲綱の焼印を押された「木の下」はこうして宗盛の厩に収まったが、伝え聞いた客たちが訪れて、一目名馬をと所望すると、薄笑いを浮べた宗盛は馬をひかせると怒鳴った。
「仲綱めに鞍をおけ、引き出せい。仲綱めに乗れい、打て、なぐれい」
 無念の涙にくれたのは仲綱である。掌中のたまを奪われたばかりか、ことごとわが身を嘲弄される。父の前に現れた仲綱は、父への恨みもまじるまなざしを投げながら訴えた。
「わが身にも代えたいあの馬を、あたら権力で奪われたのは無念に存じまする。そのうえ、天下の笑い者になっておりますこの身、父上、あきらめられぬ恨事にござります」
「わしも人を見る明がなかった。お前の胸のうちは察してやる。それにしても侍の道を知らぬ奴輩やからじゃ。われらに何もできまいと思うて、平家はかかる仕打ちも平気で行なっておるのじゃ。これほど馬鹿にされては源氏の名もすたる。生きながらえても、所詮しょせん命の無駄使いじゃ。わしも決意した、機会をうかがって奴らに思い知らせてやる所存じゃ。仲綱、今はこらえてくれい」
 こうして、頼政は機会を狙っていたが、遂に高倉宮を動かして、このたびの挙に出たものである。これは、世間の人が噂していることであったが、信ずべきものと思われる。
 さて、高倉宮が三井寺へ逃げた十六日の夜[#「十六日の夜」はママ]、京の源三位入道頼政の家は突然あちこちから火の手があがり、どっと炎上し始めた。火焔の明りで人々が見たのは、甲冑かっちゅうに身を固めた武者三百余騎が北へ目指して走り去る姿であった。源三位入道頼政が、嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱、六条蔵人仲家ろくじょうのくらんどなかいえなどを引きつれて三井寺へ馳せ参ずる姿である。おのれの邸に火を放って、決意を示したのであった。
 あわてて駆けつけた六波羅の役人たちは、燃え落ちた邸にいる一人の男を見つけたので、引きつれて帰った。男は頼政長年の家来で、渡辺源三競わたなべのげんぞうきおう滝口たきぐちという侍である。
「お前は先祖代々三位入道に仕えてきた者であるが、何故主君と共に行かずに、一人邸にとどまっていたのか」
 宗盛自身の取調べに対して競はかしこまった口調で、ためらいなく答えた。
「私めは、一朝ことあればまっ先にかけつけて、主君のために命を捧げようと思っておりました。所が今日はどうしたことか、頼政さまは一言も私にお話がありません。何も知らない私は仕方なくうろうろしていたのでございます」
「左様か、お前が当家にも見参していたのは承知している。お前の家の将来を思うて当家に味方をするつもりか、それとも朝敵となった頼政につこうとするのか、よく考えてありのままを申してみよ」
 この宗盛の言葉を聞くと、競は感動を表にあらわして、はらはらと涙をこぼした。
「私の胸のうち、ありのままに申し上げます。いかにもこの身、頼政さまに先祖代々お仕え申してきました。宿縁もご恩も感じてはおります。しかし私は朝敵の汚名に身をけがす心は毛頭ございませぬ。この競、唯今より御殿に奉公いたしとう存じまする」
「それは重畳、お身には頼政の時に劣らぬものを与えよう」
 勇武の誉高い競が奉公を志願したのであるから、宗盛の機嫌は一度によくなった。この日は朝から夕方まで、ことあるたびに競はおるか、競はどこじゃと大層なお気に入りであった。十六日も暮れた。宗盛が競の前に姿を現わしたとき、真心あらわれた顔で競が言上した。
「奉公始めに手柄一つも立てとう存じまする。聞くところによりますれば、源三位入道は三井寺におられるとのこと、必ずや夜討など仕掛けるに相違ありませぬ。三井寺の手勢は三位入道の一党、渡辺の郎党たち、それに三井寺の法師たちでございますれば、敢えて恐るるに足らぬ小勢でござります。私めにお任せあれば、夜を幸い寺に忍びまいり、朝敵のうち手強い奴を打ちとってまいりまする所存、かくすればあとを蹴散らすはたやすきものにございます。が、今はかないませぬ」
「何故じゃ」
 と宗盛は思わずつりこまれた。
「馬がござりませぬ。私も武士のはしくれ、手がけてきた良馬を持っておりましたが、先頃、友人に盗まれてしまいました。いま、御馬一匹貸し賜りますれば、見事手柄を立ててご覧に入れましょう」
 競の語勢に動かされた宗盛は、愛馬に鞍をおかせて貸し与えた。南鐐なんりょうと名づけられた宗盛秘蔵の白葦毛しろあしげである。
 南鐐を駆って家についた競は、妻子郎党を呼び集めて、決意を申し伝えた。
「これから頼政さまのいられる三井寺へ参る。合戦には三位入道殿の先陣に進んで討ち死する覚悟である。皆も肝に銘じくれ。夜にならば、出発いたす」
 動揺にみちた不安な空気のまま京都は夜を迎えた。競は妻子たちを隠し忍ばせると、南鐐にまたがった。渡辺源三競の滝口、出陣の出立は、狂紋きょうもん狩衣かりぎぬに大きな菊綴きくとじ、先祖代々伝わる所の着長きせなが緋縅ひおどしよろいかぶとは銀の星をいただいている。太刀は怒物いかもの作り、それに重籐しげとうの弓、大中黒おおなかぐろの矢、替え馬にのった家来一人、下郎にも楯を持たせた。わが家にも火を放って焼き払わせると、競は三井寺へ夜道を疾駆した。
 六波羅へ、競の家の火災を知らせる使いが飛んだ。驚いた宗盛が急ぎあらわれると、
「競はおるか、競はおるか」
 と尋ねれば、「おりませぬ」との返事である。宗盛は激怒した。
「すわ、奴に油断してたばかられたか。遠くへはまだ行くまい、追手を出せい。必ず競を討ちとれ」
 宗盛の激しい下知に家来は御前をあわてて引き下ったが、さて追う勇気のある奴はいない。すでに競の大剛力、弓の速射では並ぶものなしといわれた腕前は、家来どもも十分に知っている。競の持つ矢が二十四本なら、二十四人は死ぬだろう、こう考えると、われこそは、と名乗り出るものもなく、追手は自然消滅の形となった。
 この頃、三井寺にあって合戦準備に懸命であった渡辺党は寄り集って競の噂をしていた。一人でも手勢が欲しい時、競の不参は打撃である。それに同族である。渡辺党の一人が頼政に近づくと思い切って申し立てた。
「競は殿もご承知の武勇のもの、何んとかして、あの競を召しつれてくるべきでした」
 頼政は不安気な渡辺一党の顔をみると微笑した。競の本心を熟知している人の笑いである。頼政は慰めるようにいった。
「あれほどの者だ、めったなことで捕われまい。きゃつはこの入道に心を捧げている。心配いたすな、見ていよ、間もなく競はここに来るであろう」
 という言葉が終らぬうちに、どっと渡辺の党勢から歓声がわいた、競、競という歓迎の叫びである。会心の微笑を浮べる頼政の前に、武者振り水際立った競がかしこまった。
「競、ただいま参上、お土産みやげがございまする。伊豆守殿の「木の下」の身代りといたしまして、六波羅の「南鐐」を持参いたしました。伊豆守殿への贈物にございます」
 頼政が破顔大笑すれば、かたわらの伊豆守仲綱は躍りあがって喜んだ。しばし三井寺の頼政陣には人のどよめきが流れ、気勢大いにあがった。やがて南鐐は尾の毛を切られて、追い帰された。
 六波羅の厩番うまやばんが夜も更けたころ、不図目をさますと厩が馬鹿に騒々しい。起き出てみると、奪われたはずの南鐐が、ほかの馬たちと噛みあっている。驚いた番人が飛びこんで宗盛に報告する。半信半疑の宗盛がかけつければ、間違いなく南鐐である。しかし尾の毛は切られ、
「昔は南鐐、今は平宗盛入道」
 と焼印が押してある。宗盛は体をふるわせて呪いの言葉を吐いた。
「油断したのが無念じゃ。よいか、今度三井寺へ押し寄せたとき、競を殺してはならぬ。必ず生捕るのだぞ。そして鋸でゆっくりきゃつめの首を引き切ってやる」
 とはいえ、これも後の祭りであった。名馬はもはや昔に戻らぬ姿のまま、怒り狂う宗盛の前でまぐさをんでいた。

山門への牒状


 高倉宮を迎え、頼政一派を受け入れた三井寺の大衆は、起り得べき事態にそなえて急遽その対策をねった。ほら貝が吹かれ、鐘が打ち鳴らされて衆徒が一堂に集められ、真剣な会議が開かれた。平家の大勢に抗するに所詮人数が足らぬとあれば、味方を至急集めねばならない、ではいかにして動員するか、衆徒の会議の焦点はここにあった。
「つらつら近時の世相を案ずるに、仏法の衰微、政道の弱化がいまに過ぐるものはない、もし清盛入道の暴悪をこらしめなければ、いつの日を期せようか。宮の当寺への入御も正八幡宮の加護というべきだ。仏も神もわれわれの挙にその力を与え給うにちがいない。思うに比叡山は天台宗の一味、奈良興福寺は安居得度の戒場である。彼らにげきをとばすなら、必ずやわれらに味方しよう」
 という意見が全員一致でむかえられた。直ちに檄文が草されて、比叡山と興福寺へおくられた。
 比叡山への状にいう。
「格別のご協力を願い、当寺の破滅を救っていただきたい。入道清盛ほしいままに仏法を亡ぼし、朝政を乱そうとする現状を、われらひそかに嘆いていた。ところで、今月十五日夜、高倉宮不慮の難を逃れられて当寺へ入御されたのであるが、平家は院のご命令と称して宮の引渡しを度重ねて要求してきている。当時は[#「当時は」はママ]固い決意をもって拒否してきたが、平家は武力に訴えてもと、軍勢を当寺へ差し向けようとしている。当寺の危急存亡のとき、破滅のときである。
 案ずるに、延暦、園城おんじょうの両寺は、今山門と寺門とにわかれてこそいるが、学ぶところは共に一つの天台宗である。これを例えるなら、鳥の双翼、車の両輪ともいえる。もしこの一つでも欠けたなら、その嘆きこれにまさるものはないと信じている。どうか格別の協力で当寺の破滅を救っていただきたい。
 右はわれら衆徒全員の決議である。よってこの檄文を貴寺へお送りする次第である。
治承四年五月十八日
大衆一同」

南都への牒状


 三井寺から檄文を受けとった比叡山門の大衆は、いささか機嫌を損じた。山門は本山であるとの自負がある。「鳥の双翼、車の両輪」という文句が気に障った。当山の末寺三井寺が山門を同格に扱うのは無礼であるというのである。憤慨のうちに返事はのばされた。これと殆んど時を同じうして、天台座主明雲大僧正が突然山に来て、衆徒を説得して廻った。清盛の打った手である。こうして、三井寺への返事には、態度未定、目下検討中という政治的用語をふんだんに使われた返書が送りかえされた。入道清盛から、さらに比叡衆徒の懐柔策がとられ、通りがかりの手土産として、近江米二万石、北国の織延絹おりのべぎぬ三千疋を山門へ寄せた。急ぎ皆に分け与えよ、というので谷や峰の僧坊にわけられたが、突然のことで分配はうまくゆかず、どさくさに紛れての一人占めなどの火事場泥棒騒ぎであった。
 また奈良興福寺への三井寺からの檄は、比叡に送ったものとほぼ同文であったが、その末尾に、
「特に貴寺においては、罪なき関白藤原基房卿を鬼界ヶ島に流されるなど、清盛からは多くのはずかしめを受けられている。この時恥をすすがずんば、いつの日を期し得ようか」
 と特記し、格別の協力を要請したのであった。

南都返牒


 山門から拒否同様の返事を受けた三井寺衆徒は、これで孤立するのではないかとの不安におののいていたが、興福寺からの返書は大いに気勢を上げさせた。それほどこの返書は激越な文句で綴られていたのである。
「興福寺より園城寺へ返事申す。当寺一味同志決議したこと左の如し。
 ともにわれわれは釈迦一代の教文を奉ずるもの、喜んで貴寺へ合力を誓うものである。
 およそ清盛入道は平氏のかす、武家のごみと申してよい。彼はもとより賤しい身の出であって、かつては名もない若侍さえ彼に仕えるのを恥じたものであったが、今や一族を貴官に列し、百官を下僕のように召し使い、王侯公卿でも意のままに捕縛する暴虐を行なっている。家代々の領地、荘園を奪うなど、その例数えるいとまがないほどであるが、去年の冬十一月には関白を配流されたのである。この古今に例のない暴悪に、われらは賊徒として彼をその罪に問うべきであったが、あるいは神慮ととなえ、あるいは勅旨と称して偽りの名分を立てるなどで、われわれも隠忍せざるを得なかった次第。ここに平家ども御所を包囲したところが、春日大明神ひそかに姿を現して高倉宮を貴寺に送り届けたのは、王法未だ衰えざる兆とみるべきものである。
 貴寺が身を捨ててご守護申し上げるのは喜ぶべきこと、当寺も合力に全力をあげるものである。当寺すでに十八日朝大衆を集め、諸寺に檄を飛ばし末寺に指令を与えるなど、合戦の準備を行なっていたところへ、貴寺の芳翰ほうかんを得たのであるから、われら衆徒一同の年来の不平霧消、士気大いにあがった。
 われら協力すれば、邪臣をうち払うことも難からずと信じている。貴寺親王を守りて、われらの進発の報を待たれたい。
治承四年五月二十一日
大衆一同」
 まさに会心の返書である、三井寺衆徒が何れもくり返しこれを読んだその心は察するに難くはない。夜を日に継いでの戦への準備もはずんだ。

大衆そろえ


 三井寺は防備のため山を切り開いて、大小の関所を作った。こうした中で衆徒一同が集って評定が真剣に行なわれた。
「比叡は変心、頼みの奈良興福寺の援軍はまだ来ていない。このまま徒らに時を延ばすのは平家を利するだけだ。直ちに六波羅へ今夜押しかけ夜討をかけよう。ついては、老人と若い者を二手にわける。老僧たちを如意ヶ峰より敵の搦手からめてに向わせる。足軽どもを先手としてまず白川の民家に火を放てば、六波羅の武士たちは、敵襲と思うてここに駆けつけるにちがいない。この間岩坂、桜本のあたりで防戦、しばらく時をかせぐと共に敵をここへ引きつけておく。こうしておいて、大手の松坂から伊豆守を大将軍として若大衆と勇猛な僧たちが六波羅を襲い、一挙に風上に火をかけて焼き払い、決戦を挑んで強襲すれば清盛入道を焼き出して討ちとれぬことがあろうか」
 戦略にけた一人が述べれば、それは妙案であると大衆は賛同した。ところが、かつて平家のために祈祷したことのある一如坊いちにょぼう阿闍梨真海あじゃりしんかいという坊主は、弟子など数十人引きつれて、この評定の席に進み出ると、彼の意見を開陳した。
「私が申すことを平家の為にする言葉と思われては迷惑至極、私とて衆徒としての道義を思い、寺の名を惜しむことは人後に落ちぬものです。昔は源家、平家ともに朝廷の護衛をつとめたものでしたが、今や源家の運傾き平家世を取って草木も従う勢いでございます。見らるる通り寺側の勢いきわめて少く、これで六波羅へ押し寄せるのは無謀の極みと愚僧思案いたします。それ故、ゆっくり策戦を練り、改めて軍勢を募ってはいかがでございましょう」
 無論、この真意は夜討ちを延引させるためにあったが、少勢という現実をついた言葉に大衆たちも一考を要せざるを得ない破目とはなり、ああでもない、こうでもないという長評定が続く始末とはなった。
 この時、衣の下に萌黄匂もえぎにおいの腹巻を着こみ、大太刀を無造作に差し、白柄の長刀を突き立てた僧が進み出ると大音声をあげた。乗円坊の阿闍梨慶秀という者、真海をはったとにらみつけながらいった。
「火急の場に長評定するのはもう聞き飽きた。外に証拠を求める必要はない、この寺建立の願主天武天皇いまだ東宮であらせられる時、大友皇子に襲われて芳野よしのから大和国宇多うだこおりを通られた際の兵、わずかに十七騎であった。しかし伊勢に越え、美濃尾張から集められた軍勢で、大友皇子を亡ぼし位につかれたのだ。窮鳥懐に入らば猟師もこれをあわれむという。他の者はいざ知らず慶秀の門弟は今夜六波羅において討死するつもりである」
 りんたる言葉は満場を打った。円満院大輔えんまんいんのたいふ源覚はひざを進めるときびしい声でいった。
「枝葉末端の多い論議はひまをつぶすばかりだ、この貴重な夜がふけるばかりである。急げ、押し寄せて討ちとるべし」
 漸く大衆の決意はきまった。たちまち部隊の編成が行なわれた。
 搦手に向う老僧たちの大将軍には源三位入道頼政、乗円坊の阿闍梨慶秀、律成坊りつじょうぼうの阿闍梨日胤にちいんなどをはじめとして、その軍勢およそ千人、手に手にたいまつを持ち進発した。
 大手の大将軍には嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱、六条蔵人ろくじょうのくらんど仲家、その子蔵人仲光をはじめとし、大衆には円満院大輔源覚、律成坊の伊賀公いがのきみ、法輪院鬼佐渡など、いずれも剛力で弓矢打物をとっては鬼をもひしぐという一騎当千の精強である。このほか平等院、北の院などの強僧も加わり、武士には渡辺わたなべはぶく、播磨の次郎じろうさずくきおう滝口たきぐちなどその勢合せて千五百余人、眉宇に決意を秘めて三井寺を出発したのであった。
 ところが、寺には堀がひかれ、要所には楯を並べ逆木さかもぎを立てつらねるなど、急造ながら厳重な防備が作られてあったため、軍の進発にはこれを一つ一つ取りのぞいてゆかねばならなかった。堀に橋を渡し、逆木を取り払うなど面倒な作業を行って、漸く、逢坂の関にかかったとき、鶏鳴が暁を告げる始末、夜襲の時刻は遥かに過ぎてしまった。大将軍伊豆守仲綱は、
「ここで鶏が鳴くようでは、六波羅へ押し寄せる時はもう真昼となる。夜討ちの奇襲ならばどうにか戦える覚悟であるが、昼の戦ではこの小勢で勝目はない。先手のものを呼び返せ」
 と下知した時、もう夜は白々と明けていた。大手、搦手、ともかく兵を帰したが、収まらぬのは若大衆である。夜討ちの時期を失したのは、かの一如坊の長談議のためである、きゃつは平家に寄せる心があるに違いない、裏切者を倒せとばかりに坊に押しかけて、そこの坊主どもを片端から斬り殺した。一如坊自身も満身に傷を受けたが漸くそこを脱し、這うようにして六波羅へたどりつき、これを涙と共に訴えた。しかしこのとき六波羅に集った軍勢数万騎、些かも動揺する気配を見せなかったのである。
 こうした中で高倉宮は沈痛な面持で夜も寝ずに考えこんでいた。山門は変心し、興福寺の援軍未だ来らず、この三井寺の手勢では圧倒的な平家の大軍に敵することは難しい、それならここより優勢な奈良に行くのが良策であると、二十三日暁方に三井寺を立つことに決めた。このとき宮は二本の笛をもっていた。小枝さえだ蝉折せみおれと名づけられた古今の名笛で、笛の名人とたたえられたため宮がこの笛を受けたものだが、中でも蝉折は宋から渡来して朝廷に献じられたもので、蝉の形をした竹の節があり、あるとき公卿がこの笛を粗末にも膝から下に置いたところ、これを笛がとがめたのか蝉の所から折れてしまったという程のもの、いま宮は三井寺を立つに及んで本堂の弥勒菩薩みろくぼさつに供えたのであった。
 宮のお供には、三位入道と渡辺の一味、それに寺の若大衆が従った。宮は老僧たちに別れを告げた。乗円坊の阿闍梨慶秀ははとの杖にすがって宮の前に進むと、涙はらはらとこぼして申しあげた。
「拙僧、宮にいつまでもお従いしたき心にございますが、年すでに八十歳、足もなえて歩くのも困難でございます。代りに弟子の刑部房俊秀ぎょうぶぼうしゅんしゅうをお召し連れ下さい。この者先年平治の戦で故左馬頭義朝さまのかみよしともに従って討ち死いたしました須藤刑部丞ぎょうぶのじょう俊通の子にございますれば、その心底拙僧よく存じておるもの、どこまでもお召し連れ下さい」
「今までこれというよしみもなかったこの私に、それほど心をかけてくれるのか」
 宮は今さらながら感動の涙を押えかねた。そして、手勢一千五百人を引きつれて興福寺へ向われたのであった。

橋合戦


 しばらく進むうちに、高倉宮は宇治橋に来るまで六度も落馬した。側近が昨夜お寝みにならぬお疲れのためであろうと、平等院びょうどういんにお入れして休息させた。敵襲をおもんばかって、宇治橋の橋板三間を引きはがし、宮と共に兵もここで一息入れていた。
 一方、宮奈良へ落ち給う、という情報を掴んだ六波羅では、ただちに追って討ちとれと、大将軍に左兵衛督知盛さひょうえのかみとももり頭中将重衡とうのちゅうじょうしげひら薩摩守忠度さつまのかみただのり、侍大将に上総守忠清かずさのかみただきよ飛騨守景家ひだのかみかげいえを始めとした軍勢二万八千余騎が木幡山こばたやまを越えて急追した。
 六波羅勢の先兵が宇治橋のたもとにつけば、橋の板が外され、川向うには頼政の兵が陣を構えていた。見るみるうちに平家の勢が橋のたもとに黒山のように集った。どっと起る平家のときの声に応じて、宮の側でも鬨をあげる。と、小勢と見てとったか平家が一斉に橋を押し渡ろうと進みはじめた。あわてたのは先陣の兵である。
「橋板がとってあるぞ、進むな、進むな」
 と声をらしての制止も、はやり立った後陣の耳に入るわけがない。われ先にと進む兵たちに押され押された先陣の兵は、悲鳴をあげながら川に落ちては次々と溺れていった。ようやく事態を察して兵を収めた平家と、高見の嘲笑を投げていた宮側とは川をはさんで対峙たいじした。
 この日を最後と心に決めた源三位頼政は、科皮縅しなかわおどしの鎧を着て、兜はつけていない。嫡子伊豆守仲綱も兜を外している、これは弓を強く引くためであった。
 両軍の矢合せが戦を告げた。宮側の五智院の但馬たじま、渡辺のはぶくなどが射かける矢は、強弓から放たれた。楯を抜き鎧を通して人を倒した。両軍から矢が飛び交い、矢叫びの声高まって行くなかに、一人の侍が大長刀をさやからぬくと、するすると橋の上に進んだ。五智院の但馬である。これを見た平家から、不敵な奴、よき目標ぞ、射ちとれ、射ちとれと雨のように矢が飛んだ。橋の真中に構えた但馬の長刀は神速の業をみせた。頭を狙う矢には身を沈め、低い矢は飛びこえた。真向うから飛び来る矢は長刀で丁と切って落し、横から襲う矢を騒がず柄ではたき落す。長刀の刀がきらめくとみるや二つになった矢が散り落ちるさまに敵も味方も感嘆した。
 また堂衆の一人、筒井つつい浄妙明秀じょうみょうめいしゅうは黒皮縅の鎧に五枚兜の緒をしめ、二十四本の黒ほろの矢を背に白柄の大長刀を掴んで橋に一人進み、轟く大音声をあげた。
「遠からん者は音にも聞け、近からん人は目にも見よ、三井寺には隠れなき筒井の浄妙明秀という一人当千のつわもの、われと思わん人々は近う寄れ、見参せん」
 といい終るや否や、彼の手は黒ほろの矢を弓につがえて放った。たまらず射抜かれた一人が倒れる間もなく、明秀の弓から引きも切らず正確な矢が飛ぶ。背のえびらに矢が一本もなくなったとき、十二人が射殺され、十一人が負傷したという速射であったが、弓をがらりと捨てた明秀はつらぬきを脱いではだしとなるや、ひらりと橋桁にとんだ。猿の如く橋桁を走るとたちまち敵陣に近づき、白柄の大長刀を打ち振う。小癪っとばかりに躍りかかる敵兵一人二人が血煙をあげ、その数五人を数えた。立ち向う六人目の敵の長刀を心得たりと受け止めた時、彼の長刀は真中より折れた。すかさず腰の黒漆の太刀を抜けば、そのまわりを敵兵が取り囲んだ。しかし明秀の振う大刀は縦横に暴れた、十字を画き水車のように廻っては四方に斬りつけた。すでに八人の敵が死んだ。九人目に、こやつもと真向から鋭い刃風とともに打下ろした明秀の太刀は兜の頂に当った。目貫の元から折れた刀身は抜けて川に飛んだ。いまや頼みとするは腰刀一つ、明秀はここを死場所と覚悟して死物狂いで再び大勢の敵に向った。
 このさまを見て続いたのは阿闍梨慶秀の弟子一来法師いちらいほうしという大剛力のもの、長刀を小枝のように打ち振りながら敵を倒していたが、橋桁が狭く前に明秀がいるので進めない、そこで「浄妙房、ご免」と叫ぶや、彼の兜のしころに手をかけると一気に跳りこえた。剛力で斬りつける長刀にしばし敵を支えていたが、おめいて斬りかかる敵の胴を見事にいで二つにしたとき、後へ廻った敵兵の刃に死んだ。浄妙明秀はようやく帰って来たが、矢の跡六十三、しかし何れも急所を外れていた。橋上はたちまち混戦になった。三位入道の一族、渡辺党があいついで橋を渡り、刀折れれば敵のを奪い、重傷で倒れれば残る力で腹かき切って川へ飛んだ。両軍の血で橋は染り、雄叫びは火花の散るほど激しかった。
 この橋上の激戦を眺めていた平家の本陣は、次第に焦立ってきた。死物狂いで防戦する頼政一党を破って、橋から宮のいる陣へ突入するには時間がかかる上に、第一狭すぎる。敵が宇治橋の防戦に全力をあげている虚をついて、一気に宮の本陣に全兵力を投入して討ち果したい、それには川を渡らねばならぬが川の深さははかり知れぬ。
 平家の侍大将上総守忠清は、大将軍知盛の前にあらわれると指揮を仰いだ。
「ご覧のごとき橋上の激戦、今はこの川を渡る以外に手段はございませんが、五月雨さみだれで増水しているところへ無理をして渡河強行いたしますならば、人も馬も多く失われるは必定、淀、一口いもあらいへまわるか、または河内路へまわって、そこから対岸に渡るべきか、二つに一つを選ぶよりほかに道はないと存じます」
 これをそばで聞いていた当年十七歳になる下野国しもつけのくにの住人足利又太郎忠綱は、憤然として知盛の前に進むと断固たる口調で進言した。
「淀や河内路まで廻って渡河しようというお話ですが、支那か印度の兵でも呼んで川を渡そうというのですか。戦をしているのはわれわれですぞ。目の前にいる敵をいま逸したなら、宮を奈良へ落ちさせてしまいます、そうなったら、吉野、十津川の軍勢が宮のもとに大挙して集るのは目に見えています、これは一大事ですぞ。板東武者のならいとして、敵を目前に控え、川が浅いの深いのと考えこんでいる暇は持ちませぬ。この川の深さとて利根川と余り違いはないはず」
 というや、ひらりと馬にまたがり、自分の家来たちの前にくると叫んだ。
「今こそ死ぬべきときだ、さあ、われに続け」
 彼は馬に一鞭くれると、さっと川におどりこんだ。これに勇を得て続く侍は大胡おおご大室おおむろ山上やまかみなどの面々、しぶきをあげて流れに馬を乗り入れるもの三百余騎である。そのとき振り返った足利又太郎が、大音声をあげて注意した。
「弱き馬は下流に、強き馬を上流に立てよ。馬の足川床を歩む間は手綱をゆるめ、足とどかずに泳ぎはじめたなら手綱をしめよ。流される者あらば弓をあたえて引き戻せ、手を組み肩を相抱いておくれずに渡れ。川の中で弓を引くな、敵射てきても相手になるな、兜を傾けて矢を避けよ、下げすぎては首を射らるるぞ。馬には弱く、水には強く当れ。流れに逆わず従って渡れよ」
 この適切な助言は、水に経験の浅い軍勢にたいして極めて効果的であった。かくして渡河の先陣三百余騎は全員無事対岸にたどりついた。

宮の御最後


 岸に先手をきっておどりあがった足利又太郎の装立ちは、赤革縅の鎧、黄金作りの太刀、二十四本背に差したるは切斑きりふの矢、重籐しげとうの弓を小脇にかいこんで、乗る馬は連銭葦毛あしげあぶみをふんばって声をとどろかせた。
「昔、朝敵将門まさかどを亡ぼした俵藤太秀郷たわらとうたひでさと十代の後胤、下野国の住人足利太郎俊綱の子又太郎忠綱、生来十七歳のもの、かく無位無官の者が宮に弓を引き奉るは恐れ多いことなれど、弓矢の冥加みょうが平家の上にとどまっているものと存ずる。三位入道の御方のうち、われと思わん人は寄りあい給え、見参せん」
 こう名乗りをあげると、足利は平等院の内へ攻めこんだ。
 この有様を眺めた大将軍の知盛は、全軍に下知して渡河を命じた。二万八千余騎どっと川に馬を入れれば、さしも早い宇治川の水もたまらず上流に押し返される有様である。一度び押し返された水は激しい急流となって流れこみ、このため伊勢、伊賀両国の兵の馬筏うまいかだが破られてあれよと言う間に水に流される始末だ。萌黄もえぎ緋縅ひおどし、赤縅など色とりどりの鎧の兵が浮きつ沈みつ流され、溺れるもの六百余人を数えた。平家の大勢が河を渡ると、そのまま水しぶきをあげて平等院になだれこんで、両軍必死の戦いが始まった。三位入道、渡辺の勢が矢を射かけ太刀を振って防ぐ間に、高倉宮は奈良を目指して落ちていった。
 源三位入道年すでに七十余り、左の膝がしらを射られて歩行が困難になった。今や心静かに自害せんと平等院の中へ引きあげようとするとき、追いすがった敵があった。このとき、次男源大夫判官兼綱、この日紺地の錦の直衣ひたたれ唐綾縅からあやおどしの鎧を着て奮戦していたが、父の危急をみると、ただちにとって返して防ぎ戦った。追いすがる武者を斬り伏せたところへ、上総太郎判官のひょうと射る矢が兼綱の内兜を射当てた。がっくり弱る兼綱に上総守の大力の子息次郎丸が馬をさっとそばに乗りつけると、兼綱をむずと掴んで共に馬から落ちた。地に転がりながら死力を尽してもみ合ううち、大力の兼綱は次郎丸を組みしいたとみるや、腰刀でその首をかき切った。よろめき立ち上る兼綱の上に、十四、五騎が折り重なってとびかかった。力尽きた兼綱は此処に首級をあげられたのである。
 伊豆守仲綱も、激戦のすえ体に多くの傷手を負うと平等院の釣殿つりどので自害した。その首を打った下河辺藤三郎清親は、敵の手に入らぬようにと大床の下へ投げ込んでかくした。六条蔵人仲家その子蔵人太郎仲光も共に同じ場所で討死した。平等院に入った三位入道頼政は、渡辺長七唱ちょうしちとのうを召し寄せると、
「わが首を打て」
 と静かな声で命じた。涙をはらはらとこぼした家来は、
「私には出来ませぬ。ご自害遊ばしましたら、その後にこそ御首みしるしを頂きましょう」
 と声をつまらせている。その顔を見つめた頼政は、かすかに肯くと正座して西方に向いた。しわの多い手で合掌すると、落ちついた声で念仏を十度び唱えた。口をかたく結んだ頼政の表情は謀破れた無念さはとどめず、穏かなものがあったという。再び開いた唇は辞世の歌を詠んだ。

埋木うもれぎの花咲くこともなかりしに
  みのなるはてぞ悲しかりける

 老人の手に刃がえて光り、頼政はうつ伏した。涙をぬぐった長七唱の太刀が振られた。主君の首を包んで小脇に抱えた長七唱は走り去った、今やこの首を何んとしても敵に渡したくないだけである。人気のない河原に出ると、彼は大石を拾い、首をくくりつけると宇治川の底深く沈めたのであった。
 宮の勢を破り頼政一味の大将たちを討ちとった平家は、何んとかしてあの競の滝口を生け捕りたいものと機会をうかがっていたが、もとより心得ていた競は存分の戦で敵を数多倒すや腹かき切って自害した。また円満院大夫源覚は[#「円満院大夫源覚は」はママ]、もう宮も遥か落ちたであろうと、右手に大長刀、左手に大太刀を持って敵中を突破、宇治川に出るや水にもぐると物具一つ失うことなく対岸に着いた。そして小高い所に走りのぼると大声で嘲弄した。
「どうじゃ平家の者ども、ここまで来られたら来てみるがよい」
 しばらくからからと笑うと、三井寺へ帰っていった。
 この乱戦の中で、平家勢の飛騨守景家ひだのかみかげいえはさすが歴戦の強者だけあって、素早く判断を下した。この戦いにまぎれて高倉宮は奈良へ逃げられたにちがいない、今なら間に合う、とりすぐった精兵四、五百騎を引きつれると馬に鞭をあて、鐙をけって疾駆した。蹄の音どうどうと急追する景家は、やがて光明山こうみょうせんの鳥居付近でおよそ三十騎ばかり宮を守ってひたすら落ちる一群を見つけた。それっとばかりに矢が雨のように宮の周囲に降る。両者の距離はたちまちつまった。宮のお伴鬼佐渡、あら土佐、刑部俊秀必死に防ぎ戦ううち次々と討死、一本の矢が宮の脇腹を射抜いた。体を折って馬から落ちた宮にわらわらと敵兵駆けより、宮の首はあげられたのであった。
 この時、宮の一行が知らなかったことがある。興福寺の援軍はすでに出発していたのであった。大衆七千余人武装して宮を迎えに出ていたが、先陣は木津まで進んでいた。宮の討たれた光明山鳥居との距離は、僅かに五十町である。伝令が宮の最後を伝えたので興福寺の大衆は引き揚げたのであるが、僅か五十町の間をもちこたえられず果てられた宮のご運こそ痛ましい限りである。

若宮御出家


 三位入道、渡辺などの党を殲滅した平家の兵たちは、三井寺の大衆もまぜておよそ五百ほどの首をあげた。頼政の首級は遂に発見できなかったが、彼の子息たちの首はすべて探し出された。太刀、長刀の切先にこの首を突きさした平家の軍勢は勝鬨かちどきをあげ、勇みわめきながら帰途についたが、その騒ぎは大きかった。斬り落した首をかかげた軍勢が六波羅についたのは夕方近かった。首実験は[#「首実験は」はママ]簡単にすんだが、問題になったのは高倉宮の首級である。宮の世に隠れたような生活から御所に出入してその顔を知っているものは少い。先年宮が病気のとき召された医者典薬頭てんやくのかみ定成がいるはずである、あの者なら首を確認できようというので、使いが走ったが、ただいま病の床に伏しているのでお役には立てない、と申したきり出てこない。そこで宮の情を受けた女が求められた。ここに宮が長年寵愛しつづけて、宮の子も多く生んだ女房が漸く見つかり、これなら見損じはあるまいと呼び出された。宮の首を一目見たこの女房は、袖を顔に押しあてるとそのままうつぶした。肩が大きく波打ち、こらえきれぬ嗚咽おえつがもれる。宮の首は確かめられたのである。
 一方、平家首脳の間では、高倉宮の子供たちが八方手をのばして追求された。宮には腹違いの子供が多かったのであるが、その中に八条女院に仕えていた伊予守盛教の娘で三位局さんみのつぼねと呼ばれた女房には、今年七歳の若宮と五歳になる姫宮がいた。清盛入道の弟いけの中納言頼盛よりもりは使いとして八条女院の御所を訪ね女院に言上した。
「姫宮については何も申しませぬ。若宮を当方に引渡して頂きとう存じます」
「今はもう遅うございます。若宮お召出しという噂がここにも伝わった暁方、乳母たちが浅はかな考えから若宮を連れ出してしまいました。この御所にはおりませんし、私もどこへかくれているのか知りませぬ」
 と女院は答えた。もちろんこれはかくまうがための方便であったが、頼盛が仕方なくこの旨を入道に伝えると、清盛は声を荒らげていった。
「お前も何んという人の好い奴だ。若宮があの御所にいなくてどこにいる。あそこにいないというなら武士どもをやって、も一度探し出してまいれ」
 こうした中で若宮は女院に悪びれるところなく申しあげた。
「これほどの大事になりました以上、もはや逃げかくれいたしますることはできませぬ。どうか私を六波羅へさし出して下さいませ」
 若宮の子供とは思えぬ毅然きぜんとした言葉に女院は涙を新たにした。
「七つ八つの年頃の子といえばまだ聞き分けのない頃、自分のための騒ぎと知ってこんなことをいうのを聞くのは悲しいこと、六年も七年もの間、わが子のように慈しみ育ててきたのに、今このような辛い目に会おうとは」
 と泣かれて、六波羅へ若宮を渡す気持にはなられない。そこへ再び頼盛が来て申しあげたので、女院もとうとう、あきらめられた。
 その当日、若宮の母三位局は、朝早くからわが子のそばにつききっていた。泣くなく着物を着せ、髪を何遍も丁寧にくしけずる、わが子の手にふれ、肩にふれ、顔を両手でおさえて離さなかった。六波羅からの車に若宮は乗せられた。女院をはじめ、局の女房、童女にいたるまで涙とともに見送った。若宮の車が六波羅につき車から降されたとき、前右大将宗盛がその姿を見つめた。しばらくして父清盛に宗盛はいった。
「前世の宿縁とも申しましょうか、若宮を一目いま見まして宗盛胸が痛みました。余りに痛わしく存じます。若宮の命を助けても大きな影響はもはやありますまい。どうかこの宗盛に若宮の命をおあずけ下さいませぬか」
 この言葉に清盛は考えこんだ。恐らく彼は宗盛のいう前世の宿縁など問題にしていなかった。彼の頭は高倉宮謀叛と頼政一味の蹶起けっき、この事件が影響を及ぼす政情の推移、あるいは諸国の治安の紊乱、一代にして築いたおのが地位など考えぬいたであろう。宗盛には父の前に坐っている時間が、おそろしく長く思われた。やおら清盛はこまねいた腕を解くとそっけなくいった。
「それならさっさと出家させてしまえ」
 宗盛からこの知らせを受けた女院は、喜ぶには余りにも大きな衝撃をうけていたのか、顔色を変えたまま、
「何の異存がありましょう、ただ早くして下されませ、ただ早く」
 とくり返すばかりであった。
 こうして若宮は髪を落し、法師の姿となって仁和寺にんなじ御室おむろの弟子になった。後に東寺とうじの一の長者安井宮の大僧正道尊といわれた人は、実にこの若宮であった。

通乗とうじょう沙汰さた


 また高倉宮の子は奈良にも一人いたが、守護役の讃岐守重秀さぬきのかみしげひでが出家させて、北国へ逃れ落ちていった。後に木曽義仲が京へ攻めのぼるとき皇位につけようと還俗げんぞくさせたので、還俗の宮とも、木曽の宮ともよばれたのである。
 昔、通乗という人相の達人がいたが、宇治関白頼通、二条関白教通の相を見て、三代の天子の関白となり八十歳長寿を保つといったが、見事これに違わなかった。この達人が高倉宮の人相は皇位につかれるべき御相だなぞといっていた。人々は人相を占った通乗のことをさまざまに噂しては、以後信頼を寄せなかったのである。
 さて清盛は事態が収まると恩賞を行った。まず宮の謀叛調伏について必死に祈念した高僧たちにそれぞれ位を与えた。重盛の[#「重盛の」はママ]子侍従清宗は三位に叙せられたが、その辞令には、
源以仁みなもとのもちひと、並びに三位入道頼政父子追討の賞」
 とあった。源以仁とは高倉宮のことである。皇子を討った上に臣下扱いの姓を与えるなど、あさましい行ないの限りであろう。

ぬえ


 源三位入道頼政は、摂津守頼光から五代目の子孫三河守頼綱の孫、兵庫頭ひょうごのかみ仲政の子である。保元の合戦のとき朝廷側につきさきがけしたが別に恩賞はなく、平治の乱においても親類などを捨てて合戦に力をつくしたが、みるべき恩賞は与えられなかった。大内守護として長年勤めていたが、昇殿は許されなかったのである。年すでに老いた時、一首の歌を詠んだ。

人知れぬ大内山の山守は
  がくれてのみ月を見るかな

 この歌が目にとまり昇殿を許されたうえに、正下四位を与えられたが、頼政はさらに三位の位にのぞみをかけた。

昇るべきたよりなき身はした
  しいを拾いて世をわたるかな

 そして念願の三位に進み、出家したので三位入道頼政といわれたが、時に七十五歳である。
 この頼政には特に有名な手柄があった。仁平の頃、近衛院が位にあった時のことである。天皇は毎夜うなされ、おびえ続けていた。高僧貴僧が命じられて大法秘法を徹宵行ったがその効験は見えない。天皇は毎夜およそ午前二時頃、東三条の森の方角から黒雲が、ひとむら湧き起り恐しい早さで飛来して御殿の上を蔽うと、ひどく苦しまれるのであった。
 高僧たちの修法はさっぱりとしるしがなく、天皇の毎夜の苦しみは一向になくならぬのにあわてた公卿たちは、深刻な顔で会議を開いた。席上、昔の話が出て、堀川天皇が夜なよなおびえられたことがあったが、時の将軍源義家朝臣は南殿に宿直とのいしており、御悩みの刻限にいたるや弓弦を三度響きわたらせると、高声で、「前陸奥守さきのむつのかみ源義家」と名乗ると、弓勢に劣らぬ裂帛れっぱくの気勢は聞く者の身が総毛立ち、天皇の苦しみも俄かに軽くなったという、との意見があった。しからばこの先例によるべしと、武士の警固が行なわれることになった。源平より選ばれた中に頼政も入っていたが、この時まだ兵庫頭であった。
「宮中に武士をおくのは、反逆のものを退け、勅に背くものを追討するのを本務とする。目に見えぬ化性の退治とはまだ聞き及ばぬこと」
 と極めて不服そうであったが、勅命とあらばいたし方なく参内した。
 頼政はかねて信頼をよせている郎党、遠江国の住人猪早太いのはやたただ一人を連れた。この男に鷹の羽の矢を持たせ、自分は二重ふたえの狩衣、山鳥の尾ではいだ鋒矢とがりやを二本、重籐しげとうの弓を持った。この鋒矢二本というのは、雅頼弁がらいのべんという公卿が変化へんげのものを退治るのは頼政であろうといったので、もし一本で妖魔を射損じたなら、残る矢であの雅頼弁の細首を射抜こうと決意したものであった。
 南殿にきた頼政は、猪早太をかたわらに控えさせると空を仰いだ。静かに晴れた夜空である。変化飛来の噂など信じかねる穏かな夜であった。変化退散の仕事は僧侶にあるはずだ、弓矢とるこの身は、などと頼政の心中には恐らく不平が渦巻いていたであろう。夜は更けていった。午前二時近くか、風のないのに木々の梢が立ち騒ぐ。俄かにきっとなって御殿の上を仰いだ頼政の顔は蒼白かった。噂にたがわぬ黒雲ひとむら三条の森から飛び来り、ぴたりと御殿の空を蔽う。鋒矢弓につがえて黒雲を凝視すれば、その中程あたりに怪しき物の姿が隠顕する。灯のもれる主上の室ではお苦しみの声が高まるような気がする。やがて物音は絶えた。陰鬱な風が音もなく頼政の衣を吹きぬけたとも思えた。かっと見開いた頼政の目に化性のおぼろな姿が次第に輪郭をとってきた。射損じたらわが命はないであろう。彼の弓は満月のように引きしぼられた。南無八幡大菩薩、と心に唱えれば鋒矢は弦を離れた。弦が鋭く鳴った。黒雲の中に目にも止まらず吸いこまれて行く鋒矢が消えたとみるや、一声異様な叫びがひびき、どうと地に落ちてきたものがある。してやったりと叫んだのは頼政である。ぱっと走り寄った猪早太、もがく化性のものをおさえるや刀で柄も通れと突き刺した。一度、二度、早太の刀は九度まで獲物を貫いた。
「頼政仕止めたり」
 の高らかな声に、人々は手に手に炬火かがりびを持って駆けよってきた。恐るおそる眺めると、見たこともない異形の化物である。頭は猿、胴は狸、尾は蛇であり、四つ足は虎の如く、鳴く声はぬえに似ていた。
 御悩み快癒された天皇は、喜びのあまり獅子王ししおうという剣を頼政に賜った。宇治左大臣頼長がこれを頂いて御前の階段を半ばまで降りたとき、ほととぎすが鳴いて空を渡った。頼長は、しばらく足を止めたが、

ほととぎす名をも雲居にあぐるかな

 と突然詠みかけた。皇居の空に名をとどろかした頼政をほととぎすにかけたのである。これを聞くと頼政、つと右膝をつき、左の袖をひろげると月を斜めに見上げた。

弓張月のいるにまかせて

 とよどみなく下を詠む。月にかけたまことに謙虚な態度である。居あわす人々は文武にすぐれた頼政に感動したのであった。
 また応保の頃、二条院が位にあったとき、鵺という怪鳥が宮廷で鳴き、天皇をひどく悩ましたことがあった。再び頼政が召された。時五月二十日すぎの夜、ぬばたまの闇である。弓を持った頼政が久しく待つと、鵺は一声高く鳴いた。所在を確めようと空を見上げたが鵺は二度と鳴かなかった。御殿の屋根さえ夜空に溶けこむ闇夜である。さすがの頼政も弱ったが、やがて肯くと鏑矢かぶらやを弓につがえた。先程鳴いたと覚しき闇空にひょうと放った。うなりをあげて飛ぶ鏑矢に驚いたか、果して鵺は高く鳴いて飛びあがる。間髪を入れず頼政の弦から小鏑矢が鋭い音をひいて飛べば、鵺はばったり落ちる。どっと歓声が宮中にわいた。天皇は大層喜ばれて頼政に御衣を賜ったが、彼の肩に御衣を着せた大炊御門公能おおいのみかどのきんよしは、

五月さつきやみ名をあらわせるこよいかな

 と詠みかけた。

たそがれ時も過ぎぬと思うに

 こう答えたのは頼政である。歌にもすぐれていた彼の面影を伝えるものであろう。
 頼政はその後伊豆国を賜わり、その子仲綱を伊豆の受領ずりょうとして自分は三位にのぼり、丹波国の五箇の荘、若狭の東宮川とうみやがわなどを所領として、誰もが晩年は安らかに過すと思っていたが、このたびの謀叛で自分も子孫も亡ぼしてしまったのである。

三井寺炎上


 五月二十七日、三井寺攻略の軍が起された。奈良興福寺と三井寺互に呼応して謀叛の宮を受け入れ、あるいは武装して出迎えるなど、これは朝敵の行為であると平家は断じ、共に討つべしとの声が高まったが、まず三井寺からと軍が編成された。大将軍は頭中将重衡、副将軍に薩摩守忠度、その勢合せて一万余騎、三井寺向って進発した。寺の衆徒一千余人、死を決してこれを迎えた。逆木さかもぎを設け、関所を数多くつくった。戦は朝六時から矢合せで始められ、十分の一の小勢ながら死物狂いで防戦する三井寺の衆徒に平家も手をやいた。日が暮れ夜に入っても戦は激しくなるばかり、すでに三百余人が討死した寺側の防備のうすいところを狙って夜襲を敢行した攻略軍は、遂に寺に攻めこんだ。寄手の兵が寺の坊という坊に火を放ち始めれば、たちまち三井寺は巨大な焔に包まれた。生き残った衆徒は四散し、寺の火災はいつ止むとも知らなかった。
 これで灰燼かいじんに帰したのは、本覚院、成喜院じょうきいん、真如院、鐘楼、護法善神の社壇、新熊野の宝殿など、もろもろの堂舎塔廟六百三十七むね、それに大津の民家一千八百五十三家、この火災で智証大師が唐からたずさえた所の一切経七千余巻、仏像二千余体は灰となった。
 三井寺は天智天皇の御願寺ごがんじ、その後智証大師がここを伝法灌頂かんじょうの霊所として園城寺おんじょうじを建てた尊い場所である。が、今はもう焼跡しかない。修行の鈴の音も絶え、仏前にそなえる水を汲む人影もない。三井寺の首長円慶法親王は別当を免ぜられ、役僧も免官、堂衆三十四人は流罪に処せられた。
 このような国土の騒ぎ、天下の乱れはただごととは思われない。平家の世も末になる前兆か、と人々はひそかに噂し合っているが、噂はもう高声で話される始末である。





底本:「現代語訳 平家物語(上)」岩波現代文庫、岩波書店
   2015(平成27)年4月16日第1刷発行
底本の親本:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社
   1960(昭和35)年2月12日初版発行
初出:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社
   1960(昭和35)年2月12日初版発行
※「太刀」と「大刀」の混在は、底本通りです。
※第四巻「脩範」と第八巻「長教」の混在は、底本通りです。
※第四巻「板東武者」と第七巻「坂東声」と第十一巻「坂東武者」の混在は、底本通りです。
※著者名は、本来は「尾※(「山+竒」、第3水準1-47-82)士郎」です。
入力:砂場清隆
校正:みきた
2022年3月27日作成
2022年5月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード