現代語訳 平家物語

第五巻

尾崎士郎訳




都うつり


 京都の街は公卿も庶民も動揺した。治承四年六月三日の日、天皇は福原へ行幸し、都うつりさせ給うとのことである。都うつりの噂はかねて流れてはいたが、まだまだ先のことであると人々は思っていた。それが三日ときまっていたのを一日早められた。ことの意外に京中はあわてふためいた。院政に訣別し新帝を擁して平家独裁政府樹立にふみ切った清盛の意志は固かった。六月二日午前六時、天皇は御輿にのった。年僅かに三歳の幼児である。無心に乗る帝と共に同乗したのは母后ぼこうではなく御乳母おんめのと帥典侍殿そつのすけどの一人、そして中宮建礼門院、後白河法皇、高倉上皇も御幸ごこうになれば、太政大臣以下の公卿殿上人、平家では入道清盛以下一門がつき従った。一行は翌三日福原に入った。入道の弟いけの中納言頼盛よりもりの山荘が皇居にきめられ、四日頼盛はその賞として正二位に任ぜられた。
 清盛は諫められたこともあったので、漸く後白河法皇を鳥羽の北殿から出して京都へ移したが、法皇の御子高倉宮の謀叛を大いに怒り、このたび福原への御幸をい、四方に板垣をめぐらし、入口を一つだけ開けた三間四方の粗末な板屋を作り、ここに法皇を押しこめた。守護の武士としては原田はらだの大夫種直ただ一人だけつけておき、容易に人の出入りも出来ない有様である。大人たちは御所と称していたが、何事も現実的に表現する子供たちは、これを牢と呼んでいた。法皇が世を厭われたのは当然であろう。あれほど強かった政治への執心も今は全く薄れ消えたかに思われた。
「今の世の政治にかかわろうとは露も思わぬ。ただ霊山名刹を廻って修行し、心慰めたいものである」
 と側近にもらされていた。
 さる安元以来、多くの大臣公卿を殺し、あるいは流し、法皇を押しこめたり、第二皇子高倉宮を討ちとるなど、悪逆非道の行ないを尽している平家の残された悪行は、都うつりだけである。それでこの挙に出たものであろうか、などと人々はいい交していた。
 もっとも都うつりには多くの先例がある。神武天皇以来代々の帝王が都をうつすことは三十度にも四十度にもなる。桓武天皇の御代、延暦えんりゃく三年十月三日に、奈良の都、春日かすがの里から山城国長岡にうつり、その十年の正月に大納言藤原小黒麻呂おぐろまろ、参議左大弁紀古作美さだいべんきのこさみ大僧都玄慶だいそうずげんけいらをこの国の葛野郡宇多村かどのこおりうだのむらに遣わしたところ、
「この地の形相をみまするに、青竜しょうりゅう白虎びゃっこぜん朱雀すざく玄武げんむの四神の配置にふさわしき土地、帝都の地としてまことに適当と存じます」
 という奏上があった。そこで天皇は愛宕郡おたぎのこおりにある賀茂大明神にこれを告げ、延暦十三年十一月二十一日、長岡の都からこの京へうつられ、以後帝王三十二代、星霜三百八十余歳を数えたのである。これ以来代々の天皇は、諸所に都をうつされたが何れもこの京都ほどの地はなかった。京都を殊の外気に入られた桓武天皇は、大臣公卿、諸国の才人などに命じて、土で八尺の人形をつくり、鉄の鎧兜を着せ、弓矢をこれに持たせて東山の峰に西向きに立てたまま地に埋めた。この都は永久に続くべしという桓武天皇のご祈念であった。
「末代になるともこの地から都うつすなかれ、うつさば守護人となりてこれを罪せよ」
 という意味であった。それ故天下に大事の起る時、常にこの塚が鳴動するのである。平ら安き都と書いた平安城は京都のことであるが、平家の先祖桓武天皇が自ら定められ、愛された土地から都をうつすとは、情ないことである。
 先年嵯峨天皇のとき、先帝の平城天皇が都を他国へ移そうとされたことがあったが、公卿や諸国の人民こぞって反対したので沙汰止みとなったのであった。いま入道相国は大した理由もなく、臣下の身分でこれを敢て行なったのである。
 京都はすばらしい都であった。王城守護の鎮守はこの地を安泰に守り、京の南北には霊験あらたかな寺々いらかを並べて壮観を極めた。五畿七道へ通じる八達の路は開けて交通の要衝であり、百姓万民心を安んじて生業にはげむことのできる土地であった。
 いまその面影はない。軒をつらねた家々は傾き、たまに訪れる人は勝手のちがう様子に道に迷って途方にくれるばかりである。都うつりの時、新都に住家をつくるため、壊せる家は壊して材木にしていかだを組み、賀茂川、桂川に浮べて運び、あるいは持てる家財を運んだあと叩き壊して川に打ち捨てたのであった。
 かくて花の都も、いまや荒れた田舎である。ふるき都の内裏の柱にこれを惜しむ歌二首が記されてあった。

百年ももとせを四かえりまでに過ぎ来にし
  おたぎの里の荒れや果てなん

咲き出ずるはなの都をふり棄てて
  風ふくはらの末ぞあやうき

新都


 この年六月九日、新都の政事始めとして、造営の計画が練られた。上卿しょうけいには徳大寺の左大将実定卿じっていのきょう土御門宰相つちみかどのさいしょうの中将通親卿とうしんのきょう奉行弁ぶぎょうのべんには、前左少弁行隆さきのさしょうべんゆきたかが任ぜられ、役人多数引きつれて土地の検分を行ない、和田の松原の西の野を九条まで区割りしたところ、一条から五条までは土地があったが、それ以上の場所がない。この報告を受けた政府では、それなら播磨はりま印南野いなみのか、この摂津の昆陽野こやのかなどと公卿会議の席上でも討論されたが、実行に移されるとも見えなかった。新都建設は進まず、人心は浮雲のごとく、すでに住んでいた民はその土地を失い、新たに移ってきたものは家の建築に苦しみ、何れも皆心落ちつかずに茫然ぼうぜんとなる始末である。夢のごとき有様といえようか。ここに土御門となった宰相中将通親は、再三にわたって開かれた会議で強く発言した。
「異国の例では三条の大路を開き、十二の洞門を立つと書物にある。土地検分では五条あるという、五条の都に内裏だいりが建てられぬ道理はない、まずさと内裏をつくるべきだ」
 これが会議の決定となった。清盛は五条の大納言国綱に臨時に周防すおうの国を与え、内裏の建設を命じた。
 この国綱は当代屈指の富豪であったから、内裏建設はもとより困難ではなかったが、使役される人民の苦しみは尋常一様ではなかった。かかる乱世に国を遷し内裏を造営するなど、時宜に適せぬことである。その昔、民の炊煙の乏しきを憂えられて、内裏には茅をふき、貢物を免除されるなど、上代の聖君は民を恵み、国を富ますことに心を払われたのであるが、それに比べて今のやり方は、などと人々は話し合ったのである。

月見


 しかしながら新都の建設は少しずつ進んでいった。六月九日起工の式、八月十日上棟じょうとうの式、十一月十三日遷幸と定められ、人々も多少はゆとりをもってきた。福原にどうやら新都らしいおもかげが出てきたが、凶変の重なった夏もすでに過ぎ、秋はすでに半ばである。人々は仲秋の月に心を慰めた。福原の新都に落ちついた公卿たちは月見に出かけた。かねて名所といわれたところや、そのかみの源氏の宮を慕って人々は須磨から明石へ浦づたいに赴いた。白浦しらら吹上ふきあげ、和歌の浦、住吉、難波、など景勝の地に月を賞ずるものもあれば、尾上おのえの曙の月を惜しむものもいた。
 もとの都、京に残った者は、これも伏見、広沢で月を仰いだ。なかでも徳大寺の左大将実定は旧都を忘れかねて、八月十日すぎ福原を立ち京へ上った。京に入った彼は、二月のあいだに変り果てた昔の都に心を痛めた。多くの家は取り壊され持ち去られて、たまに残った邸の門前に草が茂り、庭をおおう夏草には露をおびている。かつて持主が誇った庭園はよもぎの山と化し、かやが風にゆらぎ、黄菊、紫蘭しらんなどの野草が僅かに秋の風情を伝えるばかり。草むらに鳴く虫の声も古き恨みを告げている。徐々に賑いをみせてきた新都福原にひきかえ、荒れた田舎がここにあった。
 実定の身内のもので、この京に残っているものは近衛河原の大宮ただ一人、荒野をさまようにも似た心地の実定は大宮を訪れた。従者が大門を叩く。
「どなた、蓬の露を払ってまで訪れる人もないのに」
 とは女の声、あとは一人呟くともとれぬ声である。
「福原から大将殿がお見えでございます」
「まことでございましょうか、大門には錠がかかっております。東の小門からお入り下さりませ」
 東の小門から内に入った大将は、南面の格子を開き琵琶を弾いている大宮を認めた。寂しさのあまり、こうして一人昔のことを偲んでいたのであろうか。すっと室に入った大将に大宮は夢とばかりに喜んだ。
 この席に、大宮に仕えている待宵まつよいの侍従がよばれた。彼女はある時御所で、
「恋人を待つ宵、帰える朝、いずれが哀れまさろうか」
 との問に、

まつよいの更けゆく鐘の声きけば
  かえるあしたのとりはものかは

 と詠み、待つ宵のやる瀬なさを歌ったので、以後待宵の侍従と呼ばれた。三人でつもる話がはずみ、夜は更けていった。この夜、大将実定は、古き都の荒れ行くさまを今様いまように歌った。

ふるき都を来て見れば 浅茅あさじが原とぞ荒れにける
月の光はくまなくて 秋風のみぞ身にはしむ

 庭に生い茂る野草が月明らかに照らし、草をそよがす秋風に降る虫の声が哀れにまじる。今様を三度くり返すうちに、大将も大宮の眼にも涙が浮んだ。侍従は袖で顔をおおった。
 一夜明かした実定が暇を告げた。しばらくして供の蔵人くらんどを召した彼は、
「侍従待宵はどう思っているのだろう、あまりに名残惜しく見えたから、お前戻って何か申してまいれ」
 蔵人が走り帰って侍従にあい、

物かはと君がいいけんとりの音の
  今朝けさしもなどか悲しかるらん

 女房はただちに詠み返した。

待たばこそ更けゆく鐘もつらからめ
  帰るあしたのとりの音ぞうき

 実定のところにもどってこの由をつたえると、大将は大いに感心したが、以後この蔵人は「ものかはの蔵人」と呼ばれたのであった。

物怪もっけ


 平家が福原へ都をうつしてから、どうしたことか清盛は妖怪変化へんげの類を見るようになった。さして体が悪いというのではないが、胸騒ぎがする。夢を見るたびにうなされる。朝起きてみると汗をしたたるほどかいていることが多くなった。あるとき、清盛が寝所におり不図頭をめぐらすと、大きな目が清盛をにらむ。思わず起きあがると、一間四方もある巨大な顔だけの化物が部屋の一方を壁のごとく占めて、寝所をのぞきこんでいた。強気の清盛がはったとにらみ返すと、すうっと消えた。また、岡の御所というのは新築したばかりで、付近にも邸内にも巨木というものがないのに、ある夜轟然ごうぜんと大木が倒れる音が邸をゆるがす、と今度は凡そ二、三千人にもなろうか、人々がどっと笑う声が夜空にひびき渡る。人々はおそれ、おののいた。天狗てんぐの仕業ではないか、というので警固の武士を揃えた。昼五十人、夜は百人の武士が蟇目ひきめの当番と名づけて、毎晩、威嚇の音高らかに矢を射させた。空に鳴る矢が天狗のいると覚しきあたりに風を切れば、物音はしないが、あらぬ方に向って斉射するとどっと笑いが虚空にひろがる。人々はわが耳を疑った。
 またある朝、清盛が寝床から起きぬけて妻戸を押し開いて小庭の内を眺めると、こはいかに、死人の髑髏どくろが小庭を埋めつくしている。やや、奇怪、と目を見張れば、その髑髏は上になり、下になり、骨と骨のふれ合う乾いた音が不気味に小庭に満ちみちている。清盛は、
「誰かあるか、誰かあるか」
 と怒鳴ったが、家来は一人も出てこない。そのうちに互に上へ下へと動き廻る髑髏が、やがて一つにかたまり、庭に溢れるほどの山になるとみるやたちまち一つの大髑髏に変った。虚ろな眼をかっと開き、歯をかすかに鳴らして清盛を見る。と大髑髏に何千何万の人の眼が現れ出でて、あたかも生きた人のように、うらめしそうに清盛をにらむ。清盛は、しかし珍奇な見世物でも見るように平然としていたが、数万の眼が彼をにらめば清盛もきっとにらみ返す。瞬間朝陽に溶ける霜のように跡かたもなく髑髏は消えた。
 入道は愛馬を持っていた。相模国の住人、大庭おおばの三郎景親かげちかが関東八カ国随一の馬として献上したもので、黒い毛並だが額が少し白い、そこで望月もちづきと呼ばれた名馬である。清盛はそれが気に入って第一のうまやに入れ、馬番を多数つけて大切にしていたが、一夜のうちに鼠が望月の尾に巣をつくり子を生んだ。これはただごとではない、と占わせると、
「重き御慎おんつつしみ」
 と出た。さすがの清盛も所有する気になれず、陰陽師おんようしの安倍泰親に与えてしまったが、鼠が一夜に巣をつくるのは昔にもあった。天智天皇の御代に異国の凶賊の蜂起したことが「日本書紀」に見えている。
 またげん中納言雅頼卿がらいのきょうのもとに使われている若侍が見たという夢は、実に不吉を極めた。その夢とは、宮中の神祇官の庁舎とおぼしきところで貴人たちが評議をしていたが、そのとき平家の味方らしき末座の貴人を追い上座にある気品高い老人がいうには、
「近頃、平家があずかるところの節刀を取りもどし、伊豆の国の流人るにん前右兵衛佐頼朝さきのうひょうえのすけよりともに授けようぞ」
 という。傍らの老人も進み出ると、
「その後はわが孫にも賜れ」
 という。若侍が夢の中である翁にその意味を問うと、
「追われたる末座の貴人とおぼしきは厳島の大明神、節刀を頼朝に賜うといわれたのは八幡大菩薩である。また、わが孫にも賜れというは春日の大明神である。わしか、わしは武内の明神じゃ」
 という。余りに奇怪と身もだえしたときに夢がさめたと若侍は人に語った。この話が人から人に伝わり、清盛の耳にとどいた。清盛の使者が立ち、雅頼に、若侍の話を詳細に聞きたいから、当方へ差し出されたいと申し出た。しかしすでにかの若侍は、後難を恐れて逐電ちくでんして行方は誰も知らない。雅頼は清盛のところに参上して、そのような噂は作りごと、全く事実でありませぬ、と申したので、この夢の話は不問とはなった。
 しかし奇妙というか、暗合というか、不思議なことがおこった。清盛は枕もとから銀の蛭巻ひるまきをした小長刀こなぎなたを離さず、常に寝所に守り刀として置いていたが、ある夜急に消えた。盗まれたかと八方調べたが行方が知れぬ。この小長刀は清盛がまだ安芸守であったとき、厳島神社に参拝した折、霊夢があらわれて、現実にこの小長刀を大明神から授けられたものであった。この紛失は、清盛が勅命に背いたので取返されたのであろうかと、噂されるようになった。

大庭おおばが早馬


 治承四年九月二日、相模国の住人大庭三郎景親かげちかが、福原へ差し向けた早馬のもたらした報告は、新都を着々建設して、平家独裁の政府を樹立し一門繁栄の夢をむさぼろうとした平家にとって、驚くべき報告であった。
「さる八月十七日、伊豆国の流人前右兵衛佐頼朝、しゅうとの北条四郎時政を味方に引き入れ、伊豆国の目代もくだい和泉判官兼隆いずみのはんがんかねたか八牧やまきの館に夜討かけ討ち果しました。その後、土肥どひ、土屋、岡崎などの兵、合せて三百余騎と共に石橋山に立て籠りましたが、景親、平家に心を寄せる味方一千余騎を引具して石橋山に押し寄せ、激しい攻撃を加えましたところ、兵衛佐の勢ちりぢりに敗れて、彼は七、八騎で土肥の杉山へ逃げ籠りました。これに味方しました三浦大介の子ども三百余騎は、平家の側に立った畠山はたけやま勢五百余騎と由井ゆい小坪こつぼの浦で激戦を交えましたが、畠山勢が敗れ武蔵国へ退却しました。その後、畠山の一族や、河越、稲毛、小山田おやまだ、江戸、葛西かさいなど七党の兵二千余騎が集められて、再び三浦の衣笠きぬがさの城に攻撃をかけ、一日一夜攻め続けて大介は討ちとり、残った子供たちは九里浜の浦より舟で安房、上総へ渡った、との知らせが参っております」
 東国の一地方の局部的戦闘にすぎぬではないか、いや源氏勢のあいついだ蜂起は無視できぬ、今のうちに芽を刈るにしくはない、などと一見勝利を伝えた大庭の早馬の注進は、福原の平家の間にさまざまな波紋を呼んだのであった。
 事実、遷都して、しばらくこの些か荒涼とした土地にいるうちに、平家のものは退屈してきた。もとより新都建設への情熱などあろうはずがない。平家のみでなく若き公卿や殿上人たちでさえ、何事か起ればよい、事変が起れば自分がまず対手となろう、などと刺激に飢えた心を持て余していたのであった。こうした他愛のない放言の中にあって、多くの人は現地の詳報と情勢分析を求めていたが、丁度大番役で在京していた畠山庄司重能はたけやまのしょうじしげよしがいった。
「余りご心配になることはあるまいと存ずる。確かに北条は頼朝と親しくなっていたので、彼に味方することは考えられますが、よもや朝廷に弓を引くことはありますまい。待たれよ、いまに異る吉報がまいるぞ」
 この確信あり気な答えに、
「お話はもっとも至極」
 と今にも吉報が来でもするように首をのばす公卿もおれば、
「いやいや、これは天下の大事件になるのではなかろうか」
 と深刻に考えこむやからもいる。ともかく早馬の注進は一つの衝撃を福原に与えた。
 その中で最も激怒したのは清盛である。青筋を立ててののしる清盛の姿をみては、人々も何かただごとでないものを感じた。
「そもそも頼朝という奴は、あの平治元年十二月、父義朝よしともの謀叛で死罪になるはずだったのだ。池禅尼いけのぜんにの嘆願でようやく死一等を免れて流罪になった奴だ。奴の命を助けたのは誰と思っているのだ。この大恩を忘れて当家に向って弓を引き矢を放つ、畜生に劣る奴じゃ。こうした奴を神も仏もお許しになるはずがない、頼朝の上にはただちに天罰が下るであろう」
 清盛の怒りはとどまるところを知らず、あらゆる呪詛じゅそを頼朝に浴せかけたが、側近もこんなに怒っている清盛を見たことはまだ一ぺんもなかった。

文覚もんがくの荒行


 清盛のいうように頼朝はさる平治元年十二月、父左馬頭さまのかみ義朝の謀叛によって殺される運命にあったが、池禅尼の必死の嘆願で死を免れ、十四歳のとき、永暦えいりゃく元年三月二十日、伊豆国北条ほうじょうひる小島こじまに流されたものである。頼朝はここで二十余年の春秋を送り迎えた。これまで静かに流人の生活を送ってきた彼が、何故今年ことしになって兵を起し、平家に立ち向ったのか。それは高雄たかお山の[#「高雄山の」は底本では「高尾山の」]文覚上人の勧めがあったからである。
 この文覚上人というのは、渡辺の遠藤左近将監茂遠えんどうさこんのしょうげんもちとおの子で、もとは遠藤武者盛遠えんどうむしゃもりとおといって上西門院じょうせいもんいんの家臣であった。ところが十九の年、仏門に帰依する心が俄かにおこり、ただちにもとどりを切り捨て修行に出かけた。この若者は修行とは辛いものと聞き及ぶが、どの位のものか、俺が一つ試そう、辛い修行に耐えるかどうか俺の心が知りたいといって、夏の六月、山里の藪に入って修行した。雲一つない空からぎらつく太陽が照りつければ、きつく大地に風一つなく草の葉一枚もそよがぬ日、山ぞいの藪の中に入ると裸になって大の字に寝ころんだのである。熱気こもる藪の中に吹き出す汗の流るるにまかせて寝ていると、蚊が群がり寄って思う存分血を吸う、あぶが刺し、蜂が刺す、大きな毒蟻どくありが噛み、文覚の五体は、しばらくすると無慚むざんな有様となったが、彼は足の指一つ動かさなかった。こうして飲まずくらわず七日間寝ていた。八日目になると、やおら起きて衣をつけて山を降りた。毒虫の好餌となってゆがんだ顔で人に尋ねた。
「修行とはこの程度の苦しみなのか」
「いや、そんなことを続けていては、命がいくつあっても持ちますまい」
「これしきのことでか」
 といい捨てると再び修行に出かけた。熊野那智神社に参籠しようとしたが、まず修行の始めに世に聞えた那智の滝へ打たれてみようと滝壺のところへ赴いた。
 厳寒の十二月中旬である。熊野は雪におおわれていた。雪降りつもり水氷って谷の小川は音もない、峰々から逆巻き吹きおろす風は身を切り、滝の白糸はつららとなって垂れ下がっている。四方を見上げても白銀一色の世界、梢も見定められぬその中に轟々と瀑布ばくふが地を揺がして鳴っていた。文覚は衣を捨てると、雪を踏み氷を割って滝壺に下り、首まで体を沈めた。みるみるうちに足の手の感覚が失われてゆく。文覚の唇から白い息とともに慈救じく呪文じゅもんが滝音に抗するように唱えられた。こうして不動明王の呪文十万遍を唱え切ろうというのだが、二、三日は忍び耐えた。五日目にもなれば知覚は体から殆んど消えた。やがて失神の文覚が浮びあがると、数千丈の断崖から落下する滝水の勢いにあっという間に流された。刃のように切り立った岩と岩の間を水にもまれ流されること五、六町、流木の如く水にもてあそばれて所詮命はないものかと思われたが、突然何処より現れたか、美しき童子が忽然として姿を見せると、文覚の手を取って岸に引きあげた。これを目にとめた修験者たちは、不思議に思って懸命の介抱を行なった。氷のような文覚の体を焚火で暖めるなど手をつくすと、文覚はほどなく生命をとりもどした。だが生き帰った文覚は修験者たちに礼一ついわなかった。介抱者たちをあたかもおのが修行の邪魔者であるかのごとく、はったと睨まえると大音声をあげた。
「わしはこの滝に三七、二十一日打たれて慈救の呪十万遍唱えるとの大願を立てた。今日はまだ僅か五日目にすぎぬ。七日目も来ぬというのに、このわしを連れ出したのは誰かっ」
 雪を素足で踏んでの文覚の形相と大音声は、修験者たちには天狗てんぐの出現とも見えたのか、彼らは顔色を変えて身をふるわせた。後を振り向きもせず文覚は滝壺に真直にもどっていった。
 再び首まで凍る滝壺に身を沈めた文覚の口から朗々たる呪文が聞えた。二日目、呪文は途絶えがちである。一際高くなったかと思うとばったり消えた。その時降りつづく雪にまぎれて舞い下りたか、八人の童子が姿を現わし、文覚の手をとって引き上げようとする。気のついた文覚は引き上げられまいと掴み争う。半死の人間の激しい抵抗がしばらく滝壺で続き、まもなく、童子たちは姿を消した。最後の気力をふりしぼって呪文を唱えるというより、わめきちらす文覚の姿は、もはや人間とは見えなかったという。その翌日、文覚は凍る水の中で息が絶えてしまった。神聖な滝壺を汚すまいというのか、びんずらに髪をゆった天童二人、滝の上から現れ、香ぐわしくも暖い手で、文覚の頭を撫で、手足の爪先、掌にいたるまで丁寧にさすってやった。すると文覚は夢心地で息を吹き返した。そして、
「貴方たちはどなたなのです、どうしてこの私を憐んで救って下さるのか」
「私たちは大聖不動明王だいしょうふどうみょうおうの御使の、金伽羅こんがら勢多伽せいたかという童子、文覚無上の大願を起して勇猛なぎょうを企てているから、行って力を借してやれとの仰せ、不動明王のご命令で現れたのです」
 と童子の一人が答うれば、文覚はたちまち声を荒らげていった。
「不動明王はどこにおられるか?」
都率天とそつてんに」
 と優しい声で答えると、天童二人笑をたたえてゆるやかに空高く昇って消えた。
 文覚は思わず正座すると合掌した。さてはわがぎょうを不動明王がしろしめすところとはなったか、これなら大願も成就するであろうと勇気百倍、晴れやかな顔で滝壺にもどっていった。果してそれからというもの、文覚の身に瑞相ずいそうが現れた。吹き荒ぶ冷い嵐も彼には春の微風と思われ、凍る滝壺の水も湯のように感じられた。こうして三七、二十一日の大願遂に成ったので、那智神社に千日間参籠、ついに目的を遂げたのであった。その後、大峰に三度、葛城かつらぎに二度、高野こうや粉川こがわ金峰山きんぷせん白山はくさん、立山、富士のたけ、伊豆、箱根、信濃の戸隠とがくし、出羽の羽黒など、日本全国くまなく廻り修行した。この文覚について都人たちは飛ぶ鳥でも祈り落すであろう、刃のように鋭い修験者だと評判しあったのである。

勧進帳


 京に帰ったあと、文覚は高雄の山奥で修行した。この山には神護寺じんごじという山寺があったが、久しい間誰も修繕しなかったので荒れるままに放置されている。春は霞に立ちこめられ、秋は霧の中に捨ておかれ、傷みきった寺の扉は風に吹き倒された。そのかみ称徳天皇の御代、和気清麿が建立したというこの伽藍がらんも、今は落葉の中に朽ち果て、いらかをおかす雨風は、壁が崩れ落ち柱が倒れてむき出しになった仏壇を朽ちさせていた。むろん住持の僧もなく、参拝に訪れる人もないので、この寺の堂内に入るものは日の光、月の光だけである。この神護寺の有様をみた文覚は、何んとしてもこれを再興しようと心に固く誓い、それからというもの勧進帳を手にして檀那だんなを廻り歩き、寄進を募ったのであった。そのある時、文覚は後白河法皇の御所法住寺殿ほうじゅうじどのにやってきた。御奉加賜れと奏上したが、折しも管絃の催しの時だったので、誰もこれを法皇に伝えなかった。いくら待っても一向に返事の気配見えないので、ついに文覚は意を決した。生来不敵、筋金入りの荒法師であったから、誰も取りつがぬものときめてずかずか中庭に踏みこんだ。もとより御前の礼儀作法は知らぬ。よし知っていたにせよ頓着する男ではない。絃が鳴り渡る中で、
「法皇は大慈大悲の君であられる、これしきのことをお聞き入られぬはずはない」
 と勧進帳を引きひろげると、声高らかに読み始めた。高く低く心をこめて弾かれる弦楽を圧するように、文覚のしゃがれた太い声がひびき渡った。
沙弥しゃみ文覚敬いて申す。貴賤道俗の助成を蒙って、高雄山の霊地に一院を建立し、現世来世安楽を願わんとする勧進の状。それおもんみれば真如しんにょは広大、衆生と仏と名を異にするとはいえ、法性ほっしょう随妄ずいもうの雲厚く覆って、十二因縁の峰にたなびいてからこのかた、人間本来の清浄心かすかにして、未だ三徳さんとく四曼しまん大虚たいこあきらかならず。悲しいかな仏日はやく没して、生死流転しょうじるてんちまた冥々みょうみょうたり。人ただ色に耽り酒に耽る。誰か狂象きょうぞう跳猿ちょうえんの迷を取り除くを得ん。徒らに人をぼうし法を謗す。これあに閻魔えんま獄卒の責めを免れんや。ここに文覚、たまたま俗塵を打ち払って法衣を飾るといえども、悪行なお心にあって日夜つのり、善言耳にさからって朝暮にすたる。いたましきかな、ふたたび三悪道に帰りて四生ししょう輪廻りんねに苦しむとは。この故に釈迦の経文千万巻、巻毎に仏種の因をあかして、縁に随い真を明す教法、一つとして菩提の彼岸に至らずという事なし。故に文覚、無常の関門に涙を落し、上下の僧俗を浄土に結縁して、等妙覚王とうみょうがくおうの霊場を建てんとすなり。それ高雄は山高うして鷲峯山じゅぶせんの梢に似、谷しずかにして商山洞しょうざんどうこけ敷くに似る、岩間の清水流れること白布の如く、峰の猿木々の枝に遊ぶ。人里遠くして汚れなく、地形すぐれて仏天を崇むに格好の地、誰を助成せざらんや。ほのかに聞く、童子の砂で作りたる仏塔の功徳、たちまち成仏の因縁となる。いわんや一紙半銭の寄進においてをや。願わくは建立の大願成就して、皇居安泰の願満たされ、都鄙とひ遠近ともに、僧俗ともに尭舜ぎょうしゅんの世の平和を謳歌し、長き太平の世を喜ばん。殊にまた死者の霊魂死の前後、身分の上下に関係なくすみやかに一仏真門のうてなにいたり、法報応三身の功徳集らんことを願う。よって勧進修行の趣、けだし以てかくの如し。
治承三年三月  日
文覚」
 と読み上げたのである。

文覚被流もんがくのながされ


 このとき後白河法皇の御前では賑やかに楽が奏されていた。妙音院の太政大臣は琵琶を弾じながら詩歌をみごとに朗詠していた。按察使あぜちの大納言資賢すけかた和琴わごんを鳴らし、その子右馬頭資時うまのかみすけとき風俗ふうぞく催馬楽さいばらを歌い、四位の侍従盛定もりさだは拍子をとりながら今様いまようを歌うなど、和気藹々あいあいのうちに得意の芸が披露されていた。楽しいざわめきが院中に渡れば、法皇も興がのったのか附歌つけうたを共に歌う。そこへ文覚の音声とどろく勧進帳の読みである。那智の滝に、山の嵐に鍛えた彼の声には、繊細を尊しとした温室育ちの殿上人の声などはひとたまりもなかった。たちまち朗詠の声は消され、調子は狂い、拍子は乱れた。御遊ぎょゆうは中断した。そして威嚇的な文覚の声がひびき伝わる。法皇が顔色を変えて怒られたのも無理はなかった。
「御遊の最中というのに何者だ、まことに無礼なやつ、そっ首掴んで放り出すがよい」
 この仰せに院中の血気ざかりのものがばらばらと進み出た。その中の一人資行判官すけゆきはんがんという男は文覚を認めると大手をひろげて怒鳴った。
「無礼者め、とっとと出て失せい」
 その姿をにらまえた文覚、
「高雄の神護寺へ、荘園一つご寄進頂かぬ限りは、退出いたさぬ」
 という。かっとなった資行判官は、つかつかと文覚に近寄ると衿首えりくびつかんで外へ突き出そうとした。と、文覚は手にした勧進帳を取り直すと烏帽子えぼしをいきなり叩き落し、虚をつかれた資行の胸もとを拳で突き飛ばした。資行はばったりのけぞって倒れた。起き上ると恐怖にかられたのか広縁に逃げあがった。
 そしておもむろに懐に手を入れた文覚は、馬の尾で柄を巻いた刀を出すとさやをはらった。氷の刃がぎらっと光る、抜身を構えた文覚は近寄るものあらば刺さんという態度である。これを取り押えようとする者との間に大立廻りが始まったが、右の手に刀、左手に勧進帳振りかざす文覚は、あたかも両刀を操るように見える。荒れ廻る文覚に御遊も琵琶もあったものではない。院は大混乱となった。
 その時、武者所むしゃどころにあった信濃国の住人安藤武者右宗は、この騒ぎ何事ぞ、と太刀を抜いて走ってきた。これを見た文覚は目を輝かすと勇んで飛びかかった。一歩すざった安藤武者は、ここで血を流してはまずかろうと咄嗟とっさに思案して太刀を取り直すや、峰打ちを文覚の右腕にくれた。打たれてひるんだ文覚に、太刀をがらりと捨てた安藤武者が組みついた。両人ともに剛力のものである。互にえいおうと力の限り上になり下になり転がってもみ合った。文覚力をこめて安藤武者の右腕をぐいと突けば、突かれながら文覚を絞め上げる。その時人寄り集まり、しめたとばかりに手足をばたつかせる文覚を縛り上げた。ほっとした彼らが文覚を引き立てようとすると、文覚は焔を吐くような眼で御所の方をかっとにらむと、大音声をあげた。怒鳴りながら憤怒の形相で躍り上る、夜叉やしゃのような姿である。
「ご寄進なさらぬばかりか、この文覚を痛い目に合わせましたな。必ず思い知らせましょうぞ。三界さんがいに焼ける火、王宮といえども逃れられはしませんぞ。十善の帝位に誇られる身であっても、黄泉の国に行かれてから、牛頭馬ごずめ[#「牛頭馬の」はママ]責を免れられぬのですぞ」
不逞ふてい至極の坊主なり、牢に入れよ」
 と文覚は検非違使庁の役人の手で牢に入れられた。
 こうして院の騒動は終りをつげたが、文覚に烏帽子を打ち落された資行判官は、これを恥じてしばし出仕せず、一方安藤武者は取り押えた賞として即座に右馬允うまのじょうに任ぜられた。
 この頃、美福門院がおかくれになったので大赦があり、牢につながれた文覚もこの恩恵に浴し、出獄した。しかし文覚は、遠くの山にでも行って修行でもなされば、という声には一向馬耳東風、平然たる面持で再び例の勧進帳を京の街に読み、諸方に寄進すべき檀那を求め歩き廻っていた。これだけでなく、勧進帳を読むかたわら不吉なことを大声にいいふらすのである。
「もはや今の世は末世じゃ、この世に戦乱起って乱れ、君も臣も共に亡びるじゃろう。かくすることこそ、この浅ましき世の救いとはなるじゃろう」
 すでに戦乱の不安にさらされていた人心である。この確信ありげな坊主の託宣に動揺する懸念は十分にある。人心のみでない、政府自体が動揺していたのであるから、この文覚の言に過敏な神経をとがらした。
「あの法師は都におけぬ、流罪にせよ」
 との命が下されたのは、むしろ当然であった。文覚は伊豆国に流されることに決まった。
 時の伊豆守は源三位入道頼政の嫡子仲綱である。彼の采配で東海道を船で流すがよいということに決まった。出立を控えて、文覚の護送役となった検非違使庁の下役人はやんわり話し出した。
「お坊様もこれからの長旅、難儀なさいますが、われわれがお傍にある以上ご心配はいりませんぜ。まあ、こうした点でですな、依怙贔屓えこひいきと言っちゃ聞えが悪いが、われわれもお坊様のことではあり、道中十分に気を配るつもりですがね。そこでですな、魚心に水心のたとえもあり、遠国に流されるのですから、土産みやげものとか食料品とかを知合の方に頼まれたら如何でしょう。今までどなたも心よく応じてくれましたからお坊様も遠慮は無用ですよ。お使いならわれわれ引き受けますぜ」
 文覚は眼で笑いながら下役人の話を聞いていたが、
「このわしにそうした調法な知人は余りおらんな。しかしお前たちを失望させるのも気の毒じゃ。うん、東山のあたりに懇意のものがおる、手紙で頼んでみようか」
 そこで下役の一人が、懐からごそごそ粗末な紙を引き出して筆を添えて文覚に手渡した。文覚は眼玉をぎょろりと光らせるとたちまち怒りだした。
「いやしくも頼みの文じゃ、この粗末な紙に書けると思うのか」
 と、紙を投げ返した。見幕に恐れをなした下役は慌てて厚手の上質の紙を持ってきた。文覚これを受け取るとにやりとした。
「わしはな、よう字を書かんのじゃ。すまんがお前ら書いてくれんか」
 ちびた筆で下役の一人が口述筆記をすると、やがて厚手の和紙に汚い字が並ぶ。
「この文覚は高雄の神護寺創立供養のため、百方勧進帳を捧げて檀那を求め歩いたが、寄進してもらえぬばかりか、今流罪の憂き目に会っている。遠く伊豆へ流されるこの身には、土産もの、食料が必要と存ずれば、この文持つ者にお渡しあれ」
「で、宛名はどなたでございましょう」
「清水の観音じゃ」
 と平然という文覚に、役人がこんどはむっとした。
「われわれは役人、それを知ってからかいなさるのか」
「いやいや、わしは決して人をだましたり、からかったりいたしはせぬ。この文覚、清水の観音を深く信じ頼りにしているものじゃ、わしの知合いといったら観音以外にないのじゃよ」
 賄賂わいろをとり損って仏頂顔の護送役と共に、文覚は伊勢国阿能あのの津から船で東国へ下った。遠江国天竜灘にさしかかったとき、海が俄かに荒れた。突風にあおられた激浪は船を木の葉のごとくもてあそび、船頭水夫の必死の作業も及ばず、転覆寸前の状態となった。風浪いよいよ険しくなれば、舵を離し帆を捨てた乗組員は観音の名を連呼し、観念したものは念仏を唱えるなど、沈没を目前にひかえた船上はいよいよ断末魔の様相をおびてきた。文覚は先程から船底にあって、木の葉に揺れる舟を心地よい揺籠ゆりかごと心得たかあたりはばからぬ大鼾おおいびきで、荒れ狂う海など知らぬ気に眠りつづけている。しかし傾きに傾いた船がもはや沈没かと思われたとき、俄かに両眼をかっと開き、身を躍らせ船底より甲板に出るや、仁王立ちとなって逆巻く海を睨らみつけると、波の音も消す大音声を張り上げた。
「竜王はいずくぞ、竜王はおるか。聞け、竜王よ、大願を起した聖の御坊この舟に乗る。あやまとうとすな、過たばただいま天の責めを受けようぞ、竜王よ聞け」
 この声が竜王にとどいたか、あれほど荒れ狂っていた波風が、ほどなく静まった。怒濤よりも文覚を恐れた乗組員と護送役を運ぶ船は、穏かな海路を渡ってやがて伊豆の国に着いた。
 文覚は京を立つ時より、心の中に深く誓ったことがあった。再び京にもどり、悲願の高雄神護寺創立供養をするまでは決して死なぬ。もしこの願かなわぬならば途中死ぬであろう、という誓である。彼は断食した。京都から伊豆まで穏やかな順風の日は少なかったので、浦づたいの船路は実に三十一日を費したが、そのあいだに文覚の断食はつづけられた。船底にあって修行を行ないながら伊豆の国に着いたが、少しも気力は衰えず、これを見る人の眼に彼の姿は尋常の人間とはとても信じられなかった。

伊豆院宣


 文覚は伊豆の住人近藤四郎国隆くにたかのあっせんで奈古屋なごやの奥に住んでいたが、ここから兵衛佐頼朝のいるひる小島こじまは近かった。頼朝と親しくなった文覚は、話相手として殆んど毎日のように訪れていた。ある時、急にあらたまった口調で頼朝に話しだしたのである。
「思うに平家も今や衰運のきざしが、ありありとあらわれていると存ずる。小松の大臣殿おおいどのは心も剛勇、智謀人にすぐれたお方じゃが、去年の八月亡くなられた。大黒柱が倒れたのじゃ。ところで、わしが源平の武士を見るにどれもこれも小粒じゃ、将たるうつわなく士たる勇を持つ人もまれな程じゃが、拙僧の眼力をもってするに、残るは唯、御辺ごへんだけじゃ。天下の将軍の相を持ち、これを成就する実力を持つもの、それは御辺じゃ。兵を挙げられるなら、日本国を治め給う日も近いことと存ずるが如何いかん?」
 しばらく窓外に眼をやっていた頼朝は、文覚に視線を移すと、すぐ答えた。
「それは思いもよらぬこと。かく申すわれは故池禅尼いけのぜんにに命を助けられた身、そのご恩に報ぜんと毎日法華経一部を転読しておるものでござるが、この外に何も考えてはおりませぬ」
「お言葉じゃが、天の与うるものを取らねば、かえってそのとがを受くという。時至りたるを行なわざれば、かえってその禍を受くともいう。かく申せば御辺の心を引こうとのたくらみの言葉とも存ぜられようが、左様な儀ではない。わしはかねてから御辺に深い志を寄せている、疑わるるか、まずこれを見られい」
 と懐より白い布に包んだものを取り出した。うやうやしく布をとると一つの髑髏どくろである。文覚はそれを頼朝の前に置いて、じっと正面から眼を据えた。
「これは」
「御辺の父故左馬頭義朝殿の首じゃ。平治の乱以後、この頭は獄舎の前のこけの下に埋もれ、後世を弔うもの一人といえどおらぬのじゃ。わしは存ずる旨あって獄守にこの髑髏を乞い、以来山々寺々を修行で廻る間、これを首にかけて二十余年、弔い奉ったのじゃ、いまは定めし迷いも晴れて浮ばれたことと存ずる。わしはわしなりに故義朝殿のおんためにはご奉公して来たものと存ずるのじゃ」
 と頭を垂れて下に置いた髑髏を見、また二十余年の修行を回顧するもののように眼を閉じた。頼朝は俄かに信じかねる面持ではあったが、父の首と聞き懐しさの余り涙をこぼした。しかし相手は名にし負う怪僧である、父の首という髑髏を前にして疑心湧き出ずるのを押えることは出来なかった。そもそも文覚が伊豆へ尋ねて来ての話なら筋が通る。しかし流された土地がこの伊豆というのは偶然である。神護寺じんごじ再建の悲願のかたわら、平家覆滅の大願を秘かに抱きつづけたという話も特に聞いたことはない。二十余年髑髏と共にあったという、それならば修験者たちも何時しか知り得ようし、その大願が人に伝わるであろう、が、一向に聞いたこともない。聡明な頼朝は考えこんでしまった。しかしまた、文覚の話を全くの嘘ときめつける反証も彼にはない。特に信じてならぬという理由もない。
 しばらくして頼朝は静かにいった。
「そもそも頼朝は勅勘の身、罪人にござる。これの許しなくして、いかにして謀叛が起せましょうか」
「そのことならば、いとも、たやすい、わしが京に上り御辺の許しを頂いてこよう」
「御坊も勅勘の身でござるぞ、その身で他人の咎の許しを貰おうとは、いささか笑止、そなたの言葉は信用できぬ」
 と嘲笑あざわらうと、文覚は急に不機嫌になった。
「わしの身を願いに行くのならそれは間違っていよう、じゃが御辺のことじゃ、何んでわしが遠慮いたそうか。御辺は笑うが、笑うのは間違いじゃ。わしは福原の新都に上る、三日以上はかかるまい、院宣を頂くに一日は要る、もどるまで八日もあれば足りよう、御辺はわしの吉報を待つがよい」
 まだ信じかねる心を抱きつづける頼朝を後に、文覚は奈古屋に帰った。弟子には、人に隠れて伊豆山中に七日間参籠する、といい置いて直ちに新都に向った。福原についたのは三日後である。多少の縁があった前右兵衛督光能さきのうひょうえのかみみつよしのもとに赴き、驚く光能にいった。
「拙僧がお尋ねしたのは外でもない。伊豆国の流人るにん頼朝はわしの見るところ、兵家の棟梁とうりょうたる人物、また天下の源氏を糾合きゅうごうするに足る材じゃ。もし勅勘を許され院宣を賜わるならば、関東八カ国の兵を集めて、平家を亡ぼし、乱れた天下を鎮めよう。わしの頼みはこれじゃ、どうか引き受けて下され」
「御坊のお話は、よくわかりました。が、自分とて昔とちがい、今は三官みなやめさせられて、無官の身でござる、苦しいところじゃ。法皇もおしこめられておられるから、近づくのも容易ではない。御坊のたくらみも成功は覚束かぬとは思うが、折角の頼みだし、法皇も御坊の趣旨にはご賛意があろうと思う、とにかく、できるだけのことはしてみよう」
 光能は、そういって法皇のところに行き、機会をとらえて秘かに奏上すると、果して法皇は大きく動かされた。平家の強引な政策の重圧下にあった法皇にとって、これは重大な情報であった。孤立して何んの手段も持たぬ法皇が、これに希望を託さぬなら、まったく囚人同様の月日をあるいは永久に送らねばならぬかも知れぬ。院宣を下した法皇にとってこれは大きな賭だったが、相当確度の高い賭にはちがいなかった。
 やがて、院宣をしっかと首にかけた文覚は喜び勇んで伊豆へと下った。旅程は三日である。頼朝の前に現れた文覚は、首からはずした院宣を渡した。さしも沈静な頼朝の顔にも血が上った。実は頼朝は不安な日を送っていたのであった。文覚の余計な奔走が藪蛇やぶへびとなり、この上重い咎なぞ受けてはかなわぬと思っていた。また文覚のいう政治力も半心半疑であった。ここ一週間というもの、文覚の福原での行動が気にかかりつづけていた、どの様な結果がもたらされるか、それは頼朝にもまったくわからなかった。だが、今彼の手にしているのは勅勘の許しであり、平家追討の院宣である。手が震えていたのを文覚はじっと見ていた。文覚が伊豆を後にしてから、彼の言葉のように丁度八日目の正午であった。
 頼朝は新しい烏帽子えぼし浄衣じょうえをつけ身をきよめると、院宣を三度拝してから封を開いた。
「近年、平氏王威を蔑し軽んじ、仏法を破滅し王法を乱さんと欲す。それわが国は神国なり。宗廟相並んで、神徳これ新なり。故に朝廷開基の後、数千余歳の間、帝位を傾け、国家をあやぶまんと欲するもの、みな以て敗北せずということなし。しかればすなわち、かつは神道の冥助めいじょにまかせ、かつは勅旨の旨趣しいしゅを守って、早く平氏の一類を亡ぼして、朝家ちょうけ怨敵おんてきを退けよ。譜代相伝ふだいそうでんの兵略を継ぎ、累祖るいそ奉公の忠勤をぬきんでて、身を立てて家を興すべし。すなわち院宣かくの如し。よってくだんの如くお伝えする。
治承四年七月十四日
前右兵衛督光能承って謹上きんじょう
前右兵衛佐殿へ」
 院宣を両三度読み終った頼朝は、大きく息を吐いた。流人の生活は、彼の心の中で、今終りを告げたのである。彼の眉宇びうに決意がながれた。
 頼朝はこの院宣を錦の袋に入れて身から離さなかった。石橋山の合戦の折もこの錦袋と共に戦ったという。

富士川


 福原には、頼朝謀叛の兵を起す、との情報が絶え間なく流れこんでくる。彼のもとに集る源氏の兵力もその数を刻々増してゆく情勢である。公卿会議が急いで開かれ、敵の兵力が増さぬうちに一日も早く追手を、という意見が一致して採られ、大将軍に小松の権亮少将維盛ごんのすけしょうしょうこれもり、副将軍に薩摩守忠度さつまのかみただのりが命じられ、侍大将の上総守忠清かずさのかみただきよが先陣ときまる。その勢合せて三万余騎である。九月十八日が新都出発の日である。
 大将軍の維盛は生年二十三、容姿端麗な青年であったが、重代のきせなが唐革縅からかわおどしよろいをかつがせ、自分は赤地の錦の直垂ひたたれ萌黄匂もえぎにおいの鎧を着こみ、金覆輪きんぷくりんの鞍置いた連銭葦毛れんせんあしげに乗った姿は、絵にも筆にも及び難しと人々は賞めそやした。副将軍の薩摩守忠度は紺地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧、たくましき黒馬に鋳懸地いかけじの鞍置いて打ちまたがった威風あたりを払う姿は、都でも大層な見物という評判であった。
 この忠度には、心やさしい話がある。彼はさる皇女から生れた女房を恋してそこへ通っていたが、ある夜、訪ねてゆくと、合憎、女の来客中であった。話がはずむのか客は帰らず、夜は空しく更けてゆく。客は高貴な女房であるから、忠度といえどもお帰り願う訳にはいかない。いらだった忠度は軒端近くたたずみ、扇を手荒く使ってそれとなく意志を伝えようとしたが、一向にその効果はない。夜は、いよいよ更け行く。軒端の忠度の扇がばたばた物すごい音を立てる。すると室内から優しい声が外に洩れてきた。
「野もせにすだく虫の音よ」
 この口ずさむ声に忠度は、おとなしく扇を収め、そのまま家にもどったのである。その後、女房のところに通った夜、
「いつかの夜、なぜ扇を使い止められたのですか」
 と女房に問われた忠度は、
「かしがまし野もせにすだく虫の音よ、とおっしゃったでしょう。それで残念でしたが、淋しくひとり帰ったのですよ」
 といった。この女房は忠度出陣の噂を聞き、小袖一かさねを贈ったが、千里の旅の別れを惜しんで和歌一首を添えた。

東路あずまじの草葉をわけん袖よりも
  たたぬたもとの露ぞこぼるる

 忠度はすぐ歌を返した。

別れ路を何かなげかん越えてゆく
  関もむかしの跡と思えば

 この、関も昔の跡というのは、先祖平貞盛、俵藤太秀郷たわらとうたひでさと将門まさかど追討のために東国へ下ったことを思い出して詠んだものである。
 さて、昔は朝敵を討ちに都から立つ将軍には節刀を賜うのが例であったが、こんどの頼朝追討には、讃岐守さぬきのかみの正盛が、前対馬守源義親さきのつしまのかみみなもとのよしちか追討の例に従い、鈴だけが下賜され、皮の袋に入れて雑兵の首にかけさせた。昔、朝敵を討ちに行く将軍には三つの心得が必要とされた。第一に節刀を賜わる日は家を忘れ、第二に都から出る日は妻子を忘れ、そして戦場ではわが身を忘れる、この三つであるが、このたびの征討の大将軍維盛も、副将軍の忠度も、恐らくこの心得を胸に刻んでいたであろう。武士の常とはいえ、哀れなことである。
 軍勢は九月十八日福原、十九日京都につき、その翌日東国へ向って出陣した。すでに戦の旅路である。平安の身で帰れるとは限らぬ。追討の軍は野を踏み山を越え、河を渡った。荒原の夜露とともに眠り、高峰の苔に枕した。こうして都を立ってからほぼ一カ月がすぎて、十月十六日に駿河国清見きよみせきに着いたが、遠征の途中の国々で兵を集めたので、清見ヶ関では七万余騎を数えた。先陣は蒲原かんばら、富士川に進み、後陣はまだ手越てごし宇津谷うつのやにひかえていた。大将軍維盛は侍大将の上総守忠清を召すといった。
「維盛が思うには、これから足柄の山を越え、広い土地に出て決戦するのがよいと思う」
「お言葉ではございますが、入道殿福原を立つときに、いくさのことは忠清に任せよと仰せられました。ご覧うじませ、伊豆、駿河の軍勢が来るはずでございましたが、未だ一騎も見えませぬ。味方の軍勢は数こそ七万余騎でございますが、道中の国々から駆り集めた武士たち、今は人も馬も疲れ果てております。関東八カ国の武者は何れも兵衛佐頼朝についておりますから、その数何十万騎になるか存じません。いまはただ富士川を前にして陣をしき、味方の兵力をふやして戦われるのが得策と存じます」
 といえば、維盛も止むなくその言葉に従った。
 一方、頼朝は鎌倉を立ち、足柄山を越えて駿河国黄瀬川きせがわに着いた。甲斐、信濃の源氏勢が馳せ加わり、浮島うきじまで勢揃いした時には二十万騎になっていた。その頃、平家方では都に文を届ける源氏勢の雑兵一人を捕えた。手紙は女房のもとへ送る他愛のないものであったが、その雑兵を忠清は尋問した。
「源氏の勢はいかほどか、隠さず申し述べよ」
 といえば、
下郎げろうの身にございますれば、四、五百、千までの数はわかりますが、それ以上はわかりませぬ。軍勢が多いのか、少いのか、わかりかねますが、およそこの七日八日の間というものは野も山も武者で埋まってしまいました。昨日きのう黄瀬川で人々が申したことを聞きますと、その勢二十万騎とのことにござります」
 下郎の話は至極曖昧あいまいではあったが、忠清にも源氏の勢が相当の大軍であることは推察できた。二十万、もし話半分としても容易ならぬ兵力である。
「うむ、これは遅かったか。大将軍の悠長ほど困ることはない、一日でも早く討手を出していたら、大庭おおば兄弟、畠山一族など皆味方に加わっていたはず。彼らが参らば伊豆、駿河の勢は皆これに従ったものを」
 と嘆息したが、今更手の打ちようはなかった。
 維盛は東国の事情に精通している長井の斎藤別当実盛さいとうべっとうさねもりを召して聞いた。
「実盛は強弓の名があるが、そなたほどの強弓精兵は関東八カ国にいかほどいるのか」
 実盛は軽蔑の笑いをこめて答えた。
「君は実盛を強弓のものと思召さるるか。私はわずか十三ぞくの矢を引くに過ぎませぬ。私ほどのもの、関東八カ国には数えられぬくらいおります。関東で大矢を引くというのは、何れも十五そく以上のもの、弓も強力の者が五人、六人かかって張るものでございます。こうした弓で射られた矢は、鎧の二、三枚は軽く射通してしまいます。関東で大名と申される武士は少くも五百騎は養っており、戦場にては、親討たるれば子これを踏み越え、子討たるれば親これを乗り越えて、最後まで戦うのです。西国の軍というのは、親討たるれば子は引き下がって、嘆き悲しんで仏事を営み、いみあけてからやおら戦う、また子が討たるればこれを泣いて攻めて来ませぬ。兵粮米ひょうろうまいが尽きれば、春は田作り、秋は刈り収めてから戦うのです。夏は暑い、冬は寒いなどと嫌がる。東国では笑われますぞ。特に甲斐、信濃の源氏たちはこの地に精通しております。富士の裾野から搦手からめてに廻るかも知れません。私がこう申すと、大将軍の御心を脅かすように思召されるかも知れませぬが、毛頭そのつもりはございませぬ。君にあえて申しますなら、戦は兵力の多少で勝敗がつくものではございませぬ、一に大将軍の謀によるものと伝えられておりまする」
 実盛の言葉は率直なだけに、聞くものに強い効果を与えたようであった。今から震えおののく兵も多かったのである。
 十月二十四日早朝六時、富士川で源平の矢合せと決まる。その前夜である。決戦を控えて緊張した平家の侍どもが、対岸の源氏の陣を見渡した。野に火が上り、海に浮び、河にうつる。おびただしい火の大群である。これらはいずれも合戦におびえた伊豆、駿河の人民百姓が野に隠れ、船で逃げ、炊事した火であったが、夜対岸から見れば陣営の遠火とおびとも見える。驚くべき大軍じゃ、野も山も河も源氏の勢で埋められたるぞ、とその狼狽ろうばいは一方でない。おののき恐れる心を押さえて、不安の夢をむさぼっていた夜半、富士川より突如大音響がひびいた。雷にもまた大風に似た恐ろしい響が平家陣を一度に揺り起した。何の物音に驚いたか、夜半俄かに飛立った富士の沼の水鳥の羽音であったが、すでに源氏の遠火で十二分に心胆を寒からしめた平家の侍にとって、伝わる響を判別するゆとりはなかった。源氏の夜襲か、と疑心に口走る叫びが伝われば、どっと浮足立つのは当然であろう。
昨日きのう斎藤別当実盛が申したように、甲斐、信濃の源氏が搦手より廻ったのではないか、包囲されてはかなわぬ、敵は何十万騎あるかも知れぬ、ここを捨てて尾張川、洲股すのまたを防げ」
 という、いささか理屈にかなった説が飛び出すようでは、この混乱も収拾がつくはずはない。口々に叫びをあげながら、一目散に闇夜を走り出す。武器も家宝の鎧もあったものではなかった。弓を掴めば矢を忘れ、太刀を握ればさやだけ残し、人の馬には自分が乗り、日頃自慢する自分の愛馬には他人がしがみつく。手近な馬に殺到するから馬のつないだのさえ判らぬのである。安全地帯目ざして本人は一気に疾駆しているつもりだが、陣屋の廻りを必死に堂々めぐりする勇敢な武士もいた。陣営でさえこの調子であったから、浩然こうぜんの気を養うと称して、付近から遊女をかき集めて酒宴深更に及び、桃源の夢に耽っていた侍たちは、ほとんど半狂乱であった。頭を蹴割られ、腰骨を踏み折られた遊女が、闇の中で泣き叫ぶ。水鳥の羽音の最大の被害者はこのへんであったとも思われた。
 夜は白々と明けた。静かな暁である。定められた六時、勢揃いした源氏は天にもとどけとときの声を三度あげた。東国武士の野性をおびた声が朝の空気をふるわせた。平家の陣は死んだように静まりかえって物音一つない。敵の策かとしばし様子をうかがったが、やがて偵察の侍が放たれた。
「人みな逃げ落ちています」
 とあきれ顔で報告すれば、やがて敵の忘れた鎧を手にして戻るもの、平家の大幕をかついで帰るもの、いずれも口を揃えていうのである。
「平家の陣には蠅一匹飛んでおりませぬ」
 これを聞くと、頼朝はさっと馬から降りた。兜をぬぎ、手水ちょうずうがいをして身を浄めると、京都の方を伏し拝んだ。
「これは頼朝一人の手柄に非ず、ひとえに八幡大菩薩のおんはからい」
 院宣を賜ってからの最大の危機に、一兵も失うこともなく勝利を得た武将の当然ともいえる感慨であった。
 すぐ討ち平らげて、領地とするところであるからと、駿河国を一条次郎忠頼、遠江国を安田三郎義定に預けて守護職とした。平家を追い討ちにするには今こそ、という意見もあったが、後方もまだ固まらず不安である、と頼朝は兵を収めると駿河から鎌倉へもどった。
 一方、この平家の醜態はしばらく東海道の宿場宿場の遊女たちを楽しませた。
「何んて立派な大将軍なんでしょうね。戦いで見逃げした男は卑怯者の典型というのに、平家の方々は聞き逃げ遊ばしたのよ」
 と手を拍って笑いこけていた。まことに平家はこのものたちに豊富な話題を提供したが、それにつれて秀逸なる落書らくしょも多かった。
 都にいる平家の大将軍を宗盛といい、討手の大将を権亮ごんのすけというので、平家を「ひらや」と読んで、

ひらやなるむねもりいかに騒ぐらん
  柱とたのむすけをおとして

 また富士川をおりこみ、

富士川のせぜの岩越す水よりも
  はやくも落つる伊勢いせ平氏かな

 また、上総守忠清が、富士川に自分の鎧を棄てたまま素早く退散したのを巧みに詠んだのもあった。

富士川に鎧は棄てつすみぞめの
  ころもただきよ後の世のため

ただきよはにげの馬にぞ乗りてげる
  上総かずさしりがいかけてかいなし

五節ごせち沙汰さた


 一戦も交えず敗走した平家の大将軍権亮少将維盛が、福原に面目ない顔で現れたのは十一月八日である。報を受けていた清盛は激怒した。
「武人たるもの何たる醜態か。恥を知れ、きゃつらの顔など見とうない。維盛は鬼界ヶ島へ流せ。忠清は死罪にせよ」
 といい捨てると、いかなる弁解も受けつけなかった。そこで翌日平家の侍ども老若数百人が集って、忠清死罪の件について評定が行なわれた。席の空気は忠清に同情的であった。主馬判官盛国しゅめのはんがんもりくに進み出ると、
「忠清が卑怯者という話は昔から聞いておりません。たしか彼が十八歳の時と思いますが、鳥羽殿とばどのの宝蔵に五畿内随一といわれた賊二人が逃げこんだことがありました。この時誰も押入って賊をからめ取ろうというものは一人もなかったのですが、忠清ただ一人立ち向い、一人を討ち取り、残る一人を搦めとって、大いに勇名をはせたものでした。彼の今度の不覚は彼の臆したためとは思えません。何か尋常でないことがあったのです。これにつけてもよくよく兵乱鎮圧のご祈祷があるべきと存じます」
 こんな次第で、どうやら忠清は死罪を免れた。十一月十日、この会議の翌日任官が行なわれて、維盛は右近衛うこんえの中将に昇進した。人々は何が何だかわからなかった。清盛の言葉も当にはならぬ、功なくして恩賞ありとは何事か、と誰もが首をかしげていた。
 十一日、清盛入道の四男[#「四男」はママ]頭中将重衡とうのちゅうじょうしげひら左近衛権さこんえのごんの中将に昇進した。十三日、福原に新皇居が落成して天皇が移られた。大嘗会だいじょうえが行なわれるはずであったが、新都には大極殿も、即位の大礼を行なうべきところはなく、清暑堂もないので神楽かぐらを奏する場所もない。そこで今年は新嘗会しんじょうえと五節だけを行なおうと公卿会議で決まり、新嘗の祭は、旧都京の神祇宮で行なうことになった。五節というのは、天武天皇の御代、月白くえた嵐の夜、天皇が心すましてきんを弾かれていると、これに感じた天女が天降り、五度び袖をひるがえして舞ったという、これが五節の初めである。
 ともかく、東国に燎原りょうげんの火のごとく、源氏はその数を増す状勢にあって、平家は恩賞を行ない、公卿は先例と古式を墨守して儀式の形骸をとりつくろうのに忙がしかった。

都がえり


 新都福原に強引に都を移し、内裏殿などを急造してはみたものの、福原の人気は悪かった。それに地形も宜しくない。北に山々が高くそびえ、波の音は騒がしく、潮風はきびしい。新院もそのためかご病気がちである。君も臣もこの地を嘆くことしきりであったが、比叡山や興福寺の諸寺諸社からの訴えも度重なれば、さしも横紙破りの入道清盛の心も折れてきた。
「京に都をもどす」
 というので、十二月二日の日、都がえりとなった。京に帰るというので人々は急ぎ争って上れば、もはや福原のことなど口に出す者もいない。中宮、一院、上皇が立てば、摂政、太政大臣以下の卿相たちつき従う。さる六月が都移しであったから新都は凡そ半年間しか保たなかった訳だが、困ったのは一般人である。大苦労の末京の家を壊して運び、この地で建て直したりしたのに、いままた気が狂ったような都がえりである。家も財も捨てて京に上るものは少なくなかった。
 法皇は六波羅殿へ、新院は池殿へおいでになった。天皇は五条の内裏へ行かれた。公卿たちの宿泊所も急のこととてないので、八幡、賀茂、嵯峨さが太秦うずまさ、西山、東山などにゆき、御堂の廻廊や神社の拝殿などに泊っていた。
 ところで今度の遷都の真意は一体何であったか。京は比叡や奈良が近く、何かというと日吉ひえ神輿しんよとか春日かすが神木しんぼくをかつぎ出して要求を通そうとするのがうるさい、その点福原は山河をへだてて距離も離れているので、坊主神官たちの邪魔はあるまいという点にあった。これは入道清盛の独自の意見だといわれている。
 さて、この十二月二十三日、近江源氏が背いたので追討の軍が出された。大将軍に左兵衛督知盛さひょうえのかみとももり、副将に薩摩守忠度が命じられ、軍勢三万余騎をひきいて近江国に進発した。山本、柏木、錦織にしごりなどという手強い源氏の兵と戦を交えたが何れも討ち破って攻め落し、そのまま軍は美濃、尾張を越えて進んだ。

奈良炎上


 京では、奈良興福寺が三井寺と手を組み、高倉宮を受け入れたり、あるいは迎えに兵を出すなどの行為は、明らかに朝敵であると断じた。奈良には、平家が攻め寄せるとの噂が伝わったので大衆は一斉に騒ぎ出した。これを聞いた関白はことを穏便に計ろうと有官うかん別当忠成べっとうただなりを使者として立てた。
「いうべきことあらば申し述べよ、何度でも奏上して仕わそう」
 というのである。奈良にこの意を体して赴いた別当忠成の鎮撫ちんぶの言は、いきり立った興福寺の大衆の耳に入らなかった。まして年来平家に対して憎悪の念を抱きつづけてきた寺である。兵が攻めるとの噂にも殺気立っていた。大衆はどっと忠成を取り囲んだ。
「乗物から引きずり下ろせ、かまわぬからもとどりを切ってしまえ」
 と口々に叫ぶ。忠成は青くなって逃げ帰った。次に使いとなった右衛門督親雅うえもんのかみちかまさも大衆から同じ待遇を受けたが、二人の雑色ぞうしきが髻を切られてしまった。
 二人の使いを追い帰した奈良では、余勢をかって毬杖ぎっちょうの玉の大きなものを作り、目鼻をつけるとこれを入道清盛の首と称して、踏め、打てなどはやし立てる中を、玉を蹴り、棒で叩くなど大いにうれいを晴らしていた。天皇の外祖である入道にこのような仕打ちをするのは、天魔の仕業であるという非難も多く聞かれた。
 清盛は大衆を鎮める決意を固めたが、ことは慎重に運ばれた。瀬尾太郎兼康せのおのたろうかねやすを大和国の検非違使に任じ、五百余騎をひきいて奈良に向うことになったが、出発のとき清盛は更に慎重な注意をあたえた。
「衆徒はいま気が立っておるが、奴等が狼藉ろうぜきに及ぶとも相手になるな。甲冑も弓矢も共に避けよ。こちらから打って出ることは断じてまかりならぬ」
 兼康は武装のない兵五百余騎とともに奈良へ着いたが、もとよりこの間の事情を大衆が知るはずはない。すわ敵寄せたるぞ、とこれを囲み六十四人を捕縛するや一人一人の首をはね、猿沢さるさわの池の端にずらりとかけ並べて見せしめとした。兼康からの報告をきくと今度は清盛も心底から怒った。
「隠忍もこれまでじゃ、奈良を討て」
 たちまち大軍が揃えられ、大将軍に頭中将重衡とうのちゅうじょうしげひら中宮亮通盛ちゅうぐうのすけみちもりが任ぜられて、総兵力四万余騎奈良へ実力行使と進発した。一方奈良の大衆老若合わせて七千余人、武具に身を固めると、奈良坂、般若寺の二カ所の路に掘割を作り、楯垣を並べ、逆木さかもぎを引いて防備を固めて待ち受けた。
 平家は四万余騎を二手に分け、奈良坂、般若寺からの挟撃態勢をとると、どっとときの声を上げて一気に攻めこんだ。奈良の大衆は必死に防いだが、こちらは徒歩、相手は騎馬である。しばし応戦するうちに崩れ出した。騎馬が縦横に駆け廻れば、大衆の大半は討ちとられてしまった。この日朝六時の矢合わせから一日戦ったのであるから、大衆必死の防戦は相当手強かったわけである。日が落ち夜になると、奈良坂、般若寺の二つの城郭は時を同じうして破れた。勢いに乗る平家は怒濤のように攻めこんでくる。この日衆徒の一人、坂野四郎永覚さかのしろうようがくという剛の者、弓矢太刀とれば十五大寺に並ぶ者なしといわれていた勇猛な僧であったが、萌黄縅の鎧に黒糸縅の腹巻を重ね、帽子兜ぼうしかぶとに五枚兜のをしめ、白柄しらえの大長刀、黒漆の大太刀を左右の手に握り、同宿の僧十余人を前後左右にひきいると、手蓋てがいの門より打って出た。剛力に任せて水車のように打ちふるう大長刀で馬の足をがれた平家の勢少くなく、討ち果された兵も多く、永覚はしばし少勢でここを支えていたが、新手を次々にくり出して襲いかかる寄手のために同宿のものはみな討ち死し、やがて、彼も南をさして唯、一人落ちていった。
 このとき、大将軍頭中将重衡は般若寺の門の前に立って下知した。
くらし、火をつけよ」
 命をうけた播磨国の住人、福井ふくいしょう下司げし次郎大夫友方、楯を割るとこれに火をつけ松明たいまつとして付近の住家に火を放った。時に十二月二十八日、折からの烈風に火は煽られ、火元は一カ所だったにもかかわらず、多くの寺院に次々と飛火した。寺の大衆のうち名を惜しむ者は、あらかた奈良坂、般若寺で倒れ、歩行できるものは吉野、十津川へ落ちていったが、歩けぬ老僧、少年僧、女童めわらべたちは逃げ場所を求めて大仏殿の二階や、山階寺やましなでらに避難した。特に大仏殿の二階に逃げこんだもの、老僧女子小供千余人もいたが、助かるかも知れぬというので階段を引き上げ、敵の昇るのを防いだ。ところが敵は昇らなかったが、猛火がこの大仏殿に燃え移った。火の手は大仏殿を包んだとみるやどす黒い煙が噴き出し、やがて紅蓮ぐれんの焔をあげた。大仏殿の二階で全く逃げ場がない避難者たちの喚き叫ぶ声は、夜空に凄惨せいさんなひびきをつたえた。大焦熱の地獄、焔の底の罪人も、これほどとは思われぬ阿鼻あびの地獄であった。
 藤原氏累代るいだいの寺、興福寺は焼け落ちた。仏法と共に日本に最初、渡来した釈迦の像、土中から出た観世音像、瑠璃を並べた四面の廊下、朱丹しゅたんを交えた二階の楼、九輪空に輝いた二基の塔などすべて煙と消えた。
 聖武帝建立の東大寺も灰となった。不生不滅、実報じっぽう寂光じゃっこうの生き身をかたどり、天皇自ら磨かれたという金銅十六丈の廬遮那仏るしゃなぶつも首が焼け落ちて大地に転がり、身体は熱にけて醜い青銅の堆積とはなった。仏を焼き、寺を焼いた炎は虚空に舞いあがり、煙は天に満ちて見る人の目をそむけしめ、聞く人を呆然ぼうぜんたらしめた。法相ほっそう三論の経典も一巻残らず兵火に消えた。
 炎の中で焼け死んだ者は、後で数えれば大仏殿二階で一千七百余人、山階寺で八百余人、その他合計すれば三千五百余人である。戦場で討たれたものは千余人、山門大衆の半数は死んだのである。平家はそのうち少数の首を般若寺の門にかけ、また首を京に持ち帰ったのであった。
 大将軍頭中将重衡は翌二十九日京に帰り、入道に詳細を報告した。清盛は、よくやった、これで外の大衆も考えるであろうと一人相好を崩していた。しかし、中宮、一院、上皇は、
「たとえ悪僧を滅ぼしても、多くの寺院を焼くことはない」
 と嘆くことしきりであった。公卿会議も開かれたが、最初朝敵の首は都大路を引き廻し獄門にかけるべしなどという勇ましい意見もあったが、東大寺、興福寺焼失の惨状を聞くに及んでは、もはや誰一人これをいい出す者もなく、いつとはなく沙汰止みとなって、衆徒の首はあちこちの溝、掘割に捨てられた。
 こうして兵乱に明け暮れた年も終り、治承五年を迎えた。





底本:「現代語訳 平家物語(上)」岩波現代文庫、岩波書店
   2015(平成27)年4月16日第1刷発行
底本の親本:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社
   1960(昭和35)年2月12日初版発行
初出:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社
   1960(昭和35)年2月12日初版発行
※「慈救の呪」と「慈救じく呪文じゅもん」の混在は、底本通りです。
※第五巻「按察使あぜちの大納言」と第六巻「按察あぜちの大納言」と第七巻「按察あぜち大納言」の混在は、底本通りです。
※著者名は、本来は「尾※(「山+竒」、第3水準1-47-82)士郎」です。
※誤植を疑った「高尾たかお山」は親本でも「高尾たかお山」ですが、本文中の他の箇所の表記にそって、あらためました。
※誤植を疑った「牛頭馬ごずめの」は親本でも「牛頭馬ごずめの」ですが、本文中に同じ表記がないため、ママ注記としました。
入力:砂場清隆
校正:みきた
2022年4月29日作成
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