千里駒後日譚

楢崎龍、川田雪山




川田雪山、聞書
「土陽新聞」連載、明治三十二年十一月

(一回)


御一新前土佐藩から出て天下を横行した海援隊の隊長にママ本龍馬と云ふ豪傑が有つて、又其妻に楢崎お龍と云ふ美人で才女で、加之おまけに豪胆不敵な女のあつた事は諸君善く御承知でせう、其お龍が今猶ほ健固で相州横須賀に住んで居る。僕は近頃屡ば面会して当時の事情を詳しく聞ひたが、阪崎氏の「汗血千里駒かんけつせんりのこま」や民友社の「阪本龍馬」などとは事実が余程違つて居る、符合した処も幾干いくばくか有るがさぎからすと言ひ黒めた処も尠なからぬ。もし此儘で置てはだ後世を誤るばかりと思ふから聞ひた儘を筆記して、土陽新聞の余白を借り、諸君の一さいを煩す事にしました、唯だ文章が蕉拙まづくつての女丈夫を活動させることの出来ないのが如何にも残念です。
又この後日譚ごじつのはなしに就ての責任は一切僕が引受ます。

◎十月念八日、雪山しるす。
海援隊の人数ですが、水夫も加へれば六七十人も居たでせう。私の知つて居る人では石川誠之助(中岡慎太郎)、菅野覚兵衛、高松太郎、石田英吉、中島作太郎(信行)、近藤長次郎、陸奥陽之助(宗光)、橋本久太夫、左柳高次、山本幸堂、野村辰太郎、白峰駿馬、望月亀弥太、大利鼎吉、新宮次郎、元山七郎、位です。陸援隊はまだ出来て居らなかつたので、石川さんは初は一処に海援隊でした。面白い人で、私を見るとお龍さん僕の顔に何か附いて居ますかなどゝ、何時もてがうて居りました。
◎陸奥には一二度逢ひました。此人は紀州の家老の伊達千広と云ふ人の二男で、其兄も折々京都へ来ましたが四条の沢屋と云ふ宿屋にお国と云ふ妙な女がありました。コレと其兄と仲が好かつたのです。或日伏見の寺田屋へ大きなわげを結つた男が来て、阪本先生に手紙を持て来たと云ひますから私は龍馬に何者ですかと聞くと、アレは紀州の伊達の子だと云ひました。此時から龍馬に従つたのです。持て来た手紙は饅頭屋の長次郎さんが長崎で切腹した事を知らせて来たのです(千里駒には龍馬が長崎に於て近藤を呼び出し切腹を命じたりとあれど誤り也)。長次さんは全く一人で罪を引受けて死んだので、をれが居つたら殺しはせぬのぢやつたと龍馬が残念がつて居りました。アノ伊藤俊助さんや井上聞多さんは社の人では無いですが長次さんの事には関係があつたと見え、龍馬が薩摩へ下つた時、筑前の大藤太郎と云ふ男が来て伊藤井上は薄情だとか卑怯だとか矢釜やかましく云つて居りましたが、龍馬は、ソンナに口惜しいなら長州へ行つて云へと、散々やり込めたのです。すると其晩一間隔てゝ寝て居た大藤が夜半よなかに行燈の光で大刀を抜いて、寐刃ねたばを合して居りますから私は龍馬をゆり起し、油断がなりませぬとつまり朝まで寝ずでした。翌日陸奥が来ましたから此事を話し、西郷さんにも知らせると、ソレは怪しからぬと云つて、私等二人を上町うへまちと云ふ処へ移らせ、番人を置いて警戒させてくれました。元々陸奥は隊中で「臆病たれ」と綽名あだなされて居まして、龍馬等が斬られて隊中の者が油小路の新撰組の屋敷へ復讐に[#「復讐に」は底本では「復譬に」]行く時も陸奥は厭だとかぶりを振つたそうです。人に勧められてつゞまり行くことは行つたが、皆んな二階に躍り込んで火花を散らして戦つて居るに、陸奥は短銃ぴすとるを持つたまゝ裏の切戸で一人見て居つたと云ふことです。(雪山曰く陸奥の事に就ては実に意外なる話を聞けり、されど云ふて益なし、黙するにかざるべし、読者かの紀州の光明丸と龍馬の持船いろは丸と鞆の津沖に衝突して、いろは丸沈没したる償金に紀州より八万五千円を取りたる一事を知るべし、而して当時紀州の家老は実に此の陸奥の兄にして又龍馬を斬ったる津村久太郎等は常に会津紀州の間を往来し居たりと云ふ。一々対照し来ればけだし思ひ半ばに過ぐるものあらん、あゝ)腕は余りたゝなかつたですが弁は達者な男でした。
◎北海道ですか、アレはずつと前から海援隊で開拓すると云つて居りました。私も行く積りで、北海道の言葉を一々手帳へ書き付けて毎日稽古して居りました。或日望月さんらが白の陣幕を造つて来ましたから、戦争も無いに幕を造つて何うすると聞けば、北海道は義経を尊むから此幕へ笹龍桐の紋を染めぬひて持つて行くと云つて居りました。此時分面白い話があるのです。北海道へ行く固めの盃にと一晩酒を呑みましたが、誰れが言出したか一ツ祇園を素見ひやかさうと、大利さんは殿様に化けて籠にのり、白峰さんがお小姓役、龍馬は八卦見、ソレから私が御腰元で、祇園の茶屋へ押し掛け、コレは殿様だから大事にして下さいと云ふと、女中も三助もお内儀さんも皆んな出て来てヘイ/\とお辞儀をする。阪本は八卦見だから手を出せ筋を見てやると云ふと、私にも/\と皆な手の掌を出すのを何だとか彼だとかあてすつぽふに云つて居りましたが、能く当る/\と喜んで居りました。帰りになると一処にまごまごして居つて、会津や桑名の奴等に見付かるとイケないから、君は此の道を行け僕はあつちへ行くと皆な散り/\になつて思ひ/\に帰りました。
◎伏見の遭難は前から話さねば分りませむが、元治元年に京都で大仏騒動と云ふのが有りました。あの大和の天誅組の方々も大分居りましたが幕府の嫌疑を避ける為めに龍馬等と一処に大仏へ匿れて居つたのです。処が浪人斗りの寄り合で、飯炊きから縫張りの事など何分手が行き届かぬから、一人気の利いた女を雇いたいと云ふので――こゝで色々の話しがあつて――私の母が行く事になりました。此時分に大仏の和尚の媒介なかだちで私と阪本と縁組をしたのですが、(千里駒には勢戸屋お登勢の媒介、龍馬伝には西郷の媒介とあり倶に誤れり)大仏で一処に居る訳には行きませむから私は七条の扇岩と云ふ宿屋へ手伝方々預けられて居りました。スルと六月一日(元治元年)の夕方龍馬が扇岩へ来て、己れも明日は江戸へ行かねばならぬから留守は、万事気を付けよと云ひますから、別れの盃をして其翌朝出立しました。後とには石川さんや近藤さんや段々残つて居りましたが明日は何処、今日は此処と四方八方飛び廻つて家には滅多に居なかつたのです。処が五日の朝元山と望月の二人が三条の長門屋と云ふ長州宿へ往つて居ましたら、どうして聞き出したか会津の奴等が囲んだのです。一手は大仏へ、一手は大高某(勤王家)の内へと、都合三方へ押し寄せたので、元山さんは其場で討死し、望月さんは切り抜けて土佐屋敷へ走り込まんとしたが門が閉て這入れず、引返して長州屋敷へ行かうとする処を大勢後から追ツ掛けて、何でも横腹を槍で突かれたのです。私は母の事が気にかゝり扇岩を飛出して行つて見ると、望月さんの死骸へはむしろをきせてありました、私は頭の髪か手足の指か何か一ツ形見に切て置きたいと思ひましたが番人が一パイ居つて取れないのです。又晩方行つて見れば死骸は早や長州屋敷へ引取つた跡でした。母は一旦会津方に捕へられたが女だから仔細ないと放してくれたさうです。大仏へ行つて見れば天井や壁やを槍で以つて無茶苦茶に突き荒してありました。乱暴ですねえ誰も浪人は居ないのに……。ソレから龍馬も江戸へ行つたけれど道中で万一の事がありはすまいかと日々心配して居りますと、八月一日にヒヨツコリ帰て来ましたので此の騒動を話すと兎も角も危いからと私の妹の君江は神戸の勝(当時海軍奉行として神戸に滞在せり)さんへ弟の太一郎は金蔵寺へ、母は杉坂の尼寺へ、それぞれ預けて私は伏見の寺田屋(千里駒に勢戸屋とあるは誤り也)へ行つたのです。此家のお登勢と云ふのが中々シツかりした女で、私が行くとたすきや前垂れやを早やチヤンと揃てあつて、仕馴れまいが暫らく辛棒しなさいと、私はお三やら娘分やらで家内同様にして居りました。処が此儘では会津の奴等に見付かるからと、お登勢が私の眉を剃つて呉れて、これで大分人相が変つたから大丈夫と云つて笑ひました。名も更えねばならぬが何と替よふと云つて居ると主人の弟が、京から遙る/″\来たのだからお春と付けるが宜いと云つてつゞまりお春と替へました。

(二回)


◎其翌年ママ(慶応二年)の正月十九日の晩長州へ行つて居た龍馬と新宮馬次郎と池内蔵太とマ一人私の知らぬ男とが一人のやつこを連れて都合五人で寺田屋へ帰りました。奴は下座敷へ寝させて四人を二階へ上げると龍馬が私の知らぬ男を指し、此の方は長州の三吉慎蔵と[#「三吉慎蔵と」は底本では「三好真造と」]云ふ仁だと紹介して[#「紹介して」は底本では「照介して」]くれましたから、私も挨拶してて其翌朝、龍馬が己等三人は今から薩摩屋敷(伏見)へ入るが、三吉[#「三吉」は底本では「三好」]丈は連れて行けぬからお前が預つて匿して置けと云ひますから、何故連れて行けぬと聞くと、薩摩と長州とは近頃漸つとの事で仲直りはしたが猶ほ互に疑ひ合つて居るから、三吉は[#「三吉は」は底本では「三好は」]内々で薩摩の様子を探りに来たのだと云ふ。ソンナラ私が預ります、が随分新撰組が往来する様ですから、万一三吉さんに[#「三吉さんに」は底本では「三好さんに」]怪我が有つたら如何しませう、私が死ねば宜いですかと云ふと、お前が死んでさへ呉れゝば長州へ申訳は立つと云ひますから、では確かに預りますと二階の秘密室(寺田屋にては浪人を隠す為め秘密室秘密梯子等を特に設けありし也)へ三吉さんを[#「三吉さんを」は底本では「三好さんを」]這入らせ、坂本から聞きますれば御大切の御身体ですから、随分御用心なさつて万一の時にはコヽから御逃げなさい、と後ろの椽の抜け道を教えて置きました。処が其翌二十一日龍馬らに従つて行つた奴が戻つて来ましたので何処へ行くと聞くと、おいとまを貰つて大阪へ下ると云ひますからコイツ変な奴だと思ひまして、無理に座敷へ上らせ酒を呑ませて酔つた時分に、根掘り葉掘り問ひますと、未だ私を阪本の家内とは知りませぬから酔ひ紛れに饒舌つて仕舞つたのです。アノ三人は土州の坂本等で此家に残つて居るのは長州の奴だなどとすつかり内幕を知つて居るから、ソラこそ変な奴だとしきりに酒を呑ませ其翌日も此奴を大阪へ下してはイケぬと思ひ、女郎を呼んで来たり御馳走をこしらへたり、散々此奴をだまかして到頭二十三日まで酒を以て盛り潰しました。龍馬に知らせる便りは無し自分で一走り行くのは易いが少しでも此奴の側を離れると何時どう云ふ事が起るかも知れず、どうしたら宜からうと私は一人で心配で心配で堪らなかつたのです。すると其晩方誰れとも知れぬ者が籠に乗つて来たから私はヱヽ誰れでも構ふかといきなり籠の幕を引上けると……龍馬が一人坐つて居るのです。アラあなたですかと飛び立つ思ひで、サア早う上つて下さいと三吉さんの[#「三吉さんの」は底本では「三好さんの」]居間へ通すと、二人(千里駒には大里三吉[#「三吉」は底本では「三好」]坂本の三人とあれど誤りなり)は寝転んで話し始めたから、私は下へ来て見ると下婢などは台所で片付をして居り、お登勢は次の室で小供に添乳をし乍ら眠つて居る様子ですから、私は一寸と一杯と風呂に這入つて居りました。処がコツン/\と云ふ音が聞えるので変だと思つて居る間もなく風呂の外から私の肩先へ槍を突出しましたから、私は片手で槍を捕え、わざと二階へ聞える様な大声で、女が風呂へ入つて居るに槍で突くなんか誰れだ、誰れだと云ふと、静にせい騒ぐと殺すぞと云ふから、お前さん等に殺される私ぢやないと庭へ飛下りて濡れ肌に袷を一枚引つかけ、帯をする間もないから跣足はだしで駆け出すと、陣笠を被つて槍を持つた男が矢庭に私の胸倉を取て二階に客が有るに相違ない、名を云つてみよと云ひますから、薩摩の西郷小次郎さんと一人は今方来たので名は知らぬと出鱈目を云ひますと又、裏から二階へ上れるかと云ふから、表から御上りなさいと云へば、ウム能く教へたとか何とか云つて表へバタ/″\と行きました。私は裏の秘密梯子から馳け上つて、捕り手が来ました、御油断はなりませぬと云ふと、よし心得たと三吉さんは[#「三吉さんは」は底本では「三好さんは」]起き上つて手早く袴をつけ槍を取つて身構へ、龍馬は小松(帯刀)さんが呉れた六連発の短銃を握つて待ち構へましたが敵の奴等は二階梯子の処まで来て、何やらガヤ/\云ふ斗り進んでは来ないのです。只だ一番先きの男が龕燈提灯を此方へ差向けて見詰て居るので、此方は一面明るくなつて無勢の様子がすつかり分るから、私は衣桁にあつた龍馬の羽織を行燈の片側へ被せ掛け、明るい方を向へむけ暗い方へ二人直立つつたつて睨んで居ますと、敵は少しも得進えすゝまず枕を投げるやら火鉢を投げるやら一パイの灰神楽です。(龍馬伝には「上略乍ら一吏あり刀を提げ来りて曰く、嫌疑あり之を糺すと彼れ三吉と[#「三吉と」は底本では「三好と」]誰何して薩藩士の旅寓に無礼する勿れと叱す。中略、捕吏数人歴階し来りて曰く、肥後守よりの上意也神妙にいたし居れと、中略、龍馬大喝呼んで曰く吾は薩藩士也肥後守の命を受くるものにあらず。下略」とあれど事実此事なし、又千里駒にも誤れる節多し対照せられたし)三吉さんは[#「三吉さんは」は底本では「三好さんは」]槍で一々払つて居りましたが、此時龍馬は一発ズドンとやりましたが、外れて二発目が鳴ると同時に龕燈を持つた奴に中つて、のけぞる拍子に其龕燈をズーツと後へ引きました。其光りで下を見ると梯子段はしごだんの下は一パイの捕手で槍の穂先はか/\と丸で篠薄しのすすきです。三発やると初めに私を捕へた男が持つた槍をトンと落して斃れました。私は嬉しかつた……。もう斯うなつては恐くも何ともなく、足の踏場を自由にせねば二人が働けまいと思つたから、三枚の障子を二枚まで外づしかけると龍馬が、まごまごするな邪魔になる坐つて見て居れと云ひますから私はヘイと云つて龍馬の側へしやがんで見て居りました。龍馬は又一発響かせて一人倒しましたがたまは五ツしか込て無かつたので後一発となつたのです。すると龍馬が、さア丸が尽きさうなぞと、独語つぶやいて居りますから私は床の間へ走つて行つて、弾箱を持ち出して来たがなかなか込める暇が無いので、私はハア/\思つて居ると、四発目に中つた奴が皆んなへ倒れかゝつて五人六人一トなだれとなつて下へバタ/\転り落ちました、龍馬はハヽヽヽと笑つて卑怯な奴だ此方から押しかけて、斬つて斬つて斬り捲くらうかと云ふと三吉さんが[#「三吉さんが」は底本では「三好さんが」]、相手になるは無益、引くなら今が引き時だと云ふ。そんなら引かうと二人は後の椽から飛出しました。私もヤレ安心と庭へ降りよふと欄干へ手を掛けると鮮血なまちがペツたり手へ附いたから、誰れかやられたなと思ひ庭にあつた下駄を一足持つて逃げたのです。(千里駒には「上略当夜お良は所夫おつとの身に怪我過ちのあらざるやうにと神に祈り仏に念じ独り心を痛めしが、やがて龍馬は一方を切抜け逃去りしと新撰組の噂を聞きすこしは安心したけれども、今宵のうちに一眼逢ひて久後きごの事ママなど問ひ置かんと、原来がんらい女丈夫の精悍しく提灯照し甲処乙所どこそこと尋ね廻りし、裏河岸伝ひ思ひがけなき材木の小蔭に鼾の聴ゆるは、不審の事と灯をさしつけよくよく見れば龍馬なるにぞ、お良は喜び、下略」とあれど是亦相違にして、咄嗟に起りし騒動なればとても斯く優々たる道行を演ずるいとまあらざりしなり)豊後ぶんご橋迄走り着き振り回へると町は一パイの高張提灯です。まアこんなに仰山捕手が来たのかと人の居る処は下駄を穿いてソロ/\と知らぬ顔であるき、人の見えぬ処は下駄を脱いで一生懸命に走りました。処がひよつこり竹田街道へ出ましたので、コレは駄目かと思つて又町へ引返し追々夜も更けたから、もう大丈夫と思つて居る矢先に、町の角で五六人の捕手にハタと行遭つて何者だと云ふから私はトボケた顔をして、今寺田屋の前を通ると浪人が斬つたとか突たとか大騒ぎ、私や恐くつて逃げて来たあなたも行つて御覧なさいと云ふと、ウム人違ひぢやつたと放しましたから、ヤレ嬉しやとは思つたが又追ツかけて来はせぬかと悟られぬ様に下駄をカラ/\と鳴らして、懐ろ手でソロ/\と行きました。早や夜明け方となつて東はほんのりと白んで、空を見ると二十三日の片はれ月が傾ひて、雲はヒラ/\と靉靆たなびき、四面は茫乎ぼんやりして居るのです。私は月を見もつて行きました。丁度芝居の様ですねえ……。夫れから又一人の男に出逢つたから薩摩屋敷の方角を問ひますと私の風体を見上げ見下ろし、何うしに行くと云ひますからハツと思つたが、屋敷の隣の荒物屋の有つた事を思ひ出し、イエ屋敷の隣の荒物屋の主人が急病で行くのだが屋敷と聞けば分り安いからと誤魔化すと、そうかと云つて丁寧に教へて呉れましたので、つとの事で薩摩屋敷へ着き、大山(綱良)さんに逢つて、龍馬等は来ませんかと云ふとイヤまだ来ないが其の風体ふうていは全体どうしたものだと云ふ。私は気が気でなく龍馬が来ねば大変ですと引返さうとするを、まア事情を云つて見よと抱き留めるので、斯様々々と話しますと吃驚びつくりし、探しに行かうと云つてる処へ三吉さんが[#「三吉さんが」は底本では「三好さんが」]ブル/\震へもつて来て、板屋の中で一夜明したが敵が路を塞で居つて二人一処には落られぬから私一人来ましたと云ふ、それを聞いて安心と早速大山吉井(玄蕃)の二人が小舟に薩摩の旗を樹てゝ、迎へに行つて呉れました。寒いから私と三吉さんとは[#「三吉さんとは」は底本では「三好さんとは」]火をたいてあたたまつて居る処へ三人が連れ立つて帰りましたから、私は嬉しくつて飛出して行くと龍馬が、お前は早や来て居るかと云ひますから、欄干に血が附てゐましたがあなたやられはしませぬかと問へば、ウムやられたと手を出す。寄て見ると左の拇指と人指し指とをいためて居りました――。えんから飛出した時暗がりから不意にり付けたのを短銃ぴすとるで受止めたが切先きが余つてきずつひたのです――。つゞまり人指し指は自由がきかなくなつて仕舞ひました。

(三回)


◎此の屋敷で一月一杯居りましたが、京都の西郷さんから京の屋敷へ来いと兵隊を迎へによこして呉れましたから、丁度晦日みそかに伏見を立つて京都の薩邸へ這入りました。此時龍馬は創を負て居るからと籠にのり、私は男粧して兵隊の中にまじつて行きました……、笑止をかしかつたですよ。大山さんが袷と袴を世話して呉れましたが、私は猶ほ帯が無いがと云ひますと白峰さんが、白縮緬の兵児帯へ血の一杯附いたのを持つて来て、友達が切腹の折り結んで居たのだがマア我慢していきなさいと云ふ。ソレを巻きつけ髷をコワして浪人の様に結び其上へ頬冠りをして鉄砲をかつひで行きました。処が私は鉄漿かねを付けて居るから兵隊共が私の顔を覗き込んで、御卿様おくげさまだなどと戯謔からかつて居りました。小松さんは遙る/″\馬につて迎へに来て、お龍さん足が傷むだらうと私の鞋を解いて石でたゝひて呉れました。京都へ着くと西郷さんが玄関へ飛び出して、う来た/\お龍今度はお前の手柄が第一だ、お前が居なかつたら皆の命が無いのだつたと扇を開いて煽り立て、ソラ菓子だの茶だのつて大そう大事にしてくれました。つゞまり二月はここで暮し三月の三日一先づ薩摩へ行つては如何と西郷さんが勤めるので、小松さんの持船の三国丸へ乗つて私も一処に薩摩へ下りました。
逆鋒さかほこですが、山へ登たのは田中吉兵衛さんと龍馬と私と三人でした。(千里駒にはお龍が書生を伴ひて登山し逆鋒を抜き、後ち龍馬に叱られたりとあれど事実然らず)小松さんが霧島の湯治とうじに行つて居りまして私等も一処でしたが、或日私が山へ登つて見たいと云ふと、言ひ出したら聞かぬ奴だから連れて行つてやらうと龍馬が云ひまして、山は御飯は禁物だからコレを弁当にと小松さんがカステイラの切つたのを呉れました。此の絵(千里駒のお龍逆鋒を抜く図)は違つて居ます。鋒の上は天狗の面を二ツ鋳付いつけて一尺回りもありませうか、から金で中は空であるいのです。私が抜ひて見度う御座いますと云ふと、龍馬はやつて見よ六ヶ敷けりや手伝つてやると笑つて居りましたが田中さんは色を青くして、ソソレを抜けば火が降ると昔から言つてあるどうぞめて下さいと云ふ、私は何に大丈夫と鉾の根の石をサツ/\と掻のけ、一息に引抜いて倒した儘で帰りました。
◎此の顔(龍馬伝の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵)は大分似て居ます。頬はモ少し痩せて目は少し角が立つて居ました。眉の上には大きないぼがあつて其外にも黒子ほくろがポツ/\あるので、写真は奇麗に取れんのですヨ。背には黒毛が一杯生えて居まして何時も石鹸で洗ふのでした。長州の伊藤助太夫の家内が、ママ本さんは平生ふだんきたない風をして居つて顔付も恐ろしい様な人だつたが、此間は顔も奇麗に肥え大変立派になつて入らつしやつた、吃度きつと死花が咲いたのでせう、間もなく没くなられたと云ひました、コレは後ちの事です。
◎龍馬の歌もボツ/\ありましたが一々おぼえては居りませぬ、助太夫の家で一晩歌会をした時龍馬が、
行く春も心やすげに見ゆる哉
    花なき里の夕ぐれのそら
玉月山松の葉もりの春の月
    秋はあはれとなど思ひけむ
みました、私も退窟で堪らぬから
薄墨の雲と見る間に筆の山
   門司の浦はにそゝぐ夕立
と咏んで、コレは歌でせうかと差し出すと、皆な手を拍つてうまい/\なんて笑ひました、ホホホヽヽヽヽヽ。龍馬が土佐で咏んだ歌に、
さよふけて月をもめでししづ
   庭の小萩の露を知りけり
と云ふのがあります。伏見で江戸へ出立の時に、
又あふと思ふ心をしるべにて
   道なき世にも出づる旅かな
と咏みました。私の歌ですか……ホホ蕪拙まづいですよ。伏見の騒動の当時咏んで龍馬に見せたのが一ツあります。
思ひきや宇治の河瀬の末つひに
   君と伏見の月を見むとは
と云ふのです、龍馬の都々逸がありますよ、斯う云ふのです
 とん/\と登る梯子の真中程で、国を去つて薩摩同士(雪山按ずるに当時龍馬は姓名を変じ薩藩士と称して幕府の嫌疑を避け居たり。故に詩句の三巴遠を変じて薩摩同志とせるか)楼に上る貧乏の春(雪山按ずるにお龍氏も亦お春と変名し居たり。故に詩句の万里の秋を変じて殊更に春とせるか)辛抱しんぼしやんせと目に涙。
と云ふのです。小松さんの作つたのも一つ覚えて居ます。
西の国からおしゆの使ひ、風せう々として易水寒し壮士一たび去つて又還らず、ならにや動かぬ武士の道

(四回)


◎龍馬はソレは/\妙な男でして丸で人さんとは一風違つて居たのです。少しでも間違つた事はどこまでも本をたださねば承知せず、明白に誤りさへすれば直にゆるして呉れまして、此の後は斯く/\せねばならぬぞと丁寧に教へて呉れました。衣物なども余り奇麗にすると気嫌が悪るいので、自分も垢づいた物ばかり着て居りました。一日縦縞の単物ひとへものをきて出て戻りには白飛白しろかすりの立派なのを着て来ましたから誰れのと問ふたら、己れの単衣ひとへものを誰れか取つて行つたから、おれは西郷から此の衣物きものを貰つて来たと云ひました。長崎の小曽根で一日宿の主人等と花見に行く時お内儀かみさんが、今日はいのを御召しなさいと云つたけれど、私は平生着ふだんぎの次ぎのをて行きましたが、龍馬が後で聞いてヨカツタ/\と云つて喜びました。十人行けば十人の中で何処の誰れやら分らぬ様にして居れと常に私に言ひ聞かせ、人に軽蔑せられると云へば、れが面白いじや無いかと云つて居りました。
◎一戦争済めば山中へ這入つて安楽に暮す積り、役人になるのはおれはいやぢや、退屈な時聞きたいから月琴でも習つて置けとお師匠さんを探して呉れましたので、私は暫く稽古しましたが、あなたに聞ひて頂くならモ少し幼少ちいさい時分から稽古して置けば宜かつたと大笑でした。
あにさんは龍馬とは親子程年が違つて居ました。一ばんうへが兄さん(権平)で次がお乙女さん其次が高松太郎のママ、其次が又女で龍馬は末子です。龍馬が常に云つていました、おれは若い時親に死別れてからはお乙女とめあねさんの世話になつて成長ふとつたので親の恩より姉さんの恩がふといつてね。大変姉さんと中好しで、何時でも長い/\手紙を寄しましたが兄さんには匿して書くので、龍馬に遣る手紙を色男かなんかにやる様におれに匿さいでも宜からうと怒つて居たさうです。伏見で私が働いた事を国へ言つて遣ると云つて居ましたから、ソウしてはあなたが大変私にのろい様に見えるからお廃止よしなさいと止めました。姉さんはお仁王と云ふ綽名あだながあつて元気な人でしたが私には親切にしてくれました。(龍馬伝には「お乙女とめ怒って彼女を離婚す」とあれど是れ亦誤りなり、お龍氏が龍馬に死別れて以来の経歴は予委しく之を聴きたれど龍馬の事に関係なければ今しばらく略しぬ。されどの女丈夫が三十年間如何にして日月を過せしかは諸君の知らんと欲する所なるべし、故に予は他日を期しはしを改めて叙述する所あらんと欲す。請ふ諒せよ)私が土佐を出る時も一処に近所へ暇乞ひに行つたり、船迄見送つて呉れたのはお乙女姉さんでした。
◎私の名ですか、矢ツ張り龍馬の龍の字です。初めて逢つた時分お前の名のりよふは何う云ふ字かと問ひますから斯く/\と書いて見せると、夫れではおれの名と一緒だと笑つて居りました。
◎私の父は楢崎将作(千里駒に将監とあるは誤也)と云ふのです。青蓮院様の侍医でしたが漢学は貫名海岸先生に習つたのであの梁川星巌や其妻の紅蘭も同門でした。また頼三樹さんや池内大角(吉田松陰らと倶に斬らる)などゝも親密で私が幼少ちいさい時分には能う往来きして居ました。
◎長岡健吉(今井順静の変名)は龍馬が大変可愛がつて薩摩へも連れて行きましたが、朝寝をしてどうもならぬのです。処が犬が大嫌でしたから蒲団を被つて寝て居る時には、犬を枕元へ坐らせて置て揺り起すと、ヘイと云つて起き上り犬を見れば直ぐ又蒲団を引ツ被つて姉さん(海援隊の者はお龍を姉さんと呼び居たり)は悪るい事をする、なぞ云つて居りました。龍馬が長岡の様なキツイ顔付で犬が恐ろしいとは不思議ぢやないかと笑つて居りましたが、明治の初め東京で死んだのです。
◎野村辰太郎と与三郎(権平氏の女婿乃ち龍馬の甥に当る)と二人連で土佐を脱走して来たのです。丁度越前から二人来て海援隊へ入れて呉れと云つて居りましたが、野村と与三郎とは此処の隅ではペチヤ/\彼処の隅ではペチヤ/\とお国の事斗り話して居るので龍馬が大変腹を立て、お国の事は話さいでも知つて居る、天下を料理するものはどの国は斯様/\の有様、君の国は如何の風とか問ふたり聞ひたりしてこそ学問になるのだ。今越前から来て居るのをソツチのけにして置て自分勝手な話し斗りするとは怪しからぬ、と散々叱つて貴様の様な奴は役に立たぬから帰つて仕舞へと怒つて居りました。
◎忠広の刀、あれは兄さんが龍馬に、この刀が欲しいかと云ふから、欲しいと云へば、脱走せねばると云ふ、そんなら私も思案して見ませうと一旦返したさうですが、後に甲浦ママまで帰つた時、兄さんから龍馬に送つて呉れたのです。長州へ持つて来て見せました。
◎役者を一人かゝへた事があります。舞や踊りが上手でしたが、今日が踊り納だから一ツ踊つて、今日限り一切踊ることはならぬぞと踊らせました。後藤(象次郎)さんが、君の家来には役者も居るかと笑つた時龍馬が、役者も居れば花児こじきも居るが腸丈はらわただけは奇麗なぞと云つたさうです。白峰駿馬は越後の生れ、左柳高次は讃州志度の者で本名は浦田運次郎、高次と云ふのは龍馬がつた名です。
◎支那人の子を一人抱へました。父親は上海しやんはい辺の者で長崎へ商売に来て居て出来た子で名は矢ツ張り支那流の六ツか敷い名でしたが、龍馬が支那から日本へまで遙る/″\来たのだからと春木和助と云ふ名をやりました。

(五回)


◎橋本久太夫は元幕府の軍艦へ乗つて居たので、大酒呑でしたが舟の乗り方は中々上手でした。大坂沖で舟の中で酒場喧嘩をし出来でかし、海へ飛び込んで逃げて来て抱へて呉れと云ふから家来にしたのです。後に薩摩から長崎へ廻航の時甑灘こしきなだで大浪に逢ひ、船は揺れる、人は酔ふ、仕方が無いのです。私はテーブルに向ひ腰をかけ月琴を弾いて居ると、龍馬は側でニコ/\笑ひながら聴いて居りました。暫くして便所へ行かうと思つたが船が揺つて歩けぬから匍匐う様にして行つて見ると、皆んな酔つて唸つて居るに久太夫が独り五体を帆穡ほばしらへ縛り付け帆を捲ひたり張つたりして働いて居りましたが、私を見るより、奥さんでさへ起きて居るぞ貴様等恥を知れ/\と大声で呼はつて居りました。天草港へ着きかけると皆な起きて来て衣物きものを着換へるやら顔を洗ふやら大騒ぎ、久太夫は独りつくなんで見て居りましたが私が、港が見えだすとソンナ真似をしてお前等何だ酔つて寝て居た癖に、と云ふと橋本がソラ見よ皆来て誤れ/\、と云つて、此奴は一番酔つた奴、彼奴は二番三番と一々指さすと皆平伏してまことに悪うご座りましたと誤つて居りました。ホヽ私悪いことをしたもんですネー。すると龍馬が出て来て、ソンナ事をするな酔ふ者は酔ふ酔はぬ者は酔はぬ性分だから仕方が無いと笑つて居りました。ソレから港へ着くと薩摩の旗を樹てゝ居るから迎へに来る筈ですが浪が荒くつて来れないのです。おりるには桟橋もなし困つて居ると久太夫がいかりを向の岸へ投げ上げ綱を伝つて岸へ上り、荷物など皆な一人で世話して仕舞ひました。龍馬が大さう喜んで、お龍よ橋本の仕事は実にいさぎよひ、己れの抱へる者は皆なコンな者だと褒めて居りました。
◎新宮次郎さんは土佐の新宮村の人で始めは馬之助と云つて髯が立派で美しい人でした。龍馬が云つてますには、己はさきへ立つて籔でも岩でもヅン/\押し分けて道開きをするので、其の跡は新宮が鎌や鍬やで奇麗につくらつて呉れるのだつて……。あの広井磐之助の仇討はこの新宮さんが助太刀をしたのです。(千里駒には龍馬が助太刀したりとあれど誤也)話を聞けばソレお話にもならぬ……。アノとんと騒ぎから起つたので仇討をする程の事では無い、と龍馬が云つて居りました。討たれた棚橋とか云ふ男にも、龍馬が気の毒に思つて、君をねらつて居る者があるから早く逃げよと云つたら、討ちたければ討つがよい此方も夫れ丈の用心する、と云つて居ましたそうな。
◎武市(半平太)さんには一度逢ひました。江戸から国へ帰る時京都へ立寄つて龍馬に一緒に帰らぬかと云ふから、今お国では誰れでも彼れでも捕へて斬つて居るから、帰つたら必ずヤラれると留めたけれども、武市さんは無理に帰つて、果してあの通り割腹する様になりました。龍馬が、おれも武市と一緒に帰つて居たもんなら命は無いのぢあつた。武市は正直過ぎるからヤられた惜しい事をした、と云つて溜息をして話しました。
◎門田為之助さんは肺病で死んだのです、長州俊姫様の嫁入りの事で奔走して居ましたが一度面会に来て、私も此の事が成就せねば切腹せねばならぬから、事によるともうお目にはかゝらぬと云ふから餞別をして上げましたがうまくヤツたのです。門田は立派にヤツて呉れて難有い、仕損じたら土佐の名を汚すのぢやつたと龍馬が嬉しがつて居りました。

(六回)


◎海援隊の積立金ですが、アレはママ野や白峰や中島やが洋行して使つて仕舞つたのです。龍馬が斬られた時は私は長州の伊ママ助太夫の家に居りました。丁度十一月の十六日の夜私は龍馬が、全身あけに染んで血刀を提げしよんぼりと枕元に立つて居る夢を見て、ハテ気掛りな龍馬に怪我でもありはせぬかと独り心配して居りますと、あくる十七日の夕方左柳高次が早馬で馳せ付け私の前へ平伏して、姉さん、と云つたきり太息といきをついて居りますから、ては愈々と覚悟して、こみ上げる涙をじつと抑へ、左柳これを着かへなさいと縮緬の襦袢を一枚出してやつて別室で休息させ、私は妹の君江と共に香を焚て心斗こゝろばかりの法事を営みました。九日目に三吉さんや[#「三吉さんや」は底本では「三好さんや」]助太夫やも寄合つてあらためて法事を営みましたが、私は泣いては恥しいと堪え/\していましたが到頭堪え切れなくなつて、鋏で以て頭の髪をふツつりと切り取つて龍馬の霊前へ供へるが否や、覚えずワツと泣き伏しました。ソレから色々して居る内中島と石田英吉、山本幸堂の三人が迎へに来て、一旦長崎へ下り龍馬の遺言で菅野と君江との婚礼を済ませ、それから大坂へ出て、土佐へ帰りました。其跡で中島菅野白峰の三人が洋行したのです。
◎龍馬の石碑なども元は薩摩で(彫)つたのです。私はソレを聞いて吃驚し海援隊の者に話すとソレは不都合と云つて、つゞまり其石を薩摩から譲り受けて海援隊の名義で立てました。
◎千葉の娘はお佐野(千里駒には光子とありて龍馬より懸想したりと記したれど想ふに作者が面白く読ません為めに殊更ら構へたるものなるべし)と云つてお転婆てんばだつたさうです。親が剣道の指南番だつたから御殿へも出入したものか一橋公の日記を盗み出して龍馬に呉れたので、龍馬は徳川家の内幕をすつかり知ることが出来たさうです。お佐野はおれの為めには随分骨を折てくれたがおれは何だか好かぬから取り合はなかつたと云つて居りました。
◎龍馬の生れた日ですか、天保てんぽ六年の十一月十五日で丁度斬られた月日(慶応三年十一月十五日)と一緒だと聞ひて居るのですが書物には十月とあります、どちらがしんだか分りませぬ。龍馬の名乗りの直柔なほなりと云ふのは後に換へた名で初は直蔭なほかげと云つたのです。伏見で居た時分に、直蔭は何日迄も日蔭者の様でイケないから直柔と換へると云つて換へました。
◎私も蔭になりひなたになり色々龍馬の心配をしたのですからセメて自分の働た丈の事は皆さんに覚えて居て貰い度いのです。此の本(千里駒及龍馬伝)の様に誤謬が多くつては私は本当に口惜くちおしいですヨ……。私は土佐を出てからは一生墓守をして暮らす積りで京都で暫らく居つたのですけれど母や妹の世話もせねばならず、と云つた処で京都には力になる様な親戚もなし、東京にはまだ西郷さんや勝さんや海援隊の人もボツ/\居るのでそれを便りに東京へ来たのですが、西郷さんはあの通り……、中島や白峰は洋行して居らず……随分心細い思ひも致しました。私は三日でも好い、竹の柱でも構はぬから今一度京都へ行つて墓守りがしたいのです、が思ふ様にはなりませぬ……。龍馬が生きて居つたら又何とか面白い事もあつたでせうが……、是が運命と云ふものでせう。死んだのは昨日の様に思ひますが、早や三十三年になりました。
と、情には脆ろき女性の身の双の瞼に雨を醸して此の雪山に語られたので、元来泣き上戸の雪山は覚えず袖を絞りました。





底本:「坂本龍馬全集」宮地佐一郎、光風社出版
   1988(昭和63)年5月20日発行
底本の親本:「土陽新聞」
   1899(明治32)年11月4、5、7〜10日
初出:「土陽新聞」
   1899(明治32)年11月4、5、7〜10日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「斬ったる」「怒って彼女を」の促音が小書きになっているのは底本通りです。
入力:Yanajin33
校正:Hanren
2011年5月19日作成
2012年9月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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