思ひ出すままに

「文藝春秋」と菊池と

宇野浩二




 私が「文藝春秋」の創刊号を見たのは、たしか、本屋の店頭であつた。しかし、今から思ふと、いくら呑気な大正時代でも、あんな粗末な体裁のわるいうすぺらな雑誌が、数多あまたの名のある雑誌がならんでゐる店頭で、目につく筈がない。が、又、考へ方によつては、なるべく目に立つやうにとさまざまに工夫をこらした沢山の雑誌の表紙がならんでゐる店頭の隅に、もし、あの「文藝春秋」が、置かれてゐた、とすれば、却つてあの無造作な何の変哲もない表紙が人の目に附いたのかもしれない。(『無造作』といへば、菊池は、何をするにも無造作であつた。)
「文藝春秋」は、大正十二年の一月に、菊池 寛の主宰で、創刊号が出た。菊池は、その編輯を殆んど自分一人でし、その経営も自分でした。菊池は、その頃、れつきとした中堅作家として認められ、又、新聞や婦人雑誌に連載する長篇小説なども書いてゐたが、いくら定価金拾銭の薄つ片なものでも、月刊の雑誌などを出す余裕は殆んどなかつた。それにもかかはらず、菊池が、「文藝春秋」を出したのは、ほかにも理由はいろいろあつたけれど、文学に対する一途な情熱を持ち、新人を出したいといふ考へを多分に持つてゐたからである。(それで、菊池が世に出したその頃の新人を二人だけ上げると、横光利一と川端康成である。)

 大正十二年の一月の中頃であつたか、私は、その頃の或る日、那須温泉で保養をしてゐた江口 渙をたづね、そのついでに、そこに一週間ほど滞在した。その那須に滞在ちゆうに、私は、江口と連名で、菊池に、那須温泉の絵葉書で、便りを出した。その返事に、菊池から、「拝啓。ハガキ拝見。両兄にもぜひ『文藝春秋』に寄稿してくれないか。この手紙に返事をかくと思つて二枚から五枚程度のものを書いてくれないか。原稿料は拾円均一。たのむ。ヒマだらうからぜひ書いてくれないか。何でもいい。折り返し書いてくれないか、……」といふ手紙が来た。(この『書いてくれないか』といふ文句が三つ重ねてあつた。)
 この手紙をよんで、江口と私は、返事のつもりで原稿を書いてくれ、とか「原稿料は拾円均一」とか、「ヒマだらうからぜひ書いてくれ」とか、『書いてくれないか』といふ文句を三つも重ねるところなど、「いかにも菊池らしいなあ、」「いや、これは、菊池流のものの考へ方だよ、」などと、語り合つたことであつた。

 ところで、原稿料が、『拾円均一』とは、一枚拾円といふ意味ではなく、二枚でも、五枚でも、何枚でも、一篇が『拾円均一』といふ意味である。――これなどはまつたく菊池流ではないか。

 さて、この時、私は、那須から諏訪の方へまはつたので、原稿は書けなかつたが、江口は、菊池の求めに応じて、すぐ原稿を書いて、菊池に送つた。これが、「文藝春秋」の二月号に出た、『斬捨御免』である。これは、(江口の文章によると、)「当時の文壇の、大家、中堅、新進、のおよそ二十名ちかくを相手にして、悪罵のかぎりをつくした」もので、「喧喧囂囂たる物議」をかもしたもので、この文章のために、「文藝春秋」の、二月号が売りきれ、三月号も四月号も売りきれた、と云はれてゐる。(この那須滞在ちゆうの話は江口の『わが文学半生記』に寄つた。)

 ここで、(これから、)少し『わたくし事』を書くことになり、「文藝春秋」そのものについて、思ひ出すままに、いろいろな事を述べる段になつたが、自分にあまり関係のない事であり、さらでも記憶力のにぶい私の臆測であるから、これから先きに述べることは、おそらく、『マチガヒ』だらけであらうことを、あらかじめ、おことわりしておく。
「文藝春秋」は、大正十二年の一月に、表紙に大きな活字で『一月創刊号』と現したのが、たしか、春陽堂から、発行された。(が、編輯は菊池の自宅でされたのではないか。さて、)「文藝春秋」は、二月号、三月号、と、まづ順調にすすんで行つた、が、九月号は、あの大地震のために、製本ちゆうに、すつかり焼けてしまつたので、出なかつた。その時、春陽堂から発行してゐた、「新小説」の九月号も、やはり、災害に遇つたのか、出なかつた。それで、たしかもう発行できないからといふ理由で、私が「新小説」の九月号のために書いた『東館』といふ短篇を、春陽堂から、かへして来た。そこで、私は、あの那須に滞在ちゆうによこした手紙を思ひだし、この小説を「文藝春秋」に、と思ひついて、駒込神明町の菊池の内をたづねたが、菊池は留守であつた。その家の入り口をはひつたところのがらんとした十畳ぐらゐの板じきの部屋に部屋の三分の一ぐらゐの大きなピンポン台が据ゑてあつて、その右のかたはらに藤森淳三(その頃の新進評論家、今は日本画の評論家)が一人しよんぼり立つてゐた。藤森は震災後この家にちよいと居候をしてゐた。(菊池は、この時分、殊に周囲に集まつて来る文学青年たちの面倒をよく見てゐたやうである。ところで、)その時、私が菊池の留守宅にあづけてきた小説は、たぶん、「文藝春秋」の十月号か十一月号に、出たやうであつた。

 さて、これから先きに述べることは、たいてい私のうろ覚えと聞きかじりと臆測によつて書くのであるから、マチガヒだらけの記述になるであらう事を、くりかへしお断りし、そのマチガヒによつて、お名前を出した方たちに大変な御迷惑になる事があつたら、前もつて厚くお詫び申しあげておく。
 さて、「文藝春秋」の発行所は、大地震後に駒込神明町の菊池の自宅に移つたとして、それから、大正十五年の六月に、麹町下六番町の有島邸に変るまで、菊池の自宅にあつたのであらうが、その二年半ほどのあひだの事は私は殆んどまつたく知らない。が、有島邸に編輯所があつた時分のことで、一つ印象に残つてゐる風景(眺め)のやうなものがある。市ヶ谷見附からだらだら坂になつてゐる広い道をしばらく歩くと屋敷町になる。その屋敷町を通つて四つ角のところで右にまがると、そのあたりでも目に立つ長屋門のある屋敷が有島邸だ。しかし、歌舞伎劇の舞台によく見る、江戸時代の大名屋敷などにある、左右に長屋を建てかまへた、立派な門をくぐると、中は案外に殺風景で、広い明き地のやうな中庭がいやに目に立ち、空家のやうな感じさへした。さて、その長屋門をはひると、だだぴろい中庭の右側に、長屋のやうに見える六畳ぐらゐの部屋がよつつほど並んでゐて、その外側に、四つの部屋に共通する、長い広い縁側がついてゐた。が、床が高すぎるので、その縁側を上がり下りするのには大へん骨がをれた。文藝春秋社はその四室のうちの三室を借りてゐたのではないか。私はそこへ二三度しか行かなかつたが、いつも知らない人が四五人ほどゐただけで、その三つの部屋のまん中の部屋の片側にある本棚に、その頃、菊池が、興文社からたのまれて、芥川と二人の名で、編纂することになつてゐた、『小学生全集』に使ふための参考書らしい本がばらばらに並んでゐた。

 文藝春秋社が雑誌界にしだいしだいに雄飛するやうになつたのは、昭和二年の九月に、麹町区(今の千代田区)内幸町の大阪ビルの何階かに越した時からであらう。しかし、初めの数年間は、株式会社になつてからも、まだまだ楽ではなかつたやうである。それで、実際的なところが多分にある菊池も、放漫的なところも幾分かあるのが、気になつたのか。菊池は、文藝春秋社の仕事を安心して任せられる人(自分の相談相手になつてくれる人、自分の代理もできるやうな人、ひらたく云へば、会社の取締役が十分に勤まるやうな人)が必要なことを痛感したのであらう。それで、菊池は、二人の候補者を思ひついた。それは、菊池より七八ななやつつ年下で、一人は、大学の独文科を出てから、地味な写実的な手法で描きながら淡い詩情をただよはせるやうな戯曲によつて有望な新進戯曲家として認められてゐた、温厚で質実な人柄のナニガシで、他の一人は、日常の生活を描きながら繊細な情緒をただよはせるやうな小説によつて有望な新進作家と属望されながら、創作の筆を絶つて、文藝春秋社につとめてゐた、物やはらかで著実な性質の佐佐木茂索である。菊池は、この二人のうちから、『グッドセンス』(菊池が大正十四年に書いた『文壇交友記』のなかの言葉)のある佐佐木をえらんだ。(シナに、『伯楽の一顧』といふ文句がある。これは、「名馬が、伯楽に出遇うて世に知られ、その価値を増した」といふ故事から出たもので、この名馬また駿馬でもある。この句をこじつけて言へば、この場合、佐佐木はすぐれた人であり、その佐佐木を見つけた菊池は、世にすぐれた識者である、名伯楽ともいふべきか。)

 はたして、文藝春秋社は、佐佐木が菊池を助けるやうになつてからは、好調の波に乗つた。

 いつ頃のことであつたか。文藝春秋社から出してゐる「話」といふ雑誌の売れゆきが大へん少なくなつたので、菊池と佐佐木が主になつて「話」を編輯することになつた。それを漏れ聞いた私などは、菊池や佐佐木などが……と、高をくくつてゐると、それはまつたく見当ちがひで、二人が主になつて編輯し出してからは、「話」は、しだいしだいに評判がよくなつて、すこぶる『黒字』になつた。
 おなじ頃であつたか、文藝春秋社から「これまで、『文藝春秋』は、他の諸雑誌の不振のために、その収益をそれらの諸雑誌の損失に当ててゐたが、それらの諸雑誌がやつと順調になつたので、以前のやうな原稿料がお払ひできるやうになりましたから、……」といふ意味の文句を書いた印刷物が来た。(これは雑誌社としてはまつたく珍奇な事であるから殊更に書いたのである。)
 佐佐木が、文藝春秋社の唯一人の取締役(菊池の補佐役)として、日本の文学界に特殊な貢献した仕事の一つは、昭和十年に、菊池とはかつて、この国の最初の文学賞である、芥川賞と直木賞を創設した功績であらう。(それから、文藝春秋社時代の芥川賞のために、文字どほり、まつたく『縁の下の力持ち』をしたのは、永井龍男である。その頃に委員の一人であつた私は、永井の熱心さには、実に感心した。)
 芥川賞と直木賞といへば、思ひ出したことがある。それは昭和十三年であつたか十四年であつたか。ある夜、菊池が、数人の友人を呼んで、(私もその時よばれた、)「芥川賞と直木賞は、たとひ文藝春秋社がなくなつても、これだけは、存続したい、それで、この『賞』だけをつかさどるものを造りたい、」といふ意味のことを云つた。これが日本文学振興会である。その席で、誰であつたかが、芥川賞と直木賞のほかに、たしか、五十歳を越した作家に、前年にすぐれた作品を発表した人を選んで、菊池賞とでもいふのを設けては、と主張した。それがほぼ極まりかかつたところで、菊池が、ときどきそんな顔をする、いかにもキマリのわるさうな顔をして、「僕の名を使ふのは……」と云つた。が、その席にゐた多くの人たちが主張して、菊池賞が設定されたのであつた。その菊池賞の第一回の受賞者は徳田秋聲であつた。

 昭和二十一年であつたか二十二年であつたか。その年の秋の昼頃、まだ松本に住んでゐた私が、新興の新生社をたづねるつもりで、まだエレベエタアのない時分であつたから、内幸町の大阪ビルの六階まで息をきらしながら上がつて行つて、たしかの締まつてゐなかつた一つの部屋にはひると、思ひがけなく、その大きな部屋の中はうす暗く、入り口のすぐ近くのテエブルの片隅で、鷲尾洋三が一人で何か書き物をしてゐた。私は、はッとして、面くらつた。新大阪ビルと大阪ビルをまちがへたのである。新大阪ビルの六階の新生社の部屋は、あかるくて、その大きな部屋の片側には長いテエブルが三列にならび、その三列のテエブルの前で三十人ぐらゐの社員がさも忙しさうに仕事をしてゐた。ところが、大阪ビルの六階の文藝春秋社の部屋は、やはり大きいけれど、がらんとして薄ぐらく、向かうの薄ぐらいところに三四人の人影がちらほらと動いてゐるやうに見えるだけであつた。さて、私が、鷲尾のそばに腰をかけ、その頃ほとんど一人で『文藝春秋』の編輯をしてゐたらしい鷲尾に、松本の方へ手紙で原稿をたのまれてゐたのに、「もしも小説が書けても、あの薄つ片な『文藝春秋』では……」と云ふと、鷲尾は、声にはあまり力がなかつたけれど、意気ごんだ調子で、「いえ、『別冊』といふのを出して、その方で小説に力をいれるつもりでをります、」と云つた。
 今、あの時分のことをしづかに考へると、人事ではあるけれど、菊池は、止むを得ない事情で、離れてしまひ、肝心の佐佐木は見えないものに縛られたやうな不自由な立ち場にあり、頼みに思ふ池島信平はいつ遠い外地から帰るかはわからず、鷲尾は、大学時代に同級であつた、沢村三木男とともに、ありふれた古いいやな文句であるが、『孤軍』といふやうな思ひを、一年あるひはもつと、したであらう、と、私は、感じる。
 しかし、又、私は考へる。昭和何年から文藝春秋新社は創立されたか知らないが、その社長になつた佐佐木は、菊池とはまつたく違つた形であるが、やはり、雑誌社の社長として、たぐひ稀な名『伯楽』である。この名伯楽は、菊池が、作家として、横光、川端、その他を、世に出し、寄稿家として、芥川、直木、その他を、選んだやうに、佐佐木は、編輯者として、池島、上林吾郎、その他、数かずの辣腕家を、社員としては、他の類のないやうな働き者を百数十人も、見出してゐる。

 まつたく無名時代に『葛西善蔵論』(私は、その原稿を持つてゐるが、しまひなくした。)を書いた菊池が、文学の雑誌として、名も「文藝春秋」として創刊したのが、いつとなく、殆んど誰にも読まれる雑誌とし、それをついだ佐佐木が、百万人に読まれる、とかいふ、日本一とも云つてもよい、雑誌にしたのは、これこそ、まつたく、ただただ、驚歎するばかり、と云ふほかに、云ひやうがないではないか。





底本:「日本の名随筆 別巻96 大正」作品社
   1999(平成11)年2月25日第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋」
   1955(昭和30)年11月特別号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年11月28日作成
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