上司小劍は、明治七年十二月十五日に生まれ、昭和二十二年九月二日に死んだ、かぞへ
年七十四歳であつた。
小劍は、親友の、徳田秋聲より
三つ
下であり、正宗白鳥より
五つ
上であつた。
小劍は奈良の生まれであり、小劍の父は攝津の多田神社の
神主であつた。その父の名は延美といひ、その子の小劍の本名は延貴といふ。(それで、小劍の初期の作品のなかに神社と神主を題材にした小説が多いのである。)
小劍の處女作は、明治四十一年の八月に「新小説」に發表した『神主』である。明治四十一年といへば小劍の三十五歳の
年であるから、それからずつと小説を書きつづけてゐれば、小劍は、もつとちやんとした作家になつてゐたかもしれない。
ところが、小劍は、その處女作を發表した
年の十年ぐらゐ前から、讀賣新聞社にはひつて、社會部につとめながら、論説を擔當し、しかも、その論説は當時かなり好評を博してゐたので、そんな事でも氣をよくして、その十年ぐらゐの
間、新聞記者を本職として、一所懸命に、つとめてゐたのであらう。それで、その
間の小劍には、小説は、文字どほり、餘技であり、
小遣ひ
取りであつたかもしれない。
されば、小劍は、わりに評判のよかつた處女作を發表してからも、たいていの新作家のやうに、調子に乘るやうな樣子はほとんどなかつたけれど、それでも、矢つぎ
早に小説を書いた。が、それらの小説は、特徴のやうなものはあつたけれど、氣の拔けたところがあるやうな作品ばかりであつた。そのかはり、小劍は、新聞記者としてはよく働いたらしく、明治四十三年には、文藝部長兼社會部長となり、大正四年には、編輯局長兼文藝部長兼婦人部長になつた。
その
年(つまり、大正四年)の初夏、大學を出ると、すぐ、讀賣新聞社にはひつた。青野季吉が、ずつと
後に、その時分の事を囘想して、「その前年『鱧の皮』で世評をかち得、さらに『父の婚禮』に集められた短篇集を發表し、長篇『お光壯吉』を世に問うてゐた小劍は、私の目には仰ぎ見たいやうな
歴とした作家であつた。また文壇的にもほぼそれに近い存在となつてゐた。仕事の上役としての小劍は、ほとんど下役との接觸を避けるやうな、一種の遊離性を意識して
保たうとしてゐたやうに見えた。今の私には、その氣持ちがかなりはつきり理解できるが、當時は、それを怜悧な保身術と解し、
京阪の人間としての本性と
結びつけて考へない
譯にいかなかつた。さういふ小劍は、過去を語ることをひどく避けてゐたが、ただ一度、私に、
半ば獨語的にかう云つたのを覺えてゐる。『相手の拔き身を
素手で受けるぐらゐ、馬鹿な
眞似はありませんからねえ。』おそらくこの言葉ぐらゐ、小劍を理解する上に、暗示にとんだ言葉はないと思ふ。小劍は、あらゆる意味において、『
素手』でなかつた作家である」、と述べてゐる。
この青野の説は、小劍の、全面はあらはしてゐないが、半面ぐらゐは
傳へてゐる。
ところで、私は、小劍の全盛期(といふものがあれば、それ)は大正三四年から十年ぐらゐまでである、と思ふ、つまり、その
間の七八年か十年ほどが、小劍が、まづ「歴とした作家」として存在した時代であつて、それから後の小劍の作品は、嚴しくいへば、あらゆる作家がさうであるやうに、無理に書いたものが多いやうに思はれるからである。それは、小劍は、大正十一年から、ある新聞に、『東京』といふ四部作の長篇を書いてから、地方の新聞に通俗めいた小説を書いたことでもわかる。しぜん、私が讀んだ小劍の小説は、この大正のはじめの七八年か十年ぐらゐの
間の作品である。
小劍の出世作は、たいていの人に知られてゐるやうに、大正三年の一月の「ホトトギス」に出た『鱧の皮』である。これは非常な好評を博した。しかし、『鱧の皮』は、あらゆる評判になつた作品がさうであるやうに、何人かの批評家が、最大級の言葉で、「これは傑作である」、と
吹聽するやうに稱讚したために、多くの人が、云ひつたへ聞きつたへして、「あれは傑作だ」、「あれはおもしろい小説ださうだ」、と、附和雷同して、傑作にまつりあげたやうなところもある。
それはそれとして、前に述べたやうに、小劍は、この『鱧の皮』によつて、いはゆる文壇的地位を確立したのであつた。それで、小劍は、大正五年の一月から、新聞社には文藝部長といふ名目だけ殘して、創作に專心するやうになつた。
ところで、
今、『鱧の皮』を讀みかへして見ると、この小説は、書き方は、そのころ流行してゐた自然主義の小説と共通した、寫實的ではあるが、さうして、
趣向は
古めかしくて通俗的なところさへあるけれど、全體に見れば、まづ渾然とした作品である。それから、この小説の特色は、作ちゆうの人物たちのつかふ大阪の言葉が實に巧みな事である、(大阪の庶民のつかふ大阪の言葉をもつとも巧みにこなしてゐるのは、私のせまい讀書の範圍で知るかぎりでは、織田作之助であつたけれど、そこに織田の好みがはひつてゐたのが
疵であつたから、今のところでは、小劍の右に出づるものはない。)
さて、この集にをさめられてゐる小説は、たいてい、私のいふ小劍が
脂の乘つてゐる時分に、書いたものであるが、ある批評家は、この頃の小劍を「情話作家の一人」と稱してゐる。小劍を『情話作家』ときめてしまふのは考へ物であるが、『父の婚禮』にも、『石川五右衞門の生立』にも、『兵隊の宿』にも、『ごりがん』や『太政官』のやうなものにも、その中に、それぞれ、
形のかはつた色事が、かならず、書かれてある。『色事』とは、いふまでもなく、「男女間のみだらな
行ひ」といふ程の意味である。さうして、小劍は、その色事の場面をあらはす時、殊更に興味をもち、時には舌なめづりをして書いてゐるかと思はれるやうな事さへある。さうして、時には變態的かとさへ思はれる事もある。(その一例は『太政官』である。)ところが、かと思ふと、齒がうくやうな戀愛を書くこともある。その前の例は、『太政官』のなかの、主人が、大幅の清少納言の
後向きの姿の「繪姿の頸筋のあたり」を、舌の
尖端でかるく

める、といふところであり、その後の例は、『兵隊の宿』のなかの、お光といふ女主人公が、をさな
馴染の小池といふ畫家を、(その畫家が東京から大阪ゆきの汽車に乘つてゐる姿を、)夢みるやうに、空想する場面である。(この小池壯吉は、小劍その人を思はせる人物で、未完成の中篇小説『お光壯吉』の男主人公である。)(この小説について、後に、作者は、「二十世紀の心中物語」と述べてゐるが、小劍にもこのやうな好みもあつたのである。)
それから、『太政官』についても、小劍は、やはり、後に、「淺薄愚劣なる今の政治なるものと政治家なるものとを描くにふさはしい材料であると思ふ。私はこれからかうした方面にも、大いに筆をつけてみたいと思つてゐる。」と意氣ごんで述べてゐる。しかし、この小説は、作者が描いたつもりでゐる「政治なるものと政治家なるもの」などより、主人公の『太政官』の
風がはりな性格と生活の方がをもしろさうに書かれてゐる。「風がはりの性格」といへば、『ごりがん』や『石川五右衞門の生立』の主人公もさうであるが、風がはりなところなど殆んどなささうに見えた小劍には、かへつて風がはりな人間に興味があつたのか。それもあつたかもしれないが、小劍には、おもしろをかしく書く、(書いてやらう、)といふ興味が多分にあり、しぜん、おもしろをかしく書く『腕』も
十分にあつた。(ところが、役者があまり藝を鼻にかけてやりすぎると、あの役者の藝はクサイ、と云はれる事がある。つまり、一方に偏して否味になる事である。)それで、小劍のうまさは、(もしあれば、)ときどきクサクなる事である。
「……これは俺の柿や言うて、自分一人のもんと勝手にきめたかて、柿の方では、そんなこと知りよれへん。……これは俺の柿やときめるのは嘘や。誰の柿でもない、柿は柿の柿や、そやなかつたら、みんなの人の仲間持ちや。」
これは、『石川五右衞門の生立』のなかの、少年の文吾(
五右衞門の幼名)が、母に、柿を取つてたべた事を、見やぶられ、
詰られた時に、した辯明の言葉のなかの一節である。
「田賣らうにも、値が下がつてるし、第一けふ日は不景氣で買ひ手があろまい。」
「百姓は割に合はん仕事やちうことは、よう分かつてるが、そいでも地價がズン/\騰るさかい、知らん間に身代が三層倍にも五層倍にもなつたアるちうて、みな喜んではつたが、かう不景氣ではそれもあきまへんなア。」
これは、『太政官』のなかの、村役場の
中の、助役と
臨時雇の老人、その他の人の問答のなかの一節である。
小劍は、たしか、白柳秀湖などと一しよに、平民社(
註――明治三十六年、幸徳秋水、堺枯川らが創立した、その頃の社會主義者たちの結社の一つ)に、いくらか關係した事があるので、いはゆる社會主義的な教養が相當にあり、それに、理論だけの無政府主義的な思想(あるひは、
好み)もかなり持つてゐたやうである。それで、それが、小劍の多くの作品の
中に、
味をつけるために、しばしば、出てゐて、小説をおもしろくしてゐるところがある。さうして、それは、この集の中にをさめられてゐる小説の中にも、いたるところに、出てゐる。
それから、『それ』は、晩年まで、小劍の話の中にも、ちよいちよい、出た。いや、小劍に逢つて話をしてゐると、いつでも、かならず、話のなかに『それ』が出た。
ところで、私は、小劍が、かういふ、初期の作品のやうな、『それ』の出る、小説を、晩年まで、もし書きつづけてゐたならば、大げさに云へば、日本の大正昭和の文學に、小劍
流の、誰にも書けないやうな、獨得の、小説が、殘つたであらう、と、殘念に思ふのである。
それから、この集にをさめられてゐる幾つかの小説の中にあるやうな、色事を書いたところなどは、よしあしは別として、(わたくし事ではあるが、私はあまり好まないけれど、)相當のものである。それは、ある
種の作家たちが書くやうな、
附燒刃でなく、作者の身についた物であるからである。(何と、近頃は、附燒刃の作品の
多すぎることよ。)
さて、『父の婚禮』といふ小説のなかに、作者の父らしい人が、二尺五寸ぐらゐの長さの、おなじ
太さの、炭を、二十本ほど、
弦のついた鋸で、おなじ長さに、切るのに、半日つひやすところがあるが、かういふ、几帳面さ、凝り性、癇性、妙な贅澤さ、それが病的でさへあつたところは、小劍も、持つてゐたやうである。
いつ頃の作であつたか、小劍に『膳』といふ短篇があつた。主人公が、膳を買つて來て、それを、自分で、丁寧に
拭いたり、疊の上において眺めたり、寢る時には枕もとに置いて、目をさます
毎に眺めたり、する。うろおぼえであるが、それだけの話を、作者は、いかにも、樂しさうに、書いてゐるのである。
いつの頃事であつたか、(むろん、大正時代の事である、)小劍は、自分の家の玄關の
沓脱のある『タタキ』を、毎朝、自分で、
雜巾がけをする、そのかはり、そこからはいかなる人でも
出はひりをさせない、といふやうな事を、私は、誰からとなく、聞いた。しかし、この話は、傳説(あるひは、風説)のやうなものであり、
輪に輪をかけたやうなものであらう。けれども、その時分の小劍は、このやうな噂がたつても、本當に思はれるやうなところもあつた。
それから、小劍は、やはり、世界で有數の最高級の蓄音機を持つてゐる、それは千圓以上(
今日の
金でいへば、數十萬圓か、)である、といふ噂もたつた。しかし、これは、單なる噂ではなく、本當であるらしかつた。
本當といへば、小劍は、約束の時間におくれる人を、ふるい形容であるが、蛇蝎のごとくに、憎んだ。しかも、その
後れる時間といふのが、一時間とか半時間とか、十分とか五分とか、いふのではなく、二分とか一分とか、時には何十秒とか、いふのである。さうして、これが本當である、といふのは、小劍は、たとへば、人を或る場所で待ちあはす時、自分の懷中時計を見ながら、何分あるひは何十秒、といふやうな
計り
方をしてゐる事や、ナニガシ君は、たしか、一分三十秒おくれただけであつた、と感心した事などを書いてゐるからである。さうして、私は、これを讀んだとき、小劍は、蓄音機とおなじやうに、時計も、世界で有數の最高級の時計を幾つか、持つてゐるのであらう、と、いささか羨ましい氣がしたことであつた。
ところで、小劍といふ人は、私の知るかぎり、たいてい、どんな會にも、出席し、誰にも、(私のやうな者にも、)愛想がよかつた。ところが、小劍とほとんど同時代の秋聲や白鳥などは、それほど愛想はよくなかつたのに、私は、したしみが持てたけれど、小劍には、どういふわけか、したしみが持てなかつた。
ところで、私の知るかぎり、作家といはれる人は、多少とも、どこかに、なにか、藝術家らしいところがあるが、小劍にはそれが殆んどなかつた。
しかし、くりかへし云ふが、さきに述べた、大正三四年から十年ぐらゐまでの七八年の間の小劍の幾つかの小説は、まつたく獨得のものであり、押しも押されもせぬ作品である。さうして、この集にをさめられてゐる小説は、もとより、缺點もあるけれど、その押しも押されもせぬ作品の中にはひるであらう。