茂吉の一面

宇野浩二




 私は、これまで斎藤茂吉についてはいろいろ余り書きすぎたので、今、いくらどんあたまをひねっても、どうしても書く事が浮かんでこない。
 さて、私の手もとに、『斎藤茂吉全集』の書簡篇に自分の持っている茂吉の手紙と葉書を提出してからのちはからず或る本にはさんであったのを見つけた、二通の茂吉の葉書がある。その一通は、スタムプによると、昭和十一年の一月三十一日(午後零時――四時)で、富士山を図案化した赤色の壱銭五厘切手のってある、「石見国府址伊甘の池」の絵葉書であり、他の一通は、昭和十五年の七月十一日(午後零時――四時)のスタムプが押してある、楠木正成が馬に乗っている銅像を図案化した模様が左の肩に赤色で印刷した弐銭の普通の葉書である。
 さて、昭和十一年一月三十一日の絵葉書は、上の方に「石見国府址伊甘の池」の写真の下に、「拝啓 今般は御高著いただきいつもながら御同情感謝にたへませぬ 高級小説になると見さくる高峰のやうな気がいたします、今度は少しく勉強して繰返して拝読せんと存じ居ります、いつか昨年暮あたりの広津さんの貴堂の御文の評がありましたが、実に敬服しました。穂庵百穂評も誠に手に入つたものとおもひました、御母堂様御逝去後御さびしきことと存じます、」と書いてある。それから、昭和十五年の七月十一日の葉書には、「拝啓唯今御著『閑話休題』拝受大いにかたじけなく、今度の読書の材料豊富感謝奉り候、小説に御精根傾けあらるる事尊敬慶賀無上に御座候、小生晩春よりかけて元気無之これなく候、今度元気回復いたしたし、万々頓首、」と述べてある。(これらの葉書の文句をそっくり写したのは、さきに書いたように、この二通の葉書が全集の書簡篇の中にはいっていないからという理由もあるけれど、その他にも私に少し考えがあるからである。)
 斎藤茂吉は、なかなか腹の据わった人であった、又、前に引いた二通の葉書の文句でもほぼ想像がつくように、腹のなか如何いかなる事を考えていても、逢えば、誰にも、愛想がよく、人をそらさず、ずいぶん如在じょさいのない人である、それで、大抵たいていの人は、茂吉を、「木訥ぼくとつ」ない人である、と思っているようである。
 ここで、さきに引いた二通の茂吉の葉書だよりを読んだ時とその後よみかえした時の感想の一端を述べてみよう。――初めの昭和十一年一月三十一日の葉書を読んで、私がまず感じたのは、いつもながらの「世辞」のうまさと「かた」(つまり、「かた」)の巧みな事である、ところで、いま、この文句を読みかえしてみると、その世辞には見えいたところがあり、その持ち上げ方にはおだてるような趣きがある。しかし、この葉書の文句を読んだ時は、私は、いくらか「煽て」に乗ったようであるが、たしか、そのとしの一月号の「アララギ」に出た、茂吉の「わがからだ机に押しつくるごとくにしてみだれごころをしづめつつり」「いきづまるばかりにいかりしわがこころしづまり行けと部屋をとざしつ」などという歌を読んで、短歌でも、こういうあらわかたがあるのか、と感心した事があったので、「僕の小説などは決して「見さくる高峰のやうな」ものではありませんが、却つて先生の殊に最近のお作の短歌こそ「見さくる高峰のやうな」ものでありませう、」と、返事の手紙のなかに書いた。それから、次ぎの「穂庵百穂評も誠に手に入つたものとおもひました、」とあるのを読みかえして、私は、「斎藤さんも「人」が悪いなア、」と思った。それは次ぎに述べるような事が幾度もあったからである。――昭和十年から十五、六年頃までの時分であったろうか、毎年、九月一日が、二科会と美術院の展覧会の招待日であった。しかし、茂吉は、脳病院の院長という重要な職務があったので、いつも、展覧会が開かれているあいだの随意の日に、見に来たが、る前の日に、そのころ展覧会会場の近くの上野桜木町に住んでいた私の所に、何時頃なんじごろに行くと速達の葉書をよこし、その「何時頃」にたずねて来て、かならず、どういう絵が印象に残ったかを聞かしてくれと云って、美術の門外漢の私のアヤフヤな感想を、大へん真面目な顔をして、「例」の手帳を出し、それに書きめた。ところが、若い頃に画家になろうとこころざした程の、私などが足もとにも近づけない程の、美術に対してすぐれた観照眼かんしょうがんを持っている茂吉であった事を、ずっと後に、思い出して、私は、冷汗ひやあせをかいたことである。

 ヤン・ファン・アイクのいた、ニコラス・アルベルガデイの肖像である。紅衣を著けて、その襟と、袖口のところに白いへりが附いてゐる。これには一つの素描も残つて居り、徹底した写実である。この老翁は豊かな面立おもだちで、顔の皺までひとつ一つ丁寧に描いてある。前額から顱頂にかけて薄くなつた毛髪と、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)部の手入れした白毛をまじへた毛髪と、眉間の溝、鼻唇溝、さういふものまで、あらむ限りの筆力を以て描いてゐる。ヤンはよく自分の描いた絵に、「自分の出来るかぎり」(Als ich chan)と署したのは、大いにおもしろいことである。このほかに、「石竹を持てる男の像」、「侍従官の像」等があり、共に精微を極めたものである。日本では故岸田劉生が一時これらの画家に心を傾倒して模倣した絵が残つてゐる。

 これは、昭和十三年の三月号の「アララギ」の表紙に出た、ヤン・ファン・アイクの描いた『ニコラス・アルベルガデイの肖像』について書いた、茂吉の解説の文章である。これを読めば、原画の写真を見なくても、私などの凡眼が見た以上に、はっきり分かるではないか、専門家でも書けないような、すぐれた「解説」ではないか。私が殊更に全文を引用したのは、いかに茂吉が美術の方にも卓越した観照眼を持っていたかをしめしたかったからである。(それから、昭和十一年は、この絵葉書の写真が「石見国府址伊甘の池」であるように、茂吉は、昭和九年の七月に、土屋文明と熊野路に遊んだ帰りに、石見の国に行って、『鴨山考』について調査し、その結論を得たので、後に一代の大作となった、『柿本人麿』の研究をはじめ、その年の十一月には、大著『柿本人麿』(総論篇)を刊行し、その翌年(昭和十年)には、人麿関係の調査のために、再び石見に行って、浜原、その他の町々まちまちを遍歴し、ほとんどまる一年のあいだ、人麿の研究にき身をやつして、『鴨山考補註篇』を書くことに没頭し、そのとし(つまり、昭和十一年)は、箱根の強羅の山荘で、人麿の歌集の評釈を書きつづけた。その時分の茂吉の歌に、「ひととせを鴨山考にこだはりて悲しきこともあはれ忘れき」というのがある。この歌の中の「悲しきことも」とあるのは、茂吉が、その頃の或る歌集の「後記」のなかに、「この両年は実生活の上に於いて不思議に悲歎のつづいたとしであつた。」と書き、又、その歌集のなかの、「ひとり寝にすでに馴れつつ枕べにふみをかさねてあかりを消しぬ」、「まちにいでてなにをし食はばたひらけき心はわれにかへり来むかも」などとんだ気もちであろうか。ところで、これらの歌だけを読んでも、茂吉ぐらいの歌人になれば、(いや、大方おおかたすぐれた歌人になれば、)いかなる不幸に逢っても、どんなに悲歎にくれても、それを歌にむことが出来るのであるから、……と、私は、きわめてたりまえのことを考えながら、しかし、「うらやましいなア、」と思った。
 さて、次ぎの昭和十五年七月十一日の葉書の文句の中に、「小生晩春よりかけて元気之無これなく候、」という言葉があるが、私がもらった五十通にちかい茂吉の書簡や葉書の中に、「元気がよい」という意味の文句があるのはひとつもない。俗に、大抵の病人は、「よさそうですね、」と云われるより、「お悪そうですな、」と云われる方が、機嫌がよい、と云われているが、茂吉のは、しいて皮肉な見方をすると、「元気がない」と云うほう都合つごうがよい、と思っていたのではないか、と私には思われる。
 ところで、初めの方で述べたように、私の手もとにある、昭和十五年の七月十一日の葉書は、全集の書簡篇には出ていないので、今、全集の書簡篇のなかの、昭和十五年の七月十一日あたりのところを開いて見ると、十一日のはなく、十日と十二日のが一通ずつ出ている。十日のは、名古屋市昭和通松月町六ノ一九の堀内通孝(たしか、アララギ派の歌人の一人)あての葉書で、その葉書には、「拝啓酷暑の候御清適大賀奉り候非常に上等品いただき御芳情大謝奉り候深く御礼申上候○御作中、あの御材料はよき歌と相成らず、三首のみ選び申候、何卒御一考願上候 Muttertrompete 云々も歌には入らざるべし○奥様御大切に願上候、頓首」という文句があるが、茂吉は、物をもらうと、実に喜んだ人で、それが、右の文句の中の「御芳情大謝奉り候深く御礼申上候」という言葉に出ている。又、○ジルシは、茂吉が、手紙や葉書の中に、文句の切れ目に使ったしるしで、これは、茂吉独得のものである。それから、「三首のみ」云々は、堀内が自分の短歌の選を茂吉にしてもらっていたのであろう。それから、七月十二日のは、絵葉書で、宛て名は、中支派遣軍園部部隊大杉部隊軍医少尉 平尾健一で、文句は「拝啓御勇健御奮戦大謝無限です。青山君との御写真飛び立つばかりうれしく拝見、老生このごろ涙もろく、涙が出ます。御歌も厳選にて困りますが御しんばう願ひます、銃後は決して御心配ありません国民も張り切つてゐますし、外交のへなへなも、このごろ大いに勇猛ですから御安神願ひます。御自愛いのり上げます。この夏は雨がすくなくてどうかと心配してゐましたが、このごろ甘雨が降ります。皇国の大業の成る証です。それにつけても大兄等将士の御奮戦に対して感謝無限にていつも涙が出ます。」というのである。この頃は、――日中戦争が昭和十二年の七月七日に始まったのであるから、――日中戦争が始まってから、ちょうど満三年目であるから、大抵の日本人がそうであったように、いや、茂吉は、それ以上に、愛国心をふるいおこし、戦勝をひたすら祈っていたから、この葉書の文句の中にあるように、自分の弟子分の歌人であり、少壮の軍医たちの「勇健」と「奮戦」を、賞讃したのである。しかし、一たん短歌になると、前の葉書にもあり、この絵葉書の中にも、「御歌も厳選にて困りますが……」とあるように、厳しかった事がうかがわれる。ところで、その時分の茂吉の歌には、戦争についてんだ歌が多いが、その時分のことであったか、昭和十六年の十二月八日に始まった、太平洋戦争がおこってからであったか、日本の戦勝の報がつたわると、その翌日に、その戦勝をたたえる歌を、茂吉が、そのたびに、作った事があった。その頃、茂吉に逢った時、「私が、先生の戦勝の即興歌は、失礼ですが、大変つまらないと思います、が、「ナントか、ナンとか、老兵クリイクわたる」というような歌は、実にいいと思いますけれど、……」と云うと、茂吉は、ちょいと苦苦にがにがしそうな顔をして、「あんな即興歌は、無理やりに頼まれて、感激もなにもないのに、でっちげるからです、が、「老兵クリイクわたる……」というようなのは、ニュウス映画を見て、作るからです、……つまり、「写生」だからです、」と、ニコニコしながら、云った。
後記――はじめは、茂吉が、或る時、窮したあまり、青山の焼け跡の地所を売ることを交渉したり、自分の肖像画を売ってもらおう、と思って交渉したり、する事を書くつもりであったが、その肝心事が書けないで、こんなだらしのない文章になってしまった。
〔一九五七年十一月〕





底本:「エッセイの贈りもの 1」岩波書店
   1999(平成11)年3月5日第1刷発行
底本の親本:「図書」岩波書店
   1957(昭和32)年11月
初出:「図書」岩波書店
   1957(昭和32)年11月
入力:川山隆
校正:岡村和彦
2013年6月14日作成
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