それからそれ

書斎山岳文断片

宇野浩二




 今年の三月上旬頃、井伏鱒二の『青ヶ島大概記』を読みながら(この小説は佳作である)、私は青ヶ島という言葉を何時いつかずっと前、何かで読んだことがあると思って、絶えずそれが気になった。その時は直ぐ思い出せなかったが、それから一つき程後、ふと、そうだ、志賀重昂(矧川)の『日本風景論』書出かきだしの文句の中にあった、と思い出した。
 ――「江山こうざん洵美じゅんびこれ吾郷わがきょう」〔大槻盤渓おおつきばんけい〕と、身世しんせい誰か吾郷の洵美を謂はざる者ある、青ヶ島や、南洋浩渺こうびょうの間なる一頃の噴火島、爆然轟裂、火光煽々、天日を焼き、石を降らし、灰を散じ、島中の人畜殆ど斃れ尽く、僅に十数人の船を艤して災を八丈島に逃れたるのみ、而も此の十数人竟に其の噴火島たる古郷を遺却せず、火の熄むを待つこと十三年、乃ち八丈を出て欣々乎として其の多災なる古郷に帰りき、占守シュムシルや、窮北不毛の絶島(千島の内)、層氷累雪の処のみ、後、開拓使有使の其の土人を南方色丹シコタン島に遷徒せしむや、色丹の地、棋楠オンコ樹青蒼、落葉松濃かに、黒狐、三毛狐其蔭に躍り、流水涓々けんけんとして処々にはしり、玉蜀黍穫べく馬鈴薯植うべく、田園を開拓するものは賞与の典あり、而も遷徒の土人、新楽土を喜ばずして、帰心督促、三々五々時に其の窮北不毛の故島に返り去る、(後略)――
『日本風景論』は明治二十七年十月二十九日に初版が発売され、私の持っている十一版は明治三十三年八月六日発行であるから、約六年の間に十一版を重ねている。これは当時の出版界では可なり読まれた証拠になる。尤も、私がこの本を買ったのは、今から十三四年前、本郷の古本屋である。
 買った当時、私は嬉しくて、二三度この本を通読したものである。

 一昨年の秋(?)のことである。私がその『日本風景論』を手に入れた頃、これも三度も四度も(それ以上)通読した『日本アルプス』の著者小島烏水に思いがけない所で知る栄を得たばかりでなく、その崇拝していた先輩から『氷河と万年雪の山』という本を贈られた。私は贈られたその日にその本を通読した。尤も、その本の中には既に新聞雑誌で読んだものが十数篇入っていたが。
(前記『日本アルプス』四巻は、四五年前、友人に貸し無くしたので、残念ながら、その初版出版年月を記憶しない。)
 その『氷河と万年雪の山』の中の「槍ヶ岳の昔話」と題する一篇の中に、
「近ごろの古本漁りは、江戸時代は珍本どころか、大抵の安本までが、払底のため、明治時代に下って、初期の『文明開化』物から、硯友社けんゆうしゃあたりの、初版本にまで及ばしているようだ。(中略)殊に私の興味をひいているところの山岳図書において、そうである。夏向きになると『日本アルプス』の名が、聞こえない日とては、無いようだが、ウェストンの『日本アルプス』を、幾人の日本人が所蔵しているだろうか。(中略)尤もいずれも英文であるから、日本人が所持していないとならば、志賀重昂氏の『日本風景論』はどうであろう。志賀氏の主張として、名ばかりの第何版でなく、実際改版毎に、新しい材料や挿絵を増加してゆかれたが、此本こそは、自然、殊に山水美を見別ける眼を、あけさせた点において、ラスキンの『近代画家論』に匹敵するとさえ思われる名篇で、(中略)チャムバレインの『日本案内記』から、ウェストンの『日本アルプス』へ引く一線と、志賀重昂氏の『日本風景論』から、私の『日本山水論』あたりへ引く一線とは、槍ヶ岳を中心にして結ばれているし、(中略)父なる日本の自然から、ウェストンは異母の兄として、志賀氏は同胞の兄として、私たちに送られたとも見られよう、但し重ねていうが、『私に関する限りにおいて』である。信濃路の旅行で、槍ヶ岳を遠望したことはあったが、私が登る気になったのは、志賀氏の『日本風景論』である。(後略)」という一節がある。
 ついでに小島烏水の『日本山水論』(明治三十八年初版)の中で、槍ヶ岳を書いた一節を紹介しよう。
「三 木曽山脈と相対して、高峻を競い、之を圧倒して、北の方越後海辺まで半天に跳躍犇放ほんぽうするものを飛騨山脈となす、(中略)
中央大山脈は鋸歯状に聳えて、四壑のために鉄より堅牢なるたがぐらしたるもの、曰く鍋冠山、曰く霞沢山、曰く焼嶽、或ものは緑の莢を破りて長く、或ものは、紫の穂に出て高きが中に、殊に焼嶽(中略)は、常春藤の繞纒じょうてんせる三角塔の如く、黄昏たそがれは、はや寂滅を伴いて、見る影薄き中に屹立し、照り添う夕日に鮮やかに、その破断口の鋭角を成せるところを琥珀色に染め、(中略)初めは焼嶽を指して、乗鞍と誤認したるほどなりき、乗鞍に至りては、久しく離別の後に、会合したる山なり、今日大野川に見て、今ここに仰ぐ、帽を振りて久闊を叫びしが、峰飛びて谿まる今も、山の峻峭依然として『余の往くところ巨人有り焉』(My giant goes wherever I go)と、そぞろ人意を強うせしめぬ、(下略)(拙著『鎗ヶ嶽紀行』)
 この一群中に卓絶せるを、鎗ヶ嶽となす、その矗々ちくちくとして、鋭く尖れるところ、一穂の寒剣、晃々天を削る如く、千山万岳鉄桶を囲繞せる中に、一肩を高くき、あたまに危石あり、脚に迅湍あり、天柱こつとして揺がず、まことに唐人の山水画、威武遠く富士に迫れども、大霊のあつまるところ、へりくだりて之を凌がず、万山富士にはその徳を敬し、鎗ヶ嶽には其威をおそる。(後略)」

『日本風景論』、『日本山水論』、『日本アルプス』その他の山岳書を読み耽った頃、私は『山恋ひ』という三分真実七分空想の中篇小説を書いた。その表題の脇に
北に遠ざかりて
雪白き山あり。
――小島烏水著「日本アルプス」の中の言葉
と題註のようなものを添えた。これは前記『日本アルプス』の中のの辺に出ている言葉であるか、何分なにぶん今から十二三年前の作であるから、引用した私にも分らない、覚えていない。
 ところが、最近、ふと『平家物語』をひもといた時、巻十の「海道下り」の終の方に、一谷で生捕された平重衡が、梶原景時に護送されて鎌倉に下向する途中、小夜の中山を通り過ぎるところで、
「……宇津の山辺の蔦の道、心ぼそくも打越えて、手越を過ぎ行けば、北に遠ざかりて雪白き山あり、問へば甲斐の白根という。その時、三位中将落つる涙を抑へつつ、
惜しからぬ命なれども今日までにつれなき甲斐の白根をも見つ」
という一節を読み、十二三年前に作った小説の題の脇に添えた文句の出所を初めて知った訳である。――
 小夜中山というと、
甲斐が根をさやにも見しがけけれなく横ほりふせるさやの中山(古今集の内、東国歌)
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山(新古今集の内、西行)
の二首を私は思い出した。
 小夜中山は、今の東海道線金谷駅から西方半里程の旧東海道にあるということである。私は小夜中山に行ったことはないが、沼津の牛臥でか、東海道線の沼津を過ぎた辺か、御殿場辺だったか忘れたが、汽車の窓から、富士の西に引く裾野の空に、雪を被った赤石山脈(或いは甲斐ヶ根或いは白峯、白根)の山々を眺めたことを覚えている。沼津と金谷(佐夜中山)とは可なり離れているが、赤石山脈ほどの高山であれば、東海道中の随所から望めるかも知れない。高山の遠望は今でも私の心を引く。
 高山の遠望――といっても、私などの乏しい思出など述べて恥を曝すことは凡そ大人気ない事であるから、遠慮して、唯一つ、これも大人気ない話であるが幾らか愛嬌がある話であるから、書いてみる。――
 或る年(大正末年頃)の二月頃、亡友直木三十五と日本アルプスを眺望するだけの目的で飯田町駅を夜の十一時の汽車で出発した。今考えると、どうしてそのような行先を選んだか見当がつかないが、木曽福島行の切符を買った。私たちはまだ三十歳を越したばかりの時だったから、「木曽福島」という名に憧れたのだったかも知れない。近松秋江が或る夏この木曽福島に何日か滞在した時の思出話に、大変涼しい、(それを秋江一流の美文調で聞かされた、)窓を開けると木曽の御岳山が月明の中に聳えているのが見える、――これは何と間違った話であろう。何故なら木曽福島のいかなる高楼に登っても御岳山のオの字も見えないからである。併しこれは恐らく私に劣らぬ机上山嶽家(当時は二人ともこの名にも値しない)であった秋江の空想談か、私が秋江の別の話をそんな風に取ったのか、――という話を私が思出して、先ず木曽福島に行こうと私が云い出したものか、或いは当時は直木も『木曽福島―御岳山―木曽節』などという甘い空想を抱くことが好きだったから、彼が木曽福島行を主張したのか、私は覚えていない。
 唯、その時の記憶で最も私の印象に(今でも)はっきり残っているのは、乗換の為に塩尻駅で下りた時、満目悉く枯れ尽くした桑畑が日の下に曝されている野の果に、北アルプスの山々が、全山雪に蔽われているかと思われる程、余り白くて、じっと目を据えて正視できない程、二月の晴れた空の下、輝いていたパノラマ風の眺望である。直木も私も「あッ!」と云ったまま道の真ん中に突立った。今にして残念に思うのは、そんな事はあり得べきことではないが、十数年後に面識を得た、小島烏水か深田久彌が、突然私たちの傍に現れて、例えば、あれが乗鞍、あれが穂高、あれが槍、あれが何、等であります、と説明してくれたら、直木か私か、何方どちらかがそれ等の雪白き連山の見取図を描き、教えられるままに山々の名を書いて、永遠に保存することが出来たろう、という事である、直木はそんな見取図を描くことが好きであり、私もそんな「千載の一遇」の場合になれば山の見取図ぐらい描くことを辞さないつもりであるから。
 ちなみに、その時の木曽福島の収穫は、その晩、私が、頭痛を起し、ミグレニンという薬を飲んだところ、ミグレニンの中に私の体質に合わないアンチピリンが入っていたので、却って発熱して寝てしまった代りに、直木は色町に出かけて木曽節と伊那節を習ってきたことと、御岳山登山口という石標を見たことだけであった。
 その翌朝、私たちは木曽福島を立って大町に向かった。生憎、その日は朝から曇り日で、松本から大町行の汽車に乗った頃は、折角楽しみにしていた穂高、槍、大天井、燕などの名山は雲に隠れて見えなかった。唯、有明山が殆ど全く見えたのが一つの慰めだった。有明山は別名信濃富士と呼ばれる通り美しい優しい姿をしている。
信濃なる有明山を西に見て心ほそのの道をいくめり
これは西行の歌であるが、この山が見えた時、直木にこういう歌があるよ、と云うと、「西行らしい歌だな、」と彼が云ったことを思い出す。
 私たちが大町に着いた時は小雨が降っていた。その晩、土地の妓を呼ぶと、(宿屋の番頭が二人か三人かと云うと、直木は見本のつもりだから一人でいいと云ったことを思出す、)妓の大きな島田まげに白い粉のようなものがかかっているので、私が「君の髷に白い粉のようなものがついているよ、」と云うと、妓は「雪ですよ」と答えた。
「粉雪か」と云って直木は微笑した。これは直木を知っている人だけにしか分らないが、直木の微笑は実に可愛い嫌味のない善良な純な無類の微笑であった。俳優(例えば中村鴈治郎の目)が際立って彼の芸を生かす場合、『目千両』という言葉がある。その言葉を捩って云うと、直木は『微笑千両』であった。直木を思出すと、私はいつもこの『微笑千両』の直木の顔を思出す。――
 この時、私たちは一週間近く晴れる日を待ったが、(大町が曇っているのに松本の方の空が晴れていることがしばしばあったので、)とうとう、晴れて、鹿島槍岳、爺ヶ岳、蓮華岳等の所謂北アルプスの諸山を見ることが出来ずに、大町を引上げた。
 その後、眺望でなく、私たち(直木と私)は本当に登山しようと思立ち、三年程の間、今年の夏は、来年の夏は、などと云いながら、結局、計画倒れになってしまった。

 これから、書斎山嶽家(?)振りを述べるつもりだったのであるが、締切日の最後の時間になったので擱筆する。
(六月十一日)





底本:「紀行とエッセーで読む 作家の山旅」ヤマケイ文庫、山と溪谷社
   2017(平成29)年3月1日初版第1刷発行
底本の親本:「山 第一卷第七號」梓書房
   1934(昭和9)年7月1日発行
初出:「山 第一卷第七號」梓書房
   1934(昭和9)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「拙著『鎗ヶ嶽紀行』」
入力:富田晶子
校正:雪森
2020年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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