偶言

津田左右吉





 日本人の趣味は淡泊である、清楚である、または軽快である、濃艶な、重くるしい、はでやかな、または宏大なものは好まない、だから、――というような話が今でもまだ或る程度まで真実らしく、いわれもし聞かれもしている。日本人の趣味が淡泊とか軽快とかいう言葉でいいあらわし得るものであることが、よし過去において、間違のない事実であったにせよ、「だから」という接続詞をそのあとにくっつけて、現在、または未来もそうでなくてはならぬといおうとするのは、まるで無意味である。個人にとっても、民族にとっても、趣味はその人、その民族の内的生命の発露である。その人、その民族が真に生きている人であり民族であるならば、刻々に新しい生命を自ら造ってゆく。その生命の表現せられた趣味もまた日々に新しくなってゆかねばならぬ。勿論、一方には遺伝とか、または自然界なり社会的事情なりの環境とかいう制約があって、急激に突飛な変動をさせないようにする傾もあるが、一方には絶えず新しい生命を造り出そうとする強い内部の力が活溌に動いて、そういう制約を折伏してゆく。それができないものは個人としても民族としても死んだものである。日本人は生きている。生きている日本人の国民性も民族的趣味も決して固定したものではない。だから、過去の趣味は歴史的事実として真実であっても、将来の規範とせらるべきものではない。日本人が淡泊で、清楚で、軽快な趣味をこれから後も持続しなければならぬという理由はどこにもない。今さららしくいうまでもないことであるが、世間にはまだ、凝固した国民性というものがあり、またなくてはならぬように思っている人もあるから一言して置くのである。
 のみならず過去の日本人の趣味が淡泊とか軽快とかいう方面にのみ向いていたということ、そのことが第一怪しいのである。遠い昔の平安朝を見たまえ。『源氏』や『枕』や、今はほとんど遺っていないが当時の宮廷や貴族の調度に用いられた屏風絵に現われている濃艶華麗な服装を。肉感的逸楽の気が沁み渡っていた浄土教の宗教画として今も伝わっている弥陀来迎の図などのコッテリした色彩を。胡粉も落ち、臙脂もめ、緑青の色もあせた今から見れば、かの高野山の二十五菩薩の大幅も、いかにも落ちついた、和かい色調のように見えるが、画かれた当時は艶麗ならびなきものであったであろう。しかし頽廃的空気のうちに力のない生活を営んでいた平安朝の大宮人の趣味は濃艶ではあるが活気もなく底力もなく、いたずらに塗抹せられた強烈の色彩から感覚的刺戟を受けるのを喜んでいたに過ぎなかったというのか。それならば目を転じて関東武士を見たまえ。うちものの響き、矢叫びの声の間に目さむるばかり鮮かな馬上の行装を。鎌倉には金碧燦爛たる永福寺の七堂伽藍があったではないか。東夷の基衡もとひらが建てた中尊寺の光堂は今も遺っている。殺伐な武人が調子の強い、はでやかな色彩を好んだのは当然である。足利武士にもてはやされた田楽や猿楽は鋭い鼓笛の音と華やかな衣装とで成り上り者の粗大な官能を刺戟したものであった(当時の猿楽は今の能のような落ちついた、また型にはまったものではなかった)。桃山式の豪放な装飾芸術はいうまでもなかろう。わる固まりに固まった徳川初期の日光建築は、せせこましく、気のつまるようなうちにも、コッテリした華やかさだけは失われずにある。光琳にあらわれた元禄時代。あるいは友禅の京都、懐月堂の江戸。いわゆる浮世絵の世界はいわずもがなである。淡泊とか清楚とかいう面影は、少くとも、これらのものには見られない。
 日本人の芸術上の趣味が淡泊とか軽快とかいう方面に偏しているように思われたのには種々の理由がある。芸術が公衆的翫賞に供せられずして私人的であるために小規模のものとなり、従って調子の低い、また小器用なものが尚ばれたこともその一であろう。四畳半式芸術とも名づくべきものがいずれの方面にもある。それから、徳川時代の固定した社会において、すべて刺戟性の少いものが上品として考えられたこともその一であろう。その他、割合に安らかな生活を送って来た国民であるがため、全体に力強いところのないためもあろう。しかしながら、戦国時代、その後に現われた豊臣時代、または或る意味においては元禄時代の如く、気力の横逸し、生命の緊張した時代には随分力の強い、規模の大きい芸術が生まれている。過去ですら、そうであった。おとなしい、いわゆる上品な、さっぱりした趣味のみを将来に期待するのは大なる誤りである。


 芸術の真味は高い趣味をっている少数人のみに解せられる。芸術は貴族的(無論思想上の意味でいう)のものだというかんがえもここから起り、「俗物(多数人)に何がわかるか」という高踏的態度もここから生ずる。なるほど、それはもっともである。芸術は群衆心理に支配せられるべきものでもなければ、投票の多寡で価値の決まるものでもない。おしつめていうと芸術品は作家自身専有の芸術品なのであろう。しかし、これは既に出来上った芸術家、またはその作品から見た一面観であって、そういう芸術家を生み出す社会的要因を閑却した考である。「天才は生まる、作られず」といったところで、如何いかなる天才も沙漠の中にヒョックリ生まれるものではない。生まれるにしても生まれるだけの種子が、もしくはその種子の発育すべき地盤が、当時の社会になくてはならぬ。芸術的素地のない社会に偉大な芸術家は現われぬ。ここに芸術の根柢に潜む民衆的デモクラチック要素がある。
 肥沃の土地には雑草が茂る。雑草が茂るところでなくては、美しい樹木も、よい穀物も発育しない。芸術も同様である。千百の凡庸芸術家があって、そうしてその間に真の芸術家が一、二出るのである。そうしてこの千百の凡庸芸術家が生まれるには社会全体に芸術的空気がみなぎっていなくてはならぬ。芸術家の向上心と善い意味での激励の言とは別として、ピアノの鍵盤を叩くものが皆な音楽家らしい音楽家でなくてはならず、パレットを握るものが皆な画家らしい画家でなくてはならぬと思うものがあるならば、それはあやまりである。新しい劇団によい俳優がないとか、帝劇の女優がなっていないとか真面目になって騒ぐのも、こういう見地から観ると、あまりに性急すぎた話である。Sarah Bernhardt や Eleonora Duse が、そんなに無雑作に、そんなに沢山に、またそんなに突然に、この貧弱な日本の劇界に現われるものでない。一人の Duse が生まれるには千百のいい加減な女優が舞台に現われては舞台から葬られねばならぬ。どの芸術でも同様である。だから僕はこの意味で一人でも多く絵の具をカンバスになすりつけるものが出て、一人でも多く石膏や粘土をつくね上げるものが出るのを希望する。勿論それが皆な芸術家だとは思わない。ただ芸術の種子をく地面がそれによって作られるのである。

       ○

 日本人が色彩について有する趣味はすこぶる貧弱である。特に欧洲の思想が入って来ない前の近代において、それが甚しい。衣服住屋に色彩の重んぜられないのは勿論、調度器具の類にも色彩の見るべきものが甚だ少い。熟視してわざとならぬ光沢の目に入るものはあっても、色としては極めて貧しい。友禅のような複雑な色を集めてあるものも、全体としての効果が少しもひきたたぬ。けれども、平安朝の貴族の間にはそれがよほど発達していた。『枕草紙』の開巻第一「春は曙、やうやう白くなりゆく山際、すこしあかりて、紫だちたる雲の細く棚引きたる」と見た色彩の観察を見給え。同じ書の「なほ世にめでたきもの」の条下にある「正月十日、空いと暗う」という一節は庭上の色彩が極めて微細に写されてあるが、「桃の木若かだちて、いとしもとがちにさし出でたる、片つ方は青く、いま片枝は濃くつややかにて蘇枋すおうのやうに見えたる」というのは光線の効果が目にとまったものらしい。「心にくきもの」の条に「長すびつにいと多くおこしたる火の光に御几帳の紐のいとつややかに見え」といい、「いひにくきもの」の条に「有明の月のありつつもとうちいひて、さし覗きたる髪のかしらにもよりこず、五寸ばかりさがりて火ともしたるやうなる月の光」というような繊細の観察もある。言語上の機智をろうするのみで、芸術的価値の甚だすくない和歌には一向こういうものが現われないが、『源氏』などの散文物語では何れにも多少はこの色彩の記述がある。尤も空の色などは大抵「浅みどり」位で簡単にかたをつけているが、ともかくも、日本の文学でこの時代の作ほど色彩の観念に富んだものはあるまい。どうしてこんな思想が養われたかというと、彼らの日常生活の舞台が色彩を施したもので満たされていたからであろう。例えば「かさねの色」という観念が衣服の色彩に対する趣味の如何に深かったかを示している。
 この色彩の趣味が絵画に現われては、あの艶麗な「作り絵」となった。ただその絵画が室内的玩弄品として用いられる場合には小規模の絵巻物か、たかだか屏風絵ぐらいに止まっているが、寺院の壁画や装飾に用いられるとやや規模が大きくなり、従って、或る距離を隔てて画面を見る必要上、遠近法なども多少発達し全体としての色調という観念も生ずるようになって、かの高野山の二十五菩薩の大幅の類が現われて来たのである。遺品も尠く作者も解らないが、もし我が国の絵画史に色彩家カラリストと名づけられるような作者の出る見込があった時があるとすれば、まずこの時代であったろう。そうして、それは当時の社会に色彩に関する趣味があったからである。こんな一部分の現象についてでも芸術上に民衆的要素のあることは察せられる。

     ―――――――――――

 一体墨画は自然界の多種多様の色彩美を写し得ぬという不便はあるが、一方また他の彩画よりも材料の駆使において自由な処がある。彩画では絵具をパレットで合す間、パレットの上に眼を移すことを余儀なくされて画家の思想の統一が乱れる憂いもあるが、素描にはそういうことがない。木炭などは削りもせずにすらすらと何時までも使うことが出来る、鉛筆にしても短時間の略画なら、その間に心を削り出さずとも優に一枚を描き終ることは出来る、すなわち感興の赴くままに何の休憩もなしに心と手とを続けさまに動かすことが出来る。其処そこが素描の長処である。(石井柏亭氏著『我が水彩』所載)


 つい近ごろの新聞に、何とかいう露西亜ロシア人は音楽を色彩であらわすことに成功したという話があった。何でもピヤノの鍵盤を叩くとその音律に応じた色が白布の上に映し出されるようになっているらしく、旋律の流れに従って色彩が種々に変化してゆくのであろう。詳しいことが書いてなかったから、リズムアクセントをどうして現わすのか、音の上のハアモニイを色でどう示すのか、まるでわからないが、そういうことに芸術上どれだけの価値があるか、疑わしいものである。
 官能の交錯はめずらしいことではない。イスラアが青と銀色とのノクタアンだとか白のシムフォニイだとかいう名をその作品につけたのは音楽の術語を絵画にかりて来ただけのものであろうが、リムバウが母音の色をきめてAは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑だといったのは単純な理窟ではなくて、彼みずから実際耳に聴くこれらの音によってそれぞれの色を幻視したのかも知れぬ。だから人によっては音の高低を色で感じることができないにも限るまい。けれどもリムバウが見る母音の色はリムバウ自身だけのことで他人にとってはAが白でEが赤だと感ずるかも知れない。あるいは全く音によって色を見ることのできないものもあろう。従って音と色とのこんな配当は畢竟ひっきょう勝手次第の独りぎめであって、何人にも同じように感じさせる普遍性がない。だから芸術の資料としては価値の少いものである。
 しかし、これは一つの音と一つの色との関係であるが、音が変化しつつ連続して旋律をなす場合に、それに応じて色が絶え間なしに変ってゆくとしたら、旋律としては耳に快い音の連続が、色に化した場合に目に快いかどうか。旋律には調子があり音程があり、またリズムがあって、それで変化しつつも統一せられてゆくが、絶えず変化する色彩にそういう統一ができるかどうか。多分は目茶苦茶なものになりそうである。本来目に見る色は共存的関係において諧調が成り立つものであって、音声のように連続的な旋律をなすべきものでないからである。そうして急激に色が変ってゆくと目は一々の色をそのままに感受することができないものであるから、それから受ける印象は混乱を極めると共に甚だ茫漠たるものであろう。
 これは新聞の雑報を読んだ時にふとおもったままのことである。それをここへ持ち出したのは近頃の或る新しい一派の画がやはりこれに似たような傾向を有っているらしく思われるからである。活動、活動と連呼する未来派の作は静止している絵に時間を加えようとして、吾々普通の官能を有っているものから見ると色調もなければ形もなく、いろいろの色をゴチャゴチャと画布にぬりつけるようになったのではあるまいか。そうしてこの未来派にせよ、あるいは立体派にせよ、あるいは例のカンジンスキイにせよ、特殊な訓錬を経た彼らの官能、あるいは彼ら特有の一種の論理の上にその芸術の基礎があるではあろうが、それは丁度Aは黒だとかOは青だとかいうのと同様、彼らのひとりぎめのものであって普通人の心理的事実として承認せられているものではなかろう。トルストイの芸術論のように芸術の俗衆化を主張するのではないが、またもとより天才的芸術家の特殊の官能を尊重することを否むものではないが、芸術の基礎は普通人の心理的事実の上に据えなくてはならないものではあると思う。





底本:「津田左右吉歴史論集」岩波文庫、岩波書店
   2006(平成18)年8月17日第1刷
底本の親本:「みづゑ 一一〇」
   1914(大正3)年4月
   「みづゑ 一一五」
   1914(大正3)年9月
   「みづゑ 一二四」
   1915(大正4)年6月
初出:「みづゑ 一一〇」
   1914(大正3)年4月
   「みづゑ 一一五」
   1914(大正3)年9月
   「みづゑ 一二四」
   1915(大正4)年6月
入力:坂本真一
校正:門田裕志
2012年5月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード