芸術史家、または芸術の批評家が或る個人の作品を観てそこにその作家の属している国民全体の趣味なりまたは物の見かたなり現わし方なりの或る傾向が見えるというのは
製作の材料を撰ぶのも同様である。例えば画家が水彩画を作る。それはその画家のその時に現わそうとすることが油絵よりもパステルよりもその他のものよりも水彩を以て現わすことが最も適切だと感ずるからである。もし日本人の趣味には水彩画が調和するというようなことを智力の上で判断して、それだから水彩を取るのだというような
以上は芸術家の心理からいったのであるが、もし文化史上の事実からいうならば芸術の上にも国民性というものはあろう。しかし、その国民性がどんなものであるかは十分なる歴史的研究を経た上で判断せられるものであって、ちょっとした外観などから軽卒に決めることは出来ない。日本人の趣味が淡泊だとか清楚だとかいうありふれた観察に大なる欠点があるということは僕もかつてこの誌上で述べたことがあると記憶する。茶の湯趣味というものが日本人の国民性に重大な関係があるように説いている人もあるが、これも怪しいものである。普通にいう茶の湯は文化の頽廃期である戦国時代に形を成したもので、その時の頽廃的気分の或る一面に投合したものではあるが、本来趣味というほどのものがあるのではない。そうしてそれが徳川時代に行われたのは趣味の上からではなくして別に社会上の理由がある。日本人は三十一字の歌を作ったり十七字の俳句を作ったりして喜んでいるから、小さな手軽なものが好きだというような観察もあるが、これもまた疑わしいので、歌や俳句の行われる理由は別にあると思う。詳しいことをここでいう余裕はないが、国民性というものをそう簡単に片づけてしまうことの出来ないことだけは明言して置いてよかろう。まして芸術家はそういうあやふやな国民性論を念頭にかける必要があるまい。のみならず、国民性も国民の趣味も決して固定したものではない。要するにそれらは国民の実生活によって養われたものであり、国民生活の反映であるから、国民が生きている限りは生活そのものの変化と共に絶えず変化してゆくものである。それが動かないようになれば国民は死んだのである。ただその国民趣味に新しい形を与え、新らしい生命を注ぎ込んでゆくのは芸術家である。芸術家は意識してそうするのではないが歴史の跡から見るとそうなっている。この点から見ても芸術家は過去の国民趣味に拘泥すべき者ではない。
もう一つ考えると、芸術家も国民である以上、意識せずとも国民性はその人に宿っているはずであるから、どんな芸術家でもその人の真率な作品は取も直さず国民性の現われたものである。国民性というものが現在生きている国民の心生活の外に別にあるものではなく、そうして趣味の方面ではそれが芸術家によって表わされる。趣味の上に新しい生命を得ようとする国民の要求は絶えず新しい境地を開こうとする内的衝動となって芸術家に権化せられる。だから一心不乱に自己を表出しようとする芸術家は即ち無意識の間に国民の要求を実現させつつあるものである。知識として国民性を云々しないでも、生きた芸術として国民性を形づくってゆくのが芸術家である。