芸術のための芸術と一口にいってしまえば、社会との関係などは初から論にならないかも知れぬ。けれども芸術を人生の表現だとすれば、そうして、人が到底社会的動物であるとすれば、少くとも芸術の内部におのずから社会の反映が現われることは争われまい。芸術の時代的、または国民的特色というのも
日本のような、
Ruskin であったか、智識ある社会になればなるほど国民的特性が失われてゆくというようなことをいっていたと記憶するが、今の我が国ではその傾向が時に著しい。けれども情生活の方で国民的特色がまるでなくなることは決してない。だから外来の芸術でも智識で領解する部分の多いものはその興味を解することも容易である。翻訳劇の盛行するのは一つはこの故であろう。絵画になると、西洋画でもその題材が多くは何人も目で見ることのできるものであり、景色画にしても風俗画にしても初から日本の特色を現わすことの出来るものであるから、技巧と材料とが在来のいわゆる日本画と違ってはいるものの、それを
しかし、ここに一つの障害がある。その障害は、ほんの外部的のものであって、純芸術としての絵画から見れば、どうでもよいことではあろう。が、絵画の社会的方面においては看過すべからざることである。そうして、それは極めて平凡なことであるに
絵画は装飾品ではない。けれども社会的需要の点からいえば、少くともその半面に、装飾としての意味が存することを否むことはできまい。また、絵画を純粋な芸術品として見れば、置かれた場所や、かけられた位置によってその芸術的価値が増減せられたるものでもない。けれども、作品とその置かれた室の全体の空気と、シックリ調子が合った時、はじめて看る者の美意識が満足することも事実である。野外に立てる銅像の類ですら、その位置とか台石の高さとかいうことが像そのものの感じを動かすではないか。ところで従来の日本風の室では、その広さや構造やまたは光線の取り方などが、どうしても西洋画の額面をかけるに適しない。趣味の相異とか、調子の合わないとかいう点を考えるまでもなく、第一、適当に画面を看ることのできる位置にそれをかける場所がないのである。よし、どこかの壁にかけて見たところが、調子はずれになって折角落ちついている室の空気が掻き乱される。だから、今日、日本間に西洋画をかけているものがあれば、それは、まるっきり趣味性の欠けているものか、さもなくば、画を画としてのみ見ようとする専門家、アマチュア、もしくは特殊の嗜好をそれに
周囲の空気にかまわず、日常生活の調子にも無頓着で、芸術の天地にのみ身を置く芸術家は芸術家としては立派であるが、その代りその芸術を国民生活の一要素として発達させてゆくという点については甚だ不十分のものであり、国民の芸術趣味を訓練し誘導してゆく点にも力の足らない
極めて平凡な問題に仰山らしい言葉づかいをしたので、カラ理窟をもっているように聞こえるが、平たくいうと、西洋画を真に発達させるには、もっと、それを我々の日常生活に接近させるようにしなくてはならぬということである。勿論我々の思想は旧時代のいわゆる日本画とはあまりに懸隔している。また近頃の、日本画を土台にした新しい試みにも、あまり、感服しない。我々の情生活の絵画的表現にはいわゆる西洋画を要する。しかし種々の事情から在来の日本式家屋で生活している我々は日常生活の一要素として西洋画を取り扱うことが出来ない。ここに大なる矛盾があるのではなかろうか。そうしてこの矛盾は何とかして融和させねばならぬものではなかろうか。僕はそれについて芸術家の意見を聴きたいと思う。