日本歴史の特性

津田左右吉




 日本の歴史の特性ということを話そうとすれば、つまりは日本の歴史そのものを話さねばならぬことになる。日本の歴史の特性は、全体としての日本の民族生活の歴史的発展の上にあらわれているものであり、そうして、その民族生活にも、その発展のすがたにも、いろいろの方面があって、しかもそれらが互にはたらきあって一つの生活となりその発展となるものだからである。けれども、ここでそういう話をするわけにはゆかないから、日本の民族生活の発展のありさまにおいて大切だと思われること、著しく目にたつことの、二つ三つをとり出して話してみるより外にしかたはあるまい。しかし、だれにもよく知られていることは、ことさらにいうには及ぶまいから、ここでは、大せつなことでありながら世間ではわりあいに重く見られていないというようなことがらを述べてみようと思う。ここに述べることだけが特性であるというのではない。なおここでいうのは主として文化史の側面においてであることをも、あらかじめおことわりしておく。
 そこで、第一に考えられるのは、日本の歴史は日本民族全体のはたらきによって発展して来たということである。それには、中央の権力者に対する意味での地方人のはたらきと、上流人に対する意味での民衆のそれと、の二つにわけて考えることが一ととおりはできると思うから、まずはじめの方のからいってみることにする。遠いむかしに日本の民族が一つの国家として政治的に統一せられた後も、地方にはクニノキミ(国造)アガタヌシ(県主)などといわれていた豪族が、それぞれ土地と民衆とをもっていたので、富は地方に蓄わえられていた。またナカトミ氏とかオオトモ氏とかモノノベ氏とかいうようなトモノキミ(伴造)の家、またはそれと同じような地位にある朝廷の貴族も、あちこちの地方にそれぞれ領土人民(部)があって、そこから入って来る租税などによって生活していたから、経済的の根拠はみな地方にあった。トモノキミの部下となって地方地方の領土人民をあずかっていたものは、それぞれの土地の豪族であって、かれらにはクニノキミやアガタヌシと肩をならべるほどの力があったように見える。(国造伴造と書かれたことばはクニノキミとトモノキミとであって、クニノミヤツコまたトモノミヤツコという風にこの文字を読んで来たのは、まちがいだろうと思われる。氏々のカバネとしての造もまたキミの語を写したものであろう。)地方の豪族はこういうようにして富をもち経済力をもっていたと共に、むかしはツクシ(筑紫)人が朝鮮半島のシナの領土(楽浪郡または帯方郡)へゆききして持って帰った工芸品の類をいろいろのしかたで手に入れていたし、ヤマトの朝廷がクダラ(百済)から、またそこをとおしてシナの南朝方面から、工芸品や技術や知識やをとり入れるようになると、それらもまた次第に彼らの間にゆきわたっていったらしい。どこの地方にも大きな古墳があることは、彼らの富と文化とを示すものであろう。いわゆる大化の改新によって中央集権の制度がまだうちたてられなかった前とても、中央と地方とは、朝廷のトモノキミなどの貴族とその領民及びそれを支配していた豪族とのつながりを中心として、かなり固くむすびつけられていたのと、地方の豪族が経済力をもっていたのと、この二つの事情のために地方の文化も中央にひどく劣ってはいなかったのである。そうして、そういう富と文化とをもっていた地方の力が全体としての日本民族のはたらきのもととなっていたのである。
 大化の改新によっていとぐちが開かれ、令(いわゆる近江令など)がきめられたことによって、ひととおりできあがった政治上の新しい制度は、大体から見ると、いわゆる中央集権であるし、そういう制度が定められたにつれて、シナの学問や技芸やシナ化せられた仏教がますます多くとり入れられ、そうしてそれのどれもが先ず朝廷とそのまわりとにねをおろしたのであるから、これから後は、政治上経済上の力もまた文化も中央に集まり、従って中央がすべての民族のはたらきのもとになったように見える。事実、一ととおりは、そういってもよいありさまとなった。けれども、むかしからの地方の豪族ははじめのうちは新しい制度での郡司などになって、ほぼその地位を保っていたので、よしそういう家には長い間に地位や勢力を失ってゆくものがあったとしても、衰えるものがあれば新しく興るものも生じたに違いないから、豪族のようなものがあるということは、さして変らなかったであろう。また後にいうように、シナのを学んだ制度は日本の民族生活にはあてはまらないことが多かったので、それがために、年がたつにつれていろいろの方面から、事実上、制度をくずしてゆくようになり、その一つのあらわれとして、中央の貴族も地方に多くの領土人民をもつことになって、普通に荘園といわれているようなものがおいおいできてゆき、それにからまって新しい豪族の地方に生れて来る道が開かれもした。それと共に、中央集権の制度は中央の文化を地方の豪族などの間にひろげてゆくはたらきをしたので、地方の文化もだんだん進んで来た。これらの点では大化改新の前のに似よったありさまが次第に現われて来たのである。もっとも地方の富は半ばは中央の貴族の生活の経済的根拠となったのであるが、地方にそういう根拠があるということは、地方そのものに力があるということであるから、時勢の動きかたによっては、地方が中央を動かすようなありさまともなり得る力がそこに潜んでいたのである。
 ところが、別の事情から武士というものが地方に興って来て、彼らの武力が、中央政府の政権をはたらかせるためにも、貴族の地位と勢力とをささえてゆくためにも、なくてはならぬものになってゆき、そうしてそういう武士のはたらきと上に述べたような経済上のありさまとは互にからみあっていたので、武士の首領だったものは地方の豪族であった。こういう武士が長い年月の間にだんだん勢力を得て、しまいにはそのうちから全国の武士の首領となるものが生じ、それが政権を握るようになったのが、いわゆる武家の政治であるが、その政権の基礎は各地方の武士であり、武士の領土、従ってその富の力であった。だから、武家政府の地方武士に対する統率力が弱くなると、武士がそれぞれ自由の行動をとることになり、その勢のおしつまったのが戦国の世である。そうしてその戦国割拠のありさまをそのまま固定させたのが、江戸時代になってできあがったいわゆる封建制度、即ち多数の大名が地方においてそれぞれ世襲の領土民衆を与えられている制度、である。この封建制度は、自由な行動のできないように巧なしかたで諸大名をしばりつけておいたところに、徳川幕府の強い権力のはたらいているものではあったが、大名はそれぞれの領地に富と武力とをもっていたし、その城下はおのずから地方的文化の中心ともなっていたのであるから、幕府の置かれた江戸にすべての力とはたらきとが集中せられていたのではない。特に大阪をはじめとして各地方に純粋な商業都市さえもあって、富と経済力とがそこに蓄えられ、またはさかんなはたらきをしたし、また名高い学者がそれぞれ郷里にいて、そこへ全国からの学生をひきよせたような例もある。だから、江戸時代の日本の民族的のはたらきは、全国的に行われたのである。もともと封建制度は一方では民族の力を地方的に分散させるものではあるけれども、それと共に他方では、一つの大名ごとにそれぞれの団結を作らせ、まとまったはたらきをさせるものであるから、一つの意味においては、全民族の団結を作りあげるしたじともなるものである。全民族の団結ができる一つの事情として、地方的団結の精神が全民族におしひろげられるということが考え得られるからである。明治の国家的統一にはこういう事情のあったことに気をつけねばならぬ。封建制度には、よくないはたらきをする一面もあって、それはその制度のなくなった後までも残っているが、よいはたらきをする一面のあることをも忘れてはならぬ。(ここに封建制度ということばを用いたのは、上に述べたような意味でのことであって、それがこのことばのもとの意義である。近ごろは或る特定の社会組織または経済機構を封建制度の名でいいあらわすことが多いようであるが、それは実は封建ということばにはあてはまらぬことである。)
 次には民衆のはたらきである。民衆の力がいちじるしく現われたのは、武士がはたらくようになってからのことであって、一般の武士は政治上の地位からいうと、民衆の側にあるもの、あるいはむしろ民衆なのである。武士の重だったものは地方の豪族であったが、それはやはりその土地土地における民衆の首領ともいうべきものであった。だから、この意味においては、武士のはたらきは即ち民衆のはたらきなのである。武士のしごとである戦いは、いろいろのしかたにおいてではあるが、つまるところこういう民衆の力によって行われたといってもよい。のみならず、戦いがしばしば起り、身分の低い武士がてがらをたてて身分を高めることがあると共に、農民から武士の身分になりあがるものも多く、そうしてまたそれがてがら次第で高い地位を得てゆく。戦国時代になるとそういうことが一般に行われたらしい。戦国時代は、一面では、武士が城下に集って生活するようになったことに伴って、彼らと農民との身分の違いが明かに立てられた時であるが、それは既に武士となっているものの身分についていわれることであって、武士でなかったものが武士になる場合はいくらでもあり、そこにこういう他の一面もあったのである。江戸時代になって世の中が固まると、武士の身分もまたはっきりときめられ、いわゆる百姓町人との区別が明かにせられたけれども、やはりその百姓町人から武士になる道はいろいろあって、実際そういうものがかなり多かった。そうして幕府や大名のためにやくにたつしごとをしたものには、そういう経歴をもった武士が少なくなかったのである。
 さてこれは、武家によって世の中が支配せられていた時代に、政治上社会上の勢力の中心であった武士のしごとにおいて、いかに民衆の力がはたらいていたか、ということをいったのであるが、一般の文化について、また広い社会のことについていうと、民衆のはたらきが歴史の発展と共に次第次第に強くなって来て、江戸時代になると、その文化は民衆の文化であり、社会を動かす力のもともまた民衆にあった、といってよいありさまになった。日本全体の経済が商人、即ちいわゆる町人、の手によって動かされていたことはいうまでもなく、大名の財政も商人によってとりまわされた場合が甚だ多かった。従ってまた富の力が町人に集まり、その教養も進み、文芸とか学問とかいう方面も、そのはたらきには町人のあずかるところが多く、特に文芸においては町人が主となっていたといってもよいほどである。農民、即ちいわゆる百姓、もまたこの方面に少なからぬはたらきをしたのであって、特に学問に志をむけるものは彼らの間に多かった。それは、概していうと、彼らのうちの資産のあるもののことであったが、そういうものとても、政治的地位また社会的職分においては、農民に違いなかったのである。むかしから日本の文化には民衆のはたらきが少なくなかったので、『万葉』に防人の歌や東歌がのせてあるのでも知られる如く、奈良朝時代でも上流階級の文化が民衆の間にいくらかずつしみこんでゆくようすのあったことは、別問題としても、仏教の僧侶に民衆から身を起したものが多く、そういうありさまがずっと後までもつづいていたことは、見のがすわけにゆかぬ。これは、民衆がその力をのばし高い地位を得るには、仏門に入るのがよい方法であったからであり、武士のはばをきかせた世に武士になろうとしたのと同じである。江戸時代に農民が学問に志したのも、一つはそれらと同じ理由からでもあるが、しかしこの時代になると、商人はいうまでもなく資産のある農民とても、彼らみずからに社会的の力のあることが自覚せられて来たので、彼らの地位にあり彼らの職分をもちながら、その生活を高めてゆこうとするようになり、そこから彼らみずからの文化が生み出されたのである。百姓町人には百姓町人の道徳もあり誇りもある、ということの考えられたのも、武士とは違って百姓町人は権威には屈せぬものだ、ということのいわれたのも、このことと関係がある。彼らのこういう生活の展開は、一面では、封建制度や武士の権力の下において行われたのであるが、他面では、この制度や権力が彼らの生活をおさえつけ彼らの力を伸ばさせないようにするはたらきをもっていたので、彼ら民衆のはたらきはおのずからそれらに反抗する精神をもつことになった。事実、封建制度と武士の権威とが長い間にだんだんその内部からくずれて来たのは、主としてこういう民衆のはたらきの故であった。そうしてそれによって明治の維新が行われたのである。明治になってから貴族や武士とは違った地位にある民衆というものがなくなり、日本民族全体の力とはたらきとによって民族の活動が行われていることは、いうまでもあるまい。いわゆる資本主義経済の世になっても、日本にはヨウロッパの社会にあるような階級的対立感が強くならなかったのであるが、これには、低い身分のものも力があれば高い地位に上ることができたというむかしからのならわしが、階級の区別のはっきりしていたヨウロッパのありさまと違っているということが、おもな理由であろう。身分が固定しないということは、江戸時代の社会的秩序が維新の変動によって急にくずされたからばかりではない。
 民衆が社会的にも文化の上にも大なるはたらきをしたということは、人が人としてはたらくことができたことを示すものであり、従ってその根本には、人間性ともいうべきものが政治的社会的または宗教的権威によって抑えつけられなかった、という事実がある。そうしてそれは日本の民族生活の長い歴史を通じていつの世にも見られることである。日本歴史の特性として第二にいおうとするのは、このことである。日本民族には、われわれに知られるようになった時代においては、むかしから人間性がひどくおさえつけられるようなことがなかった。家族生活においては、子どもが愛せられて、親の自由になるもちもののようには考えられず、女が男と同じ地位をもち、婚姻は概して自由であった。社会制度としても、品もののようにとりあつかわれる奴隷というものがなく、ヤッコ(家つ子)といわれた奴婢はあっても、ヨウロッパにあったような奴隷ではなかった。これらは、概していうと、人間がほぼ平等にとりあつかわれていて、権力のあるものがないものをひどくおさえつけるようなならわしのなかったことを示すものであり、そこにいかなる人も人として重んぜられたしるしがある。もっとも、呪術じゅじゅつ宗教的な信仰として、例えば見知らぬ人を邪霊のついているものとして恐れるような、ならわしのあった点において、人に対する同情というこころもち、従って人を人として重んずる気分、の発達が抑えられていたことを示す一面もあるが、スサノオのみことのヒノカワカミの物がたりのように、人を生かすためには宗教上の儀礼をこわしてしまうという他の一面もある。(オロチはこの場合には神である。)宗教上の禁忌を犯しても旅人に宿をかしたり思いびとを家に入れたりした話が、『常陸風土記』や『万葉』にあるのも、同じ意味のこととして考えられる。(勿論これは、一般のならわしとして、神を祭り呪術を行うことが重んぜられていたことを、否定するものではない。)仏教が入って来ても、人生を苦と観じて解脱を求めるような思想は一般にはうけ入れられず、概していうと、仏は現世の、即ち人間としての、幸福を祈る神として見られていた。また儒家の教が知識としては学ばれても、人間性をおさえつける傾向のあるその一面は、実践的には、全くしりぞけられた。具体的に人の行為を規定する儒教の「礼」というものの用いられなかったのも、それとつながりのあることである。例えば、婚姻というものを家に子孫のあるようにし血統をたやさないようにすることを目的とする方法として見るような儒教の思想とそれにもとづいた礼とは、少しもうけ入れられなかった。儒教の婚姻の礼というものを学ぼうとしなかったのは、葬祭の礼が学ばれなかったことと共に、家族制度、家族生活の風習、及びそれに伴うこころもちや考えが、シナ人とは全く違っていたからではあるが、人間性の一つの現われとして両性の間がらを見ていた日本人には、その意味からも儒教の思想と礼とをとり入れることはできなかったのである。
 平安朝の貴族の生活には、すべての方面において特殊の教養があったが、その教養は人間性をゆがめたりおさえつけたりするものではなかった。「あわれ」を知るということが教養の精神であったといってもよかろうが、それは、とりもなおさず、ゆたかな人間性の一つのあらわれである。その「あわれ」を知るにも、貴族的であるということに伴ういろいろの欠点もあったし、また全体に彼らには男性的のつよさやほがらかさやが乏しかったということもあるが、その代り、こまかい感受性をもち、世に立ってゆくについてはかなりに鋭い慧智のはたらきをも具えていた。理性はわりあいに発達せず、呪術としての仏教やいろいろの迷信にとらわれていて、それが人間の道徳性を弱めるはたらきをしたという一面もあるが、それとても上に述べた教養を甚しく妨げるようなことはなかった。いろいろのものがたり、特にそれらのうちで最もすぐれた作である『源氏ものがたり』が、人というものをあらゆる方面からこまかく見こまかく写しているところに、人間性を尊重する精神が強くあらわれていることを、考えねばならぬ。『大鏡』などに見える人物の描写や批判にも同じ精神が潜んでいる。源平時代から後の武士には、武士の生活によっておのずから養われた特殊の気風があり、戦争という武士のしごとに伴って生じた情を抑えるならわしもその一つであって、これは平安朝の貴族にはなかったことであるが、同じく戦争のならわしから生じたこころもちとして武士の「なさけ」ということが尊ばれ、その点では「あわれ」を知ることを重んずる平安朝貴族の修養と或るむすびつきがあり、いくらかはそれからうけつがれたところもある。武士の一面には、その生活と社会的地位とから生ずる粗野なところもあり、特に下級武士、もしくはそれから成り上がったものにおいてそうであるが、その代り、その粗野は、矯飾が伴いがちの修養のない点において、素朴といわるべき半面をもつものであり、そこに却って自由な人間性の新に育て上げられる地盤がある。戦乱が長くつづいて古い文化と古い秩序とをうちこわすはたらきの強くなった戦国時代になると、一般に武士の気風のこの一面が著しくなり、それがいくさをするというしごとと戦国という社会情勢とによって、特殊の色あいを帯びながら、あるいはゆがめられた形となりながら、力強く浮かび上がって来るので、いわゆる桃山時代前後の武士の気風の一面とそれから生まれ出た文芸とは、その最もよき現われである。いろいろの俚謡や新しく起った歌舞伎や、さまざまの風俗画などが、その例であって、人としての欲求や情緒が自由なこころもちで表現せられ、従ってまたそれが肯定せられている。こういう気風が、江戸時代になってだんだん固められて来た平和の生活によって精錬せられ、一つの形を具えるようになったのが、元禄の文芸に現われている人間性の高揚である。もっとも武士には、いのちをすてて戦場ではたらかねばならぬという、そのしごとの上から来るいろいろの気風があり、特に江戸時代になると、平和の世に戦国武士のこの気風を保たせようとするところから、むりなならわしや道義観念も養われて来たので、それはこういう人間性を抑えつけるものであった。近松の戯曲などに力強く写されているいわゆる義理と人情との衝突がここから生じたのであって、いわゆる義理は武士の道義とせられたものをいうのである。しかし、その義理には人情によって緩和せられる一面もあったので、武士の道義は人間性をいじけさせてしまうものではなかった。また道義が宗教の権威によって人に臨むものではなく、社会的風尚によって養われもし保たれもしたということが、一つの意味においては、道義そのものの含む人間性をよく示すものであるともいわれよう。日本人の道義観念は、概していうと、宗教とはかかわりがなく発達したものであるので、それは一つは宗教そのものに道義的意義が少ないからのことであるが、武士の道義とてもまた同様であった。
 日本民族の人間性とそれを重んずる思想とが、歴史の発展と共に次第にその内容と意味とをゆたかにし深めも高めもして来たとは、必しもいいがたいかも知れぬが、生活の歴史的変化につれて時代時代に変った姿を現わして来たとは、いい得られよう。いつも何らかの形でそれがはたらいていたのである。日本の歴史にはルネサンスのような思想運動の起ったことはなかったが、それも実は、そういう運動の起らねばならなかったようなありさま、人間性をひどく抑えつけた時代がなかったからだ、といってもよかろう。仏教が、その教理はともかくも、事実において人間生活を肯定しているものであったことも、考えらるべきである。さて近い時代になって人間性を重んずることがヨウロッパの文化とその精神とを理会することによって大なる助を得たことは、いうまでもあるまい。特に、理性のはたらきの重んぜられも強められもするようになったことにおいて、そうである。
 第三にとりあげねばならぬのは、ほかの民族の文化によって造り出された、従って外からとり入れた、ものごとと民族生活とのいろいろの関係が日本の歴史の展開には大なるはたらきをしている、ということである。この外からとり入れられたものごとは、むかしにおいてはシナ及びシナをとおしてシナ化せられて入って来たインドのであり、近ごろにおいてはヨウロッパのであるが、シナのとインドのとでは、そのとり入れかたも日本の民族生活におけるそのはたらきも違っているし、むかしのそれらのものと今のヨウロッパのものとの間には、なおさら大きな違いがある。むかしシナからとり入れたものについていうと、はじめのうちは、それをそのまま学びとろうとする風があったけれども、もともと風土、人種、民俗、そのほか、あらゆる生活のしかたが日本とはまるで違っているシナに起りシナで発達したものごとは、日本の民族生活にはそのままにうけ入れられるものではないから、それが日本の民族生活の内部に何ほどかのはたらきをするようになると、それは既にこの民族生活そのものによって形がかえられ、はたらきがかえられている、というありさまであった。あるいはまたそれが民族生活を外からおさえつけるはたらきをした場合には、むしろそれをおしのけて生活の自由を保とうとした。おしのけるについても、おしのける力とはたらきとには、上に述べたようにして形をかえてしまったシナ伝来のものごとがやくにたってはいるが、ともかくもこの二とおりのすじみちがあったことは考えられねばならず、それが日本の歴史の展開の大じなすがたとなっている。シナからとり入れたものの第一は文字であるが、シナの文字は音をうつす文字ではなくして、シナのことばのしるしであるから、シナとはことばの性質もくみたても、ことばそのものも、全く違っている日本のことばを、それでうつすことはできないものである。ところが日本人は、そういう文字をつかって日本のことばをうつすことを考えだした。そのつかいかたには二つあるので、一つは、日本のことばをくみたてている音と同じ音または似よった音のある文字をとって、それによって日本のことばをうつすのである。これがいわゆる仮名であって、文字の意義をすてて音だけをとった、いいかえるとシナのことばのしるしである文字を音のしるしとして用いたのである。日本とシナとのことばは違うが、ことばをくみたてる音には似よったものがあるから、こういうことができたのである。ハルということばを波留と書くようなのがそれである。次には日本のことばと似よった意義をもつシナのことばをうつした文字をつかうことであって、ハルを春と書くようなのがそれである。これは文字の音をすて意義だけをとったのであって、その意義を日本のことばでいいあらわすことを訓といっていた。こういう二つのしかたで、シナの文字を用いて日本のことばをうつしたのである。そうしてこの第一のしかたからカタカナ及びヒラガナ、即ち日本の音をうつした日本の文字、が作り出されるようになったのである。そこで日本のことばをうつすには、シナの文字の必要がなくなったはずであるが、しかしシナの文字を訓によってつかう昔からのならわしもなくなりはせず、また単語としてはシナのことばをそのままにとり、従って音と意義との両方を併せ用いるシナ文字のつかいかたも行われたのである。けれども、ともかくもシナの文字から日本の文字をつくり出し、それによって日本のことばをうつすようになったことは、明かであり、そうしてそれによって日本の文学がはじめて大に発展することができるようになった。いわゆる漢文や漢詩を作ることも行われたが、それとても口にいい耳にきくシナのことばで文をつづり詩を作るのではなく、文字に写されたシナの文や詩によって、ことば、むしろ文字、のならべかたをまねたのみであり、作るにも読むにも、ほぼ日本のことばになおしてするのであるから、それは見た目にシナの文や詩のような感じがするのみであって、ことばとしては漢文でも漢詩でもない。ほんとうの日本のことばにはなっていないにしても、シナの文や詩では決してない。こういうようなシナの文字シナの文や詩のとりあつかいかたは、どの民族にも類のない日本人だけのことである。
 カナ文字を作ったことは、日本民族がシナからとり入れたものを材料として、日本人の生活を発展させるに必要な、そうしてもとの材料とは全く違ったものを新に作り出した一つの例であるが、美術または工芸などの方面にも、これに似たことがある。例えば日本の画はシナの画の技術を学ぶことから出発したものながら、もとのシナの画とははるかに違った、日本人でなければ作られない、画になっている。いわゆる大和絵とか、宗達光琳などの作品とか、そういうものは、シナ人には作り得られないものである。しかし、シナからとり入れたものがあまりに現実の民族生活にあてはまらないものは、一とたびそれを学んでも、しまいにはとりのけてしまうし、あるいは知識としてもっているだけで実生活には入りこませない。令できめられた制度において唐令から学ばれたものは、前の例であって、儒教道徳の教の如きは、後の例である。これらのことについては、『支那思想と日本』のうちにも述べておいたから、今それをくりかえさなくてもよかろう。また日本に入って来た仏教は、シナ化せられてはいるけれども、その根本に世界性があるのと、寺院があり仏像がありいろいろの儀礼が行われるのとで、シナに特殊な民族生活から離れることのできない儒教の思想がただ知識として学問として書物によってのみ伝えられたのとは違い、だんだん日本の民族生活に入りこんで来て、それにいろいろのはたらきをするようになった。けれども、日本の民族生活に入りこんで来ると、仏教そのものがインドのともシナのとも違ったものとなり、そこに日本の仏教が形づくられるようになって来た。仏教によって民族生活が変化をうけるよりも、民族生活によって仏教が変化したというべきであろう。外からうけ入れたものごとと民族生活との関係には、こういういろいろのすじみちがあったが、いずれにしても外から入って来たものがそのままの形では大きなはたらきをしなかった。日本の民族生活はそれらからいろいろのものをうけ入れつつ発展して来たのではあるが、生活そのものはインドのはもとよりのこと、シナのとも同じところがあるようにはならず、全く独自の生活を発展させて来たのである。これはもともと日本の民族生活とシナ(またはインド)のそれとが全く違ったものであり、それと共に日本人はシナ人(またはインド人)とは離れて日本人だけの世界で生活をしていたためであろう。日本にとり入れられたシナのものごとがシナの民族生活に特殊なものであって世界性をもっていないことも、またこのことについて大きな意味をもっている。
 ところが、こういう歴史をもっている日本民族は近代に至ってヨウロッパに発達したものごとをいろいろ受け入れた。その最も著しいものは自然科学とその応用とであって、これは今日の日本の民族生活のあらゆる方面にゆきわたっている。それによって昔とは違った生活が展開せられ、その生活から新しい精神も道徳も形づくられてゆく。これがなくては日本の民族生活が忽ちとまるかくずれるかしてしまう。のみならず、同じ科学的な、即ち論理的実証的な、ものごとの考えかたから生じたいわゆる人文科学が自然科学と並んで今日の日本の学問となっているし、現実の民族生活を批判しそれを導いてゆくのも、またこの科学的方法によって形づくられる思想なのである。そうしてこの科学、特に自然科学とその応用とは、世界性をもっているものであるから、その点では日本人の生活と日本人のはたらきとは世界に共通なものである。学問の世界においても、科学とその方法とには或る限界のあることが考えられねばならず、現実の生活を支配するものが科学のみでないことも明かであるが、科学が大きいはたらきをしていることはいうまでもなく、そうして日本の民族生活はどの方面でもそのはたらきをうけていないものはない。科学とは反対な性質をもっている文芸とても、同じことである。そうしてその科学はもともとヨウロッパからとり入れられたものである。さすれば、近代になってヨウロッパからとり入れたものごとは、日本の民族生活そのものを変化させたのであり、それによって変化したのが今日の生活である。これは現代において世界が一つになって来たと共に、日本民族の生活が世界性をもって来たからである。むかし別の世界のシナからシナ民族の生活に特殊ないろいろのものをとり入れたのとは、その意味が全く違う。(外からとり入れたというだけのことでこの二つの場合を同じように見てはならぬ。)もっとも一方では、科学をとりあつかうしかたに日本の民族性がはたらくのであるが、それは科学そのものの性質をかえることではない。またこういう意味で日本の民族生活が世界性をもって来たということは、日本の民族の生活がすべての方面においてヨウロッパのいろいろの民族のそれと同じになったというのでないことは勿論であるが、ヨウロッパからとり入れたものが、今日の日本の民族生活のすべての方面に大きなはたらきをしていることは、疑いがない。そうしてそこに、日本の民族が世界に向ってはたらきかけることの根拠がある。これは日本の歴史においてはじめて現われたことである。
 日本の歴史において著しく目にたつことは何であるかと考えてみて、これまで述べて来た三つが思いうかべられたのであるが、これらはもともと別々のことではなく、いずれも日本の民族生活のあらわれであり、その生活の発展の三つのすがたともいうべきものである。三つの間の互いの関係は、上に述べたところによっておのずから知られたであろうと思うが、そのすべてをつらぬくもの、三つのすがたとなって現われたそのもととなるものは、日本民族が絶えずみずからの生活をゆたかにしてゆき高めてゆこうとし、妨げをするものがあればそれと戦ってそれをうち破り、やくにたつものがあればそれをとり入れそれを用い、そうすることによって、絶えず生活を新にしてゆこうとして来た生活そのものの力であり、はたらきである。ただむかしにおいては、民族全体がそのときどきの情勢に応じて、全体としての生活の或る目じるしをもち、或る方向を定めて動いてゆくというようなことはなく、多くの場合では、ひとりひとりがひとりひとりの生活についてはたらかせる上に述べたような力が、おのずから結びあわされ、おのずからはたらきあうことによって、全体の民族の力とはたらきとになったのであるが、これはむかしにおいては日本民族のはたらきが今日のように世界的でなく、多くの民族の間にたって日本人全体が一つの民族としてはたらくということがなかったため、従ってまた民族意識が今日ほど強くもはっきりもしていなかったからである。しかしすべてが民族みずからの生活の力でありはたらきであることは、明かである。こういう生活の力の強く、はたらきの盛んであるのが、日本民族であり、日本民族の歴史はそれによって展開せられて来たのである。日本民族がたえず現在のありさまにあきたらず、じぶんらの生活をおさえつけたりしばりつけたりするものをうち破って、その間から新しい生活の道を見いだし新しい生活を造り出してゆこうとしてはたらいた、そのはたらきによって日本の歴史が形づくられて来たのである。日本の歴史は、その主体が日本民族という一つの民族である点において、一つの生命の展開であると共に、それが展開である点において、生活のすがたはたえず新しくなりたえず変ることを意味するものである。日本民族のに限らず、すべて歴史が一つの歴史であるということは、歴史のはじめにおいて形づくられていたものが後の後までもそのままの形で残っている、というようなことではない。もしそこに変らない何ものかがあるとするならば、それはたえず変ってゆく生活に順応してそのはたらきが変ってゆくからであり、そう変ってゆくところに歴史の展開があるのである。そうして日本においては、日本人が一つの民族であって、その内部に民族のちがいとか征服したものとせられたものとの区別とかいうことから生ずる争いというようなものがなかったと共に、生活の力が盛んであって、その生活を発展させるために必要なものを外からとり入れることを怠らなかったところに、かかる歴史の展開の意味と精神とがある。上に述べた三つのことがらも、それから生じたこと、またはその精神のあらわれである。





底本:「津田左右吉歴史論集」岩波文庫、岩波書店
   2006(平成18)年8月17日第1刷発行
   2006(平成18)年11月15日第2刷発行
底本の親本:「学生と歴史 第二版」日本評論社、
   1946(昭和21)年11月
初出:「学生と歴史 第二版」日本評論社
   1946(昭和21)年11月
入力:門田裕志
校正:フクポー
2017年10月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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