喜多村緑郎




 人として一つの癖はあるものよ、れにはゆるせ敷島の道。……これはよく落語家はなしかが枕にふる言葉ですが、……無くて七癖、有つて四十八癖、といつて誰にもあるんでせうが、さうなるとわたしには、夜更よふかしをするのが癖の一つでした、……わたしの若い時分の時間でいふと十二時頃寝るのは罪悪のやうな気がしたもんです。それで居て朝寝坊はきらひでしたから……恐らくまづ寝るは三四時が関の山でしたらう、……最も現在いまでも一晩や二晩の徹夜なら平気です。でも此のせつでは五六時間は眠ります。が、まあ夜ふかしの方でせう。そのかはり昔から枕につくと殆どすぐ眠れます。
 さういつた訳合ひで、昼間随時に居眠ることが多いんです。稽古場の読合せなどの時さへ一寸でも間があると、台詞書せりふがきを膝に開げたまゝで夢の国へ遊びに行きます。ですから、一座のものには、そのポーズが居眠りをして居ると分つて居ても、わたしは俗にいふ船を漕ぐといふ方でなく、不動の姿勢で居るために、その習慣を知らないものにはさらに気がつかないんです。ところが、その延長で舞台でも眠るる癖がありました。
 武士は轡の音で目を覚ますのたとへで、まさにいざといふ時には不思議に目が醒めますね。詰り神経は眠つて居ないんでせう、……でもさういふ時はキツカケが何秒かは遅れるので、一緒に出て居る者には多少迷惑をかける訳になりますが、自分にとってはかういふ時ほどいゝ気持ちで眠つて居る時なんです。尤もさういふ時は必ず其処に眠るだけのひまもあるからでもありますが……
 一々話て居ては切りがないので、一つ二つ書くことにしませう、ですが此の最初のものは、これまでにもよく話題になつて居るので御存じの方もあると思ひますが、とにかく年代順としつゝ掻いつまんで御披露しませう。
 これは明治三十四年の二月、大阪の朝日座に一座を組織して居た時代、徳冨氏の「不如帰ほとゝぎす」を脚色して始めて上演した時のこと、その大詰の「浪子臨終の場」の出来ごとなのですが、筋を少し書かないと模様がはつきりしないので、その一端を示すとしませう。
 幕が明くと、和洋折衷の二間続きで、下手は上手よりせまいが純然たる洋式のこしらへ、上手の方へ寝台を置いて、これに浪子が横たはつて居る、其れへ主治医の博士が既に注射をなし終へた処で、浪子を取巻いて、伯母の加藤夫人、乳母、その他五六人居て、孰れも無言、博士のむねにより加藤夫人が皆をつれて去る。……或る者は洋間との境へ金屏風をかこつて退しりぞくが、凡て沈黙のうちに行はれる。少時しばらくして、洋間の方へ、山木兵蔵を女中が案内してくる。そこへ加藤夫人(浪子の伯母)が出てこれに応対する。山木は立派な果物籠をもつて川島家から浪子の見舞に代理として来た心。それを加藤夫人はおだやかに、けれども厳然と見舞を受附けない、山木は止むを得ず、すご/\果物の籠を持つて帰へつてゆく。其処へ入れかはつて主治医が出る、続いて片岡中将(浪子の父)が登場する、さうして、加藤夫人と三人相対して博士から浪子の容体は時間的なることを告げられる。中将は静かに一と言、「止むを得ません、」といつて博士に労を謝す、博士は此場を退く、加藤夫人はこれをドアまで送つてもとの椅子へ戻るまでに、中将は此処で始めて溜息をき、椅子の背へもたれて眼を閉ぢる。
 其処で浪子が薬から醒めて、「伯母様、伯母様、……」と二声呼ぶことになるのだが、此のキツカケが頗る厄介千万なので、……その中将の微妙な心理的の動作しぐさは屏風にへだてられて居るからわたしからは見えやうがない。だが相手は高田実が中将をつて居るので、高田なら此の位のだと考へて初日から二三日演つて見た、それは博士の台詞せりふが切れるとこから計つて見当をつけるのだが、でもうまく其の間へぴつたりとはいつてはいけたものゝ可なりこれはむづかしかつた。……すると、四日目ごろから、……中将が椅子に凭れる処らしいんだが、……其処になると、見物から「高田々々」といふ激賛の叫びがあがる、かうなるとわたしにとつては何より楽な切掛きつかけが与へられることになつたので、その喝采の止むのを合図に、
「伯母様、をば様」。といふことにした。……処が中日なかびを過ぎた或る日のこと、そのキツカケが来ても「浪子」から「伯母」を呼ぶ声がしない、何か新狂言をするのか? と、「加藤夫人」をて居たものは、俯向うつむいたまゝ憂ひに沈んだ思入おもひいれなどして待つて見たが、さらに呼びかけて来る気配もしない。見物も此の場の成行きに固唾かたづんでなりを沈めて居るものゝ、そろ/\舞台に穴があきさうになつて来るので気が気でなくなつて来た、……此の伯母をて居たのが酒井政俊といふ舞台数も踏んで居る芸達者な女形だつたので、……「浪子」の容態が案じられる思入で、立つて来て屏風へ手をかけてのぞいてみたが、それでも何んとも言はないので、静かに病牀へ近よると、いゝ気なもので当人すや/\と軒をかいて眠つて居る、で、見物に知らさないやうに起さうと、いかにも病人をいたはるやうなしぐさをしながら羽根蒲団へ手を掛けようとした途端……わたしは此処で目が覚めた、しまつた、と思つたが、その瞬間、病人らしく弱は/\しい声で「伯母様」と、呼びかけたもんです。
 すると如何にもそれが自然らしかつたので、あきれた酒井は、ふつと、噴飯ふきだしかけたのを半巾ハンケチくわへて後ろ向きになつたが、込みあげてくる笑ひが止まらず、声をのんで身をふるはせて居たのが悲しみにせきあげるやうに見えたので拍手喝采大受けに受けた。……それから以来はれがやつても伯母の方から来るのが型になつてしまつたんですが……なかにはかういつた過ちの功名もありました。
 それからこれは三十七年の日露戦争の時分、これも大阪の浪花座で戦争芝居を演つたとき、わたしは弾丸をうけて戦死をする中尉の役で、……その頃立廻りが得意だつたわたしは、馬の上から真つ逆かさまに落ちるケレンなどを演つて居たんですが、その日は落馬をしたはずみに拍車が鞍に引つかゝつて落ちきれなかつたのを、馬は縫ひぐるみを冠つて居るので分らないため、駈け込まうとして一二間引きずられるうち、やつと自分で捩放もぎはなして其処へ倒れることにした。……それから少時は敵味方が舞台で混乱をきはめて幕になつたが、倒れて居るわたしがそのまゝ起上らないので、男衆はじめ道具かたが駈けよつて見ると討死うちじにをした死骸は鼾を立てゝ眠つて居た。……
 長年の間のこと、数へあげると切りがないが、さうした癖は必ずしも今尚あとを絶つた訳ではない、――三ツ児の魂ひ百迄といふ譬もあるので、まだ/\それが消えうせるまでには、可なり先のあることだと考へて居る次第であります。





底本:「日本の名随筆 別巻10 芝居」作品社
   1991(平成3)年12月25日第1刷発行
   1997(平成9)年5月20日第4刷発行
底本の親本:「わが芸談」和敬書店
   1952(昭和27)年11月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年11月28日作成
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