イエス伝

マルコ伝による

矢内原忠雄





 終戦後キリスト教に対する日本人の関心はいくらか増してきたが、それでもまだ十分とは言えない。いわんや戦争前および戦争中において、キリスト教に対する日本人の態度は無知と傲慢ごうまんと冷淡と偏見に満ち、「キリスト教は日本の国体に合わぬ」という一言の下に、時には軽く無視せられ、時には激しき弾圧をこうむった。たしかに日本を戦争と敗戦に導いた大きい原因の一つは、明治維新以来八十年の間の長きにわたり、政府と国民がキリスト教に対して取った無理解・傲慢の態度にあったと言うことができる。
 いまや時代は一変し、日本人がキリスト教の知識と信仰を養うべき必要はますます大となった。これによって日本国民は真に民主主義的な、平和愛好国民として新たに生まれ変わることができるのであり、またこの混迷せる虚無的な時勢にありて、各自が絶望より救われ、自由と希望の「生きる道」を見いだすことができるのである。
 キリスト教を知る道は、聖書を学ぶにしくはない。キリスト教の信仰を養うためには、百の説教、千の神学にまさりて、聖書の研究が重んぜられなければならない。聖書の真理を離れてキリスト教はないのである。キリスト教が日本および日本人の救いの基礎となるためには、何よりもまず聖書を日本人の書となさねばならない。
 私は少数の青年たちを相手に、聖書の講義を続けることすでに十五年、昭和十三年一月からは『嘉信』と題する聖書研究の個人雑誌を出している。この『嘉信』の創刊は、前年十二月私が東京帝国大学教授の職を辞した結果であったが、その前後の嵐の中で私は新約聖書のマルコ伝の講義を続けた。それは日華事変の起こった直後であって、キリスト教の信仰と平和思想に対し政府と国民のとった、あの狂気じみた迫害・誹謗ひぼうのまっただ中においてであった。その中にありて、私はこの講義によって、サタンの跳梁ちょうりょうに対して真理を擁護し、キリストを信ずる者が迫害を怖れて世と妥協することなく、信仰の純粋性を維持すべきことを勧めたのであった。
 私は右の講義を集め、『イエス伝講話』と題し、嘉信文庫第一冊として、昭和十五年六月に自費出版した。その後再刊を希望する声が絶えなかったが、今般角川書店からの交渉に応じ、新装して再び世におくることとしたのである。新約聖書には、四とおりのイエス伝がある。マタイの伝えたもの、マルコの伝えたもの、ルカの伝えたもの、およびヨハネの伝えたもの、これである。本書はこのうち主としてマルコ伝(詳しく言えば「マルコの伝えた福音書」)によったものであるから、その実質はマルコ伝講義である。読者はマルコ伝を開き、その本文を読みながら、この講義を参照せられたい。
 私は専攻の聖書学者ではなく、また神学校出身者でもない。私はただ一介の平信徒である。ゆえに私は神学者のごとく語らず、牧師のごとくに説教しない。私はただ一人の人間として、私の信ずることのできた聖書の真理を単純率直に語る。私の念願とするところはただ一つ、それはわが愛する同胞がこの小著によりていくらかでも聖書に親しみ、聖書を知り、聖書を信ずるに至り、それによって人類の将来と、国民の復興と、各自の人生について確固たる希望をもつことである。そのことを祈って、私の心は熱せざるをえないのである。
 神もし許し給わば、私は旧新約聖書に属する各書の講義を逐次公刊したいと考えている。

昭和二十三年(一九四八年)九月、東京自由ヶ丘にて
矢内原忠雄
[#改丁]

第一章 福音の始め



一 マルコ伝の特徴


 イエスの伝記は新約聖書中に四つ、マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝と四つの福音書がありますが、そのうち、マルコ伝によって私はお話します。右四つの伝記はおのおのに特色があります。それを総合して立体写真のようにイエスの姿を構成するのも、イエス伝を学ぶ一つの方法でありますが、そのうち一つの伝記だけを見ても、個性のある見方でイエスの姿を学ぶことができます。
 マタイ伝は「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と書き始めて、ユダヤ人の血統としてのイエスを描きました。これには旧約聖書からの引用が多く、イエスのこういう行為またはこういう事件は何々とある旧約の言にしたがわせんがためなりとあって、これはイエスがユダヤ人の救主すくいぬしであることをユダヤ人に示すという目的をもって書かれたのであります。ルカ伝にはギリシャ人、ユダヤ人の区別なく種々さまざまの人物が出てきて、イエスは全世界の人のための救主であることを示しています。ルカはギリシャの教養があって、ギリシャ的に書きました。ヨハネ伝は「太初はじめことばあり、言は神とともにあり、言は神なりき」という書きだしでもわかるように、神秘的・哲学的です。マルコ伝は四福音書の中でいちばん古く、かついちばん短いものでありまして、非常に個性のある、独創的な、新鮮なイエスの姿を描き出しております。
 マルコ伝の筆づかいは非常に簡単です。一章の一節に「神の子イエス・キリストの福音の始め」とあります。ここに「神の子」とあるのは後世の人の書き足したものだという説がありますが、もしそうなら単に「イエス・キリストの福音の始め」となります。マルコ伝は始めからイエス・キリストは神の子であるという頭で書かれたのではなく、何らの先入主なく、独断なく、一人の人間としてのイエス・キリストの姿をありのままにとくと見て、これはただの人ではない、神の子であるとの結論に達したのであります。
 マルコ伝を書いたマルコという人は、使徒行伝しとぎょうでんにも出てきますが、本名はヨハネといい、マルコというのが通称でありました(使徒行伝一二の一二)。彼はペテロの弟子であり(ペテロ前書五の一三)、パウロにも仕えました(テモテ後書四の一一)。彼はこの二人の偉人に対してヘルメノイテス hermeneutes、今日の言葉でいえば秘書役であったと言われています。これは通訳とか通事とかいう意味の語でありますが、単に言葉を通訳するのみでなく、ペテロが口で言うことを文章に記録して人々に伝える役割をマルコがしたのであります。パウロに対しても、彼は同様の役目をしました。ちょうどエレミヤにバルクがついていまして、エレミヤの言葉を書きしるしたと同様です。マルコ伝はおそらく、ペテロがイエス・キリストについて見たり聞いたりした事実を話したのをマルコが書きとめたものが主たる材料になって、それに他の資料が付け加わってできたものでしょう。
 ペテロは紀元六四年にローマで殉教の死を遂げました。同じ年にパウロもローマで殉教の死を遂げたと言われています。はたしてしかりとすれば、当時キリスト信者の間に非常な心配が起こったに相違ない。ペテロも殺され、パウロも殺された、我々の小さな集まりの将来はどうなるか、という不安に閉ざされたことと思われる。また紀元六六年からローマ軍はエルサレム攻略の積極的軍事行動を起こし、七〇年にこれを陥れてしまった。マルコ伝はおそらくペテロやパウロが殺された六四年からローマ軍が軍事行動を起こした六六年までの間に書かれたのであろうと言われます。
 マルコの書いたイエス・キリストの伝記を見ると、非常に始めが簡単です。「イエス・キリストの福音の始め」(一の一)、これは福音の発端、すなわち福音を説くに至られし次第であります。そして「預言者イザヤの書に云々うんぬん」と旧約の預言を引用して、バプテスマのヨハネの洗礼のことを述べだしているのでありますが、この引用中「よ、我なんじの顔の前にわが使をつかわす、彼汝の道を設くべし」(一の二)というのは、実はイザヤの言葉ではありません。これはマラキ書三章一節からの引用です(マタイ一一の一〇、ルカ七の二七参照)
 次の「荒野あらのに呼ばわる者の声す、『主の道を備えその道筋をなおくせよ』」というのがイザヤ書四十章三節の言葉です。マルコはマラキ書の言とイザヤ書の言とを一緒にして、イザヤ書からの引用として掲げました。なおまた二章二十六節に大祭司アビアタルとありますが、これも実はアビアタルではなくてアビアタルの父アヒメレクであり、親子の名前を間違えてしるしているのであります(サムエル前書二一の一、二二の二〇参照)。こういう間違いをしているのであるから、マルコ伝は歴史的文献として価値がないというのが十九世紀半ばごろまでの学者の説であり、有名なイエス伝著者カイムのごときもこの理由でマルコ伝の歴史的価値を低く見たのでありました。
 今日では反対に、四福音書中マルコ伝の記事がいちばん歴史的に確実であると見られるに至ったのでありますが、しからばマルコはそのイエス伝の冒頭において預言書からの引用をなすにあたり、なぜマラキとイザヤとを一緒くたにして書いたか。私どもが論文を書く時には、何の本の何ページから引用したかを確かめます。もし引用を間違えると学者としての信用が落ちます。しかしこれは急いで書く時にはよくあることです。マルコは急いで書いたに相違ない。彼の筆づかいはたいへん急いでいる。彼がイエスの福音宣伝に至る来歴を叙述するのに、いきなりバプテスマのヨハネが出て罪の赦しを得さする悔い改めのバプテスマをべ伝え、イエスの洗礼、荒野あらのの試み、そこから帰ってヨハネが捕われた後伝道を開始されたと、簡潔に、急速度に展開せられています。さらに用語の上でも、一章十節に「かくて水より上がるおりしも」とありますが、これは「水より上がった、それからただちに」との意味であります。カイ・オイトス(kai euthus)英語の and straightway にあたる語であります。十二節の「かくて御霊ただちに」、十八節の「彼らただちに」、二十節二十一節また二十三節の「時に」、それから二十九節の「会堂をでただちに」、三十節の「人々ただちに」、四十二節の「ただちに」、四十三節の「やがて」も同じ字です。「それからすぐに」「それからすぐに」と、非常に急いで筆を運ばせています。気がせいています。すこぶるテンポが早い、活動写真のようにさっさと書いてあります。これをルカ伝の冒頭に比べてごらんなさい。いと尊きテオピロ閣下よとルカは献本の宛名まで記して、自分がこのイエス伝を書くのは、先に書いた人もあるが不十分だから、自分が秩序を立てて詳細に書くのだと言っています。イエス出現の記事にしても、マルコは年齢三十歳の時のイエスから始めています。イエスが処女から生まれたとか、彼の生まれた時に星が出たとか、羊飼いが来たとか、その他幼少時代のことは何も書いてありません。すべて省略しています。他の福音書に詳記せられてある荒野の試みの内容も、マルコ伝には記されていない。マルコはなぜこんなに筆を急いでいるのか。それはイエス・キリストが十字架にかかり給うて、そして復活し給うたことをば早く書こうという気持があふれて、始めを急いだのであります。マルコ伝にはイエスが十字架にかかり給うた事実およびその後のことどもの記事がいきいきと非常に詳しく、非常に長く、他の部分の記事とつりあいの取れぬくらいすこぶるたくさんのページ数をかけて書きしるされているのであります。さきほども言ったように、マルコがこれを書いた時は、迫害がキリスト教徒の上に臨みはじめ、杖とも柱とも思っていたペテロもパウロも殺され、我々末輩はいかな困難にうかと人々の思い悩んだ時勢であった。その時に、マルコは、汝らイエス・キリストを信ぜよ、彼はかくのごとく十字架にかかり、かくのごとくに死に、かくのごとくに復活したのだ、汝らもイエス御自身のように生き、彼が戦ったように戦い、彼が死んだように死に、彼が復活したように復活するんだ、と早くそれを言いたい。今はぐずぐずする時ではない、早く信仰に入り、ただちにイエス・キリストを信じ、彼とともに十字架に上ろう。時は迫っている、信じようと思って考えているなどと言うべき時ではない、ただちに信じなさいと言うのが、マルコ伝を書いた時のマルコの気持でありましょう。
 マルコ伝が書かれた場所ははっきりわかりませんが、あるいはローマ、あるいは小アジアのローマ人の植民地なる町と言われています。ともかくもそれがローマ的なる社会に住む人に対して書かれていることは確かです。マルコ伝には旧約聖書からの引用は一章二節三節にあるだけ、それも引用のしそこないがしてあるだけで、他の引用はありません。またユダヤ人の特別な習慣には特に説明がつけてあります。マタイ伝がユダヤ的、ルカ伝がギリシャ的であるならば、マルコ伝はローマ的です。ギリシャ人が哲学的であるに反してローマ人は実際的です。またペテロという人は非常に実際的で、かつせっかちの人です。マルコも実際的のセンスの強い人であります。こういう環境で、こういう人によりて書かれたマルコ伝には、実際に即してぐんぐん我々に迫ってくる力があります。これはローマ政府の迫害下にさらされた信者たちを慰藉いしゃ鼓舞こぶする実際上の必要から、急いで書かれた実際的なイエス伝であると思われます。

二 イエスの聖召


 旧約聖書を見ますと、預言者たとえばイザヤにしても、エレミヤにしても、アモスにしても、預言者として神に召し出された記事がありますが、マルコ伝一章二―十三節はイエスが神に召し出された記事です。イエスの聖召の自覚は、彼がヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けて、水より上がったその瞬間に起こったのであります。
 当時ユダヤ教の中にはパリサイ派、サドカイ派等いろいろな宗派がありましたが、別にエッセネ派というのがありました。このエッセネ派というのはヨルダン川の東荒野地方に居住して粗衣粗食、独身の禁欲生活をなし、しばしば断食し、また一日に何度も川に飛び込んでみそぎをしました。そのころユダヤの宗教は腐敗し、エルサレムの神殿礼拝は全く形式的に堕落していました。そして政治的にはユダヤ国家は独立を失い、ローマ帝国の属国となっていた。国を救うべき宗教、宗教家が全く形式的に堕して無力化しているので、これに対し一つの宗教改革運動としてエッセネ派が起こったのであります。洗礼者ヨハネは駱駝らくだの毛の粗衣を着用し、生皮の帯をしめ、いなごや野蜜を常食としたというから、彼自身エッセネ派の感化を受けたに相違ありません。しかも彼はエッセネ派よりもさらに一歩進んだ宗教改革者として出現しました。エッセネ派は一日に何度も水に入って禊をしました。たくさんの度数入れば入るほどよいと思った。しかるにヨハネは、水に入るというのは一つの形式だ、いくら水でからだを洗ったとてそれで心が清まるものではない、水に入ることそのことを重要視するエッセネ派も形式主義であり、虚偽である。水に入るなら一度、一生に一度だ、水に入るのは罪の赦しを得さする悔い改めの型であるのだと、主張しました。
 悔い改めとは心を変えて新たにすることでありまして、原語たるギリシャ語ではメタノイアといい、私の非常に好きな語です。エレミヤ記三十一章十八節に、
 我まことにエフライムのみずから嘆くを聞けり、いわく汝は我をこらしめ給う、我はくびきに馴れざるこうしのごとくに懲しめを受けたり、エホバよ、汝はわが神なれば我を牽転ひきかえし給え、しからば我かえるべし。
「私を牽転して下さい、そうすれば転られる、私は転りたいと思うのですが、自分の力では転られません」、これがメタノイア、すなわち悔い改めであります。百八十度の回転と言いますか、くるりと向きを変えることです。生活の目的、生活の目標、生活の態度の向きを一変せよと言うのです。これは非常に大きな宗教改革です。神殿に行って燔祭はんさいなどの犠牲を捧げることに救いがあるわけではない。その点ではエッセネ派も宗教改革者でした。しかしエッセネ派の荒野の難業苦業やみそぎの生活にも救いがあるのではない。救いは心の向き直りだ、からだ全体を神様の方へひき向けることだ。それではじめて、またそれだけで、罪の赦しが得られるのだ。これがバプテスマのヨハネの教えです。これは非常に大きな改革です。実に「預言者中バプテスマのヨハネより偉大なるものなし」であります。
 ヨハネの霊力と権威ある教えとの風評が国内にあまねくなり、人々が各地から続々と彼のもとに来てヨルダン川で洗礼を受けました。その時イエスもナザレの村より出てきて、洗礼を受けたのであります。イエスはどういう気持で洗礼を受けられたか。元来罪のないイエスが、なぜ「罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマ」を受けたかについて、マタイ伝は特に説明を加えています(マタイ三の一三―一五)。しかしマルコ伝はその問題を何にも苦にしていません。イエスは他の者と同じく居村から出てきて、さっさと洗礼を受けた。そして水から上がるとただちに天が裂けて御霊みたまおのれに、原語どおりに言えば「己の中に」――マタイ伝、ルカ伝には「上」にとなっていますが、マルコ伝の方がいきいきとしている――「自分の上に」でなしに、「自分の中に」御霊が飛び込んだと感じた。そして「汝はわがいつくしむ子なり、我汝をよろこぶ」という声を聞いた。
 なぜイエスは洗礼を受けられたか。自分自身の罪を感じたためか。己の民族の罪を感じたからか。あるいは人類の罪を感じたからか。おそらくイエスは何もこんなに分析的に考えられずに洗礼を受けられたのであろう。彼は決して自分一人を別人扱いにする自覚をもって洗礼を受けられたのではなかろう。彼はただ人を救い国を救う真の宗教とは悔い改めて心の向きを変えること、すなわち心のこと、精神のことであって形式のことではないと洗礼者ヨハネが言っているところ、それは真理だと感じて、ヨハネの洗礼を受けられた。すなわち身をもってヨハネの改革運動に賛成を表明せられたのである。しかしイエスはいわゆる出藍しゅつらんの誉れで、洗礼の霊的意味をヨハネ以上に明らかにされた。すなわちヨハネは水をもって洗礼したが、イエスは聖霊で洗礼を施されました。ヨハネは悔い改めすなわち心の向き直りということを表示するのに、なお水という形式を用いました。しかしイエスは何らの形式を用いず、直接聖霊による悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたのであります。心より心へ。心をもって心を。宗教の純霊的意味はイエスによりて明らかにせられた。彼はこの点でも預言者以上の預言者、改革者以上の改革者でありました。
 それは後のこととして、イエスがヨハネの洗礼を受けてヨルダン川から上がった瞬間、彼の心にはたちまちある圧倒的な強い自覚がわいた。すなわち彼の心は神の霊と深く強き愛において結びついたことを自覚したのである。御霊がはとのごとくにイエスの中に飛び込むのを感じた。それは目で見るほどの鮮やかな、はっきりした自覚であった。鳩は愛と和とを表徴する鳥でしかもその飛翔ひしょうする速力はすばらしく速い。御霊が鳩のごとくにイエスの中に飛び込んだというのは、イエスの心が神の愛を受感して、神の心に強く結びつき、神と愛の契りを結んだことである。「鳩」というのは、この際イエスが神の御霊を呼んだ愛称である。神とイエスとは心の奥底における相愛の関係に結ばれた。そしてその間柄は実に父子の関係であった。「天より声ず、汝はわが愛しむ子なり、我汝を悦ぶ」。お前が好きだ、気に入った、というのである。ここにイエスは神の愛子たる自覚を強く与えられました。これがイエス聖召の体験でありました。
 神に召しいだされるとは、神の使命を託せられることであります。神の使命を託せらるる者は「神のしもべ」といい、また「神の子」とも言われる。イザヤ書に「わがたすくるわが僕わが心悦ぶわが選び人を見よ、我わが霊を彼に与えたり、かれ異邦人ことくにびとに道を示すべし」(四二の一)、また「見よわが僕知恵をもて行なわん」(五二の一三)、等とあるごとく、神に選び出されて神の言を託されし者は「僕」と呼ばれている。しかし神の選民たるイスラエル民族を神の「子」と呼んだ個所もあり(出エジプト記四の二二、ホセア一一の一、イザヤ一の二)、イスラエル民族の代表者としてその王を神の子と呼んだ所もある(詩編二の六、七。八九の二六、二七)。かくのごとく旧約聖書には神に選ばれし者を「神の僕」とも、また「神の子」とも呼んでいるのであり、新約聖書でもペテロはイエスを「神の僕」と呼んでいる(使徒行伝三の一三、ペテロ前書二の一八―二五参照)。しかしながら、イエス御自身の聖召の自覚は明白に「神の子」としてであって、「僕」ではなかった。
 神の子とはいかなる意味であるか。我々は神様がイエスをば、我々が子を生むように生んだとは思わない。神の子であるとは神と同じ心、神と同じ本質をもつものということです。子は親の意志に対して従順であり、親の理想、親の使命を果たします。その点において子は僕と共通であります。しかし子は内側の結びつきであり、僕は外側の結びつきであります。善き僕はしき子に優るが、善き子は善き僕以上であります。僕はいくら善くても他人ですが、子は親の生命、親から出たものであります。子は親の顔形のみでなく、親の気質を受けているから、いかなる善き僕よりも本質的に親を善く現わします。イエスと神様との関係は心の内側の結合であって、外側の関係ではない。イエスの心は神様の心と結びつき、その気質、その本質を受け継いだ。この意味でイエスは神の僕以上の者、すなわち神の子であり給うた。実際イエスほど神様と心が一つであった人はない。神学的に言えば、イエスは創造の始めから神とともであったと言われますが、人としてのイエスの生涯しょうがいにあっては、神の子たる自覚はヨハネの洗礼を受けた時に始まっています。この時彼の心が完全に神様に向いた。彼の心が完全に神様の心に結んだ。これがイエス御自身のメタノイアでありました。
 イエスは「神の子」であるとの天来の声を耳にした。しかし自分でとくと考えてみなければならない。わが身について神様から受けた啓示の大なれば大なるほど、ほとんど反射的にこの世の活動、世間の表面から身を引いて、自分の心の状態をしらべ、はたしてその啓示に値するやの確信を得なければなりません。おれは神の子だ、一つ大いにやってやろう、などという浅薄なものではありません。イエスは自分が神の子であると言う声を聞いて、居ても立ってもいられず、親近の者を避けて荒野にかくれ、四十日四十夜獣の住む荒野に居て、静思の時を過ごし給うた。獣が居たことは、何物も居ないよりもいっそう寂しさを増したのであります。
 荒野でイエス様がどういう試みを受けられたか、その内容はマルコ伝には書いてありませんが、他の福音書で補ってみると、石を変えてパンにせよとか、高い所から飛び降りよとか、世界中の物を皆やるから悪魔を拝せよとかいうことであった。我々はこれらの問題をどう考えるか。神の国の福音宣伝上パンを与えることは無意味なのであるか、パンを与えては悪いか。「人の生くるはパンのみにるにあらず」と記されてあるから人が飢えてもパンをやる必要がないなどと考えるならば、とんでもない間違いです。イエスは飢えた人をどんなに憐れんだか。彼は四千人五千人にパンを与えました。彼はからだの弱い人をどんなに憐れんだか。病人をどんなにたびたびいやされたか。世の中の貧しい人弱い人のために彼は一生の力を尽くされたのであります。石を変えてパンにすることそのことを、イエスが無意味である、善くないことであるというふうにはお考えにならなかったと思う。
 イエスが荒野で試みられたことは、自分の神の子たることの証拠をどこに求むべきかという点であった。たとえば石をパンに変え、高い所から飛び降りる等の不思議な業ができれば神の子であり、それができなければ神の子でないのであろうか。この考え方が悪魔の試みでありました。しかしイエスは神との心の愛の契りを信じて、この試みに打ち勝たれたのであります。神の子とは、何ができるとかできないとかによりません。もちろん、イエスは奇蹟を行ない給う力があり、それをもってたくさんの奇蹟を行ない給いました。それは彼が神の子たる結果であります。しかし彼が神の子たることの証拠は、彼の奇蹟的出生や、奇蹟的行為に求むべきではありません。彼は毎日毎日奇蹟をなしていたわけではなく、また奇蹟を行なうことができなかったこともありました。彼が神の子たることの証拠は神と霊において一つであり、神との霊の交わりが本当に深いということ、霊において神と愛を契ったということ、これがその証拠であり、これだけで十分です。それ以上はいっさい不要です。神と霊において一つになること、完全に悔い改めて神の方を向いて神と堅く手を握る、これがあればよい。他のことはあれば結構だが、なくともよい。
 イエスは荒野の四十日間の生活で、自分の神の子たることの根拠を確かめられた上、ガリラヤに帰ってきました。しかし彼はただちに伝道の生涯に入り給わなかった。バプテスマのヨハネが捕えられるまでは、イエスは背後におられ、伝道者として公然世間に顔出しをされなかった。これはヨハネに対するイエスの尊敬でありました。しかしヨハネが捕えられた時、彼は奮然として立ち上がった。ヨハネの戦いを受け継ぎ、ヨハネ以上の戦いをなすために、彼の立ち上がるべき時機は来たのであります。
 以上が「イエス・キリストの福音の始め」、すなわち彼の福音宣伝開始に至りし次第であります。同じことが我々各自のキリストしゃとしての生涯に応用できます。私どもも洗礼者ヨハネの「罪の赦しを得さする悔い改めのバプテスマ」の宣伝を聞いて、我らを牽転ひきかえし給えと神に祈ります。私どもは何度か自分で神にかえろうと思って努力してみますが、できないで我らを牽転し給えと祈り求めます。それを牽転して下さるのはイエス・キリストです。私どもはイエス様によって顔の向きを変えまして、神様の方へ向き直ります。私どもがはっきり向きを変えて、真正面から神の聖顔を見た時、その瞬間に「汝はわが愛しむ子、我汝を悦ぶ」という声を聞きます。その時に私どもはキリスト者として召し出されたのです。私どもは驚きます。「私どもが神の子? この無力無能、汚穢おえ下賤げせんの私どもが神の子? そんなことはありようはずがない」、これが私どもの荒野の試みです。「汝は何の善行もできず悪いことばかりしているではないか、高い所から飛び降りる勇気もなく石をパンに変える力もないではないか」、これは私どもがサタンに試みられているのです。サタンは私どもに向かい、「だから汝は神の子ではない」とささやいています。彼は勝ち誇って言います「キリスト者よ、汝の名は無力なり」と。こうしてサタンは神様と私どもとの親子の関係に水をさして、せっかく神に向かって向き返った私どもの顔をば再び神から引き離そうとする。それが悪魔の声です。イエスもこの問題のため四十日四十夜苦しまれましたが、彼自身のため並びに我らのためにみごとな解決をして下さいました。天使は私どもに教えてくれます、「このことができるとかできないとかいうことを、神の子たることの標準にしてはいけない。霊において神に結ばれることが、神の子たる証拠である。神とともにいさえすれば、何ができなくとも神の子であり、神はそれを喜んで下さる」と。こういう意味で神の子である者がキリスト者です。「全き愛は恐怖を除く」といいます(ヨハネ第一書四の一八)。こういう愛を神様から頂いた者には、恐ろしいものはありません。我らに逆らう者がいかに多くあっても、イエス・キリストによる神の愛より我らを離れしむるものは誰ぞや、と言うことができるのであります。
[#改ページ]

第二章 伝道の始め



一 最初の説教


 ヨルダン川にて神より聖召の御声を聞き、曠野こうやにて悪魔より誘惑の声を聞き給うたイエスは、神の肯定をば信仰をもって素直に受け入れ、悪魔の否定をば知恵をもって強く反撥はんぱつし、積極消極両方面から神の子たる自覚を確かめ、今は表から突いても裏から突いても動かざる信念を得ましたが、すぐに伝道者として公衆の前に現われ給わず、普通の人の中で普通の仕事に従っておられました。しかるに自分の尊敬する先輩であり、神の言の預言者として勇ましく戦っていたバプテスマのヨハネがヘロデ王のためにとらえられたとの報知を得て、ヨハネの戦いを戦い継ぐべく、今は奮然として伝道の第一線に立ちで給うたのであります(一の一四)
時は満てり、神の国は近づけり、汝ら悔い改めて福音を信ぜよ。(一の一五)
 これがイエスの伝道説教の要旨でありました。イエスはこの言葉を掲げて、これから町々村々に福音を説いてまわられるのであります。
「時は満てり」というのは、一の二、三にあるようにイザヤとかマラキとか昔からの預言者が救主メシヤの来ること、神の国の来ることを預言していたが、今その実現の時が来た、というのであります。
「神の国は近づけり」。「神の国」というのは神の支配し給う国、神の御意の完全に行なわれる社会です。「近づけり」とは手の届く所、すぐそばにあるとの意です。ユダヤ人にとりて神の国と言えば、ダビデ王国が理想的に回復せられ、外国の支配下にあるユダヤ人の政治的・社会的解放が行なわれることを意味しました。祖先以来待ちに待ち望んでいた神の国実現の時期が満ちて、手の届くような近さに来ているというのですから、このイエスの御言葉はユダヤ人の間に大なるセンセーションをまき起こしたに違いない。
「汝ら悔い改めて」。回転して、向きを変えて。神の国は手の届く所まですぐ近くに来ているのであるが、そのためには汝ら自身の向きを変えなければならない。汝ら自身のからだの向きさえ変えれば、神の国に手が届くのだ。
「福音を信ぜよ」。むしろ福音の「中に」信ぜよとの意味であります。福音と対立して外側からなでまわすのではなく、福音の中にすっかり浸り込んで信じなさい。ちょうどお風呂に入るようなもので、浴槽の外にいて湯をかけていたのではなかなかからだが温まらない。湯の中にお入りなさい、というのです。
 バプテスマのヨハネは「罪の赦しを得さする悔い改めのバプテスマ」を宣べ伝えたが(一の四)、それは要するに一つの型にすぎず、また罪の赦しをめざし、それを目的とする悔い改めというにすぎない。しかるにイエス様の教えは罪の赦しを目的とするばかりではない、自分の心の向きさえ変えれば救いはそばに来ているのだから、悔い改めてその中に入りなさいというのですから、洗礼のヨハネの宣べ伝えたところよりはるかに高きものであって、それこそ「福音」でありました。
 ユダヤの国が理想の王国として回復せられることは、ユダヤ人にとっては民族的の願いであり祈りでありました。しかるに当時の実情では国勢はなはだ振わずローマの属国となっており、神殿こそまだ立ってはいましたが、国民の指導者たるべき祭司の宗教たる神殿礼拝はいたずらに形式的宗教に堕して力がなかった。そこで何とかして宗教を改革し真に神の選民たるユダヤ国を回復したいというのが、イエス様当時の時代的要求であった。バプテスマのヨハネが出たのもこの宗教改革運動の一つであり、ヨハネに影響を与えたエッセネ派もそうでした。後イエス様の選ばれた十二人の弟子の中に熱心党のシモンというのがありますが(三の一八)、熱心党とは、いわばファッショ的な党派で、ユダヤの国を救うためには暴力に訴えてまでもしなければならないという極右の一派でありました。こんな党派まであって、その中の一人がイエスの弟子になったのです。
 かかる空気の中にイエス様が現われて、「神の国はもう来ているんだ」、と宣言せられたことは、すこぶる人々の注意をひいた大胆な宣言であって、そんなことを言ってまわられるイエスははたして正気かしらと身内の者が怪しんだというのも、ちょっと無理なきように思われるほどです(三の二一)
 今日我々が日本の国民同胞に対して、「神の国は近づいた」などということを宣言したなら、皆はどう思いましょうか。多くの人はそんな現実離れのしたことは問題にならない、キリスト教はそんな雲の上のような話、浮世離れしたことを言っているから、戦闘力がないのだと批評します。現実から遊離し逃避して自己満足に浸っている、それでは現実は少しも改まらない、と批評するのであります。
 イエスの時代も同様であったと思います。しかしこれははたして現実から離れた雲の上のことであろうか。よしや仮に現実を離れたものであるとしても、どうしてそれが無意味なのか。現実現実と言いますけれども、社会の現実はいかにも行き詰まって醜い。しかし我々の願っているものは、醜くないもの、平和なもの、美しいものです。それですから我々が現実から離れて神様の御胸に憩うことは本当に息をつくことであり、これほどありがたいことはない。そういう世界を示されて、そこで平和と歓喜を見せていただくことは我々の喜びです。はずかしいとか、卑怯とかではありません。人間の本当の願いはそこにあるのです。
 しかしイエス様の言葉ははたして現実的でないか。注意して聞いてごらんなさい、イエス様は「汝ら悔い改めて福音を信じさえすれば、神の国は近くに来ている」と言っておられるのです。この御言葉を現実的でないと批評する者は、信じないからです。自分たちの目のつけ所、心の向け所の方向をぐるっと一回転さえすれば、神の国は明日にも実現するのだ、神の子たるイエスの来ておられるということはすなわち神の国がそこに具体的に来ていることなのだ。汝らが自分たちの向きを変えて悔い改めないから、神の国が来ているとの宣言を現実的でないと思うのである。
「神の国は近づけり」という宣言は、「汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」という要求と同じくらいに現実的である。それがあまりに現実的であったから、悔い改めの要求を拒絶したる人類のためにイエス・キリストはあんなに苦しめられ、ついには十字架にかけて殺されたのである。もしイエスの教えが現実を遊離したものであるならば、彼が苦難にい給うわけがありません。
 待望の神の国を実現せしめるため、ユダヤの国民を救うために、人々は宗教運動や政治運動に従事していた。しかしイエスはそのために悔い改めすなわち心の向きを転じて福音を信ずべきことを要求せられた。神の国に入る条件としてイエスの求められた所は、普通の人々が考えている所よりもはるか上を飛んでおられるのです。敵の飛行機を撃ち落とすためには、それよりも高く飛び上がらねばならない。現実を救うと言いますが、いわゆる現実と同じレベルを飛んでいたのでは、現実を救うことはできない。イエスの福音すなわち信仰のみちは、現実を救う教えとして、現実以上の現実であります。世の人々が考えているよりも一歩高い所を考えているから現実離れなどと批評せられるのでありますが、皆が信ずればこれほど現実的な救いの途はないのです。人々は軍事的や政治的・経済的の工作によって国を救おうとたくらみます。しかしそんなことで神の国が来るものか。ただ汝らすべて悔い改め、目のつけ所心の向け所さえ変えるならば、明日にも戦争はやみ、平和は来たり、神の国は成就するのだがなあ……。
 ともかくイエスは「神の国は近づけり、汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」との言を掲げて、公然伝道に乗り出されたのです。そしてその第一歩においてシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ、という二組の兄弟を弟子として得給うたのです(一の一六―二〇)。これは伝道の助手としてのみでなく、イエスの伴侶はんりょとして、イエスの愛の特別の対象として、またイエスを身近くいたわり慰むべき者として選み出されたものでしょう。イエスは孤独であり給いましたが、それはとりすました強がり屋の孤独ではなく、また人間嫌いの偏人の孤独でもなかった。イエスは友を、友の愛を欲し給うた。イエスの心のわかる者を平生おそばに置きたく思われたのだろう。少なくとも弟子たちは単にイエスの仕事の助手としてだけでなく、イエスの心の友として、今後大切な場合にその愛をもってイエスを助けることを要求せられたのであります。
 イエスはこの弟子たちをつれて、ガリラヤ湖の西北隅に近きカペナウムのむらに行かれ、ただちに安息日に会堂に入りて教え給うたところ、人々はその教えに驚きあった(一の二一―二二)。いかなることを教えられたかは書いてないが、おそらく「時は満てり神の国は近づけり、汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」ということをお話になったのでしょう。人々が驚いたのは、イエスの態度が学者のごとくならず権威ある者のごとく教え給うたからである。これは学者にとって耳の痛い話でありますが、たとえば我々が学校の講義をする時に無駄話ばかりしているならばイエス様が来て「権威ある者のごとくならず、学者のごとく教えよ」と言われるでしょう。イエスは学問や学者を軽蔑けいべつせられたわけではあるまい。ただ神の国を来たらせ、人を救おうという差し迫った死活問題にぶっつかっている際は、学者らしく論議している場合でない。ただちに救いの処置を取るべきである。研究の時ではない、実行の時である。そういう意味で、イエスは救いについて論ずる人としてでなく、救いを実行する人として語り給うたがゆえに、人々はその権威に打たれたのであります。
 ここに学者とあるのはパリサイ人の教法師です。パリサイ人は熱心な律法主義者であって、日常生活の細末の行動に至るまで規則ずくめで律し、したがって規則の解釈適用について生ずる疑問をいちいち解決するために専門家を必要としました。これが学者であります。たとえば安息日を守るというのは、どの程度にからだを動かせてはいけないのか。道を歩くならば何町ぐらいまでは許されるか。今日でも学生の中には日曜日には絶対勉強しては悪いか、試験の前日にでも日曜日に勉強するのは罪悪であるか、などということを非常に苦にする者が時たまあります。私もそういう学生の質問を受けた時に、それは神様に祈って解決しなさいと言ってやったが満足しない。勉強したそうな顔つきをしているから、それでは勉強しなさいと言ったが満足しない。あまり心配するから、それでは勉強するなと言ったが彼はやはり満足しませんでした。これは律法主義にとらえられた頭脳です。そしてパリサイ人の学者教法師は、こうした疑問にいちいち答案を考え出し、その細則を知りかつ守ることをもって貴しとしていたのです。しかるにイエス様の教えの態度は全然これと異なった。イエスは病理学者としてでなく臨床医家として、文法家としてでなく文章家として、人々の前に現われ給うたのです。時は満ち、神の国は近づいているのだ。今は楊枝ようじの先で重箱の隅をつついたような細かいことを議論しているべき時ではない。時は切迫しているのだ、実行の時なのだ。ただちに汝らの心の向きを変えて福音を信ぜよ、そう言われるイエスの御言は権威をもって人々の心に迫ったのである。人々はこれに対して、信ずるか信じないかをみずから決定してただちに返答申し上げる必要を感ぜしめられたのであります。

二 最初の奇蹟


 カペナウムの会堂でイエスの権威ある御教えに接した人々は顔を見合わせて驚いたが、御話の終わるやいなやその時ただちに聴衆中の一人が突然大声をあげて叫んだ、「ナザレのイエスよ、我らは汝と何の関係あらんや、汝は我らを滅ぼさんとて来給う。われは汝の誰なるを知る、神の聖者なり」(一の二四)。この男に巣食っていたけがれし霊が、イエス様の言を聞きてその権威に圧倒され、いたたまらずしてかくのごとく叫び出したのであります。しかしそれは信従の声ではなく、明白に恐怖と敵意の声でありました。イエスは御自分が神の聖者であるとの証言を、悪鬼にしてもらう必要はない。またイエスの神性についての議論を、この男と戦わしているべき時でもない。今は救いの実行の時である。ゆえにイエスはたいへんなけんまくでもって、「つべこべ言わないで、黙ってとっとと出ていけ」と叱りつけ給うたところ、激しい痙攣ひきつけ、大なる叫び声をもって穢れし霊はその人から出ていった、というのであります(一の二五、二六)。これが最初の説教に引き続き、その場で起こった最初の奇蹟であります。
 一体マルコ伝には他の福音書に比べて、イエスの教訓の記事が少なく、奇蹟の記事がすこぶる多い。イエス様が弟子たちに与えられた遺訓の中に、「わが言うことを信ぜよ、……もし信ぜずばわがわざによりて信ぜよ」(ヨハネ一四の一一)、とありますが、マルコ伝にはその御言よりも御業の記事の方が目だって多いのです。これはマルコ伝のおもな資料提供者たるペテロの人となりが、思索家・教訓家というよりもむしろ実際家肌の常人であったからでもあろうが、マルコ伝を書いた目的が切迫した迫害時において信仰を堅持せしめるにあったからでしょう。無事泰平の時には議論もよいけれども、迫害の時代には言よりも業、思想よりも力である。だからマルコ伝には奇蹟の記事は多いけれども、どれ一つとしてイエス様の姿に後光を飾り、もったいをつけ、現実離れした仏壇神棚の奥にイエスを祭り込もうとしたものはありません。イエスの奇蹟は福音を目に見せて解き示す方法でありました。イエス様の御話が言の奇蹟であったごとく、その奇蹟は御業の言であった。
 さて、ここに記されたる最初の奇蹟は、イエスの奇蹟中最も基本的なものであります。「神の国は近づけり、汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」ということがイエスの説教の基本でありましたが、しからば人はいかにして悔い改めることを得るかという、その実行方法を示されたのがこの奇蹟であります。「穢れし霊にかれた人」というのは、「穢れし霊の中に居る人」の意味です。「穢れし霊の中に居る」者が、一変して「福音の中に信ずる」者となること、これが悔い改めです。この悔い改め、すなわち心のあり場所、心の向け所の一変がなければ、人は神の国に入ることはできないのだ。しかも人はこの心の向け変えをやろうともがきますが、自分で自分の心をどうにもしようがない。エレミヤ記に「エホバよ、汝はわが神なれば我を牽転ひきかえし給え、しからば我かえるべし」(三一の一八)とあるごとく、自分で転りたいと思うが転れないという嘆きをもちます。それは穢れた霊が我々を押えているからです。あるいは理屈っぽい霊とか、あるいは世の中の快楽の霊とか、これを追い払わなければ我々は悔い改めることもできない。そしてこれを追い払って、我々に悔い改めのできるようにして下さるのはイエス御自身の力です。それが奇蹟なのだ。
 穢れし霊はイエスの説教を聞いて、ただちにイエスが神の聖者であることを認識した。穢れても霊は霊ですから、イエスに満ちた神の霊をすぐに感づいたのです。それに多少神学的に考えてみれば、悪鬼の霊はイエスの御言を耳にして、確かに思い当たるところがあったはずである。それはかつて人類の始祖を惑わして神より離れさせたのはこれら穢れし霊のかしらたるサタンであった。しかしおんなすえよりずる者がサタンのかしらを砕くであろうと、その時すでに神は宣言せられたのであった(創世記三の一五)。今サタンの子らたる穢れし霊がカペナウムの会堂にてはからずもイエスの言に接し、その中にこの約束せられし「婦の裔」を認識した時に、彼らが思わず恐怖と抵抗の叫びを発したのも無理がない。サタンの眷族けんぞくは天を追われて地に下り、人類の世界を乗り取ってここに己が国を建てていた。しかるにいまや神の子イエスが地にきたり給い、人類に対するサタンの支配権を打ち砕いて地上に「神の国」を建てようとし、「時は満てり、神の国は近づけり」と、おごそかに宣言を発せられたのである。これを聞いて悪鬼どもは、「我ら汝と何の関係あらんや、地上の世界は汝の来たるべき場所ではない、ここは我らの領土である」と叫んだ。しかしそれにかまわずイエスは人をサタンの支配より救い出さんがために、サタンの支配する地上に挺身侵入し給うたのである。彼は激しく戦って穢れし霊を人より駆逐し、神の国に入るべき突撃路を人のために開き給うた。これによってはじめて人は悔い改めて福音を信じ神の国に入るを得るのです。このように御言による教えだけでなく、御業によって進路までも開いて下されたのに、それでもなお悔い改めて福音を信じないとすれば、それは信じない者の責任でありましょう。
 この穢れし霊の一騒ぎがあった後、イエスは会堂を出られたその足で、すぐにシモン、アンデレ兄弟の家に入られたところ、シモンのしゅうとめが熱を病んでていた。家の者が出てきて、「お母さんは病気で臥ていますから失礼します」と申し上げたところ、イエスはかまわず家の中に入ってゆかれて、姑の手を取って起こしたら、熱が去って彼女はただちに彼らにつかえた(一の二九―三一)。またも一つの奇蹟が行なわれたのですが、これは前の会堂の奇蹟に比べるといかにもなごやかです。前のは信じない者に信ぜしめるのですから、イエス様にとっても烈しい戦いでありました。今度のはイエスの弟子たるシモンの母親であってイエスを信じ愛している者ですから、これに対しては奇蹟もきわめて無造作に行なわれたのであります。
 私どもははじめ世の欲を去ってイエスを信じる時に、出てゆく悪鬼のために烈しく痙攣けいれんを起こさされ、大きなみの苦しみをしますが、信じた後にも何度か熱病にかかります。しかしそれは何でもありません。イエス様が手を取って引き起こして下さる。私どもは肉体も弱く精神も弱いのですから、何度も疲れまた傷つきますが、そのつど愛と信頼とをもって「私は疲れています」、「傷ついています」と、イエス様に申し上げれば、イエス様はわけなく癒して下され、またおつかえできるようにして下さいます。
 悪鬼の霊をい出すことは病気を癒すことよりもはるかに根本的である。人が救われるためには、これを悪鬼の支配から奪還しなければなりません。まず霊の自由を獲得すれば、病を癒すことぐらいは何でもありません。イエスが癒して下さろうとお思いになれば簡単に癒るのであり、また熱病のままでも神の国に入るのに何のさしつかえもありません。しかるに病を癒すことに夢中になって、霊の自由を悪鬼に売っている者の少なくないのは、まことに本末顛倒てんとうの話であります。
 さてシモンの姑の気分も良くなり、起きでてまめまめしく仕えましたので、イエス様や弟子たちもこの家にしばらくくつろがれたことでしょう。しかるにその日も暮れたので、それまで安息日には何も仕事をしないという律法のために控えていた町内の人々は――(その日はちょうど安息日でありました、そしてユダヤ人の暦では一日は夕方から夕方までで、日没をもって次の日が始まるのです)――先を争って病人をシモンの家の門口に連れ込み、イエスの癒しを求めました。イエスは彼らの願いにより多くの病人を癒し、悪鬼を追い出し給いましたが(一の三二―三四)、そのうちに夜も更け人々も寝静まったころ、朝まだき、まだ暗いうちにイエスは起きいでて一人寂しき所に行って祈ってい給うた。イエスの御姿の見えないのに気づいて、シモンおよびその家の者どもはその跡を慕いゆき、たくさんの人々が門前にお待ちしていますと申し上げた。イエス様はそれを聞かれましたが、「さあ近くの村々へ行こう」と、その場からすぐに次の村へ出かけてしまわれた。シモンの家の門前の人々は待ちぼけを食ったわけですが、しかしイエス様は面会の約束をされたのではありません。イエス様は人の物質的・肉体的の欠乏に対しても非常に同情され、そのために多くの奇蹟を行なわれましたが、イエスの世に来られたのは病気を癒すのが目的ではない。イエスは奇蹟使いではありません。悔い改めて福音を信じ神の国に入るべきことを教えるのがイエス様の使命です。朝から晩まで病人を癒すことに時間を取られていては、御自分のいちばん大切な使命とせられること、すなわち神の国の福音を人に聞かせることができない。それで近所の村々から始めて、ガリラヤ国中各地を伝道してまわられた(一の三五―三九)
 そのうちにこういう一つの事件が起こった。ある時一人の重い皮膚病を患っている人がイエスのみもとに来てひざまずいて、「御意ならば我を潔くなし給うを得ん」とお願いしたところ、イエスは彼をあわれんでこれを癒してやった。しかるにどうしたことか、イエス様の御顔の雲行きはたちまち一変し、非常にこわい顔つきで、言葉づかいも荒々しく、彼を叱ってその家から突き出し給うたのです。――(四十三節にある「やがて」は「ただちに」の意。「去らしめ」とは「追い出す」の意。「戒める」という語は元来戦争の時軍馬がたけっていななく意味です。鼻をふくらませてフーフー言うことです。マルコ伝独特のいきいきした写生であって、イエス様のこの時の様子が目に見えるようです。内村先生がお怒りになると、大きな鼻をふくらませてにらまれたことを思い出します)
 イエスが厳しくその人を戒められました御言は、「慎みて誰にも語るな、ただ往きて己を祭司に見せモーセが命じたる物を汝のきよめのためにささげて人々に証せよ」、ということでした(一の四三、四四)。どういうわけでイエス様がこの男をそんなに烈しく怒って追い出されたか、ちょっと不思議に思われますが、一体重い皮膚病を患っている人は人と公然交際すること、とりわけ人の家に出入りすることは律法によって厳重に禁ぜられた事柄である(レビ記一三の四六)。もしその病が癒れば祭司に見せ、潔まったことを証明してもらってはじめて人と同じように交際することを許されたのです。今この重い皮膚病を患っている人はイエス様に癒していただきたい一心で、厳重な律法の禁止をおかし、人垣をかきわけて他人の家に入ってきた。こういうことをした人は殺されるのが、律法の定めであった。しかしイエス様は彼を憫んで癒し給うたのです。しかるに彼は自分の病の潔くせられたのにたのんで、自分が他人に迷惑と不快の感を与えたことについて何ら恐縮の意を表さず、イエス様の弟子顔をしてそのままおそばにいすわろうとした。そのずうずうしい考え方、ずぶとさをイエス様は叱責せられたのです。彼は重い皮膚病を患っている人として律法に定められた義務を果たし、しかる後出直してこなければならないのだ。自分はキリストに救われたから、世間一般の義務はしなくともよいというずうずうしさを、イエス様は烈しくお叱りになったのです。
 この重い皮膚病を患っている人は義務の観念をわきまえず、そのためイエス様から追い出されたのですが、なおイエスの御心がわからず、「決して吹聴ふいちょうするな」と言われたイエスの御言にそむいて、彼の病の癒されたことを述べ伝えあまねくひろめたので、この後イエスはあらわに町に入りがたく外の寂しき所に留まり給うた(一の四五)。イエスの使命は村々に福音を宣べ伝えることであったが、それをこの重い皮膚病を患っている人の軽薄がじゃまをしたのである。彼はイエス様の公のお仕事のことを考えず、ただ自分の私的な喜びだけにふけった。イエスは有象無象うぞうむぞうの妨害をできるだけ避けて、あまねく、しかも静かに福音を宣べようと思われたのに、一方にはパリサイ人の妨害が起こり、他方にはこの重い皮膚病を患っている人のような軽薄な信者があって、イエス様の道はだんだん狭くなったのであります。
[#改ページ]

第三章 戦闘の始め



一 敵の出現



 イエスの最初の説教は「時は満てり、神の国は近づけり、汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」ということであり、またその最初の奇蹟はけがれし霊にかれて悩まされていた人からその悪霊を追い出してやったことでありました。イエスは何らの屈託なく、きわめて自由に神の国の福音をべ、またこの福音を受けうるように人を助け給うたのであります。彼のことばにもわざにも、ガリラヤの湖を渡る春風の自然さがあった。彼は事ごとに他人に衝突するような、事を争うことを好む人ではなく、いわんや有名な人物に喧嘩けんかをいどんで自己の売名をするような人ではありませんでした。しかし彼の権威ある教えと奇蹟とはたちまち世間の注意をひき、始めは「何をナザレの大工の子が」と見くびっていたパリサイ人も、ようやく「これは捨てておけない」と思うようになりました。彼らの悪意ある監視の目がイエスの言動の上に光るようになった。イエス・キリストの御生涯は戦闘の生涯でありましたが、その戦闘はイエス様の方からいどんだのではない。彼は平和の人でありました。しかし不真実な世界に真実の人間が来たる時、彼は自分でまっすぐにあゆんでいるだけのことであるのに、世界は敵意をいだいて彼を眺める。イエス様は求めざるに戦闘の人たるを余儀なくせられたのであります。
 イエスの戦闘の生涯は十字架上の死をもって終わりましたが、その始めは病人・罪人に対する彼の愛から起こったことなのです。ここにイエスの言動がパリサイ人の注意をひき、その敵意を高めてきた幾つかの事件が次々に起こってまいりました。
 まず第一に、イエス様が村々の巡回伝道からまたカペナウムにお帰りになり、御在宅と聞いて集まりきたった多くの群集に向かって福音を語っておられた時、突然天井がめりめりと破れて床にった病人がつり下されてきた。これはずいぶん乱暴なことでありました。しかしイエス様は、かくまでしてこの手足のえた若者をいやそうとする親たちの愛と信仰とに感ぜられて、「子よ汝の罪ゆるされたり」と言われた(二の一―五)。「子よ」という呼びかけは非常に彼を憫み愛して言われた愛情のこもった御言葉です。美しい信仰と愛の場面でありました。しかるにそこに居合わせたパリサイ人の学者たちはイエス様の言葉をとらえて、「これは神をけがす言だ。神ひとりのほかは誰か罪を赦すことを得べき」と、心の中でブツブツ言いはじめたのです。


 次にはこういうことがあった。イエス様はレビという男――これはマタイ伝を書いたマタイと同じ人だと言われますが、この人が収税所に坐っているのを見て「我に従え」と言われたところ、レビは立ち上がってイエスに従いました。そしてイエスおよび弟子たちを主賓として自分の家で盛大な宴会を催し、レビの同僚仲間たる取税人・罪人ら多数が席につらなった。それを見たパリサイ人の学者らは、「イエスは何ゆえに取税人・罪人らと同席して食事するか」と言って、イエス様の弟子たちにまで抗議を提出しました(二の一四―一六)
 取税人というのは政府の収税所の下請けをして、税金を取り立てる人です。いわば今日のタバコや塩の売捌人うりさばきにんのように、政府の特許を受けて収税の請負をした者であります。これは税を取り立てるがために民衆から憎まれたばかりでなく、ローマ政府の配下に属していた者でありローマ人との接触も多くあったから、その考え方や日常生活における風俗習慣もしぜんローマ的となり、そのために生粋きっすいのユダヤ人からは嫌われていた。また「罪人」とここにあるのは、道徳的意味の罪人ではなく、むしろけ者、仲間はずれとの意味です。ユダヤ教の律法を厳格に守るべきことをやかましく主張した国粋主義のパリサイ人から見て、平生ローマ人の生活習慣に従い、ローマ人かぶれのした者を、外来思想の持ち主である非国民である罪人であると、言ったのです。かかる仲間となぜ同席したかと、パリサイ人の学者らが詰問したのであります。これが、パリサイ人の気にくわなかった第二の事件でありました。


 そのころユダヤ人の習慣による断食の定例日が来て、パリサイ人並びに洗礼者ヨハネの弟子らはこれを守っていたが、イエスの弟子は断食をしなかった。断食は元来モーセの律法では、『贖罪しょくざいの日』において守るべきことが規定せられているだけであったが(レビ記一六の三一)、バビロン捕囚後しだいに断食の日が多くなり、熱心なパリサイ人は毎週第二日と第五日と二日も断食日を守るようになっていた。しかるにイエスの弟子らが断食日を守らないのを見つけて、パリサイ人たちはその自由主義をとがめて、イエス様に文句を言いにやってきたのであります(二の一八)。これが、パリサイ人の敵意を招いた第三の事件でありました。


 また別の日、安息日のことでありましたが、イエス様と弟子らが麦畠を通っておられた時、弟子たちが歩みながら穂を摘み始めたのをたちまちパリサイ人が見つけて、「見よ、彼らは何ゆえ安息日になすまじきことをするか」と、イエス様をなじりました(二の二三、二四)。モーセの律法では安息日に穂を刈り取ることが禁ぜられているのですが(出エジプト記三四の二一)、パリサイ人はその禁止をひろげて、穂を摘み取ることも違法であると解釈していたのであります。形式主義者は律法の禁止条項を細かくすればするほど律法に忠実だと思う。そして人の自由を殺してしまうのです。


 イエスの弟子らは断食日を守らず安息日を守らず、しかもイエスはこれを黙認したのみでなく、かえってパリサイ人の詰問に対して鋭い反撃を加えられましたから、パリサイ人の興奮はますます度を増し、イエス御自身に何かおちどがあれば今度こそは官憲に告発してやろうと、機会の来るのを待っていました。そのうちに安息日がまた来たり、イエスは会堂に入られた。そこに片手のえた人がいた。パリサイ人の律法論では、安息日には病気といえども、瀕死ひんしの重病の場合以外は、これを癒すことを禁じていた。それが一種の労働になると解釈していたのであります。そこでパリサイ人たちは、イエスがあの男を癒されるかどうか、もし癒されたなら律法違反で告発しようと、悪意に満ちて様子を見張っていた。
 イエスが安息日に人を癒されたのはこれが始めてではなく、悪鬼を追い出された最初の奇蹟を行ない給うたのも安息日でありましたが、その後騒ぎが大きくなったので、今度何かあればつかまえてやろうとパリサイ人は待ち構えていたのです。この息づまる空気の中にあって、イエス様は手の萎えたその男に向かって、静かに、短く「中に立て」と言われた。そして衆人環視の中に彼を立たせておいて会衆一同に言われた、ちょうど医学の教授が臨床講義をしているように。
「安息日に善をなすと悪をなすと、生命を救うと殺すと、いずれか善き」
 誰も一言をも発する者がない。イエスは彼らの心の頑固なるを憂いつつ怒りをもって彼らを見回し――眼鏡めがね越しだか何だか知りませんがジロリと一同を見回して、手の萎えた人に「手を伸べなさい」と言われた。そこで手を伸ばしたところが、伸びた。パリサイ人はその場を出て、その足でただちにヘロデ党の連中とともにどうにかしてかイエスを亡ぼそうと相談しました(三の一―六)
 ごらんなさい、パリサイ人はイエスの言動に対し最初は腹の中でブツブツ言い(二の六)、次には弟子たちにまで抗議を提出し(二の一六)、次にイエスに向かって直接に詰問し(二の一八、二四)、ついにはイエスをやっつけようという陰謀にまで進んだのです(三の六)。ヘロデ党というのはガリラヤの国王ヘロデ・アンチパスその他ヘロデ大王一族を支持する親ローマ的党派で、元来政治的にも思想的にも国粋的ユダヤ主義者たるパリサイ人とは相容あいいれない反対派であったが、今イエス・キリストの権威ある出現により、この両派が手を握ってイエスに対し共同の敵となり、イエスを亡ぼす計画を議するに至ったのです。敵は出現し、その敵意は急速度に悪化した。イエス様が洗礼者ヨハネの洗礼を受けてヨルダン川より上られた時は、聖霊平和の鳩のごとくに降るのを見たのであるが、その時に見上げた晴れ空の一隅にいつしか黒雲がわいて、みるみる拡大し、イエスの御生涯をして戦闘の生涯たらしめてしまったのです。しかし今はまだ戦闘の発端です。三年を出でずして、それは十字架上の敗死となって、しかり敗北の勝利となって終わったのであります。

二 パリサイ人


 イエス様の最大の敵はパリサイ人であった。パリサイ派というのはバビロン捕囚から帰還後に起こった宗教改革運動でありまして、ユダヤの宗教を純粋に維持しようという国粋主義であります。イザヤとかエレミヤとかいう偉大な預言者たちも出なくなり、国民の精神生活は気力を失い、神殿礼拝は形式化してきた。パリサイ派はこの堕落した祭司宗教に対する改革者として現われたのであり、ともかく預言者なき時代においてユダヤ教を守ったのは彼らの功績であると言われます。「パリサイ」という言葉はヘブル語のペルシム(Perushim)から出たのであり、その意味は「別の者」(英語の separated ones)ということであります。このペルシムというのは他人がつけたあだ名であって、自分たちではカベリム(chab※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)rim)すなわち「仲間」(英語の fellows)と呼んでいた。「我々は国民一般の者以上にモーセの律法を厳格に純粋に守る同志である、我々はユダヤの宗教の純粋性を維持する者であるから他の者とは類を異にして生活しよう」、というきわめて真面目まじめな仲間であった。それですから人があだ名をつけてペルシム「別の者」と呼んだ。我々に近い歴史にも清教徒ピューリタンというのがありますが、これも自分でそう言ったのではなく、世の風習に染まないで厳格な道徳生活をしようという宗教改革者の一派に人があだ名としてつけたのです。
 こういうわけで、パリサイ派は始めは真面目な、道徳的な宗教改革者であったが、イエス様の時代にはすでに生命を失って化石化していたのであります。それでも自分では、此世的な宗教的権力を把握せる祭司宗教のサドカイ派や、外国かぶれのした親ローマ派たるヘロデ党などを排斥して、我こそユダヤの宗教を道徳的に維持しこれによって国を救う愛国者であると自任していたのです。しかるに今イエス様が権威ある教えと力ある業とをもって新たなる改革者として現われ給うたのを見て、彼らはイエスの最大の敵、正面の敵として立ち向かってきた。なぜというに、ユダヤの宗教を純粋に維持し、道徳を作興し、これによって国民を救おうという宗教的愛国者としての目的において、イエスとパリサイ人とは共通点をもっていた。目的が共通で、精神が異なっていた。だから正面衝突が起きたのです。何か共通の目的があるのでなければ赤の他人、縁なき衆生しゅじょうであって、お互い友人にもなれないが、ひどい敵対も起こりません。パリサイ人は頑固一徹な真面目さをもっていた。しかし彼らは律法を形式で守ろうとし、イエス様は生命で守られた。イエスは聖霊に導かれ、パリサイ人は伝統に頼った。だからイエスの言動はいつでも生々活溌であり、これに反しパリサイ人の教えは化石であった。そしてパリサイ人は自分たちの教えの化石であって人を救う力なきことをば、イエスの言動によっておのずから指摘せられ、猛然としてイエスに敵対するに至ったのであります。

三 イエスの対敵態度



 イエスとパリサイ人との敵対は、イエス様の方から喧嘩けんかを売って出たのではない。イエスはただ単純に神の国の福音を説き、またかわいそうな病人がいればこれを憐れんで助けてやっていただけのことである。しかるにその福音の説き方、その病者の助け方が気にくわぬと、パリサイ人の方から突きかかってきたのです。イエスはむしろ遠慮して無益な衝突を避けるよう、特別の注意を払われたかのごとくにみえます。
 イエスがその憐憫あわれみを受けて癒された一人の重い皮膚病を患っている人のそのままいすわろうとしたのをひどく叱責せられて、「モーセの律法に定められた法定の手続きをふんでから出直してこい」と命ぜられたのは(一の四四)、彼が律法を尊重せられる精神の現われであって、パリサイ人たちに無用の反感をいだかしめない用意であった。断食日を守らぬということ(二の一八)、安息日に麦の穂を摘んだということ(二の二三)、また後に出てくることですが、食事の前に手を洗わなかったということ(七の二)などで、パリサイ人がイエスを詰問した場合にも、実はイエスの弟子らの違法をとがめたのであって、イエス御自身の問題ではなかった。イエス御自身については、これらの問題に関して言いがかりをつけるだけの材料がなかったとみえる。イエスは当時普通のユダヤ人が守った日常生活上の習慣を、普通に、常識的に守られたとみえる。そういう意味では彼は旧式の「堅い人」であられた。そんな問題でしいて異を立て、人と争うような小人物ではありませんでした。


 レビの家でイエス様が取税人・罪人らと同じ食卓につかれた時、パリサイ人の抗議に対して「すこやかなる者は医者を要せず、ただ病ある者これを要す。我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて来たれり」(二の一七)と答え給うた。これはパリサイ人に対して、お前たちは自分で正しい者だと言っているが、人間の中には正しい者は一人もない、すべての人が罪人であるということを、暗に悟らせようとした皮肉とも見られるでしょうが、もっと自然にこの御言葉を受け取るならば、「自分はパリサイ人の仕事に干渉しない、その縄張りを犯そうとするのではない、自分はお前たちがけ者だ、外道げどうだ、と言っている者の友となり、これらの者を救おうとしているのだ」との意味でしょう。内村先生がいわゆる無教会主義を唱えられたのも、教会と競争して信者の争奪をやり、教会の縄張りを荒らすという主旨では決してなく、ただ教会に属しない者たち、教会で「お前らは救われない、お前らは仲間でない」と除け者扱いにしている者たちの友となり、これらの者に神の国の福音を聞かせるという愛の精神に出発したものでありました。『新興基督教』という雑誌が、「無教会主義はルンペン基督者」だと悪口をたたきましたが、実に「我はこのルンペン・罪人を招かんとて来たのである」というのが、パリサイ人に対するイエスの御答弁であったのです。


 それから断食日の問答を見てごらんなさい。イエスは断食を否定したり、嘲笑したりしたのではありません。しかし断食は悲哀の結果であって、原因ではない。悲しくもないのに断食をして、顔つきだけいやに深刻そうな様子をしても無意味です。イエスはイスラエルの救主すくいぬしすなわち新郎はなむことして現に来ているのだから、――(神を新郎にたとえる思想についてはイザヤ五四の五、ホセヤ二の一九参照)――新郎の友たるイエスの弟子らが断食しないのはきわめて自然だ。後日イエスがもぎ取られる時が来れば、その日には彼らは断食するなと言われてもするだろう。洗礼者の弟子やパリサイ人が断食日を守るのは随意だが、イエスの弟子にはイエスの弟子の道がある。ことわざにも言うとおり、旧い衣のつくろいに新しい布を縫いつけるとかえって破綻ほころびは大となり、新しい酒を古い革嚢かわぶくろに入れるとかえって嚢が破れる。古布ふるきれ古革ふるかわにはもう張りがないから、これに新しい布をつぎ、新しい酒を入れようとすれば、新旧共にだめになってしまう。パリサイ人はパリサイ流に、洗礼者の弟子は洗礼者流に、しかしイエスの弟子はイエス流にやってゆこうではないか。イエスはパリサイ人の断食に干渉しない。しかしパリサイ人もイエスの弟子らの断食せざることに対し自由を認むべきである。――これが断食問題について与えられたイエスのお答えの主旨であると思われます。イエスは、旧いものはいけないと頭から反対せられたわけではありません。しかし新旧の混同を避けられたのです。日本主義とキリスト教とはたくさん一致点があるといって、木に竹をいだようにして古事記は聖書と同じだなどと言うむきがありますが、古事記に聖書をはりつければ旧いものも新しいものも共に破れてしまう。とにかく、イエス様はできるだけパリサイ人との無用の衝突を避けて、静かに神の国の福音を村々町々に説いてまわりたいと思われたのです。


 それにもかかわらず衝突はだんだん激烈になってきた。それはイエス様とパリサイ人との間に宗教・道徳に対する根本的態度の相違があったからです。そしてこの相違はパリサイ人のイエスに対する敵対のくり返されてゆくうちに、ますます明瞭になってきました。相違は戦闘を生み、戦闘によりて相違は深刻を加えた。しからば両者の相違点はどこにありましたか。
 も一度戦闘の発端を見てみましょう。パリサイ人の学者らは、イエスが中風ちゅうぶうの者に「子よ、汝の罪ゆるされたり」と言われたのを聞きとがめて、「この人何ぞかく言うか、これは神をけがすなり、神ひとりのほかは誰か罪を赦すことを得べき」と論じたのであります(二の五―七)。これだけ聞けば、パリサイ人の言ったところは非常にりっぱな議論です。神様だけが罪を赦すことができるという、神唯一の信仰表白であります。後のルッター、カルビンら、近くは我々の先生や先輩の唱えた信仰であります。神様だけ、神唯一、神本位の信仰であります。言葉だけを聞けば、パリサイ人の方が信仰が深く、イエス様の方が人間的であるように見える。
 しかし一体パリサイ人の言う神とはいかなる神様なのか。パリサイ人の考えている神は、法律の条文集・判例集のような神です。彼らは神中心主義ということを言いましたが、彼らの神中心とは律法とその細則とをもって日常生活を厳格に束縛してゆくことに存しました。だから彼らは熱心であればあるほど、人の自由を奪い生命を亡ぼすものであった。彼らの神は人のたましいを安息せしめる神ではなくてこれを窒息せしめる者、人の生命を救う神ではなくてこれを殺す者となったのです。彼らの言う言葉だけはりっぱだが、その言葉が化石してしまった。りっぱな言葉が化石した時にはいちばん悪い。それですから宗教上の言葉を口に出す時は非常に注意しなければなりません。愛とか信仰とか調子の高い言葉は、よほど気をつけて使わないと害悪がひどい。パリサイ主義でも、後カトリック主義、もしくはプロテスタント主義でも、すべて始めは崇高な精神に動かされた改革運動でありましたが、時を経るに従いその思想が化石し、霊感よりも伝統に頼り、形式だけになって本来の精神を喪失した。恐るべきことであります。清教徒ピューリタンでも無教会主義でも、こうなれば堕落の始めです。
 パリサイ人は「神ひとりのほかは誰か罪を赦すことを得べき」と論じましたが、それは議論のための議論であって、彼らは目前にいる中風の者を救ってやろうというのではない。彼らは病気の講釈をしているのであって、病人の治癒を計っているのではありません。この男を今助けようとせられるイエスの御心と、まるでピントが合っていない。だからイエスはパリサイ人に向かって、「汝の罪赦されたりと言うと、起きよ床をとりて歩めと言うと、いずれかやすき」と、問いを返された。その意味は、「口で言うだけなら何とでも言える。当面の問題はこの男を救うことである。そのために必要な力をもつか否かである」とのことを含蓄せしめられたのでありましょう。そしてイエスは「人の子の地にて罪を赦す権威あることを」、彼らの目に見せて知らせ給うたのです(二の八―一二)。要するにパリサイ人は罪を赦す者は誰かということについて議論し、イエスは罪の赦しを実行せられたのです。しかして罪の赦しについての議論だけして赦しの手を差し出さない者と、実際に罪を赦す人と、いずれが神をけがす者であるか。神は憐憫を好みて犠牲を好み給わない。愛を好みて議論を好み給わない。愛の心のなき者が神を涜すのだ。


 さらに、安息日にイエスの弟子が麦の穂を摘んだ時、パリサイ人は「何ゆえ安息日になすまじきことをするか」と問うたに対し、「安息日は人のために設けられて、人は安息日のために設けられず、されば人の子は安息日にも主たるなり」と答え給うた。これも一見すればパリサイ人の方が神本位で、イエス様の言は人間本位と思われるかもしれません。しかし人に対する愛を抜きにして神本位ということはありえない。神は愛であります。そして神は創造の中心に人を置かれたのであります。神の経綸けいりんの中心は人を愛し、人を憐れみ、人を救うということである。安息日制度の主旨は人に休息を与える点にあり、人間に対する神の憐憫の現われにほかならない。人が飢えて疲労困憊こんぱいしている時は、これに食物を与えることが神の御心であり、神本位ということである。「これは規則上祭司のほかは食うことを禁ぜられている」とか、「今日は安息日である」とか言って、飢えたる者に食物を拒むことこそ神の律法の根本精神に反するものである。律法は神の栄光のためにあり、そして人が救われることが神の栄光である。神の御栄のためなら人を救わなくともよいと言うなら、それは形式論理としては整っていても、決して神本位の思想ではない。なぜなら人を憐れんで救うことが神の御経綸ですから。そのことを本末顛倒して、口では神の栄光とか神本位とか言っても、頭だけがふくれ上がって心は冷たく、人をつまずかせたり殺したりするのがパリサイのパリサイたるゆえんです。これに反して、神は憐憫を好みて犠牲を好まずというのがイエスの御精神です。この意味において人間あっての安息日であり、イエスは人に安息日を与え給う救主としてまことに安息日の主であり給うた。
 イエスの自然で自由な生命躍動の言動に接して、形式主義に化石したパリサイ人の頭はますますかたくなになる一方でありました。ついにある安息日に会堂で、そこにいた片手のえたる人をもしイエスが癒したならば官憲に告発しようと、悪意に満ちてうかがっていた。その様子を気づかれたイエスは単刀直入、「安息日に善をなすと悪をなすと、生命を救うと殺すと、いずれが善いか」と聞き給うた。こんなにハッキリした形で問題を提出せられても、彼らは何も答えることができず、敵意の沈黙を続けるだけであった。とうとうこひつじの怒りは爆発しました。
「イエスその心の頑固なるを憂いて、怒り見まわして」(三の五)とあるのは、「憂いつつ怒りをもって見まわし」という意味です。かくまで無用の衝突を避け、かくまで事理を明らかにして説いても、どうして彼らはこんなに頑固なのであるか、どうしてこんなに神様の御心がわからないのであるかと、一面には非常にかわいそうに思われるとともに、一面には強き怒りが盛り上がってきた。憂いと怒りとが同時にイエスの心頭に起こったのであります。もしもパリサイ人たちに一片の砕けた霊魂があったなら、彼らはただちに恥じてイエスの前に悔い改めたのでありましょうが、見れども見ず聞けども聞かずで、彼らはやり込められただけそれだけいっそう頑固になり、会堂を出たその足でただちにヘロデ党の者と手を結んでイエスを亡ぼす密議をこらしたことは、前に述べたとおりであります。
 かかる情勢の下に、イエスはその弟子を連れてガリラヤの湖辺に退き給いました(三の七)。これは退去であります。しかし卑怯から出た退却ではありません。まだ時が来ないからです。イエスはまだ国中の町々村々をめぐってあまねく神の国の福音を宣べ伝えねばならず、またもっとたくさんの病者・罪人・不幸な人々を助けねばならない。またもっと深く弟子らを教え込んでおかねばならない。パリサイ人の敵対により、イエスの生涯は求めずして戦闘の生涯となりました。イエスは戦われました。しかし戦いというのは事ごとに喧嘩を吹きかけることではありません。またいつでも敵弾雨飛の中に身をさらして立っていることでもない。どうせ一命をば真理の敵との戦いにおいて棄てるにしても、我々はただ一つしか生命をもっていないのだ。それを一生に一度棄てるのです。だから地上で果たすべき最後の使命を果たす日までこれを大切にしなければなりません。敵との小競合こぜりあいによって、福音宣伝のための精力を浪費することは避けねばならない。イエスは進むも退くも、聖霊に導かれて風のごとくに自由であり給うた。彼の生涯の大目的は神の国の建設であった。彼の前途にはすでに十字架がきざしたが、彼はなお残る地上僅少の生涯をば専心神の国のために労されねばならないのです。

四 敵味方の分解



 イエスは敵を避けて湖畔に退き給うたところ、おびただしき民衆が彼についてき、彼は多くの人をいやし悪鬼を追い出し給うた(三の七―一二)。学者・宗教家ら、いわばイエスの同僚たり共働者たるべき職業にある者が、イエスの最大の敵となり、政府党たるヘロデ一味の者と連絡を取って、何とかしてイエスを亡ぼそうとたくらんだのですが、群衆はイエスを慕うてその御許みもとに集まったのです。俗な言葉で言えば、群衆の人気はイエス様の方にあった。もちろん人気などというものは信頼のできるものでありませんから、イエス様がこれを求めたり、喜んだり、これを利用されたりしたのでは決してない。しかしイエスは民衆を愛し給うたのです。彼らを憐れみ給うたのです。民衆は粗野ではあるが正直だ。無知ではあるが実生活上の生きた要求をもっている。彼らはパリサイ人の課する日常生活上の律法を厳格に守りきれないが、しかし人間らしい心が彼らの中には動いている。学者らは彼らを軽蔑けいべつするだけで、救ってやろうとしない。しかしイエスは彼らの友となり、彼らの生きた要求を憐れんで満たし給うたのです。そしてまたイエスに対する深い信仰が時に民衆の中からひらめき出ました。民衆こそイエスの愛の対象であり、またイエスが福音の種をまかれた畑なのであります。


 民衆の中から多少の程度においてイエスを思慕しイエスに随従する者が起こりました。この弟子群の中からイエスは御心にかなう十二人を特に選んで、御自分の側近に置き給うた(三の一三―一九)。その中にはペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネなど漁夫もおり、レビ一名マタイのようなヘロデ党の小役人上がりの者もおり、『熱心党』のシモンのようなファッショかぶれの経歴の持ち主もあり、またイスカリオテのユダというのはカリオテ人のユダという意味で、カリオテ人というのは生粋のユダヤ人の血をもたないイズミヤ系統の半ユダヤ人であります。こういう具合に、イエスの側近者として召されたる十二使徒の中にはいろいろの人物がいて、民衆の縮図さながらでありました。十二という数はイスラエル十二支族を代表するもので、イエスは全イスラエルの救主たることの意味を含むものであると、注解学者は説を立てております。イエスがそういうことを意識して十二人という数を定めたものかどうかは知りませんが、ともかく十二使徒の顔ぶれは社会的に大衆を代表した者でありました。
 十二使徒を選ばれた目的は彼らをおそばに置き、また伝道のために派遣せられるためであった。すなわち公私ともにイエスの直接の助手とせられたのです。おそばに置くというのは、単に用事をさせるというだけでなく、イエスを愛し、労わり、慰める者、すなわちイエスの心のわかる者がおそばにいることを欲せられたのでしょう。激しい人生の戦闘に悩み疲れる時、本当に心の通ずる人にそばにいてもらいたい。それがまことの助手であり、まことの友達です。イエス様だとて、そういう友が欲しかったのです。
 十二使徒はその出身が大したものでなかったように、その人物能力も大したものではなかったらしい。イエスのおそばに置かれて日常その言動を目撃し、長い月日親しく薫陶を受けたにかかわらず、なかなかイエスのことが十分にわからなかった。それにもかかわらずイエス様は一度召された十二人を、イスカリオテのユダのように自分からそむき去った者は別として、終わりまで忍びて見すてず、愛しておしえ給いました。また使徒たちも幾度も愚鈍さを暴露しましたけれども、彼らの師を思慕する生一本の真情はどれだけイエス様の慰めとなったかしれません。


 湖畔につどうた群集を離れ、十二使徒を召されるため山に登り給うたイエスは、町に帰って家に入られた。しかし待ち構えた群集が押しかけてきたので、教えたりいやしたり、応接に忙しくて食事の暇もなかった。その様子を伝え聞いたイエスの親族の者たちは、「イエスは狂気になった、飯も食わないで語ったり論じたり時々大きな声を出したりしている。取り押えて連れ帰らなければ」と、やってきました。悪鬼を追い出す時には、イエス様はしばしば大喝一声せられたのです。当時イエスの評判がすでにエルサレムまで届いたため、ガリラヤ住まいの田舎いなかパリサイでなく、都エルサレムから情況視察のため出張してきた本場の学者たちがいましたが、彼らもイエス様の病人を医し悪鬼をい出すのを見て、「彼はベルゼブルにかれている」とか、「悪鬼のかしらによりて悪鬼を逐い出すのだ」とか言いました(三の二〇―二二)。ベルゼブルとは悪鬼の首すなわちサタンのことであります。
 このパリサイ人の批評に対してイエス様は、「サタンはいかでサタンを逐い出しえんや云々うんぬん」と強き反撃を加えられ、さて語を改めて厳粛に、「まことに汝らに告ぐ、人の子らのすべての罪と、けがすけがしとは赦されん。されど聖霊をけがす者は永遠とこしえに赦されず、永遠の罪に定めらるべし」と宣言せられた(三の二三―二九)。「涜」とは無礼、失敬との意、「永遠に」とあるは絶対的の意味での永遠ではなく、代(aeon, age)の終わりまでとの意。すなわち聖霊に対して失敬なことを言うのは、簡単に赦されることのできない重い罪であるとの意味であります。しからば「聖霊をけがす」とはいかなることであろうか。それは学者らがイエスを「穢れし霊に憑かれた」と言ったからだ、とマルコ伝記者は説明を加えています。つまりイエスは聖霊によって悪鬼を逐い出しているのに、学者らはこれを悪鬼の霊によるのだと批評したことが、イエスの口からこの憤激を引き出したのです。
 群衆の治癒、親族の者たちの取り押え騒ぎ、エルサレム下りの学者との激論等で、イエスは御自分の家に帰る暇もなかった(当時イエス一家は故郷ナザレを引き払って、カペナウムに住んでおられたものらしい)。それでイエスの母と兄弟とが呼びに来ました。イエスはこれに答えて「わが母、わが兄弟とは誰ぞ」と言い給い、かくて周囲に坐する人々を見まわして「よ、これはわが母、わが兄弟なり。誰にても神の御意みこころを行なうものは、これわが兄弟、わが姉妹、わが母なり」と言われた(三の三一―三五)


 こうしてみると、イエスの伝道の進むにつれ、彼の周囲の社会に顕著な分解作用が起こって敵味方がハッキリわかってきた。今これを図で示してみれば

     ┌─(1)聖霊   ───┐
     ├─(2)弟子   ──┐│
     ├─(3)群衆   ─┐││
イエス──┤          │││
     ├─(4)家族   ─┘││
     ├─(5)パリサイ人──┘│
     └─(6)悪鬼   ───┘
 第一、『聖霊』はイエスの神の子たることをあかし、イエスを信ずるすべての者の心に働いている。これに対するものは第六の『悪鬼』である。悪鬼といえども霊は霊だから、イエスの神の子たることを認める(一の二四、三の一一)。認めるけれども、信服しないのだ。
 第二、『弟子』は聖霊によりて示されてイエスを神の子・救主と信ずる者である(八の二九)。彼らはイエスの御仕事を助ける者、イエスの御心を慰める者である。これに対するものは第五の『パリサイ人』です。パリサイ人はイエスのお仕事の敵であり妨害者であるだけでなく、イエスの人格を根本的に否定する者である。彼らが「イエスは悪鬼のかしらの霊にかれている」と言ったのは、すなわち彼ら自身こそ悪鬼の霊に支配されていたからです。
 第三、『群衆』はイエスの憐憫の対象であった。彼らは漠然ながらイエスを思慕し、イエスの言を喜んで聞き、イエスから奇蹟による救いを期待した。もちろん群衆の中にはいろいろの分子がいたが、イエスを信ずる者もその中から出たのです。群衆中「神の御意を行なう者」は誰でもイエスの母であり姉妹である。「神の御意を行なう」ということの第一の内容は、イエスを救主と信ずることにあります。それが何よりの神の御意なのです。そして誰でも聖霊の助けによってイエスを信ずる者となれるのだ。この『群衆』に対立するものは第四の『家族』です。家族はイエスと血縁関係があり、日常彼に接している者ですから、最もよく彼を理解しそうなものでありますが、事実はイエスを狂気扱いしたのです。
 パリサイ人は聖書研究の学者であり、律法を尊重して厳格に守る宗教熱心家であるから、イエスの神の子たることを最もよくわかりうべき社会的地位にあるのだが、それがかえっていちばんイエスの敵となり、また家族・親族の者はイエスの血縁であるから最もよくイエスを理解しうべき自然的関係にあるのだが、それがイエスを狂気扱いする。かくて宗教的にイエスに属するものはパリサイ人ではなくて十二使徒たちであり、家族的にイエスに属する者は血縁の者ではなくて群衆中の誰彼である。もちろん群衆の中にもイエスを信じない者もいたし、弟子たちの中にもイスカリオテのユダのようにイエスを裏切った者も出ました。また反対に、家族の中にもイエスを神の子と信じた人もいるし、パリサイの学者の中からもタルソのパウロのような傑出した弟子も出ました。しかし一般的に言って、イエスについて予備知識のない大衆や弟子たちの方がかえって善くイエスを理解し、イエスについて発言権を有すると自負するパリサイ人の学者や家族親族らがかえってイエス様の人格と使命とを解しなかった。どうしてこのような分解作用が起こったか。それを解くかぎが、さきほどの「聖霊をけがす」という言葉の中にあるのです。


 イエスの権威ある言と力あるわざとに接した者は、誰でもこれを人間業と思うことはできない。何か人間以上の大なる力によるのでなければ、とうていかかる言や奇蹟はできないのだ。しからばその力はどこから出たと認めるか。
 悪鬼もイエスの力は神の子の力だと認めました。しかし「神の子」という言葉は、広い意味に用いられるとすべて人間以上の力を有する者を言いますから、その意味では悪鬼のかしらたるサタンも神の子です。サタンはもともと天使の一人だったのが堕落した者ですから、悪鬼がイエスを神の子と認めたのも、実は自分たちの同類の中での強力者として恐れたのでしょう。悪鬼はイエスの強力を認めたが、その力の性質が「愛」であることを認めることができない。
 パリサイの学者らもイエスの力の人間業でないことを認めました。しかし彼らはイエスの力の出どころをサタンの霊に帰したのです。神は愛であるが、サタンは憎しみです。力だけあって愛のないのがサタンです。パリサイ人はイエスの力を認めたが、イエスの愛をわからなかった。イエスが力を用いられる動機は「愛」であることをわからず、これを何らかの野心のためであると解釈したのです。聖書に通暁すると称する学者らが、神の愛について、また神がその愛をもって遣わし給う救主メシヤについて知らないということはない。またイエスが神の国の福音を宣べ伝えられたり、弱き者どもを救ったりせられる言とわざ、その言い方なし方を素直に見れば、彼が聖霊の力によって愛の業をなしているのだということがわからぬはずはない。しかり、彼らはわかっているのにこれを信じ受けず、あまつさえイエスは悪鬼によって働いているのだなどと言う! 言語道断の虚偽いつわりだ、不誠実だ。かかる不誠実を心にもつ限り、彼らは決して赦されない。「その神の怒りは不義をもて真理をはばむ人の、もろもろの不虔ふけんと不義とにむかいて天よりあらわる。そのゆえは神につきて知りうべきことは彼らに顕著あらわなればなり。神これを顕わし給えり。……神を知りつつもなおこれを神としてあがめず、感謝せず、そのおもいはむなしく、その愚なる心は暗くなれり」(ロマ一の一八―二一)というのは、聖霊をけがすパリサイ人の学者らについてよく当てはまる言であります。
 イエスを救主と信ずるについて最も必要な根本的条件は、我々の心の誠実です。心の最も深い所における真理に対する感受性です。イエスは我々の純なる心を要求し給う。そしてイエスに対する心の誠実さえ失わなければ、我々人間の「すべての罪と、けがすけがしとは赦される」のです。ヨブは神様に向かってずいぶん暴言を吐きましたけれども心の底では神を疑わず、神に誠実でありました。だから彼はすべての罪と涜とを赦されたのみならず、大なる真理の啓示を受け、神との深き交わりに入れられたのです。
 誠実な心でなくては悔い改めることができない。悔い改めなければイエスを聖霊の人・神の子と認めることができない。かえっていっさいの価値判断が顛倒して、善を悪と呼び、不正を正と呼び、聖霊の働きを悪鬼の力と認めるのであります。これに反し、悔い改めて心を神の方に向け換えれば、イエスを救主と仰ぐことができ、そしてすべての罪は赦される。イエスの味方となる者は誰ですか。それは心の深い所から救いを望む人です。イエスの敵となるものは誰か。それは物事を浅く表面的にだけ考えて、心の底に誠実をもたない人だ。そうなれば、あなた方の心の問題です。経歴も学殖も律法も何にもならない。またそれらの貧しさもイエスの友たるに何の妨げでない。事柄は鮮明はっきりしている。ごまかしも言いのがれもありません。
[#改ページ]

第四章 伝道第二段



一 伝道方法の変更


 イエスは敬虔けいけんなユダヤ人の一人として安息日には会堂に入るを常としたのであるが、片手えた人を癒し給うた事件があってパリサイ人の激しき怒りを買い、彼らとヘロデ党とが共謀してイエスを殺害しようという密議をこらすに至ってから(三の一―六)、もはや会堂の中で説教することはできなくなった。会堂はパリサイ人の勢力の下にあったから、もう貸してくれない。それで彼は会堂の外に、話をする場所を求めなければならなくなりました。風薫るガリラヤ湖畔、青天井の下、広い波打ちぎわの砂浜が彼の説教場となったのであります。会堂は神の言を学ぶべき建物である。しかるに神の国の福音が会堂の外に締め出される! イエス様にとりてまことに心外なしうちであったでしょうが、それだけ福音が自由に、また広い範囲の人々に宣べ伝えられることとなったのであります。こうしてパリサイ人の会堂は転落し、真理は会堂外、広き世界に出ました。その後イエスが会堂に入って教えを説かれたのは故郷ナザレ訪問の時だけであって(六の一、二)、通常は戸外もしくは私宅で説教をせられたのであります。
 御話の場所の変更は、お話の方法の変化を伴いました。その後イエスは譬話たとえばなしで語られるようになり、たとえでなければいっさい公の説教をせられぬこととなった(四の二、三四)。これはいかなる理由によるのでしょうか。
 けだし会堂に集まる会衆は比較的に伝統的宗教心の深い人々、いわば選ばれたる少数者でありました。しかるに湖畔の広場に集まる聴衆は人数も多く、内容も雑駁ざっぱくで、なかにはイエスの救いを切望する敬虔な魂もあったであろうが、大部分は教養の低い、信仰心の浅い群衆であり、宗教について無知もしくは冷笑的なる分子も少なくなかったであろうし、パリサイ人、ヘロデ党、もしくは彼らのスパイなどイエスの隠れたる敵も混じっていたであろう。かかる雑然たる聴衆の群れに向かっては、これまで会堂で語られたように単刀直入に神の国の福音を話せられるわけにいかない。それは有効でもなく、また危険である。そこでイエスは大衆に対する説教の場合には、もっぱら譬話の形式によることとせられたのであります。
 教養の低い人、無学な農夫や漁夫、子供などは、むずかしい議論や専門的な言葉を聞いても耳に入らない。しかるに「種播者たねまきが種をきに行ってね」というふうに譬話をすれば、「おや」と思って聞き耳をそばだて、そのお話についてゆける。
お話につつまれた真理は
低い戸口から入る
とテニスンが歌ったごとく、無学の大衆にも譬話の形で大切な真理がわからせられるのです。
 少し物事のわかる人、教養のある人々は譬話を聞いて、「まさか世間話でもあるまい。あれには何か深い意味があるのだろう」と考える。彼らは真理をありのままに聞くと、早合点をしてすぐにわかってしまったように思い、聞いた真理の言が心の底に届かないで、右の耳から左の耳に抜けてしまいやすい。しかるに譬話を聞けば何だかわかったようなわからないような感じが残って、幾度もその言を思い出しては心に考え、ついにその意味を深く悟ることができるであろう。
 聴衆の中にはまたイエスの教えに対し冷笑的な態度の者もいたでしょう。かかる人に対して神の国の福音をありのままに語るのは豚に真珠を投げ与えるようなもので、神の言の権威を軽んずることになる。神の国の真理は貴重なものですから、謹んでこれを宣べなければならず、また聞く者もかしこんで聞かなければなりません。冷やかし半分の心をもつ連中に対して、時と所を考えずに神の国の福音をむき出しに語るのは、福音の権威を害することであり、また聞く者の救いにもならない。
 なかには、イエスに対し悪意をいだいて聞いている者もあるであろう。何かイエスの言葉じりをとらえて彼を陥れようという手合いに対しては、譬話は有効な消極的戦術でありました。「何だ、お話か。それでは大したこともあるまい」と、言葉の表面だけしか意味をくみ取る力なく、片言隻句をとらえてやれ「刺激的だ」とか、「発言中止!」だとか息巻くだけの連中は、イエスの譬話を聞いて監視・妨害の手をゆるめたでしょう。
 それのみでない。自己の此世的な知恵にたかぶってひとかどの見識があると自負し、真理に対する素直な感受性を欠くところの学者たち、イエスの敵たるパリサイ人らは譬話を聞かされてますますイエスの言を軽蔑し、イエスの教えがいっそうわからなくなった。わからず屋はますますわからず屋になった。すなわちわからず屋のパリサイ人に対する強硬なる戦闘手段として、イエスは譬話を用いられたのであります。イエス御自身、譬話をもって語られることの理由を弟子たちに説明せられた中に、イザヤ書第六章九節十節を引いて「これ見るとき見ゆとも認めず、く時聞こゆとも悟らず、ひるがえりて赦さるることなからんためなり」と言われました(四の一二)。すなわち事理わけのわからぬやつはますますわからなくしてやるという、すこぶるきつい御言葉です。マタイ伝には「これ彼らは見ゆれども見ず、聞こゆれども聴かず、また悟らぬゆえなり」(一三の一三)とあります。普通の説き方ではわからぬから、彼らの理解しうるよう譬話で話された、というのです。イエスが譬話をもって教えられた趣旨の中には、こうした親切な配慮も含まれていたのです。しかしそれは無学の大衆に対してのことでありまして、学者ぶってかえって真理への感覚を失っていたパリサイ人に向かっては、マルコ伝にあるように激しい戦闘の方法として譬話を用いられたに違いありません。「イエスがそんな意地の悪いことを!」と、あなた方は不思議に思われますか。しかし彼は書斎の安楽椅子で談論しているのではありません。彼は広い世界のまっただ中に立ち、湖畔の広場で有象無象の大衆を相手にして、神の国の福音を宣べ伝えているのです。そしてその群衆の中には、彼のからだに手を掛けてその生命を失わしめようとさえ、機会をねらっているパリサイ人とヘロデ党の者とが混じっているのです。もう彼の伝道は戦闘です。お上品な言葉の応酬やりとりをしたり、お婆さんが孫にキャラメルをやるようなことをしているべき場合ではない。神に対する誠実、真理に対する敏感、聖霊に対する従順の心をもつ者をば救い出すために、かかる心をもたざる悪意の敵、「聖霊をけがす者」どもをば強く打たねばならない。
 こうして譬話はこれを聞く人の心の態度によって、ある者は浅く、ある者は深く、その意味を学びました。ある者はこれを聞いてますます心を頑固にして真理に遠ざかり、ある者はその深き意味を悟って腹の底から「アーメン! そうだ!」と言いました。譬話は絶大なる教育的効果をもったとともに、それは最も有効なる戦闘的方法でありました。いまやパリサイ人の敵意がさかんとなったため会堂の外でなければ説教をすることのできなくなったイエス様は、この情勢の変化に応じて説教の形式を変更し、「人々の聴きうる力にしたがいて御言みことばを語る」ために譬話の方法を採られ、譬話以外には一般大衆への説教をなされざることとなったのであります(四の三三、三四)

二 種播きの譬話



 カペナウムの町家で、食事する暇もなきほど忙しく群衆に接し、エルサレム下りの学者たちと論争し、自分の親族・家族らとの出来事もあって、敵味方がようやく明瞭となって緊張の時を過ごされたイエスは、戦闘の後の息抜きのため、また例のごとくガリラヤ湖辺にで給うた。しかるにおびただしき群衆が彼の身辺に集まってきたため、陸にいたのでは揉みつぶされるほどであったから、舟に乗りて少しく漕ぎ出し、なぎさに群れている群衆に向かって水上から教えを説かれた。それは一つの譬話であった。
「お聴きなさい、農夫が種播たねまきに出た。ところで、路傍に落ちた種はすぐに鳥に食われてしまった。土の薄くかぶった岩地の上に落ちた種は、え出るには出たが日に焼かれてすぐに枯れてしまった。いばらの中に落ちた種は生え出たけれども、茨の方が成長が早いのでそのために塞がれて実を結ばなかった。しかし良き地に落ちた種は生え出でて茂り、実を結ぶことあるいは三十倍、あるいは六十倍、あるいは百倍した云々うんぬん(四の三―八)
 イエス様は語を継いで、また一つの譬話を語り出で給いました。「神の国は種を地に播くようなもので、寝たり起きたりして日を過ごすうちに、播かれた種は生え出でて育つ。播いた当人の知らない間に、自然に生えてくるのだ。初めには苗が伸び、次に穂ができ、それから穂の中に穀が実る。みのりさえすれば、すぐにかまを入れて収穫するのだ」(四の二六―二九)
 さらにも一つの譬話。「神の国は芥種からしだねのようなものだ。地に播く時はあらゆる種の中で最も小さいが、生え出でて成長すれば野菜中では最も大きく、まるでのようになって鳥がみうるほどになる」(四の三〇―三二)(パレスチナの芥は八尺の高さにまで成長するという)
 イエスは舟の上から湖畔の麦畠や野菜畠を見ながら、これらの譬話をせられたのであろう。そしてたくさんの群衆は思い思いの心をもってこれを聴いたのです。


 以上、三つの譬話はいずれも神の国についての譬話です。「神の国の奥義」をば、譬話でもって教えられたのです(四の一一)。これはイエスの譬話の中で最も基本的なものでありました。神の国の福音を宣べ伝えるについて、最も根本的な原理がその中に含められていたのです。だから弟子たちがあとでこの譬の意味を質問した時に、「汝らこの譬がわからぬようでは、他の譬はいっさいわからないぞ」と、イエス様は嘆ぜられたのであります(四の一三)
 イエス御自身の解き明かし給うたところによれば、種とは神の言であり、種を播くとは神の国の福音の宣伝であり、種を播く者とは福音の宣伝者のことであります。種の播かれる土地は聴く人々の心です。その心の受け方いかんによりて発芽、成育、および結実の状態が異なる。てんで神の言を受けつけぬ頑固の心は踏み固めた道路のようなもので、いくら種が落ちても発芽もしない。次に少しは神の言を聴こうという求道心があっても、それが皮相浅薄の好奇心や知識欲や利益心であって、一皮下には「おのれ」というものを頑固に守り通している者は、岩の上に薄い表土のかぶさった土地のごときものです。たとい発芽はしても根を深く張っていないから、少し炎天にあえばすぐに枯死する。神の言を聴いて早わかりがして、「感謝です!」とか「アーメンです!」とか軽々しい感傷にふけっている者は、少しく艱難かんなんにあえばただちに信仰を棄てる。ことに信仰のゆえに艱難迫害がきそうになれば、急いで転向してしまう。彼らは自分の利益とか、慰めとか、要するに自分本位で信仰を求めていたにすぎないからです。それから、いわゆる人間味の比較的豊かな、人生の各方面に対して興味と感受性をもっている人の心は、やぶくさむらのようなものです。土があるから、何でも相当に善くえる。宗教心も発芽して、ある所までは成育するように見える。しかし他の人間的欲情、此世的な快楽の欲求なども、同時によく発芽し成長する。そして自然の成長に放任しておけば、物質的欲情は霊的欲求よりも勢いよく盛んに成育するから、ついにせっかく伸びかけた信仰の苗はふさがれ、結実せざるまましなびてしまい、その人は此世的な人間となり終わる。これは人間としてもつ欲情の発達をすべて自然に任せ、信仰生活の努力・鍛練を怠ったからです。「この身このままに救われる」というのは神の恩恵に対する感謝でありますが、それは決して自分が信仰的努力をしないでもよいとか、自分の道徳的状態は現状で満足だとかいうものではありません。霊の力によりて肉の欲望をめてゆき、霊の歓喜によりて此世的なる快楽から解放せられてゆくという努力、すなわち信仰の生活の励み、その実践を怠ってはならないのです。最後に、「良き地」というのは土の深い、土壌の善く砕けた、砂礫されきの混じらない土地であって、これは柔和・純粋なる「砕けたる霊魂」の譬です。神の言が柔和で深い心に落ちれば、善く発芽し成長して数十倍のを結ぶ。その結実の成績は受ける心の深さ、柔らかさの程度に応ずるのであります。
 イエス様がこの譬話を始められた時の心境はどうであったろうか。湖畔につどうたたくさんの群衆をば舟の中から見ながら、彼はこの譬話をしておられる。群衆の心は土地だ。おびただしき群衆! しかもこの中の何人が神の言を深く心にとどめるであろうか。目前の群衆だけのことではない。イエスが伝道を始められて以来、今日まで多くの機会において多数の人々に神の国の福音を説き、また奇蹟をもって福音を示してきたが、はたして幾人が彼の言を信じ受けたであろうか。「時は満てり、神の国は近づけり」と、イエスは伝道の最初に宣言し給うた。しかるに現実の経過を顧みれば、彼を心より信じたる者は少なく、多くの群衆はただ皮相に彼を崇拝し、彼より医癒いやしを得たいとか、奇蹟を見たいとか、群衆心理によって集まりきたったにすぎない。それのみでなく、自分の家族・親族は自分を狂人扱いにし、パリサイ人とヘロデ党とは自分の生命さえもつけねらうようになり、自分はもう会堂の中へも入れないのだと思うてここに至り、イエスは一抹失望の感を禁じえなかったでしょう。彼は今伝道の一転期に当たり、神の国の福音のために遣わされし使者としての使命について、再検討を試みられたことと思われます。そして神より与えられし答をば、この種播きの譬話に織り込まれたのであります。
 神の言はせっかく播いても生えてこないものが多い。それほどに人の心は曲がって、かたくななのだ。しかしそれが良き土に落ちた時は三十倍、六十倍、百倍の実をさえ結ぶのだ。そのような良い土地は、神がこれを備えてい給うのだ。自分はいそしんで種を播いていればよい。それが良い土に落ちること、落ちて数十倍の実を結ぶことは、神の御手にあるのだ。一方ではむだに播くようでも、良き土に落ちた種から豊かに神の国は実るのだ。――こうしてイエスは神の言の役者えきしゃとしての御自分の使命を確認せられ、その労働に対する希望を新たにせられたのであると思います。
 引き続いてなされた二つの譬話も、これと同じ精神です。播かぬ種は生えないから、種は播かねばならぬが、しかし播いた種がいつ生えていつ育つか、それは種播きの農夫の知るところではありません。播いた種のそばにじっと付いていて、その発芽成長を見届けるような農夫はいない。彼は播いた種を大地にゆだねて、安心して眠りまた起きる。そのうちに、いつの間にか芽が出で茎が伸びるのです。そして自然の順序を追って苗から穂、穂から穀ができる。神の国の実現もこれと同じことです。福音を播く者は、その結果についてやきもきすることはない。人の心の奥深き所における神の言の働きは、神みずから営み給う神秘の世界です。神はこの深所において種より芽を発生せしめ、時を追い順序を経て実を結ばせ給う。自分の見ている目の前で神の国が発芽しないとか、または一足跳びに神の国が実現しないとかいって、失望したり焦燥したりすべきではない。種を播くのは伝道者の任務ですが、育て給うのは神様です。
 次の芥種からしだねの譬はこうです、――神の国は播かれる時は微小でも、育てば樹ともいうべき大きさになる。イエスの言を聞いて信じた者はほんの少数だが、一人でも二人でもその心に福音を宿したならば、神の国はもう発芽成長を始めているのです。それが後には世界をおおうほどの大きい社会となるのです。
 種播きの三つの譬話は、パリサイ人の敵意と民衆の愚鈍とにより伝道上の妨害と困難を感ずるに至られた時期において、イエス御自身受けられたところの、神の国実現に関する希望の啓示であります。なんとそのいきいきとして雄大なる! 今は一粒の種でも、後には六十倍百倍の実を結ぶという。今は播いたばかりの種でも、後には苗生じ穂実るという。今は小さい芥種でも、後には鳥むほどの大木となるという。それらの成るのは、皆すべて神の成し育て給うところであるからだ! 目的と育成とすべて神の御手にあることを知って、種播く者は責任が軽くなり、失望を忘れる。そして自己の労働の成績について気を労せず、心軽く、心新しく、希望をもっていそしむ時、我々の仕事は最大の能率を発揮するのです。種を播くのは簡単な仕事です。いちばん簡単な仕事です。それだけが伝道者の仕事です。その他のむずかしいところはすべて神様が成して下さるのです。イエスはこの真理をかたく把握して、彼の伝道第二段に入り給うたのであります。


 イエスは群衆に向かってもっぱら譬話で説かれるようになったが弟子たちにはその意味を解き明かされました。すなわち神の国の奥義を率直に教えられたのです(四の一一、三四)。「奥義」(mysterion, mystery)というのは神秘ということではありません。今は隠されているが後にあらわれるものであります。今は譬話の形に包まれているが、後には一般的に明白に理解せられる事柄であります。「顕わるるためならで隠るるものなく、明らかにせらるるためならで秘めらるるものなし」(四の二二)、とあるのがすなわち「奥義」ということです。譬話で語られたことの意味を弟子たちには率直に説明せられたのは、気心の知れた内輪の者であって気がねがなかったからでしょうが、また弟子たちは今日すでにイエスの意味せられる教訓すなわち「奥義」を理解しえる心の準備があったからでしょう。この心の準備は彼らがその師につき従っている間に養われたものです。そしてイエス様は弟子たちをば神の言の使徒としていっそう深く訓練せられるために、特に彼らに対しては譬話の意味を解き明かされたのです。福音宣伝の仕事はいっそう多きを加え、かつ困難を増しつつある。イエスは御自分の仕事の助手として、また後継者として、その選び給うた使徒たちを十分に仕込んでおかねばならない。「神の国の奥義」すなわち神の国の性質、能力、並びに福音の使徒としての心得などについて、深く教え込んでおく必要を感ぜられたのでしょう。
 まず、神の国の真理はわからぬということはない、わかりうるものだ、ということ。「神の国」は霧のかなたにあるような神秘的なもの、人間の理解を超越した不可思議なものではなく、それは実際的なものであって、人間にわかりうるものである。わかりうるように、はっきりと提出せられているのだ。あたかも燈火ランプ燈火台ランプだいの上に置いてあるようなものだ(四の二一)。神の国の真理は、人間に見られることを避けて暗い内陣に隠されている本尊のようなものではない。また普通の人間の頭では何とも理解困難なようにひねくりまわされた理屈でもない。わかるものだ。誰にでもわかるものだ。わかる心の持ち主には誰にでもわかる。そのわかる心とは、素直な、誠実な心にほかならないのです。
 真理をわかるのは、く者の心の状態にあるのです。イエスは弟子らを教えて、「汝ら聴くことに心せよ。汝らがはかる量りにて量られ、さらに増し加えらるべし」と言い給うた(四の二四)。「聴くこと」とあるのは、いかなる話を聴くかということではなく、お話のどこを聴いたかということです。講演の後などで「たいへん善いお話を伺いまして」などとお愛想あいそを言われることがありますが、あなたは話のどこが善かった、おもしろかったと言うのですか。講演の中に出てきた余談や逸話や、または頭脳の満足するような学問的興味や、感情の激した悲憤慷慨こうがいや、たいていの場合は自分の気に入ったことを言ってもらった時に「おもしろかった」とか、「善かった」とか言うのではありませんか。たといイエス様御自身の口から出る直話を聴いても、自分の「」をもって聴けば結局それだけの大きさのことしかわからない。これに反し柔和・謙遜なる心、たましいの底から真理に憧れ救いを求める心をもって聴けば、神の真理の深いところをくみ取って、自分と世界とに根本的の革新をもたらす力を得るのです。浅薄な心をもって聴く者は浅薄に、深いおそれをもって聴く者は深く悟る。教えを聴く者はまず第一に自分の心の誠実を保たねばなりません。
 このようにイエスは弟子たちに譬話の意味を説明するに当たり、聴く者の心得を教え給うた。これは譬話のような間接的・類推的な教訓を聴く時には、特に必要なる注意でありました。だからイエスは「聴く耳ある者は聴くべし」と言って、聴者の注意を喚起せられたのです(四の九、二三)。ぼんやり聴き過ごしては、譬話の教訓を学ぶことはできません。
 しかしそれだけではあるまい。前にも述べたごとく、彼らがイエスの使徒として神の国の福音宣伝の任務を果たすについての心得を教えられたものと思われます。すなわち弟子たちが伝道上の困難や不成績に遭遇そうぐうして意気沮喪そそうすることなきよう、神の国の建設は神御自身の業であることを知り、希望をもって聖言の種播きを励み続けるよう、その心構えを徹底させておきたいお考えであったと思われる。先生の仕事は弟子の仕事であり、先生の希望は弟子の希望である。先生自身大なる希望をもってその使命を行なわれるのは、弟子の使命遂行上最大の希望です。イエスは神の国の福音宣伝者としてその使命遂行に関する最奥最深の心境をば、弟子に開いて見せ給うたのである。ああペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブ輩、なんたる光栄であるか。


 しかし何も昔のことだけではない。自分のことを例に引くのは失礼だが、私が大学の教室で講義をしていた時は聴衆は粒の揃った学生ばかりで、私の講義を理解する頭脳と心構えとをもっていた。だから私は学問上の真理と信ずるところを率直に、思うたとおりに述べることができたのです。しかるにこの「象牙の塔」を出て広い世間で講演をする時には、聴衆の種類は雑多であり、なかには私に対し敵意を抱いている者がないとは限らない。ことに時局の影響で言論の監視が厳重になってからは、なおさら迂闊うかつに口が開けない。書くにしても同様です。読者の限られた大学の機関雑誌に学術論文を書くに比して、広い世間の雑誌に思想を発表することは比較にならぬ気苦労がある。こうした情勢の下において、我々の語りうること、書きうることは譬話のほかにないではないか。聖書研究そのものが、純然たる学術的研究でない限り、実際世間の問題についての生きた「譬話」なのであります。
 譬話でなければ話のできない世の中では、聴く人読む人もその心して学ぶ必要があります。「汝ら聴くことに心せよ」であります。軽い心で皮相に読み過ごし、聴き流したのでは、神の国の真理を学ぶことはできない。こんな聴衆にはいくら深い含蓄ある話をしてやってもだめだ。
 神の言を説いても、信じて受ける人は寥々りょうりょうたるものです。それのみならずわが熱誠こめて神の言を説けば説くほど聴く者は心をかたくなにし、敵が現われて我を追い出し、わが生命身体の自由をさえ奪おうと隙を狙っている。世間はわが福音に背を向け、わが願わざる方向へと驀進ばくしんする。我は悵然ちょうぜんとしておのが孤影を顧みるのです。
 ちて野に出で、種播く人を見よ。そしてイエス様のあのすばらしい種播きの譬話を思い出せ。我らも種を育て給う生ける神を信じよう。失意のふちにのぞんでもこの神を信じて希望を輝かせたイエスを、我らの模範としよう。我らも神の国が繁茂せる大樹のごとく必ず実現するを信じて、怠らず種を播こうよ。
[#改ページ]

第五章 湖水の彼岸此岸



一 湖上の突風


 イエスは舟の上から陸上の聴衆に向かって、譬話たとえばなしを三つたてつづけにせられました。譬話といえばのん気そうに聞こえますが、事実は全く反対で、譬話の形でなければ自由にお話のできないほどに客観的情勢は悪化していたのです。それに舟から陸上に向かって語られたのですから、さだめし大きい声を出されたことでしょう。心身疲労しきったイエス様はその日も夕方になったころ、「さあ彼岸むこうぎしに渡ろう」と言い出されました(四の三五)。群衆から遠く離れて休養を欲せられたのであります。漁夫上がりの弟子たちはお手の物のかいを取って、そのまま沖へぎ出しました。これを見た群衆はあわてて、我も我もとその辺の舟に打ち乗り、あとを追ってきました。先生の疲労のことなどかまわずに、少しでもたくさんお話を聞き出そう、少しでもたくさん病を癒してもらおうという、身がってな乞食のような根性のともがらであります。疲れきったイエス様はともの方で舟夫せんどうの座布団を枕にゴロ寝をせられ、すぐに熟睡に落ち給うた。
 すると、一陣の冷気が湖面をかすめたかと思うまに、ヘルモンおろしの突風がにわかに浪を怒らせ、舟は木の葉のごとくもまれて沈むばかりとなりました。弟子たちの必死の努力もかいあらばこそ。彼らはイエスを揺り起こして「先生、私どもの亡ぶるを顧み給わぬか」と、き込んでなじり気味に訴えました(四の三八)(マタイ伝八の二五およびルカ伝八の二四には、こんななじるような言葉は見いだされないが、マルコ伝の方が真に迫った率直な筆致です)。イエス様は静かに身を起こして風と浪とを叱り給うたところ、たちまち前にまさる大凪おおなぎとなった。そして「汝ら何ゆえかく臆するか、汝らなお信仰なきは何ぞ」と、今度は反対にイエスが弟子たちをなじり給うた。弟子たちははなはだしく怖れて、「先生はなんという人だろう、風も海もしたがうとは!」と、互いに語り合ったのであります(四の三五―四一)
 急に烈しい突風が起こって浪が荒れ、少時間の後にまた急にぐことは、山の湖水にはよく起こる現象であって、富士山麓山中湖にも幾度かそういうことがありました。しかしイエスが風と浪とをお叱りになったところたちまちそれが静まったという、そんなことがはたしてありえたであろうか。神の子イエスが神の力を用いて自然界を支配しえ給うことを、私は信じます。しかし奇蹟の記事をばできるだけ自然的に説明しようとする人は、かかる突風の性質として、来るのも突然であるごとく凪ぐのも突然である、イエスが起きて風波を叱り給うた瞬間は、ちょうど風の自然に静まる時になっていたのである、イエスの叱責の声と風の凪ぐ時とが偶然的に一致したのであろう、というふうに解釈します。
 しかし、それだから何だと言うのですか。イエスは奇蹟をしてみせて威張ったのでもなく、また「奇蹟をもって風波を静めてみせたのに汝らはなお信じないのか」と言って、なじられたのでもない。風波に気を取られて心の平衡を失ってしまったことをなじられたのです。ごらんなさい、イエスは風波の中に熟睡していられる。その神の守りを信じきっていられるからです。
 エホバは汝の足の動かさるるをゆるし給わず、汝を護る者は微睡まどろみ給うことなし。(詩編一二一の四)
 神の守りに一身を委ねて熟睡していられるのは、イエス御自身の信仰の平安である。これを目の前に見て、弟子たちも信仰による落ち着きをもつべきでありました。もちろん風が強く当たれば舟が傾かぬように漕がなければならず、水が入ればくみ出さねばならぬ。しかし心の平安を失ってあわて恐れるとは、イエスの弟子らしくもない。ことにイエスと同じ舟に乗っているのです。危険も安全も、イエスと運命を共にしているのだ。イエスの信仰は弟子たちの信仰であり、イエスの安泰は弟子たちの安泰であるはずだ。しかるに今まで長くイエスに付き従って、平生彼の信仰的生活態度を見せられていながら、いざとなればこのあわて方です。だから、「汝らまだ信仰のないのは何事か」とお叱りになったのです。問題は風波の現象にあるのではなくて心である。奇蹟ではなくて信仰である。仮に風波の静まったのは自然的に突風が凪いだのであるとしたところが、この事件が弟子たちに、したがってまた我々に、教える教訓は変わらない。それは神ともいますという信仰の平安をば、人生の突風にあった時失わないことであります。
 思いがけぬ湖上の突風によって、あとを追ってきた群衆の舟はどこへかちりぢりになり、イエスの舟だけがめざす対岸のゲラセネの地に安着しました(五の一)。あたかも総理大臣が週末休養のためにゴルフ場へ行く時、新聞記者や写真班をうまくまいたように、湖上の突風はうるさく付きまとう群衆をまいて、イエス様を休養の場所に導いたのです。この突風は心身過労のイエス様を休ませるための神の恩恵の計らいでありました。それを弟子たちは、イエスと自分らとを亡ぼすものであるかのごとくに怖れたのです。神は私どもに突然苦難を下し給うことがある。あるいは病気とか、失業とか。しかしこれは神が私どもを滅ぼそうとしていられるのではない。かえって私どもをこの世の煩わしい仕事や、交際や、心づかいから断然隔離して、神の備え給う休養に導き、天国の喜びを味わわせ、心の平安を楽しませるためです。私どもの霊魂の健康を保護する神の恩恵であります。信仰によって知る時、私どもの人生の意味はかくも一変してしまうのです。

二 ゲラセネの豚


 イエス一行は舟を降り、急坂を上って村里に近づき給うた。そのとたんに村はずれの墓場の中から、形相すさまじき一人の男が猛烈な勢いでとびかかってきた。あたかも知らぬ村に旅人が足を入れた時、犬が飛び出してきて吠えつくように。これはこの村のひどい狂人で、誰も彼を制するを得ず、墓場や山にて叫び、己が身を石にて傷つけていた者であった。彼は殺気立ってはるか向こうから突進してきましたが、イエスの前まで来た時その優しいうちにも威のこもったすがたに打たれて平伏ひれふし、「神によりて願う、我を苦しめ給うな」と大声にて叫びました(五の七)。この男を苦しめた内心の分裂が表面化してきたのです。イエスに接して彼の霊性は覚醒し、その肉体に宿る罪、すなわち悪鬼の霊との絶縁を欲するに至った。これに対し悪鬼はこの人の中における支配を失わざらんため、大声を発してイエスの不干渉を求めました。我々はイエスの前に平伏したこの男の全人格から、「ああ我悩める人なるかな、この死のからだより我を救わん者は誰ぞ」との切々たる哀願が、無言のうちに強く深くささげられているのを感じます(ロマ七の二二―二四参照)
 イエスは静かに「汝の名は何というか」と尋ね給うた。その語調には大きな同情と憐憫とがあふれています。答えて言う、「わが名はレギヨン」と。レギヨンというのはローマの軍隊の名称で、五千人ないし六千人より成る部隊であります。この男は多くの悪鬼にかれていたので、たぶん村人からレギヨンとあだ名せられていたのでしょう。
 イエス様の静かな応対によりてしだいにこの男の気も鎮まり、巣食っている悪鬼どもは己らをこの地方の外にいやり給うなとしきりに願っていましたが、かたわらに山辺で草をんでいる豚の大群を見つけてそれに入ることの許しを求めました。イエスの許しを得て、悪鬼が豚に入ったから、約二千匹の群れががけを駆け下って湖水に入り、おぼれてしまいました。豚の牧者が驚いてしらせたので、あちらの町からもこちらの里からも人々が「何だ何だ」とたくさん出てきた。そしてかのレギヨンとあだ名された狂暴な狂人が正気に返って坐っており、その前には威あってたけからざる見知らぬ人が立っているのを見ました。仔細を聞いた村人らは、気味悪く思ってイエスに退去を願った。イエス様は「よろしい、帰るよ帰るよ」と、舟に乗り給うた。先の悪鬼に憑かれていた男もお伴を願い出ましたが、イエスは許し給わずして「汝の郷里、汝の親戚の許に帰り、主がいかに大なることを汝になし、いかに汝を憐れみ給いしかを告げよ」と命じ給うたのです(五の九―一九)。全く童話のようにおもしろい出来事でありました。
 このゲラセネという土地はガリラヤ湖の東岸で、デカポリス地方(五の二〇)の一部であります。デカポリスというのは「十の町」を意味するギリシャ語でありまして、この一帯はギリシャ文化の影響の多い地方であり、ユダヤ人から見れば半分外国であります。豚はユダヤの律法ではけがれた家畜でありますが、その豚をたくさん牧畜しているというのですから、この地方の異邦的空気が察せられます。ここには小うるさくて偽善的なパリサイ人や、政治的監視の目を注いでいるヘロデ党もおらず、イエスは気持にゆとりができて、休養の空気を吸われたことでしょう。レギヨン氏との応対にもどことなく和やかさがあります。かつてカペナウムの会堂で穢れし霊に憑かれた人を癒し給うた時には、イエスは悪鬼を烈しく叱責して「黙れ、その人を出でよ」と言い給い、その人はひどい痙攣ひきつけをした後に癒されたのであった(一の二五、二六)。しかるに今ゲラセネでは、イエスは悪鬼と問答を重ねて、その言うがままに豚に入ることをさえ許し給うたのです。こうしてゆるやかに悪鬼を追い出し給うたがため、さしもレギヨンと呼ばるるほど多数の穢れし霊に憑かれた男も、大なる痙攣も起こさず、平穏に正気に復することができたのです。もしも多くの悪鬼が急激に駆逐を迫られたならば、この人はそのための激しい苦痛に倒れたかもしれない。いわゆる病気を癒して病人を殺したかもしれません。しかるに真に名医たるイエスは一人一人の状態に応じて、適切な救いの方法を実行せられたのです。ある人は急に信仰がわかり、ある人は徐々にわかる、いずれもその人の状態にとりて最善の恩恵であるのです。
 癒された者に対するイエスの命令も、ガリラヤとゲラセネとでは異なっている。ユダヤ人のガリラヤ地方では「つつしみて誰にも語るな」と厳命し給うたが(一の四四、五の四三)、異邦のゲラセネでは「往きて告げよ」と命じ給うたのです。ユダヤ人の社会ではイエスのことばわざに対し批評的監視がうるさくて、福音宣伝の妨害が起こる危険が多いのであるが、異邦人の社会ではそのような弊害も少ない。かつガリラヤはイエス御自身の伝道せられる場所であるから、他の者は彼の伝道のおじゃまをせざることをば第一に注意しなければなりません。これに反しゲラセネでは、けがれし霊を追い出されたこの男によらねば、神の国の福音は伝わらないのです。彼がイエスのことをデカポリス地方に言いひろめたことは、イエスの伝道にとって迷惑をかけないのみでなく、かえって異邦伝道の先駆として有用なことでありました。彼を福音の証人としてゲラセネの地に残しおき、再び舟に乗って弟子たちとともにガリラヤに帰り給うたのは、イエス様にとりて気持のよいことであったでしょう。
 それにしてもイエスが穢れし霊の豚に入ることを許された結果、二千匹もの豚が溺死できししたのは、他人の財産に不当な損害を加えたものではあるまいか、所有権の神聖に抵触しはすまいか、などと聖書学者は論じます。いやになってしまいますね。一人の人間を滅亡から救うのに、豚が何だ。もしゲラセネの村人が神の愛ということを知ったなら、自分たちの豚が神の御用に当たったことを感謝するでしょう。そうすれば神は二千匹の豚の数倍する恩恵をもって、彼らに報い給うたでありましょう。愛よりも財産を重んずる! そんな低級な財産観に我々はとらわれてはいけません。
 豚の一件については、もっと重要な連想があります。人間にいていたけがれし霊が豚に入り、その豚が断崖だんがいに駆け下り、ガリラヤ湖底深く沈んで溺れ死んだという、その中に十字架の暗示が認められはしないか。昔モーセがイスラエル民族を率いて曠野の旅を続けていた途中、罪を犯した多くの民が蛇にまれた時、モーセは銅をもって蛇を造りこれをさおの上に載せておいた。そして蛇に咬まれた者がこの銅の蛇を仰ぎ見れば、その毒を免れて一命を助かったという(民数紀略二一の九)。イエス御自身これを十字架の暗示と解し、「モーセ荒野にて蛇を挙げしごとく、人の子もまた必ず挙げらるべし。すべて信ずる者の彼によりて永遠の生命を得んためなり」と語られたことがある(ヨハネ三の一四、一五)。蛇はのろいであり、豚は穢れです。モーセの蛇によって十字架を連想するごとく、ゲラセネの豚によっても私どもは十字架の呪いを思います。イエスは我々からレギヨンともいうべき多数の穢れし霊に「でよ」と命じ給うた。穢れし霊はその入るべきからだを求めた。これに対しイエスは言い給うた「わが身に入れ」と。その結果我々ははげしき痙攣けいれん苦痛なくして救われたが、イエスの身は呪いとなって、一たび陰府よみの底深く沈み給うたのです。
 イエスがこういうことを意識して豚の一件を起こされたというのではありません。しかしイエスの死を仰ぐ私どもは、十字架による贖罪しょくざいの象徴をこの事件の中に見るのです。

三 血漏の女


 休養のために渡ったゲラセネの地ではからずもレギヨン氏との遭遇事件がありましたが、愛をもって一人の人間を救われたことは無為の休息以上に善き休養でありました。二千匹の豚が断崖を駆け下って、ザンブザンブと音を立てながら湖水にとび込む壮観は、レギヨン氏救済の凱歌の伴奏でありました。旧のレギヨン氏はいまや「衣服を着け、たしかなる心にて」、己になし給いしイエスの憐憫を言いひろめるためにいそいそと出かけてゆく。彼とたもとを分かって舟に乗られたイエス様は「おもしろかったね」と、弟子に話せられているように想像せられます。帰路は湖上も静かで、無事カペナウムに帰着せられたが、上陸するやいなや早くも大なる群衆に取り囲まれてしまいました。
 そこへ会堂つかさヤイロという人が来て、自分の小娘が危篤だから、早く来て手を置いて下さい、とせつにお願いした。群衆は我こそイエスのおそばに近寄ろうとひしめき合いながらついてきました(五の二一―二四)
 ここに十二年間血漏症ちろうしょうわずらい、多くの医者に多く苦しめられ、そのために財産を傾けてしまったけれども何のかいなく、病気は悪くなるばかりという一人の女が、遠方から来て群衆の中に混じっていましたが、人波をかきわけてひそかにイエスの後ろに寄り「その衣にだにさわらば救われん」と独語ひとりごとを言いながら、イエスの衣に触りました(五の二五―二八)。マタイ伝九の二〇、ルカ伝八の四四には「御衣みころもふさ」とあります。ユダヤ人の上衣には四隅に総がつけてありました(民数紀略一五の三八、マタイ伝二三の五参照)。日本で言えば「羽織の紐にでも触れば」というところです。するとただちに女の一念が届いて、病根の全くえたのを直感しました。一方、イエス様は能力ちからが自分から脱け出たのをただちに自覚せられました。そこで立ち止まって、「我が衣に触ったのは誰か」と、見まわされた。その鋭いまなざしに女はおそれおののき、とうてい隠れえぬことを思いまして、御前にひれ伏し、有りし次第をすべて告白いたしました。イエスの目はたちまち愛に和らいで、「娘よ、汝の信仰汝を救えり、安らかに往け、病癒えてすこやかになれ」と祝福し給うたのであります(五の二九―三四)。「娘息女むすめよ」というのは、かつて中風の者に向かって言われた「子息子むすこよ」(二の五)という言葉に相対する、きわめて愛情のこもった呼びかけです。「安らかに往け」とあるのは単に「無事にいらっしゃい」というのではなく、平安の中に入って往きなさい、平安を得なさい、平安を楽しみなさい、という意味です。また「健やかになれ」というのは、今後いつまでも健やかであれという健康持続の意味であります。中風の者をいやされた場合(二の五、一一)に比べて、はるかに懇切で豊かな祝福の言葉であります。「汝の信仰汝を救えり」というのは霊魂の救いです。「安らかに往け」というのは心の平安です。「病癒えて健やかになれ」とは肉体の健康です。霊魂と心と肉体と、三重の救いを重ねてイエスはこの女をいたわり慰め、祝福せられた。それほどにまでイエス様はこの女の信仰を喜び給うたのであります。
 この女の患った血漏というのは血友病けつゆうびょうではなく、婦人病の一種(子宮筋腫?)であろう。間歇的かんけつてきに出血があり、出血の時は激しい痛みを伴うものであります。婦人病は生理的のみならず心理的にもすこぶる不愉快な病気であり、その多くは慢性的で、悪い医者につつきまわされてかえって病気をひどくすることは昔も今も変わりがありません。婦人だけの負わねばならぬ苦痛でありまして、まことに気の毒な病気です。かつこの種の病気は「けがれ」として社交的・宗教的にも忌まれたのであります(レビ記一五の一九)。それにこの女は伝説によればピリポ・カイザリヤの者で、すなわち異邦人でありますから、イエスの名声を聞いてはるばる出てきたものの、ユダヤ人で社会的地位のある会堂司ヤイロのように、正面からイエスの助けをお願いすることはとうていできぬと考えた。こうして羞恥はずかしさと遠慮のあまり、後ろからそっとイエス様の衣に触ったのですが、その信仰が大きくあったので、癒されました。「ああよかった」とは思ったが、そのまま黙っていました。しかしいかに信仰から出たこととはいえ、これではイエスの能力ちからを盗んだのです。信仰的であればあるほど、それを不問に付することはできない。だからイエスはその人を捜し出そうとせられたのです。
 後方からひそかにイエスの能力を頂いても、病気は癒るには癒る。しかしそれでは祝福を受けることができません。一時的には治療せられても永久的の治療は得られず、局部的の故障は除かれても全身的の健康は得られず、肉体的の欠乏は満たされても霊魂の救いは得られない。イエスを信ずる者は、ひそかに信ずるだけでは足りない。真正面からイエス様に相対し、かおと面とを合わせて、自分のことをはっきり申し上げねばなりません。自分の信仰的立場を客観的に表明し、公然たる立場に置かねばならない。これが信仰を確実にする秘訣であります。いつまでも傍観者的心持でいたり、集会でも人から見えないすみっこに坐り込んでいるような態度では、イエスの愛を真正面から受けることができない。力を受けても愛を受けなければ、イエスのものとならない。その力はすぐまた失われてしまうのです。
 この女がイエスの前に出てひれ伏した時、イエスの愛が湖のように流れ出ました。彼女の気の毒な病気に対して、彼女の異邦人たる地位に対して、彼女の羞恥と遠慮とに対してイエスの愛と憐憫とはあふれ出て、「息女むすめよ」という温かい呼びかけとともに、彼女の信仰に対する絶賛と豊かな祝福とを賜わったのです。イエスはこのように、人の過失をも祝福に変えて下さる。彼女の胸がどんなにかイエスの愛にふるえつつ、家路に帰ったであろうかが想像せられます。

四 ヤイロの娘


 そこへ会堂司の家から使者が来て、娘はもう息絶えたとの報知がありました。イエスはそれには頓着とんちゃくなく、悲しむヤイロに向かって「心配するな、ただ信じ続けよ」と、静かに慰め給いました。やがて家に着いて見ると、家の女たちややとってきた泣き女が、泣きつ叫びつ騒いでいた。(泣き女というのは、死者のあった家に傭われて慟哭どうこくする職業婦人であって、悲しみをそそり、かつ近隣への死亡通知になったものです)。イエスはこの騒々しい空泣からなきの者どもを激しいけんまくで外に追い出し――(ここに「彼らをみな外に出し」とあるのは、宮きよめの時商人どもを「逐い出し」(一一の一五)とあるのと同じ語で、すこぶる激烈な勢いの言葉であります)――両親並びにペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の愛弟子まなでしだけを連れて病室に進み入り、少女の手を取って「タリタ、クミ」と言い給うた。これはアラミ語ですが、その凜乎りんこたる言葉の余韻がいつまでもペテロの耳底に残って、これを言われた時のイエス様の泰然たる信仰と浸み込むような愛の態度がまざまざと想い出されていたのでしょう。それでペテロはおそらくイエス様の口調でまねてこの言葉を人に語り、それをマルコがここにしるしたのだと思われる。マルコは外国人の読者のために説明をつけ加えて、これは「少女よ、我なんじに言う、起きよ」との意味だと申しております(五の三五―四一)
 イエスの言葉が終わるか終わらざるに、「ただちに」少女は起き上がって歩みだした。その場にいた者どもは「ただちに」いたく驚きました。イエスの言と少女の起きたのと人々の驚いたのとほとんど同時であるくらい、間髪を容れざる電光石火の出来事であった。――(四二節には二つも「ただちに」というマルコ特有の語をくり返している。その場にいた目撃者の口から出た真に迫る描写であります)――驚きのあまり呆然たる親たちに向かって、イエスは「娘に食物をやれ」と命じ給うた。本当に小さいところまで行き届いた、愛のこまやかなイエス様ですねえ!
 福音書には死人の復活の記事が三つある。このヤイロの娘と(マルコ伝のほかに、マタイ九の一八―二六、ルカ八の四九―五六)、ナインの寡婦の子と(ルカ七の一一―一七)、ラザロ(ヨハネ一一の一―四四)と。このうちヤイロの娘の復活は三共観福音書のいずれにも載せられているから、最もよく知られた出来事であったのでしょう。
 ヤイロの娘は本当に死んでいたのだろうか。あるいは仮死の状態であったのかもしれません。しかし真死か仮死か、そういうことについて想像論をしても役に立たない。我々は奇蹟という現象に気を取られてしまって、根本的に大切な霊の教訓を見失うてはならないのです。この記事を静かに読んでみると、始めから終わりまでイエスの態度が実に落ち着いておられることを感ずる。ヤイロの娘の復活の記事によりて私どもの第一に学ぶところは、イエス御自身の信仰の深さであります。
 始めヤイロが来てお願いをした時、イエスはただ「彼とともに行き給うた」のです(五の二四)。娘が陥るのは仮死の状態であるなどということを、予見して行かれたのではありません。生きるか死ぬるか、それさえわからなかったのです。ただ「行ってみよう」と思われたのです。それはヤイロに対するイエスの愛が動いたからです。娘の生死は神の御手に信頼してゆこう、何もあわてることはない。
 途上でヤイロの家から使者が来て、「娘は早や死にたり」と知らせた時も、イエスは少しも動ぜず「おそるな、ただ信ぜよ」と言われた(五の三六)。これは「信じ続けよ」との意味の語です。そう言って彼はヤイロを慰め、その信仰を励まし給うたのです。信仰です。信仰の持続です。結果は最後まで行なってみなければわからない。最後の瞬間まで信仰する者が栄冠を得るのです。
 いよいよヤイロの家に着き、両親の悲しみを見るにつけ、イエスの愛は高潮たかしおのように迫ってきた。イエスに対するヤイロの信仰と哀願ともまた絶頂に達した。その時神に対するイエス御自身の信仰が磐石ばんじゃくの力となって、「汝ら何ぞ騒ぎかつ泣くか、幼児は死にたるにあらず、ねたるなり」との確信に満ちた御言みことばを発せられたのです(五の三九)。このことがイエスの祈り心にはっきり示されたのです。イエスは娘の復活を最初からもくろんで来られたのではありません。彼の行動には、そんな計画的な政略的な痕跡は一つもない。彼は霊によって導かれ、自由に、自然に生き給うたのです。この場合でも、ヤイロとその娘に対する彼の愛と憐憫とがしだいに強くなってきたことと、神に対する彼の信仰が終始一貫して、外部の事情がいかに変わってもいささかも動揺しなかったことがわかる。こうしたイエスの愛と信仰とが最高潮に達した時、その全霊力が「タリタ、クミ」という一語にこめられたのです。
 ヤイロの娘は十二歳であった(五の四二)。十二年といえば、血漏の女が病気を患っていた年数です(五の二五)。ちょうどヤイロの娘が生まれてから今に至るまでの間、血漏の女は病み続けてきたのです。血漏の女にも幸福な少女時代があったでしょうが、人となって後の一生は涙の谷でありました。しかし「その衣にだに触れば」という信仰をもって、絶えずイエスに触れていることによって、彼女の霊魂も精神も身体も救われたのです。皆さんは昨年日本に来たヘレン・ケラー女史の講演を見ましたか。女史は目・耳・口が不自由で、新聞などは彼女を「三重苦の聖女」と呼びました。しかし女史がその信頼するミス・タムスンの指、もしくは唇に軽く手を触れて莞爾かんじとして立つのを見る時、彼女は「三重苦の聖女」ではなくて「三重喜の聖女」でありました。霊も心もからだも輝いて、彼女を障害者と憐れむ者がかえって憐れまれなければならなかった。女史がミス・タムスンに触れているのは一つの象徴シンボルであって、目に見えぬところでヘレンのたましいは常にイエス・キリストに触れていたに違いない。そうでなければ、あんな歓喜の表情はありえない。イエスを信じイエスの生命とつながる者にとりて、からだの故障は有れども無きがごとく、全治したも同然です。
 立場を代えてヤイロの娘について考えれば、彼女はいま死より喚び返されて父母の手に渡されましたが、やがて成人すればあるいは血漏の女のような苦痛の生涯に入らぬとも限らない。肉体の病気の治癒は感謝すべき神の恩恵ですが、それだけのことでは救いはまったくありません。再び病気にかかるに違いない。我らの肉体が永遠に朽ちざるからだに復活する時に及んで、始めて救いは完くなるのです。ヤイロの娘の復活は終極的復活の一つの象徴シンボルです。終わりまで信じ続ける者は、この永遠の救いにあずかる。イエスを愛しイエスを信ずる者の耳には、死ぬるばかりの苦痛迫害の中にありてさえ、「タリタ、クミ」との御声がどこからとなく響いてくる。愛のあふれた、力に満ちたあの御声が。――復活の信仰は人生における勝利の完成です。その声を聴いた以上、もう何もおそれることはない。
 マルコ伝には他の福音書に比較して、教話の記事が少なく、奇蹟の記事が目立って多い。これはマルコ伝の背後にあるペテロという人が学者肌・道徳家肌の人物でなく、きわめて実際的な人であったからでしょう。またマルコ伝が迫害時における信仰の堅立という実際的目的をもって書かれたからでもあろう。教えよりも力、というのがマルコ伝の特徴です。そして譬話が教話の卑近な形式として用いられたごとく、奇蹟は最も卑近な最も端的な譬話の形式でありました。これは目で見る譬です。視覚・聴覚その他人間の一切の感覚・感情、全人格に対して一度に訴えるところの教訓です。奇蹟の現象そのものに執着するのは愚です。奇蹟によって教えようとしておられる真理、奇蹟によって象徴せられている生命を見なければならない。それはイエスの愛です、イエスの信仰です、イエスの力です。また我々がイエスを愛し、信じ、力と頼むべきことです。イエスは譬話の聴衆に向かって、「汝ら聴くことに心せよ、汝らがはかる量りにて量られ、さらに増し加えらるべし」と注意せられましたが(四の二四)、同じように、奇蹟を見る者は「見ることに心せよ」であります。
 種播きの譬話をせられた後の一両日、湖水の彼岸此岸にわたって湖上の突風、ゲラセネの豚、血漏の女、ヤイロの娘と、四つの奇蹟が続けざまになされました。信仰―贖罪―信仰―復活という美しい一連の奇蹟であります。湖上の突風は自然界の災難であり、十二年の血漏は身体の障害です。突風は急性だし、血漏症は慢性です。この世の苦労・苦痛には種々雑多の原因と性質とがあるが、イエスとともに舟にあり、また、イエスの衣に触っていれば、懼れあわてることはありません。イエスは我らの罪をあがない、また我らの肉体を復活せしめ給う救主だからです。
「三つの譬話」の次に「四つの奇蹟」。どうです! 聖書を学ぶのはおもしろいでしょう。しかしただおもしろいだけでなく、これを自分の人生の力としなければなりません。

付 奇蹟論


1 奇蹟の説明について

 奇蹟に対する態度に二通りある。一つは、イエスは神の子だからいかなる奇蹟でもなしうるのだ、奇蹟の説明を試むるなどは冒涜ぼうとくである、という頑固な信仰的態度である。他の一つは、奇蹟の記事に対して科学的説明を下すことを試み、説明のつかないものは事実無根の伝説であるとなす理知的態度である。
 理知的態度による者は、たとえば「けがれし霊にかれた人」を癒したのは、一種の精神病をば精神作用で癒したのであり、重い皮膚病でも中風でもそれが神経系統の疾病しっぺいである時に限って、精神作用によって治癒されたのであると解釈する。その他湖上の突風はちょうど風の静まる時刻であったから静まったのであり、血漏の女はちょうど出血の止まる生理的年齢に達していたから止まったのであり、ヤイロの娘は仮死状態からちょうど目の覚める時期であったから起きて歩んだのであり、五千人の群衆にパンを供したのは各自が携えていたパンを出し合ったのである。というふうに奇蹟を説明し去ろうとするのである。
 私はこの科学的態度を頭から排斥するものではない。自然および人間に関する科学的知識、たとえば生理学、心理学、気象学等が進歩しなかった時代において奇蹟と思われた事件が、科学の進歩によって自然的現象として説明せられることは、単にありうることであるのみならず喜ぶべき進歩である。神は奇蹟を行なう力をもち給うけれども、自然界の法則を全然破壊するごとき方法によってはこれを行ない給わないように見える。神はそんな理不尽な我儘者わがままものではない。かえってあたうだけ自然界の法則の基礎の上に奇蹟を行ない給う。たとえば五つのパンより五千人分のパンをつくり給うことはなされても、石をえてパンをつくることはなし給わない。奇蹟が科学的に説明せられることはむしろ予想せられていることであり、科学の進歩に対する無限の奨励がその中に含まれているものと見なければならない。ただ科学の進歩を信ずる理知主義者が、現在の科学的知識によって理解しえざるのゆえをもって奇蹟的事実を否定するのは、自家撞着じかどうちゃくである。科学は事実を説明するものであって、事実を創造するものではない。現在の知識をもって説明のできない事実は将来の知識をもって説明を努むべきであって、事実そのものを否定することは許されないのである。
 奇蹟の記事を科学的に説明したとて、有難味が減るわけではない。奇蹟は神の真理の象徴シンボル的説明である。問題は現象にあるのではなく、意味にあるのだ。真理を学べばよいのだ。理知主義のなしえることは奇蹟を説明するだけであって、それによって奇蹟の含む真理を学ぶことはできない。奇蹟を説明し去っても、説明者自身は空虚、無力である。その人生に喜びもなく、力もなく、希望もない。それは彼らが信仰の世界を知らぬからである。理知は人生の一部分にすぎない。人間の能力の一部分にすぎない。かつ現在自己のもつ理知は偉大なる学者の理知に比べては小であり、偉大なる現代学者の理知も無限の「理知」そのものに比べては小である。しかるに自己の理知が宇宙人生を解するすべての鍵であるがごとくにうぬぼれて、理知で説明のつかぬことは一切信じないなどと広言をきっている。その余裕のなき心の持ち方は笑止でもあり、哀憐あわれでもある。理知の根源であり、愛の源である神を信じてみよ。その信仰から心の余裕も力もき出でる。理知さえ神から出ているのだ。信仰がなければ奇蹟の真理はわからず、信じさえすればいかなる奇蹟でもありうるのである。

2 奇蹟の条件について

 奇蹟の行なわれるには三つの条件がいる。(1)イエスの愛、(2)人の信仰、並びに(3)神の国の真理を教えるための一般的必要、これである。
 イエスの愛が高まってほとばしり出で、人の側からイエスを見上げたせつなる信仰と出会って、ピタリと焦点が一致した時、イエスの能力ちからは奇蹟的に、すなわち奇蹟となって人に伝わる。イエスに愛が動かなければ能力は出ず、人に信仰がせつでなければイエスから能力を引き出すことができない。両者の合った時に奇蹟は行なわれるのである。人間同士でも一人の友を信じきり、愛しきる時、どんな大きな能力がその中から湧いてくるかしれない。今まで見るを得ざりしものが見られ、聞くを得ざりしものが聞かれるのである。いわんや神の子イエスが我を愛し給い、わがイエスを信じまつる時、荒野に水湧き砂漠に花開くていの奇蹟が我らの人生に起こるのに格別不思議もない。
 しかしイエスが奇蹟を行ない給うたにはいま一つの条件がある。それは神の国の重要な真理を教え給うために、言をもってしては足らざる場合であること、これである。イエスは奇蹟屋ではない。彼は必要な場合にのみ奇蹟を行ない給うたのである。そしてその必要とは神の国のための必要である。我らもこの点に留意して、奇蹟の現象そのものに眩惑げんわくせざるはもちろん、奇蹟の意義をばあまりに私的・個人的に解することは避けねばならない。

3 奇蹟の意義について

 奇蹟は神の国の必要という背景の下に、愛と信仰との結合より湧き出でた神の力である。それは議論ではない、力である。我々の生活をぐんぐん動かす力である。我々はいくら善き言を聴いても、それだけでは何にもならない。いくら物事を説明しても、説明だけでは無力だ。聴いた言が生活の力として動く、それがすなわち奇蹟でないか。信じて神の言を聴く者は奇蹟的の力を得、信仰なくして聞く者は馬の耳に念仏である。かくして我々の日常生活にも奇蹟はしばしば行なわれている。イエスの愛と我らの信仰と、目と目とを合わせて相見る時、失意の境遇にありて希望が湧き出で、懼れと心配にとらわれた心に平安が臨む。血漏の女は今日も癒されつつあり、ヤイロの娘は今日も復活しつつある。奇蹟によらざれば、我らの生活力はないのである。
 我らの周囲を見れば、多くの愛する者が病んでいる。あるいは精神病、あるいは重い皮膚病、結核病、婦人病、その他さまざまの病気に苦しんでいる。病気以外にも、いろいろの人生の苦難に悩んでいる。これを見て我々の愛の心はうずき、奇蹟をもってこれらの病苦を一挙に癒してやることができれば! と思う。十二使徒は悪鬼を逐い出す権を与えられたが(マタイ一〇の一、マルコ六の七、ルカ九の一)、我らには奇蹟を行なう力なきことを嘆ずる。
 しかしながら奇蹟を行なう力は、神の国の必要のためにのみ与えられる。それは一つの賜物たまものであるが、それが一般的に発現するには神の国の経綸より見たる時代的必要がなければならない。異言を語ることも一つの賜物であって、ペンテコステの日以来初代教会において多くその賜物が現われた(使徒行伝二の一―一二、コリント前書一二の一〇、一三の一参照)。しかしかかる特殊の能力の奇蹟的発現は特殊の時代的必要によりたるものであるから、早く「んだ」のである(コリント前書一三の八)。奇蹟的医癒もまた奇蹟的異言に類し、初代教会の時代的要求によりてその能力が一般的に現われたのであるが、神の国の福音のためその必要が減ずるに従って「止んだ」ものと見える。
 しかし今の代にこの種の奇蹟が一般的でなきことを嘆ずるには及ばない。奇蹟的異言や奇蹟的医癒は止み、預言や知識はすたれても、愛は永久に絶えることがない。そして愛のあるところ、常に奇蹟が伴う。今日でも、ある者は信仰により死ぬべき病気より奇蹟的に救われ、ある者は信仰により長き病床にしばられながら霊魂の歓喜に満ちている。彼には彼の奇蹟的恩恵があり、これにはこれの奇蹟的恩恵がある。そしてすべての信ずる者は皆死に勝ちて永遠の希望に生き、最後最大の奇蹟たる復活の日まで、勝利の信仰生活を持続するのである。神の国の福音のために必要なる場合および方法において、神の能力は今日といえども奇蹟的に現われている。信仰をもって見れば、現代には現代的形態において奇蹟の恩恵は充満しているのである。自分がキリストを信じて救われたというそのこと自体がすでに一つの奇蹟的事実ではないか。
[#改ページ]

第六章 地方伝道



一 故郷訪問


 イエスが伝道を始められたころには、その一家はすでに故郷ナザレを引き払ってカペナウムに移住しており、ただイエスの姉妹は縁づいてナザレに住んでいたとみえる(六の三)。イエスはカペナウムを中心としてもよりの村々に神の国の福音をべ伝えておられたのですが(一の三八)、その間にも思いは幾度か故山にせたことでしょう、ヤイロの娘復活の事件の後、機を得てナザレ村を訪問せられました(六の一)。なつかしきふるさとの山河! 母の毎日水くんだ村はずれの井戸も、父とともに安息日ごとに坐した会堂も、昔のままだ。今彼はこの会堂に帰りきたって、新しき教えを宣べ始め給うたのです。胸中の感慨無量なるものがあったに相違ありません。
 しかるに変わっていなかったものは会堂の建物だけではなかった。村の人々がイエス様を迎えた心持も昔のままでありました。イエスのなした奇蹟の評判はこの村にも届いていたし、今現に親しく彼の演説を聞いてその知恵と力とに多くの者は驚いたのです。しかしその驚きたるや、天来の霊力に対する信仰の驚嘆ではなく、むしろこの世的の疑問でありました。「あのイエスどんが弟子を連れたりして、一廉いっかど先生ラビになって帰ってきた。あの男も偉くなったものだなあ」というにすぎなかったのです。彼らは聖霊鳩のごとくその中に入って新しく生まれたイエス様を知らず、この村で指物大工さしものだいくをやっていた昔のままのイエスが都会に出て偉くなったものとしてお迎えした。だから「この人はこれらのことをいずこより得しぞ」と驚嘆しても、彼の福音を信ぜず、ついにつまずいてしまったのです(六の二―三)。それは、後にイエスがエルサレムの宮潔めをなされた時、祭司長、学者、長老たちが彼に向かって「何の権威をもてこれらのことをなすか」と言ったのと、共通なこの世的の思いであり、不信仰の驚きでありました(一一の二七、二八)
 自分が信仰に入った時、親族や郷里に対する燃えるような伝道心をいだくことは、我々も経験する事実であります。いわんやイエス様はどれだけの愛と期待とをもってナザレの村を訪れ給うたことでしょうか。しかるに村人は此世的な外面的な歓迎をもって集まっては来たが、霊的な内心の信仰をもって彼を受けなかった。この不信仰のともがらに対しては、さすがのイエス様も何の奇蹟をもなすことができませんでした。そして「預言者は自分の郷里、自分の親戚、自分の家族以外の所に行けば、どこででも尊敬せられるのだ」と捨言葉を残され、彼らの不信仰を怪しみつつ郷里の村を去り給うたのです(六の四―六)
「彼らの不信仰によりて、そこにては多くの能力ある業をなし給わざりき」と、マタイ伝にはあるが(一三の五八)、マルコ伝には、「何の能力ある業を行ない給うことあたわず」(六の五)とあります。ナザレでは何の奇蹟をもなし給わなかったが、それはなすことができなかったのであるという。イエス様にでも奇蹟のできなかったことがあるのです。
 また「彼らの信仰なきを怪しみ給えり」とある(六の六)。すなわちイエス様にでも不思議に思うこと、解しかねたことがあったのです。
 そして結局イエス様は郷里伝道に失敗せられたのでした。
 この記事はイエスの価値ねうち減殺げんさいするものではありません。かえって我々に対する大なる慰藉いしゃと希望の源泉であります。家族、親戚、または郷里に対する伝道は最も困難な伝道です。それは彼らが地上の関係においてのみ我々を見やすく、霊によりて新たに生まれた我々を知らぬからです。しかしイエス様でさえそうであったのだから、私どもの信仰が身内みうちの者から容易に受けられなくても、失望するには及びません。イエスの足跡を踏み、棄てられることによって救うのが、私どもの親戚伝道・郷里伝道であります。
 それにしても、不信仰につける薬はない。不信仰をもって対する時、何の奇蹟も行なわれず、何の能力も、恩恵も加わりません。これに反して砕けたるたましいをもって信ずる時には、奇蹟的恩恵は油然ゆうぜんとしてそそがれるのです。

二 弟子の派遣


 ナザレの村を退いたイエス様は他の村々を巡歴して教えられたが、伝道の仕事もだんだんと忙しくなったため、かつは弟子たちの訓練のため、十二弟子を地方伝道に派遣せられることになりました(六の七)。それについては、
 1 まず伝道に出てなすべきことを教えられました。すなわち悔い改めを宣べ伝えることと、悪鬼を逐い出し病者を医療する方法とを授けられたのです(六の七、一二、一三)。「悔い改め」を宣べ伝えることは、神の国の福音を聴かせることの必要な準備でありまして、その意味において弟子たちの地方伝道はイエス御自身の伝道の適切な「前座ぜんざ」でありました。また悪鬼の霊を制する力を授け、医療の方法を教えられたのは、イエスの伝道が民衆に対する憐憫に満ちたものであったからです。各種の技術的能力は悩める者を助けるために用いられる時は、伝道の一部となる。なぜならば、伝道は愛だからです。人間はたましいとからだと別々のものではありません。イエスは全体としての人間を愛せられました。医療看護の心得ある者は医療看護をもって、経済や法律や技術の心得ある者はそれぞれの知識をもって、歌のうたえる者は歌一つうたい、絵のかける者は絵一枚描いて、人を助けることができるのです。だから我らは善き能力を得るよう、励み求めねばならない。「汝らすぐれたる賜物を慕え」であります(コリント前書一二の三一)。イエス様が弟子を地方伝道に送り出されるに当たって、悔い改めの教えの言とともに医療の技術を授けられたのは、まことに親切な実際的知恵でありました。元来イエス御自身の伝道がいつもそれであったのです。
 2 それから、十二人の弟子を二人ずつ組にして派遣せられたのです(六の七)。これは互いに助け合うてチーム・ワークの善くできるよう、気心の合った者を組み合わせ給うたのでしょう。それに、初めてイエスの膝下を離れて未熟な若者が地方伝道に出るのでありますから、一人旅でなく二人ずつ組にして派遣せられたことにも、イエス様の深い愛の配慮がこもっているのです。
 3 次には旅装についての注意を与えられました。「杖一つのほかは何をも持たず、かてふくろも、帯の中に銭をも持たず、ただ草鞋わらじばかりをはきて、二つの下衣したぎをも着ざることを命じ給えり」とあります(六の八、九)。「杖」は身をいこわせるためまた野獣を追うためで、旅人の必携品でありました。「糧」は食糧、「嚢」は食糧その他雑品を入れたもので、いわばかばんとかリュックサックの類。「帯」とあるのは胴巻で、中に財布を入れた。「草鞋」はサンダルで、平民のはく簡便なもの。「下衣」は肌衣ではなく、ワイシャツのようなものです。ユダヤ人はその上に長い上衣を羽織りました。今日でもワイシャツだけで道中している人がいるが、そのように上衣も羽織らず、かばんもさげず、ワイシャツにサンダル姿で、杖だけ持って出かけよ。今日でいえば、汽車賃だけ持って出かけよとのことです。要するに旅装はできるだけ身軽に、簡単にせよと言い渡されたのです。旅装が簡単でなければ、行動の自由の敏速をどれだけ妨げられるかわからない。福音の教えが自由であるごとく、福音を伝える者の行動も自由でなければなりません。身軽にして、できるだけ多くの村々に福音を伝え回らねばならない。(マタイ伝とマルコ伝とでは、旅装の注意が多少異なって記されている。たとえばマルコ伝には「杖一つのほかは何も持たず」とあるが、マタイ伝には「杖も持つな」とある(一〇の一〇)。マルコには「二枚の下衣をも着るな」とあり、マタイには「二枚の下衣も持つな」とある。かかる相違は記事の真実性を疑わせるものではなく、かえって事実を裏書するものです。もしも数人による報告が微細の点に至るまで一致していたなら、かえってそれは事実無根の作り話だと疑ってさしつかえありません。弟子たちのうちある者は「杖だけ持て」と聞いたし、またある者は「杖も持つな」と言われたと思った。あるいはイエスがある弟子には「杖は持て」と言われ、他の弟子には「杖もいらない」と言われたのかもしれない。いずれにしても旅装は身軽簡単であるべしとの趣旨においては変わりがないのです。福音書の記事に一致しない点があるからといって内容の真実性を疑ったり、また「銭も持つな」とあるからと言って貨幣経済の今日当座の汽車賃も持たずに飛び出したりするのはいずれも聖書の読み違いです。聖書はその生きた趣旨精神を読まねばなりません)
 4 最後に宿泊の注意を与えられました。「どこでも迎えてくれる人があってその家に入らば、遠慮なくそこに滞在せよ。受けてくれなければ未練なく引き揚げよ」(六の一〇、一一)。あたかも最近イエス御自身がナザレ村のちりを足の裏から払ってこられたように。伝道に失敗しても決して落胆するな、という温かい思いやりが言外にあふれていることを感じます。
 こうして旅装のこと宿泊のことなど微細な点に至るまで、心を配って注意を与えられたのです。このイエスの行き届いた愛に守られて、弟子たちは勇んで出てゆき、悔い改むべきことを宣べ伝え、また病む者を癒しました(六の一二、一三)
 このためにイエスの名はますますガリラヤの各地方にひろがり、国守ヘロデ王の耳にも達しました。当時世間ではイエスの能力を見て、これはヘロデ王が首斬った洗礼者ヨハネが甦ったのだという者があり、その他「エリヤだ[#「エリヤだ」は底本では「エリアだ」]」とか、「預言者の一人だ」とか、世評紛々としてたいへんな評判であった。しかしヘロデ王は「これはわが首斬りしヨハネだ、彼が甦ったのに違いない」と考えました(六の一四―一六)(一四節「ヘロデ王聞きて言う」とあるは、「ヘロデ王聞きたり。人々言う」という読み方に従う)

三 洗礼者の死


 そもそもヘロデ王が洗礼者ヨハネの首を斬った次第はこうです――
 このヘロデ王というのはヘロデ大王の子ヘロデ・アンチパスのことで、当時ガリラヤおよびペレヤの国守テトラルクであり、ガリラヤ湖の西岸にチベリアスという町を建ててこれを居城とし、アラビヤ王ペトレアのむすめアレタスを妻としていた。ヘロデ・アンチパスには多くの異母兄弟があったが、そのうちの一人ピリポの妻にヘロデヤという美人があった。ヘロデヤはヘロデ大王の子アリストブルスの娘で、すなわちヘロデ・アンチパスや、自分の夫ピリポのめいにあたったのです。ヘロデヤは祖父ヘロデ大王の血をうけた妖婦で、また残忍な性質の女であったが、夫ピリポは手腕能力に乏しく、国守の地位をも与えられなかったがため――(ルカ伝三の一にあるイツリヤおよびテラコニテ地方の国守たるピリポは、やはりヘロデ大王の子の一人であるが、ヘロデヤの夫たるピリポとは別人です。すなわち両ピリポは異母兄弟の間柄であった)――ヘロデヤは夫を捨てて勢力家たるヘロデ・アンチパスに心を寄せました。一方ヘロデ・アンチパスもまた淫乱にして残酷なる人物であったから、ヘロデヤの妖婉ようえんに迷いてその妻アレタスを棄てました。かくてヘロデ・アンチパスは妻を棄て、ヘロデヤは夫を棄てて、両人が結婚したのです。
 この国守の不倫に対して「ノー!」と言いえる人があったのは、ガリラヤの名誉であり、その人自身の不幸でありました。かの駱駝らくだの毛皮を衣、いなごと野蜜を食とし、屹然きつぜんとして道徳の権威と罪の悔い改めとを宣べ伝えていた洗礼者ヨハネがその人であったのです。彼の声を聞いてヘロデとヘロデヤはかつ震いかつ怒り、彼を捕えてマケラスの獄に投じました。ことにヘロデヤはいたくヨハネを恨んでこれを殺したいと思ったが、ヘロデ王は「ヨハネの義にして聖なる人たるを知りてこれを畏れ」たがゆえに、部下に命じて彼を保護せしめ、かつ親しくその教えを聴聞し、大いに悩みつつもなお喜んで聴きました(六の一七―二〇)。すなわちその残忍性において妖婦は暴君に勝ったのです。そのうちヘロデヤのために好機到来、ヘロデ王の誕生祝いの座興として己の連れ子たる少女を踊らせ、それに対する褒美として洗礼者の首を求めさせました。この求めを聞いてヘロデ王はいたく憂いましたが、体面上拒否するを欲せず、すぐに衛兵を遣わしてヨハネの首を斬らせ、これを盆にのせて少女に与え、少女はこれを母に与えたのです(六の二一―二九)。ああ痛ましいかな、道徳的腐敗の濁流の中にいわおのごとくに屹立して、「まむしすえよ、誰が汝らに、来たらんとする御怒りを避くべきことを示したるぞ。さらば悔い改めにふさわしきを結べ」(マタイ三の七、八)と叫びし預言者の声は忽焉こつえんとして絶え、「女の産みたる者のうち、ヨハネより大なる者はなし」(ルカ七の二八)とまで激賞せられし洗礼者の首は、宴席の座興として妖婦の盆に載せられたのです。なんたることであるか!
 当時カペナウムを中心とする北部ガリラヤでは、イエスの伝道と奇蹟とはますます人々の注意をひいていたが、同じころチベリアスを中心とする中部ガリラヤではヘロデ王が洗礼者の首を斬ったというこの大事件が起こったのです。弟子たちの地方伝道によってイエスのうわさはヘロデの耳に入り、ヘロデのなしたことはイエスの耳に届いた。ヘロデ王がヨハネの首を斬ったということは、弟子たちのお土産みやげ話の一つであったかもしれません。
 ヘロデ王はイエスのことを聞いて、これは自分が首斬ったヨハネの再来だと思って怖れました。彼にも良心の呵責かしゃくがいくらかあったのです。しかし彼にあっては恐怖心よりも好奇心の方が強くありました。彼はイエスを見たいものだと求めました(ルカ九の九参照)。ヘロデの良心はこの程度にすぎなかった。彼は洗礼者ヨハネに対したと同様の態度をもって、イエスに対そうとしたのです。本当に「政治家」的な浅薄さです。
 これをダビデ王の場合と比較してごらんなさい。ダビデにもヘロデと共通な人間的弱点がありました。彼はすぐれたる信仰と正義感とをもちながら、自己の部下ウリヤからその妻バテシバを奪い、それに関連してウリヤを殺したのです。一方ヘロデ王にもまた、ただ淫乱残虐の性格だけではなく、ヨハネを義にして聖なる人として貴ぶだけの良心はあったのでありますから、ヘロデ王とダビデ王とは紙一枚の差にすぎません。それにもかかわらずダビデは信仰の典型としてイエス・キリストの祖と仰がれるに反し、ヘロデは不信仰の代表としてイエスから「狐」と軽蔑せられたのは(ルカ一三の三二)、何によるのであろうか。それは、ダビデは砕けたるたましいであり、ヘロデは砕けざるたましいであったからのことです。種播たねまきの譬話たとえばなしをもってすれば、ダビデの心は土深き良き地であり、ヘロデの心は土薄き岩地です。ダビデが預言者ナタンによりて自己の罪を指摘せられた時、彼の柔らかなたましいは悔いくずおれて、神の御前におのが罪を言い現わしました。彼は国王たる威厳も体面も全く忘れて、己が罪を手放しで泣いたのです。「ダビデ、ナタンにいう、われエホバに罪を犯したり」と(サムエル後書一二の一三)。神に対する罪の自認、これがダビデをかせた秘密でありました。
 これに反してヘロデは洗礼者ヨハネによりて罪を指摘せられた時、多少おそれはしたけれども、結局良心よりも体面を重んじました。彼は自分の罪を責めたヨハネの教えをも聴くといういわゆる政治家的な腹の大きいところを見せたにとどまり、神の御前に己がたましいを砕いて自分の罪を悔い改めることをなさなかったのです。
 罪を悔い改めざればヘロデとなり、悔い改むる時はダビデとなる。差は一歩にして、末は救いの歓喜と滅亡の恐怖とにわかれる。真に怖るべきことであります。キリストしゃは他の人々に比し決して生まれながらの道徳堅固な者ではありません。普通の世人と同じように、時にはそれ以上にすら、罪の捕虜となった者です。ただ彼のたましいはそのために全く砕け、神の聖前に己が罪を悔いました。それによって神の憐憫をこうむり、自由の霊を賜わって救われた者であるにすぎないのです。人のたましいをそのように砕くのが洗礼者ヨハネのおもな使命であり、砕かれしたましいに自由を与えて活かせて下さるのがイエスの主たる使命でありました。
 ヨハネの使命はイエスの先駆者たるにありしごとく、その運命は「後より来たる者」の運命の予表であった。イエスは彼の死を聞いて暗澹あんたんたる思いとともに、自己の使命に対するいっそうの愛着と熱心とを燃やされたに違いありません。
 イエスが伝道を開始せられたのは、ヨハネの投獄を見た直後のことでありました(一の一四)。そして彼はヨハネの活動したペレヤ地方並びにヘロデの居城たるチベリアス付近を避けて、ガリラヤ湖の北西隅の一角に福音を宣べ伝えられたのです。しかしヨハネが正義を語り、イエスが正義を語られなかったのではない。イエスの言もまた正義でありたればこそ、彼はヘロデ王を避けねばならなかったのです。それはヘロデがヨハネを捕えしごとくに、イエスをも捕える危険があったからです(ルカ一三の三一)。イエスは彼を警戒しつつ、「時」の来るまで神の国の福音を確実に宣べ続けなければなりません。この態度を卑怯ということはできない。これは戦いの知恵です。イエスの「時」の来るのも遠くはないのだ。そしてそれの来た時、イエスの運命は洗礼者よりもはるかに悲惨であり、彼の処刑は洗礼者よりもはるかに苛酷であり、その処刑の命令はヘロデよりもはるかに強大なる権力から出たのです。今はヘロデ風情ふぜいの者のやいばに消えることは避けねばならない。――後にローマの総督ピラトがイエスを裁判した時、ヘロデもたまたまガリラヤから出てきてエルサレムに滞在中であったため、久しく見たいと求めていたイエスを見る機会を得た。彼は自分の好奇心を満足させた上で、兵卒と共にイエスをあなど嘲弄ちょうろうしたのです(ルカ二三の六―一二)。実に卑しむべきやつだ。

四 五千人のパン


 十二人の弟子たちは地方伝道から帰ってイエスに復命した。ある者は成功を得意になって報告しただろう。ある者は失敗を悲観してお話しただろう。イエスは得意の弟子を甘やかすことなく、失意の弟子を悲しませることなく、すべてを愛しいたわり、「汝ら疲れたであろう。静かなる所へ来て少し休息せよ」と言われ、みずから先に立って彼らをば寂しき所に案内せられたのです(六の三〇―三二)
 しかるにその場所を知った群衆が、先まわりして大勢そこに集まった。イエスおよび弟子たちの休養の意図は全然破壊されてしまったのです。しかし、やしなう者なき羊のようなこの群衆の姿! 知恵の指導と平和の慰藉とを欠き、ただ雑然混然として何か光を、力を、求めている。彼らは求むべき物をすら知らずして、求めているのだ。イエスはこれを見てあわれみ、休息を忘れて、多くのことを教え始め給うた。そして日の西山に傾くを知り給わなかったのです。そこで弟子たちが注意申し上げて、「ここは寂しき所、はや時もおそし。人々を去らしめ、周囲まわりの里また村にきて、己がために食物を買わせ給え」と言いました。それに対してイエスはあっさりと「汝ら食物を与えよ」と、答え給うた。それほどに群衆に対する教話に熱中しておられたのです。弟子は言う、「それでは二百デナリもパンを買ってきましょうか」と。――(一デナリは当時労働者一日分の労銀で、英貨八ペンス半ないし七ペンス半、邦貨では平価三十四銭ないし三十銭くらいにあたる。二百デナリは英貨約七ポンド、邦貨では平価七十円ぐらい。二百デナリは五千人分ぐらいのパンを買いうる大金でした)――イエスは答えて言われた、「そこにパン幾つあるか、往きて見よ」と(六の三三―三八)
 牧う者なき羊のごとき群衆はイエスの教えに熱心に耳を傾けている。夕方になったとてこれを解散させることは、イエスの愛が許さない。
 さらばとて伝道旅行から帰ったばかりの疲労せる弟子たちをば、遠く離れた村里まで五千人分ものパンを買いにやらせるには忍びない。
 群衆に対する愛と弟子たちに対する愛とのきわまったところ、その解決は五千人のパンの大奇蹟となって現われたのです。たかが夕食の饗応きょうおうというなかれ。それはイエスのこんこんたる愛の湧出でありました。夕食のパンという小さい事柄に関して湧き出たのでありますが、はからざる大湖をたたえたのであります。もとよりこれはイエス様の企んだ計画ではありません。事件の推移中自然に泉み出た彼の愛の結果です。愛が力をもって行為する時、普通ではありえざることが起こり、普通では解かれざることが解決せられる。それが奇蹟です。
 イエスは群衆に向かって、組々となって青草の上に坐するよう命じ給うた。人々はあるいは百人、あるいは五十人、うねのごとくに並び坐しました。弟子たちの持ち出した食糧は五つのパンと二つの魚とでありましたが、イエスはこれを手に取り、食事の際家長のなす作法のとおり、天を仰いで祝福の祈りをなしてからこれをき、順次分け与え給うた。十二弟子は立ってかいがいしく給仕しました。そしてすべての人が食い飽きた後、パンの余り、魚の残りを集めたのに、十二の籠に満ちるほどあった。食したる人数は男子だけ五千人というから、女子供をも加えればさらに多数でありました(六の三九―四四)
 イエスは五つのパン、二つの魚を物質的にふやして、大衆に食を供せられたのであろうか。あるいはイエス御一行の携えていたパンと魚とを率先して分配し給うたので、群衆も各自携帯していた食糧を差し出し、イエスがこれを一同に分配し給うたのであろうか。これは問題の重要点ではありません。物理的にせよ社会的にせよ、いずれにしてもその結果は奇蹟ではないか。
 問題はここに行なわれた奇蹟の意味であります。季節は春、時は夕、丘は青草の香高く、坐するほとりにすみれ蒲公英たんぽぽも咲いていたであろう。脚下には夕暮れのガリラヤ湖が、さざなみも立てずして鏡よりも静かである。群衆が五十人、百人と組になって、畝のごとくに並び坐している様は、かつて「神の国は、ある人、種を地に播くがごとし」と語られた種播きの譬話を、目の前に見る心地がする。イエス様が家長として、祝してパンを割きて分け与え給い、弟子たちは忠実に立ち働き、群衆の間には秩序と平和とが支配している。全体が愛の春風につつまれて、――ああこれは神の国の姿の予表ではないか。イエス並びに弟子たちの伝道の目的は、ここに象徴せられたような神の国を地上に建てることではないか。もしもこの人々が悔い改めて福音を信じ、霊によって新たに生まれさえすれば、神の国というのは今目の前に展開している光景のような姿であろう!
 群衆の集合はイエス御一行から休息を奪いましたが、はからずもそれから五千人のパンの大奇蹟を導き出して、伝道の目的たる神の国の型を実見せしめ、休息以上の休養を弟子たちに与え給うたのであります。これが弟子たちを地方伝道に派遣せられたことの終幕フィナーレでありました。前にもイエスは弟子たちを伴って休養のためにゲラセネの地に渡り給い、そこでレギヨン氏を救って、はからずも十字架による罪のあがないの真理を予見せしめ給うたのですが、今度も同じような事件の成行きでありました。脈々として全体の経過を一貫するものはイエスの愛であります。かかるお方を師として、これに付き随う者たちは本当に幸せです。
[#改ページ]

第七章 ゲネサレ行



一 丘のいのり


1 いのり

 五千人の夕食は終わりました。イエスはただちに弟子たちに向かって、先にベッサイダにっているよう命じ給うて、御自分は一人で群衆を返されました。もちろん弟子たちも居残ってお手伝いをしたいと申し上げたでありましょうが、無理やり彼らを舟に乗らせて出立させ給うたのです(六の四五)。弟子を去らせ、群衆を返し、ただ一人になりたいと思われたのです。そこにはもはや弟子の疲労をいたわる思いやりでもなく、また群衆のやしなう者なき羊のごとき状態をあわれむ同情でもなく、むしろ憤りと悲しみとに満ちたきびしさがイエスの態度に感ぜられます。
 一人になったイエス様は小高い丘に上って祈り給いました(六の四六)。何を祈られたか、記されてありません。後には変貌へんぼうの山にも(九の二)、ゲッセマネの園にも(一四の三三)ひそかなる祈りの場に三人の愛弟子を伴い給いましたが、今はまだそのような信頼をかけるべき者は一人もいないのです。これはむしろ伝道を開始せられる前、荒野で一人サタンに試みられながら祈り給うたに比すべき場合でありました。その祈りの内容も荒野の祈りのくり返しもしくは継続であったであろうと、想像せられます。
 今しがたまで目前に展開していた五千人の夕食の光景は、さながら神の国の型でありました。イエスが伝道の目的とせられるところは、このような社会を地上に建てることでありました。しかり、もしこの群衆が悔い改めて彼の福音を信じ、霊によって新たに生まれさえすれば、神の国は現に今目の前に成っていたのです。
 しかしこの群衆はなんという人々であろう。自分があれほど多くのことを教えたのに、彼らはその教えには心を留めず、「遅くなったから、夕食でも食わせてやれ」という話から始まったにすぎないパンの奇蹟に驚いて、自分をとらえて王としようなどと考えだしている(ヨハネ六の一五)。彼らは霊の新生に心を向けず、パンの飽食だけを求めているのだ。自分を霊の救主すくいぬしとして信ぜず、政治的の王として擁立しようとするのだ。なんというへだたりであろう。なんという無理解であろう。彼らには自分の心が少しも通じていないのだ。彼らには悔い改めの心が微塵みじんも動いていないのだ。
 かつて荒野にて四十日間祈った時、サタンは何といって自分を試みたか。「汝もし神の子ならば、命じてこれらの石をパンとならせよ」。その時またサタンは世のもろもろの国とその栄華とを自分に見せて、もし平伏ひれふして彼を拝するならば、これらのものを皆自分に与える、と言った。しかし自分は聖書の言によってようやく彼の誘惑を退け、心の悔い改めと霊の新生による神の国の福音をべ伝える道に進み入ったのであった(マタイ四の一―一一)。今この群衆を見よ、彼らは我にパンを求める、そして我を国王に推戴すいたいしようとする。退け、サタン! 汝は牧う者なき羊のごとき群衆の中に割り込み、自分の彼らに対する愛と憐憫とを利用して、我をば汝の捕虜となそうとしている。我は汝の執拗しつようにして巧妙なる計略を見破ったぞ。帰りゆけ、汝ら不信仰の群衆よ。サタンは汝らをもって我を誘っているのだ。去れ去れ、汝ら足手まといなる愚鈍の弟子らよ。汝らは我とサタンとの遭遇戦が始まったのに気づきさえしないのだ。汝らすべて去れ、そして我をして一人神とともにおらしめよ。
 我はわが道をあゆもう。しかしそれはいかなる道であろうか。神の国の嘉信を宣べ伝えても、人々は容易にこれを受けない。人々はわが能力と奇蹟の意味を全然見当はずれに解釈して、此世的なる、浅薄なる誤謬ごびゅうの期待をしか我に対してもたない。いかに人々の心のかたくななる! この頑なる人々の心の殻を打ち破って、柔和な、砕けた霊をもって神を信ずる者となすにはどうすればよいか。自分が王となる? もちろんそんなことではない。真理を教える? 教えを説くだけで人々が悔い改めるなら、神の国の建設はこんなに困難ではないはずだ。奇蹟? 今しがたパンの大奇蹟を示した結果、かえって彼らの心が鈍くなったではないか。人々の心をかくも頑固にして、悔い改めと新生をはばみ、神の国に入ることを妨げているものは彼サタンだ。人を救うためには、サタンの脳天を打ち砕かなければならない。戦いだ! しかり、自分は彼と戦うのだ、一人で彼と格闘するのだ。
 形式主義者たるパリサイ人との戦いはこれからますます激しくなるだろう。此世的なるヘロデ党との戦いもまた。ヘロデは近ごろ洗礼者ヨハネの首をねたというではないか。彼は今後ますます監視を厳重にして自分を捕えようとするであろう。いわんや群衆の間に自分を王として擁立しようなどという輿論よろんが起これば、ヘロデはいっそう自分を敵視するに違いない。
 わが行く道はただ一人孤独の道である。それが敵対と無理解とに囲繞いじょうせられて、人に棄てられ殺される道であるとしても、よろしい、我は神の我に命じ給うた使命をば、神の定め給うた方法によって果たそう。願わくは父なる神よ、我に汝の知恵と力とを賜いて、汝の道を歩ましめ給え――
 青草の丘にひろげられた神の国の予表は一瞬に幻と消えて、たちまちサタンとの戦場となり、再転して父なる神への祈りの場所となりました。イエスは夕方過ぎ群衆を返されて後、暁の四時ごろまで徹宵てっしょう祈り給うたのであります。

2 逆風

 イエスが山で祈っておられる間に、弟子たちはベッサイダに向かって漕ぎ出していました。ベッサイダというのはガリラヤ湖の北端、ヨルダン川が流れ込む所の東側に近き小邑であって、国守テトラルクピリポの領内であります。すなわちヘロデの領地たるガリラヤを少しく外に出た地であります。イエスが弟子たちを携えて、人を避け、寂しき所に退き給うたというのは、このベッサイダを目的地とせられたのですが(ルカ九の一〇)、途中で待ち受けた群衆のために、青草の丘で教えを説きかつ夕食を与えられたのでありました。
 しかるに湖上は逆風で、弟子たちは徹宵力漕しましたが、東が白んでも舟ははかばかしく進まない。暁の薄明かりの中にこの様子を見られたイエス様は、急いで丘を馳せ下り、浪の穂を踏んで弟子たちの舟に近づき、勢い余って往き過ぎようとせられました。弟子たちはこれを見て、変化へんげの者だと思って悲鳴をあげた。イエスはただちに「心安かれ、我なり、おそるな」と言われて、舟に乗り込まれたところ風はやみました。弟子たちは舌を巻いて驚いたのです。パンの大奇蹟を見た直後のことであるから、イエスが浪の上を歩かれたとて「おばけだ」などと驚いたのは面目ない次第であるが、あまりにも前の大奇蹟が自然に行なわれ、しかも自分らみずから奇蹟中の人物であったため、かえって心が鈍くなって、イエス様の超自然力を理解しえなかったのであると、これは後日になってペテロの恥ずかしい述懐でありました(六の四七―五二)
 イエスは丘の上に一人サタンと戦いつつ神に祈り給い、弟子たちは湖水の上に逆風と戦って舟を漕ぎわずらう。人生難航、国家社会また難航である。弟子たちは風波にまれながら漕ぐけれども、自分の舟を進ませることもできず、世界・国家を進ませることもできません。しかしイエスの戦いはすでに終わり、彼は決然として弟子たち救援のために急ぎきたり給うのです。彼の心は神の国実現の目的に向かって堅く定まり、その方策もいまや明確であります。青草の丘の上のいのりの後、彼の目はパリサイ人の反対を越え、ヘロデ王の悪意を越えて、すでに髑髏ゴルゴタの丘を予感したでしょう。勝利はいのりの中に得られました。彼の足は小鹿のように速い。そして弟子たちのたどたどしい歩みよりも、常に先んじ給います。しかし歩みののろい弟子たちの叫びを聞いて御自身の歩調をゆるめ、弟子たちの舟に乗り込んで、これを教え導き給うたのです。愚鈍なる弟子たちを訓練して有用なる福音の使徒となすために、イエスはどれだけの愛と忍耐とを注ぎ給うたことでしょう。
 わが愛する者の声きこゆ。見よ、山をとび、岡を躍り越えてきたる。わが愛する者は鹿のごとくまた小鹿のごとし。(雅歌二の八、九)
 東のしらむころ、夜のまだ明けきらぬうちに、イエスは彼を信ずる者の救援に急いできたり給います。あるいは長き病の床に、あるいは行きなやむ人生の旅路に。そしてまた歴史の終末においてイエスは人類を救うべく、神の右より駆け下り、岡をとび、なみを踏んで再臨し給うのです。我々はそれを信じて待ち望みます。その時いかに我々の心はみ、目は疲れていようとも、イエスの御姿を見て「お化だ!」などと叫ぶことなきよう、平生深くイエスに親しまなければなりません。ああ、人生の夜が明けてイエスの救いをわがそばに見奉る時はどんなに幸せでしょう。また人類の夜があけてこの地球とこの国土とに神の国が成就する時は、いかに幸せでありましょう。

3 到着

 舟はゲネサレの地に着いて、イエス御一行はそこに上陸せられました(六の五三)。ゲネサレはカペナウムより南方、ヘロデ王の居城たるチベリアスに続く細長き沃野よくやで、穀産豊かに、人口稠密ちゅうみつでありました。しかるにベッサイダはカペナウムの東北方でありますから、舟は最初の目的地より全く反対の方向に到着したのです。弟子たちは命ぜられたとおりにベッサイダの方向に漕ぎ出したのですが、逆風のため進めなかったのです。しかし今はイエスが舟に来たり給い、風が静まったのですから、ベッサイダに向かうことも困難ではなかったはずです。しかるに反対の方角のゲネサレに着いたのですから、これはイエスの御意思によってベッサイダ行の予定をやめて、ゲネサレに来られたものと思われます。逆風が弟子たちの舟をはばんでいる間に、丘で祈り給うたイエス様の心はゲネサレ行に決せられたのです。もはや僻遠のベッサイダに逃避すべきではない。人々とヘロデとを避け、寂しき所にて神とともりたいとの目的は、丘のいのりで達せられたのです。今は村落多く人口稠密なゲネサレ地方に進出して、積極的に神の国の福音を説かねばなりません。ヘロデ王の居城に近いとて、今はこれを避くべきではない。こうしたイエスの決断によって、舟の針路は変更せられたのだと思われる。
 前にゲラセネ人の地に行かれた時には、湖上の突風は追いすがる群衆の舟をはばんで、イエス御一行の舟だけをめざす異郷の岸に届けたのですが(四の三五―四一)、今度は反対に弟子たちの舟が最初の予定地に向かうことを妨げて、ガリラヤの中心部にイエス御一行を送りました。
 風は己が好むところに吹く、汝その声を聞けどもいずこより来たりいずこに往くかを知らず、すべて霊によりて生まるる者もかくのごとし。(ヨハネ三の八)
 進むも退くも風のままに、すなわち神の霊の示すがままに進退せられたイエスの行動には、天来の自然さがありました。神の意思に従順である者が、最大の自由の所有者です。
 ゲネサレの人々はすぐにイエスを認めて、あまねくあたりを馳せまわり、そのいますと聞く所々に病人を連れきたって医癒いやしを求めました。ゲネサレ一帯はこのために湧き立ちました。イエスは相当長くこの地方にとどまられ、町々村々を巡回して福音を説き、病者をいやされたのです(六の五四―五六)

二 食物論争


― 洗わぬ手

 イエスのめざましき活動は、はたしてただちに敵の注意をひきました。すなわちパリサイ人、ことに都エルサレムから出張して来た専門の学者たちがイエスの許に集まって欠点探あらさがしを始め、イエスの弟子たちの中に手を洗わないで食事する者のあったのを見つけて、「何ゆえ汝の弟子たちは古の人の言い伝えに従いて歩まず、きよからぬ手にて食事するか」と詰問したのです(七の一―五)
「潔からぬ手」というのは、はらい潔めの水をかけないままの素手すでということです。塵のついた手を洗わない、という衛生上の事柄ではありません。潔めの儀式をしない、という宗教上の問題です。あたかも日本の神社に詣ずる人が手水鉢ちょうずばちで手を洗い、口をそそぐがごとくに、ユダヤ人は食事をする前には、手に水をかけて宗教的な潔めをしました。その他多数人の集合する市場から帰ってきては全身を水で洗わなければ食事しないとか、また市場から買ってきた食器類にも祓い潔めの水をかけてからでなければ食事に用いないとか、食事および食物に関する多くの言い伝えを守っていました。これは異邦人をもって罪人だとなし、異邦人と接触することによって自分の手やからだや器具類も汚れる、そしてその汚れた手や器具でさわれば食物が汚れ、汚れた食物を腹の中に入れるとその人が汚される、というふうに考えたからです。
「言い伝え」(ハラカー Halachah)というのは、モーセの律法(トーラー Torah)の解釈や細則をば古来の教法師ラビたちが決定して言い伝えてきたものです。トーラーが成文法典であるに対し、ハラカーは不文律でいわば判例集のごときものでありました。そしてハラカーはトーラー同様に、否トーラー以上にさえ重要なものとなされたのです。現代の法律家が判例集を重んずるようなものです。今パリサイ人の学者たちは、このハラカー違反をもってイエスをなじりました。もっともイエス御自身が手を洗わなかったのではありません。また弟子が全部手を洗わなかったのでもない。ただその中のある者が手を洗わなかったのを、パリサイ人がとがめたのです。イエスは、前にも述べましたが、日常の生活習慣についてしいて異を立てられるようなことなく、また生活習慣の変更などを弟子に教えられたのではありません(二の一八、二四参照)。しかし弟子たちが旧慣に対して自由の行動を取ったのを人が咎めた場合には、彼はこれを機会として猛然ってパリサイ人の形式的宗教に反撃を加えられたのであります。
 ただいまの場合にもイエスの反撃は痛烈でありました。いわく、
 イザヤは汝ら偽善者につきてよく預言せり、「この民は口唇くちびるにて我を敬う、されどその心は我に遠ざかる。ただいたずらに我を拝む、人の訓誡いましめを教えとし教えて」としるしたり。汝らは神の誡命いましめを離れて人の言い伝えを固く執る。(七の六―八)
「偽善者」(ヒポクリテース)とは役者という字です。いかに巧みに扮装し所作しても、真実とは異なる者です。否、彼らは真実と異なることを隠すがために、扮装と所作とをこらすのです。パリサイ人の学者らよ! 汝らの心は神の誡命に遠ざかっている。汝らはそれをごまかすために人の言い伝え、伝統、慣習を固執し、これを神の誡命だとして教えている。汝らの宗教熱心は俳優的扮装だ、所作だ。汝らが敬虔けいけんらしき顔つきをすればするほど、汝らの心は神に遠ざかっているのだ。イエスは預言者イザヤの言(二九の一三)を引いて、パリサイ人の偽善を責め給いましたが、実はイザヤ以上の預言者がここに立ち給うたのです。

2 コルバン

 イエスはさらに御自分の方から進んで、パリサイ人の論拠を爆撃し給うた。「汝らは己の言い伝えを守らんとしてよくもよくも神の誡命を棄てた。父母を敬え、というのは神の大切なる律法である。しかるに汝らは父母が食物その他の物を求めても、『コルバンです』と言いさえすればこれを与えなくてもよい、否与えていけないと、人に教える。汝らは己の言い伝えによって神の言を死文と化しているのである」(七の九―一三)
 コルバンとは供物くもつのことであると、マルコ伝の記者自身が説明を添えています(七の一一)。これは誓いをもって差し出された物であって、元来は神への供え物でありますが(申命記二三の二一―二三)、後にはすべて誓いをもって特定の目的のために取り除けておいた物をコルバンと言うようになった。いわば「約束済」とでも言うべき品物であります。そしてその目的がどんなに利己的なものであっても、一たび誓いをもってその用途を定めた以上は、たとい父母に孝養する必要があってもこれを与えない、否与えてはいけない、と言うに至ったのです。これは神に対して誓ったところを守るという律法から出たことですが、パリサイ人の言い伝えによって律法の根本精神を歪めてしまったのです。己をむなしくして神にささげるはずのものであったコルバンが、己の利益のために父母に不孝の口実とせられる! こんな間違ったことがまたとあろうか。日常生活の些末さまつの点まで律法によって律しようとする形式主義は、多くこの類のことをなしているのです。パリサイ人しかり、ローマ法王しかりであります。

3 汚すもの

 イエスはなおも追撃の手をゆるめ給いません。彼は今はパリサイ人の学者と向かい合って対論せられるだけでなく、そのあたりにいた群衆を招き寄せて広く呼びかけ給いました。
 汝ら皆われに聴きて悟れ、外より人に入りて人を汚しうるものなし、されど人より出ずるものはこれ人を汚すなり。(七の一四、一五)
 外より人に入る物とは飲食物です。汚れた種類の食物だとか、汚れた手や食器で触れた食物だとか、食物についての禁忌タブーが人を汚すなどということはありえない。食物は皆かわやにおちるのだ。人の心はそんな形式的な、表面的な事物で汚されたり、潔められたりするにはあまりに深いのだ。心を汚すものは心から出るものだけである。人の心から悪しき思いが出る。すなわち淫行、窃盗ぬすみ、殺人、姦淫かんいん慳貪むさぼり邪曲よこしま詭計たばかり、好色、嫉妬ねたみ誹謗そしり傲慢ごうまん、愚痴など、すべてこれらの悪しきことは内より出でて人を汚す。だから人を潔めんとすれば、心の内を潔くせねばならないのだ(七の一七―二三)
 心は万物よりも偽る者にしてはなはだ悪し。誰かこれを知るを得んや。われエホバは心腹をさぐり腎腸を試み、おのおのにその途に従いその行為のによりて報ゆべし。
 と、預言者エレミヤは言いましたが(一七の九、一〇)、エレミヤよりもさらに深き預言者がここに立たれて、形式的律法主義の宗教をば根底からくつがえし給うたのです。
 丘の上ではパンの奇蹟をもって神の国を予表せられましたが、しかし神の国は食物の問題ではないのです。神の国の目的は食物にあるのではなく、また神の国に入る条件は食物についての禁忌を守ることでもない。すべて物質的なこと、外面的なこと、神の国に入る資格をなすものではありません。かえってそれらの事柄についての律法や言い伝えを固執する形式主義こそ、人が神の国に入るを妨げる最大の妨害物であります。イエスは断固としてこれを退け給うた。そして心の悔い改めだけが、神の国に入るため、神の国を実現させるための絶対的な唯一の条件であることを明らかにせられたのです。彼はこの点を明瞭にするために道徳問題を持ち出されました。すなわちモーセの十誡の中でも最も卑近な「汝の父、汝の母を敬え」という道徳律を取り上げ給い、これをもってパリサイ人の似て非なる宗教的敬虔けいけんを打ち砕かれたのです。形の上だけから見れば、食物については宗教的なはらきよめをせねばならぬとか、神に対する誓いは父母に対する道徳よりも重んじなければならぬとかいうパリサイ人の方が神第一の敬虔な信仰家であり、イエスの教えは人間的な道徳と見えるかもしれません。しかし神の喜び給う潔さは道徳的な潔さであって、儀式的な潔めではありません。心の潔さであって、形式的敬虔ではない。堪え難いものは心の死んだ形式的の敬虔らしさです、その宗教臭です。そんな悪臭を放ちながら神の国に入れると思うか。
 心の清き者でなければ神の国を見るを得ません。そして人は霊によって新たに生まれるのでなければ何人もおのれの心を清くするを得ない。これをイエス様の側から見れば、人の心を清くしなければ神の国を地上に成就することができないのです。
 人の心を神に向けかえて清いものとするには、イエスの教訓が必要でした。またイエスの模範もありがたいことでした。しかし教えを聞き、模範を見るだけでは、このかたくなな人の心は悔い改めて神の霊を受けることができないのです。人の心を新たにつくるために、イエスは教訓以上、模範以上のことを成されねばならなかったのです。イエスの生涯の道標みちしるべはもう十字架に向いていました。神の国の型を見せるためにイエスはパンを割いて人々に与え給いましたが、実際に神の国を実現するためには御自身の体を割いて与えざるを得なかったのです(ヨハネ六の三二―三五)。イエスの心は雪よりも白くあったがため、彼の犠牲は血よりも赤くなければならなかったのです。
[#改ページ]

第八章 異邦の彷徨さすらい



一 スロ・フェニキヤ


1 旅立

 ゲネサレ各地で説教に、治療に、論争に、激しき活動をなされたイエスは、十二弟子を携えひそかに遠く異邦へ旅立たれました。パリサイ人との対立は尖鋭化し、ヘロデ党の監視も厳しくなり、この両派は連合してイエスの一命をさえ狙うに至りました(三の六参照)。群衆はイエスの教えと力とに驚きましたが、それはただ表面的・物質的に感嘆するばかりで、自分たちのかたくななる心を悔い改めようといたしません。イエスは戦われました。お疲れになりました。だからまた人々を避けて遠くに退き給うたのです。
 こういうことはこれまでにも幾度かありました。ヨルダン川で洗礼を受けられた直後、荒野に退かれ(一の一二)種播たねまきの譬話たとえばなしをせられた後にはゲラセネに退かれ(四の三五)、十二弟子が地方伝道から帰った時にはベッサイダに退かれ(六の四五)、そのほか活動の後にはたびたび寂しき所に退き給いました(一の三五、三の七等)。今度ゲネサレでのお働きは特に激しくあっただけ、思い切って遠くの異邦まで退き給うたのです。しかしイエスの退却はいつでもさらに大なる進出のためでありました。今遠く異邦へ退かれますが、そこから新たなる力をもって長駆エルサレムに乗り込まれ、前よりも幾層倍の激しき戦いを戦われてついに十字架にかかり給うのです。そして十字架から一度天に退き給うたが、さらに大なる力をもって再び地上にきたり給うのです。激しく戦っては遠く退き、退きたる後さらに強く進出し給う。一進一退、知恵に導かれ力にあふれ、その波動はしだいに高潮に達して地上の神の国を成就し給うに至る。これがイエスの御生涯の歩み方でありました。呼吸、脈搏みゃくはくなど生理的現象でも、すべて生命の法則は一進一退の動きでありますが、霊的生命の活動もまた著しく律動的です。そして自然的生物としての人間の生命はしだいに律動の幅が小さくなり、微弱となって死に至るのですが、霊の生命の律動はますます幅広く、力強くなって、永遠に及ぶのです。律動は生命の法則であり、人の生涯に美を与うるものであります。そういう意味でも、イエスの御生涯は最も生命に充ちた、美しい生涯でありました。

2 小狗

 ゲネサレを去って、まず来られたのは北方ツロの地方でありました(七の二四)。ツロ、シドンといえば昔フェニキヤ人の建てた海港で、音に聞こえたシリヤの名邑めいゆうであります。同じくフェニキヤ人がアフリカ北岸に建てた植民地をリビ・フェニキヤ(すなわちリビヤのフェニキヤ)と呼ぶのと区別して、ツロ、シドンの地方をスロ・フェニキヤ(すなわちシリヤのフェニキヤ)と呼びました。この地方は当時ローマ帝国の直轄領土で、シリヤ総督の管轄に属し、ユダヤ人から見れば政治的にも民族的にも外国でありました。イエスはこのツロに近き地方まで来られて、ひそかにある家にやどり給うたところ、それを一人の女が聞き知って、けがれし霊につかれた自分の小娘をいやしていただきたいと、家に入り来たり御足のもと平伏ひれふしてお願いしました。この女はスロ・フェニキヤ生まれの異邦人でありまして、すなわち人種的にも宗教的にもユダヤ人とは縁のない外国人であったのです(七の二五、二六)(二六節にある「ギリシャ人」という語は、ユダヤ教を奉ぜざる異邦人を総称するために用いられた)
 おりからイエスは食事をしておられたのでしょう、女に向かって「子供のパンを取りて小狗こいぬに投げ与うるは善からず」と軽くお答えになりました(七の二七)。「私は自分の国民の救いで心がいっぱいなのだ。気の毒ながら他の者にはかまっていられないのだ」という意味であります。
 これはゲネサレの激しい戦いから満身創痍、引き揚げて来られたばかりのイエス様は、この頑なイスラエルを救うにはどうすべきかと、その問題で心を占領しておられたからです。イエス様は決して異邦人たるこの女を軽蔑して冷酷に言われたのではありません。またこの女の信仰を試すための作為でもありません。その時の彼の心境の自然の流露でありました。「犬」というのは、ユダヤ人が異邦人をいやしめて呼んだ語です。路傍の犬のごとく汚れている、というのです。しかしイエス様がこの女に語られた「小狗」は、室内で飼われる小犬であって、あるいは現に食卓の下にうずくまっていたのかもしれません。「世間ではお前たち異邦人のことを犬と呼んでいるが、全イスラエルに与えるべき救いを小狗にやってはよくないからねえ」という、むしろ愛憐とユーモアとを交じえたお言葉でありました。
 女も退きません。「しかり主よ、食卓の下の小狗も子供の食屑たべくずを食うなり」と、イエス様のユーモアをば、自分の熱意をもってしっかりと受け留めました。母親としての愛がこの頭のよい、きっぱりとした返事を彼女の口に与えたのです。イエスは莞爾かんじとして彼女の願いを容れ給い、女は家に帰ってみたところ娘はすでにいやされていました(七の二八―三〇)
 まことに美しい食卓であります。異邦人、しかもその場におらざる娘が、イエスの御言によって癒されたのです。実に強いものは母の愛です。それにも増して強きはイエスの愛です。そしてこれを客観的に見れば、イスラエルがイエスを退けた結果、スロ・フェニキヤの女に救いが及んだのです。これはパウロが「イスラエルのおちどによりて救いは異邦人に及べり」(ロマ一一の一一)と論じた事実にほかならぬではありませんか。パウロその他使徒たちの論証は要するにイエスのなされたこと言われたことの説明にすぎません。キリスト教の神学は単なる抽象的思索ではない。それはイエスの事実の哲学的説明であります。

二 ガリラヤの海


1 北方迂回

 イエス御一行はツロからさらに進んでシドンを過ぎ、たぶんヘルモン山の北を迂回うかいして東方デカポリス地方に出で、再びなつかしきガリラヤの海に来たり給いました。しかしこれは故国ガリラヤの岸辺ではなく、東岸異邦の地から湖水を眺められたのです(七の三一)
 その時人々が一人の聾唖者ろうあしゃを連れて来て、治癒をお願いしました。イエスは彼の両耳に指を入れ、またつばきしてその舌にさわり、天を仰いで嘆じ、その人に向かって「エパタ」(「ひらけよ」との意味)と言い給うたところ、ただちにその耳開け、舌のもつれも解けました(七の三二―三五)。天を仰いで「嘆じ」とあるは「うめく」という言葉です。言語をなさざるほどの深き嘆きです。イエス様はかかる霊魂の呻きをば、この聾唖の者に向かって洩らし給うた。そして心の底にまで通れよと言わんばかりに、両耳深く指をさし込まれたのです。「エパタ!」感慨こもれる御言の余韻が今なお私どもの耳をうつ。命令のような懇願のような、怒っているような泣いているような、励ましているような憐れんでいるような、その御声が!
 イエス様はこの男一人を憐れんで呻き給うたのではあるまい。この男の状態はイスラエルの象徴シンボルでありました。否、それは全人類の姿であります。耳は閉じてイエスの言を受け容れず、舌はもつれて「我はイエスを信ず」という明瞭な、簡単な言でさえ、正しく口から出せないのです。異邦人たるスロ・フェニキヤの女は「小狗」と言われても気を悪くせず、一心にイエスの救いを求めたではないか。しかるに「子供」たるイスラエルの心の頑さは何としたことであるか。イエスはこの聾唖の者を前に置きて、海を隔てて故山を望み、その御心は愛国の熱情に呻かれたのであります。

2 ダルマヌタ

 そのころまた大なる群衆がつどい来たり、食うものがなかったので、イエスは前に五千人を養われたと同じ経過で、彼らに食事を与えられた。その人数は四千人であったと言います。その後でイエス御一行は舟に乗ってダルマヌタ地方に往かれた(八の一―一〇)。ダルマヌタという地方はどこだが、今日では不明です。マタイ伝の記事には「マガダンの地方」とありますが(一五の三九)、それもどこだかわからない。いずれにしてもガリラヤの海の東北岸から舟に乗って、西岸か南岸かに渡り給うたのであります。
 ダルマヌタはユダヤ的環境の地方であったとみえ、早速パリサイ人が出てイエスに議論を吹きかけ、かつ彼を試みて天よりのしるしを求めました(八の一一)。イエスが真に救主メシヤならば天よりの証拠を見せよと言うたのです。
 イエス様はこれまでに幾度か奇蹟を行ない給いましたが、なるべく人に知られぬよう、内輪にせられました。多く病者を癒され、死人をよみがえらせ給うた時も、誰にも言うな、人に知られぬようにせよと、常に戒め給うた。風波を鎮め、湖上を歩み給いましたが、十二弟子のほかは誰もこれを知りません。何千人という群衆にパンを供し給うたけれども、それは群衆はおろか弟子たちさえ奇蹟と気づかぬくらい自然に行なわれたのです。こうして御自分の奇蹟が人の注意をひかぬように努められたのは、一つには行動の自由を妨げられないためでしたが、また一つには彼の使命に対する認識がゆがめられないためであります。イエスは人々が彼の力よりも彼の心を見ることを要求せられました。人々の心の回転を欲し給うたのであって、群衆の人気を求められたのではありません。心より心へ、心をもって心を。これがイエスの教えの根本であります。奇蹟はイエスの愛が力をもって現われたものです。それは彼の愛の具体化であり、心の表現でありました。奇蹟によらずともイエスの愛を知ればそれでよいのだし、奇蹟によっても彼の愛に心が届かねば何にもならない。表面的な奇蹟の事実にだけ心が取られると、かえって純な霊的関係をおおい、イエスの使命を物質的に、浅薄に解釈する危険があります。イエス様が奇蹟の公表を避けられたのは、この危険を十分御承知であったからでしょう。
 イエスの愛の御心それ自体が最大の奇蹟であり、イエスが神の子であり給う何よりのしるしです。しかるにパリサイ人は自分らの見ている前でマナを天から降らせるとか(ヨハネ六の三〇、三一)、高い所から身を投げてもけがをしないとか(マタイ四の五、六)、そういう種類の「天よりの徴」を求めたのです。――そうだ、かつて荒野で試みにあった時、サタンが「汝もし神の子ならば己が身を下に投げよ。それは『汝のために御使たちに命じ給わん。彼ら手にて汝を支え、その足を石に打ち当つることなからしめん』と録されたるなり」と言ったのはこのパリサイ人の声なのだ。いけない。断じていけない。この悪しき現代に徴は断じて与えられない。奇蹟はおのずから成るものであって、やってみせるべきものではない。
 前に郷里ナザレでは人々の信仰なきを怪しみ給うて、何の奇蹟をも行ない給うことができなかったのですが、ただいまの場合は不信仰に加うるに悪意です。それはイエスを陥れんための「試み」でありました。イエスは彼らの心のあまりのかたくなさに心の底から深く嘆き給い、塵を足の裏より払ってただちにダルマヌタを引き揚げ給いました。その出発があまり急であったため、弟子たちは食糧を携えることを忘れ、舟にはパンがただ一つあるだけであった(八の一二―一四)
 舟が湖上にすべり出た後、イエス様は弟子たちに訓戒を与えておられましたが、その一節に「慎みてパリサイ人のパンだねと、ヘロデのパンだねとに心せよ」との御言があった。弟子たちは顔見合わせて、これはパンを忘れて来たことを叱られたのだと話し合った。それを聞いてイエスは言われました、「そんなことじゃないよ。五つのパンで五千人を養った時も、七つのパンで四千人を養った時も、食い余ってたくさん残りがあったではないか。舟の中にパン一つあれば、それでたくさんだ。私を信じさえすれば、パンに窮することはない。パンが問題ではない。その、信じさえすればということが問題なのだよ。汝らの信仰にパリサイ人のパンだねやヘロデのパンだねを入れてはいけない。ちょっとでも入れば、信仰全体がふくれ上がってしまう。注意しなければいけないよ」(八の一五―二一)
 パリサイ人のパンだねとは、独善主義の形式的な偽善です。宗教熱心はよいけれども、パリサイ人の固陋ころうはいけない。ヘロデのパンだねとは権勢に迎合して一身の安きを計る此世的精神です。蛇のごとくかしこくあることは必要だが、ヘロデ党の妥協はいけない。注意しないと、汝らの信仰にそういうパンだねが混じて、信仰全体を化石化したり、不純化したりする。パンだねは、いわば黴菌ばいきんのようなもので、目に見えぬほど小さいが、抵抗力の弱いからだに取り付くと激しい大病をひき起こす。世の中にはパリサイの黴菌とヘロデの黴菌がウヨウヨしている。それらは結核よりもチフス菌よりも怖ろしいのだ。ダルマヌタから急いで引き揚げたのも汝らがその黴菌に冒されないためだ。汝ら、からだのことを心配しないで、たましいのことに注意せよ。汝らはこれほど私と長く一緒にいても、「いまだ知らぬか、悟らぬか、汝らの心なお鈍きか。目ありて見ぬか、耳ありて聴かぬか。また汝ら思い出でぬか」と(八の一七、一八)たたみかけて戒め給いました。ペテロやヨハネたちは全く恐縮して、イエス様の訓戒を肝に銘じたことと思われます。

3 ベッサイダ

 舟はそのうちに東北の岸に帰着し、一行はベッサイダに往かれた。その人々が一人の盲目を連れて来て、いやしをお願いしました。イエスは彼の手を取り、目に唾し、御手をあてて「何か見ゆるか」と問い給うたところ、彼は目を上げて「人間が見えます。のような物が歩いております」。イエスが再びその目に手をあて給うたれば、じっとみつめていたが、視力が完全に回復してすべての物がはっきり見えました(八の二二―二五)[#「(八の二二―二五)」は底本では「(六の二二―二五)」]
 この癒しには時間がかかった。イエスが手数をかけてだんだんと癒されたのでありまして、一挙にして事を成されたのではありません。我々の信仰の目を開き給うのにも、イエスはこうした忍耐と手数をかけて下さるのです。
(四千人のパンの奇蹟(八の一―一〇)は前の五千人のパンの奇蹟(六の三四―四四)と同じ事件の話が二とおりに伝わり、それが重複して記されているのだろう、と多くの聖書学者が推測します。そしてダルマヌタ地方の記事(八の一一―一三)も、舟の中でのパンだねの御話(八の一四―二一)も、実はゲネサレ地方に行かれた時の出来事(八の五三―七の一)であろう、と言うのです。そうかもしれないし、そうでないかもしれないが、しいてこれを重複と見る必要も乏しいように思われます。重複説の根拠の一つに、四千人のパンの奇蹟の記事中、前の五千人の時のことを弟子たちが思い出した痕跡がない。いかに弟子たちが鈍くてもかかることはありえない、と言う者があります。しかし一度や二度で信仰がわかってしまうなら、世の中はもっと簡単です。かかる鈍い弟子たちを、長くかかって、しかり十字架と復活の後までかかって、完き信仰に導き給うたのがすなわちイエスの愛なのです)

三 ピリポ・カイザリヤ


1 大瀑のひびき

 イエスは弟子たちを連れて、ベッサイダからまた北に上り、ピリポ・カイザリヤに来られました。これは国守テトラルクピリポの領内で、テラコニテの名邑めいゆうであります。ガリラヤの海から北へ十里余、地中海の海抜一千二百六十尺、ガリラヤ湖の水面より高きこと約二千尺の山地で、背後には雪を戴くヘルモンの峰そびえ、樹木鬱蒼うっそうとして、水清き仙郷でありました。ことに清冽せいれつ豊富なるヨルダン川の水源でありまして、たきありふちあり、急湍きゅうたんあり洞窟どうくつあり、大瀑のひびきによりて淵々呼びこたえ、波は波を乗り越えてゆく壮観を呈しました。その洞窟の一つに、ギリシャの神パンをまつる宮がありました。それでこの町の旧名はパネアスと呼ばれたのです。
 紀元前二〇年ヘロデ大王がテラコニテ州をローマ皇帝カイザルアウグスタスから領地として受け、これに対する感謝のしるしとしてアウグスタス帝を祀る社をこの地に建てました。ヘロデ大王の死後この地方の国守テトラルクに任ぜられたその子ピリポは、アウグスタス帝の名誉のためにこの町を再建して町の名をカイザリヤと改称し、父ヘロデ大王が同じくアウグスタス帝をあがめるために建てた海岸のカイザリヤと区別するため、自己の名を冠してピリポ・カイザリヤと呼んだのです。こういうわけでこのピリポ・カイザリヤは、ギリシャの自然神たるパンの宮と、ローマの政治神たる皇帝を祀る社との在る純然たる異教の町でありました。
 かかる町にイエスは来られ、いわをかんで流れる奔湍ほんたんのそばに下り立ち給うたのです。ああ、はるばるも来たものだ。パリサイ人の悪意とヘロデの敵意とを避けてゲネサレを去り、十二弟子を伴うて異邦の旅に出てから、北に上って遠くフェニキヤのツロ、シドンまで、それから東にまわってデカポリスに出で、南に下ってガリラヤの海辺に立ち、ダルマヌタに渡り、また北に引っ返してベッサイダ、さらに北上してここにピリポ・カイザリヤまで、ずいぶんと彷徨ほうこうしたものだ。今この異教の町に立てば、わが思いは遠くエホバの宮の建つエルサレムに馳せる。我はエホバの使命を受け、イスラエルの救主メシヤとして遣わされたのだ。しかるにわが民は我を受けず、かえってわが生命をさえ求める。我はわずかに十二人の弟子を伴いて、異郷の空をさまよい歩いた。空の鳥には巣あり、狐には穴があるが、人の子には枕する所もない。そして涙のみ昼夜そそぎてわがかてなのだ。ああ、エルサレムよ、エルサレムよ。汝の救いのため、我はいかばかりの嘲りと苦しみを与えられ、孤独と悲哀をなめねばならぬのであろうか。そしてその末は不可避に十字架ではないか。ああわが神よ、我は汝に依り頼む。我はただ汝に依り頼んで、わが十字架に進んで行こう。ここヘルモン山のほとり、ミザルの丘近く、ヨルダンの水源湧きて流るる地に立ちて古の詩人のうたえる歌が、今しきりにわが脳裏を去来する。

わが神よわがたましいはわがうちにうなたる
されば我ヨルダンの地よりヘルモンよりミザルの山より汝を思いず、
汝の大瀑おおたきのひびきによりて淵々呼びこたえ、
汝の波汝の大浪ことごとくわが上を越えゆけり。
さはあれど昼はエホバその憐憫をほどこし給う、
夜はその歌我とともにあり、
この歌はわが生命の神にささぐる祈りなり。
我わがいわなる神に言わん、なんぞ我を忘れ給いしや、
何ぞ我は仇のしいたげによりて悲しみ歩くや。
わが骨も砕くるばかりにわが敵はひねもす我に向かいて、
汝の神いずこにありやと言いののしりつつ我をそしれり。
ああわがたましいよ汝なんぞうなたるるや、なんぞわが中に思いみだるるや、
汝神を待ち望め、我なおわが顔の助けなる
わが神をほめたたうべければなり。(詩編四二の六―一一)

2 告白と打ち明け

 孔子は顔回ら少数の弟子を伴い、陳蔡ちんさいの野に放浪して治国平天下の志を行なう機会を求め、ついに小国に召されて国政を指導したと言いますが、イエスの志は神の国を地上に建てんがためであり、しかも彼を受け容れるべき魯もなかったのです。かえって彼を待ち受けているものは十字架でありました。そのことはイエスの御心にはいまや疑うことのできぬ明瞭な帰結であります。孔子の教えは政治であるからこれを受ける国もありましたが、イエスの教えは霊であるから、地上の国はこれを受けるに堪えなかったのです。しかしせめてこの十二人の弟子だけには御自分の使命をよくのみ込ませておかなくてはならない。
 今山紫水明のピリポ・カイザリヤに来て、イエスのたましいは深く神に交じわり神の慰めを受けて、渇きし鹿が渓川たにがわに下り立ったような蘇生の思いがありました。弟子たちの心にも長途の旅行をともにする間にイエスに対する結び付きが深くなり、ことにこの清き自然の環境に来て彼らのたましいにも躍動が感ぜられました。その気合の熟した時、イエスは弟子たちにむかって重大な質問を発せられた、
汝らは我を誰と言うか。
ペテロは常のごとく代言者スポークスマンとして答えました、
汝はキリストなり。(八の二七―二九)
「キリスト」というのは「メシヤ」というヘブル語のギリシャ訳でありまして、救主の意であります。聖書に基づきユダヤ人の待ち望んでいた救主です。イエスはキリスト出現の先駆者でもなく預言者でもなく、実にキリストその人ですと、ペテロが申し上げたのであります。
 この一言を弟子たちの口からかんがために、これまで親しく薫陶し給うたのでありました。イエスは決して御自分のことを弟子たちに吹き込み給わなかった。彼はただ常に言と業とを示し給いました。そして弟子たちの心が開かれて、イエスのキリストであることを自発的に認め得る時期の到来を待ち給うたのであります。イエスの側からの強要もなく、暗示もなく、全く自発的に弟子たちの信仰の目を開かれるのを待たれたのです。真に大教師たる御態度でありました。
 しかし弟子たちを地方伝道に派遣せられた当時から、イエスの何人であるかとの批評が世にやかましくなって、あるいは洗礼者ヨハネの再来だとか、エリヤだとか、預言者の一人だとか、いろいろの取沙汰とりざたがありました。それで、御自分の本性・使命・運命をいつかは弟子たちに明かさなければならない。弟子たちの認識を確かめておかなければならない、と思われたのですが、これは容易に口にすべからざる重大な秘密であったのです。それが今機会が熟して、この水清き僻遠の地においてペテロのきっぱりとした告白を聴かれたのは、さだめし御満足だったことと察せられます。
 これがわかった以上、「それではお前たちに打ち明けて言うがね」と、近くエルサレムで御自分を待つ運命について口をきられ、「必ず多くの苦難を受け、長老・祭司長・学者らに棄てられ、かつ殺され、三日の後によみがえるべきこと」を、あらわに語り出で給うたのです。ところがペテロは驚いてイエスの袖を引き、「とんでもない。先生に死なれてなるものか」と、目の色変えていさめました。イエスは弟子たち一同を鋭く見まわしつつ言下に、「退さがれ、サタン! 汝は神のことを思わず、かえって人のことを思う」と強く※(「口+它」、第3水準1-14-88)しったし給うた(八の三一―三三)
 弟子たちにしてみれば、先生が殺されるなどということは、人情としてもとうてい考えることができない。先生がいなければ、自分らだけでやってゆけるものでない。自分らは先生を押し立て、先生を守って、神の国建設の事業に邁進まいしんするのだ。先生、これからです。今、殺されるなどということをお考えになってはいけません。
 それに、キリストが殺されるなどということは、弟子たちの信仰としても受け容れ難いことであった。
 正義をもて貧しき者をさばき、公平をもて国の中の卑しき者のために断定さだめをなし、その口の杖をもて国を打ち、その口唇の気息いぶきをもて悪人を殺すべし。(イザヤ一一の四)
 これがペテロたちのイエスに期待したところです。キリストは悪人を殺すべきであって、悪人に殺さるべきではない、というのが彼らのキリスト観でありました。
 しかるに神の定めはこれと異なりました。
 彼は侮られて人に棄てられ、悲哀の人にして病患を知れり。……彼は我らのとがのために傷つけられ、我らのために砕かれ、みずから懲罰こらしめを受けて我らに平安をあたう。(イザヤ五三の三、五)
というのが、実にイエスのために備えられしキリストとしての道でありました。イエス御自身かかる道を避けたいと思われなかった、とは誰も言えません。あたうべくんばその杯を我より過ぎ往かしめ給え、とは彼が異邦彷徨の旅空において何度も心ひそかに思われたことであったでしょう。しかし種々の経験を経て、神の国はただ福音の宣伝とか、病者によって来たるものではない。それだけでは悔い改めることのできないほど、人々は神にそむいている。人々は自分の言を聞いても容易に自分を信じない。かえって自分に敵対して自分を殺すのだ。自分の生涯の道は、棄てられた十字架にかかるよりほかはない。人々をして悔い改めて神を信ぜしむるためには、自分が罪ある人のために殺されてやることが必要なのだ。人は自分の死を見て、これはイエス自身の罪のために死んだのではない、我々の罪をイエスが身に受けて死なれたのだ、ということがわかって始めて悔い改めることができるであろう。神の国を来たらせる道はこれしかないであろう。実に十字架はイエスのとられた真実なる生活態度の必然の到達点であるとともに、人々に神の国の門が開かれる最善最真の道であったのです。
 しかしこれはイエス様にとってだんだんわかってきたことでありまして、最初から筋書のようにわかっていたのではありません。客観的に見て神の側においては決まっていたにしても、イエスの主観には最初からわかっていたわけではない。民衆の不信、パリサイ人との衝突、ヘロデ党の敵意などにより、どうしても十字架は不可避である、とだんだんにわかってこられたのです。十字架の道を明瞭に意識して納得せられるまでには、血の吐く思いの内心の苦闘を重ねられたのです。そしてピリポ・カイザリヤの丘に来たり、流れに臨んで、彼の祈り心に神の聖意はますます明瞭となり、これに服従する彼の心境も澄んだのでありました。そこへもってきてペテロの口から、またも彼の思いを「人の事」に引き戻そうとする言が出たのです。これはこの場合イエス様の最も聞きたくなかった言でありました。だから彼はほとんど反射的に強く「サタンよ、わが後に退け」と叱責し給うたのです。
 前に五千人のパンの奇蹟の直後、群衆および弟子たちに対するイエスの態度が急に変わられたように、ピリポ・カイザリヤにおいてもすぐれた信仰の告白をしたペテロをばたちまちサタンと叱し給うたのです。人が非常に高い信仰の境地に上った時は、サタンの最も強く働きかける時でありまして、そのため急転直下、信仰の墜落を見ることは、怖ろしき霊的事実であります。神のことを思う者は勝利し、人のことを思う者は必ずサタンに敗れる。イエスがこの点を警戒して、人情に引かれず情実にとらわれず、常に断固たる信仰的英断に出でられたのは、まことに勇ましき御戦さでありました。そして彼はいつもこの英断によってりっぱな勝利をられたのであります。

3 親不知子不知

 1 弟子の道
 イエスの教えを人々が信じて、罪を悔い改めて新たなる心をもてば、イエスは十字架にかからずして神の国を建て給うことができたのですが、人の不真実はイエスをして「殺されるキリスト」たらざるを得ざらしめたのです。それは一人イエスの運命たるのみでない、イエスの弟子たる者も同じ死の陰の道を歩まねばなりません。先生の道は弟子の道です。イエスに従わんとする者はまずそのことを覚悟してかかる必要がある。そこでイエスは群衆を弟子たちとともに呼び寄せて言われました。
 人もし我に従い来たらんと思わば、己を棄て、己が十字架を負いて我に従え。(八の三四)
 十字架の刑に処せられる者は、自分のかけられる十字架を背負って刑場まで歩く定めであった。イエスは御自分の十字架を負って行かれたのだから、イエスに従う者も各自の十字架を負って歩かねばなりません。
「己を棄てる」というのは自己を忘れることであって、いわゆる禁欲主義とは異なります。禁欲主義者は享楽主義者同様、強く自己に執着している者です。真の自己否定というのは神のことについて心がいっぱいで、自己のことを考える暇がない。すなわち人のことを思わず、神のことを思うことです。つい今しがたペテロの叱られたのとちょうど反対の心の態度です。食物でも少しあれば感謝して少し食べ、豊かにあれば感謝して豊かに食べ、物欲については水の流れるごとく心を労しない生活です。
 己を棄てる者は己に「さよなら」したものです。生活の目標が自己でなくなって、神のことが目標となった者です。かかる歩み方をする者の人生が必然的に十字架を負わさせる道であるのは、世間の歩み方がちょうど反対に神のことを思わず、人のことを思うからです。実に悲劇的な食い違いです。しかしその十字架を自分から求めて背負え、と言うのではありません。それではやはり「己」です。真実なる人生を歩んでいれば、十字架は他人から負わされるのです。ただそれを負わされた時、いやと言わないで負ってゆかねばなりません。「人はもし私に従って来るなら、どうしても十字架を負わされるから、各自の十字架を黙って負ってついて来い」とイエスは教えられたのです。
 これは全く親不知子不知おやしらずこしらずの嶮であります。親は子を知らず、子は親を知らず、各自が自分の十字架を負うて一人ずつ越えねばならぬ狭き嶮路です。懐手ふところでをしたり、他人に背負われたりしては絶対通過ができない、神の国に入るための難所である。イエスは人を欺いたり強要したりして、この道を歩かせることはなし給いません。だから「人もし我に従い来たらんと思わば」と言い給うたのです。しかしそのことを承知の上で従い来る者をば、特に不愍ふびんに思われ、愛憐の情を寄せ給うたのはもっとも至極でありまして、彼に続いてこの嶮を通り抜けようとする者に対しては、次のごとく言を尽くして励まし給いました。

 2 生命を重んぜよ
 己が生命を救わんと思う者は、これを失い、わがためまた福音のために、己が生命を失う者は、これを救わん。人、全世界をもうくとも、己が生命を損せば、何の益あらん。人その生命の代に何を与えんや。(八の三五―三七)
「失う」とは刑罰として没収されるという語であって、イエスのため、またイエスの福音につかえるために生命を没収される者はかえってこれを得、生命を助かりたいためにイエスを棄て、福音の言を曲げる者はかえって生命を失うというのです。これは言うまでもなくこの世限りの生命と永遠の生命との対照でありますが、しかしただ現世と来世という時間的長さの比較だけではありません。イエスに従う生命とイエスを棄てる生命とには、深い性質上の相違がある。すなわち生命としての価値に差がある。イエスに従わない生命は単なる自然的の生命で、それは豚や牛や馬の生命と本質的には異ならざる肉体的生命です。己の肉体的生命を救わんためにイエスを裏切る者の顔つきを見ろ。卑しさが顔にさえあふれているではないか。これが真の生命を失っている何よりの証拠です。これに反しイエスに従う者の顔には愛の生命が輝いている。たとい全世界を獲ても、この生命らしい生命、永遠絶対の生命を失っては何にもならないではないか。わずか三十年五十年で死に絶えてしまい、しかも現世においてさえ真の歓喜も希望もない動物的の生涯を送って何の益があるか。
 これは実にイエス御自身十字架の前途を望んで、神から与えられた励ましの言であったに違いありません。実感こもるこの御言をもって、イエスは真の生命の重んずべきことを説き、彼に従って同じく肉体的生命の危険を冒す者を励まされたのです。

 3 名を重んぜよ
 不義なる罪深き今の代にて、我またはわが言を恥ずる者をば、人の子もまた、父の栄光をもて、聖なる御使たちとともに来らん時に恥ずべし。(八の三八)
「罪深き」とは神の要求し給うごとくに考えず、言わず、行為せざること。「不義なる」とは姦淫なるという語で、神に対し不忠不貞なることを意味する。神に二心ある罪深き今の代に気兼ねをして、イエスの名を唱うるを恥じ、また彼の言を恥ずる者は、イエスが父なる神の栄光をもって再臨し給う時聖なる御使たちの面前においてこれを恥じ給うと言うのです。今イエスを恥ずかしめている者が恥ずかしめられるのである。「人の子が恥じ給う!」非常なことだね。実に重大なことだ。
「人の子」とあるのは、ダニエル書第七章に
 人の子のごとき者雲に乗りて来たり、日の老いたる者の許に到りたれば、すなわちその前に導きけるに、これに権と栄と国とを賜いて、諸民、諸族、諸音をしてこれにつかえしむ。その権は永遠の権にして、移り去らず、またその国は滅ぶることなし。(七の一三、一四)
とあるごとく、最後の審判において権威の座にき給うキリストをさす言葉です。これを「人の子」というのは、地上の勢力を獣に象徴し、これに対して人間らしき人間という意味です。イエスはキリストたる地位の自覚をもってあらたまって物を言われる時には、いつも御自分のことを「人の子」と呼び給いました。この世においてイエスとイエスを信ずる者とを迫害する者は、いかに恐ろしい様子をしていても要するに獣だ。気にすることはない。これに反し汝らは天使の前に出て、人間として立ちえないことを恥じねばならない。こうしてイエス様は人の廉恥心に訴えて彼に従う者を励まし給うたのです。

 4 希望は近し
 イエスはさらに言葉を次いで言われた、
 まことに汝らに告ぐ、ここに立つ者のうちに、神の国の、権能ちからをもて来たるを見るまでは、死を味わわぬ者どもあり。(九の一)
 人の子が父の栄光をもって聖なる御使たちとともに来る時はそんなに遠いことではない。汝らの中のある者の生きている間、まだ目の黒い間に神の国は来る。しばらくの忍耐、しばらくの辛抱だ。だからよく聞き分けてイエスとその御言とを恥じてはいけない、と励まし給うたのであります。
「ここに立つ者のうちに、神の国の、権能をもて来たるを見るまでは、死を味わわぬ者どもあり」とは具体的にいかなる事実をさして言われたのであろうか。ある人々は、これを紀元七十年にエルサレムがローマの軍のために陥落したことによって成就せられたと言いますが、エルサレムの陥落によって神の国が来たわけではない。あるいは老ヨハネがパトモスの島で、神の国顕現の啓示を見たようなことを意味するのかもしれない(ヨハネ黙示録一の一〇、ヨハネ二一の二一―二三参照)。あるいはマルコ伝ですぐ次に記されている山上変貌へんぼうの記事、すなわちイエスの御貌おかおが神の栄光をもって輝いたのをペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人が見たのは、すなわち「人の子の栄光をもって」来たり給うのを見たということになるかもしれません(九の二、三)。しかしイエスの預言がいかなる意味で具体的に実現したか否かを詮索するのは、大した問題ではありません。預言はあたるとか、あたらないとかいう子供のあてっこのような、または相場師の相場のようなことではありません。時間的の意味では多くの預言がはずれたように見えるのです。預言は神の意思の啓示です。原理の闡明せんめいです。ここでイエスの言われた御趣旨は、不義なる罪深きこの代の支配がいつまでも続くものではない。親不知の嶮は百里も千里も続いているのではない、ほんのしばらく、走り抜ける間のことである。イエスに従う者は十字架を負う生涯を忍耐しなければならぬが、それは希望のない忍耐ではなく、またその希望は遠いことではない。やがて神の国が来て、責める者と責められる者と位置を替えるのである。汝ら必ずもつべきものは忍耐である、との慰め深き御言であります。イエス御自身の死についても「三日の後に甦る」ということを言われましたが(八の三一)、これまた必ずしも時間的に三日ということを重視せられたわけではありません。ただ暫時ということを意味せられたのです。イエスは殺されるけれども、いつまでも殺されたままでいるのではない。短時日の後復活するのだ、という希望の御言です。これはイエス御自身に向かって神から与えられた慰めの御言であったに違いない。同じ趣旨をもって、イエスは弟子たちの苦難の運命の暫時なることを語って彼らを励まし給うたのです。だから「それ我らが受くるしばらくの軽き患難なやみは、きわめて大なる永遠の重き光栄を得しむなり」(コリント後書四の一七)とパウロの言ったのは、このイエスの御言に対する最善の応答であります。
 イエス御自身おのれを棄て、己が十字架を負うて神の聖意に従われました。それゆえに神はいっそうイエスを愛し、彼の一身を引き受けて復活せしめ、そして父なる神の栄光をもって再臨せしめ給うのです。イエスに従う者も同じく十字架の道を歩まねばならぬことは、見え透いたことです。それがわかっていながら己に従わせる以上、弟子たちに対するイエスの愛と不愍とはいっそう胸に迫りました。ですから、偽らざる十字架の難路を示し給うたとともに、言葉を添えて永遠の生命の価値の大なること、永遠の名誉の重んずべきこと、また忍耐の暫時なることを教え、厳しく激励し、やさしく慰め、かつ深く希望付け給うたのです。実に情理兼ね備わった愛の言葉でありました。
 イエスが弟子たちを連れて異邦各地をあちらこちらと彷徨せられたのは、あたかも自殺者が死場所を探してうろつくようでありました。実際イエス御自身の死の運命を弟子たちに打ち明けるため適当なる場所と機会とを探しておられたのです。これはイエスに対する弟子たちの愛と信頼とが熟さなければ、話のできない事柄です。人に棄てられかつ殺されても、イエスはやはりキリストである!「殺されるキリスト」の弟子となる! これだけの愛と信仰との少なくとも芽ばえが弟子たちにできておらねば、打ち明けることのできぬ問題でありました。その機会がついにここピリポ・カイザリヤの地で与えられたのです。
 イエスが異邦の地をさまよわれたのは、最後の悲劇を前にして深く神と交じわり、十分に御自分の心備えを整えられんがためであり、同時にまた弟子たちと深く交じわり、彼らの心を十分に練って来たるべき非常の事変に備えしめ、かつイエスの殺されて後彼の志を継いで神の国の福音を伝うる重大任務を果たす者たらしめんがためでありました。ついにその時機が熟して、いまやイエスの使命についての重大な告白、イエスの死についての深刻な打ち明け、並びにイエスに従う者の苦難の預告と忍耐の激励があり、イエス御一行の異郷旅行の緊張はピリポ・カイザリヤをもって絶頂に達しました。イエスと十二弟子たちと、語り終わって目を挙ぐればヘルモンの頂はひときわおごそかに夕陽ゆうひに映え、神の栄光をもって輝いていました。
[#改ページ]

第九章 ヘルモン山



一 山頂の変貌


1 変貌

 ピリポ・カイザリヤの御話から六日たって、イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネ三人のみをひきつれ、人を避けて高き山に登り給いました(九の二)。もちろん祈りのためであります(ルカ九の二八)。高き山とはヘルモン山に違いありません。海抜一万尺、頂は三つの峰に分かれ、四時白雪をいただくシリヤ随一の名山であり、ピリポ・カイザリヤからは三、四日間にて達しうる近距離にありました。
 近く御自分を待つ運命が十字架であることは、すでにピリポ・カイザリヤで明らかにおわかりになったのでありますが、わかるということと力を得ることとは同一でありません。十字架に上るためには神の力をもって十分に武装せられねばならない。イエス様が人を避けて奥へ奥へと退かれたのは、神の懐に入って親しく神と交じわり、それによりて与えられる力をもってまっしぐらに十字架のみちに出で立たんがためでありました。三人の愛弟子を伴われたのは、彼らの祈りによる助けを求められたのでしょう。また御自分について起こることはすべて彼らに見せておいて、自分の死後、福音をになってゆくに堪える者たらしめようとのお考えもあったと思われます。
 イエスは夜をこめて祈り給いました。弟子たちはひどく睡気ねむけを催したが、フト気がついて見るとイエスの御顔のさまは変わってこの世ならぬ光が内から輝き出で、その衣まで純白に輝いているではありませんか。それだけではない、二人の人が現われてイエスと語っている。それがモーセとエリヤとであることは、弟子たちの目にもわかりました。例によって黙っておれないペテロは、「先生! 私たちここにいてよかった。先生のため、モーセのため、そしてエリヤのために一つずつ仮小屋を建てましょう」と申し出た。――「おれはあの時はびっくりして、何と言ってよいかわからなかったんだよ」とあとで述懐していますが、ペテロとしては先生を夜露に打たすまいという、心いっぱいの愛すべき言でありました。だからイエスも「つまらないことを言うな」と、お叱りにもならなかったのです。しかしイエス様をおおうのにもちろん掘立小屋のようなものはいりません。ただちに雲が起こり来たってイエスをつつみ、雲の中から「これはわがいつくしむ子なり、汝らこれに聴け」とのおごそかな神の御声がペテロたちの耳を打ちました。彼らは粛然として見まわしましたが、イエスと自分たちとのほかにはもう誰も見えなかった(九の三―八)。幻か現実か。消え難きあざやかなる印象が三人の弟子に刻み込まれたのであります。
 モーセとエリヤとがイエスと物語った話の主題は、彼が近くエルサレムで遂げられようとする逝去のことでありました(ルカ九の三一)。イエス様は実にこの問題について、徹宵てっしょう祈り給うたのです。その祈りにおける戦いがまさに勝利をもって終わらんとした時、神はモーセとエリヤとを遣わしてイエスを力づけ給うたのです。かつて伝道生活の発端荒野の祈りにおいて、悪魔はついにイエスを離れ去り「見よ御使たち来たりつかえた」とありますが(マタイ四の一一)、伝道生活の最後に近き高山のいのりにおいてイエスの許に来たり仕えた天の使者は、すなわちモーセとエリヤとであったのです。
 モーセは律法の代表者であり、エリヤは預言の代表者でありました。この二人が現われたのは、律法の全体と預言の全体とが救主メシヤとしてのイエスの死とその意義とを確証したにほかなりません(マラキ四の四、五参照)。偉大なる立法者モーセ! 彼はイスラエルの民を率いて約束の地に入らしむべく、四十年の荒野の旅をつづけ、シナイ山に登りて神の律法を受け、民の光としてこれを与えました。しかるにこの民はうなじの固き民であって、モーセを苦しめ、怒らせ、退けました。人となり温柔なるモーセは民の蹂躪じゅうりんするところとなりつつも、彼らのために罪の赦しを神に乞い求め、「しかせずば願わくは汝の書きしるし給えるふみの中より、わが名をし去り給え」とまで祈ったのです(民数紀略一二の三、出エジプト記三二の三二)。そしてピスガ山の嶺よりカナンの地を望むを得たのみで、約束の地に入るを許されず、モアブの地の谷に死にましたが、神彼を葬り給い、その墓を知る者がないといいます(申命記三四の一―六)
 エリヤはイスラエルの預言者中最も年代の古いものでありまして、カルメル山でバールの預言者たち四百五十人を相手として争い、ことごとくこれを打ち殺さしめたのは彼であります。しかし彼の人となりも剛毅といわんよりはむしろ柔和であって、女王イゼベルの怒りを怖れて遠く荒野に逃げ込み、ホレブの山に登って静かなる細き声の中に神の御声を聞いたのです(列王紀上一八、一九章)。そして彼の最後は火の戦車に乗り大風に乗じて天に昇ったと伝えられています(列王紀下二の一一)救主メシヤの来たり給う前にはこのエリヤが先駆者として出現する、というのがユダヤ人の一般的信仰でありました(マラキ四の五)
 こういうモーセとエリヤとがヘルモン山の上でイエス様に現われ、その逝去のことについて語ったのです。おそらく彼らはこもごも申し上げたでありましょう、「私ども律法も預言も、こぞって久しくキリストたる汝の出現を待ち望んでいたのです、汝は私ども以上に柔和な御方であり、私ども以上にひどい待遇を民からお受けになって、私ども以上にひどい死に方をなされる。しかしこれらのことは決して汝がキリストであり給わないという証拠ではありません。かえって反対です。私どもは民に棄てられました。しかし神は私どもを立て給い、私どものごときにすら不死の恩恵を賜うたのです。私どもが民から棄てられたのは、私どもが神によりてつかわされた使者であったからです。私どもが棄てられたことは、民を救う神の経綸が成就する道であったのです。汝が棄てられて十字架にかかり給うこと、それは実に汝が神の子であり給う証拠です。神は汝を甦らせて高く天に挙げ給うに違いありません」――かく熱心にモーセとエリヤとは自己の体験より学びし神の真理を語って、イエスを力づけかつ慰めたのであります。そしてイエスの変貌と、モーセ、エリヤの物語と、これらすべての出来事を冠するものとして「これはわが愛しむ子なり」との神の御声が響いたのです。これはかつてイエスがヨルダン川で洗礼を受けた時に聞こえたと同じ御声です。その時には「われ汝をよろこぶ」とあって、主としてイエス御自身に神の子たる自覚を与えられたものでありましたが(一の一一)、今度は「汝らこれにけ」とあって、イエスの自覚を固めるとともに弟子たちの信仰をかたくせられたのです(九の七)。十字架の死を前にして、イエスの神の子たる自覚はもう動きません。今最も必要なるは、弟子たちの信仰の確立です。近く現実にイエスが十字架にかけられる時が来ても、弟子たちの信仰がそのため動揺しないように、彼らの足を強くしておかねばならない。そのためにこのヘルモンの霊峰における神秘の庭に彼らを伴い給うたのであります。
 かくてヘルモン山頂に神の国の栄光を見たことは、イエス御自身にとりても、弟子たちにとりても十字架を克服する力の秘密の出所でありました。復活して神の国に永遠に生くること! それは信ずる者には疑うを得ざる現実であります。信仰は望むところを現実とし、見ぬ物を真実とする(ヘルブ一一の一)[#「(ヘルブ一一の一)」は底本では「(ヘルプ一一の一)」]。復活は実に十字架を越えて輝く現実であります。
 親不知子不知の嶮を過ぐれば前途の光景豁然かつぜんとして開けるごとく、己が十字架を負いて初めて知る人生の豊かさがあります。それは復活の世界であります。ヘルモン山頂の変貌はその瞥見べっけんでありました。

2 教訓

 異常な経験に胸をおどらせながら、イエスと三人の弟子とは山を下り給うたが、その途中でイエスは弟子たちに、御自分が死人の中より甦るまでは、見たことを誰にも語るなと戒め給いました。彼らはこの言を心にとめ、「死人の中より甦る」とはいかなることぞと互いに論じあいました。しかしその点は質問しないで、「学者たちは、何ゆえエリヤまず来たるべしと言うか」とお聞きしました。これはメシヤ観に関する問題であって、当時の彼らの心には復活問題よりもこの方が手近かでありました。「メシヤの来る前にエリヤが来ると言われていますが、先生がメシヤだとすれば、エリヤはすでに来たのですか」。これに対してイエス様は答えて言われた、「実にエリヤはまず来たりて、よろずのことを復興する(「改む」とあるは回復するという字。壊れたものをもとどおりに直すことであります)。エリヤがメシヤの先駆者として来たり、万のことを復興し、道徳的秩序を立てておけば、その後に来るメシヤは栄光と権威と支配とをもって光臨するのみであると汝らは思うかもしれない。しかしメシヤについてはまた別の預言があって、彼が多くの苦難を受けかつ人に棄てられることが聖書に録されているのである(イザヤ五三の三)。汝らはこの二つの預言をもって矛盾すると思うかもしれない。実際汝らに話すが、エリヤはすでに来たのだ。バプテスマのヨハネがそれなのだ。しかるに預言せられているとおり、人々は彼を思いのままに虐待を加えることは何の不思議もない。しからば先駆者が万のことを復興し、キリストが権威をもって来るという預言はどうなるか。実際エリヤにあたる洗礼者ヨハネは、人々の心に対しただしき道徳的基礎を復興したのである。ただ人々がこれを受けなかっただけだ。キリストもまた神の国の権威をもって臨んでいる。ただ人々がこれを受けないのだ。しかし人々は先駆者とキリストとを棄てて殺すことができても、道徳的復興の原理と神の国の権威とを棄てかつ殺しうるものではない。先駆者とキリストとの殺されるにかかわらず、否それによりて、神の国に入るための道徳的復興と神の国の権威とはいっそう善く成就せられるのである。何となれば神はキリストと彼の預言者とを死より復活せしめ給うがゆえである」
 弟子たちにどれほどわかったかわからないが、しかしイエスは心をこめて右のごとく懇切なる説明を与え給うたのです。

二 山麓の治癒


 山の下り道は上り道よりもはるかにはかどって、イエス様と三人の弟子たちは早くもふもとに達し、他の弟子たちを残し置いた場所に帰って来られました。見ると、パリサイの学者たちがイエスの弟子を捕えて何か議論を吹きかけ、たくさんの群衆がこれを取り囲んでざわめいている。どうやら弟子たちが言に窮している模様です。そこへイエスが帰って来られたのを見て群衆はみないたく驚き、バラバラと御許に走りゆきて礼をしました。イエスは伝道に失敗して失望のあまり山に隠れてしまい、二度と姿を現わすことはないだろうと思っていたらしい。そのイエスが、しかも以前にまさるお顔の輝きをもって、颯爽さっそうと勝利者のごとくに帰り給うたのでありますから、人々の驚き方も尋常一様ではありませんでした。イエス様はツカツカと弟子たちに近づき、「汝ら何を彼らと論ずるか」と聞かれた。弟子たちが赤面して答えを躊躇ちゅうちょしているうちに、群衆の中から一人叫び出した者があります。
 師よ、唖の霊にかれたるわが子を御許に連れきたれり。霊いずこにても彼に憑けば、痙攣ひきつけ泡を吹き、歯を食いしばり、そして痩せ衰う。御弟子たちにこれを逐い出すことを請いたれどあたわざりき。(九の一七、一八)
 そこでパリサイ人の学者たちが、得たりと弟子たちの無力を責めていたのです。それは直接イエス御自身の名に関する事柄でありました。群衆はこれを取り巻いて騒然としており、子は痙攣ひきつけて泡を吹き、子の父はほとんど絶望にひんして叫んでいたのです。
 天国の息吹いぶきを吸われた変貌の山から下りて見れば、これはまたなんという混乱無信仰の下界であるか。イエスは深く嘆じて言われました、
 ああ信なき代なるかな、我いつまで汝らとともに居らん、いつまで汝らを忍ばん。その子をわが許に連れ来たれ。(九の一九)
「汝らなんというだらしない状態だ。わが死はすでに目前に迫っているのに、汝らはいつまで信仰をもたないのか」という憤激がイエスの語気に感ぜられます。この子に憑いていた悪魔は特別に狂暴な霊でありまして、イエスの前に連れられて来た時もはなはだしい痙攣の状態を呈しました。父親は一とおり子供の病歴を申し上げた後、
されど汝何かなしえば、我らをあわれみて助け給え。
とお願いしました。弟子たちの無力に失望してか、イエス様に対する求め方まで控え目の言い方をしたのです。イエスは彼の言葉を鸚鵡おうむ返しに、
何かなしえば! 信ずる者にはすべてのことなしえらるるなり。
と答え給うた(九の二二、二三)。「何かなしえば」どころではない。イエスの力は無限であって何でもなしえるのだ。ただそれは信ずる者の信仰によって量り取られる。少しく信ずる者には少しく可能であり、すべてを信ずる者にはすべてが可能なのだ。
 幸いなるはこの父親でありました。子を助けたい親心の一心に、イエスの御言がただちに肺腑に徹してわかったのです。彼は言下に
我信ず、信仰なき我を助け給え。
と叫びました。「わが不信を助け給え」と言ったのです。イエスに対して満腔まんこうの信頼を捧げたと同時に、反射的に自己の不信仰を意識したのです。我々が本気になって一生懸命にイエス様を信じようとする時に、自分に信仰のないことを知る。しかしその時が最も信仰に近いのです。それは信仰そのものが私どもから出でる力ではなく、神から賜わる恩恵だからです。だからひとかど信じているつもりの時にかえって神に遠く、己が心の貧しさを意識する時かえって神様に近いのです。イエスの全能力を信じえるのは、自己の全無力を意識する時です。本当に「幸福さいわいなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」であります(マタイ五の三)
 父親の信仰告白によって、パリサイの学者と、イエスの弟子たちと、群衆と、病児との雑然たる世界に秩序の焦点ができました。イエスの力と愛とはこの焦点に向かってそそがれ、さしもたけき悪鬼のいたその子も癒されたのであります。一度は死んだごとくになりましたが、イエスがその手をとりて起こし給うたれば立ち上がった。後にて弟子たちが「我らいかなれば逐い出しえざりしか」とお尋ねしたところ、「このたぐいは祈りによらざれば、いかにすとも出でざるなり」と答え給うたほどに、強き悪霊でありました。しかし祈りによれば、いかなる悪鬼の霊でも打ち勝てないものはない。汝らはわが弟子たることを一つの地位のごとくに感じて信仰が形式的・習慣的になってしまい、祈りによってそのつど新鮮なる力をいただかないから、いかに型どおりわが名を呼んで骨折ってもだめであったのだ。イエスの弟子であるということは、その時その時に祈りによりてイエスと交じわっていることだ。弟子だという地位、名義、肩書だけでは悪鬼は追い出せないのだ、と教え給うたのであります(九の二六―二九)
 イエスが三人の弟子を率いて変貌の山から下りて来られたのは、「人の子が父の栄光をもて聖なる御使たちとともに来たり」給うことの予表でありました。山麓にいた人々は、イエスの再臨し給うときに見出ださるべき現世の縮図であります。その時イエスの御姿を見て、無用意な人々はなんと驚くことだろう。この世の知者・学者・宗教家たちはなんと周章狼狽して、イエスの前にコソコソと恥辱をこうむることだろう。この世の有力者から嘲笑せられ迫害せられていたイエスの弟子たちは、なんとイエス御自身の適時タイムリーの救援を感謝することだろう。悪鬼のかしらたるサタンは彼の時の短きを知りて、なんという暴れ方をすることだろう。しかしイエスは彼を捕え、最終の敵たる死とともに永遠の滅亡に投じ給うであろう。イエスの救いを熱心に待ち望む者にはすべて永遠の生命の恩恵が与えられ、イエスの名を恥じイエスの名に敵し、イエスの審判を無視する者はすべて名誉と生命とを失うであろう。要するにイエスの再臨による審判の有様が、一幅の名画のごとくに鮮明に描き出されたのであります。
 ピリポ・カイザリヤではイエスの十字架が明らかに語られ、ヘルモン山の頂ではイエスの復活が明瞭に示され、山の麓ではイエスの再臨が鮮やかに描かれました。十字架と復活と再臨、この最も重要なるキリスト教信仰の三支柱が、相次いで建てられたのです。ヘルモン山の三つ峰のごとくに壮観をきわめたる光景であります。まことにヘルモン山の数日は神の子としてのイエスの本質並びに神の国の理想を現実的に示したるものでありまして、伝道の始めにおけるヨルダン川の洗礼、並びに後エルサレムにて十字架につき給う時と相並んで、イエスの生涯における最高峰の御経験でありました。
[#改ページ]

第十章 エルサレムに向かう



一 ガリラヤを過ぐ


1 決死行

 ヘルモン山を下りたイエスは、異邦テラコニテの地方を去り、決然ヨルダン川を西に渡ってガリラヤに入り給うた。しかしこれは御自分の郷里に落ち着くためではありません。一路邁進、エルサレムに向かわれるためでありました。
 エルサレムでは近く、年一回の過越すぎこしの大祭が行なわれようとしていました。――ユダヤ全国から多数の国民が、この祭りのために上るであろう。今まで説いて聴かれなかった悔い改めの教えを、今一度この機会に国民大衆に訴えよう。幸いにして彼らがこの最後の機会において我に聴き従えば、イスラエルは救われ、神の国は成るであろう。
 しかし、おそらく彼らは聴き従わないであろう。のみならず、常に嫉妬しっとと敵意とに満ちてわが生命をさえ求むる祭司長、学者、パリサイの徒、ヘロデの党など、偽の指導者階級はとうてい我を黙認しないであろう。人々は我を殺すであろう。
 しかし、それが何であるか。我は神のため、神の真理を説くために生まれてきたのだ。そのために召されたのだ。今我が退けば、神の国は成らないのだ。わが生涯の意識は失われるのだ。行こう。死ぬべくば死のう。
 しかし、神は我を三日の後甦らせ給う。
 我は人々の罪によって殺されるのだ。人々の罪を負うて殺されるのだ。人々は我を殺して始めて自分たちの罪を知るであろう。自分たちの罪のいかに深きかを知り、始めて悔い改めの心を起こすであろう。そして我の甦りを見て、始めて我の神の子たるを知るであろう。生きて真理を説いても悔い改めなければ、死んで真理を示して彼らを救おう。生きるも神の国の成るため、死ぬるも神の国のためだ。行こう。――
 かく思い定めて、イエスは今ヨルダン川を渡り給うたのです。ローマの勇将シーザーは北方ガウル地方に出征中、ローマの兵乱を聞きて急遽引き返し、ローマに近きルビコン川の北岸に達したが、その手兵の寡勢であるためしばらく躊躇ちゅうちょした。しかしついに意を決して、断然ルビコンの川を渡ってローマに殺到した。これにより、熟慮断行することをば、「ルビコンを渡る」と言うことわざができました。イエスが今十二人の弟子を率いて「ヨルダンを渡り」給うたのは、まさにシーザーに数倍する決死行でありました。
 目的地はエルサレムです。途中で、事に妨げられたり人に引き止められたりしてはなりません。ですから、従来の伝道地たるガリラヤを通過せられるにあたり、特に人に知られぬよう注意を払われました。路々みちみち弟子たちに教えを説かれ、かつ「人の子は人々の手に渡され、人々これを殺し、殺されて、三日の後甦るべし」ということを語られながら、静かに南に進んで、ついにカペナウムの家にいったん帰り給いました(九の三〇―三三)

2 大なる者

 イエスはみちすがら、エルサレムにて御自身を待つ運命について明瞭に語り給うたのですが、弟子たちにはどうしても本気にそう思えない。何だか薄気味が悪いが、へたにお尋ねすれば、ピリポ・カイザリヤにおけるペテロのごとく、またこっぴどく叱られるかもしれない。それで、この問題はそのままにしておいて、お互いの間で誰がいちばん大なる者であろうかということを、論じ合いました。これから先生がエルサレムへ乗り込めば、いよいよ神の国は来るであろう。そうすれば、我々のうち誰が最も高い地位につくであろうか、という議論でありました。十字架を経ずして神の国が来、罪の悔い改めをせずに神の国に入れると思うのは、安価な楽観論者の常です。イエスは神の国を来たらせるために生命を棄てることを思うておられるのに、弟子たちの心は神の国における利己的な地位争い、勢力争いに向いたのです。師の心弟子知らず、何とも言えぬ悲しいことです。
 弟子たちの議論を途々みちみち小耳にはさまれたイエスは、カペナウムの家に入られた後「汝ら途すがら何を論ぜしか」と問われました。さすがの弟子たちも良心がとがめて、一同黙然としていました。イエスはそこに遊んでいた幼児を抱き上げて愛撫しながら、弟子たちに教えて言い給うた、
 人もしかしらたらんと思わば、すべての人のしりえとなり、すべての人の役者えきしゃとなるべし。おおよそわが名のためにかかる幼児の一人を受くる者は我を受くるなり。我を受くる者は、我を受くるにあらず、我を遣わしし者を受くるなり。(九の三五―三七)
 神の国には大なる者、首たる者がいないというのではない。しかしその首たる者はすべての人に仕える者であって、多くの人を召し使う者ではない。汝らはこの世の標準で神の国のことを考えている。それが根本的の間違いである。神の国には神の国の標準がある。そして神の国の民たる者は、神の国の標準をもってこの世のことをも考えねばならないのである。
 幼児は心の清い、単純な者です。弱い、抵抗力のない者です。持っている者は、容易に手をねじって取り上げられ、しかも泣き出すよりほかには訴える言葉さえ知らない。しかし神の国は、実は幼児のような心の持ち主の国なのです。「幸福さいわいなるかな、心の貧しき者」、「幸福なるかな、悲しむ者」「幸福なるかな、柔和なる者」等々、「天国はその人のものなり」とイエスの祝福し給うた部類の人々はたいがい幼児の性格なのです。天国は、「我こそ大なり」「我こそ有資格者なり」と、己にたのむところある者の行く場所ではありません。
 イエスは幼児を抱き上げて、幼児を受くる者はイエスを受くる者である、否神を受くる者であると言い給いました。しかし、ただ可愛いというだけで幼児を抱く者は、必ずしもイエスを受くる者とは言えません。それは単なる人間的な自然の感情です。「イエスの名のために」受けるのでなければいけない。「イエスの名のため」とは、イエス御自身のため、イエスの心の満足せられるため、すなわちイエスの心を心とするものです。イエスは幼児のような、心のすなおでかつ力無き者を愛し、彼らに天国を与えるために御自身の生命を棄て給うのです。その心をもってすべての人、特に弱者、無力者、罪人のために仕える者がイエスを受け、父なる神を受けるのです。イエスの名のために、世の最も弱き者よりもなお弱くなり、最も罪ある者よりもなお罪を負う者が、神の国にて大なる者となるのです。

3 付く者

「わが名のためにかかる幼児の一人を云々」と語り給うたイエスの御言から、ヨハネは一つの事件を思い出しました。「ああ、そうそう、先生の御名によって悪鬼を逐い出す者を見受けましたが、我々の仲間について来ないから、これを止めました」(九の三八)。おそらくヨハネは、先に立ってこれを止めた一人であったのでしょう。そして今得意気に、自分の忠義ぶりを報告したのです。ところが、イエスは答えて、「止むな」と言われた。
 止むな、わが名のために能力ちからある業を行ない、にわかに我をそしりうる者なし。我らに逆らわぬ者は我らに付く者なり。(九の三九、四〇)
 マタイ伝(一二の三〇)、ルカ伝(一一の二三)にはこうあります。
我とともならぬ者は我にそむき、我とともに集めぬ者は散らすなり。
 一方は、「我に反対せざる者は我に付く者なり」と言われ、他方は「我に付かぬ者は我に反対する者なり」と言われているのですが、これは一つの真理を積極的と消極的と両方面から教えられたので、決して矛盾するのではありません。イエスに対する人々の態度は敵か味方かに分かれるのであって、中途半端ということはありえない。イエスに逆らうなら逆らう、逆らわないなら逆らわない。イエスと偕であるなら偕、偕でないなら偕でない。逆らうがごとく、逆らわぬがごとく偕なるがごとく偕ならぬがごとく、ということはできません。神の国に入るか、入らないか、いずれかに所属を決めなければなりません。
 マタイ伝およびルカ伝での御言は、イエスの弟子たる者に向かっての態度決定の御要求であって、きつい御言です。これは弟子たる者の自己批判の標準を示されたのです。自己批判はきつくなければならない。自己弁護は醜悪です。これに反しマルコ伝での御教えは、他人に対する批評の標準を示されたものであって、寛大であり、弁護的であります。他人に対する批判はえてして偏狭苛酷となり、党派心、宗派心に帰しやすい。彼らもイエスの名のために働いている限り、一応善意に解釈して、やはり我らの同志として見なければならない。彼らが偽物であるかないかは、彼のなす業の能力によって時が制定する。当面の敵は強大であり、神の国の戦線は広い。我らがエルサレムにて戦おうとしている戦いは、乾坤一擲けんこんいってきの激戦なのだ。汝らは共通の敵を意識しなければならない。党派的分派主義にとらえられてはいけない。ヨハネよ、汝の党派心は、カペナウムへの途すがら汝らが互いに「誰か大ならん」と論じ合ったのと同じ利己心だよ。個人的にせよ団体的にせよ、すべて利己心をもってする者は我にかなわない。我は「わが名のために能力ある業を行なう者」を要するのだ。汝は神の国のことを、公のことを思わねばならない。我を個人的に、私的に独占しようというような、利己的愛着は我を喜ばせないのだ。――

4 つまずかす者

 前の「我らに逆らわぬ者は我らに付く者」という御言から、イエスに「付く者」に対する態度のことにお話が移りました。
 キリストの者たるによりて、汝らに一杯の水を飲まする者は、我まことに汝らに告ぐ、必ずその報を失わざるべし、また我を信ずるこの小さき者の一人をつまずかする者は、むしろ大なる磨臼ひきうすを首にかけられて、海に投げ入れられんかたまされり。(九の四一、四二)
 キリストにつく者は、世にありて乏しき者、悲しむ者、さげすまれる者である。我自身がそういう者である。そのことは、汝ら今まで我に付き随って、よく見てきたところでないか。汝らは一杯の水にも乏しきことがあろう。その時汝らに一杯の水を飲まする者は幸福なるかな、必ずその報を失わないであろう。ただし、汝らがキリストの者たるにより与えられる慈善が、最大の効果をもつのだ。それはキリスト自身にささげられた愛として受けられる。人のすべての行為は、キリストに対する態度いかんによって価値づけられるのである。すべての行為は、キリストを目標として行なわれねばならない。
 これに反し、我を信ずる者、ことにその中の小さき者をつまずかする者は禍なるかな。むしろ大きな磨臼を首にかけられて、海に放り込まれるほうがましだ。最小なる者をつまずかせる者に最大の刑罰がある。それはキリストの心に重傷いたでを負わせる者だからである。――ここに磨臼と言われたものは、女が手でひく小さい磨臼ではなく、驢馬ろばにひかせる大きな磨臼です。この世の人はイエスの御言を聞いて、「なんという極端な言だろう。キリストしゃというものは過激な物の言い方をするものですねえ」と驚き咎めます。しかしだ、真理と虚偽との峻別をするためには、これほどの御言でもまだ足りないのです。イエスを信ずる小さき者の一人を受けるかつまずかせるかは、神の国の民たる者の根本的性格に関する重大問題なのです。これはイエスの心の問題です。私どもが世人からきかれる質問の中には、いろいろ面食らうことがありますが、「貴下の崇拝する人物は誰か」というのも、そのいちじるしい一つです。ナポレオンでもなく東郷大将でもなく、ソクラテスでもなくルッターでもない。しいて崇拝する人物と言えば、イエス・キリストだけです。その他の人間については、「大なる者」をあがめることでなく、「小さき者」を顧みる心を、私どもはイエス様から教えられているのです。みずから大なる者となって、人々から尊敬せられ、かしずかれることでなく、すべての人のしりえとなり、すべての人の役者えきしゃとなることが私どもの生活態度であるべきごとく、偉人崇拝でなく、弱者に対する憐憫が私どもの人間観でなければなりません。優れた人物を崇めることは異邦人でもすることであって、キリスト者の特色ではない。キリスト者は「小さき者」をつまずかせない者です。それは、イエス御自身が「そこなえるあしを折ることなく、煙れる亜麻を消すことなき」人であられたからです(マタイ一二の二〇)
 傷える葦! 煙れる亜麻! 性格的にも肉体的にも弱く見栄みばえなき人々がいます。彼らは己の弱いことを知っているから、イエスを信ずることだけを頼りとして生きているのです。彼らは、傷える葦よりも弱き神経の持ち主です、煙れる亜麻よりも陰気な性格の持ち主です。しかし彼らはイエスを信じ、イエスは彼らを愛しておられるのです。この小さき者の一人を踏みつけて泣かせた者は、イエスの御言を聞いて言いようのない苦い悔恨が、心にあふれます。なんという、イエス様の心に遠いわが心であるか! どうかわが罪を赦して下さい、汝の心を我に与えて下さい、とイエスに祈るのみです。
 ペテロ、ヨハネなどつよき性格の人間が、この柔和なイエスの心をわがものとするまでには、ずいぶん時を要したでしょう。これを学ぶにあたり、最も役立ったものは、己れ自身乏しき者とせられ、弱き者たるを知ることであります。イエスの弟子は、この世にありては「小さき者」です。そして物質的にせよ精神的にせよ、乏しき者、弱き者、小さき者が最もイエスの愛を受けるのです。富める者強き者大なる者が権力を振るっている世にあって、イエスは彼らを憐れみ、彼らをかばっておられるのです。「キリストの者たるによりて」「イエスを信ずる小さき者の一人たるによりて」、ただそれだけの理由によって、かほどまでの注意と庇護をイエス様から与えられようとは!
 これは弟子たちに対する教えであるとともに、また慰めの御言でありました。

5 切りて棄てよ

「小さき者の一人をつまずかす」という御言から、今度は、弟子たち自身の心の中にある「つまずき」のことにお話が移りました。つまずきは他人からも与えられますが、しかし最も怖るべきつまずきの原因は、外からくるものではなくて、己が心の中から出るものであります。
 もし汝の手汝をつまずかせば、これを切り去れ。不具かたわにて生命に入るは、両手ありて、ゲヘナの消えぬ火に往くよりも勝るなり。もし汝の足汝をつまずかせば、これを切り去れ。あしなえにて生命に入るは、両足ありてゲヘナに投げ入れらるるよりも勝るなり。もし汝の目汝をつまずかせばこれを抜き出せ。片目にて神の国に入るは、両目ありてゲヘナに投げ入れらるるよりも勝るなり。「彼処かしこにてはそのうじつきず、火も消えぬなり」。(九の四三―四八)
 ゲヘナとは「ヒンノムの谷」という意味で、エルサレムの西南にある谷です。ここはエルサレム市民の不浄物の焼却場でありました。「ゲヘナの消えぬ火」という語は、地獄の火という意味に用いられたのです。両手、両足、両眼を揃えてこのゲヘナの火に投げ入れられるよりも、片手、片足、片方の目で神の国に入るを選べ、との御教えです。またしても激しい御言です。しかし、過激ということはできません。事柄はそれほどに真剣なのです。神の国に入るか入らないかの問題なのです。
 我らの肢体に宿る罪の怖ろしさを知る者にとって、これは事実の真相を道破した御言であって、決して過激ではありません。「肉の欲、目の欲、所有の誇り」は、神の国に入る妨げです(ヨハネ第一書二の一六)。我らはそのことを知っています。そうして、再びそれにとらえられまいと決心するのですが、知りつつも、また決心しつつも、おのずから差しのべられるこの手、自然に向くこの足、そそがれるこの目はなんとしたことであろう! 驚愕と悔恨の念に満ち、一刀両断、これを切って棄てたいと思う。この御言に従い、己が情欲の現われる最も弱点とする部分の肢体を、文字どおりに切断した人もあるのです。しかしそれは愚かです。肢体を切断しても情欲はなくならない。手足を切り去っても罪は消えない。イエスの命ぜられたのは、そんな外形の問題ではありません。言うまでもなく、心の問題です。罪の悔い改めです。悔い改めというのは、それほどに激しい断固たる、はっきりした事柄です。どんなに捨て難くとも、どんな弁解がつこうとも、どんな同情すべき境遇でも、肢体に宿る罪の楽しみとは断固として絶縁せねばならない。実行できなければ、実行できるよう必死に祈らねばなりません。これは原理の問題ですから、一歩も譲れません。そしてかかる種類の問題においては特に、一度の実行は百度の祈願よりも大なる力を与えるものです。いくら激しく苦しくとも、神の国に入りて永遠の生命を得るためには、断固としてこの戦いに打ち勝たねばなりません。

6 火をもて塩つけよ

 イエス様は「ゲヘナの消えぬ火」の怖るべきことについて、イザヤ書第六十六章二十四節を引用して「彼処にてはその蛆つきず、火も消えぬなり」と語り給いましたが、その「火」という言に関連して、
それ人はみな火をもて塩つけらるべし。塩は善きものなり。(九の四五、五〇)
と、話を進められました。レビ記二章の十三節に
 汝素祭をささぐるにはすべてを塩をもてこれに味つくべし。汝の神の契約の塩を汝の素祭に欠くことなかれ。汝そなえ物をなすにはすべて塩をそなうべし。
とあります。人は自己の供え物をきよめずしては、至聖なる神の御前に献げることを得ません。いわんや神の国の民たる者は己自身、己の肢体に宿る思想や欲情をば、塩をもってきよめなければならない。否、塩よりももっと強いもの、もっと激しいもので浄めねばならない。すなわち審判の火をもって浄むべきである。人は自己に「契約の火」をそえて、始めて神の国に入ることができる。骨の髄までよく審判の火を通して、始めて神の前に立てるのだ。――こういう意味でイエスは、「火をもて塩つくる」という新しい表現をお用いになったのです。

7 塩を保て

 話題は「塩」に移りました。
 塩は善きものなり、されども塩もしその塩気を失わば何をもてこれに味つけん。汝ら心の中に塩を保ち、かつ互いにやわらぐべし。(九の五〇)
 塩をつけると傷口が痛む。しかし、それによって防腐剤としての効用があるのです。また塩はしおからい。しかしそのしおからきことによって、調味料としての効用があるのです。ぼけた塩ほど役に立たぬものはない。外にき出されて、人に踏まれるだけです。汝ら、罪に関する感覚を常に敏感ならしめよ。罪の傷口に、塩のしむ痛さを感ぜよ。聖言は汝らの塩である。これによって汝は防腐せられ、汝の罪は癒される。聖言に接して己が罪の傷口の痛みを感ずる者は、塩がいているのだ。痛くとも我慢して、十分に罪の審判を受けよ。これによって汝は常に新鮮に罪の赦しの恩恵を感謝し、永遠に神の国の民たるを得るのである。永遠の生命は常に新鮮なる生活であり、生活の新鮮は聖言の塩の効力である。罪の感覚の鈍磨したるキリスト信徒ほど、役に立たぬものはない。本当に「何をもてこれに味つけんや」だ。
 汝らの心の中に塩を保てば、ひとり自己を腐敗より救うのみでなく、汝ら相互間にやわらぎを得るのである。神の国は平和、寛容、節制である(ガラテヤ五の二二、二三)。汝らはみちすがら、「誰か大ならん」と互いに争うたではないか。それは聖霊の果ではない。キリストの心ではない。聖言の効力ではないのだ。汝らは情欲と傲慢ごうまんとを捨て、平和と謙遜とを保たねばならぬ。――かく言って、イエスのお話は、最初の出発点に帰りました。

 こういうふうにイエスは、十二人の弟子に向かって、路上で、または家の中で、前の言葉もしくは思想を受けてはつぎつぎにと、いろんな問題について教えられたのです。右の足が出れば左の足が出るというふうに、リズムをもって連続した、いきいきしたお話の仕方でありました。しかしそれは雑然と諸種の問題を羅列せられたのではありません。近く十字架にかかり給うについては、弟子たちによくのみ込ませておきたいと思われた一つの中心問題、すなわち神の国の民たる者の性格並びに決心について、懇切に、しかも激越に、教え給うたのです。イエス様の語気の力が、ヒシヒシと身に迫るを感じます。それは神の国に入るということがいかに重大な問題であるか、またイエスの十字架にかかられるあとを承けて神の国のために働くべき弟子たちの使命がいかに重大であるかを、力説しておられるからです。

二 ヨルダンのかなた


1 離婚問題――心の硬き者


 カペナウムの家で旅装を新たにせられたイエスは、さらにエルサレムへの旅を続けられ、ガリラヤの南部、ユダヤ州との接壌地方から東に転じて、「ヨルダンのかなた」に渡り給いました。「ヨルダンのかなた」というのはこの地方の名称で、一名ペレヤとも言い、ガリラヤと同じくヘロデ・アンチパスの領内でありました(この地方は今日でもトランス・ジョルダン〔すなわち「ヨルダンのかなた」の意〕と呼ばれ、イギリスの委任統治地となっている)。ガリラヤの南はサマリヤ、そのまた南はユダヤで、サマリヤとユダヤとが合してローマの直轄領たるユダヤ州を成していたのであるが、ガリラヤからエルサレムに上るには半異邦化したサマリヤを通過するのを避け、ヨルダン川を東に渡り、ペレヤを南下し、エリコからユダヤに入った。これが普通の道筋でありました。
 イエスがこの地方を通過し給う時、群衆がまたも身許に集まってきたから、いつものように教えておられた。そこへパリサイ人らがやって来て、「人その妻を出すはよきか」、すなわち合法的であるか、律法に許されているか、と質問しました。イエスは答えて、「モーセは汝らに何と命ぜしか」と逆に問われた。彼ら言う、「モーセは離縁状を書きて出すことを許せり」(一〇の一―四)
 パリサイ人がこの質問を持ち出したのは、イエスを「試み」たのです。すなわちわなを設けてイエスを陥れようとする悪意から出た問いでありました。問題となった離婚についてのモーセの律法の本文は、
 人妻を取りこれをめとれる後恥ずべき所のこれにあるを見てこれを好まずなりたらば、離縁状を書きてこれが手にわたし、これをその家より出すべし。(申命記二四の一)
というのです。その解釈についてパリサイ人の間にも二説あり、当時解釈上の難問でありました。厳格派は、淫行の場合以外の離婚はすべて合法的でないと主張するに対し、ゆるく解釈する一派は、淫行以外にも離婚の合法的事由を認めた。そして当時の一般的風潮としては、だんだんこの問題をゆるく解する傾向になっていた。奇態なことです。安息日に麦の穂を摘まないとか、食事の際手をきよめるとか、そういう日常生活上の形式的な習慣についてはたいそうやかましく言って、離婚のごとき道徳問題については非常にゆるやかになった。この一事をもってしても、当時のパリサイ人の教えがいかに腐敗していたかがわかる。そういう者の前に、心の清さを重んじ給うイエスが立たれたのですから、争いにならざるを得ない。
 それのみでなく、この問題には時事問題としての重要性がありました。ガリラヤおよびペレヤの領主ヘロデ・アンチパスはアラビヤの王女たるその妻を離縁して、義兄弟ピリポの妻ヘロデヤを娶り、ヘロデヤは自分の夫ピリポを棄ててヘロデ・アンチパスと結婚したのです。この両人の離婚並びに結婚は律法の解釈として是認せられえるか否か。洗礼者ヨハネはこれをもって不法であると言ったかどにより、ここペレヤなるマケラスの獄に長くつながれた後首をはねられた。この問題について、イエスは何と言うだろう。もしヨハネと同意見だと言えば、ヘロデの手によってイエスを失わせることができよう。またもし意見を異にすると言えば、ヨハネの後継者として博している彼の人気を、群衆の目の前で失墜せしめてやろう。――かかる悪意を胸にいだいてパリサイ人はこの解釈上並びに実際上からみ合った難問を持ち出したのでありました。
 イエスは悪意ある敵の質問を受けた時は、いつでもただちに解答を与え給わず、まず一歩退いて敵をして打ち込まさせ、そのからだの伸びた隙に向かって致命的の一撃を与え給う。多くの場合にもイエスはまずパリサイ人の口をもってモーセの律法を説明させた後、静かに答え給うた。――
 結婚についての汝らの考えはその程度にとどまっているのか。モーセが離婚を許したのは、汝らの心がかたいからだ。(「無情」とあるのは硬いこと。柔らかの反対。)されど聖書に記されたるごとく、創造の始めから「人を男と女に造り給えり」(創世記一の二七)、「かかるゆえに人はその父母を離れて、二人の者一体となるべし」(同二の二四)である。だからもはや二人ではなく、一体なのだ。このゆえに神の合わせ給いし者は、人これを離すべからざるものである(一〇の五―九)
 パリサイ人がモーセの律法の解釈として離婚の合法的なる場合について論争する間に、イエスは創造の根本的なる原理に基づいて離婚そのものの合法性を否定せられたのです。パリサイ人らが構えたわなには土鼠もぐらはかかるかもしれないが、小鳥のように天空高く飛び上がるイエスはかかり給いません。


「人妻を取りてこれを娶れる後、恥ずべきところのこれにあるを見てこれを好まずなりたらば」――現実の問題として、すべての結婚が幸福ではありません。妻もしくは夫に精神的・性格的、また肉体的に不満足な点のあることを、結婚後に発見する場合は少なくないでしょう。そして愛情の冷却を自覚する時、夫は妻をすて、妻は夫を離れ、おのおの新しき結婚関係に入りてさしつかえないというのがパリサイ人の解釈であり、近代の自由恋愛、友愛結婚等を主張する女性主義者に至っては、さしつかえないどころか、権利である、美事である、として推奨するところです。しかし、イエスの教えはこれと全然高度を異にします。
 イエスは常に物事を神の理想において考え給います。創造の原理たる神の理想においては、男女の結婚は一体であって、離婚は絶対的に認められない。たとい姦淫のゆえでも、離婚は正当でありません(マタイ伝一九の九には、「淫行のゆえならでその妻を出し云々」とイエスが言われたことになっているが、マルコ伝ではかかる除外例なく、無条件絶対的に離婚を認めない。マルコ伝の方がイエスの御言の原形であろう)。実際上の便不便、法律上の合法不合法の問題を超えて、神の理想はいかなる場合にも離婚を許容しません。もし結婚の現実が結婚の理想を離れていれば、現実の水準に引き下げて理想を解釈すべきでなく、反対に理想によって現実を支え、現実を指揮し、現実をば理想の水準に基づいて解釈すべきである。これが神の国の民たる者の生活態度です。神の理想は現実界に対しては啓示として与えられ、現実界は義務としてこれを受け取る。結婚の維持は好悪愛憎の感情問題ではなく、神の理想に基づく人間の義務です。この神に対する義務の上に、結婚の神聖と離婚の絶対不可が成り立つ。快楽本位の結婚観は人間から出、義務本位の結婚観は神から出る。そして真の幸福は義務の堅き巌からほとばしり出でるのです。
 モーセが離婚を許したのは、人の心が硬くて、創造の原理たる神の理想を素直に受け入れないから、世人に実行できる程度に水準を引き下げて律法が作られたのである。人間の自然性はこの律法さえも窮屈がり、何か抜け道はないか、何か解釈によって骨抜きにできないかと、楽に守ってゆける程度にまでこれを引き下げようとする。これは道徳律を守るについて本能との妥協を策するものであって、道徳生活上最大の誘惑です。そして理想と現実とは異なるとか、理想は結構だが実行不可能であるとか、世の中は理想どおりゆきません、などとすましている。かくしてりっぱな道徳体系も塩気を失い、全く骨抜きとせられ、白く塗りたる墓、悪鬼の巣窟と化するのです。パリサイ人しかり、カトリックしかりです。
 イエス様はそういう人間的な道徳観念、自己の現実や欲望に都合のよいように道徳律の解釈を立てようとする態度を打破して、神の高さ、深さにまで人の道徳観念を引き上げられた。人はすぐに実行の可能不可能を言いますが、イエスは常に理想の純不純を指摘せられます。自分たちの生活に都合よき水準にまで神を下すのでなく、神の標準から自分たちの生活を判断し、行動せしめなければならない。これがイエスの道徳観でありました。


 パリサイ人の質問に対するイエスのお答えを傍聴していた弟子たちにも、その深い意味がよくわからなかったものですから、家に入りて後またこのことをおききしました。それに対し、
 おおよそその妻を出して他に娶る者は、その妻に対して姦淫を行なうなり。また妻もしその夫を棄てて他に嫁がば、姦淫を行なうなり。(一〇の一一)
と答え給うた。すなわちヘロデは姦夫であり、ヘロデヤは姦婦である。両人ともその離婚は姦淫にして明白なる不合法である、とのことであります。群衆やパリサイ人のいない所で、この具体的問題に対する具体的な答えを与えられたのでしょう。

2 幼児問題――心の柔らかき者

 その時、イエス様に触れていただきたいと思って幼児を連れて来た人々がありましたが、弟子たちがうるさいと言ってこれをとめた。それを見てイエスは激怒を発せられ、
 幼児らの我に来たるを許せ、止むな、神の国はかくのごとき者の国なり。まことに汝らに告ぐ、およそ幼児のごとくに神の国を受くる者ならずばこれに入ることあたわず。
と言い給い、触れるどころでなく抱き上げて、手をその上に置いて幼児を祝福し給いました。幼児を愛せられるイエス様の御姿が目に見えるようです(一〇の一四、一五)
 教会ではこのところに基づいて幼児洗礼の可否を論ずるそうですが、妙なことを議論するものです。イエス様はそんな問題を言っておられるのではありません。幼児のように心の柔和な者でなければ神の国に入れない、という問題なのです。モーセが許したから離婚は合法的であるとか、幼児の我に来たるを許せとイエスが言われたから幼児洗礼は合理的であるとか、そういう具合に議論をするのは心の硬い証拠です。幼児の心には打算もなく、理屈もない。自己の力をたのまず、無力をかこたない。幼児のように単純な、素直な、柔らかい心に、神の国の印は明瞭に押され、神の国の理想は何らの割引もなく、何らの注釈もつけられずに、そのままに受け取られるのです。
 今が、今、離婚問題に関して心の硬きことを戒めたばかりであって、その声がなお汝らの耳に残っているはずであるのに、汝らは早くも心柔らかな幼児の我に来たるのを妨げている。汝らはそれほどまでに心が硬いのであるかと、イエスは弟子たちの「無情」に思わず憤りを禁じなかったのでありました。

3 富める青年――捨てぬ人


 イエス様が宿った家を出てまた旅路に立たれた時、一人の身分のよい青年が走りきたってひざまずき、尊敬と熱心と面にあふれて、
き師よ、永遠の生命をぐためには、我何をなすべきか。(一〇の一七)
とお尋ねした。「永遠の生命を嗣ぐため」とは「神の国に入るため」ということであって、人生これ以上の真面目まじめな質問はありません。イエスは一見してこの青年の真面目な態度をいつくしまれた。しかし普通の意味の真面目ぐらいでは、神の国には入れません。だからいきなり、
何ゆえ我を善しと言うか、神ひとりの他に善き者なし。(一〇の一八)
と、強い反撃を加え給うた。これは決してつまらない言葉尻の詮索ではありません。片言隻句から深い教訓を導き出す、いつもの偉大なるイエスの教育方法でありました。
 汝は「善き師よ」と言う。しかし善とは何であるか。汝は世間普通の意味で漠然ばくぜん善と言っているにすぎぬでないか。善とは普通に道徳家の言っているよりも、はるかに深いものなのだ。善とは神である。神のほかに善はない。汝が善というのは、人の社会における相互的・相対的の道徳を考えているにすぎない。しかし本当に善というのは、神の前にただしきことである。これが絶対的の善である。人間お互いの間の道徳は、神の前における絶対的の善に根源する。神に対して善であることが、人に対する善の基礎である。そこまで道徳をつきつめなければ、汝の善の意識は浅薄である。悪も同様、悪の本源は人間お互いの相対的な罪悪ではない。神の前に義しくないことがすなわち悪である。これが絶対的の悪である。すべての不道徳をここまで突きつめなければ、汝の罪悪観は浅薄である。汝は私のどの点を認めて「善い」と言うのか。話が善いとか、なすことが善いとかいうだけのことならば、善についての汝の意識は世間普通の道徳の程度にとどまり、神にまで届いていない。私は神にありてのみ善でありえ、神から離れては「善き師」ではありえない。私を善と認める者は、私が神の子であることを信ずる信仰に至らねばならぬ。汝そのことを信ずるか。――


 この青年の質問は、「永遠の生命を嗣ぐためには、我何をなすべきか」ということであった。何かなせば神の国に入れると思っている。まずその頭から直してやらねばならない。イエス様は今度はやわらかくお答えになりました。
 誡命いましめは汝が知るところなり。殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、偽証を立つるなかれ、欺き取るなかれ、汝の父と母とを敬え。(一〇の一九)
 これはモーセの十誡中の、周知の誡命であります。ことに、「わが面の前に我のほか何物をも神とすべからず」とか、「自己のために何の偶像をもきざむべからず」とか、神に関する誡命ではなく、平凡な人倫の義務を挙げ給うたのです。換言すれば十誡のうち宗教的方面でなく、道徳的方面の誡命を列挙せられたのです。これは、神の国に入るのは観念上の問題でなく、道徳上の問題だからであった。
 イエスの言を聞いて青年はやや安心して、
師よ、我幼き時より皆これを守れり。(一〇の二〇)
と答えた。これはいばって言ったのではありません。真面目さが顔に現われており、謙遜な善い態度だったに違いない。なぜならばイエスはこれを聞かれて、愛のまなざしをじっとそそぎつつ、「そうだね、しかし汝になお一つ足りないことがある」と言い給うたからです。「たった一つのことならば」と青年は勇み立ったでしょう。しかしイエスの御言は全く意外であった。
 往きて汝のもてる物をことごとく売りて貧しき者に施せ。さらば財宝を天に得ん。かつ来たりて我に従え。(一〇の二一)
 この一言で、富める青年は心を突かれてしまった。彼はこれまでも慈善を行なってきたに違いない。しかしそれは元本に傷をつけないで利子の一部を与えるか、もしくは自己の生活を犠牲にしない程度で財産の一部をいたにすぎない。財産を全部棄てる! そんなことは今まで考えたこともなかった。「さらば財宝を天に得ん」という行き届いた奨励の御言がつけ加えられてあったのですが、青年はその意味を味わおうともせず、憂いを催して悲しみつつ去っていきました。
 神の国に入るのは宗教的観念の問題ではなく、道徳的実践の問題です。しかも世間普通の道徳の標準でなく、神の国の道徳に従わねばなりませぬ。この高き標準によりて要求せられる時、最も手近の道徳さえ完全に実行しえない自己を見いだすでありましょう。汝は何か善いことをなして神の国に入ろうと求めている。汝の態度は真面目だ。しかし普通の「真面目な青年」くらいでは、とうてい神の国へは入れないのだ。否、自己の道徳力に恃む心を砕かれぬ限り、汝の真面目そのものが神の国に入る妨げである。汝は財産をさえ棄てえない。汝自身には、神の国に入るために要請せられる標準において、何一つ道徳を守りうる力はないではないか。神の国に入るのは道徳的問題だ。しかしそれは「何をなして」入りうるかという問題ではない。「いかなる心をもって」入りうるかという問題である。何かをなして入るべきものとすれば、神の国に入りうる人は一人もないのだ。自己の道徳的無力を知りたる者だけが、神の国に入りうる心を与えられる。汝の心が柔和とならぬ限り、汝はまだ神の国を知らぬのである。――これがこの青年に向かって、イエスの教えんと欲し給うたところでありましょう。


 惜しいことには、この青年はイエスの深い教えをわからずして去りました。それを見送ったイエス様は弟子たちを見まわして、「富ある者の神の国に入るはいかに難いかな」と嘆ぜられたので、今度は弟子たちが驚いた。その様子を見て、
 子たちよ、神の国に入るはいかに難いかな。富める者の神の国に入るよりは、駱駝らくだの針の孔を通るかたかえって易し。
と言われたから、弟子たちはますます驚いて、「さらば誰か救わるることを得ん」と叫びました。イエスは富める真面目な青年にいつくしみの目をそそぎ給うたごとく、これらの貧しき素朴なる青年弟子にも愛しみの目をめて、
人にはあたわねど神にはしからず。それ神はすべてのことをなしうるなり。
と諭し給いました(一〇の二三―二七)
 世間普通の意味でいちおう真面目な人物と、自他ともに認めるような人でも、神の国の道徳の標準に照らされる時、精神的にか物質的にか棄て難き意外な執着を、自分の中に無意識にいだいていたことを発見します。そして永遠の生命を嗣ぐために財産にせよ、道徳にせよ、家庭の快楽にせよ、本能的なる欲望にせよ、自己の執着を切り棄てよと要求せられましても、それは人の力には余ることです。人の力では容易に決心できず、たとい決心しても実行できない。
 しかし神の国に入るための道徳が神の標準において示されるごとく、神の国に入るための実行力も神の側において備えられております。神様は、神の標準において道徳を提示しながら、人の力にてこれを実行することを要求するような無理をなさいません。人の無力の状態をよく御存じなのです。だから神の国に入ろうと求める者が、神の国の高き道徳標準を示された時にとるべき当然の態度は、かのヘルモン山麓さんろくの悪鬼にかれた子供の父親のごとく、「我信ず、信仰なき我を助け給え」と即時に叫ぶことにあります(九の二四)。しかるに富める青年が自己の無力を悲しんだまま、なおおのれを投げ出しえずして去ったのは、まことに惜しみても余りあることです。
 この区別はどこからきたか。思うにこの青年の態度は道徳的ではあったが、永遠の生命を嗣ぐことをばなお思想的・観念的に考えていた。これに反しかの父親にとっては現実の生きるか死ぬるかの問題であったから、自己を投げ出して神の救いを求めたのです。「生命か滅亡か」の差し迫った問題として神の国を求める人は、神の国の高き道徳と自己の徹底的無力との間に挟まれてとほうにくれた時、神の国に入る狭き一つの門が開かれているのを、卒然として見いだします。これが信仰です。その門はキリストです。幼児のように柔らかな心の目であれば、この狭き門がおのずと目につくのです。

4 十二弟子――捨てた人


 この時ペテロはイエス様にむかい、「私どもは一切を棄てて汝に従いました」と言い出でました(一〇の二八)。本当に彼らは網と父と、地位と収入と、一切をすててイエスの伝道に最初から従いまつり、ずっと今日まで苦労をともにしてきた者です。それを思うてイエス様も感慨を催されたのでしょう、「まことに汝らに告ぐ」と答え給いました。これは、何か改まって大切なことを言い出される時のイエスの口癖くちぐせでありました。
 まことに汝らに告ぐ、我がため、福音のために、あるいは家、あるいは兄弟、あるいは姉妹、あるいは父、あるいは母、あるいは子、あるいは田畑をすつる者は、誰にても今、今の時に百倍を受けぬはなし。すなわち家と兄弟と姉妹と母と子と田畑とを迫害とともに受け、また後の世にては永遠の生命を受けぬはなし。(一〇の二九、三〇)
 棄てる方は「あるいは家、あるいは兄弟、あるいは姉妹……」であり、受ける方は「家および兄弟および姉妹……」となっていて、強さが非常に違う。家とか兄弟とか、どれか一つだけ棄てても、与えられるものは、家も兄弟もです。神様を信じきって、何か一つキリストの福音のため棄ててみろ、そうすれば受ける時は何もかもいっぱい受け取るのだ、そういう意味で百倍を受けるのです。
 それから、棄てる方では家、兄弟、姉妹、父、母、子、田畑、いずれも単数の形ですが、受ける方では皆複数で言われている。(受ける方には父という字がありませんけれども、これは大した意味はないでしょう。写本の間違いか、またイエス様もそういちいち、キチンと言われなかったかもしれない)。福音のために一人の母をすてるなら、代わりにたくさんの母を与えられる。一人の子をすてるなら、たくさんの子を与えられる。それは、イエスを信ずる者は皆わが母、わが子、わが兄弟姉妹だからです(三の三五)。財産でも同様です。福音のため財産を失って無一文になっても、信者がお互いの財産で助け合うから、自分の財産によっていた時よりもかえって生活が安定する。キリストのため財産をすてて、当人または遺族が生活に窮して野垂死のたれじにするなんてことはない。こういう意味でも、百倍を受けるのです。
 しかしただ数量的に百倍というだけではない。品質的に百倍もすぐれたものとして、家や兄弟や姉妹等々を受けるのです。それは「迫害とともに」受けるからです。迫害とともに受けるとは、火をもて塩つけられることです。塩をもって和らげられ、味つけられ、防腐せられたものとしてこれらを受け取る。ああ迫害苦難の中に味わう信仰の兄弟姉妹の愛の、いかに味善きかな! それはまことにキリストのため、福音のため、棄てた者だけの味わいえる百倍の賜物です。
 家や富をすてることから、キリスト教の歴史の中に多くの美しいことが起こってきましたが、一面にはいやな偽善も起きてきた。「貧」と結婚したと言われるアッシシのフランシスには胸のすくような清さがありますが、彼の亜流たる修道院の中には、外側は世をすてた形だが内は貪欲どんよく淫欲いんよくに満つるもののあることは、周知の事実です。すてることが偽善に陥らないためには、迫害の中において、棄てざるをえなくなった時に棄てることです。その時には自分の誇る余地がないから、神の恩恵を純粋に受けることができるのです。
 棄てると言いましても、神様は我々の小さな家や田畑がおいりになるのではない。神は犠牲や燔祭はんさいを求め給わない。神の求め給うものは心です。キリストのため、福音のために迫害苦難を受けても変わらぬ真心です。家や富を棄てるのは、神様に心を差し出したしるしです。目に見えるものを差し出すこともできない者は、目に見えぬ心を差し出すことができようはずがない。神の方では物はいらない。心がいる。だから私どもの心、すなわち私どもの生涯をすっかり神様に引き渡せば、神様は家や兄弟や姉妹や父や母や財産やを、数量的にも品質的にも百倍にして返して下さる。神の聖霊をもって塩つけて返して下さるから香気も百倍し、保存も百倍するのです。かくしてキリストのため己を棄てた者は、この生涯においてすでに百倍の転換と飛躍が起こり、以前とは全然異なる恩恵の生涯に入るのです。現世においてすでにそうだし、後の世にては永遠の生命を受けぬ者はない。


 マタイ伝によると、ペテロはイエスにむかい、「見よ我ら一切をすてて汝に従えり、さらば何を得べきか」と言っている(一九の二七)。この御褒美を期待した言葉はマルコ伝にはありませんが、「今の時に百倍を受け、後の世にては永遠の生命を受ける」とのイエス様の御言を聞いて、彼ら十二弟子は心ひそかに得意を感じ、会心のえみを禁じなかったでありましょう。そこでイエスは言を続けて、
されど多くの先なる者は後に、後なる者は先になるべし。(一〇の三一)
と言われた。「汝らは率先して私の弟子となり、一切を棄てて私に従っている。そのゆえに私は汝らを愛しみ、そのことを多としている。しかし汝らが慢心すれば、後から来た人が汝らを追い越して先になるぞ」――これは弟子らの高ぶりを戒めるためにつけ加えられた、行き届いた御注意でありました。実際なんという「善き師」であろう!

三 エルサレム街道



 旅路を重ねてしだいにエルサレムは近くなり、過越すぎこしの大祭のため上る群衆の歌いかわす京詣の歌は、一段と活気づいてきた。イエスの御心もひとしお緊張して、一人でぐんぐん先に行かれた。元来イエス様はからだの頑健な方ではなかったようです。かつてゲラセネ人の地に舟で渡られた時には、お疲れになって船頭の座席を枕にごろ寝をせられ(四の三八)、サマリヤの旅では暑さにあてられてヤコブの井戸の側に坐り込んでしまわれた(ヨハネ四の六)。後、十字架をかつがされた時には途中で歩けなくなってしまわれ、十字架の上でも息の絶えるのが非常に早く、普通の人なら一日間ぐらい生きているのに、イエス様はわずか五、六時間で亡くなられた。ガリラヤ湖の浪風で鍛えられた漁師上がりの弟子たちに比べては、はるかに弱かったのです。それが今は平生の御様子と異なり、凜然りんぜんとして先頭に立ち、弟子たちがとても追いつけないほどに速く、どんどん歩かれたものですから、弟子たちはびっくりした。それのみでなく、森厳たる必死の気魄きはくがイエスの五体から発して、ガリラヤよりお伴して来た婦人たちを始め、道連れの旅人まで、何かしら怖ろしい予感に打たれ、冷気が背筋をはって身震いするような気持でありました(一〇の三二)
 イエス様はしばらく足を止めて十二弟子の近づくのを待たれ、一緒に歩きながら話を始められました。体力の点では弟子たちの方が強かったが、たましいの力においてはイエス様は常に弟子たちよりも数十歩先におられた。イエス個人にとってみれば、足手まといの者は後に残して、一人でさっさと御自分の生涯の馳せ場を馳せられる方が、どれほど簡単で自由であったか知れません。しかしイエス様は十二弟子を教育して、神の国の福音の使徒たらしめるという任務をもっておられました。ですから、立ち止まって弟子を待たれたのです。そうでなければ私どもはとてもイエスについて行くことはできません。これは弟子たちの弱き歩調に足を合わせて下さるイエス様の愛でありました。
 イエスの語り出で給うたお話は、エルサレムにおいて御自分の身に起こらんとすることどもでありました。
 視よ、我らエルサレムに上る。人の子は祭司長・学者らにわたされん。彼ら死に定めて、異邦人に付さん。異邦人は嘲弄ちょうろうし、つばきし、むちうち、ついに殺さん。かくて彼は三日の後によみがえるべし。(一〇の三三、三四)
 このことを口にせられるのはこれで三度目ですが(八の三一、九の三一)、いよいよめざす都が近づくにつれ、いっそう差し迫った問題としてお感じになったに違いない。くり返してこのことを話されたのは、弟子たちの教育のためでありました。これだけお話があっても、その場になって彼らは度を失ってあわてたのでありますから、あらかじめお話にならなかったならば、弟子たちの信仰なんて跡形もなく消え去ったでしょう。お話があったればこそ、その場ではびっくりしたけれども、あとで御言をさとり、信仰に立つことができたのです。


 このお話のあった直後、十二弟子のうちヤコブ、ヨハネ、兄弟がそっと御許みもとに来て、
師よ、願わくは我らが何にても求むるところをなし給え。(一〇の三五)
とお願いした。何か腹に一物ある、いやに改まった、まわりくどい口のきき方です。求める内容が不純だから、それが態度にあらわれたのです。「何を望むか」とのイエスの問いに対して、両人の答えたところは、「汝の栄光の中にて我々兄弟を一人は右に一人は左に坐せしめて下さい。右大臣左大臣にして下さい」(一〇の三七)。はたして下らない名誉心でありました。イエスは十字架の苦難をくぐって後甦ることをくり返しお話になっているのに、弟子たちはこのエルサレム上りで神の国が実現すればその中でよい地位を占めたい、よい褒賞にあずかりたいと、いわば猟官運動、恩賞運動のような気持でいたのです。さきには「誰か大ならん」という地位争いが彼らの間にあったし(九の三四)、次にはペテロが「我ら一切を棄てて汝に従えり、されば何を得べきか」と恩賞を期待したし(マタイ一九の二七)、今またヨハネ、ヤコブ両兄弟のこの野心です。イエスは苦難を思われ、弟子は快楽を思う。イエスは霊を思われ、弟子は物を思う。エルサレムは近づいているのに、イエスの思いと弟子たちの思いとは、こんなにも差があるのです。イエスはかなしみをもって静かに答え給いました、
 汝らは求むるところを知らず。汝らわが飲む酒杯を飲み、わが受くるバプテスマを受けうるか。(一〇の三八)
 我とともに苦難の酒杯を飲み、死のバプテスマを受けうる力をこそ乞い求むべき時であるのに、それを求めずして地位と名誉とを求める。汝らは求むべきものを知らない。
 しかしヤコブとヨハネは元気よく答えました、「できます!」と。――何ができるものか。イエスが捕えられて十字架にかけられた時、汝らは師を棄てて逃げ去ったではないか。しかしそのことを今争ってもしかたがない。それはやがて事実が彼らに教えるところです。イエスは静かに言を続け給いました。
 汝らわが飲む酒杯を飲み、またわが受くるバプテスマを受くべし。されどわが左右に坐することは、我の与うべきものならず、ただ備えられたる人こそ与えらるるなれ。(一〇の三九、四〇)
 これはヨハネやヤコブたちが、イエスの飲む苦難の酒杯をともに飲み、受くる死のバプテスマをともに受けうる力があると認められたのではありません。受けるだろう。受けるようになるだろう、との意味です。それはイエスの弟子たる者にとって、避けえられない運命である。汝ら自身求めずとも、我は汝らのために父なる神に求めて、それに堪える力を汝らに与えるであろう。しかし神の国における名誉の地位は神の与え給うところであって、我の権限ではない、と諭し給うたのです。


 他の十人の弟子たちは、ヨハネ、ヤコブ両人の要求を聞いて、「どうもけしからん、我々を出し抜いて」と皆憤慨しました。そこでイエス様は一同を呼んで、
 異邦人の君と認めらる者のその民をつかさどり、大なる者の、民の上に権を取ることは、汝らの知るところなり。されど汝らの中にてはしからず、かえって大ならんと思う者は、汝らの役者えきしゃとなり、頭たらんと思う者は、すべての者のしもべとなるべし。人の子の来たれるもつかえらるるために非ず、かえって事うることをなし、また多くの人の贖償あがないとして己が生命を与えんためなり。(一〇の四二―四五)
と教え給うた。この世の国と神の国とは、政治の原則が異なるのだ。この世の国では、君と認められる者が権力を振るって民を支配する。しかし神の国における有力者は、いばる者ではなくして事える者である。支配者ではなくして僕である。イエス御自身の生涯の意義も、人に事えられるためではなく、人に事えるためである。この生涯の絶頂クライマックスは、近く十字架の上で成しとげられようとしている。人の背負いきれぬ罪の負債をば代わって支払い、これによって多くの人が神の国に入ることができるよう、贖償として己の生命を与えるのだ。ヤコブ、ヨハネ両人の野心もさることながら、これを聞いて憤慨する他の者たちも、この世の思いをもって神の国を見ていることには変わりがない。汝ら一同、この世の国のことをもって神の国を律してはならないよ。それはキリストによりて新たに生まれたる者の国、キリストによりて与えられる新しき誡命いましめの行なわれる国なのだから。
 神の国の栄光の中において、キリストの左右に坐る名誉の地位のあることを、否定せられたわけではありません。また、神の国にて大なる者となりたい、という野心を咎められたわけでもない。しかしイエスの側近く坐る人は、イエスの御心に最も近い人でなければなりません。この世の権力や能力はその標準にならず、苦難を忍び迫害に堪える信仰さえその資格として十分でありません。ヤコブやヨハネには、何でもイエス様にお願いすればして下さるという信仰はあった。またイエスの栄光の中にともに住むという希望もあった。しかし他の朋輩ほうばいを出し抜いて名誉の地位に坐ろうと企んだ心は、愛ではありません。旧約時代における同名の先祖ヤコブが、兄エサウを出し抜き、盲目の父イサクを欺いて家督の権を獲得したに類する世俗的野心でありました。人をける心は、神の国に適わない。神の国は愛だから。信仰よりも希望よりも大なるものは愛です(前コリント一三の一三)。愛の大きい者が、神の国において大なる者です。その愛というのは、人の僕となり、人に仕え、人のあがないとして己が生命を捨てる心です。人を押し除け踏みつける者ではなく、人に押し除けられ、踏みつけられ、人の踏み台となって人の罪を身に負う者が、神の国において大なる者であるのです。
 神の国に入る者の心の態度は幼児のごとくであるべく、その心の内容は僕のごとくであるべきです。「人もしかしらたらんと思わば、すべての人の僕となり、すべての人に仕うる者となるべし」ということは、このエルサレム旅行の発端において与えられた教訓でありましたが(九の三五)、旅路の終わりに近づいた今、さらに同じ教えをくり返し給うたのです。いかにそれが神の国の社会法として重要であるかがわかります。人々がこの法に従いさえすれば、ただいまでも神の国の平和は地上に成るでしょう。少なくともイエスの弟子たる者の間には地上においてすでにこの法が行なわれねばなりません。それによって地の塩、世の光ともなるのです。

四 エリコを過ぐ


 そのうちにペレヤをずっと南まで来たり、ヨルダンの下流を西に渡って、とうとうエリコへ来ました。ここは古来東からエルサレムに入る要衝ようしょうの地で、ヘロデ大王の避寒の離宮もあり、ユダヤの名邑でありました。いわば関西から東京に上る人が熱海まで来たというところ、めざす都はもうすぐだ。
 このエリコを出立せられた時、通称バルテマイ(「テマイの子」との意味)という盲目の乞食が路傍に坐っていたが、ナザレのイエスが通られると聞き、「ダビデの子イエスよ、我をあわれみ給え」と叫び出しました。「ダビデの子」とは救主メシヤを意味した語です。「うるさいから黙っていろ」と、多くの人がとめたが、ますます声高く叫んでやめません。ついにイエスの耳に入りましたから、立ち止まって「彼を呼べ」と言われた。盲人は欣喜雀躍きんきじゃくやく、上衣を脱ぎすて、躍り上がってイエスの許に来た。イエスは彼に向かい、「我が汝に何をなさんことを望むか」ときかれました。これはさきにヤコブ、ヨハネの両人に対して言われた言葉と同じですが、彼らの願い方のまわりくどかったに比して、盲人の求めは簡明率直でありました。
わが師よ、見えんことなり。
 イエスの応答も、打てば響くがごとくに簡明で、直接的で、効果的であった。
け、汝の信仰汝を救えり。
 盲人の目は直ちに明いて、イエスに従ってみちを往きました(一〇の四六―五二)
 この盲人の求めを前の弟子の場合と比較してみると面白い。弟子の態度はイエスになれっこになって、鋭敏な感受性が失われているが、盲人には新鮮な、心いっぱいの熱心があふれています。また、弟子は差し当たって必要のない将来の地位を求めたのですが、盲人は切迫した今日の必要についてお願いをしたのです。盲人の求めは、活きた真剣の祈りでありました。だからイエスは弟子には教訓を、盲人には救いを与え給うたのです。
 この旅行の出発点において、イエスは熱心なる父親の願いを聴かれて、聾唖なる悪鬼の霊をその子から追い出し給いましたが(九の一四―二九)、いま目的地に近づいた時、盲人の信仰に対してその目を明け給いました。信仰に対する救いをもって始まり、信仰に対する救いをもって終わる。その途中では神の国に入ること、神の国の道徳、神の国の性質等についての懇切な教訓を重ね給いました。マルコ伝には、マタイ伝やルカ伝にある「山上の垂訓」がありません。しかしこのエルサレム上りの道中での教訓こそ、山上の垂訓にも比すべき「路上の垂訓」であります。ごらんなさい、天国にて幸福なる者のこと、地の塩のこと、律法のこと、この世の富のこと、祈りのことなど、すべてその中に含まれているではありませんか。
 イエスは心をこめて弟子たちを教えられました。彼らは特別優れた人間ではありません。たびたび愚かな質問や願いを持ち出したりして、自分たちの無理解を暴露しました。しかしイエス様は一たび彼らを弟子としてお選びになった以上、御自分の方から捨てるということはありません。イエスと弟子との関係は、単なる師弟という私的の関係ではありません。それは神の国の建設のためという公の問題です。弟子たちにはこの大任が負わされているのです。イエスはこの十二人を引き具して、いよいよエルサレムへ乗り込み給うのです。神に向かっての信仰と、弟子に対する愛と、御自身についての悲哀とが、彼の胸に渦巻き、浪打ったことでありましょう。
 目を明けられた盲人バルテマイのその後のことは、何も記されていない。あわれバルテマイよ、汝もまたイエスに従ってエルサレムに上り行く。汝そこにて何を見んとするか。「十字架につけられ給いしままなるイエス・キリスト」を見て、汝の霊眼開かれ、罪を悔い改めて福音を信ずるならば、その時汝は幸福である。汝は百倍の歓喜をもって躍り上がって神の国に入るであろう。しかるに肉眼が癒されたことだけで終わり、目に見る十字架を信ぜずしてこれにつまずくならば、汝は禍なるかな。汝盲目のままでいた方が、まだ幸福であったであろう。
[#改ページ]

第十一章 最後の入京



一 驢馬


 エリコを出発して、いよいよエルサレム入りの最後のコースであります。エリコは地中海の水面より約一千百尺低く、これに対しエルサレムの神殿は海抜二千六百尺ぐらい、オリブ山は約二千八百尺ですから、相当の登りです。オリブ山の中腹に並んで、ベテパゲ、ベタニヤの二村がありました。(今日でも、これが昔のベタニヤだろうという小さな村が残っているが、ベテパゲの方は跡方もなく消えてしまった)エリコからの距離はベタニヤまで約六里、ベタニヤからさらにエルサレムまで小一里あります。イエス様の一行は出てから坂道にかかり、岩石稜々として見るも恐ろしき谷を右に左に眺めながら、歩みづらい山路をば、ただ神ともいまし給うとの信仰を力としてひたむきに登り給うた。六里の急坂を歩みなやんで、ベテパゲおよびベタニヤに近づき給うたころには、少なからぬ御疲労であったと思われます。イエスは二人の弟子を呼んで、「村に行って驢馬ろばの子を一匹ひいて来い。誰かとがめたら、『先生の御用だ。すぐに返すから』と言え」と命じ給いました(一一の一―三)
 ベタニヤにはイエスの特に愛し給うたマルタ、マリヤ、ラザロ三人姉弟の家があり、またイエスのために宴を設けたまえに重い皮膚病を患ったシモンの家もあり、なじみの深い村であります。したがって弟子の顔も村人に知れていたに違いない。ことに過越すぎこしの大祭の季節であって、イエスの上京も期待せられていたことでありますから、「先生の御用だ」と言えば直ぐに意が通じて、格別怪しむこともなく、求めるままにいまだ人の乗ったことのない子驢馬を貸してくれました。
 イエスが驢馬に乗られたのは、都入りの威容を張るための芝居気から出たことではありません。直接には、足がくたびれたからでしょう。しかしこのきわめて自然な卑近な行動の中にも、重要な象徴的意味が含まれたのです。旧約聖書を知るほどの者は、この際誰でも連想する預言の言葉がある。すなわちゼカリヤ書の九章に、
 シオンの女よ、大いに喜べ、エルサレムの女よ、呼ばわれ、視よ、汝の王汝に来たる。彼は正義ただしくして救拯すくいを賜わり、柔和にして驢馬に乗る、すなわち牝驢馬の子なる駒に乗るなり。我エフライムより戦車を絶ちエルサレムより軍馬を絶たん、戦争弓いくさゆみも絶たるべし、彼国々の民に平和を諭さん。その政治は海より海におよび河より地の極におよぶべし。汝についてはまた汝の契約の血のために、我かの水なきあなより汝の被俘人とらわれびとを放ち出さん。(九―一一)
 軍馬でなく驢馬です。戦争ではなくて平和です。傲慢ごうまんではなくて柔和です。イエスが驢馬に乗って都に入られたのは、御自身で国民待望の救主メシヤであり給うこと、その方法は平和、その性格は柔和であり給うことを、言葉でなく行動によって宣言せられたのです。昔預言者イザヤが三年の間赤裸はだか跣足はだしでエルサレムの町を歩んだり(イザヤ二〇の二―四)、エレミヤが徳利を壊し(エレミヤ一九の一〇)くびきを首にかけ(同二七の二)、大石を地に埋め(同四三の九)、などしたに類する象徴的行動であります。言葉をもっては尽くし難き感慨を行動に託したものでありまして、きわめて印象深い効果的な教訓の方法であります。それ自身が深い詩であります。「我はイスラエルの王である、真の救主である。我にふさわしき柔和なる心、砕けしたましいをもって我を迎えよ。シオンの女よ、これが汝らの最後の機会チャンスである。信じて救われよ!」――口にするには、あまりに感慨無量だったのでしょう、イエスは、驢馬に乗り給う御自身の姿によって、これを民衆に告げ給うたのであります。
 救主メシヤとしての凜乎りんこたるイエス様の自覚は、弟子をはじめ周囲の人々の目にも映じました。しかし彼らはこれを表面的に、浅薄にしか解しなかった。くり返しての御教訓にかかわらず、これからイエス様がエルサレムに入ればたちまちローマの政治的支配は終わり、イスラエルの政治も宗教も経済も復興して物質的幸福が得られるだろうとの期待をば、十二弟子すらなおいだいていたでしょう。いわんや一般群衆は、いまや何か驚天動地の大奇蹟が行なわれてイスラエル王国の復興が実現するかもしれぬ、という期待をもった。イエスは「驢馬に乗る王」として御自身を示されたのに、群衆は「軍馬に乗る王」として彼に期待した。イエスは柔和なる心を要求せられたのに、群衆はかたくなな心のままで国の復興を期待した。悔い改めざる心で王を迎える時、お祭り騒ぎの群衆心理が起こらざるをえません。ごらんなさい。弟子が鞍の代わりに自分たちの衣を驢馬の背に敷き、イエスがそれにお乗りになったのを見て、多くの群衆は熱狂してあるいは衣を、あるいは青葉のついた枝や草を道に敷き、イエス様を前後に取り囲んで大声に叫びました、
「ホサナ、むべきかな、主の御名によりて来たる者!
 讚むべきかな、今し来たる我らの父ダビデの国、いと高き所にホサナ!」
(一一の七―一〇)。万歳! 万歳! と、即位の王か凱旋がいせん将軍の都入りに見るような、熱狂的光景となりました。群衆の叫んだ言葉は、詩編百十八編にあります。「エホバよ願わくは我らを今救い給え。エホバよ願わくは我らを今栄えしめ給え。エホバの御名によりて来たる者は幸福なり」(一一八の二五、二六)。この「今救い給え」というのがホサナという字です。「今し来たる我らの父ダビデの国」というのはイスラエル王国の復興のことです。「いと高き所にホサナ」、すなわち天においてもホサナの声が聞こえる。地上においては弟子、群衆、天においては御使たちが声を合わせて「救いは今!」と呼ばわる中をば、イエスは驢馬の歩みを進めてエルサレムに入り給うたのです。
 この都入りは、イエスの御生涯の得意の絶頂、いちばんはなやかな場面のように人は思うかもしれない。しかし前々からのことをよく考えてみると、こういうことでイエス様が得意になるはずがない。イエスのような真実の人の生涯に、此世的このよてきなはなやかさなどあるはずがありません。もし比較的に愉快にお感じになった時がありとすれば、これは伝道の初期、まだパリサイ人やヘロデ党の反対がそれほど強くなかったころ、ガリラヤ湖畔の春風に吹かれながら緑のスロープで五千人の人にパンの振舞いをせられた時でなかったかと思う。その後だんだん十字架の影が濃くなりまして、今は殺されるためエルサレムに入り給うのです。今まで何度もそのことを予告してこられたのに、いまさら御心の浮き立つはずがない。今でも国民が悔い改めて、柔和な心をもってイエスをお迎えすれば、神の国は来たり、イスラエルは救われるでしょう。しかし彼らはこのイエスの御心を解せず、ただ群衆心理でワッとなって、「今し来たる我らの父ダビデの国!」と叫んだにすぎません。だから群衆が叫べば叫ぶほど、イエス様の心は淋しかったに違いない。空虚な喝采かっさいの中を、黙々と驢馬は進む。まことに「悲哀の人」にふさわしき都入りでありました。
 ついにエルサレムに着いて、エホバの宮に入り給うたが、すでに暮れ方であったから、参詣の人も散じて境内はひっそりしていました。イエス様は感慨深く四周ぐるりを見まわされた後、その日はそのままベタニヤまで引き返して、友人の家に宿り給いました(一一の一一)

二 無花果


 翌日またエルサレムに向かい給う途中、イエスは空腹を覚え、向こうの方に葉のついた無花果いちじくのあるのを見つけて、そばに寄って見られたが、葉だけではなかったので、その樹にむかい、「今より後いつまでも人汝の果を食わざれ」と怒りの言葉を投げつけ給うた(一一の一二―一四)。無花果の果の熟する季節は五月の末から六月にかけてであり、過越の祭りは三月の末から四月の中ごろまでの間ですから無花果が熟するにはまだ季節が早過ぎる。それだのに、「今後いつまでも果がなるな」などと憤慨せられたのは、イエス様の方に無理があると小道徳家は言うかもしれない。しかし元来無花果の樹は葉の出る前に実がつくものだから、葉のある無花果を見て「おや、早熟の果がなっているかもしれない」と思われたのはきわめて自然なことであり、往って見たところ果がないので「何だ、見かけ倒しだ。こんな樹はだめだ」、とおっしゃったのも、少しも不自然ではありません。しかもイエスはただちに一つ重大な実物教訓をこの樹に見いだし給うたのです。無花果はイスラエル国民の象徴シンボルとしてしばしば用いられました。かつて預言者エレミヤはき無花果と腐った無花果と二かごを並べて、神の聖意にしたがう者をば佳き無花果、不信仰の者を腐った無花果にたとえたことがありますが(エレミヤ二四)、今イエスはこの葉ばかり繁って果のない無花果をもって、祭司、学者など偽の指導者を諷し給うたのです。彼らは祭祀だ礼拝だと儀式を装い、口では我こそ志士国士だと大言壮語を吐いているが、そばに寄って見れば何だ、からっぽでないか。偽の指導者よ! 偽の愛国者よ!「人いつまでも汝の果を食わざれ!」という烈しい憤りが、彼らに向かって発せられたのです。それは前日の驢馬と同様、象徴的行動をもってイエスの精神が吐露せられたのです。

三 宮


 やがてエルサレムに着いて宮の境内に入ってみれば、前日夕方の静寂に引きかえ、この昼間の雑踏はどうだ。参詣の群衆のどよめきの中に、屋台店を並べて犠牲用いけにえようの家畜や鳩を売る者、奉納用の貨幣を両替する者などのかまびすしく叫ぶ声、おまけに籠や鍋釜なべかまさげてこの門からかの門へと宮の庭を自由に通り抜ける市民もあって、ほこりっぽいにぎわいです。どこに神の宮らしきおごそかさがあるか。商人は参詣人より利をかすめ、祭司は商人の上前をはね、賽銭さいせんの上がり高の多きを喜んで神の家から神聖さを強盗している。綱紀弛緩、俗気紛々。真の礼拝なく祈りなく、るものは打算と便宜とのみ。誰かこれに堪えようか。
 イエスの怒りは爆発しました。彼はツカツカと歩みよって売買する者どもを逐い出し、両替する者の台や鳩を売る者の腰掛を倒し、器物をもって境内を通り抜ける者を制止し給うた。その勢いの烈しさに商人どもは腰を抜かし、警吏も手が出せない。息を呑んでいる群衆に向かって、イエスは教えて言い給うた、
「わが家は、もろもろの国人の祈りの家と称えらるべし」と録されたるに非ずや、しかるに汝らはこれを「強盗の巣」となせり。(一一の一七)
「もろもろの国人の祈りの家」というのは、イザヤ書五十六章からの引用です。
 すべてわが契約を固く守る異邦人は我これをわが聖き山に来たらせ、わが祈りの家の内にて楽しましめん、……わが家はすべての民の祈りの家と称えらるべければなり。(五六の六、七)
「強盗の巣」というのは、エレミヤ記七章からの引用です。
 わが名をもて称えらるるこの家は汝らの目には盗賊の巣と見ゆるや、我もこれを見たりとエホバ言い給う。(七の一一)
 エレミヤ記には「盗賊の巣」とあるが、イエスは「強盗の巣」と言われた。いかに強く憤激せられたかが察せられます。もちろん死を賭しての御発言であったに相違ない。
 祭司長・学者らはこれを聞き、何とかしてイエスを滅ぼそうと相談した。群衆が皆彼の教えを聴いて驚いたから、これを放任しておけば自分たちの支配的地位をくつがえす民衆運動が起こるだろう、とおそれたからです(一一の一八)。権力の地位にあって私腹を肥やす者が、徒党を組んでただしき人を嫉妬し、これを陥れることを謀ることは、昔も今も変わりありません。
 しかしその日は何事も起こらず、夕方になってイエス様はベタニヤに引き上げ給いました。エルサレムから橄欖山オリブやまの山腹をまわって約三十町ですが、ここまで来れば都は山の背にかくれて見えず、展望はかえって東南に向かって開け、ヨルダンの谿谷けいこくを隔ててはるかにモアブの連峰が紫に霞むのが望まれます。一日の激しき戦いを終えて帰って休まれるには、まことに適当な地勢でありました。ことにそこにはマルタ、マリヤ姉妹の家があって、マルタはかいがいしく食事接待のために立ち働き、マリヤは愛を傾けてイエスの傷ついた心をお慰めしました。ここでたましいとからだの疲れをいやし、夜が明ければまたエルサレムに出かけ給うたのです(一一の一九)。その往復の途中、橄欖山に腰うちかけ、エルサレムの町を眼下に眺めながら、「ああエルサレムよエルサレムよ……」と、嘆じ給うたことも幾度であったでしょう。

四 山


 ある朝早くエルサレムに行かれるみちで、かの葉ばかり繁ってのなかった無花果の樹の立枯れになったのにペテロが気づいて、「先生、見てごらんなさい。先生のおのろいになった樹が枯れました」と申上げた。驚き顔の弟子たちに向かって、イエスは答えて言われました。
 神を信ぜよ。まことに汝らに告ぐ、人もしこの山に「移りて海に入れ」と言うとも、その言うところ必ず成るべしと信じて、心に疑わずば、そのごとくなるべし。このゆえに汝らに告ぐ、すべて祈りて願うことは、すでに得たりと信ぜよ。しからば得べし。また立ちて祈る時、人を怨むることあらばゆるせ、これは天にいます汝らの父の、汝らの過失を免し給わんためなり。(一一の二二―二五)
 汝らは無花果の樹の立枯れになったことに驚くけれども、信じて祈ればこの橄欖山を地中海に移すこともできるのだ。――これは何も山を文字どおりに海に移すことに、イエスが興味をもたれたわけではありません。山のような大困難でも祈りによって突破しうるのだ。ただその祈りには神の力に対する絶対信頼と、敵を免す愛とを必要とする。その心をもって祈る時、人生の辞書には不可能という文字はなくなるのだ、ということを教え給うたのです。見ろ、エルサレムの神殿はりっぱに建っている。しかし精神はもぬけのからだ。ヨルダン川で洗礼を受けられてから今日までのイエスの戦いは、真に国民を救うためでありました。彼は愛国者であります。しかし彼の愛国は、軍馬によってローマの政治的羈絆きはんを脱しようと策動するのたぐいではありません。彼は救いの問題を根本的に考えておられる。国の救いは神に対する国民の態度いかんにかかっているのだ。だからイエスにありては、宗教の粛清、信仰の覚醒が愛国の中心問題でありました。しかるに国民の精神的指導者たる祭司および学者は、かえって民衆を誤導して滅亡に導いている。民衆の多くは磽地いしじのような心だ。彼らはイエスの言葉を聴いてしばらくは驚嘆しているが、これをただ表面的・物質的にしか解しないからその感動は暫時保つにすぎず、たましいの新生は思いもよらない。かくてイエスの活動の結果収穫せられたものは、指導の敵意と民衆の無理解とであった。今を最後の一戦としてエルサレムに入り給うたのであるけれども、この二、三日来の様子を見れば、懸命の御努力も全然無効に帰し、かえって迫害の魔手の御一身に及ぶ危険がいっそう濃厚となった。事志に違い、愛国者国民に拒まれ、義しき人に十字架がのぞむ。――もし活ける神に対する信仰がなかったならば、イエスの御生涯は失望に終わらざるを得なかったでありましょう。
 しかしイエス様はせんかた尽きても希望を失わず、逆境の底にありても父なる神に対する彼の信仰は絶対的でありました。神は必ず人類を救い給う。ひとりイスラエル国民のみでなく、世界万民を救い給う。必ず人々に悔い改めの心を賜い、それによる新生の上に神の国を建て給う。万軍のエホバの熱心これを成し給う。
 この信仰に立てば、敵をゆるす愛がおのずから湧き出でます。イエスはおのれの敵をも愛し給いました。祭司やパリサイ人らは私利私欲や党派心に基づく嫉妬怨恨に燃えてイエスに対し、公の問題についてイエス様から責められた怨恨うらみをば私的に報いようとした。これに反してイエスは、公の問題ではあくまで祭司学者たちを痛罵つうばし給うたが、私的には光風霽月せいげつ、己を滅ぼそうと陰謀する敵に対してすら何の含むところ怨むところもありません。その心境の自由なること、光のごとく、風のごとくでありました。かかる信仰と愛の心をもって父なる神に祈るならば、事として成らざるはない。この橄欖山オリブやまに命じて「海に入れ」と言えば、きっとそう成るであろう。この不信なる国民でも、これにむかって「救われよ」と言えば、必ずその救いが成就するであろう。世にありていかに多くの大なる困難に遭遇するとも、必ずもつべきものはかかる信仰であり、なすべきものはかかる祈りである。――イエスはこの祈りに身をよろうて、神の国のため最後の一戦に臨み給うているのです。弟子たる者同じく信仰の武具を執って、師のあとに続かなければならぬではありませんか。

 驢馬は魯鈍ろどんな動物で、「愚か者」の代名詞に使われます。それでも疲れたイエス様の足を休めるため従順に御用に立てば、神の国のため大なる役割を果たす。
 葉の繁った無花果の樹は見かけはりっぱだが、イエス様の空腹を満たすだけの御用にも立たなければ、無用の長物で存在の意味がない。イエスのように人の心の真実を見とおす方に、ぐっとそば近く寄られて一にらみせられたなら、たちまち内容の空虚が暴露せられて内側から立ち枯れになってしまう。
 両替する者、鳩を売る者などは、神の御用を看板にして反対に神を利用し、私利私欲を計るものであるから、神の国の敵だ。イエスは手をかけて、彼らの台を顛覆てんぷくし給います。
 そして動かざること山のごとしと言われるこの橄欖山でさえ、神の国の妨害とあれば、根こそぎ引き抜いて海に移し給う。それほど抵抗し難き力をもって、神の国は迫るのです。
 柔和にして驢馬に乗り給う王は、また無花果の樹を枯らせ、商人の台を倒し、山をも抜く力の王です。「弱きをたすけて強きをくじく」という語があるが、イエスは最も弱き人よりも弱く、最も強き人よりも強くあり給いました。彼は罪の贖い主にして、同時に審判主であり給います。驢馬と無花果と宮と山とは、かかる救主としてのイエスを象徴したものです。言葉以上の言葉、説明以上の説明です。それは詩です、絵です。生々躍動して、最後の都入りにおけるイエス様の御心の余韻を今日に伝えています。
(最後の入京の記事は、マルコ伝とマタイ伝(二一の一―二二)とで若干の相違点がある。マルコ伝では宮潔みやきよめは入京第二日目であり、マタイ伝では第一日目となっている。また無花果の樹の枯れたのはマルコ伝ではイエスがその樹を詛い給うた翌日(?)であり、マタイ伝では立刻たちどころに枯れたと記されている。その他にも微細な相違が両者の間にある。これは一つの事実が二様に言い伝えられてきたものであって、この種の報道記事の相違は事実そのものを否定するものではなく、かえってそれが事実であったことの推定を強める材料である)
[#改ページ]

第十二章 最後の論戦



一 資格問題



 宮潔みやきよめのことがあって、またの日エルサレムにき、神殿の境内を歩んでい給うた時、祭司長、学者、長老たちが打ち揃ってイエスの御許にやって来て、「何の権威をもってあんなことをなしたのであるか。誰から権威を授けられたか」と詰問しました(一一の二七、二八)。祭司長はサドカイ派の首領であり、学者はパリサイ派の指導者、長老というのは政治家です。神殿の警察権は祭司長の主管するところですが、イエスの行動によりただに境内の治安だけでなく、ユダヤ人の支配階級全体の地位を危うくせられることをおそれて、平生は互いに敵対せる諸勢力の指導者たちが合流し、挙国一致の体制をもって一人の野人イエスにむかったのであります。
 これが公開の演壇であるとか、公開状もしくは論文の発表とかなら、イエスは自己の資格を弁明して「人よりにあらず、人にるにあらず、父なる神によりて遣わされし我イエス」というふうに啖呵たんかを切られたかもしれない(ガラテヤ一の一参照)。しかし今は組み打ちの白兵戦です。イエスはたちまち敵の利腕ききうでを取って、
 我一言、汝らに問わん、答えよ、しからば我も何の権威をもて、これらのことをなすかを告げん。ヨハネのバプテスマは天よりか、人よりか、我に答えよ。(一一の二九、三〇)
と逆襲し給いました。これにより彼らは互いに論じて、
 もし天よりと言わば「何ゆえ彼を信ぜざりし」と言わん。されど人よりと言わんか……
 洗礼者ヨハネの権威をもって、神から出たものと答えれば、なぜ彼を信じないかとやり込められるだろう。もし神からでないと答えれば、彼を預言者と認めて尊敬している群衆が承知しまい。――彼らはみごとディレンマに陥って返答に窮し、ついに「知らず」と答えました。それを聞いてイエスは厳かに、「われも何の権威をもてこれらのことをためすかを、汝らに告げない」と言われた(一一の三一―三三)。まるで勝負にならぬ角力すもうで、たばになってかかった敵をば一突きで突き飛ばし給うたのです。
 神の宮を潔め、神の言を説く資格を証明するものは、辞令でもなく、儀式でも投票でもない。権威を証明する者は権威それ自体である。敵を言い伏せたる御言の力そのものが、イエスの権威を証明したのです。しかしイエスは敵の論鋒ろんぽうをくじいたことをもって満足し給わず、積極的に進んで追撃の巨弾を浴びせ給うた。すなわち彼は言葉をあらためて、一つの譬話たとえばなしを語り出で給うたのであります。


「ある人が葡萄園ぶどうえんを造り、まがきめぐらし、酒槽さかぶねの穴を掘り、物見の番小屋をたて、すっかり仕度をして農夫どもに貸しておいて、遠くに旅立ちした。期限が来て農夫から葡萄園の地代を受け取るためにしもべをその許につかわしたのに、彼らはこれをとらえて打ち叩き、空手むなでにて帰らしめた。またほかの僕を遣わしたのに、そのこうべに傷つけ、かつはずかしめた。またほかの者を遣わしたのに、これを殺した。またほかの多くの僕をも、あるいは打ちあるいは殺した。なお遣わすべき者が一人だけ残っていた。これはそのいつくしむ子である。『わが子は尊敬するだろう』と言って、最後にこれを遣わしたのに、かの農夫どもは互いに言った、『これは世嗣よつぎである、いざこれを殺そう、しからばその財産は我らのものとなるだろう』と。そこでこの子をとらえてこれを殺し、葡萄園の外に投げ棄てた。しからば葡萄園の所有者はどうするだろうか。来たりて農夫どもを滅ぼし、葡萄園を他の者どもに与えるだろう。汝らは聖書に『造家者いえつくりらの棄てたる石は、これぞ隅の首石おやいしとなれる。これ主によりて成れるにて、我らの目にはくすしきなり』とある句をすら読まぬか」(一二の一―一一)
 ここに引用し給うたのは詩編第百十八編二十二、三節の語です。この人口に膾炙かいしゃしている周知の聖句をさえ汝らは知らぬのか、と言われつつイエス様はキッとなって祭司長、学者、長老たちを見渡された。さすが厚顔無恥の彼らも、この譬話は自分たちのことを諷して言われたのであることがわかり、怒ってイエスを捕縛しようと思ったが、群衆を恐れて手を下しえず、今に見ろと言わんばかりの憎悪の一瞥いちべつを残して引き揚げました(一二の一二)。実際権力者ほど内心臆病なものはない。彼らが民衆の人気を気にし、群衆の運動を恐れることは、我々の意想外である。今はまだ、イエスの背後には群衆の支持があった。それだけ祭司長らも容易に手をかけえなかったのです。したがって彼らはイエスを捕えるために、陰険な、用意周到な計量をめぐらすに至ったのであります。


 葡萄園のお話は、祭司長・学者・長老たちを農夫に譬えて諷刺せられたにとどまらず、イエス御自身の神から遣わされし者であること、しかも神の愛しむ子であり給うことを表明せられたものである。すなわちイエスの権威は何に基づくか、誰から授かったか、という祭司長たちの詰問に対する積極的な答えをば、譬話の形式で与え給うたのです。
 イエスが神の愛子であること、神より遣わされしキリストであることは、これまで幾度か天来の声によって確かめられた御自身の自覚でありました。また祭司長・学者らのためにとらえられて殺されるであろうことも、弟子たちにはこれまでたびたび打ち明けて語られたところであります。しかし「造家者いえつくりらの棄てたる石は、これぞ隅の首石おやいしとなれる」、という聖書の語は、この際非常に大きな意味をもつ霊感として、イエス御自身に臨んだものと思われる。国民の指導者たちに棄てられる者が国民復興の礎石になる! この常識をもっては不可解なことが、神の経綸である、神の意思である。自分が祭司長らに棄てられ、殺されることは、自分のキリストたる権威と何ら矛盾することでなく、かえって棄てられる自分こそ真にキリストであることを確証するものである。――これはイエス御自身にとりては非常に大きな希望であり、敵にむかっては実に強き主張であった。イエスはここに、御自身のキリストたる権威をば堂々と弁明し給うたのであります。

二 納税問題


 正面からの論戦に惨敗を喫して一度退いた敵は、戦術を変えて再びやってきました。すなわち今度は皆で押しかけないでパリサイ派とヘロデ党の中から数名の論客を選抜し、イエスの言葉尻をとらえてわなにかけようとする、小股こまたすくいの悪辣あくらつな戦法に出たのであります。その者ども来たりて、
 師よ、我らは知る、汝は真にして、誰をもはばかり給うことなし、人の外貌うわべを見ず、真をもて神の道を教え給えばなり。
と、まず持ち上げるようなことを言った。一本釘をさしたつもりだろう。そうしておいて、
我ら貢をカイザルに納むるは、きか、悪しきか、納めんか、納めざらんか。
との質問を持ち出しました。イエスは彼らの詐偽いつわりをただちにみやぶって、
なんぞ我を試むるか。デナリを持ちきたりて我に見せよ。
と言い給うた。デナリとは約五十銭の価をもつローマの銀貨です。すなわち「デナリ銀貨を一つ持ってこい」と言われたのです(一二の一三―一五)
 当時ユダヤはローマの属国であったが、ユダヤ国民の中でもパリサイ派とヘロデ党とは、ローマの支配に対する政治的態度を異にしていました。パリサイ人は国粋派で、その極端な一派は政治的独立をさえ計るほどであり、総じてローマに対して冷淡であった。だから、税金の不納同盟とまではいかなくても、ローマ皇帝に貢を納めることをば決して快く思っていなかったのです。これに反しヘロデ党は親ローマ派で、ローマ統治に服従することによって「ローマの平和」(Pax Romana)の恩恵に均霑きんてんし、国内の治安維持と物質的繁栄を得ればよいのだ、と思っていた。ですからローマに貢を納めることにはもちろん賛成であった。このように、パリサイ人とヘロデ党とは、納税問題について元来は意見が対立していたものですが、今両者共通の敵たるイエスを陥れるために、共謀してこの難問を持ち出したのです。もし貢を納めるのがいい、とイエス様が言われたなら、パリサイ派の者がイエスを非難し、彼をば非愛国者として民衆の前に弾劾だんがいしよう。またもし納めるのはよくない、と答えられたなら、ヘロデ党の者がイエスを難詰し、彼をば反逆者としてローマ政府に告発しよう。一方が立てば一方が立たないようにしてイエス様をディレンマに陥れ、どうにかして滅ぼしてやろう、というのが彼らの陰謀でありました。
 しかしこんな小細工にかかり給うようなイエス様ではありません。そのうちに誰かがデナリ銀貨を持って来た。イエスはこれを人々に示して、その面に刻んである像は誰の像か、また記号は誰の記号か、と聞き給い、「カイザルのです」との答えを待ってから、「カイザルの物はカイザルに、神の物は神に納めよ」と言われた(一二の一六、一七)。その落ちついた有様は、こずえの葉一つ動かさない喬木きょうぼくが、晴れた青空にすっきりと立った姿のごとくでありました。
 当時ユダヤではローマの貨幣が流通し、またユダヤ在来の銅銭も通用していた。そしてどこの国でもその属領に対してとる政策のとおり、政府への公納金はローマの通貨をもってすべきことに定められていた。ローマの貨幣はローマの政治的支配の象徴であった。しかるにエルサレム神殿の境内はあたかも近代イタリー国内におけるヴァチカン宮のごとく、行政上特殊区域として一種の治外法権を認められ、神殿への奉納金はもっぱらユダヤ貨幣をもってすべしとの慣習が守られていました。この場合ユダヤ貨幣はユダヤ国民の宗教的義務の象徴であった。祭りのためユダヤ全国からエルサレムへ上って来た群衆は、所持のローマ貨幣をユダヤ貨幣に両替して宮に奉納したのです。両替屋が宮の境内にまで出張したのも、この便宜から出たことでありました。いまイエスはヘロデ党とパリサイ派との共謀して企んだディレンマをば、一個のデナリ銀貨をもって破り給うたのです。「ローマの皇帝にはローマの貨幣、エルサレムの神殿にはユダヤの貨幣を納めろ。それがあたり前ではないか」。実に当意即妙、軽快なお答えですね。わなは破れて鳥はのがれた!(詩編一二四の七)。パリサイ人もヘロデ党もイエスの言葉尻をつかむどころか、舌を巻いてびっくりしてしまった(一二の一七)
 イエスの言われたところは、「カイザルの物はカイザルに、神の物は神に納めよ」というのであった。しかるに後人々が彼をローマの総督ピラトの前にいて行った時には、「この人はわが国の民を惑わし、貢をカイザルに納むるを禁じた」と言って訴えた(ルカ二三の二)。これはイエスの言を曲げ、言いもしなかったことを言われたようにあざむいたのです。彼らはイエスを滅ぼすことを目的としているのだから、有ったこと無かったこと、いかようにでも難癖なんくせをつける。これに反し、イエスは国民の救いを目的としておられるのだから、いかなる困難があり、誤解が加わろうとも、あくまで救わではやみ給わない。かれは悪意の継続であり、これは愛の一貫です。神につける思いと世につける思いとはかほどにまでちがうものかと、嘆ぜざるを得ません。

三 復活問題


 ヘロデ党とパリサイ人とが退却した後、入れ代わって復活否定論者たるサドカイ派の者が現われて、質問をかけました。
 先生、モーセは、人の兄弟もし子なくして妻をのこして死んだ場合には、その兄弟が彼の妻をめとりて、兄弟のために嗣子を挙ぐべし、と我らに書き遺しています(申命記二五の五、六)。ところで、ここに七人の兄弟があって、兄が妻を娶り、嗣子なくして死に、次の弟がその女を娶り、また嗣子なくして死に、その次の弟もまたしかなし、七人とも嗣子なくして死に、終にその女も死にました。復活の時彼らみなよみがえるとすればこの女は誰の妻たるべきでしょうか、七人ともこれを妻としたのですから。(一二の一八―二三)
 このサドカイ派というのは、ダビデ王の寵臣ちょうしんでソロモン王の時に祭司長に任ぜられたサドクの系統を引いた祭司の家柄を中心とした一派で、エルサレムの神殿礼拝をつかさどり、それに寄生して利をあげていた。彼らの宗教的立場はユダヤ教中の最旧派で、モーセの五書ことにその中の古い部分を重んじ、政治的には現実肯定の妥協主義で、ローマの軍隊および政治が治安を維持してくれ、かつ神殿礼拝の続行を認めてくれて、賽銭さいせんの上がりによる彼らの経済生活が安定しておりさえすれば、それで満足したのです。神学的に旧派であり、社会的に現実主義者たるサドカイ派が、個人の復活の信仰をもたなかったことに不思議はない。この保守的なるサドカイ派に対する改革派がすなわちパリサイ派で、彼らは神殿礼拝よりも律法遵守を重んじ、政治的にはローマの支配に対する妥協的・屈辱的態度をいさぎよしとしなかった。祭司派たるサドカイ人と学者派たるパリサイ人とは元来一致せざる論敵であって、サドカイ人の奥の手といえば、「ここに七人の兄弟ありて云々」という復活問題を持ち出して、パリサイ派を困らせていたものと思われます。今パリサイ人とヘロデ党との連合軍がイエスの前から敗退したのを見て、「我こそ」とサドカイ派の者らが進み出て、十八番の難問を突きつけ、「さあどうだ」と言わんばかりでありました。
 これに答えてイエスは言い給うた。
汝らの誤れるは、聖書をも、神の力をも、知らぬゆえならずや。(一二の二四)
 イエス様の態度は、今度は高飛車的に、「お前たち間違っている」と真っ向正面、頭から強き一撃を食らわせ給うたのです。イエスは語をついで、まず神の力の方から論じ給うた、
 人、死人の中より甦る時は、娶らず、嫁がず、天にある御使たちのごとくなるなり。(一二の二五)
 サドカイ人は、人間死後の生活は地上における時と同じ状態のまま継続するものだと思っている。それがすでに根本的誤謬ごびゅうだ。復活した人間の体は、この世にいた時とは異なる組織であって、もはや地上におけるごとき婚姻関係は存在しないのである。血気の体あり、霊の体あり。神は御意に従いて復活者には復活の霊体を与え給う。いやしくも「復活の時彼らみな甦らんに」と言って復活を論ずるくらいならば、復活者には復活体を与え給う神の力をば知るべきではないか。さらに聖書にはどう書いてあるか。汝らの尊敬してやまざるモーセの書の中なる柴のくだりに、神がモーセに「我はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神なり」と告げ給いしことのあるを、汝らはいまだ読まぬのか。神は死にたる者の神ではない、生ける者の神である。汝ら大いに誤っている!(一二の二六、二七)
 これは出エジプト記三章六節の語を引用せられたのです。神がモーセに現われ給うた時には、アブラハムもイサクもヤコブもとっくに死んでいる。それを、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言われた。アブラハムの神であった、イサクの神であった、ヤコブの神であった、と言うのではない。今日現在アブラハムの神であるとともにイサクの神であり、また同時にヤコブの神である、と言うのである。これはアブラハムもイサクもヤコブも、現に死より甦って活きていることを暗示する御言でないか。汝らは聖書読みの聖書知らず。死んだままの者が神に仕えるはずがないではないか。汝ら大いに間違っている!

四 誡命問題


 さしものサドカイ人の難問にも、イエスが一刀両断明快に答えられたのを傍聴したパリサイ人の学者らは、それがしばしば自分らの苦しめられた問題であっただけ、ひそかに溜飲を下げたでしょう。その時学者の一人が進み出て、「すべての誡命いましめの中で、何が第一ですか」(一二の二八)との質問を発しました。
 この学者はイエスの答弁ぶりに感心して口を出したのですが、しかしこれも単純な質問ではない、この問いの中に論争が伏せられており、イエスが何と答えられるだろうかという「試み」の意図があったのです(マタイ二二の三五参照)。どういう点が問題であるというと、誡命の中には成文法たるモーセの律法のほかに、施行細則もしくは判例ともいうべき解釈、言い伝えなど複雑多岐なる内容・項目がある。そのたくさんの誡命のうち重要なものと比較的重要でないものとを区別すべしという主張と、内容のいかんにかかわらず大小の誡命はことごとく同一の重さを置かるべきであるという主張と、パリサイ人の中にも両説あって相対立していた。前者は律法の精神を重んずる自由派であり、後者は律法の形式を重要視する頑固派であった。イエスはこの両派のうちどちらに賛成し給うであろうか、ということがこの学者の質問の趣旨であったのです。
 これまでの論敵と異なり、この学者には一片の尊敬と誠意とが認められ、その質問も謙遜な態度であったから、イエスも彼に対してていねいに答え給いました。
 第一は是である、「イスラエルよ聴け、主なる我らの神は唯一の主なり。汝心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、主なる汝の神を愛すべし」。第二は是である、「己のごとく汝のとなりを愛すべし」。この二つより大なる誡命いましめはない。(一二の二九―三一)
 第一の誡命というのは申命記六章四、五節の引用、第二の誡命はレビ記十九章十八節の引用でありまして、多くの誡命の中からこの二つをき出し、これが最も重要なる根本的の誡命であると答え給うたのです。すなわちすべての誡命は愛に帰一するのである。愛こそ誡命の根本精神であることを、明らかにせられたのです。イエスのお答えを聞いてこの学者はますます敬服の念を高め、
 善きかな師よ。「神は唯一にして他に神なし」と言い給えるは真なり。「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また己のごとく隣を愛する」は、もろもろの燔祭はんさいおよび犠牲いけにえに勝るなり。(一二の三二―三三)
と申し上げて、イエスの神観並びに律法観に対する共鳴を披瀝ひれきしました。これによって、一方では律法の枝葉末節に捕われ、つのめて牛を殺す頑固派のパリサイ人を退け、他方では燔祭および犠牲、すなわち神殿の形式的礼拝を重んじて、唯一なる神に対する霊的礼拝と隣人に対する道徳実践を離れるサドカイ人を排したのです。この学者はパリサイ人中最良の分子であったと見えます。イエスもその聡明を認めて、「汝神の国に遠からず」とお賞めになりました(一二の三四)。これは非常な賞賛であるとともに、深い教訓を含んだ御言です。「汝神の国に遠からず」でありまして、神の国に入っているわけではない。もう一歩だ、そこを考えなさい、というのです。似たような場合に、イエスは一人の教法師に向かい、「汝の答は正し。これを行なえ、さらば生くべし」と諭し給うた(ルカ一〇の二八)。答案としては満点である。しかし人生の目的は神の国について知ることではなくして、神の国に入ることであり、神の国に入る条件は知識ではなくして実行である。この学者が知的に神並びに律法の本質を知るだけでなく、みずから神の国に入ろうという実践的要求をもつならば、今度は「善き師よ、神の国に入るためには、我何をなすべきか」とおたずねするはずでありました。そうしたならば、イエス様は、「汝なお一つを欠く。汝の知識と道徳とを棄てて、幼児のごとき心をもって我に来たり従え」と言われたかと想像せられます(一〇の二一参照)。この御言により、一度は憂いを催しても、やがて神の国に入る信仰の目が開かれたことであろう。しかるにこの学者は、彼のたくましい戸を叩かれたイエスの愛にもかかわらず、知的な自己満足だけで終わったように見受けられます。ともかく彼の去った後は、誰もあえて質問を吹きかける者もなく、入れ交じり立ち代わった敵との論戦は、完全にイエス様の勝利に終わりました。

五 追撃


1 ダビデの主

 すべての敵の口はふさがった。しかしイエスはまだほこを収め給わずして、鋭く敵を追撃し給う。ああこのイエス様の気力と明知とはどこから来たのか。彼は戦場を完全に占領して、なお残敵あらば出てこい、と戦いをいどみ給うのです。彼はみずから問題を設けて、教え給うた。――
 何ゆえ学者らはキリストをダビデの子と言うか。当のダビデ自身が聖霊に感じて、みずからこう言っているではないか。「主わが主に言い給う、我汝の敵を汝の足の下に置くまでは、わが右に坐せよ」と。ダビデみずからキリストを主と言うたのだから、キリストがダビデの子である法はないではないか。(一二の三五―三七)
 これは詩編百十編一節の語を引用して、学者らのキリスト観を批評せられ、かつキリストは神の子であることを暗示して、御自身の権威を確立し給うたのです。
 そもそもダビデはイスラエル王国建国の父として、国民的尊敬の中心人物であり、イスラエル王国復興の王たるべきキリストもまた、ダビデの子孫の中から出現する、というのが国民的期待であった。回顧してはダビデ、展望してはキリスト、そして両者の間をつなぐ王統連綿、これがイスラエルの国民的誇りであり、また国民的希望でありました。イザヤ書十一章一節に
エッサイ(ダビデの父)の株より一つの芽いで、その根より一つの枝生えて実を結ばん。
とあり、エレミヤ記二十三章五節に
エホバ言い給いけるは、よわがダビデに一つのただしき枝を起こす日来たらん。
とあるのも、キリストがダビデの家より出でるとの預言であります。
 しかるに今イエスは、
ダビデみずから彼(キリスト)を主と言う、さればいかでその子ならんや。
と言われたのです。キリストがダビデの家より出でることを否定せられたわけではありません。しかしキリストはダビデとは全然格式を異にする身分の者である。キリストのキリストたるゆえんは、彼がダビデの子たる点にあるのではない。ダビデの主たる点にあるのである。すなわちキリストは直接神より出でたる者、神の子である。――かくしてイエスはマタイ伝第一章やルカ伝第三章にあるごとき、たどたどしき系図による証明方法などは吹き飛ばしてしまって、キリストの身分並びに権威の直接神に基づくことを論断せられたのです。それはユダヤ人の伝統的解釈を越えた、天来の高き響きをもつ御言でありました。これが論戦の最初祭司長、学者、長老たちが御許に来て、イエスの権威を詰問したことに対する最後的返答でありました。

2 学者の偽善

 イエスがさまざまの論敵をば片っ端から明快に論破せられるのを、多くの群衆は喜んで傍聴していた。敵はすべて退いて、群衆だけがイエス様を取り囲んで残りました。これらの群衆に向かって教えて言われた御言の中に、
 学者らに心せよ、彼らは長き衣を着て歩むこと、市場にての敬礼、会堂の上座、饗宴きょうえんの上席を好み、また寡婦らの家を呑み、外見みえを造りて長き祈りをなす。その受くる審判はさらに厳しからん。(一二の三八―四〇)
 長き衣の裾を引いて退き行く敵の後ろ姿を見送りながら、実に辛辣しんらつですね。律法の大家たるパリサイの学者、「己のごとく隣を愛すべし」との誡命を知っているはずだ。「汝すべて寡婦あるいは孤子を悩ますべからず」(出エジプト記二二の二二)という誡命のあることももちろん知っているはずだ。しかるに彼らはいばるばかりで、みずから律法を守らない。寡婦の財産を呑んで私腹を肥やしているのだ。偽善者! 虚偽漢! 汝ら彼らの外見的な知識や敬虔に迷わされてはいかんよ、うっかりすると、財布までまき上げられてしまうぞ。――実にイエスの憎み給う者にして、偽善なる学者、パリサイ人の右にいでるものはなかった(マタイ二三参照)。思想的立場は、サドカイ人よりもパリサイ人の方がイエスに比較的近くありました。近くあっただけ、その偽善を憎み給うこともはなはだしくあったのです。祭司派たるサドカイ人に、イエスが賛成せられたのではもちろんない。サドカイ人など、問題にもし給わなかったのです。またこれほど異なっていれば、その区別は第三者にも一見して明瞭で、まぎれることがありません。しかるに改革派たるパリサイ人は、その思想的立場が表面上イエスに近くあったため、両者の間に存する根本的差異について世人が気づかないおそれがあった。純粋なる真理と、真理に似て非なるものとの間には、特に鋭利なる峻別しゅんべつを立てねばなりません。表面的には、パリサイ人もイエスと同じく宗教改革者であり、道徳擁護者でありますが、彼らは人間主義であって、神より出でたるイエスの思想とは根本的に立場が異なるのです。思想的立場の差異は、現実の生活態度上の差異となって現われる。イエスに私はないが、パリサイ人の学者には私がある。イエスはおのれを棄てて人に仕えるが、パリサイ人の学者はおのれを立てて人を支配する。イエスは貧しいが、パリサイ人は富む。イエスは弟子にも十字架のみちを歩ませるが、パリサイ人の学者は弟子のために栄達をはかる。樹はそのによりて知られ、思想の真偽はその人の生活によって知られます。真理の純粋性を重んじ給うイエスが、パリサイ人の偽善を詰責することはなはだ峻烈しゅんれつであったのは、当然のことです。同様に、等しく自由を重んずると言っても、世のいわゆる自由主義者と基督者とは根本的に異なり、等しく理想を貴ぶと言っても、いわゆる理想主義者と基督者とはくみするところがありません。また等しく基督者と呼ばれても、人間主義のキリスト教と、神から出たキリスト教とを峻別しなければならない。かくして純粋は不純を、善は偽善を、真理は似而非えせ真理を、キリストは偽キリストを、最も強く排撃せざるを得ないのだ。
「学者らに心せよ!」この一語をもって、イエスは大論戦の綜括しめくくりとなし給うたのです。

3 貧しき寡婦

 エルサレム神殿の境内には、「異邦人の庭」「婦人の庭」および「イスラエルの庭」と呼ばれる三つの中庭がありました。今までイエスは異邦人の庭で議論をしたり、教えを説いておられたのですが、やおら立ち上がって婦人の庭の方に歩いて行かれた。そこには十四かそこいら賽銭箱さいせんばこが並んでいて、群衆が賽銭を投げ入れていた。イエス様は婦人の庭に入る階段の所に坐って、その様子を見ていられたが、そこへ一人の貧しき寡婦がたった一人ぽっち、孤影悄然しょうぜんとして現われ、レプタ二個をうやうやしく投げ入れた(一二の四一―四二)。レプタというのはユダヤ貨幣の最低位の通貨で、レプタ貨二個の価値をローマの貨幣に換算すると一カドランスほどになる。(日本訳聖書に「五厘ほどなり」とあるのは意訳であって、原文は「カドランスほどなり」である。これはマルコ伝の記者が読者たるローマ人のために付した説明であります。カドランスはデナリの八十分の一で、デナリは約五十銭だから、レプタ二個は日本貨幣の五厘ほどに当たる)
 今まで衒学げんがくと傲慢、偽善と陰険とで固められた宗教家、政治家、学者たちと激しく論戦せられたイエスの眼前に、この敬虔なる貧しき姿が忽焉こつえんとして浮かみ出たのは、熱気に蒸された者に一陣の涼風が臨んだごとくでありました。イエス様はその辺にいた弟子たちを「おい、おい」と呼び寄せて、
 まことに汝らに告ぐ、この貧しき寡婦は、賽銭箱に投げ入るるすべての人よりも多く投げ入れたり。すべての者は、その豊かなる内より投げ入れ、この寡婦はその乏しき中より、すべての所有、すなわち己が生命のしろをことごとく投げ入れたればなり。(一二の四三、四四)
と、お賞めになった。これは前のパリサイ人の学者の偽善を責めた御言と、実に著しき対照コントラストであります。イエスは偽善を憎んで、真実を愛し給う。この貧しき寡婦のような真実な心をもてば、神を見ることができるのだ。イエスを神の子と信じうるのだ。そして神の国は来るのだ。イエスの求めていられるのは一片真実の心です。それをこの寡婦に見いだして、「まことに! 汝らに告ぐ」と、弟子たちに示し給うたのです。緊張した大論戦の教訓は、物静かな寡婦の登場によって完全コンプリートとなりました。時にはすでに西山に傾き、群衆もおおむね散じたから、イエスは弟子を伴って宮を出で給いました。

 これまでもイエスがパリサイ人の学者と論戦を交じえられたことは、たびたびあった(二の六、一六、二四、三の二二、七の五、八の一一、一〇の二、等)。しかし宮の境内における右の論戦は、あらゆる反対勢力が合流し、しかもその精鋭をすぐって入れ代わり立ち代わってイエスを試みたものでありまして、稀有けうの大論戦でありました。しかもイエスの知恵と勇気とは、すべての敵の悪意に満ちた論難を破ってなお余裕綽々しゃくしゃくたるものであった。イエス様の大勝利です。しかし、ああしかし! 議論に勝った者が人生の勝利者となるならば、真理のための戦いは簡単です。議論に負け、学説でやり込められた者は、公明正大の太刀打ちではとてもかなわぬから、退いて卑劣な陰謀をめぐらし、イエスを滅ぼすことを謀ったのです、真理のための論戦に勝った者が、人生の敗北者となって十字架にかけられる、これはこれ、偽の世の法則であります。ああ花々しき宮の境内の大論戦! これがイエス様にとり「最後の」論戦となりました。客観的に見れば、御自身のために十字架を準備したものにほかならなかったのです。しかも議論では尽くし難き微妙デリケートなる真理が十字架によって確立せられたのです。その真理とは、すなわち愛です。

付 最後の論戦に現われたるイエスの神観


マルコ伝第十二章の論戦に現われたるところに従って、イエスの神観を考察してみよう。

1 葡萄園の譬話――歴史と神

 葡萄園ぶどうえんはイスラエルの国(国土および人民)、農夫は国民特にその指導者、葡萄園の所有主は神、しもべは預言者、最後に遣わしたる愛子はキリスト、農夫より受け取る葡萄園の所得とは神の喜び給う正義公平の政治である。この葡萄園の譬話たとえばなしに対する最良の注解は、旧約の預言者に見いだされる。ことにイザヤ五の一―七、エレミヤ七の二五、一二の一〇、二五の四等を見よ。しかしながらイエスの譬話には驚くべき独創性がある。それは、1、葡萄園の主人がこれを農夫に貸して遠く旅立ち、後来たりて農夫どもを滅ぼし、葡萄園を他の者に与えるという点、2、僕どもの後に愛子を遣わすこと、並びにその運命について、である。右のうち第一の点より考察しよう。
 神は自然および人類の創造主であり、したがって国土および国民の創造主である。その創造し給える自然並びに人類の発展について神が関心を有することは言うまでもないが、しかし神は専制的独裁者のごとく枝葉末節に至るまで直接に干渉するのではない。自然をば人の経理に託し(創世記二の一五)、国をば指導者の政治にゆだね給う。神は「遠く旅立ち」して、地上における人の自由活動を認めつつ、その経営の状態並びに結果いかんと観察し給う。神は歴史を監督する。しかし歴史の現実の進行は人の経営するところである。神みずから歴史の筋書をば微細の点に至るまで規定し、人は機械的にこれを暗誦あんしょうするのではない。そのような意味において神が歴史の指導者たるのではない。歴史を作ることは人の経営に委任せられている。ただし人は経営の責任を神に対して負うのである。
 神が歴史を指導するというのは、人の経営に対して大方針を授け、この方針に背馳はいちする経営をば是正するとの意である。人が歴史を営むには、神の正義を実現すべしとの根本方針が与えられている。よき葡萄を結ぶことは、葡萄園の自明の目的であり、農夫たる者の自明の任務である。神は預言者を遣わして、イスラエルよりよき葡萄を要求し給い、最後のイエス・キリストを遣わし給う。しかるに農夫がキリストをも殺すことによって、神は他の者(ローマ)に葡萄園を与え給う。ローマもまたよき農夫たらずんば、これを亡ぼしてまた他の者どもに貸し与え給う。ついにキリストの再臨によりて神は人類の総責任を問い、葡萄園をばキリストの経営に付し、キリストは善き葡萄を収めてこれを神に帰し給うのである。神はその立て給える歴史の目的を執拗しつように維持し、地上の葡萄園をば神の国たらしめるまでは安息し給わない。この意味において神は歴史を指導し、また歴史に目的があるといえるのである。要するに神の歴史指導は道徳的であって、機械的ではない。何年何月何日何国何地点で何国軍隊と何国軍隊が衝突する、というようなことを、神があらかじめ規定せられるのではない。ただし神は「農夫より葡萄園の所得を受け取る」ことを要求し給う。その意味において神は歴史を監督し給うのである。これが譬話に現われたるイエスの歴史的神観であると思う。
 神が愛子を遣わし給うこと、並びにその愛子のこうむる運命は、むしろキリスト観に属する問題であって、ここには説明を省く。

2 デナリ問答――国家と神

「納税用の通貨たるローマ貨幣はカイザルに、奉納用の通貨たるユダヤ貨幣は神に」――、この機知に富んだ答弁は、反対者のかけたわなを粉砕するに足りた。しかしただそれだけではない。「カイザルの物はカイザルに、神の物は神に納めよ」との言には、さらに積極的なる重要なる意味が含蓄せられてある。ローマ政府の収税金庫とエルサレム神殿の賽銭箱、というふうに対置せしむれば問題は簡単である。人の社会生活には政治的方面もあり、それぞれに対する義務を果たしてゆけばよい。しかるに「政治と宗教」ということでなく、「カイザルと神」ということになると、問題は俄然がぜん深刻となる。それは社会問題ではなく、信仰問題だからである。
 そもそもカイザルの物ならぬ神の物があり、もしくは神の物ならぬカイザルの物があるであろうか。神は葡萄園の主である。その意味において、カイザルの物もすべて神の物である。しかし神は葡萄園の政治をカイザルに託しているのであり、その限りにおいてカイザルの物はカイザルの物である。そして事物の性質上、すべての有形物は包括的にカイザルの物たりうるのである。
 性質上カイザルの物たりえず、もっぱら神のみに帰属する物は良心である。人の地上生活の原則として、すべての物質は第一次的にはカイザルに属するが、良心は第一次的に神に属する。物質はカイザルの認容する範囲においてのみ、社会人が所有享益し、使用処分するを得る。神殿への奉納もまた、その例外をなすものではない。何となれば宗教生活も社会生活の一部であり、カイザルの政治の下に立つがゆえである。これに反し良心は第一次的に神に帰し、神がカイザルの権威を認容する基礎においてカイザルに対する忠誠が生ずる。
 カイザルの物と神との間に、かかる性質上の差異がある。したがってこれに対する人の義務にもまた、性質上の差異を生ずる。カイザルにはデナリを納めさえすれば、国民としての義務は果たされる。納税のたびごとに特に感銘感謝の念を捧ぐることが必要であるわけでなく、法律的義務として無反省に、習慣的に、事務的に納むるをもって足り、極端なことを言えば内心不承不承でもともかく納めさえすればよいのである。これに反し神の物を神に納めること、すなわち心をもって神を拝する場合には、外見的・形式的の礼拝はもちろん、習慣的・事務的礼拝もまた虚偽の礼拝として退けられる。神に対する人の義務は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる汝の神を愛する」場合にのみ、果たされうるのである。
 かく神の物とカイザルの物との範囲が定められるならば、神の物は神に、カイザルの物はカイザルに納めることにも実行上明確なる標準が立てられる。たとえばカイザルが神殿に犠牲を献げ、奉納金を納めることを禁止したりとせよ。あるいは神殿礼拝そのものをすべて禁じ、神殿を破壊したりとせよ。これが葡萄園のよき経営であるか否かは、神の問題とし給うところである。神はカイザルから地代を要求し給うであろう。しかし人はカイザルの禁止命令に服従すればよい。神は犠牲をも燔祭をも喜び給わず、ただ砕けたる悔いし心を求め給うのであるから、人は己の心を神にささげればよい。奉納金を禁ぜられても、神を礼拝することはできる。また神は手にて造りたる宮に住み給わないのであるから、神殿が破壊されたとて神を礼拝するには事欠かない。宗教生活はできなくても、信仰生活はできる。
 しかしながらカイザルが人より良心を要求したりとせよ。ローマのカイザルは実際に己を神と称し、己の像を立てて礼拝を強要したのである。かかる場合、カイザルを拝せざる者は財産を没収するというならば、財産を差し出せばよい。財産は物質的富として、カイザルの権威下に立つものだから。また身体を焼き殺すというならば、身体を差し出せばよい。身体もまた物質的な存在として、カイザルの権威下にあるものだから。しかしかかる場合にもたましいは神にのみ帰属せしめることができ、またそうしなければならぬのである。
 古来教会と国家との関係は理論的にも実際上にも多くの困難な問題を惹起じゃっきした。それは教会が性質上カイザルに帰すべき物質的財産を教会の所属として要求したること、に基づいたのである。事実問題として、社会生活の全領域にわたって身体および財産はカイザルの権威の下に置き、たましいの自由は純粋にかつ直接に神にのみ帰属せしめる時、「神とカイザル」という外見的ディレンマは解消するであろう。納税問題しかり、兵役問題しかり、刑事問題しかりである。この点においてもイエスの神観は機械的でなくして実際的である、公式主義でなくして生きた自由をもっている。

3 復活問答――個人と神

 イエスはサドカイ人との復活論戦において、「我はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神なり」という神の言を引き給うた。アブラハム、イサク、ヤコブは親子三代であるけれども、それぞれに存在と性格とを異にし、長所と欠点とを異にする別個の人間である。神はただに人類の神たり、また民族の神たるのみでなく、同時に各個人の神である。神はアブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神であるごとく、また太郎の神であり、次郎の神である。神は各個人一人一人の神であり、一人一人の間に人格的交渉をもち給う。神は各個人を個々的に保護し、個々的に教え慰め、個々的に話しかけ給う。したがって人もまた、各自個々的に神に対して責任を取り、また個々的に神と口をきかなければならない。神は人と個人的交渉をもち給う。それは神が単なる概念的・法則的存在ではなくして、人格的実在たるがゆえである。イエスの神は生ける人格神である。
 神は個人を復活せしめる。すなわち地上生涯および復活生涯を通じて、永遠に各個人の神であり給う。人の生命は復活によりて各個人ごとに永遠である。イエスの人間観は、祖先の生命は子孫相承によりて継続せられるというごとき貧弱なる根拠による不滅論とは、全く類を異にするのである。
 神は永遠に生くる個人の神である。それは神自身が永遠に生ける人格たるを意味する。

4 誡命問答――霊的神

 パリサイ人の学者が、「すべての誡命のうち、何が第一なる」と問いたるに対し、イエスの与え給える答えの中には、エホバが唯一の神なること、神は全心全霊の愛の対象たること、並びに神は霊なることが示されている。「主なる我らの神は唯一なり」という言葉は、「主、我らの神、主のみ」とも訳すことができる。「主」というギリシャ語のキュリオスは、エホバというヘブル語の訳語として用いられている。すなわちエホバは我らの神であり、我らの神はエホバのみとの意味である。エホバとは在りて在る者、すべての存在の根源たる実在者である。かかる実在者は唯一にして不可分である。神は国民および個人を個別的に導き給うけれども、国民および個人の数だけ多数の神が存在するのではない。これをヘブル語にてエホバと言おうが、ギリシャ語にてキュリオスと言おうが、日本語にて主と言おうが、とにかく我らの神とするものは、唯一の宇宙的実在者である。
 しかしながらイエスの神は概念的なる実在、もしくは抽象的なる真理というをもっては尽くしえない。それは具体的なる人格である。生きたる人格神である。したがってイエスの神は人を愛する人格であり、また人から愛せられるべき人格である。そして神は唯一であるがゆえに、神に対する人の愛は全人格をもってする唯一不可分の愛でなければならない。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」愛すべきことをば、人に向かって要求し給う神である。神は存在の根底たるのみでなく、人格の根底であり、そして人格の価値は愛である。これ神を愛し、かつ隣人を愛することが、誡命のうち最大なるゆえんである。
 実在の根底たる人格神は必然的に霊的である。それ自身実在の根底であるから、何らの物質的形状をもって神の形を表現し制約しえない。また燔祭、犠牲など何らの物質的献供をもって礼拝せられることをば本質的に必要とせざる神である。神は霊である。ゆえに霊をもって拝することが真の礼拝である。

5 学者と寡婦――真実と神

 神は霊であるから、形式でなく真実をもって、量でなく質をもって拝すべきことが、パリサイ人の学者と貧しき寡婦とに対するイエスの批評の中に現われている。

6 キリストの権威についての問答――父なる神

 イエスはキリストとしての自己の権威を主張するにあたり、神より遣わされたる愛子たることを暗示した。すなわち神はイエス・キリストの父である。「父なる神」、これが人格神としての神の性格である。そして神を父と見るこの信仰が、イエスに対し神の本質についての深き洞察と、神との親しき霊交と、論戦を一貫しての自由さ、新鮮さ、知恵と勇気とを賦与したる根本である。イエスの敵は神とのける交わりを欠いたがゆえに、彼らの神観は形式的であり、概念的でありで、化石したる公式主義的把握となった。これに反しイエスは神を父と信じたがゆえに、自由無礙むげなる新鮮なる生命力、行動力が、彼の神観より泉み出たのである。
 イエスの見たる神は歴史の神であり、国家の神であり、個人の神であり、霊と真実とをもって拝すべき唯一の人格神であり、かつ自己の父なる神である。イエスは神学者風にその神観を系統化しない。しかし神学上の神観の精髄はことごとく彼の言の中に含まれている。何よりもイエスの神観は活きた神観であることに注意しなければならぬ。かかる神観は活きたる知識であって、信仰生活の原動力たり推進力たりうるものである。これに反し単なる概念的神観は思索の遊戯であって、パリサイ人の学者もまたこれを善くするところである。
 イエスは神の存在を論証し給わなかった。神を「父」と呼び、その父なる神とともに生活し給うた彼には、神の存在は自明のことであって、問題にもならなかったのである。神の存在を証明するものは議論ではない。神と偕に歩んだイエスの生涯そのものが、神の存在の最大の証明である。
[#改ページ]

第十三章 最後の預言



一 神殿の崩壊



 論戦の一日は終わって宮を出で給うたが、弟子らはイエス様の花々しき勝利に魅せられ、イスラエルの復興の近きを思うて心の昂揚こうようを禁じえず、そびえ立つ神殿の威容もひときわ荘厳に仰がれました。この宮こそ、国民復興の象徴である。そう思って、彼らの一人は感に堪えざるもののごとく、
 先生! ごらんなさい。これらの石、これらの建造物、なんと盛んなものではありませぬか。(一三の一)
と、申し上げた。この神殿はヘロデ大王の建築したもので、長さ十二メートル半、高さ四メートル、幅六メートルの巨石や、長さ二十二メートル半、高さ二メートル半、幅三メートルの大石が用いられ、堂々たる規模でありました。
 しかしイエス様の御心は全然正反対のことを考えておられたのです。壮大なる宮の建築、立錐りっすいの余地なき祭りの群衆、しかつめらしき祭司、学者、長老の一団! しかしどこに神殿のたましいがあるか。商人と市民とによりて宮の神聖は汚され、指導者たちは綱紀の粛清どころか、かえってみずからこれを強盗の巣となし、かつ派閥的なる分裂党争をこととして、キリスト彼らの前に立つも認めることを得せず、あまつさえ奸計かんけいをめぐらしてこれを陥れようと企む。信仰かくのごとく空虚にして、いかにして国の復興が期待しえられようか。イエスの直感的なる霊眼に映ったものは、神殿の興隆ではなくして、かえって崩壊でありました。
汝これらの大なる建物を見るか。一つの石も崩されずしては石の上に残らじ。(一三の二)
 辞は簡であるが意は深く、イザヤ、エレミヤも三舎を避くる預言者のおもかげであります。ミカの預言にいわく
 これによりてシオンは汝のゆえに田圃たんぼとなりて耕され、エルサレムは石堆いしづかとなり、宮の山は樹の生い繁る高き所とならん。(三の一二)
 わが愛する者の、わが愛を拒みし末路はこれである。ベタニヤへの帰途オリブ山に坐したイエスは、夕暗ゆうやみにつつまれゆく宮を瞰下みおろしながら、無量の感慨にふけってい給いました。


 ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、四人の弟子は半ば心配気に、半ば好奇心をいだいておそばに近づき、
 我らに告げ給え、これらのことはいつあるか、またすべてこれらのことの成し遂げられんとする時は、いかなるしるしあるか。(一三の三、四)
と、そっとお尋ねしました。時や兆を気にするのは、好奇心であって信仰ではない。心に備えさえあれば、エルサレムの滅亡は愚か、世の終わりがいつ来ても動ずることはないはずです。必要なものは時や兆を知ることではなく、常に心に信仰を保っていることです。だから、弟子たちが好奇心の満足を求めたに対し、イエスの与え給うたお答えはきわめて実際的な注意でありました。
 汝ら人に惑わされぬように心せよ。多くの者わが名を冒しきたり、「われはそれなり」と言いて多くの人を惑わさん。(一三の五、六)
 ちょうどイエス御自身がバプテスマのヨハネの再来であるとうわさされたごとく、イエスの死後「我こそ復活のイエスである」と名乗って、民衆を煽動せんどうする偽キリストが出るであろう。(実際そのように自称した煽動家が何人も出て、その一人としてソイダスという者の名が伝わっています)キリストの再臨について、その「時」とか「兆」とか、外側のことに心を取られていれば、汝らの信仰は地面を離れて妄想的もうそうてきとなり、偽物をつかむおそれがあるのだ。
 戦争と戦争の噂とを聞くときおそるな、かかることはあるべきなり。されどいまだ終わりにはあらず。すなわち「民は民に、国は国に逆らいて起たん」。また処々に地震あり、饑饉ききんあらん。これらはうみの苦難の始めなり。(一三の七、八)
 戦争と戦争の噂と地震と饑饉と(ルカはこれに「疾病」と「懼るべき事」と「天よりの大なる兆」とつけ加えている。二一の一一)、これらのことが起こってきても、それはその起こりきたるべき社会的もしくは自然的必然性があってのことだ。もちろん必然性があるからといって、道徳的に是認するわけではない。ただその必然性の認識は、事の起こった時汝らが懼れあわてざらんがために必要である。神の国が成る前には戦争や饑饉や疾病や地震や天災やがしだいになくなってゆく、と思えば大間違いだ。神の国は進化的に来るのではなく、革命的に来るのだ。そして革命の前夜には、一方では新しき神の国の胚種が自然および社会の胎内に成熟するとともに、他方では革命せらるべき自然界の欠陥および社会の罪悪が極度に現われる。かくして神の国は決戦的に来るのだ。戦争、地震等々がしきりに起こっても懼れることはない。それは神の国の黎明れいめいだ。しかしまた社会的事変や自然的天災が起これば、神の国はすぐに来るものと早呑み込みをしてもいけない。これらはすべて新秩序の「産の苦難の始め」であるにすぎない(ロマ八の二一、二二参照)


 世の終わりはいつ来るか、またいかなる態様をもって来るか、それは神の御手にあることであって、汝らの知るを要せざることである。それよりも自分自身の足下に気をつけろ。汝らには、直接に差し迫った自分自身の問題が臨もうとしているのだ。
 汝らみずから(に)心せよ、人々汝らを衆議所にわたさん。汝ら会堂にかれて打たれ、かつわがゆえによりて、つかさたちおよび王たちの前に立てられん、これは証をなさんためなり。かくて福音はまずもろもろの国人に宣べ伝えらるべし。(一三の九、一〇)
「衆議所」とはサンヘドリンといって、ユダヤ人の会堂の長老たちで組織する宗教裁判所です。中央の大サンヘドリンはエルサレムにありましたが、地方にも地方裁判所サンヘドリンがあった。「会堂」とはシナゴグで、そこにはカッツァーンと言う執事のような役人がいて、サンヘドリンで判決のあった刑を執行しました。たとえば五十の笞刑ちけいという判決であれば、カッツァーンがこれに従って被告をば会堂の中で五十むち打ったのです。それから「司たち」というのは総督、知事など、ローマの政権を代表する政治上の役人、「王たち」とあるのはローマの皇帝、並びに皇帝から王、もしくは分封の国守として封ぜられた君主です。
 汝らはただイエスの弟子であるというだけの理由で、宗教裁判所に告訴せられたり、官憲の前に引き立てられるであろう。あたかも今日日本でマルクス主義者といえば、ただそれだけの理由で警察に留置せられたり、またドイツでユダヤ人といえば、それだけの理由で排斥せられるようなものです。しかしこうして汝らが官憲に喚び出されて調べを受けたりすることは、決して無意味なことではない。ただ迷惑な災難だというべき筋合いのものではない。それには神の側から見た「目的」があるのだ。すなわち信仰の証明をするためなのだ。その公の機会であるのだ。これによって福音はもろもろの国人の間に宣べ伝えられてゆくのだ(ピリピ一の一三、一四参照)。福音のための公の意味をもつ事件なのだから、もちろん神様が全責任をもっていて下さる。汝らは何を答弁しようかと、あらかじめ思い煩うな。ただ神を信じて、心に平安をもっておれ。心が平安であれば、聖霊のささやき給う声が間違いなくはっきり聴き取られるであろう。その授けられた言のとおり言えばよいのだ。汝らが答弁するのではない、聖霊が答弁するのだ(一三の一一)


 ひとり官憲に訴えられるにとどまらず、憩いの場所とたのむ家庭においてさえ、イエスの名のゆえに
 兄弟は兄弟を、父は子を死にわたし、子らは親たちに逆らいて死なしめるであろう。(一三の一二)
 家庭の分裂! 肉親の憎悪! 親友の離反!(ルカ二一の一六参照)。いたましき悲劇である。国民としては最も国法に従順であり、社会人としては最も職務に忠実であり、家庭人としては最も善き子であり、親であり、兄弟であり、道徳においても志操において模範的と言われうべき者が、ただイエスの名に連なるがために、かくも人々から憎まれ嫌われようとは!
 我地に平和を投ぜんために来たれりと思うな。平和にあらず、かえって剣を投ぜんためなり。それわが来たれるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑より分かたんためなり。人の仇はその家の者なるべし。(マタイ一〇の三四―三六)
とさえ、イエスは言われた。世間にはこの御言を根拠として、イエスは戦争を是認せられたのであるなどと言う者がある。お黙んなさい。貴君にはイエスの譬話たとえばなしは通じない。イエスはここで主戦論を唱えられたのではない。家庭の分裂を預言せられたのだ。もちろん家庭の分裂を是認したり、主張せられたのでは決してないが、イエスの名が原因となって、家庭が分裂するに至るとの事実を預言せられたのだ(ルカ一二の四九―五三参照)。否、ひとり家庭の分裂にとどまらない。
 また汝らわが名のゆえにすべての人に憎まれん。されど終わりまで耐え忍ぶ者は救わるべし。(一三の一三)
とさえ言われました。すべての人から憎まれることが日課となるというのです。どうしてこんなに憎まれるかというに、それはイエスの名があまりに善過ぎるからです。光が暗に照るがゆえに、暗は全力をあげて抵抗するのです。
 イエスの名を信ずる者は憎まれる――そのことを承知しているだけで、どれだけ私どもはとまどいせずにすむかしれません。あらかじめイエス様の口からこれを伺っていればこそ、告訴と排斥と憎悪が身に振りかかってきた時に、狼狽ろうばいすることなく、恐怖することなく、笞打たれて堪え、憎まれて憎み返さず、イエスの預言せられたとおりに事の成るのを喜びつつ、終わりまで耐え忍ぶことができるのです。

二 荒すにくむべき者



 イエスは語を次いで言われた。
「国民上下の不信仰と罪とは、やがて国家の滅亡を招くであろう。『荒すにくむべき者』が立つべからざる所に立つのを見たら、それが滅亡の合図だ。その時ユダヤにいる者どもは山地にのがれよ。屋上に出ている者は内に下らず、街路に通ずる階段で即刻外に逃げよ。外に出ている者は、家の物を取り出そうとして内に入るな。畑に働いている者は上衣を取りに帰るな。皆その場から、着のみ着のまま大急ぎで避難しろ。その日にはみごもりたる女と、乳をまする女とは禍害わざわいなるかな。このことの冬起こらぬように祈れ。もしくも厳冬の候に起これば、人々の苦痛と惨状とはいっそう烈しいであろう。その日は『患難なやみの日』だ。天地開闢かいびゃく以来、空前絶後の患難だろう。神がその日数を少なくし給わなければ一人も助かる者はないだろう。しかし神はその選び給いし選民のために、その日を少なくし給うであろう。この混乱の時にあたり、人心の動揺に乗じて『見よ、キリストはここにあり』『見よ、かしこにあり』との風説が飛び、多くの偽キリスト、偽預言者が起こり、しるしと奇蹟とを行なって人々を惑わし、なしうべくば、真の選民たる汝らをも惑わそうとするだろう。汝らは心せよ。その時になって惑わされないように、あらかじめこれらのことを皆汝らに話しておく」(一三の一四―二三)
「汝らは心せよ」「汝らみずからに心せよ」とイエスは三度もくり返して注意し給いました(一三の五、九、二三)。神殿の崩壊と国民の滅亡、社会の混乱と天変地異、イエスの名を信ずる者に対する憎悪と迫害、これらすべての預言は、その場にあたって弟子たちが惑わされないようにという、イエスの愛からあふれ出た御言です。預告せられた事実そのものが興味の中心であるのではない。したがって子たちも、将来起こるべき事件の時や兆に関して好奇心や取越苦労にふけることなく、自分自身の足もとに気をつけて、イエスに対する信頼を守っていればよいのです。要するにイエスの預言は概念的な終末論ではなく、おのれの名を信ずる者に対する愛の発露として、実際的な注意を与えられたものでありました。


「荒すにくむべき者」とは、「荒廃をひき起こすにくむべき者」との意味で、旧約聖書を読むほどのユダヤ人にはただちに連想のできたダニエル書です(九の二七、一一の三一―一二の一一)。「にくむべき者」とはいやらしい者、見てもぞっとするいやな者、けがれた者。そいつが出てくると荒廃が起こる。ダニエル書における「荒すにくむべき者」は紀元前二世紀の半ばごろに出たシリヤの国王アンチオーカス・エピファーネスのことで、彼はユダヤを攻略して政治的に支配し搾取したにとどまらず、宗教的にユダヤ教を圧制し、ついに紀元前百六十八年十二月エルサレム神殿の燔祭を献げる祭壇の上に、ギリシャの神ゼウスの祭壇を置いた。これはユダヤ人から見れば、神殿の凌辱りょうじょく、国威の汚損、言うに忍びざる国辱でありました。ダニエル書はこの時代を背景として、ユダヤ人の信仰を励ますために書かれた黙示文学であります。
 アンチオーカス・エピファーネスの圧制に対し、マカベヤ家のユダヤという勇士が奮起してこれを退け、イエス降誕の少し前までユダヤはマカベヤ家の支配の下にあり、ローマの統治もゆるいものでありました。しかるにイエスの死なれる前後からローマの統治はようやく直接かつ強力となり、ついに紀元四十年ごろに至り、カリグラ皇帝は自己の像をばエルサレムの神殿内に建立こんりゅうしようとした。この計画は総督の諫止によって中止せられましたが、皇帝崇拝を強要して神殿の神聖を荒らそうとしたカリグラ帝の意図は、ユダヤ人にとりて大なる衝撃であり、マルコ伝が書かれたころには、まだ人々の記憶に新たなる事件でありました。さればこそ、「荒すにくむべき者の、立つべからざる所に立つを見ば」というイエスの御言に対し、マルコ伝記者は「読むもの悟れ」と注をつけ、ダニエル書の預言の現代的適用に関して読者の注意を喚起し、信仰の堅忍を勧めたのであります(一三の一四)
「荒すにくむべき者」がエルサレムの神殿に立ちて、国民に滅亡の臨む日は、まことに大なる「患難の日」であります。この「患難の日」という語も、ダニエル書一二の一の引用であって、ユダヤ人にはたやすく連想せられうる国難の日であります。しかし事は政治上・社会上・宗教上の事変をもっては終わらない。旧約の預言者もしばしば預言したように(イザヤ一三の一〇、三四の四、アモス八の九、エゼキエル三二の七参照)
 その時、その患難ののち、日は暗く、月は光をはなたず。星は空よりち、天にある万象震い動くであろう。(一三の二四、二五)
 これは国民の罪に対する審判の、自然における反映です。人が罪を犯して自然界が穢れざるわけではなく、人の罪が審判さばかれて自然界に天変地異の起こらぬはずがない。人と自然と、神の創造つくり給える全宇宙が罪の審判のために震動し、天のはてより地のきわみまで、万物呻吟しんぎんの声は一つとなって空にちゅうする。人の「罪」に対する審判の重さは、これ以下では決してありません。
 しかしこの万物呻吟は、また新しき創造のうみの苦痛である。この宇宙的苦しみの中から、人々は目をあげて、人の子イエス・キリストが大なる能力と栄光とをもて、雲に乗り来たるを見るであろう。その時彼は天使たちを遣わして、地のはてより天の極まで四方より選民を集め給うであろう(一三の二六、二七)。迫害によって散らされたイエスの信者たちは、世界の四方より集められて、神の国の民に加えられるであろう(ダニエル七の一三、一四参照)。かくしてイエス・キリストの顕現パルーシャ、すなわち再臨によって宇宙に新秩序は立てられ、永遠不滅の神の国は建てられるのだ。彼の名を信ずるものは、動乱と迫害との中にありて、この希望によりて平安と忍耐とを維持しうるのだ。――イエスは小なる弟子たちを力づけ給うに、この宇宙的大預言をもってし給うたのであります。

三 無花果の樹よりの譬



 キリストの再臨はいつ起こるか、その兆は何であるか、と汝らは気にかける。目を放って自然を見よ。そこに生えている無花果いちじく、その枝にはすでに春が漂うているではないか。昔の詩人も美しく歌っている、
 見よ、冬すでに過ぎ、雨もやみてはや去りぬ。もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時すでに至り、班鳩やまばとの声われらの地にきこゆ。無花果樹はその青きを赤らめ、葡萄ぶどうの樹は花さきてそのかぐわしき香気をはなつ。わが※(「耒+禺」、第3水準1-90-38)ともよ、わが美しき者よ、起ちて出できたれ。(雅歌二の一一―一三)
 自然はてらわず、無理がない。自然はあせらず、おそれない。枝が柔らかくなって葉が芽ぐめば、夏の近きことを知るではないか。エレミヤは巴旦杏はたんきょうの枝が花をつけたのを見て、エホバの目覚めを知った。そのように、汝らは無花果の枝の柔らかいのを見て、救いの近きを知るべきだ。汝らに与えられる「しるし」は、無花果の樹以外にはない(マタイ一六の一―四参照)。社会に動乱が起こるであろう、自然界に変異が現われるであろう、汝らはわが名のゆえに人々に憎まれ、捕えられて笞打たれるであろう。これらのことはすべてあるべきことなのだ。そしてその後に神の国の常夏は来るのだ。これが神の経綸けいりんにおける物ごとの自然的順序だ。何も戦々兢々せんせんきょうきょうとすることはない。むしろこれらのことが起こるを見れば、人の子すでに近づきて門辺かどべに至るを知れ。汝らがイエスの名のゆえに笞打たれるその笞音の一つ一つが、神の国の黎明を告ぐる暁の鐘の響である。苦しみは烈しくとも、救いの顕現は近い。現代が過ぎいてしまわないうちに、これらのことは成就するであろう。たとい天地は過ぎ逝いても、わが言は過ぎゆくことはない(一三の二八―三一)。汝らわが言を信じて、希望をたもて。患難は来たらざるをえない。しかしわが名のゆえに汝らの受くるしばらくの軽き患難は、きわめて大なる永遠の重き光栄を汝らに得させるのだ(コリント後書四の一七)
 しからば人の子の再臨する「時」はいつ? と汝らは問う。それは天の使いも知らず、イエス自身も知らない。それを知り給うのは父なる神だけだ。むしろそれは父の御心にあることであって、神御自身でも、キリスト再臨の日を何年何月何日というふうに機械的に固定して定めておられるわけではあるまい。父は人類社会と自然界における万物進行の状態をておられて、ここが潮時と思われる時にキリストを再臨せしめ給うのであろう。本当に私もその時を知らないのだ。いわんや汝らがそれを知りうるはずがないのである。汝らの心にかくべきことはただ一つ、「心して目を覚ましおれ!」それだけだ(一三の三二、三三)。信仰が目ざめていれば、「時」はいつ来てもよい。これに反し汝らの信仰が眠っていれば、たとい「時」をあらかじめ告げられていたとしても、イエスの弟子としての出処進退を誤るに違いない。
 たとえば主人が遠くへ旅立ちせんとして家を出ずるにあたり、奴隷どもに家事の権を委任して、各自の務めを定め、全家の安全を守るべき門守たる者には特に「目を覚ましおれ」と、命じておいたようなものだ。主人の帰るのは夕べか、夜半か、鶏鳴か、夜明けか、いずれの時刻だかわからない。(ローマ人は夜間をこの四刻に分けたのです)おそらくにわかに帰りきたって、汝らの眠れるを見るであろう。これは汝らにだけ言うわけではない。すべての人に告げるのだ。くり返して言うが目を覚ましておれ!(一三の三四―三七)

付 補講


マルコ伝第十三章は昭和十三年三月二十日および二十七日の両回、日曜の集まりで青年たちに講話したところである。右掲は本書の原稿として書き整えたものであるが、講話が集会でなされた時の「空気」を伝えるため、当時の記録の一部を速記のまま「補講」として次に載せる。本文との多少の重複は、諒恕りょうじょしていただきたい。(便宜上二十七日の分を「その一」、二十日の分を「その二」とする)

その一


 最近の一週間私は二、三のことについて心配がありまして一週間を暮らすのに十年もかかったような気がする。私の心を悩ました問題が二、三ありました。そのうちの一つは、マルコ伝十三章をどうして通り抜けるか。今までマルコ伝のお話をしまして、案外すらすら来ましたが、十三章になってから馬に乗った人が、馬が棒立ちになって動かない、あぶみを踏んでもむちをくれても、棒立ちになったというような気がする。いわんや私一人でなしに、皆さんを引き連れてどうしてここを通り抜けるか、と思いまして非常に困っていた。それには二、三の問題に関連があった。とにかくマルコ伝十三章は難所である、と思っていたところが、金曜日の午後になってこういうことに気がついた。マルコ伝十三章というのは、ゲッセマネの園でイエス様御自身がお困りになった、悩まれ苦しまれた問題である。ゲッセマネの記事は簡単に、「御心ならばこの酒杯を私から取り去って下さい」とイエス様は祈られた。それから弟子たちに対して、「お前たち目を覚まして祈れ」と言われた。ゲッセマネの園でイエス様が心を砕いて悩まれたその内容は何か。悩んで何を祈られたか。その内容は十三章に出ている。だからして、これはうかうか、普通の心をもって読んでも、とうていわからないはずだ。ゲッセマネの園で悩まれたイエス様の気持を汲んで、ゲッセマネの園の説明としてここは読まなければならない、ということがわかった。今までにも一度親不知子不知おやしらずこしらずの険を通ったことがありまして、八章の終わりの方です。「人もし我に従い来たらんと思わば、おのれをすて、おのが十字架を負いて我に従え。己が生命を救わんと思う者は、これを失い、わがためまた福音のために己が生命を失う者は、これを救わん」。ここも親不知子不知の険で、一人ずつこの難所を通らなければならなかった。十三章では、十字架が目の前に迫っておりますから、もっとそれが深刻にまた詳しく出ております。で、この難所を通ることも、道が嶮岨けんそで狭いから、一人ずつしか通れない。
 私がこの個所を説明するに困難を感ずる理由は、何ともイエス様に対してお気の毒でしかたがない、こんなに愛の深いすぐれたイエス様がこういうことを苦しまなければならんということと、それから我々イエスの後ろからついてゆく者は、はたしてこの難所を通られるかという恐れ、心配。この二つがここを我々が通り抜けるに非常な困難を感じたわけである。イエスの伝記を解釈する困難は、言葉の意味とか内容とかのむずかしい所もありますが、やはりイエス様の生きられた、歩まれた心の動きのいちばん深い所に触れなければならない時に、いちばんむずかしい。でさきほど言いましたごとく、十三章のお話はイエスが苦しまれた所、かのゲッセマネの園の祈りの心をもって言われてあるから、祈りの心をもってこれを読まなければ一歩も前へ進めないわけなんです。ゲッセマネの園で、「いたく驚き、かつ悲しみ」て祈られたイエス様の気持が、十三章のお話の中にこもっていると思う。
 このイエス様の悲しみ、悩みの中には、個人的のこともあるし公のこともあるし、それが別々なことでなしに、一つこととなって心を押えつけている。公のことは何であるか。エルサレムの神殿が崩され、自分の国が滅ぼされてしまう、大きな審判が神から与えられるという悲しみである。それから個人的のことを言えば、自分はこういう目にあう、それから愛する弟子たちの上にもこうこういう運命が待っている。そしてイエスが棄てられ十字架にかけられるということと、エルサレムの石が崩され国が滅びるということと、切り離すことができないことである。イエスを棄てなければエルサレムの石が崩されることもないんですが、人々がどうしても彼を棄てるから、一つの石も石の上に残らないという徹底的な滅亡が来る。イエスが徹底的に棄てられるから、石垣も徹底的に崩される。
 そういうことを聞いて、ペテロやヤコブなどはそれはいつ、その兆はなんですかと聞いた。イエスはそれに対して、そういうことよりも人に惑わされないように、自分の足下に気をつけろ。我々が心しておれば、すなわち神の審判に対するおそれと祈りとを宿題として心にとっていれば、何かのことで変動がわかる。梅の花を見てわかることがあるかもしれない。あるいは台所でなべが煮立っている、あるいは無花果の枝が芽を吹いている、そういうことで気がつくことがあるかもしれないし、自然界に暗示はいっぱい与えられている。ただそれを見る心がないならばわからない。イエスの教えは非常に自然的で無理がない、いわゆる宗教家臭いところがない。気をつけていれば、時とか兆とかいうものはわかる。
 時間的には、その時をキリストも知らない。神の子が知らないのは変ではないか、キリストは何でも知っているはずであるのに、「子も知らず」とおっしゃったことは解せない、という人々がある。この言はルカ伝にはない、マルコとマタイ伝とにだけある。昔から注解者が説明に苦しみましたが、これを何と説明するかは別題として、ここに書いてある記事は簡単明瞭で、「知らん」と言われた。説明は後の人がいろいろ想像して言うでしょうが、イエス御自身は端的に、知らないと言われた。これをある人は、イエスが弟子を訓練するために、自分は知っているけれども、わざと「知らん」と言われたのだろう、と想像する。これは説明のための説明である。イエスが「知らない」と言われた語は、無条件に絶対的に知らない、という強い断定の文字であるそうです。
 神の子たるイエスが地上に生活しておられた間において「知らん」と言われたことは、私どもにとりまして解釈の困難を感ずるよりも、むしろ非常に慰めの言葉です。いったい子供の特色は父の心を心とすることであって、父の知っていることを何でも知っているという知識の問題ではない。信仰と愛の問題である。知識的に知らなくてもいい。イエス様は信仰的に最もよく父の心を知っておられた。父なる神様の示し給うことをよく見られた。十一節に、「人々汝らを曳きてわたさんとき、何を言わんとあらかじめ思い煩うな、ただそのとき授けらるることを言え、これを言う者は汝らにあらず聖霊なり」。何を授けられるか今からわからないけれども、授けられたことをはっきり聞き取って言えばいい。はっきり聞きとるには、神様の顔を仰いでいればいい。ですから、「知らず」と率直に言われたことは、子たる性質にそむかない。そむかないばかりか、いっそうイエスが神の子であることを我々に認識させる。イエス様さえ知らないことがあるんですから、いわんや我々は知らないことがたくさんある。「その日その時を知る者なし」。その日その時ばかりか、聖書に書いてあることで私どもの理解できないことがいっぱいある。知りたいとは思うけれども、子たることはこれではない。そこに間違いが起こるというと、聖書をこんなに読んでいるけれどもわからないことがいっぱいあると悩む。それは、自分のような頭の悪い者は親の子ではない、というようなものです。イエス様さえ知らないんだ、まして我々は知らないことがたくさんある。


 も一つ三十節に、「これらの事ことごとく成るまでの今の代は過ぎくことなし」とイエス様は言われた。今生きている者の目の黒い間にすべてのことが起こる、というのです。イエス様が死なれまして、あとだんだんと弟子たちの上に迫害が加えられまして、九節から書いてあるようなことが起こります。紀元七〇年にエルサレムが破壊せられ、一つの石も石の上に残らないように破壊せられます。そういうことはイエス様の言われたように実現した。しかしキリスト再臨というようなことはまだ起こらない。ここに、イエス様の預言がはずれたのではないか、という疑いが起こります。そういうことはイザヤ、エレミヤ等旧約時代の預言者についても同じ問題があるんですが、いま言いましたように、ある点はイエス様が言われたとおりに実現したが、復活したイエスが審判のために現われる、すなわちパルーシャ・顕現・再臨ということは、当時の人の生きてる間に起こらなかったのみでなく、今まで千九百年たったけれども起こらなかった。この問題も私どもは理屈をもって無理に説明しないで、率直にイエス様が言われたことははずれたと認めればよい。これを霊的意味たとえばペンテコステの日に聖霊が下ったことであるとか、イエス様が復活してガリラヤで弟子たちに現われたことがそれであるとか、いう具合に説明する人もありますけれども、しかし世の終わり、最後の審判、そういう意味においては「今の代の過ぎ逝かぬうちに」は実現しなかった。
 イエス様が言われたとおりにそのことが起こらなかったとすればどうなるか。どこにさしさわりがあるかと言えば、さきほど「子も知らず」という問題について言ったように、このことはイエスが神の子たるに何のさしさわりもない。ここにあるお話の主眼は、「心して目を覚ましておれ」ということになる。我々がキリストを信ずるゆえに、キリストの名のゆえに、こうこういう目にあう、しかし我々の迫害はイエスの名のゆえに来たるんだから、神の審判に欠くべからざる不可分の一部である。罪のない者が罪のある者のとがを負って苦しむ。イエス御自身がそうだし、イエスを信ずる者もそうである。しかしその苦しみの期間は短いんで、いつまでも汝らが責められていることはない。やがてすべての者は正しい場所に置かれる。汝ら恥辱を加えられるけれども、その時はしばらくの間である。これは公の問題としても個人的の問題としても大切です。イエス様は何もキリスト再臨の時間について論議せられているわけではない。全体の主旨は目を覚ましおれということである。目を覚ましおる者に対する忍耐と慰めを約束しておられる。イエスは十字架にかかって殺されるけれども、三日目によみがえる。その三日という数も、必ずしも時間的の三日でなく、しばらくの後、間もなく、という意味である。同じように、「今の代の過ぎ逝くまえに」という言も、時間的に人間一代、すなわち三、四十年ということではなく、「遠からずして」という意味であろう。予言は詩であって統計ではない。だからこれを文字の表面にとらわれて解釈する方が間違いだろう。


 こうして最後の預言をせられたイエスの心を私どもが汲み取って描いてみるというと、イエスが弟子たちに教えておられることは、イエス御自身が神様から教えられたところである。イエス御自身がまっ先にその道をかれた。イエス様は御自身にわからないこと、御自身しもしないことを、弟子たちにしろとは言われない。御自身の歩まない道を、弟子たちに歩めとは言われない。偽善なる学者とパリサイ人とは自分では少しも荷物を負おうともしないで、人に対して重きを負うことを要求する。イエス様はこれと正反対で、何でも自分がやったことだけを弟子たちに命じ、自分にわかったことだけを教えられた。
 イエス様は一人でこの道を歩いた。イエスの歩いた道をあとから弟子たちが歩く。「心して目を覚ましておれ」。イエスが往き[#「往き」は底本では「住き」]給うたあとに残ったしもべたちは、全体的共同責任として神の国を建てなければならない。これは教会エクレジャの責任です。しかし十三章の難所を通り越すのには、一かたまりになって団体的に通ることはできない。私は私の足下に気をつけますから、あなた方はあなた方でめいめい自分の足下に気をつけなさい。この道をイエス様が先に通って、我々に模範を示されておられる。でありますから、イエス様が言われた注意をもって通れば、自分たちにも通れないことはない。これだけのことをイエス様が懇切に言い残して下さった。言い残して下さっただけでなしに、みずから歩まれた。それを考えるというと、十三章の精神が我々に少し理解ができる。


 ここでお話なさった二、三日の後に、イエスは十字架にかかります。そのあとで弟子たちの迫害が起こります。それに対して初代教会の信者たちは、かかる悩みのくることは必然なことで避けることはできないが、終わりまで耐え忍べばやがて救いがくる、と言って互いに慰めた。
 マルコ伝十三章十四節から二十七節までの部分、少なくともそのある部分は、イエス様がこの時言われた言ではないが、マルコ伝の編集者が旧約聖書の預言書や黙示文学からの材料をばつけ加えて、「終わりまで耐え忍ぶ者は救わるべし」の説明としたのであろうとの説もある。マルコ伝の叙述は簡潔で、一つことを長く説明することはないが、終いになればなるほど詳しくなり、なかでも十三章は長い。十二章も長かったけれども、入れ代わり立ち代わっての議論がありますから、一つの議論は長くない。しかし十三章の問題は一つなんです。それが他とつりあいが取れないように長いのはなぜであるか。当時信者の迫害が起こりそうだというので、彼らを励まし忍耐を鼓舞するために、特別詳しく書いたのであろうとある注解者は言っている。
 前にも弟子たちを地方に派遣せられた時、ヘロデ王がバプテスマのヨハネの首をねたことの記事が、六章の十四節から二十九節までに長く出ております。これはこの事件が、当時の迫害を怖れる空気の中にあって、時代的関心があったから、信者たちを激励するために特に詳しく書いたのだろう。十三章も同じである。
 それで、イエス様が先に捕われ、そして十字架にかかられた。イエスの言い残されたことや示された実例を集めてマルコ伝を書き、その時代の迫害の空気に脅かされた人々を励ました。そしてその信仰が今日我々にまで伝わっている。今まで世界各国において何度も、ここに書いてあるとおりだ、これが真理だということが証明され、たくさんの人々がこの道を通り、その足跡を我々に残している。そう考えてみると、自分たちがマルコ伝十三章を学んだということは、結局自分たちもこれが真理である、これがただしい道である、と続いて往くべきためである。キリストを信ずる者が、キリストの名のために憎まれることがなければおかしい。すべての事柄が聖書に適って起こってくる。だからして我々自身自分の足もとに気をつけ、心して終わりまで耐え忍ばなければならない。それで始めて十三章の意味が出てくる。さきほど言いましたとおりに、イエス様が先にここを歩いて下さったことは、我々にとってどれだけ心強いかわからない。

その二

 日本における最近の事情を今まで断片的には話したことがありますけれども、好奇心をもって聞かれることを私は非常に恐れたものですから、詳しくお話したことはなかったけれども、大切な問題だから話す。昨年八月に日華事変が起こって以後、日本の国の政治そのほかの問題がどしどし変わってきた。その取締りの対象になったものはすべての方面にありますけれども、思想方面では共産主義関係のものとキリスト教関係のものが多い。私ども無教会の仲間では鳥取県米子よなごの藤沢武義君、この人は『求道』という雑誌を出していた人ですが、筆禍のため、ここ(マルコ伝一三の九)に書いてあるような目にあった。その人は去年十月の二十三日から十二月二十六日まで二か月以上警察に留置せられておりました。俗に「豚箱」といわれる、高さ一丈長さも幅も五尺ぐらいの狭い室に一か月余も入れられまして社会主義の思想からきたのではないかと調べられた。そうではない、これはイエス・キリストの信仰からきたと言うことを証した。祈祷きとうと断食をして耐え忍んでいたが、一か月たって、警察の人の取調べの態度が変わってきた。
『求道』誌の読者で鳥取県の年若い数名の婦人たち、病気の青年なども警察に喚ばれまして、何を信じているか、なぜ信じるか、戦争をどう思うか、など聞かれた。
 これは鳥取県のことですが、もう一つ北海道でも浅見仙作という人。『喜の音』という伝道紙を出していた。その筆禍事件です。米子の藤沢君は三十三歳ですが、浅見さんは七十一歳の老人です。身柄は拘留せられなかったのですが、警察に六日、憲兵隊に二日、検事局に二日行って信仰の内容を穿鑿せんさくせられた。
 浅見さんの雑誌を取っているもの、導きをうけている者が北海道で数多く調べられた。浅見さんの女婿の渡辺清光君という青年が夕張ゆうばりにいたが、この渡辺君は警察に二日間留め置かれた。警察の留置場に入れられることはからだの弱い者には非常に苦痛です。渡辺君にはこの二日間が精神的にも肉体的にも非常に影響したと思いますが、一月十四日とかに喀血かっけつし、一か月の間に四十回も喀血して、つい二、三日前召された。これもイエスの名のゆえに人々に悩まれ、衆議所に付された一例です。
 浅見さんの導きによってキリスト教を教えられた札幌のお蕎麦屋そばやのおばさんがありますが、警察に喚ばれた時、実にりっぱに、胸のすくようにはっきりと、神は唯一にして他に神なきことの信仰を言い表わした。そういうことが北海道にあった。
 東京でも『信望愛』主筆の金沢常雄君、『新シオン』主筆の伊藤祐之君、『基督教平和論』の著者政池仁が、筆禍のため警視庁と検事局とに喚ばれた。
 以上各地の教友諸君はいずれもキリストの名のゆえに衆議所に付され、司の前に立たされたのである。そしていずれも信仰の証をせられて、言を曲げるところはなかったのである。「キリストの名のゆえに」ということと、「証をなさんためなり」ということとが、非常にはっきりしている。原因はキリストの名、目的は証をなさんためなり。それから私自身もやはり筆禍事件のため、二月の何日かに警視庁に喚ばれて調べられた。いずれ検事局の方にも喚ばれるでしょう。どこへ喚ばれ、何をきかれてもどうせキリストの名のゆえに往くのだから、言う者は我らにあらずして聖霊である。我らは終わりまで忍耐していればよい。信仰さえ保っていれば、あとのことは神様がして下さる。イエス様は私どもを愛して、私どもの往く道を手をとるようにして教えて下さった。私どもは信仰をもて終わりまで耐え忍ぶ。それが私どものなすべきことの全部であって、それ以外に私どものすることはない。私どもは少しばかりの自分の経験を誇張して考えることはありません。私自身何でもなく思っているんですから。
 しかし、覚えておいてもらいたいことは、私は諸君を辱しめるようなことはしてこなかった。その点は安心してもらいたい。しかし諸君自身がだんだん成人して社会に出ると、自分の口で信仰の証を言わなければならないとも限らない。「汝らみずからに心せよ」。しかしその時に、イエス・キリストがいちばん先頭に立ってかれたことがここにちゃんと載せられている。ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、パウロたちも続いて往った。下っては我々風情ふぜいの者も従っているんだから、私の所に来て聖書を学んだ以上は諸君もついて往かなければならない。その点において諸君は私を辱しめないようにしてもらいたい。
 イエスを愛していることには、それだけの生命もあるし力もある。飾りのように聖書を学ぶのではない。他のおもしろい本を読むのと絶対的に違う。ただおもしろい、興味がある、というのとは問題が違うのですからね。そういうことをよく考えてもらいたい。
[#改ページ]

第十四章 葬の備え



一 祭司長・学者


 さて過越すぎこしと除酵の祭りの日もしだいに近づいて、あと二日になった。この数日間イエスの行動を見、議論を聞くにつけ、ことに己れたちに真正面から痛撃を食わされたものでありますから、祭司長・学者らの悪意は火ように燃え上がり、何とでもしてイエスを捕えて殺そうと企んだ。しかし正々堂々と議論で対抗することはとてもできぬし、今公然手をかけて捕縛することは民衆動乱の危険がある。祭りが終って群衆が地方に帰った後、詭計たばかりをもってやっつけようと、光を憎むふくろうどもがひそひそと陰謀をめぐらしていた(一四の一、二)

二 ベタニヤのマリヤ


 一方イエス様はベタニヤの閑静な村に帰られて、シモンの家で食事の席につかれた。このシモンはもと重い皮膚病であったのがイエスによっていやされ、それ以来弟子となった人でありましょう。
 ベタニヤはイエスにとってオアシスでした。いかに烈しき戦いの日でも、ここに帰って来れば御心はくつろぎ、おからだの休養もできたのです。しかるに今日は御心重きこと鉛のごとく、とうとき額にはかなしみの雲深くただよい、いかにも疲れつくして席に着き給いました。その御様子をみてマリヤは、何かは知らず尋常事ただごとでなき悲哀がイエスの身をつつみ、死の悩みとも言うべきイエスの心をおさえていることをば、若き女性の愛の直感をもって感じた。ああおいたわしい、何とでもして慰めてさしあげたい、と彼女の心はつぶされそうでありました。
 その時一つの幸せな考えハッピー・アイデアが彼女の心に浮かんだ。彼女はつと立ち上がり、一瞬の躊躇ちゅうちょもなく自分の家から香油の入った石膏の壷を持ってきました。己が嫁ぎの日のために貯えていたものであろうか、価高き純粋なナルドの香油でありました(ナルドというおそらく産地の地名であろう)。蓋をあけるももどかしく、彼女はその壷をこわして、さっと香油をイエス様の首にそそいだのです。できることなら己が心の膜をも打ち破って、中なる血潮も愛もみんなそそぎかけてしまいたい!
 マリヤは、イエス様の首をおのが胸に押しあてんばかりにして、香油をそそいではなでつける。またお疲れになった御足をいだいて香油を塗り、その流れしたたるをば己が頭髪をもてぬぐいます(ヨハネ一二の三)。イエスはこれを拒み給わないで、首と足とをマリヤの愛撫に任せている。マリヤ物言わず、イエスも無言、ナルドの香油はイエスのひげに流れ、衣の裾にまでしたたり、芳香馥郁ふくいくとしてへやに満ちました。
 しかるにたちまちこの恍惚こうこつを破ったものがあります。それは弟子のある者たちがひどく憤慨して、
 何ゆえかくみだりに油を費やすか、この油を三百デナリ余に売りて、貧しき者に施すことを得たりしものを。(一四の四、五)
と、ブツブツ言い出したのです。前に五千人にパンを与えよといわれた時、「我ら往きて二百デナリのパンを買い云々」と弟子たちの答えたのを見れば(六の三七)、三百デナリは六、七千人分の食事代に相当する大金であった。「もったいないことをするものだ。この油を金に替えれば、大慈善事業ができるのに!」こう言って、ひどく女をとがめたのです。これは先生も先生だという、暗にイエス様に対する批難を含んだ気持でありました。
 しかるにイエスは静かに答え給うて、
 そのなすに任せよ、何ぞこの女を悩ますか、我に善きことをなせり。貧しき者は常に汝らとともにおれば、いつにても心のままに助けうべし、されど我は常に汝らと偕におらず。この女は、なしうる限りをなして、わが体に香油をそそぎ、あらかじめ葬りの備えをなせり。まことに汝らに告ぐ、全世界、どこにても福音の宣べ伝えらるる所には、この女のなししことも記念として語らるべし。(一四の六―九)
と、たいへんこの女をおほめになった。(「善き事」とあるのは美しき行為という意味です。「なしうる限りをなして」とは、非常に強い言葉です。また人が死ぬれば、葬る前に死体に油を塗るのが、死者に対する心づくしの礼儀でありました)
 すべてのことに時があります。すべての行為は時にかなって美しいのです。もしも貧しき者を目の前に置きながら、「いや、この金はイエスのからだに油ぬるために取っておかねばならぬ」と言って施しの心を閉ずれば、イエスはこれを怒り給うにきまってる。いと小さき者の一人の飢えしときに食わせず、渇きしときに飲ませざる者は、のろわれて永久の刑罰に入るべきものだ、とかつて教え給うたでないか(マタイ二五の四一―四六)。また「わが汝に負うところのものはコルバン(供物)なり」と言えば父母に物を与えなくてもよい、と論ずるパリサイの学者の偽善を烈しく責め給うたこともある(七の九―一三)。しかし今は貧しき者が目の前で飢えているのでもなく、父母につかえる場合でもない。今目の前で悩んでいるのは、イエス御自身なのだ。十字架の死の予感が彼をとらえ、その御心は孤独の深淵に沈み、たましいの底にまで透徹する同情に飢え渇いておられるのだ。しかしこの渇きをいやし奉ったものは、まさしくマリヤのそそいだ一壷の香油であったのです。
 マリヤはイエスの死を明確に予知したのではありますまい。しかし死のような悲哀が、イエスの御心に湛えられていることを直感したのです。弟子たちはこの切迫した場合に立ち至っても、なお生において、活動において、イエスを見た。仕事! 仕事! というのが彼らの思いでありました。彼らは先生に働いていただくこと、先生を働かせることだけを考えた。しかしマリヤは死において、悲哀においてイエスを見、その孤独をやわらげてさしあげたいと思ったのです。そしてこの場合弟子たちの思考よりもマリヤの直感が、イエスの御心を知ったのです。イエスは死を目睫もくしょうの間に見ていられる。死の間近い人を前にして、事業の相談、金の勘定でもあるまい。死ぬる人にいるものは葬りの備えだけです。その生涯における戦いと労苦とにより傷つき疲れたるからだに香油をそそぎて、戦塵せんじんを洗い、筋骨を和らげ、美しく、香り高く、なごやかに憩わせることです。マリヤのなした行為は、まさにその時の必要を満たした美しい行為であって、いわゆるタイムリー・ヒットでありました。
 愛は直感です。愛は比較較量こうりょうしません。この香油を貧しき者に施そうかイエスの首にそそごうか、いずれがより善きことであろうか、と比較して考えた行為は純粋の愛とはいえない。愛は一つの時には一つの対象に向って、躊躇逡巡しゅんじゅんなく傾けつくされる。心が分かれるのは愛でありません。愛は全部的です。香油の一部だけをイエスの首にそそぎ、あとは貧しき者のために残しておくというような、分割的な計算的な行為は全き愛とはいえない。「なしうる限りをなした」ものだけが、まったき愛です。
 愛の対象は人格です。そして最も深き人格はイエスであるから、最も深き愛もイエスを対象とします。「これらのいと小さき者の一人」に食わせ、飲ませたことが、何ゆえに永久の生命に入るだけの価値があるかといえば、それは「イエスになした」ことだからであり、「これらのいと小さき者」の一人になさざりしことは、なぜ永久の火に値するかといえば、それがイエスになさざりしこととして認定せられるからです。貧しき者そのものに絶対の価値があるのではなく、また貧しき者に対する施しそのものが絶対的価値ある善事ではない。絶対価値ある人格はイエスのみであり、したがって絶対価値のある愛はイエスを愛する愛のみです。その他の人格に対する愛は、イエスに結びつけられてのみ、イエスに対する愛に換価せられてのみ、始めて絶対的価値にあずかるのです。マリヤの行為はイエス御自身に対する直接の愛であったから、それは絶対的価値のある美しき行為であったのです。
 愛は人格の最も深き要求に向かってそそがれなければならない。しかるに人の最も深き要求は、生においてよりもむしろ死において現われる。もちろん生においても愛の必要もしくは発現はある。しかし生きて働いている間は、たとい他人の慰めを受くることがなくても、自己の力をもって立ちうる余裕が全然ないわけでない。また一方においては、生者に対する愛は愛をもって酬いられる余地がある。しかるに死においては愛の必要は絶対的であり、また死なんとする者に対する愛は何らの報酬を期待せざる純粋なる行為として発現しうる。イエスの御生涯においても、最も愛を要求せられたのは「死」においてでありましょう。しかもイエスの死は「多くの人の贖償あがないとして己が生命を与える」ものであって(一〇の四五)、彼の事業と生涯との完成でありました。イエスにおいては死は生の終焉しゅうえんではなく、かえって生の目的であった。生は死の準備であり、死は生の完成であった。彼の福音は実に彼の死の福音であったのです。マリヤはイエスの最も愛を必要とせられた時において最大の愛を傾けたのみでなく、はからずもイエスの生涯の最大使命の達成に対して、心からなる協力をたてまつったのであります。
 まことに汝らに告ぐ、全世界、いずこにても、福音の宣べ伝えらるる所には、この女のなししことも記念として語らるべし。
と、口をきわめてこの女をおほめになったことも無理ありません。単純に信頼する幼児の心に信仰の姿を見給うたイエス様は、混じりなく直観する女性の心に愛を見られたのであります。

ああベタニヤのマリヤ!
 永遠のナルドの香り、
 女性の中の女性よ。
祝福女性にあれ!
 混じりなき直観もて
 人の子の孤独を知り、
なしうる限りをなして、
 彼の死を助けし
 不朽の愛よ。
されど汝の名を福音とともに
 不朽ならしめし彼の愛は
 汝の愛よりもさらに大であった。

(この香油をそそいだ女は、マルコ伝およびマタイ伝(二六の六)には「ある女」とあるだけだが、ヨハネ伝(一二の三)によりてマルタ、ラザロの姉妹たるマリヤであることがわかる。なおマルコおよびマタイには過越の祭りの二日前とあり、ヨハネには六日前とあるが、これはいずれかの記憶違いで、事件は同じ場合であったと思われる。またマルコおよびマタイにはイエスの首に油をそそいだとあり、ヨハネには足とあるが、これも大した問題ではない。なおルカ七の三六以下にも類似の事件の記事があるが、これは別の場合にあったことであろう)

三 イスカリオテのユダ


 舞台は変わって、エルサレムなる祭司長、宮守頭みやもりがしら(宮の警察長、いわば警視総監。(ルカ二二の四))どものもとへ、ひそかに急ぐ一人の男がある。十二弟子の一人なるイスカリオテのユダだ! マリヤの香油の濫費を、先に立って咎めたのは彼であったが(ヨハネ一二の四)、それに対するイエスの態度に、すっかりつまずいてしまったのです。
 自分がこれまでイエスに従ってきたのは、彼をイスラエルの救主と信じたからであった。そしてイエスの奇蹟と教訓と花々しき論戦とを目撃して、わが期待の誤らざるを思ったのである。イエスによって宗教と政治の廓清かくせいは行なわれ、イスラエル王国の復興は実現せられるであろう。今、過越の祭りを直前に控えて群衆は数多くエルサレムに集まっている。これはイスラエル建国の歴史的回顧と国民的復興の期待との最も昂揚こうようしている時期だ。群衆の人気は明らかにイエスの側にある。今こそ復興運動の烽火のろしをあぐべき絶好の機会チャンスである。あの香油を売って三百デナリの金に替え、これを貧民に施せば、神の国の政治の一端として復興運動の促進に著大なる貢献をなしえようものを。しかるを何ぞやこの女の濫費! そしていい気持になってこれを受けているイエスの態度! 見かねて自分が意見を述べれば、言下に一蹴してかえって女を弁護し、あまつさえこれを激賞するイエスの言葉!「葬の備え」など、弱気の感傷だ。センチメンタリズムだ。ああ間違っていた、間違っていた。公衆の前ではあれほど強く論戦せられても、家に帰ってみればこのざまだ。彼の本心にはイスラエル復興のために奮起する戦闘精神は失われているのだ。もはや彼に何が期待せられよう。祭司長らが彼を求めている模様だ。いっそイエスを引き渡して、いくらかの金にしよう。――
 そう思ってユダは祭司長らに接近したのです。祭司長らは喜んで、ユダに銀三十枚を与えた(マタイ二六の一五。ゼカリヤ一一の一二参照)。銀三十枚は奴隷一人の価であって、マリヤの香油の価三百デナリに比すれば三分の一ほどにあたる。香油一瓶の三分の一の価をもって、ユダは恩師を売ったのであります。イエスを捕えようとして手段に苦しんでいた祭司長らは、側近の弟子の中から内通者を得て、わが事成れりと大満足であったに違いない。ユダはこの時以来、ひそかにイエスをわたしうべき好機をうかがったのであります(一四の一〇、一一)
 マルコもマタイもルカも筆を揃えて、「十二弟子の一人なるイスカリオテのユダ」と記している。人もあろうに「十二弟子の一人」たる者が、イエスを裏切った! この一語の中に、無限の悲哀と憤慨とがこめられています。伝道の初端しょっぱなから十二弟子の一人として選ばれ、イエスの心の最も深いところを示され、イエスのなし給うすべてのことを見るを許された者が、先生を売ったのだ。憎んでも憎み足らず、憐れんでも憐れみ足らず、何としても残念なことです。どうしてユダはこんな心を起こしたのであろうか。それは千古の疑問ですね。
「イスカリオテのユダ」というのは、「カリオテ人ユダ」という意味です。十二弟子の中にヤコブの子ユダという同名の人があったから(ルカ六の一六)、それと区別するためイスカリオテのユダという通り名で呼ばれたのでしょう。カリオテという土地はどこにあったか判然しない。あるいはユダヤ地方だともいい、あるいは死海の東モアブ地方だともいう。いずれにしても、十二弟子のうちイエスと同郷のガリラヤ人でないものは、イスカリオテのユダ一人でありました。たぶん彼は山紫水明のガリラヤ人に比して、気候風土の荒い南方人の熱情的な血をうけた者でありましょう。一説には、「カリオテ」とはラテン語のシカリウス(sicarius)という語のアラミ語化したもので、「暗殺者」を意味し、イスラエル国の復興を計るために暴力をも辞しないという熱心党(Zealots)の最右翼に立った過激派である、とも言われます。そして彼はイエス一行の財布を預り、会計係をつとめたのであるから(ヨハネ一二の六)、事務的手腕のあった人物と思われる。
 こうしてみると、ユダは激情的な性格の持ち主で、イスラエル復興のためには手段を選ばぬというふうの人物であったが、彼のいだいたメシヤ観は十二弟子中最もこの世的なものであり、その神の国観は事務的・物質的・世俗的であったと推定せられる。だからイエスのメシヤ観の天的であり、その神の国観の霊的・来世的であることが判明するに従い、ユダは必然的にこれにつまずいたのです。ことに神の国を来たらせるについてイエスの取り給うた方法が罪の悔い改めによる霊魂の新生であり、そのためにイエス御自身が贖償あがないの死を遂げ給うというに至っては、ユダはとうていこれを解しえなかったのです。十字架の死による贖償のメシヤ観は、イエス御自身にとりてもおそらく最初からわかっていたわけでなく、その御生涯の経過においてしだいに分明となった真理でありましょう。この真理に対しイエスの目が明らかとなればなるほど、ユダの目は暗くなったのです。要するにイエスが十二弟子とともに生活せられたこの年月の経過の中に、イエスのみちとユダのみちとの分離は漸次準備せられ、それが今マリヤの香油を契機として急激に悲劇化したのです。
 ユダがイエスを売った心事については、古来いろいろの説明が試みられました。ユダはイエスを売りし後、その死刑に定められたのを見てたいへん後悔し、祭司長・長老らに銀三十枚を返して、「われ罪なきの血を売りて罪を犯したり」と言ったという(マタイ二七の三、四)。これによって、ユダはまさかイエスが殺されようとは思わなかった、彼がイエスを敵にわたしたのはむしろ苦肉の策であって、これを機会にイエスが奇蹟力をふるってイスラエルの復興を実現せられるか、もしくはイエスの捕えられたことによりて群衆が刺激せられ、一大民衆運動を起こしてイスラエル国復興の端緒をつくるか、そういう公の精神から出た行為であって、要するに彼の動機はイスラエル復興の熱心であり、イエスを裏切るという意思ではなかったのであろう、と弁護する者もある。しかしこれは聖書の記事に何らの根拠なきかってな想像説であって、ユダが後で後悔したからといって、始めの動機が善であったという説明にはならない。またイエスの捕縛を機会に民衆運動を刺激するとか、イエスの奇蹟力の発揮を期待するとかいうならば、深夜ひそかにイエスを襲うたりしないで、白昼宮の庭で、群衆の居る前で、公然イエスを付さねばなりますまい。だからこれは全然取るに足らぬ、無理な弁護論である。
 あるいはまた、銀三十枚は普通の奴隷一人の価であって、イエスを付す値段としてはあまりに少なすぎる。ユダがイエスを売ったのではなく、公的の動機から出たことであろう。彼の考えは間違っていたとしても、その心事は憎むべきでない。彼は真面目な性格の人間であって、悪人と称すべき部類には属しない、という弁護論もあります。しかしマタイ伝によると、ユダは明白にイエスを売る値段を取引きしたのであり(二六の一五)、その協定した銀三十枚が仮に客観的に見て安きに失したとしても、それはユダが金を目あてに行動したことを打ち消す材料にはならぬ。現に彼はその金を受け取ったではないか。加うるにヨハネ伝によれば、ユダがマリヤの香油を咎めたのも貧しき者を思う心からでなく、彼はイエス一行の財布を預る者として、その中に納めらるるものをかすめていたからだ、という(一二の六)。すなわち公金横領者だ、と明記せられてあるのです。
 そこでユダが金のためにイエスを売ったことは罪として認めるが、ユダの動機はそれだけではない、公事に関する真面目な動機も含まれていたのだろう、という弁護論がある。しかしそんなことが何の弁護になるか。イエスを愛するなら愛するだし、売ったなら売ったです。半分愛して半分売るなどということはありえない。私利私欲が混ずる時、たとい公共的の動機が伴っていたとしても、これを全部的に腐らせてしまうのです。私利私欲を弁護するために公共的動機を持ち出すのは、個人の行動についても国家の行動についてもしばしば見るところでありまして、これは貪欲どんよくに加うるに偽善をもってし、罪を二重にするにすぎない。またたとい公共的動機があったとしても、その行為を罪にあらずとする根拠には少しもならぬ。個人的動機であれ、公共的動機であれ、神に反する行為はすべて罪でないか。
 ユダには人間としての長所もあったであろう。あるいは私どもより勝れた才能と性格の持ち主であったかもしれません。しかし「罪」というのは、才能の欠乏や性格の不備にあるのではない。罪はたましいの態度にあります。人のたましいが神にそむいたのが、罪です。ユダの罪はイエスを売ったことそのことにある。そのことだけで、彼の罪は客観的にも主観的にも確定せられる。彼の動機の穿鑿せんさくや、その後の行動などは、少しも彼の罪を軽減しません。
 それにもかかわらず、どうしてユダ弁護論が絶えないのであろうか。それには二つの理由が考えられる。第一に、人間はユダを弁護したい心をもっている。ユダ弁護は人間の自己弁護の声です。「それほど悪くはない」「善いところもある」そう言って人間は自己を弁護し、神の前に自己の全き罪人たることを拒否する。これは彼らが「罪」の重さを知らないからです。神にそむく罪の絶対性を知るまで、人はユダを弁護する気持をすてないのです。
 第二には、「十二弟子の一人」たるユダが、イエスを売るというごとき最大の罪を犯したゆえを理解し難いからです。いかにも理解し難きことでありまして、その最善かつ唯一の説明は、サタンがユダに入ったというほかにはありえない(ルカ二二の三、ヨハネ一三の二)。俗にいわゆる魔が差したのです。それは人の生涯においても最も怖ろしき瞬間です。魔が差した時、人は思いもよらぬ大罪を犯します。その真面目な平生からはとうてい説明のできぬ罪を犯すのです。あとでユダのごとく自らくびれ死ぬるほどの後悔をしたとて(マタイ二七の五)、犯した罪は犯したのです。その事実をいかんともなしえません。
 しかしサタンは隙間すきまのないところからは入らない。サタンが入るには、必ず隙間があったのです。イスカリオテのユダの場合、その隙間は金を愛する心であった。彼はマリヤが香油をそそぐを見て、すぐに「金!」「三百デナリ!」と思った。これがユダの根本的弱点でありました。彼は個人の利益も金銭的に考え、貧民への慈善も金銭的に考え、神の国の建設も金銭的に考えた。換言すれば物事を物質的に、世俗的に考えることが、彼の習慣でありました。そこに隙間を見いだして、サタンは彼に入ったのです。「汝らをも、世にある物をも愛すな」(ヨハネ第一書二の一五)。世を愛する欲が、サタンの入る隙間であります。ああしかし、なんと私ども隙間だらけでしょう!「我らを嘗試こころみに遇せず、悪より救い出したまえ」(マタイ六の一三)という祈りは、私どもの日ごとの必死の祈りでなければなりません。
 ベタニヤのマリヤの心には永遠の愛が泉んだ、それはイエスとともに世に死んだからです。イスカリオテのユダの心には、救主を売る罪がわいた。それはこの世の欲をいだいたからです。人の心の明暗二相の線を引き、機微の間に事態の推移をはらみつつ、過越の祭りの当日が近づいてきます。
[#改ページ]

第十五章 最後の晩餐



一 準備


 いよいよ除酵祭の初めの日、すなわち過越すぎこし羔羊こひつじほふるべき日となりました。
 弟子たちはイエス様に向かい、「過越の食をなし給うために、会場はどこにいたしましょうか」とお聞きしました。イエスは二人の弟子――ペテロとヨハネ(ルカ二二の八)――を遣わして、「都にけ、さらば水をいれたる瓶を持つ人が汝らに出あうだろう。その人に従い往き、その入る所の家の主人に、『師言う、われ弟子らとともに過越の食をなすべき座敷はいずこなるか』と言え。さらば、主人自身が準備の調った大なる二階座敷を見せるだろう。そこに食事の用意をせよ」と仰せになった(一四の一二―一五)。これはイエス様が千里眼的に言いあてをせられたのではなく、あらかじめその家の主人と打ち合せがしてあり、主人はイエスの旨を受けて、水瓶を持った家人を外に出しておいたのでしょう。今は極度に情勢が逼迫ひっぱくしており、いつ祭司長らの手がまわるかもしれぬ。したがって過越の食事の場所は極秘のうちに選定せられ、準備のために遣わす弟子もイエスの最も信頼せられたペテロ、ヨハネの両人であり、水瓶を持った案内の男も信頼に値する者であったろうし(マルコ伝の記者たるマルコその人であったろう、と想像する注解者もある)、その家の主人もイエスの弟子であり、そして召使を経ずして主人自ら座敷を見せる、というように周到な用心をしたのです。
 イエス様がかかる警戒をしてまでわざわざエルサレムに出て来られ、みずから死地につく危険を冒してまでここに過越の食を備えさせ給うたのは、いかなるわけであろうか。なぜベタニヤの静かな隠れ家において、これを食し給わないのでありましょうか。

二 「我を売る者」


 日が暮れてからイエスはひそかにベタニヤを出で、十二弟子とともに都に入り、かねて手筈てはずをしておいた家に来られた。
 過越の祭りはユダヤ人にとりて最も重要な国民的祭事であり、ことにこれを都エルサレムにて守ることは敬虔けいけんなるユダヤ人の最上の願いでありました。だから常にユダヤ国民としての義務を守ることに忠実であったイエス様は、最も厳粛に、最も正式に過越を守るため、一身の危険を冒してエルサレムに入り給うたのです。しかもそれは御自身のためというよりも、十二弟子のために必要でありました。ことにその中の一人にして、イエスを裏切ろうとする心をいだくイスカリオテのユダのために必要であったのです。
 一同席が定まって食卓に着きました。厳粛にして悲愴ひそうなる空気が座に満ちた。かかる場合、誰しも雑念は失せ、良心は正しき状態に立ちかえり、神に向かって集中せられるでありましょう。イエスはおもむろに口を開いて、前日来御心を痛められている最大問題を切り出し給うた。
まことに汝らに告ぐ、我とともに食する汝らの中の一人、我を売らん。(一四の一八)
 これを聞いて弟子たちは心憂い、一人一人私ですかと言い出でた。イスカリオテのユダもまた「先生、私ですか」と言った(マタイ二六の二五)。イエスは答えて、
 十二のうちの一人にて我とともにパンを鉢に浸す者なり。に人の子は己につきてしるされたるごとく逝くなり。されども人の子を売る者は禍害わざわいなるかな、その人は生まれざりし方よかりしものを!(一四の二〇、二一)
 なんという静かな、深いかなしみのこもった口調でしょう。「パンを鉢に浸す」というのは、鉢の中のジャムとか蜜とかをパンにつけて食べることで、「ともにパンを鉢に浸す者」とは、いわば一つ鍋の飯をつついたという、よほど親しい間柄の者をさす言葉です。十二弟子の一人にして我とともに一つ鉢にパンを浸してきた者、現にこの席でも一つ鉢にパンを浸すほどの近しい者、その者が私を売ろうとしているんだ!
 お前はそういうことを考えてはいかん。私とお前とは今まで一緒にパンを鉢に浸してきた間柄ではないか。私は逝く。私は敵の手にわたされて殺されることをばかねて覚悟している。それは聖書に定められていることだ。けれども人もあろうに、私を売る者が十二の一人たる汝であろうとは。お前がその役割をするのか。そのくらいなら、汝は生まれてこなかった方がよかった。私は定められたとおり逝くを恨まぬけれども、汝が禍いだ、汝がかわいそうだ。――
 イエスはユダの名をあげて面責するような、粗野なことをなし給うたのではありません。そんなことをすれば、血の気の多いペテロを始め他の弟子たちが、どんな手荒いことをするかわからない。また氷をとかす春ののようにユダの心をつつんで、その悪しき考えを思いとどまらせようとしたのであります。ユダもし情あらば、泣いてイエスの足許に崩れ伏し、己の罪を告白して御赦しを求むべきでありました。さらばイエスはただちに彼を赦し給うのみでなく、どれほどの深き喜びをもって彼を扶け起こし、失わんとしてまた得たる愛弟子のたましいを愛し給うたかしれないのです。惜しいかな、ユダは心を頑にして、彼の救いのためにイエスがわざわざ与え給うた最後の機会をそのまま過ぎ去らせてしまいます。

三 過越


 ここで過越と除酵祭のことをちょっと説明しておきましょう。これはエジプト脱出を記念する祭りであって、ユダヤ人の最も重要な年中行事でありました。
 昔イスラエルがモーセに率いられてエジプトを脱出した時、その当夜、家ごとに羔羊こひつじを屠ってその血を門口の柱と鴨居かもいとに塗り、火にいてあまさず食い、またたね入れぬパンに苦菜にがなをそえて食うべきことを命ぜられた。その夜エホバの使者出でてエジプト人の家に入り、その長子たる者をことごとく撃ち滅ぼしたが、門口に塗った羔羊の血を見ればその家を過ぎ越した。神はエジプト人に禍害を下し給うた隙間に、急遽きゅうきょイスラエルを脱出せしめ給うたのです。羔羊の肉を食うのも、パンを食うのも、脱走のための腹ごしらえでありました。酵入れぬパンを食したのは、酵を入れてパン粉をこねる暇もなきほど、火急を要したからであった。
 かくしてイスラエルは神の保護の下にエジプトを脱出し、約束の地たるカナンに入って国を建つるに至ったのです。爾来じらいこの月をもってユダヤ暦の正月となし(これをアビブの月という。「麦の穂の出る月」の意味である。バビロン捕囚後はニサンの月と呼ばれた)、正月の十日に各家の家長はきずなき当歳の牡の羔羊を選び取って十四日まで守りおき(すなわち十日から十四日までが過越の祭りの準備である)、そして十四日の薄暮に(ユダヤ人のかぞえ方では、日没時から次の日の日没時までを一日とする。したがってユダヤ風にいえば、これは十五日の初めです)、その羔羊を屠って血を門口の柱と鴨居とに塗り、肉は火に炙いて食うて、エホバの過越を記念することを常例と定めました。過越の祭りはそれから七日間つづいたのです。その第一日すなわち正月の十四日に家々からパン酵を除いてしまい、その夕方から七日の間、すなわち過越の祭りの期間は酵の入らぬパンを食うて、往時をしのんだ。これが除酵祭です(出エジプト記一二)。いわば従軍将校が陸軍記念日に野戦料理を会食して往時を追懐するがごときものです。すなわち過越祭と除酵祭とは同じ節会せちえであって、マルコ一四の一二に「除酵祭の初めの日、すなわち過越の羔羊を屠るべき日」とあるのが、正月の十四日であります。
 過越の羔羊の肉は、朝までにあまさず食いつくす定めであった。ところで、少なくとも十人の人数がなければ、羔羊一頭は多すぎる。家族の少ない者は隣家と共同して、人数を適当して羔羊を取ったのです。イエスと十二弟子と合わせて十三人の過越は、ちょうど羔羊一頭に適した人数でありました。
 過越の食事をするには一定の作法があった。
 1 まず始めに家長がパンをさきて列座の者に分け与え、かつ葡萄酒の杯を手に取り、祝祷しゅくとうをささげて自分が飲み、それからこの杯をまわして皆が飲む。これをキッドシュ(Kiddush)といい、節会をはらきよめる意味です。これが第一の酒杯。
 2 次に家長がまた酒杯を取り、過越の事実を述べる。これをハガダー(Haggadah)という。そして皆でハレル(讚美)歌集(詩編一一三編―一一八編)のうち、百十三編と百十四編とを歌って神を讚美し、家長が酒杯を一同にまわして飲む。これが第二の酒杯。
 3 次に羔羊の肉や、苦菜を添えた酵入れぬパンなど、過越の食事が始まる。
 4 食事が終わってまた家長が酒杯を取り、感謝をささげて一同にまわして飲む。そしてハレル歌集の後半、百十五編から百十八編までを歌う。これが第三の酒杯。
 5 歌って後、もう一度酒杯を取って飲む。これが第四の酒杯。これで過越の晩餐ばんさんは終わる。イエスの当時における過越の食事の作法は、大体右のごとくであったということです。

四 晩餐


 さてイエスは十二弟子とともに過越の食事を守られたが、その進行して行くうち、常にないことを言われた。すなわちパンを取り、祝してさき、弟子たちに与え給う時、
取れ、これはわが体なり。
と言われ、また酒杯を取り、感謝して彼らに与え給うとき、
 これは契約のわが血、多くの人のために流すところのものなり。まことに汝らに告ぐ、神の国にて新しきものを飲む日までは、われ葡萄のより成るものを飲まじ。(一四の二二―二五)
と言われたのです。これは一体何の意味だろう。
 イスカリオテのユダは、イエスの愛のこもった暗示にかかわらず、悔い改めの色を示しません。イエスの御心の中心問題は、もはやユダの悔い改めではない。むしろユダの裏切りの次に来るものに向かって集中せられました。それはイエス御自身の死であります。しかし「私はもう死ぬる、これが最後の晩餐だ」などと、そんな散文的プロザイックな物の言い方をなさるイエス様ではありません。彼の言葉は常に詩であり、彼の行為は絵です。「これはわが体、これはわが血」とおっしゃれば、わかる者にはわかる。実に美しい譬話たとえばなしと言おうか、実物をもって描いた絵であります。エレミヤが徳利をベンヒンノムの谷に打ち砕いて、このようにイスラエルは砕かれると預言したごとく、イエスはパンを取って、「こういう具合にわが体は裂かれる」ことを象徴し、また葡萄酒に酒杯についで、「こういうふうにわが血は流される」ことを象徴し給うたのです。彼は目の前の食卓の上にあるものを材料として、間近に起こるべき事件の深い意味を預言し給うたのです。これはもったいぶった有難屋ありがたやのしぐさとは全く異なり、きわめて自然な、詩的というか絵画的というか、芸術的な香りの高い場面でありました。
 しかるに後世の坊主どもがね、このパンはイエスのからだそのもの、葡萄酒は血そのものである、いやからだそのものではないけれども、祝することによってイエスのからだに化するのだなどと言い争って、本来イエスの愛の流露たる聖餐をば、紛争と憎悪、戦争と流血のもととなしたのです。彼らの手にかかって、貴き聖餐はミイラか乾物かんぶつとなってしまった。
 最後の晩餐はイエスの愛の流露である、と私は申しました。しかしこれはただイエスが感傷的に弟子たちと別れを惜しまれたとか、あるいはイスカリオテのユダの回心かいしんを促されたとか、いうだけの意味ではない。単に愛情のあふれた会食ということではありません。その中に彼の死の深い意味――彼の血は多くの人のために流されるのであり(一四の二四)、彼の生命は罪祭の供物として(イザヤ五三の一〇)、多くの人の贖償あがないとして与えられる(一〇の四五)のであることが、最も力強く象徴せられたのです。イエスの死は多くの人を贖う愛であることの象徴として、最後の晩餐は古今無比の愛餐でありました。
「これは契約のわが血」と、イエスは言われました。この言によって連想せられる旧約聖書の記事が二つある。一つはモーセが礼拝の典例をイスラエルの民に告げし時でありまして、
 イスラエルの子孫の中の少なき人たちを遣わしてエホバに燔祭を献げしめ牛をもて酬恩祭を供えしむ。モーセ時にその血の半ばをとりて鉢にれまたその血の半ばを壇の上にそそげり。しかして契約の書をとりて民にみきかせたるに彼ら応えて言う、エホバのう所は皆我らこれをなしてしたがうべしと。モーセすなわちその血をとりて民に灌ぎて言う、これすなわちエホバがこのもろもろの言につきて汝らと結び給える契約の血なり。(出エジプト記二四の五―八)
 他の一つは神がモーセに「エホバ」なる聖名を告げ示し給うた時の記事であって、
 神モーセに語りてこれに言い給いけるは、我はエホバなり。われ全能の神といいてアブラハム、イサク、ヤコブに顕われたり。……我また彼らとわが契約をたて彼らが旅して寄居やどりいたる国カナンの地を彼らに与う。我またエジプト人が奴隷となせるイスラエルの子孫の呻吟しんぎんを聞きかつわが契約を憶いず。ゆえにイスラエルの人々に言え、我はエホバなり、われ汝らをエジプト人の重荷の下より携出し、使役をまぬかれしめ、また腕をのべ大なる罰を施して汝らを贖わん。(出エジプト記六の二―六)
 すなわち神はアブラハム、イサク、ヤコブに与え給いし契約のゆえに、イスラエルをエジプトより救い出し、過越の恩恵を施し給う、というのです。
 イエスが過越の食事の席で「契約のわが血」と言われたのは、神がアブラハム、イサク、ヤコブへの契約を憶え、羔羊の血を門口に見てイスラエルの家を過越し給うたことを連想せられたものと見ることが、自然であろう。しかし「犠牲の血をささぐる者は罪を贖われる」というモーセ律の根本契約を、この場合連想から除外しなければならぬ理由は一つもない。イエスのお話はいつでも短い言葉の中に豊かな連想と含蓄のあるのが特色であって、この場合「契約のわが血」と言われた御言の中には、過越の血と犠牲の血と両者の意味が含まれたものと解してよいであろう。
 イエスは過越の羔羊です。彼の血を塗る者は永遠の刑罰から過ぎ越される。
 イエスは犠牲の羔羊です。彼の血を献ぐる者は永遠の贖罪しょくざいを恵まれる。彼は、
 山羊やぎこうしとの血を用いず、己が血をもてただ一たび至聖所に入りて、永遠の贖罪を終え給えり。……このゆえに彼は新しき契約の仲保なり。これ初めの契約の下に犯したる咎を贖うべき死あるによりて、召されたる者に約束の永遠の嗣業を受けさせんためなり。(ヘブル九の一二、一五)
と、あるがごとくです。
 最後の晩餐は、イエスの死の意味深き象徴であった。しかしそれだけでは終わらない。彼は死のさらに向こうを見ておられる。イエスが最後に特に力を込めて言われた御言は、
 まことに汝らに告ぐ、神の国にて新しきものを飲む日までは、われ葡萄の果より成るものを飲まじ。(一四の二五)
と、いうのでありました。これが地上における最後の過越だ。この次汝らとともに過越の宴につくのは神の国においてである。そこではすべてが新しくなる。天も新しく、地も新しく、地の産物も新しく、葡萄の酒も新しく、我も新しく、汝らも新しくなるであろう。死あることなく、悲しみあることなく、のろいと涙は全く消え去ってしまうであろう。今汝らとここに食する過越はたのしい国民的記念の会食ではあるが、その中にはユダの裏切り――人類の罪という痛手が含まれた過越である。来たるべき神の国ではその傷も全くいやされ、我と汝らと再会してまた離れることなく、まじりなき歓喜をもって新しきものを飲むであろう。
 イエスの目は明らかに墓のかなたに注がれています。後は来世を見ておられる。来世の神の国こそ、新しき約束の地たる真のカナンである。モーセの時に塗られた羔羊の血はエホバの怒りを過ぎ越させ、イスラエルをばエジプトから救い出してカナンの地に導く出発点であったが、今流されようとするイエスの血は、人類を罪の支配から永遠に贖って神の国に導き入らしめる出発点であり、力であります。「これはわが体なり」と言ってパンをき与え、「これはわが血なり」と言って葡萄酒をそそぎつつ、イエスが祝しかつ感謝せられたのは、来たるべき神の国の宴を前にしてこれをきよむるためのキッドシュでありました。喜び喜べ、わがために人汝らをののしり、また責め、いつわりて各様の悪しきことを言うときには汝らは幸福だ。天国にて汝らの報いは大きいのだ。
 イエスは弟子たちと声を合わせて、終わりの讚美ハレル歌を朗々と歌って後、すでに夜のふけた都のまちを、オリブ山に向かって出て行かれた(一四の二六)。祭司長・長老ら、ふくろうどもは今どこで何を企んでいるであろうか。イスカリオテのユダはいつの間にか一行から離れて、その姿は見えません。
[#改ページ]

第十六章 ゲッセマネ



一 途にて


 過越すぎこしの食事を滞りなくすまされ、夜ふけてからオリブ山に出て行かれたイエス様は、みちで弟子たちにこういうことを言われた(ルカ伝二二の三四並びにヨハネ伝一三の三八では家の中にいる時に言われたようになっているが、いずれにしても過越の食事がすんでからゲッセマネの園にかれる間のことです)
 汝ら皆つまずかん、それは「われ牧羊者を打たん、さらば羊、散るべし」と録されたるなり。されど我よみがえりて後、汝らに先だちてガリラヤに往かん。(一四の二七、二八)
 これはゼカリヤ書一三の七を引用せられたのです。それにしても異なる御言葉を承るものかな。例の気象のペテロは言下に、
たとい皆つまずくとも我はしからじ。
と、勢い込んでお答えした。しかしイエス様は彼の抗議を抑えて、
まことに汝に告ぐ、今日この夜、鶏ふたたび鳴く前に、汝三たび我を否むべし。
と、厳かに言われたものですから、ペテロは非常に興奮し、前よりもさらに力をこめて、
われ汝とともに死ぬべきことありとも汝を否まず。
と、言い張りました。他の弟子たちも皆、我も我もと同様のことを言い出でた(一四の二九―三一)
注 「鶏鳴く」は前にも説明したごとく「鶏鳴とりの刻」で、夜半十二時より午前三時に至る刻である。「鶏鳴く前」は「鶏鳴の刻の過ぎ去らぬ前に」の意。

二 園にて



 やがてエルサレムの門を出て、ケデロンの小川を渡るとすぐゲッセマネと名づけられた場所がある。ゲッセマネという字は、橄欖オリブを踏む所という意味ですが、ここは囲いのある橄欖園で、路傍に近いけれども、奥に入れば樹下に静かな祈りの場所があり、これまでもベタニヤからエルサレムへの往復の途中、たびたび立ち寄られた所でありましょう。イエスはこの場所まで来られたとき、「わが祈る間、ここに坐せよ」と言って他の弟子をば入口で待たせ、特別愛されたペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を伴うて園の奥深く進まれた。人を離れて夜気とみにはだえに迫り、イエスは身震いするような驚愕きょうがくに襲われました。その激しい戦慄せんりつが少しく鎮まったかと思うと、火事場の跡のような荒涼たる寂寥せきりょうが心の底をはって、半ば失神したような悲哀に襲われた(一四の三二、三三。「いたく驚きかつ悲しみ」という語には、驚愕失神というに近き強い意味がある)。イエスは堪えかねて、
わが心いたく憂いて死ぬるばかりなり、汝らここにとどまりて目を覚ましおれ。
と言い給い、ペテロら三人をも離れてただ一人さらに少し進み往きて地に平伏ひれふし、腸をしぼって祈り出で給うた、
 もしも得べくばこの時の我より過ぎ往かんことを!(一四の三五)
 アバ父よ、父にはあたわぬ事なし、この酒杯を我より取り去り給え。されどわが意のままを成さんとにあらず、御意のままを成し給え。(一四の三六)
「アバ父よ」「アバ、ホ・パテール」[#無気記号付きΑ、U+1F08、302-10]ββα ※[#有気記号付きο、U+1F41、302-10] πατ※[#鋭アクセント付きη、U+1F75、302-10]ρアバとはアラミ語で「父」という語、ホ・パテールはギリシャ語で「父」という語です。これはイエスがアラミ語で「アバ!」と言われたのを、福音書の記者が読者の便宜のためにギリシャ語の訳語を付記したものか、あるいはイエス御自身アラミ語とギリシャ語とを重ねて、「アバ、ホ・パテール!」すなわち「お父さん、父上!」と呼ばれたものかわからないが、後者のごとく解するのも不自然ではあるまい。(たとえば日本語を学んだ朝鮮人は、朝鮮語の「父」という語と日本語の「父」とを重ねて用いることがあるだろう。日本人の子供でも「お父さん、ねえ Daddy!」などということがある)
「この時」とは敵に捕えられて死にわたさるべき最後の時です。かねて覚悟していたことながら、今こそその時が来たのだ! 怖ろしいのではないが、しかしこの戦慄を何としよう。自分の途は自分をこの時に導いてきた。前から予期したことだけれども、いざ直面してみると、なんという苦さであろう。自分の目の前に突きつけられたこの苦杯、どうしても飲まねばならぬのであろうか。今し祝ってきた過越節は、父なる神がイスラエルの家を過ぎ越し給うた恩恵の記念でないか。そこで飲んだ酒杯は、その恩恵の讚美ではないか。しからば父よ父上よ、もし得べくばこの時を今わが前より過ぎ越させて下さい。この苦き酒杯を取り去って、汝の救いを讚美する甘美の酒杯に代えて下さい。父よ、父にはあたわぬ事とてはないではありませぬか。――
 イエスは父なる神の御膝をゆさぶり動かさんばかりに激しく哀願し給うた。しかるにいかなこと! 神は微動だにもせず、何の応答もありません。イエスは致し方なく座を立って、三人の弟子の所に来てみれば、皆前後不覚に眠りこけている。イエスは彼らを呼び起こして、ペテロに言い給うた、
 シモンよ、汝眠るか、一時も目を覚ましおることあたわぬか。汝ら誘惑に陥らぬよう目を覚まし、かつ祈れ、実に霊は熱すれど肉体弱きなり。(一四の三七、三八)
 シモンというのはペテロの旧名です。十二弟子の一人として選ばれた後、ペテロという名を与えられたのであるが、この時イエスは「ペテロよ」とお呼びにならないで、「シモンよ」という昔の名前でお呼びになった。園へ来る途でも、「我よみがえりて後、汝らに先だちてガリラヤに往かん」と言われましたが、御自分の最期を間近に予期して御心はなつかしき郷里ガリラヤの山水に馳せ、伝道の初期、「ガリラヤの春」のたのしかりしころの回顧がイエスの頭をかすめたのであろう。ガリラヤ湖畔でシモンら少数の弟子たちを召されたころはよかった。それから後いろいろな出来事があったが、すべての戦いも今は終わりに近づいて、自分の最後が来たのだ。――我々でも重い病気をするとか、何か非常な、もう死ぬるのではないかというような時には、少年時代の記憶が矢のように思い出されます。
「シモンよ、汝は我とともに死ぬべきことありとも我を否まず、とあんなに強いことを言ったが、我とともに一時も目を覚ましておることができぬのか(「一時」というのは一刻の三分の一で、すなわち今の一時間)。今は最も重大な時機なのだ。サタンとの激しい戦いだ。我は死ぬる思いで祈っているのだ。汝らも誘惑に陥らぬよう緊張して目を覚まし、かつ祈れ。――実際汝らの霊は熱すれども肉体が弱いのだ」
 イエスはペテロたちを叱責しておられるのではありません。いわんや皮肉を浴びせておられるのではない。憐れみと同情に満ちた、真実あふるる教訓であります。すでに夜中過ぎではあり、ことに「十二弟子の一人、我を売らん」とか、「汝らみなつまずかん」とか、異常な御言葉を聞かされて気が張ったから、彼らはその精神の緊張に堪えかねて眠くなったのです。非常な厳粛のきわみ、この世ならぬただならぬ空気には、人間の肉体はついてゆけない。少しく緊張が続けばかえって眠くなってしまう。目を覚ましていなければならないと霊は思うけれども、肉体がいうことを聞かないのです。霊の命令を実行するものとして、肉体は本当に不完全不満足な機関であります。イエスはこれを熟知せられてペテロたちを憐れみ給うたのです。そしてその憐れみの結晶が、実に肉体の復活という驚天動地の恩恵となったのであります。(「心は熱すれども肉体弱きなり」の「心」は、「霊」と訳すべきである。ロマ書に詳論せられる霊と肉との対照がこれである。)


 父なる神に訴えて父応え給わず、愛する弟子に来て見て弟子らは眠っている。イエスは再び往きて地に平伏し、同じ言にて祈り給いましたが神はなお沈黙を守り給う。再び弟子らの所に来て見れば、彼らはまたも眠りこけています。いかに疲労その極に達したとはいえ、再びイエス様に呼び起こされて、彼らはあまりのふがいなさに茫然自失ぼうぜんじしつしてお答えする言も知らなかった。
 三たびイエスは往って祈り給うた。そして三度目に弟子たちの所に来たり給うたときには、イエスの御心はもう落ちついていました。驚愕と喪神は去り、苦悶くもんと死闘はおさまり、心おごらずまた沈まず、嵐の後の富士のごとくに、ひときわ気高く、完き自由人でありました。
「この時」は彼を過ぎ越さなかったのです。「この酒杯」は彼より取り去られなかったのです。父は彼に応え給わず、御顔を和らげ給わなかった。しかし父の御意がわかればよいのだ。この場合父は何を欲し給うかでなく、何を欲し給わぬかが、その沈黙によってわかったのである。「この時」のイエスを過ぎ越すこと、「この酒杯」をイエスより取り去ること、を父は欲し給わなかったのである。しかし「我汝をほふるべし」とか、「汝の酒杯を取りて飲め」とか、いうことを積極的に宣告することは、父なる神の御心としてとうていなすに忍びないことであった。ゆえに神はイエスの哀願に対して目をつぶって応え給わず、消極的に御意を示し給うたのである。足れり足れり、父はわが祈りに聴き給わざることによって、わが祈りを聴き給うたのである。我は一度より二度、二度より三度と、同じ祈りをもって迫った。そして神が一歩も譲り給わざるにより、我が一歩退いた。そして見よ、その瞬間に神の御旨は朝日のごとく鮮明となり、不安の曙光がわがたましいに射した。そして我が全く退き、わが要求を全部撤回して神の御意に絶対服従した時、わがたましいは奇しき不安に憩うたのである。これこそわが祈りが聴かれた証拠でないか。
 サタンが最後の瞬間において、神の聖意に対するわが認識をかき乱そうとしたのだ。しかし戦いは終わり、サタンは退いた。汝ら今は眠りて休め。時は来た。見よ、人の子は罪人らの手にわたされるのだ。あ、見よ、もう我を売る者が近づいて来る。起て、我ら出て往こう。(一四の四一、四二)――
「今は眠りて休め」とは皮肉を言われたものと多くの注解者は解釈します。しかしこれは皮肉ではなく、やはり霊は熱すれど肉体弱き弟子らを労わって言われた憐れみの御言であろう。こんなたよりにもならぬ弟子たちをも信頼せられて、最も重要深刻な祈りの場にさえ伴い給うたのです。これは弟子たちの祈りによる加熱をイエス様が要求せられたというよりも、むしろイエスと同じ戦いを戦わせ、同じ祈りを祈らせてイエスの同労者たらしめよう、という愛から出たことであった。イエス様が誘惑に陥らぬようイエスのために目を覚ましかつ祈ることを、ペテロたちに要求し給うたのではありません。ペテロら自身誘惑に陥らぬよう目を覚まして祈ることを命じ給うたのです。これはサタンとの戦場です。だからイエスがサタンのかしらと格闘し給う間に、ペテロらもおのおの祈りの剣を抜き連れて、サタンと戦わねばならぬ。しかるにいまだ聖霊の降っていない弟子たちは、サタンの放つ催眠ガスにあてられて、不覚にも眠りに落ちてしまったのです。かくてイエス様は御自身の祈りはもちろん、弟子たちの祈るべきところまでも御一人にて祈り給うたのです。御自身の戦いの合い間には、弟子たちの許に馳せ帰り、彼らの眠りを覚まして、サタンの襲撃から彼らを救援し給うたのです。もしイエスがこの時戦いに敗れて十字架の道を回避し給うたならば、ただに御自身の生涯の意義を失われるのみでなく、弟子たちもまたサタンの捕虜とせられてしまうところでした。イエスは身近に眠る三人の弟子のために、また園の入口にて待つ、これもおそらく眠りこけていたであろうところの八人の弟子のために、否、我々人類全体のために、ゲッセマネの園の奥深く、ただ一人孤軍奮闘して必死に祈り給うたのです。


 なお語り居給うほどに、十二弟子の一人なるユダが先頭に立ち、祭司長、学者、長老らより派遣された神殿警察隊、祭司長の僕、その他雑然たる群衆が、剣と棒などを持って近づいて来た。(ヨハネ一八の三によれば、ローマ官憲の正規兵の一隊も加わっており、またルカ二二の五二によれば、祭司長、宮守頭、長老らも親しく出馬しており、実に大がかりな捕物騒ぎであった)夜のことだから取り逃がさぬようにと、ユダはあらかじめ一行の者に合図を示して、
わが接吻する者はそれなり。これを捕えてしかと引きゆけ。(一四の四四)
と、打ち合わせてあった。かくて彼はつかつかと御許に往き、「ラビ!」(先生)と言って抱きついて接吻したから、人々は手をかけてイエスを捕えた。接吻はラビに対する弟子の敬礼の仕方ですが、ここに「接吻」とあるは熱烈に抱擁する意味の語です。すなわちユダは、イエスが逃げないようにと抱きついて接吻したのです。最も熱烈な愛の形式をもって最も悪意の裏切りを敢行したのだ。咄! なんたる偽善漢! しかもこれが十二弟子の一人であろうとは!(「十二弟子の一人なるユダ」とくり返して記したところに、この裏切者に対する記者の憤激がうかがわれる)
 その時、かたわらに立つ者の一人が――これはペテロです(ヨハネ一八の一〇)――いきなり剣を抜いて、大祭司の僕を撃って耳を切り落とした。この剣はイエスが弟子たちの危急の場合をおもんぱかって護身用に準備させたものですが(ルカ二二の三六―三八)、イエスの身を守るのに鉄の剣は用はない。ことに熱き祈りによって神の聖意がいっそう明瞭となった今においてをや。「剣をさやに収めよ、父の我に賜いたる酒杯は、われ飲まざらんや」(ヨハネ一八の一一)、そうイエスは静かに言って僕の耳を癒し給うてから、捕手の人々に向かい毅然きぜんとして言い給うた、
 汝ら強盗にむかうごとく剣と棒とを持ち、我を捕えんとて出で来たるか。我は日々汝らとともに宮にありて教えたりしに、我をとらえざりき、されどこれは聖書の言の成就せんためなり。(一四の四八、四九)
 これはイザヤ書五十三章や、ゼカリヤ書十三章七節等を連想して言われたのでしょう。無防禦の一布衣を捕えるのに、この世の勢力はかくも大げさな、しかも卑劣きわまる方法をとったのです。一人のただしき人の前に、世の権力はいかに恐怖をいだくものか! しかしその権力を、信仰の乏しき者は恐れる。前に「われ汝とともに死ぬべきことありとも汝を否まず」と壮語した弟子たちは皆、この時イエスを棄てて逃げ去りました(一四の五〇)

三 外にて


 十一弟子の逃げ去った後、捕手の者に引き立てられて行くイエス様に寄り添うて、従って往く一人の少年があった。たぶんイエスを捕えに行く群衆の物音に目を覚まして、素肌に亜麻布の寝巻を着たままで飛び出し、群衆に混じって園の入口まで来たものと見える。イエスを愛し慕う様子があらわであったから、弟子の一人に違いないと、人々が彼を捕えようとした。寝巻の端をつかまれた彼は驚いて、亜麻布を棄て真裸になって逃げて往った(一四の五一、五二)
 このおもしろい小品的挿話そうわはマルコ伝にだけあります。したがってこの著者はマルコ自身で、この小話はマルコの描いたイエスの肖像画のサインである、マルコ伝著者の署名である、などと想像する人もあります。

四 ゲッセマネの祈りの意味


 イエス様ともあろうお方が、かねて覚悟していた最後の時が迫った時、胸は破鐘われがねを打つように驚き騒ぎ、そのあとで喪神したようになって悲しむなどとはあまりに女々しいではないか。今となってこの時の己より過ぎ往かんこと、この酒杯の己より取り去られんことを祈り求めるなどとはあまりに弱いではないか。――そう人々はいぶかるでしょう。しかりです、イエスは弱い人でありました。彼は泰然自若として死を迎える型の豪傑ではありません。神経の鈍感な人間か、あるいは感情を不自然に抑える人ならば、泰然として死に就くでしょう。しかしイエスはあくまで純な、自然な、人間らしい人間の感覚をもって生きた人です。彼は死を恐れました。だから我々死を恐れる人間を助けうるのです。「わが心いたく憂いて死ぬるばかりなり」というような柔軟な、敏感な心であって、始めて我々の苦しみをともに苦しみ、我々の悲しみをともに悲しんで下さることができるのです。
 しかしもちろんイエスは御自身の死を恐れ給うただけではありません。その死が、自分の手塩にかけて養成してきた十二弟子の一人なるユダの裏切りと、自分の熱愛するユダヤ国民の代表者たちの敵対とによってくることが、愛の濃やかなイエスの心情にとって致命的な苦痛であったでしょう。どうかユダが最後の一瞬にでも心をひるがえして、裏切りを中止するように! できることならば、祭司長・長老・学者らも最後の一瞬に心をひるがえして罪を悔い改め、イエスの福音を信ずるようになってもらいたい!
 しかしゲッセマネの苦祷くとうは、こうした他人のための祈りのみでもない。そこには実に神がイエスを地上に遣わし給うた趣旨、並びに神の子としてのイエスの地位、すなわち神とイエスとの間における父子関係の根本に関する大問題が横たわっていたのです。
 イエスはこれまで完き信仰をもって神の途を歩んできた。そのイエスを神は最後に棄て給うのであろうか。イエスを棄てても、神はなお彼の「父」たりうるのであろうか。
 神がイエスを棄て給うならば、イエスの遣わされた使命、すなわち神の国の建設はどうなるのであろうか。イエスの生涯が全く無意味となるのみでなく、神の御目的そのものが達せられないのではなかろうか。
 往古むかし神はアブラハムを試みて、約束の子イサクを燔祭はんさい犠牲いけにえとして要求し給うた。しかしアブラハムが信仰によってイサクを献げようとした時、神は代わりの牡羊を備えて、最後の一瞬にイサクを助け給うたではないか。
 また神はエジプトのパロの心をかたくなにして、モーセの数度の努力にかかわらず、イスラエルに苦難を与え給うた。しかし最後には神みずから出動し給うて、イスラエル人の家を過ぎ越しつつエジプト人を撃ち、もってイスラエルを救出し給うたでないか。
 もし神がわが父であり、我が神の子であるならば、神は最後の一瞬において我の捕えられることを阻み給うはずであるまいか。この時を我より過ぎ往かせ、この酒杯を我より取り去り給うはずであるまいか。
「汝もし神の子ならば――」、ゲッセマネの園の苦悶の中心問題はこれでありました。伝道の初め、曠野にて四十日四十夜サタンに試みられた時も、これが誘惑の中心であった(マタイ四の一―一一)。いまや彼の伝道が失敗をもって最後の幕を引かんとする刹那せつな、この同じサタンの声が、イエスの人間としての弱さに乗じて、突然驚くべき力をもって回帰したのです。イエスがゾッとして失神せんばかりに驚き悲しまれたのも、当然です。ことに今は四十日四十夜も、祈り続ける余裕はない。急激なるその場の勝負をいどまれたのです。
 イエスは必死に祈り給うた。その様をルカ伝記者は記して、「イエス悲しみ迫り、いよいよせつに祈り給えば、汗は地上に落つる血のしずくのごとし」と言っています(ルカ二二の四四)。しかしイエスはサタンの設けたわなには決して陥り給わなかった。「アバ父よ、わが意のままを成さんとにあらず、御意のままを成し給え」――御意の内容が何であろうと、神が父にいまし己が子たる根本的関係をば死守して放し給わなかった。この絶対信頼の態度にサタンはたじろいて乗ずるを得ず、天の御使が現われてイエスに力を添えました。サタンはついに神とイエスとを離間するを得なかったのです。
 いまや神の聖意は疑うべくもない。アブラハムの場合にはイサクを助けるため、牡羊の角を木にからめて身代わりを与え給うたが、イエスの場合は他の者を救うために、彼自身が牡羊となって木にからめられるのだ。
 モーセの場合にはエジプト人を撃ってイスラエルの家を過ぎ越し給うたが、イエスの場合には他の人々を過ぎ越すためにイエスが撃たれるのだ。
 他の場合には、神は信ずる者に恩恵を施してこれを救い出し給うのであるが、イエスの場合には信ずる彼に神は恩恵を拒んで、彼を死にわたし給うのだ。信仰に対する報償が、イエスの場合と他の場合とは逆である。イエスの場合は全然特別なる取扱いである。異常の処置である。
 しかしいかに特別でも異常でも、神がイエスに課し給う御意はこれである。これでもイエスは神の愛子である。これでもイエスによって神の国の建設は成就せられる。否、イエスが神の独子であるがゆえに、また彼によって神の国が成就せられるがために、神は彼に対してかかる異常の非常手段を取り給うのだ。それは神の経綸の奥義である。その奥義はやがて十字架と復活とによって明らかに示されるであろう。しかしその内容が何であれ神の意思がここにあることを明らかに知って、ゲッセマネにおけるイエスの戦いは勝利に帰し、彼の子たる従順は完うせられたのです。

彼は我らのとがのために傷つけられ、
我らの不義のために砕かれ、
みずから懲罰をうけて我らに平安をあたう、
その打たれし傷によりて我らは癒されたり。(イザヤ五三の五)

 イエスは神の懲罰を従順に受け給いしによって、御自身のたましいに平安を得給うたのみでなく、我らにもまた平安を与え給うのです。実に人生最大の力と平安とは、神の絶対従順から発するのであります。
[#改ページ]

第十七章 イエスの裁判



一 大祭司の法廷



 人々はイエスを捕縛して大祭司カヤパ(マタイ二六の五七)の家に連行し、時を移さずサンヘドリンの全議員が集まりました。議員の主立ちたる者は捕縛の現場に出向いているほどであるから(ルカ二二の五二)、深夜のことであったけれども、全員を召集するに困難はなかったと思われます。(一四の五五に「議会」とあるは、一三の九に「衆議所」とあると同じ語で、サンヘドリンのこと。このサンヘドリンは祭司長・学者・長老より構成せられたユダヤ人の最高宗教裁判所であった)
 ペテロは一度逃げたけれども、やはり気にかかるものですから、イエスがかれてゆくあとから遠く離れてついて来て、大祭司の家の中庭まで入りました。これは家の構造が中庭を取り囲んでできており、外の通りから直接中庭に入るように入口があったからです。エルサレムの早春の夜は寒くて、大祭司の下役どもが焚火たきびをしている。その中にペテロも交じって、燈火煌々こうこうたる室内の成行きを心配しながら、火にあたたまっていた。


 室内では大祭司を裁判長として、イエスの訊問じんもんが開始せられています。彼らの裁判は、どうあってもイエスを死刑に定めようという、定まった意図をもって行なわれました。そのためいろいろ証拠を求めたけれども、確証を得ません。ユダヤ人の法律では、すべて有罪の認定には二人もしくは三人の証人を要する規定でありましたが(申命記一九の一五)、イエスに対してあげられた証拠は一つとして一致するものがなかった。ついにある者どもが起って、
 我らこの人の「我は手にて造りたるこの宮をこぼち、手にて造らぬ他の宮を三日にて建つべし」と言えるを聞けり。(一四の五八)
と言い出でた。イエスはかつて「汝らこの宮を毀て、我三月の間にこれを起こさん」と言われたことがありますが(ヨハネ二の一九)、彼らはこの御言を曲げて、あたかもイエス御自身が宮を毀つと言われたかのごとくにいたのです。イエスは御自身を復興者として語り給うたのに、彼らはイエスをば破壊者だという。まるで正反対あべこべですが、彼らはイエスを罪に陥れようとする目的あってのことですから、イエスの言いもしなかったことを言ったかのごとくに曲解したのです。こういうことは人を陥れる時によくある。愛国者を国賊と呼び、忠臣を不敬漢とののしるごときことは、世にその例が稀でありません。
 さまざまに訴えられるけれども、イエスは口をかんして一語をも発し給わず、人々のやっきになって言い出でる証言は、どれも皆一致しない。大祭司はれてきて、会議の中央に立ち上がり、被告たるイエス様に向かい、
汝何をも答えぬか、この人々の立つる証拠はいかに。
と、直接訊問を始めた。それでもイエスは何をも答え給いません。大祭司はさらに突っ込んで、
汝はむべき者の子キリストであるか。
とたずねました。「頌むべき者」とは神のことです。この単刀直入の問いに対しては、沈黙を守ることはできません。他の誣告ぶこくはすべて黙殺に付すべし、この質問は少なくとも誣告ではない、事実にあたった言であります。ゆえにイエスの聖なる唇は始めてほころび、
 我はそれなり、汝ら人の子の、全能者の右に坐し、天の雲の中にありて来るを見ん。(一四の六二)
と答え給うた。厳然たる確信の声! 凜乎りんこたる気魄きはく! これこそ実にゲッセマネの祈りの結論であったのです。血の汗を滴らせて、祈りに祈りぬいた必死の祈りに対する応答として、父なる神の彼に賜うた確信はこれでありました。見よ、大祭司何者ぞ、サタンの使ではないか。サタンの使が裁判長の席に坐し、神の子が捕縛せられてその前に引き据えられるとは! こんな顛倒てんとうした光景がまたと世にあろうか。もしも肉の目の見るところをもって判断すれば、捕縛せられたる神の子などという者はありえない。それ自体概念錯誤であって、あるいはこの事実だけでもイエスが神の子でないという証拠にならぬとも限らない。しかしこの外見的顛倒にかかわらず、イエスが神の子であり給う霊的事実に微塵みじんの錯誤も存在しないことをば、父なる神はゲッセマネにて確認し給うたのであった。それゆえにこそ今大祭司の訊問に対し、何らの躊躇なき「しかり」の確答を放ち給うたのです。
「我はそれなり」というお答えは、マタイ伝では少し異なって、「汝の言えるごとし」(二六の六四)となっている。これは、直訳すると、「汝しか言えり」という語です。ルカ伝では、「汝らの言うごとく我はそれなり」(二二の七〇)。これは原文では、「我はそれなりと汝ら言う」との意である。つまりマタイ伝でもルカ伝でもイエスのお答えは直接的な肯定の形でない。もちろんこれは尻尾しっぽをつかまえられないように御自身の言葉による肯定を避けられたわけではありません。むしろ敵の口をして認めさせるという、威厳と確信に満ちた余裕ある態度であり給うたのです。一体自分の地位身分を自分の口から言うごときは、善い趣味とはいえないではないか。(マタイ伝、ルカ伝の記事はイエスのお答えぶりの写生であり、マルコ伝の記事はお答えの精神を摘出したものであろう)
 イエスがこれに語を次いで、
汝ら人の子の、全能者の右に坐し、天の雲の中にありて来るを見ん。
と言われたのは、ダニエル書七章十三節に
 我また夜の異象の中にてありけるに人の子のごとき者、雲に乗り来たり、日の老いたる者のもとに到りたればすなわちその前に導きけるに、これに権と国と栄とを賜いて諸民・諸族・諸音をしてこれにつかえしむ。その権は永遠の権にして移り去らず、またその国は滅ぶることなし。
とある言と、詩編百十編一節は、
エホバわが主にのたまう、われ汝の仇を汝の承足とするまではわが右に坐すべし。
とある言とを結びつけて、言われたのです。このダニエル書の言も詩編の言もともにメシヤ(キリスト)来臨の預言であることを、ユダヤ人はよく知っていました。したがってイエスがこれを引用せられたのは、聖書の預言全体の重みをもって御自身が栄光の王、永遠の審判主としてのキリストにいまし給うことを宣言せられた、という圧倒的効果をもったのです。イエスはまず大祭司の訊問をば受け止めて、大祭司自身の口をもってイエスの神の子キリストたることを承認させ、次にはみずから積極的に前進して、聖書の預言をして御自身のキリストたることを証明させ給うたのです。敵の打ち込む刀に刀を合わせてから、一歩踏み込んで敵を斬る、英姿颯爽さっそうたる太刀風よ。断固たるイエスの一撃を浴びた大祭司は、怒りの余りほとんど反射的に己が衣を裂き、全議員に向かって、
なんぞ他に証人を求めん。汝らこの涜言けがしごとを聞けり。いかに思うか。(一四の六三)
と叫びました。「自分を神の子のキリストなどと、かかる涜言を本人の口から聞いた以上、もう証人なんかいらぬ。神を涜す不敬罪の心証はこれで十分だ。諸君はどう思うか」というのです。ここにおいて彼らは満場一致で、イエスを死刑に該当するものと定め(レビ二四の一六参照)、そして議員中ある者どもはイエスにつばきし、またその顔をおおい、拳にてうちなどし始めて、「誰がうったか預言せよ」とあざけりました。祭司、学者、長老ともある者が、その社会的地位もかえりみず、みずから手を下してかかる侮辱を加えたとは、彼らの人柄の下品陋劣ろうれつ唾棄すべきものがありますが、また反面には、イエスの言行が平生いかに強く彼らの憎悪を招いていたかが、これによってわかります。彼らはイエス様から、その虚偽と偽善とを民衆の前でこっぴどく糾弾きゅうだんせられた鬱憤うっぷんをば、こうした卑劣な方法で晴らしたのです。悪人に憎まれることは、その人が義しき人であることの証拠です。誰からも憎まれないような人はつまらぬ人物だ。その人の存在が不義の社会に対して何らの脅威とならぬような者は、地の塩とは言えません。イエスは最も義しき人であったから、最も深く憎まれ給うたのです。


 サンヘドリンはイエスに死刑の決定を下して後、下役どもに彼の身柄を引き渡して、夜明けまで監禁を命じた。下役どもは、被告を軽蔑する例の刑事根性でもって、平手でイエスをうちました。

二 ペテロの否認


 イエスの訊問せられている室内の様子をうかがいながら、焚火たきびあたたまっていたペテロのそばへ、この家の下女の一人が来て、焚火のあかりに照らし出された彼の顔をしげしげと見つめていましたが、「汝もかのナザレ人イエスとともにいた」と言葉をかけた。ペテロはあわてて、「我は汝の言うことを知らず、またその意をも悟らず」、すなわち「お前さんは何のことを言ってるのか、少しもわからん」と意味が通じないふりを装うて、薄暗い庭口に自分の居場所を移した。しかるに下女は彼を見て、かたわらに立つ下役どもに、「この人は、かの党与ともがらですよ」とまた言いだしたから、ペテロは重ねてこれを否定したが、しばらくしてまたかたわらに立つ者どもが、「汝はたしかにかの党与だ、汝もガリラヤ人だ」と言ったので、彼は断然誓って、「アナセマ! 我は汝らの言うその人を知らず」ときっぱり言いきってしまった。(一四の七一に「ペテロうけい」とある原語は、「アナセマ(詛)を言う」という字で、「自分の言う言葉に偽りがあるならば、我は詛われよ」、という強い誓いの文句です)
 ペテロが「イエスを知らず」と言いきったとたんに※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)が鳴いた。彼はゲッセマネへ来るみちすがら、「今日この夜、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)なく前に汝我を否まん」とイエス様に言われたことを思い出し、わっと烈しく泣き出しながら、庭口から往来に飛び出した。そういえば前にも※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)が鳴いたのだが、その時にはイエスの御言葉を思い出さず、二度目に鳴いた時、はっと気づいたのです(一四の六六―七二)
 ああペテロ! あれほど勇敢率直を生命とした汝が、かくも卑怯に師を否認しようとは。下女下役の一言に突かれて、恩師に対する汝の全誠実は崩れ落ちたのである。
 ペテロは己が口を八つ裂きにもしたく思って、じだんだ踏んだでありましょう。泣け、ペテロよ、男泣きに。罪を悔恨する涙には、天の星も漂い、固き大地も溶ける。卑怯、不信実! 不信実、卑怯! わがこの唇から、「その人を知らず」との言葉が出でたとは! 勇敢率直の「生まれつき」など、人生の大なる試煉しれんの前には何の力もない。「われ汝とともに死ぬべきことありとも、汝を否まず」との「決心」など、いざとなれば何の役にも立たぬ。我は無力の罪人だ、罪人のかしらだ。主よ、わが罪を赦して下さい!
 しかり、ペテロよ、汝の罪は大である。しかし汝の涙のゆえに、我らは汝を責めないであろう。ゲッセマネの園で弟子たちは皆イエスを棄てて逃げ去ったが、先生思いの汝はイエスの身を案じて引き返し、大祭司の家の中庭にまで入り込んだ。そこで見つけられて自分の身の危険を感じた時、汝は卑怯にも師を知らずと言ったが、イエスを愛し、イエスを思う汝の心は少しも揺るがず、かえってこのため百倍した。汝は己を徹底して罪人と知った。そして己に死してキリストに生くる素地が、悔恨の涙の洪水の下から盛り上がってきたのである。人間的誠実、人間的勇気のペテロは死んで、信仰による誠実と勇気のペテロが生まれ、かくして彼自身の信仰のたたかいの最後において、イエスの御名のゆえに殉教の死を怖れざる勇者となったのだ。
 罪を犯したことは悲しむべき事実です。しかし悔恨の涙を流しうる人は、罪のゆるしによって、新たなる力の与えられる望みがある。ただ浅くその傷を癒すときは、罪の感覚を鈍くし、したがって救いの恩恵を軽んずる結果となる。浅く傷を癒す医者はやぶ医者だ。良医は患部を底までえぐる。患者は悲鳴をあげて泣き叫ぶが、これによって完全に治療されるのです。ペテロが師を知らずと言ったとき、イエスは振り返って鋭き一瞥いちべつを彼に与え給うた(ルカ二二の六一)。これによってペテロは救われたのです。

三 ピラトの法廷



 そうこうしているうち、すぐ夜が明けた。夜明けとともに祭司長・長老・学者ら、すなわち全サンヘドリンの会議をまた開き、その決議をもって、イエスを縛り曳き行きてピラトに引き渡しました(一五の一)。ピラトはユダヤ統治のためローマから派遣された総督で、海岸のカイザリヤが駐在地であったが、エルサレムには官邸があり、過越の祭りの時期にはここに出張していたのです。異民族統治の天才たるローマ人は、ユダヤ人在来の宗教裁判所サンヘドリンを認めるとともに、死刑に当たる重罪の判決並びにその刑の執行は総督の権限に留保していました。したがってサンヘドリンの宗教裁判ではイエスを死にあたる不敬罪と決定したけれども、これを実効あらしむるために、総督ピラトの判決を必要としたのです。これがためサンヘドリンはイエスに罪状を付して、ピラトに告訴したわけですが、その告訴の理由は、イエスがみずから「ユダヤ人の王」と称す、ということであった。「ユダヤ人の王」とは、旧約聖書の用語例によればメシヤのことで、霊的・終末観的意味において預言せられた理想の王であります(イザヤ九の六、七等参照)。しかるにいま祭司長・学者・長老らは、この語から霊的・終末観的な意味を抜き去って、世俗的・政治的意味のものに歪曲わいきょくしてしまった。これが彼らの用いた偽計トリックであります。みずからの宗教裁判においては、イエスをば神を冒涜ぼうとくしたる者として宗教的犯罪をもってい、総督に対しては、「自称ユダヤ人の王」、すなわちローマ皇帝に対する政治的反逆の罪を犯したものである、として訴えたのです。この方が総督に対しては通りがよいと思ったのです。


 ピラトは訊問を開始しました。
汝はユダヤ人の王なるか。
 答えて言い給う、
汝の言うがごとし。
 このほか祭司長らはさまざまにイエスを訴えました。「この人はわが国の民を惑わし、貢をカイザルに納むるを禁じた」とか、「ユダヤ全国に教えをなして民を煽動し、騒擾そうじょうを惹起す」とか(ルカ二三の二、五)
何も答えぬか。よ、いかに多くのことをもって訴うるか。
と言いましたが、彼の怪しむばかりに、イエスはさらに何をも答え給いません(一五の二―五)
 ピラトが怪しんだのは、イエスが何もお答えにならなかったということだけではない。イエスの御様子はいかにも静かで、威厳がある。怖ろしくて口がきけなかったわけではない。口をきかれる以上に、彼の悪人でないこと、謀叛むほんなどを企てている者でないことが、彼の沈黙のうちによく現われていた。その威厳ある静かな態度を見て、ピラトが不思議に思った。普通の人間であるならば、「汝は貢をカイザルに納めることを禁じた」などと訴えられますと、「いやそれは曲解だ。自分はカイザルのものはカイザルに、神のものは神に、と言っただけだ」と必死になって陳弁するところです(一二の一七参照)。しかしイエスはさまざまの誣告に対し、一言半句の陳弁も弁解もなし給いません。
 イエスはユダヤ人の王と称せられることを否定し給わなかったけれども、それは何ら政治的の反乱・騒擾を意図するものでなく、宗教的・霊的の意味をもって言われたのであることを、ピラトはすぐに認めました。そして祭司長らの告訴は、同じく宗教的指導者としてのイエスに対する嫉妬反感に基づくものであることを、彼は容易に看取しました(一五の一〇)。宗教講演において、腐敗せる国民は滅びよと叫び、葬れと言ったとて、それが政治的意味をもつ語でないことは、凡庸の俗吏にもわかることです。ただ個人的なる嫉妬憎悪が、事を大きくするのです。総督ピラトはイエスに何の悪事をも認めえず、彼を釈放したいと思った。しかしユダヤ人の抗議が猛烈であって、これを鎮めるのは容易なことではなさそうであった。たまたまイエスがガリラヤ人であることを知った彼は、これはガリラヤの方伯ヘロデ・アンチパスの管轄だと言って、おりからエルサレムに滞在中のヘロデのもとへイエスを回しました(ルカ二三の六、七)。これは洗礼者ヨハネの首をねたあのヘロデであって、イエスの出現を聞いて、「バプテスマのヨハネが死人の中より甦ったのだ。だからこれらの能力ちからがその中に働くのだ」と言ったあいつです(六の一四)。彼はかねがねイエスを薄気味悪く思って怖れていたが、一面その人物と奇蹟とを一見したいとの好奇心をいだいていた。しかしイエスは用心してこの「狐」を避けておられたのです。今はからずもピラトからこのイエスを送って来られたものだから、ヘロデはたいへん喜んで、多くの言葉を費やして質問を発したけれども、イエスは堅く口をじて何をもお答えになりません。祭司長・学者らはヘロデの家まで追いすがって来て、激しくイエスを訴えました。しかしヘロデもイエスについて格別の犯罪を認めなかったので、番卒どもとともにイエスに侮辱と嘲弄ちょうろうを加えた上で、ピラトに送り返した。ヘロデとピラトは前には仇敵の間柄であったが、この日以来親しくなりました(ルカ二三の八―一二)
 ピラトがイエスをヘロデにまわしたのは、ヘロデに裁判をさせて自分は責任をのがれようという狡猾こうかつな考えと、たぶん彼はヘロデがイエスについて好奇心をいだいていることを知っていて、その歓心を得る手段にしようとの考えと、一石二鳥の名案のつもりであったろうが、狡猾さにかけてはピラトとヘロデは狸と狐です。法律的には簡単だが政治的に厄介なこの裁判の責任を、ヘロデも取るを欲しなかった。それで、事件はエルサレムで起こったのであるからやはりピラトの管轄だ、と言うわけで、イエスを送り返したのでしょう。どうしても自分の手でイエスの事件を処理しなければならぬこととなったピラトは、責任のがれのため、第二の案を思いつきました。
 過越の祭りに際して総督が囚人一人を特赦する例があり、そして誰を赦すかはユダヤ人の希望にまかせることになっていた。これは民衆の人気を取るローマの統治政策の一手段でありました。ピラトはこの慣例を利用してイエスを釈放しようと思ったのです。彼は特赦の請願に来た民衆に向かって、「ユダヤ人の王を赦さんことを願うか」と聞きました。当時暴動を起こし、人を殺してつながれおる者の中に、バラバという著名の悪漢がいた。彼は右翼暴力団たる「熱心党」の一人であったかもしれない。ローマの統治に反抗して、騒擾を起こした者でありました。ピラトから見れば、バラバは重大犯人で、イエスは無害なる一人の在野宗教家であるから、民衆は当然イエスの釈放を希望するものと考えたのでしょう。しかるに祭司長らは「バラバは愛国者である」といって民衆をそそのかし、バラバを赦さんことを願わしめた。この常軌を逸した願い出にピラトは驚いたが、これを抑えるだけの力もなく、
さらば汝らがユダヤ人の王と称うる者を、我いかになすべきか。
と問いました。人々また叫びて、
十字架につけよ。
と言う。「でも、彼は何の悪事をもなしたのではないではないか」とピラトは言ったけれども、「十字架につけよ」「十字架につけよ」とますます烈しく言い募る群衆の声に圧倒せられて、優柔不断のピラトはついにバラバを釈放し、イエスを十字架につける判決を下しました。十字架はローマの法律による極刑であり、これに処する犯人に対しては、十字架につける前に、付加刑として笞刑ちけいを加える定めであった。三十もしくは四十の烈しい鞭打むちうちで、それだけでも気絶する者が少なくなかったという。ピラトはこの鞭打ちをイエスに加えた後、十字架の刑を執行せしむるため、彼を部下の兵卒に引き渡しました(一五の六―一五)(ユダヤ人の法律では、神をけがす罪に対して石にて撃ち殺す刑を課す規定であったが、イエスはローマ人の裁判を受けたがゆえに、ローマの法律によって十字架の刑に処せられたのです)

四 不法と虐待



 イエスはユダヤ人の宗教裁判とローマ人の総督の裁判と、二重の裁判を受けました。しかしこれは審理を鄭重ていちょうにしたものではなく、不法を二倍にしたにすぎない。第一に、ユダヤ人の裁判では、有罪の認定には二人もしくは三人の証人を必要とすることは明文の規定であります。祭司長が被告の自供によって有罪の認定をなしたのは、近代の自由法的解釈よりすれば進歩した裁判であるかもしれませんが、少なくとも当時のユダヤ人の法律では、刑事裁判上明白なる手続きの違反でありました。さらに、イエスがみずから神の子キリストなることを肯定せられたとしても、事実イエスが神の子にあらざることを確かめずして、ただちに冒涜罪に問うことは、慎重なる裁判ということができない。イエスが実際に神の子キリストである場合には、この裁判は根本的の誤審です。事実彼らは「神の子キリスト」についての認識が誤謬ごびゅうであったため、イエスの人格と能力とを理解しえず、かえってイエスを嫉妬・憎悪し、これを殺そうという政治的・感情的先入観念をもって裁判を行なったものでありました。
 第二に、ピラトの裁判は何らイエスについて有罪の認定をためすことなく、かえって無罪の心証をいだきつつ、単に民衆の人気を得るために十字架の判決を下したのであるから、言語道断の不法裁判と言わねばなりません。これによって総督ピラトは一時の人気を博しても、ローマの法律の権威は地にちました。司法権の運用が政治によっていかに影響せられるか、換言すれば司法権独立の限界の問題は今日の社会でも興味ある課題ですが、ピラトの場合は裁判の不法性を暴露した最も顕著な例であります。
 イエスが祭司長からピラトに送られたのは、「夜明くるやただちに」であった(一五の一)。暦で計算すると、エルサレムのこのころの夜明けは午前五時ないし六時であったといいます。そしてイエスを十字架につけたのは午前九時ごろであって(一五の二五)、この間わずかに三、四時間です。しかもこの間にピラトからヘロデへ、ヘロデからまたピラトへと、イエスを送ったり、送り返したりしたのですから、正味の審理時間は本当にわずかであったでしょう。すなわちほとんど審理しないも同然です。ゲッセマネの園で捕えられたのが仮に夜半十二時だとすれば、その九時間後にははや十字架につけられたのです。実に乱暴なスピード処刑でありました。
 この間にイエスがなぐられ給うたことは、聖書に記事があるだけでも、深夜祭司長の家でサンヘドリンの審理が終わった時に議員たちに拳固でなぐられ、そのあとで下役に平手でなぐられ、ピラトの法廷ではローマの兵卒のため鞭でなぐられた。ののしられ、あざけられ、そしられ、唾せられ、侮辱の限りを尽くされたのです。彼は不法と虐待とによって、死に定められたのです。
 この不法の裁判に対し、イエスはほとんど答え給いませんでした。ただ祭司長の「汝はむべき者の子キリストなるか」との問いに対し、「我はそれなり。汝ら人の子の、全能者の右に坐し、天の雲の中にありて来るを見ん」と言い給い、ピラトの「汝はユダヤ人の王なるか」との問いに対し、「汝の言うがごとし」と答え給うたほかは、かたく口をかんしておられた(ヨハネ一八の三四―三八には、このほか若干のお答えが記されている)。捕縛および虐待に対しても、全然何らの抵抗を試み給わず、彼らのなすがままに身を任せ給いました。祭司長らがいたく彼を恐れて警戒を厳重にして捕縛に出向いたのも、ヘロデ・アンチパスが強き好奇心をいだいて彼を一見したいと切望したのも、イエスの奇蹟的能力のゆえであったが、彼はかかる能力を微塵みじんも発揮し給わなかったのです。彼らは恐怖の期待をいだいていただけ、イエスの沈黙と無抵抗とに接して、よけいにひどく侮辱し嘲弄したのでしょう。
 イエスは何ゆえ沈黙と無抵抗の態度を守り給うたか。それは捕縛と裁判とがあまりにも不法であったからです。換言すれば、不法と虐待とによって罪に定められ、殺されることがあまりにも明白であったからです。しかもそれが父なる神の欲し給うところであることを、彼はゲッセマネの苦祷くとうによって確かめておられたのです。これがわかっている以上、陳弁と抵抗は無用であるのみでなく不信仰です。法廷における弁論によって自分の志を天下に訴える、というような政治家的な考えは、この場合全く妥当しません。イエスの使命は、申し開きをすることにあるのではない。満ち足るまでにはずかしめを受けることにある。不法と虐待によりて取り去られることにある。抗弁ではなく、従順にある。イエス様は腹をめておられるのです。


 イエス伝を始めからここまで学んできて、あの愛と憐憫に満ち、義と真実そのものであり、神の子としてまったき途を歩んで来られたイエス様が神をけがす罪に問われて死刑に定められ、十字架を負わされて処刑場に引かれ往こうとするのを見る時、奇異なる感が私どもの心にわき起こるのを禁じえません。神を涜した罪? それならば、真犯人はこの私だ! あの人に罪はない。間違いです、間違いです。神様、大きな誤審です!――しかし私は名乗って出る勇気はなかった。そして焚火にあたたまって、もじもじしている間に、さっさとあの人の罪は定まって、刑の執行が命令されてしまったのです。しかも人々が私を怪しんで「汝も仲間だろう」と言った時、私はびっくりして、「否」と三度も拒んで、逃げ出してしまったのだ。我らの見ている前で我らの恩師は打たれ、辱しめられ、死に定められた。恩師は我らの罪を負うて、死にゆき給う。我らは見ていて何もしなかった。そしてただ一人死に赴かしめた。なんという、なんという、なんという人間だろう、この私は! ペテロならずとも、誰か悔恨に心を刺されて、泣きくずれない者があろうか。
 実に不法と虐待の裁判です。人類の裁判史上、これほどの大きな根本的誤審はありません。しかも神はこの誤審を黙認し給うたのです。あんなに神に忠実であり給うたイエスには神を涜した罪の罰として死刑を、そしてこれほど神にそむき神を涜した私には咎めなし! こんな間違いの処置がまたと世にあろうか。神様は賞罰の大きな置き違いをせられたのです。しかも知っていて、わざとそうせられたのです。昔エジプトの地で、ヤコブがヨセフの二人の子を祝する時、故意に手を交叉して長子に置くべきはずの右の手を弟に、弟に置くべき左の手を兄の頭に置いた。これを見てヨセフが「父よさにあらず」と言ったに対し、ヤコブを拒んで「我知る云々」と答えた、とあるごとく(創世記四八の一七―一九)、イエスの裁判を見た者が父なる神に向かって、「父よ、それは誤審です」と叫んでも、神はこの抗議を拒んで、「我知る。併しこの判決をこのまま執行せよ」、と宣告し給うたのです。
 いぶかり怪しんで当惑している私どもの耳に、地のはてからかすかな歌がきこえてくる。

彼は虐待せらるれども堪え忍びて、
その口を開かざりき、
屠場にひかるる羔羊こひつじのごとく、
毛をきる者の前にもだす羊のごとし。
彼は虐待と審判とによりて取り去られたり。
その代の人のうち誰か思いしや、
彼が活けるものの地より絶たれしことを。
彼は我らのとがのため死に定められしなり。(イザヤ五三の七、八)

 この歌声、近くなり遠くなりて全地をおおう。これを耳にする私どもの心は、悔恨ともつかず感謝ともつかぬ、言い難き奇異の思いにうずきます。口には蜜のごとく甘くあったけれども、腹は苦さに満ちる味だ。私どもはかかる思いをもって、我らの罪を背負い、黙々と、従順に、十字架に曳かれゆき給うイエス様の成行きいかにと息をひそめて見まもるのです。
[#改ページ]

第十八章 イエスの十字架



一 侮辱



 ピラトからイエスを下げ渡された兵卒どもは、イエスを総督官邸の中庭に連れてゆき、全隊を呼び集めて、彼に紫色の衣を着せ、いばら冠冕かんむりを編みて冠らせ、「ユダヤ人の王安かれ」と礼をなし始め、またあしにてその首をたたき、つばきし、ひざまずきて拝しました。実にばかにしきった、侮辱の行為であります(一五の一六―一九)
 紫は王者の色で、皇帝や王は紫色の衣を着た。マタイ伝では「赤色の上衣」となっている(二七の二八)。ローマの軍隊は赤い色の服を着けたというから、たぶん紫がかった赤い色の兵卒の上衣を取って、イエス様に着せたのでしょう。
 それからローマの皇帝は凱旋の時など、勝利の名誉を公衆の前に示す機会に、月桂樹の冠冕をかぶった。その真似をして、茨の冠冕を編んでイエス様にかぶせたのです。
 葦というのは、マタイ伝を見ると、葦を右の手に持たせたとある(二七の二九)。皇帝や王はその権力の表徴しるしとして笏を手に持った。そのまねをし、その辺に生えていた葦を折って手にもたせ、「ユダヤ人の王安かれ」と、嘲弄ちょうろうの挨拶をしてからその葦を取ってイエスの首をたたき、その顔に唾したのです。ある人の書いた『新約聖書に表われし軍人』という本の中に、ローマの軍隊がキリストを十字架につけたのは命令によって職務を執行したにすぎず、イエスに対する悪意があったのでない、と弁護しているが、何のそんなことがあるものか。彼らがまっ先になって、これから十字架にかけるに先立ちイエスにはなはだしき侮辱を加えたのです。
 かく嘲弄して後、兵卒どもは紫色の衣をはぎ、もとの衣を着せ、官邸の中庭からイエスをき出して、郊外の処刑場に向かいました。十字架につけられる者は、その十字架を負わされて、処刑場まで歩く定めであった。重い「己が十字架」を負うて衆人環視の中を引き立てられるのは、単に肉体的に苦痛であるだけでなく、精神的に甚大なる侮辱を加えられるものである。イエスも始めは御自身十字架を負うて歩かれたのですが、途中で力尽きたため、兵卒どもは通りがかりのクレネ人シモンという男をつかまえ、無理じいにイエスの十字架を背負わせた(一五の二〇、二一)。クレネは北アフリカの地名で同じくローマ帝国の領内ですが、ユダヤ人からは異邦として軽蔑せられたものです。誰もいやがるこの公役をクレネ人シモンはしいられて、イエスと恥辱をともにしましたが、しかし「イエスの十字架」を負いて彼に従う名誉の役割は、ペテロでもヨハネでもなく、この異邦人に与えられたのです。
悲哀の路ヴィア・ドロローサ」を過ぎてゴルゴタの丘へ。
 ゴルゴタという語は髑髏されこうべという意味であると、記者は読者のために言葉を添えています。たぶん木の生えてない丸い形の丘で、その恰好かっこうが髑髏に似ていたのでしょう。満目荒涼たるこの丘がイエスの処刑場でありました。
 兵卒どもは刑の準備を始めました。十字架を地に置く者、穴を掘る者、釘と金槌かなづちとを揃える者、等々。かくて没薬もつやくを混ぜた葡萄酒ぶどうしゅをイエスにすすめました。これは苦痛を軽減するための麻酔剤です。しかしイエスはそれをお受けにならなかった。彼は受くべきだけの苦痛を全部受けることに、決心していられるのです。
 兵卒どもはイエスの衣服をはぎ、十字架の上に彼のからだをあてて、手足を引き伸ばしました。肉を貫いて木材に打ち込む釘の音、悪態あくたいを放ちつつ高声に話し合う兵卒の声。
 多勢してイエスを釘づけした十字架を起こし、穴の中に立てました。おそらく地上数尺と離れないであろうが、俯せば千仭せんじんの谷を見下ろすかと思われ、仰げば天の遠きこと計られず、イエスの肉体は裸のまま天地の間にかかったのです。イエスの題上には「ユダヤ人の王」という罪標すてふだが、打ちつけられてある。いうまでもなくローマ政府の公のあざけりです。足下では兵卒どもが、イエスの衣類をくじで分けている。彼らはイエスの生命のみならず、身につけていた肌衣までもかすめてしまったのです。イエスの両側には、強盗をつけた二つの十字架が立てられました。上下左右、嘲弄と略奪と罪悪との間につつまれて、イエスは十字架にかかり給う。彼の肉体も同じく罪の一色に塗りつぶされているのです。ああ悽惨せいさんたるかな、荒涼たるかな。時刻はすでに朝の九時で、太陽はようやく高かろうとしているが、ここゴルゴタの丘の一角にはしんの底まで冷たい暗黙の気が立ちこめている。そこには人類の罪がイエスの十字架に凝固せられて、天地の間にかけられたのです(一五の二二―二七)


 もうそのころには往来がだんだん頻繁になってきて、通行人は十字架を仰ぎ見てイエスをそしり、首を振って、
ああ宮をこぼちて三日のうちに建つる者よ、十字架より下りて己を救え。
と嘲りました。祭司長・学者らもともに嘲弄して、
 人を救いて、己を救うことあたわず、イスラエルの王キリスト、今十字架より下りよかし、さらば我ら見て信ぜん。
と、話し合った。ともに十字架につけられた強盗も、同じようなことを言ってののしった。四面嘲罵ちょうばのまっただ中で、イエスは死んで往かれるのです。
「人を救いて、己を救うことあたわず」――十字架上のイエス様に対し、辛辣しんらつ骨を刺す嘲りの言葉であります。釘で打ち貫かれて、生命の脈の刻々に衰え行く肉体の苦痛に加うるに、この嘲りの舌は彼のたましいを刺しとおしたに違いない(詩編一二〇参照)。パウロがローマの獄につながれた時、嫉妬と紛争とにより彼を批難攻撃した者について、「彼らはわが縲絏なわめに患難を加えんと思う」者であると記しましたが(ピリピ一の一七)、十字架上のイエスに比べれば、パウロの苦痛など何でもない。いわんや私どもの患難など、何でもない、何でもない。
「人を救いて、己を救うことあたわず」――みじめな死に方をするイエスのたましいに対し、これは最後の止めを刺したかのごとくに見える痛撃でありました。イエスの一生涯の教訓も、奇蹟的能力も、否、彼の人格そのものも、この一言をもって総決算がつけられ、総評価が与えられたように見えた大言壮語の欺瞞者ぎまんしゃ、虚偽漢、偽善者、ペテン師、とうとう化の皮がはがれた、ざまをみろ、と言うのであります。イエスはこの嘲りを聞きながら、御自身を救おうとし給わなかった。たとい欲し給うても、できなかったでありましょう。父なる神が彼を十字架上で死なせることに心を定めておられたからです。そして父の意思に反して、イエスは何をもなしえなかったからです。彼は骨に徹る嘲りを浴びながら、いちずに神への従順をのみ念じて、心身の苦痛に堪え給うたのです。
 我々のみじめなさまを見て、世の人は嘲って言います、「人を救いて、己を救うことあたわず」「他人の子を教えて、自己の子を教うるあたわず」と。本当につらいことです。しかしイエス様ですら、そう言って嘲られたのです。イエスですら、人を救いて己を救うことあたわず、他人を教えて自己の骨肉兄弟を教えることができなかったのです。この事実にどういう理由があるか、どういう説明があるか、少しは思いあたるふしもあるけれども、要するにイエスはこの罵詈ばり嘲弄を浴びつつも父なる神の御意思を絶対に信じて、最後まで、しかり十字架の死に至るまで従順を守りとおされたのです。イエスに従う者の生涯もまた、これよりほかには出でません。ひるまず福音の証明を続くべきであります。

二 十字架の上にて


1 死

 イエスは人々の嘲りのうちに、黙って十字架の苦痛に堪えていられたが、正午十二時に突然地の上があまねく暗くなり、午後三時にまで及んだ。すなわち三時間の間やみとなったのです。暦で計算してみるとこれは日蝕にっしょくのあった時ではないから、他の理由でかかる異変が起こったのです。
 三時にイエスは大声に
エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ、
と呼ばわり給うた。これはイエスが言われたアラミ語を聞き取ったままに書いたのですが、その意味は「わが神、わが神、何ぞ我を見棄て給いし」ということです。かたわらに立つ人々のうち、「エロイ、エロイ」と言われたのを聞いて、
視よ、エリヤを呼ぶなり。
という者もあり、ちょっと皆が騒ぎ立った。深い苦痛の色がイエスのかおぎりました。一人の者が走って往って、海綿に酸き葡萄酒――「酸き葡萄酒」というのは兵卒が飲んだ下等の濁酒です。――を含ませ葦につけて差し出して、イエス様に飲ませ、そして、
待てエリヤ来たりて、彼を下ろすや否や、我らこれを見ん。
と、好奇心で待ち構えた。エリヤは火の車に乗って天に昇った預言者です。当時ユダヤ人の間には何か困難に陥った時にはこのエリヤが援けに来る、という考えが一般に行なわれていたのです。
 しかしイエスはエリヤを呼ばれたのではなく、またエリヤが助けに来もしません。酸い葡萄酒に口をしめされた彼は、何かよく聞きとれなかったけれども、大きな声を一言発して、そのまま息絶えてしまわれた。
 イエスの十字架と差し向かいに、刑の執行官たるローマ軍隊の百卒長が立って、様子を仔細に見まもっていたが、かかる様にてイエスが息絶え給うたのを見て、
げにこの人は神の子なりき。
と、言って驚いた。彼はまず第一に、時ならぬ三時間の暗黒に畏怖を感じたのでしょう。次にイエスが腸をしぼって「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた真摯しんし悲痛の声が、奇妙に彼の良心を圧したのでしょう。それから最後のこの大声! 一体十字架の刑を受けて死ぬる者は、長時間の苦痛の後だんだんと体力が弱りき、しまいには声も出ないようになって死ぬる。十字架の刑が特に残酷であるのは、そういう具合に力を竭き果てしめて死なせる点にあった。これはこの百卒長が今までにたびたび目撃した事実であったでしょう。しかるにイエスという人は、なんという力のこもった、迫力のある最後であろう。百卒長なんかは号令の専門家です。その百卒長が驚くばかり、百万の軍隊に号令をかけるような力のこもった大喝一声をもってイエスは死んだ。これは人間の死ぬる様子ではない、こんな死に方をする人は尋常の人ではない、実際神の子であられた、と感じたのです。もっとも彼は「神の子」という意味を、聖書に預言せられたような霊的意味に解しえたのではありますまいが、イエスをば悪人ではない、ただしい人だ、と認めないではいられなかったのです(一五の三三―三九)(ルカ伝には「実にこの人は義人なりき」とある。二三の四七)
 イエスが十字架にかけられたのは午前九時、息絶え給うたのは午後三時、この六時間の間、遠く離れて様子を見守っていた一団の婦人があった。彼らはマグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤおよびサロメなど、イエスがガリラヤに居給うたとき、従い事えた者どもであり、このほかイエスとともにエルサレムに上った多くの女も一緒にいました。弱くして強き者よ、汝の名は女である。ペテロら男子の弟子たちがすべて逃げかくれた時に、汝らはイエス様を十字架の上に一人死なせるに忍びず、さりとて近く見るには堪えず、遠くに立ちて恩師の最後を見届けたのである。いかなる思いが彼らの胸を刺したか、ここにそれを想像するを要しません。イエスは十字架の上から、この女たちの一団を認められたことでしょう。たといそうでなくても、彼らの愛と祈りとがイエス様のたましいに力を添えたことを私は疑いません。

2 七言


 イエスが十字架の上で発せられた言葉は、四福音書を合わせると、七つ記されてある。これをば大体の時間的順序を想像して、順次述べてみせましょう。
(一)
 まずイエスは己が十字架のそば近く、その母マリヤと愛する弟子ヨハネとの立っているのを見て、母に「女よ、視よ、汝の子なり」と言い給い、またヨハネに向かって「視よ、汝の母なり」と言い給うた(ヨハネ一九の二六、二七)。我れき後の母を愛弟子に託し給うたのです。
 イエスとその母マリヤとの関係は一種特別であって、少なくともイエスの生前において、必ずしも母は彼のよき理解者であったとは思えない。カナの婚筵こんえんで、イエスは母に向かい「女よ、我と汝と何の関係あらんや」と言われ(ヨハネ二の四)、またカペナウムの家では母と兄弟が彼を尋ねてきたとのことを聞いて、「わが母、わが兄弟とは誰ぞ云々」と言われた(マルコ三の三三)。これらの御言葉の中に、何となくしっくりしない感じが味わわれる。今十字架の上から、「女よ、視よ、汝の子なり」と言われた言にすら、世間の母子の間におけるごとく、甘美なる情愛に恍惚こうこつとして融け合うというふうの気持が感ぜられません。冷たいというのでは決してないが、母子の愛が人生最上の愛であるかのごとくには、決して思っていられない。彼にとりて、天の父なる神様は地上における肉の母よりも、ずっとずっと親しくあったのです。イエスの悲哀の中には、母や兄弟姉妹の無理解がたしかに含まれている。彼に家庭はなかったのです。
 しかし理解は完全でなかったけれども、やはり母は母です。マリヤはイエスを愛して、十字架の下までついてきた。そしてここまでついてくるには、イエスに対する彼女の理解がしだいに養われてきたものと見なければなりません。イエスは十字架の上から、この老いたる母をあわれみ給いました。ことに彼女のたましいをあわれみ給うた。彼女の身の世話をするだけのことなら、彼女の生んだほかの子供たちもいます。けれども彼女のたましいを養い、信仰を育てて行く者は、このヨハネのほかにはない。――こうしてイエスは母を愛弟子の手に託し給うたのです。注解者の想像によると、イエスの一家とヨハネは親戚関係があったといいますから、もしさようなら、ヨハネに母を託したのはいっそう自然なことでありました。こうして見ると、母をヨハネに託されたことは、ただ子としての扶養の義務を果たされただけでなく、やはりイエス様でなければできない、母に対する最も深い愛が示されているのです。母のたましいを愛して、そのためにおもんぱかるにまさる孝行はありません。
 たぶんヨハネはこの御言を聞き、ただちにマリヤの手を引いてエルサレムにある自分の家に連れ帰ったものと思われる(ヨハネ一九の二七)。十字架にかかり給うたイエスは、死の苦しみを老いたる母に見せないために、まずその場から彼女をヨハネに連れ去らせたものでありましょう。ここにもイエスの繊細デリケートな愛が働いています。
(二)
 母を安全な場所に去らせてから、イエスは心おきなく父なる神に話しかけました。父なる神に語ることはすなわち祈りであります。
 人は他人に対し憎しみうらみをいだき、とがった心のままで父なる神の御前に出ることはできません。神の前に出ようとする者は、まず己に負債おいめある者をゆるし、己の敵の罪を赦さねばならない(マタイ六の一二―一五参照)。今父なる神の御許みもとにかえろうとして、何よりもまずイエスの心にかかったものは、己が敵を赦すことでありました。
父よ、彼らを赦し給え。そのなす所を知らざればなり。(ルカ二三の三四)
 これが彼の祈りでありました。「彼ら」というのは、己を十字架につけた兵卒どもだけではなく、この刑の執行の命令を下した総督ピラト、ピラトに告訴した祭司長、学者、長老ら、すべてを含んだ言です。彼らはいかなる人を十字架につけているかを知らない。イエスが神の子であることを知るならば、十字架につけなかっただろう。もし知っていてつけたら、彼らの罪は赦されえないであろうけれども、知らずに我を十字架につけたのですから、父よ、どうぞ彼らを赦してやって下さい!
 私どもも始めはイエスが神の子であることを知らなかったのです。そのことを我らの知ったのは、特別の啓示によったのであって、それ以前には我らも彼をとうとまず(イザヤ五三の三)、彼を侮って十字架につけた仲間でありました。イエスのこの祈りは、イエスに敵対したすべての者に対し信仰の門を開き給うたのです。この祈りがなかったなら、我らは自責の念に身をさいなまれて、とうてい彼の十字架を正視するに堪えません。
(三)
 イエスの左右に十字架につけられた強盗の一人は、イエスをそしって「汝はキリストならずや、己と我らとを救え」と言ったが、他の一人はこれをいましめて、「イエスよ、御国に入り給う時、我をおぼえ給え」とお願いしました。それに対してイエスは、
我まことに汝に告ぐ、今日汝は我とともにパラダイスに在るべし。(ルカ二三の四三)
と、お答えになった。パラダイスというのは、創世記の始めに記されてあるエデンの園。水湧き、樹木鬱蒼うっそうとして、中央には生命の樹があり、この荒涼たる髑髏されこうべの丘とは正反対の楽園です。ゴルゴタを去ってパラダイスへ、死を去って生命へ、苦痛を去って歓喜へ。しかも今日ただちに、我と偕に! これが苦痛の中よりイエスに呼びかけた罪人に対する、たちどころのお答えでありました。我らもイエスの十字架に並んで立てられた己が小さき十字架の上から、かくイエスに呼びかけて祈るとき、イエスは同じ答えを我らに与えて、希望を励まして下さるのです。ああ楽しきかな、十字架の上にて聞くこの慰めの御言葉!
(四)
 それから数時間の沈黙の後、天地暗黒の中より
わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給いし。
との悲痛な叫び声が聞えました(マルコ伝に「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」とあるのはアラミ語で、マタイ伝二七の四六に「エリ、エリ」とあるのはヘブル語である)。これは詩編第二十二編第一節の言で、ある人はイエスが第二十二編全編の暗誦あんしょうを始められたのである、と想像しますが、そんな余裕のある場合ではない。イエスは自己の衷情をば、詩編二十二編冒頭の一句をもって言いあらわされたのです。「わが神、わが神、何ぞ我を見棄て給いし」。いかに我を見棄て給うても、汝は依然としてわが神にいます。いかにわが神にいまし給うても、汝は断固として我を見棄て給うた。――これ以上悲痛な言葉が人の口から出たことは、前にも、あとにも、いまだかつてあらざるところであります。ヨブの叫びはこれに近いけれども、しかし神はヨブを罪人と認めて彼を罰し給うたのではありません。彼の義を顕揚し、彼の信仰を鍛錬する恩恵の処置であったのです。しかるにイエスの場合は、神が本当にイエスを罪人として罰し、敵として棄て給うたのです。しかもその義しさにおいてヨブに幾倍するやを知らず、否、質的に全く別人たる神の子イエスを、神は罪人として棄て給うたのです。何のため?
(五)
 いよいよ絶命の期が迫りました。イエスは口中渇を覚えて、
われ渇く。(ヨハネ一九の二八)
と言い給うた。これは肉体的に咽喉のどが渇して、末期まつごの水を求められたのであろうが、またそれだけでなく、
 ああ神よ、鹿の渓水たにみずを慕いあえぐがごとく、わが霊魂も汝を慕い喘ぐなり。わが霊魂は渇けるごとくに神を慕う、活ける神をぞ慕う。
と、詩編第四十二編の始めにある言を連想せられて、神の御顔を見たいという、たましいの渇きを表現せられたのであろう。イエスの心は、すでに御国への敷居をまたいだのです。
(六)
 この御言により兵卒の差し出した酸き葡萄酒を受けて後、イエスは、
おわりぬ。
と言い給うた(ヨハネ一九の三〇)。これは「万事休す」という絶望的の発言ではありません。かえって反対に、「事が成就した」という成功の凱歌であります。飲むべき酒杯を最後の一滴まで余さず飲み干した、というのです。否、イエスのこの世に遣わされた使命を、最後の一点まで忠実に果たした、イエスの全生涯の意味を完全に発揮した、思い残すところはない、という勝利の凱歌であります。
(七)
 マルコ伝には(マタイ伝にも同様)、イエスが最後に大声を出して息絶え給うたとあるだけですが、ルカ伝によれば、
父よ、わが霊を御手にゆだぬ。
と、いうのがその時の御言でありました(二三の四六)。これは詩編第三十一編五節の言です。第三十一編は第二十二編と兄弟分の関係にある詩でありまして、十字架上のイエスを支えたものは、これら平素愛誦の詩編の言でありました。
「ゆだぬ」とは信託するということです。少し散文的プロザイックな例ですが、信託会社に金銭を信託しておくと、会社でそれを利殖して本人に返す、あるいは本人の指定した受益者にその収益を交付します。そのようにイエスは霊魂をば父なる神に信託した。神はイエスの生命を守って、定めた日にこれをイエスに返す。しかも旧の生命のままではなく、その生命を永遠ならしめてイエスにかえし給うた。これは「三日の後」イエスの復活の日に実現せられたことです。それだけではない、イエスを信ずる者はイエスの生命の受益者である。我らはイエスを信ずることによって、彼の永遠の生命にあずかるのです。
 イエスは自分のたましいをば、能動的アクティヴに、みずから進んで神様に御手にゆだねた。取り上げられたのではなく、いやいやしたわけでもない。積極的・能動的な態度をもって、己が生命を神の御手にゆだねたのです。その力強き叫び声は、十字架で死に果てる人の声とはどうしても思えない。百卒長が感動して、「実にこの人は義人なりき」と言ったのも無理でありません。
(八)
 以上が十字架上の七言であります。そのうち始めの三つは人に対する関係についてであります。母と敵と信者、女と男、ユダヤ人と異邦人、すなわちすべての人類、ありとあらゆる人間に対するイエスの愛が、これらの御言からこんこんと湧きあふれて、その広さ深さを汲みつくすよしもない。
 終わりの四つの言葉は、神に対する関係についてであります。棄てられ、渇き、事を成就し、霊をゆだねた。哀訴、渇仰、それから一転して勝利と信頼とであります。父なる神に対するイエスの従順と愛の高さ、大いさを、いかで我らが測りえようか。
 神に対する絶対の信頼と人に対する絶大の愛が、十字架の上から湧きあふれている。こんな大きな奇蹟は世にありません。十字架にかけられた人の唇から、全人類はいたわられ、赦され、救われているのです。心を尽くし精神をこめて神を愛し、また人を愛せられたのが、イエスの生涯でありましたが、その全生涯が最後の十字架上の七言に要約されたのです。人の生涯の意味はその死に現われる。我々もイエスを信ずる者として、イエスのような心をもって死にたいものだ。

三 イエスの十字架の意味



 イエスの十字架は荒野に咲く愛の泉であります。イエスの人類に対する愛は十字架の上からこんこんと湧きあふれている。しかしそれは必ずしも彼が十字架につき給うた理由とはなりません。神に対するイエスの愛も十字架の上から噴泉のように吹き昇っているが、これまた十字架につけられ給うた理由にはなりません。イエスは十字架にかけられてさえ、神と人に対する愛を完了せられました。しかし神が彼を十字架にかけた理由は別に存しなければならない。
 前にもお話したように、イエスの裁判は根本的に処罰の置き違いでありました。大きな人違いであった。しかし神は決して精神錯乱して、この処罰の置き違えをなし給うたのではない。お考えがあってのことです。それによって、「御意を成し」給うたのです。イエスが罰せられて、真の罪人が赦される――人類を救うためには、それしか道がなかったのだ。イエスの十字架は間違いでも、偶然でもない。私ども人類を救うために神の断行し給うた経綸の中心的事実であります。壮大きわまる予定の奥義であります。
 人は律法の行為、すなわち道徳律を守ることによって、神の義に達することはできない。それができると思っているパリサイ人は偽善者です。悔い改めて心の向きを百八十度転回し、全人格的に神の方へ向くことによってのみ、人は救われる。「汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」というのはイエスの最初からの教えでありました(一の一五)。しかるにその悔い改めることすら、人にはできないのです。いくら向きを変えようと思っても、わが袖をつかんで引きとめている勢力があります。それが我らの「罪」であります。私どもには罪を「赦される」こと以外には、義とせられる方法がない。罪を赦されさえすれば、もはや我らの袖を控える勢力もなく、私ども自由の身となって向きを変え、神に向かって生くる者となることができるのです。
 人類の罪を赦すために、神は罪をイエスに負わせ給うのです。イエスの肉にありて、神は人類の罪を徹底的に罰し給うたのです。すなわちイエスの死は人類の罪を贖う死であります。それ以外に、父なる神が義しきイエスを十字架上に棄て給うた理由は解しえられません。イエスは御自身の罪のために死なれたのでは決してない。我々の罪のために死なれたのです。これはイエスの死によって、我々が罪の咎めなしとせられんためである。そう信ずる以外には救いの道がないほど、我々の罪は深いのです。イエスの十字架によって、始めて我らは「罪」のいかに怖ろしいものであるかを知りました。


 イエスの十字架は神が人類を救うためにとり給うた最大の非常手段であった。だからこれに伴って自然界並びに文化の世界に大異変が起こったのも無理でない。時ならぬ三時間の大暗黒は、神の独子イエスの死をいたむために着けた宇宙の喪服でありました。
 さらにイエスが息絶え給うた時刻に、エルサレムの神殿の至聖所に入るカーテンが上から下までまっ二つに裂けた(一五の三八)。これより内は祭司長が年に一度入るだけで、他の者は絶対うかがうを得ざる所とせられたのですが、その幕が二つに裂けたのは、もはや神に近づくに何らの人為的障壁もなく、すべての人が自由に、直接に、神の御許に至りえることを暗示する象徴でありました。神殿の祭司宗教を破壊して、万人の霊的宗教を宣言したる、画期的な宗教改革の原理がここに現わされたのであります。「イエスの十字架を信ずることによって罪が赦される」――実にこれ以上簡単な、しかもこれ以上深遠な救いの原理はありません。
 イエスの十字架の記事を読んで、私どもは自分の小さい苦痛ぐらい忍ばねばならぬと思う。いやな境遇にも信仰をもって堪え、したくなきことにも信仰をもって従事しなければならぬと思う。信仰による従順において、十字架上のイエスは私どもの最大の模範であります。
 イエスの十字架を仰いで、私どもはまた彼の愛の広さ、深さに讚嘆の念を禁ずることができない。私どもまた人を救うために己の一生を犠牲にし、敵を赦して死なねばならぬと思う。イエスの十字架は限りなき人類愛の源泉であります。
 しかしイエスの十字架を仰いで、従順と愛の模範としてこれを讚嘆するにとどまり、自己の罪を自覚せず、したがって十字架による罪の贖いを信ぜざる者はりっぱな紳士淑女であるかもしれないが、基督者キリストしゃではない。イエスの十字架による罪の贖いを信じて悔い改め、かくして新たに生まれたる者が基督者です。イエスの従順と愛とを讚嘆するだけでは、自分自身に従順と愛との力を得ることができません。イエスの模範を仰げばいくらかの感化をそれから受けますが、感化は要するに外からの感染であって内側からの人間の改造ではなく、したがって固有の力の賦与ではない。イエスの十字架による罪の贖いを信じ罪の赦しを受けることによって、始めてイエスのそれと性質をともにする従順と愛とをば、自分のものとして与えられる。すなわちイエスの生命を生命とする者となる。これぞ真の基督者です。
[#改ページ]

第十九章 イエスの復活



一 埋葬


 ユダヤ人の法律では、十字架にかけられた者の屍体したいは、必ずその当日中に埋むべき定めでありました(申命記二一の二三)。ことにイエスのかかり給うた日は準備日、すなわち安息日の前日であり、その夕方から過越節の大安息日が始まるのですから、ぜひとも早く十字架上の不吉な屍体を取り除きたいと、ユダヤ人はあせりました。(一五の四二に「安息日の前の日となりたれば」とあるは「安息日の前の日にてありたれば」と改むべきである。ヨハネ一九の三一参照)
 ここにアリマタヤ町の富める人で、サンヘドリンの議員の中でも身分の高い、ヨセフという人があった。彼は善かつ義なる人で、神の国を待ち望み、イエスの裁判の評議にも判決にも加わらず、実はひそかにイエスの弟子たる者であったが、日の暮れた時意を決して大胆に総督ピラトのもとに往き、イエスの屍体の引取り方を申し出ました(一五の四三。マタイ二七の五七、ルカ二三の五〇、五一、ヨハネ一九の三八)。こうして自分がイエスの同情者たることを明らかにすれば、ユダヤ人から迫害を受けて、自己の社会的地位を失墜するかもしれない。またこのような特別の申し出を総督にするには、たくさんの金を使うことを要したという。だからこれはヨセフとしてはよほどの決心を要した行為でありました。
 ヨセフの願い出を聞いた総督は、イエスははや死んだかといぶかり、百卒長を呼んで事実を確かめてから、その屍体をヨセフに与えました。十字架にかけられた者は普通一日半ないし三日ぐらい生きているそうだが、イエスは朝の九時にかけられて、午後三時にはもう死んでいた。彼は完全に人の罪を負い給うたがゆえに、その死に方も、完全に死んでしまわれたのです。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り下ろしてこれに包み、岩にりたる墓に納め、墓の入口に石を転ばしておいた。マグダラのマリヤとヨセの母マリヤと、イエスを納めた所を見ていました(一五の四四―四七)
 ペテロら弟子たちは、身辺の危険をおそれて、隠れていました。アリマタヤのヨセフのように社会的地位高く、財産のある人で、側近の弟子というよりもむしろ同情者たる立場の者でなければ、かかる場合イエスの埋葬を申し出ることはできない。ヨセフはその地位と財産とを善く用いたのです。また同じく弟子でも、女たちはあまり世間の注意をひかない。屍体の納められた場所を見届けたマグダラのマリヤとヨセの母マリヤは、その女たる身分をよく利用したのです。
 四面嘲弄ちょうろうのうちに死なれたイエスを葬るために、神はこうして二、三の愛の手を備え給うたのでありました。十字架の上にイエスが息絶えるまで、御自身の目をおおい耳をふさいでこらえてい給うた父なる神は、いまやうしおのごとき愛をイエスにそそぎ始めておられたのです。イエスは父の与え給うた杯を、最後の一滴まで完全に飲み干し給うた。これによって彼は地上に遣わされたその使命を完全に果たされたのです。すでに使命が果たされた以上、神はイエスから奪うたものを、倍加してお返しにならぬはずはありません。名誉も、栄光も、しかり生命そのものも。

二 復活の晨



 埋葬の翌日は安息日でありました。ユダヤ人の習慣として、安息日には買物も墓参もできません。その日が暮れて夕方となれば、ユダヤ人の暦では一週のはじめの日が始まります。マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤおよびサロメら、女たちは往きて、イエスにるべき香料を買いととのえ、夜の明けるのを待ちました。アリマタヤのヨセフがイエス様の屍体を十字架から取り下ろして墓に納めたとき、女たちは遠くから見ていただけで、香料を抹って差し上げることもできなかった。それが彼女たちの心残りであったのです。
 翌朝、日の出前、まだほの暗きころ(マタイ二八の一)、この女たちは墓に出かけ、あの入口をふたした大きな石を、誰か私どものために転ばしてくれる人があるでしょうか、と話し合いながら急ぎました。自分に力のないことでも、愛は実行に急がせる。断然行なってみれば、困難は除かれているのです。墓に向かって急いだ女たちは、足よりも目が、目よりも心が、先に行きました。途中からきっと目をそそげば、石はすでに転ばされている。墓に入って見ると、右の方に白き衣を着た若者が坐っていたものだから、びっくり仰天した。若者言う、
 驚くな汝らは十字架につけられ給いしナザレのイエスを尋ぬ。彼はすでに甦りたり。彼はここにいまさず。よ、彼を納めし所を。されど往きて、弟子たちとペテロとに告げよ、「彼は汝らに先だちてガリラヤに往き給う、彼処かしこにてまみゆるを得ん、かつて汝らに言い給いしがごとし」と。(一六の六、七)
 これは言うまでもなく天の使いです。女たちはいたく驚き、こころ身にそわず、おののき震えながら墓より逃げ出しましたが、非常におそれたので、一言をも人に語らなかった(一六の八)


 どうして女たちはそんなに懼れたのであろうか、イエスは復活し給うたというこんな喜ばしい告知を聞いたのに。それはあまりにも思いがけない大きい事実にぶつかったからです。あまりにも大きい喜びにあったからです。非常に冷たい氷に手を触れた時、思わず熱いッと叫ぶ。非常に晴れがましいうれしい席に出て、全身ががたがた震える。これは人の経験して知る事実です。人の現身うつしみは、あまりにも大きい歓喜の原因に堪えかねて、正反対の感覚・感情をもつのです。イエスのむなしい墓に入って、その復活を天使から告げられた女たちが名状すべからざる恐怖に襲われたとの記事ほど、当時の真相を物語るものはありません。イエスの復活をば、その辺に転がってる石ころであるかのごとくに、何らの畏怖なしに平気で口にする人々の信仰は、いかにその言葉だけは幸せであっても、中身は空虚としか思われない。その空虚さは、イエスの出で給うたあとの墓よりもなお空虚だ。(ルカ伝、ヨハネ伝には墓より帰った女たちが「告げた」とあるが(ルカ二四の一〇、ヨハネ二〇の一八)、これは後になってのことであろう。マタイ伝には「女たち懼れと大なる歓喜とをもて、すみやかに墓を去り、弟子たちに知らせんとて走りゆく」(二八の八)とあるが、これもむしろ後日の回想を交じえた記事ではあるまいか)
 しかしその時はいかほど恐怖しても、自分たちの見た事実、聞いた事実がしだいに明確なる意識に上り、それが実は恐怖の原因ではなくて絶大なる歓喜の原因であること、これを恐怖したのは正反対の錯覚であったことに気づいた時、驚愕に青くなった唇にはみるみる喜びのえみが盛り上がり、恐怖に震えた口からは思わず力強い歌声がほとばしり出でるでありましょう。

主はよみがえり給うたぞ、
ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、
若人よ空高く帽をり上げよ、
乙女よ、歌え、なぜ驚いたままでいる?

主は復活し給うたぞ、
ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、
山よ、小山よ、踊れ、房々と、
樹々の黒髪揺りなびかせて。

主はき給うたぞ、
ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、
死と罪と暗とは滅び失せ、
希望の朝風すがすがしい。

 イエスの復活し給うたあした! すばらしい朝が人類の歴史に明けたのです。これは天地創造の時「神光あれと言い給いければ光ありき」(創世記一の三)と記された朝に次いで、第二の創造でありました。しかも第一の創造にまさる新しき生命の創造であります。この生命は、永遠の生命です。
 前に述べたように、イエスの十字架は処罰の置き違いでありました。その置き違いを、も一度置き直されたのがイエスの復活です。これで万事は正当の秩序に復しました。しかのみならずイエスが墓の中にあった足かけ三日の間に、世界の秩序は全然前と異なった新しい光を帯びたのです。死はイエスを滅ぼすことによって滅ぼされ、罪はイエスを殺すことによって殺された。罪も死も、イエスを墓に押し込めておくことができなかった。イエスが墓より復活し給うたことによって、死と罪の力は全く惨敗を喫したのです。
 イエスは我らの罪のため十字架にかけられて死に給うた。イエスの十字架を信ずるとは、そこにかけられているものは我ら自身の罪であることを信ずるのです。罪は罰せられねばなりません。これは神のただしき秩序です。しかし罪を罰するというだけのことならば、イエスでなく我ら自身を十字架にかけるのが、至当でありましょう。ただし我らは十字架にかけられたらば、それでおしまいです。罪の圧力をはね返すことはできない。罰せられたまま永久に滅ぶだけです。
 しかるにイエスは義しき神の子であるから、我らの罪を負うて死に給うたけれども、御自身は罪の罰としての死を味わうべき人ではない。すなわち彼は罪と死との圧力をはね返すことのできる唯一の人でありました。イエスにこの復活の実力あるゆえに、神は彼を選んで我らの罪を負わせ、我らに代わって十字架上に死なせ給うたのです。
 イエスの復活によって罪と死とは人を刺すとげを抜かれ、人を滅ぼす力を奪われた。しかもその罪とはイエス御自身のものではなく――彼には罪あることなし――我らの罪です。イエスの復活を信ずる者は、これによりて我らの罪が無力化せられたことを信ずるのです。そしてイエスを信ずることによって我らの罪を赦され、罪の束縛より解放せられて、我らもまた復活せしめられるのです。
 イエスの十字架は我らの罪の証拠であり、イエスの復活は我らの罪の赦された証拠であります。
 主は我らの罪のためにわたされ、我らの義とせられんために甦らせられ給えるなり。(ロマ四の二五)
と、パウロの言っているのもこれです。我らの救いのために計り給うた神の経綸は、なんと大きく、義しく、かつ愛に満ちていることだろう! 諸君よ、イエスの十字架と復活とを信ずる以上、もう恐れること、悲しむことをやめよう! あわてることも、あせることもない。罪よ、どんなに我らを責めてもよい。死よ、いかに我らをおびやかしてもよい。イエスは神に立てられて、我らの義と聖と救贖あがないとになり給うたのだ。もはやキリスト・イエスにある神の愛から、我らを離れしむるものは何もないのだ。

三 追加


 マルコ伝一六の九以下は最も古い写本にないから、本来マルコ伝の一部ではなく、後の人の記したものをばマルコ伝の結びとして添付したのである、と学者の説が一致している。そしてこれはアリスチオン(もしくはアリストン)という人が、紀元七五―九〇年の間に書いたものであろうと、見られている。
 また一六の九以下の代わりに、別の結語を添えた写本もある。その語は、
 彼らはそのすべて命ぜられしことをペテロおよびこれとともにある者に言短く告げたり。しかしてこれらのことの後イエスみずからまた彼らに顕われ給い、東より西に至るまで、彼らによりてきよくかつ朽ちざる永遠の救いを宣べ伝えしめ給えり。
というのである。学者はこれを「短き結び」といい、現在のマルコ伝一六の九以下を「長き結び」と呼んでいる。
 かくのごとき結語がマルコ伝に追加せられた理由は、一六の八にてマルコ伝が終るとすれば、尻切れ蜻蛉とんぼの感がある。元来マルコの書いたものにはおそらくその続きがあったのであろうが、何かの理由でそれが早く失われたものであろう、そしてこれに代わるものとして、復活後のイエスの地上における行動を書き添えて、イエス伝を完備せしめたものであろうと、このように学者は想像する。
 しかし私は、マルコ伝は始めから一六の八をもって終わっており、その続きはなかったものとみる説に賛成する。その続きがあったものと想像する学者が、その部分の失われた理由として考えるところは次の二つである。
 1 紛失説。何か偶然のことで紛失したのであろうという。しかしその部分について何らの断片も残存せざるのみならず、始めあったものが紛失したことを暗示する何らの言い伝えも残っていない。偶然を理由とする説明は、常に最も容易な説明であるが、最も信用はできない。
 2 抹殺説。始めあった結びの部分は、その内容が弟子たち、ことにペテロにとりて不面目な記事であったから、初代教会において使徒の権威を維持するため、早く抹殺したのであろうと想像する。これまた何ら根拠なき想像説である。ペテロ始め弟子たちの不面目は単にその部分だけでなく、マルコ伝全体にわたって多く記されているのである。かつ使徒たちが自己の体面を維持するため、自己に不利益なる記事を抹殺するなどは、キリストの福音の根本性質より見てとうてい首肯し難き想像である。恥辱と不面目との塊たる罪人がイエスによりて救われるというのが、使徒たちの伝えた福音の真髄でないか。
 以上のごとく、マルコ伝に元来一六の八に続く結びがあった、と想像する説は採用し難いところである。しからば始めから一六の八をもって終わったものと見るには、いかなる積極的根拠があるであろうか。
 すでに見たように、マルコ伝の特徴は次の点にある。
 一 人としてのイエスの生涯を事実に即して書き記すこと。
 イエスは神の子であるとの神学的断定に基づいて、演繹的えんえきてきに彼の生涯および教訓を説明するという態度でなく、かえって反対に、イエスの生涯に現われたる彼の人格の愛と真実とを見て、彼を神の子なりと信ぜしめるのがマルコ伝の目的である。「汝はキリストなり」と告白したカイザリヤ・ピリポのペテロ(八の二九)、または「実にこの人は神の子なりき」と認めた十字架の下の百卒長(一五の三九)は、マルコ伝読者の声を代表するものである。
 二 イエスの伝道生涯のみを記すこと。
 すなわちヨルダン川にて洗礼者ヨハネのバプテスマを受け給うたことから筆を起こして、墓のむなしくあったことに終わっている。一方においては洗礼以前の少年時代のこと、誕生のこと、他方においては復活後のことについては、全く触れていないのである。四福音書中、イエスの生涯になし給うた奇蹟を記録するところ最も多きマルコ伝は(その記事十八回に上る)、イエスの出生に関する奇蹟、並びに復活後の奇蹟については全く書き記していない。イエスが神の子たることの証明をば、彼が奇蹟的に処女より生まれたとか、もしくは復活後誰々に顕われ給うてどうした、とかいう神秘的事実に求めず、人の子としての彼の人格の真実と愛とに求めたのである。外側の事実に求めず、内側の事実、すなわち真実なる人格に求めたのである。奇蹟に求めずして、生涯に求めたのである。イエスの奇蹟を最も重んずるマルコ伝は、奇蹟のイエスについてほとんど全く触れない。すなわち人間離れのした、神秘的記事がほとんどない。マルコの描いたイエスはあくまで活きた人であって、偶像化せらるる要素がほとんどないのである。これはマルコ伝が常識の発達したローマ人の読者のために記されたところの、事実に即したイエス伝なるがゆえである。もし復活後のイエスの行動についての叙述がなきことをもってマルコ伝を尻切れ蜻蛉というならば、出生や少年時代についての記事を全く欠くマルコ伝は、また頭のない蜻蛉と言わねばなるまい。一の二をもって始まったマルコ伝の本文は、十六の八において、マルコ伝らしくりっぱに完結しているのである。

付 イエスの復活の記事について


 イエスの復活の記事は四福音書のほかに、使徒行伝およびコリント前書にある。一つの事件が数人によりて報告せらるる時、個々の細部に至っては叙述の一致せざることが常であり、この不一致はその事件そのものを否定する材料ではなく、かえってそれが事実であって作り話でなき証拠である。このことは、すでに幾度も注意したところである。ことに復活のごとき大事件の記述が、報告者によって一致せざる点あるは怪しむに足りない。今、復活後イエスが顕われ給うた記事について、上述の諸書を比較してみよう。
 一 マルコ伝では、イエスは復活し給うた、そしてガリラヤにて弟子たちに、特にペテロに顕われ給うであろう、と天使が告げた、という記事にて筆をいてある。実際どこで、何人に、いかように顕われたという記録はない。
 二 マルコ伝追加(一六の九以下)では、(1)まずマグダラのマリヤに、(2)次にエマオに行く二人の弟子に、(3)次にエルサレムにて十一弟子の食しおる時に、顕われ給い、エルサレムにて昇天せられた、とある。
 三 マタイ伝では、(1)まずマグダラのマリヤら女たちにエルサレムにて、(2)次に十一弟子にガリラヤにて顕われ給うた(二八の九、一六以下)
 四 ルカ伝では、(1)エマオに行く二人の弟子に、(2)次いでエルサレムにて十一弟子に顕われ、ベタニヤにて昇天し給うた、と記されてある(二四の一二―一五、三三―三六、五〇、五一)
 五 ヨハネ伝では、(1)マグダラのマリヤに、(2)エルサレムにてトマスを除く弟子たちに、(3)同じくトマスも偕にいたとき、(4)ガリラヤにてペテロらに、顕われ給うた(二〇の一四以下、二一の一以下)
 六 使徒行伝には、復活後四十日の間しばしば弟子たちに顕われ給うた、と包括的に記されてある(一の三)
 七 コリント前書には、(1)ペテロ、(2)十二弟子、(3)五百人以上の兄弟、(4)ヤコブ、(5)すべての使徒、(6)パウロ自身、の順に顕われ給うた、とある(一五の五―八)
 使徒行伝の包括的記事を見れば、以上のほかにもまだイエスが復活後顕われ給うたことがあるかもしれない。
 右の諸記録を比較して注意をひく点は、マグダラのマリヤら女たちに顕われ給うた記事がコリント前書にないことである。以上の文献のうちコリント前書は年代最も早く書かれたものであり、それを書いたパウロは記述の論理的な学者であるから、彼がマグダラのマリヤについて記していないことは、著しく我らの注意をひく。女たちであるからその証言を軽んじて、故意にこれを記載しなかったのであろうか。福音の救いは自由人にも奴隷にも、男にも女にも区別なきことを力説したパウロが、そういうことをするとは考えられない。あるいは彼はマリヤたちの証言を知らなかったのであろうか。しかしこの有名な話が、パウロの耳に入らなかったと考えることにも無理がある。あるいはマリヤに顕われ給うたということは、コリント前書執筆の年代以後になって、人に知られてきた事実であるかもしれない。いずれにしてもパウロは復活の信仰を、マグダラのマリヤの証言の上には立てなかったのである。これはイエスの復活を信ぜざる者が、復活の信仰はマグダラのマリヤの証言に基づくという前提の下に、マリヤは女で、しかもヒステリテー質の女であるから、自己の幻想ハルシネーションによりて復活のイエスに会ったかのごとき錯覚を起こし、その錯覚が弟子たちの間に群衆心理的に波及してついに復活の信仰を生じたものであろう、と説明する想像説の論拠を粉砕するに足るものである。
 第二に注意すべきは、福音書中最も年代の早いマルコ伝に、イエスの復活は天使の告知として記されているのみであって、復活の事実については一言もせられていない。事実としては、墓がむなしくあったことだけである。これに関して、復活を否定する諸説がある。いわく、マグダラのマリヤたちは墓を間違えたのであろうと。しかし仮にマリヤが間違えたとしても、アリマタヤのヨセフは確かに記憶していたであろうし、またもし墓を間違えたのなら、ユダヤ人たちはイエスの墓をさし示して当時すでに復活を否定しえたはずである。あるいはいわく、イエスは十字架から下ろされた時仮死の状態であり墓の中にて息を吹き返していずこかへ去られたのであろうと。しかしこれも根拠なき想像説であって、総督ピラトはイエスの死を十分確認した上で、その屍体をアリマタヤのヨセフに与えたのであった(マルコ一五の四四。ヨハネ一九の三三―三五参照)。また弟子たちが夜ひそかにイエスの屍体を奪い去ったのであるとは、当時すでにユダヤ人の間に流布るふされた風説であったが(マタイ二八の一一―一五)、総督や祭司長の権力をもってすれば、風説だけですまさず、何か屍体の行方をつきとめることができたであろう。かつかかる偽計の上に弟子たちの力強き福音の説明がなされたとは、とうてい信じ難きところである。ペテロら弟子たちには多くの欠点があったが、彼らは正直なる、誠実の性格の持ち主であって、かかる性質の作り事を企むごとき狡猾こうかつな人物では決してなかった。かくして見れば、イエスの墓の虚しかったことを疑うべき理由はいずれも成立たず、むしろこれを事実と認むることが簡明である。しからばイエスはどうなったであろうか。「彼はすでに甦りたり」、これが天使の告知であった。すなわち啓示による霊感であった。そしてマグダラのマリヤはこれを信じたのである。
 復活し給うたイエスに会ったから、その事実に基づいて彼の復活を信ずる、というのであるか。トマスは「その手に釘の痕を見、わが指を釘の痕にさし入れ、わが手をその脇にさし入るるにあらずば信ぜじ」と言った。後イエスは彼に顕われて、「汝の指をここに伸べて、わが手を見よ、汝の手をのべてわが脇にさし入れよ、信ぜぬ者とならで信ずる者となれ」と言い給うた、と記される(ヨハネ二〇の二四―二七)。復活体は臨終の時の身体的条件のままに復活するものと考えることは不可能であり、また「汝の手をのべて、わが脇にさし入れよ」というごとき、含みの乏しき露骨なる物の言い方は、平生のイエスらしくない。イエスが教え給うたのは、「汝我を見しによりて信じたり。見ずして信ずる者は幸福なり」ということである(同二九)。信仰がなければ見ても信ずるを得ず、信仰あれば見ずとも信ずることができる。見たから信ずるのではなく、信ずるから見るのである。復活の信仰はイエスの奇蹟的復活の事実に基づくものではなく、真実と愛とに満ちたイエスの奇蹟的人格の事実に基づくものである。この意味においてマルコ伝は偉大なる信仰をもって、信仰的に結ばれているものと言わねばならない。この信仰に基づいてマルコは自己のイエス伝の巻頭に、「神の子イエス・キリストの福音の始め」(一の一)という見出しを付けたのである。
 イエスの出生についても同様に考えうる。彼が奇蹟的出生をなしたがゆえに彼は神の子であるのではない。彼は神の子たる真実と愛の人格であるがゆえに、奇蹟的出生もまた不可能でないのである。奇蹟的出生の話は英雄高僧についてしばしば伝えられるところであって、それだけの話ではその人が神の子たることの証明にならず、あるいは宗教的「有難屋」の伝説的言い伝えであるかもしれないのである。仮にイエスの出生が自然的懐胎であったとしても、また仮に復活体のイエスを何人も肉眼をもって見なかったとしても、我らがイエスを神の子と信ずる信仰はごうも動揺するものではない。迷信に誘われやすき無学の善男善女のみならばいざ知らず、学問と常識とに富む多くの勝れたる頭脳がイエスの復活を信ずるは、彼の復活力を信ずるがゆえである。すなわち彼の救いを信ずるがゆえである。
 イエスの復活を信ずる信仰によりて、古来今日にいたるまでいかに多くの弱き者が強くせられ、絶望せる者に希望が与えられたことであろう。イエスの生前において、多くの無知無力を暴露して先生に御心配をかけていたペテロら弟子たちが、イエスの死後いかに毅然たる力と明知とをもって、イエスの福音の証明にあたったか、全く別人の感がある。イエスの復活を信仰せざる合理主義のキリスト教にては、決してこの世のものならぬ力と知恵とを受けることはできない。復活の奇蹟を信ずる信仰にして、始めて天来の力と知恵、換言すれば奇蹟的なる力と知恵を与えられ、ここに新しき人が生まれるのである。
 イエスの復活を証明するものは、第一に、イエスの神の子たる真実の人格である。第二に、イエスの復活の記事を残したる使徒たちの誠実なる人格と、その記事を含む聖書の真実性である。第三に、イエスの復活を信ずる者がその信仰によりて得たる人格的生まれかわりである、新生である。





底本:「イエス伝 マルコ伝による」角川文庫、角川書店
   1999(平成11)年8月25日初版発行
底本の親本:「イエス伝」角川選書、角川書店
   1968(昭和43)年12月20日初版発行
初出:「イエス伝講話」嘉信文庫、嘉信社
   1940(昭和15)年6月
※「鶏」と「※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)」、「預告」と「予告」、「預言」と「予言」、「ホセア」と「ホセヤ」の混在は、底本通りです。
※聖書の引用は「旧新約聖書」米国聖書協会、1914(大正3)年1月発行によります。
※誤植を疑った「(六の二二―二五)」を、親本の表記にそって、あらためました。
※誤植を疑った「エリアだ」「(ヘルプ一一の一)」「「住き」」を、親本の親本「聖書講義第一巻」角川書店、1948(昭和23)年11月20日初版発行の表記にそって、あらためました。
入力:kompass
校正:officeshema
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

無気記号付きΑ、U+1F08    302-10
有気記号付きο、U+1F41    302-10
鋭アクセント付きη、U+1F75    302-10


●図書カード