言語と文化史

――アイヌ文化の探究にあたりて――

知里真志保




 私は昨年の秋、当地に開かれた文化講座において、アイヌ民族は北方から渡来した民族であり、その渡来の経路は恐らくカムチャツカ方面から千島列島を南下して北海道へ渡り、その一分派は太平洋沿岸を南下して釧路、十勝の浜伝いにエリモの崎を越えて日高のシズナイの辺まで進み、また他の一派はオホーツク海に沿うて北上し、宗谷から一つの分派を樺太に送り、他の一分派は日本海沿岸を南下して、ユーラップ、オシャマンベの辺で二つに分かれ、一つの分派は函館の方へ行って津軽海峡を渡り、東北地方を占拠し、また他の分派はオシャマンベから噴火湾に沿うて南下し、室蘭から幌別、白老を通って太平洋岸を東進し、日高のシズナイの辺まで行って、あそこで十勝の方から西進してきた一派と衝突し、そこからサル川沿いに奥地にはいったのが今の日高のサル地方のアイヌで、このように一応北海道の各地の海岸に定着したアイヌが、そこから石狩川とか十勝川とか沙流川とか、大きな川をさかのぼって次第に北海道の内陸に占拠するようになったのが、現在われわれが見るアイヌの分布状態であるということを、主として言語研究の立場から私は説いてみたのであります。そこで、今回は前回のテーマに関連して、アイヌ文化の海洋性ということを説いてみたいと思うのであります。
 海の民族として最も重要なものの一つは舟でありましょう。アイヌは日本古代の万葉人が「大船にまかぢしじぬき」と言ったような大きな船をペンチャイとかロクンテウとか言いますが、これはその名称が示すとおり、日本の船であってアイヌ固有の舟ではありません。アイヌ固有の舟といたしましては丸木舟であります。これにわき板のついたのがモチ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)とか、イタオマチ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)とかいうもので、そのわき板のない、いわゆる「たななし小舟」に当るものがチ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)で、これが近代におけるアイヌ生活における最も普通の舟であったようであります。この他にヤッチ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)といって山狩の獲物が多かった際、臨時に大木の皮を剥いで両端を折り畳んで舟型にし、木皮の紐で綴り、木の枝で補強したものを石狩川などでは用いていました。
 この作り方に暗示を与えたろうと思われるのは皮舟、すなわちトントチ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)であります。これは北海道アイヌが実際に用いたという現実の証拠は見当りませんが、北海道各地の古い説話の中に出てくるものであります。たとえばそれが昔話の中には鬼の宝物となっていて、畳んでいたのをひろげて海に浮かべると千里を走る、などと伝えられているのであります。千島のアイヌはこれを現実に知っていたらしいことが古く文献に見えております。辺要分界図考という本に、ラッコ島の夷人(たぶんアレウトかと思いますが)キモヘイという者がウルップ島へきて、その本国の舟を作った。その作り方は「舟をトドの皮にて張り、袋の如くこしらえ、中には木の骨を入れ、夷人一人乗って、袋の口をしめきり、水のはいらぬようにし、かいにて左右へかき走り、陸へ上れば骨を去り、皮は畳みおく」というのであります。それをウルップ島のアイヌがトンドチプといったとあります。またクナシリ島の酋長ツキノイが「クルムセの舟は皮袋のようで、鳥の浮かぶのに同じだ」といったとも書いてあります。
 さて、現在アイヌ生活においては、陸上でも極めてしばしばこの舟の幻影が動いているのであります。その一つの例が、赤児を乗せてあやすゆりかごです。アイヌは木で造った橇のようなものを紐で天井からつり下げて、それに赤児を仰向けに寝せて揺り動かすのであります。それを揺り動かしながら、
ねんねのお舟が降りたぞ降りたぞホーチ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)、ホーチ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)
などと唄うのでありますが、このホーチ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)、ホーチ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)という掛け声は実はすなわち「それ漕げ、やれ漕げ」の意味でありまして、もともとアイヌの舟唄のはやしだったのであります。アイヌの子供の遊戯にホーチポというのがあります。屋内で子供が向かい合って坐り、互に足をのばして足の裏を合わせ、両手を引っぱり合いながら、
ホーチポ ホーチポ たかまの根もと
 キリリツ、キリリツと唄いながら、体を前後に倒したり起こしたりする。それはもともと舟をこぐ時の所作が子供世界に遊戯化して残ったのであります。そのホーチポ、ホーチポという掛け声がやはり「それ漕げ、やれ漕げ」という意味の舟唄のはやしだったのであります。すなわちアイヌのゆりかご、アイヌ語でシンタと称するこのゆりかごは、アイヌの観念においては舟であったことがわかるのであります。
 このゆりかごが叙事詩の中では更に空想化されて、空飛ぶ乗物、文字どおりの航空船になり、神々がこれに乗って大空を自由に往来するように述べられており、樺太の叙事詩ではそれを特にサランペポンチピ(絹製の小舟)と申しておりますので、いよいよそれに対するアイヌの考え方というものがはっきりしてまいります。
 樺太アイヌの冬の交通運搬具に有名な犬橇があります。橇台に犬を装備したものをヌソと申しますが、これはギリヤーク語からはいったことばであります。この橇台だけ、犬をはずしたあとの橇台だけをアイヌはシケニといいますが、それは「荷物を背負う木」という意味で、北海道では背負いはしごにいう名称であります。そしてその橇台は先ほど申したシンタ、すなわちゆりかごと同じ形のものであって、しかもアイヌはそれをやはり舟と考えていたのであります。
 犬橇で物を運ぶことをアイヌ語ではイクサと申しますが、イクサは本来舟で向う岸へ物を渡すことであります。この犬橇に荷物を積んで、その上に魚皮でつくった覆いをかぶせますが、その覆いをイクサカヤと申します。イクサは前申しましたとおり舟で物を運ぶこと、カヤは一般に帆の意味に用いられる語であります。すなわちアイヌは犬橇に物を積んで走らせるのを、あたかも舟に帆をかけて走らせるような気でいることが知れるのであります。
 アイヌが食べ物を入れる木鉢をニマと申します。まん丸い形の物から、四角いもの、細長い舟型のものなど、用途によっていろいろありますが、恐らく舟型のものが、もとの形であったでありましょう。なぜなら、ニマという語は、たぶんニマムという語からきたのであり、そのニマムは舟を意味する古い語であります。樺太で魚の汁などを入れて飲むニバポというおわんがあります。これもニマムすなわち舟から出た語であります。ホリマという食器もありますが、これもオホニマすなわち「深い舟」の意味であります。お汁のことをルルと申します。このルルが実は海水のことであります。すなわちもとは海水を使って煮炊きしたことがわかるのであります。
 アイヌの家の中にはいりますと、室の中央に焚火して物を煮炊きする大きな炉が切ってあります。この炉においてアイヌは海辺の生活を意識しております。それはこの炉の中心部のあかあかと火の燃えている辺りを沖と名づけ、まわりの炉ぶちに接した辺を岸と名づけていることで知れるのであります。叙事詩の中で、炉ばたに坐っている人に何か心の屈託があって、それを言い出そうとしてはちゅうちょしているさまを形容するのに、いつも出てくる文句は「岸なる灰を沖へかきやり、沖なる灰を岸へかきよせ、そのあいまあいまを突きながらかきまぜながら」というのであります。また炉ぶちをイヌンペと申しますが、これは「漁獲するもの」という意味で、炉の中で焼いた物をこの上にとり上げたりするのを、炉物が網を引いて獲物をもうけるのかのごとくいいなしたものであります。
 アイヌが海の民族であったことは、また叙事詩の中に出てくる種々の慣用句の中にもあらわれていて、たとえば傷ついてもがき苦しむことを釣り上げられた魚の断末魔のもがきはためくごとに譬えたり、急に引き返すことを「魚の身をひるがえすにさも似たり」と形容したり、われわれなら「まっこう唐竹割りに切り下げる」というべきところを「魚を背割りするがごとく」と言ったり、われわれなら「青菜に塩」というべきところに「永く水に漬けておいたこんぶのように」といったり、とにかく海民の生活からでなければ生れてこないような多くの慣用句をもっているのであります。
 このように、彼等アイヌの生活を見つめていると、いつもその奥にちらつくのは海の民族の幻影であります。熊祭のような山間の行事の中に在ってさえも、かつては海の民であった彼等の面影がうかがわれるのであります。たとえばその際に必ず用いる花矢のチロシというのがやはり海の魚であって、それが花矢というものに変化して行っているのであります。
 アイヌはもともと遙か北方の寒い地方に住みなれた民族であった。前にも話したとおり、アイヌは氷のことをル※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)という。これは北海道でも樺太でも千島でもそう申したのであって、つまり彼等が北海道、樺太、千島と別れて住む以前から、すなわちずいぶん古い時代から、そういっていたと考えられます。このル※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)は実はすなわち「とけるもの」という意味で、これによって彼等は氷をノーマルなスタンダードな状態と考えていたことが明らかになるし、氷をノーマルな状態と考えることは、彼等が永く酷寒の地に住みなれて、北方人の心になりきっていたことを示すものであります。
 彼等の言語の構造の上にも特徴が見られる。その一例として母音調和の問題をとりあげることができる。母音調和の現象はウラル、アルタイ語族の特徴の一つとして有名な音韻現象でありますが、これはいわゆる古アジア族のチュクチやカムチャルダールの言語にもあり、またアメリカンインデアンの中にもあるのであります。そしてアイヌ語には従来ないと断定されていたのでありますが、実はそれが整然たる体系をなしてアイヌ語にも存在するのであります。こういう技術的なことをこの席で詳細に説明することはさし控えたいと思いますが、とにかく北方の諸言語に普遍的な母音調の現象が、アイヌ語にも厳存するということは、注目すべき事実でなければなるまいと存じます。
 とにかく彼等は悠久な昔、遠い北の国からはるばる海を渡って今居る島々へやってきた。もちろん一度にやってきたのではなく、何回も小群に分かれて次から次とやって来たのでありましょう。そして今居る島々の海辺の川口に住みついた。そして徐々に川をのぼって奥地へ進出して行ったと考えられるのであります。
 アイヌ語の叙事詩で「ずっと山奥に」という意味を表わすのに「見える山と見えない山との中間に」というふうに表現します。見える山は近い山で、見えない山は遠い山ですが、この表現は海岸に住む者の生活から生れたことはたしかであります。
 アイヌ語の地名にシノマンペッ「はるか山奥へはいって行く川」とか、リコマペッ「ずっと高い所へ行く川」とか、ホロカナイ「さかのぼって行って途中で一たん引きかえす川」とかいう類の地名があります。これは海岸を生活の本拠として、そこから川ぞいに山入りした古俗の反映であります。われわれなら川は海へ注ぐものと考える時、アイヌは反対に山へ行くものと考えているのであります。だから水源をペラトカと言いますが、それは「川の行く先」の意味であります。
 アイヌには文字が無かった。従って歴史もない、などとよく言われます。けれども彼等の言語こそ文字にまさる歴史ではないでしょうか。文字にまさると言ったのは、筆は時に事実をゆがめて伝えがちでありますが、言語は全くありのままを伝えるからであります。いわゆる語るにおちるからであります。アイヌ民族の歴史の秘密を解こうとする時、アイヌ語の研究こそそれを解く最も貴重なかぎであると言いたいのであります。
〈『北海道先史学十二講』北方書院 昭和24年11月〉





底本:「和人は舟を食う」北海道出版企画センター
   2000(平成12)年6月9日発行
初出:「北海道先史学十二講」北方書院
   1949(昭和24)年11月
※底本は横組みです。
入力:川山隆
校正:雪森
2013年5月14日作成
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