アイヌ語学

知里真志保




 アイヌ語の研究にかけては、世界的な権威として、その名声をうたわれているジョン・バチラー博士が、アイヌ語で説教をして、アイヌを感心させたという話が伝えられております。明治の中頃、といえば、アイヌがまだアイヌ語を使って暮らしていた時代なのでありますが、北海道の南の方の、とあるアイヌ部落に、当時まだ非常に若く、新進気鋭の牧師であられたバチラー博士があらわれて、部落のアイヌを集めて、キリスト教について、アイヌ語で説教を致しました。滔々と何時間か、アイヌ語でペラペラと説教をするのを、ポカンと口を開いたまま、呆気にとられて聞いていたアイヌたちは、博士の長い長いアイヌ語の説教が終ると、感嘆していったということであります。――「えらいもんだな。さすがに、なたやすを使ってものを食う先生だけあって、あのアイヌ語のうまいこと!ただ惜しいことには、北の方のアイヌ語でしゃべったので、何をいったんだかちっとも分らなかった」といったというのです。そのバチラー博士が、今度は北の方の部落に現われ、やはり滔々とアイヌ語で説教しますと、そこのアイヌも、びっくりして、――「えらいもんだな。さすがに、ものを食うにも鉈と槍を使って食う先生だけあって、あのアイヌ語の上手なこと!ただ惜しいことには、南の方のアイヌ語でしゃべったので、何をいったんだか、さっぱり分らなかった……」、といったということであります。
 この話は、非常によくできておりますのであるいは作り話かも知れません。その真疑のほどは保証の限りではありませんが、バチラー先生は、キリスト教の聖書や祈祷書や讃美歌の類をたくさんアイヌ語に翻訳したものを残しております。たいてい今から60年ばかり前に書かれたものなのですが、それらの本を今開いて見ますと、チンプンカンプンで、さっぱり分らない。たしかに、書いているのはアイヌ語だということは分るのでありますが、さて何を書いているのか、という段になりますとさっぱり分らないのであります。アイヌが読んでも分らないアイヌ語で書いてあるという点で、これは誠に天下の珍本たるを失わないものなのであります。このアイヌ語の聖書など、今は古本屋の相場で、一冊何千円の高価を呼んでおりまして、米の飯と同じく、貧乏人にはちょっとつき合えないシロモノになっております。今いった通り、アイヌも分らないアイヌ語で書いてあるという、天下の珍本なのでありますから値の張るのも無理のないことだと考えております。バチラー先生の学問的なお仕事として有名なものに、アイヌ語の文法と辞書があります。バチラー先生が初めてアイヌ文典を公にされたのは、遠く明治20年にさかのぼるのでありますが、それが初めて『日本帝国大学紀要第一』に載ったときには、当時東大の教授として言語学の王座を占めていたバジル・ホール・チェンバレン教授が、非常に感激して絶讃の辞を与え自分が北海道各地のアイヌについて親しく研究した結果からみて、バチラーの観察は全面的に正しい、といって、極力提灯を持つことに努めているのであります。この文典は、それに語彙をくっつけて、後に有名なバチラーの辞書になったのですが、その第一版が出たのは明治22年、第二版が出たのはそれから16年たった明治38年でありました。その第一版については、これもアイヌ語学の権威として世界的に有名な金田一京助博士が、「一冊の本でアイヌ語の文法と、大約二万のアイヌ語を知る重宝なもの」といわれ、同じくその二版については、「改版ごとに必ず改訂せずにおかれない老先生の、孜々として倦まれざる態度は畏敬に値する」といって、大いに推奨しておられるのであります。こうしてバチラー博士の辞書は、斯界の権威者たちのたたく景気の好い太鼓の音に送られて、賑々しく学界に船出して以来、順風満帆、手痛い批判の嵐に遭遇することもなく、大正15年には増補改訂第三版を出し、さらに昭和14年には第四版を世に送って、今や世界最高の権威書として、いやしくもアイヌ語についてものをいおうとする者の必ず参照すべき典拠となっているのであります。世間では、その著名の名声の世界的であることと、その著書の外観の堂々たることに眩惑されて、もはや誰一人としてその権威を疑う者はないのであります。ところが、実際にそれを使ってアイヌ研究をしてみると、これぐらいまた役に立たない文法や辞書も珍しいのであります。聞いて極楽見て地獄というか、幽霊の正体見たり枯尾花というか、およそ世に辞書という辞書、文法という文法は多いけれども、これぐらいに役に立たない文法や辞書は、稀なのではないかと思います。そういう意味で、これまた、珍本中の珍本たることを失わないのであります。この辞書も今は絶版になって、その第四版は古本屋の相場で万に近い高値を呼んでいるのでありまして、これも米の飯と同じく、貧乏人の学者などには、ちょっと手の出せないシロモノになっております。今申した通り、アイヌ語の辞書や文法でありながら、アイヌ語の研究にちっとも役に立たないという珍本なのでありますから、千金、万金に値するのにも、まことに無理のない話だとあきらめている次第であります。ところで、このような役に立たない辞書を大いに役に立てているのが、今申した古本屋なのでありますが、それにも負けず劣らず、これを大いに役に立てているのが、世に多いアイヌ語の地名研究家であります。アイヌ語の研究などは、世に顧みられない淋しい道なのでありますが、同じくこのアイヌ語研究の部門に属しながら多くの研究家とファンを抱えて、いつも賑やかに店先の繁昌しているのが、この地名研究の部門であります。そこでは、アイヌ語の単語の意味もろくに知らず、アイヌ語の文法のブの字も分らないような人々が、バチラーさんの辞書と永田方正さんの『北海道蝦夷語地名解』を唯一の虎の巻として、アイヌ語のカムイは神様の意味で、コタンは村だから、カムイコタンは、神様の住む美しい里だなどと、まるでエデンの園を思わせるような解釈をぶっているのであります。しかし、アイヌ語のカムイは古くは悪魔の意味ですから、カムイコタンというのは、実は「悪魔のいるおそろしい場所」の意味なのであります。アイヌ語の地名に一番多くでてくる形容詞のポロなども、バチラーさんの辞書には「大きい」としか書いていない。それで、「ポロ・トー」などの地名があれば、「ポロ」は大きいという意味だし、「トー」は沼という意味だから、ポロトーは大きい沼だ、などという解釈をして疑わないのであります。「ポン・トー」などという地名についても、やはりバチラーさんの辞書や、永田さんの地名解に従って、「小さい、沼」というふうに解釈して、ちっとも疑おうとしない。ところが、古くさかのぼれば[#「さかのぼれば」は底本では「さかのばれば」]、ポロは「親の」という意味であり、ポンは「子の」という意味であります。古い時代のアイヌは、アニミズムといって、山でも川でも沼でも人間同様に考えて、大小二つの沼が並んでいれば、それを親子連れと考えて「親の沼」「子の沼」と呼んだのであります。だから、大沼公園なども、本当は「親沼公園」と訳さなければならなかったのでありますが、地名研究がまだ幼稚で、親の状態にまで達していなかったために、今のような名を頂戴しているわけなのであります。アイヌ語の文法や語彙の研究は、バチラーさんの辞書によって基礎を据えられたのであります。またアイヌ語の地名や研究については、開拓者として、バチラーさんと並んで、永田方正さんの功績も、まことに偉大なものがあるのであります。ことに永田方正さんは、明治16年に北海小文典という名で、アイヌ語の文法の本を函館県から出版しております。バチラーさんの最初の文法よりも4年も早く世に出ているわけで、その点永田方正さんこそ、アイヌ語の開拓者としての名誉を担うべき人なのであります。バチラーさんにしても、永田方正さんにしても、開拓者としての功績はまことに偉大なものがあるのでありますが、進んだ今のアイヌ語学の目から見れば、もうその人たちの著書は、欠陥だらけで、満身創痍、辛うじて余喘を保っているにすぎない程度のものなのであります。それが今だに世界的権威として、大手を振って学界をまかり通るところに、アイヌ語学界が全体として、まだまだ事始めの状態を抜け切っていないということを痛感させられるのであります。(昭和28年5月27日放送)
〈『北海道事始め』楡書房 昭和31年2月〉





底本:「和人は舟を食う」北海道出版企画センター
   2000(平成12)年6月9日発行
初出:「北海道事始め」楡書房
   1956(昭和31)年2月
※底本は横組みです。
入力:川山隆
校正:雪森
2013年5月7日作成
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