――――――――――――
「
天は
人の
上に
人をつくらず、
人の
下に
人をつくらず。」
明治のはじめ、「
学問のすすめ」で、いちはやく
人間の
自由・
平等・
権利のとうとさをとき、
あたらしい
時代にむかう
日本人に、
道しるべをあたえた
人。
それまでねっしんにまなんだオランダ
語をすてて、
世界に
通用する
英語を、
独学でまなんだ
人。
アメリカやヨーロッパに三
度もわたり、
自分の
目でじっさいにたしかめた、
外国のすすんだ
文化や
思想をしょうかいし、
大きなえいきょうをあたえた
人。
上野の
戦争のとき、
砲声をききながら、
へいぜんと
講義をつづけた
人。
福沢諭吉は、ながい
封建制度にならされた
人々を
目ざめさせるのは、
学問しかないと、
けわしい
教育者の
道をえらびました。
いま、
慶応義塾大学の
図書館には、
「ペンは
剣よりも
強し。」
のことばが、ラテン
語で
書かれています。
諭吉の
一生は、この
理想でつらぬかれました。
日本の
民主主義を
考えるとき、
わたしたちはいつも、
諭吉にたちかえらなければなりません。
[#改ページ]
夏のはじめのある
日の
午後のことでした。
十二、三さいになる
少年が、
九州の
中津(
大分県)の
町を、むねをはってあるいていました。こしに
大小の
刀をさしているので、
士族(さむらいの
家がら)の
子どもとすぐわかりますが、ふるぼけたふろしきづつみを
左の
小わきにかかえ、
小さなとっくりをその
手にさげています。どうやら
少年は、
町に
買いものにきたかえりのようでした。
町人たちは、さも、ふしぎなものをみたといわんばかりに、
少年のうしろすがたをゆびさして、ささやきあいました。
「おさむらいの
子が、まっ
昼間、どうどうと、びんぼうどっくりをさげて、
買いものにくるとは、おどろいたな。」
「まったくだ。ちかごろは、おさむらいも、ふところぐあいがよくないとみえて、一しょう(一・八リットル)どっくりをさげて
買いにみえるが、はずかしそうにほおかむりをして、しかも、
日のくれがたとか、
夜になってから、
買いにくるというのが、ふつうだからな。」
「まあ、おさむらいには、
士族としての
体面(せけんにたいするていさい)があるからな。それを、あのようにどうどうと……いったい、どこの
子どもだろう。」
町人たちがはなしている、その
少年は、じりじりとてりつける
太陽にあせばんだのか、ときおり、
右手で、ひたいのあせをふきながら、
士族やしきへかえっていきました。
やがて、
少年がたちどまったのは、
門こそありますが、ふるぼけた、そまつなかやぶきやねの
家でした。
「ただいま、かえりました。」
少年が、げんかんからはいると、
「おかえり、
諭吉。ごくろうだったね。とちゅうで、
知りあいの
人にあわずにすんだかね。」
と、お
母さんのお
順がやさしくむかえました。
「ええ、だれにもあいませんでした。でも、だれかにあったって、わたしはへいきです。
自分の
金で、ものを
買うんですから、すこしもはずかしいことはありません。」
「そうとも、そうとも。よくいってくれました。
母さんは、そのことばをきいて、とてもうれしいんだよ。うちがびんぼうでも、おまえがいじけないでそだってくれるということがね。……そうそう、かえってきてすぐでわるいけれど、たんすがあかなくなったから、ちょっとなおしてもらえないかしら。」
「いいですとも。あかなくなったのは、どのたんすですか。」
諭吉のひとみは、きゅうにいきいきとかがやき、
刀をいつものところにおくと、たんすのある
部屋にかけこむようにしてはいっていきました。
「このたんすのひきだしなんだけどね。」
あとからついてきたお
母さんのいうのをきいて、
諭吉は、そのひきだしのあちらこちらをしらべはじめました。それから、かぎをつっこんで、まわしてみましたが、なかなかあきません。
「これは、かぎがこわれたんですね。くぎでなければ、あかないかもしれません。」
「そうかい。では、くぎをつかって、あくようにしておくれ。」
お
母さんは、
台所のほうへさっていきました。
諭吉は、くぎをもってきて、そのさきをまげて、かぎあなにさしこんで、あっちにまわしてみたり、こっちにまわしてみたり、いろいろとくふうをこらしました。
顔のあたりを、かが四、五ひき、うるさくとんでいるのを
手でおいはらいながら、かんがえこんでいます。
両足をかわりばんこにあげているのは、かにさされないためでもありますが、
便所にいきたいのをがまんしているためでもありました。それほど、ひきだしをあけるのにいっしょうけんめいになっていたわけです。
そのうち、ひきだしがすっとあきました。
「お
母さん、あきましたよ。」
といったとたん、こらえていることができなくなったのでしょう、
諭吉はバタバタと
便所へはしりました。
ところが、そのとき、
兄さんの
三之助が、ほご
紙(ものをかきそこなって、
不用になった
紙)を
部屋いっぱいにひろげて、
整理をしていました。
いつもなら
諭吉は、
便所へいくのに、その
部屋をとおらないのですが、いまはいそいでいるものですから、
近道をして、つい、ほご
紙をふんでしまったのです。すると、
「こりゃ、まてっ、
諭吉。」
と、
兄さんが
大きな
声でしかりつけました。
「おまえは、
目がみえぬのか。これをみなさい。なんとかいてある。
奥平大膳大夫と、とのさまのお
名まえがかいてあるではないか。」
と、えらいけんまくです。八つ
年上の
兄さんのいうことですから、しかたがありません。
諭吉は、
「ああ、そうでございましたか。でも、わたしは、つい、しらなかったものですから。」
と、いいわけをしました。
「しらなかったで、すむか。
目があればみえるはずだ。とのさまのお
名まえを
足でふむとは、なんたることか。
臣子の
道(けらいや、
子のまもるべきこと)をわきまえない、ふこころえものだぞ、おまえは。」
「わたしは、とのさまを
足でふんだわけではありません。たまたま、わたしのふんだほご
紙に、とのさまのお
名まえがかいてあっただけのことです。」
「だまれっ、とのさまのお
名まえのかいてあるものを、
足でふみつけたことは、とのさまをふみつけたとおなじことだ。お
父上が
生きておられたら、これをなんといわれるか、かんがえてみるがよい。」
日ごろは
弟思いの
兄さんが、ほんとうにかんかんになっておこっているのです。
諭吉は
便所にはやくいきたいので、いまは、あやまるよりほかに
方法がないとおもいました。
「これは、わたしがわるうございました。これからは
気をつけますから、かんにんしてください。」
と、おじぎをしてあやまり、いそいで
便所にいきました。やっと、ときはなされたような
気持ちになりました。
しかし、
気がおちついてくると、
兄さんのことばには、なっとくのできないものがあります。
(なんだ、とのさまの
頭をふんだというのではない。ただ、
名をかいてあるほご
紙をふんだだけのことだ。
紙の
上の
字など、かまうことはないじゃないか。それを、
兄さんはあんなにおこったりして……。)
と、
諭吉はふまんにおもい、そして、
紙の
上の
文字を、ただたいせつにするということに、うたがいがわいてきました。
兄さんがいうように、とのさまの
名のかいてあるほご
紙をふみつけてわるいのなら、
神さまの
名まえのかいてあるおふだをふんだら、どうなるだろうか。こうかんがえた
諭吉は、さっそく、その
夜、
神だなから、おふだを一まいとって、こっそり
足でふんでみました。ところが、べつにかわったことはおこりませんでした。
(うん、なんともない。これはおもしろいぞ。よし、こんどは、
便所にもっていって、ためしてみよう。)
おもいきって、
便所の
中へおとしてみました。なにごとかおこったら、すぐとびだせるように
用意して、こわさのために
手足のふるえるのをがまんして、じっとようすをみていました。しかし、やはりなにごともおこりません。
(そうれ、みろ。
兄さんがよけいなことをいってしかったが、あんなことをいうのはおかしいんだ。)
と、
諭吉はあんしんもし、また、かたくしんじることができたので、とくいにもなりました。
しかし、こればかりは、
兄さんにはもちろん、お
母さんにもねえさんにもはなせません。はなせば、きっとしかられるにちがいありませんから、
一人でそっと、
自分の
心の
中にしまっておきました。
諭吉は、
兄さんのいうことになっとくがいかず、それをそのままにしておかずに、じっさいにためしてみて、
自信をえたわけでした。すると、もっと、いろいろなことをためしてみたくなりました。
諭吉のおじさんの
家の
庭のかたすみに、おいなりさんをまつった
小さなほこらがありました。それを、
大人[#ルビの「おとな」は底本では「おな」]たちは、しんみょうな
顔つきでおがんでいますが、いったい、おいなりさんの
正体はどんなものか、それをしりたくてたまりません。しかし、
大人たちは、
神さまの
正体をみるなどということは、だいそれたことで、ばちがあたって
目がつぶれたり、
手や
足がまがってしまうぞ、とおどかすばかりで、
諭吉によくわかるようなせつめいをしてくれません。そこで、
(よし、ぼくがみてやろう。)
と、ある
日、あたりに
人のいないのをみすますと、いなりのほこらのとびらを、そっとひらいてみました。おっかなびっくりであけたのですが、そのとたんに、
「なあんだ、
石ころじゃないか。」
と、おもわず
声をだしたほどでした。ほこらの
中には、なんのへんてつもない
石ころが、一つはいっているだけではありませんか。
みたところ、
道ばたにころがっている
石ころと、ちっともかわったところはありません。これに、なにかとくべつに
神さまの
力がやどっているのでしょうか。もし、そうだとすれば、この
石ころをほうりだして、そのへんにころがっているべつの
石をほこらにいれたら、どんなことになるでしょうか。
大人たちは、にせのおいなりさんをありがたがらなくなるでしょうか。
諭吉は、それをためしてみるために、ほこらの
石をとりかえておきました。
べつだん、なんのかわったこともおこりません。それどころか、あくる
朝、おいなりさんをみにいくと、
近所のおばあさんが、おみきとあぶらあげをそなえて、なにやら
口の
中でぶつぶつとなえながら、しんみょうにおがんでいるではありませんか。
(あっはっはっ。ばかなおばあさんだな。ぼくの
入れた
石ころに、おみきとあぶらあげをあげておがむなんて……。)
と、
諭吉は、おかしさをこらえて、その
場をたちさりました。
けれども
諭吉は、このことを、だれにもはなしませんでした。はなせば、しかられるにきまっているし、
自分でも、けっしてよいことをしたとはおもっていなかったからです。それでも、このいたずらによって、
神さまのばちがあたるなどということは、ありはしないのだということを、
諭吉ははっきりとしることができました。
諭吉は、このように、
自分でなっとくのできないことについては、
自分でじっさいにためしてみるという、しっかりした
少年でした。おまけに
手さきがきようなので、
家ではたいへんちょうほうがられていました。
いどにものがおちたといえば、どういうふうにしてあげたらよいか、その
方法をかんがえだして、わけなくひきあげました。しょうじをはることなど、うまいもので、
家のしょうじはもちろん、しんるいからたのまれて、はりにいくこともありました。げたのはなおもすげれば、たたみばりを
買ってきて、たたみのおもてがえまでやりました。ですから、ひまさえあれば、
木のきれをけずって、なにかをつくっていました。
あのおいなりさんの
正体をみてからも、
諭吉の
生活には、べつだんかわったことがありませんでした。
一
年たって、また
夏がやってきました。
ある
日、お
母さんがせんたくをしようとして、たらいをもちあげると、たががゆるんでいたのでしょうか、ばらばらにこわれてしまいました。あたらしいたらいを
買うほかないとおもわれました。しかし、
諭吉は、このばらばらにこわれたたらいをなおす
役をひきうけました。
たけをわって、たがのわをつくるのは、たいへんむずかしい
仕事ですが、
諭吉はいろいろとかんがえて、とうとう、もとどおりのたらいになおしてしまいました。
自分ながら、よくやれたものだと、いささかとくいになって、
「どうです、お
母さん。こんなにりっぱになりましたよ。みてください。」
といいました。
お
母さんやねえさんは
大よろこびでしたが、
兄さんは、あまりよい
顔をしません。
「
諭吉、たらいのたがをなおすのもよいけれど、すこし
勉強をしたらどうだ。さむらいの
子が、
字をならわず、まるで
職人がやるようなことばかりしているのは、みっともないぞ。」
せっかく、いい
気持ちになっているところへ、このようにきびしくいわれたので、
諭吉はむっとしました。
「
兄さんは、わたしに
勉強しろというんですか。いやなことだ。
勉強なんて、わたしはだいきらいです。」
「では、きくが、おまえは、これからさき、なんになるつもりだ。」
「そうですね。まあ、
日本一の
大金持ちになって、おもうぞんぶんお
金をつかってみたいものですね。」
「なにっ、
大金持ちになりたいだと?
諭吉、おまえは、それでもさむらいの
子か。さむらいの
子というものは、お
金もうけなどかんがえてはならんぞ。おまえは、まだ
小さかったからおぼえてもいまいが、お
父上はな、さむらいの
子が
金かんじょうなどならうものじゃないといって、わたしがかよっていた
手ならいの
先生が、かけざんの
九九をおしえたら、そんな
先生のところへ
子どもをあずけられないといって、おこられたことがあるくらいだ。お
父上は、りっぱな
学者だった。その
血をひいたおまえが、
勉強はだいきらいだなんていって、はずかしいとおもわぬか。」
「わたしは、
勉強がきらいなんですから、しかたがないじゃありませんか。それに、さむらいの
子がお
金のことをいって、どうしてわるいんですか。うちだって、もっとお
金があったら、どんなにいいか。
兄さんだって、
心の
中では、そうおもっているくせに。」
「へりくつをいうな。おまえのさきざきのことをかんがえて、
勉強するようにすすめてやっているのに、おまえは、それがわからんのか。なんというばかものだ。そこへすわれ、お
父上にかわって、おまえのしょうね(こころね)をたたきなおしてやるから。」
兄さんは、そばの
木刀をとって、
諭吉のほうへ、あらあらしい
足どりでつめよりました。このとき、
「おまちなさい、
三之助っ。」
と、お
母さんが、
中にわってはいりました。
「
兄弟げんかはいけません。
諭吉の
勉強ぎらいは、
母さんにもせきにんがあります。
家がまずしいものだから、つい、
諭吉に
家の
手だすけばかりをしてもらっていました。
諭吉には、
母さんから
勉強するようにいいきかせますから、この
場はかんにんしてやっておくれ。」
木刀をもってたっている
兄さんの
足もとに、お
母さんはきちんとすわって、
頭をたたみにすりつけんばかりにして、たのみました。
兄さんも、こしをおろして、
木刀をかたわらにおき、お
母さんのまえに、だまって
頭をさげていました。お
母さんのうしろには、
諭吉がおなじように、
頭をさげていました。
それから二
週間もたったでしょうか。よくはれた
日のお
昼ちかくに、
着物はぼろぼろ、かみはぼうぼうの
女こじきが、
諭吉の
家の
門の
外にたち、はいろうか、はいるまいかと、ためらっていました。それを、せんたくものをほしていた
諭吉のお
母さんが、
目ざとくみつけました。
「まあ、おチエじゃないか。ひさしぶりだね。さあ、こちらへおはいり。」
と、
庭のほうへよびいれました。おチエはすなおに
庭のほうへはいってきましたが、
右手で
頭をなんべんもかいています。
「おや、おチエは、また、しらみをわかしたとみえるな。さあ、そこへおすわり。わたしがとってあげるから。」
と、
庭の
草の
上にすわらせ、
「
諭吉や、ちょっときて、てつだっておくれ。」
と、
土間で
木ぎれをけずっている
諭吉に
声をかけました。
諭吉は、すぐにでてきましたが、
「ああ、また、しらみたいじですか。おチエは、からだがくさいから、いやだなあ。」
と、
鼻をおさえながらいいました。
お
母さんはいつも、おチエのしらみをとってやるのでした。そのとったしらみを、
庭石の
上におきます。しらみははいだそうとします。それを、
小石をもってつぶすのが、
諭吉の
役目でした。
諭吉は、こればかりは、きたなくて、きたなくて、むねがわるくなるようでした。でも、お
母さんのいいつけなので、いつもがまんして、てつだいました。
おチエは、
中津の
町では、だれからもばかにされていました。それなのに、
諭吉のお
母さんは、
士族としての
身分などにこだわらず、よくおチエのめんどうをみてやるのでした。
「まあ、こんなに、しらみがうようよわいていては、おチエもかゆかったろうね。これからは、かみをよくあらうようにして、しらみをわかすんじゃないよ。」
と、まるでおさない
子どもにでもいうように、おチエに
教えさとしながら、しらみをつぎつぎにとります。
諭吉も、いそがしくしらみをつぶします。
おチエは、さもうれしそうに、ときおり、にたっとわらってみせています。そのうち、
頭がかゆくなくなって、
気持ちがよくなったのか、おチエは、ねむたそうに、こっくりをはじめました。
「さあ、そっとしておいてやりましょう。
諭吉、おチエの
顔をみてごらん。よいゆめでもみているのか、うれしそうな
顔をして、まるでほとけさまみたいじゃないか。」
と、お
母さんがいいました。
諭吉は、
「ええっ。」
とおどろきましたが、そういわれて、おチエの
顔をみると、なるほど、お
母さんのいうことがわかるような
気持ちがしました。
これまで
女こじきをいたわるお
母さんを、ふうがわりなお
母さんだとおもっていたのですが、
人間は、わけへだてなくしんせつにしなければならないということがわかり、
「お
母さんはえらいな。」
と、あらためてお
母さんをそんけいしたくなりました。
「
諭吉や、
母さんは、このあいだから、おまえにいってきかせようとおもっていたことがあります。おまえは、
兄さんに、なんになるつもりだときかれて、
大金持ちになりたいとこたえましたね。けれど、
兄さんのいわれるように、
勉強はやはりしてもらいたいとおもいます。なくなられたお
父さまは、おまえをおぼうさんにしたいといわれていたんですよ。」
「えっ、わたしをおぼうさんにするって、ほんとうですか、お
母さん。」
「ほんとうですとも。それには、すこし、わけをはなさなければ、おまえには、わからないかもしれないが……。」
こういって、お
母さんがはなしてくれたのは、つぎのようなことでした。
諭吉のお
父さんは、
福沢百助といい、
中津のとのさまのけらいでした。ひじょうにしょうじきで、まじめな
人であり、また、
学問のすきな、すぐれた
漢学者でした。けれども、
身分がひくいために、つまらない
役職にがまんしていなければなりませんでした。
それは、
江戸幕府のおわりにちかいころでしたが、そのころの
日本の
社会は、まだ、さむらいがいちばんえらいとされていました。
町人やひゃくしょうたちは、いつも、さむらいにいじめられていました。
さむらいの
家に
生まれたものは、どんなにつまらない
人間でもさむらいになり、いばることができました。
町人やひゃくしょうの
子どもは、いくらすぐれた
人間でも、さむらいにはなれませんでした。また、さむらいの
中でも、
身分のたかいものと、ひくいものとにわけられていて、
身分のひくいさむらいの
子は、
身分のたかいさむらいの
子より
上の
役目につくということは、ゆるされませんでした。
そんなわけで、
諭吉のお
父さんは、りっぱな
人でしたが、つまらない
役目にしか、つくことができませんでした。
中津のとのさまは、
大阪の
堂島にくらやしきをかまえていました。このくらやしきは、どこのとのさまももっていたもので、
自分の
国でとれる
米や、
名産・
特産の
品々を、このくらやしきにおくってきて、それを
大阪の
商人に
売りわたして、
自分の
国の
財政をまかなうことになっていました。
諭吉のお
父さんは、そのくらやしきにつとめて、
回米方という
役についていました。
回米方というのは、このくらやしきにおくりこまれてきた
米の
見はりの
番をしたり、
商人に
売ったりする
仕事で、ずいぶん、せきにんのおもい
役目でした。けれども、そのころのさむらいは、
刀をつかうような
役につくものはだいじにされますが、お
金のかんじょうなどをする
役目のものはみさげられていました。この
回米方もまた、みさげられる
役目だったのです。
諭吉は、そのお
父さんのすえっ
子として
大阪で
生まれました。いちばん
上が
兄さんの
三之助で、その
下に三
人のねえさんがありました。
女の
子が三
人つづいたあとに、
男の
子が
生まれたのですから、お
父さんは
大よろこびでした。
「おまえが
生まれたときは、やせてはいたけれど、ほねぶとで、じょうぶそうな
大きなあかちゃんだったものだから、さんばさんが、『ちちをたくさんのませれば、りっぱにそだちますよ。』というのをきいて、お
父さまは、たいへんおよろこびになってね、『これはよい
子だ。
十か十一になったら、お
寺へやって、りっぱなおぼうさんにしよう。』とおっしゃったのですよ。そののちも、
口ぐせのように、『おぼうさんにしたい。』とおっしゃっていました。
ところが、おまえがかぞえ
年で三つのときに、お
父さまはなくなられました。それで、
母さんは、おまえたちをつれて、
中津へかえってきたわけだけどね。もし、お
父さまが
生きておられたら、おまえは、いまごろは、どこかのお
寺の
小ぞうさんになっているところだよ。」
と、お
母さんがいいました。
「でも、わたしは、おぼうさんはきらいです。お
父上は、どうして、わたしを、おぼうさんにしようとなさったのですか。」
「さあ、それは、
母さんにも、よくわかりませんがね。まあ、りっぱなおぼうさんになるには、
勉強をうんとしなければなりません。お
父さまは、
学問のすきなかたでしたから、おまえに
勉強をしてもらいたかったのじゃないかとおもいます。どうだろ、おぼうさんになっては……。」
「おぼうさんになるのだけは、かんべんしてください。そのかわりに……。」
「そのかわりに?」
「
勉強をします。」
諭吉のしんけんな
顔つきをみて、お
母さんは、いかにもうれしそうに、にっこりとしました。
「さあ、それでは、おチエがまもなく
目をさますでしょう。おにぎりでもつくってやることにしましょう。わたしたちも、お
食事をしなくてはならないしね。」
気持ちよさそうにひるねをしているおチエの
顔をみながら、お
母さんは、
台所のほうへはいっていきました。あとにのこった
諭吉は、おぼうさんにならずにすんだので、ほっとしました。
勉強をすることは、このあいだ、
兄さんからいわれて、なるほどとおもい、
自分でも、やらなければならないな、とかんがえるようになっていたので、それほど
苦にはならなかったのです。
勉強なんてだいきらいだといっていた
諭吉が、すすんで
勉強するといいだしたことを、お
母さんからきいて、
兄さんはとてもよろこびました。
といっても、いまのような
学校はありませんから、
勉強するといえば、ちかくにある
塾(むかしの
学校)にかようほかありません。そこへかよって、
漢字がいっぱいつまった
中国の
本をならうのです。それを
漢学といいました。
生徒は、七、八さいの
小さな
子から十三、四さいまでのものばかりで、
諭吉がいちばん
年上ですから、たいへんきまりがわるいことでした。けれども、
負けん
気のつよい
諭吉は、
「なあに、いまにみろ、みんなにおいついてやるから。」
と、
心をふるいたたせて、むちゅうで
勉強にはげみました。そのため、みるみるうちに、おなじ
年ごろの
子どもたちにおいつき、やがて、その
子どもたちをおいこしてしまいました。
塾は二、三
回、かわりましたが、その
中で、いちばんたくさん
本をならったのは、
白石常人先生でした。
漢学がおもでしたが、
諭吉は
歴史がすきで、すきな
本は、
何回もよみ、
暗記してしまうほどでした。
十五、六さいごろになると、
諭吉は、ふるいおきてや、わるいならわしにたいして、まえよりもいっそう、ぎもんをもつようになりました。
身分のちがいということは、
子どもどうしの
中にもあったからでした。
第一に、ことばづかいがちがうのです。
諭吉たち
下っぱの
家のものは、
身分の
上の
家の
子にむかっては、
「あなたが、ああおっしゃった、こうなさった。」
と、ていねいにいわなければならないのにたいして、あいては、
「きさまは、ああいった、こうしろ。」
といったちょうしです。
塾のせいせきは、
諭吉のほうが
上ですし、からだもつよくしっかりしていながら、
頭があがりません。それは、
親の
家がらや
身分がちがうためにできたわけへだてでした。それが、
諭吉にはくやしくてくやしくてたまりません。すると、お
父さんが、
自分をおぼうさんにしようとした
気持ちがわかってくるようでした。
諭吉のお
父さんは、
学問のあるりっぱな
人でしたが、
身分がひくいために、つまらない
役目にがまんしていなければなりませんでした。ところが、おぼうさんだけは、
出世する
道があったのです。たとえ、さかな
屋のむすこや、ひゃくしょうの
子であっても、いっしんふらんに
勉強し、しゅぎょうをすれば、えらいおぼうさんになる
道がひらけていました。そうなれば、さむらいはもとより、もっと
上にいるとのさまや
将軍にも、せっきょう(ときおしえること)をすることができますし、とうとばれ、うやまわれもしたのです。
お
父さんは、そこに
目をつけて、
(
子どもに、
自分とおなじように、いきのつまりそうにきゅうくつで、ふこうな一
生をおくらせたくない。もって
生まれたさいのう
生まれつきの
力
を、のびるだけのばさせてやりたい。)
きっと、そうかんがえられたのだ、と
諭吉はおもいました。
(おお、そうだったのか。それに
気がつけば、もっとはやく
勉強にとりかかるのだったのに。これはぼやぼやしておれないぞ。だが、わたしがおぼうさんになれば、わたし
自身はすくわれるかもしれない。けれども、おなじような
人がせけんにはたくさんいるのだ。それらの
人々のふこうをほうっておくわけにはいかない。
いちばんだいじなことは、このようなふるいおきてや、わるいならわしを、一
日もはやくうちやぶることだ。
封建制度をなくすことだ。
封建制度こそ、お
父さんのかたきだ。にくいにくいかたきだ。)
と、
諭吉は、はっきりかんがえるようになりました。
ところが、
封建制度というものは、ながいあいだにきずきあげられたものですから、ちっとやそっとの
力でくずれるものではありません。そのころの
日本は、どの
土地も、このふるいおきてでおさめられていましたが、とりわけ、
九州のいなかである
中津は、それがつよいのでした。
ですから、この
町をとびだして、すこしでも
自由なところにいかなければ、一
生、このままでおわってしまう、と
諭吉はしみじみとかんがえるようになりました。
兄さんの
三之助は、お
父さんのあとをついで、
下っぱの
役人になっていました。いとこたちも、
仕事についているものは
下っぱの
役人ばかりでした。三、四
人あつまると、
身分のたかい
家のむすこが、たいした
力もないのに、よい
役についていばるとか、
自分たちは、
力があっても、どうにもならぬのだ、とふへいをもらしあいました。
諭吉も、そのふへいにはおなじ
思いでしたが、ぐちのいいあいになったのでは、いみのないことだとおもいました。そこで、こういうのでした。
「まあ、そんな
話はやめようじゃありませんか。この
中津にいるかぎりは、なんべん、そんなことを、ぐずぐずいっても、
役にたちませんよ。ふへいがあったら、でていくことですね。でていかないのなら、ふへいをいったってはじまりませんよ。」
「いったな、
諭吉。ばかに
大きな
口をきくではないか。それなら、きみは、
中津をでていくというのか。」
「さあ、それは、なんともいえませんがね。」
あまり、はっきりしたことをいえば、どんなうるさいことがおこるかもしれませんから、
諭吉はことばをにごしました。しかし、このころから、
心の
中では、
中津からでていくことを
決心して、その
決心を、なんとしてでも
実行しようと、おもいさだめました。
そうして、ひそかにじゅんびをはじめたのでした。ちょうど、
白石先生のところでいっしょに
勉強している
生徒の
中に、
諭吉よりももっとまずしい
人が
二人いました。その
二人は、あんまを
内職にして、
勉強しているのでした。
そのことをきいて、
諭吉は、
(これは、よいことをきいた。
自分も、そのうち
中津からとびださなければならないが、あんまを
内職にすれば、
兄さんからお
金をだしてもらわなくてもすむ。)
そうおもって、さっそく、その
二人に、あんまをおしえてもらい、しきりにけいこをしました。もともと、
手さきがきようなので、すぐこつをおぼえ、お
母さんをじっけんのあいてにしました。
「
白石先生のところでは、
学問ばかりおしえるのかとおもっていたら、あんまのやりかたもおしえてくださるのかね。ああ、いい
気持ちだ。
諭吉のうでまえは、なかなかたいしたものだよ。」
と、お母さんは
大よろこびです。
もとより、お
母さんは
諭吉が
中津をとびだそうとしていることをしりません。けれども、
諭吉は、その
日のくるのを、じっとまっていたのでした。
そうして、
諭吉がかんがえていることのあらわれる
日が、
目にみえないところで、すすんでいました。
時代が
大きくうごいてきていたのです。
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諭吉のまちのぞんでいたときが、やがておとずれました。それは、
諭吉が二十一さいとなった、
安政元(一八五四)
年二
月のことでした。
そのまえの
年の六
月に、アメリカから、ペリーが
軍艦四せきをひきいて
浦賀(
神奈川県)にやってきて、
「
国をひらいて、ぼうえきをしようではないか。」
と、はげしくせまりました。いやだというなら、
大砲をうちこんでも、うんといわせるといういきおいでした。これは、
江戸幕府にとっては、たいへんむずかしいもんだいでした。
というのは、
江戸幕府は、それまで、およそ三百
年ちかくのあいだ、
外国とのつきあいをせず、
品物のとりひきなどもしないことにしていました。ですから、
世界の
国々のようすは、なにもわかりませんし、また、どうなっているかをしろうともしませんでした。これを「
鎖国」といいます。つまり、
国をとじて、
外国をしめだしてしまったわけでした。ただ、
中国とオランダとだけは、
長崎でぼうえきをすることがゆるされていました。
なぜ、
幕府が
国をとざしたかといいますと、それは、キリスト
教が
日本にはいってくるのをおそれたからでした。
中国とはとなりどうしで、まえまえからのつきあいであり、キリスト
教の
国ではないから、そのままつきあったのですが、オランダとは、キリスト
教を
日本へひろめないというやくそくで、ぼうえきをしていました。
ところが、こんど、キリスト
教をしんずるアメリカが、
日本に
国をひらかせて、
自由にぼうえきをやろうといってきたのです。こまった
幕府は、ペリーのさしだしたアメリカ
大統領からの
手紙だけをうけとりました。ペリーは、へんじは一
年のちにもらうからといって、かえっていきました。
さあ、それからがたいへんでした。
国をひらこうという
考えの
人と、
外国人はみなおいはらえという
考えの
人と、
日本は二つにわかれました。しかも、
京都の
天皇のがわは、
国をひらきたくない
考えだったので、
幕府は、
外国との
板ばさみになったかっこうでした。
でも、ぐずぐずしてはいられません。一
年たったら、ペリーがまたやってきます。もしも、「アメリカのいうとおりにはできない。」というへんじをすれば、
軍艦から
大砲をうってくるかもしれません。そこで、
幕府は、
品川のおきに、
砲台(
大砲をすえたじん
地)をつくって、
江戸(いまの
東京)の
城をまもろうとしました。そのためには、
砲術(
大砲のつかいかた)をまなばなければならないと、やかましくいわれはじめました。
あちこちのとのさまたちのあいだでも、けらいに
砲術をまなばせることがはやってきました。もちろん、
中津にも、このことがつたわってきました。
人々は、にわかに
砲術というものに
心をむけはじめました。
その
砲術をまなぶには、オランダからまなぶよりほかありません。それには、どうしてもまずオランダ
語を
勉強して、オランダ
語でかいた
本がよめるようにならなければなりません。
ある
日、
兄さんの
三之助が、
諭吉をよんで、いいました。
「どうだ、
諭吉。オランダ
語を
勉強して、
原書(
外国語でかかれた
本)をよんでみる
気はないか。」
いきなり、こんなことをいわれたので、
諭吉は、
目をまるくしました。それに、
原書ということばははじめてきいたことばなので、
「その
原書っていうのは、なんですか。」
とききかえしました。
「オランダ
語でかいた
本のことだよ。
日本語にも、かなりほんやくされているけれども、だいじなところだけをみじかくかいたり、ときには、まちがってほんやくしたところがあるそうだ。だから、
砲術をほんとうにしるには、
自分で、その
原書をよまなければならないんだ。」
「ずいぶんむずかしいんでしょうね。」
「それは、むずかしいにきまっているさ。けれども、
原書をよむことができれば、ほんとうのことがわかるからおもしろいぞ。どうだ、やってみないか、
諭吉。」
「やりましょう。どうせ、
人のよむものなら、
横文字であろうが、なんであろうが、やれないということはないでしょうから。」
諭吉の
負けずぎらいな
気持ちが、むくむくと、むねの
中にわきあがって、そういわせました。
「そうだとも。おまえなら、その
気にさえなれば、きっとやれるとおもうよ。」
と、
兄さんは、にっこりわらいました。
けれども、
中津には
原書もなければ、おしえてくれる
先生もありません。オランダのことばを
勉強するには――それを
蘭学といっていました――、
長崎へいかなければなりません。
長崎だけが、そのころの
西洋の
文明がながれこむ、一つのまどのようなところだったのです。
さいわいなことに、
兄さんが、
役所の
用事で
長崎へでかけることになったので、
諭吉もいっしょにいくことになりました。
(
中津からとびだしたい。)
という
諭吉のきぼうは、こうしてかなえられたのでした。
数日ののち、
長崎についた
諭吉は、
桶屋町の
光永寺という
寺にいきました。ちょうどそのころ、
中津の
家老(
大名・
小名のけらいの
長)の
子の
奥平壱岐というわかいさむらいが、
砲術の
研究のためにやってきて、ここにとまっていたからです。それで、この
人にたのんで、お
寺にやっかいになりましたが、
半年ほどのちには、やはり
壱岐のせわで、
砲術研究家の
山本物次郎という
人の
家で、はたらきながら、オランダの
学問をまなぶことになりました。
ところが、
山本先生は
目がわるくて、
本をよむことが
不自由なので、
諭吉は、
世の
中のうごきなどについて、いろいろな
先生がたの
漢文でかいたものをよんであげたり、
手紙をかわりにかいてあげたりしなければなりません。また、
山本先生にはむすこが
一人ありましたが、その
子に
漢文をおしえる
家庭教師の
役も、
仕事の一つでした。
それから、
山本先生の
家はくらしむきは
大きいのですが、びんぼうで
借金があるものですから、そのいいわけをしたり、ときにはお
金をかりにいかなければなりません。
下男(
男の
使用人)が
病気になれば、
水くみもしました。
女中(
女のおてつだいさん)にさしつかえがあれば、
台所のてつだいもしました。ふきそうじはもちろん、
先生がふろにはいられると、せなかをながしてあげたり、
生きもののすきなおくさんの
飼っているいぬやねこのせわもしなければなりません。
こんなに、うちの
中のざつようでもなんでも、
諭吉は、すこしもいやな
顔をしないで、かいがいしくはたらくので、
先生ばかりでなく、おくさんにも、
女中にも、
家じゅうで、たいへんちょうほうがられました。
そのころの
砲術家は、じっさいに
大砲をつくったり、
大砲のうちかたのけいこをするわけではありませんでした。ただオランダの
砲術の
本をいろいろもっているということと、それをよんでせつめいができるというだけでした。
その
本をお
礼をとってかしたり、それをうつしたいといえば、うつすためのお
礼をとるというわけで、そのお
礼が
山本家の
収入になります。その
本をかすのも、うつすのも、
山本先生は
目がわるいので、みな
諭吉がかわってやりました。
大砲をつくるための
設計図がほしいとか、
出島のオランダやしきをみたいとかいってくる
人があります。それらのせわをするのも
山本先生の
仕事でした。
設計図など、
諭吉は、じっさい
大砲をうつのはみたこともないのですが、
図面をひくだけなら、もともと
手さきがきようなものですから、わけはありません。さっさと
図をひいたり、せつめいをかいてわたします。
諭吉は、
全国からあつまってくる
人たちをあいてにして、まるでもう、十
年もまえから
砲術をまなんだ、りっぱな
砲術家だとおもわれるほどに、
人にあってこたえられるようになりました。
こうした、いそがしい
仕事を、てきぱきとやってのけるあいまには、
諭吉は
自分の
勉強をもわすれませんでした。もともと
長崎にでてきたもくてきは、
原書がよめるようになるということでしたから、オランダ
流の
医者や、オランダ
語のつうやくをする
人の
家などにいって、いっしんふらんに
原書の
勉強をしました。
諭吉は、
原書というものをはじめてみて、
(これはむずかしいぞ。)
とおもいました。それはむりもありません、アルファベット二十六
字をおぼえてしまうのに、
三日もかかったのですから。けれども、五十
日、百
日と
日がたつにつれて、だんだんよめるようになり、いみもわかるようになってきました。
こうなると、おもしろくないのは、
奥平壱岐でした。
壱岐は
身分のたかい
家老のむすこで、
諭吉より十さいぐらい
年上です。はじめはせんぱいぶって、あれこれとおしえてくれていたのですが、そのうちに、
砲術についても、オランダ
語についても、
諭吉のほうが
上になって、
壱岐はそれまでとはあべこべに、
諭吉からおそわらなければならなくなりました。それが、
壱岐にはしゃくのたねでした。
それなら、いっしょうけんめいに
勉強すればよいはずですが、なにしろおぼっちゃんのことですから、
自分でどりょくするということがありません。ただ、
諭吉が
目の
上のこぶのようにおもわれてきました。そこで、わるぢえをおもいつきました。
諭吉が
長崎へきてから、一
年あまりたったときでした。
中津の
藤本元岱という、
医者をしているいとこから、とつぜん
手紙がとどきました。
「お
母上さまが、おもい
病気になられました。すぐかえってこられるように。」
といういみの
手紙でした。よんでいく
諭吉の
顔からは、みるみるうちに
血のけがひいていきました。
兄さんの
三之助は、なくなったお
父さんとおなじように、
大阪のくらやしきにつとめており、三
人のおねえさんはみなよめ
入りして、ふるさとの
中津のうちには、
年をとったお
母さんのお
順が
一人いるだけなのです。
それにしても、あんなにじょうぶなお
母さんが、いったいどうなさったのかと、うそのようにおもわれてなりません。けれども、どうじに、
一人心ぼそくねておられるお
母さんのすがたをおもうと、
諭吉は、じっとしていられないほどでした。その
手紙をくりかえしよんで、
諭吉は
男なきになきました。
ところが、ふと、いとこからは、もう一
通の
手紙がきていることに
気がつきました。それをいそいでよんだ
諭吉の
顔には、
血のけがよみがえってきました。
「お
母上さまのご
病気というのは、うそです。じつは、こういうわけがあって……。」
と、その
手紙には、つぎのようなことがかかれていました。
それは、
奥平壱岐のしくんだひきょうなはかりごとだったのです。
諭吉が
長崎へきたとき、
壱岐はおなじ
中津のものだというので、めんどうもみてくれたし、なつかしがりもしました。けれども、
自分よりも
身分のひくい
諭吉が、
勉強がどんどんすすんでいき、ひょうばんのよくなっていくのをみて、これでは、
自分のねうちがさがってしまうとおもいこみました。
なんとかして、
諭吉を
長崎からおいだしてしまおうとかんがえて、そのことを
中津の
父親にしらせてやったのでした。
父親というのは
家老ですが、
自分のむすこにたいしてはとてもあまい
親ばかでしたから、
諭吉のいとこ
藤本元岱をよびつけて、
「
諭吉が
長崎にいては、せがれ
壱岐の
出世のじゃまになるから、
中津へよびもどしてくれ。ただし、そのりゆうには、
母が
病気だといってやれ。」
と、きびしいめいれいです。
家老じきじきのめいれいですから、ことわるわけにいきません。
「かしこまりました。」
とこたえて、
諭吉のお
母さんにも
話をして、そうだんのけっか、おもてむきは、
家老のめいれいどおりの
手紙をかいて、もう一
通には、このいきさつをかいて、
「ほんとうは、お
母さんは
元気ですから、けっして
心配するな。」
とかいてやったのでした。
これをよんだ
諭吉のむねは、いかりのために、ばくはつしそうになりました。
(なんというひきょうなわるぢえだ。よしっ、この
手紙をみせて、
壱岐をとっちめてやろう。)
と、いちじはかっとなりましたが、
(いやいや、まてよ。いま、ここでけんかをしたところで、
身分がちがうから、こっちがまけるにきまっている。それに、
壱岐だって、それほど
悪人ではないのだ。)
と、ぐっとがまんをしました。
(けれども、こういうことをきいては、この
長崎にもいたくない。お
母さんがお
元気なんだから、
中津へかえることもない。どうすればよいか。)
と、さんざんにかんがえこんだすえ、
(そうだ、
江戸へいこう。
江戸にも、りっぱな
先生がおられるはずだ。)
こう
決心した
諭吉は、なにもしらないふりをして、
壱岐のところへ、おわかれのあいさつにいきました。
「じつは、
中津のいとこから、
母がきゅうに
病気になったから、すぐかえってくるようにとしらせてまいりました。ふだんは、いたってじょうぶなほうでしたが、わからないものです。いまごろはどういうようすでしょうか。とおくはなれていますと、
気になってなりません。」
と、
心配そうに、いろいろのべたてますと、
壱岐も、さもおどろいたような
顔をして、
「それは、きのどくなことじゃ。さぞ
心配であろう。とにかく、一
日もはやくかえったほうがよかろう。しかし、
母上の
病気がなおったら、また、
長崎へこられるようにしてやるから。」
と、なぐさめ
顔にいうのでした。
「それでは、おさしずどおり、さっそく
国へかえりますが、お
父上さまにおことづてはございませんか。いずれかえりましたら、お
目にかかります。また、なにかおとどけする
品物がありましたら、もってまいります。」
と、一どわかれをつげて、つぎの
朝、またいってみますと、
壱岐は
自分の
家にやる
手紙をだして、これをやしきへとどけてくれ、それからお
父上にあったら、これこれつたえてくれといい、またべつに、
諭吉のお
母さんのいとこにあたる
大橋六助という
人にあてた
手紙をとりだして、
「これを
大橋のところへもっていけ。そうすると、きさまがまた
長崎へでてくるのにつごうがよいだろう。」
といって、わざとその
手紙にふうをせずに、あけてみよといわぬばかりにしてありますから、
「なにもかも、いさいしょうちいたしました。」
と、ていねいにわかれをつげました。うちにかえって、ふうなしの
手紙をあけてみますと、
「
諭吉は
母の
病気につき、どうしても
国へかえるというから、しかたなしにかえらせるが、まだ
勉強のとちゅうの
身のうえだから、また
長崎へでてくることができるように、そちが、よくとりはからってやれ。」
というもんくです。
諭吉は、これをみて、ますます、しゃくにさわりました。
(いまごろは、けいりゃくがうまくいったと、とくいになっているにちがいない。このさるまつ
壱岐のあだ
名
めっ、ばかやろう。)
と、はらの
中で、さんざんののしりました。けれども
山本先生にも、ほんとうのことはいえません。もし、この
話がわかって、
奥平というやつはひどいやつだというようなことにでもなれば、わざわいはかえって
諭吉の
身にふりかかって、どんなめにあうかしれません。それがこわいので、
「
母が
病気になりましたので、
中津へかえらなければならなくなりました。」
といって、いとまごいをしました。
ちょうどそのとき、
中津からくろがね
屋惣兵衛という
商人が
長崎にきていて、
用事がすんだので、
中津へかえることになっていました。
諭吉は、その
男といっしょにかえろうとやくそくをしておいたのですが、もとより
中津へかえるつもりはありません。
心は
江戸へむかっていました。といっても、
江戸にはたよっていくところがありません。
さいわい、
江戸から
長崎へ
勉強にきている
書生なかまに、
岡部という
青年がいました。しっかりした
人物ですし、そのお
父さんは、
江戸で
医者をしていました。
「ひとつ、きみにおねがいがあるんだけど。もし、わたしが
江戸へいったら、きみのお
父さんの
家のげんかん
番にしてくれるよう、きみからたのんでもらえまいか。」
とたのみますと、
「いいとも。
日本橋にいって、
医者の
岡部ときいてもらえば、すぐわかるよ。」
と、さっそく
手紙をかいてくれました。
こうして、三
月のなかばごろのある
日、
諭吉たちは
長崎をたって、
諫早(
長崎県)へむかいました。そこへついたのは、
月のあかるいばんでしたが、
諭吉は、くろがね
屋にむかっていいました。
「ところで、くろがね
屋。おれは
長崎をでるときに、
中津へかえるつもりであったが、きゅうにかえるのがいやになった。これから
下関へでて
大阪へむかい、それから
江戸へいくことにした。ついては、めんどうでも、このにもつと
手紙をとどけてはもらえまいか。」
「それは、とんでもないことです。あなたのような
年のわかい、
旅になれないおぼっちゃんが、
一人で
江戸へおいでになるなんて。」
と、くろがね
屋は、びっくりしてとめました。けれども、
諭吉はかたく
決心したことです。くろがね
屋とわかれて、
一人旅をつづけ、
下関から
船にのりました。
ところが、この
船は、
京・
大阪などを
見物にでかける
人々をのせた
船でしたから、そのとちゅうでも、あちらこちらのみなとによって、
見物をしたり、
船の
中では、ごちそうをひろげて
酒もりをしてさわいだり、まことに
船のすすみぐあいがおそいのです。
諭吉は、
勉強にでかけようとはりきっているのですから、ばかばかしくてしかたがありません。十五
日めに、やっと
明石(
兵庫県)についたとき、
船からおろしてもらいました。これから
大阪まであるこうというのです。それでも
船よりははやく
大阪につくことがわかったので、
船からおろしてもらったのでした。
大阪までは十五
里(やく六十キロ)あるとききました。お
金がないものですから、すきばらをかかえて、とぼとぼとあるきつづけました。
宿屋にとまることもできません。
夜になって、さびしいくらい
道をとおっているときなど、
(わるいやつがでてこなければよいが。)
と、おもわず、
刀のつかをにぎっていることもありました。
足をひきずりながら、やっとの
思いで
大阪の
兄さんのところにたどりついたのは、
夜の十
時すぎでした。
兄さんは、たいへんおどろきましたが、くわしいわけをきくと、
「そうだったのか、よくわかった。だが、
長崎からここにくるには、
中津によってくるのが
道のじゅんというものだ。それを、おまえはお
母さんのおられる
中津をよけてきた。まあ、わたしがここにいなければともかく、おまえとここで
顔をあわせながら、このまま
江戸へいかせたとあっては、まるで
兄弟がぐるになってやったようで、お
母さんにもうしわけないではないか。お
母さんは、それほどにはおもわれないかもしれないが、どうしてもわたしの
気がすまない。
江戸へいかなくとも、
大阪にだって、よい
先生がありそうなものだ。そのことをかんがえてみてくれ。が、
今夜は、おまえはつかれているだろうから、ゆっくりやすんだらよかろう。」
と、やさしくいたわってくれました。
諭吉は、かぞえ
年で三つのときに、
中津へかえり、こんど十八、九
年ぶりで、
大阪へきたのですが、くらやしきのまわりには、まだ
諭吉のことをおぼえているものがたくさんありました。ですから、あくる
日になると、
諭吉がきたことをしって、これらの
人々があつまってきました。
「おお、ほんとに
大きくなられた。やっぱり、あかちゃんのときのおもかげが、どこかにのこっていますね。」
などといって、なみだをながさんばかりに、よろこんでくれる
人もいました。
諭吉のおもりをしてくれた
武八じいさんは、
自分のまごがきたようなよろこびかたで、
堂島のあたりをあるきながら、
「のう、わかぼっちゃま。おまえさまのお
生まれなすったとき、このわしは
夜中に、あの
横町のさんばさんのところへむかえにいったもんです。そのさんばさんは、いまもたっしゃにしておるようです。それから、よくおまえさまをだいて、
毎日毎日、すもうのけいこ
場をのぞきにいったものですが、あれがそうです。」
と、ゆびさしておしえてくれました。それをきいていると、
諭吉は、むねがいっぱいになって、おもわずなみだをこぼしました。
こんなわけで、
諭吉は、
自分が
旅にある
身とはおもえず、ほんとうに、ふるさとにかえったような
気持ちがしました。
そこで、
兄さんのすすめもあることだし、
大阪で
勉強することにし、
緒方洪庵という
先生の
塾にはいることになりました。
塾は「
適塾」といい、
船場の
過書町(いまの
東区北浜三
丁目)にありました。
緒方先生はすぐれた
町医者で、オランダ
語とオランダ
医学をおしえていて、おおぜいの
書生がいました。
諭吉が
適塾にはいったのは、
安政二(一八五五)
年三
月のことでした。
先生は
諭吉にむかって、
「いままで、どんな
勉強をしてこられたのかね。」
とたずねました。
「はい、きまった
先生はございません。
長崎で、いろいろな
先生からならいました。」
「では、これをよんでごらん。」
先生がさしだした
本を、
諭吉はしばらくみていましたが、やがてよみはじめました。これまでに
勉強したことをおもいだしながら、
日本語にほんやくしていきました。
「ほほう。
本場の
長崎で
勉強しただけあって、きみは、よみかたがうまい。」
とほめてくれたので、
諭吉がおもわずにっこりしますと、
「だが、どうも、きみは
正式な
勉強をしてないようだね。
土台がしっかりしていない。
外国語のいみをただしくくみとるには、
文法、つまりことばのきまり、やくそくだね、それをよくしっていなければいけない。
文法は
文章の
土台だ。きみは、
文法を、あたらしく
第一
歩からやりなおすひつようがあるね。」
といわれ、がっかりしてしまいました。
けれども、そのまま、へこたれてしまうような
諭吉ではありません。
「ようし、はじめからやりなおしだ。」
もちまえの
負けじだましいをだして、がんばりましたから、
諭吉の
勉強はどんどんすすんでいきました。
兄さんはいつも、そばではげましてくれたり、いろいろと
力になってくれました。
ところが、つぎの
年の
正月ごろから、
兄さんがリューマチという
病気をわずらって、
右手の
自由がきかなくなりました。
そのうちに、こんどは
諭吉が
腸チフスにかかりました。それは、
適塾の
兄でしである
岸という
人が、
腸チフスにかかったのをかんびょうしていて、うつったのでした。たいへんおもくて、これでもう
死んでしまうのではないかとおもわれる
日が、いく
日もつづきました。
緒方先生は、ひじょうに
心配して、いろいろとめんどうをみてくれました。そのおかげで、四
月ごろには
外にでてあるくことができるようになりました。
兄さんも、だいぶんよくなりました。
ちょうど、そのころ、
兄さんの
役所のつとめがおわり、
中津の
町へかえることになったので、
諭吉も、なつかしいお
母さんのそばで、
病後のからだをやしなうことになりました。
兄さんといっしょに
船にのってかえったのは、五、六
月のことでした。
(もう二どと
中津へなんか、かえるものか。)
と、かくごをきめていた
諭吉ですが、お
母さんのつくってくださるりょうりをいただいていると、
目にみえてけんこうをとりもどしてきました。
兄さんのリューマチも、いますぐあぶないというようすもないので、八
月にふたたび
大阪にもどって、
勉強をはじめました。
ところが、
秋になってまもない九
月十日ごろ、お
母さんから、九
月三日に
兄さんがなくなったから、すぐかえってくるようにとの
知らせがありました。びっくりした
諭吉は、すぐさま
中津へかえりました。そうしきはおわっていましたが、かわいいあととりむすこをなくしたお
母さんと、やさしい
兄さんをなくした
諭吉とは、
手をとりあって、かなしみあいました。
兄さんがなくなったので、
諭吉は、
福沢家のあととりとなり、
中津藩の
役所に
毎日、つとめなければならなくなりました。けれども、
心の
中では、
中津にいることが、いやでいやでたまりません。
ある
日、おじさんのところでなんの
気なしに、
大阪へまたいきたいとはなしますと、
「ばかなことをいうな。
福沢家のあととりとなったからには、この
中津で、
役所の
仕事にはげまなければいけない。よそへいって、おまけに、せけんできらわれているオランダの
学問をしたいなんて、とんでもない
話だ。」
と、おそろしいけんまくで、しかられてしまいました。
そのころ、
中津藩の
空気は
大の
西洋ぎらいでしたから、
諭吉の
気持ちなどさっしてくれるものがないのも、むりはありません。そこで、
諭吉は、お
母さんにさんせいしてもらうほかに
方法がないとかんがえ、そのゆるしをえるじきをねらっていました。
そうしたある
日、
諭吉は、
長崎からかえってきた
奥平壱岐のところへあいさつにいきました。
壱岐は
諭吉を
長崎からおいだした
人ですが、
家老のむすこですから、しらぬ
顔をしているわけにもいきません。ひさびさのあいさつをかわし、よもやまの
話に
花をさかせているうちに、
壱岐は、一さつの
原書をとりだして、
「ときに、どうじゃ。この
本は、
長崎で
手に
入れたオランダの
築城書(
城のつくりかたの
本)だ。めずらしいものじゃろうが。なにしろ、わずか二十三
両で
買ったほりだしものだからな。」
と、じまんそうにみせました。
諭吉は、
大阪の
適塾で、
医学や
物理の
本をみたことはありますが、まだ
築城書をみたことはありません。それに、ペリーがきてからは、
日本国じゅうで、
海のまもりや、
陸の
城づくりの
話で
大さわぎをしているときでしたから、
諭吉は、いっそうこの
本をよんでみたくなりました。しかし、かせといったところで、かしてくれるはずはありません。でも、うまくおだてたら、ひょっとしたら、という
考えがうかんだので、
「いや、これは、まったくすばらしい
本です。それを二十三
両でお
買いになったなんて、ほんとうにほりだしものです。オランダ
語の
勉強がうんとすすまれたから、こういうほりだしものをみつけられたんですね、きっと。わたしなどには、一
年や二
年でよみとおせるものではございません。けれども、せめて、
絵図ともくじだけでも、
一とおりはいけんしたいものですが、いかがでしょう、四、五
日、かしていただけませんか。」
おもいきって、こう、きいてみました。すると、
壱岐は、ほめられたのが、よほどうれしかったとみえて、
「ああ、いいとも。四、五
日でよいなら、もっていきなさい。」
といいました。よろこんだ
諭吉は、
壱岐の
気持ちがかわらぬうちにと、
原書をだいじにかかえて、いそいで
家にかえってきました。
さっそく、
羽ペンと
墨汁と
紙を
用意して、二百ページあまりの
築城書を、かたっぱしからうつしはじめました。なにしろ、
人にしられてはたいへんなので、
家のおくにひっこみ、だれにもあわず、
昼も
夜も、
力のかぎり、むちゅうになってうつしました。
このとき
諭吉は、
城の
門番をするつとめがありました。
三日に一どは、その
番がまわってきます。その
日だけは、
昼はうつすことができません。しかし、
夜になると、こっそりとはじめて、
朝、
城の
門があくまでうつしました。
顔ははれぼったくなり、
病人のようにみえました。
横文字をうつすこともたいへんですが、もしも、このことが
壱岐にわかったら、ただ
原書をとりかえされるだけではすまないかもしれません。いろいろとむずかしいことになるだろうとおもうと、その
心配は
一とおりではありません。
(まるで、どろぼうをしているようなものだ。)
と、
壱岐にたいして、わるいとおもいましたが、
(でも、
壱岐はわるだくみで、
自分を
長崎からおいだしたんだから、まあ、これで、あいこというものだ。)
と、
自分で
自分のやっていることをいいわけしてなぐさめ、とうとう、
二十日ばかりでうつしおえました。
「せっかくおかしいただいたのですが、もくじをみても、ちんぷんかんぷんで、なにがかいてあるのか、よくわかりませんでした。それで、つい、おそくなってしまいました。」
諭吉が、こういってかえしますと、
壱岐は、かえって、うれしそうな
顔つきをしました。これで、
壱岐には、なにもしられずにすみ、
諭吉はほっとしました。
とどうじに、
諭吉は、このぬすみうつした
築城書をよんでみたくなりました。それには、
大阪へいって、みっちり
勉強しなければなりません。けれども、
年とったお
母さんが、どんなにさびしがるだろうとおもうと、
諭吉の
心はまよいました。でも、おもいきって
諭吉がはなしますと、お
母さんは、
気持ちよくゆるしてくださいました。
大阪へいくとなると、あとのしまつをしておかなければなりません。
兄さんの
病気などで、
借金がだいぶありました。そこで、
家のどうぐなどを
売りはらって、それをかえしてしまいました。
しかし、
諭吉は、これまでとはちがって、
福沢家のあととりとなったのですから、
藩のゆるしがなければ、
中津から一
歩も
外へでることができません。
蘭学の
勉強にいきたいというねがいをだしました。すると、したしくしているかかりの
人が、
「
蘭学しゅぎょうというのは、さきにれいがないし、ぐあいがわるい。
砲術しゅぎょうにいきたいというねがいにしたほうがよい。」
と
注意してくれました。
「しかし、
緒方洪庵先生といえば、
大阪でもゆうめいな
医者ですよ。その
医者のところへ
砲術しゅぎょうにいくというのは、おかしいではありませんか。」
諭吉がたずねますと、
「いや、そうしたほうがよい。そうでないと、なかなかゆるしがでないから。」
というのでした。
かたちやていさいだけにこだわる
役所のやりかたをばかばかしくおもいましたが、とにかく、そういうねがいにかきかえてだしますと、かかりの
人がいったとおり、ゆるしがでました。
大阪へふたたびやってきた
諭吉は、すぐ
緒方先生のところへいきました。二か
月ぶりにあった
先生に、
諭吉は、
中津であったいろいろなことをほうこくし、かりた
原書をうつしてしまったこともはなしました。
「そうか。それは、ちょっとのあいだに、けしからぬことをしたような、また、よいことをしたようなものじゃな。はっはっは。」
とわらいながら、ことばをつづけて、
「ところで、いまの
話で、おまえには、どうしても
学資(
勉強するためのお
金)がでないことがわかったから、わたしがせわをしてやりたい。しかし、ほかにも
書生がいることだし、おまえ
一人にえこひいきするようにみられては、おたがいによくない。どうだろうな、その、おまえがうつしたという
築城書は、おもしろそうだから、それをおまえにほんやくしてもらうということにしては……。うん、それがよい。そうしなさい。」
と、しんせつにいってくれました。
諭吉は、よろこんで、その
日から、
適塾にねとまりして、
勉強することになりました。ここには、
日本じゅうのあちこちから、
西洋医学の
勉強をこころざす
青年や、
諭吉のように、
医学ではなく、ただ
蘭学をまなびたいという
青年たちが、八、九十
人もあつまってきておりました。
塾にねとまりしているものもおおぜいいました。
この
塾では、はじめて
入学したものには、
上級生が、ガランマチカ(
文法)をおしえ、やさしい
文のよみかたとやくしかたをおしえました。これがすむと、セインタキス(
文章法)をおしえ、すこしむずかしい
文をならわせます。この二つがわかるようになると、あとは、
自分で
勉強をすすめていくのです。
勉強のていどによって、クラスが七つか八つにわかれていて、クラスごとに五
人とか十
人とかがあつまって、
一人ずつじゅんばんに
原書をよんで、
日本語にやくします。これを
会読といいますが、わからないところがあっても、だれにもきくことはできません。ただ、ドクトル=ズーフというオランダ
人のつくった、
大きな「ハルマ」という
字引をひいて、
自分でかんがえるのでした。
原書といっても、
塾にあるのは、
物理学と
医学の
本だけで、一つのしゅるいのものは一さつずつしかなく、ぜんぶで十さつばかりでした。そこで、おおぜいの
生徒が
勉強するには、くじで、じゅんばんをきめて、めいめいに
原書を
半紙に四、五まいぐらいうつしとるわけでした。それに
字引は一さつしかありませんから、たいへんでした。
会読は、
毎月きまった
日に六
回ぐらいおこなわれました。よくできた
人には
白まる、できなかった
人には
黒まる、わりあてられた
文章がぜんぶできたものには、
白い三
角のしるしをつけます。これで三か
月つづけて
白い三
角をもらった
人は、一つ
上のクラスにすすむことがゆるされました。ですから、ふだんは
兄弟のようになかのよい
生徒たちも、このときばかりは、はげしいきょうそうになりました。
諭吉は、まえに
勉強していたので、こんどは
中級のクラスにはいりました。
夕食をすますと、すぐ
一ねむりして、
夜の十
時ごろに
目をさまし、それからずっと
本をよみます。
明けがた、
台所のほうで
朝食のしたくのはじまる
音をきくと、もう一どねむり、
朝食ができあがるころにおきて、すぐ
朝ぶろにいき、かえって
朝食をすますと、また
本をよむといったありさまでした。
そのため、せいせきはぐんぐんあがって、とうとう、
塾にある
本をぜんぶよんでしまい、
力もついてきました。こうして、三
年たつうちに、
諭吉は、
先生からみとめられて、
塾長になりました。
けれども、
諭吉は
勉強の
虫になったわけではありません。おおいに
勉強するとともに、かなりないたずらもやってのけ、おおいにあそんだのです。
新入生は、
緒方先生に
入門料をおさめますが、そのとき
塾長の
諭吉にも、いくらかのお
礼をもってきます。
月に
新入生が四、五
人もあれば、ちょっとした
金額になります。これでなかまをさそって
牛肉屋へいって、
牛なべをつつきながら、
酒をのみました。そのころ
牛なべをつつくのは、
品のわるいものがやることで、いれずみをした
町のごろつきと、
適塾の
書生とにかぎられていました。
諭吉は、
子どものときからの
酒ずきだったものですから、ずいぶんお
酒をのみました。
こづかいがなくなると、ズーフの
字引をうつします。あちこちの
藩から、
字引をうつしてくれという
注文がありますので、そのうつし
代をかせぐわけです。それでも、こづかいにこまって、しかも、
酒がのみたいというときには、こんなこともやりました。
道修町のくすり
屋にくまがとどいて、そのくすり
屋の
主人が、
適塾の
書生さんに、かいぼうをしてみせてもらいたいと、たのんできました。それはおもしろいというので、
諭吉は
医者しぼうではないからいきませんでしたが、
塾から七、八
人がそろってでかけていって、かいぼうにとりかかり、これがしんぞうで、これが
肺、これがかんぞうだ、とせつめいしてやると、
「まことに、ありがとうございました。」
といって、くすり
屋の
主人は、さっさとかえってしまいました。これは、
適塾の
書生にかいぼうしてもらえば、くすりにするくまのきもが、うまくとれるとかんがえてしくんだものですから、くまのきもさえとれれば、
用事がすんだわけでした。
塾の
書生たちには、このことがわかっていますから、おさまりません。
諭吉が
中心となって、くすり
屋にかけあう
手紙をかき、
使者にいくのはだれ、おどかすのはだれ、と、それぞれの
役をきめて、かけあいにいきました。くすり
屋の
主人も、これにはこまったとみえて、ひらあやまりにあやまり、
酒を五しょうに、にわとりとさかななどをお
礼としてだしました。
「これはしめた。」
とばかり、その
夜、
諭吉たちがおおいにのんだのは、いうまでもありません。
ところが、この
酒のみのことで、
諭吉は
大しっぱいをやりました。
夏の
夜のことでした。
大阪の
夏はあついので、
諭吉たちは、まるはだかでねることにしていました。
諭吉が二かいの
部屋にねていますと、
下から
女の
人の
声で、
「
福沢さん、
福沢さん。」
とよびます。
諭吉は
夕がた
酒をのんで、いまねたばかりです。
「うるさいなあ。いまごろ、なんの
用があるのか。」
と、むっとして、まるはだかのままとびおきて、はしごだんをおりて、
「なんの
用だ。」
と、ふんぞりかえったところ、なんと、
緒方先生のおくさんではありませんか。にげようにもにげられず、
諭吉は
酒のよいがいっぺんにさめてしまいました。おくさんも、きのどくにおもったのか、なにもいわず、おくのほうにひっこんでしまわれました。
諭吉は、そこではんせいをしました。
(
酒をのんでいたから、こんなしっぱいをしたのだ。よしっ、
酒をやめてしまおう。)
それから、ぷっつりと
酒をやめました。なかまのものは、びっくりしました。
中には、
「なあに、
三日ぼうずで、すぐにのみだすにちがいない。」
と、ひやかし
半分にみているものもありましたが、
十日たち、十五
日たっても、
酒をのみません。
高橋という
親友が、
「きみのしんぼうはたいしたものだ。みあげてやるぞ。しかし、
人間というものは、たとえわるいならわしでも、きゅうにやめることはよくない。きみが、いよいよ
酒をのまぬことに
決心したのなら、そのかわりにたばこをはじめたらどうか。
人間には、なにか一つぐらいたのしみがなくてはいけないぞ。」
と、しんせつらしくいってくれました。
諭吉は、たばこはだいきらいで、これぐらい、なんのたしにもならぬものはないと、さんざんにわる
口をいっていたのですが、
高橋のいうことも一つのりくつだとおもい、たばこをはじめました。はじめのうちは、からくてくさくて、いやでしたが、だんだんになれていき、一か
月もたつうちには、たばこのみになってしまいました。
いっぽう、
酒のほうもわすれることができません。いけないとはしりながら、ちょいと一ぱいやってみました。すると、もう一ぱいのみたくなります。けっきょく、
酒はまたのむようになり、たばこものむようになってしまいました。
諭吉たちのやることは、せけんの
人々からみると、いたずらとしかみえませんが、じつは
研究ねっしんのせいでした。
諭吉たちは、いつも
原書と
首っぴきでじっけんにはげみました。
あるとき、ろしゃ(
塩化アンモニウムのべつの
名)をつくってみることになりました。それにはまず、アンモニアをつくらなければなりません。アンモニアはほねからとりますが、ほねのかわりに、うまのつめのけずりくずを、たくさんもらってきて、とっくりの
中に
入れ、
外がわに
土をぬりました。
また、すやきの
大きなかめを
買ってきて、しちりんのかわりにし、
火をどんどんおこして、その
中へ、とっくりを三
本も四
本も
入れて、うちわでバタバタあおぎました。すると、とっくりの
口につけたくだのさきから、たらたらと
液がながれてきました。これがアンモニアですが、そのくさいこと、くさいこと、
塾のせまい
庭でやっているのですから、たまりません。
緒方先生のうちのほうでも、
気持ちがわるくなって、ごはんもたべられない、ともんくがでました。いやなにおいが
着物にしみこんでしまって、
夕がた、ふろ
屋にいくと、
着物ばかりか、からだにまでくさいにおいがしみついていて、みんなからはいやがられるし、いぬさえもほえついてきました。
「このごろ、
適塾の
書生さんたちは、
酒どっくりをちっともかえしてくれないが、どうしてだろう。」
酒屋のおやじさんが、こっそりさぐらせると、なにかひどくくさいにおいのするもののじっけんにつかっているというのです。
酒屋はその
後、なんといっても
酒をもってこなくなりました。これには、みんなこまりました。
このときのじっけんでは、アンモニア
水をつくれたものの、かたまらず、かんぜんなろしゃになりませんでしたし、あまりくさいので、いったんうちきることにしました。しかし、せっかくできかかったものをやめてしまうのは、
学者のふめいよだというので、二、三
人のものは、
淀川に
船をうかべて、じっけんをつづけました。
ところが、
風むきによって、そのくさいにおいが、
川から
町のほうへながれていくので、またそこからもんくがでました。それで、
川上のほうへのぼったり、
川下のほうへくだったりしながら、
研究をつづけるというありさまでした。
このように、
適塾の
書生たちは、ときにしっぱいしたり、ときには、せけんの
人々からしかられるようなこともしましたが、どれもこれも、
青年らしい、あたらしいことをしりたいという、はげしい
気持ちのあらわれでした。
自分たちだけが、
西洋のすすんだ
学問にせっしているのだというほこりが、みんなの
心の
中にありました。そうして、
本をよむだけでなく、じっさいに
自分でやってみて、あたらしい
知識を
身につけ、
世の
中に
役だつ
学問をすすめようと、
勉強にうちこんでいるのでした。
こうした
適塾の
生徒の
中から、わかい
革命家の
橋本左内、
軍人・
政治家の
村田蔵六(のちの
大村益次郎)、
医療の
制度をあらためた
長与専斎、
日本赤十字社をつくった
佐野常民など、のちに
幕末から
明治にかけてかつやくした
人たちがでました。
むろん、
諭吉も、その
中の
一人でした。
勉強をすればするほど、
諭吉は
西洋の
学問のすすんでいることがわかり、
日本も、おそかれはやかれ、これをもっとねっしんにとり
入れなければならない
日がくるにちがいない、とかんがえるようになってきました。
[#改ページ]
適塾でねっしんに
勉強している
諭吉のもとへ、とつぜん、
江戸の
中津藩奥平家のやしきから、
使いのものがやってきました。それは
安政五(一八五八)
年の
秋の
日のことで、
諭吉は二十五さいになっていました。こんど
蘭学の
塾をひらくことになったから、その
先生になってほしいというのです。これは
藩のめいれいですから、
諭吉はしょうちして、いよいよ
江戸へいくことになりました。
諭吉は、べつにけらいなどいりませんが、
藩からけらい
一人ぶんの
旅費がでましたので、
塾のなかまに、だれか
江戸へいきたいものはないかといいますと、
岡本周吉と
原田磊蔵という
友人が、いっしょにつれていってくれともうしでましたので、三
人で
東海道をあるいて、
江戸へむかいました。
江戸についたのは、十
月もおわりごろで、もう、すこしうすらさむいきせつでした。
木挽町汐留(いまの
新橋のふきん)にある
奥平やしきにいきますと、
鉄砲洲(
築地)にある
中やしきの
長屋をかしてくれるということでした。
諭吉は
岡本と
二人でそこにすんで、
塾をひらくことになりました。
もう
一人、いっしょにきた
原田は、
下谷の
大槻というお
医者のところへいきました。
諭吉のところへは、そのうちに、オランダ
語をならいに、
生徒がぼつぼつやってきはじめました。
中津藩の
子どもばかりでなく、ほかからも
入門するものがあって、十
人あまりの
生徒に、
諭吉は、
毎日オランダ
語をおしえていました。
ところで、この
長屋は、そのときから八十八
年まえの
明和八(一七七一)
年に、
前野良沢や
杉田玄白たちが、オランダのかいぼう
学(
生物のからだをきりひらいて
研究する
学問)の
本を、くしんしてやくした
場所なのでした。それは「
解体新書」といって、
日本のあたらしい
医学にたいへん
役だちました。
そのことをきいた
諭吉は、ふかいかんげきをおぼえ、
「よしっ、この
塾を、
江戸でいちばんりっぱな
蘭学塾にしてみせるぞ。」
とはりきりました。
それにつけても、
江戸の
蘭学者たちの
力はどれほどのものであろうか、それをしっておきたいとおもいました。
ある
日、
島村鼎甫という
蘭学者をたずねてみました。
島村はやはり
緒方先生のところでまなんだことのある
医者で、
江戸にきて、オランダの
本のほんやくなどをしているのでした。ですから、
二人はすぐしたしくなりましたが、このとき、
島村は、
生理学(
生物のからだのはたらきを
研究する
学問)の
原書をほんやくしているところで、その
本をもってきて、
「ここのところが、どうもわからなくてよわっていたところだ。きみ、ひとつ、やってみてくれないか。」
といいました。
諭吉がよんでみますと、なるほどやくしにくいところでした。
「ほかの
人にも、そうだんしてみましたか。」
「ええ、もう、
友だち五、六
人にはなしてみたんだが、どうしてもわからないというんだ。」
そこで
諭吉は、三十
分ばかりかんがえているうちに、ちゃんとわかってきたので、
島村にせつめいしてやりますと、
「なるほど、そうか。やはり、
大阪じこみはたいしたものだ。」
と、
諭吉の
力をほめてくれました。これで、
蘭学は
大阪のほうがすすんでいたことがわかり、
諭吉は、
心の
中でほっとあんしんしました。
それからのちも、
諭吉は、
原書の
中から、むずかしい
文章をひっぱりだして、
「ここは、むずかしくてわかりませんが、どうやくしたらよいでしょうか。」
ともちかけて、いろいろな
学者たちの
力を、それとなくためしてみましたが、あまりすぐれた
人はみあたりませんでした。
ですから、
諭吉が、やがて
江戸一
番のひょうばんをとるようになったのも、あたりまえのことといわなければなりません。
諭吉はまことによい
気持ちでした。てんぐにさえなっていました。ところが、
諭吉のそのてんぐの
鼻をへしおるような、たいへんなことがおこったのです。
嘉永六(一八五三)
年の六
月に、アメリカからペリーがやってきて、
開国をせまったことは、まえにかいておきましたが――
幕府は、一
年のちに
神奈川(いまの
横浜)で、アメリカとのあいだに
和親条約(おたがいになかよくしようというとりきめ)をむすびました。ところが、それだけでは、
日本をほんとうに
開国させたということにならないので、アメリカは、ぜひ、
修好通商条約(
商売のとりきめ)をむすぼうとかんがえるようになりました。そのため
安政三(一八五六)
年に、ハリスがアメリカの
総領事として、
伊豆の
下田(
静岡県)へやってきて、
幕府とこうしょうしました。
けれども、
日本の
中では、
外国人をおいはらえといううんどうがさかんになり、
幕府としては、これをおさえる
力がなく、なかなかはっきりしたたいどがきまりません。
京都の
朝廷(
天皇がた)も、
修好通商条約をむすぶことにははんたいでした。いっぽう、ハリスからのさいそくはつよくなりました。そこで、
大老の
井伊直弼は、
自分だけの
考えで、この
条約にはんをおしてしまいました。
その
日は、
諭吉が
江戸へでてくる四か
月ほどまえの、
安政五(一八五八)
年六
月十九
日のことでした。
つづいて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスの四か
国とも
条約をむすび、すでに
日米和親条約で
開港されていた
下田・
箱館(
函館)にくわえて、ちかいしょうらい、
神奈川(
横浜)・
長崎・
新潟・
兵庫(
神戸)のみなとをひらくことがきめられました。
よく
年には、
横浜に
外国人がやってきて、ぼうえきをすることがゆるされました。これまでは、
小さな
漁村だったのですが、きゅうにいきいきとした
町になりました。このあたらしくひらけた
横浜を、
諭吉はぜひみておきたいとおもいました。
そこで
諭吉は、ま
夜中の十二
時ごろに
江戸をでて、
夜の
東海道をあるいて、
夜明けごろに
横浜につきました。さっそく
海岸のほうへいってみました。けれども、みなととしてひらけたばかりなので、まだ
外国人のすがたもすくなくて、きゅうごしらえのそまつな
西洋館が、ぽつぽつたてられ、
店がいくつかならんでいるだけでした。
それらの
店を、
諭吉はめずらしそうに、きょろきょろとみまわしながら、あるいているうちに、
「はてな。」
と、
首をひねりました。どの
店のかんばんをながめても、
店さきにならんでいるしなものをみても、かいてあることばが、さっぱりよめないではありませんか。
外国人どうしがはなしていることばも、
諭吉のとくいなオランダ
語とはちがっているようで、なにがなにやら、すこしもいみがわかりません。
さんざんあるきまわったすえ、ある一けんの
店によって、オランダ
語ではなしかけてみました。すると、
店の
主人はドイツ
人でしたが、さいわい、オランダ
語のわかる
人でした。
諭吉の
発音がわるいので、うまくつうじませんが、
紙にかけばわかるというので、
諭吉がかいてみせますと、
「おお、あなたは、オランダ
語、なかなかうまいことあるね。でも、ここでは、まったく
役にたたない。
英語でなければだめ。みんな、
英語しゃべっている。かんばんも、なにもかも
英語ばかりね。」
と、
店の
主人からいわれました。
「そうか、
英語でなければだめか。」
と、
諭吉はかんがえこんでしまいました。
店の
主人がすすめたオランダ
語と
英語との
会話の
本など、二、三さつを
買うと、
諭吉は、おもい
足をひきずって、
江戸へかえってきました。
ちょうど
夜中の十二
時ちかくでしたから、まるまる二十四
時間、
諭吉はあるいていたわけで、へとへとにつかれきっていました。けれども、それは、あるきつかれたからだけではありません。五、六
年もかかって、いっしょうけんめい
勉強したオランダ
語が、なんの
役にもたたないことを、じっさいにしって、がっかりさせられたからでした。
「なんというばかなことをしたものだ。」
と、
諭吉はなきたいくらいでしたが、
「でも、くよくよしていてもはじまらぬ。よし、こんどは
英語の
勉強をするんだ。」
諭吉は、そのつぎの
日から、
英語の
勉強にとりかかりました。
とはいっても、いったい、どこで、だれに
英語をおそわったらいいのか、さっぱりけんとうがつきません。そのころの
江戸には、
英語をおしえてくれる
先生など、
一人もいませんでした。でも
諭吉は、あきらめないで、あちこちたずねているうちに、
耳よりな
話をききました。それは、
長崎でつうやくをしている
森山多吉郎という
人が、いま
江戸にきて、
幕府のご
用をつとめているが、
英語ができるといううわさをきいたのです。
諭吉はたいへんよろこんで、さっそく、
森山をたずねていきました。
森山は、
諭吉のねっしんなたのみをきいてはくれましたが、
幕府の
仕事がいそがしくて、おしえてくれる
時間がなかなかありません。
「それでは、まあ、せっかくならいたいということですから、
毎日、
朝はやくおいでください。
役所へでかけるまえに、おしえてあげましょう。」
といってくれました。
そこで、
諭吉は、
朝はやくおきて、
鉄砲洲から
森山先生のすんでいる
小石川まで、八キロメートルあまりを、てくてくとあるいてかよいはじめました。ところが、
森山先生の
家についてみると、
「きょうはおきゃくがきているから。」とか、
「もうすぐ
役所へでかけなければならないから。」
といってことわられ、
毎朝のように、むだ
足をふみつづけました。それでも、
諭吉は、こんきよくかよいました。
森山先生はこれをみて、きのどくにおもい、
「どうも
朝はだめだから、あすからは、ばんにきてみてください。」
といいました。
それで
諭吉は、こんどは
夕がたにかよいはじめましたが、
森山先生は、あいかわらずいそがしくて、おしえてくれるひまがありません。およそ三か
月ほどかよいましたが、とうとう、なにもおしえてもらえませんでした。おまけに、
森山先生も、それほど
英語ができるわけでもないことがわかりましたから、
諭吉は、
森山先生からおそわることをあきらめてしまいました。
それからは、
小さい
字引を
手に
入れて、
自分一人で
英語の
勉強に
力をそそぎました。けれども、おもうようにはすすみません。
(これは、
一人ではだめだ。おなじようななやみをもっている
友だちをみつけて、いっしょに
勉強すれば、きっとすすむにちがいない。)
こうおもった
諭吉は、
友だちの
神田孝平にあってはなしてみますと、
「じつは、わたしもやってみたのだが、さっぱりわからない。もう、こりごりだ。まあ、きみは、いつでも
元気がいいから、おおいにやってみることだね。」
と、あいてになってくれません。
そこで、こんどは、
村田蔵六(のちの
大村益次郎)にすすめてみました。すると、
「なにも、そんなくろうをすることないじゃないか。やめたほうがよい。ひつような
本なら、オランダ
人がほんやくするから、それをよめばよいじゃないか。」
といわれてしまいました。
これではしかたがないので、三
番めに
原田敬策のところへいってはなしてみますと、
「そうか、それはおもしろい。ぜひやろう。
二人ならば
気がつよい。どんなことがあっても、やりとげようじゃないか。」
と、さんせいしてくれました。
こうして、なかまをみつけることのできた
諭吉は、それからというものは、すこしでも
英語をしっている
人があれば、すぐにたずねていって、おしえてもらうといったありさまでした。
だんだん
勉強をしていくうちに、
英語がオランダ
語にかなりにていることがわかってきました。そうして、
英語の
力がめきめきとすすんでいきました。
「このたび、アメリカへいかれるそうですが、わたしをぜひつれていってください。」
と、
諭吉はつてをもとめて、はじめてあった
幕府の
軍艦奉行木村摂津守喜毅に、しんけんにたのみこんでいました。それは、
安政六(一八五九)
年の
冬のある
日のことでした。うん、うんと
諭吉のことばをきいていた
木村は、
「よろしい。それほどのぞまれるのなら、つれていってあげよう。」
と、その
場でしょうちしてくれました。
じつは、
幕府は、まえにとりきめたやくそくにしたがって、
条約書をとりかわすために、アメリカへ
新見豊前守・
村垣淡路守・
小栗豊後守の三
人を
使節として、おくることになりました。この
使節たちは、アメリカからむかえにきた
船、ポーハタン
号にのって
太平洋をわたるわけですが、それといっしょに、
幕府は、
日本の
軍艦咸臨丸をアメリカへいかせることにしました。それにのりこむのは、
軍艦奉行の
木村摂津守喜毅です。
軍艦というからには、たいそう
大きな
船のようにきこえますが、わずか二百五十トンで、みなとの
出はいりだけにじょうきをたき、あとはただ、
風をたよりにすすんでいかなければならない、ちっぽけな
船でした。
乗組員は
艦長の
勝麟太郎(
海舟)ら九十六
人、ほかに
日本の
近海を
測量にきて、なんぱしたアメリカの
海軍士官ブルック
大尉ら十
人がのりました。
咸臨丸は、
万延元(一八六〇)
年一
月十九
日、
使節たちをのせた
船よりも
一足さきに
浦賀を
船出しました。
冬のことですから、
北風がつよく、くる
日もくる
日も、あらしにおそわれました。
船は
木の
葉のようにゆれ、たかい
波はかんぱんにおどりあがり、うっかりしていると、
人間もころがされるしまつで、みんな
青い
顔をしていました。けれども、
日本人が
自分たちの
軍艦で、はじめて
太平洋をわたるのだというほこりがあるので、みんな
力をあわせて、あらしとたたかいました。こうして、
日本暦で二
月二十六
日に、ぶじにサンフランシスコにつきました。
サンフランシスコの
人々は、たいへんなかんげいぶりをみせました。ちょんまげに、はおりはかまをつけ、こしに
刀をさした
日本人のかっこうが、ものめずらしかったせいもありましょうが、ちっぽけな
船で
太平洋のあら
波とたたかってきたということに、よりおおく
感動したのにちがいありません。
馬車にのせて、りっぱなホテルにあんないし、
町のおもだった
人々が、あとからあとからとおしかけて、
下にもおかないもてなしぶりでした。あらしにもまれてこわれた
咸臨丸も、ただでなおしてくれました。
諭吉は、
西洋の
本をたくさんよんでいたので、だいたいのようすはしっていたのですが、じっさいに
目でみるのははじめてです。そうして、百
聞は一
見にしかず、ということわざのとおりだと、つくづくかんじました。
日本ではとても
高価なじゅうたんが、
部屋いっぱいにしきつめてあって、アメリカ
人がその
上をくつのまま、へいきであるいているのにもおどろきましたが、どの
家にもガス
灯がついていて、
夜も
昼のようにあかるいのを、うらやましくおもいました。また、いろいろのあつまりで、アメリカ
人が、
男と
女と
手をくんでダンスをやるのをみて、びっくりしました。
諭吉は、
電信や、めっき
工場、さとうの
製造所などもみてまわりましたが、みな
本でよんでいることばかりなので、そのしくみにはさほどおどろきませんでした。
わからないのは、
政治や
社会のしくみでした。ある
日、
諭吉はたずねてみました。
「ワシントンの
子孫のかたは、いまどうしていますか。」
「さあ、どうしていますかねえ。ワシントンにはたしか、むすめがいたはずですから、だれかのおくさんになってるんでしょうね。」
このへんじには、おどろいてしまいました。
アメリカの
初代大統領のジョージ=ワシントンといえば、
日本では
鎌倉幕府をひらいた
源頼朝か、
江戸幕府をひらいた
徳川家康とおなじようなものです。
徳川家のものがずっと
将軍をついでいる
日本とくらべて、なんというちがいでしょう。
もちろん、
諭吉はアメリカが
共和国で、
大統領が四
年ごとの
選挙でかわることはしっていました。が、じっさいにアメリカ
人からきいて、なんともふしぎな
気がしました。
諭吉は、いっしょにいった
中浜万次郎とはなしあって、ウェブスターの
辞書を一さつずつ
買いました。これが
日本にウェブスターの
辞書がはいったはじめです。
中浜万次郎は、ジョン=マンともいい、
土佐(
高知県)のりょうしでした。あらしにあってひょうりゅうしているところを、アメリカの
捕鯨船にすくわれ、アメリカで
勉強して
運よく
日本にかえり、
幕府につかえ、つうやくとしてのりくんでいたのです。
すこしおくれて、サンフランシスコについた
条約とりかわしの
使節たちが、ワシントンへいくのとはんたいに、
諭吉たち
咸臨丸の一
行は、
日本へひきかえすことになり、五十
日あまりをすごしたサンフランシスコをあとにして、とちゅうハワイによってから、
日本へもどりました。なつかしい
日本にかえりついたのは、もう
木々のわか
芽が、みどりの
葉にかわる五
月のはじめのことでした。
諭吉がいなかったわずかのあいだに、
日本のようすはとてもかわっていました。
京都の
朝廷と
江戸幕府とのあらそいがはげしくなり、
国をひらくことにさんせいの
人と、
外国人をおいはらえという
人たちのあいだには、いまにもたたかいがおこりそうな、ふあんな
空気がただよっていました。そうして、この
年の三
月三日には、
桜田門外で、
水戸の
浪士(
主人をもたないさむらい)が、
幕府が
開国したことをおこって、そのせきにん
者である
大老の
井伊直弼をおそうというじけんまでありました。
しかし、アメリカのりっぱな
文明を
自分の
目でみてきた
諭吉は、これを
日本にとり
入れなければならないとおもいました。
そこで、
諭吉は、
鉄砲洲の
塾にもどると、もうオランダ
語をおしえることはやめて、
英語ばかりおしえることにしました。しかし、
英語をおしえるといっても、
諭吉は、
字引をたよりに、
一人で
勉強したわけですから、
英語を
自由によみこなすことはできません。ですから、
生徒におしえながら、
自分もいっしょに
勉強するのでした。
そうしているうちに、
木村摂津守のせわで、
諭吉は、
幕府の
外国方(いまの
外務省のような
役所)のほんやくがかりとしてつとめることになりました。それは、
外国からさしだしてくる
文書を、
日本語になおす
役でした。おかげで、
世界の
国々のようすがよくわかりますし、
英語の
勉強にも
役だちました。
この
年がくれて、
文久元(一八六一)
年になると、
諭吉は、おなじ
中津藩の
上級士族、
土岐太郎八の
次女錦とけっこんしました。
ところが、その十二
月に、
諭吉はヨーロッパへいくことになりました。それは、
幕府がこんどはヨーロッパ
各国へ
使節をおくることになり、
諭吉はほんやくがかりとして、くわわることをめいぜられたからです。
外国奉行の
竹内下野守・
松平石見守・
京極能登守の三
人が
使節で、その
役目は、まえにやくそくしていた
江戸・
大阪・
兵庫(
神戸)・
新潟でとりひきをはじめるのを、すこしのばしたいという
話しあいをするためでした。
使節の一
行は、イギリスの
軍艦オージン
号にのりこみ、
品川から
出発しました。一
行は四十
人たらずでしたが、
外国では、たべものが
不自由だろうというので、
白米を
何日ぶんも
船につみこんだり、
宿がくらくてはこまるとおもい、ろうかにつける
金あんどんや、ちょうちん・ろうそくまでそろえてもっていきました。まるで、
大名が
東海道をとおって、
宿屋にとまるときとおなじような
用意をしたわけでした。
ところが、パリについてみると、まったくむだなじゅんびをしたことに
気がつきました。あんないされたのは、ホテル=デ=ローブルという、五かいだての、お
城のように
大きいホテルでした。
部屋が六百、はたらいている
人が五百
人もおり、おきゃくも千
人ぐらいはとまれるほどの
広さでした。
部屋には、
冬だというのに、あたたかな
空気がほかほかとここちよくながれ、
部屋にもろうかにも、ガス
灯がいっぱいついていて、
夜もまるで
昼のようにあかるいのです。それに、すばらしいごちそうがでました。
ですから、せっかく
用意してきた
金あんどんや、ちょうちんなどは、はずかしくてだせません。また、たくさんの
白米も、すっかりじゃまものになってしまいました。そこで、せわがかりの
下役の
男に、ただでもらってもらうというありさまでした。
シガー(たばこ)とシュガー(さとう)をまちがえて、たばこを
買いにやったら、さとうを
買ってきたというような、わらい
話のようなしくじりもありましたが、もっとけっさくもうまれました。
ある
夜、
諭吉がホテルのろうかをあるいていくと、
使節のけらいが、ろうかでしゃちこばって、ぼんぼりをもって
番をしているではありませんか。なにごとかとおもってよくみると、
使節の
一人が、
大便をしに
便所にいったおともでした。
便所の二つもあるドアはみなあけはなされ、そのおくでは、いまや
一人の
使節が、
日本流に
用をたしているのが、まる
見えです。ろうかは、
外国の
男女がいききしているのですから、はずかしいったらありません。
びっくりした
諭吉は、そのおもてにたちふさがって、ものもいわずにドアをしめ、それから、けらいにわけをはなしてやりました。
こうしたしくじりをやりながら、
使節の一
行は、フランス・イギリス・オランダ・ドイツ・ロシアの
国々をたずねて、やく一
年間、ヨーロッパの
旅をつづけました。イギリスでは、
議会があって、
政党というものが、おたがいに
政治のやりかたや、
意見のうえであらそい、せんきょによって
勝ったほうの
政党が
国の
政治をやるしくみになっているときかされましたが、
諭吉には、よくのみこめませんでした。
しかし、こんどの
旅行ではじめて
鉄道にのって、そのべんりなことがわかり、すべての
点で、
西洋がすすんでいることをじっさいにしったので、
諭吉は、
政治のやりかたについても、きょうみをもちました。
ロシアでは、
医者が
病人のしゅじゅつをするところをみせてくれました。
諭吉は、だいたんな
人間であるくせに、
子どものときから、
血をみるのがだいきらいだったものですから、
医者がメスを
入れて、ぱっと
血がとびだすのをみると
気持ちがわるくなり、
気がとおくなってしまいました。いっしょにいったものが、
諭吉を
外につれだし
水をのませると、やっと
正気にかえりました。
ところが、
使節のつとめは、うまくいきませんでした。
話しあいやかけひきが、へただったせいもありましょうが、そのころの
日本の
国内では、
外国人をおいはらえといううんどうがさかんで、
外国人をただむやみにきったりきずつけたりするじけんが、いくつかおこったからです。
そのため、はじめフランスへいったときには、ひじょうによろこんでむかえられたのに、
各国をまわって、ふたたびフランスへもどったときには、まるで、にくいかたきにでもあったように、つめたいあつかいをうけなければなりませんでした。
それは、ちょうどこのとき、
日本で
生麦じけんがおこったという
知らせが、フランスへつたえられたからでした。
薩摩(いまの
鹿児島県)のとのさまの
行列が、
江戸をたって
国へかえることになり、
東海道の
生麦村(いまは
横浜市内)をとおっていたとき、
横浜にきていたイギリス
人がうまにのってやってきて、ばったりぶつかったのです。
そのころ、
大名行列といえば、
道ばたの
家は
雨戸をおろし、とおりかかったものは
道をよけて、とおくから
土の
上にすわって、とのさまののったかごをおがまなければならないほどでした。そんなことをイギリス
人はしりませんから、
行列をよこぎろうとしたのです。それを、ぶれいものというので、きりころしてしまいました。
これにたいして、イギリスは
幕府にこうぎをしましたが、フランスも、このような
日本人のやりかたをふんがいしたからです。
諭吉は、このヨーロッパ
旅行で、
日本は
国をひらいて、
西洋の
文明をとり
入れなければならないという
考えをつよめました。そこで、
役所からうけとったお
金の
大ぶぶんで、
原書をたくさん
買ってかえってきました。
けれども、
日本ではあべこべに、
外国人をおいはらえといううんどうがさかんになり、
諭吉のように、
外国の
本をよみ、ヨーロッパがえりの
人間だといえば、いつ、なにをされるかわからない、ぶっそうな
世の
中になっていました。こういううごきは、まえまえからあったのですから、
諭吉は、べつにこわいともおもっていなかったのですが、
友だちのいく
人かが、じっさいにあぶないめにたびたびあっているので、
(これは
気をつけなければいけない。)
とかんがえなおしました。
そうしたある
日、
本をよみふけっている
諭吉の
部屋に、
女中があわててはいってきました。
「みょうなおきゃくさまがいらっしゃいました。」
「どんな
人かね。」
「
大きなかたで、
目はかた
目で、ながい
刀をさしています。」
「そりゃ、ぶっそうな
人のようだが、
名はおたずねしたか。」
「はい、おききしましたが、お
目にかかればわかるからとおっしゃって……。」
どうも、うすきみがわるいとおもったので、
諭吉は、しょうじのすきまから、そっとげんかんのほうをのぞいてみました。すると、そこには、
緒方先生のところでいっしょに
勉強していたことのある
原田水山という
友だちがたっているではありませんか。ほっとした
諭吉は、げんかんへでていって、おもわず、
大きな
声で、
「このばかやろう。なぜ、
名をいわなかったんだ。こわい
思いをさせやがって、ひどいやつだ。」
とどなりつけました。
そのあとで、
二人は
大わらいをしましたが、
西洋の
学問をしていた
人々は、いつも、こんな
思いをくりかえしていたのです。まことに、あぶない
世の
中でした。それとどうじに、
日本の
国も、ひじょうにあぶないせとぎわにたたされていました。
外国人をおいはらえという
人々は、ちょっとしたことがあると、すぐ
外国人をきりころすようならんぼうをしました。
生麦じけんもその一つで、これは
尾をひきました。イギリスは、つよい
艦隊をおくって、
幕府にたいしてへんじをもとめ、フランスもいっしょになって、おそろしいたいどで、
幕府をせめたてました。
イギリスからの
文書を、
諭吉はほんやくさせられましたが、イギリスがどんなにつよい
決心をもっているかがわかり、どうなることかと
心配になりました。いつ、
戦争になるかもしれないありさまでした。
けれども、
幕府が、イギリスのいいぶんをきき
入れて、たくさんのお
金をはらったので、さいわい
戦争にはなりませんでした。でも、
幕府のよわい
外交をふんがいした
地方の
藩では、
外国の
軍艦にいくさをしかけて、けっきょく、さんざんなめにあわされるようなじけんが、ひきつづいておこりました。
このようなさわがしさの
中で、
緒方洪庵先生が、
急病でなくなりました。それは、
文久三(一八六三)
年六
月十日のことでした。
緒方先生は
幕府のおかかえ
医者となって、
大阪から
江戸にきて、
下谷にすんでいました。
諭吉は、二、三
日まえに
先生をたずね、
元気な
先生と、いろいろ
話をしてきたばかりでした。そのお
通夜には、
緒方先生の
教えをうけたものが、たくさんあつまってきました。その
中に、
村田蔵六(のちの
大村益次郎)もいましたので、
諭吉が、
「おい、
村田くん、いつ、
長州(いまの
山口県)からかえってきたんだ。
下関では、たいへんなさわぎをおこしたようだな。じつにばかなことをしたもんだよ。あきれかえった
話じゃないか。」
とはなしかけますと、
村田は、
目にかどをたてて、いいました。
「なんだと。
外国の
軍艦をほうげきしたのがわるいというのか。」
「そうとも。まるできちがいざたじゃないか。」
「き、きちがいとはなんだ。けしからんことをいうな。
長州では、
外国人をおっぱらうことに、
藩のほうしんがきまっているんだ。あんな
外国のやつらに、わがままをされてたまるものか。
外国人はぜんぶおいはらうにかぎるよ。」
と、えらいけんまくです。これでは、まるで
話になりません。
諭吉は、
村田とはなすことをやめました。そうして、いっしょに
西洋の
学問をまなんだ
村田でさえ、このように
外国人をおいはらえというありさまですから、いよいよ、
自分のことばやおこないに
気をつけて、このあらしの
時代を
生きていかなければならないと、かくごをしました。
(
国民のみんなが、
世界のようすをよくしり、
日本が、どんなに
文明におくれているかがわかったならば、きっと、ゆうきをふるいおこして、あたらしく
力づよい
日本をつくろうと、どりょくするにちがいない。それには、
国民が、もっとものしりにならなければならない。そうだ、
国民を
教育しなければだめだ。よし、わたしは、その
教育者になろう。さいわい、こんどまた、アメリカへいってくることになった。いろいろと
見ききしてこよう。)
諭吉は、アメリカに
注文した
軍艦を、ひきとりにいく
幕府の
使節の一
行にくわわって、二どめのアメリカの
旅にでかけていきました。ときに、
慶応三(一八六七)
年の
正月のことでした。
諭吉は、そのまえに、
大小の
刀一
本ずつをのこして、あとはぜんぶ
売りはらってしまいました。
(これからの
世の
中は
刀なんていらない。)
とかんがえたからです。
[#改ページ]
「
先生っ、たいへんです。
上野のほうがくで
黒いけむりがたちのぼっています。
火の
手も、ちらちらともえあがりました。」
かけこんできた
生徒の
一人が、いきをはずませてしらせました。それまでしずかだった
講堂が、きゅうにざわめいてきました。
ドカーン、ドドドーン。
はげしい
大砲の
音が、それにわをかけました。
「あっ、また、
大砲だ。」
と、
耳に
手をやる
生徒もあれば、
本をおいて、いきなり、
外へとびだそうとする
生徒もありました。
このとき、
諭吉は、
生徒たちを
講堂にあつめて、
経済学の
講義をしているところでしたが、
「しょくん、おちつきたまえ。ここまで、たまはとんできはせん。」
と、
一こというと、あとはなにごともなかったように、
講義をつづけていました。
生徒たちも、それにつりこまれて、いつのまにか、
外のさわぎも、
大砲の
音も
気にならず、
講義に
耳をかたむけていました。そうして、やがて、
時間となりました。
「さあ、やねの
上にあがって、
上野のけむりでもみたまえ。ペンの
力は
剣の
力よりもつよいということを、よくかみしめてね。」
諭吉は、
講義をおわって、にっこりわらい、
講堂からでていきました。
生徒たちは、
「わっ。」とばかり、かけだしました。
自分の
部屋へもどった
諭吉は、たいへんまんぞくそうでした。
生徒たちが
外の
大さわぎの
中で、ねっしんに
講義をきいてくれたことが、うれしかったのです。それは、
慶応四(一八六八)
年の五
月十五
日のことでした。
この
日、
上野では、
江戸へはいった
官軍と
彰義隊とのあいだに
戦争があり、そこから八キロメートルばかりはなれた
慶応義塾まで、
大砲の
音がきこえてきました。
生徒たちは
塾のやねの
上にあがって、しきりに
上野のほうをみているようすですが、
諭吉は、
慶応義塾をこの
新銭座にうつしたことが、いかによかったかと、ひそかにかんがえるのでした。
諭吉は、そのまえの
年の六
月にアメリカからかえってきましたが、そのかえりの
船の
中で、
幕府のわる
口をいったというので、きんしん(きまったすまいから、ある
期間、
外出をきんじられること)をめいじられました。
家の
中ではなにをしてもよいが、
役所へでてきてはならないというのです。
諭吉にとっては、かえって
生徒におしえるのにぐあいがよいくらいでした。
幕府は、その十
月に、
政権(
政治をおこなうけんり)を
朝廷にかえしました。
源頼朝が、
鎌倉に
幕府をひらいてからは、
日本の
政治は
武士がおさめていて、
天皇はただのかざりにすぎなかったのですが、このときから、
天皇を
上にいただくあたらしい
政府が
政治をとることになりました。
けれども、
諭吉は、あたらしい
政府に
不安をもっていました。なぜなら、
朝廷は、まえから、
国をひらくことにはんたいしていたからです。もしも、そのあたらしい
政府が、
外国をきらい、
外国人をおいはらえといいだしたなら、どうなるでしょうか。
外国と
戦争をひきおこすようなことになり、よわくて
小さい
日本は、つよくて
大きい
外国に、うちまかされてしまうにちがいありません。
(そうなったら、あの
小さい
子どもたちがかわいそうだ。)
諭吉は、
庭であそんでいるわが
子の
一太郎と
捨次郎のすがたをみながら、かんがえこみました。
(この
子どもたちには、
戦争というかなしいめにあわせたくない。
日本が、一
日もはやく、
平和なあかるい
文明国になってくれるとよい。まあ、いまの
大人[#ルビの「おとな」は底本では「おな」]たちはだめだが、わかい
人々は、きっと、
自分のこういう
気持ちをわかってくれるにちがいない。よし、わたしは、わかい
人たちのために、あたらしい
教育の
仕事をしよう。それには
本をたくさんかいて、
西洋のようすをしってもらわなければならない。)
このように
決心した
諭吉は、まえよりも
塾をさかんにしようとかんがえました。
ところが、
塾のある
鉄砲洲の
奥平家のやしきは、
外国人のすむところになるというので、
幕府にとりあげられることになりました。そこで、
諭吉は、
芝の
新銭座に
有馬というとのさまの
土地を
買って、
塾をたてたのでした。
そのころ、
幕府がたの
勝海舟と、
朝廷がたの
西郷吉之助(
隆盛)の
話し
合いによって、
江戸城はぶじにあけわたされましたが、それにはんたいの
人々がかなりあって、
彰義隊と
名のり、
上野の
山にたてこもったりしていました。ですから、いまにも
戦争がはじまりそうで、
江戸の
市中はざわついていました。
こんなときに、ひろい
土地を
買い、
大きな
家をたてようとするのですから、
人々はおどろいてしまいました。しかし、
仕事のないときですから、
大工たちはよろこんでやすいちんぎんではたらいてくれ、なかなかりっぱな
塾ができあがりました。それに
年号をとって、「
慶応義塾」と
名づけたのでした。
そうして、五
月十五
日、
上野では、
官軍と
彰義隊のあいだに
戦争がはじまり、
彰義隊は、まけてちりぢりばらばらになり、
寛永寺もやけてしまいました。しかし、
慶応義塾では、しずかに
講義がおこなわれたのでした。
諭吉の
教育の
仕事は、こうして
戦火をくぐりぬけて、しだいにくりひろげられていくことになりました。
彰義隊の
負けいくさにおわったあと、
幕府がわの
人たちは、
東北地方にのがれ、
二本松や
会津若松や、
北海道箱館(
函館)の
五稜郭などで、
官軍にてむかい、つぎつぎにやぶれていきました。
幕府の
海軍のせきにん
者だった
榎本武揚も、この
五稜郭でとらえられたのでした。
このように
世の
中がさわがしかったので、
幕府の
学校はつぶれてしまっていましたし、あたらしい
政府は、まだ
学校をつくることまでには
手がまわりませんでした。
慶応義塾だけが、
西洋のあたらしい
学間をおしえていたわけです。そこで、
生徒の
数も、二百
人、三百
人をかぞえるようになりました。
そのころのある
日のことでした。
九州から、
慶応義塾にはいりたいと、はるばるやってきた
青年がありました。りっぱな
身なりからかんがえて、さむらいの
子であることはまちがいありません。
青年は、ちょうどであった
町人ふうの
男に
道をたずねました。
「これこれ、
慶応義塾へは、どういけばよいのか。」
きかれた
男は、じつにていねいにおしえてくれました。おしえられたとおりにいくと、いどがあって、そのそばで、
一人のおやじがまきわりをしていました。
「これこれ、おやじ、
慶応義塾はここか。そうして
入り
口はどこか。」
とたずねると、これまた、しんせつにおしえてくれました。
こうして、
塾の
中へはいってくると、さきほど、
道をおしえてくれた
町人ふうの
男が、
塾頭の
小幡先生で、まきわりをしていたおやじが、なんと
福沢先生ではありませんか。その
青年は、あなでもあればはいりたいほど、ひやあせをかきました。
慶応義塾は、こんなふうに、
民主的なふんいきをもっていました。そうして、
明治四(一八七一)
年に、
慶応義塾は、
新銭座から
三田へうつりました。
諭吉は、
三田に
慶応義塾をうつしたとき、
自分のすむ
家もたてましたが、
大工にたのんで、
家のゆかをふつうよりたかくして、おし
入れの
中からゆか
下へもぐってにげだせるようにしました。それは、そのころ、ふるい
考えをもつ
人が、
西洋のあたらしい
学問をしているゆうめいな
人をころすことがはやっていたからです。
慶応義塾をひらいた
諭吉は、しだいにひょうばんのまとになってきたので、
日ごろから、けいかいをしていたわけでした。
そのまえの
年の
明治三(一八七〇)
年、
諭吉は、いのちにかかわるような
腸チフスにかかりました。まだすっかりなおりきらないからだで、
東京へお
母さんをよぶために、
中津へでかけました。
中津は、ふるさとでもあるし、しんるいやしっている
人もおおいので、
気をゆるしていました。ところが、この
町でも、
諭吉はねらわれていたのです。
諭吉のまたいとこに、
増田宋太郎という
青年がありました。十三、四さいばかり
年が
下で、
家もちかく、
朝ばん、にこにこしてやってくるので、
諭吉は、
「
宋さん、
宋さん。」
とよんで、したしくつきあっていました。この
宋さんが、じつは、
諭吉のようすをさぐるためにやってきていたのでした。
あるばんのこと、
諭吉のところにしりあいのおきゃくがあって、お
酒をのみながら、
二人はさかんにはなしあっていました。そのとき、そっと
庭にしのびこんで、このようすをうかがっている
青年がありました。
青年は、おきゃくがはやくかえっていって、
諭吉がねるのをまっていたのですが、
話はなかなかおわりそうになく、十二
時がすぎ、一
時がすぎても、おきゃくはかえりそうにもありません。
青年は、とうとうあきらめて、たちさっていきましたが、これこそ、
諭吉のねこみをおそってころそうとたくらんでいた
宋太郎だったのです。
諭吉は、それをこのときにはしらなかったのですが、四、五
年たってからきかされて、びっくりしました。
自分の
身のまわりに、いのちをねらうものがいたのでした。
そればかりではありません。
家の
中のかたづけをおわって、
諭吉は、お
母さんとめいとをつれて、
東京へかえることになり、
船にのるため、
中津から四キロメートルほど
西の
鵜の
島までいって、
宿屋にとまりました。
宿屋のわかい
主人は、これをみると、
使いのものをこっそりと
中津へはしらせ、
「
今夜こそ、
福沢をころすのにもってこいの
機会だ。」
としらせました。
ところが、この
知らせをうけて、
中津では、だれが
諭吉をころしにいくかで、あらそいがおこり、ぎろんをしているうちに、
夜があけてしまいました。これで
諭吉は、ぶじに
船にのり、いのちびろいをしたわけですが、
神戸の
宿屋についてみると、
東京の
塾頭の
小幡から、
手紙がきていました。
「きくところによりますと、ちかごろは
大阪や
京都もおだやかでなく、
先生をつけねらっているものがあるそうですから、
神戸についたら、なるべく
人にしられないように
気をつけて、すぐ
東京へかえってきてください。」
諭吉は、お
母さんに、
京都や
大阪などを、ゆっくり
見物させて、よろこばせてあげようとおもっていただけに、がっかりしました。でも、お
母さんに、ほんとうのことをはなしたら
心配するので、きゅうな
用事ができたことにして、
見物をやめ、いそいで
東京にかえりました。
諭吉がねらわれたのは、このときだけではありません。それから二
年ほどたって、
諭吉が
関西にでかけたとき、
宋太郎は
大阪にきていて、ひそかに
諭吉をころそうとするけいかくをたてていました。ところが、
宋太郎は、ふるさとのお
母さんがおもい
病気になったので、きゅうに
中津へかえらなければなりませんでした。そこで、なかまの
朝吹英二に、この
仕事をたのんでかえりました。
朝吹は、ちょうど
諭吉がとまった、
諭吉のいとこの
医者の
家で
書生をしていました。ですから、
諭吉は、
大阪にいるあいだは、この
朝吹を
自分のおともにしていたのです。
(これはうまくいくぞ。)
と、
朝吹は、すきをうかがって、あんさつしようとしていました。
たまたま、
諭吉は、わかいころせわになった
緒方先生の
家によばれて、
朝吹をつれていきました。
先生はもうなくなられていたわけですが、
先生のおくさまと、なつかしい
思い
出話をしているうちに、
夜もふけて十
時ごろになりました。おくさまのすすめで、
諭吉はかごにのり、そのわきに
朝吹がついていました。もう
人どおりはなく、さびしい
夜ふけの
町に、かご
屋の
足音ばかりが
音をたてていました。
(いまだ。)
と、
朝吹は
刀に
手をかけて、すっと、かごにしのびよりました。そのとたんに、
ドドドド、ドンドン。
と、たいこがなりました。ふいの
音に、
朝吹はびっくりしてしまい、
手をひっこめてしまいました。それは、ちかくのよせ(
落語や
講談などのかかる
小屋)のたいこの
音で、かえりの
人がぞろぞろでてきたので、
朝吹はもうどうすることもできませんでした。
諭吉は、なにもしらず、
家へかえることができました。
こんなことがあってから、
朝吹は、
諭吉の
話をいろいろときいて、ときにはぎろんをしましたが、だんだん、この
人はほんとうに
日本のためをおもっている
人だ、とかんがえるようになりました。そうして、
自分のかんがえていたこと、やろうとしていたことが、まちがっているようにおもわれたので、
諭吉にすっかりはなしてあやまり、
慶応義塾にはいりました。
これをきいて、
宋太郎は、
「
朝吹はけしからんやつだ。」
と、はらをたてましたが、その
宋太郎も、
自分のわるかったことをさとって、
諭吉にあやまり、やがて
慶応義塾にはいってきました。
「
自分のわるかったことに
気がついて、あらためるというのは、りっぱなことだ。」
と、
諭吉は、
二人をほめました。
このように
諭吉は、一どは
自分をにくんで、ころそうとまでした
人間でも、わるいとさとってあやまってくれば、すなおにゆるしてやり、
勉強させたり、
身のうえのこまかいめんどうもみてやったのでした。そうして
宋太郎は、のちに
西南の
役で
西郷隆盛の
部下となり、
城山で
死んだのですが、
朝吹は
慶応義塾をさかんにするうえで、なくてはならぬ
人になりました。
諭吉は、ただしくないこと、ひきょうなこと、いくじなし、
男らしくないことは、だいきらいでした。ですから、そういうことをみたりきいたりすると、かんしゃく
玉をばくはつさせて、じっとしていることができませんでした。
仙台の
洋学者大童信太夫をたすけだしたり、
千葉の
長沼村の
人々のために、
力をつくしたこともありますが、ここでは、その一つのれいとして、
榎本武揚をすくった
話をとりあげておきます。
榎本武揚が、
北海道の
五稜郭にたてこもって、あたらしい
政府にてむかい、とらえられたことは、まえにかきましたが、そののち、
武揚は
東京におくられ、とりしらべをうけてから、ろうやに入れられていました。
ところが、
武揚の
家にはなんのたよりもなく、ゆくえさえはっきりしらされていませんでしたから、
年のいったお
母さんや、ねえさんやおくさんは、たいへん
心配していました。
そこで、
武揚の
妹のおっとである
江連という
人から、
諭吉のところへ
手紙でといあわせてきました。
江連は
幕府の
外国奉行をしていたので、
諭吉とはしりあったなかでした。
江連は
当時、
榎本の
家族といっしょに
静岡にすんでいたのですが、
手紙には、つぎのようにかいてありました。
「
榎本はどうしているのでしょうか。
江戸にきているといううわさは
風のたよりにきいたのですが、それもたしかめることができません。
母やきょうだいが
心配していますので、
江戸のしんるいにといあわせましたが、だれも、
自分が
政府ににらまれるのをおそれてか、ただの一どもへんじをくれません。あなたにきいたら、なにかようすがわかるだろうと、かんがえて、お
手紙をさしあげるわけです。ごぞんじのことがあったら、どうぞおしらせください。」
よみおわった
諭吉は、きのどくだな、とおもいました。ことに、
年とったお
母さんがかわいそうでなりませんでした。
もともと、
諭吉は、
榎本武揚という
人間をしってはいましたが、ふかいつきあいをしたことはありません。ですから、
武揚がろうやに
入れられているといううわさはきいたことがありますが、べつに、それいじょうは
気にもとめていなかったのです。しかし、
江連の
手紙をみて、しんるいのものたちが、
政府ににらまれるのをおそれて、へんじをよこさないということをしって、そのひきょうなたいどにふんがいしました。
(なんというはくじょうな、ひれつなやつらだ。
幕府の
人間は、みな、これだからいけない。よし、おれが
一人でひきうけてやる。)
こうおもいたった
諭吉は、すぐに、あちらこちらに
手をまわしてしらべました。さいわい、
武揚はまだころされず、ろうやにとらわれの
身となっていました。
「ころされるかどうか、そこのところはどうもわかりませんが、とにかく、ただいまのところは、
病気もせず、
元気でいます。」
としらせてやりました。すると、
江連から、
「
母と
姉が、
東京へいきたいといいますが、いってもよいでしょうか。」
といってきました。
「わたしは、
政府からにらまれてもかまわないから、どうぞ、
東京へでていらっしゃい。」
諭吉が、こうへんじをかいたので、
二人はよろこびいさんで、
諭吉のところにやってきました。そうして、
武揚のようすをたずねたり、ひつようなものをさし
入れたりしているうちに、
武揚のお
母さんは、一どでいいから、むすこにあいたいといいだしました。
諭吉は、なんとかして、あわせてやりたいとおもいましたが、どうしたら、あわせられるのか、それがわかりません。あれやこれやとかんがえたすえ、
武揚のお
母さんにあいがん
書というものをかいてださせることをおもいつきました。その
文章は、お
母さんがかいたもののようにして、
諭吉がかいてやりました。
「せがれの
釜次郎(
武揚のこと)が、
朝廷のお
心にそむきまして、つみをおかしたことは、まことにおそれおおいことでございますが、
釜次郎はひじょうな
親思いもので、
父が
病気のときはよくかんびょうしてくれました。この
親思いものが、あんなに
大きなつみをおかしましたのは、あくまのしわざでございましょうか、いまさらなげきかなしんでも、もはや、とりかえしのつくことではございません。
死刑になりましても、けっしておうらみはいたしません。けれども、わたくしのいのちも、もうながくはございません。できることなら、せがれの
身がわりにしていただきたいところですが、せめて、一ど、あわせてはいただけないでしょうか。」
こんなことを、こまごまとかいて、それをねえさんが
清書をし、お
母さんが、つえをついて、とぼとぼと
役所まであるいていってさしだしました。これをよんだ
役人は、たいへん
心をうごかされて、すぐに
面会をゆるしてくれました。
さあ、そうなると、
諭吉は、なんとかして
武揚のいのちをたすけてやりたいとおもいました。すると、たいへんつごうのよいことがおこりました。
ある
日、
政府の
役人が、オランダ
語のノートをもってきて、ぜひ、
日本語にほんやくしてほしいとたのみました。
諭吉は、それをめくってよんでいくうちに、
「これは、しめたぞ。」
とよろこびました。このノートは、
武揚が、オランダへ
学問をしにいったとき、
勉強した
航海術の
講義をうつしたものでした。
武揚は
五稜郭にたてこもったときにも、これをだいじにもっていましたが、いよいよこうさんしたとき、
「
国家のために
役だたせてください。」
という
手紙をそえて、
官軍の
参謀黒田清隆におくったのでした。
諭吉は、そのノートだとわかりましたので、これをうまくつかって、
武揚をたすけようとおもいついたのです。
そこで、
諭吉は、はじめのほうだけすこしほんやくして、
「これは、
航海になくてはならぬりっぱなものです。しかし、ざんねんなことに、これは
講義をきいてかいたものですから、その
本人でないと、わからないところがあります。
本人はだれだかしりませんが、これがぜんぶほんやくできたら、わが
国にとってたいへん
役にたつものとおもわれます。」
諭吉は、その
本人が
武揚であることを、ちゃんとしってはいましたが、わざとしらないふりをして、そのノートを
政府にかえしました。そうすれば、
武揚のいのちがたすかるかもしれないとかんがえたからです。
それとどうじに
諭吉は、
黒田清隆とはしりあったなかでしたから、
「どうでしょうか。
榎本という
男は、たいへんなさわぎをやったのだから、
死刑になっても、しかたがないのだけれども、一どいのちをとれば、あとからどうすることもできない。
人間のいのちというものは、なによりもたいせつなものですから、いのちだけはたすけてやったほうが、よいのじゃないですか。」
ともちかけました。
「わしも、
榎本という
男のえらいところはしっている。だが、ろうやに
入れられて、
生きながらえている
気持ちが
気にくわない。どうして、いさぎよく
死なぬのだろうか。」
「とんでもない。
武揚が
死んでしまえば、それっきりです。しかし、あれほどの
人間を
生かしておけば、
日本の
国のために、どれほど
役にたつかしれません。」
「なるほど、きみのいうことも、一つのりくつだな。」
黒田は、
諭吉の
話に
心をうごかされ、
武揚をたすけるために、
力になってくれることをやくそくしてくれました。
こうして、
明治五(一八七二)
年、
武揚は、ゆるされてろうやからでてきました。けれども、そのお
母さんは、
病気ですでになくなっていました。
武揚は、その
後、
公使や
大臣になって、
日本の
国に
役だつ
人になりましたが、その
武揚をたすけだしたのは、
諭吉その
人でした。
諭吉は、
慶応義塾であたらしい
教育をし、「
文部省は
竹橋にあり、
文部大臣は
三田にいる。」と、せけんでいわれたほどですが、それとどうじに、
出版に
力を
入れました。
本をだして、
一人でもおおくの
人に、
自分の
考えをわかってもらい、
西洋のすすんだ
文明をとり
入れてもらいたいと、いっしょうけんめいにげんこうをかきました。そうして
出版社にまかせておいたのでは、そのいいなりのお
礼しかもらえないことがわかりましたので、
自分で
出版社をつくりました。
その
出版社は
慶応義塾のしき
地の
中にたてて、
主任には、いつか
大阪で
諭吉をねらった
朝吹英二をあて、
職工をたくさんやとい
入れ、
製本所もつくりました。
諭吉のかいた
本ばかりでなく、すぐれたものはどんどん
出版しました。
諭吉が
本をかくのは、
日本人の
考えかたをあたらしくするのがもくてきでしたから、できるだけやさしい
文章をかくようにどりょくしました。そうしてできあがった
文章は、ばあやによんできかせて、わかるかどうかをたしかめてから、はっぴょうするというやりかたでした。
諭吉のかいた
本はたくさんありますが、その
中でゆうめいなのは、「
西洋事情」「
世界国尽」「
学問のすすめ」などです。これらの
本は、どれもやさしくていねいに、だれにでもわかるようにかかれていたので、ひっぱりだこで、
人々によまれました。
ことに
大きなえいきょうをあたえたのは、
「
天は
人の
上に
人をつくらず、
人の
下に
人をつくらずといえり……。」
ということばではじまる「
学問のすすめ」でした。
この
本で、
諭吉は、
人間はだれもがびょうどうでなければならないことを、はっきりとかきました。
地位とか
家がらとか、お
金のあるなしで、さべつがつけられてはならないというのです。そうして、かりに、
人間としてとうといとか、いやしいとかのくべつがあるとするならば、それは
学問をしたか、しないかのちがいであるから、だれでも
学問をするようにどりょくしようではないか、というのでした。
その
学問というのは、ただむずかしい
文字をおぼえたり、わかりにくいふるくさい
文章をよんだり、
和歌をよんだり、
詩をつくったりするようなことではなく、「
人間ふつう
日用にちかき
実学」だといいました。そうでない
学問は、なぐさみの
学問にすぎないというわけでした。
近代的な
考えかたを、そのものずばりにはっきりいったので、ふるい
考えかたの
人々は、まっかになっておこりました。しかし、それらの
人々の
中にも、これをよんでいくうちに、
諭吉のかたよらない
考えかたや、ただしい
意見に
感心してくるものもでてきました。
あたらしい
政府も、いままでの
外国ぎらいをやめて、
諭吉の「
西洋事情」をさんこうにして、アメリカやヨーロッパの
文明をとり
入れて、あたらしい
政治をおこなうようになりました。
明治四(一八七一)
年には、いままでの
藩をやめて、あたらしく
県をおくことになりました。とのさまも、
政府の
役人とおなじになったわけです。そうして、
諭吉にたいしては、
役人になって、
政府の
仕事をやってもらいたいと、しきりにたのんできました。
諭吉は、
病気といって、ことわりつづけました。
神田孝平・
柳川春三は、
諭吉とおなじ
洋学者でしたが、
政府からたのまれて、
役人になっていました。その
神田孝平が、ある
日、
諭吉をたずねてきて、
「どうだ、
福沢、もう一どかんがえなおして
役人になってくれないか。そうすれば、ぼくと
柳川は、とてもたすかるんだ。
幕府とちがって、すぐれたものはどんどん
出世もできるし、
政府の
身分のたかい
人も、きみにぜひきてほしいといっているのだ。」
と、ねっしんにすすめました。
「いや、わたしはごめんだね。
役人にはなりたくないし、
役人で
出世したいなど、一どもかんがえたことはない。わたしは
平民、ただの
国民でいいのだ。」
と、
諭吉は、きっぱりとこたえました。
「どうして、きみは
役人をきらうのかね。」
「そうだね。まず
第一に
気にいらないのは、
役人がからいばりをするからだ。
第二に、きみのまえではいいにくいことだが、
役人ぜんたいが
下品なことだ。
第三には、
幕府にちゅうぎそうな
顔をしていたものが、
幕府がつぶれると、すぐさまあたらしい
政府のほうへついて、すこしでもよい
地位をえようと
血まなこになっていることだ。そうして
地位があがると、いばりちらす。そこのところが
気にくわない。
第四には、
国民だ。
士族はもちろん、ひゃくしょうや
町人の
子どもでも、すこしばかり
文字がわかるやつは、みんな
役人になりたがっている。
役人になれぬまでも、
政府にちかづいていって、なにか
金もうけをしようとたくらんでいる。そうして、せっかくあたらしい
世の
中になったのに、
国民は
役人にへいこらしている。しっかりとひとりだちをして、
自分をたっとぶという
精神がない。これでは、
日本はひらけない。
わたしは、
役人にならないで、ほんとうに
自由で、ほんとうのひとりだちの
生活とは、こういうものだと、せけんの
人々に、ひろくみせてやりたいとおもうのだ。」
「いやに、
役人をやっつけるじゃないか。まるで、ぼくに
役人をやめさせようとしているみたいだ。」
「そんなことはない。きみは、それでいいんだ。きみの
考えどおり
役人になったんだからね。
自分の
考えどおりにものごとをおこなうのが、ほんとうに
男らしい
人間なんだ。わたしは、
役人がきらいだから、
役人にはならない。きみが
役人になったのを、わたしがさんせいするように、きみは、わたしが
役人にならないのをみとめてくれなくっちゃ、いけない。」
「なるほど、きみのりくつにあっては、まけだ。」
神田は、あきらめて、わらいながらかえっていきました。
こういった
諭吉ですから、ある
人が、
諭吉のてがらをたたえて、
政府がひょうしょうしなければならないといいますと、
諭吉は、
「とんでもない。わたしは、
自分がすきだから、
塾をひらいたり、
本をかいたりしてきたわけだ。それをほめるとか、むくいるとかいうのは、おかしい。とうふ
屋がとうふをつくり、
車屋が
車をひくのと、おなじことではないか。わたしをひょうしょうするというのなら、そのまえに、となりのとうふ
屋からひょうしょうしてもらいたいものだね。」
と、いかにも
平民らしい
答えかたをしました。
諭吉は、このように
役人にはならず、せけんのいっぱんの
人々とともに
生きながら、
教育者として、また
本をかいて、
自由と
民主主義の
光をたかくかかげて、どうどうとすすんでいきました。
西南の
役もおわった
明治十二(一八七九)
年の七
月には、
国会論をかきあげて、
慶応義塾の
出身者がへんしゅうしている
報知新聞に、
社説として一
週間ほど、
毎日はっぴょうしました。
福沢諭吉の
名まえはださないで、
文章も
諭吉がかいたのだと、わからないようにくふうしてのせました。これはたいへんなひょうばんになって、
国会をひらかなければならないというぎろんが、ひじょうにたかまってきました。
そのため、
政府も、
明治十四(一八八一)
年に、
国会を
明治二十三(一八九〇)
年にいよいよひらくというやくそくを、しなければならなくなったほどでした。
諭吉は、さらに
明治十五(一八八二)
年に、「
時事新報」という
新聞を
発行し、
政治・
教育・
外交・
軍事・
婦人もんだいなどについて、
論文をのせました。
「ああ、また、しょうじをやぶったな。なかなか
元気があって、
見こみがあるぞ。」
「まあ、
元気があってよいなんておっしゃって。
女の
子ですから、もうすこし、おとなしくしてくれるといいんですが……。」
「いやいや、
女の
子だって、
元気があるほうがいいよ。」
諭吉は、
自分のむすめが、しょうじをやぶるのをながめながら、おくさんと、こんな
話をかわしながら、よろこんでいました。ふつうのうちのお
父さんだったら、
子どもがしょうじをやぶったり、いたずらをしたりしたら、たいていは
大きな
声でしかるものですが、
諭吉はちがっていました。
明治十六(一八八三)
年、
諭吉は五十さいになっていましたが、この
年の
夏、四
男の
大四郎が
生まれたので、
諭吉は四
男五
女、あわせて九
人という、おおぜいの
子だからにめぐまれました。その
子どもたちを、わけへだてなく、かわいがったのはいうまでもありません。
子どもたちは
自由でかっぱつであったほうがいい、と
諭吉はかんがえていましたから、おくさんともよくはなしあったうえ、きるものはそまつにしても、えいようだけはじゅうぶんにとらせるように
気をつけました。
ですから、
家の
中で、
子どもがあばれまわっても、いっこうにしかりません。
勉強よりも、からだをじょうぶにすることのほうがだいじだ、と
諭吉はかんがえていたからです。そこで、
子どもが、八、九さいになるまでは、おもうままにあばれさせて、からだをじょうぶにすることだけを、いちばんのもくひょうにしました。七、八さいになると、はじめて
勉強をさせることにしましたが、もちろん、からだのことは、いつも
気をつけました。したがって、
福沢家では、
「きょうは、おとなしくよく
勉強したね。」
などといって、ほめられることはありませんでした。それよりも、
小さな
子どもが、
「きょうは、
遠足があって、とてもとおかったけれど、がんばってあるいて、
先生にほめられました。」
とか、その
上の
子が、
「きょうは、たいそうがあって、
走りきょうそうで一ばんになりました。」
とかいうと、
「それはえらかったね。では、ごほうびをあげよう。」
こういったちょうしで、
勉強よりも、うんどうができたほうが、ほめられるのでした。
それから、
家の
中では、ひみつなことはいっさいないということにしていました。なんでも、ざっくばらんにはなしあうことにしていました。ですから、
諭吉が
子どものわるいところをとがめると、
子どものほうも、
諭吉のわるいところをいうというありさまで、ほんとうにあかるい
家庭でした。
そのころ、しつけのきびしい
家では、
主人が
外出するときは、
家じゅうのものがげんかんにおくってでて、
手をついておじぎをしたり、かえってきたときには、また、げんかんにでむかえるというのがならわしでしたが、
諭吉は、けっして、そんなことはやらせませんでした。
諭吉は
外出するといっても、げんかんからでるとはきまっていません。
台所からさっさとでていくことだってありました。かえるときも、そのとおりで、そのときの
足のむいたほうからでていったり、はいったりしていました。
あるとき、
出入りの
商人がきて、いいました。
「
先生、わたしのうちには、また
女の
子が
生まれました。こんどこそ、
男の
子が
生まれてほしいとおもっていましたので、がっかりしました。」
これをきいた
諭吉は、
「
女の
子で、どうしてわるいのかね。じょうぶでさえあれば、いいじゃないか。せけんでは、
男の
子が
生まれると、『たいそうめでたい。』といい、『
女の
子であってもじょうぶなら、まあまあめでたい。』などといっているが、わたしは、そんなつもりでいっているのではない。
男の
子と
女の
子のちがいがあろうわけがない。そこにかるいおもいはないはずだ。わたしは、九
人の
子がみんな
女の
子だって、すこしもざんねんとはおもわないね。ただ、
男の
子が四
人、
女の
子が五
人というふうに、
半分ずつで、いいあんばいだと、おもうだけだ。
女の
子が
生まれて、がっかりすることなんてないな。」
「
先生のお
話をおききしていましたら、なるほど、
女の
子でもわるくないという
気がしてきました。じつは、
家内が、
女の
子が
生まれたというんで、わたしいじょうにがっかりしているところです。ありがとうございました。さっそく、
家にかえって、
家内に
先生のお
話をきかせてやって、
元気をつけてやります。」
その
商人は、いそいそとかえっていきました。
諭吉は、
口さきでいうだけではなく、
毎日の
生活でも、ざいさんをわけるときにも、
男の
子と
女の
子をすこしもくべつせず、まったくおなじでした。それは、
諭吉が、
女性を
見くだしたりはけっしてしなかったからにちがいありません。そこで
諭吉は、おくさんをそんけいし、
諭吉夫婦はひじょうになかよく、むつまじくくらしました。
諭吉は一
夫一
婦をしゅちょうし、もちろん、
自分でもそれを
実行しました。
このように
諭吉は、
民主主義というものをよくりかいし、これを、せけんの
人々にわかりやすい
文章でといただけではなく、
自分で
実行したのでした。それを、すべてのことにわたって、つらぬきとおしていました。
諭吉は、くんしょうだの、しゃくい(きぞくのくらい)だのというものが、だいきらいでした。くんしょうをぶらさげていても、どうということはないとおもっていましたし、
明治になって、やっと
身分からかいほうされたのに、またまた、しゃくいをつくって、
身分のくべつをつけるというのは、こっけいなことだとおもっていたからです。
明治三十一(一八九八)
年に、
諭吉は
脳出血でたおれ、いのちがあぶないとつたえられたとき、
政府は、
諭吉に、しゃくいをさずけようとしました。その
知らせがあったとき、
家族をはじめ、
慶応義塾の
人々は、
諭吉の
考えをよくしっていましたので、そうだんのうえ、それをことわりました。
諭吉は、さいわい、よくなりましたが、この
話をきいて、
「ああ、よくことわってくれた。」
と、
心のそこからよろこびました。
こうして、
明治三十四(一九〇一)
年、
諭吉は、六十八さいの
正月をむかえました。それは、あたらしい
世紀、二十
世紀のはじめの
年でした。
慶応義塾のわかい
学生たちは、ふるい十九
世紀をおくり、あたらしい二十
世紀をむかえるために、一九〇〇
年十二
月三十一
日、にぎやかな
会をひらきました。そのうちに
夜はあけて、一
月一日、
年始のあいさつにきた
人々に、
諭吉はいいました。
「いよいよ二十
世紀だ。十九
世紀の
日本は、
封建制度がつづき、これをなくするために、ずいぶん、ごたごたした
世の
中だった。けれども、
日本はあたらしい
世の
中をむかえたのだ。ふるいことはみんなわすれさって、かくごをあらたにしてがんばろうではないか。」
諭吉の
目はあかるくかがやき、
希望にみちた
顔は、とてもわかわかしくみえました。ですから、
「
福沢先生は、
元気になられた。」
と、だれもがあんしんをし、よろこんだのでした。
ところが、その一
月もおわりにちかいころ、
諭吉は、きゅうに
病気でたおれました。
脳出血が、ふたたびおこったのでした。そうして二
月三日、とうとうその一
生をおわりました。
おもえば、
福沢諭吉こそ、
民主主義の
光をかかげた、
明治の
大きなともしびでありました。いや、
明治だけではなく、
大正、
昭和とつづき、
今日のわたくしたちにとっても、なお
大きなともしびであるといわなければなりません。
(おわり)