南京六月祭

犬養健




 ひどく東邦風なジャンクを模様にした切手を四枚もつて――北京ペキンから私のところへ小包が来た。差出人は満鉄公処秘書課塩崎龍夫、塩崎は私の旧友なのだ。副業ともいふべき支那語がうまいので、それに支那の生活が味はひたさに満鉄に入つて、副社長付の通訳をしてゐるのだ。
 それはかくとして、包みをほどくと箱のなかから紫に染めあげた支那絹の袱紗ふくさが出て来た。さう云へば塩崎の長男が生れた時に心ばかりの祝ひ物を贈つた、その返礼なのだらう。しかし、私の云ひたいのはその袱紗の模様の大変風がはりだといふ事である。

寿

 と白く抜いてあるのはづ袱紗として当り前だが、変つてゐるといふ訳はその寿の字が酔筆とでも云ひたいほどに書きなぐつた楽書き風のもので、しかし書き手は気のせゐか凡でない。それから、きれをすつかり拡げて見ると墨竹があしらつてある。が、これは寿の字以上に一気呵成いつきかせいで、ほとんど怒つて描いたやうな勢である。それで全体の感じから云へばどこかしどろもどろで、書きそくなひの趣なのだ。しかし私には、こんな風のものを袱紗に仕立てて人に配るやうな事をする塩崎の凝り性が面白かつた。
「内祝までにこちらの日本店で十枚ほど作らせて見た。布はわるいが模様を見てもらひたい。絵も字も曾鉄誠といふぢいさんの描いたものだ。これにはちよつと奇談もある。好事家かうずかの君には一寸ちよつと向いてゐる。いづれ暇のをりにくはしく――」
 名刺に書き添へてあるのはこんな事なのだ。
 ところがその後、張大元帥の交通部と満鉄との間に例のむつかしい問題が起つて、従つて塩崎は通訳に忙しいと見えて、内地に小さくつつましく――仕方がなしに小さくつゝましく暮してゐる私の好事癖を満足させるなぞといふ小問題は黙殺してしまつた。何しろ平穏無事な学芸欄の記者では黙殺されても仕方がないのだ。
 しかしその私にもいゝ日はあつた。私は急にヘルメットや日除ひよ眼鏡めがねを買つた。母親から護符を貰つた。合歓ねむの花ざかりを夢想したり銀相場を調べたりした。といふのは、丁度国民革命軍が山東一帯までのぼつて来たあの頃に、うまく社の北京特派員にして貰へたのである。社会部長は私にこんな事を云つた。君は随筆風の筆がたつね。その筆でもつて争乱の北京見聞記を書くのだ。北京ぢゆうをまめに歩くのだよ。雰囲気ふんゐきをつかむのだよ。出発までに調査部でもつて、必要なあらゆる智識を復習して行きたまへ。――そこで、私は青年記者でなくては持ち得ない情熱を持つた。何よりも先づ塩崎に電報を打つた。……

 黄ろい海。蘆荻ろてき埠頭ふとう。――柳の街道。高粱かうりやん畑。夕日。古城壁。――最後に私は巡警の物々しい北京前門停車場で、苦力クウリイの人力車に包囲されてしまつた。が、塩崎の官舎をその車夫のひとりが、小蘇州胡同といふ名の並木の暗い住宅町に見つけ出してくれた。実を云ふと停車場の物々しい検閲にくらべて、もうぢきに過去の首都にもならうといふ城内の気のぬけたやうな静かさに、私は驚いたものだ。塩崎の家にしても小さいながら朱塗の門をとざして、梧桐やはすの茂つた、まるで日時計のやうにひつそりした中庭を持つてゐるのだ。中庭があると云つて別に贅沢ぜいたくぢやない。これが北京の住宅のあたり前の構造なのだ。
 夕闇ゆふやみが降りて来た。私は浴衣ゆかたがけでその中庭へ向いた籐椅子とういすりかゝりながら、大元帥府、外交部、日本公使館、清華大学政治科と、塩崎を相手に早速プログラムを立ててゐたが、その時であつた。蓮鉢を越して向ふ側の廂房しやうばうから、眼でもましたのだらう、急に赤ん坊の癇走かんばしつた泣き声が聞えて来た。梧桐は仄暗ほのぐらく、蓮は仄白く、赤ん坊の声だけが鋭い。私は万年筆を置いて大袈裟おほげさ吃驚びつくりして見せた。
「さう/\、第一番の特種とくだねを忘れてゐたぞ。ひとつ即刻にも会見を申し込まなくつちや!」
 塩崎は正直のところこの冗談がうれしいといふ様子で、中庭の石畳みを音高く踏みながら私を廂房に連れて行つた。そこは茶の間兼子供部屋といふやうなものだつた。細君は厨房ちゆうばうに働いてゐて色の黒い満洲人の小娘がひとり、れない手附でデン/\太鼓を振りながら赤ん坊をあやしてゐた。少し月足らずで生れたとか云ふせた赤ん坊だ。しかし塩崎には済まない話だが、私は赤ん坊よりも部屋の壁を見廻して、不意に「おや」と声を発した。額縁に入つて、例の怒つて描いたやうな竹の図があるではないか。それからあの書きなぐつた「寿」の字も。その上奇妙なのは、あの袱紗には見られなかつた墨のはねが紙一面に荒々しく散つてゐる事だつた。――が、私はこんな静かな夕方に静かな都会で、久し振りに旧友と会つてゐる上機嫌じやうきげんから、又もやはしやいで頓狂な声をたてた。
「やあ幸先さいさきがいゝぞ。どこもかしこもニュースばかりだ。それ、こゝにも奇談の種がある」
 大掛児服タアクワルを着た塩崎は支那風に笑つて、父親らしく釣り込まれた。
「どうも通信員のガツ/\した商売気にも困つたものだ。早速『第一夕※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)さふわ』なぞと書きなぐつて、そのかはり明日は半日なまけようといふのだらう!」

      *   *    *
     *   *    *

「さうだ。曾鉄誠老人に会つておくのもわるくない。ついこの筋向ふの椿樹胡同といふところにゐるよ。骨董こつとう店なぞの妙に多い横町で、うちの副社長の官舎にもぢきなのだ。」
 塩崎はこんな風に話し出した。
畸人きじんだが学問はなか/\あるらしい。同治年間の進士だといふから張之洞ちやうしどう趙爾巽てうじそんや陳宝※(「王+深のつくり」、第3水準1-88-4)を知つてゐる訳だ。第一革命に働いた人だが、清末の役人をしてゐる頃に、緑林(馬賊)時代の張作霖ちやうさくりんになにか恩恵をほどこしたとか云ふので、今でも大元帥府の酒宴なぞに時々招かれるが、気の向いた時でないと応じない。著述をしたり新聞に匿名で時論を書いたりするほかは、読書と絵と酒とに隠れてゐる。隠れてゐると云へばいかにも閑雅なやうだけれども、曾老人のはこの三つのどれにも熱狂してゐる。細君はずつと前に死んだやうだが、面白いのはひと息子むすこが広東の学校で修業したばかりに、今では国民革命軍の少壮士官になつてゐるのだ。しかし、時偶ときたま人がこの事を揶揄やゆすると老人の返答がいゝ。つまり、一国の正義なぞといふものは古稀こきの老人の生きてゐる間には変らない方がうそだ。おれも清末に同じ事をやつて来た。あいつはあいつで大いにやるがいゝ。とそんな意味の事を酔つて高飛車に云ふのだ。それを張の副官のやうな男の面前でもやるのだから一寸乱暴ぢやないか。息子がよほど可愛かはいくて仕方がないのだらう。」
「最初僕はこの老人をモノマニアの傾向があるのではないかと思つた。といふのは、われ/\は四川しせん生れの或る退役軍人の家で出逢であつたのだ。くはしく云へば、退役軍人のひつそりした正房の壁にかゝつてゐる画幅の前で出逢つたのだ。あるじが北京官界の空気をいとつて、故郷の四川省に帰つて新らしい事業をやるといふので、所蔵品をこつそり――友人にだけこつそり知らせて売り物に出してゐた。そこへ、うちの副社長がまた北京特有の書画熱病にかゝつてゐる最中で、この知らせを受けたのだ。夏の暑い日だつた。われ/\が入つて行つた時には、曾老人は既に背中を丸くして大きい団扇うちはを動かしながら、掛け物の掛つてゐる壁の方を向いてゐた。われ/\と老人のほかには、戸口に離れて立つてゐるこの家の童僕しかゐない。といふ訳は、主人は用足しに出てゐて一時間ほど不在だつたのだ。家具をあらかた片付けてしまつたせゐかどことなく荒廃して、焼けつくやうな照り返しが部屋の中までとゞくほどに中庭の雑草の繁茂してゐる趣は、いかにも所蔵品を売り払つて出発する人の家らしい。その床の上でわれ/\の西洋靴の音は、博物館のなかのそれのやうに大きく響いたものだ。」
「足音を聞いて年長の侍僕ボオイが出て来たが、われ/\を見るなり、別に取りのけてあつたふくを出して壁に掛けた。見事な墨竹の図だ。――なぜといふに前の日からの約束で、この日われ/\が行くまではその幅をしまつておいて貰ふ打ち合せになつてゐたからであつた。副社長のボーナスの威光といふ感じで、僕はあまり愉快ぢやなかつた。しかし現はれた絵そのものは――強い筆力だ。実に強い筆力だ。すると、今まで別の絵を拡大鏡なぞで検査してゐた老人がこの幅に気がつくと、不意にわれ/\の肩とすれ/\になるのも構はず近寄つて、この部屋のすべての人間よりも熱心に見つめはじめた。執着の強い大陸人の眼だ。あまり気味のいゝ眼差まなざしとは云はれない。もう拡大鏡なぞを使はず、所蔵の印を細かくしらべたりもしない。その様子が、老人にとつてこの絵の既に未知のものでない証拠のやうに、どうも思はれるのだ。果して――われ/\を振り返つて話しかけて来た。勿論もちろん支那語で。
『この絵をたぶん買はれるとかいふ日本の方は貴下ですか。』
『さうです』
『いゝ事をされた! これはすぐれた絵です! わたしには今自分のものにするほどの余裕がないので、売立の話を聞いてから毎日のやうに通つてながめてゐたが、昨日以来見せて貰へないのではなはだ不平だつたところです。これは確かに元人の作です。こゝの主人は呉仲圭ごちゆうけいの真跡だと云つてゐるが、それは本当のところどうだかわからない。しかしさういふ事を別としても、確かにこの絵はざらにはない立派な元画です。たゞの優しい風流事ではない。精神が太い。筆が根強い。これを選ばれたのには敬服した!』
 副社長がさゝやくのだ。
『君、それあ知つてる人かね』
『どうしまして。画家のやうにも思はれますが。――』
 僕はこの家の男にそつと尋ねようと思つて振り向いたが、侍僕ボオイはやはり遠慮して戸口に退いてゐるのだ。兎も角も初対面の人間に対して少し親しみを現はし過ぎる。が、老人はわれ/\のに落ちないやうな顔付きには一向無頓着で、僕が相当中華語のわかる男だと見てとると、一層隔てなく饒舌しやべりつゞけた。
『まことに好い、まことに好い! 御覧なさい。三本の竹が少し風で揺れてゐるでせう。しかし決して騒々しくない。雲や大洋の動くやうに悠々いう/\と動いてゐる。その癖細かいところはちやんと見逃みのがしてゐません。一番上の葉が一寸ねぢれて、ひら/\舞つてゐるでせう。あれがいかにも繊細です。清々すが/\しい。まるで葉ずれの音が聞えるやうです。(老人は耳に手をあてて身振りをして見せるのだ。)――まつたく、わたしが以前からお近づきに願つてゐるものならば、貴下に御無心して時々これを見せて戴きに参上するのですがな!』――哄笑こうせう
 正直に云つて僕は老人を用心しはじめた。最初の瞬間には僕はちよつと同情してゐたのだ。うちの副社長と違つてこの絵をつかみたいほど欲しいのだらう。愛着を持つてゐるのだらう。気の毒な。――が、その内にこいつ、いゝ機会だと思つて近づきたがつてゐるなと僕は思つた。老人は戯談じやうだんのやうに哄笑したが、しかし僕はそのなかに戯談とは違つた一種の情熱を見てとつたやうに思つた。それから妙な焦慮を。――一体満鉄といふ所は利権屋の的になつてゐるので、めた話ではないが、僕にしてもいつの間にか人を警戒する癖がついてゐたのだ。僕はいゝ加減にあしらつて副社長を外へ連れ出してしまつた。」
「翌日その家のあるじが僕から話を聞くと、身体をらせて大笑した。とんだ用心を受けたものだ。あれは無頓着ななりはしてゐるが張帥の先輩にあたる曾鉄誠だと。すると別の日に、或る要人の宴会で僕はまた偶然にも曾老人に出会つてしまつた。われ/\は燈の下で主人役から紹介された。曾鉄誠先生ですと。――僕は先日気の毒な振舞をしてしまつたといふ後悔から、そのひと晩副社長をうまく放つて置いて老人に附きまとつた。食後の客間では同じ長椅子に腰かけて、同じ絨氈じゆうたんの模様を踏んで、老人のために茶や煙草たばこボオイから受け次いだりした。われ/\はすぐに親しくなつた。四川に新らしい生活を求めて行つたあの身軽なあるじのうはさをした。しかし、一層親しくなつたのは別の事からだ。」
「郵便の頼りにならない時世で、僕はたび/\伝令の役をそつと務めてやつたよ。江蘇かうその戦線にゐる息子や南京にゐる嫁からの便りを。…………」

「曾老人をたづねて来る人間のなか/\雑多なのに、僕はだん/\興味を持つやうになつた。本屋、書画屋、北京大学学生、新聞記者、将校、画家、俳優、笛吹き、金石家。――北京大学の青年のいまだに来るのは民国七八年頃に東洋史を教へてゐたからだ。しかし、そのなかで一番僕に面白く思へた客は張作霖の年とつた門衛長? だ。陶といふ姓だ。門衛長と云つても決して馬鹿には出来ない。張帥に面会を求める客の名刺を秘書官へ取り次ぐ役目なのだが、それだけで年に二万元近くの役得があるといふ噂を聞いた。もつと可笑をかしいのは、張帥が装甲自動車で外出する際には、この老人が大佐の制服を着て、拳銃をげて同乗する。どこの国に大佐の護衛があるか? 云ふまでもなく自動車が玄関に戻れば田に帰つた陶淵明のやうに平服で済ましてゐる。護衛を兼ねて、はゞ人間そのものが装飾の役目を勤めるのだ。それをまた誰も怪しまない。笑はない。大官の愛妾あいせふまでが兵士を連れて買物に歩く北京のことだから。――
 大きい身体をゆすつて、いつも案内なしに入つて来る。張帥の言伝ことづてはみなこの老人が持つて来るのだ。新民屯に近い同郷人ださうだ。しかし僕は、いろ/\の種類の客のゴタ/\と集るこの家で、何か次手ついでにさぐりでも入れてゐるのではないかと、そんな小説的な事を考へた。軍服を勝手に着せられたり脱がせられたりして済ましてゐる心持が、僕にはどうもみ込めないのだ。――が、曾老人はたゞ簡単に説明してゐた。
『あれは古馴染ふるなじみの、性来呑気のんきな男だ。憎めないよ』
 腹の底から呑気かどうか僕は知らない。――しかし、いつとなしに僕自身も曾の家で知り合ひになつてしまつた。」

「そのうちに、たしか三月の末だつたらう、孫伝芳の全軍が江蘇で最後に敗走した頃だつたから。――僕は王府井大街の額縁屋から出来上つたばかりの額縁を受け取つて、曾老人の家に出かけて行つた。老人は僕の持てあました重い荷物を見ると馬鹿に喜んで、早速中庭で上包みを解いた。北京はもう早春で、老人の狭い中庭もやはり早春の模型だつた。そのうへ、額縁に入つてゐる写真も偶然ではあるが、その浮き立つた空気に不調和ではなかつた。かう云つても、上包みを脱ぎ捨てるのは決して江南の美人なぞではない。青天白日章の士官服を着た息子さんの肖像なのだ。桃の咲きはじめてゐる、そして家鴨あひるの泳いでゐる徐州あたりの川べりで、手でも洗つて休んでゐるところだらう、両袖りやうそでをたくし上げて小ざつぱりと立つてゐる姿なのだ。背景に兵士が入つてゐなければ戦時の写真とは思へない。それはたゞの健康な青年ではない。南方のすべての『士官』の肖像なのだ。最近に南京の嫁から送つて来たものを、更に僕が日本人の写真館にそつと頼んで引き伸ばして貰つたのだ。老人はまつたく上機嫌で、門番や厨房のばあさんを大声に呼んでそれを見せた。門番たちは遠くの地にゐる若主人を――自分達の都を支配してゐる政府に向つて進軍しつゝある若主人を知らないらしかつたが、それでもあながち世辞ばかりでもなささうに云つてゐた。
『やつぱり立春にはいゝ事がある』
『この頃は旦那様、いゝお便りばかり続きますね』
 どこから眺めても好々爺かう/\やといふ様子で、あるじは云ふのだ。
『しかし一番の吉報を塩崎大人は知らないのだよ』
『何です、その吉報といふのは』
『君がこの間とゞけてくれた南京からの便りのなかにあつたのだ。君がしばらく忙しがつてゐた間に、とんでもない事が持ちあがつたよ』
『さあ何だらう』
『君の家に起つた出来事とおんなじさ』
『それはお目出度めでたう』僕は西洋流に握手して『男のお子さんですか? お二人とも御健在ですか』
 かう尋ねたのは、僕のところでは家内が長い間わづらつたあげくに、月足らずで産をしたからであつた。僕は最初の日に、手足の驚くほど細い、たゞ無暗むやみと泣いてゐる赤ん坊を母親のかたはらに見て、第一にあゝ大変だと思つたからだ。こんなに弱々しくてどんなものだらう。こんな風で育つて行くといふ事は! 僕はその瞬間に赤ん坊自身の無限の労力をあり/\と感じたのだ。――
『あゝ丈夫だよ。爺さんがもう時世にいて行けなくなる頃には、息子がちやんと入れ代りに新手あらてをつくつて置いてくれる。うまく出来たものさ』
『それは何よりです! 今度それぢやあ、お祝ひを是非持つて来なければ。さうだ』――僕は思ひついて云つた。『日本の赤ん坊の玩具をついでに進呈しませうか。失礼だけれどもわたしのところに沢山貰つたばかりのがあるのです。一寸珍らしくて、わるくないでせう』」

「約束どほり祝ひ物を持つて行つたのは、しかしそれからひと月余りも後だつた。丁度君が玄海灘げんかいなだあたりを航海してゐる頃で、山東では済南事件が突発してゐた。僕は副社長と一所に大連から急いで帰つたのだ。留守の間に北京の季節はまつたく早く変つてしまつた。城内と云はず郊外と云はず空一面、蒙古もうこ砂漠さばくからのあの灰いろのほこりに包まれてしまつた。これがこの都会の名物なのだ。静かだが霖雨りんうのやうに際限なく欝陶うつたうしい。曾老人の門番は小窓から僕を見ると教へてくれた。――『この頃はすつかり面会日をめて、いつものお客さん達を断つていらつしやいますよ。でも、そつと入つてひとつ婆さんに聞いて御覧なさい』
 僕はしかし曾老人がきつと会ふことを知つてゐた。息子の動静について誰よりも相談相手になるのは隣国人の僕だつたから。――果して僕は婆やに案内された。老人はふだんよりも一層薄暗い書斎に閉ぢこもつてゐた。書物やつぼや絵具や筆洗のひどく乱雑に散らかつてゐる机の中ほどに紙をのべて、しきりに山水や花鳥を描いてゐた。しかし、部屋に入つて第一に気がついたのは、例の息子の大きい写真が正面の壁の中央に移されてゐる事だつた。いつの間に掛け替へたものか。僕が旅に出るまでは青天白日章をつけたこの青年士官の写真を、流石さすがに北方政府の町なかでは遠慮して、老人は寝室に置いてゐたはずであつた。――それと、支那全土の地図だ。南京から出発して安徽あんきの寿州――江蘇の泗洲ししう――江蘇のはい県――山東の金郷――それから現在の泰安と、蒋介石の主力が一戦ごとに北上してゐる地図だ。江南の軍隊はどうやら新緑と前後してのぼつて来る。その駐屯して来た主な町村に、老人は朱筆でしるしをつけてゐるのだ。朱印は大ぶん地図の上の方まで来てゐる。それを数日前、済南で日本守備軍にはゞまれた訳なのだ。
 老人は大変不機嫌で、僕を振り向くと真向まつかうから云ふのだ。
『日本のくちはどうも分らない! 大きな顔をしてひとの国の交戦地帯に軍隊を駐屯させて置いたら、不祥事が起るにきまつてゐるではないか。君の留守に北京はすつかり流言蜚語ひごまちになつてしまつたよ。うちの門番がゆうべ天橋テンチャオの市場で聞いて来た話だと、日本軍と衝突したなかには蒋の幕軍もまじつてゐて、いまだに実は交戦中だとかいふ噂ださうだ。中には、日本軍が積極的に泰安の蒋の本営を攻撃しようとしてゐるなどといふ者もある。真偽をたしかめようと思つて陶のところへ――例の張の門衛長のところへ今朝から二度ばかり電話をかけさせて見たがよく通じない。かういふ時に、うちに電話のないのはつくづく不自由なものだ!』
 いきなりの激した口吻こうふん度胆どぎもをぬかれた形だつたが、老人の様子でそれが愛国的公憤よりは蒋の幕僚たる息子についての不安から発してゐるのだと分ると、僕は説明した。――日本軍と交戦したのは最初の電報のとほり馮玉祥ふうぎよくしやうからの客軍で、蒋の主力とは系統がちがふこと。――この客軍に対しては蒋総司令の命令がもと/\十分に通じないこと。――それで蒋の主力はつまらぬ累のために軍事上の計画のちぐはぐになるのを恐れて、済南近傍の国道を避けながら進軍する方針を立ててゐること。――
『現に昨晩おそく私の方に入つた情報では、蒋は第一軍に肥城から黄河を渡つて、石家荘方面へ出るやうに発令したといふ事でした。北京行きの新式上り列車は気をとり直して発車したんぢやありませんか。もう大丈夫、済南駅からは遠くなるばかりですよ』
 冗談をまぜながら、僕は今しがた意外に思つた地図のうへの朱点をたどつて老人を納得させた。それから婆やが酒を運んで来たのをしほに話題を変へようと思つて、それまで出しそびれてゐた包みをほどいた。
『どうです。こんなものも案外早く役に立つんぢやないのですか。どうも形勢がさうですよ!』
 机の上に一つづゝ並んで行つたのはちやん/\こと犬張子とデン/\太鼓であつた。デン/\太鼓のさきには桃太郎の首までが附いてゐた。『これは珍らしい。多謝! 多謝!』老人はさすがに単純な笑顔に変つてしまつた。デン/\太鼓を振つて見たり、それから酔の少しづゝ廻るにつれて犬張子をなぐさみに写生して見せたりした。そのうちに思ひついたやうに云ひ出した。
『さうだ。これと云つて別に返礼も出来ないから、ひとつ絵でも描いてあげよう。丁度古紙のいゝのがある。――これは君、恩を着せる訳ぢやないが乾隆けんりゆう年間の紙だよ。古いからいゝのぢやない、何とも云へず描きいゝからいゝのだ。人からごく少し貰つたのだから、仕方がない、小さい絵を描いて上げよう。――彩色を使つて、春景の山水なぞが奥さんにも向くだらう』
『鳥の子』ぐらゐの大きさの紙を拡げて絵具を溶かしながら、老人はしばらく構図を考へてゐる様子だつた。
『かうやつて君を待たせておいて』――うつむきながらひとごとのやうに『なぜ今絵なぞを描くか知つてゐるかね』
 日本の玩具がそれほど気に入つたからでせう、と僕は云はうかと考へてゐた。――
『絵を一枚描いて、すつかりいゝ気持になつたうへで一所に晩飯をやりたいからだよ』
 老人はしばらく黙つた。見ると、いつの間にか背中を丸くしてゐた。眼を据ゑてゐた。僕は四川の軍人の家での最初の日の老人をおもひ出した。僕の眼の前にゐるのは少しも気晴らしを楽しんでゐる人ではない。熱中してゐるモノマニア的な人間だ。すると、不意にしほらしく嘆息するのだ。
『どうも気に入らない! 大事な紙を一枚無駄にしたやうだよ、君。――絵もどうして、なか/\止め度のないものだ。六十を越してから始めたのだが、これこそ病みつきといふやつだ』
『まつたく病のやうですね』僕は正直に云つた。『実のところ絵の話をする時のあなたは半気狂だ。僕は御免だ。あまり有り難くない』
『はゝゝゝゝ』酒気と感興との合はさつた笑ひ声であつた。『それでも安心したまへ。われ/\がまづ一番おしまひの人間なのだらう。絵を描いて生成の理に満足するなぞといふ事はもうすたるだらう。しかし昔はこれで助かつて来たのさ。戦乱は続くし、家に隠れてゐて賢人学者にふわけにもゆかない。そこで雲や石や竹とむかひあつて修練する処世術を古人が考へたのだ。――君は中国の事を報知する役目なのだからよく覚えて置きたまへ』
 僕はこの時ほど純粋に古来の東洋人の傍にゐる心持になつた事は珍らしかつた。表には相変らず細かい灰色の埃が静かに降りそゝいでゐた。際限なく欝陶しい。戦線をつくつてゐる南軍も北軍も、あしも柳も黄河も豚も、皆音無しくこの埃を浴びてゐるのだ。僕はふと、同じ埃のために弱つてゐる家内と赤ん坊を思ひ出してゐた。虚弱な赤ん坊のことを考へると僕は憂欝になつた。父親として最初の経験なので、ともすれば僕は赤ん坊の抵抗力――生活力を過度に心もとなく考へるのだ。ヂーツと鳴つてゐるのはこはれかゝつたこの家の呼鈴ぢやなからうか。『誰だらう……』と僕はつぶやいて見た。
『少しの間黙つてゐてくれ給へ』
 紙を取替へ、筆をとり上げてゐる老人が命令した。その時に陶が――例の門衛長が案内なしに入つて来た。」

「断つて置くが、僕は北京官話が少し出来るといふかどで雇はれたので、督軍の数よりも四分五裂になつてゐる各省の方言にはまつたく通じない。ところが、しきゐにあらはれた陶は僕を見ると、曾老人に向つていきなり満洲なまりのはげしいやつを使つたのだ。曾老人も同じ言葉で答へてゐた。僕はたゞ双方の顔いろでそれが何か行き違つた、気不味きまづい話だとはすぐに察した。ことに陶の平常に似合はず神経質なのは目立つた。張政府の没落ももう時日の問題なのだから。――陶ははげしく首を振つたり手を拡げたりしてしやべつた。この男でもこんな感情を持ち合せるものかと思つて、僕は妙な時に一寸可笑をかしかつた。が、曾老人はやはり身振りで陶の言ひ方を否定してゐた。
『おい塩崎大人』老人が振り向いて僕の賛成を求めるのだ。『日本軍と衝突した南軍が蒋の主力と関係のないことは確なのだね』
 僕は確かだと答へた。
『蒋が日本軍と戦つて共倒れになるなぞと、そんな途方もない事が! ――この男はふだんは至極呑気な、面白い人間なのだが』老人は陶をあごで指しながら、僕に云ふやうにして皮肉を浴せてゐた。『今日はどうかしてゐる。この男は東三省と日本が攻守同盟でも結んだつもりなのだ。一盃いつぱいやつてふだんの通りになつてはどうだね、陶』
『そんな暇があるものか』
 陶は僕の前で露骨に苦りきるわけにもゆかず、半端な笑顔を無理にも見せてゐた。――『君が何度も電話をかけたといふから来たのだ。もう帰る。だから宴会の返事をしないか』
 老人は手を振つた。
御免蒙ごめんかうむるよ。大勢人の集るところは』
『いやさう大勢ぢやなささうだ。大勢ならば勧めはしないよ』
『兎に角人に目立つやうな事がいやなのだ』
『ところがそれが目立たない』陶はやはり声を低めて強請してゐるのだ。『張帥の古い馴染ばかりだ。それにごく内輪にやるのだ』
『古い馴染ばかりを? この忙しい時に?』
『それだけ分つてゐれば出るがいゝぢやないか』
『なるほど、有り難くお受けしろといふのだらう』陶が小役人風に押しつけがましく出てゐるので、老人は少し揶揄からかふ気味であつた。『おい、何か――意味があるのぢやないかね』
 僕は小耳にはさんで思はず陶を凝視した。なぜといふにかう云ふ噂があつたから。――張作霖は北京を引きあげる折の準備として、政略上東三省出身の知名の士には一致して故郷へ帰るやうに勧誘しはじめてゐると。それならば息子を待ち兼ねてゐるこの孤独の老人が逃げを張るのは無理もない。――僕は一瞬間緊張した。
『馬鹿な!』殊更僕に聞えるやうにして、陶が打ち消してゐた。『意味のあるやうな宴会に君がばれてたまるものか。よく考へるといゝ』
『あはゝゝゝ。それあ門衛長の資格で云ふのかい』
『なに、たゞの雅宴なのだ』口の下手へたな陶は精一杯僕の手前を繕はうと苦心してゐるのだ。『その席で君にも絵を描かせようといふのだよ。張帥に君の凝り工合を吹聴ふいちやうしたのだ。それだけの話なのさ』
『さうかい。それならば』と老人はに出てゐた。『もう少し上達するまで御免蒙らう。俺は世の中が変つたらこれで飯を食はうかとも思つてゐるのだから。――あまり未熟なところを人に見せたくはないよ。その話はやめよう! 一盃やつて行け。やつて行け。俺は勝手に手習ひをさせて貰ふがね』
 電燈がともつた。茶を運んで来た婆やが点して行つたのだ。と、陶は不意に正面の壁の写真に目をつけた。陶は顔色を変へた。ガラスのなかには新支那の象徴になつてゐる中山服ちゆうざんふくをつけ、革命軍流行の皮帯ピイタイを胸で十字形に組み合はせた将校が、帽子の陰で笑つてゐた。薄暗い部屋のなかでそれはすつきり白く浮き出てゐた。部屋の欝陶しさといゝ対照であつた。そのために写真の笑顔は皮肉に見えた。挑戦的に見えた。この部屋には少し大き過ぎてしまつたその額縁が、壁から斜めにのしかゝつて、どうもわれ/\を――父親をも含めて――威嚇してゐるやうに見えるのだ。
『なるほど。君の威勢のいゝ訳が分つたよ』
 こんな風に振り向いて云ふ陶を見て、僕は下手まづい事になつたと気をんだ。
『だがこの軍服はどうしたといふのだ。飾りたければ平服のやつを飾るがいゝぢやないか。君だつて好んで北京に住んでゐる男に違ひあるまい』
『あれは陶さん、私がなぐさみに引き伸して見たのです』争乱の際で、老人に災の及ぶやうな事があつてはと思つて、僕が口を出した。『だから私が責任を負ひます。不注意でした』
『………………』
 うつむきがちに眼をらせて、忍耐力と戦つてゐるといふ様子で陶が僕に云ふのだ。
『この男に絵だけはやめるやうに忠告して下さい。絵を描いてゐる時に来なければこれほどではないのですから。第一、六十ぐらゐから始めて堂に入る訳がない!』表面は思ひ遣りのある口吻であつて、その実老人の急所をかうといふ遣り方なのだ。『ほんの慰み事ならば又別だが、金も乏しい癖して紙代、絵具代、大変なものだ。友達は皆陰で心配してゐるのです。一体このとしわづかづゝ上達したところで、それがどうなるといふのです。墓のなかに画才は持つて行かれない! 可哀想かはいさうに。まるで傀儡くわいらいのやうなものだ』
『なに傀儡?』
 酔つてゐるので一層容赦のなくなつてた老人が大きな声をたてた。
『傀儡結構! そこで君の大佐服は何なのだ』
『うむ…………』
 陶は耳元を赤くした。機智の応酬では陶は到底老人の敵ぢやない。陶は一寸鈍重なのだ。陶は他国人の前で、出来るならば冗談に紛らせようとして僕の方を見た。冗談に紛らせたくらゐでは到底面子メンツ(体面)の保てないのを知ると、いきなり陶は――墨をたつぷり含んでゐる筆を額めがけてはふりつけた。
『俺の軍服は――赤賊をやつつける軍服だよ!』
 写真には弾丸が当つたやうに黒い斑点が散らばつた。僕は二人の間に割つて入つた。僕は老人の呶声どせいをすぐ耳の傍に聞いた。
『出て行け! 出て行け!』

 陶の立ち去つた後で、こゝにも墨のはねの荒々しく附いてしまつた白紙をぼんやり眺めながら曾老人が独り言のやうにして僕に話しかけてゐた。
『あの男は――いゝ男なのだが――どう見てもやはり奉天政府の小役人だ。人生を結果でしか考へない。あの男が写真を見て憤るのは、それは分る。しかし我慢の出来ないのはあの男の凡人根性だ。さうぢやないか? 絵がうまくなつてそれがどうなるかといふのかね。俺が傀儡でそれがどうだといふのかね!』老人はだん/\腹が立つて来たと見えて、突然人形の附いてゐるデン/\太鼓を取り上げると、自分の襟首えりくびに差し込んで見せた。――『陶のやつのお蔭で大事な紙をまた台なしにしてしまつた。これでは君、約束の山水は描けないよ。いや描ける! かうしてくれる!』
 老人は自暴したやうな勢で――僕にはさう見えたのだが――ほとんど紙を引き裂くほどにして溌剌はつらつたる墨竹の図を描きとばした。老人が腕を動かす度びに、襟首の人形に附いてゐる鈴は太鼓にあたつて可憐かれんな音をたてるのだ。それは四川の軍人の家にあつた竹の図によく似てゐた。老人はあれを頭のなかにはつきり写生して置いたのだらう。あれほどかをり高く円熟はしてゐないが、しかし、その代り端的で鋭くてせつぱ詰つた気合が掛つてゐた。………………」
「帰りみちに、僕は遠い駱駝らくだの匂でもしさうな埃のなかを歩きながら、曾老人のやうに隣人を持たない生活はいくら美しくてもやがてほろびるだらうと、静かな心に反復して見た。が、それにしても僕は――今貰つて来た竹の図を出産の内祝の袱紗の模様に応用しようと思ひついた。紙に散つてゐるはねは染める時に除けばいゝし、自分を宇宙のなかの一個の傀儡だと自認しながらも、あのやうな情熱を生活のなかに持ちこたへてゐる老人の筆に成つた絵は、月足らずで弱々しく生れた赤ん坊のためにも何か縁起直しになるやうに思つたのだ。瑕物きずものになつたと見えた紙をものにし直したのも、何となく気持がよかつた。僕は職務にかけてはまあ活動家でまめに飛び歩いてゐる方だが、赤ん坊の生活力については馴れない大陸で育てる事だし、どこか弱気ではゞ虚無的であつた。その点僕はあの年とつた熱狂児の前に一寸気まりがわるかつた。――これが僕の袱紗にまつはる奇談だ。」

      *   *    *
     *   *    *

 ひと月して私は、社から急に南京へ廻るやうにとの電報を受け取つた。北伐の成功を目前に控へた南方政府の所在地の見聞記を云ひつけられたのだ。私は駱駝のゐる都会から熱帯病の入り込む都会へ行つた。――北京をつ時には前門停車場で、もう奉天へ引きあげる仕度したくのすつかり整つた張作霖の特別列車といふのをのあたり見て来たのだが、いま私の着いたこの江蘇のまちは、それに引き替へ革命軍事成功祝賀会の準備で雑沓ざつたふしてゐた。ガール・スカウトは体格のいゝ少女ばかりをそろへて旗行列に加はるといふ事だし、丘の上の新公園では軍楽隊が俄かに祝の曲目を練習してゐた。
 もう六月だつた。至るところの水溜みづたまりで女達が洗濯してゐた。目のくらむ程暑い往来に石炭酸の匂が残つてゐた。私は北京のよりも性急に走る人力車に乗つて、曾老人の添書を携へて若夫人を訪ねた。八歩巷の欧風を加味した若夫人の門札にはかう記してあつた。衛生委員会委員。婦人教育委員会委員。――
 労農ロシアの影響だらうと思ふが、曾若夫人はすべての南京の若夫人のやうに「女同志ニウトンツ」――すなはち、准将校服に革ゲートルをつけたまゝで出て来た。若夫人は美しかつたが、服装の加減でむしろあどけない様子であつた。ひどくがたに見えて、胴が皮帯ではちのやうに細く締めつけられてゐる若夫人に、私は英語で挨拶あいさつした。
「お父さんはあちらであなた方をお待ち兼ねですよ。奥さん」
「有り難う。有り難う」若夫人はしうとからの手紙の封を私の前で切りながら、矢つぎ早やに質問した。「北京の様子はどうですか。奉天軍の引き揚げは秩序よく行きさうですか。一般の人はわたし達をこはがつてゐますか。それとも内心は待つてゐてくれるやうですか。――さうです。あの人達は何もしないでもよろしいですわ。ほんとに、たゞ、待つてゐてさへくれれば」
 私は多少恐縮した形で云つた。
「別にこぞつて国民革命軍をきらつてゐるといふ訳ではありませんが、奥さん、北京は兎も角も混雑して居ります。いろ/\の噂が立つて少しも落ち着きません。お父さんはさういふ中で、毎日お宅に閉籠つて絵を描いていらつしやいます」
「そんなに書物まで不自由してゐるのでせうか」と、軍服の夫人は、やはり東洋風の孝行を教はつた嫁らしく、まゆを寄せて見せた。
「何もなさる事がなくつて、お気の毒な!」
 私は老人の面目をこの新支那人に説明してかゝらうとした。私はひと議論弁じようと思つた。私は英語の形容詞を頭に集中した。
「いや御安心なさい。お父さんは、書物なぞ一か八かの食事にはならないと仰有おつしやいます。お父さんは高潔な方です。道を求めてゐる方です。石だの竹だの雲だのを友達にして、生命を肯定して居られる方です」
「何ですつて――御免下さい――わたくしにはわかりませんわ」
「つまり何といふか」私の英語は随筆ほどには自信がなかつた。「さういふ物と差し向ひになりながら、まるで賢人とでも差し向ひになつてゐる時と同じやうな気持になれる修練をして居られるのです。――」
「御免下さい。――ほんとに仰有ることが解りませんで、どうかお気をわるくなさいませんやうに。――それは、父が何か特別な研究に熱中してゐる事だけは呑み込めましたけれども」
 若夫人が娘つぽく顔を赤らめてゐるので、私も差し出された紅茶をかき混ぜて紛らせながら、話題をもとに戻すことにしたのだ。
「それでもお父さんは、ちやんと御主人の写真を大きな額に入れて書斎に飾つていらつしやいますよ。何しろあゝいふ北京の内で、革命軍の将校の写真なぞを飾つて置くといふのは相当危険なのです。御懇意に願つてゐる私の友人などもヒヤ/\してゐたやうです。――それから、赤ちやんのお噂は毎日のやうにして居られました。さう/\、私のその友人にうまい事を仰有つたさうです。爺さんがするだけの仕事をしてしまつて、役に立たない頃には、息子がちやんと孫をこしらへてれる。うまく出来たものだ」
「そんな事を申しましたか」若夫人は私の英語が一どきに解つたかのやうに笑ひ声をあげた。「えゝ本当にさうですわ。――赤ん坊をお見せしませうか。連れてまゐりますからその間、こんなものでも御覧下さいまし。これは市で印刷したので、きつと御参考にもなりませう」
 私は机の上に残された「育児便覧」といふ刷り物を取り上げた。巻頭にこんな文句が題してある。「南京市の乳児の死亡率は次の表のやうになつて居ます。わが民国でいま一番大切なものは小児です

 私が辞した時に、人みしりをした赤ん坊の泣き声がまだ二階の窓で聞えてゐた。が、六月の風がそれよりもつと大きい、もつと快活な音響を運んで吹き消してゐた。丘の上の軍楽隊の練習曲だ。この瞬間に赤ん坊の泣き声は大きい音の一部分になつてゐた。
 赤ん坊は、北京の祖父にも戦線にある父親――の写真にも似てゐるやうに思はれた。して見れば市の衛生パンフレットのとほりに育てられるこの赤ん坊は、祖父の血と父親の血とを半分づゝ受け継いでゐるのかも知れなかつた。それは第三期の幸福な民国人かも知れなかつた。私もまた赤ん坊に――希望を持つた。
(昭和三年十月)





底本:「現代日本文學大系 62 牧野信一 稻垣足穗 十一谷義三郎 犬養健 中河與一 今東光集」筑摩書房
   1973(昭和48)年4月24日初版第1刷発行
   1987(昭和62)年9月15日初版第12刷発行
初出:「文芸春秋」
   1928(昭和3)年10月
※「侍僕ボオイ」と「ボオイ」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2021年7月27日作成
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