“指揮権発動”を書かざるの記

犬養健




 昨年の秋のある夜であった。文藝春秋編集部のU君が突然電話をかけてきて、これからすぐ上がるが、お眼にかかれるかとのことだった。U君は当時私が半年ばかり文藝春秋に連載している原稿の担当責任者なので、来訪を待つことにしたが、いつもならばこの時刻には文春の第一線の若い人々が築地河岸の「はせ川」という腰かけのうまいもの屋へ行って一杯傾けながら一日の労を癒している時刻なので、はて、今日は何か急用かなと、私は漠然と用向きを想像していた。ところが、やって来たU君は深刻な顔つきで、「あなたがいま指揮権発動の真相を書いておられるという噂がひろまっているので、今日は編集長から一本クギを打たれて来ました。もしもその原稿がほかの雑誌に載るようなことでもあれば、それこそ文春の面目にかかわりますので、ぜひともそいつは私に下さい」
 という話であった。私はことの意外に驚いたが、
「君は誰からそんな話を聞いたの」
 と訊ねてみると、
「政界の有力筋から社へ問い合わせがあったので、それから急に大騒ぎになったのです」
 と言う。ともかくも私は事実無根の旨を力説して帰ってもらった。
 するとしばらくして、私の郷里岡山の総社市に住んでいる小川の源さんという二代の付き合いの石屋さんから手紙が来て、
「週刊女性という雑誌で大野伴睦先生の文章を拝見しました。あなたが指揮権発動のことで永い間ひとりで忍耐しておられる心持を今さら尊いと思いました」
 と書いてよこした。私は突然のこととて意味の分らぬままにその週刊誌を本屋から取りよせて読んでみると、なるほど大野副総裁が歯切れのいいハッパをかけている。
「いかにも犬養はそういう原稿を書いているだろう。また、書くのが当然だ。しかし健さんのことだから、おそらく死ぬまでは発表せんだろう。その点が俺にははなはだ物足りんのだ。俺だったらサッサと公表するがな。まことにはたで見ていて歯がゆい限りだ」
 と、こんな調子である。私には大野老のヤキモキしている心事が目に見えるようであった。しかし、同時に私はその一見乱暴に見えるような言動の裏に、私に対する温かい侠気のみなぎっているのをはっきり感じた。そして昔ながらの変らぬ友情をありがたいと思った。
 このことがあってからしばらくの間はまず格別の出来事も起らなかったが、今年に入るとこの問題はさらに一躍してマスコミの寵児になった形であった。というのは、最近週刊読売に記事が出て、
「犬養は指揮権の真相を原稿に書いたが、とどのつまり、口止め料として莫大なかねを受け取った。しかし娘の道子がこのまま黙ってはいないだろう」
 ざっとこういう趣旨である。私はさすがにアッケに取られた。ことにこの記事は今までのものと違って、事柄がかねに関してイヤにはっきり書いてあるので放ってもおけず、さっそく取り消しを要求しようと考えたが、由来私の体験に関する限り、日本国の正誤訂正記事ほど頼りにならぬものはない。それこそ虫眼鏡で捜さなければ眼に止まらぬような小さな活字で、しかもだいぶん時が経ってからほんの義理に紙面の隅の方に小さく出るのが落ちである。いや、出るのはまだしも好い方なので、たいがいの場合はそのままうやむやにすんでしまう。私は今さらに長島選手、大鵬、北原三枝というような、街の噂話に弱りはてている人々に対して身近な同情を抱くようになった。高峰秀子さんが世間嫌いになった心事もはじめて理解できるように思えた。
 この記事が出てから間もなくのことである。産経新聞政治部の藤田君という若い友人が遊びに来て、
「あなたの指揮権発動の原稿の一件は国会でも相当噂がひろがっていてやかましいですよ。賀屋興宣なぞも意外にくわしく知っていて、私に真偽を確かめたくらいですよ。佐藤栄作は記者会見の席上で誰かが質問したところが、『だいたい、党の副総裁である大野さんと特別に親しい犬養君が暴露記事を書くという理屈が分らん。君たちはどう思うか』と逆襲してその場の空気をさぐっていたそうです。村上建設大臣なぞは佐藤氏に、『犬養さんにかぎってそんな人じゃありませんよ』と否定したが、これは親分の大野老が元気のいいケシカケをやってしまった後なので綺麗に帳消しになってしまいましたな。まあ国会へ行ってご覧なさい。なかなか賑やかですよ」
 と教えてくれた。
 このように、問題はだんだん発展の一途をたどって来たが、さらに最近、二代目同士のつきあいになっている仲の森清代議士が訪ねて来て、
「どうも、あなたは指揮権発動の問題を書いておられるというし、松本さん(内閣官房副長官、元駐英大使)は松本さんで、日ソ国交恢復当時の真相を公表するという噂がもっぱらで、これは明らかに天下擾乱の兆ですな。実は河野一郎さんも久しぶりに見舞がてらここへ一緒に来たいのだが、あなたの原稿にハッパをかけに来たと誤解されても時節柄お互いに迷惑なことだと思い直して、今日は私が代りに果物をあずかって来ました」
 こう言って、最近打ち合わせのために訪欧旅行の帰途の河野氏を南方まで出迎えに行った森君は、日焼けした健康そうな腕で大きな籠を持ちあげて私のベッドの上に置いていった。
 ところが、この森君と入れ違いの形で、検察関係のある長老から電話がかかって来た。この長老はいつも私の健康を気づかって見舞を欠かさずにしている人であるが、
「その後ご無沙汰しておりますが、今日は久しぶりでお見舞かたがた、もしも世間の噂が本当ならば、指揮権の原稿の内容についてお打ち合わせをしたいのですが」
 ということであった。これにはさすがに私も驚いたが、厚く礼を述べたうえ、事実無根のことを力説しておいた。が、私がしみじみ思うのに、あと十年も経って、当時の関係者が全部現役から退いたあげくの日に、長い間の冤をそそぐのは誰であろうかと想像してみると、やはりそれは花井前検事総長と清原現検事総長の二人であろうと考えた。そして私は共々に苦労の多かったあの時代のことを今さらに振り返った。

 実をいえば、この問題では世間の人は見当を違えているのである。なるほど当時の佐藤栄作氏はその立場上まずいことも相当あったであろう。また検察当局としても、あれはどうしても捜査しなければならぬ筋合の事件であったろう。が、それは決して古今未曾有の奇怪事という性質のものではなかった。日本の政党が党員の浄財によって賄われない限り、誰しも党の幹事長や書記長になれば、佐藤氏程度のまずさは時おり生れるはずのものなのである。そしてこれはひとり自民党ばかりではない。社会党における総評の関係も、民社党の西尾氏における社会各層の西尾ファンの関係も、いってみれば五十歩百歩の差に過ぎない。
 ところがあの事件に関する限り、古今未曾有の奇怪事――すなわち二度とあってはならない奇怪事は、実は別の点にあったのである。それは他でもない。当時検察庁に対して大きい勢力を持っていた某政治家が、法務大臣たる私や検事総長たる佐藤藤佐氏を差しおいて庁内のある有力者を吉田首相の身内みうちの一人に近づかせ、「自分の推薦する者を検事総長に任命すれば指揮権発動ぐらいのことは必ず断行させてみせる」と豪語して、ひそかに首相の周囲に指揮権発動の可能性なるものを入れ智恵する一方、検察庁内のある上級幹部にも働きかけてその秘密会議の席上、「断乎佐藤栄作を起訴すべし」という、まったく正反対の強硬論を吐かせたのである。そのねらうところはいうまでもなく指揮権発動の実現によって法務大臣、次官はもとよりのこと、検事総長をはじめ検察庁の主な責任者を一人残らず引責辞職せしめ、代って彼の意中の男を新たに検事総長に据えると同時に、法務大臣の後任には首相の身内みうちと最も親しいある衆議院議員を持って来ようという遠大な筋書で、すでに本人の内諾まで取りつけていたのである。
 しかしこの計画がどこからともなしに少しずつ漏れて来た結果、私は法務次官にのみは真相を打ち明けたうえ、首相にまで辞意を申し出、緒方副総理に辞表を手渡した。というわけは、当時佐藤検事総長は法務省詰の新聞記者の連日連夜にわたる必死の監視の的になっていたし、それに、この記者連中は学者肌の佐藤総長の些細な言葉のニュアンスから何らかのヒントを引き出す急所を心得ていて、私なぞが記者会見の席上とぼけてみせると、「まあ、いいですよ。どうせ今夜はお役所の佐藤情報局長官に当ってみますから」なぞと、公然と言うようになっていた。こんな始末だから、私は検事総長にはちと相すまぬと思いながらも、問題の核心を総長に知らせる勇気が出なかったのである。その後総長の書かれた新聞記事なぞを読むと、今日でも総長の未だに知らぬ部分があるように思われる。
 こういう裏面の動きをまったく知らない吉田首相は私の辞任申し出に当惑して、一時は元司法大臣の小原直氏に後任の内交渉をしてみたが、誰しもこんな割のわるい役目を引き受ける者はない。そのうちに首相がひそかに検察庁のある上級幹部と面会したという噂が立って、国会でも野党がだいぶん喰い下がって私を追及した。ところが、偶然にも緒方副総理の口から私は首相官邸の裏門に停っていた自動車の正体をほぼつきとめた。もちろん、こういう出来事は検察庁法の固く禁じてあるところだ。かれこれしている間に日は切迫してくる。佐藤問題担当の検事は便所へ行くにも新聞記者に尾行される。現に法務次官は東京地方検事正と事務上の打ち合わせをしたいのだが、役所でも自宅でもそれができず、とうとう朝の出勤時間に両者の乗用車を並行して走らせて、やっと街頭で用を足したような始末だ。まるで共産党のレポのやり方と同様である。
 検察当局はとうとう最後の智恵をしぼって、さすがにくろうとらしい緻密な案を立ててきた。この案ならば八方円満に納まり、しかも捜査の目的も達するのであるが、惜しいことにこの案には十に一つぐらいの失敗率を見込まなければならない。しかし十に一つの失敗率でも内閣はたちまちつぶれてしまう。それでせっかくの苦心のこの案も慎重居士の緒方副総理の容れるところとならず、ついに時間切れの形で、指揮権に関する公文書がそとの方から辞表提出後の法務大臣の机の上に置かれる決着に立ち至ったのである。
 指揮権の間の真相はかくのとおりである。が、私がただちに政界を去ることは内閣に何か後ろ暗いことがあるような印象を世間に与え、内閣を危機に追い込む結果になるのでそれは思い留まったが、しかし私が二度と社会の表面に立たぬ男になることはこの時からの覚悟であった。
 しかし世の中はよくしたもので、信賞必罰というものがある。この法則はもちろん検察庁にも及んでいる。現に外部からみると、検察庁内では今に至るまでこの計画に荷担した官吏は永久に最高幹部にはさせぬという不文律が次から次へと引き継がれているのではあるまいか。少しく検察庁内の消息に通じている者ならば、必ずこの点で思い当ることがあるように思われる。
 さて、この検察陣の上級首脳部から私に電話のかかった後、ほとんど一、二時間ほどの違いで、週刊新潮の若い記者(実はトップ屋)が病院へ訪れて来た。これはまた格別に熱心な青年で、果物籠を携えて一日のうちに二度も追いかけてやって来たのである。そして、
「あなたはいま指揮権の真相を原稿に書いていらっしゃるそうですが、それをぜひとも週刊新潮にいただきたいと思ってあがりました」
 と言う。
「誰がそんなことを言ったのですか」
 と聞いてみると、
「草野心平さんからつい昨日教わりました」
 ということである。(これも事実無根だということが、あとで草野君の直話で分ったが)私は、
「なるほど草野君は昔南京の大使館で一緒に働いて以来の親友だが、このところかけ違って逢っていません。もしも彼が本気でそう思い込んでいるといけないから、さっそくこっちから手紙を出しておきましょう」
 と答えた。実はあまり馬鹿馬鹿しいので草野君には手紙を出さなかったのだが、この若い記者はなかなか職務熱心で、あくまで喰い下がり、いっこうに引き下がろうとしない。とうとう私もごうを煮やして、
「もしもそんな原稿を発表したら腹を切ってみせます」
 といったところが、やっと納得して帰ってくれた。私は大野伴睦老でもいいそうなセリフが今の時代でもあんがい若い人に効き目のあることを知っておかしくなった。――こう思ったのは、実はこちらの早合点で、結局この記者君は「犬養の原稿の幻影に脅える自民党」とかいう記事を発表したそうだ。しかも私が草野君あてに出した手紙のうちには、最高検察庁に非常な迷惑のかかるような人事異動の内容について語ったことになっているばかりでなく、自分の原稿は絶対に他人に書かせぬ私が娘の道子に口述筆記をさせて問題の原稿を仕上げたうえ、それを一枚五万円という言い値で佐藤氏の周囲に買い取らせたことになっているそうだ。そうとは知らぬ私は若い記者君あてに果物をもらった礼を書き送った次第だが、やはり向うの方が役者が一枚上手うわてである。
 ただ、ひと言真面目なことをいわせてもらえば、いったい雑誌記者の徳義の水準がこんなもので日本の国はいいのであろうか。聞けばこの週刊誌の記事は私のほかにも現在方々の人に大変な迷惑をかけているそうだが、編集責任者ははたして外国の雑誌編集方針にくらべて恥ずかしいことはないのか。
 昨今人権擁護局と人権擁護委員会とがあまりの週刊誌の非道徳に憤激して活動をはじめたというのは当然すぎることである。委員会の意見では、日本の文化水準向上のために、被害者は決して泣き寝入りになってはいけない。外国流に法廷できまりをつけてもらわなければならないといっているそうだが、これも当然のことである。

 私はここで必要上、私の病院生活のありのままを伝えて、どうやら五里霧中に迷い込ませてしまった読者に無事下山の道をご案内しておこうと思う。これを読めば私がいかに当時執筆不可能のありさまであるかが容易に諒解できるだろう。私の日課はまず朝の五時から七時までが忙しい。それはラジオの「農家の時間」を聞くためである。農家経営の半永久的な苦しさ――それを朝まだきの薄暗い部屋のなかで聞きながら、私は経営規模のほぼ似通った郷里岡山の誰彼の家庭を想い浮かべて懐かしい気持になるのである。時おり農業技師なぞから珍しい好い放送を聞くと、郷里のお百姓にその内容を手紙で知らせたりする。
 それと、日曜日の朝は、私はいちおう念のためにフランスやイタリイのミサ合唱の有無を新聞のラジオ版で調べる。この録音がだいたい七時から八時の間である。いつであったか、パリのノートルダム大寺院の修道女会の古風なグレゴリアン讃美歌チャントをマイクに捕えたのだが、その合唱の直前に、修道女が控え目にする低い咳の音がそのまま録音に入って来て、私は暁の冷え切った礼拝堂のガランとした空気を気味のわるいほど如実に感じたものである。
 こんな日程で、私はいちおうラジオから解放されるのだが、午後はその頃訪欧の途上にあったアイゼンハウァー米国大統領の消息に、やはり格別の注意を払っていた。このアイクの人柄を紹介した数ある解説のなかで、私は松本重治君の話に一番感心した。松本君はその逸話をワシントンでの午餐の卓上でニューヨークタイムス支局長のジェームス・レストンから聞いたのだそうだが、アイクの若い頃、学資の事情から官費で事足りる士官学校へ入学したところが、プロテスタントのささやかな、しかし信心深い団体に属している彼の母堂が、決してこの人殺し商売を生涯許さなかったという。私はこの話を知って以来、アイクの外国から外国へ旅するところ、その後ろにいつも付き添っている亡き母堂のおもかげの厳しい鞭を連想して、「嘘をつかぬ人」として、今や世界の信望を克ち得ているアイクのよって立つ人生観の根拠に深い親しみを抱くようになった。この厳しさが世代から世代へ伝わる限り、キリスト教は世の塩たる価値を失わないであろう。
 数年前、私はカリフォルニアの田舎で、イエズス会の神父さんとキリスト教の厳格さについてかなり激しい議論をしたことがある。その時私はユダヤ教以来の永い伝統を引いているキリスト教の罪に対する過度の厳しさが不満で、むしろ仏教の広大無差別な慈悲の方に共感を抱いていた。しかしこれはやはり私の誤りであって、仏教仏教と一概に言うが、私自身の体験を振り返ってみても、たとえば臨済禅のような場合は、水汲み、拭き掃除、便所の清掃と実に容赦のない重労働ばかりを課して若い修道者の驕慢心を調伏させるのである。そればかりではない。由来臨済の道場には同じ禅宗でありながら、とかく宗教上の議論を好んで行なう曹洞宗の口頭禅の傾向に対する容赦のない批判が満ち満ちていた。アイクの母堂にもこれと同じような厳格さが常にあって、それがアイクを老齢の今日まで浄化させ、円熟させて来たものであろう。
 ともかくもこんなふうで、私が病院の退屈な日々を送っている間に、一歩外へ出れば浮世の風に吹きまくられて噂が噂を生み、それが雪達磨だるまのようにますます大きくなっていたのである。私はそれをあんがいぼんやりして如実に感じないでいた。
 これは退院してから聞いた話だが、目下ラジオ、テレビの寵児になっている元新聞界の某大家が、「一度犬養の真意をよく聞いてみる」という趣旨で、柳橋の料亭で佐藤栄作氏の周囲からねんごろな招待を受けたという景物まで加わっているそうだ。これには私もアッケに取られたが、しかしこのニュースはあまり不愉快ではなかった。なぜならばこの人は私の父の代以来親しい交りをつづけている先輩で、前々から私に「満州事変前後の内閣の事情を一度書け」と熱心に執筆生活に入ることをすすめていた前歴があるからである。
 それにしても第一、ここでは執筆はとうてい不可能である。この病院では、毎朝看護婦が二人、私の寝台の掃除に来る。その後でさらに一人が寝台のまわりの器物を整理に来る。このほかに夜となく昼となく二時間おきに看護婦が病室を見廻りに来る。郵便物もすべて一度は看護婦長にとどけられ、少しでも療養に差し障りのおそれのあるものは手元に保留される。
 こんな始末だから文春の出版局のS君なぞは近々出版される私の新刊本の最終のゲラ刷をズボンのベルトの下に隠し、外来患者の出入口から遠回りして、私の病室にすべり込んだような始末である。私は宵のうちに早く寝て、真夜中の間にそのゲラ刷を少しずつ訂正する。巡視の足音が聞えればやめる。もちろん新しい原稿を書くこともできないし、隠すこともできない。娘は娘で、私の病中執筆には大反対で、S君にもとうに一本くぎを打ってある。まったく金縛かなしばりの態である。

 ここで話は再び本筋に戻るが、以上のような次第で、こんなに来客がつぎつぎに相続く療養生活ではこっちの身体が続かない。「面会謝絶」という主治医の貼り札を戸口に出してもいっこう無駄である。何とかしてこのマスコミの波状攻撃に終止符を打たなければならない。かれこれするうちに三月に入って、病院の中庭のあちこちにも青草が芽生え、どうやら余寒も去ったところで、私は雛の節句の日にやっと退院した。U君はさっそく引っ越したばかりの私の新居を訪ねてくれた。ところが、U君は早くもその日のうちにまたまた奇々怪々な出来事にぶつかっているのである。というのは、この日U君が出社してみると、編集部の取り次ぎ嬢が待ち構えていたように飛び出して来て、
「今日は妙な電話がかかって来ました」
 と言う。よく聞いてみると、その朝編集部へ変な電話がかかって来て、名前も名乗らずに、
「犬養の原稿がそちらにもう届いているはずだが、あの中には一カ所事実に相違した点がある。それを直したいから、印刷する前にぜひ眼をとおさせてくれ。固く約束したぞ」
 と念を押したまま、プッツリ送話を切ってしまったそうである。平常テレビの「ダイヤル一一〇番」をヒイキにしているその取り次ぎ嬢は、すぐにも警視庁に連絡して、今の電話の在りを問いただそうとしたが、何となく薄気味がわるくなって来て、ともかくもU君の出社を待っていたのだという。(その後、同じ男か、別の男か、新聞社の肩書のある名刺を携えて文藝春秋社に現われ、似たようなことを言って鎌をかけた者があったそうである。)私はそこでU君に、
「先方は何がそんなにコワイのかな。――とにかく、君はあまり夜なぞ方々をうろうろ歩かないがいいよ。銀座裏のドブのなかに君が惨死体となって現われたのでは困るからね」
 とイヤがらせを言った。平常落ち着いているU君もこれには苦笑していた。しかし私はこの時、はじめて本当に原稿を書く決心をした。すでに私は口止め料を貰って原稿の発表を思い留まった男にされているのだ。私はこの一、二カ月のいきさつをありのまま書く。こちらが一字も書かぬのに雑誌社までをおびえさせるとはなにごとか。まさか私が惨死体になるとは思わないが、脅迫されれば私は必ず書く。しつこく喰い下って来ればいっそう詳しく書く。向うが皮を切ればこっちは骨を切る。何も私ひとりが無抵抗主義で縮こまっていることはない。――実は私の礼儀としては、この原稿執筆についていちおう断りを言うべき筋も二、三はあるし、ことに大野伴睦老や検察庁にはその義理を感じるが、この場合はかえって先方に迷惑のかかるのを恐れて、私は独断で書く。そして一切の責任は自分で背負う。こう決心した。――もっとも、刑事事件の総括責任者である元の国務大臣が、その事件の内容を十年も経たぬうちに公表するというのは穏やかでない。まして上述のとおり、当時の検察関係者はまだ現役として勤務中である。ただし、先方がこれ以上脅迫して来れば話は別である。こちらとしても防衛上いっさいを発表して世の中の批判を求めるより他はない。
 こんな経緯で、私はとうとうそもそもの振り出しに戻って、このU君に、「指揮権発動を書かざるの記」という原稿を贈呈しようと思いついた。U君はその原稿のゲラ刷をちょうどいまパリにいるA君のもとへさっそく航空便で送り届けるだろう。そしてA君はそれを開封してみて、思いがけないU君の腕前にさぞかし眼を丸くするに違いない。
 ちょうど、時は花の季節のパリである。もう復活祭の前の聖四旬節しじゅんせつに入っているのだ。カトリック教徒の都パリでは各教会に属する聖歌隊の練習の忙しくなる時である。街頭の花店には色とりどりの花の種類が目立って増えていることだろう。そういう雰囲気のなかで、A君はそのゲラ刷をポケットに納めて、その晩はさぞかしパリの「はせ川」のような行きつけの店へ入って、ひとり陶然と生一本の葡萄酒の杯を傾けることだろう。
 世にも愉快な酔い工合である。それでいいのだ。それで私の原稿を半年以上も文藝春秋へ根気よく載せてくれたA君の好意に対して、私ははるかにお礼をとどけたことになるのである。
35・5)





底本:「「文藝春秋」にみる昭和史 第二巻」文藝春秋
   1988(昭和63)年2月25日第1刷
   1988(昭和63)年3月15日第3刷
底本の親本:「文藝春秋」文藝春秋新社
   1960(昭和35)年5月号
初出:「文藝春秋」文藝春秋新社
   1960(昭和35)年5月号
※底本編者による前書きは省略しました。
入力:sogo
校正:フクポー
2018年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード