――どうなるものか、この天地の大きな動きが。
もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。なるようになッてしまえ。
「――今、動いてみたッて、仕方がない」
けれど、実は、体力そのものが、もうどうにも動けなかったのである。武蔵自身は、気づいていないらしいが、体のどこかに、二つ三つ、
ゆうべ。――もっと詳しくいえば、慶長五年の九月十四日の
その雨は、
――
戦いは、味方の敗けと決まった。
「俺も、……」
と、武蔵は思った。
「
と、呼んだので、彼の眼は、仮死から覚めたように見まわした。
槍一本かついだきりで、同じ村を飛び出し、同じ主人の軍隊に
その又八も十七歳、
「おうっ。
答えると、雨の中で、
「武やん生きてるか」
と、
武蔵は精いッぱいな声でどなった。
「生きてるとも、死んでたまるか。又やんも、死ぬなよ、犬死するなっ」
「くそ、死ぬものか」
友の側へ、又八は、やがて懸命に這って来た。そして、武蔵の手をつかんで、
「逃げよう」
と、いきなりいった。
すると武蔵は、その手を、反対に引っぱり寄せて、叱るように、
「――死んでろっ、死んでろっ、まだ、あぶない」
その言葉が終らないうちであった。二人の枕としている大地が、釜のように鳴り出した。真っ黒な人馬の横列が、
「あっ、福島の隊だ」
あわて出したので、武蔵はその足首をつかんで、引き仆した。
「ばかっ、死にたいか」
――一瞬の後だった。
泥によごれた無数の軍馬の
又八は、じっと
おとといからの土砂降りは、
「歩けるか」
友の腕を、自分の首へまわして、負うように
「だいじょうぶか、しっかりしておれ」
と、何度もいった。
「だいじょうぶ!」
又八は、きかない気でいう、けれど顔は、月よりも青かった。
ふた晩も、伊吹山の谷間の湿地にかくれて、
(捕まってもいい)
というほどな苦しみを訴えて迫るし、居坐ったまま捕まるのも能がないと思って決意をかため、
又八は、片手の槍を杖に、やっと足を運びながら、
「武やん、すまないな、すまないな」
友の肩で、幾度となく、しみじみいった。
「何をいう」
武蔵は、そういって、しばらくしてから、
「それは、俺の方でいうことだ。
「俺だって! ……俺だッて」
又八も、
「で――俺は、日頃仲のよいおぬしにも、どうだ、ゆかぬかと、すすめに行ったわけだが、おぬしの母親は、とんでもないことだと俺を叱りとばしたし、また、おぬしとは
「うむ……」
「女や
「そんなこと、誰が武やんのせいにするものか。
「はてな、
改めて、自分たちの出て来た天地を見直した。
「あまり、
武蔵が、つぶやくと、
「あれは、
と、彼の肩にすがっている又八もいう。
「すると、この辺は
「そうだったかなあ。……俺もこの辺を、駈け廻ったはずだが、何の
「見ろ、そこらを」
武蔵は、指さした。
「……虫が、啼いてら」
武蔵の肩で、又八は病人らしい大きな息をついた、泣いているのは、鈴虫や、松虫だけではなかった、又八の眼からも白いすじが流れていた。
「武やん、俺が死んだら、七宝寺のお通を、おぬしが、生涯持ってやってくれるか」
「ばかな。……何を思い出して、急にそんなことを」
「俺は、死ぬかもわからない」
「気の弱いことをいう。――そんな気もちで、どうする」
「おふくろの身は、親類の者が見るだろう。だが、お通は独りぼっちだ。あれやあ、
「
はげまして――
「もう少しの辛抱だぞ、こらえておれ、農家が見つかったら、薬ももらってやろうし、楽々と寝かせてもやれようから」
関ヶ原から不破への街道には、宿場もあり部落もある。武蔵は、要心ぶかく歩きつづけた。
しばらく行くとまた、一部隊がここで全滅したかと思われる程な死骸のむれに出会った。だがもう、どんな屍を見ても、
「あっ? ……」
と軽くさけんだ。
――野武士か?
とは、すぐ思ったことだったが、意外にもそれはまだやっと十三、四歳にしかなるまいと思われる小娘であって
「……?」
怪しんでも怪しみ足りないように、武蔵と又八とは息をこらして、小娘の
「こらっ!」
武蔵が、こう怒鳴ってみると、小娘のまろい眸は、あきらかにビクリとうごいて、逃げ走りそうな気ぶりを示した。
「逃げなくともいい。おいっ、訊くことがあるっ」
あわてていい足したが、遅かった。小娘はおそろしく
「なんだろ?」
茫然と、武蔵の眼が、夜の
「
と、又八はふと身ぶるいした。
「まさか」
笑い消して、
「――あの丘と丘の間へ隠れた。近くに部落があると見える。
二人がそこまで登ってみると、果たして人家の灯が見えた、
「おたのみ申します」
まず、軽くそこを叩いて、
「夜分、恐れ入るが、お願いの者でござる。病人を、救っていただきたい、ご迷惑はかけぬが」
――ややしばらく返辞がない。さっきの小娘と、家の者とが、何か、ささやき合っているらしく思える。やがて、戸の内側で物音がした。開けてくれるのかと待っていると、そうではなくて、
「あなた方は、関ヶ原の
小娘の声である。きびきびという。
「いかにも、私どもは、
「いけません、落人をかくまえば、私たちも罪になりますから、ご迷惑はかけぬというても、こちらでは、ご迷惑になりますよ」
「そうですか。では……やむを得ない」
「ほかへ行って下さい」
「立ち去りますが、連れの男が、実は、
「薬ぐらいなら……」
しばらく、考えているふうだったが、家人へ訊きに行ったのであろう、鈴の音につれる
すると、べつな窓口に、人の顔が見えた。さっきから外を覗いていたこの家の女房らしい者が、はじめて言葉をかけてくれた。
「
「何が
「何屋でもいい、こうして
「
「あの小娘は、七宝寺のお通さんに、どこか似てやしないか」
「ウム、可愛らしい
「オヤ、鈴の音がする」
耳を澄まして――
「
小屋の外で、
「又八さん、武蔵さん」
「おい、誰だ」
「私です、お
「ありがとう」
「お体はどうですか」
「お蔭で、この通り、二人とも元気になった」
「おっ母さんがいいましたよ、元気になっても、余り大きな声で話したり、外へ顔を出さないようにって」
「いろいろと、かたじけない」
「石田三成様だの、浮田秀家様だの、関ヶ原から逃げた大将たちが、まだ捕まらないので、この辺も、御詮議で、大変なきびしさですって」
「そうですか」
「いくら雑兵でも、あなた方を隠していることがわかると、私たちも縛られてしまいますからね」
「分りました」
「じゃあ、お
微笑んで、外へ身を
「朱実さん、もう少し、話して行かないか」
「
「なぜ」
「おっ母さんに叱られるもの」
「ちょっと、訊きたいことがあるんだよ。あんた、
「十五」
「十五? 小さいな」
「大きなお世話」
「お父さんは」
「いないの」
「
「うちの
「ウム」
「もぐさ屋」
「なるほど、
「伊吹の
「そうか……
「それだけ? 用事は」
「いや、まだ。……朱実さん」
「なアに」
「この間の晩――俺たちがここの
「知らないッ」
ぴしゃっと戸をしめると、朱実は、
五尺六、七寸はあるだろう、
――
郷里の
いつのまに、覗いて来たのか、
「おい、
などとささやいたりした。
どっちも若いのである。伸びる盛りの肉体だった、武蔵の
――夜も、薪小屋には寝ない晩のほうが多くなっていた。
たまたま、酒くさい息をして、
「
などと、引っぱり出しに来る。
初めのうちは、
「ばか、俺たちは、
と、たしなめたり、
「酒は、嫌いだ」
と、そっけなく見ていた彼も、ようやく
「――大丈夫か、この辺は」
小屋を出て、二十日ぶりに青空を仰ぐと、思うさま、背ぼねに伸びを与えて
「又やん、余り世話になっては悪いぞ、そろそろ
と、いった。
「俺も、そう思うが、まだ伊勢路も、上方の往来も、木戸が厳しいから、せめて、雪のふる頃まで隠れていたがよいと、後家もいうし、あの娘もいうものだから――」
「おぬしのように、炉ばたで、酒をのんでいたら、ちっとも、隠れていることにはなるまいが」
「なあに、この間も、浮田中納言様だけが捕まらないので、徳川方の侍らしいのが、
「なるほど、それもかえって妙だな」
彼の理窟とは思いながら、武蔵も同意して、その日から、共に母屋へ移った。
お甲後家は、家の中が賑やかになってよいといい、
「又さんか、武さんか、どっちか一人、朱実の
と、いったりして、
すぐ裏の山は、松ばかりの峰だった。朱実は、籠を腕にかけて、
「あった! あった! お兄さん来て」
松の根もとをさぐり歩いて、
少し離れた松の樹の下に、武蔵も、籠を持ってかがみこんでいた。
「こっちにもあるよ」
針葉樹の
「さあ、どっちが多いでしょ」
「俺のほうが多いぞ」
朱実は、武蔵の籠へ手を入れて、
「だめ! だめ! これは
ぽんぽん
「私の方が、こんなに多い」
と、誇った。
「日が暮れる――帰ろうか」
「負けたもんだから」
朱実は、からかって、
中腹の林を斜めに、のそのそと大股に歩いて来る男があった。ぎょろりと、眼がこっちへ向く。おそろしく原始的で、また好戦的な感じもする人間だった。
「あけ坊」
朱実のそばへ歩いて来た。黄いろい歯を
「おふくろは、家にいるか」
「ええ」
「帰ったらよくいっておけよ。俺の眼をぬすんでは、こそこそ
「…………」
「知るまいと思っているだろうが、稼いだ品を
「いいえ」
「おふくろに、そういえ。ふざけた
睨みつけた。そして、運ぶにも重たそうな体を運んで、のそのそと沢のほうへ降りて行った。
「なんだい、あいつは?」
武蔵は、見送った眼をもどして、慰め顔に訊いた。朱実の唇はまだ
「不破村の
と、かすかにいった。
「野武士だね」
「ええ」
「何を怒られたのだい?」
「…………」
「他言はしない。――それとも、俺にもいえないことか」
朱実はいいにくそうに、しばらく惑っているふうだったが、突然、
「
「うむ」
「いつかの晩、関ヶ原で、私が何をしていたか、まだ兄さんには分りません?」
「……分らない」
「私は泥棒をしていたの」
「えっ?」
「
まだ陽が高い。
武蔵は、朱実にもすすめて、草の中へ腰をおろした。伊吹の沢の一軒が、松の間を
「じゃあ、この沢の
「え。うちのおっ母さんという人は、とても
「ふウむ……」
「お父っさんの生きていた頃には、この伊吹七郷で、いちばん大きな
「おやじさんは、町人か」
「野武士の
朱実は、誇るくらいな眼をしていった。
「――だけどさっき、ここを通った
「え。殺された?」
「…………」
しかし、この小娘は、決して尋常な教養をうけてはいないらしく思える。野武士という父からの
もっとも長い乱世を通して、野武士はいつのまにか、怠け者で
農夫や
野武士の専業者は、そのために縄張りを守ることが厳密だった。もし、他の者が、自己の職場を犯したと知ったら、ただはおかない鉄則がある。必ず残酷な私刑によって自己の権利を示すのだった。
「どうしよう?」
朱実は、それを恐れるもののように、戦慄した。
「きっと、辻風の手下が、来るにちがいない……来たら……」
「来たら、俺が、挨拶してやるよ、心配しないがいい」
山を降りて来たころ――沢はひっそり
「朱実っ――、何しているのだえっ、こんな暗くなるまで!」
いつにない
辻風典馬のことを、あくる日、朱実から聞かされて、急に
「なぜもっと早く、いわないのさ!」
お甲後家は、叱っていた。
そして、戸棚の物、
「又さんも、武さんも、手伝っておくれ、これをみんな天井裏へ上げるのだから――」
「よし来た」
又八は、屋根裏へ上がった。
踏み台に乗って、武蔵は、お甲と又八の間に立ち、天井へ上げる物を、一つ一つ取り次いだ。
きのう朱実から聞いていなければ、武蔵は
「これだけか」
天井裏から、又八が顔を見せる。
「も一つ」
お甲は、取り残していた四尺ほどの
「おばさん、これ、俺にくれないか」
武蔵がねだると、
「欲しいのかえ」
「うむ」
「…………」
又八は、降りて来て、ひどく羨ましい顔をした。お甲は笑って、
「
と、
夕方――この後家は、良人のいたころからの習慣らしく、必ず風呂に入って、化粧して、晩酌をたしなむ。自分のみでなく、
「さあ、みんなお
「男が、酒ぐらい飲めないで、どうしますえ。お甲が、仕込んであげよう」
と、手くびを持って、無理に
又八の眼は、時々、不安な浮かない顔つきになって、じっとお甲の
「今の
といったりした。
朱実が、顔を
いよいよ、面白くないように、
「武蔵、近いうちに、もう出立しような」
又八が、或る時いうと、お甲が、
「どこへ、又さん」
「作州の宮本村へさ、
「そう、悪かったネ、
夜もその木剣を抱いて寝た。木剣の冷たい肌を頬に当てると、幼年のころ、
その父は、
(オオ、大きゅうなったの)
と、やさしい言葉をかけてもらいたい一心からであった。
だが、その母は、父の無二斎が、どういうわけか離縁した人だった、播州の
(帰っておくれ、お父上の所へ――)と、その母が、
間もなく、父の方からは、追手が来て、
(不届者不届者)
と、杖で打って打って打ちすえた。その時のことも、まざまざと、
(二度と、母の所へゆくと、我子といえど、承知せぬぞ)
その後、間もなく、その母が病気で死んだと聞いてから、武蔵は、
十二、三には、もう大人に近い
(豊年
と、村の者に、凱歌をあげさせたが、その腕力で、いくつになっても、乱暴がつづくと、
(武蔵が来たぞ、さわるな)
と、怖がられ、嫌われ、そして人間の冷たい心ばかりが彼に
もし、お
今度、又八を誘って、
しかし、戦国というあらい神経の世でもなければ、生み出し得ないような
故郷の夢でも見ているのだろう、ふかぶかと寝息をかいて。そして例の木剣を、抱いて。
「……武蔵さん」
ほの暗い
「ま……この寝顔」
武蔵の唇を、彼女の指は、そっと突いた。
ふっ! ……
お甲の息が、
年のわりに派手な寝衣裳も、その白い顔も、ひとつ闇になって、窓びさしに、夜露の音だけが静かである。
「まだ、知らないのかしら」
寝ている者の抱いている木剣を、彼女が取りのけようとするのと、がばっと、武蔵が
「
短檠の倒れた上へ、彼女は、肩と胸をついた、手をねじ上げられた苦しさに、思わず、
「痛いっ」
と、さけぶと、
「あっ、おばさんか」
武蔵は、手を離して、
「なんだ、盗人かと思ったら――」
「ひどい人だよ、おお痛い」
「知らなかった、ご免なさい」
「謝らなくともいい。……武蔵さん」
「あっ、な、なにをするんだ」
「
「知っています、世話になったことは、忘れないつもりです」
「恩の義理のと、堅くるしいことでなくさ。人間の情というものは、もっと、濃くて、深くて、やる瀬ないものじゃないか」
「待ってくれ、おばさん、いま
「意地悪」
「あっ……おばさん……」
骨が、歯の根が、自分の体じゅうが、がくがくと鳴るように、武蔵は思えた。今まで出会ったどんな敵よりも怖かった。関ヶ原で顔の上を
壁の隅へ、小さくなって、
「おばさん、あっちへ行ってくれ、自分の部屋へ。――行かないと、又八を呼ぶぜ」
お甲は、うごかなかった、いらいらとこじれた眼が、睨みつけているらしく、闇のうちで
「武蔵さん、おまえだって、まさか、私の気持が、分らないはずはないだろう」
「…………」
「よくも恥をかかしたね」
「……恥を」
「そうさ!」
二人とも、血がのぼっていたのである。で、気のつかない様子であったが、さっきから、表の戸をたたいている者があって、ようやく、それが大声に変って来た。
「やいっ、開けねえかっ」
「なんだろう?」
と、その又八の跫音につづいて、
「おっ母さん――」
朱実が、廊下のほうで呼ぶ。
何かは知らず、お甲もあわてて、自分の部屋から返辞をした。外の者は戸をこじあけて、自分勝手に入り込んで来たものとみえ、土間の方を
「辻風だ、はやく灯りをつけろ」
と中の一人が怒鳴っていた。
土足のまま、どやどやと上がってきた、寝込みを
辻風
「いつまでかかっているのだ、何かあったろう」
「ありませんぜ、何も」
「ない」
「へい」
「そうか……いやあるまい、ないのが当り前だ、もうよせ」
次の部屋に、お甲は背を向けて、坐っていた、どうにでもするがいいといったように、捨て鉢な姿で。
「お甲」
「なんですえ」
「酒でも
「そこらにあるだろう、勝手に飲むなら飲んでおいで」
「そういうな、久し振りに、典馬が訪ねて来たものを」
「これが、人の家を訪ねるあいさつかい」
「怒るな、そっちにも、
「証拠をお見せ、どこにそんな証拠があって」
「それを、
「誰が、ばかばかしい」
「ここへ来て、酌でもしねえか、お甲」
「…………」
「物好きな女だ、俺の世話になれば、こんな
「ご親切すぎて、恐ろしさが、身に
「嫌か」
「私の亭主は、誰に殺されたか、ご存知ですか」
「だから、仕返ししてえなら、及ばずながら、おれも片腕を貸してやろうじゃないか」
「しらをお切りでないよ」
「なんだと」
「下手人は辻風
「いったな、お甲」
にが笑いを注ぎこんで、典馬は、茶碗の酒を
「――そのことは、口に出さない方が、てめえたち
「
「ふ、ふ」
肩で笑っているのである。典馬は、あるたけの酒を呑みほすと、肩へ槍を立てかけて、土間の隅に立っている
「やい、槍の尻で、この上の天井板を五、六枚つッ
と命じた。
槍の石突きを向けて、その男が、天井を突いて歩いた。板の浮いた隙間から、そこに隠しておいた雑多な武具や品物が落ちてきた。
「この通りだ」
典馬は、ぬっと立った。
「野武士仲間の
女一人だ、無造作にそう考えて、野武士たちは、そこへ踏み込んで行った、しかし、棒でも呑んだように、部屋の口に、突っ立ってしまった、お甲へ手を出すことを怖れるように。
「何をしている、早く、引きずり出して来いっ」
辻風典馬が、土間のほうで
典馬は舌打ちをして、自身でそこを覗いてみた。すぐお甲のそばへ近づこうとしたが、彼にも、そこの
炉部屋からは見えなかったが、お甲のほかに、二人の逞しい若者がそこにいたのだ。
朱実には怪我をさせまいとして、上の押入へでも隠したのか、姿が見えない。この部屋の戦闘準備は、典馬が炉ばたで酒をのんでいる間に整っていたのだ。お甲も、その後ろ楯があるために、落着き払っていたのかも知れなかった。
「そうか」
典馬は思い出して
「いつぞや、朱実と山を歩いていた若造があった。一人はそいつだろう、あとは何者だ」
「…………」
又八も武蔵も、一切口は開かなかった。ものは腕でいおうという態度だ。それだけに、不気味なものを漂わせている。
「この家に、
「…………」
「不破村の辻風典馬を知らぬ奴は、この近郷にないはずだ、
「…………」
「やいっ」
典馬は、
じっと、部屋の口を
「よいしょっ」
待ち構えていた又八は、とたんに両手の刀を
お甲は、隅へ
――空間の闇が、びゅっと鳴る。
すると相手は、身をもって、岩みたいな胸板をぶつけて来た。まるで大熊に取っ組まれた感じだ、かつて武蔵が出会ったことのない圧力だった。
こいつと見こんだら決して
武蔵の性格は、元来そういう
関ヶ原は、武蔵にとって、実社会の何ものかを知った第一歩だった。見事にこの青年の夢はペシャンコに
しかも、今夜は思いがけない
「
こう呼ばわりながら、彼は、真っ暗な野を
典馬は、十歩ほど前を、これも宙を飛んで逃げてゆくのだった。
武蔵の髪の毛は逆立っていた、耳のそばを、風がうなって流れる、愉快のなんのって、たまらない快感だった、武蔵の血は、身の駈けるほど、
――ぎゃっッ。
彼の影が、典馬の背へ、重なるように
もちろん辻風典馬の大きな体は、地ひびきを打って、転がったのだ。頭蓋骨は、こんにゃくのように柔らかになり、二つの眼球が、顔の外へ浮かびだしていた。
二撃、三撃と、つづけさまに木剣を加えると、折れたあばら骨が、皮膚の下から白く飛びだした。
武蔵は、腕を曲げて、
「どうだ、大将……」
「――武蔵か」
遠くで又八の声がした。
「おう」
と、のろまな声をだして、武蔵が見まわしていると、
「――どうした?」
駈けてくる又八の姿が見えた。
「
答えて、問うと、
「俺も、――」
「あとの奴らは、逃げおった、野武士なんて、みんな弱いぞ」
肩を誇らせて、又八はいう。
血をこねまわしてよろこぶ
野馬が、窓へ首を入れて、家の中を見まわした。鼻を鳴らして、大きな息をしたので、そこに寝ていた二人は眼をさました。
「こいつめ」
武蔵は、馬の顔を、平手で
「アアよく寝た」
「陽が高いな」
「もう日暮れじゃないか」
「まさか」
ひと晩眠ると、もう昨日のことは頭にない、今日と明日があるだけの二人である。武蔵は、早速、裏へとびだして、もろ肌をぬぎ出した。
又八は又八で、寝起きの顔を持ったまま、炉部屋へ行って、そこにいるお甲と
「おはよう」
わざと、陽気にいって、
「おばさん、いやに
「そうかえ」
「どうしたんだい、おばさんの
又八の
その不安を、今日まで持ち越して、炉ばたに沈みこんでいるのが、又八には、不平でもあるし、わけがわからない――
「なぜ。なぜだい、おばさん」
朱実の汲んでくれた渋茶をとって、又八は膝をくむ。お甲は、うすく笑った、世間を知らない若者のあらい神経を
「――だって、又さん、辻風典馬にはまだ何百という
「あ、わかった。――じゃあ奴らの仕返しを、恐がっているんだな、そんな者がなんだ、俺と武蔵がおれば――」
「だめ」
軽く手を振った。
又八は、肩を盛りあげて、
「だめなことはない、あんな虫けら、幾人でも来い、それとも、おばさんは、俺たちが弱いと思っているのか」
「まだ、まだ、お前さん達は、わたしの眼から見ても、
これは又八にとって心外なる言葉であった。けれど、だんだんと後家の話すところを聞くと、そうかなあと思わぬこともない。辻風黄平は、木曾の
「そいつは、苦手だな、おれのような寝坊には……」
又八が、
「
「のん気な奴だな」
又八は、つぶやいて、両手を口にかざした。
「おおいっ。帰って来いようっ」
枯れ草のうえに、二人は寝ころんだ。友達ほどいいものはない、寝ころびながらの相談もいい。
「じゃあ、俺たちは、やっぱり
「帰ろうぜ。――いつまで、あの
「ウム」
「女はきらいだ」
武蔵が、いうと、
「そうだな、そうしよう」
又八は、仰向けにひっくり返った。そして青空へ向って、どなるように、
「――帰ると決めたら、急に、おら、お
脚を、ばたばたさせて、
「畜生、お通が、髪の毛を洗った時のような雲があるぞ」
と、空を指さす。
武蔵は、自分の乗りすてた野馬の尻を見ていた、人間なかまでも、野に住む者の中にいい性質があるように、馬も野馬は気だてがよい、用がすめば、何も求めず、勝手にひとりでどこへでも行ってしまう。
むこうで、朱実が、
「御飯ですようっ――」
と、呼ぶ。
「飯だ」
二人は起き上がって、
「又八、
「くそ、負けるか」
朱実は、手をたたいて、草ぼこりを立てて駈けてくる二人を迎えた。
――だが、朱実は、
「お馬鹿ちゃんだよ、お前さんは、何をメソメソしているのだえ」
夕化粧をしながら、後家のお甲は、叱っていた、そして、炉ばたにいた武蔵を、鏡の中から、睨みつけた。
武蔵はふと、前の晩の、枕元へ迫った後家のささやきと、
横には、又八がいた、酒の
「あるったけ飲んでしまおうよ。縁の下に残して行ったってつまらない」
酒壺を三つも倒した。
お甲は、又八にもたれかかって、武蔵が顔をそむけるような悪ふざけをして見せた。
「あたし……もう歩けない」
又八に甘えて、寝所まで、肩を借りて行く程だった。そして、
「武さんは、そこいらで、一人でお寝。――一人が好きなんだから」
と、いった。
いわれた通り武蔵はそこで横になってしまった。ひどく酔っていたし、夜もおそかったし、眼がさめたのは、もう、翌日の陽がカンカンあたっている頃だった。
――起き出て、彼がすぐ気づいたことは、家の中が、がらんとしていることだった。
「おや?」
きのう朱実と後家がひとまとめにしていた荷物がない、衣裳も、
「又八っ。……おいっ」
裏にも、小屋の中にも、いなかった。ただ開け放しになっている水口のしきい
「あ? ……又八め……」
櫛を鼻につけて
「
櫛を、そこへ、たたきつけた。自分の腹立たしさより、彼を
山また山という言葉は、この国において初めてふさわしい。
(おやこんな所まで、人家があるのか)
と、旅人は一応そこで眼をみはるのが常だった。
しかも戸数は相当にある。川沿いや、峠の中腹や、石ころ畑や、部落の寄りあいではあるが、つい去年の関ヶ原の
――また鳥取から姫路へ出る者、
ここが、宮本村だった。
石を乗せたそれらの屋根が、眼の下に見える
「アア、もうじき、一年になる」
ぼんやり、雲を見ながら、考えていた。
年は、去年が十六、
その又八は、村の
正月には――二月には――と便りの空だのみも、この頃は頼みに持てなくなった。もう今年の春も四月に入っているのだった。
「――武蔵さんの家へも、何の音沙汰がないというし……やっぱり二人とも、死んだのかしら」
たまたま、
「なぜ男は、
縁がわに坐りこむと、お通は、半日でもそうして居られた、さびしいその顔が、独りで物思うことを好むように。
きょうも、そうしていると、
「お通さん、お通さん」
誰かよんでいる。
「――春だな」
独りでうれしそうにいう。
「春はよいが、
お通は、顔を紅らめて、
「ま……
「寝てるさ」
「あきれたお人」
「そうだ、明日ならよかった、四月八日の
と、沢庵は、真面目くさって、両足をそろえ、
「――天上天下
いつまでもご苦労さまに、沢庵が真面目くさって、
「ホホホ、ホホホ。よく似あいますこと。沢庵さん」
「そっくりだろう、それもそのはず。わしこそは
「お待ちなさい、今、頭から甘茶をかけてあげますから」
「いけない。それは謝る」
蜂が、彼の頭をさしに来た。お釈迦さまはまた、あわてて蜂へも両手をふりまわした。蜂は、彼のふんどしが解けたのを見て、その隙に逃げてしまった。
お通は、縁にうつ伏して、
「アア、お
と、笑いがとまらずにいた。
「そうそうわたしは、こんなことをしてはいられない」
草履へ、白い足をのばすと、
「お通さん、どこへ行くのかね」
「あしたは、四月八日でしょう、
「――花を摘みにゆくのか。どこへ行けば、花がある」
「
「いっしょに行こうか」
「たくさん」
「花御堂にかざる花を、一人で摘むのはたいへんだ、わしも手伝おうよ」
「そんな、裸のままで、見ッともない」
「人間は元来、裸のものさ、かまわん」
「いやですよ、
お通は逃げるように、寺の裏へ駈けて行った。やがて
「ま……」
「これならいいだろう」
「村の人が笑いますよ」
「なんと笑う?」
「離れて歩いてください」
「うそをいえ、男と並んで歩くのは好きなくせに」
「知らない!」
お通は先へ駈け出してしまう。
「アハハハ、怒ったのかい、お通さん、怒るなよ、そんなにふくれた顔すると、恋人にきらわれるぞ」
村から四、五町ほど
「平和だなあ」
青年沢庵は、若くして多感な――そして宗教家らしい
「……お通さん、おまえの今の姿は、平和そのものだよ。人間は誰でも、こうして、
「
と、ひやかした。
沢庵は、耳も貸さない。
「ばか、蜂の話じゃないぞ、ひとりの
「お世話やきね」
「そうそう、よく
「なぜ、女は夜叉?」
「男をだますから」
「男だって、女をだますでしょ」
「――待てよ、その返辞は、ちょっと困ったな。……そうそうわかった」
「さ、答えてごらんなさい」
「お
「勝手なことばかしいって!」
「だが、女人よ」
「オオ、うるさい」
「女人よ、ひがみ給うな、釈尊もお若いころは、
「やっぱり、男のつごうのいいことばかりいってるんじゃありませんか」
「それは、古代の
「どういうこと?」
「女人よ、おん身は、男性に
「ヘンな言葉」
「おしまいまで聞かないでひやかしてはいけない。その後にこういう言葉がつく。――女人、おん身は、真理に
「…………」
「わかるか。――真理に嫁せ。――早くいえば、男にほれるな、真理に惚れろということだ」
「真理って何?」
「訊かれると、わしにもまだ分っていないらしい」
「ホホホ」
「いっそ、俗にいおう、真実に嫁ぐのだな。だから都の軽薄なあこがれの子など
「また……」
打つ真似をして、
「沢庵さん、あなたは、花を刈る手伝いに来たんでしょう」
「そうらしい」
「じゃあ、
「おやすいこと」
「その間に、私は、お
「お吟様。アア、いつかお寺へ見えた婦人の
「そんな
「のどが
もう女の二十五である、きりょうが
もっとも、弟の
(あの弟がいては)
と、縁遠いところも多少あったが、それにしてもお吟のつつましさや、教養を見こんで、ぜひ――という話は度々あった。しかしその
(弟の武蔵が、もうすこし大人になるまでは、わたくしが、母となっていてやりとうごさいますから――)
という言葉であった。
兵学の指南役として
永い
今も――
誰か裏の戸をあけて入ってくる者があるとは思ったが、おおかたそれらの中の誰かであろうと、奥の一室に縫い物をしていたお吟は、針の手もとめずにいると、
「お吟さま。今日は――」
うしろへお
「誰かと思ったら……お通さんでしたか。今、あなたの帯を縫っているところですが、あしたの
「ええ、いそがしいところを、すみませんでした。自分で縫えばいいんですけれど、お寺のほうも、用が多くって」
「いいえ、どうせ、私こそ、ひまで困っているくらいですもの。……何かしていないと、つい、考えだしていけません」
ふと、お吟のうしろを仰ぐと、
行年十七歳 新免武蔵之霊
同年 本位田又八之霊
ふたつの同年 本位田又八之霊
「あら……」
お通は、眼をしばたたいて、
「お吟様、おふたりとも、死んだという
「いいえ、でも……死んだとしか思えないではございませんか、私は、もうあきらめてしまいました。関ヶ原の
「
お通は、つよく顔を振って、
「あの二人が、死ぬものですか、今にきっと、帰って来ますよ」
「あなたは、又八さんの夢を見る? ……」
「え、なんども」
「じゃあ、やっぱり死んでいるのだ、私も弟の夢ばかり見るから」
「嫌ですよ、そんなことをいっては。こんなもの、不吉だから、
お通の眼は、すぐ涙をもった。
「あ、冷たい」
と、飛びあがった。
着ている風呂敷で、沢庵は、顔や頭のしずくをこすりながら、
「こらっ、お通
お通は、泣き笑いに笑ってしまった。
「――すみません、沢庵さん、ごめんなさいませ」
謝ったり、機嫌をとったり、また、そこへ望みの茶を
「誰ですか、あの人は」
と、お吟は、縁のほうを
「お寺に泊っている若い雲水さんです。ほら、いつか、あなたが来た時に、本堂の陽あたりで、頬づえをして寝そべっていたでしょう。その時、わたしが、何をしているんですかと
「あ……あの人」
「え、
「変り者ですね」
「大変り」
「
「風呂敷」
「ま……。まだ若いのでしょう」
「三十一ですって。――けれど、
「あれでもなんていうものではありません、人はどこが偉いか、見ただけでは分りませんからね」
「
「そうでしょうね、どこか、違ったところが見えますもの」
「――それから、
「けれど、向うから見れば、私たちのほうが気が変だというかも知れません」
「ほんとに、そういいますよ。私が、又八さんのことを思い出して、独りで泣いていたりしていると……」
「でも、面白い人ですね」
「すこし、面白すぎますよ」
「いつ頃までいるんです?」
「そんなこと、わかるもんですか、いつも、ふらりと来て、ふらりと消えてしまう。まるで、どこの家でも、自分の
縁がわの方から、
「聞えるぞ、聞えるぞ」
「悪口をいっていたのじゃありませんよ」
「いってもよいが、なにか、あまいものでも出ないのか」
「あれですもの、沢庵さんと来たひには」
「なにが、あれだ、お通
「なぜですか」
「人にカラ茶をのませておいて、のろけをいったり泣いたりしている奴があるかっ」
七宝寺のかねも鳴る。
夜が明けると早々から、
若い者は、参詣人のこみあっている七宝寺の本堂をのぞき合って、
「いる、いる」
「きょうは、よけいに綺麗にして」
などと、お通のすがたを見て、
きょうは
「この寺は、貧乏寺だから、おさい銭はなるべくよけいにこぼして行きなよ。金持は、なおのことだ、一
花御堂を挟んで、その向って左側にお通は塗机をすえて坐っていた、仕立ておろしの帯をしめ、
ちはやふる
卯月八日 は吉日 よ
かみさげ虫を
成敗 ぞする
家の中へこの歌を貼っておくと、虫除けや悪病よけになるとこの地方ではいい伝えている。かみさげ虫を
もう手くびの痛くなるほど、お通は、同じ歌を何百枚もかいた、
「沢庵さん」
――と彼女はすきを見ていった。
「なんじゃい」
「あまり、人様に、おさい銭の催促をするのはよして下さい」
「金持にいっているんだよ、金持の金をかるくしてやるのは、善の善なるものだ」
「そんなことをいって、もし今夜、村のお金持の家へ泥棒でも入ったらどうしますか」
「……そらそら、すこしすいたと思ったらまた参詣人が
「もし、坊さん」
「わしかい?」
「順番といいながら、おめえは、女にばかり先へ汲んでやるじゃないか」
「わしも
「この坊主、
「えらそうにいうな、お前たちだって、甘茶や虫除けが貰いたくて来るんじゃあるまい、わしには、分っている、お釈迦さまへ
お通は、真っ
「沢庵さん、もういいかげんにしないと、ほんとに私、怒りますよ」
と、いった。
そして、疲れた眼でも休めるように、ぼんやりしていたが、ふと、参詣人の中に見えた一人の若者の顔へ、
「あっ……」
と口走ると、指の間から筆を落した。
彼女が、起つと共に、彼女の見た顔は、魚のようにすばやく
「
廻廊のほうへ駈けて行った。
ただの百姓ではない、半農半武士だ、いわゆる郷士なのである。
「おばばアー」
孫の鼻たらしが、畑のむこうから、素はだしで来るのを見かけて、
「おう、
桑畑から腰をのばした。
丙太は、躍って来て、
「行ったよっ」
「お
「いた、きょうはな、おばば、お通姉さんは
「甘茶と、虫除けの歌を、もろうて来たか」
「ううん」
「なぜもろうて来ぬのだ」
「お通姉さんが、そんな物はいいから、はやくおばばに知らせに、家へ
「何を知らせに?」
「河向いの
「ほんとけ?」
「ほんとだ」
「…………」
お杉は眼をうるませて、息子の又八のすがたが、もうそこらに見えてでもいるように見まわした。
「丙太、
「おばば、どこへゆくだ」
「
「おらも行く」
「阿呆、来んでもええ」
大きな
「又八が、
と、怒鳴った。
みんな、ぽかんとして、
「うんにゃ」
と、首を振った。
しかし、この老母の興奮は、人々のいぶかるのを、間抜けのように叱りつけた。息子はもう村へ帰っているのだ。新免家の武蔵が村をあるいている以上、又八も一緒にもどって来ているに違いない、早くさがして邸へ引っぱって来いと命じるのだった。
関ヶ原の合戦の日を、ここでも大事な息子の命日として悲しんでいたところだった、わけてもお杉は、又八が可愛くて、眼の中へでも入れてしまいたい程なのだった、又八の姉には聟を持たせて分家させてあるので、その息子は、本位田家の
「見つかったかよっ?」
お杉は、
夕飯もたべずに、家の者は皆、出払っていた、夜になっても、その人々からの吉報はなかなか聞かれなかった。お杉はまた、暗い門口へ出て、立ちとおしていた。
水っぽい月が、邸のまわりの
その梨畑の
「……お通かよ?」
「おばば様」
お通は、
「お通。――おぬし、武蔵のすがたを見たそうだが、ほんとけ?」
「え。たしかに武蔵さんなんです、七宝寺の花祭りに見えました」
「又八は、見えなんだかよ」
「それを訊こうと思って、急いで呼ぶと、なぜか、隠れてしまったんです。もとから武蔵さんていう人は、変っている人ですが、なんで、私が呼ぶのに逃げてしまったのかわかりません」
「逃げた? ……」
お杉は、首をかしげた。
わが子の又八を、
「あの、
「まさか、そんなことはないでしょう。そうならばそうといって、何か
「なんのいの」
老母は、つよく、顔を振った。
「
「ばば様」
「なんじゃ?」
「私の考えでは、きっと、お
「
「これから、ばば様と二人して、訪ねて行ってみましょうか」
「あの姉も姉、自分の弟が、わしがとこの息子を戦に連れ出して行ったのを承知しながら、その後、見舞にも来ねば、武蔵がもどったと知らせても来おらぬ。何も、わしの方から出向くすじはないわ。新免から来るのが当りまえじゃ」
「でも、こんな場合ですし、一刻もはやく武蔵さんに会って、
お杉は渋々、承知した。
そのくせ息子の安否を知りたいことは、お通にも劣らないほどだった。
そこから十二、三町はある、新免家は河向うだった。その河を挟んで本位田家も古い郷士だし、新免家も赤松の血統だし、こういうことのない前から、暗黙のうちに、
門は閉まっていた、
「本位田の
と、動かないのである。
やむなく、お通だけ裏へ廻って行った。しばらく経つと、門のうちに灯りがさした。お吟も出て来て迎え入れる。野良で畑を耕しているお杉とは打って変って、
「夜中じゃが、捨ておかれぬことゆえに、出向いて来ましたぞよ。お迎え、ご大儀じゃ」
と、高い気位と言葉にも
「おまえの
と、いった。
「悪蔵とは、誰のことでございまするか」
と、訊きかえした。
「ホ、ホ、ホ。これは口が
「いいえ……」
肉親の弟のことを、ずけずけいわれたので、お吟は
「ふしぎでございますね、ここへも来ないとは?」
と双方の間をとりなした。
お吟は、苦しげに、
「……来ておりません、姿を見せたなら、そのうちには、参りましょうが」
すると、お杉の手が、とんと畳をたたいた、そして、
「なんじゃ、今のいい草は。そのうちに参りましょうで、よう済ましていられたもの。そもそも、わしがとこの息子を
「でも、その武蔵がおりませぬことには」
「
「ご難題でございます」
お吟は、泣き伏してしまった。父の無二斎がいるならばと、すぐ胸の
と、その時、縁側の戸が、がたっと鳴った。風ではない、はっきり、戸の外には人の
「おやっ?」
お杉が、眼を光らすと、お通はもう起ちかけていた。――途端に次の物音は、絶叫だった、人間の発しる声のうちでは最も獣に近い
つづいて、何者かが、
「――あッ、捕まえろっ」
「
お杉は、そういって、ぬっと立った。泣き伏しているお吟の
「いるのじゃ! 見え
歩いて、縁側の戸を開けた。そして外をのぞくと、お杉は、
「た……誰じゃ……誰かここに殺されているがの」
お杉のただ事でない
「えっ?」
お通は、縁側まて
死骸は、
「下手人は、何者じゃろう?」
お杉は、呟いて、それから急にお通へ向って、
「そうか。勝手にしやい」
「お
と、お吟が親切にいうと、
「まだ、本位田家の婆は、提燈を持たねば歩かれぬほど、
と、いう。
まったく、若い者にも負けない気の老母だった。外へ出ると、裾を
「婆。ちょっと待て」
新免家を出ると、すぐ呼びとめた者がある。彼女のもっとも怖れていた
「そちは、今、新免家から出て来たな」
「はい、左様でござりますが」
「新免家の者か」
「とんでもない」
あわてて、手を振った。
「わしは、河向いの郷士の隠居」
「では、新免武蔵と共に、関ヶ原へ
「されば。……それも
「悪蔵とは」
「武蔵のやつで」
「さほどに、村でもよくいわぬ男か」
「もうあなた様、手のつけられぬ乱暴者でござりましての、伜があんな人間とつき
「そちの息子は、関ヶ原で死んだらしいな。しかし、悔やむな、
「あなた様は?」
「それがしは、戦の後、姫路城の抑えに参った徳川方の者だが、主命をおびて、播州
と、うしろの土塀を指さして、
「武蔵と申す奴が、木戸を破って逃げおった。その前から、新免伊賀守の手について、浮田方へ
「ア……それで」
お杉は、うなずいた。武蔵が、七宝寺へも、姉の側へも立ち寄らない
「旦那様……なんぼ、武蔵が強うても、捕まえるのは、
「何せい人数が少ないのだ。今も今とて、
「婆に、よい智慧がありますのじゃ、そっと、耳をお貸しなされ……」
どんな策を、囁いたのであろうか。
「む! なるほどな」
姫路城から国境の
「首尾ようおやりなされよ」
お杉婆は、
――間もなく。その武士は、新免家の裏手に、十四、五名の人数をまとめていた。何か、
若い女同士の――お通とお
「……あっ?」
お通は
「武蔵の姉はどっちだ」
一人がいうと、
「私ですが」
と、お吟はいって、
「邸のうちへ、無断で、何事でござりますか。
膝がしらを向けて責めると、先刻、お杉と立ち話しを交わした組頭らしい武士が、
「お吟は、こっちだ」
と、彼女の顔を指さした。
屋鳴りと同時に灯りが消えた。お通は悲鳴をあげて庭先へまろび落ちた。
たいへんだっ。
どこを走って来たのか自分でもわからないが、とにかく深夜の道を、お通は七宝寺の方へ向って、
寺のある山の下まで来ると、
「お。お通さんではないか」
「こんな遅くまで帰らないことはないのに、どうしたかと思って、捜していた所だった。おや、
彼女の白い足へ眼を落すと、お通は、泣きながらその胸へとびついて訴えた。
「沢庵さん、大変です、アア、どうしよう」
沢庵は、相変らず、
「大変? ……世の中に大変なんていうことがそうあるだろうか。まあ、落着いて、
「新免家のお吟さんが捕まって行きました。……又八さんは帰って来ないし、あの親切なお吟様は捕まってゆくし。……わ、わたし、これから先……ど、どうしたらいいんでしょう」
泣きじゃくって、いつまでも沢庵の胸に身をふるわせていた。
土も草も大地は若い女のような熱い息をしている、むしむしと顔の汗からも
「畜生っ……」
誰にとはなく、こう
「えいッ!」
太い生木の幹を、パッと割った。
木の裂け目から白い
「おれを、この村の者は、なんで目の
彼は、この
ひる
だが、そのどっちへも、彼は近づき得ないのである。
晩になって、姉のいる邸へもそっと訪ねて行ったが、折悪く又八の母が来ていた。又八のことを訊かれたら何といおう、自分だけが帰って来て、あの
それ以来は、この
「……お通さんだって、俺を、どう考えているか?」
武蔵は、彼女にさえも、疑心暗鬼を持ち始めた、
「お通さんには、又八がこういう
武蔵は腹をきめて、歩みかけたが、明るいうちは里へ出られなかった。小石をつぶてにして、小鳥を狙い撃ちに落し、すぐ毛をむしって、その生温かい肉を裂いては、生のままむしゃむしゃと食べて歩いていた。
すると、
「あっ……」
出会いがしらのことである。誰か、彼のすがたを見ると共に、樹の間へあわてて逃げこんだ者がある。武蔵は、理由なく自分を
「待てッ」
よくこの山を往来する炭焼きなのだ。武蔵はこの男の顔を見知っている、
「やいっ、なぜ逃げる? 俺はな、忘れたか、宮本村の新免武蔵だぞ、何も、捕って食おうといいはしない。挨拶もせず、人の顔見て、いきなり逃げいでもよかろう」
「へ、へい」
「坐れ」
手を離すと、また逃げかけるので、今度は、弱腰を蹴とばして、木剣で
「わっッ」
頭をかかえて、男はうッ伏した、そのまま腰をぬかしたように戦慄して、
「た、たすけてッ」
と、
村の者が、何のために、自分をこんなに恐怖するのか、
「これ、俺が訊くことに、返辞をせい、よいか」
「なんでも、申しますだが、
「誰が生命をとるといったか。麓には、討手がいるだろうな」
「へい」
「七宝寺にも、張りこんでいるか」
「おりますだ」
「村の奴ら、きょうも、俺を捕まえようとして、山狩に出ているか」
「…………」
「
男は、跳びあがって、
「うんにゃ、うんにゃ」
「待て待て」
その首の根をつまんで、
「姉上は、どうしているか」
「どッちゃの?」
「俺の姉上――新免家のお
「知らん、おら、何も知らんで」
「こいつ」
木剣を、振りかぶって、
「怪しい物のいい振りをする。何かあったな、ぬかさぬと、頭の鉢を、これが
「あっ、待ってくれ。いうがな、いうがな」
炭焼きは、
武蔵の皮膚は、憤怒のため鳥肌になった。
「ほんとか!」
念を押して――
「姉上に何の罪があって!」
と、血になった眼をうるませた。
「わしら、何も知らん、わしらはただ、御領主が怖ろしいで」
「何処だ、姉上の捕まって行った先は。――その牢屋は」
「
「日名倉――」
国境の山の線を、
「よしっ、貰いにゆくぞ、姉上を……姉上を……」
外は、鼻をつままれても分らない闇だったが、
「お通さん、出てくればいいが……」
武蔵は、本堂と方丈との通路になっている
「がっ……」
口から胃液を叶いて、武蔵は苦しんだ。
その声がひびいたとみえ、
「なんじゃ」
方丈で、誰かがいう。
「猫でしょう」
お通が、答えた。そして、
――あっ、お通さん。
武蔵は呼ばわろうとしたが、苦しくて声が出なかった。だが、それはかえって
すぐ彼女の後から、
「風呂場は、どこじゃな」
と
寺の借着に、細帯をしめ、
「お風呂でございますか」
お通は、持ち物を下において、
「ご案内いたしましょう」
縁づたいに、裏へ導いてゆくと、鼻下にうす
「どうじゃ、いっしょに
「あれっ……」
その顔を、両手で抑えつけて、
「えいじゃないか」
頬へ、唇をすりつけた。
「……いけません! いけません!」
お通は、かよわかった。口をふさがれたのか、悲鳴も出ないのである。
――武蔵は、身の境遇の何かをも忘れて、
「何をするっ!」
縁の上へ、跳び上がった。
うしろから突いた
お通が、高い悲鳴をあげたのも、その途端であった。
仰天した武士は、
「やっ、おのれは、武蔵じゃな。――武蔵だっ、武蔵が出てきた。各

と、
忽ち、寺内は足音や呼びあう声の暴風となった。武蔵のすがたを見たらばと、かねて合図してあったか、
「
と、山狩の者は、七宝寺を中心に、駈け集まった。時を移さず裏山つづき
「おばば、おばば」
と、
「たれじゃ」
「あっ、おぬしは! ……」
「おばば、一言、告げに来た。……又八は
そういい終ると、
「ああ、これで気がすんだ」
武蔵は、すぐ木剣を杖について、暗い
「武蔵」
お杉は呼びとめた。
「
「おれか」
沈痛に――
「おれは、これから、日名倉の木戸をぶち破って、姉上を
「そうか……」
紙燭を持ちかえて、お杉は、手招ぎした。
「おぬしは、腹がすいてはおらぬのか」
「飯など、幾日も、食べたことはない」
「
「…………」
「のう、武蔵、おぬしの家と、わしが家とは、赤松以来の共に旧家じゃ、わかれが惜しい、そうして行かっしゃれ」
「…………」
武蔵は、
「さ……早う裏へ廻れ、人が来たらどうもならぬ。……手拭は持っていやるか、風呂を
紙燭をわたして、お杉は奥へかくれた、するとすぐ分家の嫁が、庭から、どこへやら走って行ったようであった。
戸の鳴った風呂小屋の中には、湯の音がして、明りの影がゆらいでいる、お杉は母屋から、
「湯のかげんは、どうじゃな」
と声をかけた。
武蔵の声が、風呂場から、
「いい湯だよ。……ああ生き
「ゆるりと、
「ありがとう。こんなことなら、早く来ればよかったのだ。俺はまた、おばばが、きっと俺を怨んでいるだろうと思ってな……」
やがて、息をせいて、分家の嫁が門の外までもどって来た。――後ろに、二十人ほどの
外に出ていたお杉は、
「なに、風呂小屋へ入れておいたと? そいつは
武士たちは人数をふた手に分けて、大地を
風呂口の火が、闇の中に真っ赤に見えていた。
何か――何とはなくである――武蔵の六感はおののいた。
ふと、戸の隙間から外をのぞいた途端にである。彼は、総身の毛穴をよだてて、
「あっ、
と、叫んだ。
気がついたのがすでに遅いのだ、棒、槍、十手、そんな武器を持った人影が、板戸のそとには、充満している、実際は十四、五名に過ぎなかったろうが、彼の眼には、何倍にも映った。
逃げる策がない。身にまとう一枚の肌着すらここにはないのだ。だが武蔵は、怖い感じを持たなかった、お杉に対する
「うぬっ、どうするか見ておれっ」
守勢を考えない。こんな場合にも、彼は、敵と思う者へ、こっちから出てゆくこころにしかなれないのだ。
捕手たちが、互いに、踏みこむのを譲り合っている間に、武蔵は内から戸を蹴とばして、
「なんだッ!」
素裸なのだ、濡れ髪は解けて、ざんばらになっている。
武蔵は歯を
「こいつらっ」
無茶である、縦横に槍を振りまわして、
ぬかった! なぜ先に死に物狂いで、三、四人風呂場の中へこっちから飛び込まなかったかと、
「それっ、母屋へ、跳びこんで行ったぞっ」
外から、人々がこう
家の中を、
「俺の着物は、どこへやった、俺の着物を出せっ」
そこらには野良着が脱ぎすててあるし、手をかければ
血眼で、自分のつづれた着物を、やっと
堤を切った濁流へ自失の声を揚げるように下では騒いでいる。武蔵は、大屋根のまん中へ出て、悠々と、着物を着ていた、そして歯で帯の端を
大空は一面、春の星であった。
「おおうーいっ」
「オウーイ」
と、遠く答えてくる。
毎日の山狩だ。
当村、新免無二斎 の遺子武蔵 事 、予而 、追捕 お沙汰中の所、在所の山道に出没し、殺戮 悪業いたらざるなきを以て、見当り次第成敗仕る可者也 、依而 、武蔵調伏に功ある者には、左之通り、御賞 を下被 。
一 捕えたるもの 銀 十貫
一 首打ったるもの 田 十枚
一匿 れ場所告げたるもの 田 二枚
以上
慶長六年 池田勝入斎 輝政 家中
一 捕えたるもの 銀 十貫
一 首打ったるもの 田 十枚
一
以上
慶長六年 池田
こういう物々しい高札が、庄屋の門前や、村の辻に、いかめしく立った、本位田家のまわりは、
だが、何の
――今朝もだ。
「わあ、また、ぶち殺されている」
「誰じゃ、こんどは」
「お
村端れの道ばたの草むらへ、首を突っこんで、二本の足を変な恰好に上げて死んでいる死骸を発見して、恐怖と好奇心にかられた顔が、取り巻いて騒いでいた。
死骸は、頭蓋骨をくだかれていた、それも附近に立っていた高札で撲ったものとみえ、
褒美の文句が、高札の表に出ているので、それを読む気もなく読むと、残酷な感じは消されて、まわりの者は、何だかおかしくなって来た。
「笑うやつがあるか」
と、誰かいった。
七宝寺のお
(見なければよかった――)
悔いながら、まだ眼にちらつく死人の顔を忘れようとして、小走りに寺の下まで駈けてきた。
「お通か。何処へ参ったな」
などと、
お通は、この大将の
「買い物に」
それも投げ捨てるようにいって、見向きもせず、本堂前の高い石段を駈け上がって行った。
お通が、犬を
「お通さん、飛脚が届いているよ」
「え……わたしに」
「留守だったから、預かって置いた」
「顔いろが悪いが、どうかしたのか」
「道ばたで、死人を見ましたら、急にいやな気持になって――」
「そんなもの見なければいいに。……だが、眼をふさぎ道をよけても、今の世の中では、到るところに、死人が転がっているのだから困るな。この村だけは、
「武蔵さんは、なぜあんなに、人を殺すんでしょう」
「先を殺さなければ、自分が殺される。――殺される
「怖い! ……」
戦慄して、肩をすぼめ、
「ここへ来たら、どうしましょう」
山にはまた、うす黒い
織りかけてある男物の
朝に夕に思慕の糸を
「……誰からだろう?」
飛脚の文を見直した。
長い駅伝を通ってきたらしく、
それはまったく見覚えのない女文字で、やや
べつの文、ご覧なされ候わば、多言には及ぶまじと思われ候えど、証 のため、私よりも認 めまいらせ候。
又八どの、此度 、御縁の候て、当方の養子にもらいうけ候に就いては、おん前様 のこと、懸念のようにみえ候まま、左候 ては、ゆく末、双方の不為故 、事理 おあかし申し候て、おもらい申候。何とぞ、以後は又八どのの事、御わすれくだされたく先 は斯 ように迄、一筆しめし参らせ申 そろ。かしこ。
又八どの、
お甲
お通さまもう一つの書状は、
つまるところ自分のことはあきらめて、
「…………」
お通は、頭のしんが、氷のようになるのを覚えた。涙も出ない。
部下のすべては、野に
その
住職は、時々、
「お通は、どうしたっ?」
とわめいている。
「おらんはずはないわ。
寺男はとうとう麓のほうまで、
沢庵は、ふと、
お通はいた。
「? ……」
沢庵は、見まじきものを見たように、しばらく黙っていた。彼女の足もとには、怖ろしい力で
そっと沢庵は、拾い取って、
「お通さん、これは昼間来た飛脚文じゃないか、しまっておいたらどうだ」
「…………」
お通は、手にも触れない。かすかに顔を振るだけであった。
「みんなが、捜しているのだ。さ……気がすすまないだろうが、方丈へお
「……頭が痛いんです。……沢庵さん……今夜だけは行かなくてもよいでしょう」
「わしは、いつだって、酒の酌などに、
と、お通の背を撫でて、
「其女も、幼少から、
「え……」
「さ、行こう」
抱き起すと、涙の
「沢庵さん……じゃあ参りますから、すみませんが、あなたも一緒に方丈にいてくれませんか」
「それやあ
「でも、私、一人では」
「住持がいるからよいではないか」
「
「それは不安だ。……よしよし、一緒に行ってやろう。案じないではやく、お
方丈の客は、やがてお通も見えたもので、曲がりかけていたお
しかしまだほんとのご機嫌になりきれないものがある。それは燭台の向う側によけいな人間が一人いて、ぺたんと盲人のように猫背に坐り、膝を机に書物を読んでいるからである。
沢庵なのだ。どじょう髯の大将は、この寺の
「オイ、こら」
と、
「え。わしを?」
見まわすのを――どじょう髯は、大ふうに、
「コラ納所。その方には用事もない。
「イエ、結構でございます」
「酒のそばで、書物など読んでいられては、酒が
「書物はもう伏せました」
「眼ざわりじゃ!」
「では、お通さん、書物を部屋の外へ出しておくれ」
「書物がではない、その方という者が、酒の座に、不景色でいかんというのだ」
「困りましたな。
「退がらんかっ! ぶ、ぶ礼な奴だ」
遂に、怒り出すと、
「はい」
と、一応
「お客様は、独りが好きだと仰せられる。孤独を愛す、それ君子の心境だ。……さ、お邪魔しては悪い、あちらへ
「こッ、こらっ」
「何ですか」
「だれが、お通まで、連れて
「坊主と
「直れっ! それへ」
床の間に立てかけてある陣刀へ手をのばした。そしてどじょう髯が、ピンと
「直れとは、どういう形になるのですか」
「いよいよ、
「では、拙僧の首をですか。……あはははは、およしなさい、つまらない」
「何じゃと」
「坊主の首を斬るほど張合いのないものはない、胴を離れた首が、ニコと笑っていたりしていたら、斬り損でしょう」
「オオ、胴を離れた首で、そう
「しかし――」
沢庵の
「何をいうのです沢庵さん、お
だが、沢庵はまだいった。
「お通さんこそ
「ウヌ、うごくなっ」
どじょう髯は、満顔に朱をそそいで、太刀の鯉口を切った。
「お通、
お通は、沢庵を後ろに
「お腹立ちでもございましょうが、どうぞ堪忍してあげて下さい。この人は、誰に
すると沢庵が、
「これ、お通さん何をいう。わしは戯れ口をいっているのではない。真実をいっているのだ。能なしだから能なし
「まだ申すな」
「いくらでも申す。先ごろから騒いでいる武蔵の山狩など、お
「ヤイ納所、おのれ坊主の分際をもって、御政道を
「御政道をではない――領主と民の間に介在して、禄盗みも同様な奉公ぶりをしている役人根性へわしはいうのだ。――例えばじゃ、おぬしは今宵、何の安んずるところがあって、この方丈に便々と長袖を着、湯あがりの一杯などと、美女に寝酒の酌をさせているか。どこに、誰に、その特権をゆるされてござるのか」
「…………」
「領主に仕えて忠、民に接して仁、それが
「…………」
「わしの首を斬って、おまえの主人、姫路の城主池田輝政殿の前へ持って行ってごらんじゃい、輝政
――どじょう
「まず、坐るがいい」
と沢庵は、救いを与えて、
「うそと思うなら、これから、
「…………」
「刀を、床の間へお返し。それから、もう一つ文句がある。
年からいえば、十も違うのだ、三十だいの沢庵と、四十を出ているどじょう髯とは。――しかし、人間の差は、年にはよらないものである。質でありまた質の
「いや、もう酒は……」
最初のえらい
「――左様でござったか、それがしの主人勝入斎輝政様と、ご
おかしいくらい恐縮する。
だが沢庵は、敢えて、高いところへ納まり返りはしなかった。
「まアまア、そんなことは、どうでもよろしいとしよう。要は、武蔵をいかにして召捕るか。つまるところ、尊公の使命も、武士たる面目も、そこにかかっておるのじゃないか」
「左様で……」
「
「いや、その儀はもう……何分とも、主人輝政へも」
「内分にでござろう、心得ておるよ。――しかし、山狩山狩と、掛け声ばかりで、こう延び延びになっていては、農家の困窮は
「されば、それがしも、心の
「――策がないだけじゃろ。つまり
「面目ない次第で」
「まったく、面目ないことだ。無能、徒食の
「えっ? ……」
「うそと思うのか」
「しかし……」
「しかし、なんだい」
「姫路から数十名の加勢まで迎え、百姓足軽を加えれば、総勢二百人からの者が、毎日ああやって山入りをしておるので」
「ご苦労様な」
「また、ちょうど今は、春なので山には幾らも食物があるため、武蔵めには都合がよく、吾々には、まずい時期でもある」
「じゃあ、雪の降るまで、待ってはどうだ」
「左様なわけにも」
「――参るまいナ。だからわしが
「また、お
「馬鹿いわッしゃい。
「はっ」
「
「条件とは」
「武蔵を
「さあ、その儀は?」
と、どじょう
「よろしい。貴僧が捕まえたら武蔵の処置は、貴僧に一任するといたそう。――その代り万一、三日のあいだに、縄にしてお出しなさらぬ時は?」
「庭の木で、こうする」
沢庵は、首を
「気でも
寺男は、心配のあまり、
聞く人々も、
「ほんまけ?」
眼をまろくして――
「どうする気じゃろ」
住持も、やがて知って、
「口は
などと、
けれど誰より真実に心配し出したのはお通であった。信頼しきっていた
沢庵は、その悲嘆の闇にある彼女にとって、ただ一つの
――その沢庵さんが。
お通は自分の身よりも、今は沢庵を、つまらない約束のために失ってしまうことが悲しくもあり破滅な心地がした。
彼女の常識をもって考えても、この二十日余りあんなに山狩しているのに捕まらない武蔵が、沢庵と自分との二人きりで、三日のあいだに縄目にかけてしまえるなどとは、どうしても考えられなかった。
こっちの条件と、先のいい分とは、弓矢八幡も
気が気ではない――
もう夕方は迫っているのだ。
沢庵はと見れば、本堂の隅で、猫といっしょに昼寝をしている。
住持をはじめ、寺男も、納所の者も、彼女の
「およしよ、お通さん」
「かくれておしまい」
沢庵との同行を極力避けるようにすすめたが、さりとてお通は、そんな気にもなれなかった。
もう、
中国山脈の
猫が、本堂から飛び降りた。――沢庵が眼をさましたのである。廻廊へ出て、大きな伸びをしている。
「お通さん、そろそろ出かけるが支度をしてくれんか」
「
「ほかに、持って行きたい物があるんじゃ」
「槍ですか。刀ですか」
「なんの。……ご馳走だよ」
「お弁当?」
「鍋、米、塩、味噌。……酒もすこしありたいな、何でもよい、
近い山は
熊笹や、藤づるや、道の辺りは、霧の巣だった。人里から遠ざかるほど、山は、宵に一雨かぶったように濡れていた。
「
竹杖に差した荷物の先を
お通は、後を
「ちっとも、暢気なものですか。一体、どこまで行くおつもり?」
「そうさな……」
と、沢庵の返辞は心ぼそい。
「ま、も少し歩こう」
「歩くのはかまわないけど」
「くたびれたか」
「いいえ」
肩が痛むとみえ、お通は、時々、右の肩から左の肩へ、杖をかえて、
「誰にも会いませんね」
「きょうは、どじょう
「いったい、沢庵さんは、あんなことをいっちまって、どうして
「出て来るよ、そのうちに」
「出て来たって、あの人は、
「ホラ……その脚もと」
「嫌ッ。――ああ、びっくりしたじゃありませんか」
「武蔵が出たんじゃないよ、道端に、藤づるを張ったり、
「山狩の者が、武蔵さんを追い詰めるつもりで
「気をつけないと、わしらが、
「そんなこと聞くと、
「落ちれば、わしから先だ。しかしつまらん骨折りをやったものさ。……おおだいぶ
「
「夜どおし歩いてばかりいても
「私に相談しても、知りませんよ」
「ちょっと、荷物をおろそう」
「どうするんです」
沢庵は、崖の
「お
といった。
「アア、愉快。……自分が天地か、天地が自分か」
お通は、
「沢庵さん、まだですか。ずいぶん長い」
やっと、戻って来て、
「ついでに、
「易を」
「易といっても、わしのは
「
「何山というか知らんが、中腹に、樹のない高原が見えるじゃろうが」
「いたどりの
「いたどり……
沢庵は大きく笑った。
ここは東南に向って、なだらかな傾斜と、広い展望を持つ
牧というからには、いずれ牛か馬かが放牧してあるにちがいないが、ぬるい微風が草をなでているだけの
「さ、ここで陣を
お通は、荷をおろして、
「――ここで何をするんです」
「坐っているのさ」
「坐っていて、武蔵さんが捕まりますか」
「網をかければ、空とぶ鳥さえかかる。
「沢庵さんは、狐にでも
「火を
枯れ木を集めて、沢庵は、
「火って、賑やかなものですね」
「心ぼそかったのか」
「それは……誰だって、こんな山の中で夜を明かすのは、いいものじゃないでしょう。……それに、雨が降って来たらどうする気です?」
「登ってくる途中、この下の道に横穴を見ておいた。降ったらあそこへ逃げ込もう」
「武蔵さんも、晩や、雨の日は、そんな所に隠れているんでしょうね。……一体、村の人は、何だって、あんなにまで武蔵さんを目のかたきにするのかしら」
「ただ権力がそうさせるのだな、
「つまり、自分達だけの身を
「無力の民には、そこは
「気が知れないのは、姫路のお
「いや、それも治安のためにはやむを得まい。そもそも武蔵が関ヶ原から絶えず敵に追われているような気持に駆られていたので、村へ帰るのに、国境の木戸を破って入って来たのがよろしくないことだ。山の木戸を守っていた藩士を打ち殺し、そのため次から次へと、人間を
「あなたも、武蔵さんを憎みますか」
「憎むとも。わしが領主であっても、
「沢庵さんは、私にはやさしいけれど、案外、
「きついとも、わしはその公明正大な厳罰と明賞を行おうとする者だ。その権力をあずかって、ここへ来ている」
「……オヤ!」
お通は、びくりとしたように
「何か、今、
「ナニ、跫音が? ……」
と沢庵もつり込まれて耳を澄ましたが、にわかに大声で、
「あははは、猿だ。猿だ。……アレ見い、親子猿が、木の枝を渡ってゆく」
ほっとしたように、お通は、
「……あ。びっくりした」
焚火の
消えかけて来た焚火へ、沢庵は、枯れ木を折って加えながら、
「お通さん、何を考えているのかね」
「わたし? ……」
お通は、焔で
「――私は今、この世の中というものが、何という不思議なものだろうと、それを考えていました。じっと、こうしていると、無数の星が、
「嘘だろう。……そんなことも頭にうかんだかも知れぬが、
「…………」
「悪かったら謝るがの、実はお通さん、そなたの所へきた飛脚文を、わしは読んでおる」
「あれを?」
「
「まあ、ひどい」
「
「どうしてです?」
「又八のようなむら気な男じゃもの、女房になってから、あんな去り状を投げつけられたらどうするぞ。まだお互いに、そうならないうちだから、わしは却って、
「女には、そのような考え方はできないのです」
「じゃあ、どう考えているのか」
「
不意に、しゅくっと、自分の袖口へ噛みついて、
「……
沢庵は、そういって、無念そうに泣きじゃくるお通の横顔を見つめながら、
「始まったのう……」
と、何のことかつぶやいた。
「――お通さんだけは、世間の悪も人間の表裏も知らずに、娘となり、おかみさんとなり、やがては婆さんとなって、
「沢庵さん! ……。わ、わたし、どうしましょう! ……口惜しい……口惜しい」
背に波をうって、お通は、いつまでも、
昼間は、山の横穴へかくれて、眠りたいだけ二人は眠る。
食物も困りはしなかった。
だが――もっと
三日目の晩が来た。
またきのうのように、おとといのように、
「沢庵さん、もう今夜きりですよ約束の日は」
「そうだな」
「どうするつもりですか」
「なにを」
「何をって、あなたは、大変な約束をしてここへ登って来たのじゃありませんか」
「ウム」
「もし今夜のうちに武蔵さんを捕まえなければ」
沢庵は彼女の口を
「わかっている。まちがえばこの首を、千年杉の
「ではすこし、捜しに歩いたらどうですか」
「捜しに出たって、会うものか。――この山中で」
「まったく、あなたは、気が知れない人ですね。私までが、こうしていると、何だか、なるようになれと、度胸がすわってしまいます」
「そのことだ、度胸だよ」
「じゃあ沢庵さんは、度胸だけでこんなことをひきうけたんですか」
「まあ、そうだな」
「アア心ぼそい」
何かすこしは自信があるのであろうと、
――馬鹿かしら? この人は。
すこし気が
お通は疑いだした。
しかし、沢庵は、相変らず
「もう
今気がついたように
「そうですよ、すぐに、夜が白むでしょう」
わざと、お通が、
「はてな? ……」
「何を、考えているのです」
「もう、そろそろ、出て来なくちゃならんが」
「武蔵さんがですか」
「そうさ」
「たれが、自分から捕まえられに来るものですか」
「いや、そうでないぞ。人間の心なんて、実は弱いものだ。決して孤独が
「それは、沢庵さんの独り合点というものではありませんか」
「そうでない」
俄然、自信のある声で首を横に振った。お通はそう反対されたほうが
「――思うに、
「この横笛ですか」
「ウム、その笛を」
「いやです、こればかりは、誰にも貸せません」
「なぜ?」
いつになく、沢庵は
「なぜでも」
お通は、首を振る。
「貸してもよかろう。笛は、吹けば吹くほど、良くこそなるが減りはしまい」
「でも……」
帯に手をあてて、お通は依然、はいといわない。
もっとも、彼女が肌身離さず持っているその笛が、如何に彼女にとって大事な品であるかは、かつてお通自身が、身の上話をした折に聞いてもいるので、沢庵は十分にその気もちを察しはするが、ここで自分へ貸すぐらいな
「
「
「どうしても」
「え。……どうしても」
「強情だのう」
「え。強情です」
「じゃあ……」
と、ついに、沢庵は折れて、
「お通さんが、自分で吹いてくれてもよい。何か、一曲」
「嫌です」
「それもいやか」
「ええ」
「どういう
「涙がこぼれて吹けませんもの」
「ウム……」
それは、孤児に恵まれていない愛の泉であった。お通の胸にも、お通の知らない
笛も、実はその親の
してみると、その笛は、彼女に取っては、
――吹くと涙がこぼれるから。
お通が、貸すのも嫌、吹くのも嫌といった気持は、よくわかるし、
「…………」
沢庵は、黙ってしまった。
めずらしく三日目の今夜は、薄雲の
「……また、火が
「…………」
「泣いているのか」
「…………」
「つまらぬことを思い出させて、心ないわざをしたの」
「……いいえ。沢庵さん……わたしこそ、強情を張って悪うございました。どうぞ、おつかい下さいまし」
帯の間の笛を抜いて、沢庵の手へ差出した。
それは、
「ほ。……よいのか」
「かまいません」
「じゃあ、ついでのことに、お通さんが吹いてはどうじゃな。わしは、聴いていてもよいのだ。……こうして聴いているから」
笛には手を触れないで、沢庵は横向きになった。そして自分の膝を
常ならば、笛など聞かしてあげようといえば、吹かない先から、茶化すに極まっている沢庵が、聴き耳澄まして、じっと眼をつむっているのでお通は、却って、
「沢庵さんは、笛がお上手なんでしょう」
「
「じゃあ、あなたから先に吹いてみせて下さい」
「そう、謙遜するほどではないよ。お通さんだって、相当に習ったという話ではないか」
「え。清原流の先生が、お寺に四年も
「では大したものだ、
「とんでもない――」
「まあ、何でも好きなもの……いや自分の胸に
「ええ。私もそんな気がするんです、胸のうちの悲しみや恨みやため息や、そんなもの思うさま吹き散らしてしもうたら、さぞ
「それよ、気を散じるということは大切だ。笛の一尺四寸は、そのままが一個の人間であり、宇宙の万象だという。……
「覚えておりませんが」
「あの初めに――笛は五声八
「笛の先生みたいですね」
「わしは、極道坊主のお手本のようなものじゃ。どれ、ついでに、笛を
「鑑てください」
手に取るとすぐ沢庵はいった。
「ウーム、これは名器だ。この笛を捨子に添えてあったといえば、そなたの
「笛の先生も
「笛にも、姿がある、心格がある。手に触れて、すぐ感じるのだ。むかしは、鳥羽院の
「そんなことを仰っしゃると、下手な私にはよけいに吹けなくなってしまう」
「
「小さく、
「吟龍。……なるほど」
と、笛
「さ。……
と、厳粛にいった。沢庵の真剣な
「では、
草のうえに坐り直し、作法を正して、笛へ礼儀をする。
もう沢庵は口もきかない、深夜の
「…………」
お通は、唇へ、笛をあてた。
白い
「では……」
と、沢庵へ改まり、
「
「…………」
沢庵は、
彼女の細くて白い指のふしが、一つ一つ、生きている
低い――水のせせらぎにも似た
じっと
鬼ですら音楽にはうごかされるという。まして、この佳人の横笛に、五情にもろい人間の子が、感動しないでおられようか。
沢庵は信じた。また、泣きたくなった。
涙こそこぼさないが、彼の顔は膝の間へだんだんに
母は
なお、なおさらのこと。
この先――この
その
長い曲はまだ終らない。
すると……
ふと暗くなりかけた
沢庵は、ふと首を
「――そこのお人、霧の中では冷たかろうに、遠慮なく、火のそばへ寄って、お聴きなされ」
と、話しかけた。
お通は、怪しんで、笛の手をやめ、
「沢庵さん、何を、
「――知らぬのか、お通さん、
と、指さした。
何気なく、ひょいと振り向いたお通は、途端に、我れにかえって、
「きゃッ――」
と、そこの人影へ向って、手の横笛を投げつけた。
きゃッと叫んだお通よりも、却って驚いたらしいのは、そこにうずくまっていた人間であった。草むらから鹿のように起って、ぱっと彼方へ駈け出そうとする。
沢庵は、予期しなかったお通のさけびに、折角静かに網へ
「――
と、満身の力で呼んだ。
「待たッしゃれ!」
つづいて投げた言葉にも、圧するような力があった。
「? ……」
らんらんと光る眼が、じっと、沢庵の影とお通のほうを見ていた。
「…………」
沢庵はそれっきり黙っていた、胸の両の腕を静かに
そのうちに、沢庵の眼のまわりに、何ともいえない親しみぶかい
「お
と、彼から手招きした。
すると武蔵は、途端に
「ここへ来ぬか。――来て、一緒に遊ばぬか」
「? ……」
「酒もあるぞ、食べ物もあるぞ、わしらはおぬしの敵でも
「…………」
「武蔵。……おぬしはきつい勘違いをしておりはせぬか。火もあり、酒もあり、食べ物もあり、また温かい情けも酌めばある世の中だよ。おぬしは、好んで自身を地獄へ駈り立て、この世を
お通は、
「さあ、おかけ」
と、肩をたたいた。
武蔵は、素直に腰かけた。だがお通は彼の顔を仰ぐことが出来なかった。
「ウム、煮えたらしい」
鍋のふたを取って、沢庵は、
「ホ。やわらかに煮えたわい。どうじゃ、おぬしも食べるか」
「…………」
武蔵はうなずいて、初めて、ニッと白い歯を見せた。
お通が茶碗へ盛って渡すと、武蔵は、ふうふうと、熱い雑炊をふいて喰べる。
箸を持っている手がふるえている、茶碗のふちへ歯がガツガツと鳴る。いかに、
「
沢庵は、先へ箸を
「酒はどうじゃ」
と、すすめる。
「酒は飲みません」
武蔵は答えた。
「きらいか」
というと、武蔵は首を振った。幾十日の山ごもりに、彼の胃は強い刺戟に耐えないらしかった。
「お蔭様で、暖かになりました」
「もうよいのか」
「十分に――」
武蔵は、お通の手へ茶碗を返して――
「お通さん……」
と、改めて呼んだ。
お通は、うつ向いたまま、
「はい」
聞きとれないような声でいう。
「ここへ、何しに来たのか。ゆうべも、この辺に、火が見えたが」
武蔵の質問に、お通はどきっとした。どう答えようかと
「実はの、おぬしを召捕りに登って来たのじゃ」
と、いって
武蔵は、かくべつ驚きもしなかった。
沢庵は、ここぞと膝を向けて、
「どうじゃな武蔵、同じ捕まるものならばわしの
「嫌だ、おれは」
奮然と首を振る武蔵の血相を、
「まあ聞くがよい。
「勝てるかとは」
「憎いと思う人間どもに――領主の法規に――また自分自身に、勝ちきれるか」
「敗けだ! おれは……」
うめくようにいって、武蔵は、悲惨な顔を泣きたそうに
「最後になったら、斬り死にするばかりだ。本位田の
「姉は、どうする」
「え?」
「
「…………」
「あの気だてのよい、弟思いなお吟どのを……。いや、そればかりか、
武蔵は、爪の伸びた黒い手で、顔をおおって、
「……しっ、知らんっ。……もう、そ、そんなこと、どうなるものか」
痩せ
すると、沢庵は
「この、馬鹿者っ!」
と、
あっと、気をのまれた武蔵が、よろめくところを、沢庵は乗しかかって、さらに、その顔へもう一つ鉄拳を下しながら、
「不所存者めッ、不孝者め。おのれの父、母、また先祖たちに代って、この沢庵が
「ウーム痛い……」
「痛ければまだすこし人間の脈があるのじゃろう。――お通さん、そこの縄をおよこし。――何を
組み敷かれた武蔵は、眼をつむっていた。
朝である、
「それっ」
とわれ勝ちに、駈けのぼって行った。
「捕まった!
「おウ、ほんまに」
「誰が、
「
本堂の前は、押し合うばかりな人で囲まれていた。そしてそこの階段の
「ほウ」
と、大江山の鬼でも見たように
沢庵は、にやにや笑いながら、階段に腰かけていた。
「村の衆、これでお前らも安心して耕作ができるじゃろうが」
人々はたちまち沢庵を村の
土下座をするものがあった。彼の手を押しいただいて、足元から拝む者もあった。
「ごめん、ごめん」
沢庵は、それらの人々の盲拝に、閉口しきった手を振って、
「村の衆、よう聞け、武蔵が捕まったのは、わしが
「ご謙遜なさる、なお偉いわ」
「そんなに押し売りするなら、かりにわしが偉いにしておいてもよいが。――時に、皆の衆に、相談があるがの」
「ほ、なんぞ?」
「ほかではないが、この武蔵の処分だ。わしが三日のうちに捕えて来なかったら、わしが首を
「それは聞いておりましただ」
「だが、さて……どうしたものじゃろうな。本人はこの通り、ここへ召捕って来たが、殺したものか、それとも、生かして放してやったものか?」
「
人々は、一致して叫んだ。
「殺してしまうに限る。こんな恐ろしい人間、生かしておいたとて、何になろうぞ、村の
「ふム……」
沢庵が何かを考えているのをもどかしがって、
「ぶち殺せっ」
と、うしろの人達はわめいた。
すると、その図に乗って、ひとりの老婆が、前へ出て、武蔵の顔をにらみつけながら側へ寄って行った、本位田家のお杉隠居であった、手に持っていた桑の枝を振りあげて、
「ただ殺したぐらいで腹が
と、二ツ三ツ打ちすえて、
「沢庵どの」
と、今度は彼のほうへ喰ってかかるような眼を向けた。
「なんじゃ、おばば」
「わしの
「ふム又八か、あの伜は、あまり出来がようないから、かえって、養子をもろうたほうが、おぬしのためじゃないかの」
「何をいわっしゃる。よかれ悪しかれ、わしの子でござる。武蔵は、この身にとって子の仇、こやつの身の処置は、この婆に、まかせて下されい」
すると――婆のそういう言葉を、誰かうしろの方で
おそろしく不機嫌なていでいる。
「こらッ。見世物ではないぞ、百姓や町人どもは、立ち去りおろう」
どじょう髯は、呶鳴った。
沢庵も、横からいった。
「いや、村の衆、去るには及ばんよ、武蔵の処分をどうするか、相談のため、わしが呼んだのだ、いておくれ」
「だまれっ」
どじょう髯は、肩をそびやかし、そういう沢庵をはじめ、お杉隠居と群集を
「武蔵めは、国法を犯した大罪人、しかも、関ヶ原の残党、断じてその方どもの手で処置することは相成らん。
「いけないよ」
沢庵は、顔を振って、
「約束がちがう!」
断乎とした色を示した。
どじょう髯は、自分の一身にかかわるところと、
「沢庵どの、貴公には、お上より約束の金子をとらせるであろう。武蔵の身は
聞くと、沢庵はおかしげに、からからと
どじょう髯は、真っ
「ぶッ、ぶ礼な。何がおかしい」
「どちらが無礼か。これ、お
村の人々は、驚いて、逃げ腰を
「よいか!」
「…………」
「縄を解いておぬしへケシかけよう。おぬしはここで武蔵と一騎打ちして、勝手に召捕るがいい」
「あっ、待て待て」
「なんじゃ」
「折角、召捕ったもの、縄目を解いて、また騒動を起すにもおよぶまい。……では、武蔵を斬ることはまかせるが、首は、此方へ渡すであろうな」
「首を? ……
子供あしらいである。沢庵は、
「一同へ、ご意見を求めても、
「…………」
すこし
「沢庵どの、よい智慧じゃ、四日五日はおろか、十日でも二十日でも、千年杉の梢へ
と、いった。
無造作に、
「じゃあ、そう決めよう」
沢庵は、武蔵の縄じりをつかんだ。
武蔵は、
村の者たちは、ふと、
山から降りて来た日、寺へもどって、自分の部屋へ入ると、お
(なぜかしら?)
独りぽっちは、今始まったことではないし、寺には、ともかく、人もおり火の気もあり明りも
自分の気もちを、自分に訊いてみようとするものらしく、この十七の
(わかった)
うっすらと、お通は、自分の心を
寺には、人の出入りがあるし、火の気も明りもあって賑やかそうだが、そういう形の現象でこの淋しさは
山には、無言の樹と霧と闇しかないが、そこにいた一人の沢庵という人は、決して、皮膚の外の人ではなかった。あの人の言葉には、血をくぐって心に
(その沢庵さんがいないから!)
お通は、起ちかけた。
しかしその沢庵は、武蔵の処置をしてから姫路藩の家来たちと何か客間で膝詰めの相談事をしていた。里へ降りてはとても忙しくて、自分と山の中でのような話などしていられそうもない。
そう気づくと、彼女はまた、坐り直した。ひしひしと、
笛。――ふた親のかたみの笛。――ああそれはここにあるが、
「くやしい……」
それにつけても彼女は、
うしろの
いつの間にか大寺の
「やれやれ、ここに居やったかいの。……一日暇をつぶしてしもうた」
呟きながら入って来たのは、お杉ばばであった。
「これは、おばば様」
あわてて敷物を出すと、お杉は、会釈もなく木魚のように坐って、
「嫁御」
と、いかめしい。
「はい」
「そなたの覚悟をたしかめた上、ちと話があるのじゃ。今まで、あの沢庵坊主や、姫路の御家来たちと話していたが、ここの
「ほかではないがの……」
お通の出す渋茶を取ると、ばばは改まって、すぐいい出した。
「武蔵めのいうたことゆえ、うかとは信じられぬが、又八は、他国で生きているそうじゃよ」
「左様でございますか」
お通は冷ややかだった。
「いや、たとい、死んでおればとてじゃ、そなたという者は、又八の嫁として、この寺の
「ええ……」
「あるまいの」
「は……い……」
「それでまず、一つは安心しました。ついては、とかく、世間がうるさいし、わしも、又八がまだ当分もどらぬとすれば、身のまわりも不自由、分家の嫁ばかり、そうそうこき使うてもおられぬゆえ、この折に、そなたは寺を出て、本位田家のほうへ身を移してもらいたいが」
「あの……私が……」
「ほかに誰が、本位田家へ嫁として来るものがあろうぞいの」
「でも……」
「わしと暮すのは嫌とでもおいいか」
「そ……そんな
「荷物を
「あの……又八さんが、帰ってからでは」
「なりません」
と、お杉は極めつけて、
「せがれが戻るまでの間に、そなたの身に虫がついてはならぬ。嫁の素行を見まもるのは、わしの役目、この婆の側にいて、
「は……はい……」
仕方なくいう自分の声が、情けなくて泣くように自分には聞えた。
「次に」
と、お杉は命じるように、
「武蔵のことじゃが、あの沢庵坊主の肚は、ばばには、どうも
「では……私が
「いちどに、両方はできますまい。そなたが、荷物と一緒に本位田家へ移って来る日は、武蔵の首が胴を離れた日じゃよ。わかりましたか」
「
「きっと
念を押して、お杉は去った。
すると――その機会を待っていたように、窓の外に人影が
「お通、お通」
と小声で誰か招く。
ふと、顔を出してみると、どじょう
「そちにも、いろいろ世話になったが、藩からお召状が来て、急に姫路へもどらねばならぬことになった」
「ま、それは……」
手をすくめたが、どじょう髯はなお固く握って、
「御用は、今度の事件が聞えて、それについてのお
何か、手へ掴ませると、どじょう髯の影は、あたふたと、麓のほうへ急ぎ足にかくれた。
手紙だけではない、何か、重い物がそれにはつつんである。
どじょう髯の野心は彼女にもよく分っていた。不気味であったが、
そして、手紙には、
言葉のうえにても申し候通り、この数日以内に、武蔵が首級を打って密かに、姫路の城下まで、急ぎお越し候らえ。
さなくとも此方 の意中は、すでにお許 も御ぞん知に候うべし、身不肖 なれど、池田侯の家中にて、青木丹左衛門と申せば千石取りの武士 にて、知らぬは無之候 。お許 を、宿の妻にせんと真実もって存ずるなり、千石どりの奥方ともなれば、栄華も意のままに候ぞかし。八幡、偽りはあらじ、この文を、誓紙がわりに持ち候らえ。又、武蔵が首級、良人 のためぞと、それも必ずお携 え給わるべく候。
先は、急ぎのまま、あらまし。
さなくとも
先は、急ぎのまま、あらまし。
丹左
「お通さん、御飯を食べたかね」外で沢庵の声がしたので、お通は、草履をはいて出て行きながら、
「こん夜は食べたくないんです。すこし頭が痛くて――」
「何じゃ! 持っておるのは」
「てがみ」
「誰の」
「見ますか」
「さしつかえないならば」
「ちッとも」
お通が渡すと、沢庵は一読して、大きく笑った。
「苦しまぎれに、お通さんを色と慾とで買収と出おったな。あのお髯どのの名が青木丹左衛門とはこの手紙で初めて知った。世の中には、奇特なさむらいもある。いや、おめでたいことだ」
「それはいいですけど、お金がつつんであったのです。どうしましょう、これを?」
「ホ、大金だのう」
「困ってしまう……」
「何の、金の始末なら」
沢庵は取って、本堂の前へ歩いて行った。そして、
「いや、そなたが持っておるさ。邪魔にもなるまい」
「でも、後で何か、いいがかりをつけられると嫌ですから」
「もうこの金は、お髯どのの金ではない、
お通の帯のあいだへそれを差し入れて、
「……あ。風だな、今夜は」
と、空を仰ぐ。
「しばらく降りませんでしたから……」
「春も終りだから、散った
「そんな大雨が来たら、武蔵さんは一体どうなるでしょう」
「うム、あの人か……」
二つの顔が一しょに、千年杉のほうを振り向いた時である。風の中の喬木の上から、
「沢庵っ、沢庵っ!」
人間の声がした。
「や? 武蔵か」
眸をこらしていると、
「くそ坊主っ、
「はははは。武蔵、なかなか元気でおるな」
沢庵は、声のする大樹の下へ、草履を運んで行きながら、
「元気はよいらしいが、近づく死の恐れに、逆上しての、気ちがい元気ではあるまいな」
程よい所に足をとめて、仰向くと、
「だまれっ」
武蔵の再びいう声だ。
元気というよりは
「死を怖れるほどならば、なんで神妙に貴さまの
「縛をうけたのは、わしが強くて、おまえが弱いからだ」
「坊主っ、何をいうか!」
「大きく出たな。今のいい方がわるければ、わしが悧巧で、おまえが阿呆――といい直そうか」
「うぬ、いわしておけば」
「これこれ、樹の上のお猿さん、もがいた所でこの大木へ、がんじ
「聞けッ、沢庵」
「おお、なんじゃ」
「あのとき、この武蔵が争う気ならば、貴様のようなヘボ
「だめだよ、もう間に合わん」
「そ! ……それを! ……自分から手をまわしたのは、貴様の高僧めかしたことばに
「それから――」
と沢庵は
「だのに、なぜ! なんで! ……この武蔵の首を早く打たないかっ……同じ
「誤りは、それだけか。おまえのしてきたことは誤りだらけだと思わないか。そうしている間に、すこし過去を考えろ」
「やかましい。おれは、天に恥じない。又八のおばばは、おれを
「そんな
「坊主、覚えておれ」
「
――それまで、化石したように、うしろの方に立ち
「あんまりです! 沢庵さん! いくら何でも、
「これはしたり、同士打ちか」
「無慈悲ですっ。……わたしは、今のようなことをあなたがいうと、あなたが嫌になってしまいます。殺すものなら、武蔵さんも覚悟のこと、いさぎよく殺してあげてはどうですか」
お通は、血相を変えて、喰ってかかった。
「うるさい」
沢庵は、いつになく怖い顔して、
「女などが知ったことか。黙っておれっ」
と、叱った。
「いいえ! いいえ!」
つよく顔を振りながら、お通も、いつものお通でなかった。
「わたしにも、このことについては、口を出す権利があります。いたどりの
「いかん! 武蔵の処分は、誰がなんといおうと、この沢庵がする」
「ですから、斬るものなら、斬ったがよいではありませんか。何も、半殺しにして、
「これが、わしの
「ええ、情けない」
「
「退きません」
「また、強情が始まったな。この女め!」
力づよく振り放すと、お通は、杉の根へよろめいて行って、わっと、そのまま樹の幹へ、顔も胸も押しあてて泣き出した。
沢庵までが、こんな残酷な人とは、彼女は思っていなかった。村の者のてまえ一応は樹へ縛っても、最後には何か情けのある処置を執るのだろうと思っていたのに、実はこういう残虐なことを楽しむのが
信じぬいていた沢庵までが、嫌な人になることは、世の中のすべてが嫌になるのも同じだった。あらゆる人が信じられないとしたら……彼女は滅失の底に泣き沈んだ。
だが――
彼女は、ふと、泣き顔を、押しあてている樹の幹に、あやしい情熱を覚えた。この千年杉のうえに縛られている人――凛烈な声を天から投げてくる人――その武蔵の血が、この十人の腕でも抱えきれないような太い幹へ
武士の子らしい!
今までは、衆評にまき込まれて、自分も武蔵という人を考え違いしていた。――どこにこの人を、悪鬼のように憎むところがあろう、猛獣のように怖がったり狩立てなければならない性質があるだろうか。
「…………」
背にも肩にも
天狗がゆするように、
ポッ! と大きな雨つぶが、彼女の襟もとへも、沢庵の頭へもこぼれて来たのである。
「お! 降って来たわ」
頭へ、手をやりながら、
「おい、お通さん」
「…………」
「泣き虫のお通さん、そなたが泣くので、
すぽりと
雨は、やにわに降りそそいで来て、闇のすそが、真っ白にぼかされた。
ぽたぽたと背に落ちるしずくの打つにまかせて、お通はいつまでも動かなかった。――
お通は、どうしても、そこを去る気もちになれなかった。
雨やしずくが、背をとおして、肌着にまで
ただ
「かあいそうな!」
彼女は、樹をめぐって、おろおろしだした。仰いでも、その人の影すら見えない雨と風であった。
「――武蔵さあん!」
思わずさけんだが、返辞はない。あの人もまたこの私を、本位田家の一人のように、村の人々と同じように、
「こんな雨に打たれていたら、一晩で死んでしまう。……ああ、誰か、これほど人間の多い世間なのに、一人の武蔵さんを、助けてやろうとする人はないのか」
お通は、突然、雨の中をまっしぐらに駈けだした。風は彼女を追いかけるように吹いた。
寺の裏は、
「沢庵さん、沢庵さん」
そこの戸は、沢庵にあてがわれている一室だった。お通が、外から烈しく叩くと、
「誰だい?」
「わたしです、お通です」
「あっ、まだ外にいたのか」
すぐ戸を開けて、
「ひどい! ひどい! 雨がふき込む、早くお入り」
「いいえ、お願いがあって来たのです。
「誰を」
「武蔵さんを」
「とんでもないこと」
「恩に着ます」
お通は、雨の中に膝まずいて沢庵のすがたへ、
「この通りです……私をどうしてもかまいませんから……あの人を、あの人を」
雨の音は、お通の泣き声を打ちたたいたが、お通は、滝つぼの中にある
「おがみます、沢庵さん、おすがりいたします、私にできる事ならどんな事でもしますから……あ、あのお方を、た、たすけて」
泣いてさけぶ彼女の口の中まで雨はふき
沢庵は、石みたいに黙っていた。本尊仏を秘めた
「はやく寝なさい。丈夫な体でもないのに、雨水は毒じゃということを知らんのか」
「もしっ……」
お通が、戸へすがると、
「わしは寝る。そなたも寝や」
雨戸はかたく閉められてしまった。
だがお通は、
床下へ入って行って、沢庵の寝床の敷かれたあたりへ、
「おねがいです! 一生のおねがいです! ……もしッ、聞えませんか、ええ沢庵さんの
根気よく黙りこくっていたが、とても寝つかれないとみえて、沢庵はとうとう
「おーいッ、寺の衆っ、わしが部屋の床下に、泥棒が忍んでおるで、捕まえてくれんか」
春も、ゆうべの雨や風で、残りなく洗われてしまった。今朝は、陽の光もおそろしく強く
「
お杉隠居は、夜が明けると、待ち遠しい楽しみでも見物に来たように寺を
「おう、おばばか」
沢庵は、縁へ出て来て、
「ゆうべの雨はひどかったのう」
「よい気味な嵐でおざった」
「だが、いくら豪雨に叩かれたとて、一夜や二夜で、人間は死ぬまいて」
「あれでも生きているのじゃろうか? ……」
とお杉婆は、
「
「
「大きに――」
お杉はうなずきながら、奥を覗いて、
「嫁が見えぬが、呼んでおくれぬか」
「嫁とは」
「うちのお
「あれはまだ本位田家の嫁ではあるまいが」
「近いうち、嫁にする」
「
「おぬし、風来坊のくせに、よけいな心配はせぬものよ。お通は、どこにいますかいの」
「たぶん、寝ておるじゃろう」
「アアそうか……」
独り合点して――
「夜は、武蔵の見張をしておれとわしが
お杉は、千年杉の下へ行って、しばらく仰向いていたが、やがてこつこつと桑の杖をついて里へ降りて行った。
沢庵は、部屋へ入ると、晩まで顔を見せなかった。里の子が上がって来て、千年杉の梢へ石を投げた時、障子をあけて、
「
と一度、大声で叱ったきり、その障子は、終日閉まっていた。
同じ棟の幾間かを隔てて、お通の部屋があったが、そこの障子も今日は閉まったきりであった。
ゆうべあの大雨の中を、お通は寺の者に見つかって無理やりに屋内へ引上げられ、住職からは、さんざん
こよいは、ゆうべの空とは打って変って、月が明るかった。寺の者が寝しずまると、沢庵は、書物に倦いたように、
「武蔵――」
そう呼ぶと、杉の梢が、高い所ですこし揺れた。
バラバラと露の光が落ちてくる。
「――
すると、すさまじい力で、
「なんだッ! くそ坊主!」
少しも衰えのない武蔵の
「ホ……」
と、見上げ直して、
「声は出るな。そのあんばいではまだ五、六日は持つだろう。時に……腹ぐあいはどうだ」
「雑言は無用、坊主、はやく俺の首を
「いやいや、うかつに首は斬られない。貴さまのような
沢庵は、そこの石へ、腰をおろした。
「うぬっ、どうするか、見ていろっ――」
武蔵は、満身の力で、自分の身を
バラバラと、杉の皮や、杉の葉が、沢庵の頭へこぼれて来る。その襟元を払いながら沢庵は仰向いて――
「そうだ、そうだ。それくらい怒ってみなければ、ほんとの生命力も、人間の味も、出ては来ぬ。近頃の人間は、怒らぬことをもって知識人であるとしたり、人格の奥行きと見せかけたりしているが、そんな老成ぶった振舞を、若い奴らが真似るに至っては言語道断じゃ、若い者は、怒らにゃいかん。もッと怒れ、もッと怒れ」
「オオ! 今に、この縄を
「頼もしい。それまで待っていてやろう。――しかし、つづくか。縄の切れないうちに、おぬしの
「何をっ」
「おう、えらい力、木がうごく。しかし、大地はびくともせぬじゃないか。そもそも、おぬしの怒りは、私憤だから弱い。男児の怒りは、公憤でなければいかん。われのみの小さな感情で怒るのは、女性の怒りというものだ」
「何とでも、存分に
「駄目さ。――もうよせ武蔵、疲れるだけじゃぞ。――いくらもがいたところで、天地はおろか、この喬木の枝一つ裂くことはなるまい」
「うーむ……残念だ」
「それだけの力を、国家のためとまではいわん、せめて、他人のためにそそいでみい、天地はおろか、神もうごく。――いわんや人をや」
沢庵はこの辺から、やや説教口調になって、
「惜しむべし、惜しむべし。おぬし、折角人と生れながら、
「やかましいッ」
「聞けよ! 武蔵。――おぬしは、自分の腕力に思い上がっていたろうが。世の中に、俺ほど強い人間はないと慢じていたろうが。……それがどうじゃ、その
「おれは恥じない。腕で貴さまに負けたのではない」
「策で負けようが、口先で負けようが、要するに、負けは負けだ。その証拠には、いかに
「…………」
「腕ずくでは、なるほど、おぬしが強いに極まっている。虎と人間では、
「…………」
「たとえば、おぬしの勇気もそうだ、今日までの振舞は、無智から来ている
石もいわず、樹も語らず、闇は
――と。やがてやおら沢庵は石の上から腰をあげて、
「武蔵、もう一晩、考えてみなさい。そのうえで、首を
と、立ち去りかけた。
十歩――いや二十歩ほど、彼が背を見せて、本堂のほうへもう歩み出していた時である。
「あ。しばらく!」
武蔵が空からいった。
「――なんじゃ?」
遠くから沢庵が振向いて答える。
「もいちど、樹の下へもどってくれ」
「ふム。……こうか」
すると樹上の影は突然、
「沢庵坊――助けてくれッ」
と、大声で
にわかに泣いてでもいるように、
「――俺は、今から生れ直したい。……人間と生れたのは大きな使命をもって出て来たのだということがわかった。……そ、その生甲斐がわかったと思ったら、途端に、俺は、この樹の上にしばられている
「よく気がついた。それでおぬしの生命は、初めて人間なみになったといえる」
「――ああ死にたくない。もう一ぺん生きてみたい。生きて、出直してみたいんだ。……沢庵坊、後生だ、助けてくれ」
「いかん!」
断乎として、沢庵は首を振った。
「何事も、やり直しの出来ないのが人生だ。世の中のこと、すべて、真剣勝負だ。相手に斬られてから、首をつぎ直して起ち上がろうというのと同じだ。
――それなり草履の音はピタピタと彼方へ消えてしまった。武蔵も、それきり
……すると、誰か?
樹の下へ立って、梢を仰いでいる人影があった。やがて千年杉に抱きついて、一生懸命に、低い枝の辺までよじ登ろうとするのであったが、樹のぼりに妙を得ない人とみえ、少し登りかけると、木の皮と一緒に
それでも――木の皮より手の皮がすり
そして、息を
「……武蔵さん……武蔵さん……」
武蔵は、眼だけまだ生きている
「……オ?」
「わたしです」
「……お通さん? ……」
「逃げましょう。……あなたは、
「逃げる?」
「え……。わたしも、もうこの村にはいられないんです。……いれば……ああ堪えられない。……武蔵さん、わたしは、あなたを救いますよ。あなたは、私の救いを受けてくれますか」
「おうっ、切ってくれ! 切ってくれ! この縄目を」
「お待ちなさい」
お通は、小さな旅包みを
短刀を抜いて、武蔵の縄目を、ぶつりと
武蔵は立っていた。二丈もある樹のうえから落ちたのに、茫然と、大地に立っている。
ウーム……と
「おっ」
抱き起して――
「お通さん、お通さん!」
「……痛い……痛い」
「どこを打った?」
「どこを打ったか分りません。……だけど、歩けます、大丈夫です」
「途中の枝で、何度もぶつかっているから、大した怪我はしていないはずだ」
「私より、あなたは」
「俺は……」
武蔵は、考えてから、
「――俺は生きている!」
「生きていますとも」
「それだけしか分らないんだ」
「逃げましょう! 一
お通は、
「ご覧なさい、
「ここは何処」
「中山峠。……もう頂上です」
「そんなに歩いて来たかなあ」
「一心は怖いものですね。そうそう、あなたは、まる二日二晩、何も食べていないでしょう」
そういわれて、武蔵は初めて
背に負っている包みを解いて、お通は、米の粉を練った餅を出した。甘い
(俺は生きたぞ)
と、つよく思い、同時に、
(これから生れ変るのだ!)
と、信念した。
「さ、昼間になったら、油断は出来ませんよ。それに、すぐ
国境と聞くと武蔵の眼は、急に、
「そうだ、おれはこれから日名倉の木戸へ行く」
「え? ……日名倉へですって」
「あそこの山牢には、姉上が捕まっている。姉上を助け出して行くから、お通さんとは、ここで別れよう」
「…………」
お通は、うらめしげに、武蔵の顔を黙って見ていたが、やがて、
「あなたは、そんな気なんですか。ここでもう別れてしまうくらいなら、私は、宮本村を出ては参りません」
「だって、
「武蔵さん」
お通は、詰め寄るような
「わたしの気持、今に、ゆっくり話しますけれど、ここでお別れするのは嫌です。どこへでも、連れて行って下さい」
「……でも」
「後生です」
とお通は手をついて、
「――あなたが嫌だといっても、私は離れません。もし、お
「じゃあ……」
と武蔵はもう起ちかけた。
「きっとですね」
「あ」
「城下端れの花田橋で待っていますよ。来ないうちは、百日でも千日でも立っていますからね」
ただ
「おばば。――おばばッ」
孫の丙太だった。
「たいへんだがな、おばば、知らんのけ。何してるんや」
と、台所をのぞいて
「なんじゃ、
「村の者が、あんなに騒いでいるに、おばば、飯など炊いているんか。――
「えっ。――逃げた?」
「
「ほんまか」
「お寺ではお寺で、お通
丙太は、自分の知らせが、予想以上に、おばばの血相を物凄く変らせたので、びっくりしたように、指を噛んでいた。
「丙太よ」
「あい」
「
お杉隠居の声はふるえていた。
だが――丙太が、門を出ないうちに、本位田家の表には、がやがやと人が集まっていた。その中には、分家の
「お通
「沢庵坊主も、姿が見えぬ」
「ふたりの
「どうしてくれよう」
すでに、分家の聟や、権叔父などは、祖先伝来の槍をかかえて、本家の門に、悲壮な眼を集めているのだった。
そして――
「おばば、聞いたか――」
と、奥へいう。
お杉隠居は、さすがに、この大事が事実と分ると、こみあげる怒気を抑えて、
「――今参るまで、静かにしていやい」
と、そこからいって、何か
短い脇差を帯にさし、草履の
「――騒ぐことはない、婆が、追手となって
のこのこ、歩き出すので、
「おばばまで、行くからには」
と、親類も小作も、いきり立って、この悲壮な
しかし、すでに遅い。
この人たちが、峠の
「
と一同は、地だんだを踏んで無念がった。
それのみでなく、ここは
「
と、往来を
それに対しては、権叔父が応対に出て、
「これを捨ておいたでは、われら遠き先祖以来の面目にかかわり、村の者よりは笑いぐさとなり、本位田家は、御領下にもいたたまれぬことに相成りますので。――何とぞ、武蔵、お通、沢庵の三名を討ちとるところまで、通行おゆるし願いたい」
と、こっちでは、頑張った。
理由は
「では――」
と、お杉隠居は、親類一同と、合議のうえで折れて出た。
「このばばと、
「五名までなら、勝手じゃ」
役人は、いった。
お杉隠居は、うなずいて、意気まく他の人々へ、悲壮な別れを告げようとするらしく、
「皆の者」
と、
「こういう手違いも、家を出る時から、あらかじめ、覚悟のうちにあったことよ。何も、あわてるには及ばぬわいの」
お杉隠居のそういう薄い唇と、歯ぐきの出ている大きな前歯を、一族の者は、厳粛に、立ち並んで見まもっていた。
「この
「……さすがは」
と、大勢の縁者のうちで、誰か、
お杉は、分家の
「ついては、わしと、河原の権叔父とは、どっちゃも、まあ隠居身分。ふたつの大望を果すまで、一年かかるか三年かかるか、巡礼いたすつもりで、他国を巡って参ろうと思う。留守中には、分家の聟を家長と立て、
河原の権叔父も五十ちかいし、お杉隠居も五十をこえている。万一、武蔵にでも出会ったら、ひとたまりもなく返り討ちにあうに極っている。――誰かもう三人ほど若い者が
「なんのい」
と、
「武蔵武蔵というが、あか児にすこし毛が生えたような
と、自分の唇へ、ひとさし指を押し当てて、何か自信ありげにいった。
「いい出したら、後へは退かぬおばばのことじゃ、それでは、
と、励まして、もう一同も止めようとはしなかった。
「さらばじゃ」
河原の権叔父と肩をならべ、お杉は、中山越えを、東へ降りた。
「おばば。――
縁者たちは、峠から手を振って、
「
「はよう、元気でもどらっしゃれ――」
口々に、わかれを送った。
その声が、背に聞えなくなると、
「のう権叔父。どうせ、若い者より、先へ
権叔父は、
「そうとも、そうとも」
と、うなずいた。
この叔父は、今でこそ、
いうまでもなく、本家の息子の又八は、
「おばば」
「なんじゃい」
「おぬしは、覚悟して、旅支度もして来たろうが、わしはふだんのままじゃ。どこかで
「
「そうそう、三日月茶屋までゆけば、わらじもあろう、笠もあろう」
ここを下れば、もう
だが、
「龍野までは、ちと無理、今夜は、
と、茶代をおく。
「どれ、参ろう」
と、権六は、ここで求めた新しい笠を持って立ったが、
「おばば。ちょっと、待たれい」
「何じゃ」
「竹筒へ、裏の清水を入れて来るで――」
茶屋の裏へ廻って、権六は、
「病人か?」
誰か、
「権叔父よ。はよう来ぬか」
婆のよぶ声に、
「おい」
駈けてゆくと、
「なにをしていなさる」
と、婆は、不機嫌だ。
「何さ、病人がいるらしいで」
権六が歩み出しながらいいわけすると、
「病人が、何でめずらしい。子どものような道草する人じゃ」
と、婆は叱りつける。
権六も、本家のこの隠居には、頭が上がらないものとみえ、
「は、は、は」
と、
茶屋の前から、道は、
「ころぶなよ、おばば」
「何をいやる、まだ、こんな道に、
すると、二人の上から、
「お年より、お元気でございますなあ」
と、誰かいう。
見ると、茶屋の亭主だった。
「おう、今ほどは、お世話になった。――何処へお出でか」
「龍野まで」
「これから? ……」
「龍野まで行かねば医者はございませぬでの。これから、馬で迎えて来ても、帰りは夜中になりますわい」
「病人は、御家内か」
「いえいえ」
亭主は、顔をしかめ、
「
「
「若い
お杉隠居は、足をとめて、
「もしやその女子は、十七ぐらいの――そして、背の細ッそりした娘じゃないか」
「左様。……宮本村の者だとは申しましたが」
「権叔父」
と、お杉隠居は、眼くばせをして、急に、帯を指先でさぐりながら、
「しもうたことした」
「どうなされた」
「
「それはそれは。てまえが、取って参りましょう」
と、亭主が走りかけると、
「なんのいの、おぬしは、医者へ急ぐ途中、病人が大事じゃ程に、先へ
権叔父は、元の道を、もう大股に先へ戻っていた。茶屋の亭主を追いやって、お杉も後から急いでゆく。
――たしかにお
ふたりの
大雨に打たれて冷えこんだあの晩からの
峠で武蔵と別れるまでは、それも忘れていたが、彼と
「……おじさん……おじさん……」
水がほしいのであろう、
店をしめると、亭主は、医者を迎えに出て行ったのだ。たった今、彼女の枕元をのぞいて、帰って来るまで辛抱しておいで――といったのを、お通は、もう忘れているほどな高熱らしい。
口が
「……水をくださいな、おじさん……」
遂に、起き出して、お通は、流し元のほうへ首をのばした。
水桶の側まで、やっと這い寄った。そして
ガタと、何処かで、戸が
「暗いのう、権叔父」
「待たっしゃれ」
「あっ……おらぬぞ。ばば」
「えっ?」
――だが、お杉はすぐ、流し元の戸が少し開いているのを見つけ、
「外じゃ」
と、さけんだ。
その顔へ、ざっと、水の入っている
「畜生っ」
お杉は軒下まで駈け出して、
「権叔父よっ、何しているのじゃ」
「逃げたか!」
「逃げたかもないものよ、こなたが間抜けゆえ、
「あれか」
黒く――坂の下をまるで鹿のように逃げてゆく影をのぞんで、
「大事ない、先は病人、それに程の知れた
駈け出すと、お杉も、後から駈けつづいて、
「権叔父よ、一太刀浴びせるはよいが、首は婆が怨みをいってから斬りますぞい」
そのうちに、先を走っている権六が、
「しまった」
大声を放って振向いた。
「どうしたぞ」
「この竹谷へじゃ――」
「躍りこんだか」
「谷は、浅いが、暗いのが閉口じゃわ。茶屋へもどって、
「ええ、何を悠長な!」
と、お杉は権叔父の背なかを突きとばした。
「あっ」
――ザザザッと、
「くそばば。何を無茶しやるぞっ。
きのうも見えたが、また、きょうも見える。
日名倉の高原の十国岩のそばに、その岩の頭が欠け落ちたように、ぽつんと、一個の黒い物が坐っている。
「――なんだろう」
と、番士たちは、小手をかざしていた。
「兎だろう」
と、よい加減にいうと、
「兎より大きい。鹿だ」
と一方はいう。
いや違う、鹿や兎があんなにじっとしている筈はない、やはり岩だ、と
「岩や木の株が、一夜に
と、異説が出る。
するとまた、
「岩が一夜に生える例はいくらもある。
と、
「まあ、どうでもいいじゃないか」
と、いつも
「何でもよいということがあるか。われわれは、この日名倉の木戸に何のために立っているのか。
「わかったよわかったよ」
「もしあれが、兎でも石でもなく、人間だったらどうする?」
「
「そうだ、人間かも知れないぞ」
「まさか」
「何ともわからない、試しに、遠矢で射てみろ」
早速、番所から弓を持ち出して来たのが、弓自慢とみえ、片肌
問題の目標は、ちょうど、番所のある地点から深い谷間を隔てている向うがわのなだらかな傾斜と、澄みきった空との境にポツンと黒く見えるのである。
ヒュッ――
矢は、
「低い」
と、後ろでいう。
二の矢が、すぐ唸った。
「だめ、だめ」
引っ
「何を騒いでいるかっ」
番所に詰めている山目付の武士が来て、そう聞くと、
「よし、俺に貸せ」
と、弓を取った。これは、腕において、明らかに、段がちがう。
満をひいて、矢筈をキキと鳴らしたと思うと、山目付は、
「こいつは、滅多に放せん」
「なぜですか」
「あれは、人間だ。――人間とすれば、仙人か、他国の隠密か、谷へとび込んで死のうと考えている奴か。とにかく、捕まえて来い」
「それみろ」
先に、人間説を唱えた番士は鼻うごめかして、
「はやく来い」
「オイ待て。捕まえるはいいが、何処からあの峰へ渡るか」
「谷づたいでは」
「絶望だ」
「
じっと、腕を
幾棟かあるあの屋根下の一つには、姉のお
だが、彼は、きのうも一日こうして坐りこんでいたし、今日も、容易に起ちあがる気色はなかった。
なんの番所侍の五十人や百人。
ここまでは、そう思って来た武蔵であったが――さて。
彼は、坐りこんで、その番所が一目に見える所からつらつら地の理を
加うるに、ここは高原なので、十方
夜陰に乗じて事を
(近づけない!)
武蔵は、腹のそこで唸った。
そして二日の間も、十国岩の下に坐りこんで、作戦を考えたが、いい智恵もなく、
(駄目だ!)
と思った。一死を賭してもという気力は先ずそこに
(はてな、俺は、どうしてこんな臆病者になったのか)
すこし自分を歯がゆくも思った。――こんな弱い俺ではなかったはずなのに、と吾に問う。
腕ぐみは、半日経っても、解けなかった。――どうしたものか、怖いのだ! 頻りと、その番所へ近づいてゆくことが怖いのである。
(俺は、怖がりになった。たしかに、ついこの間の俺とは違ってしまった。――だが、これは一体、臆病というものだろうか)
否!
と彼は自分で首をふった。
この気持は、臆病なために起っているのではない。
人間の勇気と、動物の勇とは質がちがう。真の勇士の勇と、
目があいたのだ。――心の目が、何かこう世の中の怖さがうッすらと見えだして来たために、生れながらの己れに返ってしまったのだ。――生れながらの俺は決して野獣ではない、人間だった。
その人間になろうと思い立った途端に、俺は、なにものよりも、この身に
「……それだ!」
我を見出して、彼は空を仰いだ。
だが――姉は救わずにはおけない。たとえ、それほど惜しいそれほど怖い今の気持を
夜になったら、今夜はこの絶壁を降りて、あなたの絶壁へ上がってみよう。この天嶮をたのんで、番所の裏手には
――そう思い決めていた時である。足のつま先から少し離れた所へ、ぶすっと一本の矢が立った。
気がついてみると、彼方の番所の裏に、豆つぶほどな人間が多勢出て、どうやら自分の影を見つけて騒いでいるらしいのだ。そしてすぐ、散らかってしまった。
「――試し矢だな」
わざと、彼は動かずにじっとしていた。間もなく、中国山脈の背を西へ荘厳な落日の
夜が待たれた。
起って、彼は、小石をひろった。彼の晩飯は空を飛んでいるのだ。小石を投げると、空から、小鳥が落ちた。
その小鳥の生肉を裂いて、むしゃむしゃ喰べていると、二、三十人の番士たちが、わっと声を合せて、彼のまわりを取りかこんだ。
武蔵だ。宮本村の武蔵だ。
近寄ってから、気づいた声である。番士たちは、わああっと、二度目の武者声をあげ、
「見くびるな、強いぞ」
武蔵は、くわっと、殺気に対して殺気に燃える眼をした。
「これだぞッ」
大きな岩を、両手にさしあげ、輪になっている人間たちの一角へ向って、どすんと
その石は、真っ赤になった。鹿みたいにそこを跳びこえて、武蔵は走っていた。逃げるのかと思うと、反対に、番所のほうへ向って、獅子のような髪の毛を逆立てて駈けてゆく。
「ヤヤ
番士たちは、
「気が狂ッているんだ」
誰かが、そう叫ぶ。
三度目の
そこは、
「あッ、何者だ」
と、組みついてきた目付役人を、たッた一
中木戸の柱を、揺りうごかし、それを引き抜いて振りまわした。相手の頭数など問題でない。ただ真っ黒に集合してかかって来るものが相手だった。それを、ただおよその見当で撲りつけると、無数の槍と太刀が、折れては宙に飛び、また地へ捨てられた。
「姉上っ――」
裏へ廻る。
「
と、そこらの建物を血ばしった眼で覗いてゆく。
「――武蔵じゃ、姉者人ッ」
閉まっている戸は、引っ抱えている五寸角の柱で、軒ごとに突き破った。番人の飼っている鶏が、けたたましく絶叫して、役宅の屋根へ飛び上がって、天変地変でも来たように啼きぬいている。
「姉者人ッ――」
彼の声は、鶏のようにシャ
牢屋らしい汚い小屋の蔭から、一人の小者が、
「待てッ」
と、武蔵が跳びついた。
意気地なく泣きだす顔を、ぴしゃッと
「姉上は、どこにいるか。その牢屋を教えろ。いわねば、蹴殺すぞ」
「こ、ここには、おりませぬ。――一昨日、藩のいいつけで、姫路のほうへ、移されました」
「なに、姫路へ」
「へ……へい……」
「ほんとか」
「ほんとで」
武蔵は、また寄って来る敵へ、その番人の体を投げつけて、小屋の蔭へ、ぱっと身を
矢が、五、六本そこらへ落ちた。自分の
瞬間――
武蔵は、
ドカアン!
と、その姿へ向って放たれた
逃げだしたのだ! 武蔵は途端に、山の頂から転落してゆく岩のように、逃げ出している!
――怖いものの怖さを知れ。
――暴勇は児戯、無知、
――もののふの強さであれ。
――
沢庵のいった言葉のきれぎれが、疾風のように駈けてゆく武蔵の頭の中を、同じ速度で駈けめぐっていた。
そこは、姫路の城下
花田橋の下で、また、或る日は橋の上あたりで、彼は、お
「どうしたのだろう?」
お通は、見えない。――約束をして別れた日からもう七日目だ。ここで百日でも千日でも待っているといったお通なのに。
かりそめにも、約束の言葉をつがえた以上は、それを捨てて忘れてゆく気もちにはなれない
かたがた、彼には、この姫路へ移されて来たという姉のお
「やあ、出会うた」
突然、彼へ向って、駈け寄って来た僧がある。
「
「あっ」
顔も姿も変えて、誰にもこれなら知れまいとしていた武蔵は、そう呼ばれてびっくりした。
「さあ、来い」
手首をつかんだその僧は、
「世話をやかせずと、早く来い」
何処へか連れて行こうとするのである。この人に手向う力はなかった。武蔵は、沢庵の行くままに歩いた。また、樹の上か、それとも今度は藩の牢獄か。
おそらく、姉も城下の獄に
(姉と一緒に――)
武蔵はひそかに心で願った。
沢庵は、手招きして、
「はやく来ぬか」
多門を通ってゆく。
内堀の二の門へかかる。
まだ泰平に落着き切れない大名の城地であった。藩士たちも、なん時でも
沢庵は、役人を呼びたてて、
「おい、連れて来たよ」
と武蔵の身を引き渡し、そして、
「頼むぞ」
と念をこめていうのである。
「は」
「――だが、気をつけないといかぬぞよ、これは
いいすてて、二の丸から
沢庵にことわられたせいか、役人たちは、武蔵の体へ、指も触れないで、
「――どうぞ」
と、
黙って
腕を
「お済みになられたら、衣服はこちらに用意してござるゆえ、お召しかえなされい」
と、小者が、黒木綿の小袖と
見ればそれには、懐紙、
姫山の緑をうしろに、天守閣と太閤丸のある一廓が、白鷺城の本丸だった。
城主の池田
「
「あれでござる」
そばに控えている沢庵が、あごを引いて答えた。
「なるほど、よい
「いや、ご助命をいただいたのはあなた様からで」
「そうではない、役人どものうちにお
縁をへだてた庭のうえに武蔵は坐っている。新しい黒木綿の小袖を着、両手を膝について、
「
輝政がたずねると、
「はいっ」
はっきり答えた。
「新免家は元、赤松一族の支流、その赤松
「…………」
武蔵は、祖先の名に泥を塗っている者は自分だと思っている。輝政に対しては、何も感じなかったが、祖先に対して、頭があがらない気がした。
「しかし!」
輝政は語気を改めていった。
「その方の所業、
「はい」
「厳科を申しつける」
「…………」
輝政は、横を向いて、
「沢庵坊。身の家臣、青木丹左衛門が、わしの指図も仰がず、お
「丹左を、お調べ下されば、真偽は明白でおざるが」
「いや、調べてはある」
「しからば、何をか、沢庵に
「よろしい、それで、両者のいうことは一致しておる。丹左は、身の家来、その家来が誓ったことは、わしの誓いも同様である。領主ではあるが、輝政には、武蔵を処分する権能はすでにないのだ。……ただこのまま放免は相成るまい。……しかしこの先の処分は、お
「愚僧も、そのつもりでおざる」
「で、いかがいたそうか」
「武蔵に、窮命をさせる」
「窮命の法は」
「この白鷺城のお天守に、
「ある」
「今もって、開かずの間でおざろうか」
「むりに開けてみることもなし、家臣どもも嫌がっておるので、そのままらしい」
「徳川随一の剛の者、
「そんなことは考えてみたことがない」
「いや、領下の民は、そういうところにも、領主の威信を考えます。それへ明りを入れましょう」
「ふむ」
「お天守のその一間を拝借し、愚僧が勘弁のなるまで、武蔵に幽閉を申しつけるのでおざる。――武蔵左様心得ろ」
と、申し渡した。
「ははは。よかろう」
輝政は、笑っている。
いつか七宝寺で、どじょう
「後で、茶室へ来ぬか」
「また、
「ばかを申せ、近頃はずっと上達。輝政が武骨ばかりでないところを今日は見せよう。待っておるぞ」
先に立って、輝政は奥へかくれる。五尺に足らない短小なうしろ姿が、白鷺城いっぱいに大きく見えた。
真っ暗だ。――開かずの間といわれる天守閣の高いところの一室。
ここには、
ただ一
今は、大寒の真冬であろう、黒い天井の
孫子曰く
地形通ずる者あり
挂 かる者あり
支 うる者あり
隘 なる者あり
険なる者あり
遠き者あり
孫子の地形篇が机の上にひらかれていた。武蔵は、会心の章に出会うと、声を張って幾遍も素読をくりかえした。地形通ずる者あり
険なる者あり
遠き者あり
――故に
兵を知る者は動いて迷わず
挙 げて窮せず
故に曰く
彼を知り己を知れば
勝 すなわち殆 からず
天を知り地を知れば
勝すなわち全 うすべし
眼がつかれると、水のたたえてある器を取って、眼を洗った。燈心の油が泣くと燭を兵を知る者は動いて迷わず
故に曰く
彼を知り己を知れば
天を知り地を知れば
勝すなわち
机のそばには、まだ山のように書物が積んであった。和書がある。漢書がある。またそのうちにも、禅書もあるし、国史もあり、彼のまわりは本で埋まっているといってもよい。
この書物は、すべて、藩の文庫から借用したものである。彼が沢庵から幽閉を申しつかって、この天守閣の一室へ入れられた時、沢庵は、
「書物はいくらでも見よ。
と、
そして沢庵は去ったのである。
以来、もう幾星霜か。
寒くなれば冬が来たと思い、暖かくなれば春かと思うだけで、武蔵は、まったく月日も忘れていたが、今度、天守閣の
「おれも、二十一歳になる」
彼は、
「――二十一歳まで、おれは何をして来たか」
チチ、チチ、チチ……
天守閣の
その三年目である、或る日ふいに、
「武蔵、お達者か」
沢庵がひょっこり上がって来た。
「おっ……」
なつかしさに、武蔵は、彼の
「今、旅から帰って来たのだよ。ちょうど三年目じゃ。もうおぬしも、母の胎内で、だいぶ骨ぐみが出来たじゃろうと思ってな」
「ご高恩のほど……何とお礼をのべましょうやら」
「礼? ……。ははは、だいぶ人間らしい言葉づかいを覚えたな。さあ、今日は出よう、光明を抱いて、世間へ、人間のなかへ」
三年ぶりに、彼は天守閣を出て、また城主の輝政の前へ連れ出された。
三年前には、庭先へ据えられたが、今日は、太閤丸の広縁の板じきを与えられ、そこへ坐った。
「どうだな、当家に奉公する気はないか」
と輝政はいった。
武蔵は、礼をのべ、身に余ることではあるが、今主人を持つ意思はないと答えて、
「もし私が、この城に御奉公するならば、天守閣の
「なぜ?」
「あの大天守の内を、燈心の明りでよく見ますと、
「ウム、そうもあろう」
「私の毛穴は、そそけ立ち、私の血は、何ともいえぬ憤りを起しました。この中国に
「なるほど」
輝政は、うなずいた。
「では、再び宮本村へもどり、郷士で終るつもりか」
武蔵は、黙って微笑した。しばらくしてから、
「流浪の望みでござります」
「そうか」
沢庵のほうへ向って、
「彼に、時服と路銀をやれ」
「ご高恩、沢庵からも、有難くお礼を申します」
「お
「ははは、そうかも知れませぬ」
「若いうちは、流浪もよかろう。しかし、何処へ行っても、身の生い立ちと、郷土とは忘れぬように、以後は、姓も宮本と名乗るがよかろう、宮本とよべ、宮本と」
「はっ」
武蔵の両手は、ひとりでに床へ落ち、ぺたと平伏して、
「そう致します」
沢庵が、側から、
「名も、
「うむ、うむ!」
輝政は、いよいよ、機嫌がよく、
「――宮本武蔵か、よい名だ、祝ってやろう。これ、酒をもて」
と、侍臣へいいつける。
席をかえて、夜まで、沢庵と武蔵は、お相手をいいつかった。ほかの家来も多く集まった中で、沢庵は、猿楽舞などを
二人が、
沢庵も、これから
「では、ここで」
城下まで来て、別れかけると、
「あいや」
「武蔵、おぬしには、まだもう一人会いたい人があるはずではないか」
「? ……、誰ですか」
「お
「えっ、姉は、まだ生きておりましょうか」
「会いたかろ」
沢庵は、すすめた。
「お吟どのも、会いたがっておる。したが、わしはこういって待たせて来たのじゃ。――弟は、死んだと思え、いや、死んでおるはずじゃ。三年経ったら、以前の
「では、私のみでなく、姉上の身まで、お救い下さいましたのか。大慈悲、ただかようでござりまする」
武蔵は胸のまえで、
「さ、案内しよう」
促すと、
「いや、もう会ったも同じでござります。会いますまい」
「なぜじゃ?」
「せっかく、大死一番して、かように生れ
「ああ、わかった」
「多くを申し上げないでも、ご推量くださいませ」
「よく、そこまでの心になってくれた。――じゃあ、気まかせに」
「おわかれ申します。……生あれば、またいつかは」
「む。こちらも、ゆく雲、流るる水。……会えたら会おう」
沢庵はさらりとしたもの。
別れかけたが、
「そうじゃ、ちょっと、気をつけておくがの、本位田家の婆と、
「はい」
「それだけのことだ。じゃあ、おさらば」
と沢庵は西へ。
「……ご機嫌よう」
その背へいって、武蔵はいつまでも、辻から見送っていたが、やがて、独りとなって、東の方へ歩みだした。
孤剣!
たのむはただこの
武蔵は、手をやった。
「これに生きよう! これを魂と見て、常に磨き、どこまで自分を人間として高めうるかやってみよう! 沢庵は、禅で行っている。自分は、剣を道とし、彼の上にまで超えねばならぬ」
と、そう思った。
青春、二十一、遅くはない。
彼の足には、力があった。ひとみには、若さと希望が、らんらんとしていた。また時折、笠のつばを上げ、果て知らぬ――また測り知れぬ人生のこれからの長途へ、生々した眼をやった。
すると――
姫路の城下を離れてすぐである。花田橋を渡りかけると、橋の
「あっ! ……あなたは」
と袂をつかんだ。
お通であった。
「や?」
と、驚く彼を、恨めしげに、
「
「じゃあ、そなたは、三年前からここに待っていたのか」
「待っていました。……本位田家の
橋の
「あの家へ、
実は、心のそこでは、会いたくて会いたくて、うしろ髪をひかれるような姉のお吟にさえ、眼をつぶって、会わずに足を早めて来た心の矢さきである。
(なんで!)
と、武蔵は、勃然と自分へいう。
――なんで、これからの修業の
しかも、この女なるものは、かりそめにも本位田又八の
(うちの嫁女)
であるお通ではないか。
武蔵は、自分の顔に、
「連れて行けとは、何処へ」
と、ぶっきら棒にいった。
「あなたの行く所へ」
「わしのゆく先は、艱苦の道だ、遊びに遍路するのではない」
「わかっております、あなたのご修業はお
「女づれの武者修業があろうか。わらいぐさだ、袖をお離し」
「いいえ」
お通は、よけいに強く、彼の
「それでは、あなたは、私を
「いつ、そなたを騙したか」
「中山越えの峠のうえで、約束したではありませんか」
「む……。あの時は、うつつだった。自分からいったのではなく、そなたの言葉に、気が
「いいえ! いいえ! そうはいわせません」
闘うように、お通は迫って、武蔵の体を、花田橋の
「千年杉の上で、私があなたの縄目を切る時にもいいました。――一緒に逃げてくれますかと」
「離せ、おい、人が見る」
「見たって、かまいません。――その時、私の救いをうけてくれますかといったら、あなたは歓喜の声をあげ、オオ、
理をもって責めてはいるが、涙でいっぱいな彼女の眼は、ただ情熱のたぎりであった。
武蔵は、理においても、返す言葉がなかったし、情熱においては、なおさら
「……お離し……昼間だ、往来の人が振り向いてゆくじゃないか」
「…………」
お通は素直に
「……すみません、つい、はしたないことをいいました。恩着せがましい今のことば、忘れてください」
「お通どの」
欄干の顔をさしのぞいて、
「実は、わしは今日まで、九百幾十日の間――そなたがここでわしを待っていた間――あの白鷺城の天守閣のうえに、
「伺っておりました」
「え、知っていた?」
「はい、沢庵さんから聞いていましたから」
「じゃあ、あの御坊、お通どのへは、何もかも話していたのか」
「三日月茶屋の下の竹谷で、私が気を失っていたところを、救ってくれたのも、沢庵さんでした。そこの土産物屋へ奉公口を見つけてくれたのも沢庵さんです。――そして、男と女のことだ。これから先は知らないヨ、と謎みたいなことをいって、昨日も店でお茶を飲んでゆきました」
「アア。そうか……」
武蔵は、西の道を振向いた。たった今、別れた人と、いつまた、会う日があるだろうか。
今になって、さらに、沢庵の大きな愛を感じ直した。自分へだけの好意と考えていたのは自分が小さいからだった。姉へだけでもない、お通へも、誰へも、その大きな手は平等に行き届いていたのである。
(――男と女のことだ。これから先は、知らないよ)
そう沢庵がいい残して去ったと聞くと、武蔵は、心に用意していなかった重いものを、ふいに、肩へ負わされた気がした。
九百日、
(――男と女のことは、男と女で考えるほかはない)
そういう暗示か、
(それくらいなことは、せめて自分で
と自分へ投げた試金石か。
武蔵は、思い沈んだ。――橋の下を行く水をじっと見つめたまま。
するとこんどは、お通からその顔をさしのぞいて、
「いいでしょう。……ネ、ネ」
と、すがる。
「いつでも、お店では、暇を下さる約束になっているんですから、すぐわけを話して、支度をして来ます。待っていて下さいましね」
「頼む!」
武蔵はお通の白い手を橋の欄干へ抑えつけた。
「――思い直してくれ」
「どういう風に」
「最前もいったとおり、わしは、闇の中に三年、書を読み、
「そう聞けば聞くほど、私の心はあなたにひきつけられます。私はこの世の中で、たった一人のほんとの
「何といおうが、連れてはゆかれぬ」
「では、私は、どこまでも、お慕い申します。ご修業の邪魔さえしなければよいのでしょう。……ね、そうでしょう」
「…………」
「きっと、邪魔にならないようにしますから」
「…………」
「ようございますか、黙って行ってしまうと、私は怒りますよ。ここで待っていてくださいね。……すぐ来ますから」
そう自問自答して、お通は、いそいそと、
武蔵は、その隙に、反対の方へ、眼をつぶって駈け去ってしまおうとしたのである。だが意志がわずかにうごいただけで、脚は釘で打ちつけられたように動かなかった。
「――嫌ですよ、行っては」
振向いて、お通が、念を押していう。その白い
今だ。――去るならば。
武蔵の心が、武蔵を打つ。
だが、彼の
いじらしい! あれまでに自分を慕ってくれるものが、姉以外にこの天地にあろうとは思えない。
しかも決して、嫌いではないお通である。
空を見――水を見――武蔵は悶々と橋の欄干を抱いていた。迷っていた。そのうちに、
浅黄の
だが――
武蔵はすでに其処にはいなかったのであった。
「あらっ」
彼女はおろおろ泣き声して叫んだ。
さっき武蔵が
ゆるしてたもれ
ゆるしてたもれ
ゆるしてたもれ