また、信長も
人間五十年、
そういう観念は、ものを考える階級にも、ものを考えない階級にもあった。――
(いつまたこの灯が消えることか?)
と、人々の頭の底には、永い戦乱に
慶長十年。
もう関ヶ原の役も五年前の思い出ばなしに過ぎない。
家康は将軍職を
だが、その戦後景気をほんとの泰平とは誰も信じないのである。江戸城に二代将軍がすわっても、大坂城にはまだ、
「いずれ、また、
「時の問題だ」
「戦から、戦までの間の灯だぞ、この街の明りだぞ、人間五十年どころか、あしたが闇」
「飲まねば損か、何をくよくよ」
「そうだ、唄って暮せ――」
ここにも、そういう考えのもとに、今の世間に生きている連中の一組があった。
室町家兵法所出仕
平安 吉岡拳法
と書いた平安 吉岡
ちょうど、街に灯がつくころになると、この門から、
それが、八、九人、
「若先生、若先生」
と、取巻いて、
「ゆうべの家は、ごめん
「いかんわい。あの
「きょうは、若先生の何者であるかも、俺たちの顔も、まったく知らない家へ行こうじゃないか」
そのことそのこと――とばかり
「
色街の近くまで来ると、若先生と呼ばれている背のたかい黒茶の衣服に三つおだまきの紋を着けている
「笠。――
「そうじゃ」
「笠など、おかぶりにならないでもよいではござりませぬか」
弟子の
「いや、吉岡
「あははは、笠なしでは、色ざとを歩かれぬと仰っしゃるわ。――そういう坊ンちのようなことをいうので、とかく若先生は女子にもてて困るのじゃ」
藤次は、
「おい編笠を求めてこい」
といいつけた。
酔っているものや、影絵のようなぞめきの人々と、灯を縫うてひとりは編笠茶屋へ走ってゆく。
その笠が来ると、
「こうかむれば、誰にも、わしとはわかるまいが」
清十郎は、顔をかくして、やや大びらに歩みだした。
藤次は、うしろから、
「これはまた
すると、他のものまで、
「あれ、
などと、
しかし、門下達のことばは、あながちそら世辞ではなかった。清十郎は背が高くて、帯びている大小は
で――軒から軒の浅黄
「そこへ行く、
「おすましの編笠さん」
「ちょっとお寄りなさいませ」
「笠のうち、一目、見せて」
と、籠の鳥が、
清十郎は、よけいにとり澄ました。弟子の
すると、一軒の茶屋から、
「あれ、四条の若先生、いけませんよ、顔をかくしても、わかっておりますよ」
と、
清十郎は、得意な気もちをかくし、わざと驚いたように、
「藤次、どうしてあの
と、その格子先で
「はてな?」
藤次は、格子のうちで笑っている白い顔と、清十郎を見くらべて、
「諸公、怪しからぬ事なござるぞよ」
「なんじゃ、何事ぞや」
連中は、わざと
藤次は
「
指さすと、
「あれ、それは嘘」
清十郎も、大げさに、
「何を申すか、わしは、この家など上がったことはない」
真面目になって、弁解するのを、藤次は、百も承知していながら、
「では、なぜ、笠で顔をかくしているあなたを、四条の若先生と、あの
「怪しいものでござりますぞ」
「いいえ、いいえ」
「もし、お弟子さん方、それくらいなことがわからないでは客商売はできませんよ」
「ほ。えらく、広言を吐くの――。ではどこで、それがわかったか」
「黒茶のお羽織は、四条の道場にかようお武家衆好み。この
「でも、吉岡染は、誰も着る、若先生だけとは限らぬ」
「けれど、ご紋が三つおだまき」
「あ、これはいかん」
清十郎が、自分の紋を見ているまに、格子の中の白い手は、その
「顔をかくして、紋かくさずだ。参った! 参った!」
藤次は清十郎へ、
「若先生、こうなっては、ぜひないこと、上がっておやりなさるほか、
「どうなとせい。それより、はやくわしのこの
当惑顔をすると、
「
「ほんとに」
妓は、清十郎の袂をはなした。
どやどやと、連中は、そこの
ここも、急ごしらえの
だが、清十郎と藤次をのぞいては、そういう神経などはまるで持てない人々だった。
「酒を持て、酒を」
と、威張る。
酒が来ると、
「
と、いうのがいる。
肴がくると、植田良平という藤次に肩をならべるこの道の豪の者が、
「はやく、
と、怒鳴ったので、
「あははは」
「わははは」
「妓を持てはよかった。植田
と、皆で真似た。
「それがしを、老とは怪しからぬ」
良平老は、若いものを、
「なるほど、それがしは、吉岡門では、古参に相違ないが、まだ
「斎藤
「何奴じゃ、場所がらをわきまえんで。――これへ出よ、罰杯をくれる」
「ゆくのは面倒、投げてくれい」
「参るぞ」
「返すぞ」
また飛ぶ。
「誰ぞ、踊れ」
と、藤次がいう。
清十郎もやや浮いて、
「植田、お若いところで」
「心得てそうろう、若いといわれては、舞わずにおれん」
と、縁のすみへ出て行ったと思うと、
「やよ、各

「よしよし、皆も唄え」
箸で皿をたたく、火ばしで火桶のふちをたたく。
柴垣、柴垣
しばがき、越えて
雪のふり袖
ちらと見た
振袖、雪の振袖
チラと見た
わっと、拍手にくずれて引ッ込む。すぐしばがき、越えて
雪のふり袖
ちらと見た
振袖、雪の振袖
チラと見た
きのう見し人
今日はなし
きょう見る人も
あすはなし
あすとも知らぬ我なれど
きょうは人こそ恋しけれ
片隅では、大きな今日はなし
きょう見る人も
あすはなし
あすとも知らぬ我なれど
きょうは人こそ恋しけれ
「飲めんのか、こればしの酒が」
「あやまる」
「武士たるものが」
「何を。じゃあ、俺が飲んだら、貴様も飲むか」
「見事によこせ」
牛のように飲むことをもって酒飲みの本領と心得ている
やがて、
「京八流のわが吉岡先生をのぞいて、天下に、剣のわかる人間が一匹でもいるか。いたらば、拙者が先に、お目にかかりたいもんだ。……ゲ、げーい」
すると、清十郎を挟んで、その隣に、同じく、これも食べ酔って、シャックリばかりしていた男が、笑いだした。
「若先生がいると思って、見えすいたおべッかをいう奴だ。天下に剣道は、京八流だけではないぞ。また、吉岡一門ばかりが、随一でもあるまい。たとえば、この京都だけにも、黒谷には、越前浄教寺村から出た富田
「それがどうした」
「だから、一人よがりは、通用せぬというのだ」
「こいつ! ……」
と、高慢の鼻を
「やい、前へ出ろ」
「こうか」
「貴様は、吉岡先生の門下でありながら、吉岡拳法流をくさすのか」
「くさしはせぬが、今は、室町御師範とか、兵法所出仕といえば、天下一に聞え、人もそう考えていた先師の時代とちがって、この道に志す
「いかん、兵法者のくせに、他を怖れる、卑屈な奴だ」
「おそれるのではないが、いい気になっていてはならんと、俺は
「誡める? ……貴さまに
どんと、
あっと一方は、杯や皿のうえに手をついて、
「やったな」
「やったとも」
先輩の
「こら野暮をするな」
双方を、もぎはなして、
「まアいい、まアいい」
「わかったよ、貴さまの気持はわかっておる」
と、仲裁して、また飲ませると、一方はなおさかんに怒号するし、一方は、植田老の首にからみついて、
「おれは、真実、吉岡一門のためを思うから、直言するんだ。あんな、おべッか野郎ばかりいては、先師拳法先生の名も
と、おいおい泣き出している。
それを怒って、
「
清十郎は、酔えなかった。
その様子に、藤次が、
「若先生、面白くないでしょう」
と、囁くと、
「これで、
「これが、面白いのでしょうな」
「あきれた酒だ」
「てまえが、お供をいたしますから、若先生には、どこか
すると清十郎は、救われたように、藤次の誘いに乗って、
「わしは、
「
「うむ」
「あそこは、ずんと茶屋の格がようございますからな。――初めから、若先生も、蓬の寮へお気が向いていることは分っていたのでござるが、何せい、この
「藤次、そっと、抜けてゆこう。あとは植田にまかせて」
「
「では、
清十郎は、連中を
白い
「お甲。掛けてやろうか」
うしろで、誰か、不意にいう。
「あら、若先生」
「待て」
と、側へ来たのは、その若先生の清十郎ではなくて、弟子の
「これでいいのか」
「どうもおそれ入ります」
よもぎの寮
と書いてある行燈をながめ、すこし曲っているナとまた掛け直してやる。家庭ではおそろしく不精でやかましやの男が、色街へ来ると、案外親切で小まめで、自分で窓の戸をあけたり、敷物を出したり、働きたがる男というものはよくあるものだ。
「やはりここは落着く」
清十郎は、坐るとすぐいった。
「ずんと、静かだ」
「開けましょうか」
藤次は、もう働く。
せまい縁に、
「はやく、女でも来ぬと、静かすぎますな。……他に今夜は客もないらしいのに、お甲のやつ、何をしているのか、まだ、茶も来ない」
しないでもよい気働きがやたらに出て来て、坐っていられない
「あら」
出会いがしらに、
「よう、
「お茶がこぼれますよ」
「茶などどうだっていい。おまえの好きな清十郎様が来ていらっしゃるのだ。なぜ早く来ないか」
「あら、こぼしてしまった。
「お甲は」
「お
「なんだ、これからか」
「でも今日は、昼間がとても忙しかったのですもの」
「昼間。――昼間、誰が来たのか」
「誰だっていいじゃありませんか、
朱実は、部屋へ入って、
「おいで遊ばせ」
気のつかない顔をして横をながめていた清十郎は、
「あ……おまえか、ゆうべは」
と、てれる。
千鳥棚のうえから、
「あの、先生は、
「莨は、近ごろ、御禁制じゃないか」
「でも、皆さんが隠れておすいになりますもの」
「じゃあ、吸ってみようか」
「おつけしましょうね」
青貝もようの綺麗な小箱から
「どうぞ」
と清十郎へ吸口を向けた。
馴れない手つきで、
「
「ホホホ」
「藤次は、どこへ行った?」
「また、お母さんの部屋でしょう」
「あれは、お甲が好きらしいな。どうも、そうらしい。藤次め、時々わしを
「――な、そうだろう」
「いやなお人。――ホ、ホ、ホ」
「何がおかしい。そなたの母も、うすうす藤次に思いを寄せているのだろうが」
「知りません、そんなこと」
「そうだぞ、きっと。……ちょうどよいではないか、恋の一
そしらぬ顔をしながら、朱実の手の上へ手をかさねると、
「いや」
と、朱実は潔癖な
振りのけられた手は、かえって清十郎を強くさせた。起ちかけた朱実の小がらな体を抱きすくめ、
「どこへ行くか」
「いや、いや。……離して」
「まあ、居やれ」
「お酒を。……お酒を取って来るんですから」
「酒などは」
「お母あさんに叱られます」
「お甲は、あちらで、藤次と仲よく話しおるわ」
「――誰か来てえっ。お母あさん! お母あさん!」
と、ほん気で叫んだ。
離した途端に、朱実は、袂の鈴を鳴らして、小鳥みたいに奥へかくれた。彼女の泣きこんだ辺りで、大きな笑い声がすぐ聞えた。
「ちッ……」
自分の置き場を失ったように、清十郎は、さびしい、苦い、何ともいえない
「帰る!」
独りでつぶやいて、廊下へ出た、歩きだすと、その顔は、ぷんぷん怒っていた。
「おや、清さま」
見つけて、あわてて抱きとめたのはお甲であった。髪も
「まあ、まあ」
やっと元の座敷に坐らせたのである。すぐ酒を運ぶ、お甲が機嫌をとる、藤次が、朱実を引っぱッて来る。
朱実は、清十郎の沈んでいるのを見ると、くすりと、
「清さまへお酌をなさい」
「はい」
と、銚子をつきつける。
「これですもの、清さま、どうしてこの
「そこがいいのさ、初桜は」
藤次も、わきから座を持った。
「だって、もう二十一にもなっているのに」
「二十一か、二十一とは見えんな、ばかに小粒だ――やっと十六か、七」
朱実は、小魚みたいに、ぴちぴちした表情を見せて、
「ほんと? 藤次さん。――うれしい! 私、いつまでも、十六でいたい、十六の時に、いいことがあったから」
「どんなこと」
「誰にもいえないこと。……十六の時に」
と、胸を抱いて、
「わたし、何処の国にいたか、知っている? 関ヶ原の
お甲は、不意にいやな顔して、
「ぺちゃぺちゃ、くだらないお
つんと答えずに、朱実は
よしや、こよいは
曇らばくもれ
とても涙で
見る月を
「藤次さん、わかる?」曇らばくもれ
とても涙で
見る月を
「ウム、もう一曲」
「ひと晩じゅうでも、
しんの闇にも
まよわぬ我を
アアさて、そ様 の
迷わする
「なるほど、これでは確かに、二十一にちがいない」まよわぬ我を
アアさて、そ
迷わする
それまで、
「朱実、
杯を向けると、
「ええ、頂戴」
悪びれもせず、うけて、
「はい」
と、すぐ返す。
「つよいの、そちは」
清十郎もまた、すぐあけて、
「も
「ありがと」
朱実は、下へ置かないのである。杯が小さいと見えて、ほかの大きな
体つきでは、十六、七の小娘としか見えないし、まだ男の唇によごされていない唇と、鹿みたいに
「だめですよ、この
お甲がいうと、
「おもしろい」
清十郎は、躍起に
すこし雲ゆきがおかしいぞと懸念して、藤次が、
「どうなすったので。――若先生今夜は、ちと
「かまわぬ」
「藤次、わしは今夜は、帰れぬかも知れぬぞ」
と、断って飲みつづける。
「ええ、お泊りなさいませ幾日でも。――ネ、朱実」
と、お甲は、調子づける。
藤次は眼くばせをして、お甲をそっと
「さ? ……」
と、お甲は暗い中で、厚化粧の頬へ、指をついて考え込む。
「何とかせい」
藤次は、膝をつめ寄せ、
「わるくない話じゃないか、兵法家だが、今の吉岡家には、金はうんとある。先代の拳法先生が、何といっても、永年、室町将軍の御師範だった関係で、弟子の数も、まず天下第一だろう。しかも清十郎様はまだ無妻だし、どう転んだって、行く末わるい話ではないぞ」
「私は、いいと思いますが」
「おまえさえよければ、それで文句のありようはない。じゃあ今夜は、二人で泊るがいいか」
「あ。ほかにも、客がいたのか」
お甲は、黙ってうなずいた。そして藤次の耳へ、
「後で……」
ばかな目を見た顔つきで、藤次はおそく起き出した。清十郎はもう先に起きて川沿いの部屋でまた飲んでいる。――取り巻いているお甲も朱実も今朝は、けろりと冴えていて、
「じゃあ、連れて行ってくださる? きっと」
と、何か約束している。
四条の河原に、
「うむ、参ろう。酒や
「じゃあ、お風呂もわかさなければ」
「うれしい」
朱実とお甲と、今朝は、この
それを真似て、女歌舞伎というものの、模倣者が、四条の河原に、何軒も

佐渡島右近、村山左近、北野小太夫、幾島丹後守、杉山
「まだか、支度は」
もう陽は
清十郎は、お甲と朱実が、その女歌舞伎を見にゆくために、念入りなお
藤次も、ゆうべのことが、いつまでも頭にこびりついていて、彼独特な調子も出ないのである。
「女を連れてまいるもよいが、出際になって、髪がどうの、帯がなんの、あれが、実に男にとっては、
「やめたくなった……」
川を見る。
三条小橋の下で、女が布を
「藤次、帰ろうか」
「今になって、左様なことを仰っしゃっては」
「でも……」
「お甲と朱実をあんなに
藤次は出て行った。
鏡や衣裳の散らかっている部屋をのぞいて、
「あれ? 何処じゃろ」
次の部屋――そこにもいない。
いきなり藤次はその顔へ、
「誰だッ」と、怒鳴られて面食らった。
思わずひと足
「ア……。これは粗相、お客でござったか」
藤次がいうと、
「客ではないッ」と天井へ向って、その男は、寝たまま怒鳴る。
ぷーんと、酒のにおいが、その体からうごいてくる。誰か知らぬが、
「いや、失礼」
立ち去ろうとすると、
「やいっ」
むッくり起きて呼び返した。
「――後を閉めてゆけ」
「ほ」
気をのまれて、藤次が、いわれた通りにしてゆくと、風呂場の次の小間で、朱実の髪をなでつけていたお甲がどこの
「あなた、何を怒ってるんですよ」
と、これまた、子どもでも叱りつけるような口調でいう。
朱実が、うしろから、
「又八さんも行かない?」
「どこへ」
「
「べッ」
本位田又八は、
「どこに、女房のしりに
「何ですって」
お甲は眼にかどを立てた。
「私と藤次様と、どこが、おかしいんですか」
「おかしいと、誰がいった」
「今、いったじゃありませんか」
「…………」
「男のくせに――」
と、お甲は、灰をかぶせたように黙ってしまった男の顔をにらんで、
「
そして、ぷいと、
「朱実、気ちがいに
又八は、その
「気ちがいとは、何だっ。――
「なにさ」
お甲は振り
「亭主なら、亭主らしくしてごらん。誰に食わせてもらっていると思うのさ」
「な……なに……」
「
「だ……だから俺は、石かつぎしても、働くといっているんだ。それをてめえが、やれ、まずい物は食えないの、貧乏長屋はいやだのと、自分の好きで、俺にも働かせず、こんな泥水稼業をしているんじゃねえか。――やめてしまえッ」
「何を」
「こんな商売」
「やめたら、あしたから食べるのをどうするのさ」
「お城の石かつぎしても、俺が食わしてみせる。なんだ、二人や三人の暮しぐらい」
「それ程、石かつぎや、材木曳きがしたいなら、自分だけここを出て、独り暮しで
くやし涙を
ぼろぼろと湯のわくように涙が畳へ落ちる。今にして悔やむことはすでに遅いが、関ヶ原くずれの身を、あの伊吹山の一軒家に
「畜生……」
又八は身をふるわした。
「畜生め」
涙が
なぜ! なぜ! おれはあの時宮本村の
あのお通の純な胸へ。
宮本村には、おふくろもいる。分家の
お通のいる七宝寺の鐘はきょうも鳴っているだろう。
「馬鹿。馬鹿」
又八は、自分の頭を、自分の
「この馬鹿ッ」
ぞろぞろと連れ立って、今、家を出かけるところらしい。
お甲、朱実、清十郎、藤次。――ゆうべから
はしゃぎ合って、
「ほう、
「すぐ、三月ですもの」
「三月には、江戸の徳川将軍家が、御上洛という噂。おまえ達はまた稼げるな」
「だめ、だめ」
「関東
「荒っぽくて」
「……お母さん、あれ、
「ま――。この
「だって」
「それより、清十郎様のお笠を持っておあげ」
「はははは、若先生、おそろいでよう似合いますぞ」
「嫌っ。……藤次さんは」
朱実が後ろを振り向くと、お甲は
――その
窓
「…………」
又八の怖い眼が、その窓から見送っていた。青い泥を顔へ塗ったように、押しつつんでいる嫉妬である。
「何だッ」
暗い部屋へ、ふたたび、どかっと坐って、
「――何のざまだっ、意気地なしめ、このざまは、このベソは」
それは自分を
「――出ろと、あの女めがいうのだ。堂々と、出て行けばいい。何をこんな家に、こんな歯ぎしり噛んでまでいなければならない
がらんと急に静かになった留守の家で、又八は独りで声を出していった。
「その通りだ、それを」
いても起ってもおれなくなる。なぜだ! 自分にもわからない。
この一、二年の生活で、頭が悪くなったことを又八は自分でも認めている。たまッたものではない、自分の女が、よその男の席へ出てかつて自分へしたような
あんな
彼は
だが……さてだ。
ふしぎな夜の魅惑がそれを引きとめる。どうした
――それもある。また。
いざとなると、此処を出ても、お甲や朱実の目にふれるところで
だが! だが! 今日こそは。
「畜生、後であわてるな」
憤然と、自分を打って、彼は起った。
「出てゆくぞ、おれは」
いってみたところで、家は留守である、誰も
こればかりは
「俺だって、男だ」
表の
出たが――
「さて?」
足がつかえたように、白々と吹く春先の
――何処へ行くか?
世間というものが途端に
「そうだ」
又八は、また、犬のように台所口をくぐって家の中へ戻った。
「――金を持って行かなければ」
と、気がついたのである。
お甲の部屋へ入った。
「妖婦め」
しんしんと脳の
今さらではあるが、痛烈に、思われる人は、
彼は、お通を忘れ得なかった。いや日の経つほど、あの土くさい田舎に自分を待つといってくれた人の清純な尊さがわかって来て、
だが、お通とも、今は縁も切れたし、こッちから顔を持ってゆけた義理でもない。
「それも、
今、眼が醒めても遅いが、あの女に、お通という女性が
「――ああ、どう思ってるだろうなあ? お通は……お通は」
狂わしく又八は呟いた。
「今頃は? ……」
悔いの
又八は、ここから叫びたくなった。そこにいるお
「二度と、もうあの土は踏めないのだ。――それもみんな、こいつのためだ」
お甲の衣裳つづらを
と、――さっきから表の
「ごめん。――四条の吉岡家の使いでござるが、若先生と、藤次殿が参っておりませぬか」
「知らぬっ」
「いや、参っているはずでござる。隠れ遊びの先へ、心ない
「やかましい」
「いや、お取次でもよろしい。……
「な、なにッ、宮本?」
吉岡家にとって、きょうはなんという
この
門前で、
「お帰りか」
「若先生か」
人々は、暗い無言をやぶって、立ちかけた。
道場の入口で、
「ちがう」
と、首を重く振る。
そのたびごとに、門人たちは、沼のような
「どうしたのだ? いったい」
「きょうに限って」
「まだ若先生の居所はわからんのか」
「いや、手分けして方々へ捜しに走らせているから、もう追ッつけ、お帰りになるだろう」
「ちいッ」
――その前を、奥の部屋から出て来た医者が、黙々と門人たちに見送られて玄関へ出て行った。医者が帰ると、その人たちはまた無言で一室へ
「
と、腹だたしげに呶鳴る者がある。自分たちの汚辱に対して、自分たちの無力を怒る声だった。
道場の正面にある「八幡大菩薩」の神だなに、ぽっと、
――そもそもが、ここ数十年来、吉岡一門というものは、余りに順調でありすぎたのではあるまいか。古い門人のうちでは、そうした反省もしていた。
先代――この四条道場の開祖――吉岡拳法という人物は、今の清十郎やその弟の伝七郎とはちがって、たしかに、これは
(お偉かったな、やはり)
今の門下も、何かにつけ、追慕するのは、亡き拳法の人間とその徳望であった。二代目の清十郎その弟の伝七郎、共に父に劣らない修業はさずけられていたが、同時に、拳法の遺して行った
(あれが
と、或る者はいった。
今の弟子も、清十郎の徳についているのではない、拳法の徳望と吉岡流の名声についているのである。吉岡で修業したといえば、社会で通りがよいから
足利将軍家が亡んだので、
――が、時代はこの大きな白壁の塀の外において、塀の内の人間が、誇ったり、慢じ合ったり、享楽したりしている数年の間に、思い半ばに過ぎるような推移をとげていた。
それが、きょうの暗澹たる汚辱にぶつかり慢心の眼がさめる日となってきたのだ。――宮本
――作州
と、今日玄関へ来て訪れた田舎者があるという取次の言葉であった。居合わせた連中が興がって、どんな男かと
それもいい。お台所で一食のおめぐみにとでもいうことか、この広大な門戸を見て、人もあろうに当流の吉岡清十郎先生に試合をねがいたいという希望だと聞いたから、門人たちは吹きだしてしまった。追ッ払え、という者もあったが、待て待て何流で誰を師にして学んだか訊いてやれという者もあって、取次が面白半分に往復すると、その返辞がまた
――幼少の時、父について十手術を習いました。それ以後は、村へ来る兵法者について、誰彼となく道を問い、十七歳にして、郷里を出、十八、十九、二十の三ヵ年は故あって学問にのみ心をゆだね、去年一年はただ独り山に籠って、樹木や
と、いかにも世間
天下一の四条道場へ、のそのそやって来るのさえ、既によほど戸惑った奴でなければならんのに、拳法先生のごとく一流を
(死骸の儀なれば、万一の場合は鳥辺山へお捨て下さろうとも、加茂川へ
と、これはぬうとしているに似げないさッぱりした返辞だという。
(上げろ)
と一人が口を切ったのが始まりであった。道場へ通して、片輪ぐらいにして

次々に立ち上がった者が、ほとんど同様な重傷を負うか惨敗を
(――無益であるからこの上は清十郎先生に)
と当然な乞いのもとに、武蔵はもう立たないのであった。やむなく、彼には一室を宛てがって待たせておき、清十郎の行く先へは使いを走らせ、一方では医者を迎えて、重体の
その医者が帰ると間もなく、
「……だめか」
死者の枕元をかこんだ同門の者たちの顔は、一様に蒼くにごって、重くるしい息をのんだ。
そこへ、あわただしい跫音が、玄関から道場へ通り、道場から奥へ入って来た。
二人とも、水から上がって来たような
「どうしたのだ! この
藤次は吉岡家の用人格でもあり、また道場では古参の先輩でもあった。従ってその言葉つきは場合にかまわず、いつも
死人の枕元で、涙ぐんでいた多感らしい門人が、途端に
「何をしていたとはあなたがたのことだ。若先生を
「何だと」
「拳法先生のご在世中には、一日たりとも、こんな日はなかったんだぞ!」
「たまたまのお気ばらしに、歌舞伎へお出でになったくらいのことが、なんで悪いか。若先生をここにおいて、なんだその口は。出過ぎ者め」
「女歌舞伎は、前の晩から泊らなければ行けないのか。拳法先生のお
「こいつ、いわしておけば」
その二人をなだめて別室へ分けるために、そこはしばらくがやがやしていた。――すると、直ぐ
「……や……やかましいぞっ……人の苦痛も知らずに……ウーム……ウーム」
「そんな内輪喧嘩より、若先生が帰って来たなら、早く、今日の無念ばらしをしてくれっ。……あの……奥に待たせてある牢人めを、生かして、ここの門から出しては駄目だぞっ。……いいかっ、たのむぞ」
蒲団のうちから、畳をたたいて
死に至るほどではなかったが、武蔵の木剣の前に立って、脚や手を打ち砕かれた怪我人組の、それは興奮であった。
(そうだ!)
誰もが、叱咤された気がした。今の世の中で農、工、商のほかに立つ人間が、最も日常に重んじあっているものは「恥」ということだった。恥と道づれなれば、いつでも死のうとこの階級は競う気持すらあった。時の司権者は、
吉岡一門の者にしても、まだその恥を知ることにおいては、決して、末期の人間のような厚顔は持たなかった。一時の狼狽と、敗色から
(師の恥)
とばかり、小我を捨てると、一同は道場に集まった。
清十郎を取り巻いてである。
だが、その清十郎の
「――その牢人者は」
清十郎は、
「お帰りを待とうという
と、一人が庭に向っている書院脇の小部屋を指した。
「――呼んで来い」
清十郎の乾いた唇から出た言葉である。
挨拶をうけてやろうというのだった。道場から一段高い師範の座に腰をかけ、木剣を杖に立って、清十郎はいった。
「は」
三、四人が答えて、すぐ道場の横から草履を
「待て待て、
それからの
――が、相談はすぐ決まったらしい。吉岡家を思い、清十郎の実力をよく知る大勢の者の考えとして、奥に待っている無名の牢人を呼び出して、ここで無条件に清十郎へ立ち
清十郎の弟、伝七郎がいるならば、そういう心配はまずないものと人々は思う。ところが生憎とその伝七郎までが、きょうは早朝からいないのだ、先代拳法の天分は、兄よりはこの弟のほうに多分によい質があると人々は見ているのだが、責任のない次男坊の立場にあるので、至って
「ちょっと、お耳を」
藤次はやがて、清十郎のそばへ行って、何か囁いていた。――清十郎の
「――
「…………」
「……そんな卑怯なことをしては、清十郎の名が立たぬ。たかの知れた田舎武芸者に、怖れをなして、多勢で打ったと世間にいわれては」
「ま……」
藤次は、
「吾々にまかせて下さい。吾々の手に」
「そち達は、この清十郎が、奥にいる武蔵とやらいう人間に、敗けるものと思うているのか」
「そういう
そんなことをいっている間に、道場に
「あ。……もう
藤次は、そこの灯を、ふっと吹き消してしまった。――そして
清十郎は腰かけたままながめていた。ほっとした気持がどこかでしないでもない。しかし、決して愉快ではなかった、自分の力が軽視された結果にほかならないのだ。父の死後、怠って来た修業のあとを
――あれほどな門下や家人が、どこへ
――じっとしていられないものが、清十郎の腰を起たせた。窓からのぞいてみると、灯の色が
障子のうちの
縁の下、廊下、隣の書院など、その
息をころし、
「…………」
じっと、
(はてな?)
藤次は、ためらった。
他の門人たちも、疑った。
――宮本武蔵とやら、名まえこそ都で聞いたこともない人間だが、とにかくあれほどつかう腕の持主である。それが、しいんとしているのはどういうものだろう、多少なり兵法に心をおく人間ならば、いくら上手に忍び寄ろうが、これだけの敵が室外に迫って来るのを気づかずにいるはずはない。今の世を兵法者で渡ろうという者が、そんな心がまえであったら、月に一ツずつ生命があっても足らないことになる。
――(寝ているな)
一応は、そう考えられた。
かなり長い時間であったから、待ちしびれを切らして、居眠っているのではあるまいかと。
だが、思いのほか相手が
(そうらしい……いや、そうだ)
どの体も
「宮本
ふすま隣から、藤次が気転でこう声をかけた。
「――お待たせいたした。ちょっと、お顔を拝借ねがいたいが」
相変らずしいんとしたものである。いよいよ敵には用意がある。藤次はそう考えて、
(抜かるな!)
と、眼合図を左右の者に投げておいて、どんと、
途端に、中へ躍りこむはずの人影が、無意識にみな身を退いた。――襖の一枚は脚を外して
「やっ?」
「いないぞっ」
「いないじゃないか」
急に強がった声が揺れている
「逃がした」
一人が縁へ出て庭へ伝える。
庭の暗がりや床下から、むらむら寄って来た人影が皆、地だんだを踏み、見張人の不注意を
見張をいいつかっていた門人たちは、口を揃えて、そんなはずはないという。いちど
「風ではあるまいし……」
その抗弁を嘲殺していると、
「あっ、ここだ」
戸棚へ首を突っこんだ者が、剥がれている
「
「追え、追打ちに」
敵の弱身を
すると直ぐ――いたッと叫ぶ声がながれた。表門の
まるで脱兎の逃げ足だった。突当りの
大勢のみだれた跫音が、あッちだこッちだと、その後から追い捲くって行く、前へもまわってゆく。
「卑怯者」
「恥知らずが」
「よくも、よくも、最前は」
「さあ、もどれ」
捕まえたのだ。ひどい乱打と
「あっ」
「こいつがッ」
すでに血になろうとするその
「待った、待った!」
「人違いだ」
誰からともなく叫び出した。
「やっ、なるほど」
「武蔵じゃない」
「捕まえたか」
「捕まえることは捕まえたが……」
「オヤ、その男は」
「ご存知か」
「よもぎの寮という茶屋の奥で――。しかも今日、会ったばかり」
「ほ? ……」
いぶかしげに見る大勢の眼が、
「茶屋の亭主?」
「いや亭主ではないと、あそこの内儀がいった、
「うさんな奴だ。何だって、御門前にたたずんで、覗き込んでなどおったのか」
藤次は、急に足を移して、
「そんな者にかまっていては、相手の武蔵を逸してしまう。早く手分けをして、せめて、彼の泊っている宿先でも」
「そうだ、宿を突きとめろ」
又八は本能寺の
「あ、もしっ、しばらく」
と、呼びとめた。
最後の一人が、
「なんだ」
足を止めると、又八のほうからも足を運んで、
「きょう道場へ来た武蔵とかいう者は、
「年などはしらん」
「てまえと、同年くらいじゃございませんか」
「ま、そんなものだ」
「作州の宮本村と申しましたか、生国は」
「左様」
「
「そんなことを訊いてどうするのだ。そちの知人か」
「いえ、べつに」
「用もない所をうろついていると、また、今のような災難にあうぞ」
いい捨てると、その一人も闇へ駈け去った。又八は、暗い溝に沿って、とぼとぼ歩きだした。時々、星を仰いでは立ちどまっている。何処へという
「……やっぱり、そうだった。武蔵と名をかえて、武者修行に出ているとみえる。……今会ったら、変っているだろうな」
両手を、前帯へ突っこんで、草履の先で石を蹴る。その石の一つ一つに、彼は友達の顔を、眼にえがいた。
「……間がわるいな、どう考えても、今会うのは面目ない。おれにだって、意地はある。あいつに
石ころの多い坂道に沿い、行儀の悪い歯ならびのように、
くさい塩魚を焼くにおいがどこかでする。
「
「この、ばかおやじ、何処へ行くっ」
飛び出して来て、おやじの
火のつくように子は泣いている。犬はきゃんきゃんいう、近所からの仲裁が駈けて出る。
――
笠の
「…………」
ふり向いた眼はまたすぐ細工場のうちへ戻っている。武蔵は、見とれていた。しかし、そこで仕事をしている二人の陶器師は、顔も上げなかった。
路傍にたたずんで見ているうちに、武蔵は、自分もその
だが、その一人のほうの六十ぢかい
(これは、たいへんな
このごろの武蔵の心には、ままこういう感動を
(自分には、似た物もできない)
はっきりと今も思う。見れば、細工場の片隅には、戸板をおいてそれへ皿、
――実は、ここ二十日あまり、吉岡拳法の門を始め、著名な道場を歩いてみた結果、案外な感じを抱き、同時に自分の実力が、自分で
府城の地、将軍の旧府、あらゆる名将と強卒のあつまるところ、さだめし京都にこそは、兵法の達人上手がいるだろうと思って訪れて行って、その
武蔵は、勝っては、その度に、淋しい気もちを抱いて、そこらの兵法家の門を出た。
(俺が強いのか、先が弱いのか)
彼にはまだ、判然としない。もし今日まで歩いて来たような兵法家が、今の代表的な人々だとしたら、彼は、実社会というものを疑いたいと思った。
しかし――
うっかり、それで思い上がることは出来ないぞということを、彼は今、見せられていた。わずか二十文か百文の雑器を作る
「…………」
武蔵は、だまって、心のうちだけで、
「御牢人。――御牢人」
三年坂を、武蔵が登りかけた時である。誰か呼ぶので、
「わしか」
振り向いてみると、竹杖一本手に持って、
「旦那は、宮本様で」
「うむ」
「武蔵とおっしゃるんで」
「む」
「ありがとう」
尻を向けると、男は茶わん坂の方へ、降りて行った。
見ていると、茶店らしい軒へ入った。その辺には、今のように駕かきが、陽なたに沢山群れていたのを、武蔵も今しがた見て通って来たのであるが、自分の姓名を
――次には、その本人が出て来るであろうと、しばらく
彼は、坂を登りきった。
千手堂とか、悲願院とか、その辺りの棟を一巡して、武蔵は、
(
と祈り、
(鈍愚武蔵に、苦難を与えたまえ、われに、死を与えたもうか、われに天下一の剣を与えたまえ)
と、祈った。
神、仏を礼拝した後は、何かすがすがと洗ったような心になることを、彼は
崖のふちに、笠を捨てる。笠のそばへ腰を投げた。
京洛中は、ここから
(偉大な生命になりたい)
単純な野望が、武蔵の若い胸を
(人間と生れたからには――)
うららかな春のそこここを歩いている参詣人や
(信長は――)
と考える。
(秀吉だって)
と、思う。
だが、戦乱は、もう過去の人の夢だった。時代は久しく
だが。
慶長何年というこの時代は、これからという生命を持って、おれは在るのだ。信長を志してはおそいだろうし、秀吉のような生き方を目がけてはむりであろうが。――夢を持てだ、夢を持つことには、誰の
だが――と、武蔵はもういッぺんその夢を頭の外へおいて、考え直してみる。
剣。
自分の道は、それにある。
信長、秀吉、家康もいい。社会はこの人々が生きて通った
こう見ると、東山から望むところの京都は、関ヶ原以前のように、決して風雲は急でないのであった。
(ちがっている。――世の中はもう、信長や秀吉を求めた時勢とはちがっているのだ)
武蔵は、それから、
剣とこの社会と。
剣と人生と。
何でも、自分の志す兵法に自分の若い夢を結びつけて、
すると、
「や。あそこにいやがる」
と、竹杖で、武蔵の顔を指した。
武蔵は、崖の下をにらみつけた。
駕かきの群れは、下で――
「おや、
「歩きだしたぞ」
と、騒ぐ。
ぞろぞろ崖を這って
武蔵は足をとめた。
「…………」
彼が、振向くと、駕かきの群れも足をとめ、そして、白い歯を
「あれ見や、
と笑う。
本願堂の階前に立って武蔵は、そこの古びた
不愉快だ、よほど、大声で一つ呶鳴ってやろうかとは思うが、駕かきを相手にしてもつまらないし、何か間違いならそのうちに散ってしまうであろうと
「あ。――お
「ご隠居様がお見えだ」
と、駕かきたちが、ささやき合って
ふと見ると!
もうその頃は、この清水寺の西門のふところは、人でいっぱいだった。参詣人や、僧や、物売りまで何事かと眼をそばだてて武蔵を遠く取り巻いている駕かきの
ところへ――
「わッしゃ」
「おっさ」
「わっしゃ」
「おッさ」
三年坂の坂下と
「もうええ、もうええ」
老婆は、駕かきの背で、元気のよい手を振った。
駕かきが、膝を折って地へしゃがむと、
「大儀」
と、いいながら、ぴょいと背中を離れて、うしろの老武士へ、
「
と、意気込みをふくんでいう。
お杉ばばと
「何処にじゃ」
「相手は」
と、刀の
駕かき達は、
「ご隠居、相手はこちらでござります」
「お急ぎなさいますなよ」
「なかなか、敵は、しぶとい
「十分、お支度なすッて」
と、寄り
見ている人々は驚いた。
「あのお婆さんが、あの若い男へ、果し合いをしようというんでしょうか」
「そうらしいが……」
「助太刀も、よぼよぼしている。何か
「あるんでしょうよ」
「あれ、何か、連れの者へ怒ッていますぜ。きかない気の
お杉ばばは今、駕かきの一人が、何処からか駈け足で持ってきた
「――何を、あわてていなさるぞ。相手は、
――それから。
自分が先に立って、本願堂の階段の前にすすみ、ぺたりと坐りこんだと思うと、
お杉ばばの信仰をまねて、権叔父も
悲壮を過ぎて、
「誰だい、笑うやつは」
駕かきの一人が、それへ向って、怒るように呶鳴った。
「――何がおかしいんだ、笑いごッちゃねえぞ、このご隠居様は、遠い作州から出て来なすって、自分の息子の嫁を
こう一人が説明すると、また一人が、
「さすがに侍の筋というものは、違ったもんじゃねえか、あの年でよ、
――すぐほかの者がまた、
「俺たちだって、何もご隠居から毎日、
「そうだとも」
「
駕かき達の説明を聞くと、群衆も、熱をおびて、
「やれ、やれ」
と、けしかける者もあるし、
「――だが、婆さんの息子はどうしたんだ」
と、訊ねる者もある。
「息子か」
それは駕かきの仲間は誰も知らないらしく、多分死んでしまったのだろうという者もいるし、いやその息子の生死も

――その時、お杉ばばは、
「――
ばばは、腰の小脇差へ左の手を当てて、こう呼びかけた。
権叔父も、隠居のわきから、足構えして、首を前へ伸ばし、
「やいっ」
と、呼ぶ。
「…………」
武蔵は、答える言葉も知らないもののようだった。
姫路の城下で、
そのほか、その以前から、本位田一家の者に、恨みとして含まれていることも、自分にとってはそのまま受けとりにくいものである。
――要するに、せまい郷土のうちの面目や感情にすぎないのだ。本位田又八がここにいさえすれば明らかに解けることではないかと思う。
しかし武蔵は今は当惑していた。――この目前の事態をどうするかである。このよぼよぼな婆と老い朽ちた古武者の挑戦に、彼は、殆ど当惑する。――じっと守っている無言は、唯、迷惑きわまる顔でしかなかった。
駕かきどもは、それを見て、
「ざまをみろ」
「
「男らしく、ご隠居に、討たれちまえ」
と、口ぎたなく、応援する。
お杉ばばは、
「うるさいッ、お
と、小脇差の
「
「
と、
「――名さえ変えたら、この婆にも、捜し当てられまいと思うてかよ!
権叔父も、次に、
「
ぎらりと、太刀を抜いて、
「婆、あぶないぞや。うしろへ避けておれ」
と、
「なにをいう!」
ばばは、却って権叔父を叱咤し、
「おぬしこそ、中風を病んだ揚句じゃによって、足もとを気をつけなされ」
「なんの、われらには、清水寺の諸
「そうじゃ権叔父、本位田家のご先祖さまも、うしろに助太刀していなさろう。
「――
「いざッ」
二人は遠方から切っ先をそろえてこう挑んだ。しかし、当の武蔵は、それに応じて来ないのみか、
「
ちょこちょこと、横のほうへ駈け廻って斬り入ろうとしたのである。ところが、石にでも
「あっ、
「早く、助けてやれっ」
叫んだが、権叔父すら度を失って、武蔵の顔を
――だが気丈な婆だ。抛り出した刀を拾って持つと、自分で起き上がり、権叔父のそばへ跳んで返って、すぐ構えを武蔵に向け直した。
「阿呆よッ、その刀は、飾りものか、斬る腕はないのか!」
「ないっ」
と、大きな声でいい放った。
そして、彼が歩き出して来たので、権叔父と、お杉ばばは、両方へ跳びわかれ、
「ど、どこへ行きやる、武蔵ッ――」
「ないっ」
「待ていっ、
「ない」
武蔵は、三度も同じ答えを投げた。横も向かないのである。真っ直に、群衆の中を割って歩み続けた。
「それ、逃げる」
隠居が、あわてると、
「逃がすな」
駕かき達は、どっと、駈け
「……あれ?」
「おや?」
囲いは作ったが、もうその中に、武蔵はいなかった。
――後で。
三年坂や茶わん坂を、ちりぢりに帰る群衆のうちで、あの時、武蔵のすがたは、西門の袖塀の六尺もある
どすっ、どすっ……と
き、ち、ん。
と笠へ仮名で書いたのが軒端にぶら下げてある、そこの土間先につかまって、
「爺さん!
元気のいい、
やっと、年は十か十一。
雨に光っている髪の毛は、
「
奥で
「あ、おらだ」
「きょうはの、まだ、お客様が
「でも、
「お客様が
「……爺さん、そこで、何しているんだい」
「あした鞍馬へのぼる荷駄へ、手紙を頼もうと思って、書き始めたが、一字一字、文字が思い出せねえで肩を
「ちぇッ、腰が曲りかけているくせに、まだ字を覚えねえのか」
「このチビが、また
「おらが、書いてやるよ」
「ばか
「ほんとだッてば! アハハハハそんな
「やかましいッ」
「やかましくッても、見ちゃいられねえもの。爺さん、鞍馬の
「芋を届けるのだ」
「じゃ、強情を張らないで、芋と書いたらいいじゃないか」
「知っているくらいなら、初めからそう書くわ」
「あれ……だめだぜ、爺さん……この手紙は、爺さんのほかには誰にも読めないぜ」
「じゃあ、
筆を突きつけると、
「書くから、文句をおいい、お文句をさ……」
上がり
「馬鹿よ」
「なんだい、無筆のくせに、人を馬鹿とは」
「紙へ、
「ア、そうか。これは駄賃――」
その一枚を揉んで、
「さ。どう書くんだい」
筆の持ち方はたしかであった。木賃のおやじがいう言葉を、その通りさらさらと書いてゆく。
……ちょうどその折であった。
今朝、雨具を持たずに出た
「――ああ。梅もこれでおしまいだな」
毎朝目を
武蔵であった。
もうこの木賃へは二十日の上も泊っているので、彼は、わが家へ帰って来たような安堵を覚える。
土間へ入って、ふと見ると、いつも、御用を聞きに来る居酒屋の少年が、おやじと首を寄せ合っている。武蔵は、何をしているのかと、黙って、その
「あれ。……人が悪いなあ」
城太郎は、武蔵の顔へ気がつくと、あわてて筆と紙とを、背中へ廻してしまった。
「見せい」
武蔵が、からかうと、
「いやだい!」
城太郎は、顔を振って、
「アカといえば」
と、あべこべに
「ははは、その手は喰わん」
すると、城太郎は、言下に、
「手を喰わんなら、足喰うか」
と、いった。
「足喰えば、
城太郎は響きに答えるように、
「章魚で酒のめ。――
「なにを」
「お酒を」
「ははは、こいつは、うまく引っかかったの。また、小僧に酒を売りつけられたぞ」
「五合」
「そんなにいらん」
「三合」
「そんなに飲めん」
「じゃあ……いくらさ、ケチだなあ、宮本さんは」
「貴様に会ってはかなわんな、実をいえば
「じゃあ、おらが
雨の中へ、元気に、城太郎は駈けて行った。武蔵は、そこへ残されてある手紙を見て、
「
「左様で。――呆れたものでございますよ、あいつの賢いのには」
「ふーむ……」
感心して見入っていたが、
「おやじ、何か
「濡れてお戻りと存じまして、ここへ出しておきました」
武蔵は、井戸へ行って水を浴び、やがて着かえて、
その間に、自在かぎへは、
「小僧め、何をしているのか、遅うござりまする」
「
「十一だそうで」
「
「何せい、
「しかし――どうして左様な稼業のうちに、見事な文字を書くようになったろうか」
「そんなに
「元より子どもらしい
「ものになるとは、何になるので」
「人間にだ」
「へ?」
おやじは、鍋の
「まだ来ないぞ、あいつまた、どこぞで道ぐさしているのかも知れぬ」
ぶつぶついいながら、やがて、土間の
「爺さんッ、持って来たよ」
「何をしているのだ、旦那様が待っているのに」
「だってネ、おらが、酒を取りにゆくと、店にもお客があったんだもの。――その酔っぱらいがね、また、おらをつかまえて、
「どんなことを」
「宮本さんのことだよ」
「また、くだらぬお
「おらが喋舌らなくても、この
武蔵は黙然と炉のまえに、膝をかかえていたが、頼むように――
「小僧、もうその話は、やめにせい」
眼ざとく、その顔いろを
「おじさん、今夜は遊んでいってもいいだろ?」
と、足を洗いにかかる。
「うム。
「あ、店はいいの」
「じゃあ、おじさんと一緒に、御飯でもお喰べ」
「そのかわり、おらが、お酒の
炉のぬく灰に、
「おじさん、もういいよ」
「なるほど」
「おじさん、酒好きかい」
「好きだ」
「だけど、貧乏じゃ、飲めないね……」
「ふム」
「兵法家っていうのは、みんな大名のお抱えになって、知行がたくさん取れるんだろう。おら、店のお客に聞いたんだけど、むかし
「うむ、その通り」
「徳川様へ抱えられた
「ほんとだ」
「だのに、おじさんはなぜそんなに、貧乏なんだろ」
「まだ勉強中だから」
「じゃあ、
「さあ、おれには、そういう偉い殿様にはなれそうもないな」
「弱いのかい、おじさんは」
「清水で見た人々が噂しておるだろうが、なにしろおれは、逃げて来たのだからな」
「だから近所の者が、あの木賃に泊っている若い武者修行は、弱い弱いって、この
「ははは、おまえがいわれておるのではないからよかろう」
「でも。――
「よしよし」
武蔵は、城太郎のいうことには、何でも
「その話、もうよそう、――ところでこんどはおまえに訊くが、おまえ、
「姫路」
「なに、
「おじさんは作州だね、言葉が」
「そうだ、近いな。――して姫路では何屋をしていたのか、お父さんは」
「侍だよ、侍!」
「ほ……」
そうだろう! 意外な顔はしたが、武蔵は、果たして――というように頷いてもいた。それから父なる人の名を
「お父っさんは、青木丹左衛門といって、五百石も取ってたんだぜ。けれど、おらが六ツの時に、牢人しちゃって、それから京都へ来てだんだん貧乏しちまったもんだから、おらを、居酒屋へあずけて、自分は、
と述懐する。
「だから、おら、どうしても、侍になりたいんだ。侍になるには、剣道が上手になるのが一番だろう。おじさん。お願いだから、おらをお弟子にしてくれないか――どんなことでもするから」
いい出したら
これは飛んでもない駄々ッ子だ、なんと
「よし、よし、弟子にしてやろう。――だが、今夜は帰って、主人にもよく話した上、出直して来なければいけないぞ」
それで城太郎は、やっと得心して帰った。
翌る朝――
「おやじ、永いこと世話になったが、奈良へ立とうと思う。弁当の支度をしてくれ」
「え、お立ちで」
老爺はその不意なのに驚いて、
「あの小僧めが、飛んでもないことをおせがみしたので、急にまあ……」
「いやいや、小僧のせいではない。かねてからの宿望、
「なに、子どものこと、一時はわめいても、すぐケロリとしてしまうに違いございませぬ」
「それに、居酒屋の主人も、承知はいたすまいし」
武蔵は、木賃の軒を出た。
水かさが増した濁流の三条口には、仮橋のたもとに沢山な騎馬武者がいて、武蔵ばかりでなく、往来人はいちいち止めて
聴けば、江戸将軍家の
問われることへ、無造作に答えて、何の気もなく通って来たが、武蔵はいつのまにか、自分が大坂方でもなく、また徳川方でもない、無色無所属のほんとの一牢人になっていることに、改めて気づいた。
――今
関ヶ原の役に、槍一本かついで出かけたあの時の向う見ずな壮気。
彼は、父の仕えていた主君が大坂方であったし、郷土には、英雄太閤の威勢が深く
(関東へつくか、大坂か)
と問われれば、血液的に、
(大坂)
と、答えるにためらわない気持だけは、心のどこかに
――だが、彼は、関ヶ原で
(わが思う主君にご運あれ)
と念じて、死ぬならばいい。それで死ぬことも立派に意義もある。――だが、武蔵や又八のあの時の気持はそうでない。燃えていたのは、功名だった、
その後、
「――
肌に汗をおぼえたので、武蔵は足をとめた。いつのまにか、かなり高い山道を踏んでいる。すると遠くで、
――おじさアん……
しばらく間を
――おじさアアん
とまた聞える。
「あっ?」
武蔵は、
案のじょう、やがてその城太郎の姿が、道の彼方にあらわれて、
「嘘つきッ。おじさんの嘘つき!」
口では
――来たな、とうとう。
武蔵は、当惑そうな
こっちの姿を目がけて、むこうから素ッ飛んで来る城太郎の影は、ちょうど烏天狗の
近づくに従って、その
「――おじさんっ!」
いきなり、武蔵のふところへ飛びこんで来ると、
「嘘つきッ」
と、しがみついて、同時に、わっと泣いてしまったのである。
「どうした、小僧」
優しく
「泣く奴があるか」
武蔵が、遂にいうと、
「知らねえやい、知らねえやい」
身を揺すぶッて、
「――大人のくせに、子供を
「悪かった」
謝ると、今度は、泣き声を変えて、甘えるように、わあん、わあんと、
「もう黙れ。……騙す気ではなかったが、貴様には、父があり主人がある。その人達の承知がなくては連れて行かれぬから、相談して来いと申したのだ」
「そんなら、おらが返事にゆくまで、待っていればいいじゃないか」
「だから、謝っておる。――主人には、話したか」
「うん……」
やっと黙って、側の木から、木の葉を二枚むしり取った。何をするのかと思うと、それでチンと鼻をかむ。
「で、主人は何と申したか」
「行けって」
「ふム」
「てめえみたいな小僧は、とても当り前な武芸者や道場では、弟子にしてくれる筈がねえ。あの
「ハハハハ。おもしろい主人だの」
「それから、木賃の爺さんの所へ寄ったら、爺さんは留守だったから、あそこの軒に掛かっていたこの笠を貰って来た」
「それは、
「書いてあってもかまわないよ。雨がふると、すぐ困るだろ」
もう師弟の約束も何もかも、
しかしこの子の父、青木丹左の失脚や、自分との宿縁を思うと、武蔵は、みずからすすんでもこの少年の未来を見てやるのがほんとではないかとも考えた。
「あ、忘れていた。……それからね、おじさん」
城太郎は、安心がつくと、急に思い出したように、
「あッた。……これだよ」
と、手紙を出した。
武蔵は、いぶかしげに、
「なんだ、それは」
「ゆんべ、おじさんの所へ、おらが酒を持って行く時に、店で飲んでいた牢人があって、おじさんのことを、いやに
「ム、そんな話であったな」
「その牢人が、おらが、あれから帰ってみると、まだベロベロに酔っぱらっていて、また、おじさんの様子を訊くんだ。途方もない大酒飲みさ、二升も飲んだぜ。――そのあげく、この手紙を書いて、おじさんに渡してくれと、置いて行ったんだよ」
「? ……」
武蔵は、小首を
封の裏には、なんと――
本位田又八
乱暴な字でぶつけてあるのだ、書体までが酔っぱらっている姿である。
「や……又八から……」
急いで封を切って見る。武蔵は、なつかしむような、悲しむような、複雑な気持のうちに読み下した。
二升も飲んだ揚句といえば、字の乱脈はぜひもないが、文言も支離滅裂で、ようやく読み判じてみると、
伊吹山下、一別以来、郷土わすれ難し、旧友またわすれ難し。はからずも先頃、吉岡道場にて、兄 の名を聞く。万感交
、会わんか、会わざらんか、迷うて今、酒店に大酔を買う。
この辺まではよいが、その先になると、いよいよわからなくなる。
然りわれは、兄 と袂 を分ってより、女色の檻 に飼われ、懶惰 の肉を蝕 まれて生く、怏々 として無為の日を送るすでに五年。
洛陽 、今、君の剣名ようやく高し。
加盞 。加盞。
或る者はいう。武蔵は弱し逃げ上手の卑怯者なりと。また或る者はいう。彼は不可解の剣人なりと。――そんな事、どっちでもよし、ただ野生は、兄が剣によってともかく洛陽の人士に一波紋を投げたるを、ひそかに慶す。
思うに。
君は賢明だよ、おそらくは剣も巧者になって出世すべし。
翻 って、今のわれを見れば如何 。
愚や、愚や、この鈍児 、賢友を仰いでなんぞ愧死 せざるや。
だが待て、人生の長途、まだ永遠は測るべからずという奴さ、今は会いたくない、そのうちに会える日もあろうというもの也。
健康をいのる。
これが全文かと思うと、或る者はいう。武蔵は弱し逃げ上手の卑怯者なりと。また或る者はいう。彼は不可解の剣人なりと。――そんな事、どっちでもよし、ただ野生は、兄が剣によってともかく洛陽の人士に一波紋を投げたるを、ひそかに慶す。
思うに。
君は賢明だよ、おそらくは剣も巧者になって出世すべし。
愚や、愚や、この
だが待て、人生の長途、まだ永遠は測るべからずという奴さ、今は会いたくない、そのうちに会える日もあろうというもの也。
健康をいのる。
そんな意味なのである。
先は友情のつもりらしいが、この忠告のうちにも、多分な又八のひがみが
武蔵は、暗然として、
(なぜ――やあ久し振だなあ――そんなふうに、彼は呼びかけてくれなかったのか)
と、思った。
「城太郎。おまえは、この人の
「聞かなかった」
「居酒屋でも、知らぬか」
「知らないだろ」
「何度も来た客か」
「ううん、初めて」
――惜しい。武蔵は、彼の居所がわかるなら、これから京都へ戻ってもと思うのであったが、その
会って、もいちど、又八の性根をたたき
又八の母のお杉に、誤解を解いてもらうためにも――
黙々と、武蔵は先に歩いて行く。道は
「城太郎、早速だが、おまえに頼みたいことがあるが、やってくれるか」
武蔵は、不意にいい出した。
「なに? おじさん」
「使いに行ってほしいが」
「どこまで」
「京都」
「じゃあ、折角、ここまで来たのに、また戻るの」
「四条の吉岡道場まで、おじさんの手紙を届けに行ってもらいたい」
「…………」
城太郎はうつ向いて、足もとの石を蹴っていた。
「嫌か」
武蔵が顔をのぞくと、
「ううん……」
「嫌じゃないけど、おじさん、そんなことをいってまたおらを置いてきぼりにするつもりだろう」
疑いの眼に射られて、武蔵はふと恥じた。その疑いは誰が教えたか――と。
「いや、武士は決して、嘘はいわないものだ。きのうのことは、ゆるせ」
「じゃあ、行くよ」
六
――吉岡清十郎宛に。
文面は、ざっと、こうである。――聞くところによれば、貴下はその後御門下を
――こう鄭重のうちに気概も
新免宮本武蔵
と署名し、先の名宛には
吉岡清十郎どの
と、書き終っている。
城太郎は預かって、
「じゃあこれを、四条の道場へ
「いや、ちゃんと、玄関から訪れて、取次に
「あ。わかってるよ」
「それから、も一つ頼みがある。……だが、これはちとおまえには難しかろうな」
「何、何」
「わしに、手紙をよこした
「そんなこと、造作もねえや」
「どうして捜すか」
「酒屋を聞いて歩くよ」
「ははは。それもよい考えだが、書面の様子で見ると、又八は、吉岡家のうちの誰かに知り人があるらしい。だから吉岡家の者に、訊いてみるに限る」
「分ったら?」
「その本位田又八におまえが会って、わしがこういったと伝えてくれ。来年一月の
「それだけでいいんだね」
「む。――ぜひ会いたい。武蔵がそういっていたと伝えるのだぞ」
「わかった。――だけど、おじさんは、おらが帰って来る間、何処に待ってるの」
「こういたそう。わしは奈良へ先に行っている。居所は、槍の宝蔵院で聞けばわかるようにいたしておく」
「きっと」
「はははは、まだ疑っているのか、こんど約束を
笑いながら茶店を出る。
そして武蔵は奈良へ。――城太郎はまた京都へ。
四つ街道は、笠や、燕や、馬のいななきで混み合っている。その間から城太郎が振り返ると、武蔵もまだ立ちどまっていた。二人はニコと遠い笑いを
恋風が来ては
袂 に掻 いもたれて
喃 、袖の重さよ
恋かぜは
重いものかな
恋かぜは
重いものかな
思えど思わぬ
振りをして
しゃっとしておりゃるこそ
底はふかけれ――
河原の振りをして
しゃっとしておりゃるこそ
底はふかけれ――
「おばさん、歌がうまいね」
朱実は振向いて、
「誰?」
長い木刀を横にさし、大きな笠を背負っている
「おまえ何処の子、人のことをおばさんだなンて、私は娘ですよ」
「じゃあ――娘さん」
「知らないよ。まだ年もゆかないチビ助のくせにして、今から女なんか
「だって、訊きたいことがあるからさ」
「アラアラ、おまえと
「取ッて来てやろう」
川下へ流れて行った一枚の布を、城太郎は追いかけて行って、こういう時には役に立つ長い木刀で、掻きよせて拾って来た。
「ありがと。――訊きたいッて、どんなこと」
「この辺に、よもぎの寮というお茶屋がある?」
「よもぎの寮なら、そこにある私の
「そうか。――ずいぶん捜しちゃった」
「おまえ、何処から来たの」
「あっちから」
「あっちじゃ分らない」
「おらにも、何処からだか、よく分らないんだ」
「変な子だね」
「誰が」
「いいよ」――朱実はクスリと笑いこぼして、「いったい何の用事で、わたしの
「本位田又八という人が、おめえんちにいるだろう。あすこへ行けば分るって、四条の吉岡道場の人に聞いて来たんだ」
「いないよ」
「嘘だい」
「ほんとにいないよ。――前には
「じゃあ、今どこ?」
「知らない」
「ほかの人に訊いてくれやい」
「おっ母さんだって知らないもの。――家出したんだから」
「困ったなあ」
「誰の使いで来たの」
「お師匠様の」
「お師匠様って?」
「宮本
「手紙か何か持って来たの」
「ううん」
城太郎は、首を横に振って、行き
「――来た所も分らないし、手紙も持たないなんて、ずいぶん妙な使いね」
「
「どういう言伝て。もしかして――もう帰って来ないかも知れないけど、帰って来たら、又八さんへ、私からいっといて上げてもいいが」
「そうしようか」
「私に相談したって困る、自分で決めなければ」
「じゃあ、そうするよ。……あのね、又八って人に、ぜひとも、会いたいんだって」
「誰が」
「宮本さんがさ。――だから、来年一月の
「ホホホ、ホホホホ……。まあ! 気の長い言伝てだこと。おまえのお師匠さんていう人も、おまえに負けない変り者なんだね。……アアお
城太郎は、ぷっと
「何がおかしいのさ。おたんこ
と、肩をいからせた。
びっくりした途端に、朱実は、笑いが止まってしまった。
「――あら、怒ったの」
「当り前だい、人が、叮嚀にものを頼んでいるのに」
「ごめん、ごめん。もう笑わないから――そして今の言伝ては、又八さんが、もし帰って来たら、
「ほんとか」
「え」
また、こみあげる微笑を噛みころすように
「だけど……何といったっけ……その言伝てを頼んだ人」
「忘れっぽいな。宮本武蔵というんだよ」
「どう書くの、武蔵って」
「
といいかけて、城太郎は足もとの竹の小枝をひろい、河原の川砂へ、
「こうさ」
と書いて見せた。
朱実は、砂に書かれた字を、じっと眺めて、
「あ……それじゃあ、
「
「だって
「強情だな!」
彼の
朱実は、いつまでも、川砂の文字へ眼を吸いよせられたまま、そして
やがて、その
「……もしや、この武蔵というお方は、
「そうだよ、おらは播州、お師匠さんは宮本村、隣り国なんだ」
「――そして、背の高い、男らしい、そうそう髪はいつも
「よく知ッてるなあ」
「子どものとき、
「いつかって、
「もう、五年も前。――関ヶ原の
「そんな前から、おめえは、おらのお師匠様を知ってんのか」
「…………」
朱実は答えなかった。答える余裕もなく彼女の胸はその頃の思い出の
(……
身もおろおろと会いたさに駆られてくるのである。母のすることを見――又八の変り方を見て来て――彼女は自分が最初から心のうちで、武蔵の方を選んでいたことが間違いでなかったことに、

そして、
「――じゃあ、頼んだぜ。又八って人が、見つかったら、
用が済むと、先を急ぐように城太郎は、河原の
「あっ、待って!」
朱実は、追いすがった。彼の手をつかまえて、何をいおうとするのか、城太郎の眼にも
「あんた、何ていう名?」
熱い息で、朱実が訊く。
城太郎は――城太郎と答えて、彼女の悩ましげな
「じゃあ、城太郎さん、あんたは
「
「あ……そうそう武蔵様の」
「うん」
「わたし、あのお方に、ぜひ会いたいのだけれど、どこにお住まいなの」
「
「あら、どうして」
「武者修行してるんだもの」
「仮のお
「奈良の宝蔵院に行って訊けばわかるんだよ」
「ま……。京都にいらっしゃると思ったら」
「来年くるよ。一月まで」
朱実は何かつきつめた思案に迷っているらしかった。――と、すぐ後ろのわが家の勝手口の窓から、
「朱実っ、いつまで、何をしているんだえ! そんなお
お
朱実は、母に
「この子が、又八さんを尋ねて来たから、
窓に見えるお甲の眉は
「又八? ……又八がどうしたっていうのさ、もうあんな人間は、家の者じゃなし、知らないといっておけばいいんじゃないか! 間がわるくって、戻れないもんだから、そんなお
城太郎、呆っ気にとられ、
「馬鹿にすんない。おら、お菰の子じゃねえぞ」
と、呟いた。
お甲は、その城太郎と朱実の話を監視するように、
「朱実っ、お入りっ」
「……でも、河原にまだ洗い物が残っていますから」
「後は、
「ちッ……あんな人。愛想をつかしてくれれば、オオ嬉しい! だ」
――朱実は不平を顔に
それと共に、お甲の顔もかくれた。――城太郎は閉まった窓を見上げて、
「けっ。ばばあのくせに、白粉なんかつけやがって、ヘンな女!」
と、悪たれた。
すぐ、その窓がまた開いた。
「なんだッて、もういちどいってごらん!」
「あっ、聞えやがった」
あわてて逃げ出す頭へ、後ろから――ざぶりっと、うすい味噌汁みたいな鍋の水をぶちかけられて、城太郎は、
本能寺の
西の小路は
暗いげな
あずさの姥 が
白いもの化粧 いして
漢女子 産 んだり
紅毛子 産んだり
タリヤンタリヤン
タリ、ヤン、タン
西の小路は
暗いげな
あずさの
白いもの
タリヤンタリヤン
タリ、ヤン、タン
米俵か
興福寺寄進
と墨黒く
奈良といえば興福寺――興福寺といえばすぐ奈良が思い出されるのである。城太郎も、その有名な寺だけは知っていたらしく、
「しめた、うまい車が行くぞ――」
牛車へ追いついて、車の尻へ、飛びついた。
後ろ向きになると、ちょうどよく腰掛けられるのだった。贅沢なことには、俵へ背中まで寄りかけられるではないか。
沿道には、丸い茶の木の丘、咲きかけている桜、今年も兵や軍馬に踏まれずに無事に育ってくれと祈りながら麦を
「こいつは、
城太郎は、いい気もちだった。居眠ッているまに奈良へ着いてしまう気でいる。時々、石へ乗せかけた
(……あら、あら、どこかで鶏が
眼の側を流れてゆく事々が、城太郎にはみな感興になる。村を離れて、並木にかかると、
同じ馬でも
大将を乗せれば
池月、する墨
金ぷくりん
ピキピーの
トッピキピ
馬は馬でも
泥田にすめば
やれ踏め、やれ負え
年がら貧
貧――貧――貧
前に歩いてゆく牛方は、大将を乗せれば
池月、する墨
金ぷくりん
ピキピーの
トッピキピ
馬は馬でも
泥田にすめば
やれ踏め、やれ負え
年がら
貧――貧――貧
「おや?」
振向いたが、何も見えないのでまたそのまま歩みだした。
ピキ、ピーの
トッピキピ
牛方は、手綱をトッピキピ
「この野郎」
「ア痛っ」
「なんだって車の尻になど乗ってけつかるか」
「いけないの」
「当りめえだ」
「おじさんがひっぱるわけじゃないからいいじゃないか」
「ふざけるなっ」
城太郎の体は
「あれ? ないぞ」
武蔵の手紙を届けた吉岡道場から、これを持って帰れと渡されて来た返辞である。大事に竹筒へ入れて、途中からは、
「困った、困った」
城太郎の探す眼の範囲はだんだん拡がって行った。――と、その
「何か落したのですか」
と、親切に訊ねてくれる。
城太郎は、
「うん……」
うつつに
「お金?」
「う、う、ん」
何を訊いても、城太郎の耳には、うわの空であった。
旅の若い女は微笑んで、
「――じゃあ、紐のついている一尺ぐらいな竹の筒ではありませんか」
「あっ、それだ」
「それなら、
「ああ……」
「びっくりして逃げ出した時に、紐が切れて往来へ落ちたのを、その時、馬子衆と立話しをしていたお侍が拾っていたようですから、戻って訊いてごらん」
「ほんと」
「え。ほんと」
「ありがと」
駈け出そうとすると、
「あ、もしもし、戻るにも及びません。ちょうど
女の指さす方を見て、
「あの人」
城太郎は、大きな眸で、じっと待っていた。
四十がらみの偉丈夫である。黒い
すると、幸いに、
「小僧」
と、向うから呼んでくれた。
「はい」
「お前だろう、万福寺の下で、この状入れを落したのは」
「ああ、あったあった」
「あったもないものじゃ、礼をいわんか」
「すみません」
「大事な返書ではないか。かような書面を持つ使いが、馬に悪戯したり、牛車の尻に乗ったり、道草をしていては主人に相済むまいが」
「お武家さん、中を見たね」
「拾い物は、一応中を
城太郎は、竹筒の
「もう落さないぞ」
と呟いた。
眺めていた旅の若い女は、城太郎の
「ご親切に、有難うございました」と、彼のいい足らない気持を、彼に代って礼をいった。
「お女中、この小僧は、あなたのお連れか」
「いいえ、まるで知らない子でございますけれど」
「ははは、どうも釣り合いが取れぬと思った。おかしな小僧だの、笠のきちんが
「無邪気なものでございますね、何処まで行くのでございましょう」
二人の間に挟まって城太郎はもう得々と元気に返っていて、
「おらかい? おらは、奈良の宝蔵院まで行くのさ」
そういって、ふと、彼女の帯の間から、見えている
「おや、お女中さん、おまえも
「状筒を」
「帯に差しているそれさ」
「ホホホホ。これは、手紙を入れる竹筒ではありません。横笛です」
「笛――」
城太郎は、好奇な眼をひからかして、無遠慮に女の胸へ顔を近づけた。そして何を感じたものか、次には、その人の足もとから髪まで見直した。
童心にも、女の美醜は
城太郎は、改めて
「笛かあ、なるほど」
独りで、感心して、
「おばさん、笛吹くの?」
と訊いた。
だが、若い女に対して、おばさんと呼んで、この間、よもぎの寮の娘に怒られたことを城太郎は思い出したのだろう、またあわてて、
「お女中さん、なんという名?」
突拍子もなく違った問題を、しかし、なんのこだわりもなく、急に訊き出すのである。
旅の若い女は、
「ホホホホホ」
城太郎には答えないで、彼の頭越しに
熊のような髯のあるその武家は、白い丈夫そうな歯を見せて、これは大きく
「このチビめ、隅には置けんわい。――人の名を問う時は、自分の名から申すのが礼儀じゃ」
「おらは城太郎」
「ホホホ」
「
「わしか」
と、これも困った顔をして、
「
「庄田さんか。――下の名は」
「名は勘弁せい」
「こんどは、お女中さんの番だ、男が二人まで名をいったのに、いわなければ、礼儀に欠けるぜ」
「わたくしは、お
「お通様か」
と、それで気が済んだのかと思うと、城太郎は口を休めずに、
「なんだって、笛なんか帯に差して歩いているんだね」
「これは私の
「じゃあ、お通様の
「え……笛吹きという
「
「いいえ」
「じゃあ、舞の笛」
「いいえ」
「じゃあ何ンだい一体」
「ただの横笛」
庄田という武家は、城太郎が腰に横たえている長い木剣に眼をつけて、
「城太郎、おまえの腰にさしているのは何だな」
「侍が木剣を知らないのかい」
「なんのために差しているのかと訊くのじゃ」
「剣術を覚えるためにさ」
「師匠があるのか」
「あるとも」
「ははあ、その状筒の内にある手紙の名宛の人か」
「そうだ」
「おまえの師匠のことだからさだめし達人だろうな」
「そうでもないよ」
「弱いのか」
「あ。世間の評判では、まだ弱いらしいよ」
「師匠が弱くては困るだろ」
「おらも
「少しは習ったか」
「まだ、なンにも習ってない」
「あはははは、おまえと歩いていると、道が飽きなくてよいな。……してお女中は、どこまで参られるのか」
「わたくしには、何処という
宇治橋のたもとが見えてくる。
庄田という
「おお、これは
「やすませて貰おうか――その小僧に、何ぞ、菓子をやってくれい」
菓子を持つと、城太郎は、足を休めていることなどは退屈に堪えないらしく、裏の低い丘を見上げて、駈上がって行った。
お通は茶を味わいながら、
「奈良へはまだ遠うございますか」
「左様、足のお早いお方でも、木津では日が暮れましょう。
老人の答えをすぐ引き取って、髯侍の庄田がいった。
「この
聞くと、眼を
「滅相もない」
茶売りの老人は、手を振った。
「おやめなされませ、尋ねるお方が、確かにいると分っているならば知らぬこと、さものうて、なんであんな物騒ななかへ――」
口を
奈良といえばすぐさびた
なぜならば――関ヶ原の役の後は、奈良から高野山にかけて、どれほど、沢山な敗軍の牢人たちが隠れこんだかわからない。それが皆、西軍に加担した大坂方だ。
何でも、世間一般の定説によると、関ヶ原の役では
あの大戦の結果、徳川の新幕府に没収された領地は六百六十万石といわれている。その後、減封処分で、家名の再興をゆるされた分を引いても、まだ取りつぶしを食った大名は八十家に余るし、その領土の三百八十万石というものは改易されている。ここから離散して、諸国の地下に潜った牢人者の数を、仮に百石三人とし、本国にいた家族や郎党などを加算すると、どう少なく見積っても、十万人は下るまいという噂。
ことに、奈良とか、高野山とかいう地帯は、武力の入り難い寺院が多いために、そういう牢人たちにとっては、屈強のかくれ場所となり得るので、ちょっと指を折っても、九度山には
まだまだそこらの名のある牢人は、それぞれ、
そう聞かされてみると奈良へ行くのも、甚だ不気味なことになる。
お通は考えこんでしまった。
奈良に、
そういう心当りは、彼女には今の所まるでないのである。ただ漠然と――姫路城下の花田橋の袂からあのまま数年の月日を――旅から旅へ、
「お通どのと申されたの――」
彼女の迷っている顔いろを見て、
「どうであろう、最前から、申しそびれていたが、これから奈良へ行かれるより、わしと共に、
といい出した。
そこで、その庄田が自分の素姓を明かしていうことに、
「わしは小柳生の家中で、庄田喜左衛門と申す者だが、実は、もはや八十にお近い自分の御主君は、このところお体もお弱くて毎日、
茶売りの老人は、側にあって、それはよい思いつきと喜左衛門と共に頻りにすすめた。
「お女中、ぜひお供して行かっしゃれ。知ってでもあろうが、小柳生の大殿とは、柳生
有名な兵法の名家、柳生家の家臣と聞いて、お通は喜左衛門の物腰が、
「気がすすまぬか」
喜左衛門が、
「いいえ、願うてもないことでございますが、拙い笛、さような御身分のあるお方の前では」
「いやいや、ただの大名衆のように思うては、柳生家では、大きにちがう。殊に石舟斎様と仰せられて、今では、簡素な余生を楽しんでいられる茶人のようなお方だ、むしろ、そういう気がねはお嫌いなさる」
漫然と奈良へゆくより、お通はこの柳生家の方に一つの希望をつないだ。柳生家といえば、吉岡以後の兵法第一の名家、さだめし諸国の武者修行が訪れているに違いない。そして、門を叩いた者の名を載せた芳名帳を備えているかも知れない。――そのうちにはもしかしたら自分の探し歩いている――宮本武蔵政名――の名があるかも知れない。もしあったらどんなに
「では、おことばに甘えて、お供いたしまする」
急に明るくいうと、
「え、来てくれるとか、それは
喜左衛門は欣んで、
「そう決まれば、
「はい、
喜左衛門は軒を出て、宇治橋の袂のほうへ手をあげた。そこに
すると茶屋の裏山へ
「もう行くのかあいっ」
「おお出かけるぞ」
「お待ちようっ」
宇治橋の上で、城太郎は追いついた。何を見ていたのかと喜左衛門が訊くと、丘の林の中に、大勢の
馬子は笑って、
「旦那、そいつあ牢人が集まって、
と、いった。
馬の背には、
宇治橋をこえ、やがて木津川
「うむ……牢人どもが
「博奕などはまだいい方なんで――押し借りはする、女はかどわかす、それで、強いと来ているから手がつけられませんや」
「領主は、黙っているのか」
「御領主だって、ちょっとやそっとの牢人なら召捕るでしょうが――河内、大和、紀州の牢人が
「
「
喜左衛門と馬子の話に、ふと、耳をとめて城太郎が口を出した。
「牢人牢人っていうけれど、牢人のうちでも、いい牢人だってあるんだろ」
「それは、あるとも」
「おらのお師匠さんだって牢人だからな」
「ははは、それで不平だったのか、なかなか師匠思いだの。――ところでおまえは宝蔵院へ行くといったが、そちの師匠は宝蔵院にいるのか」
「そこへ行けば分ることになっているんだ」
「何流をつかうのか」
「知らない」
「弟子のくせに、師匠の流儀を知らんのか」
すると、馬子がまた、
「旦那、この節あ、剣術
「ほう、左様かなあ」
「これも、牢人が
「それもあろうな」
「剣術がうめえッてえと、方々の大名から、五百石、千石で、引っ張りだこになるってんで、みんな始めるらしいんだね」
「ふん、出世の早道か」
「そこにいるおチビまでが木剣など差して、
城太郎は、怒った。
「馬子っ、なんだと、もう一ぺんいってみろ」
「あれだ――
「ははは、城太郎、怒るな怒るな。また、
「もう、大丈夫だい」
「おお、木津川の
「お通様は」
「わたしは、庄田様のお供をして小柳生のお城へ行くことになりました。――気をつけておいでなさいね」
「なんだ、おら、独りぽッちになるのか」
「でもまた、縁があれば、どこかで会う日があるかも知れません――城太郎さんも旅が家、わたしも尋ねるお人に
「いったい、誰をさがしているの、どんな人?」
「…………」
お通は答えなかった。馬の背からにっこと別れの眸を与えただけであった。河原を駈け出して、城太郎は、
およそ今、天下に
(こいつ
と、扱われてしまうほどにである。
この奈良の地へ来ては、なおさらのことであった。奈良の現状では、
「あ、油坂のか」
と、すぐ分る。
そこは興福寺の天狗でも棲んでいそうな大きな杉林の西側にあたっていて、
油坂というのはこの辺りと聞いては来たが武蔵は、
「はて?」
と、見まわした。
寺院は幾軒も見て来たが、それらしい山門はない。宝蔵院という門札も見えない。
冬を越して、春を浴びて、一年中でいちばん黒ずんでいる杉のうえから、今が妙齢の
「お」
武蔵は足を止めた。
――だが、よく見ると、その門に書いてあるのは、甚だ宝蔵院と
それに山門から奥を覗くと日蓮宗の寺らしく見える。宝蔵院が日蓮宗の
ぼんやり山門に立っていた。すると、外から帰ってきた奥蔵院の
武蔵は笠を
「お
「はあ、なんじゃね」
「当寺は、奥蔵院と申しますか」
「はあ、そこに書いてある通り」
「宝蔵院は、やはりこの油坂と聞きましたが他にございましょうか」
「宝蔵院は、この寺と、背中あわせじゃ。宝蔵院へ、試合に行かれるのか」
「はい」
「それなら、よしたらどうじゃの」
「は? ……」
「折角、親から満足にもろうた手脚を、片輪を
この納所にも、
「だから、無駄じゃよ、行ったところで」
と、この納所は、武蔵を追っ払おうとするのが肚か、いよいよ
「そういうことも、噂に聞いて、承知してはおりますが」
と武蔵は、
「――しかし、その後には、
「あ、その胤舜どのは、うちのお住持の弟子みたいなものでね、初代覚禅房胤栄どのが、
何か、ぐずねたいい方をすると思ったら、この奥蔵院の日蓮坊主は、要するに、今の宝蔵院流の二代目は、自分の寺の住持が立ててやったもので、槍術も、その二代目胤舜よりは、日蓮寺の奥蔵院の住持のほうが系統も正しく本格なのだぞ――ということを、暗に外来の武芸者にほのめかせたい気持であったらしい。
「なるほど」
武蔵が一応うなずくと、それを以て満足したらしく、奥蔵院の納所は、
「でも、行って見るかね?」
「せっかく参りましたものゆえ」
「それもそうだ……」
「当寺と、背中あわせと申すと、この山門の外の道を、右へ曲りますか、左へ参りますか」
「いや、行くなら、当寺の境内を通って、裏を抜けて行きなさい、ずッと近い」
礼をいって、教えられた通りに武蔵は歩いた。
「……あれだな」
畑の彼方に、また一寺が見える。武蔵は、よく肥えている菜や大根や
と――そこの畑に、一人の老僧が
(この老僧も日蓮寺のほうの者だな)
武蔵は、挨拶をしようと思ったが、土に他念のない老僧の三昧ぶりに
はっ――と
「何者だろう?」
武蔵は大きな疑いを抱きながら、やがて宝蔵院の玄関を見つけた。そこに立って取次を待つ間も、
(ここの二代目胤舜は、まだ若いはずであるし、初代胤栄は、槍を忘れてしまったというほど
いつまでも頭の隅に気になっている老僧であった。それを払い
ふと見ると、玄関の横手に、大きな
(ははあ、これを打つのだな)
武蔵が、それを鳴らすと、おおうと、遠くですぐ返辞が聞えた。
出て来たのは、
「武芸者か」
「はい」
「何しに?」
「ご教授を仰ぎたいと存じて」
「上がんなさい」
右へ指をさす。
足を洗えというのらしい。
真っ黒な一
「これへ、どこで修行したか、流名と自身の姓名を
子どもへいうように、以前の大坊主が来て一冊の帳面と
見ると、
宝蔵院
「兵法は誰について習ったのか」
「我流でございます。――師と申せば、幼少の折、父から十手術の教導をうけましたが、それもよう勉強はせず、後に志を抱きましてからは、天地の万物を以て、また天下の先輩を以て、みなわが師と心得て勉強中の者でござります」
「ふム……。そこで承知でもあろうが、当流は御先代以来、天下に鳴りわたっている宝蔵院一流の槍じゃ。荒い、激しい、
気づかなかったが、そういわれて武蔵は下へ置いた一冊を持ち直して
「心得ております」
武蔵は微笑してもどした。武者修行をして歩くからには、これは何処でもいう常識だからである。
「じゃあこっちへ――」
と、また奥へ進む。
大きな講堂でもつぶしたのか恐ろしく広い道場であった。寺だけに、太い丸柱が奇異に見えるし、
自分ひとりかと思いのほか、控え席には、すでに十名以上の修行者が来ている。そのほか
望みの者には、真槍の試合にも応じる――と道場の壁には書いてあるが、今立ち合っている者の槍は、単なる
「さあ、次っ」
「では、それがしが――」
一人が席から起った。これも今日、宝蔵院の門をたたいた武者修行の一人らしい。
法師は、不動の姿勢で突っ立っていたが、次に出て来た相手が、壁から選み
「うわッ!」
いきなり山犬でも吠えたような声を出して、相手の頭へ撲り落して行った。
「――次っ」
すぐまた、平然と大槍を立てて元の姿勢に返っているのである。撲られた男は、それきりだった。死んだ容子はないが、自分の力で顔を上げることも出来ないのだ。それを二、三人の法師弟子が出て来て、
「次は?」
突っ立っている法師はあくまで
「もうないのか」
法師は、槍を横にした。授業者の名簿をもって、先刻、取次にあらわれた坊主が、帳面とそこらの顔を照らし合せ、
「
と、顔をさしていう。
「いや……いずれまた」
「そちらの
「ちと、きょうは気が
なんとなく皆、
「おてまえはどうする?」
武蔵は、頭を下げ、
「どうぞ」
といった。
「どうぞとは?」
「お願い申す」
起つと、一同の眼が武蔵を見た。不遜な
「誰か、代れ」
と
「まあ、もう一人じゃないか」
そういわれて、彼は、渋々また出て来た。つかい馴れているらしい真っ黒に
ヤ、ヤ、ヤ、ヤッ!
と
そこは日ごろ彼らの槍を鍛える稽古台にされているとみえ、一間四方ほど新しい板に張り代えてあるのに、彼の真槍でもないただの棒は、鋭い穂で貫いたようにぶすッとそこを突き抜いていた。
――えおっッ!
奇態な声を発しながら槍を
「――行くぞっ」
羽目板を突きぬく気をもって
「――馬鹿よ、
槍を構えたまま、阿巌は横を向いて、
「――誰だっ?」
と、呶鳴った。
窓の
「阿巌、無駄じゃよ、その試合は。――
老僧は止めるのであった。
「あ?」
武蔵は思い出した。
そう思うまに、老僧の頭は、窓の際から消えていた。阿巌は老僧の注意で一度は槍の手をゆるめたが、武蔵と眸をあわせると、途端にそのことばを忘れてしまったように、
「何をいうかっ」
と、すでにそこにいない者を
武蔵は、念のために、
「よろしいか」
といった。
阿巌の憤怒を
武蔵は、固着していた、一見そう見える。
木剣は真っ直に両手で持っているというほか、べつだん特異な構えではなかった。むしろ六尺に近い
阿巌はぴくと顔を振った。
汗のすじが
――いきなり突いて行ったと見えた時は、ぎゃッという声が床へたたきつけられていた。武蔵は木剣を高くあげてその一瞬にもう跳び
「どうしたッ?」
どやどやと阿巌のまわりには同門の法師たちが駈け寄って真っ黒になっていた。阿巌の
「薬湯、薬湯っ、薬湯を持って来い――」
起って叫ぶ者の胸や手には血しおがついていた。
いちど窓から顔を消した老僧は、玄関から廻ってここへ入って来たが、その間にこの始末なので、苦りきって傍観していた。そしてあたふた駈け出す者を止めていった。
「薬湯をどうするか、そんなものが間に合うほどなら止めはせん。――馬鹿者っ」
誰も彼を止める者はなかった。武蔵はむしろ手持ちぶさたを感じながら、玄関へ出て、わらじを
すると、例の猫背の老僧が、追って来て、
「お客」
と、後ろで呼んだ。
「は。――拙者?」
肩越しに答えると、
「ごあいさつ申したい。もいちどお戻りくだされい」
という。
導かれて、ふたたび奥へ入ったが、そこは前の道場よりはまた奥で、
老僧は、ぺたと坐って、
「方丈があいさつに出るところじゃが、つい昨日
「ごていねいに」
と、武蔵も頭を下げ、
「きょうは計らずも、よいご授業をうけましたが、ご門下の阿巌どのに対しては、なんともお気の毒な結果となり、申し上げようがござりませぬ」
「なんの」
老僧は打ち消して、
「兵法の立合いには、ありがちなこと。
「して、お
「即死」
老僧のそう答えた息が、冷たい風のように武蔵の顔を吹いた。
「……死にましたか」
自分の木剣の下に、きょうも一つの生命が消えたのである。武蔵は、こうした時には、いつもちょっと
「お客」
「はい」
「宮本武蔵と申されたの」
「左様でござります」
「兵法は、誰に学ばれたか」
「師はありませぬ。幼少から父無二斎について十手術を、後には、諸国の先輩をみな師として訪ね、天下の
「よいお心がけじゃ。――しかし、おん身は強すぎる、余りに強い」
「どういたしまして、まだわれながら未熟の見えるふつつか者で」
「いや、それじゃによって、その強さをもすこし
「ははあ?」
「わしが最前、
「はい」
「あの折、おてまえはわしの側を九尺も跳んで通った」
「は」
「なぜ、あんな振舞をする」
「あなたの鍬が、私の両脚へ向って、いつ横ざまに
「はははは、あべこべじゃよ」
老僧は、笑っていった。
「お身が、十間も先から歩いて来ると、もうおてまえのいうその殺気が、わしの鍬の先へびりッと感じていた。――それほどに、お身の一歩一歩には争気がある、覇気がある。当然わしもそれに対して、心に武装を持ったのじゃ。もし、あの時わしの側を通った者が、ただの百姓かなんぞであったら、わしはやはり鍬を持って菜を
果たしてこの猫背の老僧は
「ご教訓のほど、有難く承りました。して、失礼ですが、貴僧はこの宝蔵院で、何と仰っしゃるお方ですか」
「いやわしは、宝蔵院の者ではない。この寺の背中あわせの奥蔵院の住持
「あ、裏の御住職で」
「されば、この宝蔵院の先代の
「では、当院の二代目胤舜どのは、あなたの槍術を学んだお弟子でございますな」
「そういうことになるかの。沙門に槍など
「その胤舜どのがお帰りの日まで院の片隅へでも、泊めておいて貰えますまいか」
「試合うてみる気か」
「せっかく、宝蔵院を訪れたからには、院主の槍法を、一
「よしなさい」
日観は、顔を振って、
「いらぬこと」
と、たしなめるように重ねていう。
「なぜですか」
「宝蔵院の槍とは、どんなものか、今日の阿巌の
日観は肩の骨を
日観は、カタカタと板を鳴らすように笑った。後ろへ、ほかの坊主が来て、何か訊ねているのである。日観は
「ここへ」
と、その坊主へいった。
すぐ高脚の客膳と飯びつが運ばれて来た。日観は、茶碗へ山もりに飯を盛って出した。
「茶漬けを進ぜる。お身ばかりでなく、一般の修行者にこれは出すことになっておる。当院の常例じゃ。その
「では」
武蔵が箸を取ると、日観の眼をまたぴかりと感じる。向うから発する剣気か、自分から出る剣気が相手に備えさせるのか、武蔵は、その間の微妙な魂の躍動が、どっちに原因するとも判断がつかないのであった。
「どうじゃの、お代りは」
「十分、いただきました」
「ところで宝蔵院漬の味は、いかがでござった?」
「結構でした」
しかし武蔵は、その時そうは答えたものの、唐辛子の辛さが舌に残っているだけで、ふた切れの瓜の風味は外に出ても思い出せなかった。
「
暗い杉林の中の小道を、武蔵はこう独り
時折、杉の木蔭を、
「強いことにおいておれは勝っている。――しかし敗けたような気持を負って宝蔵院の門を出てきた。――形では勝ったが敗けている証拠ではないか」
甘んじられない
「あ」
何か思い出したのであろう、立ちどまって振り向いた。宝蔵院の灯は、まだ後ろに見えていた。
駈け戻って、今出て来た玄関に立ち、
「ただ今の、宮本でござるが」
「ほう」
と、
「なんぞお忘れ物か」
「
「ああ、左様か」
うわの空な返辞なので、武蔵は心もとなく思い、
「ここへ後から尋ねて来る者は、
いいおいて、元の道をまた大股に引き返しながら、武蔵はつぶやいた。
「やはり、
どうしたら天下無敵の剣になれるか。武蔵は、寝ても
この剣、この一剣。
勝って帰る宝蔵院から、どうして、この
何としても、楽しめない気持らしい。
この池を中心に、
そこらのまばらな宵の
今し方、宝蔵院で接待にあずかって来たばかりであるが、宗因饅頭の前を通ると、武蔵は食慾をおぼえた。
腰かけへ立ち寄って、饅頭を一盆とってみる。饅頭の皮には「林」の字が焼いてあった。ここで食べる饅頭の味は、宝蔵院で食べた瓜漬の味のように舌にわからないことはなかった。
「旦那さま、今夜はどちらへお泊りでございますか」
そこの茶汲み女に話しかけられたのを幸いに、わけを話して
宗因
案内して来た青眉の女房は、小門の戸をほとほとたたいて、中の
「わたくしの姉の家でございますから、お心づけなども、ご心配なく」
小女が出て来て、女房と何か
「では、ごゆるり遊ばせ」
と帰ってしまった。
食事はすんでいるので、風呂に入ると、寝るよりほかはない。そう生活に困るでもないらしいこの家構えを持って、何で旅人などを泊めるのか、武蔵は、寝るにも気がかりであった。
小女にわけを訊いても、笑っていて答えないのである。
翌日になって、
「後から連れが尋ねて来るはずゆえ、もう一両日泊めてもらいたいが」
というと、
「どうぞ」
小女が
実は自分は、
そうした牢人たちのために、木辻あたりには、いかがわしい飲食店や
関ヶ原以後は、すこし
「ははあ、それで拙者のような旅人を、
「男気がないものですから」
と、美人の後家が笑った、武蔵も苦笑がやまない。
「そんなわけですから、どうぞ幾日でも」
「心得た、拙者のいるうちは、安心なさるがよい。しかし連れの者が、追ッつけここへ捜して来ることになっている。門口へ、何か目印を出してもらいたいが」
「よろしゅうございます」
後家は魔除け札のように、
宮本様お
と紙きれに書いて外へ貼った。
その日も、城太郎は来なかった。すると次の日である。
「宮本先生に拝顔したい」
と三名づれの武芸者が入って来た。断ってもただ帰りそうもない
「やあ」
と、旧知のように
「いやどうも、なんとも驚き入ったわけです」
坐るとすぐ、その三名は、誇張したもののいい方で、武蔵をおだて抜くのであった。
「おそらく、宝蔵院を訪れた者で、あそこの七足と呼ぶ高弟を一撃で
「吾々のうちでも、えらい評にのぼっておる。一体、宮本武蔵とは何者であろうなど、当地の牢人仲間では、寄るとさわると、貴公のうわさであるし、同時に、宝蔵院もすっかり看板へ味噌をつけてしまったというておる」
「まず、尊公のごときは、天下無双といってもさしつかえあるまい」
「年ばえもまだお若いしな」
「伸びる将来性は、多分に持っておられるし」
「失礼ながら、それほどな実力を持ちながら、牢人しておらるるなどとは、
茶が来れば茶をガブ飲みにし、菓子がくれば菓子の
そして、
おかしくも、
「して各

姓名を
「そうそう、これは失礼をしておった。それがしは、もと
「
「また、てまえは、
これで一通り素姓は分ったが、何のために自分の貴重な時間をつぶして他人の貴重な時間を邪魔しに来たのか、それも武蔵の方から聞かないうちは
「時に、御用向きは何であるか」
話のすきを見ていうと、
「そうそう」
と、それも今さら気がついたように、実は、折入っての相談でやって来たのだがと、
――ほかでもないが、この奈良の
今、小屋を掛けさせつつある所だが、前人気はなかなかよい。だが、三人では実はすこし手が足りない気がするし、いかなる豪の者が出て来て、せっかくの利益を一勝負でさらわれてしまわないとも限らないので――実は、
――頻りとすすめるのを、武蔵はにやにや聞いていたが、もう
「いや、そういう御用なら、長座は無用、ごめんをこうむる」
あっさり断ると、三名の方では、むしろ意外とするらしく、
「なぜで?」
とたたみかけて来る。
そこまで至ると、武蔵はすこし
「拙者は、ばくち打ちではない。また、飯は箸で食う男で、木剣では食わん男だ」
「なに、なんだと」
「わからんか、宮本は痩せても枯れても、剣人をもって任じておるのだ、馬鹿、帰れっ」
ふふんと、一人は冷笑を唇の辺にながし、一人は赤い怒気を顔にふき出して、
「忘れるな」
それが、
自分たちが
(これだけで帰るのでないぞ)
の意思を示し、どやどや外へ出て行ったのである。
この頃は毎晩が肌ぬるいおぼろ夜だった。
「残念だ」
またしても、奥蔵院の日観のことばが頭にうかぶ。
自分の剣で打負かした者はみな、たとえそれが半死にさせた者でも、武蔵は次々に泡沫のように頭からその人間を忘れてしまうのであったが、少しでも、自分よりは
「残念だ」
寝まろびたまま、髪の毛をぎゅっと
きのうも今日も、
時々、彼はまた、
(おれは駄目かな?)
と、自己の才分を疑わざるを得なかった。日観のような人間に出あうと、あれまで行けるかどうかが自分で疑われて来るのである。元々、自分の剣というものは、師について、法則的な修行を受けたものでないだけに、彼には、自分の力がどの程度のものか、自分ではよく分っていなかった。
それに、日観は、
(強すぎる、もうすこし、弱くなるがよい)
といった。
あの言葉なども、武蔵には、どうもまだよく呑みこめないのだ。兵法者である以上、強いということは、絶対の優越であるべきであるのに、なぜ、それらが欠点になるのか。
待てよ、あの猫背の老僧が、何をいうか、それも疑問だ。こっちを
(
武蔵は、近ごろになって、時々それを考える。どうもあの姫路城の一室で三年間も書を読んだ後の自分というものは、前とちがって、何かにつけ、物事を理で解こうとする癖がついているようだ。自己の理智をとおして
そのために、自分の勇猛というものは、少年時代から見れば、ずっと弱まっていると考えられるのに、あの日観は、まだ強すぎるというのだ。それは腕の強さをいうのではなく、自分の天分にある野性と争気を指していっていることだけは、武蔵にもわかっている。
「兵法者に、書物などは要らない智恵だ。
誰かここへ上がって来るらしく、その時、彼の手枕に、
「おう、来たか。よく分ったな」
武蔵が、胸をひろげて迎えてやると、城太郎はその前に、汚れた足を投げ出して坐った。
「ああくたびれた」
「探したか」
「探したとも。とッても、探しちまッたい」
「宝蔵院で
「ところが、あそこの坊さんに
「いや、くれぐれも、頼んでおいたのだが。――まあよいわ、ご苦労だった」
「これは吉岡道場の返辞」
と城太郎は、首にかけて来た竹筒から、返書を出して武蔵にわたし、
「――それから、もう一つのほうの使い、本位田又八という人には、会えなかったから、そこの家の者に、おじさんの
「大儀大儀。――さあ風呂へでも入れ、そして
「ここは宿屋?」
「む。宿屋のようなものだ」
城太郎が降りて行った後で、武蔵は、吉岡清十郎からの返書を開いて見た。――再度の試合は当方の望むところである。もし約束の冬まで来訪がない時は、臆病風にふかれて
代筆とみえ、文辞も
蝶の黒焼みたいな灰がふわふわと畳にこぼれてうごいている。試合とはいえ、この手紙のやり取りは、果し合いの約束に近い。この冬、この手紙から、誰がこういう灰になるのか。
武蔵は、兵法者の
(したいことがたくさんある! 兵法の修行もそうだが、人間としてやりたいことを、おれはまだ何もやっていない)
また、恥かしくない門戸のうちに、よき妻をもち、郎党や家の子を養って、自分には幼少から恵まれないところの家庭というものの温かさのうちに、よい主人ともなってみたい。
いや。
そういう人生の型に入る前には、ひそと、世の女性にも触れてみたいのだ。――今日までは明けても暮れても、念々兵法のほかに頭が
そんな時、彼はいつも、
(お
をふと思い出すのであった。
遠い過去の人であるような気がしながら、実は常に近くむすばれているような気のするお通。
――武蔵はただ漠然と、彼女を考えることだけで、時にはさびしい孤独と流浪を、どれ程、自分でも無意識の間に、慰められているか知れないのであった。
いつの間にか、そこへ戻って来ていた城太郎は、風呂に入り、腹を満たし、そして自分の使いも果した安心とで、すっかり
朝――
城太郎はもう雀の声といっしょに
「まあ、お急ぎですこと」
能楽師の若い後家は、すこし恨めしげに、抱えて来た一かさねの小袖をそこへ出して、
「失礼でございますが、これは私が、お
「え、これを」
武蔵は、眼をみはった。
断ると、後家は、
「いいえ、そんな大した品ではございません、宅には、古びた能衣裳やら男物の古い小袖が、役にも立たず押しこんであるので、せめて、あなたのような御修行中の若いお方に着ていただければと思って、
うしろへ廻って、いやおうなく武蔵の体へ、着せかけてくれる。
迷惑なほど、それは贅沢な品だった。わけても
「ようお似あいになります」
後家と共に、城太郎も見惚れていたが、無遠慮に、
「おばさん、おらには、何をくれるの」
「ホホホ。だって、あなたはお供でしょう、お供はそれでいいじゃありませんか」
「着物なんか欲しくねえさ」
「何か望みがあるんですか」
「これをくれないか」
次の間の壁に掛けてあった
「これを、おくれ」
と自分の頬へ、
武蔵は、城太郎の眼のするどさに驚いた。実は彼も、ここに寝た晩から心をひかれていた
それだけなら、まだそう心を奪われもすまいが、この仮面には、他のありふれた
ただ、その美人が、おそろしい鬼女に見える点は、笑っている
「あっ、それはいけない」
この
「いいじゃないか、こんな物、いやだといっても、おいらは貰ッたアと!」
踊りながら逃げ廻って、何といっても返さない。
調子にのると子どもは
「これっ、なぜそんなことを」
と叱っても、城太郎は浮かれ調子をやめないで、こんどは
「いいね、おばさん。おいらにおくれね、いいだろ、おばさん」
梯子を降りて
若い後家は、
「いけない、いけない」
といいつつ、子供のする振舞なので、怒れもせず、笑いながら追いかけて行ったが、そのまましばらく階下から上がって来ないがと思っていると、やがて城太郎だけが、みしみしと、梯子段をのろく上がって来る様子。
来たら叱ってやろう。――武蔵がそう考えて、上がり口のほうに向って厳しい膝を向けて坐っていると、そこから不意に、
「――ばあア!」
鬼女の笑い仮面が、伸びた体の、先っぽに見えた。
びくっと、武蔵は筋肉をひきしめ、膝がすこし動いたくらいだった。何でそんな衝撃をうけたか、かれにもわからない。――しかしながら薄ぐらい梯子段の口元に手をついている笑い
「さ、おじさん、出かけましょう」
と城太郎はそこでいう。
武蔵は起たず、
「まだお返しせぬか。左様なもの、欲しがってはならん」
「だって、いいといったんだよ、もう、くれたんだよ」
「よいとはいわぬ。
「ううん、階下で返すといったら、こんどは、あのおばさんの方から、そんなに欲しければ上げる、その代りに大事に持ってくれますかというから、きっと大事に持っていると約束して、ほんとに貰ったんだ」
「困った奴」
この家にとり、大事そうな仮面やら小袖まで、こうして理由なく貰って立つことが、武蔵は何となく気がすまない。
何か気持だけでも礼をのこしてゆきたいと思う。しかし金銭には困らない家らしいし、代りに与える品とても持っていないので、階下へ降りて、改めて、城太郎のぶしつけな
「いえ、考え直してみますと、あの
そういう言葉を聞けば、よけいにあの仮面には何か歴史のある物らしく思われるので、武蔵はなお固辞したが、城太郎はもう大得意の
仮面よりも、若い後家は、武蔵に対してほのかに名残りを惜しみながら、この奈良へ来た時は、ぜひまた幾日でも泊ってもらいたいと繰返していう。
「では」
と、ついに何もかも先の好意に甘えて、武蔵が草鞋の緒をむすびかけていると、
「おう、お客さま、まだいらっしゃいましたか」
この
「だめですよ、お客さま、お立ちどころではありません、たいへんです、とにかくもう一度二階へおもどりなさいませ」
何か怖ろしいことに、背を
武蔵は、草鞋の緒を、両足ともに結んでしまってから、静かに顔をあげた。
「何ですか、大変とは」
「あなたが、今朝ここを立つのを知って、宝蔵院のお坊さま達が、槍を持って、十人余も連れ立ち、
「ほ」
「その中には、院主の宝蔵院の二代様も見え、町の衆の眼をそばだたせました。何か、よほどな事が起ったのであろうと、宅の
宗因饅頭の女房は、青眉のあとを
「ははあ」
武蔵は、そこの上がり
「般若坂で、拙者を待ちうけるのだろうと、いっていましたか」
「場所はよう分りませぬが、その方角へ行きました。宅の
「そんな覚えはない」
「でも、宝蔵院のほうでは、あなたが人をつかって、奈良の辻々に落首を書いて貼らせたと、ひどく怒っているそうです」
「知らんな、人違いだろう」
「ですから、そんなことで、お命を落しては、つまらないではございませんか」
「…………」
答えるのを忘れて、武蔵は軒ごしに空を見ていた。思いあたるところがある。きのうだったか
たしか一人は
察するところ、あの折、いやに凄みをふくんだ表情で帰って行ったのは、後にこのことをもって、思い知らしてやるという
自分には覚えのない宝蔵院の悪口をいいふらしたとか、落首を書いて辻々にはったとかいう
「行こう」
武蔵は立って、旅づつみの端を胸の前で結び、笠を持って、宗因
「どうしても」
観世の後家は、涙ぐんでいるかのような眼で、外まで
「夜を待っていれば、必ずお宅に
「かまいません、私のほうは」
「いや、立ちましょう。――城太郎、お礼をいわんか」
「おばさん」
と、呼んで、城太郎は頭を下げた。にわかに彼も元気がない。それは別れを惜しむためとは見えないのである。思うに城太郎はまだ武蔵の本当を知らないし、京都にいたころから弱い武者修行と聞かされているので、自分の師匠の行く先に、音に聞えた宝蔵院衆が、槍をつらねて待っていると聞き、子供心にも、一抹の不安を覚えて、悲壮になっているのであろう。
「城太郎」
足を止めて、武蔵が振向く。
「はい」
城太郎は眉をびりっとさせた。
奈良の町はもう後ろだった。東大寺ともかけ離れている。月ヶ瀬街道は杉木立のあいだを通って、その杉の樹の
「なんですか」
ここまで、七町あまり、ニコともしないで、黙々と
山の中へでも、お寺の内へでも、隠れようとすれば隠れ込めないことはない、逃げようと思えば逃げられないことはない。それを何でこうして、宝蔵院衆が行ったという般若野のほうへ、自分から足を向けてしまうのだろうか。
城太郎には、考えられない。
(行って、
その程度の想像はしてみる。謝るなら、自分も、一緒になって、宝蔵院衆に謝ろうと思う。
どっちがいいとか悪いとかなどは、問題でない。
そこへ武蔵が足を止め――城太郎――こう呼んだので彼はわけもなくドキッとしたのだった。しかし、自分の顔いろは、きっと蒼くなっているだろうにと考え、それを武蔵に見られまいとするらしく陽を仰いだ。
武蔵も上を仰いでいる。心ぼそいものが世の中のこう二人みたいに、城太郎の気持をつつんだ。
案外、次に出た武蔵の言葉は、ふだんの調子とちっとも変っていない。こういうのだ。
「いいなあ、これからの山旅は、まるで
「え? なんですか」
「鶯がさ」
「あ。そうですね」
うつつである。
「
「え、奈良坂も過ぎましたよ」
「ところで」
「…………」
あたりに啼きぬく鶯が、ただ寒々しいものに城太郎の耳を通ってゆく。城太郎の眼は、
「もうそろそろだ、わしとここでわかれるのだぞ」
「…………」
「わしから離れろ。――でないと
ポロポロと眼が溶けて頬に白いすじを描いてながれる。ふたつの手の甲が、そうっと
「何を泣く、兵法者の弟子じゃないか。わしが万一、血路をひらいて走ったら走ったほうへおまえも逃げろ。また、わしが突き殺されたら、元の京都の居酒屋へ帰って奉公せい。――それを、ずっと離れた小高い所でおまえは見ているのだ。いいか、これ……」
「なぜ泣く」
武蔵がいうと、城太郎は濡れた顔を振り上げて、武蔵の
「おじさん、逃げよう」
「逃げられないのが侍というものだ。おまえは、その侍になるのじゃないか」
「
城太郎は戦慄しながら、武蔵の袂を、懸命にうしろへ引いて、
「おらが可哀そうだと思って、逃げてよう、逃げてよう」
「ああ、それをいわれるとおれも逃げたい。おれも幼少から骨肉に恵まれなかったが、おまえもおれに劣らない親の縁にうすい奴だ。逃げてやりたいが――」
「さ、さ、今のうちに」
「おれは侍、おまえも侍の子じゃないか」
力が尽きて、城太郎はそこへ坐ってしまった。手でこする顔から黒い水がぼたぼた落ちた。
「だが、心配するな。おれは負けないつもりだ。いやきっと勝つ。勝てばよかろう」
そう慰めても、城太郎は信じない。先に待ち伏せている宝蔵院衆は十人以上だと聞かされているからだった。弱い自分の師匠には、その一人と一人との勝負でも、勝てるわけはないと思っているのである。
きょうの死地へ当ってゆくには、そこで生きるも死ぬも十分な心構えが要る。いやすでにその心構えの中に立っているのだ。武蔵は、城太郎を愛しもするし
ふいに激越な声で叱ったのである。彼を突き離すとともに、自分へ弾力を持って、
「だめだッ、貴様のような奴、武士にはなれん、居酒屋へ帰れ」
強い侮辱をあびせられたように少年のたましいはその声に泣きじゃくりを止めた。はっとした顔いろをもって、城太郎は起ち、そして、もう大股に彼方へ歩いてゆく武蔵のうしろ姿へ、
(――おじさアん)
叫びそうにしたが、それを
武蔵は振り向かなかった。しかし、城太郎の泣きじゃくりがいつまでも耳にこびりついていて、もう頼り
(よしなき者を連れて歩いて――)
と、彼は心に悔いを噛むのであった。
未熟な自分の身一つさえ持てあましているものを――孤剣を
「おうーい。武蔵どの」
いつか杉林を通りぬけて、ひろい野へ出ていた。野というよりは、斜めに起伏を落している
「何処へお
二度目のことばをかけながら駈けて来て、
いつぞや泊り先の観世の後家の家へやって来た三名の牢人者のうちで、
――来たな。
武蔵はすぐ看破した。
だが、さあらぬ顔して、
「おう、先日は」
「いや過日は失礼を」
あわてて挨拶をし直したその礼儀ぶりが、いやに叮嚀である。
「その節のことは、どうか水にながして、お聞き捨てのほどを」
このあいだ宝蔵院で、目に見た武蔵の実力には、大いに怖れを抱いている山添団八であるが、それかといって年はまだ二十一、二歳の田舎武士にすこし
「武蔵どの。これから、旅はどちらの方面へ」
「伊賀を越え、伊勢路へ参ろうと思う。――貴公は」
「それがしは、ちと用事があって、月ヶ瀬まで」
「柳生谷は、あの近傍ではありませんか」
「これから四里ほどして大柳生、また一里ほど行くと小柳生」
「有名な柳生殿の城は」
「笠置寺から遠くないところじゃ。あれへもぜひ立ち寄って行かれたがよいな。もっとも今、大祖
「われらのような一介の遍歴の者にでも、授業して下さろうか」
「たれかの紹介状でもあればなおよろしいが。――そうそう月ヶ瀬に
団八は、武蔵の左へ左へと、特に意識して並んで歩いていた。所々に、杉や
武蔵は、足を止め、
「はてな?」
「何が」
「あの煙」
「それがどうしたのでござる」
団八は、ぴったり寄り添っている。そして武蔵の顔いろを見る彼の顔いろが、やや硬ばる。
武蔵は指さして、
「どうもあの煙には妖気があるように思う。貴公の眼には、どう見えるな」
「妖気というと?」
「たとえば」
と、煙へさしていた指を、こんどは団八の顔の真ン中へさして、
「汝のひとみに漂っているようなものをいう!」
「えっ」
「見せてやるっ、このことだっ!」
突然、春野のうららかな
何処かで、
「あっ――」
と驚いていう者があった。
それは二人が越えて来た丘のうえにチラと今、影を見せて
「やられたっ!」
というような意味の大声をあげて、その者たちは、手を振り上げながら何処かへ走ってゆく。
――武蔵の手には、低く持った
女の手で撫でられるように
一歩、一歩、彼のからだは鉄みたいに肉が
丘に立つ。――下を見る。
なだらかな野の沢がひろく見渡された。
「来たっ――」
さけんだのは、その焚火を囲んでいた大勢の者ではなくて、武蔵の位置をずっと離れて、そこへ駈け足で
今、武蔵の足もとで、一太刀に斬りすてられた山添団八の仲間の者――
来たっという声に対して、
「え、来たっ?」
おうむ返しにいって、焚火のまわりの者は、いっせいに大地から腰を刎ね上げ、また、そこから離れて、思い思いに陽なたに
人数はというと、およそ三十名近い。
そのうち約半数は僧であり、あと半数ほどは雑多な牢人者の群れなのである。丘の肩を越えてこの野の沢から般若坂へぬけてゆく道の、その丘の上に、今、武蔵の姿が現われたのを認めると、
(うむ!)
声としては出ない一種の
しかも、武蔵の手には、すでに血を塗った剣が
野洲川、大友の二人は、
「――山添が、山添が」
と早口にいって、仲間の一人が、すでに武蔵の刃にかかって仆れたことを、
牢人たちは、歯がみをし、宝蔵院の僧たちは、
「
と、陣容を作って、武蔵のほうを
宝蔵院衆の十数名は、みな槍だった。片鎌の槍、ささ穂の槍、思い思いの一槍をかいこんで、黒衣のたもとを背にむすび、
「――おのれ、今日こそ」
と、院の名誉と、
牢人たちは、牢人たちのみで、一団にかたまって、武蔵が逃げないように包囲しながら見物しようという計画らしく、中には、げらげら笑っている者がある。
けれど、その手数は不要だった。彼らは、居どころに立ったまま、自然な鶴翼の陣形を作っていればそれでよかった。敵の武蔵に、すこしも、逃げたり、狼狽したりする様子がないからである。
武蔵は歩いている。
それも極めて、一足一足、
――来るぞっ。
もう口に出していう者はない。
けれど、徐々に、片手に剣をさげた武蔵の姿が、
「…………」
不気味な一瞬の静けさは、双方が死を考える瞬間であるのだ。武蔵の顔はまったく蒼白になっている。死神の眼が、彼の顔を借りて、
(――どれから先に)
と、
牢人の群れも、宝蔵院衆の列も、その一人の敵に対して、圧倒的な多数を擁してはいるが、彼ほど、蒼白になっている顔は一つもなかった。
(――
と、衆を
――と。
槍をつらねている宝蔵院衆の列の端にいた一人の僧が、合図を下したかのように見えた時である、十数名の黒衣の
「武蔵――ッ」
と、その僧がさけんだ。
「聞くところによれば、汝、いささかの腕を誇って、この
「ちがう!」
武蔵の答えは、簡明だった。
「よく物事は、眼で見、耳できくばかりでなく、肚で
「なにッ」
胤舜をさし
「問答無用っ」
といった。
すると、挟撃の形をとって、武蔵の左がわにむらがっていた牢人たちが、
「そうだっ」
「むだ口を叩かすなっ」
がやがやと
武蔵は、そこの牢人達のかたまりが、口ばかりで、質も結束も
「よしっ、問答に及ぶまい。――誰だっ、相手は」
彼の眼が、きっと、自分たちへかかったので、牢人たちは、思わず足を
「おれだっ」
けなげに、大刀を中段にかまえると、武蔵はいきなりその一人に向って、
どぼっと、
ずずんっ、ずしいんっ、と武蔵の手にある
初めから、牢人たちの側には、
(――闘うのは宝蔵院衆、おれたちは、人殺しの見物)
と考えていたらしいのである。
武蔵が、そこの群れを、
だが、彼らも、あわてはしなかった。彼らの頭には、宝蔵院の
ところが。
すでに戦闘はひらかれ、自分たちの伸間が二人仆れ、五人、六人と、武蔵の太刀にかかっているのに、宝蔵院側は、槍を横に並べて傍観しているのみで、一人も武蔵へ対して、突いて来ないではないか。
くそっ、くそっ――
やっちまえ、早く。
うわうッ。
だッ……だッ……
こなくそっ。
ぎゃんっ!
あらゆる音響が
(これでは、約束がちがう、この敵はそっちのもので、おれたちは第三者だ、これではあべこべではないか)
という苦情を言葉でいう
酒に酔った
もっとも武蔵自身もまた、自分が何を行動しているか、一切無自覚であった。ただ彼の生命を構成している肉体の全機能が、その一瞬に、三尺に足らない刀身に
――死生一如。
どっちへ帰することも頭にない人間のある時の
それが、今、白刃のなかを駈けまわっている武蔵の姿だった。
(斬られては損)
(死にたくない)
(なるべく他人に当らせて――)
というような雑念の傍らに刃物をふり廻している牢人たちが、歯ぎしりしても、一人の武蔵を斬り仆し得ないのみか、却って、その死にたくない奴が、
槍をならべている宝蔵院衆の中の一人が、それを眺めながら、自分の呼吸をかぞえていると、その時間は、呼吸のかずにして約十五か、二十をかぞえるに足らない寸秒の間であった。
武蔵の全身も血。
残っている十人ほどの牢人もみな血まみれ。あたりの大地、あたりの草、すべてが朱く泥んこになって、吐き気を催すような
「わあっ――」
と
それまでは、満を持して、白い穂先をつらねていた宝蔵院の
「神さま!」
「――神さま、加勢してください。わたくしのお師匠様は今、この下の沢で、あんな大勢の敵と、ただ独りで闘おうとしているんです。わたくしのお師匠様は、弱いけれど、悪い人間ではありません」
武蔵に捨てられても、その武蔵から離れられないで、遠く見まもりながら、彼は今
「――八幡さま、
百拝、千拝、その城太郎こそ気が変になったように、しまいには声を揚げて繰返すのであった。
「――この国に神様はいないんでしょうか。もし卑怯な大勢が勝って、正しい一人のほうが斬られたり、正義でない者が存分なまねをして、正しい者がなぶり殺しになったりしたら、むかしからの云い伝えはみな嘘ッぱちだといわれても仕方がありますまい。イヤ、おいらは、もしそうなったら神さま達に
理窟は幼稚であっても、彼の眸は血ばしっていて、むしろもっと深い理窟のある
それだけには止まらない。やがて、城太郎は、彼方のひくい芝地の沢に見える一かたまりの人数が、ただ一人の武蔵を、刃の中に取り囲んで、針をつつんで吹く
「――畜生っ」
ふたつの
「卑怯だっ」
と、絶叫し、
「ええ、おいら大人ならば……」
と、地だんだ踏んで泣き出し、
「馬鹿っ、馬鹿っ」
と、そこらじゅうを駈けあるき、
「――おじさアん! おじさアん! おいらは、ここにいるよッ」
しまいには彼自身が、完全なる神さまとなり切って、
「――
ありッたけな声で、さけんでいたものである。
そして、そこからの遠目にも、
「ヤッ、おじさんが斬った。――お師匠様はつよいぞっ」
こんな多量な血しおを
いつか城太郎は、自分も
「――ざま見ろッ、どんなもんだい。おたんちん! ひょっとこ! おいらのお師匠様は、こんなもンだ。カアカア
だが、やがて
「あっ、いけない、総攻めだっ」
武蔵の危機! 今が最期と彼にも分った。城太郎はついに身のほども忘れてしまい、その小さい体を火の玉のように
宝蔵院初代の槍法をうけて、隠れもない達人といわれる二代
「よしッ、やれっ」
その時、すさまじい声をもって、さっきから静観の槍先を横たえたまま、
ぴゅうーっと、白い光はその途端に、蜂を放ったように八方へ走った。坊主あたまというものには、一種特別な剛毅と野蛮性がある。
くだ槍、片鎌、ささほ、十文字、おのおのがつかい馴れた一槍を横たえて、そのカンカチ頭とともに、血に飢えて躍ったのだ。
――ありゃあっ。
――えおうっ。
――武蔵は、
(新手!)
と感じて飛び
(見事に死のう!)
もう疲れて霞んでいる脳裏でふとそう考え、
「……や?」
どう考えてもあり得ない光景が展開されていた。茫然と、彼は、その不可思議な事実を見まわしてしまった。
なぜならば、坊主あたまの
からくも、武蔵の太刀先から逃げ退いて、ほっとしかけていた連中までが、
「待てっ」
と、呼ばれたので、まさかと思って待っていると、
「
と不意の槍先に突っかけられて、宙へ刎ね飛ばされたりした。
「やいっ、やいっ、何するんだっ、気が狂ったか。馬鹿坊主め、相手を見ろっ、相手が違うっ」
と叫んだり転げたりする者の尻を狙って、撲る者があるし、突く者があるし、また、左の頬から右の頬へ槍を突きとおして、槍を
「離せっ」
と
おそろしい
みな殺しだった。あれだけいた牢人者を、一人としてこの般若野の沢から外へ洩らさなかったのである。
武蔵は、自分の眼が信じられなかった。太刀を構えていた手も、張りつめていた気も、茫然とはなりながら、
(――何で? 彼ら同士が)
まったく判断がつかないのである。いくら今、武蔵自身の人間性が、人間を離脱した血の奪いあいに、
いやそう感じたのは、他人のする虐殺を見せられて、途端に、彼は本来の人間に
同時に彼は、地中へふかく突っ込んでいるように力で硬くなっている自分の脚に、――また、自分の両手にしがみついて、オイオイ泣いている城太郎にも、ふと気がついた。
「初めてお目にかかる。――宮本殿といわるるか」
つかつかと歩み寄って来て、こういんぎんに礼儀をする長身
「オ……」
武蔵は、われに帰って、
「お見知りおき下さい。わたくしが宝蔵院の
「む。あなたが」
「過日は、せっかくお訪ね下された由ですが、不在の折で、残念なことをしました。――なお、そのせつは門下の
「…………」
はてな?
武蔵は、相手のことばを、耳を洗って聞き直すように、しばらくだまっていた。
この人の言語や、言語にふさわしい立派な態度を、こちらも、礼儀をもって受け容れるには、武蔵はまず、自分の頭の中に混雑しているものから先に整えて聞かなければならなかった。
それにはまず宝蔵院衆が、何が故に、自分に向けてくるはずの槍を、
その
「
胤舜は、先に歩いて、
城太郎は、彼のたもとを離れなかった。
用意して来た奈良
「――見ろ、あんなに」
一人が空を指さし、
「もう
「――降りて来ないな」
「おれたちが去れば、争って死骸へたかる」
そんな
胤舜に向い、
「実は、拙者はあなた方こそ、今日の敵と思い、一人でもよけいに
すると胤舜は、笑って、
「いや貴公にお味方した覚えはない。ただすこし手荒ではござったが、奈良の大掃除をしただけのことです」
「大掃除とは」
その時、胤舜は、指を
「そのことは、てまえからお話しするより、あなたをよく知っている先輩の
「――老師、
「そちらが遅いのじゃ」
「馬より迅い」
「あたりまえ」
猫背の老僧日観だけ、駒の足をしり目にかけて、自分の足で歩いていた。
般若野の
その日観と前後して、五人の騎馬の役人が、かつかつと野の石ころを蹴って行く。
近づくのを見て、
「老師、老師」
と、囁きあう。
坊主たちはずっと
「片づいたかい?」
日観が、そこへ来ての最初のことばだった。
「はっ、仰せのように」
と、胤舜は師礼を
そして、騎馬役人へ向い、
「御検視、ご苦労です」
役人たちは、順々に、鞍つぼから飛び降り、
「なんの、ご苦労なのは、
と、彼方此方に横たわっている十幾つかの死骸を見て、
「取片づけは、役所からさせる。後の事、捨ておいて、退去してよろしい」
いい渡すと、役人らは馬上へ返って、ふたたび野末へ駈け去った。
「おまえ達も戻れ」
日観が命令を下すと、槍を並べている僧列は、黙礼して野を歩みだした。それを連れて、胤舜も、師と武蔵へ、あいさつを残して帰って行った。
人が減ると、
ぎゃあアぎゃあア!
「うるさい奴」
日観はつぶやきながら、武蔵のそばへ来て、気軽にいった。
「いつぞやは失礼」
「あっ、その折は……」
あわてて彼は両手をつかえた。そうせずにはいられなかった。
「お手をお上げ。野原の中で、そう
「はい」
「どうじゃな、今はすこし、勉強になったか」
「仔細、お聞かせ下さいませ。どうして、こういうお計らいを?」
「もっともだ。実はの」
と、日観が話すには――
「今帰った役人たちは、奈良奉行大久保長安の与力衆でな、まだ奉行も新任、あの衆も土地に馴れん。そこをつけ込んで、悪い牢人どもが、押し借り、強盗
「ははあ……」
「その山添、野洲川などが、おぬしに怒りを抱いたことがあろう。だが、おぬしの実力を知っているので、その
聞いている武蔵の眼は、微笑してきた。
「――よい
いや
大掃除っ
大掃除っ
と、途方もない声で唄い出したものである。大掃除っ
その声に、武蔵と日観が振向いてみると、城太郎は例の笑い
なア鴉
奈良ばかりじゃないぜ
大掃除は時々必要だよ
自然の理だよ
万物が革 まるために
生々 とその下から春が来る
落葉を焚き
野を焼くんだ
時々、大雪が欲しいように
時々、大掃除もあっていいよ
なア鴉
おまえ達にも饗宴だ
人間の眼玉のお吸物
紅 いどろどろのお酒
喰べすぎて酔ッぱらうな
「おい子供っ」奈良ばかりじゃないぜ
大掃除は時々必要だよ
自然の理だよ
万物が
落葉を焚き
野を焼くんだ
時々、大雪が欲しいように
時々、大掃除もあっていいよ
なア鴉
おまえ達にも饗宴だ
人間の眼玉のお吸物
喰べすぎて酔ッぱらうな
日観が呼ぶと、彼は、
「はいっ」
乱舞を止めて、振向いた。
「そんな気狂いじみた真似をしておらんで石を拾え、ここへ石を拾って来い」
「こんな石でいいんですか」
「もっと沢山――」
「はい、はい」
城太郎が拾い集めて来ると、日観は、その小石の一つ一つへ南無妙法蓮華経の題目を書いて、
「さあ、これを死骸へ、
といった。
城太郎は石を取って野の四方へ投げた。
その間、日観は、
「さあ、それでよろしい。――ではお前さん達も先へ出立するがよい。わしも奈良へ戻るとしよう」
礼をいう
「老師っ、お忘れ物っ」
と、刀の柄をたたいた。
日観は、足を止め、
「忘れ物とは?」
「会い難いこの世の御縁に、せっかくこうしてお目にかかったのです。どうか一手の御指南を」
すると、歯のない彼の口から、からからと枯れた人間の笑い声がひびいた。
「――まだ分らんのか。お前さんに教えることといえば、強過ぎるということしかないよ。だが、その強さを自負してゆくと、お前さんは三十歳までは生きられまい。すでに、今日
「…………」
「きょうの働きなども、まるでなっておらぬ。若いからまアまアせんないが、強いが兵法などと考えたら大間違い。わしなど、そういう点で、まだ兵法を談じる資格はないのじゃよ。――左様、わしの先輩柳生
「…………」
武蔵は
ここは
その柳生谷は、山村とよぶには、どこか人智の光があり、
この山市のまん中に、土民が「お
そしてこの地方四
関ヶ原の戦後、すぐ近い奈良の町は、あのとおり浮浪人に占領され、浮浪人の運びこんだ悪文化に
その一例を見ても、いかにこの辺の郷土がそんな不純を入れない気風と制度を持っているかが
領主がよくて領民がよいばかりではない、朝夕の笠置の山はきれいだし、水は茶に汲んで飲むと
詩人は、――英雄生ル所山河清シ、といったが、こんな郷土から、もし一人の偉人でも生まれなかったら、詩人は嘘つきといってよいし、ここの山河は、ただ美しいのみで
今はその「石垣のお館」には、隠居された柳生
「ふしぎだ」
武蔵が、ここの地を踏んだのは
民家の生活を見、畑の作物をながめ、また往きあう者の風俗に注意し、そのたびに、武蔵が、
「ふしぎだ」
何度も呟くので、
「おじさん、何がふしぎ?」
と、城太郎はむしろ武蔵の呟きこそ、不思議として、こう訊ねた。
「中国を出て、
「おじさん、どこがそんなに違っているの」
「山に樹が多い」
城太郎は、武蔵のことばに、吹き出して、
「樹なんか、どこにだって沢山生えているぜ」
「その樹が違う。この柳生谷四
「それから」
「畑が青い。麦の根がよく踏んである。
「それだけ?」
「まだある。ほかの国とちがって、畑に若い娘が多く見える。――畑に紅い帯が多く見えるのはこの国の若い女が、他国へ流れ出ていない証拠だろう。だからこの国は、経済にも豊かで、子供はすこやかに育てられ、老人は尊敬され、若い男女は、どんなことがあっても他国へ走って、浮いた生活をしようとは思わない。従って、ここの領主の
「なんだ、なにを感心しているのかと思ったら、そんなつまらないことか」
「おまえには面白くあるまいな」
「だって、おじさんは、柳生家の者と試合をするために、この柳生谷へ来たんじゃないか」
「武者修行というものは、何も試合をして歩くだけが能じゃない。一宿一飯にありつきながら、木刀をかついで、叩き合いばかりして歩いているのは、あれは武者修行でなくて、渡り者という
まだ幼稚な者に向って、説いても無益と思いながら、武蔵には、少年に対しても、よいほどにものを
城太郎の
「
声をかけて、通り越した。
ひょいと、その鞍の上を仰いで城太郎は、
「あっ、庄田さんだ」
と、口走った。
その侍の顔が、熊のようなあご
「おう、小僧か」
ニコと笑ったが、そのまま駒をすすめ、柳生家の石垣の内へかくれてしまった。
「城太郎、今、馬の上からお前を見て笑ったお人、あれは誰だ」
「庄田さんて――柳生様の家来だって」
「どうして知っているのか」
「いつか、奈良へ来る途中、いろいろ親切にしてくれたから」
「ふム」
「ほかに、何とかいう女の人とも道連れになって、木津川
小柳生城の外形と、柳生谷の土地がらを一巡見て歩いて、武蔵はやがて、
「帰ろう」
と、元の方角へ足を向ける。
「旦那はん、どこへ行きなされた?」
部屋へ入ると、紺の筒袖に、
「すぐ風呂に入りなされ」
という。
城太郎は、ちょうどよい年頃の友達を見つけたように、
「おめえ、何てえ名だい」
「知らんが」
「阿呆、自分の名を」
「
「変な名」
「大きにお世話」
小茶が、
「
武蔵は廊下から振向いて、
「おい、小茶ちゃん、風呂場はどこだ。――先の右側か、よしよしわかる」
板の間の棚に、三人分の衣服が脱いであった。武蔵のを加えて四人分になる。戸をあけて、湯気の中へ入ってみると、先に入っていた客たちは、何か陽気に話していたが、彼の
「むーム」
武蔵の六尺に近い体を沈め込むと、
「? ……」
一人が、武蔵のほうを振り向いた。武蔵は湯槽のふちを枕にして、眼をつむっている。
そこで、すこし安心したのか、三名は途絶えていた話のつづきに入って――
「なんといったかな、先ほど参った柳生家の用人は」
「庄田喜左衛門だろう」
「そうか。――柳生も用人を使いに立てて試合を断るようでは、名ほどのこともないと見えるぞ」
「誰に対しても、近頃は、あの用人がいったように、石舟斎は隠居、但馬守
「いや、そうじゃあるまい。こちらが、吉岡家の次男と聞いて、大事を取り、敬遠したに相違ないさ」
「御旅中のお
背中の色が白い。筋肉がやわらかい。皆、都会人とみえ、洗煉された会話の
(……吉岡?)
ふと耳に入ったので、武蔵は何気なく
吉岡の次男といえば、清十郎の弟伝七郎のことだが?
(それかな)
と、武蔵は注意していた。
自分が四条道場を訪ねた時、門人か誰かが御舎弟の伝七郎どのは、友人と伊勢参宮へ参って留守であるといっていた。――この旅の戻り
(おれは湯槽がよく
武蔵は心のうちで
旅に出ていたとはいえ、おそらくは、京都の四条道場での自分とのいきさつを、耳にしているに相違ない。――ここで自分を宮本と知ったら、すぐ板戸一枚向うにある刀を取って物をいい出すだろう。
武蔵は一応そう考えたのだ。しかし、三名のほうには一向そういう
その礼儀に対して、この若い都会人たちは、
(柳生も、如才ない)
とか、
(怖れをなして敬遠した)
とか、
(大した人物もいないらしい)
とかいう風に、自己満足な解釈を下して、
今し方、親しく足で踏んで、小柳生城の外廓から、土俗人情を実地に見て来ている武蔵にとっては、彼らのそうした得意さと勝手な受け取り方が、笑止でならなかった。
井の中の
兵法の家として、吉岡家と柳生家とでは、比べものにならないほど吉岡家のほうが格式が高かったものである。けれど、それは昨日までのことだった。――それをまだ、ここにいる伝七郎や他の手合は気がつかない。
武蔵は、彼らの得意さが、おかしくもあり、気の毒にも思えた。
で――つい苦笑が顔にのぼりかける。彼はそれに困って、浴室の隅にある
その間に、
「ああいい気持」
「旅ごこちは、湯上がりの、この一
「女の酌で、晩に飲むのは」
「なおいい」
などと三名は、体を拭いて、先へ上がって行った。
洗った濡れ髪を手拭いで縛って、部屋に帰ってみると、男みたいな女の子の
「おや、どうした?」
「旦那はん、あの子が、あたいをこんなに
「嘘だい!」
と、向うの隅から城太郎が異議をいって
「なぜ女などを打つ」
武蔵が叱ると、
「だって、そのおたんこ
「嘘、嘘」
「いったじゃないか」
「旦那はんのことを弱いって、誰もいいはしないよ。おまえが、おらのお師匠様は日本一の兵法家で
武蔵は、笑って、
「そうか、悪い奴だ。後で叱っておくから、小茶ちゃん、勘弁してやれ」
城太郎は、不服らしい。
「おい」
「はい」
「湯に入ってこい」
「お湯はきらいだ」
「おれと似ているな。だが、汗くさくていかん」
「
日が
だが、武蔵は、そこも好きだった。
膳につく。
まだ
盆を持って給仕している小茶も口をきかない。睨めっこなのだ。
武蔵も、この数日は、思うことがあって、とかく心がそれに
望みというのは、
(柳生家の大祖、石舟斎宗厳と会ってみたい)
と、いうことである。
なお烈しくいえば――彼の若い野望の燃ゆるままを言葉に移していうならば――
(どうせ
もし第三者があって、彼のこういう志望を聞いたら、無謀といって笑うだろう。武蔵自身も、その程度の常識はないことは決してない。
小さくても、先は一城の
(――
武蔵も、それだけの準備は心でしていた。飯を噛む間もしているのである。
鶴のような老人である。もう八十歳にかかっているが、品位は年と共について、高士の風をそなえているし、歯も達者、眼もご自慢なのだ。
「百歳までは生きる」
と、常にいっている。
それというのも、この石舟斎には、
「柳生家は代々が長寿じゃ。
という信念があるからだ。
いや、そういう血統でないにしても、石舟斎のような処世と老後を心がければ、百歳くらい生きるのは当りまえにも思われる。
享禄、天文、弘治、永禄、元亀、天正、文禄、慶長――とこう長い乱世の中を生きて来て、殊に四十七歳までの壮年期は、三好党の乱だの、足利氏の没落だの、松永氏や織田氏の興亡だのに、この地方にあっても、弓矢を
「ふしぎと死ななかった」と、いっている。
四十七歳からは、何に感じたのか、一切弓矢を取らず、たとえば足利将軍の
(わしは、つんぼでござる、
というように、世の中から
後に、人に語って、
「よく持って来たものじゃ。
と、石舟斎はよくいった。
なるほど――
聞く者は、彼の達見にみな感服した。足利義昭についていれば信長に討たれたろうし、信長に従っていれば秀吉との間はどうなったか知れず、秀吉の
また、その興亡の波を、うまく切りぬけて、無事に家系を支えようとするには、恥も
「わしには、それが出来ん」
と、石舟斎がいうのは、ほんとうであろう。
そこで、彼が居間には、
世をわたる業 のなきゆゑ
兵法を隠れ家とのみ
たのむ身なれや
と自詠の一首が、懐紙に書かれて、壁の茶掛となっている。兵法を隠れ家とのみ
たのむ身なれや
だが、この老子的な達人も、家康が礼を厚うして招くに至ると、
(
と呟いて、何十年間の道境三昧の
その時、つれて行ったのが、五男又右衛門
こう二人の
「以後、徳川家の兵法所へ仕えるように」
と、家康がいうと、
「何とぞ、せがれ宗矩を」
と、子を推挙して、自分はまた、柳生谷の山荘へ
(世を治むるの兵法)
であった。
彼の「世を治むるの兵法」は、また彼の「身を修むるの兵法」でもあった。
石舟斎はそれを、
「これ皆、師の御恩」
と常にいって、ひたすら
「伊勢殿こそ柳生家の護り神ぞや」
口ぐせに、彼のいうとおり、彼の居間の棚には、常に、伊勢守から受けた新陰流の印可と、四巻の古目録とが奉じてあり、
その四巻の古目録というのは、一名
時折、石舟斎は、老後になっても、それを繰りひろげて、
「絵も妙手でおわした」
いつもふしぎに
伊勢守が、この小柳生城へ訪ねて来たのは、石舟斎がまだ兵馬の野心
そのころ、上泉伊勢守は、
と、石舟斎――その頃は、まだ柳生
それが、機縁だった。
伊勢守と宗厳は、三日にわたって、試合をした。
第一日、起ち合うと、
「とりますぞ」
伊勢守は、打つ所を明言しておいて、言葉のとおり打ちこんだ。
第二日も、同じように敗けた。
宗厳は、
すると伊勢守は、
「それは悪い、それでは、こう取る」
といって、忽ち、前の二日と同じように、指摘した所へ太刀を与えた。
宗厳は、
「初めて、兵法を
といった。
それから半歳の間、
伊勢守は、永くはと、
「まだまだ私の兵法などは未完成なものです。あなたは若い、私の未完成を完成してみるがよい」
こういって、一つの
無刀の太刀
という工夫であった。
宗厳は、以来数年間、無刀の理法を考えつめた。寝食をわすれて、
後、伊勢守がふたたび彼を訪れた時には、彼の眉は明るかった。
「いかがあろうか」
と、試合うと、
「む!」
伊勢守は、一目見て、
「もうあなたと太刀打はむだなことである。あなたは、真理をつかまれた」
そういって、印可、絵目録四巻を残して去った。
柳生流は、ここから誕生し、また、石舟斎宗厳の晩年の
今、彼の住んでいる山荘は、もちろん小柳生城の中ではあるが、
「お
伊賀の壺に、一輪の
「ほんに……」
と、お通はうしろから拝見している。
「大殿さまは、よほど茶道もお花もお習いになったのでしょう」
「うそを申せ、わしは
「でも、そう見えますもの」
「なんの、
「ま」
彼女は、驚いた目をして、
「剣道で挿花が生けられましょうか」
「生かるとも。花を生けるにも、気で生ける。指の先で曲げたり、花の首を
この人のそばにいてから、お通はいろいろなことを教えられた気がする。
――ほんの道ばたで知り合ったというだけの縁で、この柳生家の用人である庄田喜左衛門に、
その笛が、ひどく、石舟斎の気に入ったものか、また、この山荘にも、お通のような若い女のやわらかさが一点はあって欲しいと思われたのか、お通が、
「お
といい出しても、
「まあ、もう少しおれ」
とか、
「わしが茶を教えてやる」
とか、
「
などといって、離したがらないし、お通もまた、
「大殿さまには、かようなお
武骨な男の家来たちには、気のつかない細やかさを尽すので、
「ほう、これはよい」
その頭巾をかぶり、またとない者のように、お通を可愛がるのであった。
月の夜にはよく、彼女がそこでお聴きに入れる笛の音が、小柳生城の表のほうまで聞えて来た。
庄田喜左衛門は、
「飛んだお気に入って――」
と自分までが、拾い物をしたように、
喜左衛門は今、城下から戻って来て、古い
「お通どの」
「はい」
「まあ、これは。……さあどうぞ」
「大殿は」
「御書見でいらっしゃいます」
「ちょっと、お取次ぎ下さい。――喜左衛門、ただ今、お使いから戻りましたと」
「ホホホ。庄田様、それはあべこべでございます」
「なぜ」
「わたくしは、外から呼ばれて参っている笛吹きの女、あなたは柳生家の御用人さま」
「なるほど」
喜左衛門も、おかしくなったが、
「しかしここは、大殿だけのお住居、そなたはべつなお扱いじゃ――とにかくお取次を」
「はい」
と、奥へ行ってすぐ、
「どうぞ」
と、迎え直す。
お通の縫った頭巾をかぶって、石舟斎は茶室に坐っていた。
「行って来たか」
「仰せのように致して参りました。ていねいに、お言葉を伝え、お
「もう立ったか」
「ところが、てまえがお城へ戻るとまた、すぐ追いかけて、
「小せがれめ」
石舟斎は舌打ちして、
「うるさいの」
不興な顔をした。
「
「申しましたのです」
「こちらから、
「なんとも……」
「うわさの通り吉岡の
「綿屋で会いました。あそこに、伊勢詣りの戻りとかで滞在中の伝七郎という人、やはり人品がおもしろうございませぬ」
「そうじゃろう、吉岡も先代の拳法という人間は相当なものだった。伊勢殿とともに、入洛の折は、二、三度会うて、酒など酌み交わしたこともある。――が、近ごろはとんと
「伝七郎とかいう者、なかなか自信があるらしゅうございます。
「いや、止せ止せ。名家の子というものは、自尊心がつよくて、ひがみやすい。打ち叩いて帰したら、ろくなことをいい触らしはせん。わしなどは、超然じゃが、
「では如何いたしましょうか」
「やはり、ものやわらかに、名家の子らしゅう扱って、あやして帰すに
お通のすがたを振向いて、
「使いには、そなたがよいな、女がよい」
「はい、行って参りましょう」
「いや、すぐには及ぶまい。……明朝でいい」
石舟斎は、さらさらと茶人らしい簡単な手紙を書き、それを、先刻、壺へ
「これを持って、石舟斎事、ちと
なお石舟斎から、使いの口上を授かって、お通は、次の日の朝、
「では、行って参ります」
「あの……お馬を一頭お借りして参ります」
そこらを掃除していた厩方の小者が、
「おや、お通さん。――どちらまで?」
「お城下の綿屋という
「では、お供いたしましょう」
「それには及びませぬ」
「だいじょうぶで?」
「馬は好きです。田舎にいた頃から、野馬に馴れておりますから」
被衣は、都会ではもう旧い服装として、上流のあいだでも
ほころびかけた
「お通様がとおる」
「あの人がお通様か」
と、畑の者は見送っていた。
わずかな間に、彼女の名が、畑の者にまでこう知れ渡っているわけは、畑の者と石舟斎とが、百姓と領主というような窮屈な関係でなく、非常に親しみぶかい間がらにあるので、その大殿のそばに近ごろ、笛をよくする美しい女が
半里ほど来て、
「綿屋という旅籠は?」
駒の上から、農家の女房に聞くと、その女房がまた、子供を背負って、流れで
「綿屋へ行かっしゃれますか。わしが、ご案内いたしますべ」
用をすてて、先へ駈けるので、
「もし、わざわざ来て下さらなくても、およそ口で仰っしゃって下さればようございますのに」
「なに、すぐそこだがな」
そのすぐそこが十町もあった。
「
「ありがとう」
降りて、軒先の樹に、駒をつないでいると、
「いらっしゃいまし。お泊りですか」
と、
「いいえ、こちらに泊っている吉岡伝七郎様を訪ねて来たのです。――石舟斎様のお使いで」
小茶ちゃんは駈けこんで、やがて戻って来ると、
「どうぞ、お上がり下さい」
折から今朝宿を立つので
「
「誰のお客」
小茶ちゃんに

ゆうべ遅くまで飲んで、今し方やっと起き出した所の吉岡伝七郎とその連れの者は、小柳生城からの使いと聞き、またきのうの熊みたいな
「や、これは。……こんな取り散らかしている所へ」
と、ひどく恐縮顔をして、部屋の殺風景へ気をつかうばかりでなく、自分たちの衣紋や膝も、
「さ、こちらへ、こちらへ」
「小柳生の大殿から、申しつかって来た者でござりますが」
お通は、
「おひらき下さいませ」
「ほ。……このお文」
伝七郎は解いて、
「拝見いたす」
一尺にも足らない手紙である。茶の味とでもいおうか、さらさらと墨も
老い籠りの身は世の外に深う沈みて、顔浮かみ出すも、もの
石舟斎
伝七郎どのほか諸
つまらなそうに鼻を鳴らし、手紙を巻いて、
「これだけでござるか」
「それから――かように大殿のおことばでございました。せめて、粗茶の一ぷくなりとさし上げたいのですが、家中武骨者ぞろいで、心ききたる者はいず、折わるく子息
「ははあ」
不審顔を作って、
「仰せによると、石舟斎どのは、何か、吾々が茶事のお手前でも所望したように受り取っておられるらしいが、それがしどもは、武門の子、茶事などは解さんのでござる。お望み申したのは、石舟斎どののご健存を見、ついでに御指南を願ったつもりであるが」
「よう、ご承知でいらっしゃいます。したが、近頃は、風月を友にして、余生をお送りあそばしているお体、何かにつけ、茶事に託してものを仰っしゃるのが癖なのでございまする」
「ぜひがない」
と、
「では、いずれまた、再遊のせつには、ぜひともお目にかかると、お伝えください」
と伝七郎が、
「あの、これは、道中のお慰みに、お駕なれば駕の端へ、馬なれば鞍のどこぞへでも挿して、お持ち帰り下さるようにと、大殿のおことばでございましたが」
「なに、これを土産にだと」
眼を落して、
「ば、ばかな。
――そう断られる物を、強いて、押しつけてゆくわけにもゆかないので、お通は、
「では帰りました上、そのように、……」
芍薬を持ち、
よほど不快だったとみえ、送って来る者もない。お通は、それを背に感じて、廊下へ出ると、くすりと笑った。
同じ廊下の幾間かを隔てた先の一室には、もうこの土地へ来て十日余りになる武蔵が泊っていたのである。彼女が、その黒光りに
ばたばたと追いかけて来て、
「もうお帰りですか」
お通が、振り
「え。御用がすみましたから」
「早いんですね」
世辞をいって――彼女の手をのぞいて、
「この芍薬、白い花が咲くんですか」
「そうです、お城の白芍薬ですの、ほしいならば上げましょうか」
「下さい」
と手を出す。
その手へ、芍薬をのせて、
「左様なら」
彼女は、軒先から駒の背に乗って、ひらりと、
「またいらっしゃいませ」
小茶ちゃんは見送ってから、
「旦那はん、花お好き」
「花」
窓に頬づえをついて、彼は、小柳生城のほうを今も見つめていたのである。
(――どうしたらあの大身に接近できるか。どうしたら石舟斎に会えるか。また、どうしたら剣聖といわれるあの老龍に一撃与えることができるか)
を、遠心的な眼が、じっと考えつめていた。
「……ほ、よい花だな」
「好き」
「好きだ」
「芍薬ですって。――白い芍薬」
「ちょうどよい。そこの壺に
「あたいには挿せない。旦那はん挿して」
「いや、おまえがいいのだ。無心が却っていい」
「じゃあ、水を入れてくる」
小茶ちゃんは、壺をかかえて出て行った。
武蔵はふとそこへ置いて行った芍薬の枝の切り口に眼をとめて、小首をかしげた。何が彼の注意をひいたのか、じっと見ていた果てには手をのばし、それを寄せ、その花を見るのではなく、枝の切り口を飽かずに見ている。
「……あら、……あら、あら」
自分でこぼして歩く壺の水に、こう声をかけながら、小茶ちゃんは戻って来て、壺を床の間に置き、無造作に、それへ芍薬を入れてみたが、
「だめだア、旦那はん」
子ども心にも、不自然をさけぶ。
「なるほど、枝が長すぎるな。よし、持ってこい、ちょうどよく切ってやるから」
小茶ちゃんが抜いてくると、
「切ってあげるから、壺へ立てて、そうそう地に咲いているように、立てて持っておいで」
いわれる通り、小茶ちゃんは持っていたが突然、きゃッといって、
無理のないことであった。
やさしい花の枝を切るのに武蔵の切り方は余り大げさであった。――それは眼に見えないほど早かったにせよ、いきなり
びっくりして彼女が泣き出しているというのに、武蔵は、それを
「ウーム……」
じっと、見くらべているのだった。
ややあって、武蔵は、
「ア、済まない、済まない」
泣きじゃくっている小茶ちゃんの頭を撫で、心をくだいて、謝ったり、機嫌をとったりして、
「この花は、誰が切って来たのか知らないか」
「もらったの」
「誰に」
「お城の人に」
「小柳生城の家中か」
「いいえ女の人」
「ふウム。……では城内に咲いていた花だの」
「そうだろ」
「悪かった、後でおじさんが菓子を買おう、今度はちょうどよい筈だから、壺へ
「こう?」
「そうそう、それでよい」
おもしろいおじさんと
武蔵は、床に微笑している
その元の切り口は、
それも、生やさしい切り方ではないのだ。わずかな木口であるが切り
試みに、武蔵は、自分もそれに
「はてな?」
彼は、独り思う。
「城内の庭廻りの侍にすら、これほどな手腕のものがいるとすると、柳生家の実体は、世間でいう以上なものかも知れない」
そう考えてくると、
「誤っている、自分などはまだ所詮――」
と、
「相手にとって不足のないものだ。
闘志を駆って、こう坐っているうちにも、全身が熱くなって来る。若い功名心が、脈々と、
――が、手段だ。
所詮、武者修行のお方には、石舟斎様は、お会いなされますまい。誰のご紹介をお持ちになろうと、お会いになる気づかいはありません――とは、この
「何かよい方法は?」
またそこへ考えが戻ってくると、彼の血のうちを駆けていた野性と征服慾は、やや落ちついたものへ返って、眼は、床の間の清純な白い花へ移っていた。
「…………」
何気なく見ているうちに、彼はふと、この花に似ている誰かを思い出していた。
――お
が久しぶりに、彼の、荒々しくのみ働いている神経と粗朴な生活の中に、彼女のやさしい
小柳生城のほうへ、お通が、駒のひづめを軽そうに引っ返して行くと、
「やア――い」
雑木の茂っている崖の下から、誰か、こう自分へ向っていうらしい者がある。
「子ども」
とは、すぐ分っていたが、この土地の子どもは、なかなか若い女を見てからかうような勇気のある子はいない。――誰かと、駒を止めていると、
「笛吹きのお姉さん、まだいるの?」
真ッ裸な男の子だった。濡れた髪をして、着物は丸めて小脇にかかえ込んでいる。それが、
(馬になんか乗ってやがる)
と、軽蔑するような眼で、お通を仰ぐのだった。
「あら」
お通には、不意打だった。
「誰かと思ったら、おまえはいつか、
「ベソ掻いて? ――嘘ばっかりいってら、おら、あの時だって、泣いてなんかいやしねえぜ」
「それはとにかく、いつここへ来たの」
「この間うち」
「誰と」
「お師匠様とさ」
「そうそう、おまえは、剣術つかいのお弟子さんでしたね。――それが今日はどうしたの、裸になって」
「この下の
「ま。……まだ水が冷たいだろうに、泳ぐなんて、人が見ると笑いますよ」
「行水だよ。お師匠様が、汗くさいっていうから、お風呂のかわりに入って来たのさ」
「ホホホ。宿は」
「綿屋」
「綿屋なら、たった今、私も行って来た家ですね」
「そうかい。じゃあ、おらの部屋へ来て、遊んでゆけばよかったな、もどらないか」
「お使いに来たのですから」
「じゃあ、あばよ」
お通はふり
「城太郎さん、お城へ遊びにおいで――」
「行ってもいいかい」
彼女は、愛嬌につい投げたことばに、ちょっと、自分で困りながら、
「いいけど、そんなかっこうじゃ駄目ですよ」
「じゃ嫌だよ。そんな窮屈なところへなんか、行ってやるもんか」
それで助かったような気がしてお通はほほ笑みながら、城内へ入った。
「そうか、怒ったか」
石舟斎は笑って、
「それでいい。怒っても、つかまえどころがあるまいからそれでいい」
といった。
しばらく経って、何かほかの話の折に思い出したのであろう。
「
と訊いた。
旅宿の小女に与えて来たというと、その処置にもうなずいて、
「だが、吉岡のせがれ伝七郎とかいう者、あの芍薬を、手には取って見たろうな」
「はい、お文を解く時」
「そして」
「そのまま突き戻しました」
「枝の切り口は見なかったか」
「べつに……」
「何も、そこに眼をとめて、いわなかったか」
「申しませんでした」
石舟斎は、壁へいうように、
「やはり会わんでよかった。会って見るまでもない人物。吉岡も、まず拳法一代じゃ」
「軽いっ――太刀先ではないっ――
「出直せっ、成っていない」
叱られているのは、やはり柳生家の家士であった。汗で眼まいのしている顔を、
「アふっ……」
振りうごかしながら、
「えやあっ!」
すぐ火と火のように打ち合っているのだった。
ここでは、
――ぴしいッっ。
「まだ! まだ! そんなことで」
ヘナヘナになるまでやらせておく。初心ほどわざと冷酷にあつかう。ことばでも
足軽や
(おれのは、庄田真流である)
と、称していた。木村助九郎は、馬廻りであったが、これも上手だった。村田
(わしの藩へくれい)
と、その出淵は越前侯から、村田与三は、紀州家から、懇望されているくらいだった。
出来ると、世間に聞えると、諸国の大名から、
(あの男をくれぬか)
と、
(そちらでは、よい
などという。
時代の剣士は、今この古い
「――なんじゃっ、番士」
ふいに、庄田が立って
番士のうしろには、城太郎が立っていた。庄田は、
「おや?」
と、眼をみはった。
「おじさん、今日は――」
「こら、なんで貴さま、お城へなど入って来たか」
「門にいた人に連れて来てもらったんだ」
城太郎の答えに無理はない。
「なるほど」
庄田喜左衛門は、彼を連れて来た大手門の番士に、
「なんだ、この小僧は」
「あなた様にお目にかかりたいと申すので」
「こんな小僧のことばを取り上げて、御城内へ連れて来てはいかん。――小僧」
「はい」
「ここはお前たちの遊びに来る場所ではない。帰れ」
「遊びに来たんじゃない。お師匠様の手紙をもって、使いに来たんだ」
「お師匠様の……。ははあ、そうか。おまえの主人は、武者修行だったな」
「見てください、この手紙」
「読まんでもいい」
「おじさん、字が読めないのかい?」
「なに」
苦笑して――
「ばかをいえ」
「じゃあ、読んだらいいじゃないか」
「こいつ、喰えん小僧だ。読まんでもいいというのは、たいがい、読まなくとも分っているという意味だ」
「わかっているにしても、一応は読むのが礼儀じゃないか」
「
城太郎は、まるい眼を、ぐるりと動かして、
「おじさん、まるで中を読んでるようなことをいうね」
「だから見たも同じだといっておるじゃないか。ただし、柳生家においても、何もそう訪ねてくる者を、
噛んでふくめるように、
「――その番士に、教えてもらうがいい。御当家を訪れた一般の武者修行は、大手を通って、中門の右を仰ぐと、そこに、
そう
「わかったか」
すると、城太郎は、
「わからない」
と、首を振って右の肩をすこし
「おい、おじさん」
「なんじゃ」
「人を見てものをいいなよ。おれは、乞食の弟子じゃないぜ」
「ふム。貴さま……、ちょっと口がきけるの」
「もし、手紙を開けて見て、おじさんがいったことと、書いてある用向きと、まるで、違っていたらどうする?」
「むむ……」
「首をくれるかい」
「待て待て」
栗のイガを割ったように、喜左衛門は
「首はやれん」
「じゃあ、手紙を見ておくれよ」
「小僧」
「なんだい」
「貴さまが、師の使命を恥かしめぬ心にめでて、見てつかわす」
「あたりまえだろ。おじさんは柳生家の用人じゃないか」
「舌は、
いいながら封を切って、武蔵の手紙を黙読していたが、読み終ると、庄田喜左衛門は、ちょっと、怖い顔つきをした。
「城太郎。――この手紙のほかに、何か持って来たか」
「あ、忘れていた、これを」
ふところから、無造作に出したのである。それは、七寸ばかりの
「…………」
武蔵の書面には、計らずも、宿の少女から
そう次第を書いて来て、
(花を
自分が、武者修行の者とも書いてない。試合の希望もいっていない。それだけの文意であった。
(ふしぎなことをいってくる)
喜左衛門は、そう思って、一体どう切り口が違っているかを、まず
「村田」
その手紙と、切枝とを、彼は道場の内へ持って入って、
「これを見ろ」
と示した。そして、
「一体、この枝の両端の切り口が、どっちがそんな達人の切ったもので、また、どっちが、より劣った切り口になっているか、貴公の眼で
村田与三は、睨むように、かわるがわる見ていたが、
「わからぬ」
吐き出すようにいった。
「木村に見せてみよう」
奥へ入って、お役部屋をのぞいてゆき、木村助九郎を見つけて同じように意見を訊くと、木村も、
「さてなあ」
不審とするばかりだった。
だが、いあわせた
「これは
「いや、花をお
「その時の一枝だ。――それをお通が、殿のいいつけで、吉岡伝七郎の
「オ。あれかな?」
喜左衛門はそういわれて、もいちど、武蔵の手紙を読み直した。こんどは、
「御両所、ここには、
――武蔵とあれば、多分、そうだろう、あの武蔵にちがいあるまい。
出淵孫兵衛も、村田与三も、そういって、手から手へ、再度、手紙を渡して読み直しながら、
「文字にも、
「人物らしいな」
と、呟いた。
庄田喜左衛門は、
「もし、この手紙にある通り、ほんとに、
「むム……」
出淵は、ふいに、
「会ってみたいものだな。――それも一つ
喜左衛門は思い出して、
「使いに来た小僧が、待っておるのだ。――呼んでみるかの」
「どうじゃ」
独断ではというように出淵孫兵衛は、木村助九郎に
喜左衛門は、膝を打って、
「それはよいお考えだ」
村田与三も、
「自分たちに取っても一興、さっそく、そう返事をやろうではないか」
と、話は決まる。
――
「アアア……遅いなあ」
「やい」
耳をつかんで引き寄せ、
「すもうを取ろう」
抱きついて、引っくり
よく自由になるので、二、三度手玉にとって
「わんといえ」
そのうちに、何か、犬の
「こいつ、おれを誰だと思う」
木刀に手をかけて、彼が見得を切ると、犬は、
こつうんッ――
と、木剣が一つ、犬のかたい頭に石を打ったような音をさせると、猛犬は、城太郎の背へかぶりつき帯を
「生意気なっ」
彼の起つより、犬のほうが遥かに
そして、逃げ出すと、
わ、わ、わ、わんッ
猛犬のほえる
「わアん――」
と、これも犬に負けない大声をあげて、泣き出してしまった。
「行って参りました」
帰って来ると、城太郎は取り澄ました顔つきで、武蔵の前にかしこまった。
武蔵は、何げなく彼の顔を見て驚いた。
さぞ
「返事をよこしたよ」
庄田喜左衛門の返事をそこへさし出して、ふた
「ハイ。それだけです、もうよございますか」
「ご苦労だった」
武蔵が、喜左衛門の返書へ眼を落している間に、彼は、両手で顔を抑えて、あわてて部屋の外へ去った。
「どうしたの、城太郎さん」
「犬にやられたんだ」
「ま、どこの犬」
「お城の――」
「アア、あの黒い紀州犬。あの犬じゃ、いくら城太郎さんでもかなうまいよ。いつかも、お城の中へ忍び込もうとした
いつも
「ありがと。ありがと」
くり返して、頭ばかり下げていた。
「城太郎さん、そんなに、男のくせに、安ッぽく頭を下げるものじゃないわ」
「だって」
「喧嘩しても、あたし、ほんとは城太郎さんが好きなんだもの」
「おらだって」
「ほんまに」
城太郎は、
誰もいなかった。
そこらに乾いている
「でも、城太郎さんの先生は、もうすぐここを立つんだろ」
「まだいるらしいよ」
「一年も二年も泊っているとうれしいんだけど……」
「ア痛っ」
「痛かった。ごめん」
「ううん、いいの、もっと噛んで」
「いいかい」
「アア、もっと噛んで、もっと
犬ころみたいに、二人は、馬糧を頭からかぶって、喧嘩のように抱き合っていた。どうするでもなく抱擁をもだえ合っていた。すると、小茶ちゃんを探しに来た爺やが、呆れ果てたように眺めていたが、突然、道徳の高い君子のような顔をして、
「この
ふたりの襟くびをつかんで引きずり出し、小茶ちゃんのお尻を、二ツ三ツ打った。
その日から翌る日へかけ、二日のあいだというもの、武蔵は何を考えているのか殆ど口もきかずに腕を
ふと、
「城太郎、帳場の者に、すぐ来てくれと申してこい」
次の日の
「お夕飯は」
と、宿の者が訊きに来ると、
「いらぬ」
という彼の返事。
小茶ちゃんは、ぼんやり部屋の隅に立っていたが、やがて、
「旦那はん、もう、今夜は、
「ウム。長い間、小茶ちゃんにもお世話になったな」
小茶ちゃんは、両方の
――ご機嫌よう。
――どうぞお気をつけて。
綿屋の番頭や女たちは、門口に並んで、この山国をどういうつもりか黄昏れに立つ旅人へ、人里の声を送った。
「? ……」
そこの軒を離れてから後ろを見ると、城太郎が
綿屋の横の蔵の下に、城太郎は小茶ちゃんと別れを惜しんでいた。武蔵の影を見たので二人はあわてて側を離れて、
「……左様なら」
「……あばよ」
城太郎は、武蔵のそばへ駈けて来て、武蔵の眼を怖れながら、時々振りかえった。
柳生谷の
やがて武蔵から、
「まだか?」
「何処」
「小柳生城の大手門は」
「お城へ行くの」
「うむ」
「今夜はお城で泊るのかい」
「どうなるか、わからんが」
「もうそこだよ、大手門は」
「ここか」
ぴたと、足を揃えて、武蔵は立ちどまった。
声をかけると、番士が出て来た。庄田喜左衛門からの書面を見せ、
「お招きによって
番士は、もう今夜の客を知っていた。取次ぐまでもなく、
「お待ちかねでござる、どうぞ」
と、先に立って、
ここの新陰堂は、城内に住む子弟たちが儒学を受ける講堂でもあり、また藩の文庫でもあるらしく奥へゆく通路の
「柳生家といえば、武名だけで鳴っているが、武ばかりではないと見える」
武蔵は、城内を踏んで、柳生家というものの認識に、想像以上な厚味と歴史を感じるのだった。
「さすがに」
事ごとに
たとえば、大手からここまでの間の清掃された道を見ても、応対する番士のもの腰でも、本丸のあたりの厳粛なうちにも
それはちょうど、一軒の家を訪れて、その家の上がり口に履物をぬぐとたんに家風と人とがほぼ分るようである。武蔵は、そうした感銘もうけながら、通された広い床へ坐った。
新陰堂には、どの部屋にも、畳というものは敷いてなかった。この部屋も板敷である、そして、客なる彼へは、
「どうぞ、おあてなされ」
と小侍が
「頂戴する」
遠慮なく、武蔵はそれを取って坐った。従僕の城太郎は、勿論、ここまでは通らない。外の
小侍がふたたび出て、
「今宵は、ようこそお越し下さいました。木村様、
「閑談の客でござる、お気づかいなく」
円座を、隅の柱の下へ移して、武蔵はそこへ
せんかんとそこらあたりを水が駈けているらしい。泉は床下へも通っているとみえ、落着くに従って、円座の下にもさらさらと流れの音が感じられる。やがては、壁も天井も、そして一
だが――その
(柳生が何か)
と隅柱の円座から
(彼も一箇の剣人、われも一箇の剣人。道においては、互角だ)
と思い、また、
(いや今宵は、その互角から一歩を抜いて、柳生を、おれの
彼は信念していた。
「いや、お待たせ申して」
と、その時、庄田喜左衛門の声がした。ほかの三名も同席して、
「ようこそ」
と挨拶の後、
「それがしは、馬廻り役木村助九郎」
「拙者は、
「出淵孫兵衛でござる」
と順々に名乗り合った。
酒が出る。
古風な
「お客殿、こんな山家のことゆえ、何もないのです。ただ、
「ささ、遠慮なく」
「お膝を」
四名の主人側は、一人の客に対して飽くまでいんぎんであって、また飽くまで打ち解けて見せる。
武蔵は酒はたしなまない。嫌いなのではなく、まだ酒の味というものが分らないのである。
しかし、今夜は、
「頂戴する」
めずらしく
「おつよいと見える」
木村助九郎が、
「貴君から先日お訊ねのあった
「道理で、お見事なわけ」
と、武蔵は膝を打った。
「――しかしですな」
と、助九郎は膝をすすめ、
「どうして、あんな柔軟な細枝の切り口を見て、非凡な切り手ということが貴君には分りましたか。そのほうが、吾々には、むしろ
「…………」
武蔵は、小首をかしげて、答えに窮するもののように黙っていたが、やがて、
「左様でござろうか」と、反問した。
「そうですとも」
庄田、出淵、村田の三名も、異口同音に、
「吾々には、分らない。……やはり非凡は非凡を
武蔵は、また一つ杯をふくみ、
「恐縮です」
「いや、ご謙遜なさらずに」
「謙遜ではござらぬ。
「その感じとは?」
柳生家の四高弟は、ここを追及して、武蔵の人間を試そうとするもののようであった。最初、一
けれど、武蔵が酒を
(ははあ、やはり野人だ)
つい書生扱いになり、従って、幾分軽んじてくる傾きがあった。
たった
その
「ひとつ、貴君のいうところの感じとは、どういうものか、お話し下さらんか。この新陰堂は、上泉伊勢守先生が、当城に御滞在中、先生のため御別室として建てたもので、剣法に
「困りましたな」
武蔵はそういうだけであった。
「――感覚は感覚、どういっても、それ以外に説きようはごさらぬ。
何とかして石舟斎へ近づく機縁をつかみたい、彼と試合してみたい、兵法の大宗といわれる
自己の
――武蔵来り、武蔵去る。
と記録的な
彼の
庄田と出淵は、顔を見あわせて何か笑った。武蔵が今いったことば――
(――
これは穏かのようだが、明らかに戦闘を挑むものだ。出淵と庄田は、四高弟のうちでも年上だけに、早くも武蔵の覇気を
(
と、その若気を苦笑するもののようであった。
話題は一つところにとどまらない。剣の話、禅の話、諸国のうわさ話、わけても関ヶ原の合戦には、出淵も、庄田も、村田与三も主人について出たので、その折、東軍と西軍との敵味方であった武蔵とはひどく話に
(今夜をおいて、二度と、石舟斎へ近づく機会はない)
思いめぐらすうちに、
「お客、
と、酒をひいて、麦飯と汁とが出される。
それを喰べつつも、
(どうしたら彼に)
武蔵は、他念がない。そして思うには、
(所詮、尋常なことでは接近できまい。よし!)
彼は、自分でも下策と思う策を取るほかなかった。つまり相手を激させて、相手を誘い出すことだ。しかし、自分を冷静において、人を怒らせることは難しい。武蔵は、故意に、暴論を吐いてみたり、無礼な態度を見せたりしたが、庄田喜左衛門も出淵も笑って聞き流すだけである。くわっと乗って来るような不覚はこの四高弟のうちにはない。
武蔵は、やや
「さ、
食後の茶になると、四高弟は、円座を思い思いの居心地へ移して、膝を抱えるのもある。あぐらを組む者もある。
武蔵だけは、依然として、
「やっ?」
ふいにその時、村田与三が縁へ起って、暗い外へつぶやいた。
「太郎が吠えている。ただの吠え方ではない。何事かあるのではあるまいか」
太郎とはあの黒犬の名か、なるほど、二の丸のほうで怖ろしく啼き立てている。その声が、四方の山の
犬の声は、容易にやまない。
「何事だろう? 失礼だが、武蔵どの、ちょっと中座して見て参ります。――どうぞごゆるりと」
席を
「暫時、ごめんを」
と各

遠い闇の中に、犬の声は、いよいよ、何か主人へ急を告げるように啼きつづけていた。
三名が去った後の席は、その遠吠えがよけいに凄く澄んで聞え、白けわたった燭の明りに、鬼気がみなぎっていた。
城内の番犬が、こう異様な啼き声を立てるからには、何か城内に異変があったものと考えなければならぬ。今、諸国ともにやや泰平のようでもあるが、決して隣国に気はゆるせたものではない。いつどんな
「はての?」
独りそこに残っている主人側の庄田喜左衛門も、いかにも不安そうであった。何となく、火色の
そのうちに、一声、けえん! と怪しげな啼き方が尾を曳いて聞えると、
「あっ」
喜左衛門が、武蔵の顔を見た。
武蔵もまた、
「あっ……」
と、微かな声を洩らし、同時に、膝を打っていった。
「死んだ」
すると、喜左衛門も共に、
「太郎め、
といった。
二人の直感が一致したのである。喜左衛門はもう
「
と、席を立った。
武蔵は何か思い当ることがあるもののように、
「私の連れて参った城太郎という
と、新陰堂の表の部屋にいる小侍に向ってたずねた。
そこらを捜しているらしく、しばらくたってから、小侍の返辞が聞えた。
「お
武蔵は、ハッとしたらしく、
「さては」
と、喜左衛門へ向い、
「ちと心懸りな儀がござる。犬の斃れておる場所へ参りたいと思いますが、ご案内下さるまいか」
「おやすいこと」
喜左衛門は、先に立って、二の丸のほうへ走った。
例の武者
「お!」
武蔵は、その人々のうしろから、
案のじょう、そこに突っ立っていたのは鬼の子のように、血まみれになっている城太郎であった。
木剣を
その側には、毛の黒い紀州犬の太郎が、これも、無念な形相をして、
「? ……」
しばらくものをいう者もなかった。犬の眼は、
「オオ、ご愛犬の太郎だ」
うめくように呟くと、
「こいつ
いきなり一人の家臣は、茫然としている城太郎のそばへ行き、
「おのれかッ、太郎を撃ち殺したのは」
ぴゅっと
「おれだ」
と、肩を
「なぜ撃ち殺した?」
「殺すわけがあるから殺した」
「わけとは」
「かたきをとったんだ」
「なに」
意外な
「たれのかたきを?」
「おれのかたきをおれが取ったんだ。おととい使いに来た時、この犬めが、おれの顔をこの通りに引っ掻いたから、今夜こそ撃ち殺してやろうと思って、捜していると、あそこの床下に寝ていたから、尋常に勝負をしろと、名乗って戦ったんだ。そしておれが勝ったんだ」
彼は、自分が決して卑怯な決闘をしたのではないということを、顔を赤くして力説するのだった。
しかし、彼を
今、血相をかえて、城太郎へ向って、背すじを立てている家臣が、即ちその太郎
「だまれっ」
また一拳を彼の頭へ見舞った。
こんどは交わし損ねて、その
「何するんだ!」
「お犬を撃ち殺したからには、お犬のとおりに打ち殺してくれる」
「おれは、このあいだの、
彼としては、死を賭して、やったことだ。侍の最大な恥は
だから、太郎付の家臣が、いくら咎めようと怒ろうと、彼としては
「やかましいっ。いくら
むずと城太郎の
藩士たちは、黙ってうなずいた。四高弟の人々も、困った顔いろはしていたが黙っていた。
――武蔵も黙然と見ていた。
「さっ、吠えろ小僧」
二、三度襟がみを振廻されて、眼がくらくらとした途端に、城太郎は大地へ叩きつけられていた。
お犬の太郎付の家臣は、
「やいっ
急に起てないのであろう、城太郎は歯をくいしばって、大地へ片手をついた。そして徐々に、木剣と共に体を起すと、子供とはいえ、その眼はつり上がって死を決し、河ッ童あたまの赤い毛は、怒りに逆立って、こんがら童子のような凄い
犬のように、彼は唸った。
虚勢ではない。
彼は、
(おれのしたことは正しくて間違っていない)
と信じているのである。大人の激憤には、反省もあるが、子供がほんとに
「殺せっ、殺してみろっ」
子供の息とも思えない殺気であった。泣くが如く
「くたばれッ」
一撃のもとに、城太郎はそこへ死んでいる筈である。カツンという大きな響きがそれを人々の耳へ直覚させた。
――武蔵は、実に冷淡なほど、なおもその際まで、黙然と腕ぐみしたまま、傍観していた。
ぶん――と城太郎の木剣は、その時、城太郎の手から空へ吹き飛ばされていたのであった。無意識に彼は、最初の一撃をそれで受けたのであったが、当然、手のしびれに離してしまったものらしく、次の瞬間には、
「こん畜生」
眼をつぶって、敵の
死にもの狂いの歯と爪は、相手の急所を制して離さなかった。樫の棒は、そのために、二度ほど
「こいつめッ」
するとまた一本、べつな樫の棒が現われ、そうしている城太郎の背後から、彼の腰を狙って、撲り下ろそうとした時である。武蔵は初めて腕を解いた。石垣のようにじっと固くなっていた人々の間から、ついと進み出したのが、はっと感じる間もないくらいな行動であった。
「卑怯」
二本の脚と棒が宙へ輪を描いたと思うと、どたっと
その次には、
「この
と、叱りながら、城太郎の腰帯へ
そしてまた、咄嗟に棒を持ち直している太郎付の家臣に向い、
「最前から見ておるが、すこしお取調べに手落ちがあろう。これは、拙者の
すると、その家臣は、激越にいい返した。
「いうまでもなく、双方に
「よろしい。然らば、主従二人して、お相手いたそう。それっ、お渡しするぞ」
ことばの下に、城太郎の体は、相手の姿へ向って
(彼は何を血迷っているのか。自分の
武蔵の仕方に眼をみはり、武蔵の心を
すると、
「あっ――」
人々は、そこを広くして、思わず後ろへ跳び
人間をもって人間へ
武蔵に
「わっ」
ぶつかったのである。
顎を
「ぎぇッ」
異様な声をあげると、その者の体は、城太郎の体と重なって、立ててある材木を離したように、直線にうしろへ倒れた。
したたかに、大地へ、後頭部でも打ったのか、城太郎の石頭が、ぶつけた途端に先の
「や、やったなっ」
「どこの素浪人」
これはもう太郎付の役であると否とにかかわらず、
「さて――」
武蔵は、向き直った。
「

何を、彼はいおうとするのか。
すさまじい血相をもって、城太郎が取り落したところの木剣をひろい、それを右手にさげて、
「
これでは罪に伏すのではなくて、明らかな挑戦だ。
ここで一応、武蔵が、城太郎に代って、謝罪と陳弁をつくして藩士たちの感情を極力なだめることに努めれば、或は、何とか穏やかに納まりがついたろうし、また、先ほどから口を挟みかねていた四高弟の
(まあ、まあ)
と、相互のあいだにはいる機会もあったろうが、武蔵の態度は、あたかもそれを拒み、かえって、自分のほうから事件の
「奇怪な」
眉をひそめて、彼の態度をひどく憎むもののように、端へ
もちろん、武蔵の暴言には、四高弟のほか、そこにいる面々は皆、
彼の何者であるかを知らないし、また彼の意中を
「なにをッ」
誰とはなく、武蔵へ応じ、
「
「どこぞの
「いや、斬ッちまえ」
また――
「そこを去らすなっ」
前後からこうひしめいてまさに彼の身は、彼の手に抱え寄せられている城太郎と共に、白刃の中に隠されてしまうかと見えた。
「あッ待てっ」
庄田喜左衛門であった。
喜左衛門がそう叫ぶと、村田与三も、出淵孫兵衛も、
「あぶないっ」
「手を出すな」
四高弟の者は初めて、こう積極的に出て、
「
と、いった。
「ここは、吾々にまかせろ」
「各


そして――
「この男には、何か画策があると
けれど、今はもう、主客のあいだがらは一変して、狼藉者と裁く者との、対立である。敵対である。
「武蔵とやら、気の毒ながらそちらの計策は破れたぞ。――察するに、何者かに頼まれ、この小柳生城を探りに来たか、或は御城内の
四名の眼は、武蔵をかこんで詰めよるのであった。この四名のどの一人でも達人の域に達していないものはないのである。武蔵は、城太郎を小脇に
出淵孫兵衛が、次に、
「やよ、武蔵」
鯉口を切った刀の
「事破れたら、いさぎよう自決するのが武士の値打だ。小柳生城の中へ、
それで、すべてが解決できると四高弟の方では考えていた。
武蔵を招いたことが、そもそも、主君へは無断のことであったから、彼の素姓目的も、不問のまま闇の出来事として、葬り去ろうという意思らしいのだ。
武蔵は
「なに、この武蔵に腹を切れといわれるか。――馬鹿なっ、馬鹿なことを」
飽くまでも、武蔵は相手の激発を挑むのであった。闘争を仕かけるのであった。
なかなか感情をうごかさなかった四高弟の者も、遂に、眉に
「よろしい」
ことばは静かだか、断乎とした気をふくんでいった。
「こちらが、慈悲をもって申しておれば、つけ上がって」
出淵のことばにつづいて、木村助九郎が、
「多言無用」
武蔵の背へ廻って、
「歩めっ」
背を突いた。
「何処へ?」
「牢内へ」
――すると武蔵はうなずいて歩きだした。
しかしそれは自分の意思のままに運んでゆく足であって、大股に本丸のほうへ近づいて行こうとするのである。
「何処へ行く?」
ぱっと助九郎は先へ廻って、武蔵のまえに両手をひろげ、
「牢は、こちらでない。後へもどれ」
「もどらん」
武蔵は、自分の側へ、ひたと貼りついたようにしている城太郎へ向い、
「おまえは、
この辺はもう本丸の玄関に近い
武蔵にいわれて、城太郎はその
(そら、お師匠様が、何かやりだすぞ)
――見ると、その間に、庄田喜左衛門と出淵孫兵衛のふたりが、武蔵の左右へ寄り添い、武蔵の腕を両方から逆に取って、
「もどれ」
「もどらぬ」
同じことばを繰返していた。
「どうしても戻らぬな」
「む! 一歩も」
「うぬっ」
前に立って、木村助九郎が、ついにこう
「もどらぬなら戻らぬでよろしい。しかし、汝は、何処へ行こうとするか」
「当城の
「なに?」
さすがの四高弟も、それには
庄田は、畳みかけて、
「大殿へ会って、何とする気じゃ」
「それがしは、兵法修行中の
「しからばなぜ、順序をふんで、我々にそう申し出ないか」
「大祖は、一切人と会わず、また修行者へは、授業をせぬと承った」
「勿論」
「さすれば、試合を挑むよりほか道はあるまい、試合を挑んでも、容易に余生の
「なに、合戦を?」
あきれた顔つきで四高弟はそう反問した。そして、武蔵の眼いろを見直した。――こいつ狂人ではあるまいかと。
相手の者に、両腕をあずけたまま武蔵は空へ眼を上げていた。何か、バタバタと闇が鳴ったからである。
「? ……」
四名も眼をあげた。その一瞬、笠置山の闇から城内の
合戦といっては、言葉が大げさにひびくが、武蔵が今の自分の気持をいい現わすには、そういってもなおいい足りないほどであった。
合戦だ、飽くまでも戦いだ。人間の全智能と全体力とを賭けて、運命の勝敗を挑むからには、形式はちがっても、彼にとっては大なる合戦にかかっている気持と少しも違わないのである。――ただ三軍をうごかすのと、自己の全智と全力をうごかすのとの相違があるだけだった。
一人対一城の合戦なのだ。――武蔵の踏ん張っている
(こいつ狂人か?)
と、彼の常識を疑うように、その
「よしっ、おもしろい」
敢然と、こう応じて、木村助九郎は、
「――合戦とはおもしろい。陣鼓や陣鐘を鳴らさんまでも、その心得で応戦してやる。庄田
さんざん止めもし、堪忍もした揚句である。第一、木村助九郎はさっきから頻りと成敗したがっている。
(もうこれまでだろう)
そう眼でいい合すように、
「よしっ、まかせるっ」
両方から抱えていた武蔵の腕を、二人が同時に離して、ぽんと背を突くと、六尺に近い武蔵の
だ、だ、だっ――
四ツ五ツ大地を踏み鳴らし、助九郎の前へ、よろめいて行った。
助九郎は、待っていたものの、
「――ガギッ」
奥歯のあたりでこう息を噛むと、助九郎の右の
ザ、ザ、ザ、ザ――
と、剣が鳴った。助九郎の刀が神霊を現わしたように、
――わっ。という声が一緒に聞えた。武蔵が発したのではない。
けれど、その際の一つかみの砂などは、何の効果もないことはもちろんだった。武蔵は、背を突かれたせつなに、あらかじめ、助九郎が間合を測ることを計って、むしろ自分の勢いをも加えて、彼の胸いたへ突進して行ったのである。
突かれてよろめいてくる速度と、その速度に捨て身の意思を乗せてくるのとでは、速度の上に、大きな相違がある。
助九郎の退いた足と、同時に、抜き打ちに払った尺度には、そこに誤算があったので、見事に
約十二、三尺の間隔をひらいて、二人は跳び退いていた。助九郎の刀が
「オ。これは見もの!」
そう口走ったのは庄田喜左衛門であった。庄田のほかの出淵、村田の二人も、まだ何も自分たちは、その戦闘圏内に

(出来るな、こいつ)
武蔵の今の一動作に、
――しいッと何か身に迫るような冷気がそこへ
「…………」
ふたりの
ふしぎな精力の消耗であった。それきり一尺も寄りあわないのに、助九郎の体をつつんでいる闇には次第にかすかな動揺が感じられてきた。明らかに、彼の呼吸は、武蔵のそれよりも、あらく
「ムム……」
出淵孫兵衛が思わずうめいた。毛を吹いて大きな
(――これは
助九郎と武蔵の勝負は、もう
そういう考えが、無言のうちに、三名の眼と眼をむすんだ。すぐそれは行動となって、武蔵の左右へ迫りかけた。すると、
「いざっ」
すさまじい
虚空と聞えたのは、それが武蔵の口から発したというよりは、彼の全身が
「――ちいッ」
武蔵は今、ふしぎに自己を感得した。満身は毛穴がみな血を噴くように熱いのだ。けれど、心頭は氷のように冷たい。
仏者のいう、
砂はもうそこへ降って来なかった。城太郎はどこへ行ったか。忽然と影もない。
――
まっ暗な風が時折り、笠置のいただきから
四対一である。けれど武蔵は、自分がその一の数であることは、さして苦戦をおぼえない。
(なんの!)
と、血管が太くなるのを意識するのみであった。
死。
いつも真っ向から捨てようとしてかかるその観念も、ふしぎと今夜は持たない。また、
(勝てる)
とも思っていなかった。
笠置
――右の敵、左の敵、前の敵。だが。
やがて武蔵の肌はねっとりと
ず、ず……
左の端にいた敵の足がかすかに地を
「…………」
しかしこの対峙が不利であることを、武蔵は知っていた。武蔵は敵の包囲形の四を、直線形の四にさせて、その一角から次々に斬ってしまおうと考えるのであったが、相手は、
先が、その位置をかえないかぎり、武蔵の方から打ってゆく策は絶対なかった。この中の一名と相打ちして死ぬ気ならばそれも可能であるが、さもなければ、敵の一名から行動してくるのを待って、敵の四の行動が、ほんの瞬間でも、不一致を起こすところを臨んで打撃を加えるほかにない。
(――手ごわい)
四高弟のほうも、今は武蔵の認識をまったく
(――世の中には、いそうもない人間が、やはりいるものだ)
柳生流の骨子をとって、庄田真流の真理を体得したという庄田喜左衛門も、ただ、
(ふしぎな人間)
として、敵の武蔵を、剣の先から見澄ましているだけだった。彼にさえ、まだ一尺の攻撃もなし得なかった。
剣も人も、大地も空も、そうして氷に化してしまうかと思われた一瞬、思いがけない音響が、武蔵の聴覚をハッとおどろかせた。
誰がふくのか、笛の
笛。――高鳴る笛の音。だれだ、ふくのは。
われもなく敵もなく、生死の妄念もまったく滅して、ただ一剣の
なぜならば、音は、彼の脳裡に、肉体のあるかぎりは忘れ得ないであろうほどふかく記憶に
故郷
あの時――
こう来い、こうお出で。――と自分の手をとって導くように呼び、そしてついに、僧の沢庵の手に捕まる機縁を作ってくれたその笛の音ではないか。
武蔵は忘れても、武蔵のあの時の潜在神経は、決して、忘れることのできない感動をうけていたにちがいない。
その音ではないか。
音がそっくりであるばかりでなく、曲もあの時のと同じなのだ。アッと、突き抜かれてみだれた神経の一部が、
(――オオ、お
脳膜の中でさけぶと、武蔵の五体というものは、途端に、
見のがすはずはない。
四高弟の眼には、そのせつな、破れ障子のような武蔵のすがたが見えた。
「――たうっッ」
正面の一
「かッ」
その刃先へ
総身の毛に火がついたような熱気をおぼえ、筋肉は、生理的にかたく
――
武蔵はそう感じた。ぱっと左の袖口が大きく破れて、腕が根元から
「八幡っ」
絶対な自己のほかに、神の名があった。自己の破れ目から、稲妻みたいにその声が
一転。
位置をかえて振向くと、自分のいたところへのめッて行く助九郎の腰と足の裏が見えた。
「――武蔵っ」
出淵孫兵衛が叫んだ。
村田と庄田は、
「やあ、口ほどもない」
横へ駈け廻ってくる。
武蔵はそれに対して、大地を
「――
「――武蔵っ」
「恥を知れっ」
下の
三十尺もある
灌木帯の崖を、勢いよく
井戸の底から仰ぐように、星が遠くなった。武蔵は
肺も心臓も、そうしている間にやっと常態を整えてくる。
「お
汗は冷え、肺は落ち着いて来ても、乱麻のように掻きみだれた気持は容易に平調にならなかった。
「心の曇りだ、耳のせいだ」
そうも思い、
「いや、人の
彼は、お通のひとみを、星の空にえがいてみた。
いや彼女の眼や
甘い幻想が、ふと彼をつつむ。
(あなたの他に、私にとって男性はありません。あなたこそ、ほんとの男性、私はあなたがなくては生きられない)
また、花田橋のたもとで彼女のいったことば――
(ここで、九百日も立っていました。あなたが来るまで)
なお、あの時いった――
(もし来なければ、十年でも二十年でも、
武蔵は胸が痛んでくる。
苦しまぎれに、あの純な気持を裏切って、隙を作って、自分は
どんなに――あの後では自分を恨んでいただろう。理解できない男性を、
「ゆるしてくれ」
花田橋の欄干に
「ここじゃあない」
ふいに、高い崖の上で人声がした。三つ四つ
武蔵は、自分の涙に気がつくと
「女などがなんだ!」
手の甲で眼をこすった。
幻想の花園を蹴散らすように、ガバと跳び起きて、ふたたび小柳生城の黒い屋形を見上げ、
「卑怯といったな、恥を知れといったな。武蔵はまだ、降伏したとはいっていないぞ、
「一太刀でも打ち込まずにおこうか。四高弟などは相手でない。柳生石舟斎その者へ見参、見ろ、今に――合戦はこれからする!」
そこらに落ちている枯れ木を拾って、武蔵は膝に当ててバキバキと折り始めた。それを石垣の
笛の音はもう聞えない。
城太郎はどこへ隠れ込んだのか。――一切のことが、武蔵の頭になかった。
彼はただ
「お師匠さまあ――」
どこか遠い闇で呼ぶような心地がする。耳を澄ませば聞えないのである。
(城太郎か)
ふと思ったが、武蔵は、
(あれに、危険はあるまい)
案じなかった。
なぜならば、
「この間に、石舟斎へ」
さながら深山のような林や谷間を、彼は、
石舟斎が、二ノ丸にも本丸にも住まわず、城地のどこかに、一庵をむすんで余生を送っているということは、綿屋の
(何処だ!)
彼は、叫びたい感情で、夢中になって歩いていた。ついには、笠置の絶壁へまで出て、
(出て来いっ。おれの相手たらん者は)
妖怪変化でもよいから、石舟斎になって、ここへ現われて来てほしかった。四
「あっ? ……おお……ここらしいぞ」
それは城の東南へ降りたゆるい傾斜の下だった。その辺の樹木を見ると、みな姿がよく、
門がある!
「オオ、ここだ」
覗いてみると、禅院のように、道は竹林を通って、高いその山の上へと這っているのだ。武蔵は、一気に垣を蹴やぶって入り込もうとしたが、
「いや待て」
門のあたりの清掃された床しさや、あたりに白くこぼれている
「もう、
殊に自分の疲れも思い出された。石舟斎に面接する前に、まず自身を整えることが考え出された。
「朝になれば、誰か、門を開けに来るだろう。――その上でよい、その上でも、
武蔵は、
星がしずかだった。
ポトと、襟くびへ落ちて来た露の冷たさに、武蔵は眼をさました。いつのまにか夜は明けている。熟睡した後の
ふと、眼をこすって、眸を上げると、
武蔵は、いきなり突っ立った。十分に休養を
「む、む――」
と伸びをせずにいられなくなって来る。
「今日だ」
なんとはなく、そう呟く。
その次に彼は空腹を思い出した。飢えを思うと、城太郎の身にも及ぼして、
「どうしたか」
と、軽く案じる。
ゆうべは少し彼に
門内の高い山から傾斜を駈けて一すじの流れが、勢いよく、竹林を
「
水のうまさが身に沁みた。
察するに、石舟斎は、この名水があるために、この水の
武蔵はまだ、茶道を知らず、茶味なども解さなかったが、単純に、
「美味い!」
と思わず口をついて叫ぶほど、水のうまさというものを、今朝は感じた。
ふところから汚い
襟くびを深く拭き、爪の
とにかく柳生流の大祖に今朝は会うのである。天下にも幾人しかいない現代の文化の一面を代表している人物なのだ。――その石舟斎に、いや武蔵のような無禄無名の一放浪者にくらべれば、月と
襟をただし、髪を撫でるのは、当然な礼節の表示である。
「よしっ」
心も整った、頭もすがすがしい武蔵は、悠揚迫らない客の態度になって、そこの門を叩こうとした。
だが、草庵は山の上であるしここを叩いても聞えるはずがないがと、ふと、鳴子でもないのかと門の左右を見まわすと、左右二つの門柱に、一面ずつの
右がわの聯には、
吏事君ヨ怪シムヲ休 メヨ
山城門ヲ閉ズルヲ好ムヲ
また、左の柱には、山城門ヲ閉ズルヲ好ムヲ
門にかけてある以上、聯の詩句は、いうまでもなく山荘の
「――吏事(役人)君ヨ怪シムヲ
幾度も口の
すがたに礼節を持ち、心に澄明な落ちつきを
「……おれは若い」
武蔵は、おのずから頭が下がってしまうのをどうしようもない。
石舟斎が、一切、門を閉じて拒んでいるのは、決して、武者修行の者だけではないのである。あらゆる
世の吏事に対してすら、怪しむのをやめてくれと断っているのである。石舟斎のそうして世間を避けている姿を思うと、武蔵は高い
「……届かない! まだ、自分などには届かない人間だ」
彼は、何としても、この門を叩く気になれなくなった。蹴って
花鳥風月だけが、この門を入るべきものだと思う。彼はもう今では、天下の剣法の名人でも一国の藩主でも何でもない。
そういう人の静かな住居を騒がすことは、余りに心ない
「アア。もしこの聯の詩がなかったら、おれは、石舟斎からよい笑われ者に見られるところだった」
陽がやや高くなったせいか、鶯の声も、夜明けほどはしなくなった。
――と、門のうちの遠い坂の上から、ぽたぽたと
「あっ?」
狼狽した色が武蔵の顔を
「……お
ゆうべの笛の音を武蔵は思い出した。咄嗟に、みだれた心のうちで、
(会おうか。会うまいか)
彼は迷うのであった。
会いたい! と思う。
また、会ってはならぬ! と思う。
烈しい
「……ど、どうしよう?」
まだ、心が決まらないのだ。その間に、山荘の方から坂道を駈けおりて来たお通は、すぐそこまで来て、
「あらっ?」
足を止めた。
後を
そして何となく今朝は、
「一しょに
と、誰かを捜すように、見まわしていたが、やがて、両手を
「城太郎さアん。城太郎さアん」
と、呼び出した。
その声を聞いたり、姿を近く見ると、武蔵は顔を
「――城太さアん」
「おウーイ」
と、間の抜けた答えが、竹林の上のほうでする。
「あら、こっちですよ。そんな方へ道を間違えては駄目。そうそうそこから降りておいでなさい」
やがて孟宗竹の下を潜って、お通のそばへ城太郎は駈けて来た。
「なアんだ、こんなところにいたのか」
「だから、私の後に
「
「雉子などを捕まえているよりも、夜が明けたら、大事な人を捜さなければいけないじゃありませんか」
「だけど、心配することはないぜ。おれのお師匠様に限っては滅多に討たれる気づかいはないから」
「でも、ゆうべお前は、何といって、私のところへ駈けつけて来たの? ……今、お師匠様の
「それや、驚いたからさ」
「驚いたのは、おまえよりも、私のほうでした。――おまえのお師匠様が、宮本武蔵というのだと聞いた時――私は余りのことに口がきけなかった」
「お通さんは、どうしておらのお師匠様を前から知っていたんだい」
「同じ故郷の人ですもの」
「それだけ」
「ええ」
「おかしいなあ。
「そんなに私、泣いたかしら」
「人のことは覚えていても、自分のことは忘れちまうんだな。……おらが、これは大変だ。相手が四人だ、ただの四人ならよいが、みんな達人だと聞いていたから、これは捨てておくと、お師匠様も、今夜は
「ええ、石舟斎様の御前で」
「おれは、笛を聞いて、ア、そうだ、お通さんにいって、殿様に謝ろうと胸の中で考えたのさ」
「それでは、あの時、私のふいていた笛は武蔵様にも聞えていたのですね。たましいが通ったのでしょう、なぜなら私は、武蔵様のことを思いながら、石舟斎様の前であれを吹いていたのですから」
「そんなことは、どッちだっていいけれど、おらは、あの笛が聞えたんで、お通さんのいる方角が分ったんだ。夢中になって、笛の聞えるところまで駈けてッた。そして、いきなり何といっておらは呶鳴ったんだっけ」
「合戦だっ、合戦だっ。――と呶鳴ったんでしょう。石舟斎様も、おどろいたご様子でしたね」
「だが、あのお爺さんは、いい人だな。おらが、犬の太郎を殺したことを話しても、家来のように怒らなかったじゃないか」
この少年と話をしはじめると、お通もついつりこまれて、
「さ……。それよりも」
止めどない城太郎のお
「――話は後にしましょう。何より先に、今朝は、武蔵様を捜さなければいけません。石舟斎様も、例を破って、そんな男なら会ってみようと仰っしゃって、お待ちかねでいらっしゃるのですから……」
利休風の門の袖が左右にひらいた。
今朝のお通は、
夏に近い太陽は、彼女の頬を
こぼれる朝露を背にあびながら、樹蔭に
(アア
すぐそこに気づいた。
七宝寺の縁がわに、いつも
その頃のお通には恋がなかった。あっても、ぼんやりしたものだった。どうして自分のみが孤児なのか、そればかりを
だが武蔵を知って、武蔵こそほんとの男性だと信じてからの彼女は、初めて、女性の
武蔵は、物蔭から、彼女のそうしてみがかれて来た美に眼をみはった。
(まるで違ってきた!)と。
そして彼は、どこか人のいない所に行って、洗いざらい自分の本心といおうか――煩悩といおうか――強がっているこころの裏の弱いものをいってしまって、花田橋の欄干にのこした無情に似た文字を、
(あれは
と、訂正してしまおう?
そして、人さえ見ていなければかまわない、女になんか幾ら弱くなってやっても大したことはない。彼女がここまで自分を慕ってくれた情熱に対して、自分の情熱も示し合おう。抱きしめてもやろう、頬ずりをしてもやろう、涙もふいてやろう。
武蔵は、幾度も、そう考えた。考えるだけの余裕があった。――お通が自分にいったかつての言葉が耳に
けれど、そういう気持を、ぎゅっと歯の根で噛んでしまう怖ろしい
(お通!)
と、呼ぼうとし、
(たわけ)
と、叱咤している。
そのどっちの性格が、先天的なものか後天的なものか、彼自身には
お通は、何も知らないのである。門を出て十歩ほど歩み出した。そして、振向くと、城太郎がまた何か門のそばで道草をくっているので、
「城太さん、何を拾っているの。早くお
「待ちなよ、お通さん」
「ま、そんな汚い
門のそばに落ちていた手拭であった。手拭は今しぼったように濡れていた。それを踏んづけてから城太郎は
「……これ、お師匠様のだぜ」
お通は側へ来て、
「え、武蔵様のですって」
城太郎は、手拭の耳を持って両手にひろげ、
「そうだそうだ、奈良の後家様のうちでもらったんだ。
「じゃあ、この辺に?」
お通が
「――おッしょう様あっ」
傍らの林の中で、さっと樹々の露が光り、鹿でも跳ぶような物音がその時した。――びくっとお通は顔を
「あっ?」
城太郎を捨てて、突然、
城太郎は後から息をきって追いかけながら、
「――お通さん、お通さん、何処へ行くのさ!」
「武蔵様が駈けてゆく」
「え、え、どっちへ」
「
「見えないよ」
「――あの、林の中を」
武蔵の影をチラと見た欣びに似た失望と――見る間に遠く去ってゆくその人へ追いつこうとする女の脚のいっぱいな努力で、彼女は、多くの言葉を
「うそだい、違うだろ」
城太郎は、ともに駈けてはいるがまだ信じない顔つきで、
「お師匠様なら、おらたちの姿を見て、逃げてゆくわけはない、人違いだろ」
「でも、御覧」
「だから何処にさ」
「あれ――」
遂に、彼女は、発狂したかのような声をふりしぼって、
「武蔵様あ! ……」
道ばたの樹につまずいてよろめいた。そして、城太郎に抱き起されながら、
「おまえもなぜ呼ばないのです! 城太郎さん、はやく、お呼び!」
城太郎はぎょっとして、そういうお通の顔に眼をすえてしまった。――何と似ていることだろう、口こそ裂けていないが、血ばしっている眼、青じろく針の立った眉間、
似ている。そっくりといってもよい。あの奈良の観世の後家から、城太郎がもらって来た狂女の
城太郎は、たじろいで、彼女の体から手を放した。するとお通は、その戸惑いを叱りつけるように、
「はやく追いつかなければだめです。武蔵様は、帰って来ない。お呼び、お呼び、私も呼びますから声かぎりに――」
そんな馬鹿なことはあるはずがないと、城太郎は心のうちで否定するのであったが、お通の余りにも真剣な血相を見ては、そうもいっていられなかったとみえ、彼も、精いっぱい大きな声を出して、お通の走るままに走って行った。
林をぬけると低い丘があって、山づたいに月ヶ瀬から伊賀へゆける裏道になっていた。
「あっ、ほんとだ」
そこの丘の道に立つと、城太郎の眼にも武蔵の姿が明らかに映った。けれどそれはもう声も届かない距離の彼方にであった。後も見ずに遠くを駈けてゆく人影だった。
「あっ、
二人は駈けた。呼んだ。
足のかぎりに、声のかぎりに。
泣き声をふくんだ二人のさけびが、丘を降り、野を駈け、山ふところの谷間まで駈けて、
だが、遠く小さく見えていた武蔵の影は、そこの山ふところに駈け入ったままもうどこにも見あたらなかった。
「ばか野郎っ、お師匠さんの大馬鹿。おらを捨てて……おらをこんなところへ捨てて……やいっ、ちくしょうっ、どこへ行っちまやがったんだ」
お通はまたお通で、彼とはべつに、大きな
これほどに一生を投げやっている自分の気持も、まだあの人の足を止めるには足らないのであろうか。彼女はそれが口惜しかった。
あの人の志が今何を目的としているか、また、何のために自分を避けて行ったのか、それは姫路の花田橋の時からよく分っている問題である。けれど彼女としてはこう思う。
(どうして私に会っては、その志の邪魔になるのか?)
また、こうも思った。
(それはいいわけで、私が嫌いなのか?)
だが、お通は、七宝寺の千年杉を幾日か見つめて、武蔵がどういう男性であるかを十分に識りつくしていた。女にうそをいうような人ではないと信じている。嫌ならば嫌といいきる人なのだ。その人が、花田橋では、
(決して、そなたが嫌いなわけではない――)
といった。
お通は、それを恨みに思う。
では自分はどうしたらいいのか。
「……なぜ
胡桃の葉はふるえていた。樹にものをいえば樹さえ感動するかのように。
「……あんまりです……」
怨めば怨むほどもの狂わしく恋しいのだ。宿命といおうか。どうしても、その人との生命の合致を見なければ、ほんとの人生を呼吸することのできない生命を持っていることは、弱々しい精神には耐えないほどな苦しみに違いなかった。片肺の肉体を持っている以上な苦しみだった。
「……あ、坊さんが来る」
伊賀の山々には、初夏が来ている。真昼になるほど空は透明性と
――旅の坊さんは、その山をひょこひょこ降りて来た。白雲の中から生れて来たように、世の中の
ふと、胡桃の木の彼方を通りかけて、そこにいるお通のすがたを振り向いた。
「おや? ……」
その声に、お通も顔をあげた。
「あっ……
折も折である。
お通にとっては意外であったが、沢庵にしてみれば、彼女をここで発見したのは、自分の予測があたったに過ぎないことだし、それから城太郎も加えた三人づれで、柳生谷の石舟斎のところへ戻ることになったのも、べつだん何の偶然でも奇蹟でもなかったのである。
そもそも。
宗彭沢庵と柳生家との関係は、今に始まった間がらではなく、その機縁は遠い前からのことであって、この和尚がまだ大徳寺の三玄院で、味噌を
その頃、大徳寺の北派といわれる三玄院には、常に生死の問題を解決しようとする侍とか、武術の研究には同時に精神の究明が必要であると悟った武道家とか、
(三玄院には
と噂されたほど、そこの禅の床は、僧よりも侍に占められていたものだった。
――そこへよく来ていた人物の中に上泉伊勢守の老弟鈴木
まだ但馬守とならない青年宗矩と沢庵とは、忽ち、親しくなって、以来、二人の交友は浅からぬものがあって、小柳生城へも幾度も訪れるうちに、宗矩の父の石舟斎とは息子以上に、
(話せるおやじ)
と尊敬し、石舟斎もまた、
(あの坊主、ものになる)
と、許していた。
こんどの訪問は、九州を遍歴して、先ごろから泉州の南宗寺へ来て沢庵は杖をとめていたので、そこから久しぶりに、柳生父子の消息を手紙でたずねてやると、その返辞に、石舟斎から細々と便りがあって、
(――近ごろ自分は至ってめぐまれている。江戸表へやった但馬守宗矩も、無事御奉公をしているし、孫の兵庫も、肥後の加藤家を辞して、目下は修行して他国を歩いているが、これもまずまずどうやら一人前にはなれそうだし、折から近ごろ、自分の手許には、
――こういう手紙を見ると、沢庵は、尻を上げずにいられなかった。まして手紙のうちにある
そんなわけでぶらりとこの地方を歩いて来た沢庵であるから、その柳生谷に近い山で、お通のすがたを見かけたことは、さまで意外としなかったが、お通の話によって、
「惜しかった」
と、彼も舌を鳴らして嘆息したのは、たった今、武蔵が伊賀路のほうへ向って駈け去ったということであった。
そこの
「む。……む……」
沢庵は、妹の泣き言でも聞いてやるように、うるさい顔もせず幾たびも
「そうか、なるほど、女というものは、男にはできない生涯を選ぶものだ。――そこで、お通さんの今考えていることは、これからどっちを歩こうという
「いいえ……」
「じゃあ……?」
「今さら、そんなことに、迷ってはおりません」
「あきらめようか、どうしようか、そんな迷いをしているくらいなら、私は七宝寺から出てなど参りません。……これからも行こうとする
「どうかするとは」
「今いえません」
「お通さん、気をつけな」
「何をですか」
「おまえの黒髪をひっぱっているよ。この明るい
「私には何ともありません」
「そうだろう、死神が加勢しているんじゃもの。――だが、死ぬほどうつけはないよ。それも片恋ではな。ハハハハハ」
まるで
(――もう話さない)
唇をかんでそう決めたように、お通が黙ってしまうと、今度は沢庵から真面目さを見せて、
「お通さん、おまえはなぜ男に生れなかったのだい。それほど強い意思の男ならば、尠くも一かど国のために役立つ者になれたろうに」
「こういう女があってはいけないんですか。武蔵さまの
「ひがみなさんな。そういったわけではない。――だが武蔵は、おまえがいくら愛慕を示しても、そこから逃げてしまうんじゃないか。――そうとしたら、追ってもつかまるまい」
「おもしろいので、こんな苦しみをしているのではありません」
「少し会わないうちに、お前も世間なみの女の理窟をいうようになったの」
「だって。……いえ、もうよしましょう、沢庵さんのような名僧智識に、女の気持がわかるはずはありませんから」
「わしも、女の子は、苦手だよ、返辞にこまる」
お通は、ついと足を
「――城太さん、おいで」
彼と共に、沢庵をそこへ置き捨てて、べつな道へ歩みかけた。
沢庵は立ちどまった。ふと嘆くような眉をうごかしたが、是非もないとしたらしく、
「お通さん、ではもう石舟斎様にお別れもせずに、自分の行きたい途へ行くつもりか」
「ええお別れは、心のうちでここからいたします。もともと、あの御草庵にも、こんな長くお世話になるつもりもなかったのですから」
「思い直す気はないか」
「どういうふうに」
「七宝寺のある
「ホ、ホ、ホ。ありがとうございます。沢庵さん」
「だめだ――」
沢庵は、嘆息した。自分の思い
「だが、お通さん。――そっちへ行くのは、
「無明」
「おまえも寺で育った
「でも、私には、生れながら
「いや、ある!」
沢庵は
「わしから石舟斎様へよう頼んであげよう。身の振り方を、生涯の落着きを。――この小柳生城にいて、よい良人をえらび、よい子を生み、女のなすことをなしていてくれたら、それだけここの郷土は強くなるし、そなたもどんなに幸福か知れぬが」
「沢庵さんのご親切はわかりますけど……」
「そうせい」
思わず手を引っ張って、城太郎へも、
「小僧、おまえも来い」
城太郎はかぶりを振って、
「おら嫌だ。お師匠さまの後を追いかけて行くんだから」
「行くにしても、一度、山荘へもどれ、そして石舟斎さまにごあいさつ申しての」
「そうだ、おら、御城内へ大事な
城太郎は駈けて行ったが、彼の足もとには、有明もない、無明もない。
しかしお通はその二つの
「あった! あった!」
城太郎は
「――では沢庵さま」
お通は一歩離れた。
城太郎は、彼女の
「さ、行こう。サ……早く行こう」
沢庵は、昼の雲に、眸をあげ、おのれの無力を嘆じるように、
「やんぬる
「左様なら。石舟斎様へは、ここから拝んで参りますが、沢庵さんからも……どうぞ」
「ああ、われながら坊主が馬鹿に見えて来る。行く先々で、地獄ゆきの