伏見桃山の城地を
今――
摂津、山城の二ヵ国を貫くこの大河を中心にして、日本の文化は大きな激変に
「どうなるんだ?」
と、人々はすぐそういう話題に興味を持つ。
「どうって、何が?」
「世の中がよ」
「変るだろう。こいつあ、はっきりしたことだ。変らない世の中なんて、そもそも、藤原道長以来、一日だってあった
「つまり、また
「こうなっちまったものを、今さら、戦のない方へ、世の中を向け直そうとしても、力に及ぶまい」
「大坂でも、諸国の牢人衆へ、手をまわしているらしいな」
「……だろうな、大きな声ではいえねえが、徳川様だって、南蛮船から銃や
「それでいて――大御所様のお孫の千姫を、秀頼公の嫁君にやっているのはどういうものだろ?」
「天下様のなさることは、みな聖賢の道だろうから、
石は焼けていた。河の水は沸いている。もう秋は立っているのだが、暑さはこの夏の土用にも
淀の京橋口の柳はだらりと白っぽく
その石も皆、畳二枚以上の
伏見城の修築だった。
いつのまにか、世の人々に「大御所」と呼ばしめている家康がここに滞在しているからではない。
もう一つの理由は、一般民に、とにかく徳川政策を
今、城普請は全国的に着手されていた。その大規模なものだけでも、江戸城、名古屋城、駿府城、越後高田城、彦根城、亀山城、大津城――等々々。
この伏見城の土木へ
「大御所様景気や」
と、徳川政策を謳歌した。
その上、
「もし戦争になれば」
と、町人たちは、機と利を察して、思惑に熱していた。社会事象のことごとくを、そろばん珠にのせて、
「
無言のうちに、商品は活溌にうごいた。その大部分が、軍需品であることはいうまでもない。
もう庶民の頭には、太閤時代の文化をなつかしむよりも、大御所政策の目さきのいい方へ心酔しかけていた。司権者は誰でもいいのである。自分たちの小さな慾望のうちで、生活の満足ができればそれで苦情がないのだ。
家康は、そういう愚民心理を、裏切らなかった。子どもへ菓子を
そうした都市政策の一方、大御所政治は、農村に対しても、従来の放漫な切り取り徴発や、
それには、
(民をして政治を知らしむなかれ、政治にたよらせよ)
という主義から、
(百姓は、飢えぬほどにして、気ままもさせぬが、百姓への慈悲なり)
と、施政の方策をさずけて、徳川中心の永遠の計にかかっていた。
それはやがて、大名にも、町人にも、同じようにかかって来て、孫子の代まで、身うごきのならない手かせ足かせとなる封建統制の前提であったが、そういう百年先のことまでは、誰も考えなかった。いや、
昼飯をたべれば、
「はやく晩になれ」
と祈るのが、いっぱいな慾念だった。
それでも時節がら、
「戦争になるか」
「なれば
などと、時局談は、いっぱし
「戦争になったって、こちとらは、これ以上、悪くなりようがねえ」
という気持があるからで、ほんとにこの時局を
「――
いつも昼休みに来る百姓娘が、西瓜の籠を抱えて触れて来た。石の蔭で、
「こちらの衆は、西瓜どうや。西瓜買うてくれなはらんか」
と、群れから群れへ唄ってくると、
「べら棒め、銭がねえや」
「ただなら食ってやる」
そんな声ばかりだった。
すると、たった一人ぽち、青白い顔をして、石と石のあいだに
「西瓜か」
と、力のない眼をあげた。
痩せて――眼がくぼんで――日に
又八は、土のついた青銭を、掌のうえでかぞえた。西瓜売りにわたして一個の西瓜と交換した。それを抱え込むと、またしばらく、石に倚りかかったまま、ぐんなり
「げ……げ……」
突然、片手をつくと、草の中へ牛みたいに
「…………」
にぶい眼で、西瓜をながめていた。眼は虚無の玉みたいに何の意力も希望もたたえていない。
「……畜生」
呪う者ばかりが
「お
彼の今の生活は、彼女を空想することだけが慰めだった。お甲という女の性質がよくわかってからは、お甲と同棲しているうちから、心はお通へもどっていたのだった。やがてあの「よもぎの寮」と呼ぶお甲の家を、ていよく突き出されたような形で出てしまってからは、よけいにお通を思うことが多かった。
その後また、よく
(よしっ、俺だって)
彼は酒をやめた。遊惰な悪習を蹴とばした。そして次の生活へかかりかけた。
(お甲のやつにも、見返してやるぞ。――見ていやがれ)
だが、さしずめ適当な職業は見つからなかった。五年も世間を見ずに、年上の女に養われて来た不覚のほどが、はっきり身に沁みて分ったが、遅かった。
(いや、遅かあない。まだ二十二だ。どんなことをしたって……)
と、これは誰にでも起せる程度の興奮だったが、又八としては、眼をつぶって運命の断層をとび越えるような悲壮をもって、この伏見城の土木へ働きに出たのだった。そしてこの夏から秋までの炎天下で、自分でもよく続いたと思うほど労働をつづけていた。
(おれも、一かどの男になってみせる。武蔵のやる芸ぐらい、俺に出来ない法はない。いや、今にあいつを尻目にかけて、出世してみせてやる。その時には、お甲にも黙って復讐できるのだ。見ていろここ十年ばかりに)
だが――と彼はふと思うのだった――十年経ったら、お通は
武蔵や自分よりも、彼女は一ツ年下だ。すると今から十年経つうちには、もう三十を一つこえてしまう。
(それまで、お通が、独り身で待っているかしら?)
故郷のその後の消息は何も知らない又八だった。そう考えると、十年では遠すぎる、少なくもここ五、六年のうちだ。なんとしても身を立てて、故郷へ行き、お通に詫びて、お通を迎え取らなければならない。
「そうだ……五年か、六年のうちに」
西瓜を見ている眼に、やや光が出てきた。すると、
「おい又八、何をひとりでぶつぶついってるんだ。……オヤ、ばかに青い
つけ元気に、又八はうすく笑った。だがすぐ、不快な眼まいがこみあげて来るらしく、
「な、なあに、大したことはないが、少し暑さ
「意気地のねえ野郎だな」
逞しい石曳き仲間は、
「なんだい、その西瓜は。喰えもしねえのに買ったのか」
「仲間にすまないから、みんなに喰べてもらおうと思って」
「そいつあ如才のねえこった。おい、又八の
西瓜を持って、その男は、石の角へたたきつけた。忽ち、そこらの仲間が
「やあい、仕事だぞうっ」
石曳きの
「テコ」や「コロ」に乗せられた巨大な石が、一握りもある太い綱に曳かれて徐々に前へ出てゆくのだった、雲の峰がうごくように。
築城時代の現出は、それにつれて全国に、石曳き歌というものの流行を
(――ゆうべさる方にて習い申しそろ
とあって、その歌詞に
われが殿衆は
藤五郎さまじゃに
粟田口 より
石また曳きゃる
エイサ、エイサ
コロサと曳きゃる
お声きくさえ
四肢 がなゆる
まして添うたら
死のずよの
(――藤五郎さまじゃに
石また曳きゃる
エイサ、エイサ
コロサと曳きゃる
お声きくさえ
まして添うたら
死のずよの
労働歌が絃歌になり、蜂須賀侯のような大名までが、
街に歌がさかんになりだしたのは、何といっても太閤の世盛りからだった。室町将軍の頃には、歌があっても
関ヶ原の役の後、社会文化に家康色がだんだん濃くなってくると、歌もすこし変って来て、豪放さはうすくなった。太閤様のころには、民衆からひとりでに歌が湧いてきたが、大御所の世間になってからは、徳川
「……ああ、苦しい」
又八は、頭をかかえた。頭は火みたいに熱かった。仲間のわめいている石曳き歌が、
「……五年、五年。アア五年働いていたらどうなるんだ。一日稼いでは、一日分食ってしまい、一日休めば、一日食わずにいなけれやならない」
――すると、いつのまに来ていたのか、そこから少し離れた所に、
何思ったか、武者修行はそこへ坐りこんだ。面積一坪ほどな
「ふッ……ふッ……」
ふたつの肱をつくと、編笠はしばらく頬杖に乗っている。陽ざかりで、石はみな照り返すし、草いきれは逆さに顔を撫でるし、さぞ暑いだろうに、身うごきもしない。城の工事に眺め入っているのである。
少し離れた所に、又八がいることなどは、意に介さない様子であった。又八もそこへ来てそういう
――と。その苦しげな息を耳にとめたのだろう。編笠がうごいて、
「石曳き」
と、声をかけ、
「どういたした?」
「へい……暑さ
「苦しいのか」
「少し落ちつきましたが……まだこう吐きそうなんで」
「薬をやろう」
印籠を割って、黒い粒を
「すぐ
「ありがとう存じます」
「にがいか」
「そんなでもございません」
「まだ、貴様はそこで、仕事を休んでおるのか」
「へ……」
「誰か参ったら、ちょっとおれの方へ声をかけてくれ、小石で合図をしてくれてもいい、頼むぞ」
武者修行は、そういって、前の位置に坐りこむと、今度はすぐ矢立から筆を取り出し、半紙
笠のつば越しに、彼の眼のやりばが、間断なく城へ向ったり、城の外のほうへ行ったり、また城のうしろの山の線や、河川の位置や、天守などへ、転々とうごいてゆくところを見ると、その筆の先は、伏見城の地理と廓外廓内の眼づもりを、絵図に
関ヶ原の
今――武者修行が熱心に写している
「……あっ」
又八が、そういった時には、写図に一心になっている編笠のうしろへ、工事課役の大名の臣か、伏見の
――すまないことをした。又八は正直にすまないと思った。けれどもう遅い。石を投げてやっても声をかけてやっても、もう遅い。
そのうちに、武者修行は、汗の襟元へ食いついた
「――あ?」
振り仰いで、驚きの眼をみはった。
工事目付の侍は、その眼をじっと
この炎天下の我慢と、
「何するかッ」
満身で呶鳴った。
「見せろ」
「無礼なッ」
「役目だ」
「なんであろうが」
「見ては悪いものか」
「悪いっ。貴様などが見たってわかるもんじゃない」
「とにかく預る」
「いかん!」
帖の写図は、双方の手に裂かれて、半図ずつ握りしめた。
「曳ッ立てるぞ、素直にせぬと」
「どこへ」
「奉行所へ」
「貴様、役人か」
「然り」
「何番の。誰の」
「左様なこと、汝らが、訊かんでもいい。
「おれは武者修行だ、後学のため諸国の地理や築城を見学しておる、なんでわるいか」
「さような口実でうろついておる敵の
「あっちとは」
「工事奉行のお
「おれを罪人扱いするのか」
「だまって参るのだ」
「役人、こらっ。――貴様あ、そんな
「歩かんか」
「歩かせてみろ」
てこでも動かない姿勢を示すのである。見廻りは、青すじを立てた。掴んでいた写図の破れを、地へすてて踏みにじり、二尺余りの長い十手を腰から抜いた。
武者修行の手が刀へかかったら、すかさず、その
「歩かんと、縄を打つぞ」
ことばの終らないうちに、武者修行のほうから一歩出て来た。何か大きな声を発したと思うと、見廻りは首の根をつかみ寄せられていた。武者修行の片手はまた、彼の
「この、虫けら」
見廻りの
「……アッ」
又八は、顔を抑えた。
真っ赤な味噌みたいなものが彼のいる辺りまで
「…………」
又八は、凄惨な気に打たれていた。恐ろしい力量を見て自分の毛穴までよだっている。――見るところ武者修行はまだ三十に届くまい。
笠を拾って、怪異なその顔へかむると、武者修行はさっと足を速めた。風のように彼方へ向って逃げ出したのである。勿論、そこまでの行動は極めて短い間だった。蟻のように労働している何百という石曳きも、鞭や十手を持って、そのあぶら汗を叱咤している監督も、誰も気づく
だが、その広い工事場を、絶えず高い所から見渡している独特な眼があった。それは丸太組の
「なんだ?」
「何だ」
「また、喧嘩か」
と、外へ飛び出した。
もうその時は、作業場と町屋の境に出来ている
「
「
「ぶっ殺せ」
口々にいって、
半分
そこへ、
「その編笠を引ッ捕えろっ」
と、呼ばわる声が同時にあったので、理由などは問わず、遮二無二、組み伏せにかかると、武者修行は形相をあらためて、野獣のように死にもの狂いとなった。
刺叉を引っ
「こいつらッ」
睨んだだけで、そこの重囲が
すると、危険を避けて人間はわっと散らかったが、途端に八方から小石が降って来たのである。
「
「たたっ殺してしまえっ」
「
「のしちまえ」
と叫んで、四方から
「この
駈け入れば、わッと散るのだ。武者修行の眼はもう自分の生きる路を見つけるよりも、その石の来るほうの人間へ向って、理智や利害を越えている。
何事もなかったように、石曳きは石を曳き、土工は土をかつぎ、
「もう九分九厘まで、くたばっているが、御奉行が来るまでこうして置くから、
人足
「……人間なんて、つまんねえものだな。たった今そこで、城の見取図を写していた男が」
又八のにぶい
「……もう死んでるらしい。まだ三十前だろうに」
と彼は思い
顎の半分ない武者修行は、太い麻縄で縛られて、血に土のまぶされた黒い顔を、無念そうにしかめたまま、その顔を横伏せにして倒れている。
縄尻はそばの
「武者修行に出たからには、のぞみを抱いていたろうに。――
そんなことを
「望みをもつにも、もっと悧巧に出世する道がありそうなものだ」
と、つぶやいた。
時代は若い者の野望を
そのために、青年は続々離郷する――また家を離れ骨肉も
だが数多い武者修行の中で、そういう幸運にあう者がどれほどあろうかといえば、これは極めて少数にちがいない。功成り名を遂げ、一人前の
(馬鹿馬鹿しい……)
又八は、同郷の友の宮本武蔵が行った道を
「……おやっ?」
又八は飛び
ぐ……と
「……ひゅっ……ひゅっ……」
彼は、何かいおうとするらしい。彼とは顎の半分ない武者修行である。完全に死んでいると思っていたこの男は、まだ生きていたのだ。
……ヒュッ、ヒュッと
又八が驚いたのは、この男が生きていたからではない。胸の下に縛りつけられている両手で這って来たからだ。それだけでも、驚くに足る人間の死力であるのに、その縄尻の巻きつけてある何十貫もあろう
まるで、化け物のような怪力だ。この工事場の労働者のうちにも、ずいぶん力自慢があって、十人力とか二十人力とか自称している天狗もあるが、こんな化け物は一人もいない。
しかも、この武者修行は、今や死なんとしている体なのだ。――死なんとする境にあるために、そんな
「……しょっ……しょっ……お、お、おねがい」
また何か、変った
「……たっ……た……たのむ……」
がくっと首を前へ折った。こんどはほんとに息が絶えたのだろう、見ているうちに
「? ……」
何を頼まれたのか、又八は
――石曳き唄は、遠くなっていた。お城は
「そうだ……何かこの中に」
又八は、死者の腰に結びつけている武者修行風呂敷をそっと触ってみた。――生国、骨肉などの身許も、この中を見ればわかるにちがいない。
(故郷の土へ、
そう彼は判断した。
包みと印籠を、死者の体から取って、自分の
――跫音が聞えた。
石の蔭から見ると、奉行配下の侍たちだ。又八は、死骸から無断で取った品物が自分の
夕ぐれの風はもう秋だった。
「誰だえ。又八さんかい?」
又八はこの家の同居人だった。
今、あたふたと帰って来ると、戸棚を掻廻して、一枚の
「暗かろ、又八さん」
「なに、べつに」
「今すぐ
「それには及ばないよ、出かけるから」
「行水は」
「いらん」
「体でも拭いて行ったら」
「いらん」
急いで裏口から飛び出して行った。といっても、垣も戸もない草原つづきである。彼が長屋から出て来ると入れちがいに、数名の人影が、
「あぶない所だった」
と
顎の半分ない武者修行の死体から、包みや
「だが……俺は盗みをしたのじゃない。死んだ武者修行の頼みにやむなく持物を預かって来たのだ」
又八は
「もう石曳きに行かれない」
彼は、
大坂、京都、名古屋、江戸――流浪の先を考えてみるが、何処に知己があるわけではなし、
だが、伏見の里の萱原には、歩けど歩けど何の偶然もなかった。虫の音と露とが深くなるばかりだった。
又八は、昼の病苦をわすれた代りに、すっかり
「……何処かで寝たいものだ」
その慾望が彼を無意識にここへ運んで来たのである。それは野末に見えた一軒の

会ひしりて侍 りける人の伏見にすむと聞きて尋ねまかりけるに、庭の草、道も見えずしげりて虫の啼きければ――「わけて入る袖にあはれをかけよとて露けき庭に虫さへぞ啼く」
――そんな文句を思いだして、肌寒げに立ちすくんでいると、当然人は住んでいないものとばかり思っていた家の奥に、風で燃え出したちょうどよい
一曲終ると、
「ああ」
虚無僧は、ここは野中の一軒家と、安心しきっているらしく独り言に――
「四十
「二十だい、三十だいの年でも、由来おれは、やたらに女のことで失敗をやって来たが、そのころにはどんな醜聞をさらしても、人も許してくれたし、生涯の
盲人のように
――又八は、彼のいる近くの部屋までそっと上がって行ったが、炉の火にぽっと浮いている虚無僧の痩せおとろえた頬の影や、野犬のように
「アア……それを……おれは……」
虚無僧は、天井を仰向いた。
「――いっても、返らないことだが、四十だいほど、油断のならない年頃はない。自分だけが、いっぱし世の中も
誰かに向って謝っているように、虚無僧は頭を下げて、さらにまた下げて、
「おれはいい、おれは、それでも、いいとしよう。――こうして
と、ふと涙をこぼし、
「――だが、済まないのは、わが子に対してだ。おれのした結果は、おれに
――しばらくは、両手で顔をおおっていたが、やがて何思ったか、炉のそばを立つと、
「やめよう、また愚痴が出て来おった。……おお月が出たな、野へ出て、思うさま流して来ようか。そうだ、愚痴と煩悩を野へ捨てて来よう」
尺八を持って、彼は外へ出て行った。
妙な虚無僧である。よろよろ立ってゆく時、物蔭から又八が見ていると、その痩せこけた
ぷいと出て行ったきり、なかなか戻って来ないのだ。少し精神に異常があるのだろうと、又八は不気味に思う半面にあわれな気もした。それはいいが、物騒なのは、炉に残っている火であった。ぱちぱちと夜風がそれを
「あぶねえ、あぶねえ」
又八はそこへ行って、
「あんなのがいるから、奈良や高野にも火事があるんだ」
と彼は、虚無僧の去ったあとに自分が坐って、がらにもない公徳心を呼び起していた。
家産や妻子もない代りに、社会への公徳心も絶無な浮浪者には、火が怖いものという観念も全くないらしい。だから彼らは、
「だが……浮浪人だけが悪いともいえねえな」
又八は自分も浮浪人であることを思って考えた。今の世の中ほど浮浪人が多い社会はない。それは何が生んだかといえば、
「……ほ。
又八はふと横を見てつぶやいた。ここの炉も床の間も、改めて見直せば、元は茶屋にでも使っていたらしい
高価な
「ありがたい」
こういう場合、人間の胃は、他の所有権を考えている
「ああ、腹が
ごろんと手枕になる。
トロトロと炉の火もとに眠りかける。雨のように野は虫の音に
「そうだ」
何か思い出したとみえる。むくりと彼は起き直った。
解いてみた。――それは
むらさき
「これは
と、殊さらにつぶやいた。
もう一つの油紙に包んであるものを開いてみると、これは一軸の巻物である。軸には
「何だろ?」
全く見当のつかない品物だった。巻を下へ置いて、端の方から徐々に繰り
印可
一 中条流太刀之法
一 表
電光、車、円流、浮きふね
一 裏
金剛、高上、無極
一 右七剣
神文之上
口伝授受之事
月 日
越前宇坂之庄浄教寺村
富田入道勢源門流
後学 鐘巻自斎
佐々木小次郎殿
とあって、その後に別な紙片を貼り足したと思われるところには「奥書」と題して、左の一首の極意の歌が書いてあるのであった。一 中条流太刀之法
一 表
電光、車、円流、浮きふね
一 裏
金剛、高上、無極
一 右七剣
神文之上
口伝授受之事
月 日
越前宇坂之庄浄教寺村
富田入道勢源門流
後学 鐘巻自斎
佐々木小次郎殿
掘らぬ井 に
たまらぬ水に
月映 して
影もかたちもなき
人ぞ汲む
「……ははあ、これは剣術の皆伝の目録だな」たまらぬ水に
月
影もかたちもなき
人ぞ汲む
そこまでは又八にもすぐ分ったが、
もっとも、その又八にでも、伊藤弥五郎景久といえばすぐ、
(アアあの一刀流を創始して、一刀斎と号している達人か)
と合点がゆくであろうが、その伊藤一刀斎の師が、鐘巻自斎という人で、またの名を
そういう
「――佐々木小次郎殿? ……ははアすると、この小次郎というのが、きょう伏見のお城工事で、無残な死に方をしたあの武者修行の名だな」
と、そこに
「強いはずだ。この目録をみても分るが、中条流の印可をうけているのだもの。惜しい死に方をしたものだな。……さだめしこの世に心残りなことだったろう。あの最期の顔は、いかにも死ぬのが残念だという顔つきだった。――そしておれに頼むといったのは、やはりこの品だろう。これを郷里の
又八は、死んだ佐々木小次郎のために、口のうちで、念仏をとなえた。そしてこの二品は、きっと死者の望むところへ届けてやろうと思った。
――また、ごろりと彼は横になっていた。肌寒いので寝ながら炉の中へ柴を投げこんで、その炎にあやされながらウトウト眠りかけた。
ここを出て行った奇異な虚無僧が吹いているのであろう、遠い
何を求め、何を呼ぶのか。彼が出て行く折につぶやいたように、愚痴と煩悩を捨て切ろうとする必死がこもっているせいかも知れない。――とにかくそれは物狂わしいまで夜もすがら吹いて野をさまよっていたが、又八はもう疲れきって、熟睡してしまったので、尺八の音も虫の音も、すべて
野は灰色に曇っている。
戸の吹き仆されている
「アア、寒い」
虚無僧は、眼をさまして、広い台所の板敷へかしこまった。
夜明け頃、ヘトヘトになって戻って来ると、尺八を持ったまま、ここへ横になって眠ってしまった彼である。
うす汚い
ありやなしやの薄いどじょう
「……そうじゃ、ゆうべの濁り酒がまだあったはず」
つぶやいて
捜さなければ分らないほど、この空屋敷は昼になってみるとよけいに広いのである。もちろん、見つからないほどでもないが――
(おや?)
うろたえた
「誰だろ?」
及び腰に覗き込んだ。
よく眠っている男だった。撲りつけても眼を
まだ事件があった。今朝の朝飯として食べのこしておいた
虚無僧は顔いろを変えた。死活の問題であった。
「やいっ」
蹴とばすと、
「ウ……ウむ……」
又八は、
「やいっ」
つづいて、もう一ツ、眼ざましに
「何しやがる」
寝起きの顔に、青すじを立てて、又八はぬっくと起ち上がった。
「おれを、足蹴にしたな、おれを」
「したくらいでは、腹が癒えんわい。おのれ、誰に断って、ここにある
「おぬしのか」
「わしのじゃ!」
「それやあ済まなかった」
「済まなかったで済もうか」
「
「謝るとだけでことは納まらん」
「じゃあ、どうしたらいいんだ」
「かやせ」
「
「わしとて、生きて行かねばならん者だ。一日尺八をふいて、人の
餓鬼の声である。どじょう
「さもしいことをいうな」と又八は
「
虚無僧は
「ばかをいえ、残り飯でも、この身にとれば一日の
「どうするって」
「うぬっ」
又八の腕くびを
「ただはおかぬっ」
「ふざけるなっ」
振り離して、又八は、虚無僧の
飢えた野良猫にひとしい虚無僧の細っこい骨ぐみだった。叩きつけて、一振りに、ぎゅうといわせてやろうとしたが、襟がみをつかまれながら、又八の喉輪へつかみかかって来た虚無僧の力には、案外な
「こいつ」
と、
かえって又八が顎をあげて、
「うッ……」
妙な声をしぼりながら、どたどたっと次の部屋まで押し出され、それを食い止めようとする力を利用されて、手際よく、壁へ向って投げ捨てられた。
根太も柱も
「ペッ……ペッ……」
猛然と
「ざまを見ろッ」
圧倒的に又八は、斬りかけ斬りかけして、彼に息をつく間を与えない。虚無僧は化けて出そうな顔つきになった。体の飛躍を欠いてともすると蹴つまずきそうになる。そのたびに何ともいえない死に際のさけびを放った。そのくせ八方に逃げ廻って、容易には太刀を浴びないのである。
しかし結果は、その誇りが又八の敗因となった。虚無僧が猫のように庭へ跳んだので、それを追うつもりで廊下を踏んだ途端に、雨に朽ちていた縁板がみりっと割れた。片足を床下へ突っこんで、又八が尻もちをついたのを見ると、得たりと
「うぬ、うぬ、うぬっ」
胸ぐらを取って、顔といわず
脚がきかないので又八はどうにもならなかった。自分の顔が見るまに四斗樽のように
「――やっ?」
虚無僧は、手を放した。
又八もやっと彼の手をのがれて
自分の
「やいっ、畜生め」
「な、なんだっ、鍋底のあまり飯くらいが! 一合ばかしの
又八はなんと
「こん畜生、金を見たら急に哀れっぽいふうを見せやがって」
と、又八は毒づいたが、そうまで、恥かしめられても、虚無僧はもう先の勢いはどこへやら、
「あさましい。アア、あさましい。どうしておれはこう馬鹿なのか」
もう又八へ対していっているのではない、ひとりで
「この馬鹿、貴さまは一体、
そばの黒い柱へ向って、自分の頭をごつんごつん
「何のために、
ふしぎな男だ。そういって口惜しげにベソを掻くかと思うと、また、自分の頭を、柱に向って叩きつけ、その頭が二つに割れてしまわないうちは
その自責からする
「ま、ま、
「
「どうしたんだい」
「どうもせぬ」
「病気か」
「病気じゃござらぬ」
「じゃあなんだ」
「この身が
又八は、何か急に気の毒になって来て、そこらに落ちている金を拾いあつめて、幾らかを彼の手に握らせながら、
「おれも悪かった、これをやろう。これで勘弁してくれ」
「いらん」手を引っこめて、
「金など、いらん、いらん」
鍋の残り飯でさえ、あんなに怒った虚無僧が、けがらわしい物でも見るように、強く首を振って、膝まで後へ
「変な人だな、おめえは」
「さほどでもござらぬ」
「いや、どうしても、少しおかしいところがあるぜ」
「どうなとしておかれい」
「虚無僧、おぬしには、時々、中国
「姫路じゃもの」
「ほ……。おれは
「作州? ――」と、眼をすえて、
「してまた、作州はどこか」
「
「えっ。……吉野郷とはなつかしいぞ。わしは、日名倉の番所に、目付役をして詰めていたことがあるで、あの辺のことは相当に知っておるが」
「じゃあ、おぬしは、元姫路藩のお侍か」
「そうじゃ、これでも以前は、武家の
名乗りかけたが、今の自分を
「嘘だ、今のは、嘘じゃよ。どれ……町へながしに行こうか」
ぷいと立って、野へ歩み去った。
――金が気になる。
「死者の頼みで、その
又八はそう考えてから、幾分気が軽くなった。――気が軽くなった時には、もう幾分ずつ、小出しにそれを費い始めていた時なのである。
だが、金のほかに死者から預かっている「中条流印可目録」の巻物のうちにある佐々木小次郎とは、一体どこが
多分――あの死んだ武者修行がその佐々木小次郎にちがいないとは思うが、牢人か、
唯一の頼りは、佐々木小次郎に対して、印可目録を授けている
「鐘巻自斎という剣術のすぐれた人がいるかね」
「聞いたこともないお人ですなあ」
と、誰もいう。
「富田
と、いってみても、
「はてね?」
まったく知る者がないのである。
――すると、路傍で会った或る侍が、多少、兵法にも心得がある様子で、
「その鐘巻自斎とかいう
と、教えてくれた。
富田主水正とは何かと訊くと、秀頼公の兵法師範役のうちの一人で、たしか、越前
すこし、あいまいな気もしたが、とにかく大坂へ出るつもりだし、又八は、市街へ入るとすぐ、目抜きの町の
「はい、富田勢源様のお孫とかで、秀頼公のお師範ではありませんが、御城内の衆に兵法を教えていたお方はございましたが、それはもう古い話で、数年前に越前の国へお帰りになっております」
これは、宿の者のいうところだった。町人とはいえ、城内の用勤めもしている家の者のいうことであるから、前の侍のことばよりはよほど真実味のある話だった。
宿の者の意見ではまた、
「――越前の国まで、尋ねておいで遊ばしても、
それも一理ある忠告であった。
だが、その弥五郎一刀斎の居所をさがしてみると、これも近年まで洛外の白河に、一庵をむすんでいたが、近頃はまた、修行に出たのか、
「ええ、面倒くせえ」
又八は、
眠っていた野心的な若さを、又八は、大坂へ来てからたたき起された。
ここではさかんに、人物を需要しているのだった。
伏見城では、新政策や武家制度を組んでいるが、この大坂城では、人材を
「後藤又兵衛様や、
町人たちの間でも、もっぱらそういう噂をしている。――で、どこの城下よりも牢人が尊ばれ、牢人の住みよいのが、今では大坂の城下だった。
長曾我部盛親などは、町端れのつまらない小路に借家して、若いのに頭をまるめ、一夢斎と名をかえて、
(浮世のことなど、わしゃ知らんよ)
といった顔つきして、風雅と遊里の両方に身をやつして暮しているが、その手から、いざという場合には、猛然と起って、
(太閤御恩顧のため)
という旗じるしの
又八は、
(ここだ。出世のつるをつかむ土地は)
と、まず興奮を抱いた。
ふところの金は、ぼつぼつ減ってゆくが、何かしら、
(おれにも運が向いてきた)
という自覚がして来て、毎日が明るくて、愉快だった。石に蹴つまずいても、そんな
(まず、
彼はいい大小を買って差した。もう寒さにかかる晩秋なので、それにうつりのよい小袖と羽織も買った。
この程度に、生活を
(あれへ大槍を立たせ、乗換え馬を
そんなうらやましい噂を、町ではよく聞くが、さて、又八がだんだんに見るところでは、
(世の中というやつは、まるで石垣だ、きっちりと、使われる石は組んであって、後から入る
すこし疲れて来たが、また、
(なあに、
と思い直して、間借している馬具師のおやじへも、
「旦那がたあ、お若いし、腕もおできなさるじゃろうし、御城内の衆へ頼んでおけば、すぐお抱えの口はありましょうで」
ありそうな
繁華な町なかの空地の草にも、朝々霜が真っ白におりる。その霜が消えて、道のぬかるむ頃から、
安醤油のにおいが人混みのあいだを這う。
「ありがとうございました。だんな様が、ここにござったで、
酒売りは、何度も、又八の前へきて、礼をくり返した。
その礼ごころが、
「こんどのお
頼まない
又八は悪い気持でなかった。町人どうしの喧嘩なので、もしこの貧しい露店の物売りに損害をかけたら取ッちめてやろうと睨みつけていたが、何の事もなくすんで、露店のおやじのためにも、自分のためにも、同慶であったと思う。
「おやじ、よく人が出るな」
「師走なので、人は出ても、人足は止まりませぬでなあ」
「天気がつづくからいい」
そして自ら、
(まあいい、人間、酒ぐらい飲まねえでは)
と、慰めたり、理由づけたりして、
「おやじ、もう一杯」
と、うしろへいった。
それと一緒に、ずっとそばの
「オイオイ亭主、おれにも早いところ一合、熱くだぞ」
腰かけへ、片あぐらを乗せて、じろりと又八のほうを見た。足もとから見上げて、顔のところまで眼がくると、
「やあ」
と、何の事もなく笑う。
又八も、
「やあ」
と、同じことをいって、
「
「これは――」
すぐ手を出して、
「酒のみという奴、いやしいもので、実は、尊台が、ここで一杯やっているのを見かけると、どうにも、こう……ぷウんと鼻を襲ってくる
いかにも
よく飲む。
又八がそれから一合もやるうちに、この男はもう五合を越えて、まだ
「どのくらい?」
と訊くと、
「ちょっと一升、落ちついてなら、まあ、量がいえぬ」
と、いう。
時局を談じると、この男は、肩の肉をもりあげた。
「家康がなんだ。秀頼公をさしおいて、大御所などと、ばからしい。あのおやじから本多
そんなことをいうかと思うと、
「貴公、たとえば、今にも関東、上方の手切れとなった場合は、どの手につく」
と、訊く。
又八が、ためらいなく、
「大坂方へ」
と答えると、
「ようっ」とばかり、杯を持って
「わが党の士か、あらためて一
といって、
「いや、ゆるされい。まず自身から名乗る。それがしは、
喋りすぎたのを気がついたように、後へもどって、
「ところで、貴公は」
と、訊き直す。
又八は、この男の話を、全部がほんととは信じなかったが、それでも、何か圧倒されたような
「越前宇坂之庄浄教寺村の、富田流の開祖、富田入道
「名だけは聞いておる」
「その道統をうけ、中条流の一流をひらかれた無慾無私の大隠、鐘巻自斎といわるる人は、私の恩師でござる」
男は、そう聞いても、かくべつ驚きもしないのだ。杯を向けて、
「じゃあ、貴公は、剣術を」
「左様」
又八は、嘘がすらすら出るのが愉快だった。
大胆に嘘をいうと、よけいに酔いが顔に咲いて、酒のさかなになる気がするのである。
「――多分、実はさっきから、そうじゃないかと、拙者も見ておったので。やはり鍛えた体はちがうとみえ、どこか出来ているな、……して、鐘巻自斎の御門下で、何と仰せられるか。さしつかえなくば、ご姓名を」
「佐々木小次郎という者で、伊藤弥五郎一刀斎は、私の兄弟子です」
「えっ」
と、相手の男が驚いたらしい声を発したので、又八のほうこそびっくりしてしまった。あわてて、
(それは
と、取消そうと思ったが、赤壁
「お見それ申して」
と、八十馬は何度もあやまる。
「佐々木小次郎殿といえば、とくより耳にしておるその道の達人。知らないというものは、他愛のないもので、先刻からの失礼は、
又八は、ほっとした。佐々木小次郎をよく知っている者か、面識でもある間がらでもあれば、たちまち嘘がばれて、
「いや、お手を上げて下さい。そう改まられては、私こそ、ご挨拶のしようがない」
「いや、先ほどから、広言のみ吐いてさぞお聞き苦しかったことで」
「なに、私こそ、まだ仕官もせず、世間も知らぬ若輩者で」
「でも、剣においては。――いやよくお名まえは
つぶやいて、八十馬は、酔うと目やにの出る
「その上で、まだご仕官もなさらぬのか、惜しいものだ」
「ただ剣一方に、すべてを打ち込んで来たので、世間にはとんと何の知己もないために」
「や、なるほど。――ではまんざら仕官のお望みがないわけでもないので」
「もとより。いずれは、主人を持たねばならぬと考えていますが」
「ならば、造作もないこと。――実力があるのだからたしかなものだ。もっとも実力があっても、黙っていては容易に見出されるはずはない。こうお目にかかっても、それがしですら、尊名を聞いて初めて驚いたようなもので」
と、さかんに
「お世話しよう」
と、いい出した。
「実はそれがしも、友人の
どうやら赤壁
かりに
――待てよ、と又八は胸のうちで考える。何もそう心配したほどのものじゃないと思う。なぜならば、佐々木小次郎なる者はもう死んでいる人間だ。伏見城の工事場で打ち殺されてしまった人物ではないか。――しかもそれが佐々木小次郎なりとは、おそらく、おれ以外の何者も知っていまい。
死者の所持していた唯一の戸籍証明である「印可目録」は自分が彼の
(分りっこはない!)
又八の頭に大胆な、
「おやじ、勘定」
金入れから金を出して、そこを起ちかけると、赤壁八十馬はあわてて、
「今の話は?」
と、一緒に立った。
「ぜひ、ご尽力をねがいたいが、この路傍では、十分な話もできぬ。どこか座敷のあるところへでも行って」
「ああそうか」
と、八十馬は満足そうにうなずいて、自分の飲んだ代まで、又八が払っているのを、当り前のような顔して眺めていた。
怪しげな
「そんなところへ揚がって、つまらぬ金を
といって、頻りに裏町遊びを謳歌するので、ともかく引っ張られて来てみると、まんざら又八の肌に合わない情調ではない。
すぐ近くに、
「いるな」
又八が、ため息つくと、
「いるだろう、へたな茶屋女や歌妓などより、遥かにましだ。――売女というと、いやな気がするが、冬の一夜をここに明かして、その前身なり、氏素姓なりを、寝ものがたりに聞いてみると、みな、生れた時からの売女ではないて」
肩と肩のすれ合ってゆく往来中を、八十馬は、得意になって、弁じていた。
「室町将軍の奥につかえていたという
それから一軒の家へ上がって、八十馬に遊びの仕方をまかせると、これはこの道での豪の者とみえ、酒のあつらえ方、女たちのあつかいよう、そつがなくて、なるほど、この裏町はおもしろい。
泊ったことはもちろんである。昼間になっても、飽いたといわない八十馬だった、お甲の「よもぎの寮」では、いつも日蔭者でいた又八も、多年の鬱憤をここに晴らしたか、
「もう、もう。酒はいやだ」
と遂にかぶとを脱いで、
「帰ろう」
いい出すと、
「晩までつきあい給え」
と、八十馬はうごかない。
「晩までつきあったらどうするんだ」
「今夜、
「
「いかん、自分からそんな安目を売ってはいかん。とにかく中条流の印可を持って、佐々木小次郎ともいわれる侍が、禄はいくらでもいいから、ただ仕官がしたいなどといったら、かえって先から
谷間の壁を見上げるように、この辺はもう早い日蔭になっている。大坂城の巨大な影が夕空をおおっているからである。
「あれが、
「あの腕木門か」
「いや、その隣の角屋敷」
「ふム……宏壮なものだな」
「出世したものさ。三十歳前後の頃には、まだ、薄田
赤壁八十馬のことばを、又八はそら耳で聞いていた。疑っているのではない、もう彼のことばの端など注意してみる必要を感じないほど信頼し切っていたのだった。――そしてこの巨城を取巻いている大小名の門をながめて、
「おれも」
と、
「じゃあ、今夜ひとつ、兼相に会って、うまく貴公の体を売りこんでみせるからな」
八十馬は、そういって、
「――ところで、例の金だが」
と、催促した。
「そう、そう」
又八は
「ざっと、これだけあるが、これくらいなおくりものでいいのか」
「いいとも、十分だ」
「何かに包んでゆかなければいけまいが」
「なあに、仕官の
持ち金のほとんどあらましを、彼に手渡してしまうと、又八はやや不安をよび起して、歩み出した八十馬に追いすがり、
「うまく頼むぞ」
「大丈夫だ。先で、渋った顔をしていたら、金をやらずに持って帰るだけのことじゃないか。何も、
「返辞は、いつ分るか」
「そうだな、ここで、待っていてくれてもいいが、濠ばたの吹きさらしに、立っているわけにもゆくまいし、また、怪しまれるから、
「明日――どこで」
「人寄せの懸っているれいの空地へ行ってくれ」
「承知した」
「貴公と初めて会った、あの酒売りのおやじの
時刻も打合せて、赤壁八十馬は、そこの門内へ、大手を振って入って行った。肩を振って、堂々と通ってゆく態度を見とどけて、
(あれなら、なるほど、薄田兼相とは、貧困時代からの旧友だろう)
又八は、安心に似た気もちを抱いて、その晩は、さまざまな夢に
きょうも師走の風が寒かったが、冬日の下にはたくさん集まっていた。
どうしたのか、赤壁八十馬は、その日、姿を見せなかった。
次の日。
「何かの都合だろう」
又八は、こう善意に解釈して、れいの野天の酒売りの
「きょうは」
と、正直に空地の人混みを見廻していたが、その日も遂に八十馬の姿を見ずに暮れてしまった。
少し、てれて、
「おやじ、また来たぞ」
三日目である。こういって、床几に腰をすえると、酒売りのおやじが、毎日の彼の挙動をひそかに怪しんでいたとみえ、一体、誰を待つのかと
「え? あの男に」
おやじは呆れたような
「では、仕官の口を周旋してやるからといって、あいつ
「取られたわけではない。わしから依頼して、薄田殿へわたす口入れ金を預けておいたのだが、その返辞がはやく知りたいので、毎日待っているわけだが」
「おやおや、おまえ様は」
おやじは、気の毒そうに、又八の顔をながめて、
「百年待っていても、あの男が来るはずはありませぬ」
「げっ。――ど、どうして」
「
気の毒を通り越して、又八の無智をむしろ
「むだとは思うが、念のため
「そ、そうか」
又八は、あわてて床几を起ち、
「その
「ちょちょんがちょっ
だとか、
「
とか、
「
とかいう有名な幻術師の名が、木戸口の旗に記してあって、幕と
裏へ廻ると見物の出入りしないべつな口があった。又八が、そこを覗くと、
「
と、立番の男がいう。
うなずくと、よしというような顔をしたので、彼は入って行った。幕の中では、青天井をいただいて、二十人ばかりの浮浪人が、車座になって、
又八が立つと、じろっと、すべての白い眼が彼を見上げた。一人がだまって、彼の前に席を開けたので、あわてて、
「この中に、赤壁八十馬って男はいないか」
訊くと、
「赤馬か。そういえば赤馬の奴、ちっとも出て来ねえが、どうしたんだろう」
「ここへ来ましょうか」
「そんなこと、わかるもんか。まあ、入りねえ」
「いや、おれは
「おい、ふざけるなよ、
「すみません」
「向う
「すみません」
ほうほうのていで出て来ると、追いかけて来たガチャ
「野郎待て。ここは、すみませんで済む場所たあ違う。ふてえ奴だ。
「金などない」
「金もねえくせに、賭場のぞきをしやがって、さては、隙があったら、銭を
「なんだと」
又八が、くわっとして刀の
「べら棒め、そんな
「き! 斬るぞ」
「斬れっ、何も、断るにゃ及ばねえや」
「おれを知らんか」
「知ってるもんか」
「越前宇坂之庄、浄教寺村の流祖、富田五郎左衛門が歿後の門人佐々木小次郎とはわしのことだ」
そういったら逃げるだろうと思いのほか、相手は、ふき出して、又八のほうへ尻を向け、矢来のうちのガチャ
「やい、みんな来い、こいつ何とか今、オツな名乗りをあげやがったぜ。おれたちを相手に抜く気らしい。ひとつお
いい終ると、きゃッと、その男は尻を斬られて跳び上がった。又八が、不意に抜き打ちをくれたのである。
「畜生っ」
という声。それから、わっと大勢の声がうしろに聞えた。又八は血刀をさげて人混みの中へまぎれ込んだ。
なるべく人間の多いところへと又八は姿をかくして歩いていたが、危険を感じるほど、どの人間の顔もガチャ蠅に見え、とてもうろついておられなくなった。
ふと見ると、眼のまえの矢来に、大きな虎の絵を描いた幕が垂れていて、木戸には、鎌槍と、蛇の目の紋と旗じるしが立ててあり、空箱に乗っている町人が、しゃがれ声をふりしぼって、
「虎だ、虎だっ、千里行って、千里帰る、これは朝鮮渡りの大虎、加藤清正公が手捕りの虎――」
というような人寄せ文句を、ふしづけて呶鳴っていた。
銭を
死んだ虎を見せられても、見物は、神妙に眺め入って、これは生きていないじゃないかと、腹を立てる者はなかった。
「これが虎かいな」
「大きなものやなあ」
感心して、入口から出口の木戸へ入れ代ってゆく。
又八は、なるべく
「
と、婆のほうがいう。
「元より、皮じゃもの、死んでおるわさ」
「木戸で呼ばわっている男は、さも生きているようにいうたがの」
「これも、
爺侍は苦笑していたが、婆のほうは、
「やくたいもない、幻術なら幻術と看板にあげておいたがよい。死んだ虎を見るくらいなら絵を見るわさ。木戸へ
「婆、婆。人が笑うぞよ、そんなこと、
「なんの、
見物の者を押し分けて、戻りかかると、あっ――とその人混みの中に肩を沈めた者がある。
権叔父と呼ばれた爺侍が、
「やっ、又八っ」
と、呶鳴った。
お杉隠居は、眼がわるいので、
「な、なんじゃ、権叔父」
「見えなんだかよ、婆のすぐうしろに、又八めが立っておったぞ」
「げっ、ほんまか」
「逃げたっ」
「どっちゃへ?」
二人は、木戸の外へ転び出した。
もう空地の
「待て、待て、
振りかえってみると、母親のお杉は、まるで狂気のようになって追って来るのだった。
権叔父も、手をふりあげ、
「馬鹿ようっ、なんで逃げるぞい。――又八っ、又八っ」
それでもなお、又八が足を止めないので、お杉隠居は、
「泥棒、泥棒、泥棒っ――」
夢中でさけんだ。
往来の者も、わいわいと取りかこんで、
「捕まえた」
「ふてえ奴だ」
「どやせ」
「たたっ殺してやれ」
足が出る、手が出る、
後から息を
「ええ、むごいことを、おぬしら何しやるのじゃ、この者へ」
弥次馬は、理を
「婆どの。こいつは、泥棒だよ」
「泥棒ではない、わしが子じゃわ」
「え、おまえの子か」
「おおさ、ようも足蹴にしやったな。町人の分際で、侍の子を足蹴にしやったな。婆が相手にしてくりょう、もいちど、今の無礼をしてみやい」
「
「呶鳴ったのは、この婆じゃが、おぬしら風情に足蹴にしてくれと頼みはせぬ。泥棒とよんだら伜めが、足を止めようかと思うていうた親心じゃわ。それも知らいで、撲ったり蹴ったりは何事じゃ、このあわて者めが!」
町中の森である。おぼろに常夜燈がまたたいていた。
「こう来やい」
お杉隠居は、又八の
婆の
「婆、もう
「何をいうぞい」
隠居は、権叔父を、
「わしが子を、わしが折檻するに差し出口など、要らぬお世話、おぬしは黙っていやい。――こ、これっ、又八っ」
泣いて
老人になれば誰も単純で気短かになるという。今の場合の複雑な感情は余りにも
「親のすがたを見て、逃げ出すとはなんの芸じゃ。
と、幼い時に
「よもやもう、この世に生きておろうとも思わなんだに、のめのめこの大坂に生きていくさるとは憎い憎い、ええもう憎い奴よの。なんで
「――お、おふくろ。かんべんしてくれ、かんべんしてくれ」
又八は、
「悪いことは知っている。知っていればこそ、帰れなかったんだ。今日も、余り不意だったのでびっくりして、逃げる気もなく、おらあ駈け出してしまった。……面目ない、面目ない! おふくろにも叔父御にも、おらあただ面目ないんで」
と、両手で顔をおおった。
それを見ると、婆も目鼻に
「ご先祖の恥さらし、面目ないというからには、どうせ
権叔父は、見るに見かねて、
「もうよかろう、婆、そう打擲しては、かえって又八を
「また差し出口かよ、おぬしは男のくせに甘うていかぬ。又八には
自分も大地へ
「はい」
又八は、土にまみれた肩を起して、
この母親は怖かった。世間の母親なみ以上の甘さもあったが、すぐご先祖様を持ち出すので、又八は頭があがらないのであった。
「つつみ隠しをするときかぬぞよ。関ヶ原の
「……話します」
隠す気は起らない。
又八は、友達の
「ふウむ……」
と、権叔父が
「あきれた子よの」
と、隠居も舌を鳴らし、
「そして今では、何していやるか。
「はい」
うっかり、いい返事をしたが、又八は、
「いや、仕官はいたしませぬが」
「では、何で喰べている」
「剣――剣術などを、教えまして」
「ほう」
婆は、初めて、
「剣術を、おおそうかいの。そういう
この辺で機嫌を直させてしまいたいものだと権叔父は、大きく何度もうなずいて、
「それやあ、ご先祖の血は、どこかにあろうわさ。一時の極道はしようとも、そのたましいだに失わずば」
「して又八」
「はい」
「この上方では、誰について、腕を磨きやった」
「鐘巻自斎先生に」
「ふウむ……あの鐘巻先生にの」
目も鼻も
「
と、常夜燈の明りへ、
「どれ、どれ」
手を出したが、渡さずに、
「安心してござれ、おふくろ」
「なるほど」
隠居は、首を振って、
「見たか、権叔父、大したものじゃわ。小さい頃から、あの
と、
「これ待て、ここに佐々木小次郎とあるのはなんじゃ」
「あ……これですか……これは
「仮名? 何で仮名などつかいなさる、本位田又八と、立派な名のあるものを」
「でも
「オオそうか。その性根たのもしい。――おぬしは何も知るまいがこれから
隠居は、そう前置きして、この一人息子を、いよいよ
じっと首を垂れたまま、又八は老母の烈々と吐くことばに打たれていた。こうしている間は、彼も善良で神妙な息子だった。
けれど、隠居がいおうとする重点は、もっぱら家名の面目とか、侍の意気とかにあったが、この息子の感情を強く打った点は、そこになくて、
(お通がこころ変りした)
と、いう初耳の話だった。
「おふくろ、それは
彼の顔いろを知ると、隠居は、自分の
「嘘と思うなら、叔父御にもただしてみやれ、お通
「そうじゃ、七宝寺の千年杉へ、沢庵坊主のため、
こう聞いては又八も、鬼とならずにいられなかった。それでなくても、彼へは――あの武蔵という人間に対しては、どういうものか反感があってならなかったところである。
隠居の激励は、
「わかったかよ又八。この婆や権叔父が、
「わかりました。……よく」
「おぬしにも、それではのめのめと、故郷の土は踏めまいが」
「帰りません、もう、帰りません」
「討ってたも、
「ええ」
「気のない返辞をするものかな、おぬしには
「そんなことはありません」
権叔父も、そばから、
「案じるな又八、わしもついているのじゃが」
「この婆とても」
「お通と武蔵、二つの首を、晴れて故郷への土産に引っさげて戻ろうぞ。のう又八、そうしておぬしにはよい嫁女をさがし、あっぱれ本位田家の跡目をついで貰わにゃならん。そうした上は、武士の面目も立つ、
「さあ、その気になってたも。なるかよ又八」
「はい」
「よい子じゃ、叔父御、
と隠居はやっと気がすんだらしく、先刻から
「ア……
「婆、どうしやった」
「冷えてかいの、腰が急に吊ってこう下腹へさしこんで来ましたわい」
「これやいかぬ、また持病を起してか」
又八は、背を向けて、
「おふくろ、すがりなされ」
「何、わしを負うてくれる。……負うてくれるか」
と、子の肩に抱きついて、
「何年ぶりぞいの、叔父御よ、又八がわが身を負うてくれたわいな」
と、
母の温い涙が肌にとおって来ると、又八も何か無性に
「叔父御、
「これから探すのじゃ、どこでもいい、歩いてくりゃれ」
「合点だ――」
と、又八は老母の体を
「ほう、軽いなあ、おふくろ。――軽い、軽い、石よりも軽いぞ」
月に何度か、
「どうです、
「儲かりませんよ、
「鉄砲
べつの商人が、また、
「てまえは、その
「そうかなあ」
「お侍方がそろばんに明るくなって」
「ハハア」
「むかしは、野武士がかついで来る
そういう話ばかりが多い。
中には、
「もう内地では、うまい儲けはありっこない。
と、海洋をながめて、彼方の国の富を説いている者があるし、或る者はまた、
「それでも、何のかのといっても、わしら町人は、侍から見れば遥かに割がよく生きていますよ。いったい侍衆なんて、食い物の味ひとつ分るじゃなし、大名の贅沢といったところが、町人から見ればお甘いもので、いざといえば、鉄と
「すると、景気がわるいの何のといっても、やはり町人にかぎりますかな」
「かぎりますとも、気ままでね」
「頭さえ下げていればすみますからな。――その
「ぞんぶんこの世を楽しむにかぎりまさあね」
「何のために生れて来たんだ――といってあげたいのがいますからね」
のぞいてみると、なるほど、桃山の
「ちと、飽きましたな」
「退屈しのぎに、始めましょうか」
「やりましょう。そこの
と、小袖幕のうちにかくれると、彼らは、
そこで儲けている一つかみの黄金があれば、一村の
こういう階級の中に、ほんの一割ほどだが、乗り合わしている山伏とか、牢人者とか、儒者とか、坊主とか、武芸者などという者は、彼らからいわせるといわゆる、
(いったいなんのために生きているんだ)
と
それらのあじきない顔つきの組の中に、一人の少年が
「これ、じっとしておれ」
荷梱に
「ホ。可愛い小猿を」
と、そばの者がさしのぞいて、
「よく馴れてござるの」
「は」
「永くお飼いになっているのであろうな」
「いえ、ついこのごろ、土佐から阿波へ越えてくる山の中で」
「捕まえられたのか」
「その代り、親猿の群れに追いかけられて、ひどい目にあいました」
話を交わしながらも、少年は、顔を上げない。小猿を膝の間に挟んで、
前髪に紫の
だからこの少年も、一概に身なりをもって、未成年者と見ることはできない。体つきからしても、堂々たる巨漢であるし、色は小白くて、いわゆる
けれどまた――
「これ、なぜうごく」
と、小猿の頭を打って、猿の
さてまた、この美少年の身分はというと、元より旅いでたちで、
だが、牢人にしては、ちょっと立派なものを一つ身に着けている。それは、緋羽織の背なかへ、
ものが大きいし、
「――いい
そこから少し離れたところから、
「
と思う。
刀のすぐれた物を見ると、その持ち主から、遠くは、その以前の経歴までが考えられてゆく。
祇園藤次は、
――冬の
はたはたと、大きな百
藤次は旅に
なま
飽きのきた旅ほど他人の世界を感じるものはない。祇園藤次は、その飽き飽きした旅を、もう十四日もつづけて来たあげくのこの船中であった。
「――飛脚が間にあったかしらて? ……間にあえば、大坂の船着場まで、迎えに来ているにちがいないが」
と、お甲の顔を思い浮かべて、せめてもの
さしも、室町将軍家の兵法所出仕として、名誉と財と、両方にめぐまれて来た吉岡家も、清十郎の代になって、
年暮に近づいて、あっちこっちから責め立ててくる負債をあわせると、いつのまにか、途方もない数字にのぼっていて、父拳法の遺産をそっくり渡して、編笠一かいで立ち
(どうしたものか)
という清十郎の相談である。この若先生をおだてて、さんざん
(おまかせなさい、うまく整理をつけてお目にかけましょう)
そんな主旨の廻文を、清十郎に書かせ、これを
先代の拳法が育てた弟子は随分各地の藩に奉公していて、みな相当な地位の侍になっている。
けれど、そういう
(いずれ書面をもって)
とか、
(いずれ、上洛の折に)
とかいうのが多く、現に藤次が携えて帰る金は、予定していた額の何分の一にも当らない。
だが、自分の財政ではなし、まあ、どうかなろうと
うらやましいのは、先刻から小猿の
「若衆。――大坂表までお渡りか」
小猿の頭を抑えながら、美少年は大きな眼をじろりと彼の顔へあげた。
「はあ、大坂へ行きます」
「ご家族は大坂にお住まいかの」
「いえ、べつに」
「では阿波のご住人か」
「そうでもありません」
ちょっと話のつぎ穂がない。
藤次は、黙ったが、また、
「よいお刀だな」
と、こんどは彼の背にある大太刀を
「はあ、家に伝来のもので」
急に藤次のほうへ膝を向け、賞められたのを
「これは陣太刀に出来ていますから、大坂の良い刀師へあずけ、差し料に
「差し料には、ちと長すぎるようだが」
「されば、三尺です」
「長剣だな」
「これくらいなものが差せなければ――」
自信がある――というように美少年は
「それは差せないことはない――三尺が四尺でも。――けれども実際に用うる場合、これが自由にあつかえたら偉いが」
と、藤次は、美少年の
「大太刀を、かんぬきに横たえて、りゅうとして歩くのは、見た眼は伊達でよいが、そういう人物にかぎって、逃げる時には、刀を肩へかつぐやつだ。――失礼だが、貴公は、何流を学ばれたか」
剣術のことになると、自然、藤次はこの乳臭児を見下げずにいられなかった。
美少年は、ちらと、彼のそういう尊大な顔つきへ、瞳をひらめかせ、
「富田流を」
と、いった。
「富田流なら、小太刀のはずだが」
「小太刀です。――けれども何、富田流を学んだから小太刀をつかわなければならないという法はありません。私は、人真似がきらいです。そこで、師の逆を行って、大太刀を工夫したところ、師に怒られて破門されました」
「若いうちは、えて、そういう
「それから、越前の浄教寺村をとび出し、やはり富田流から出て、中条流を
「田舎師匠というものは、すぐ目録や免許を出すからの」
「ところが、自斎先生は容易にゆるしを出しません。先生が印可をゆるしたのは、私の兄弟子である伊藤弥五郎一刀斎ひとりだという話でした。――で私も、何とかして、印可をうけたいものと、
「お国は」
「
「ほ、長光か」
「銘はありませんが、そういい伝えています。
無口だと思いのほか、自分のすきな話題になると、美少年は問わないことまで語りだした。そして口を開き出すとなると、相手の気色などは見ていない。
そういう点や、またさっき自分で話した経歴などから見ても、すがたに似あわない我のつよい性格らしく思われた。
ちょっと、言葉をきって、美少年はその眸に、雲のかげを
「――けれどその鐘巻先生も、昨年、大寿を全うして、ご病死なされてしまった」
「私は、周防にあって、同門の
眸がうるんで来て、今にも涙のこぼれそうな眼になる。
祇園藤次は、この多感な美少年の述懐を聞いても、若い彼といっしょになって、感傷を共にする気には元よりなれない。
だが、退屈に苦しんでいるよりは、ましだと考えて、
「ふム、なるほど」
熱心に聞いている顔つきを装うと、美少年は、
「その時、すぐ行けばよかったのです。けれど私は周防、師は上州の山間、何百里の道です。折わるく、私の母も、その前後に歿したので、遂に、師の死に目に会えませんでした」
――船がすこし揺れだした。冬雲に陽がかくれると、海は急に灰色を呈し、時々、
美少年はなお話をやめない。多感な語気をもって語る。――それから先のことを綜合すると、彼の境遇は今、故郷の周防の家屋敷をたたみ、師の甥でもあり同門の友でもある
「師の自斎には、何の身寄りもありません。で、甥の天鬼には、遺産といってもわずかでしょうが、金を与え、遠く離れている私には、中条流の印可目録を
ようやくいうだけのことをいい終ったように、美少年は改めて、話し相手の藤次にむかい、
「あなたは、大坂ですか」
「いや京都」
それきり黙って、しばらく、波音に耳をとられていたが、
「すると
藤次はさっきから少し軽蔑した顔つきであったが、今もうんざりしたようにいう。この頃のように、こう小生意気な兵法青年がうようよ歩いて、すぐ印可の目録のといって誇っていることが、彼には、
そんなに天下に上手や達人が蚊みたいに
(こんなのが、将来に皆、どういう飯を食ってゆくのか)
と、思うのだった。
膝をかかえて、灰色の海をじっと見ていたと思うと、美少年はまた、
「――京都?」
と、つぶやいて、藤次のほうへ眸を向け直した。
「京都には、吉岡拳法の遺子、吉岡清十郎という人がいるそうですが、今でもやっておりますか?」
よいほどに聞いてみれば、だんだん口の幅を広くしてくる。気に食わない前髪めがと藤次は
けれど考え直してみると、こいつはまだ自分が吉岡門の高弟祇園藤次なる者であることを知らないのだ。知ったらさだめし前言に恥じて、びっくりする奴に違いない。
退屈しのぎが
「――されば、四条の吉岡道場も、相かわらず盛大にやっておるらしいが、
「京都へのぼったら、ぜひ一度はどの程度か、吉岡清十郎と立合ってみたいと存じていますが、まだ訪ねてみたことはありません」
「ふッ……」
笑いたくなった。藤次は顔を
「あそこへ行って、片輪にならずに、門を戻って来る自信が、あるかな?」
「なんの!」
美少年は突っ返すようにいった。――その言葉こそおかしけれ――とばかり笑い出すのだった。
「大きな門戸を構えているので、世間が買いかぶっているので、初代の拳法は達人だったでしょうが、当主の清十郎も、その弟の伝七郎とやらも、たいした者じゃないらしい」
「だが、当ってみなければ、分るまいが」
「もっぱら諸国の武芸者のうわさです。うわさですから、皆が皆、ほんとでもありますまいが、まず京流吉岡も、あれでおしまいだろうとは、よく聞くことですね」
大概にしろといいたい。藤次は、ここらで名乗ってやろうかと思ったが、ここでけりを着けたのでは、
「なるほど、このごろは、諸国にも天狗が多いそうだから、そういう評判もあろうな。ところで、おん身は先ほど、師を離れて、郷里にあるうちは、毎日のように、錦帯橋の
「いいました」
「じゃあ、この船で、時々、ああして飛び来っては
「…………」
何か悪感情を包んでいる相手のことばを、美少年もようやくさとったらしく、瞬間、まじまじと藤次のそういう浅黒い唇を見つめていたが、やがて、
「出来たって、そんな
「でも、京流吉岡を、眼下に見るほどな自信のある腕なら」
「吉岡をくさしたことが、あなたの気に入らなかったとみえる。あなたは、古岡の門人か、縁者か」
「何でもないが、京都の人間だから、京都の吉岡を悪くいわれれば、やはりおもしろくはない」
「ははは、うわさですよ、私がいったわけじゃない」
「若衆」
「なんです」
「
「私を、法螺ふきと、仰っしゃったな」
美少年が、こう念を押すように突っ込むと、
「いったがどうした」
藤次は、
「おまえの将来のためにいってやったのだ。若い者の
「…………」
「最前から何事もふむふむと聞いているので、人を
「このごろの若い奴は、生意気でいかん」
つぶやきながら、独り、
――と、黙って美少年もその後について行くのだった。
(何かなくては済まないらしいぞ)
と予感したので、船客たちは、遠方からではあるが、皆、二人のほうへ首を振向けた。
藤次は決して事を好んだわけではない。大坂へ着けば、船着場にはお甲が待っているかもしれないのだ。女と会う前に、年下の者と、喧嘩などをやっては、人目につくし、あとがうるさい。
そしらぬ顔して、彼は、
「もし」
美少年は、その背中を軽くたたいた。相当に
「もし……藤次先生」
知らないふうも
「なんだ」
顔を向けると、
「あなたは、
「わしが、何を求めたか」
「お忘れのはずはない。あなたは、私が
「それはいった」
「海鳥を斬ってお目にかけたら、その一事だけでも、私がまるで嘘ばかりいっている人間でないことがおわかりになろう」
「それは――なる!」
「ですから、斬ります」
「ふむ」
と半ば、冷笑して、
「やせ我慢して、もの笑いになってもつまらんぜ」
「いや、やります」
「止めはしないが」
「しからば、立ち会いますかな」
「よし、見届けよう」
藤次が、張りをこめていうと、美少年は、二十畳も敷ける
「藤次先生、藤次先生」
と、いった。
藤次は、その構えを白い眼で見すえながら、何用か、と
すると、美少年は、真面目くさって、
「おそれ入るが、海鳥を、私のまえへ呼び降ろしていただきたい。何羽でも、斬って見せます」
一休
藤次はあきらかに
「だまれ。あのように空を
すると美少年は、
「海は千万里、
それ見たかといわないばかりに藤次は二、三歩出て、
「逃げ口上をいう奴だ。出来ませんなら出来ませんと、素直に
「いや、謝るほどなら、こんな身構えは
「何を?」
「藤次先生、もう五歩こちらへ出て来ませんか」
「なんだ」
「あなたのお首を拝借したい。私が
「ばッ、ばかいえっ」
思わず藤次はその首をすくめた。――とたんに美少年の
「――な、なにするかッ」
よろめきながら藤次は襟くびへ手をやった。
首はたしかに着いているし、そのほかなんの異状も感じなかった。
「おわかりか」
美少年は、そういって、
土気色になった自分の顔いろを、藤次はいかんともすることが出来なかった。だが、その時はまだ自分の五体のうちの最も重要な部分が斬り落されていることなど気づかなかった。
美少年が去った後で、ふと、冬陽のうすくあたっている船板の上を見ると、変な物が落ちている。それは、
「や、や? ……」
「やったな! 青二才」
棒のように胸へ突っ張ってくる憤怒であった。美少年が自ら語っていたことのすべてが、嘘でも
だが、
――だが藤次には、その
うむっ! 満身が赤く
――胴の
「
「どこへ飛んだのじゃ?」
「そっちを見ろ」
「いや、こっちにもない」
敷物を払って騒いでいたが、そのうちの一人が、ふと、大空を仰いで、
「やっ、小猿めが! あんなところへ!」
高い帆柱の上を指さして、頓狂なさけびをあげた。
――なるほど、猿だ、猿がいる。
三十尺もあろうかと思われる帆ばしらの
下では、ほかの船客までが、海上の旅に
「やあ、何か
「
「ハハア、あそこで、金持ち連がやっていた骨牌を
「ごらんなさい、小猿のやつも、帆ばしらの上で骨牌をめくる真似をしている」
ヒラヒラと、そういう顔の中へ一枚の札が落ちて来た。
「畜生」
堺の
「まだ足らない。もう三、四枚持っているはずだ」
他の連中も口々に――
「誰か、猿のやつから、札を
「どうして、登れるものか、あんな高いところへ」
「船頭なら」
「それや登るだろう」
「金をやって、船頭に取って来てもらおうじゃないか」
そこで船頭は、金をもらって、承諾はしたが、海上では司権者である船頭として、一応、この事件の責任を問わなければならないという顔つきで、
「お客衆」
と、荷物のうえに上がって、船客たちを見まわし、
「――あの小猿は、いったい誰の飼い猿じゃ、飼い主はここへ出てもらおう」
といった。
どこからも、おれのだといって名乗り出る者がない。しかし、その辺にいた客はみな知っている。例の美少年のすがたへ期せずして一同の眼が注がれた。
船頭も知っていた筈だ。そこで当然
「飼い主はねえのか。飼い主がねえならねえように、おらが処分するが、あとで苦情はあんめえな」
いないのではない、美少年は荷物に
「……なんて図々しい」
と、ささやく者がある。船頭もぎょろりと美少年の頭を見ていた。
だが美少年は、ちょっと膝を横に坐り直したきりだった。どこへ吹く風かという姿である。
「海のうえにも、猿が住むとみえて、飼い主のねえ猿が舞いこんだ。飼い主のねえ畜生なら、どうして始末してもかまうめい。――皆の衆、これほど船頭は断っているのに飼い主が名乗って出ねえだ。後で、耳が遠いの、聞かなかったのと、苦情のねえように、証人になってくらっせえ」
「いいとも、わしらが証人に立ってやる」
と例の旦那連中が、腹を立てて、呶鳴った。
船頭は、船底へゆく
(――怒ったな船頭)
同時に、あの飼い主の若衆がどう出るだろうかと、人々はまた、美少年の姿を振りかえってみた。
のん気なのは、上の小猿だ。
潮風の空で、
だが――突然、白い歯を
「…………」
下では、船頭が、火縄を鼻の先にいぶして種子島の
「ざまを見ろ、あわてやがって――」
と、だいぶ酒の入っているらしい旦那連のうちの一人がいう。
「しっ……」
と、堺の商人が
「船頭」
と、こちらへ声を投げたからである。
こんどは、船頭のほうでそら耳を装っていた。火縄が、チラと
「あっ」
ドカアンと弾音はたかく
「な! なにしやがる!」
これは船頭の当然な怒号だった。おどり上がって美少年の胸ぐらにぶら下がったのである。
頑丈な
「おまえこそ、何するのだ、飛び道具で、無心の小猿を撃ち落そうとしたろう」
「そうだ」
「不届きではないか」
「なぜッ。――断ってあるぞ、おらの方では」
「どう断った?」
「おめえは、眼がねえのか、耳がねえのか」
「だまれ、こう見えても、わしは客だ、わしは武士だ。船頭風情の身をもって、客よりも高い場所に突っ立ち、頭の上からあのように
「いい抜けを
「あちらの客衆とは――おおあの
「大口をたたくな、あの客衆は、並の客衆よりは、三倍も高い船賃を出してござらっしゃる」
「いよいよ
ことばの半ばから、美少年は、血の気の多いその顔を、
どことなく魚臭いものが迫る。
どぼーんと、真っ白なしぶきが立つ。
「かしわ屋でございますが」
「
「飛脚屋さんはいるかね」
「旦那様あ」
渡海場の
その中を、例の美少年が、
「もしもし、
「てまえどもは住吉の門前で、ご参詣にもよし、座敷の見晴らしも至極よいお部屋がございますが」
それらの者には
それを見送って、
「何んていう生意気なやつだろう。すこしばかり兵法が出来ると思って」
「まったく、あの若造のために、船の中は半日、みんな面白くなく暮してしまった」
「こっちが町人でなければ、あのままただでこの船を降ろすのじゃないが」
「まあまあ、侍には、たんと威張らせておいてやるがいいさ。肩で風を切っていれば、それで気が済むんだから他愛はない。わしら町人は、花は人にくれても、
こんなことをいいながら、荷物沢山な旅すがたを揃えて、ぞろぞろ降りて行ったのは例の堺や大坂の
形容のできない顔つきである。不愉快といって、きょうほど不愉快な日はなかったに違いない。
と。――その影を見つけ、
「もし……ここですよ、藤次さま」
その女も、頭巾をかぶっていた。渡海場に立って吹き
「お、お甲か。……来ていたのか」
「来ていたのかって、ここへ迎えに来ているようにと、私へ手紙をよこしたくせに」
「だが、間にあうかどうか、と実は思っていたものだから」
「どうしたんですえ、ぼんやりして――」
「イヤ、すこし、船に
「え、あちらに、駕も連れて来ましたから」
「そいつは有難う、じゃあ宿も先に取っておいてくれたか」
「みな様も、待ちかねているでしょう」
「え?」
意外な顔して、藤次は、
「オイお甲、ちょっと待ってくれ。おまえとここで落ちあったのは、二人ぎりでどこか静かな家で二、三日
「乗らない。わしは乗らない」
祇園藤次は、迎えの駕を
お甲が何かいうと、
「ばかっ」
と、ものをいわせない。
彼をして、こう立腹させた原因は、お甲が告げた新しい事情にも
「おれは、一人で泊るっ。駕なんか追ッ返せ。なんだ。人の気も知らないで、ばかっ、ばかっ!」
と、
河の前の
そこまで来ると、人影も少なくなったので、お甲は、藤次に抱きついた。
「およしなさい、見ッともない」
「離せっ」
「一人で泊ったら、あっちが変なものになりますよ」
「どうにでもなれっ」
「そんなこといわないで」
「……ネ、頼みますから」
「がっかりした」
「そうでしょう、だけど、二人にはまたいい
「おれは、せめて大坂で二、三日は二人ぎりと、楽しみにして着いたのだ」
「分ってますよ」
「わかっているなら、なぜ
藤次が責めると、
「また、あんな……」
と、お甲はうらめしげな眼をこらして、泣きたいような顔をして見せる。
彼女のいい訳は、こうだった。
藤次から飛脚を受け取ると、彼女は勿論、自分だけで大坂へ来るつもりだった。ところが折わるく、吉岡清十郎がその日もまた、六、七名の門人を連れて「よもぎの寮」へ飲みに来て、いつのまにか、
(藤次が大坂へ着くなら、わしらも迎えに行ってやろうじゃないか)
といい出した。それに調子をあわせる取り巻き連も多く、
(朱実も行け)
と、いう騒ぎになってしまい、いやともいえずお甲は一行十人ほどの中に
――聞いてみれば、事情はやむを得ないものだったが、藤次は腐りきってしまった。今日という日に迷信がわき起るほど、何か、後にも先にも、不愉快ばかりが考えられた。
第一、
いやもっと嫌なことは、この頭巾を脱ぐことである。
(何といおう)
彼は、
「……じゃあ仕方がない、住吉へ行くから駕を連れて来い」
「乗ってくれますか」
お甲はまた、渡海場のほうへ、駈け戻った。
この夕方、船で着く藤次を迎えに行くといって出たお甲は、まだ帰って来ない。その間に、同勢は風呂にはいり、
「やがて、藤次もお甲も見えるだろう、その間、こうしていてもつまらんじゃないか」
飲んで待っていようということになったのは、この同勢として、当然な納まりであった。
藤次の顔が見えるまでのつなぎとして飲んでいたうちはいいが、いつの間にか膝がくずれ、杯がみだれ出すと、もうそんな者はどうでもよくなってしまい、
「この住吉には、
「きれいなのを三、四人呼ぼうじゃないか。どうだ
と、病気が始まる。
(よせ、つまらない)などという顔は、この中には一つもいない。ただ師の吉岡清十郎の顔いろを多少
「若先生には、朱実が側についているから、別間のほうへ、お移り願おうじゃないか」
横着な奴らかなと清十郎はにが笑いする。けれど、それは自分に取っても好ましい。
「さあ、これからだ」
とは門人どもが、門人だけになってからの発声だった。やがて程なく
「いったい、あんたはん達は、喧嘩するのかいな、酒あがるのかいな」
と訊ねる。
すでによほど大トラになっている一人が、
「ばかっ、金を
「じゃあ、まちっと、静かにあがりやはったらどうかいな」
「然らば、歌おう」
「あの、お客様が、船からお着きなさいまして、ただ今、お連れ様といっしょに、ここへきやはりまする」
と、告げて行った。
「なんだ、何が来たと」
「藤次といった」
「
お甲と祇園藤次は、あきれ顔して部屋の口に立っていた。誰も彼を待ったらしい者は一名もないのだった。藤次は、一体何のために、この年末この同勢が、住吉へなど来ているのかと疑った。お甲にいわせれば自分を迎えに来たのだというが、どこに自分を迎えに来たらしい人間が一人でもいるか、むっとして、
「おい、
「はい」
「若先生は、どこにいらっしゃるか、若先生のいる部屋へ行こう」
廊下をもどりかけると、
「よう、先輩、ただ今お帰りか。――一同が待っておるのに、お甲などと、途中でよろしくやっているなんて、この先輩、
大トラが立ち上がって来て首の根にかじりついた。たまらない臭気を放つ。逃げようとしたので、トラは強引に座敷へ引きずり込んだ、そして、膳を踏みつけたから形のごとく
「……あっ、頭巾を」
藤次は、あわてて自分のそれへ手をやったが遅かった。
「あれ?」
と、奇異な感じに打たれたように、一座の眼は、藤次の
「頭をどうかなされたので?」
「ホホウ、奇妙なお
「どうしたわけでござる」
無遠慮な凝視を浴び、藤次は狼狽に顔をどす赤くして、頭巾をかぶり直しながら、
「いや、ちとな、その
と、
「わははは」
と、皆笑いくずれ、
「
「できものに
「頭かくして尻かくさず」
「論より証拠」
「犬も歩けば――」
などと
その晩は、酒の興で済んだが、次の日になるとこの同勢が、ゆうべとは打って変って、
「怪しからん沙汰だ」
と、肩を
「――だが
「この耳で、おれが聞いたのだ、おれが嘘をいうと思うのか」
「まあ、そう怒るな、怒ってみたところで仕方がない」
「仕方がないで黙過することはできん。いやしくも天下の兵法所をもって任じる吉岡道場の名折れだ、断じて、これを捨ておくことはできないぞ」
「しからば、どうするのだ」
「これからでも遅くあるまい。その小猿を連れて歩いている前髪の武者修行を
ゆうべトラになった酔っぱらいが、
その動機をたずねると、こうなのである。――今朝がた、彼らが特に朝風呂を命じて、
(なんでもその髷を切られたほうの侍は、京都の吉岡道場の高弟だっていっていたが、あんなのが高弟じゃ吉岡道場もざまはない)
ことおかしげに、湯に入っているうち
彼らの憤激はそれから始まったものである。
いよいよもって、うわさは事実にちがいない。そういう腰抜けの先輩を追いかけるのは愚かである、追うならばどこの何者かわからないが、自分たちの手で、小猿を携えた前髪を捕まえ、存分に、吉岡道場の汚名をそそいでやろうじゃないか。
「――異議があるか」
「勿論、ない」
「しからば――」
と、手筈をしめし合せ、そこの同勢は、
住吉の浦は、眼のおよぶ限り、
何事か起ったように、吉岡の門人たちが思い思いな方角へ向い、刀のこじりを
「オヤ、何だろう」
朱実はまるい眼をしながら、波打ち際に立って見送っていた。
いちばん最後になった門人の一人は、彼女のすぐ側を駈けて来たので、
「何処へ行くのです」
声をかけると、
「オ、朱実か」
足を止めて――
「おまえも一緒になって
「何を捜しに行ったんです」
「小猿を携えている前髪の若い侍さ」
「その人がどうかしたのですか」
「
祇園藤次の飛んでもない置土産の一件を話して聞かすと、朱実は興もない
「皆さんは、始終喧嘩ばかり捜しているんですね」
と、たしなめ顔にいう。
「何も喧嘩を好むわけじゃないが、そんな青二才を、黙って捨てておいては天下の兵法所たる京流吉岡の名折れになるじゃないか」
「なったっていいじゃありませんか」
「ばかいえ」
「男って、ずいぶんつまらないことばかり捜して、日を暮しているんですね」
「じゃあ、おまえは、さっきからそんなところで何を捜しているんだ」
「わたし――」
朱実は、足もとのきれいな砂へ、眼を落して、
「わたしは、貝殻を見つけているの」
「貝殻? ……それみろ、女の日の暮し方のほうが、なおくだらないじゃないか。貝殻など何も捜さなくっても、
「わたしの捜しているのは、そんなくだらない貝殻じゃありません。わすれ貝です」
「わすれ貝、そんな貝があるものか」
「ほかの浜にはないが、この住吉の浦にだけはあるんですって」
「ないよ」
「あるんですよ」……いい争って、朱実は、
「嘘だと思うならば証拠を見せてあげますからこっちへ来てごらんなさい」
と、ほど遠からぬ所の松並木の下へ、無理やりにその門人を引っぱって来て一つの
いとまあらば
ひろひに行かむ住吉の
きしに寄るてふ
恋わすれ貝
新勅撰集のうちにある古歌の一首がそれには刻んである。朱実は誇って、ひろひに行かむ住吉の
きしに寄るてふ
恋わすれ貝
「どうです、これでもないといえますか」
「伝説だよ、取るにも足らん歌よみの嘘だ」
「住吉にはまだ、わすれ水、わすれ草などという物もあるんです」
「じゃ、あるとしておくさ。――だが、それが一体何のお
「わすれ貝を帯かたもとの中へ
「その上、もっと忘れっぽくなりたいのかい」
「ええ、何もかも忘れてしまいたい、忘れられないために、わたしは今、夜も寝られないし、昼間もくるしいんです。……だから捜しているの。あんたも一緒になって捜してくださいよ」
「それどころじゃない」
思い出したように、その門人は足の向きを変えて、どこかへ駈けていってしまった。
――忘れたい。
苦しくなると、そう思うほどだったが、また、
「忘れたくない」
朱実は、胸を抱いて、矛盾の
もしほんとにわすれ貝という物があるならば、それはあの清十郎の袂へこそ、そっと入れてやりたい。そしてこの自分という者を彼から忘れてもらいたいと、ため息ついて思う。
「
思うだけでも、朱実は心がふさいだ。自分の青春をのろうために、あの清十郎は生活しているような気もちにさえ襲われる。
清十郎のねばり濃い求愛に、心が暗くなる時は、必ずその心のすみで、彼女は
「……だけど?」
彼女は、しかし幾たびもためらった。自分はそこまでつき詰めているが、武蔵の気もちはわからなかった。
「……アアいっそのこと忘れてしまいたい」
青い海が、ふと誘惑でさえあった。朱実は、海を見つめていると、自分が怖くなった。何のためらいもなく、真っ直にそこへ向って駈けて行かれる気がするのである。
そのくせ自分がこんなつき詰めた考えを抱いているなどということは、およそ彼女の
朱実はそんな男たちやまた
「――お嬢さま、お嬢さま。さっきから先生がお呼びでごさいますよ。どこへ行ったのかと、えらいご心配になって」
朱実がもどって行って見ると、清十郎はただひとりで、松かぜの音を静かに
彼女のすがたを見ると、
「どこへ行っていたのだ、この寒いのに」
「オオ嫌だ、ちっとも寒くなんかありやしない。浜はいっぱいに陽があたっていますもの」
「何していた」
「貝をひろっていたの」
「子どもみたいだな」
「子どもですもの」
「正月が来たら
「幾歳になっても子どもでいたい……いいでしょう」
「よかあない。すこしは、おふくろの案じているのも考えてやれよ」
「おっ母さんなんか、何も私のことなんか考えているものですか。自分がまだ若い気ですもの」
「ま、
「炬燵なんか、
「朱実」……手くびをつかんで、清十郎は膝へ引き寄せた。
「きょうは誰もいないらしい。おまえの
ふと清十郎の燃えている眼を見て、朱実はからだが
「…………」
無意識に身を
「なぜ逃げる?」
とがめるように
「逃げやしません」
「きょうは皆、留守なのだ、こういう折はまたとない。そうだろう朱実」
「なにがです」
「そう
「いけません!」……突然、朱実は
「――離してください、この手をこの手を」
「どうしても」
「嫌、嫌、嫌ですっ」
手くびは捻じ切れそうに赤くなってくる。それでも清十郎は離さないのである。こういう場合に京八流の兵法が応用されては、いかに彼女が争っても無駄であろう。それにまた、きょうの清十郎はいつもとやや違っていた。いつも
「――朱実、おれをこうまで意地にさせて、おまえはまだ、おれに恥をかかすのか」
「知らないっ」
朱実は遂に、
「あたし、大きな声を出しますよ。離さないと、みんなを呼ぶからいい」
「呼んでみい! ……。この棟は
「わたし帰ります」
「帰さん!」
「あなたの体じゃありません」
「ば、ばかっ。……おまえの
「おっかさんが私を売り物にしても、私は売った覚えはない。死んだって、嫌な男なぞに」
「なにっ」
……呼べど、呼べど、誰も来なかった。
ひんやりと薄陽のあたっている障子には、何事もなげに、松のかげが遠い潮鳴りのように揺れているに過ぎない。外は、あくまで静かな冬の日であった。チチ、チチ、とどこかで、人間の無残な振舞いとはおよそ遠い小鳥の声がしていた。
……ほど
そこの障子のうちで、わっと号泣する朱実の声がもれた。
しいんとして、ややしばらくのあいだ、人の声も気はいもしないでいると思うと、清十郎が青じろい顔を持って、ついと、障子の外へすがたを現わした。
爪で引っ掻かれて血になった左の手の甲を抑えながら――
すると同時に、ぐわらっと突き破るように障子を開けて、朱実が外へ走って行った。
「あっ! ……」
清十郎は身伸びをして、
「…………」
ちょっと、不安そうな眼をしたが、清十郎は、追って行かなかった。――どこへゆくかと見ていた朱実の影がやはり
「これよ、
「おい、なんじゃあ」
「おぬし、くたびれぬかよ」
「いささか
「そうじゃろが、この婆もちと、きょうは
「そうとみえる」
「
「婆よ、あの
「ムム、月毛じゃの」
「何やら立て札があるわ」
「この
「ばかをいわしゃれ」
笑いながら見廻して、
「おや、又八は」
「ほんに、又八はどこへ行ったぞいな」
「ヤア、ヤア、あれなる
「又よう。又ようっ――」
婆は手をあげて、
「そっちゃへ行くと、元の大鳥居の方へ出るのであろうが。――高燈籠のほうへ行くのじゃがな」
と呼ぶ。
又八は、のそりのそり歩いて来た。この
三人つながって歩いていても無益であるから、各

(もうやがてすぐ正月、久しゅう
母がいうので、又八は
「はよう来ぬか」
「勝手なことをいってら」
又八は、口返答して、少しも足を早めないのだ。
「人を待たせる時は、いくらでも待たせておいて」
「何をいうぞ、この息子は。神さまの霊域へ来たら、神さまをおがむのは人間のあたりまえなことじゃ。おぬし、神にも仏にも手を合せたのを見たことがないが、そういう量見では、行く末が思いやらるる」
又八は、横を向いて、
「うるせえな」
それを聞き咎めてまた婆が、
「何がうるさいのじゃ」
初めの二、三日こそ、
それが今、ここで始まりそうな気色なので権叔父は、こんなところで開き直られては閉口と、
「まアまア、まアまア」
と、
困った
何とか、隠居のきげんを直し、又八のふくれ
「ホ、よいにおいがすると思ったら、あれなる磯茶屋で、焼き
高燈籠の近くにある海辺の
「酒あるか」
権叔父は先へ入って行く。
そして、
「さ、又八もきげん直せ。婆もちとやかまし過ぎるぞよ」
杯を出すと、
「飲みとうない」
お杉隠居は、横を向く。
引っ込みを失って、権叔父はその杯を、
「じゃあ又八」
と、彼へ
むッつりむッつり又八はたちまち二、三本ほど飲みほしてしまう。それが老母の気に喰わないことは勿論である。
「おい、もう一本」
権叔父をさし
「いい加減にしやれ!」
と、婆は叱った。
「
きめつけられた権叔父は、独りで飲んだように真っ赤になった顔の
「そうじゃ、ほんに違いない」
のそのそ先に軒先へ出てしまう。
その後で始まったらしい。又八をつかまえてお杉隠居の
いうだけいわせて、
「おふくろ」
こんどは又八からいい出した。
「じゃあ、この俺という人間を、おふくろは結局、意気地なしの腰ぬけの、親不孝者と折紙つけているのだな」
「そうじゃろが、今日まで、
「俺だって、そう見くびった者じゃない。おふくろなどに分るものか」
「わからいでか、子を見ること親に
「だまって見ていろ、まだおれは若いのだ。婆あめ、悪たれいうて、草葉の蔭から後悔するな」
「オオ、その後悔ならしてみたい。だが恐らくは、百年待っても
「嘆かわしい子なら持っていても仕方があるまい。おれから去ってやる」
憤然と、又八は立った。そして、ぷいと大股に
婆は、あわてて、
「こ、これっ」
と、ふるえ声で呼び止めたが又八は振り向かなかった。――止めてくれてもよさそうな権叔父はまた権叔父で、何を
そこで、婆は、いちど上げた腰を
「権叔父っ、止めるでない。止めるでないぞよっ」
その声に、
「婆」
権叔父は答えて振り向いたが、いうことは、隠居の期待とちがっていた。
「あの
いうが早いか、権叔父は、
隠居は、おどろいて、
「阿呆っ、どこへおじゃるッ、それところじゃないわ! 又八がっ――」
と、彼につづいて十間ほど駈けて行ったが、磯の
「ば、ばかっ」
顔も肩も、砂だらけになって、婆は這い起きた。
そして腹立たしげに、権叔父の姿を捜していた
「馬鹿っ、馬鹿っ」
と連呼して、
「気が狂うたかっ、どこへ行くのじゃっ、権叔父っ」
と彼女までが、発狂したのではあるまいかと疑われるような血相で、権叔父の駈けて行った海へ向って、彼女も駈け出して行ったのである。
――見ると。
権叔父はもう海へ入っていた。このあたりは至って遠浅なので、まだ水は
ところが――その権叔父の前にも、もう一人の若い女が、凄まじい勢いで、海へ駈けこんで行くではないか。
初めに、権叔父がその女を発見した時は、女は松原の蔭にたたずんで、じっと海の
だがこの浦は前にもいったとおり五町六町の沖まで潮が浅いので、先に走ってゆく女の姿も、まだ脚の半分ほどしか隠れていない。
白い水けむりを浴びて、赤い袖裏や金糸の帯が光っている。あたかも
「女あッ……! 女っ……。おういッ! ……」
やっと、間近まで追いついて、権叔父がこう呶鳴ったとたんに――そこから急に底が深くなっているのであろう、ガボと、異様な一声を水面に残して、女のすがたは不意に大きな波紋の下にかくれてしまった。
「やれ不心得者っ、やはり死ぬ気か」
ずぶずぶと、権叔父も同時に、全身まで沈みこんで行った。
岸では、隠居が、波打ち際に沿って横へ駈け廻っていた。
一
「あれっ、あれっ、誰ぞ、早く行かねば、間にあいはせぬっ。二人とも死んでしまうわッ」
と、まるで
「はよう、助けに行けっ、浜の者っ、浜の者っ」
と、転んだり駈けたり、また、手を振り廻したり、自分が溺れるかのように騒いでいた。
「心中か」
「まさか……」
と、救って来た
権叔父のからだは、
若い女は、髪の毛こそ、根が切れて乱れていたが、まだ生きてるように、化粧の
「オオ、この女は見たことがあるぜ」
「さっき浜べで、貝殻をひろっていた女じゃないか」
「そうだ、あの宿屋に泊っている女だ」
そこへ
ここの人だかりに、さてはと息を
「おっ、
真っ蒼になって――しかし人前を
「お侍、おめえの連れか」
「そ、そうだ」
「はやく、水を吐かしてやんなせえ」
「た、たすかるか」
「そんなことをいってる間に」
と、漁師たちは、権叔父と朱実と、両方のからだに分れて
朱実は、すぐ息をふき
「権叔父よ……権叔父よっ……」
お杉隠居は、さっきから権叔父の耳へ顔をつけたきり泣いていた。
若い朱実は、蘇生したが、権叔父は老体でもあるし、すこし酒気もあったので、まったく絶息したものとみえる。いくらお杉隠居が呼んでも、ふたたびその眼は開かなかった。
手をつくした漁師たちも、
「この
と、さじを投げた。
そう聞くと、隠居はもう涙を見せなかった。せっかく、親切にしてくれる人々へ、
「何がだめじゃ! 一方の
食ッてかかるような
「この婆が
と、必死になって、あらゆる手当を施すのだった。
その一心不乱な様子は、見るも涙ぐましい程であったが、そこらに居合わす者を、まるで
「なんだ、このくそ婆」
「死んだ者と、気絶した者とはちがうのだ、活かせるものなら活かしてみろ」
呟きあって、いつの間にか、皆ちりぢりにそこを去ってしまった。
浜べはもう暮れかかる、うす
「おういっ、権叔父……権叔父……」
波は暗くなった。
燃やしても燃やしても、権叔父の体は温かくならなかった。だが、お杉隠居は、まだ不意に権叔父が口をきき出すもののように信じて疑わないらしく、印籠の薬を噛んで
「まいちど、眼を開いて下され、ものをいうてたもい。……これ、どうしたものじゃ、この婆を見捨てて先へ
海鳴りと松かぜに暮れてゆく障子のうちに、
「…………」
枕の上の顔よりも青じろい顔して、清十郎はその側に
野獣にもひとしい暴力をふるって、この明朗な
一日という短い生活のうちに、そういう矛盾の甚だしい二つの自己を息づかせながら、しかし当の清十郎は、それが必ずしもおかしくはないように、沈痛な眉と、
「……落ちついてくれ、朱実。おればかりじゃない、男とはたいがいこうしたものなのだ。……今におまえだって分ってくれる日がある。おれの愛があまりに烈し過ぎたのでおまえは驚いてしまったのだろうが」
こういう繰り
墨をながしたように部屋の中は陰惨としていた。朱実の白い手がばたんと時々夜具の外へ出る。夜具をかけてやるとまた、うるさそうにそれを払う。
「……きょうは何日?」
「え?」
「後……幾日で……お正月」
「もう
清十郎が顔を寄せると、
「嫌あ――ッ」
突然、泣くように、顔の上の顔を平手で打って、
「あっちへ行けっ」
と、
狂わしい声が続けさまになおその唇から走るのだった。
「ばかっ、
「…………」
「獣だ、おまえなんか」
「…………」
「見るのも嫌」
「朱実、かんにんしてくれ」
「うるさいっ、うるさいっ、うるさいっ」
必死になって白い手が闇を打つのである。清十郎は苦しげに息を
「……きょうは幾日?」
「…………」
「お正月はまだ?」
「…………」
「元日の朝から
「……え、武蔵?」
「……」
「武蔵とは、あの宮本武蔵のことか」
驚いて清十郎が顔を差し覗くと、朱実はもう答えもせぬ。青い
ハラハラと枯れ松葉が波明りの障子を打つ。どこかで馬のいななきが聞えたと思うと、そこの障子に外から
「若先生は、こちらですか」
「おう誰だ? ――清十郎はこれにおるが」
あわてて境のふすまを閉め、何気ない
「植田良平でござる」
物々しい旅いでたちの男が、
「あ、植田か」
何しにここへ来たのだろうかと清十郎はまず疑った。植田良平というのは、
こんどの小旅行には、勿論そういう
「何だ。何かわしの留守中に起ったのか」
「すぐ若先生にも、お立ち帰り願わなければなりませぬゆえ、このままで申しあげます」
「ム……」
「はてな」
植田良平は、
――と、ふすま越しに、
「嫌アっ――畜生っ――あっちへゆけっ」
うつつにまで、昼の悪夢におびやかされているのであろう、朱実の、さけびが、
良平はびっくりして、
「あっ……何です、あれは」
「いや……朱実が……ここへ来てからちと体をわるくし、熱のせいか、時折、うわ言をいうのだ」
「朱実ですか」
「それよりは急用のほう、心がかりじゃ早く聞こう」
「これです」
腹帯の底からやっと取り出した一通の書面をそこへ差し出す。
女の置いて行った燭台を、良平はずっと清十郎のそばへ送った。
何気なく眼を落して、
「あっ……
良平は声に力をこめて、
「そうです!」
「開封したか」
「急展とありますので、留守居の者が
「な、なんと申して参ったのか」
清十郎はすぐそれを手にとれなかった。――
「――遂にやってきました。この春、ああは豪語して去ったものの、よもや二度とは京都へ足ぶみ致すまいと思っていたのに――よくよくな慢心者――約束とあって――御覧なさい、吉岡清十郎どの
武蔵は今、どこにいるのか、
どこからにしても、彼が忘れずに、吉岡一門の師弟へ対してこう約束の履行を迫って来たからには、もう彼と吉岡家との間は、討つか討たれるかの交戦状態に入ったものと思わなければならない。
試合は――果し合いだ――果し合いは
それを、当面の吉岡清十郎が知らないでいるのは危険の限りである。また安閑とその日の迫るまで遊び暮していていいものではない。
京都にある硬骨な弟子のうちには、清十郎の行状にあいそをつかして、
(この場合、沙汰の限りだ)
と怒っている者があるし、
(拳法先生が世におわせば)
と、悲涙をふるって、一介の武者修行から与えられた侮辱に対して歯がみをしている者もあった。
で、取りあえず、
(ともかくお耳に入れて、すぐさま京都へ引っ張って来い)
という人々の意見を帯びて、植田良平はここへ馬で飛んで来たわけであるが、そのかんじんな武蔵からの書面を、どうした
「とにかく、御一覧を」
やや
「む……これか」
やっと手に取って、清十郎は読み出した。
読んでゆくうちに彼の指先にかすかな
武蔵からのその内容はまた、至って簡明なもので、こう書いてある――
以来御健在ナリヤ
約ニ依而 、茲 ニ書ヲ呈ス
貴剣サダメシ御鍛養 ト被存候 、貧生マタ些 カ鍛腕 ヲ撫 シテ罷 リアリ候
御見 ニ入ル場所ハ何処 、日ハ何日 、時ハ如何ニ。
当方構エテ望ミナシ、タダ尊示ニ従ッテ旧約ノ勝敗ヲ決セント存ズルアルノミ。
憚 リナガラ正月中七日マデノ間、五条橋畔 マデ、御返答高札下サルベク候
月 日
約ニ
貴剣サダメシ
当方構エテ望ミナシ、タダ尊示ニ従ッテ旧約ノ勝敗ヲ決セント存ズルアルノミ。
月 日
新免宮本武蔵政名
「すぐ帰る」清十郎は
あわただしく
――この家を、このいやな晩を、
「そちの馬を借りるぞ」
あわただしい旅支度は、やがて逃げるように、馬の鞍へ取ッついた。植田良平も馬の尾を追って、暗い住吉の並木を駈け出していた。
――ハハア見かけました。
どこで、どこで。
なに
さてこそ、手がかりはついたぞ、それだそれだ、そいつに違いない。
「それ行け」
とばかり、雲をつかむような相手を追って、夕方の往来の者の眼をそばだたしめて行く
もう東堀の片側町は戸の下りていた頃なのである。一人が中へ入って、そこの刀師に何やら
「
と先に立ってまた急ぎ出す。
駈けながら
「わかったのか」
「突きとめた」
とその者は力みかえる。
いうまでもなくこの一群は、今朝から住吉を中心として、渡海場から小猿を
今そこの刀剣師の店で訊くと、真言坂から
(
と訊かれたが、
(頼みたい
ということなので、畏まって、然るべき刀を
(つまらぬ
とてそれをギラリと抜いて示しながら、さんざん自分の刀の自慢を述べたてるので、職人もやや片腹いたく思って、なるほど物干竿とはよく
(ひとつ、京都で
と、涼しい顔して、さっさと立ち去ってしまったというのである。
いかさま聞けば聞くほど生意気な青年らしい。祇園藤次の
「みろ、青二才」
「もう首根ッこを押えたのも同じこと。急ぐにも及ばん」
朝から歩きづめである。くたびれたのがこういった。すると先に駈けているのが、
「いやいや、急がねば駄目だぞ。淀の
と
天満の川波を見ると、
「やっ、いかん」
真っ先のが叫んだので、
「どうした?」
次のがいうと、
「もう
「出てしまったか」
それに下りは速いが、上り船は遅々たるものである。
「そうだ、何もがっかりすることはない。ここで間に合わなかったとすれば、もう急がずともよい、一息入れて行こう」
茶をのんだり、餅や駄菓子などを頬張った上、さてまた、川に沿って暗い道を急ぎに急いで行った。
ひろい暗の
「船だっ」
「追いついたぞ」
七名は色めき立つ。
「しめた」
距離は、いよいよ縮まる。
明らかにそれと分ると、つい思慮もなく、一人が呶鳴ってしまった。
「おおウいっ。――その船待てっ」
すると船から、
「なんじゃあ……」
と
「まあ、どっちにせよ、先は多寡の知れた一人。呶鳴ったからには、明らさまに名乗りかけて、川の中へ逃げ込まない用心をしろ」
「そうだ、そのことだ」
と程よく
そこでこの七名は、気をそろえて、淀を
「おうーいっ」
とまた呼び直した。
「なんじゃあ」
客ではない、船頭らしい。
「その船を岸へ寄せろ」
こういうと、
「阿呆
これはどっと誰彼なく、船の中から揚った笑い声だった。
「着けぬかっ」
「着けぬわい」
と、
七名の
「よしっ、着けぬとあれば、先の船着場で待つが、その船の中に、小猿を連れた前髪の青二才がいるであろう。恥を知るならば、
三十石船の中の
岸へ着けたら何か始まるにちがいない。陸を歩いている七名の侍は、そういえば皆、
「船頭、返事をするな」
「なにをいうても黙っておれ」
「
客は口々にこう
「――聞えたか。小猿を連れた
すると、船のうちで、
「わしのことか」
何を先でいっても答えるなといいあっていた客のうちから、突然、こう答えて舷に立った若者があった。
「おうっ」
「いたな」
「小僧め」
その影を認めて、陸の七名は眼を
「小猿を連れている前髪の青二才とあれば、わしより

声が川を渡って来ると、
「なにっ」
七名は岸へ顔を揃えて各

「
「身のほど知らずが、今に吠え
「われわれをなんだと思う。今の口は、吉岡清十郎門下のわれわれと知ってか、知らずにか」
「ちょうどよい、手をのばして、その細首を洗っておけ」
船は
ここには
――だが船は遠く河心に止まっていて、ぐるぐる廻っているのだった。客も船頭も、事態の容易ならぬものを案じて、着けないほうが無事であると主張しているらしいのである。吉岡門下の七名はそれと見て、
「こらッ、なぜ着けぬ」
「
「その船を寄せぬと、乗りおうている奴ばら、一人あまさず
「小舟で行って、斬り込むがよいかっ」
あらゆる
「やかましいっ!」
「望みにまかせて、今それへ参ってやるから、腰のつがえを定めて待っておれ」
見れば前髪の若者自身が、
「――来るぞ」
「命知らずめが」
川を横に、真っ直に流紋を切って来る船の
ざ、ざ、ざっ、船は
「ひゃっッ」
一人が叫ぶと、七名の手から七本の白光が、
「猿だっ」
と気がついたのは、すでに
「あわてるな!」
と、お互いを
ただ、あれっ――といった者がある。見ると、自分で水馴れ棹を突いていた前髪の美少年が、その棹を、蘆の中にとんと突いたと思うと、先に跳んだ小猿よりも軽く、
「やっ?」
すこし方角が違ったので、七名は一斉にそっちへ向き直った。さんざん待ちかまえていたことではあるが、咄嗟の場合と差のない
真っ先になってしまった縦隊の者の
「…………」
たださえ
「吉岡の門人どもだといったな。望むところだ。先には、
「ほ、ほざいたなっ」
「どうせ手入れにやるこの物干竿、手荒につかうぞっ」
こう宣言をうけながら、その前に
前の者の背が後ろの者の肩を押し返した。出鼻に先頭の一人が、敵の大太刀の一
衆はこうなると一より
腰ぐるまは斬れなかった。しかし撲られただけでも十分にこたえたに違いない。何か一声吠えてその一人は、横ッ飛びに
(――次っ)
と
「
「退くなよ」
味方同士が、こう励ましあうのだった。そこで多少勝ち目を見出した勢いを駆って、
「
勇気というよりはもう無自覚の忘恐がなす
「おもい知れっ」
叫びを重ねて一人は飛びかかって行った。振り下ろした刀はかなり深く入ったつもりであるのに、前髪の敵の胸へはまだ二尺ほども手前の空間を斬り下げていたのである。
当然、自信を持ちすぎたその刀の先は、カチッと石を打った。刀の持主はすでに自分から死の穴へ逆さに首を突っ込んで行ったかのような姿勢になり、
だが、
「ぐわッ」
明らかな
逃げる姿へ、人間は最も殺伐な猛気がおこる。物干竿を両手に持って、
「それが吉岡の兵法かっ」
前髪は追いかけた。
「きたないぞ、返せっ」
「待てっ、待てっ、わざわざ人を船から呼び上げておいて、捨てて逃げる侍がどこにあるかっ。このまま逃げるにおいては、京八流の吉岡を天下に笑ってやるがよいか」
笑ってやるぞということばは、侍が侍に投げる場合の最大の侮辱なのだ。
その頃ちょうど
「あっ」
「御免っ」
追われて来た三名は、馬の鼻づらへ
あわてて手綱を絞ったので、馬は足掻きしていなないた。馬上の者は、馬の前で戸惑いしている三名をのぞいて、
「やっ、門下ども」
意外な顔したが、すぐ腹をたてて、叱りつけた。
「たわけめ、どこに
「ア、若先生ですか」
するとまた、馬の陰から前へ出て来た植田良平が、
「何事だその
いつものでんでまた酒の上の喧嘩かと見られたのでは堪らない。三名は不平に満ちた語気で、それどころか自分たちは、当流の権威と師匠の名誉のために戦って、かくかくの始末と、舌も
「あれ、あれへ、や、やって来ました」
と、ここへ近づいて来る跫音を
その弱腰をながめて、植田良平は、愛想をつかし、
「なにを
と、馬上の清十郎もその三名も後に立たせて、独りだけ十歩ほど前にすすみ、
(御座んなれ、前髪)
身構え取って、近づく跫音を待っていた。
――とは知ろうはずもなく前髪は、れいの長剣を舞わせながら、脚に風を起して、
「やアいっ、待てっ。逃げるのが吉岡流の極意か。わしは殺生したくないが、この物干竿が、まだまだと
毛馬堤の上をこう呼ばわりながら、今しもその影はここへ宙を飛んで来る。
植田良平は手に
「――わッしょっ」
「オヤ、新手か」
た、た、た、とのめって行く良平へ物干竿をぶんと薙ぎ返した。
烈しいの何のといって、植田良平はまだかつてこんな剣気に吹かれた
自分の身まで来る間に解決するものと、清十郎は安心していたのである。ところが、その危険は、すぐ迫って来た。
ひどい暴剣振りである。物干竿は突進して来た。いきなり清十郎の乗っている馬の
「
こう清十郎は高く叫んだ。そして
「――鮮やかッ」
と、
物干竿を持ち直して、清十郎のほうへ一躍しながら、
「今の所作、敵ながら見よい
向けて来る物干竿の切っ先は炎々たる闘志の
「岩国の佐々木小次郎、さすがに目が高い。いかにも自分こそは清十郎であるが、理由もなく、
最初に清十郎が、岸柳と呼んだ時には、耳にも入らなかったらしいが、二度目には明らかに岩国の佐々木と名をさしたので、前髪は、
「や! ……わしを、岸柳佐々木小次郎とは、どうしてご存じあるのか」
と驚きに打たれた。
清十郎は、膝を打って、
「やはり、小次郎殿であったか」
と、いいながら前へ進んで来た。
「――お目にかかるのは、もとより初めてだが、おうわさは常々詳しく聞いていた」
「誰に?」
と、すこし茫然としたように小次郎はいう。
「
「お、一刀斎どのとご懇意か」
「ついこの秋頃まで、一刀斎どのは、白河の

「ホウ! ……」
小次郎は
「では満ざら、貴公ともただの初対面ではない」
「一刀斎どのは何かというと、よく其許の噂をなされていた。――岩国に、岸柳佐々木と称する者がある。自分と同様に、富田五郎左衛門のながれを汲み、鐘巻自斎先生に師事した者で、同門の中では一番の年下ではあるが、行く末天下に自分と名を争う者は彼より
「だがそれだけで、この咄嗟にわしを佐々木小次郎とは、どうしてお分りあったか」
「まだ年ばえもお若いことや、人柄はこうこうなどと一刀斎どのから伺っていたし、また其許が、岸柳と号されている
「奇だ! これは奇遇」
小次郎は
話しあえばお互いに解け合うものがあったのであろう。それから時経て、毛馬堤の上を、佐々木小次郎と吉岡清十郎の二人が先に立って、旧知のように肩を並べ、その後から植田良平と三名の門人が、寒そうに
「いや、初めからこっちは、妙に売られた喧嘩なので、何もことを好んだわけではちっともない」
と、これは小次郎のいい分。
清十郎は小次郎の口から親しく祇園藤次が阿波通いの船中でした振舞や、
「
そういわれると、小次郎も謙譲を示さねばならなくなって、
「いやいや、わしもこのような性質の者でございますゆえ、ずいぶん大言を吐くし、喧嘩なら
「拙者が悪い」
清十郎は、自責しながら、沈痛な顔をして歩いていた。
そちらに含むところがなければ一切を水に流そう――と小次郎がいうと、
「願ってもないことだ。却って、これをご縁に、将来はご交誼をねがいたい」
と、清十郎も応じていう。
二人の打ちとけた様子を前に見ながら、弟子たちはほっとした気持で後から続いていた。――一見、体の
(岩国の
と、口を極めて
それと分って、今さら、
(これが、岸柳か)
と、
やがて、以前の毛馬村の船着場へ来ると、そこには物干竿の犠牲になった幾つかの死骸がもう寒天に凍っていた。死骸の後始末は三名にいいつけて置き、植田良平は先に逃げて行った馬を見つけて曳いて来る。――また、佐々木小次郎は頻りと口笛をふいて、
口笛を聞くと、小猿はどこからか現われて、彼の肩へとびついた。――ぜひぜひ四条の道場へ来て
「それはいけない。私はまだ青くさい一介の若輩だし、貴公はいやしくも平安の名家吉岡拳法の
と、馬の口輪を取って、
「遠慮なくお召なされ、ただ歩くより口輪を取って歩いたほうが歩きよい。おことばに甘えて、しばらくのあいだお世話にあずかるとして、京都までこうして話しながらお供いたそう」
傲慢不遜かと思うと、礼儀もわきまえている小次郎だった。――やがて今年も暮れて初春を迎えるとすぐ、宮本武蔵なる人間と出会わなければならない宿題を持つ清十郎は、折からこの小次郎という人物をわが家へ迎える機縁をひろって、何かに心づよい気がして来るのだった。
「ではお先に失礼して、足の疲れたころには代るといたそう」
彼もまた、そう礼儀をして、鞍の上へ移った。
東国での名人として、塚原
だがほかにもう一家、伊勢桑名の太守北畠
「
といえば、彼の歿後までも伊勢の領民はなつかしいお方として、そのころの桑名の繁昌や善政を慕っている。
北畠具教は、卜伝から一の太刀というものを授けられて、卜伝の正流は東国にひろまらずに伊勢へ残った。
卜伝の子、塚原彦四郎は、父から家督はうけたが、一の太刀の秘伝を遂にゆるされなかった。そこで父の死後、彦四郎は郷里の
「私も父の卜伝より、かねて一の太刀を授かっていますが、生前父がいうには、あなた様へもご伝授してある由、同じものか、違いのあるものか、異同を較べて、お互いに極秘の道を究明してみたいと思いますが、思し召はいかがですか」
すると具教は、師の遺子である彦四郎が、
「よろしい、お目にかけましょう」
と快諾して、一の太刀の秘術を見せた。
彦四郎はそれによって、一の太刀を写しとることができたが、要するにそれは型の真似事でしかなく、元々その
といったような土地自慢は、その国へ足を入れると必ず聞かされるところであるが、変なてめえ自慢から比べればよほど耳ざわりがよいし、また見物の参考にもなるので、今も、桑名の城下から
「なるほど、なるほど」
と、馬子のそうしたお国ばなしをあえて
時は十二月の
笠をかぶる必要もないほど
(駄賃がもらえるかしらて?)
と馬子は内心で、心配しながら乗せた客だった。それに行く先がちと
「旦那」
「む? ……」
「四日市で早めの
「ムム」
「ようがすかね」
「ウム」
何をいっても
それは、武蔵だった。
春の末つ方からこの冬の暮まで、どこを足にまかせて歩いて来たのか、皮膚は渋紙のように風雨に染まり、ただ二つの眼だけがいよいよ白く鋭く見える。
馬子はまた訊ねて、
「旦那、
「人を訪ねに」
「あの村には、
「くさり鎌の上手がいると桑名で聞いたが」
「ははあ、
「うむ、宍戸何とかいったな」
「宍戸
「そう、そう」
「あれは
「うむ」
「それなら鎌鍛冶の梅軒を訪ねて行かっしゃるより、松坂へ行けばこの伊勢で聞え渡っている上手がおりますがな」
「誰か」
「
「ははあ、神子上か」
武蔵は頷いた。その名は
――ふとその時、彼の片方の足を見ると、足の甲を
足の裏の傷が
彼は今、自分の体というものに対して、日々、細心ないたわりを施していた。そうした注意を抱いていたに関わらず、鳴海港の混雑の中で、釘の立ッている荷箱の板を踏みつけてしまったのである。昨日から傷に熱を持って、足の甲は樽柿のように
(これは、不可抗力な敵だろうか?)
武蔵は、釘に対しても、勝敗を考えるのだった。――釘といえども兵法者として、こういう不覚をうけたことを恥辱に思うのだった。
(釘は明らかに、上を向いて落ちていたのだ。それを踏みつけたのは、自分の眼が、虚であって、心が常に全身に行き届いていない証拠だ。――また、足の裏へ突きとおるまで踏んでしまったことは、五体に早速の自由を欠いていたからで、ほんとの
自問自答にこの結論を下して、
(こんなことでは)
と、自己の未熟が反省され、剣と体とがまだまだ一致しない――腕ばかりが伸びてほかの体や精神は合致しない――一種の不具を感じて
だが、この年の晩春、あの
あれから伊賀へ出、近江路へ下り、美濃、尾州と歩いてここへ来たのであるが、行く先々の城下や
(何が極意か?)
ようやく彼もそこへ突き当って来たのである。しかし、
(これが剣の真理だ)
というようなものは、決して町にも山沢にも
会い難いものは人である。この世は人間が
武蔵は世間を歩いて痛感するのだった。そういう嘆きをもつたびに、彼の胸には
(会い難い人におれはかつて出会っているのだ、めぐまれた者といわなければならない、そして、その機縁を無にしてはならない)
彼のことを思うと、武蔵は今でも両手の腕くびから五体がずきずきと痛んで来る。ふしぎなこの痛みは、千年杉の梢に
(今にみろ、おれが沢庵を千年杉に縛りあげて、地上から悟道を説いてくれるぞ)
彼はいつもそう思った。恨みではない、報復ではない、そんな感情の上からではなく、武蔵は、禅によって人生の最高へ住もうとする沢庵に対して、自分は剣によって、どこまで沢庵の上に到ることができるかということを、実にすばらしい宿望の一つとして胸の底に抱いているのだった。
もしああいう形はとらなくても、自分の道境がめざましい進歩を遂げて、沢庵をかりに千年杉のこずえに
武蔵はそれを聞きたいと思う。
おそらく沢庵は、
(
と欣ぶにちがいない。
いや、あの男のことだから、そう素直にはいわないだろう。からからと打ち笑って、
(
というか。――何でもよい、武蔵は彼へ対する恩義として、どういう形でもよいから沢庵のあたまへ一度、ぐわんと自己の優越を示してみたい。
だがそれは他愛のない武蔵の空想だった。彼自身、今や一つの道へ入りかけているだけに、いかに人間があるところへ到達しようとする道の永遠で至難なものであるかを、事ごとに知り初めていたのである。――それだけに、
(沢庵ほどには)
と、空想の腰が折れる。
まして、遂に会わなかったけれど、柳生谷の剣宗石舟斎あたりの高さを思いくらべると、口惜しくても、悲しくても、自分などのまだ青ッぽいことが余りにもわかってくるのだった。兵法だの、道だのと、口にするのも気恥かしくなって、くだらない人間ばかりに見えた世間が、急に広くなり恐ろしくなり、そして
(今から小理窟は早い、剣は理窟じゃない、人生も論議じゃない、やることだ、実践だ)
そんな時彼の
――今がちょうど、桑名で聞き出したそういう一人の相手を、これから尋ねてゆく途中であった。聞き及ぶ
武蔵が目的の地へ着いたのは、もう夜も深い時刻だった。
馬子の労を
「帰ってもよい」
駄賃を与えて去ろうとすると、馬子のいうには、今さらこんな山奥から帰りようもない。朝がたまで、旦那がこれから訪ねてゆく家の軒下でも借りてやすみ、朝になってから鈴鹿峠を下って来る客を拾って帰ったほうが
そういわれてみればこの辺りは伊賀、鈴鹿、
「では拙者のさがす家をおまえも一緒に尋ねてくれるか」
「宍戸梅軒様のお家で」
「そうだ」
「さがしましょう」
その梅軒というのは、この辺の百姓
ただどこかで先程から、こーん、こーん、と凍っている夜空にひびく
さらに
「訪れてくれ」
「へい」
馬子が先に戸を開けて入って行った。中は広い土間であった。仕事はしていないが
「こん晩は、ごめんなすって。――アア火だ、これはたまらぬ」
見知らない男が入って来て、いきなり
「どこの衆だえ、おめえは」
「へい、今話しますよ。……実はお内儀、おめえ様のうちの旦那を遠方から尋ねて来たお客を乗せて今着いたのじゃ。わしは桑名の馬子だがね」
「ヘエ? ……」
女房は武蔵のすがたを無愛想に見上げた。ちょっと、小うるさい眉をして見せたのは、ここへも

「うしろをお
といった。
武蔵は頭を下げ、
「はい」
と素直にうしろの板戸を閉めた。そしてさて――
(あれだな?)
こういう武器と、こういう一種の武術に出あって置くことも、修行の一つと武蔵は考えて来たのであるから、それを見るとすぐ彼の眼の光は違っていたに相違ない。
「そこの若いお侍、おめえっちはまた、うちの
と、笑っていうのであった。
喧嘩もできず、武蔵は、
「お留守か、それは残念な。旅へと仰っしゃったが、旅はどこまで?」
「荒木田様へ」
「荒木田様とは」
「伊勢へ来て荒木田様を知らねえでか。ホ、ホ、ホ、ホ」
とまた笑う。
乳ぶさを頬ばっていた
ねんねしょうとて
ねる子はかわい
起きてなく子は
つらやな
つらやな、母 なかせ
ねる子はかわい
起きてなく子は
つらやな
つらやな、
ふいご場に火のあるのがせめて見つけものである。誰に頼まれて来たわけでもなし、
「ご内儀、そこの壁にかけてあるのが、ご使用の
それを一見しておくのも後学のためであると考えて、手に取って見てもさしつかえないかというと、女房はうつらうつら手枕の居眠りと子守歌のあいだに、ふム……といってあいまいに
「よろしいか」
武蔵は手をのばして、その一挺を壁の
「――なるほど、これが近頃だいぶ用いられている鎖鎌か」
ただ握ってみれば、腰にも差せる一尺四寸ほどの棒に過ぎない。棒の先の
「ははあ、ここから鎌が出るのか」
棒の横にミゾが彫ってあって、中に
「ム……こう使うのだな」
左に鎌を持ち、右の手にくさりのついた鉄球をつかんで、武蔵は仮の敵をそこに想像しながら、構えを作って、独り考えていた。
するとふと、手枕を外してこっちへ眼をくれた女房が、
「なんじゃあ、まあ、そのかたちは」
と、乳ぶさをしまいながら土間へ下りて来て、
「そんな形していたら、すぐ太刀を持った相手に斬られてしまう。鎖鎌というのはこう構えるのじゃ」
武蔵の手から引っ
「あっ……」
武蔵は思わず眼をみはった。
乳ぶさを出して寝そべっているところを見たのでは、
また、
あっ見事なと、武蔵が眼を吸いよせられた途端に、鍛冶の女房はもうすぐ仕型の構えを、体から消して、
「ま、こんなものじゃ」
鎖鎌をがらがらと一本の棒にまとめて、元の壁へかけてしまった。
武蔵は彼女のした型を、記憶する間がなかったのを、ひそかに遺憾にして、
(もういちど見たいが)
と思ったが、女房はさしたる顔もなく、
(あの女房ですら、あれほどな心得があるとすれば、亭主の宍戸梅軒という男の腕はどれほどか?)
武蔵は病気のように、急にその梅軒という男にあいたくなって来た。――だがあの女房のいうには、良人の梅軒は、伊勢の荒木田とかいう人の家へ行っていて留守だという。
伊勢へ来て、荒木田様を知らないのか、とさっきも笑われたことだが、恥をしのんで、馬子にそっと聞いてみると、
「大神宮さまのお
と、馬子は、
(伊勢神宮の神官か、そこへ行ったのならすぐ分る、よし……)
勿論その夜は、
「馬子、ことのついでに、山田までのせてゆくか」
「山田へ」
馬子は眼をみはる。
だが、きのうの分の駄賃は無事にもらったので、その方の不安はない、行こうということになって今日もまた、武蔵を馬の背にのせて、松坂へ出、やがて伊勢大神宮への何里とつづく参道並木を暮れ方に見た。
冬であるにしても、街道の茶屋はひどくさびれていた。並木の大木が、風雨に仆れたまま、幾つも横たわっていた。旅客の影も馬の鈴も稀れである。
すると、荒木田家の執事からの返辞には、そういう者は泊っていない、何かの間ちがいであろう――とある。
武蔵は、失望と同時に、足の傷の痛みを思い出した。釘を踏んだ傷口はおとといころよりひどく
(もう今年も師走の
そう考えると、武蔵は、豆腐くさい湯に
その期日も、敵の都合まかせといってやってある。なお他の約束もあるし、正月の一日までには、どうでも五条の橋だもとまで行っていなければならない。
「伊勢路へまわらず一すじに行けばよかった」
軽い悔いを
こういう家伝の薬がありますとか、この油薬をつけてごろうじませとか、旅籠の者はいろいろ療法を講じてくれるが、武蔵の足は、日の経つほど
つくづく考えてみると――
彼はまだ物心ついてから、病気というもので三日と寝たことの覚えがない。幼少の時、頭の脳天に――ちょうど
(
彼の敵は、常に、彼の外にばかりはいなかった。四日ばかり仰向けに寝たままでいる瞑想の課題に、そんなことを考えたりしたが、
(あと幾日)
と、
(こんなことはしていられない)
(この敵にすら
病魔を組み敷くつもりで、無理に
窓へ向って、武蔵は眼をつぶっている。かっかと赤くなった顔がやがて
眼をひらくと、窓から真っ直に、
「
武蔵は、その山と睨みあった。仰向けに寝ながら毎日見ていた
衆山を抜いて、白雲のうえに、超然としている
「…………」
山と睨めッこしている間は忘れていたが、ふとわれに返ると、彼はまた鍛冶の
「ウウム、痛い」
思わず膝の下から横へ投げ出して、自分の物でないような太くて丸い足くびに眉をしかめた。
「――おいっ、おいっ」
武蔵はその激痛を吐くような語勢で、
なかなか来ないので、彼はまた拳固で二つ三つ畳をたたいた。
「おいっ、誰かいないか。……すぐ出立するから、勘定をして来てくれい。それと弁当、焼米、丈夫な
保元物語に見える伊勢武者の
竹の柱を
「寄って行かっしゃれ」
「茶など、あがりゃんせ」
「そこな若衆」
「旅の衆」
往来の旅客をつかまえて、真昼も夜もけじめがなかった。
内宮へ行くには、いやでも口さがない女の群れの眼を浴びたり、
「あれ、武者修行さん」
「足をどうなされた」
「癒してあげよ」
「さすってあげよ」
女たちは、通せんぼして、武蔵の袂をとらえ、笠をつかまえ、腕くびをとり、
「そんな恐い顔したらよい男が、だいなしになるがな」
といった。
武蔵は顔をあからめて、物もいい得ずただうろたえた。彼は、こういう敵には何の備えもないようだった。しきりと謝ってばかりいる。その
女たちの笑い声が、並木の空をどこまでも
彼も女性というものに決して無感覚ではいられない。彼は永い旅のあいだに、何処でもそういう困る目に
――
こう痛むのは、覚悟の前で出て来たことである。風呂敷づつみのように大きく縛った片足は、持ち上げるたびに、全身の力を要した。――そのため紅い唇や、蜂蜜のように
(くそ! くそ!)
一歩一歩、火の
だが、
「ウムム……」
武蔵は遂に、苦痛に耐えかねたのであろう、
死んで石と
「…………」
武蔵はやがて知覚を失っていた。一体、どういう考えのもとに、突然、
蒲団の中で自然に足の癒るのを待っていては果てしがないから――という病人の
だが、精神だけは恐ろしく張りつめているらしい。そのうちに彼は、はッと首を
虚空には、神苑の杉の巨木が、ごうっと絶え間なく暗い風に鳴っていた。――が今、武蔵の耳をいたく刺戟したのは、その風の間に流れて来た――
さらになお、耳をすますと、その
シダラ ウテト
テテガノタマエバ
ウチハンベリ
ナラビハンベリ
アコメノソデ
ヤレテハンベリ
オビニヤセン
タスキニヤセン
イザセンイザセン
――くそっ! とまたしても武蔵は唇を噛んで、無理に立ちあがった。自分の体が、
虫が歩むように、武蔵が近づいて行ったのは、その
丸腰の空身になると、武蔵は両の手を、腰の骨に当てて、すぐ
ほど経てからである。
そこから五、六町ほど離れている
倖いに神官が気づかないからよいようなものの、もし
(
と、叱り飛ばすに違いない。
それほどに、裸の男の
やがて彼は
このくらいな肉体の苦痛に勝てないで、生涯の敵に勝てるか、と武蔵は自分を叱咤するのであった。生涯はおろかなこと、やがて近い日には、吉岡清十郎とその一門という大敵に当らなければならない。
吉岡方と自分との事情は、かなり険悪でまた複雑な事情にある。今度という今度こそは、先は一門の実力と体面を挙げて自分へかかって来るにちがいない、必殺の陣を
(今やおそし)
と彼らは、手ぐすね引いて、待ちかまえているに相違ないのだ。
よく強がった侍が、念仏のようにいう、必死とか、覚悟などという言葉も、武蔵の考えからすると、取るに足らないたわ
およそ人なみの侍が、こういう場合に立ち至った時、必死になることなどは、当然な動物性である。覚悟のほうは、やや高等な心がまえであるが、それとても、死ぬ覚悟ならば、そう難しいことではない。どうしても死なねばならぬ事態に迎えられてする死ぬ覚悟だとすれば、なおさら、誰もすることである。
彼がなやむのは、必死の覚悟が持てないことではなく、勝つことなのだ。絶対に勝つ信条をつかむことである。
道は遠くない――
ここから京都まで、四十里とはあるまい、すこし踵を飛ばせば、三日を
すでに名古屋から吉岡方へ、決戦状は出してあるが、その後で、武蔵は、
(肚はできているか。きっと勝ちきることができるか)
と、自分で自分に向って
それはなにかというと、やはり自身の未熟を自身知っていることだった。彼は、自分がまだ決して達人の域にも名人の境地にも到っていない、未完成の人間であることをよく知っている。
奥蔵院の日観にあい、柳生石舟斎を思い、また、沢庵坊主の出来ていることを考えても――いかに自分の価値を高く置こうとしても、
(未熟だ)
と、自分の粗質をばらばらに
そういう未熟な――まだ出来あがっていない自分を押しすすめて行って、必殺の
武蔵は、身ぶるいして、
「おれは勝つ!」
声を出して、神林をさけびながら歩き出した。
五十鈴川の上流へ向って――
いったい、どこへ、何を目的にして、武蔵はそんな努力を
裸で、神泉に浴した罰があたって、ほんとに気でも狂ったのではなかろうか。
「何を。何を」
鬼のような血相なのである。岩に
五十鈴川の一之瀬から、約十五、六町の渓谷は、
「ウム、あれだな
彼の精神状態のまえには、不可能という壁は見えないらしい。
大小や持物を、
「ようしっ」
征服した断崖の上で、武蔵は大声を張っていった。五十鈴川の白いながれの末から二見ヶ浦の
きっと、彼が眼をやった前方には、夜気に煙っている疎林の中へ、
(石舟斎だ、この山は)
武蔵は、そう思って、ここまで来た。――あの
ために、この山のすがたが、なんとなく石舟斎のように見え、足の
(気に喰わない山だ)
と、数日、思い積っていたので、その鬱憤をかかえて、一気に、頂へよじ登り、
(これでもか、石舟斎め)
と、土足にかけて、踏みにじってやったら、さだめし、さばさばするだろう。またそれくらいな、自信がつかめなければ、京都の土を踏んで、吉岡方との試合に、どうして勝目があるか。
踏み敷く草も木も氷も、武蔵の足にかかるもの、敵でない物はない。――勝つか負けるか! 一歩一歩が勝敗への呼吸であった。神泉の中で氷化した五体の血が、今は熱泉のように毛穴から湯気を立てていた。
行者ものぼらないという鷲ヶ岳の赤肌へ、武蔵は、抱きついていた。足がかりを捜して、足が岩へかかると、崩れてゆく砂岩が、ふもとの疎林の中で轟いた。
百尺――二百尺――三百尺――武蔵の影はだんだん空へ小さくなって行く。白雲が来てつつみ、白雲が去るたびに、その影は空のものとなっていた。
その手でも足でもが、少しでも
「ふーッ……」
満身の毛穴が
神苑の太古の森も、五十鈴川の白い帯水も、神路山、
「九合目だ!」
温い汗が、内ぶところからむっと顔へにおう。武蔵はふと、母の胸に首を突っ込んでいるような陶酔をおぼえた。この荒い山の肌と自分の肌との差別がつかなくなって、そのまま眠ってしまいたくなった。
ざざざと、足の
「ここだ。寸前だ」
武蔵はまた、山を引っ掻くように、手足をすすめた。
ここでへたばるような弱い意力や体力であるとすれば、兵法者として、ゆくすえ
「畜生」
汗が岩を濡らすのであった。自分の汗で幾たびも滑りかける程になる。武蔵の体は、一
「石舟斎め」
「――日観め、
一足一足、彼は日頃自分より高い人間であると思っている者の頭を踏み越すつもりで踏みのぼって行った。山と彼とはもう二つの物ではない。こういう人間にしがみつかれたことを山霊も驚いているにちがいない。――突然、大砂利や砂を飛ばして、ぴゅうっと、山がうなった。
手で口を
しかし、彼の心には、
「かッ、
頂上を踏んだと思う途端に、彼は意志の
――そうして刻々、無我無性のさかいに俯ッ伏しているうちに、武蔵は何ともいえない快感に全身がかるくなって来るのを覚えた。汗でビショ濡れになっている体は頂上の大地へ
はっと、頭を
「おおうっ、おれの上にはなにものもない。おれは
鮮麗な
ふと気がついたのである。見ればその足の甲から、青い
白絹の小袖に
「あら、なんじゃろ?」
ぞろぞろと裏門から今、それへ出かけてゆく清女たちの群れの中で、一人が見つけ出したのである。
夜のうちに、武蔵がそこの
「誰のやろ?」
「知らんがな」
「お侍さまの物や」
「それは分っているが、どこのお侍様やら?」
「きっと、泥棒が忘れて行ったのじゃろが」
「ま! さわらぬがよい」
まるい眼を
そのうちに、一人が、
「お
と、奥へ走って行って、
「お師匠さまお師匠さま、たいへんですよ、来てごらんなさい」
「なんですか」
窓を開けて顔を出した。
小さい
「あそこへ、盗人が、刀と風呂敷を置いてゆきました」
「荒木田様へお届けしておいたらよいでしょう」
「だけど、みんな触るのを、怖がっているから、持って行かれません」
「まア、たいした騒ぎようですね。じゃあ後から私がお届けしに行きますから、皆さんは、そんなことに道草をしないで、はやく学問所へお
程経て、お通が外へ出て来たころには、もう誰もいなかった。炊事をする老婆と、病人の
「お婆さん、これは誰の物か、心あたりがないのですか」
お通は、そう
うっかり持つと、手から落ちそうに重かった。どうしてこんな重量のあるものを男は平気で腰にさして歩かれるかと疑った。
「ちょっと、荒木田様まで、行って来ますから」
留守の婆やにいって彼女は、その重い物を両手にかかえて出て行った。
お通と城太郎の二人が、この伊勢の大神宮の社家へ身を寄せたのは、もう二月ほど前のことで、伊賀路、近江路、美濃路と、あれから後、武蔵のあとを捜しに捜しぬいた揚句、冬にかかると、さすがに女の山越えや雪の中の旅には耐えかねて、鳥羽の辺りで、れいの笛の指南をして逗留しているうち、
そこで指南することより、彼女はここに伝わっている古楽を知りたかったし、また、神林の中の清女たちと幾日でも暮してみることも好ましくて、乞わるるままに身を寄せたのであった。
その際、都合のわるいのは連れの城太郎であって、少年だからといってこの清女の寮に一緒に住むことは当然許されないので、やむなく彼は、昼間は神苑の
一すじの煙が――その煙さえ何となく神代のもののように――疎林の中からあがっている。その煙の下には、
お通は足を止めて、
(あそこで、働いている)
と思うた。そう思うだけでも、
あの腕白が。
あの、きかん坊が。
この頃はよく素直に、自分のいうことをきき、また、遊びたい盛りを、ああやって働いてくれると思う。
パーン、パーンと木を折るような音が響いて来る。お通は、重い大小を両の手にかかえていたが、つい林の小道へ入って、
「城太さアーン」
すると、
やがて遥か
「おおウいっ」
相変らず元気にみちた城太郎の返辞が聞え、間もあらずそれは駈けて来る跫音となって、
「お通さんか」
と、眼のまえに立った。
「まア、お掃除をしているのかと思ったら、その恰好は何ですか。――
「稽古をしていたんだよ。立木を相手に、剣術の
「お稽古は結構ですけれど、このお
「知ってらい」
城太郎はそういって、お通のお談義へ、ばかにするなというような顔つきをした。
「知っているなら、なぜそんな物で、樹を折るんですか。荒木田様に見つかると、叱られますよ」
「だって、枯れている樹を打つならいいだろう。枯れ樹でもいけないかい?」
「いけません」
「何いってやがるんだい。――じゃあおれは、お通さんに聞きたいことがあるよ」
「なあに」
「そんなに、大切な
「恥ですね、ちょうど、それは自分たちのこころに、雑草を生やして置くのも同じですから」
「雑草ぐらいならよいが、雷で裂けた樹は裂かれたまま朽ちているし、
お通は、くすりと白い
「城太郎さん、それはお前、いつか荒木田様が仰っしゃった講義の時のおはなしと、そっくりじゃないの」
「あ、お通さんもあの時、聞いてた?」
「聞いていましたとも」
「じゃ駄目だ」
「そんな
「まったくだ。……荒木田様にいわれてみると信長も、秀吉も、家康も、みんな偉くない気がしちまう。偉いには違いないんだろうけれどさ、天下を取っても、その天下で、自分だけが偉い頂上だと考えていることが、偉くないや」
「でも、まだまだ信長や秀吉は、ましな方なんです。世間と自分への言い訳だけにでも、京都の御所をしつらえたり、人民をよろこばしたりもしていますからね。――ところが足利氏の幕府だった
「へ? どういう風に」
「その間には応仁の乱なんていう年があったでしょう」
「ウム」
「室町幕府が無能だったので、内乱ばかり起って、力のある者と力のある者とが、自分たちの権力ばかり通そうとし、人民たちは一日とて、安き日もなかったほどですから、国のことなんか、まじめに考えてみる人もありません」
「山名、細川なんかの喧嘩だろう」
「そうそう、
すっかりお通に熱心に
「アハハハ。あははの、あははだ。おれが黙って聞いていれば知らないと思って、お通さんのもみんな、請売りじゃないか」
「あら、知ってたの、――人が悪い!」
と打つ真似をしたが、両の手にかかえている大小の重さに、ただ一足追って、笑いながら睨んだ。
「オヤ」と、城太郎は寄って来て、
「お通さん、その刀誰のだい? ……」
「いけませんよ、手を出しても、これは
「
「それごらん、すぐほしそうな眼をするくせに」
ばたばたと小走りに草履の音が後ろへ来ていた。
「お師匠さま、お師匠さま。あちらで、
と、お通へ呼びかけ、お通が振向くとすぐにまた、元のほうへ走って行った。
城太郎は、何か、びくっとしたように、
冬の樹洩れ陽は、さざ波のように、
「――城太さん、どうしたんです。何をきょろきょろ見まわしているの」
「……なんでもない」
さびしげに城太郎は指を噛んだ、そしてこういった。
「今、あっちへ行った
「武蔵さまのこと?」
「あ、あ」
――そんなこと、いい出してくれなければよいのに、と城太郎の無心にいったことばが辛くて恨めしくなってしまう。
一日として、武蔵をわすれ得ないことが、お通には苦しい重荷だった。なぜそんな重荷は捨ててしまわないのか――そして平和な
恋は、虫歯のように、どうにもならない
「……ああ」
お通は、黙って歩きだした。――何処に、何処に、何処に? ――およそ生きとし生ける者の
ポロリと、涙をこぼしながら、お通は自分の胸を抱きしめて、黙々と足を運んでいた。――その手とその胸との間には、汗くさい武者修行風呂敷と、
だがお通は、知らなかった。
うす汚いその汗のにおいが、武蔵の体の物であるなどとどうして考えられようか。重いという感じのほか、お通は持っていることさえうっかりしていた。心のすべてを武蔵のことに占められて。
「……お通さん」
城太郎は、彼女の後から済まない顔して
「怒ったの? 怒ったの?」
「……いいえ、なにも」
「ごめん。――お通さん、ごめんね」
「城太郎さんのせいじゃありませんよ、またわたしの泣きたい虫が起ったんでしょう。わたしは、荒木田様の御用を伺って来ますから、おまえは、あちらへ戻って、一生懸命にお掃除をなさいね」
荒木田
氏富は、今の社会ではあまりはやらない学問をここで幼い者たちに教えていた。それは文化のたかいという都会地ほど軽んじられている古学であった。
ここの子女が、その学問を知ることは、この伊勢の森がある郷土としても、ゆかりがあるし、国総体の上からも、今のように、武家の盛大が、国体の盛大かのように見えて、地方のさびれかたが、国のさびれとは誰も思わないような世の中に、せめて、神領の民の中にだけでもこころの
むつかしい古事記や、中華の経書なども、氏富は、子どもの耳になじむように、愛と根気をもって毎日話した。
氏富が、そんなふうに、十数年、
――今、氏富は、その
生徒たちは、そこを出ると、蜂の子のように帰って行った。すると一人の
「
と告げた。
「そうそう」
氏富は思い出して、
「呼びにやっておきながら、すっかり、忘れていた。どこへ来ているか」
お通は、学問所の外に立って、あの大小をまだ抱えたまま、
「――荒木田様、ここにおります。お通でございますが、何か、御用でございましょうか」
「お通さんか、待たせて済まなかったの。まあお上がり」
氏富は、自分の居間へ彼女を導いて行ったが、坐らぬ前に、
「なんじゃ?」
と、彼女の抱えている大小へ目をみはった。
今朝、
「ホ? ……」
白い眉を
「参拝人のものでもないのう」
「ただの参拝人が、あんなところへ入って来るわけはありません。それに、ゆうべは見えなかったのに、今朝がた
「ふウむ……」
嫌な顔して、氏富は、口のうちで呟いた。
「ことによるとわしへ思い当るように、神領郷士の者が、嫌がらせにした
「そんな悪戯をしそうな者のお心当りがあるのですか」
「ある! ……実はお
「では何か、私に
「気持を悪くなさるまいぞ――こういうわけじゃ。お
「ま、私のために」
「なんの、お
氏富は淡々と話しているが、お通の眼のうちには、口惜しげな涙がいっぱいに光った。誰に向って怒りようもないそれは無念さだった。しかしまた、旅に馴れ、人に馴れ、そして
氏富は、それほどの問題とは考えていないらしい。けれど、人の口がとかくうるさいし、もう数日のうちには
元より最初から長居をするつもりはないし――氏富にそういう迷惑がかかっていては猶さらのこととも考え、お通はすぐ承知して、ふた月余りの恩を謝して、今日にも先の旅へ立ちまする――と答えると、
「いや、そう急がいでもよいのじゃが」
氏富は、いい出したものの、薄々聞いていた彼女の身の上に、ひどく気の毒な心地もして、どう慰めたものかと案じるように、貧しげな手文庫を寄せて、何かつつんでいた。
お通の影のように、いつのまにか後ろの縁へ来ていた城太郎は、その時、そっと首を伸べて
「お通さん、伊勢を立つの。おらも一緒に行こうね。――もうここの掃除は飽き飽きしていたところだ、ちょうどいいや、ネ……ちょうどいいよ、お通さん」
「わしの寸志じゃ……まことに薄謝だが、お通さん、路銀のたしに納めてくだされ」
手文庫の貧しい中から、氏富は、いくらかの金をつつんでそこへ出した。
お通は、滅相もないという顔つきで、手も触れない。子等之館の巫女たちへ笛を指南したといっても、自分もふた月ほどの間、多分なお世話になっている。謝礼をいただくくらいならばこちらからも宿料を置いてゆかねばなりませんと断ると、氏富は、
「いやその代りに、お通さんがこれから先、京都の方へ立ち廻られた時、ついでに頼み申したい用事もあるのじゃから、それも承知してもらったり、これも納めて置いてもらわねばならん」
「お頼みのことは、何でもいたしますが、これはお志だけでたくさんです」
「オオこれ。それでは、これはお前にあげるから、道中、何ぞ買物でもするがいい」
「ありがとうございます」
城太郎はすぐ手を出して、自分の手に納めてしまって後、
「お通さん、もらって置いてもいい?」
と事後承諾を求めたので、お通もせんかたなく、
「すみませぬ」
と礼をいう。
氏富は満足して、さて、
「頼みというのは、お
と、壁のちがい棚から、ふた巻の絵巻物を取り下ろして、
「おととしの頃、光広卿から頼まれて、ようようこのほど描きあげたわたしの
これはまた、思いがけない大役と、お通はちょっと当惑顔であった。しかし、
「どれ、ちょっと、お
と、二人の膝のまえに、その絵巻を繰り
「ま!」
思わずこうお通は声を放ってしまった。城太郎も大きな眼をして、絵の上へのしかかるように首をつき出した。
まだ
絵のわからない城太郎でさえ、
「ああ、この火はいいな。この火は、ほんとに燃え上がっているようだ……」
「手でさわらずに見ておいで」
息をひそめて、二人がそれへ心を奪われているところへ、庭口から廻って来た社家の
氏富は、雑掌のいうことを聞いて、うなずきながら、
「ム……そうか、疑わしい者ではあるまい。だが念のためじゃ、当人から一札取って渡してやるがよいぞ」
そういって、お通がさっきここへ抱えて来た大小と、汗くさい武者修行風呂敷とを、その雑掌の手へ持たせてやった。
笛の先生が急に旅立つと聞いて、
「ほんと?」
「ほんと?」
お通の旅姿を取り巻き、
「もうここへは帰らないんですか」
と、姉に別れるように悲しんでいう。そこへ城太郎が、
「お通さん、支度出来たよ」
と裏の土塀の外で呶鳴る。
見れば、
「まあ、早いんですね」
お通が窓から答えると、
「早いさ。――お通さんはまだかい、女と歩くとお支度が長いからなあ」
そこの門から内へは、男と名のつく者は一歩も入れない規則なので、城太郎はしばしの間、
ちょっとの間でも、彼の
「――お通さん、まだ?」
「今すぐに行きますよ」
そのお通も、すっかり支度はすんでいたのであるが、わずかふた月でも
「――また参りますからね、皆さんもご機嫌よう」
果たして、もういちど来る日があるだろうか、お通は、嘘をついている気がする。
「あれ?」
見ると、あんなに
「城太さあん」
「城太さあん」
お通は、彼の習性をよく知っているので、そう心配はせず、
「きっと
「意地悪ッ子ね」
そして一人が彼女の顔をのぞき上げながら、
「あの子、お師匠さまの子?」
と、訊いた。
お通は笑えなかった。思わず真面目になって、
「何ですって、あの城太さんが私の子かというんですか。私はまだ、
「でも、誰かがいいましたよ」
お通は、氏富が話した世間の噂を思い出して、ふとまた腹が立った。けれど、世間のすべてがどういおうと、自分を信じてくれる者は一人でいい、あの人さえ信じてくれたらそれでいいと思う。
「ひどいや! ひどいや! お通さんは」
先へ行ったと思った城太郎が、その時、後ろのほうから駈けて来て、
「人を待たせておいて、黙って先へ行ってしまうなんて。ひどいじゃないか」
と、口を
「だっていないんだもの」
「いなかったら、捜してくれる親切ぐらいあってもいいだろう。おれは、鳥羽街道のほうへ、武蔵様に似た人が行ったので、オヤッと思って、見に行ったんだ」
「えっ、武蔵様に似た人?」
「ところが、人違いさ、――並木まで出て、後ろ姿を見ると、遠方からでも分るほどな
こう二人が旅を歩いていれば、城太郎が今
(おやっ?)
と、動悸を打たせて、それを確かめるまでの努力と、はかない
それゆえに、お通も今――城太郎がひどくがっかりしている程には、彼の話に執着を持たなかった。
殊に、
「それは、ご苦労様でしたね。旅の
「この
と、城太郎は、ぞろぞろ
「――何だって、一緒に来るんだろう」
「そんなことをいうものじゃありません、名残を惜しんで、五十鈴川の宇治橋まで、見送って下さるんです」
「それは、ご苦労でしたね」
お通の口真似をして、城太郎はみんなを笑わせる。
彼を加えてから、それまでは離愁につつまれて、しめッぽい顔して歩いていた
「お通さま、お師匠さま、そっちへ曲がっては道がちがいますよ」
「いいえ」
お通は承知らしく、
それを見て、城太郎は、
「ア、なるほど、神さまへお暇乞いをしてゆくのか」
と、つぶやいたが、遠くから見ているだけなので、巫女たちは、彼の背中や肩を指で突いて、
「城太さんは、なぜ拝んで来ないの」
「いやだ、おれは」
「いやだなんて勿体ない、口が曲がりますよ」
「きまりが悪いや」
「神様を拝むのがなぜきまりが悪いんですか。町中にあるあだし神や
「分ってるよ、そんなこと」
「じゃあ、拝んでらっしゃい」
「いやだよ」
「強情ね」
「お茶ッぴい! お
「まあ!」
それにつれて、同じお下げ髪がみんな、眼をまろくして、
「まあ――」
「まあ――」
「ずいぶん怖い子ね」
そこへ、お通が、遥拝をすまして戻って来て、
「どうしたの? 皆さん」
問われるのを待ちかまえて、
「城太さんが、私たちをお
「いけませんね、城太さん」
「なにさ」
「いつかお前の話には、
「だって……。みんなが見てるんだもの」
「じゃ皆さん、後ろを向いていてお上げなさい、私も、後ろを向いているから――」
と一列に揃って、城太郎のほうへ背中を向けた。
「……いいでしょう、これなら」
お通がいったが、返辞をしないので、そっと
冬の海へ向って、つぼ焼やの縁台へ腰かけ、足拵えを直しているのは武蔵であった。
「旦那、島
と、船頭がそこへ突っ立ってすすめていた。
貝を入れた籠を腕にかけて、ふたりの
「旦那はん、お土産に、貝を持って行かしゃれ」
「貝を買うておくれなされ」
「…………」
武蔵は、
「いらない、いらない」
手を振って、
この日の朝から、彼は足の苦痛をほとんど忘れたばかりでなく、体についても、健康を考えないほど健康な気力に
つぼ焼やの娘に、
「
さざえを焼いている
「そうだ。大湊へ渡れば、あれから津へ行く便船が出るはずだな」
「はあ、四日市へでも、桑名へでも」
「おやじ、今日はいったい、
「はははは、よいご身分でござらっしゃるの、
「まだそんなものか」
「お若い方はうらやましいことを仰っしゃる」
高城の浜の渡船場まで、武蔵は駈けるように歩いた、もっと駈けてみたい気がするのである。
すぐ対岸の
その五十鈴川の水は、
大湊からすぐ便船に乗り換えるのだった。尾張まで行くその船には、旅客が大部分で、
陸路をとって、同じ方角へ、街道を歩いているお通や城太郎の足どりと、どっちが早く、どっちが遅いともいえない。
松坂まで行けば、この伊勢の出身者で、近ごろの鬼才と
この津の港で降りる時に、ふと前を歩いてゆく男の腰に、二尺ほどの棒が武蔵の眼についた。
「親方、親方」
後ろから彼をそう呼ぶ者がなければ、誰がどう見ても、野武士としか見えなかったが、船から一足おくれて追いついて来た者を見ると、十六、七歳の
「待ッとくんなさい、親方」
「はやく来い」
「船へ、
「商売道具を忘れたのか」
「かついで来ましたよ」
「あたり前だ、もし忘れなんぞしたら、頭の鉢を割ってやる」
「親方」
「うるせえな」
「今夜は、津へ泊るんじゃねえんですか」
「まだ、たっぷり陽があるから、泊らずに歩いちまおう」
「泊りてえな、旅仕事に出た時ぐらいは、楽をしたいな」
「ふざけるなよ」
船から町へ入る旅客の通り道に、ここでも抜け目なく
「岩公」
「ヘイ」
「これを待って行け」
「風車ですね」
「手に持っていると、人にぶつかって壊されるから、
「おみやげですか」
「ム……」
子どもがあると見える。幾日かの旅仕事を終えてこれから帰る家に、何よりの楽しみが、その子どもの笑顔を見ることなのであろう。
岩公の襟くびで廻っている風車が心配と見え、親方は、時折それを振向いて先へ歩いて行った。
偶然にも、武蔵の行こうとする方角へ方角へと、同じ道を先へ踏んで行く。
(ははあ……)
そこで武蔵は
けれどまた、世間には、鍛冶屋も多いし、
「梅畑までお帰りか」
と、話しかけてみた。
「あ。梅畑へ帰るが」
「ではもしや、
「ふうむ……よく知っているのう。おれは梅軒だが、おめえは?」
鈴鹿を越えて
この間、尋ねて行って、留守を食った宍戸梅軒には、他日の折があればとにかく、
「よほど、ご縁があるとみえる。実は、過日お留守に、
「ああそうか」
梅軒は、どういうわけか、心得顔で――
「山田の
「お聞きですか」
「荒木田様の処へ、おれが行っているかと問い合せを出したろう」
「出しました」
「おれは、荒木田様の仕事で行ったには違いないが、荒木田様の家になどいるわけはない。神社町の仲間の仕事場を借りて、おれでなければ出来ない仕事を片づけていたのだ」
「あ……それで」
「山田の
「そうです。鎖鎌の達人とか、噂を聞いて」
「はははは、女房と会ったかい」
「御内儀が、ちょっと、八重垣流の仕型をお見せくだされたが」
「じゃあ、それでいいじゃないか。なにも、おれの後を追っかけて、試合してみるにも及ぶまい。おれがしてみせても、あの通りだ。――それ以上を見せてもいいが、見た途端に、おめえは
留守をしていた女房もさる者であったが、この亭主も
武蔵にしても、もうそういう梅軒を、心のすみでは呑んでいる気概が十分にある。けれど、彼には見境いのない
気概と自尊心をもって、先ず相手を呑んでかかる前に武蔵は、細心な眼と、あらゆる角度から、相手の価値を計ってみる。時には臆病なほど、卑屈なほど、応対の態度には下段の構えをとっておいて、
(この人間はこのくらい)
と、見極めのついた後でなければ、滅多に、先の言葉や物腰の不遜に対して、自分の感情をみだすようなことはなかった。
「はい」
と、青年らしい下段の返辞をして、
「仰っしゃる通り、御内儀から拝見しただけで、十分、勉強にはなりましたなれど、なお、ここでお目にかかったご縁をもって、鎖鎌についてのご意見でも伺えれば、有難いとぞんじまするが」
「話か。――話だけならしてやってもいい。今夜は、関の宿へ泊るのか」
「そう思いましたが、おさしつかえなければ、ついでのことに、尊宅へ、もう一宿、お許しくださるまいか」
「旅籠じゃねえから、夜具はないぜ。そこの岩公と寝る気なら、泊ってゆくさ」
そこへ着いたのは夕刻。
岩公が先へ駈け出して告げたので、鍛冶が家の軒端には、見覚えのあるいつぞやの女房が子を抱いて出て、父のみやげの風車を子とともに差し上げ、
「ほら、ほら、ほら。
傲慢の化け物みたいな
「ホイ、ホイ。――坊やか」
手をあげて、五本の指を踊らせて見せる。旅帰りだから仕方がないが、この夫婦は、やがて家の中に坐ると、その
やっと、飯時になって、
「そうそうあの武者修行にも、飯をやれ」
と梅軒は思い出したように、仕事場の土間にまだ草鞋も解かず、
女房もまた、愛想がなく、
「あの衆は、この間も留守に来て、泊って行ったのだに」
「岩公と一緒に寝かせてやれ」
「いつぞやは、鞴のそばに、
「おい、若いの」
梅軒の向っている炉には、酒が暖めてあった。杯を、土間へ向けて、
「酒をのむか」
「嫌いではありません」
「一杯のめ」
「はい」
武蔵は、土間と部屋のさかいに腰かけ、
「頂戴いたします」
と、杯に礼をして
「ご返杯を」
「まあ、それは持っていねえ、おれはこっちの
「はっ」
「幾歳だい、若いようだが」
「明けて、二十二歳を迎えます」
「故郷は」
「
――というと宍戸梅軒の
「……さっき、なんとかいったな……名だ……名だ……おめえの名だ」
「宮本武蔵」
「武蔵とは」
「たけぞうと書きまする」
そこへ女房が、汁の
「おあがり」
と、
「そうか……」
宍戸梅軒は、ふた息も間を
「さ、熱くなった」
と、武蔵の杯へ
「じゃあおめえは、たけぞうが幼名だったのか」
「そうです」
「十七歳頃にも、そう呼んでいたか」
「はい」
「十七の時に、おめえ、又八という男と、関ヶ原の
武蔵は、ちょっと驚いて、
「御主人には、ようご存じでございますな」
「――知っているさ、おれも関ヶ原では働いた人間だ」
そう聞いてから、武蔵も親しみを覚え、梅軒も急に態度を変え、
「どこかで見たように思っていたが、じゃあ、戦場で会っているんだ」
と、いった。
「すると、御主人には、やはり浮田家の陣所に」
「おれはその頃、江州
「そうですか、じゃあ、顔ぐらいは合せていたでしょう」
「おめえの連れの又八はどうしたい?」
「その後、会いません」
「その後とは、どこからのその後? ……」
「合戦の後、しばらく伊吹のある家に
「……おい」
子を抱いて、もう寝床へ入っている女房へ、
「酒がなくなった」
「もう、おしまいでしょう」
「ほしい、もう今ほど」
「今夜にかぎって、どうしてそんなに」
「話が、だいぶおもしろくなって来たのだ」
「もうありません」
「岩公」
土間の隅へ向って呼ぶと、そこの板壁の向う側で、犬でも起きるようにガサカサ
「親方、なんだえ」
と、
「
武蔵は、飯茶碗を持って、
「お先にいただきます」
すると、
「待ちねえ」
あわてて、梅軒は、箸を持っている彼の腕くびをつかんだ。
「せっかく、酒を取りにやったものを――」
「拙者のためなら、どうぞお止しください。これ以上は、飲めません」
「まあいいわさ」
と
「そうそう、
岩公はすぐ戻って来た。
壺から、
――この鎖鎌を持って敵に当る場合、何より強味の多い点は、剣とちがって、敵に防禦の
「こう、左に鎌、右に分銅を持つとする――」
梅軒は、坐ったまま、型をして見せ、
「――来れば、鎌をもって受け、受けたせつなに、敵の面へ、分銅を返す。それも一手」
とまた、構えを違えて、
「こうなる場合――こう敵と自分と
そんな話をしたりまた分銅の投げ方について、十幾通りの
――武蔵は熱心に聞き入っていた。
こういう話を聞く時の彼は、全身を耳にし、全身を知識慾の袋にし、話す者のことばの中に自分を置き切っていた。
鎖と――鎌と――
双つの手。
先の話を聞きながら、彼は彼ひとりの考えをひろげて、
(剣は
胸の
二度めの壺の酒も、いつの間にか底を干していた。梅軒も飲むには飲んだが、武蔵へ
「女房、おれたちは、奥へ寝よう。ここの夜具を客人にあげて、奥へ
彼の女房は、いつもここで眠る
「客人も、つかれが出たらしい、早く
「お客は、岩公と一緒に、道具小屋へ寝てもらうことになっているがな」
「ばか」
寝床からいう女房を睨んで、
「それは、客にもよりけりだ。黙って、奥へ支度して来い」
「…………」
「お客、
彼が隠れるとしばらくして後、女房が来て枕を取り換えて行った。女房もその時はふくれ顔を改めて、
「
といってくれる。
「は。……どうも」
武蔵はそれしかいえなかった。
「では、ご厄介になります」
いうや否、今までここの内儀と
「……おやすみ」
静かにいって、
しいんと頭のはちを
はてな、どうしておれは今夜に限って、こう量を超えて飲んでしまったのか? ――武蔵は苦しいので軽い悔いを胸先へ呼びおこした。――梅軒がしきりとすすめたからではないかと思う。だが、あの人を人とも思わない梅軒が急に酒を買い足したり、あの無愛想な女房がやさしくなったり、ここの暖かい寝場所を譲ってくれたり――何で急に態度が打って変ったのか?
武蔵はふと、おかしいと思ったが、思索のまとまらないうちに、昏睡のもやが頭にかかっていた。――そして
燃え残っている
「…………」
白い顔が、その頃まで、そこと奥との境に
武蔵は夢をみていた。夢の切れ端みたいな同じ夢を何遍もみた。夢というほど
……とにかく、こういう子守唄を、彼は夢の中で聞いている。
ねんねしょうとて
ねる子はかわい
起きてなく子は
つらやな
つらやな
母 なかせ
この子守唄は、この前ここへ立ち寄った時、良人の留守をまもってねる子はかわい
起きてなく子は
つらやな
つらやな
――そして。
武蔵はまだ
つらやな
つらやな
母 なかせ……
自分を揺りながら母は唄っているのである。つらやな
母の二つの眸から、ぽろぽろと涙がこぼれ、その涙を、
――出てゆけっ。
――
父の無二斎のきびしい声が家のうちからひびいて来るのだったが、その姿は見あたらない。ただ母はおろおろと、邸の長い石垣を逃げまわり、果ては
(あぶない、あぶない)
と、母にその危険を教えようとして、ふところで頻りにもがくのであったが、母はだんだん深い淵へ入って行き、暴れる児を、痛いほどひしと抱きしめて、濡れている頬をぺたりと児の頬へつけて、
(――たけぞう、たけぞう、お前はお父さんの子? お母さんの子?)
すると、岸のほうで、父の無二斎の怒る声がした。母はそれを聞くと、英田川の波紋の下に影をかくしてしまった。――
「……あっ?」
夢と知って、武蔵は眼をさましたが、とろりとするとまた、母か他人か、その女の人の顔が、彼の夢をのぞいて、彼をさました。
武蔵は自分を産んだ人の顔を知らなかった。母は
「……なぜ今夜は?」
酒もさめ、気も
見ると、ちょうど彼の寝顔の上の辺りに、天井から吊るした風車が、宙にふわりと下がっていた。
子の
「……?」
風車が廻りだしたのである。
元々、廻るように出来ている風車が、廻り出したのだ、なんの不思議もないはずであるが、武蔵はギクとしたように、夜具の中から身を起しかけ、
「……はてな?」
耳を澄ました。
どこかで、そーと戸の
この家の裏口を、
――起しかけた頭をそっと枕へもどして、武蔵は、この家のうちの空気をじっと体で知ろうとした。一枚の木の葉をかぶって、天地の気象を、
自分が今――どういう危険の中にあるか、武蔵はほぼ分ってきた。――しかし、分らないのは、なんのために、自分の生命を他人が――ここの
「盗賊の家か?」
最初は、そう考えた。
けれど、盗賊ならば、およそ
「恨みか?」
それも
武蔵は、結局、思い当たるものを得なかった。しかし自分の生命には刻々と或るものが迫って来つつあることが益

武蔵は、土間へ手を下ろした――手の先が
――急に、風車が烈しく旋回し出した。明滅する炉の光をうけて、クルクルと魔法の花みたいに廻った。
明らかな跫音が、家の外にも家の奥にも聞えた。武蔵の寝床をつつんで、忍びやかにそれは一つの囲みを作っていた。――やがて、暖簾のすそから、ぬっと、二つの眼が光った。膝をついて這って来る男は
「…………」
寝息を聞き澄ますように、ふたりの男は、ふくれている夜具を見ていた。するとまた、暖簾の蔭から、煙のように一人の者が出て来て突っ立っていた。
「…………」
「…………」
「…………」
眼と、眼と、眼と。
三人が機微な息をあわせると、まず頭のほうにいた者が、ぽんと枕を蹴とばした、すそのほうにいた男はすぐ土間へとび降りて、槍を蒲団へ向けた。
「起きろっ、武蔵」
梅軒は、分銅の鎖と
――だが、蒲団は答えなかった。
鎖鎌でつめ寄っても、槍をしごいても、呶鳴っても、蒲団はあくまで蒲団であった。――その中に寝ているはずの武蔵はもういなかったのである。
槍で、それを
「あっ……
狼狽の眼を、急に、あたりへ
「どこかの戸が開いているぞ」
と、土間へ飛び降りた。
しまった――という声が、すぐもう一人の男の口から走っていた。その仕事場から土間づたいに裏の台所へ通じている露地出入りの戸が一枚――三尺ほど開け放しになっている。
月夜のように、
「野郎、ここからだ」
「
梅軒は、あわてて、
「やいっ、やいっ」
呶鳴って、家の外を見まわすと、軒下や、そこらの物蔭に、黒い影が、のろりと膝でうごいて、
「……親方……親方うまく行きやしたか」
と、声を
腹立たしげに、
「何をいッてやがるんだ、てめえ達は、なんのために、そこで眼を光らせていたんだ。野郎はもう、風を食らって、ここから外へ突っ走ッてしまった」
「えっ、逃げたって? ……いつの間に」
「人に訊く奴があるか」
「はてな」
「どじめッ」
梅軒は、そこの戸口を、踏み出したり、中へ戻ったり、じりじりしていたが、
「鈴鹿越えか、津の街道へ戻るか、道は二筋しかねえ、まだそう遠くへも行くめえ、追ッてみろ」
「どっちへ」
「鈴鹿のほうへは、おれが行ってみる、てめえたちは、
屋内の者と、
風態は、一様でなかった。鉄砲を持っている男は
ふた手になって、
「見つけたら、鉄砲をぶっ放すのだ、それを聞いたら、
いきまいて追って行った。
しかし、その
親方の梅軒に
「だめだ、親方」
「惜しいことをした」
なぐさめ顔にいうと、梅軒は、
「しかたがねえ」
「女房、酒はねえか、酒でも出せ」
炉の残り火を掻き立てて、
この
皆、近所に住んでいるらしいのである。酒の来るのも早かった。暖める
「どうも、
とか、
「忌々しい若造だぞ」
とか、
「
などと、後のまつりに過ぎない
「親方、腹をすえておくんなさい、
と、彼を酔わせて、先へ寝かすことにみな努めた。
「おれも悪かった」
梅軒は、そう他を咎めようとはしない。ただ酒は舌に苦い顔つきで――
「何も、あんな青二才一匹、皆の手を借りて大げさな構え立てをしなくても、おれ一人でやればよかったかも知れねえのだ。……だが、今から四年前、あいつが十七歳の時に、おれの兄貴の辻風
「だが親方、ほんとに今夜泊ったあの武者修行が、四年前に、伊吹のもぐさ屋のお甲の家に
「死んだ兄貴の典馬のひき合わせだろうよ――おれも
「返す返す、惜しいことをしたなあ」
「この頃は、世間が穏やかになり過ぎたんで、たとえ兄貴の典馬が生きていても、おれ同様、
「あの時、たけぞうといった今夜の青二才のほかに、もう一人、
「又八」
「そうそう、その又八ってえ方の野郎は、もぐさ屋のお甲と
「兄貴の典馬は、お甲に迷わされていたので、一つは、あんな不覚の
酒がまわって来たらしく、梅軒は居坐ったまま、
「親方、横におなんなせえ」
「親方、寝たほうがいい」
武蔵が脱け出した蒲団の後へ、一同して親切にかかえ入れ、土間に落ちていた枕をひろって当てがってやると、途端に、
「帰ろうぜ」
「寝ようぜ」
元は皆戦場かせぎの野武士を
その後は何事もなかった夜のように、この家の中は、人の寝息と、野鼠の歯の音がどこかでするだけであった。
時折、まだ寝つかないらしい乳呑み子が、奥でクスクスむずかっていたが、それもいつか、寝ぐさい闇が暖まるに従って、やんでしまう。
すると。
台所と仕事場との土間つづきの隅に、
武蔵なのである。
彼は、この家から外へ、
「…………」
彼は土間を歩み出した。
「…………」
さて――と武蔵はその鼾声を聞きながら一考してみるのだった。
宍戸梅軒との試合はすでにおれが勝った。完全に勝ったと思う。
だが、先刻からの話を聞いていれば、この男の宍戸梅軒というのは後の名で、以前には野洲川の野武士で辻風黄平と
生かしておけば、この後もまた、折あるごとに、自分を死へ
「……?」
それを武蔵は考えてみるのであったが、やがて決するところが着いたのであろう、彼は梅軒が寝ている裾のほうへ廻って、その壁の
――梅軒は
顔をのぞいて、武蔵は、鎌の
武蔵はその刃へ、濡れ紙を巻いて、そして梅軒のちょうど首の輪のところへ鎌をそっと載せた。
(……よし!)
天井から下がっている風車も眠っていた。もし、鎌の刃に濡れ紙を巻かずにおいて、あしたの朝、この
辻風典馬を殺したのは、殺す理由もあったし、こちらも
さなきだに武蔵は今夜、なんだか死んだ母や父が
(お世話になりました。……では、あしたの朝まで、ごゆっくりお
そう祈りながら、静かに、雨戸を開けて、そっと閉めて、この家から先の旅へと、まだ明けぬ夜を出て行った。
旅も初めのうちの数日は清新だった。脚のつかれなど苦にもならない。
ゆうべおそく、
「ああ、きれい――」
しばし日輪の荘厳に
お通の顔も、
「まだ誰も登って来ないぜ、お通さん。今朝は、この街道では、おれたち二人が、一番先に通るんだ」
「おかしな自慢をするんですね。道なんか、先に通ったって、後から通ったって、同じことじゃありませんか」
「ちがうさ」
「じゃあ、早く通れば、十里の道が七里になる」
「そんな違いじゃないよ、歩く道でも、一番は気持がいいだろ。――馬のお尻や、雲助の後から行くよりも」
「それはそうだけれど、城太さんみたいに、威張って、自慢するのは変ですよ」
「でも、誰も通っていない街道を歩いていると、自分の領分を歩いているような気がするんだよ」
「じゃあ私が、お馬の先を、露ばらいしてあげるから、今のうちに、たくさん威張って歩くといい」
お通は、道に落ちていた竹をひろって、歌をうたうような気持で
「下にいませエー。下にいませエー」
戸が閉まっているとばかり思っていた四軒茶屋から、人が顔を出したので、
「ま! いやだ」
お通は顔を
「お通さんお通さん」
追いかけて、
「殿様を置いて逃げちゃいけないよ、お手討だぞ」
「もうふざけては、嫌」
「自分がひとりでふざけているくせに」
「おまえにつり込まれてしまうんじゃありませんか。あら、四軒茶屋の人が、まだこっちを見ている。きっと
「あそこへ戻ろう」
「何しに」
「お
「まあ、もう?」
「お昼のお
「いいかげんにおしなさい。まだ二里とは歩いていないんですよ。城太さんと来たら黙っていると、日に五度ぐらい喰べるんですもの」
「そのかわりおらは、お通さんみたいに、山
「きのうは、関へ泊ろうと思って、無理に暮れ方をいそいだからですよ。そんなこというなら、きょうはもう乗らない」
「きょうはおらが乗る番だ」
「子どものくせに、なアに」
「馬に乗ってみたいんだよ、ねえお通さんいいだろ」
「きょう
「四軒茶屋に、駄ちん馬がつないであったから、あれを借りて来よう」
「いけません、いけませんよ、まだ」
「嘘いったのかい」
「だって、くたびれもしないうちに馬に乗るなんて、
「そんなこといったら、おらなんか、百日千里歩いても、くたびれることなんてないんだから、乗る時はありやしないぜ。……人がたくさん歩き出すとあぶないから、今のうちに乗せておくれよ」
これでは早立ちしても
四軒茶屋というのは字義どおり四軒の茶屋をさす名であるが、その四軒が古着屋のように軒をならべているわけではない。
「おじさんっ――」
そこへ立って城太郎、
「馬、出しとくれ」
と、呶鳴った。
戸を開けたばかりのことである。茶屋のおやじは、この元気者にしぶい眼を
「なんじゃあ、でかい声を出しくさって」
「馬だよ。はやく馬を出しておくれよ。
「
「人間の子だ」
「かみなりの子かと思うた」
「かみなりは、おじさんのことだろう」
「よく口をたたく子だの」
「馬出しとくれよ」
「あの馬を、駄ちん馬と見たのけ。あれは駄ちん馬ではねえだによって、おん貸し申すことはできねえ」
「おん借り申すことはできないのけ?」
「こんつら小僧め」
馬の子と生れてからこの年になるまで、毎日、人間の
「この野郎」
馬を叱るのか、城太郎を叱ったのか分らない。おやじは飛び出して来て、
「どうッ、どうッ」
手綱を解いて、家の横にある樹へ持って行こうとすると、
「おじさん、貸しとくれよ」
「いかねえってに」
「いいじゃないか」
「馬子がいねえだよ」
その時、お通も側へ来ていて、馬子がいなければ、駄ちんは先に払い、馬は
城太郎は舌うちして、
「ばかにしてやがら、お通さんが、きれいなもんだから」
「城太さん、おじいさんの悪口いうと、この馬が聞いているから、怒って、途中で振り落すかもしれませんよ」
「こんな
「乗れますか」
「乗れるさ。……ただ、背がとどかねえや」
「そんなふうに、馬のお尻をかかえてもだめですよ」
「抱いて、乗せとくれよ」
「やっかい坊ね」
脇の下へ両手をさし入れて、彼女が馬の背へ乗せてやると、城太郎は、にわかに地上を
「お通さん、歩いておくれよ」
「あぶない腰つき」
「だいじょうぶだよ」
「じゃあ、出かけますよ」
お通は手綱をとって、
「おじいさん、それでは」
と茶屋の軒へ、後ろ向きにいいながら歩み出した。
すると、百歩も行かないうちに、姿は見えないが
「誰だろ」
「私たちのことかしら」
駒を止めてふり
夜だったら近づかぬ間に、二人は逃げ足をおどらせたかも知れない。長い野太刀をこじり
風がふいて来たようにその男の体から烈しい空気がうごいていた。いきなりお通のそばへ来て足を止めたのである。そしてお通の持っている手綱を
「降りろっ」
顔は、城太郎へ向けて、命令するのだった。
かつ、かつ、かつ、と年より馬がまた
「な、なにさ! 無茶なことすんないっ、……この馬、おらが借りてる馬だぞ」
「やかましい」
鎖鎌は、耳も貸さない。
「これ女」
「はい」
「おれは、関の
ことばの早いのみで、
――立ち
「……む、武蔵だって」
馬の背から城太郎はこう口走った。
先を急ぐことに
「さ、小僧っ。――降りろ、降りろ。ぐずぐずしていると、ひっぱたくぞ」
手綱の端を
「嫌だっ!」
「イヤだと」
「おれの馬だ、この馬で、先へ行った人へ追いつこうたってそうはゆかない」
「女子供と思って
「なあ、お通さん」
と、梅軒の頭越しに、
「この馬は、渡せないね、この馬を渡しちゃいけないね」
お通は、城太郎のそのことばを、
「そうです、そちらもお急ぎか知りませんが、私たちも先を急ぐ体です。もう少し経てば、峠がよいの馬も
「おれも、降りない。死んだって、この馬を離すものか」
二人は、しかと、気持を結び合って、梅軒の求めを突っ
お通と城太郎のふたりが心を
「じゃあどうしても、この馬はおれに譲らねえというのか」
「知れたことだ!」
城太郎の語気はまるで
「野郎っ」と、梅軒が大人げなく
馬の背へとび上がって、鬣へしがみついている
こんな時こそ抜くべき物である腰の木剣を城太郎はすっかり忘れているらしい。自分以上の強敵と分っている敵に、脚くびをつかまれると、ただ逆上してしまって、
「かッ! 畜生っ」
梅軒の顔へ向って、続けさまに
生涯の大変はいつ降って湧いてくるかわからない。たった今、日の出に向って、生きている歓びを思った生命が、真っ黒な戦慄に包まれているのである。お通はこんな所で、こんな男のために、
――だが謝りを入れて、この男に、馬を渡す気にはどうしてもなれない。この男の凶暴な害意は、この道を先へ通って行ったという武蔵の
たといその距離は、折角、一すじの道にかかっている自分と武蔵との間をまた忽ち遠くしてしまうものであるにせよ――この男に
「なにするんです!」
自分の勇気と無謀に驚きながらお通は、梅軒の胸を強く突いた。顔の
「
吠えて、その手くびを、梅軒が抑えようとして握ると、そこはもう鯉口を走りかけていた
「――ア
思わず後の指を抑えて
いやしくも一道に達している
――しまったと自己の不覚を叱りながら、立直ろうとしたところへ、もうなにも怖くなくなっているお通の手から、野太刀が横へ撲って来たのであった。けれどそれは三尺に近いもので、いわゆる
――そして、ごつんと木を斬ったようなひびきを腕に感じると、赤黒い血しおが、顔へかぶって来るようにパッと見えて、彼女は眼が
驚き癖がついている馬である。そう深く入った刃ではないが、馬の悲鳴に似たいななきは非常なものであった。
梅軒は、なにか意味の分らない大声をあげ、お通から自分の刀を

「わっ、や、やいっ」
馬の揚げてゆく砂塵へ向って、梅軒は突ンのめった。
そこで
「あっ?」
こうなると、梅軒の青すじはいよいよ、こめかみに
馬に、
崖を駈け下りて、
「どこへ?」
うめきながら、梅軒は、そこの百姓家のまわりを大股に廻って歩いた。
「どこへ
縁の下をのぞいたり、納屋の戸を開けたりしている彼の狂人みたいな
「ア! ……あんな方に」
やがて彼は見つけた。
ふかい
「いたなッ」
梅軒が上からこういいかぶせると、お通は思わず振りかえった。土の崩れて行くよりも早く彼の姿は、お通のうしろへ接近していた。彼の右手には拾いあげた白刃がそのまま持たれていたが、相手をそれで斬り倒す意思はなかった。武蔵の道づれでもあれば、武蔵をつかまえる
「
左の手をのばして、その指先は、お通の黒髪に触れた。
お通は身をすくめて、木の根にしがみついた。足をふみ
「ばか、ばか、逃げる気か。――もうそこから下は、
ひょいと、前をのぞくと何丈か真下に、残雪の間を裂いて走っている水が青く見えるのだった。――お通はそれに救いを感じても恐い気はしなかった。ひらりとすぐ身をその宙へまかせる
死を感じると、死の恐さよりもおそろしい速さで、彼女は、武蔵がどこにいるかを考えた。いや自分の記憶と想像力のおよぶかぎりの武蔵の幻像が、総毛立ッた
「――親方ア、親方あ」
どこで呼ぶのか、谷間の
崖の上に人間の顔が見えた。二、三人の男どもである。
「親方あ」
と、その顔が、てんでに呼ばわるのだった。
「なにをしてるんで。――はやく先へ急いでおくんなさい、今、四軒茶屋のおやじに訊くと、夜明け前の暗いうちに、そこで弁当をこさえさせて、甲賀谷のほうへ走って行った侍があったてえことですぜ」
「甲賀谷の方へ?」
「そうです、だが、甲賀谷へ抜けようが、土山を越えて水口へ出ようが、石部の宿場まで行きゃあ道はみな一つになるから、早く野洲川で手配しておけば、野郎はきっと捕まるはずだ」
遠方からのそういう声を、耳の裏で聞きながら、梅軒の眼は、眼の光で縛りつけているように、自分の前に立ち
「おウいっ、てめえ達も、ちょっとここへ降りて来い」
「降りて行くんですか」
「はやく来い」
「でも、愚図愚図しているうちに、武蔵のやつが、野洲川を通ってしまうと」
「いいから、降りて来い」
「へい」
梅軒と共にゆうべ無駄骨を折った
梅軒は早口にわけを話して、三人の手したにお通をあずけ、後から野洲川へ曳ッぱって来るように命じた。手下どもは合点して、お通のからだへ縄をまわしたが、縛るには痛々しい気もするらしく、頻りと、彼女のうつ向いている蒼白な横顔を、さもしい眼で
「いいか、てめえ達も、おくれちゃならねえぞ」
いいすてて、梅軒は
その小さい影が
「野洲川で落ち合うのだぞ、おれは間道を追ってゆくから、てめえ達は、街道のほうを、なお入念に、見てゆけよう」
こっちの
「わかったあ」
と、
よぼよぼな老馬といえども、死にもの狂いに狂い出すと、
いわんや乗手は城太郎。
よく落ちないでいるのはその背の上の城太郎で、
「あぶないっ、あぶないっ、あぶないっ」
を、
当然、馬の尻がおどる時は、彼のお尻も馬の背を離れて高くおどるので、その危険極まることは、乗っている彼よりも、それを見送った村や立場の人たちの方が遥かに
乗る
「――あぶないよッ、あぶないよッ、あぶないッ」
かねてからお通にせがんで、いちど馬に乗ってみたい、馬に乗って思うさま飛んでみたいと、駄々をこねて宿望にしていた城太郎も、今日はすっかりたんのうしたことであろう。声はだんだん半泣きになって来て、
もう街道には往来の者がぼつぼつ通りはじめていたのである。誰か身を
「なんだい、あれは?」
と、見送ったり、
「阿呆ッ」
と道ばたへかわして、城太郎のうしろへ、
またたく間に


「――止めてくれッ、止めてくれッ、止めてくれえッ」
あぶないあぶないが、いつのまにか止めてくれに変っていた。そのうちに
「助けてくれえッ」
とまた変って、逆落しに駈けてゆく馬の背中で、彼の体は
ところが、坂の七合目あたりに、崖の横から出ている
馬は、
宙といっても、地面からものの一丈とはない空間であるから、すぐ手を離してしまえば、なんのこともなく地上へ帰れるのに、そこは人間が猿でない証拠である。愛すべきご愛嬌というもので、さすがの城太郎も
そのうちに、ぽきッと生木が裂ける響きがしたので――彼は、しまったと思ったらしいが、難なく体は大地に坐っているので、城太郎はかえって、ぽかんとしてしまった。
「アふッ……」
馬はもう見えない。見えたって二度と乗る気もあるまい。
ややしばらく、そこで腰を抜かしていたが、
「――お通さアん?」
と、坂の上へ向って叫ぶ。
「お通さアん――」
道をもどって、急に駈け出した彼は、容易ならない大事へ駈けつけて行くかのような血相で、こんどは木剣をにぎりしめた。
「どうしたろう? お通さんは。――お通さあんっ、お通さあん!」
出会いがしらに
「これ、子供子供」
「どうかしたのか?」
と、たずねた。
城太郎は戻って来て、
「おじさん、
「いかにも」
「
「ウム見かけた」
「え、どこで」
「この先の夏身の立場で若い女を縄つきにして歩いていた野武士がある。おれも不審に思ったが、
「そ、それだ」
「待て」
駈け出そうとする城太郎をまたよび止めて、
「あれは、おまえの連れの者か」
「お通さんという人だ」
「
城太郎は、すぐその人間に信頼をおいた。今朝からの始末をつぶさに話して聞かせた。
「なるほど、よく分った。だが、あの
「くれる?」
「ただではくれないかも知れぬ。その時にはまた、考えがあるから、おまえは声を出さずに、そこらの
城太郎がかくれると、その男は坂の下へすたすたと行ってしまうのだ。あんなことをいって、人を
坂のうえから人声が聞えてきたので、彼はあわてて首をひっ込めた。――お通の声が耳へひびいて来る。両手をうしろに
「何をキョロキョロしているのだ、はやく歩け」
「歩かねえかっ」
一人の男が、お通の肩を突いて
「わたしの連れをさがしているんです。あの子は、どうしたろ。城太さアン」
「やかましい」
お通の白い素足から血が出ていた。城太郎は、ここにいると呶鳴って飛び出そうと思ったが、その時、
「たいへんだっ――」
独り
「おいっ、渡辺の
渡辺の甥と呼ばれたところから想像すると、その五倍子染の小袖を着ている男は、この附近の伊賀谷や甲賀村で尊敬されている忍者の旧家渡辺半蔵の甥なのであろう。
「知らないのか」
と、彼がいう。
「知らぬが? ……」
と三名は寄って来る。
渡辺の甥は、指さして、
「この
「えっ、武蔵が」
「おれが通るとおれの前へずかずか来て、名を訊くから、おれは伊賀者の渡辺半蔵の甥で、
「ほ……」
「何かあるので? ――と、おれから今度は質問すると、されば、
「ほんとか、三之丞」
「誰が嘘をいおう、さもなくて、宮本武蔵などという旅の者をおれが知ろうはずはない」
明らかに三名の顔いろが動揺しはじめた。
どうしよう?
と
「――気をつけて行ったがいいぞ」
いいすてて、三之丞がすぐ去ろうとすると、
「渡辺の
あわてて呼んだ。
「なんだ」
「弱ったなあ、あれは途方もなく強い奴だと、親方すらいっていた」
「かなり出来ている男にはちがいない。坂の下で、こう
「なんとしたものだろう? ……実は親方のいいつけで、野洲川までこの女をしょッ曳いてゆく途中だが」
「おれの知ったことか」
「そういわないで、手を貸してくれ」
「真っ
「聞かせてくれ、それだけでも有難い」
「縄付にして連れているその女を、どこかこの近くの
「ウム、そして」
「この坂は通れない。すこし廻りになるが、谷道をわたって、はやく野洲川へこのことを告げ、なるべく遠巻きにしておいてから手を下すのだな」
「なるほど」
「よほど、大事をとらないと、相手は死にもの狂いだ、ずいぶん死出の道づれが出来るだろう。そうしたくないものだな」
三名は、にわかに、
「そうだ、そうしよう」
お通の体を、藪へ引きずりこんで、木の根へくくりつけた上、一度去りかけたが、またもどって来て、彼女の顔へ猿ぐつわを噛ませ、
「これでよかろう」
「よしっ」
そのまま道のないところを歩いて、姿をかくしてしまった。
枯れ木や枯れ葉の保護色の中にじっと
誰もいない――往来の者も――渡辺の
「お通さん」
城太郎は、藪の中を、おどって来た。彼女の縄目を解いてやると、その手を引っぱって、坂の途中へ、ころげ出した。
「逃げよう」
「城太郎さん……どうしておまえは、そんなところに」
「どうだっていいじゃないか。今のうちだ、はやく行こう」
「ま、待って」
みだれた黒髪や、
「お
「……でも、この坂の下へ行けば武蔵様がいると、今ここを通った人がいったでしょう」
「だから、お洒落をするの」
「いいえ、いいえ」
お通は、おかしいほど真面目になって、それに対して弁明する。
「武蔵様にお会いできさえすれば、もう怖いものはないからですよ。私達の難儀もすでに去ったものと、安心して来たものだから……私は落着いているんです」
「だけど、この坂の下で、武蔵様に会ったというのは、ほんとのことかしら?」
「そういって、あの三人と、ここで話していたお方は、どこへ行ってしまったのでしょう」
「いないや」
見まわして――
「変な人だなあ」
と、城太郎はつぶやいた。
しかし、とにかく二人がこうして虎の口から助かったのは、あの渡辺の甥とかいう
――この上でまた、武蔵に会えたならば、なんとその人へ礼をいってよいかなどと、お通の心はもうそんなことまで考える。
「さ、行きましょう」
「お洒落はもういいの」
「そんなことをいうものではありませんよ、城太さん」
「だって、うれしそうだもの」
「自分だって」
「それは、
そして、手足を踊らせて、
「でも、もしかして、お師匠様がいなかったらつまらねえな。先へ行って見つけてみるよ、ネ、お通さん」
と駈け出した。
(――こんな姿で)
お通は血の出ている自分の足へ眼を落し、土や木の葉によごれている
その袂にたかっていた枯れ葉を取って、指先に
山の中で育ったくせに、お通は虫が嫌いだった。ぎょっとして手を振り払った。
「おいでようっ、はやく。――なにをのそのそ歩いているのさあ」
坂の下から城太郎の勢いのいい声だった。あの元気のいい声の様子では、さては、武蔵が見つかったものとみえる。――お通は彼の
「アア、とうとう」
きょうまで自分というものを、ふと心のうちでなぐさめ、遂に届いた一心に対して、我へともなく、神へともなく、誇りたかった。歓びに胸おどらさずにいられなかった。
――だが、それは、女性の自分だけが前奏している歓びにすぎないことをお通はよく知っている。会ったにせよ、武蔵が、自分の一心を、どの程度までうけ
坂の日蔭は土まで氷っていたが、
お通が、
「武蔵様は」
と、訊ねながら、立場茶屋の前にがやがや群れている人々のほうを、じっと見ると、
「いないンだよ」
と、城太郎は、気抜けしたようにいい放って、
「どうしたんだろ?」
「え……」
お通は、信じないように、
「そんなこと、ないでしょう」
「だって、どこにも、いないもの。――立場茶屋の人に聞いても、そんなお侍は見かけないというし……きっとなにかの間違いだよ」
と城太郎は、そう落胆もしない顔つきなのである。
独りぎめに、思い過ごした
お通は、
(何ていう子だろう)
と、城太郎の平気でいるのが、憎らしくなってくる。
「もっと
「見たよ」
「そこの
「いない」
「立場茶屋の裏は」
「いないッてば」
城太郎が、うるさくなったようにそういうと、お通は、ふいと顔を横に向けてしまった。
「お通さん、泣いているね」
「……知らない」
「ずいぶん
一片の同情も持たないように、城太郎はかえってゲラゲラ笑うのだった。
お通は、そこへ坐ってしまいたくなった。急に世の中のすべてのものに光がなくなって、元のような――いや今までにない
考えてみると、同じ武蔵という人を捜している身の上であっても、城太郎のは、ただ師匠として慕っているのだし、彼女の求めているのは、生涯の生命として、武蔵をさがしているのである。そしてまた、こんな場合に際しても、城太郎はいつでもケロリとして、すぐ快活にかえってしまうし、お通はその反対に幾日も次の力を失ってしまう、それは、城太郎少年の心のどこかに、なアに、そのうちにきっとどこかで行き会えるにきまっていることだからという定義が据わっているからであって、お通には、そう楽天的に末を見とおしていられないのである。
(もう生涯、このまま、あの人とは、会うことも話すことも、出来ない運命なのではないかしら?)
と、悪いほうへも、やはり思い過ぎをしてしまう。
恋は相思を求めていながら、恋をする者はまた、ひどく孤独を愛したがる。それでなくても、お通には、生れながらの孤児性がある。他へ対して、他人を感じることに、どうしても人よりは鋭敏だった。
すこし
「お通さん」
と、後ろで呼ぶ者があった。
城太郎が呼んだのではない。
それは
さっき、あのまま坂の上へ登って行ったものとのみ思っていたのにふいに――また、往来でもないところから出て来たのである。お通にも城太郎にも、不思議な行動に見えた。
それに馴々しく、お通さんなどと呼びかけるのも、変な男だ。城太郎は、すぐ突っかかって、
「おじさん、嘘いったね」
「なぜ」
「武蔵様がこの坂下で、刀をさげて待っているなんていって、どこに武蔵様がいるかい、嘘じゃないか」
「ばか」
三之丞は、叱って、
「その嘘のために、おまえの連れのお通さんは、あの三名から
「じゃあ、あれは、おじさんがあの三人を計略に乗せるためにいったでたらめかい」
「知れたこと」
「なアんだ、だからおらもいわないことじゃないのに――」
と、お通へ向って、
「やっぱり、でたらめだとさ」
聞いてみれば城太郎へわがままに怒ったのはいいとしても、あかの他人の
三之丞は、満足のていで、
「野洲川の野武士といえば、あれでもこの頃は、ずいぶんおとなしくなった方だ。あれに狙われては、この山街道から無難に出ることは恐らくできまい。――だが、最前この小僧から話をきけば、おまえたちの案じている宮本武蔵という者、心得のある者らしいから、むざむざその網にかかるようなドジも踏むまい」
「この街道のほかに、まだ
「あるとも」
三之丞は、真昼の空に澄んでいる冬山の嶺を仰ぎまわして、
「伊賀谷へ出れば、伊賀の上野から来る道へ。――また
「それならば、安心でございますが」
「むしろ、あぶないのは、おまえ達二人のほうだ。折角、山犬の群れから救ってやったのに、この街道を、ぶらぶら歩いていれば、いやでも野洲川ですぐまた捕まってしまう。――すこし道は
三之丞は、それから甲賀村の
「ここまで来れば、もう安心なものだ。夜は早目に泊って、気をつけて行くがいい」
と、いった。
かさねて、礼をのべて、別れようとすると、
「お通さん、別れるのだぜ」
三之丞は、意味ありげに、改めて彼女をじっと見た。そして、やや怨み顔に、
「ここまで来る間に、今に訊いてくれるか、今に訊いてくれるかと思っていたが、とうとう、訊いてくれないな」
「なにをですか」
「おれの姓名を」
「でも、
「おぼえているか」
「渡辺半蔵様の
「ありがたい。恩着せがましくいうのじゃないが、いつまでも、覚えていてくれるだろうな」
「ええ、ご恩は」
「そんなことじゃない、おれがまだ独り者だということをさ。……伯父の半蔵がやかまし屋でなければ、邸へ連れて行きたいところだが……まあいい、小さな
先の好意はわかるし、親切な人とも思いながら、その親切に少しも
柘植三之丞に対するお通の気もちがそれだった。
(底のわからない人)
という最初の印象が
かなり人みしりをしない城太郎さえが、その三之丞とわかれて峠を隔てると、
「いやな奴だね」
と、いった。
きょうの難儀を救われたてまえにも、そういう蔭口はいえない義理であったけれど、お通もつい、
「ほんとにね」
と
「いったいなんの意味なんでしょう、おれはまだ独り者だということを覚えていてくれなんて……」
「きっと、お通さんを今に、お嫁にもらいに行くよという謎なんだろ」
「オオいやだ」
それからの二人の旅は至って無事だった。ただ恨みは、
待つ春の
五条橋のたもと。
一月一日の朝。
もし、その朝でなければ、二日――三日――四日と
あの人は必ずそこへ来ているというのである。城太郎からお通はそれを聞いている。ただ、それは武蔵が自分を待ってくれるためでないだけがさびしいといえばさびしい。しかし、なんであろうと、武蔵に会えることだけで、自分の希望は八分も九分も遂げられるようにお通は思うのだった。
(だけど、もしやそこへ?)
ふと彼女は、また、その希望を暗くするものに襲われた。本位田又八の影である。武蔵が、元日の朝から七日のあいだ、朝な朝なそこへ来ていようというのは、本位田又八を待つためなのだ。
城太郎に訊けば、その約束は、朱実に
(どうか、又八が来ないで、武蔵様だけがいてくれればよいが――)
お通は、祈らずにいられなかった。そんなことばかり考えながら、
なんの屈託もないのは城太郎で、久しぶりに戻って見る都会の色や騒音が、無性に彼をはしゃがせてしまい、
「もう泊るの?」
「いえ、まだ」
「こんなに明るいうちから
「市よりも、大事な御用が先じゃありませんか」
「御用って、何の御用」
「城太さんは、伊勢から自分の背中につけて来たものを忘れたんですか」
「あ、これか」
「とにかく、烏丸光広様のお
「じゃあ今夜は、そこの家で泊ってもいいね」
「とんでもない――」
お通は、加茂川を見やりながら、笑った。
「やんごとない大納言様のお館、どうして
預かり中の病人が、寝床を
けれど、住吉の浜の
――さて、そこで。
「くやしい……」
朱実は、三十
その口惜しいはまた、単なる口惜しいではない。――この身体のうちに、べつな男性を恋しているがために――その人との永久の
淀のながれには、門松の輪飾りや、
「……武蔵様に会っても?」
と、惑いの下から、ポロポロとなみだがこぼれてくる。
五条大橋のたもとに、武蔵が来て、本位田又八を待つという正月の朝を、朱実は、どんなに心待ちだったか知れないのである。
――あの人は何だか好きだ。
こう思い
思慕というものを、糸にたとえれば、恋はだんだんそれを胸のうちで巻いてゆく
朱実も、きのうまでは、そういう
誰も知るはずのないことであるのに、世間の眼がみな自分に対して変った気がしてならない。
「おい、
こう誰かに呼ばれて、朱実は、たそがれかかる五条に近い寺町を冬の蝶のように、寒々と歩いている自分の影と、辺りの枯れ柳や塔を見出した。
「帯かい、
ひどく下等なことばをつかうが、身なりは痩せても枯れても、二本差している牢人で、朱実は初めて見る男にちがいないが、盛り場や冬日の裏町を、何の用もなくよくぶらついている赤壁
すり切れたわら草履をばたつかせて、
「まさか
うるさいと思うのであろう。朱実は耳がないような顔をして歩いてゆく。それを赤壁八十馬は、単に、若い女のはにかみと呑みこんで、
「
「…………」
「気をつけなよ。おめえみたいな
「…………」
ふんとも、すんとも、朱実は答えないのに八十馬は独りで
「まったく」
と、返辞まで自分でして、
「この頃、江戸の方へ盛んに京女がいい値で売られてゆくそうだ。むかし
「…………」
「
「……
朱実はふいに、犬でも追うように、
「――叱っ、叱っ」
げらげらと八十馬は笑って、
「おや、こいつあ、ほんとのキ
「うるさい」
「……そうでもねえのか」
「お馬鹿」
「なんだと」
「おまえこそ気狂いだ」
「ハハハハ、これやあいよいよ間違いなしのキ印だ。かあいそうに」
「大きなお世話だよ」
つんとして――
「石をぶっつけるよ」
「おいおい」
八十馬は離れない。
「
「知らない、犬っ、犬っ」
実は
「おういっ、娘や」
八十馬は、猟犬のように、萱の波を躍って追う。
裂けたる鬼女の口に似ている夕月が、ちょうど鳥部ノ山の辺りに見える。折から
背なかを、どんと、突きとばされたのだ。朱実は勢いよく、萱の中へ
「あっ、御免御免」
ふざけた男もある。自分で突きとばしておいて、
「痛かったろ」
と、抱きすくめた。
その
従って、彼女を抱きしめている手は離しッこない。
――息ができない。
朱実は、ただ爪を立てる。
その指の爪が、争ううちに、赤壁八十馬の鼻の穴を掻きむしった。鼻は
鳥部ノ山の
「おとなしくしな」
「…………」
「なにも、
「…………」
「おれの女房にしてやろう。――いやじゃあるまい」
「……死にたいッ!」
さけんだ朱実の声の余りにも悲痛で強かったので、
「えっ?」
八十馬は、思わずいった。
「……どうして、どうして」
手と膝と胸とで、朱実は体を
「――泣くことはないじゃないか。何も、泣くことは」
そんなことを、耳へ
「
朱実は、いつぞやの吉岡清十郎を思いだした。その時の苦しかった呼吸が考え出された。でも、あの時とは比較にならないほど、心のどこかに落着いたものがある。……あの時のせつなこそは、部屋のまわりの障子の
「待ってくださいッてば!」
「待ってくれって? ……よしよし、待ってやるとも。……だが、逃げるとこんどは手荒になるぜ」
「――ちいッ」
肩をつよく振って、八十馬の執拗な手をふり
「――何するんですっ」
「わかってるじゃねえか」
「女と思って、ばかにすると、わたしにだって、女のたましいというものがあるんだから……」
草の葉で切れた唇に血がにじんでいた。その唇を噛みしめると、ほろほろと涙がながれ、血といっしょに白い
「ほ……おつなことをいうな。こいつはまんざらキ印でもねえとみえる」
「あたりまえさ!」
ふいに相手の胸いたを突くと、朱実は、そこを
「人殺しっ、人殺しイっ……」
その時の精神状態からいえば、朱実より八十馬のほうが、一時的ではあるが、完全な
――たすけてえっ!
青い宵月の光を、十間とは走らないまに、朱実は獣に噛みつかれた。
白い
春が近いといっても、まだ
するとその耳の辺りを、何者か突然、ごつんとおそろしく堅い物で
八十馬の血液は、そのため、一時五体の
「――ア
とさけんだ。
さけびながらまた、後ろを向いたのもこの男の戸惑いである。その真っ向へまた、
「この馬鹿者っ」
ぴゅっ――と空気に鳴りながら、節のある尺八が、脳天を打ち下ろした。
これは痛くなかったろう、痛いと感じる間がなかったからである。八十馬は、へなへなと肩も眼じりも下げてしまい、
「他愛ないものだ」
尺八を手にぶら下げながら、
「……?」
朱実はまた、その虚無僧の顔を、茫然と見ていた。
「もういい」
青木丹左衛門は、そういって、唇の下へブラ下がっている大きな前歯でわらった。
「――もう安心おし」
朱実は初めて、
「ありがとうございました」
髪のみだれや、着物のみだれを直して、まだ
「どこじゃの、おぬし」
「家ですか。……家はあの……家はあの……」
朱実は、にわかにすすり泣きして、両手で顔を
わけを訊かれても、彼女は正直にみな話せなかった。半分は嘘をいい、半分はほんとのことをいい、そしてまたすすり泣いた。
母親がちがうことだの、その母親が自分の体を金に換えようとしたことだの――住吉からここまで逃げて来た途中であるということだの――その程度は打ち明けて、
「わたしもう、死んだって家へ帰らないつもりです。……ずいぶん我慢して来たんですもの。恥をいえば、小さい時には、
憎い清十郎よりも、さっきの赤壁八十馬より、朱実は、
ちょうど
その小松谷まで来ると、
「――ここじゃよ、わしの
青木丹左は、連れて来た
「ここですか」
失礼とは思いながら、朱実はつい問い返した。
ひどく荒れている一宇の阿弥陀堂なのである。これが
それは承元の昔の春だったが、今夜は、散る花もない冬の末、
「……おはいり」
丹左は先へ御堂の縁へ上がって、
「この中は、思いのほか暖かいのだ。
「…………」
朱実は顔を横に振った。
青木丹左が人のよい人間らしいことには、彼女も安心しているのである。それに年配も五十を越えているし――。だが、彼女がためらっているのは、彼の住居と称するお堂の汚なさと、彼の衣服や皮膚の
――だが、ほかに泊るところのあてはないし、また、赤壁八十馬にでも見つかればこんどはどんな目にあうか知れないし――それになお朱実は、身体が熱ッぽくて、
「……いいんですか」
階段から上がりかけると、
「いいとも、幾十日住んでいようが、ここなら、誰も怒って来はせんのじゃ」
中は真っ暗である。
「お待ち」
丹左は隅で、火打ち石をカチカチ
見れば、鍋、瀬戸物、木枕、
(親切な人)
すこし落着いてくると、朱実は、不潔も気にならなくなり、彼の生活に、彼と同じ気安さが持てて来るのだった。
「そうそう熱があって、身体がだるいといっていたの、おおかた
むしろだの、米俵だので、隅へ寝どこができている。朱実はそこにある木枕へ、自分の持っている紙を当てて、すぐ横になった。
上からかぶる
「じゃあ、お先に」
「さあ、さあ、なにも心配しないがいいぞよ」
「……すみません」
と、手をつかえる。そして、渋紙の
だが、驚いたのは、
「アッ、なんじゃっ?」
膝をまっ白にしてしまった。
朱実は打ち伏したまま、
「なにか――なんだか知れませんが、鼠より、もっと大きな
いうと、丹左は、
「
と見廻して、
「栗鼠のやつめが、よう食い物を
朱実は、そうっと顔をあげ、
「あれっ、そこに」
「どこに」
浮き腰を
「……?」
丹左が不審顔すると、小猿は、この人間くみしやすしと見てとったか、内陣の朱の
「こいつ……どこから入って来たのじゃろう、……ははあ、だいぶ飯つぶがこぼれていると思うたら、さては」
さては、ということばが、わかるように、小猿は彼が近づく先に逃げ出して、内陣の
「……はははは、とんだ愛嬌者じゃわ、たべ物でもくれてやれば、
膝の白い粉をはたいて、鍋のまえに坐り直しながら、
「
「だいじょうぶでしょうか」
「山猿ではない、どこかの飼猿が逃げて来たのじゃろ、なに心配があるものか。――夜具はそれで寒くはないか」
「……いいえ」
「寝たがよい、寝たがよい、
鍋へ、粉を入れ、水を入れ、そしてぐるぐる箸の先で掻きまわす。
欠け七輪に、炭火はかっかっとおこっている。鍋をかけておいて、その間に、丹左は
まな板は、この御堂にあった古机、
クツクツと鍋の湯の
いつもの晩のように、清水寺のほうで鐘が聞える。もう寒行はすんで初春もちかいが、師走が押しつまると、人の心の
(……わしは、わし自身の
――蕎麦掻きを焦げつかないように、そっと箸で浮かしながら、親と名のつく者の弱い心の底から祈りをこめていると、
「――嫌あッ!」
突然、寝ている朱実が
「ち、ち、ちくしょう……」
見れば、寝息のうちに眼をふさいでいながら、木枕に顔押しつけて、さめざめと泣いているのであった。
自分のうわ
「おじさん、わたしいま、寝ているうちに何かいいましたか」
「びっくりしたわさ」
丹左は、枕元へ寄って来て、彼女の
「熱のあるせいじゃろう、ひどい汗だ……」
「何を……いったでしょう」
「いろいろ」
「いろいろって?」
朱実は熱ッぽい顔をよけいに
「……朱実、おまえは、心で
「そんなこと、いいまして」
「ウム。……どうしたのだ、男に捨てられたのか」
「いいえ」
「だまされたのか」
「いいえ」
「わかった」
丹左が独り合点すると、朱実は急に身を起して、
「おじさん、わ、わたし……どうしたらいいんでしょう」
人には話すまいと思って独り悩んでいた住吉での恥かしいことを、朱実のからだ中の怒りと悲しみは、どうしても、彼女の口からそれをいわせずにおかないのである。突然、丹左の膝にすがりつくと、まだうわ言の続きのように、
「……ふ、ム……」
丹左は熱い息を鼻の穴から洩らした。絶えてひさしい女性のにおいというものが、彼の鼻にも眼にも沁みる。このごろは、人間の
「……ふーむ、吉岡清十郎というのは、そのような
問い返しながら、丹左も心のうちで、清十郎という人間を憎んでもあきたらぬ人間のように憎んだ。けれど、丹左の老いたる血を、それほど興奮させているものは義憤ばかりではなかった。ふしぎな嫉妬心のはたらきが、あたかも自分の娘が
朱実にはそれが、たのもしき人にみえ、この人ならもう何をいっても安心と思いこんで、
「おじさん、……わたし、死んでしまいたい、死んでしまいたい」
彼の膝へ、泣き顔を当ててもがくと、丹左は、あらぬ心地に、すこし当惑顔にさえなって、
「泣くな、泣くな、おまえが心からゆるしたわけではないから、おまえの心までは決して、けがされておりはせぬ。女性のいのちは、肉体よりは、心のものじゃろう。さすれば、貞操とは、心のことだ。体をまかせないまでも、心でほかの男を想うとすれば、その瞬間だけでも、女のみさおは
朱実には、そんな観念的な気やすめに安心はしていられないらしく、丹左の
(死にたい、死にたい)
をいいつづける。
「これ、泣くな、泣くな……」
丹左は、その背なかを撫でてやっていた。だが、白い
さっきの小猿が、鍋の近くへいつのまにか来て、なにか食べ物をくわえて逃げた。その物音に、丹左は、朱実の顔を膝から落して、
「こいつめ!」
と、
丹左にはやはり、食べ物の方が、女の涙よりは、重大に心を打つらしい。
夜が明けた。
朝になると、丹左は、
「町へ
笠は、
殊に、今朝の丹左は、しょぼしょぼしていた。ゆうべは一晩じゅう、よく眠れなかったのである、あんなに
その眠れない原因が、今朝もまだ――うらうらと澄んでいる陽の下へ出て来ても――まだ頭のしんに残っていて、とつこうつ、それが心にこだわって離れない。
(ちょうど、お通ぐらいな年ごろだ……)
と、思う。
(お通とは、気だてがまるでちがうが、お通よりは、愛くるしい。お通には、気品があるが、冷たい美だ。朱実のは、泣いても、笑っても、怒っても、みんなそれが
その蠱惑が強力な光線のように丹左のすがれた細胞をゆうべから活溌に若やがせているのだった。しかし、なんといっても争えないのは
(あさましや、おれという人間はいったいどうしたものだ。池田家の譜代として、
そう
(まだ
と叱ってみたり、また、
(ああ、尺八を持ち、
(――そんな邪心は捨てよう。
しかし、愛くるしい娘だ。また
帰りには、薬と、何を求めて来てやろうか。きょう一日の
やっと、心がそこへ落着いて、いくらか顔いろがよくなった時である。彼の歩いていた崖の上で、ばたッと、大きく翼を
「……?」
丹左が、顔を上げると、葉の落ちている
鷹は、捕えた小禽を爪にかけて、その時空へ真っすぐに揚がっていた――翼の裏を下へ見せて。
「あっ、
と、どこかで、人声がひびき、つづいて、鷹の持主の口笛がながれた。
間もなく、延念寺の裏坂のほうから、ここへ降りて来る狩支度の二人づれが見える。
ひとりは、左の
四条道場の吉岡清十郎なのである。
もう一名は、清十郎よりずっと若くて、体つきはかえって剛健にできているが、派手やかな若衆小袖に、背なかへは、三尺余の大太刀を斜めに負い、髪は前髪だち――といえばもう、後は説明するまでもなくあの
「そうだ、この辺だった」
小次郎は、立ちどまって、あたりを眺めまわしながらいう。
「きのうの夕方、わしの小猿めが、その
「いるものか、猿にも脚がある」
と清十郎は、興のない顔つきで、
「いったい、
と、その辺の石へ腰かける。
小次郎も、木の根にかけて、
「なにも連れて歩くわけではないが、あの小猿めが
「猫だの
――で、清十郎は、彼に対して、人間的な尊敬は大して払わないかわりに、
「はははは」
小次郎は笑って、
「それは拙者がまだ、幼稚だからですよ、今に女のほうでも覚えれば、猿などは捨てて顧みなくなるでしょう」
といった。
それから小次郎が、
「なんだ、あの虚無僧めは。……さっきから、吾々のほうをじっと見て、立ちどまっておる」
ふいに、
「岸柳どの」
そういうと、清十郎は何を思いだしたのか、突然、腰をあげていった。
「帰ろう。――どう考えても鷹狩などしている場合でない。きょうはもう
しかし小次郎のほうは、その
「折角、鷹をすえて来たのに、まだ山鳩一羽に、つぐみ二、三羽しか
「よそう、気のすすまぬ時には、鷹も思うように飛ばぬものだ。……それよりは、道場へもどって、稽古だ、稽古だ」
独り
「帰るなら一緒に帰る」
小次郎も、共に歩みだしたが、愉快ではない顔いろだった。
「清十郎どの、むりにおすすめして、悪かったな」
「なにを」
「きのうも、きょうも、鷹狩をすすめてあなたを連れ出したのは、この小次郎ですから」
「いや……ご好意は、よく分っている。……だが
「わたくしは、それゆえに、あなたへ、鷹でも放って、悠々と、気を養うことをおすすめ申したわけだが、あなたのご気質では、それができないとみえる」
「だんだん噂をきくと、武蔵というものは、そう見くびれない敵らしいのじゃ」
「しからば、なおさらこちらは、迫らず、
「なにも
小次郎は、清十郎の正直さには好意を持てるが、
(まだ、弟の伝七郎のほうが、ずっと線が太い)
と、思う。
だが、その弟と来ては、これは手のつけられない
小次郎は、その弟にも紹介はされたが、てんで肌合がぴったりしないし、かえってお互いに最初から妙な反感さえ抱いてしまった。
(この人は、正直だ、だが小心だ、助けてやろう)
こう考えたから小次郎は、わざと、鷹を持ち出して、武蔵との試合などは、念頭から忘れるように、わざと側から仕向けているのに、当の清十郎の身になると、そう悠然とは、構えていられないらしいのである。
――これから帰って大いに練磨するのだという。その真面目さはいいが、いったい、武蔵と会うまでに、これから幾日その練磨ができるのかと、小次郎は、訊きたい気がする。
(しかし、性分だ……)
こういうことは、助太刀にならないことを小次郎は痛感した。――で、黙々と帰り
――わん、わんっ、わんっ。
遠くのほうで
「ア、なにか獲物を知らせているらしい」
小次郎は、そういって、ひとみを輝かしたが、清十郎は、いらざる犬の働きといわないばかりに、
「捨ててゆこう、捨ててゆけば、後から追いかけて来るだろうから」
「でも……」
惜しむように、小次郎は、
「ちょっと見て参るから、あなたはそこで待っていて下さい」
犬の声を目あてに、小次郎は駈けて行った。――見ると、七間四面の古びた
なにを嗅ぎつけてこう吠えついているのだろうか。小次郎は、
「――
蹴とばしたが、犬は、気が立っていて、
彼が御堂の中へ入ると、さッと、
と――すぐに。
小次郎の耳へつんざいて来たのは、思いもうけてもいなかった女の叫びである。それも
「やっ?」
小次郎は、駈け寄った。その一瞬に、犬の
犬は、小猿を追いつめて来て、朱実へ
――きゃッ。
と朱実が仰向けに転んだのと、もっと強い獣の悲鳴が、小次郎の足の先から発したのと、殆ど一緒で、間髪の差もなかった。
「――痛いッ、痛いッ」
泣くように、朱実はもがいた。犬の口は、大きく開いて、彼女の左の二の腕を
「くッ、これかッ」
小次郎が、二度目の足で、また犬の
「――離してっ、離してえっ」
もがいている彼女の体の下から、小猿がぴょいと飛び出した。小次郎は、犬の
「こいつめ」
ばりっと、
「もういい」
と、朱実のそばへ坐ったが、彼女の二の腕は、決して、もういいどころの状態ではなかった。
真っ白な腕が、
「酒はないか、傷を洗う酒は。……いや、あるまいな、こんなところに、あるはずはない。ハテ、どうしたもの」
ぎゅっと、彼女の腕を抑えていると、熱い液体が、自分の
「もしかして、犬の歯の毒でも受けたら、
咄嗟の処置に迷いながら、小次郎がそう
「えっ、気狂いに。……いっそのこともう、気狂いになりたい、気狂いに」
「ば、ばかな」
小次郎はいきなり顔をよせて、彼女の二の腕の血を口ですすった。口の中へ血がいっぱいになると吐きすてて、また、白い肌を頬張った。
たそがれになると、青木丹左は一日の
もう薄暗くなっている阿弥陀堂の扉を開けて、
「朱実、さびしかったろう。今もどって来たぞよ」
途中で求めて来た彼女の薬だの食べ物だの、油の壺などを隅へおいて、
「お待ち、今、明りを
しかし……明りが
「おや? ……どこへ行ったのじゃ、朱実、朱実」
彼女の姿は見えないのであった。
冷たいものに拒まれた自分だけの情愛が、むっと、やりばのない
「ひとに助けられた上、あんなに世話になっておきながら、黙って出てゆくとは……アアやっぱり、それが世間なのかなあ……今の若い女はそうなのかなあ。……それとも、わしをまだ疑って?」
丹左は、愚痴ッぽくつぶやいて、彼女の寝ていた後を、
「あ、あ」
阿弥陀堂の縁へ出てゆく。
それからおよそ半
(どうせ、
後悔に似たものだの、それを自分でいやしむ気持だの、雑多な感情が、帰着するところなく、血管のなかを、いたずらに駈けまわっているのが、いわゆる煩悩なのである。――丹左のふく尺八は、ひたすら、その感情の濁りから澄もうとする必死な反省であるらしいが、よくよく
「虚無僧さん、なにが面白くて、今夜は独りで尺八をふいているのだえ? 町で、もらいが多くあって、酒でも買って来たなら、わしにもすこし、酔わせておくれぬか」
御堂の床下から、首を出してこういったお
「お……おまえは知っているじゃろう。わしがゆうべ、ここへ連れて来ておいた
「あんな玉を、逃すなんて法があるものか。今朝、おめえが出てゆくと、大きな刀を背に負った前髪の若衆が小猿といっしょに、女子まで肩にかけて、連れて行ったわ」
「え、あの前髪が?」
「悪くない男ぶりだもの。……おめえや、おれよりは」
床下のいざりは、なにがおかしいのか、ひとりで笑っていた。
四条道場へ帰るとすぐ、
「おい、これを
門人の手へ、鷹をわたして、清十郎は
はっきりと不機嫌な顔つきである。
門人たちは、お笠を、
「ご一緒に行った小次郎殿は?」
「後から帰るだろう」
「野駈けのうちに、
「ひとを待たせておいて、いつまでも戻って来ぬゆえ、わし一人で、先へ帰って来たまでのことだ」
衣服をかえて、清十郎は居間へ坐った。
その居間の中庭を隔てて宏大な道場はあった。
千人ぢかい門人が、年中、出入りしている道場なので、そこに木剣のひびきがきこえないと、急に空家になったような感じだった。
「まだ帰らんか」
清十郎は幾度も、居間の中から門人へたずねた。
「まだお帰りになりませぬが」
小次郎が戻って見えたら、きょうは彼を稽古台として、またやがて出会う武蔵とも
翌る日も帰らない。
「どうしてくれるんだ」
吉岡家の表部屋へは、
「用人が留守だ、主人が留守だといえば、それで済むと思うてござるのか」
「何十遍、足を通わせるつもりなのだ」
「この半期の勘定だけなら、先代のごひいきもあったお屋敷ゆえ、黙っても
と、帳面をたたいて突きつける男もある。
出入りの大工、左官、日用品の米屋、酒屋、呉服屋、それからあちこちと、清十郎が、遊興して歩きちらした茶屋小屋の
そんなのは、まだまだ小口のほうで、弟の伝七郎が兄に計らず、勝手に現金で借りた利のたかい借財もあった。
「清十郎殿に会わせてもらいましょう。門人衆では、
坐りこんで、動かないものだけでも、四、五名はある。
門人達にはどうしていいかわからない。
清十郎はただ、
「留守と申せ」
の一点張りで、奥にかくれたままでいるし、弟の伝七郎は、勿論、
どやどやと、そこへ六、七名の肩で風を切って歩く連中が入って来た。吉岡門の十傑と自称している植田良平やその門人達である。
「なんだ? おい」
良平が、そこへ突っ立って、頭からいうのである。
断りに当っていた門人が、説明するまでもない顔つきで、簡単にわけを告げると、
「なアんだ、借金取か。借金ならば、払えばよいのだろう。ご当家の都合のよろしくなる時まで待て。待てないやつは、おれが別に話の仕方があるから、道場のほうへ来い」
植田良平の乱暴ないいぐさに、掛取の町人も、むっと色をなした。
ご当家の都合よくなるまで待てとはなんだ。なおその上、待てない奴はべつに話をつけてやるから道場のほうへ来いとはなんだ。かりそめにも、室町将軍家の兵法所出仕という先代の信用があればこそ、頭を下げ、ご機嫌を取り、品物も貸し、何も貸し、あした参れといわれればヘイ、あさって来いといわれればヘイ、なんでもヘイヘイして、先はお屋敷と奉っていれば、つけ上がるにも程がある。そんな文句に恐れて、掛取が引き
良平は、がやがや首をあつめている町人たちを、
「さあ、帰れ帰れ、いつまでいても、無駄だぞ」
町人たちは、黙ったが、動こうとはしなかった。
すると、良平が、
「おい、つまみ出せ」
門人の一人へいったので、
「旦那、それじゃ余りひどいじゃありませんか」
「なにがひどい」
「なにがって、そんな無茶な」
「だれが無茶をいった」
「つまみ出せとはなんぼなんでも」
「しからば、なぜ神妙に帰らんか、きょうは
「ですから、手前どもだって、年の瀬が越えられるかどうかっていうところで、一生懸命にお願い申しているんで」
「ご当家もいそがしい」
「そんな断り方があるものか」
「貴様、不服か」
「勘定をお下げくださりさえすれば、なにも文句はありません」
「ちょっと来い」
「ど、どこで」
「
「そ、そんな馬鹿な」
「馬鹿といったな」
「旦那へいったわけじゃありません、無法だといったんで」
「だまれっ」
襟がみをつかんで良平は、その男を
「誰だ、ほかに苦情のいいたい奴は。些細な勘定をたてにとり、吉岡家の表へ坐りこむなどとは沙汰の限り。おれがゆるさん、若先生が払うといっても、おれは払わさん。さ一人一人、頭を出せ」
町人たちは、彼の
「今に――この門へ、
「遠くないうちだろうて」
「わしらの思いだけでも」
そんな
清十郎は、
「若先生、ひどくお静かですな。どうかいたしたので」
良平が訊ねると、
「いや、どうもせぬ」
「いよいよ、日が迫ったの」
「迫りました。その儀につき、一同して参りましたが、武蔵へいい渡す試合の場所、日時、あれは、どういうことに決めますかな」
「さよう? ……」
清十郎は考え込む。
かねて、武蔵から来ている書面には、試合の場所や日どりは、そちらに一任するから、その旨を、一月の初めまでに、五条大橋のほとりへ高札しておいてもらいたいとある。
「場所だな、まず」
清十郎はつぶやくようにいって――
「洛北の
と、一同へ計った。
「いいでしょう。して、日どりと時刻は」
「松の内か、松の内を過ぎてとするか……だが」
「はやいがよいと思います。武蔵めが、卑怯な策をめぐらさぬ間に」
「では、八日は」
「八日ですか。八日はよいでしょう。先師の御命日ですから」
「あ、父の命日になるか、それは止そう。……九日の朝――
「では、その通りに、高札に
「うむ……」
「お覚悟は、よろしゅうございましょうな」
「もとよりのこと」
そういわざるを得ない清十郎の立場となった。
だが、武蔵に負けようなどとは、思いもよらない。父拳法に手を取って教えこまれた幼少からの技倆は、ここにいる高弟の誰といつ試合っても、劣った
――にも
朱実のことが、その一つの原因というよりは最も多く、あの後では、彼の気もちを不愉快にしていたし、武蔵からの挑戦状で、あわてて京都へ帰ってみれば、祇園藤次が
ひそかに、頼みにしていた佐々木小次郎も、ここへ来て、顔を見せなくなってしまった。弟の伝七郎も寄りつかないのである。彼は、もとより武蔵との試合に、自分以外の助太刀を必要とするほど敵を大きく見てはいないが、それにしても、今年の
「ご覧ください。これでよかろうと思いますが」
植田良平たちが、別室から、新しく削った白木の板へ、高札に立てる文言を書いて来て、彼の前へ示した。――見ると、まだ水々と墨は濡れていて、
答示
一つ、望みに依り試合申す事
場所、洛北蓮台寺野
日時、正月九日卯 の下刻
右神文にかけて誓約候事
万一、相手方の者、違 えあるに於ては、世間へ向ってわらい申す可 、当方に違えある時は、即ち、神罰をうくるものなり
慶長九年除夜
「ム、よかろう」一つ、望みに依り試合申す事
場所、洛北蓮台寺野
日時、正月九日
右神文にかけて誓約候事
万一、相手方の者、
慶長九年除夜
平安 吉岡拳法二代清十郎
作州牢人宮本武蔵殿初めて肚がすわったのであろう、清十郎は大きくうなずいた。
その高札を小脇に持って、植田良平は、二、三の者を後に連れ宵の
吉田山の下である。ここらの横には
ちまちました屋造りや、素朴な小門などが、外から見てもすぐそれと分るほど極めて保守的な階級色を持って、ただ無事に並んでいた。
武蔵は、
(ここでもない。ここでも……)
と次から次の家の門札の名を見てゆきながら、
(もう住んでいないのかもしれぬ?)
と、捜す力を失ったように
父の
叔母の
(もう、変っているに違いない。よそう)
武蔵は、あきらめて、町のほうへ戻りかけた。町の空には、
「あ……?」
武蔵は、すれ違った一人の婦人へ振り
「似ている」
とはすぐ思ったが、でも念のため、しばらく後へ
「叔母御」
武蔵が呼ぶと、その婦人は、
「あっ、そなたは、無二斎の子の
少年の頃から初めて会うこの叔母に、たけぞうと呼ばれないで
「はい、新免家のたけぞうでございます」
武蔵のほうからいうと、叔母は彼のそういう姿を、ながめ廻すだけで、まあ大きくなったことだとも、見ちがえるほど変ったとも、いわなかった。
ただ冷やかに、
「そして、そなたは、なにしにここへ来やったのか」
と、むしろ
「べつに、なんの用事があってという次第ではございませぬが、京都へ参りましたことゆえ、ふとおなつかしゅう存じまして」
「うちを訪ねて来やったのか」
「はい、突然ながら」
すると叔母は、
「やめたがよい、もうここで会えば、用がすんだであろ。帰りゃ、帰りゃ」
と、手を振るのだった。
これが、何年ぶりかで会った叔母の、血につながる者へのことばか。
武蔵は、他人以上の冷たさを、心へ浴びた。
「叔母御、それはまた、なぜですか。帰れとなら、帰りもしましょうが。道ばたで会った途端に、帰れとは、
そう突っ込まれると叔母は困ったように、
「では、ちょっと上がって、叔父様に会って行きゃれ。ただ……叔父様は、あのようなおひとゆえ、久しぶりに訪ねて来たそなたがまた、
そういわれると、武蔵はいくらか慰められ、叔母について、家へ入った。
ふすま越しに、やがて叔父の松尾
「なに、無二斎の息子の武蔵が来たと? ……やれ、到頭来おッたか。……して、どうした、なんじゃ、上がっておると。なぜわしに黙って上へ通しなすったか、ふつつか者め」
武蔵は耐えかねて、叔母をよび、早々、
「そこにいるのか」
「おまえ、なにしに来た」
「ついでがありましたゆえ、ご機嫌をうかがいに出ました」
「うそをいいなさい」
「え?」
「うそをいっても、こちらには、分っている。おまえは、郷里を荒らし抜いて、多くの人に恨みをうけ、家名にも、泥をぬって、
「…………」
「どの
「恐れ入りました、今に、祖先へも郷土へも、詫びをするつもりではおりますなれど」
「……なれど、今さら、
「……長座いたしました。叔母御、お
「待たぬか、これ」
「この辺をうろうろしていると、おまえは飛んでもない目に遭うぞ。なぜなれば、あの本位田家の隠居――お杉とやらいう
「あっ、あの婆が、ここへも参りましたか」
「わしは、あの隠居から、すべてを聞いておる。血縁の者でなければ、ひッ
心外である。この叔父叔母は、お杉の認識をそのままうけて自分を見ているのだ。武蔵は、いい知れない淋しさと、生来の口重い気質に暗くなって、ただうつ向いていた。
さすがに気の毒になったとみえ、叔母は、あちらの部屋へ行ってすこし休めという。それが最大な好意らしくあった。武蔵は黙ってそこを立ち、一間へ入ると、数日来のつかれもあるし、また、夜が明けてあしたの元日には――五条大橋の誓いもあるので、すぐごろりと横になって、刀を抱いた。――いや飽くまでこの世は自分の身ひとつと思う孤独を抱きしめている姿だった。
世辞もなく、わざと辛く、ずけずけとものをいうのも、血縁の叔母なればこそ叔父なればこそ――そう考えられぬこともない。
一時は、
だが武蔵のそんな考え方は、実世間を知らない彼の感傷に過ぎない。若いというよりも、幼稚なほど彼はまだ、人間を
彼のような考えは、彼が大いに名を成すか、富を得るかした後に考えるならば、少しも不当にはならないが、この寒空を、
その考えの間違っていた反証はやがてすぐ現われた。
(すこし休んでゆけ)
と、叔母がいってくれたことばを力にして、彼は、空腹をかかえて待っていたが、宵から勝手元で煮物のにおいや
火桶の中には、
「……あ、除夜の鐘だ」
無意識に、がばと身を起した時、数日来の疲れは洗われていて、彼の
洛内洛外の寺院の鐘が、いんいんと、
――おれは正しかった。
――おれは
――おれは悔いない。
そういう人間が何人あるだろうかと武蔵は思った。
一
今年ばかりではない。――去年、おととし、先おととし、いつの年自分自身で恥じない月日を一年送った
なにか、やるそばから、人間はすぐ悔いる者らしい。生涯の妻を持つことにおいてさえ、男の大多数は悔いて及ばない悔いを皆ひきずっている。女が悔いるのはまだ
まだ妻はないが、武蔵にも通有性の悔いがある、煩悩がある、彼はすでに、この家を訪ねて来たことを後悔するのだった。
(おれにはまだ、縁を
「そうだ、書いておこう」
なにを思いついたか、彼は常住坐臥、肌身を離さずに持ち歩いている武者修行風呂敷を解きはじめた。
――その頃、この家の門の外に立って、ほとほとと、そこを叩いている
半紙を四つ折にかさねて
それには、彼が漂泊のあいだに拾った感想だの、禅語だの、地理の覚えだの、
「…………」
筆を持って、彼は余白を見つめていた。百八つの鐘はまだ遠く近く鳴りつづけている。
われ何事にも悔いまじ
武蔵は、そう書いた。自己の弱点を見出すごとに、彼は自誡のことばを一つ書いた。だが、書いただけではなんの意味もなさない。朝暮に
そのためか、彼は、苦吟して、
われ何事にも……
という修辞を、
われ事において
と書き改めた。「われ事において悔いまじ――」
口のうちで呟いてみたが、武蔵は、まだ自分の心にぴったりしないものか、終りの文字もまた消してしまい、こう改めて、筆を投じた。
われ事において後悔せず
最初のは「悔いまじ」であったが、それではまだ弱いと考えられたのである。「――せず」でなければならない――われ事において後悔せず!
「よし」
武蔵は、満足した、そして胸に誓った。何事にも自分の
(必ずそこまで行き着いてみせる)
と、彼は自分の胸の遠いところへ、理想の
――折ふし、うしろの障子が開いて、寒げな叔母の顔がそこを
「武蔵……」
と、歯の根で呟くようにふるえを帯びた声でいう。
「虫の知らせじゃ、なんとのう、そなたを止めておくのは気がかりと思うていたら、案のじょう、時も時、今、本位田家のお杉隠居が門をたたき、玄関に脱いであるそなたの
「……え、お杉婆が」
耳を澄ますと、なるほど、いつも変らない
叔母は、もう除夜の鐘もすんで、これから若水でも汲もうという元日早々、もし
「逃げておくれ、武蔵、逃げるのがなにより無事。今――叔父様が応対して、左様な者は立ち寄った覚えはないと、ああして婆を
追い立てて、彼の荷物や笠を自分で持ち、叔父の
武蔵は、
「叔母御、まことにご無心ですが、茶漬を一膳食べさせてくれませんか。――実は、宵から空腹なので」
すると叔母は、
「何をいいやる、それどころの場合かいの、さ、さ、これでも持って早よう行きゃれ」
白紙にのせて持って来たのは、五つほどの切餅だった。武蔵は押しいただいて、
「ご機嫌よう……」

髪の毛も、指の爪も、みな凍ってしまうかと思われた。ただ自分の吐く息のみが白く見え、その息もまた、口のまわりの
「寒い」
彼は思わず口に出していった。八寒の地獄といえどもかほどではあるまいに、どうしてこう寒く感じるのか――今朝に限って。
(身よりも、心がさむいせいだろう)
武蔵は、自分の問に自分で答えてみる。
そしてなお思うには、
(そもそもおれは未練者だ。ともすると、人肌を恋う
痛いほど
(――理想のない漂泊者、感謝のない孤独、それは乞食の生涯だ。
みしっと、足の裏から白い光が走った。見ると、
水も空も、まだ暗澹として、夜明けの気ぶりも見えない。流れのふちだと気がつくと、急に足が出なくなった。今までは鼻を
「そうだ、火でも
やっと、枯れ草に炎がついた。その上へ、積木細工のように、大事に燃える物を組んでゆく。或る火力にまで達しると、急に育ち上がった炎は、こんどは風を呼び、火を作った人間へ向って、ぐわうっと顔でも焼きそうに背伸びしてかかってくる。
ふところから餅を出して、武蔵は、それを
「…………」
塩気もない、甘味もない、ただ餅だけの味だった。しかしこの餅の中に、彼は世間というものの味を噛みしめるのだった。
「……おれの正月だ」
焚火の炎に
「いい正月だな、おれのような者にも、
流れの瀬へ寄って、彼は帯を解いた。衣服も肌着も、すべて脱ぎすてて、どぼっと水の中へ体を沈め込んだのである。
――と、その時、河原に燃え残っている焚火の明りを見て、
いたわ、小僧めが。
お杉婆は、胸のうちで、こう高く
「おのれっ」
と、
「欣しや、やっと
婆は、その権叔父の骨の一片と髪の毛とを、今も、腰に
(権叔父よ、たといおぬしは死のうとも、わし一人とは思わぬぞよ、武蔵とお通を成敗せぬうちは、
婆は、朝念暮念、そのことばをいい暮して――といってもまだ――権叔父が骨になってから七日ほどにしかならないが、その一心を自分も骨になるまでは、失うことではないと
――ちらっと、最初に耳にした手がかりは、吉岡清十郎と武蔵との間に、近日、試合があるらしいという
次にはきのうの夕方――五条大橋の
あの文字を、お杉は、どんなに興奮した眼をもって何度も読んだことか。
(
躍起となった。
心には祖先神仏の加護をいのり、身には権叔父の白骨を
(やわか草木を分けても捜し出さずにおこうか)
と、またぞろ、松尾
ボウと河原の下が明るいので、お
(武蔵!)
と見極めると、婆は、腰をついたきりしばらく立てなかった。相手は今、素裸でいるのだ。駈け寄って行って斬りつけるにはまたとない機会であるのに、この老婆のしなびている心臓は、それをなし得ないで、
「うれしや、神の御加護か、
と、
河原の石の一つ一つが、暁の光に濡れて浮きあがってくる。
お杉婆は、
「今っ」
と、気は
白々と、元日の町の屋根や橋は、初霞の底から
三条仮橋の下をくぐると、武蔵は河原から
婆は、
(武蔵待とう)
何度か、呼ぼうとしては、相手の隙とか、距離とか、さまざまな条件を
武蔵は知っていた。
先ほどから
(恐い相手だ)
と、武蔵は心から思うのだった。
村にいたころのたけぞうなら、すぐ
恨みはこちらの方にこそあるので、婆が自分を
(そうか、そうじゃッたか)
と、あの婆が、あれほど
――だが、いかなお杉婆でも、息子の又八自身の口から、関ヶ原へ出かけた前後の二人の事情と、すべてのいきさつを
(よい折りだ、その又八に、会わせてやろう。――五条まで行けば、今朝は、彼が先へ来て待っているかも知れない)
武蔵は、自分の
その五条大橋のたもとは、もうすぐそこに近づいていた。小松殿の
武蔵の大きな
足痕さえ憎かった。
もう橋の
「――武蔵っ!」
お杉はさけんだ。喉の
「そこへ行く
当然、武蔵にそれが聞えていないわけはない。
老いさらぼうた
背を向けたまま、武蔵は歩いていたが、
(はて、困ったもの)
どうしたものかの思案が咄嗟に出なかったのである。
その間に、
「やれ、お待ちやれ」
婆は、武蔵の前へ廻った。
前へ廻ってからお杉婆は、
やむを得ない顔して、武蔵も遂にことばをかけた。
「おお、本位田のおばば殿か、めずらしいところで」
「ても、
その恐い気持のうちには、少年時分の先入主が多分にあった。又八も
(
その
それに反して、お杉は、幼少の時から見ている
その餓鬼に、こうされると思うと、お杉は、郷土の者に対する大義名分ばかりでなく、感情だけでも、このまま土に
「もう、改めて、何もいうことはないぞえ。尋常に、首渡すか、婆が一念の
婆は、そういって、手に
お杉の眼つきは、そのかまきりの血相に似ていた。いや、皮膚の色、姿までが、そっくりだった。
ぬっと突き立って、婆のつめ寄る足もとを、児戯のように見ている武蔵の肩や胸は、さながらそれを
おかしさを感じてくるところであるが、しかし武蔵は、笑えなかった。
ふと、
「おばば、おばば、まあ待ちなさい」
かろく隠居の
「な、なんじゃと」
お杉は、持った刀の
「ひ、卑怯者めが、この隠居は、おぬしなどより、四十もよけいに門松を迎えているのじゃぞ。青くさい口先で
もう、婆の皮膚は、土気いろをして、語気に必死なものがこもっている。
武蔵は、うなずいて、
「わかる、わかる、おばばの気持はよくわかる。さすがは、
「ひかえなされ、
「そうひがむのが
「遺言か」
「いや、いい訳じゃ」
「未練なっ」
燃えあがって、お杉は低い体をつま先で伸び出すように、
「聞かぬ聞かぬ、この
「では、しばしの間、その刃を、武蔵にあずけておきなさい。さすれば、やがて五条大橋の
「又八が? ……」
「されば、去年の春ごろから、又八へ
「何と? ――」
「今朝、ここで会おうと」
「嘘をいやいっ」
お杉は一
「みぐるしいぞ、武蔵、おぬしも無二斎の子であろが、死ぬ時は、
「南無っ」
と、小太刀を抜いて両手に持ち、武蔵の胸もとへ向ってまっすぐに突いてきた。
武蔵が、
「おばば、落着け」
平手でかろく背を打つと、
「大慈、大悲」
お杉は、躍起となって、振向きざま、ふた声三声、
「南無、かんぜおん
烈しい太刀を打ち振った。
その
「おばば、後でくたびれるぞ。……サ、すぐそこじゃ、五条大橋まで、ともかく、拙者に
「ふッっ!」
と、頬に溜めていた息を鳴らした。
「あっ……」
武蔵は、婆の体を突き放し、片手を左の眼に当てて飛びのいた。
ひとみが何かで焼かれたように熱かった。火の
武蔵は、
お杉は、相手の
「南無、かんぜおん菩薩」
と、
いささか
「討ったッ」
狂喜しながら、婆は小太刀をやたらに打ち
「南無、南無」
と、うるさく唱えながら、武蔵の前後を駈け廻るのであった。
武蔵は、それに応じて、ただ体を移しているだけだった。しかし、片方の眼は、眼つぶしを食ったように烈しく痛むし、左の
(不覚!)
と気のついた時が、もうその不覚を身に受けていた時だったのである。彼として、こういう先手を先に取られて、手傷まで負った
しかし、それがそもそも不覚というものではあるまいか。兵法の大乗的な見地から観れば、これは明らかに武蔵の
自身、その不用意を、武蔵も、はっと気づいて、
(
同時に彼は全力を出して、なおも図に乗って来るお杉の肩を、とんと一つ、平手ではたいた。
「あっ」
四ツ這いになったお杉の手を離れて、刀は遠く飛んでいた。
武蔵は、それを拾って左の手に持ち、右の手で、起きかけている婆の体を横ざまに抱きあげた。
「ええ、口惜しい」
亀のように、お杉は、武蔵の脇の下で泳ぎながらさけんだ。
「神もないか、仏もないか。みすみす
武蔵は、口を結んだきり、ただ黙々と大股に歩き出した。
絞り出すようなしゃがれ声で、その間、お杉婆はいいつづけている。
「こうなることも、武運じゃ、天命じゃ、神のお
武蔵は耳もかさなかった。
婆のからだを横に抱えて、五条大橋のそばまで来ると、
(どこへ置いたものか)
と、お杉の身の処置を考えるように、辺りを眺め廻していたが、
「そうだ……」
河原へ下りて、そこの
「おばば、ここで辛抱しておるがよい。――やがてそのうちに、又八がやって来るだろうから」
「な、なにするのじゃ」
隠居は、武蔵の手や、辺りの
「又八など、ここへ来るはずはない。オオ、察するところ、われはこの婆を、ただ返り討ちにしただけでは腹がいえず、五条の人通りへ
「まあ、なんとでも、思うているがよい。そのうちにわかる」
「討てっ」
「ははははは」
「何がおかしいぞよ。この婆の細首一つ、ばさりと落すことが出来ぬのか」
「出来ない」
「なんじゃと」
婆は、武蔵の手へ
武蔵は自分の腕を、存分に婆の口へ咬ませておきながら、ゆるゆると婆の体を縛ってしまった。
「――武蔵ッ、武蔵ッ、
「――後で」
一顧したまま武蔵は、
ちょうどその時、東山の肩に、のっと大きな太陽が真っ赤な焔の
「…………」
五条大橋の前に立って、武蔵は恍惚と見とれていた。あかあかと、腹の底まで陽の光が
一年のうちの小我な狭い考えの中に湧く愚痴の虫は、この雄大な光の前に、影をひそめてただ
「しかも、おれは若い!」
「まだ来ていないようだな……又八は」
と、橋の上を見まわした。そしてふと、
「あ? ……」
と、
植田良平以下の吉岡門下が、きのうここに建てて去った例の高札である。
――場所は蓮台寺野。
――日は九日の卯の下刻
「…………」
武蔵は顔を寄せて、生々しいその
「……あ痛、ああ痛い」
武蔵は、またしても、左の眼の激痛に堪えかねて、思わず
「あ……これだ」
その一本の針を抜いて、武蔵はつぶさに
「おばば
武蔵は、河原をのぞいて、こう
「これは、話に聞いたことのある吹針というものではないか。あのおばばに、こんな
彼は、好奇心とつよい知識慾に燃えて、その針を一つ一つ手に納め、改めて、自分の襟の中へ、抜けないように刺し込んだ。
他日の研究の資料とするつもりなのであろう。彼のまだ狭い体験の範囲で聞いているところによると、一般の兵法者のあいだでも、吹針という技術があるという説と、ないと主張する説とがわかれていた。
あるという説をとる者の弁によると、それは非常に古い伝統を持っている一種の護身術で、漢土から帰化した
ない――と反対する者は、
(ばかなことをいっては困る。武芸者が、そんな児戯に類したもののあるなしを論じるだけでも恥かしい)
と、兵法の正道論に
(漢土から来た
すると、一方は、
(ところが、それができるのだ。もちろん、修練の功だが、何本も唾液につつんで口にふくみ、それを、微妙な息と舌の先で、敵のひとみへ吹くことができる)
と主張する。
それに対して、反対者は、よしんば出来たところで、針の力である、人間の五体のうち、ただ、眼だけが攻撃の焦点ではないか、その眼へ針を吹いても、
それに答えて、また一方は、
(だから、一般の武技のように、発達しているとは誰もいいはしない。けれど、そういう
という。
武蔵はかつてどこやらで、そんな論議をしているのを、そら耳に聞いたことはあったが、勿論、彼も、そんな小技は、武道と認めない一人であったし、実際にそういうことをする人間があろうとも思われなかった。
世間のどんなつまらない雑談のうちにも、聞く者の聞き方によっては、何か他日に役立つものが必ずあるものだということを武蔵は今、痛切に知った。
眼はしきりと痛むが、幸いに、ひとみを刺されたのではないらしい。眼がしらへ寄った白眼の一部がずきずき熱を持って涙をにじみ出すのだった。
武蔵は、身体をなで廻した。
涙を拭く
すると。
うしろで誰か、ぴゅっと絹を裂く音をさせた者がある。振向くと、一人の女性が、彼の様子を見ていたらしく、自分の
彼女の髪には、元日の
「……あっ?」
眼をみはって、武蔵は、意味なくそう叫んだが、さて、誰なのか、覚えはあるが、急には思い出せなかった。
朱実は、そうでなかった。自分ほどではなくても、その何分の一でも、武蔵も自分を考えていてくれたことと信じている。いつの間にか、多年の間にそう自分だけで信じて来ている。
「わたしです……たけぞうさん……いいえ武蔵様」
下着の袖を裂いた紅い
「……眼を、どうかなすったんですか。手でこすると、なお悪くするでしょう。これでお拭きなさいませ」
武蔵は黙って好意をうけた。
「お忘れですの?」
「…………」
「わたしを」
「…………」
「わたしを」
しゅくっ……
と唇や鼻から突き出る
「オオ……」
思い出したのである。
武蔵は、彼女の今の一瞬の姿に記憶をよび起した。その姿にはまだ、
いきなり、逞ましい腕が、彼女の病後のような薄い肩を抱きしめた。
「朱実さんじゃないか。――そうだ、朱実さんだ。……どうしてこんなところへ来たのか。……どうして? どうして?」
たたみかけていう武蔵の問は、よけいに彼女のかなしみを揺すぶった。
「もう、伊吹の
お甲のことを訊ねると、武蔵は当然、お甲と又八の関係に思い及び、
「今も又八と一緒に住んでいるのか。――実は今朝ここへ又八が来るはずになっているのだが、おまえが代りに来たわけではあるまいな」
すべてが朱実の心を
武蔵の腕の中で、朱実はただ顔を横に振って泣いていた。
「又八は来ないのか。……一体どういうわけだ。わけをいえ、ただ泣いているだけでは分らないではないか」
「……来ません。……又八さんは、あの
やっと、それだけをいって、
こういおう、ああいおう、と考えていたことは皆、泡のように、熱い血のなかで明滅しているに過ぎない。――まして、
もう橋の上には、うららかな初日影を浴びて、清水へ
その中から、ひょっこり、年の暮も正月もない、
「あれ? ……お通さんかと思ったら、お通さんじゃないらしいぞ」
怪しい男女の行為でも見たように、城太郎は変な顔して足を止めた。
折ふし誰も見ているものがないからいいようなものの、往来の端で、胸と胸を寄せてじっと抱き合っているなんて――大人のくせに――男と女のくせに――と、城太郎はびっくりせずにいられない。
しかも、尊敬しているお師匠さまが。
女も女だと思う。
彼の童心は、わけもなく高い動悸を打ち、
「なんだ、あの奴は、いつか又八っていう人へ、お師匠様の言伝てをたのんだ
そこから往来の
「どうしたんだろ?」
先頃から泊っている烏丸家の邸内を出たのは、お通のほうが先に出かけているのである。
お通は今朝、武蔵とここであえるのを確信しているので、
そして、まだ未明のうちから、夜の白むのを待ち遠しがって、
(こうしている間に、
といい出し、城太郎が、
(じゃあ、おいらも)
と、
(いいえ、私は武蔵様に、少し二人きりで話したいことがあるのだから、城太さんは、夜が明けてから、なるべく
といって、一人で先へ出かけてしまったのである。
べつに
その体験から割り出しても、大人のお通が泣いたり沈んだりしている
(なんだ、あんな女)
と、お通の肩をもち、
(お師匠様もお師匠様だ)
わがことのように腹を立てて、その結果が、
(お通さんは何してるんだろ。お通さんにいいつけてやるぞ)
という焦躁を帯びて来ると、急に橋の上下をキョロキョロし始めたものだった。
ところが、そのお通が見当らないので、城太郎が独りでやきもきしていると、
反対側の欄干に沿って、城太郎が通り抜けて行ったのも、
「愚図だな、いつまで、観音様なんか拝んでるんだろ」
城太郎は呟きながら、五条坂の方へ背伸びをして、待ち
すると、彼の
朱実と並びあって橋の
なぜならば、よく頷いてはいるくせに、彼の眸は、あらぬ方へ行っているからである。愛しあっている者同士が、ことばを
朱実には今、そういう相手の眼を怪しむ認識すら持てない。自分だけの感情の中で、独り問い答えながら突きつめては唇へ
「……ああ、私はもう、これであなたにみんないうことをいってしまった。
と欄干へのせている胸を少しずつ寄せて来て、
「――関ヶ原の
……よよと、
「けれど――いいえ――私はちっとも変っていない。あなたを思っているこの気持は、みじんも変って来てはおりません。そういいきれます。わかってくれる? ……武蔵様、その気持を……武蔵様」
「ムム」
「わかって下さいね。……恥もしのんで私はいいました。朱実は、あなたと初めて伊吹の下で会った時のように、もう
「ウム、ウム」
「かあいそうだと思ってくれます? ……。真実をささげている人へ、
「ムム、ああ」
「ね……どっちです。考えると、わ、わたしは、く、くやしい」
欄の上へ顔を伏せて、
「ですから、もう私は、あなたに向って、愛してくださいなどということは、
髪の毛の一すじ一すじがみな泣きふるえた。欄を濡らしている涙の下は、元日の明るい陽を
「む……うむ……」
もののあわれは頻りと武蔵の
――で、その視線の先を
父の無二斎から子供の時に、彼はこういわれたことがある。おまえはわしに似ていない、わしの眸はかくの如く黒いが、おまえの眸は茶色勝ちである。
うらうらと、朝の陽を、斜面にうけているせいもあろう。それにしても武蔵の眸は、ヒビのない
(ははあ、この男だな)
かねて聞き及ぶところの宮本武蔵という人間を、佐々木小次郎は、いま見ていた。
武蔵もまた、
(はてな、あの男は)
と、注意を怠らない。
彼より射て来るものと、こっちから迫ってゆくものとが、橋の欄と、河べりの枯柳との間で、最前から無言の
兵法の場合でいえば――相手の器量を、剣と剣の先でじっと

またさらに、武蔵のほうにも、小次郎のほうにも、べつな疑惑があった。
小次郎にすれば、
(小松谷の
と思い、それに当然、
(いやな奴だ、女たらしかもしれぬ。朱実も朱実、おれに黙って、どこへ行くのかと思って後を
こう不快な気もむらむらと
そのありありと眼に出ている反感や、武者修行同士が行きずりに持つ、自負心と自負心との反溌しあう妙な
(何者か?)
と、彼の存在を疑い、
(できるな、相当に)
と、押し測り、
(はて、あの眼の害意は?)
と、警戒して、
(油断のならない人間)
として、眼で見るのではなく、心で
猛獣が猛獣を見ると、すぐ唸るように、小次郎も武蔵も、なんとなく、髪の毛のそそけ立つような印象を、この初対面にうけたのである。
――そのうちに、ふと、小次郎が先に眸を横へ
(ふふん……)
そういったような白い
「朱実さん」
欄へ
「誰だ? おまえの
「…………」
小次郎の姿を、その時初めて気づいた彼女は、泣き
「ア……あの人が」
「あれは誰だ」
「あの……あの……」
と朱実は
「見事な大太刀を背に負って、これ見よがしの
「べつに……なにも深い知りあいじゃないんですけれど」
「知っていることはいる人なのだな」
「ええ」
武蔵に誤解されることを
「いつぞや、小松谷の
「では、ひとつ家に住んでいる者だったか」
「住んでいるといっても……べつに、なんでもないんですけど」
朱実は言葉を強めていう。
武蔵はべつに、なんでもあるような意味に訊いているわけではない。それを朱実は、ひとりでべつな意味にはきちがえているのだった。
「――なるほど、では詳しいことは知るまいが、あの者の姓名ぐらいは聞いておろうが」
「ええ……岸柳とも呼び、本名は佐々木小次郎とかいいました」
「岸柳」
これは初耳ではない、有名というほどではなくても、諸国の兵法者のあいだには相当知られている名である。もちろん実際の人間を見るのは今が初めてであるが、武蔵が聞き及んでいたり、また想像していた佐々木岸柳は、もっと年配の男のように考えていたのに、その案外にも若いのには彼は思いのほかな心地がした。
(……あれが、噂の)
改めて、その小次郎へ武蔵が眼を向けた時である。朱実と武蔵とがそうして囁いている様子を白い眼で見ながら、小次郎の頬へにたと
――武蔵もまた微笑を送った。
だが、この無言の雄弁は、
小次郎の笑靨には、複雑な皮肉と挑戦的な
武蔵の
そうした男性と男性のあいだに挟まって、朱実はなお、自分だけの気持を、訴えようとするのであったが、それをいわないうちに、武蔵がいった。
「では朱実さん、おまえはあの人と、ひとまず宿へ帰ったがよかろう。そのうちに会おう、……な、そのうちにまた」
「きっと来て下さいます?」
「あ、行くよ」
「宿を覚えていてください。六条御坊前の
「ウむ。……ウむ」
単純にうなずかれたのが、物足らなかったのだろう。朱実は欄のうえに置いている武蔵の手を奪って、いきなり自分の
「……きっと! え? ……きっと!」
突然、彼方で、腹を抱えるように哄笑した者がある。こっちへ、背を見せて歩き去って行く佐々木小次郎だった。
「あッはははは、わッはははは。アハハハ。アハハハ」
とんでもない馬鹿笑いをして行く者があるので、城太郎は、むっとしながら、橋の前の往来から小次郎を睨みつけていた。
――それにつけても彼は、お師匠様の武蔵がいまいましい。いつまで経っても来ないお通が
「どしたんだろ?」
地だんだふむように、町のほうへ少し歩き出してゆくと、すぐそこの四ツ辻に横たわっている牛車の車の輪のあいだに、チラと、お通の白い顔が見えた。
「ア、いたッ」
鬼でも見つけたように城太郎はさけんで駈けだした。
牛車の蔭に、お通はしゃがみ込んでいた。
めずらしく今朝の彼女の髪や口紅には、ほのかではあるが――
その白い襟や、紅梅色が、車の輪に
「なんだっ、こんな所に。お通さん、お通さん、なにしてんのさ」
胸を抱いてかがみ込んでいる彼女のうしろから、城太郎は、その髪やおしろいが台なしになるのもかまわず襟くびへ抱きついて、
「――何してんのさ、何してんのさ、おいら、ずいぶん待ってしまったぜ。はやくおいでよ」
「…………」
「はやくさ、お通さん」その肩を揺すぶって、
「――武蔵様も、あそこに来てるじゃないか。見えるだろ、ほら、ここからでも。――だけど、おいら、とても
こんどは、彼女の手くびを取って、抜けるほど引っ張り出したが、ふと、その手くびの濡れていることや、お通が顔を上げて見せないので不審を起し、
「……オヤ、……オヤ、お通さん。なにしていたのかと思ったら泣いていたのかい」
「城太さん」
「なにさ」
「武蔵様のほうから見えないように、お前も、蔭にかくれていてくださいよ。……ネ、ネ」
「なぜさ」
「なぜでも……」
「ちぇッ!」
城太郎はまた、ここでも腹が立って、その
「だから女って奴は嫌ンなっちゃうぜ。こんなわけの分らねえことってあるだろか。――武蔵様に会いたい会いたいといってあんなに泣いたり捜したりしていたくせに、今朝になったら急に、こんな所へ隠れて、おいらにまで隠れていろって……。けッ、けッ、おかしくって、笑えもしねえや」
彼のことばを
「城太さん、城太さん……そういわないでください。……たのむから、そんなにお前までわたしを
「どこへ、おいらが、お通さんを
「黙っていてね……じっと私と一緒に
「いやだい、牛の
「……なんでもいいの。もう……もうわたしは」
「笑ってやろう。
「おわらい、たくさん」
「笑えねえや……」
「アア、わかった。お通さんは、あそこで武蔵様がよその女と、先刻からあんなことして話しているんで、
「……そ、そうじゃない、そんなことじゃないけれど」
「そうだよ、そうだよ。……だからおいらも
いくらお通が強情に屈みこんでいようとしても、城太郎の力で無理やりに手くびを引っ張るのにはかなわなかった。
「痛い。……城太さん、後生だからそんな
「わかってるよ、
「そんな……そんなことだけではありません……私の今の気持というものは」
「いいからお
牛車の蔭から、お通のからだはズルズル地を
「アッ、もういないよ、朱実はもう
「朱実。――朱実って、誰のこと?」
「今、あそこで、武蔵様とならんでいた女さ。……あっ、武蔵様も歩き出した、早く来ないと、行ってしまう」
もう女などに
「待ってよ、城太さん」
お通も、自分で立った。
そこで彼女はもういちど、五条大橋の
怖ろしい敵の影が去ったように、お通は眉をひらいて、ほっとした様子をしてまた、
城太郎は、
「早くしなよ、お通さん。――武蔵様は河原へ降りて行ったようだぜ、お
「河原へ」
「あ、河原へ。――なにしに降りて行ったのだろう」
ふたりは、姿をそろえて、橋の袂へすぐ駈けて行った。
吉岡方で建てたそこの高札には、もう往来の者の首がたかっていた。声を出して読みあげている者がある。また、聞きつけない宮本武蔵という者を、何者であろうと、辺りの人々に
「ア、ごめん」
城太郎は、その人々の体をかすめて、橋の欄から河原の下をのぞいた。
お通も武蔵のすがたを、すぐその下に見られるものとばかり思っていた。
実に、わずかな間であったが、武蔵はもうその辺にいなかったのである。
では何処に?
――というと、武蔵はたった今、朱実の手を振りきって、無理に彼女を追い返すと、もう本位田又八をこの橋上に待っていたところで来るはずもないし――吉岡方から掲示した高札の
「おばば、残念だが、又八は来ないぞ。――わしもぜひそのうちにゆき会って、あの気の弱い男を励ましてくれるつもりだが、ばばも探し出して、親子、達者でお暮らしゃれ、――そのほうが、この武蔵の首を狙ったりすることより、どんなに、御先祖孝行かしれぬぞ」
「ええ、耳うるさい、ませた口をきく
顔じゅうに青すじを走らせて、お杉隠居が、苫の中から首を突き出した――その時ですらすでに、武蔵のすがたは、加茂の流れを横に突っ切って、
お通は見なかったが、ちらと、河向うの遠い人影を、城太郎は見たのであろう。
「アッ、お師匠様だ、お師匠さまあ――」
河原へ向って、跳び下りた。
もちろんお通も。
なぜこの際、すこし廻り道になっても、五条大橋の上を駈けて行かなかったか。お通は、城太郎の勢いにつり込まれたので仕方がないにしても、城太郎が一歩を誤った
城太郎の元気な足の前には、河も山もあったものではないが、春の晴着を
もう武蔵の影は、どこにも見えないのであったが、彼女は、跳べない流れを見ると思わず、死に別れた者が間際にさけぶように、
「武蔵さまあっ」
――すると、それへ向って、
「おうっ」
と答えた者がある。
小舟の
お通は、なんの気なく、それへ振向くと共に、
「――きゃっ!」
顔をおおって逃げ走った。
隠居の白い髪が風に立った。
「お通
次のことばは、老婆の極度に揚げた息のために、声が
「用があるッ、待たっしゃれっ」
つんざくように水へ響いた。
お杉隠居の邪推からこの場合の結果を判断すれば、こういう風にはなはだしく悪くとったかも知れない。
武蔵が自分へ
(そうだ)
と咄嗟に、自分の思うことをこの老婆は、すぐ自分だけで事実としてしまう。
(憎い
武蔵以上の憎しみを、お杉はお通へ抱くのであった。
まだ約束だけで家にも入れないうちから、息子の嫁は自分の嫁のように思い、息子が嫌われたことは、自分が嫌われたことのように
「待たぬかっ」
ふた声目のさけびが聞えた時は、この隠居が、さながら口を耳まで裂いたかと思われる形相で、風の中を走っている時だった。
おどろいた城太郎が、
「な、なんだ、この婆」
つかみかかると、
「邪魔なっ」
と、弾力はないが、怖ろしく固い力で
いったいこのお婆さんが何者なのか――なんのためにお通があんなに驚いて逃げたのか――城太郎にはまるでわからない。
わからないが、しかし事態の
「ばばッ、やったな」
――もう二、三間も先へ行くお杉隠居のうしろから、いきなり跳びついてかかると、婆は孫の首根ッこをつかんで仕置する時のように、左の腕の中に城太郎の
「餓鬼のくせに、邪魔だてするとこうだぞよ、こうだぞよ」
「カ、カ、カ……」
かなしいにせよ、辛いにせよ、人はどう見るか知れないが、お通自身にとれば、今の心の置き方は、またその生活は、決して不幸なものでなかった。
希望もあれば、その日その日の楽しさもある若い日の花園だった。もちろん辛いとか悲しいとかのことの多い中にではあるけれど、辛いこと、悲しいことを離れて、ただ楽しいだけの楽しさなどあろうとは、彼女には信じられない。
けれど今日ばかりは、彼女のそうして持ち堪えてきた心も
――朱実と武蔵と。
あのふたりが五条の
――なぜ今朝、ここへ来たろうか。
悔いても泣いても及ばない程に思って、短い間に、すぐ死を考えてみたり、男性が嘘のかたまりに思われたり、憎しみと愛と、怒りと悲しみと、自分という人間にすら
でも。
武蔵のそばに、朱実のすがたがあるうちは、自分を主張できないお通であった。もの狂わしいほど、体じゅうの血しおが嫉妬の火と変じながら、なお理性の幾分かが、
――はしたない。
と、必死にたしなめて、
――冷たく、冷たく、冷たく。
と、自己の行為しようとする意思を、みなふだんの女の修養というものの下へじっと抑えつけてしまうのだった。
しかし、朱実が去ると、彼女はもうそういう
人生の道はいつも、一歩が機微である。また、なにかの場合に、ふだんの常識さえあれば、分りきっていることを、ふと、心へ間違いを映しとってしまうためにその一歩が、十年のまちがいになったりする。
武蔵の影を見失ったために、お通は、お杉隠居に出会ってしまった。元日なのに、きょうはなんという
――夢中で彼女は三、四町ほど逃げた。ふだんでも、怖い夢を見たと思うと、その中にはきっと、お杉の顔があった。その顔が、夢でもなく、追って来るのである。
息がつづかなくなった。
お通は振向いてみた。
ほっとその途端に初めて
今に城太郎が、腰の木剣を抜くかもしれない――必然やるだろう。そうすれば、隠居も
お通は、あの
「アア、どうしよう」
ここはもう七条の
城太郎は救いたいし、お杉隠居のそばへ寄るのは怖ろしいし、彼女はうろうろするよりほかなかった。
「くそ、くそばば」
城太郎は、木剣を抜いた。
木剣は抜いたがさて、自分の首根ッこは、隠居の
「この
隠居は、三つ
(待てよ)
隠居が思うには、これはどうもまずい。老婆の脚で追いかけたり、力ずくで争っているから
で――隠居は
「お通よ、お通よ」
手をあげて、
「――のう、お通
そう聞くと、彼方に立っているお通はまだ疑わしげな顔していたが、隠居の
「ほんとかい、ほんとかい、おばば」
「オオ、あの
「じゃあ、おいらが、お通さんを呼んで来るから、この手を、離してくれ」
「おっと、そんなこというて手を離したら、この婆へ木剣をくれて、逃げる気であろうが」
「そんな卑怯なまね、するもんか。お互いに、思い違いで喧嘩しちゃ、つまらないからさ」
「では、お通
「おばば、そんなに文句が長いと、覚えきれないよ」
「それだけでよい」
「じゃ、離しておくれ」
「よう、いうのじゃぞ」
「わかった」
城太郎は、お通のそばへ、駈けて行った。そして、隠居のことばをそのまま、彼女に伝えているらしかった。
「…………」
お杉隠居は、わざと見ない振りをして、河原の岩に腰を下ろした。
(来るか? 来ないか?)
と、お通の様子を、隠居は、その魚の影より
お通は、疑いぶかく、容易に近づいて来なかったが、城太郎が、頻りといったのであろう、やがて
心のうちで、隠居は、
(もうこっちのもの)
と、思ったことであろう。長い前歯を唇にほころばせて、にたりと笑った。
「お通」
「……おばば様」
お通は、河原へかがみ込んで、老婆の足もとへ指をついた。
「ゆるして下さい……ゆるして下さい……もう今となっては、なにも、いい訳はいたしませぬ」
「なんのいのう」
お杉隠居のことばは、むかしのように優しく聞えた。
「元々、又八めが悪いのじゃ。いつまでもそなたの心変りを恨んでいようぞ。このばばも、一時は、憎い嫁とも思うたが、もう、心では水にながしている」
「では、かんにんして下さいますか。わたしのわがままを」
「……じゃが」
隠居は、ことばを濁して、彼女とともに、河原へしゃがみ込んだ。お通は、川砂を指でほじくっていた。冷たい砂の表面を掻き掘ると、その穴から、
「そのことは、母のわしから答えてもよいがの。ともあれ、又八という者と、いったんは
「……え、え」
「どうじゃ、お通、会っておくれるか。そなたと、又八と並べておいて、このばばから、きっぱりと伜にいい渡そうではないか。――さすれば、意見の一つもいうて、このばばの、母としての役目もすむ。立場も立つ」
「はい……」
きれいな川砂の中から、
城太郎は、蟹をつまんで、お杉隠居のうしろへ廻り、隠居の小さい
「……でも、ばば様、今となってはかえって、又八さんに会わないほうが」
「わしが側について会うのじゃ。会うて、きっぱりしておいた方が、そなたの
「……ですけれど」
「そうしやい。わしは、そなたの
「それにしても、又八さんは、今どこにいるのか、分らないではございませぬか。おばば様は、
「すぐ……わかる……わかるつもりじゃ。なぜならば、つい先頃、大坂表で会うているのじゃ。また、いつもの
お通は、そう聞くと、急に、不気味な気もちに襲われた。それだけに、お杉隠居のすすめることばが、道理のように思われるし、また急に、この息子にめぐまれない
「おばば様、ではわたしもご一緒に、又八さんを捜しておあげいたしましょう」
お杉は、砂をいじっている彼女の冷たい手を握りしめ、
「ほんにかいの?」
「ええ。……ええ」
「では、ともあれ、わしの
お杉隠居は、そういって起ちかけながら、襟くびへ手をやって、
「ええ、なんじゃと思えば、いやらしい」
隠居が身ぶるいしながら、指先へブラ下がった小蟹を振り飛ばした様子のおかしさに、城太郎は、お通のうしろで、クスリと口を抑えた。
隠居は、気づいて、
「
と、白い眼で、城太郎をねめつける。
「おいらじゃない。おいらのせいじゃないよ」
城太郎は、
そして上から、
「お通さん――」
「なあに」
「お通さんは、おばばの
お通が返辞をしないうちに、隠居がいった。
「そうじゃ、わしの
「アア、おいらは、烏丸のおやしきへ先へ帰っているぜ。お通さんも、用がすんだらはやく帰っておいで」
先へ走りかけると、お通は、急に心細くなったものか、
「お待ち、城太さん」
河原から上がって、彼を追うと、お杉隠居も、もしお通が逃げる
そのわずかな間に、二人は、話し合った。
「ネ、城太さん、こんなわけになって、私はあのおばば様と、
「アア、いつまでも、待っているよ」
「そして……その間に、私も心がけるけれど、武蔵様のいらっしゃる所をさがしてくれません? ……お願いだから」
「いやだぜ、さがし当てるとまた、牛車の蔭へかくれて出て来ないんじゃないか。……だから
「わたしはお馬鹿ね」
お杉隠居は、すぐ後から来て、二人の間へ入ってしまった。隠居のことばを信じぬいているにしても、お通は、この
以前の五条大橋の
「武蔵、はてな」
「――武蔵などという兵法者がいるかしらて」
「聞いたこともないが」
「だが、吉岡を相手に、この通り、晴がましい試合をする程だから、相当な兵法者には違いない」
高札の前は、明け方にまさる人だかりだった。
お通は、ぎくとして、立ち
お杉隠居も、城太郎もそれをながめていた。魚の渦のように、群衆は武蔵武蔵という