木曾路へはいると、随所にまだ雪が見られる。
峠の
だがもう畑や往来には、浅い緑がこぼれている。季節は今、なんでも育つ
まして城太郎の胃ぶくろと来ては、いよいよ、育つ権利を主張する。この頃殊に、髪の毛が伸びるように、背の寸法までが伸びそうに見えて、将来の大人ぶりも思いやられる風がある。
もの心つくと、世間の波へ
(なんだってこんな子に、こう
と、ため息ついて、睨んでやることもある。
しかし
そういう横着と、今の季節と、飽くことを知らない胃ぶくろが、行く先々、食べ物とさえ見れば、
「よう、よう、お通さんてば。あれ買っておくれよ」
と、彼の足を、往来へ釘づけにしてしまう。
先ほど、通りこえた
「これだけですよ」
念を押して、買って与えたが、
「お通さん、お通さん。干し柿が下がっているぜ。干し柿喰べたくないかい?」
そろそろ謎をかけ始める。
牛の背に乗って、牛の顔のように、お通が聞えない振りをしているので、
「休もうよ、そこらで――」
と、また始め出した。
「ね、ね」
こう鼻で
「よう、ようっ。
こうなっては一体、ねだっているのか、お通を脅迫しているのか、分らない。彼女の乗っている牛の手綱は、城太郎の手に曳かれているため、彼の歩き出さぬうちは、どう
「いい加減におしなさい」
遂に、お通も意地になってしまう。城太郎と共謀して、往来の地面を
「ようござんす。そんなに私を困らすなら、先へ歩いていらっしゃる武蔵様へ、いいつけて上げるから――」
そして彼女は、牛の背から降りそうな真似をしたが、城太郎は笑って見ている。止める真似もしないのである。
城太郎は、意地わるく、
「どうするの……?」
彼女が、先へ行く武蔵へ、いいつけに行かないことは、百も承知の顔つきでいう。
牛の背から降りてしまったので、お通は、仕方なしに、
「さ、はやくお喰べなさい」
と、黄粉餅屋の陰へはいって行く。
城太郎は威勢よく、
「餅屋のおばさん、二盆おくれ――」
呶鳴っておいてから、軒先の
「わたしは喰べませんよ」
「どうしてさ」
「そんなに喰べてばかりいると、人間が
「じゃあ、お通さんのと、二盆喰べてしまうぜ」
「――まあ、呆れた子」
なんといわれようが、喰べているうちは、耳のないような城太郎の姿である。
がらにもない大きな木剣が、
「はやく喰べてしまいませんか。よそ見などしていないで」
「……おや?」
城太郎は、盆に残っている一つを、あわてて口へ
「もういいんですか」
「待ちなよ」
「まだなにかねだるつもり?」
「今、
「嘘」
お通は信じない。
「――こんな所を、あの人が通るわけがないではありませんか」
「ないかあるか知らないけれども、たった今、
「……ほんとに」
「嘘なら呼んで来ようか」
――飛んでもないことである。又八という名を聞いただけでも、彼女はまた、元の病人へ帰ったように、顔の血がさっと
「いいよ、いいよ、心配しないでも、もし何かして来たら、先へ歩いている武蔵様のとこへ駈けて行って、呼んで来るから」
その又八を怖れて、いつまでもここにいれば、自分たちより何町か先へ歩いている武蔵とも、自然かけ離れてしまうことになろう。
お通は、再び牛の背に腰かけた。まだ、病後の体は決してほんとではない。ふと、今のようなことを聞いても、動悸がなかなかしずまらない。
「ね? お通さん。おいらには、ふしぎでならないよ」
ふいに城太郎はこういって、彼女の
「――何がふしぎかっていえばさ、
お通が答えないので、彼はまた、
「どうしてなのさ、え? お通さん。――道も離れて歩くし、晩もちがった部屋に寝るし……喧嘩でもしたのかい?」
――またよけいなことを訊く。
喰べ物のことをいわなくなったと思うと、今度はませた口で休みなくお
(子供のくせに)
と、お通は、胸に
こうして牛の背をかりて旅の出来るほどには、体のぐあいも
あの
思うたびに、今でもそれが彼女の耳へ
(なぜ私は?)
と彼女はあの折に、武蔵が自分へ迫って求めた烈しいそして率直な欲望を、自分もまた、満身の力で
(なぜか? なぜか?)
と心の中で悔いてみたり、分ろうとする努力をしてみたり、頭から離れぬものとなっているが、果ては、
(男というものは、誰でもあんなことを、女に
と、悲しくなり、浅ましくなり、年久しく独り抱き秘めていた恋の聖泉は、この旅先の女滝男滝の山を越えてから、その滝水のように狂おしく烈しく胸を揺りつづけるものと変っていた。
そして、もっと彼女自身、分らなくなっていることは、武蔵の強い抱擁を
勿論、あれからというものは、変に気まずくなって、お互いに口も滅多にきかないし、道中も並んでは歩かない。
しかし先へ行く武蔵の足も、後から来る牛の歩みに合せて、初めの約束の如く、江戸表まで共に出ようといった言葉を破棄してしまう考えはないらしく、城太郎のため時々道草をして遅くなっても、何処かで必ず待っていてくれた。
五町七辻の福島を
「ふげんて、なんだろう。――お通さん、ふげんて何のこったい?」
と、城太郎がいきなり訊ねだした。
「今ネ。あそこの茶屋に休んでいた坊さんだの旅の者が、お通さんを指して、そういったんだよ。――牛に乗ったふげんみたいじゃのう……ってね」
「
「普賢菩薩のことか。じゃあおいらは、
「食いしん坊の文殊様ですか」
「泣き虫の普賢様となら、ちょうど似合うだろう」
「また!」
とお通が、嫌がって顔を
「文殊と普賢菩薩は、どうしてあんなに並んでるんだろう。男と女でもないくせに」
と、奇問を発する。
お寺で育ったお通であるから、それについてなら、説明はできるが、城太郎の執拗な反復を
「文殊は知慧を現し、普賢は
といった時、いつのまにか何処からか、
「おいっ」
と、
さっき福島で、城太郎がちらと見かけたという、本位田又八であった。
そこらで待ちうけていたものに違いない。
――卑劣な男。
お通は彼の顔を見るや、すぐこみあげてくる
「…………」
又八は又八で、彼女のすがたを見ると、愛憎こもごも、血を駆け
まして彼は、武蔵とお通が、京都を出てから連れ立っていた姿を見ている。その後、口もきかずよそよそしく歩いているのも、
「降りろ」
命じるように、彼は、牛の背に
「…………」
お通には答える言葉もない。
答えるならば、
(今になって何の用が――)
という以外、挨拶がないではないかと、黙っている眼のうちに、いよいよ、彼に対する憎悪と
「おいっ、降りないか!」
又八は、二度さけんだ。
この息子も、あのお杉婆という母親も、村にいた頃からの口ぐせを未だに持って、もう許嫁でもなんでもない彼女へ、権ぺいに
「なんでございますか。わたくしには降りる用はございませんが」
「なに」
又八は、側へ来て、その
「なんでもいいから降りろっ。お前にはなくても、俺には用があるのだ」
声で脅すように、往来の
――と、それまでは、黙って見ていた城太郎が、牛の手綱を捨てて不意に、
「嫌だっていうもの、無理じゃないか!」
又八に負けない声を出していっただけならよいが、手を出して、相手の胸いたを突いたから納まらない。
「おやっ――
又八は、踏み
「なんだか、見たような鼻くそだと思ったら、てめえは北野の酒屋にいた小僧ッ子だな」
「大きなお世話だ。自分こそあの頃は、よもぎの寮のお甲っていうおかみさんに、いつも叱られて、
これは又八に取って何をいわれるより痛かったに違いない。ましてお通をそこにおいてはである。
「このチビ」
「おいらが鼻くそなら、自分なんか何だい。鼻の下の長い
もう勘弁ならぬという顔を示して、又八が近づくと、城太郎は牛を楯にして、二、三度、お通の下をぐるぐると逃げ廻ったが、とうとう襟がみをつかまれてしまい、
「さあ、もう一遍いってみろ」
「いうともッ」
長い木剣を半分まで引き抜いた時、彼の体は、並木の外の
藪の下は、
「……おやッ?」
往来を見廻すと、牛は、お通を背に乗せたまま、重い体を
その手綱を引っ張りながら、手綱の一端をムチに打ち振り、共に砂を上げて、駈けてゆく影は、又八に相違ない。
「ちっ、畜生」
彼の血は、それを見るや、一時に頭へのぼって、自分の責任感と小さい力のみを奮い起し、急を他へ告げて、はやく策をとることを忘れてしまった。
動いているのであろうが、白い雲の帯は、動いているとも目には見えない。
(はて。おれは何を考えていたろう?)
武蔵はふと、われに返って、わが身を見直した。
眼は山を見ながら、心はそこになく、お通のことばかりがつき
彼には解けないのだ。
いくら考えてみても、
やがては、腹が立ってしまうのだった。なぜ彼女へ率直に迫ったことがいけないか。その火を自分の胸から呼び出したのは彼女ではないか。自分は、自分の情熱の
あの後の
(女など、振り切って、なぜ先へ行ってしまわぬか!)
武蔵は、自己に命じてみたが、それはただ、おろかな自分に、
江戸表に出て、
(――どうなるのだ、こうして二人は。おれの剣は!)
山を仰いで、彼は唇を噛んでいた。余りにも小さい自分が恥じられてくる。そうして、駒ヶ岳と
「まだ来ない」
それは、もう
今夜は
ここの丘から見ていると、十町も先の森まで、一
「はてな? ……。関所でなにか暇どっているのだろうか」
捨てて行こうかとすら惑いながら、その影が、うしろに見えなくなれば、武蔵はすぐ心配になって、一歩も先へは出られなかった。
そこの低い丘から彼は駈け降りた。この地方に多い放し飼いの野馬が、彼の影に
「もしもし、お侍さま。あなたは牛へ乗った
彼が、街道へ出るとすぐ、往来の一人が、そういいながら側へ寄って来た。
「えっ、その者に、なにか間違いでもござったか」
先のことばを聞かないうちに、虫の知らせか、武蔵は早口に問い返した。
さっき関所茶屋から程遠からぬ場所で、本位田又八が、お通の牛に
丘にいたため、それを知らずにいたのはかえって武蔵一人であった。
その武蔵は今、
――もし彼女の身に何らかの危急が襲ったとすれば、間に合うかどうか。
「亭主、亭主」
関所の
「なにかお忘れ物でも?」
と、ふりかえった。
「いや、
「ああ、牛に乗った
「それだ。その二人を、
「見ていたわけではございませぬが、往来の噂では、この店の首塚のある所から横道へ曲って、
その指さす薄暮の中へ、武蔵の影はもう宙を飛んで
その下手人が又八であるなどとは、彼には想像もできなかった。いずれこの道中で後から追いついて来るか、江戸表で落合うかすることにはなっているが、いつぞや
(きょうまでのことは水に流して)
と手を握り、
(貴様も真面目になって、希望を持て)
と武蔵が励ませば、又八も目に涙すらたたえて、
(勉強する。きっと真人間になって
と、あれほど
その又八が? ――などとどうして疑われようか。
疑えば、戦後の各地に、職を求めながら職にも就けず、結局、浮浪の徒とよばれている牢人の中のよからぬ者か。或は、世の中の推移にかかわらず世間の抜け目ばかり
武蔵としては、そんなふうにしか下手人を考えられなかったが、それとて闇をつかむようなもので、
第一、野婦之池とか聞いたが、その池らしい所へもなかなか出て来なかった。そして田も畑も森も、ゆるい傾斜に乗って、道も少しずつ登り気味なのを考えると、すでに駒ヶ岳の
「道を間違えたな?」
と、思った。
行く手を見失ったように――そうして広い闇を見まわしていると、駒ヶ岳の巨大な壁を負って、
近づいて、そこの地内を覗いて見ると、武蔵にも見覚えのある
「……お? あの
ほっとして武蔵は胸をなで下ろした。
この
だが。
この防風林の中の百姓家はいったい何者の
で、しばらくの間、影を
「おっ
次の気配に耳を澄ましていると赤々と火の影の揺れているのは、
しかし、すぐその音が止んだのは、おっ
隅の小屋で、なにか働いていた息子は、やがてそこを閉めながらまた、
「今、足を洗うからすぐ飯が喰えるようにしといてくれえ、いいかあおっ
草履を持って、
息子は牝牛の鼻づらを撫でながら、いっこう返辞もない母屋の人へ向ってまた大きな声でいう。
「おっ
その言葉も、外に
農家としては、かなり広そうだし、壁造りを見ても、旧家に間違いないが、小作もいない女気もない、
「……?」
明いている横の小窓。その小窓の下の石を踏み台にして、武蔵は、母屋の内をまずそっと
なにより先に、彼の眼を射たのは、黒い
――さては。
と、武蔵は思い合わせて、よけいに疑いを深くした。
さっき、隅の小屋から足を洗いに飛び出した若い男の
腰きりの野良着に、泥まみれな
(こいつ
と感じないでいられないものを武蔵は先に見ていたのである。
案のじょう、母屋には、百姓の持つべきでない
「……あっ」
武蔵は、
「誰じゃ?」
「権之助っ。――小屋は閉めたか。また、
――来たら幸い。
まずあの
老婆の息子らしい勇猛そうなその男のほかに、いざとなれば、まだ二、三名の敵は飛び出すかも知れないが、彼さえ取ッちめれば、物の数ではない。
武蔵は母屋の中の老婆が、権之助権之助と呼び立てると共に、小窓の下を離れて、この家を囲む立木の一部に身を隠していた。
するとやがて、
「どこにっ?」
と、権之助とよばれた息子は、裏から大股に素ッ飛んで来て、もいちど
「おっ
と呶鳴って訊く。
小窓に、老婆の影が立って、
「その辺で、今
「耳のせいじゃないか。おっ母はこの頃、眼も悪くなったし、耳もとんと遠くなったからなあ」
「そうでない。誰か、窓から家の内を覗き見していたに違いない。煙に
「ふうん……?」
権之助は、十歩二十歩、その辺を、あたかも城郭でも見廻るように歩いて、
「そういえば、何だか、人間臭いぞ」
と、
武蔵が
それと、足のつま先から胸いたにかけて、ちょっと当り難い構えを備えているので、それも不審に思い、何を持っているのか
その棒も、そこらの
「やっ、
ふいに棒は風を呼んで、権之助の背から前へ伸びた。武蔵はその唸りに吹かれたように、棒の先から、やや斜めに、身を移して立った。
「連れ人を引取りに来た」
――相手が、自分を
「街道からこれへ
と、重ねていった。
この辺の塀といってもよい駒ヶ岳の雪渓から、里とはひどく温度の差のある冷たい風が、星の下を、時折そよそよ忍んでくる。
「――渡せッ。連れて来いっ」
三度めである。
武蔵がその雪風よりも鋭い声で斬るようにいうと、
「この
「おう、連れもない、
「な、なんだとッ」
権之助の体から突然、四尺余の棒が噴いて出た。――棒が手か、手が棒か、その
武蔵は避けるより仕方がなかった。驚くべきこの男の練磨と
で、一応、
「おのれ、
警告を与えておいて、自分は数歩
「なにを、
と
武蔵は相手から跳び開く間髪ごとに、二度ほど、刀の柄へ手をやりかけたが、その二度とも、非常な危険を感じて、遂に、抜き放つ
なぜならば、手を柄にかける一瞬でも、敵の前に
(この土民めが何者ぞ)
と、敢て誇れば、当然、棒の一撃にのめるであろうし、
それにまた、もう一つ武蔵を自重させた理由は、相手の権之助なる人間が、一体何者か、咄嗟に、見当がつかなくなったことである。
彼の振る棒には、一定の法則があるし、彼の踏む足といい、五体のどこといい、武蔵から見て、これは立派な
――こう説明してくると武蔵にも権之助にも、お互いが敵を観る
――おおうっ。
と、満身から息をしたり、
――えおおうッ!
と、
「この、どたぐそ」
とか、
「かったい坊め」
とか、口汚い方言で悪たれつきながら、打ちこんで来るのであった。
いや、棒に限っては、打ち込むという言葉は当らない。――それは打ち込みもするし、
また、太刀は
「
不意に、その時、母屋の窓から、彼の老母がこう叫んだ。――武蔵が敵に感じていることを、老母も息子の身になって、同じように感じているのであった。
「でえじょうぶだよっ、おっ
権は、すぐ横の小窓から、母が案じながら見ていることを知って、その勇猛に拍車をかけたが、一
「待たッしゃい! 牢人」
わが子の一命が今や危うしと思ったか、小窓に
その時、老母の髪の毛が逆立って見えたのは、肉親として、さもある筈のところであろう。
息子の権が投げられたことは、この老母には、非常な意外であったらしい。――投げつけた武蔵の手は当然、次の
だが、そうではなくて、
「おう、待ってやる」
武蔵は、権之助の胸へ馬のりになり、なお、棒を離さない右の
「……?」
はッと、武蔵はしかしすぐ眼を
なぜならば、老母の顔は、もうその窓に見えなかったからである。――組み伏せられながらも権之助は、絶えず武蔵の手を
それも決して、油断はできない上に、窓から消えた老婆の影は、すぐ
「何のざまじゃ、この不覚者が。母が助太刀して取らす、負くるな」
――窓口から待てという言葉だったので、武蔵は必ずや老母がこれへ来て、
見れば、老母の小脇には、
「ここな痩せ牢人めが、土民とあなどって、
と、いう。
背中へ迫られることは武蔵にとって苦手であった。組み敷いているものが生き物なので、自由に向き直るわけにゆかないのだ。権之助はまた、背中の着物も皮膚も破れるであろう程、地上を
「なアに、こんなもの。――おっ
「
と、老母はたしなめて、
「元よりこのような野宿者に負けてよいものか。御先祖の血をふるい起せ。
すると、権之助は、
「ここに持っている!」
いいながら、首を
すでに棒を離して、両手も下から働きかけ、武蔵をして何の技をする余地も与えないのだ。加うるに老母の影は、
「待てっ、老母」
遂にこんどは武蔵からそういった。争う愚が分ったからである。これ以上のことは、斬られるか、どっちかが死を受けなければ解決しない。
それまで行っても、お通が救われるとか、城太郎が助かるとかいうならよいが、その点はまだ疑いに過ぎないのである。――ともあれ一応穏やかに事情を打明けてみるのがいいのではあるまいか。
そう考えたので、武蔵はまず老母に向って、
「権。どうしやるか」
と、組み伏せられている息子へ、和協の申し
「やれやれ、危ないことではあった。とんだ行き違いからあのような――」
さも、ほっとしたように、老母はそこへ膝を折ったが、共に坐りかけた息子を抑えて、
「これ権之助」
「おい」
「坐らぬうち、そのお侍をご案内して、念のために、この
「そうだ、おれが街道から、女など
上がれ――と招ぜられたまま、武蔵はわらじを解いて、もう炉の前に席を占めていたが、母子の者の共々なことばに、
「いやもう、ご潔白は分りました。お疑い申した罪は、ご勘弁ねがいたい」
詫び入るので、権之助も間が悪くなって、
「おれも良くなかった。もっとそっちの用向きを
と、炉べりへ寄って、あぐらを組む。
だが武蔵としては、こう打解けたところで訊ねたい疑問がまだある。それは
その牝牛が、どうして、この
「いや、そんな
権之助はそれに答えていう。――実は自分はこの辺に田を少しばかり持って百姓をしている者だが、夕方、

沼がふかいので、もがく程、牛は沼に
「牛一匹あれば、ヘタな人間の半人前は野良仕事をするので、これはおれが貧乏で、おっ
話が分ってみると、権之助なるこの若者は、いかにも粗朴な
「じゃが旅のお侍、さだめしそれは心配なことでござろう」
と老母はまた老母らしく側から案じて、息子にいう。
「権之助、はよう晩飯を掻っこんで、その気の毒なお連れを一緒に探してあげい。野婦之池あたりにうろついていてくれればよいが、駒ヶ岳のふところへでもはいりこんだら、もう
ぶすぶすと、
「旅の者」
権之助は、手に持つ松明を挙げて後から来る武蔵を待ちながら――
「気の毒だが、どうしても知れねえのう。これから野婦之池までゆく途中、もう一軒、あの丘の雑木林のうしろに、
「ご親切に、
「そうかも知れねえ。女を
もう
駒ヶ岳の裾野――
せめて、城太郎の消息でも知れそうなものだが、誰一人、そんな者を見かけたという者もない。
わけてお通の姿には特徴があるから、見た者があればすぐ知れるわけだが、どこで訊いても、
「はてねえ?」
と、気永に首をかしげる土民ばかりであった。
武蔵は、その二人の安否に胸を
「とんだ迷惑をおかけ申したのう。そのもう一軒を尋ねてみて、それでも知れぬとあれば、ぜひがない、
「歩くぐれいなこと、夜どおし歩いた所で、何のこともねえが、いったいその
「されば――」
まさか、その
「身寄りの者です」
と、いうと、そういう肉親の少ない身を淋しく考え出してでもいるのか、権之助は無口になって、ひたすら野婦之池へ出るという雑木の丘の細道を先に歩いて行く。
武蔵は今、お通と城太郎を案じる気持で、胸もいっぱいになっていたが、その中にも心のうちでは、この機縁を作ってくれた運命の
もしお通にその災難がかかって来なかったら、自分は、この権之助に会う機会はなかったろう。そしてあの棒の秘術も見る折がなかったに相違ない。
流転の中で、お通と行きはぐれてしまったことは、彼女の生命につつがない限り、やむを得ない災難と思うしかないが、もしこの世において、権之助の棒術に出会わずにしまったら、武芸の道に生涯する自分として、大なる不幸であったろうと思う。
――で、折もあらば、彼の素姓を問い、その棒術についても深く
「旅の者、そこに待っていろ。――あの家だが、もう寝ているにきまっているから、おれが起して訊いて来てやる」
木々の中に沈んで見える一軒の藁屋根を指さすと、権之助はひとりで、そこらの
程なく戻って来た権之助が、武蔵へ向って告げることには。
どうも雲をつかむような返辞ばかり、ここに住む
その内儀さんの話によると、もう星の白い宵の
手も顔も泥まみれのままで、腰には木刀を差し、
(代官所はどこにあるか教えておくれ)
となお泣いていう。
代官所へ何しに行くかと、根を掘って訊くと、
(連れの者が、悪者に
との答え。
それならば代官所へ行ってもむだなことだ。お役所という所は、誰か偉い人が旅で通るとか、
殊に、女が
それよりは藪原の宿一つ先へ越して、奈良井まで行くとよい。町の四ツ辻だからすぐ知れる所に奈良井の
「こういってやると、その木刀を差した小僧は、泣きやんでまた、後も見ずに駈けて行ったということなんだが――もしや連れの城太郎とかいう子供が、それじゃあるめえか」
「オオ、それです」
武蔵は、城太郎の姿を、見るが如く想像しながら、
「――すると、拙者が探しに来たこの方角と、まるで違った方へ行ったわけですな」
「それやあ、
「何かと、お世話でござった。それでは早速、拙者もその奈良井の大蔵とかを、尋ねて参ろう。――お蔭で
「どうせ途中になるから、おれの家へ寄って、
「そう願おうか」
「そこの野婦之池を渡って、池尻へ出ると、半分道で
そこから少し降りてゆくと、
なぜなのか、この地方にそう見えない
水の上を行く
水に映る
「……オオ?」
お通がそれを知った時、
「やっ、誰か来る」
と、
「どうしよう? ……そうだ、こっちへ来い。やいっ、こっちへ来やがれ」
そこは
「いやです」
お通は動くまいとする。
堂の裏手にひきすえられて、
「立たねえか」
又八は、手に持っている
打たれる程、お通は意志が強くなる。もっと打ってみろと望みたくなる。……黙って又八の顔を
「歩けよ、おい」
と、いい直す。
それでもお通が起たないので、今度は猛然と、片手で襟がみをつかみ、
「来いっ」
ずるずると、地を引き摺られながらお通が、池心の火へ向って、悲鳴をあげようとすると、又八はその口を手拭で縛って、引っ担ぐように、堂の中へ
そして、
「……あ。いい按配」
ほっとして、それには胸を撫でたが、又八の気持はまだ落着きを得なかった。
お通の体は今、自分の手の中にあるが、お通の心はまだ自分の物となりきれない。心のない肉体だけを持ち歩いていることの実に大変な辛労であるということを、彼はつぶさに宵から経験した。
無理に――暴力をもっても、彼女のすべてを、自分のものにしてしまおうとすると、お通は死の血相を見せるのであった。舌をかみ切って死のうとするのである。それくらいなことはきっとやるお通であることは幼少から知っている又八なので、
(殺しては)
と、つい盲目な力も情慾も
(どうして俺をこんなに嫌い、武蔵を飽くまで慕うのだろうか。――以前は、彼女の心のなかに、俺と武蔵はちょうどあべこべであったものを)
又八は、分らなかった。武蔵より自分の方が、女に好かれる素質を持っているのに――という自信がどこかにある。事実彼は、お甲を始め、幾多の女に、そうした経験がある。
これはやはり武蔵が、最初にお通の心を誘惑し、手なずけてからは、折あるごとに、自分を悪くいって、お通につよい嫌悪を抱かせるようにしたためにちがいない。
そして自分に出会えば、自分にはいかにも友情の深いようなことをいって――
(俺は、お人好しだ。武蔵に
と、彼は木連格子に
今になって思いあたる――
あの佐々木小次郎が、自分のお人好しを
(尻の毛まで抜かれるぞ)
といった言葉。
それが今、彼の心にぴったりする忠言として、
同時に、武蔵に対しての、又八の考えは一変した。これまでも、何度となく
「よくも俺を……」
と、心の底からわき上がる
人を憎んだり
けれど今度という今度こそは、武蔵に対して、七生までの
そもそも、あいつが自分を見るたびに、いかにも
その泣き落しにのせられて、涙をこぼしたかと考えると、又八は、
(世の中の善人なんていう者は、みんな武蔵のような
何事につけ、いつもよく出す又八の根性ではあったが、今度の場合に限っては、彼が生れて以来胸に抱いた精神力のうちの最大のものであった。
――どんと、ひとりでのように、彼の足は、後ろの
「――ふん、泣いてやがら」
雨乞堂の中の暗い
「お通」
「…………」
「やいっ。……さっきの返辞をしろ、返辞を」
「…………」
「泣いていちゃ分らねえ」
足をあげて、蹴ろうとすると、お通は早くもそれを感じて、肩を
「あなたへする返辞などはありません。男らしく、殺すならお殺しなさい」
「ばかをいえ」鼻で
「おらあ今、肚を決めた。てめえと武蔵とが、俺の生涯を誤らせたのだから、おれも生涯、てめえと武蔵とに、
「うそをおいいなさい。あなたの生涯を間違えたのは、あなた自身です。それから、お甲という女のひとではありませんか」
「何をいやがる」
「あなたといい、お杉ばば様といい、どうして、あなたの家のお血すじは、そう他人を
「よけいな口をたたくな。返辞をしろといったのは、おれの家内になるか嫌か、それを一言聞けばよいのだ」
「その返辞ならば、何度でもいたしまする」
「おう
「生きているあいだはおろかなこと、未来まで、わたくしの心に結んだお人の名は宮本武蔵様。そのほかに、心を寄せるお人があってよいものでしょうか。……まして
これ程にいえば、どんな男でも、殺すか、
お通はそういってから、なんだか胸がすいた。そして又八に、どうされてもやむを得ないと観念していた。
「……ウウム、いったな」
又八は、体のふるえを
「それ程、おれが嫌いか。――はっきりしていていいや。――だがお通、おれもはっきりいっておくぜ。それは、てめえが嫌おうが好こうが、俺はてめえの体を、今夜から先は、自分のものにしてしまうということだ」
「……?」
「なにを
「そうです、私はお寺で育ちました。生みの親の顔すら知らない
「冗談いうな」
又八は、
「誰が殺す? ――殺してたまるものか。こうしておくのだ!」
いきなり彼は、お通の肩と左の
――ひいイっ、お通は思わず悲鳴をあげた。
身を

又八は、それでもなお、
「…………」
お通の顔は、月明りでも受けているように、見るまに白くなってしまった。又八はぎょッとして、唇を離し、そして彼女の顔の猿ぐつわを
余りの痛さに、
「……おいっ、堪忍しろ。……お通、お通」
身を揺すぶると、お通は、われにかえったが、途端に、ふたたび体を床に転ばせて、
「痛い。……痛い。……城太さアん、城太さあん! ……」
と、うつつに叫び出した。
「痛てえか」
又八は、自分も蒼白になって肩で息をつきながらいった。
「血は止まっても、歯型の
「…………」
「……止せっ、いつまで、泣いてやがって。気が
祭壇から
誰か? ――とぎょっとしたが、堂の外に見えた人影は、途端にあわてて逃げ
「野郎っ」
と、追い駈けて出た。
捕まえてみると、この附近の土民らしく、馬の背に、穀物の俵を積み、夜を通して、
「べつに、どういう
と、言い訳して、
弱い者にはどこまでも強くなれる又八であるから、忽ち、
「それだけか。――それだけの考えに相違ないか」
と、まるで代官のように威張っていう。
「へい、まったく、それだけのことで……」
と、一方が

「うむ、それなら勘弁してつかわそう。だが、その代りに、馬の背の俵をみんな降ろせ。そして、俵のあとへ、あのお堂の中にいる女を
勿論、こんな無理を押しつける場合は、又八でない人間でも、必ず刀をひねくり返して見せることは忘れない。
又八は、竹を拾って、馬を曳く人間を
「こら土民」
「へい」
「街道すじへ出てはならねえぞ」
「では、どこへお越しなさるのでございますか」
「なるべく、人の通らない所を通って、江戸まで行くのだ」
「そんなことを仰っしゃっても無理でございまする」
「何が無理だ。裏街道を行けばいいのだ。さしずめ、
「それやあ、えらい山路で、
「越えればいいじゃねえか。骨惜しみすると、これだぞ」
と、馬を曳く人間へ、絶えず
「飯だけはきっと喰わせてやるから、心配せずに歩け」
百姓は、泣き声になって、
「じゃあ旦那、伊那までお供いたしますが、伊那へ出たら放しておくんなさいますか」
又八は、かぶりを振った。
「やかましい。俺がいいという所までだ。その間に、変な素振りをしやがると、ぶッた斬るぞ。俺の
道は暗い、山にかかるほど、
馬の背にしがみついたまま、
「又八さん。後生ですから、もうそのお百姓さんを放してやってください。この馬を返してあげて下さい。――いいえ、私は逃げはしませぬ。ただ、そのお百姓さんが可哀そうですから」
又八はなお、疑ぐっていたが、再三再四、お通が訴えるので、遂に、彼女を馬の背から解いて降ろした後、
「じゃあきっと、素直に俺について歩くな」
と、念を押した。
「ええ、逃げはしませぬ。逃げても、
二の腕の
いかなる場所でも場合でも、武蔵は、寝ようと思う時にすぐ眠り得る修養と健康を持っていた。しかしその時間は、至って短かった。
ゆうべも――
権之助の家へ戻って来てから、着のみ着のまま、
けれど昨夜、
――すると。
隣の部屋ではない。もう一間ほど先の
「……おや?」
耳を澄ましていると、泣いているのは、どうやらあの
「おっかあ、それやああんまりだ。おらだって、口惜しくねえことがあるものか。……おらのほうが、おっかあよりも、どんなに、口惜しいか知れねえけれど」
と、言葉も、とぎれとぎれにしか聞き取れない。
「大きななりをして、何を泣く――」
こう
「それ程、無念と思うなら、この後は心を
「はい。……もう泣きませぬ。
「――とは叱りましたが、深く思うてみれば、
「そうおっかあにいわれるのが、なによりおらあ辛い。
何事を歎いているのかと、初めは武蔵も
武蔵は、
昨夕の間違いは、もうお互いの間違い事と、心に済ましているのかと思えば、それはそれとして、武蔵に負けたという点を、ここの
「……怖ろしい負けず嫌い」
武蔵は
見ると、そこは、この家の仏間であった。老母は仏壇を背にして坐り、息子はその前に泣き伏している。――あの逞ましい大男の権之助が、母の前には他愛もなく顔をよごして泣いている。
武蔵が、ふすまの陰から見ているとも知らず、老母はその時また、何が気に
「なんじゃと、……これ権之助、今、なんといやったか」
ふいに、声を励まして、息子の
年来の志望であった武道を捨てて、
「なに。百姓で終るとか」
息子の襟がみを膝へ引き寄せると、三ツ児の尻でもたたくように、彼女は、歯がゆそうに、権之助を叱るのだった。
「どうぞして、そなたを世に出し、まいちど家名を
老母は、ここまでいうと、子の襟がみを抑えたまま、声も
「不覚を取ったら、なぜその恥をそそごうとは思わぬか。幸いなことには、あの牢人はまだこの家に泊っておる。眼をさましたら改めて手合せを望み、その
権之助は、やっと顔を上げたが、
「おっかあ、それが出来るほどならば、おらが何で弱音を吐くものか」
「常の
「ゆうべも、半夜のあいだ、あの牢人を連れ歩くうち、絶えず、
「そなたが、
「いいや、そうでねえ。おらの体にも
「
「でも、よくよく考えてみると、今日までのことは皆、おらの独りよがりだった。あんな未熟で、どうして、一流を
「今まで、多くの人々と手合せしても、一度として、負けたということのないそなたが、きのうに限って敗れたのも、思いように依っては、そなたの慢心を、御岳の神がお叱りなされて下されたのかも知れぬが、そなたが杖を折って、わしに不自由なくしてくれても、わしが心は、美衣美食で楽しみはせぬ」
そう
ふすまの陰で始終の事を聞いてしまった武蔵は、
(さて、困ったことが……)
と、当惑しながら、そっと去って、ふたたび自分の
どうしたものだろう?
やがて、自分が顔を見せれば、必ず
試合えば、自分は、きっと勝つ。
武蔵はそう信じる。
けれども、今度もまた、自分に敗れたなら、あの権之助は、今日まで誇っていた
また、わが子の達成を、唯一の生きがいとして、貧困の中にも子の教育を忘れずに今日まで来た――あの母親の身になったら、どんなに落胆するだろうか。
「……そうだ、この試合は、
縁の戸をそっと開けて、武蔵は外へ出た。
もう朝の
(おい、達者で暮せよ)
そんな気持がふと牛に向ってもわくのであった。武蔵は防風林の垣を出て、駒の裾野の畑道を、もう大股に歩いていた。
片方の耳はひどく冷たいが、今朝は
仰ぐと、雲が遊んでいる。
ちぎれちぎれな無数の白い綿雲。各


「――
彼の姿は奈良井の宿場の中に見かけられる。軒先の
その熊の胆屋の一軒。なんの意味か「大熊」と看板に書いてある
「ものを訊ねたいが」
と武蔵がのぞく。
後ろ向きに釜の湯を、自分で汲んで呑んでいた熊の胆屋のおやじが、
「はあ、何でござりますか」
「奈良井の大蔵殿というお人の店はどこであろうか」
「ああ、大蔵殿のお店ならば、これからもう一つ先の辻で――」
と、湯呑み茶碗を持ったまま、おやじは、
「これこれ。こちら様はの、大蔵殿のお店を尋ねて行かっしゃるという。あのお店構えは、ちょっと分らんによって、前まで、お連れ申して
と、いいつけた。
お百草の
「お侍さん、ここが奈良井の大蔵様のお宅でございますよ」
案内してくれた熊の胆屋の丁稚は、なるほど、側まで連れて来て貰わなければそれとも分るまいと思われる――目の前の
店と聞いていたが、
「ご免」
武蔵はそこを開けていう。
中は暗い。そして、醤油屋の土間のように広くて、冷たい日陰の空気が顔に触れた。
「どなたさまで――」
と、帳場
「それがしは宮本と申す牢人者ですが、連れの城太郎――ようやく十四歳ほどの
武蔵のことばが終らないうちに、番頭の顔には、ああその子供か――という
「それはそれは」
と、丁寧に敷物をすすめたが、辞儀をした後の返辞は、武蔵を失望させるものだった。
「それは、残念なことをいたしましたわい。その子供なら、ゆうべ
(この街道のことなら何でも奈良井の大蔵さんの所へ頼みに行け)
と、武蔵も誰かに教えられた通り、城太郎もまた、お通を
(そいつは
そう見込みはつけたが、つい今朝方まで、八方へ人を派して、捜索したけれど、大蔵の予言のとおり、なんの手懸りも得られなかった。

(どうだ、おれと一緒に歩かないか。そうしたら、
それも、時間にすれば、わずか
と、いかにも気の毒そうに、繰返していった。
二刻の差があっては、いくら急いで来たところで、間に合わなかったことは確実だが、それにしても――と武蔵は残念な気がする。
「して、大蔵殿のお旅先は、いずれでござろうか」
訊ねると、番頭の答えはまた、甚だ
「ご覧の通り、手前どもの店は、表を張っておりませぬし、薬草は山で
「では、お分りにならぬのか」
「とんともう、はっきりと、行く先をいって出た
それから、番頭は、
「まア、お茶をひとつ」
と、一転して、店からそこまで、歩くにもかなりかかるような奥へ茶を取りにはいって行ったが、武蔵は、ここに落着いている気にもなれない。
やがて、茶を運んで来た番頭に向い、主人の大蔵の容貌や年配を訊いてみると、
「はいはい、道中でお会いなされましても、てまえどもの御主人なら、一目でお分りになるに違いございません。お年は五十二におなりでございますが、どうして、まだ屈強な骨ぐみで、お顔は、どちらかといえば
「
「並の方とでも申しましょうか」
「衣服は、どんな物を」
「これは、今度のお旅には、
彼の人柄はそれであらまし分った。なおこの番頭を相手にして話をしていたら
明るいうちにはもう難かしいかも知れないが、夜を通して、
「そうだ。先へ越えて、
そこから塩尻峠の頂までは、なお二里以上はある。武蔵は、息もつかず登りつめた。そしてまだそう
武蔵はふかく眠った。
今、彼の眠っている小さい
そこは高原の一部から、
「おおうい。登って来いよ。富士山が見えるで」
ふいに耳元で人声がしたので、
「ああ、富士山か」
武蔵は少年のように驚異の声を放った。絵に見ていた富士、胸に描いていた富士を、
しかも寝起きの唐突に、それを自分と同じ高さに見出して、
「――ああ」
というため息を胸の中に曳いて、
何を感じたのであろうか、そのうちに武蔵の
――人間の小ささ!
武蔵は
明らかに彼の胸を割れば、一乗寺下り松で、吉岡の遺弟何十名という数を、まったく自己の一剣の下に征服してからは、いつのまにか彼の胸にも、
(世の中は甘いぞ)
と、ひそかに自負の芽が
だが。
たとい剣において、望むがごとき大豪となったところで、それがどれほど偉大か、どれほどこの地上で持ち得る
武蔵は、悲しくなる。いや富士の悠久と優美を見ていると、それが口惜しくなってくる。
「…………」
そして合掌していた。
合わされたふたつの
「…………」
なお、彼は掌をあわせていた。
すると、
――ばか、なぜ人間が小さい。
と、いう声がした。
――人間の眼に映って初めて自然は偉大なのである。人間の心に通じ得て初めて神の存在はあるのだ。だから、人間こそは、最も
――おまえという人間と、神、また宇宙というものとは、決して遠くない。おまえのさしている三尺の刀を通してすら届きうるほど近くにあるのだ。いや、そんな差別のあるうちはまだだめで、達人、名人の域にも遠い者といわなければなるまい。
合掌のうちに、武蔵がそんな
「なアるほど! よく見えらあ」
「お富士様が、このように拝める日は、すくのうござりますよ」
下から這い上がって来た四、五名の旅人たちが、手をかざして、ここの景観を
そしてもし
なぜならば、彼は入念に、この岩山の下の道ばたに、板切れを拾って、それへこう書いて目につく崖に立てかけて置いてあるからである。
奈良井の大蔵どの
御通過のみぎりは
お会い申したく、
上の小祠 にて、お
待ち申しおり候
城太郎の師 武蔵
ところが、往来の多い朝の一刻を過ぎ、高原のうえに陽の高くなる頃まで待っても、似た人も通らないし、彼の立ててきた札を見て、下から声をかける者もない。御通過のみぎりは
お会い申したく、
上の
待ち申しおり候
城太郎の師 武蔵
「おかしいなあ?」
と、
「来ないわけはないが?」
と、どうしても思う。
この高原の嶺を境にして、道は甲州、
奈良井の大蔵が、たとい善光寺
だが、世間のうごきを、理窟で
「……そうだ」
武蔵は、岩山を降りかけた。
その時である。
岩山の下から、
「あッ、いたっ」
と、ぶしつけな呶鳴り方をした者がある。
その声には、殺気があった。おとといの晩、いきなり身をかすめた棒の唸りに似ていた。はっと思いながら武蔵が岩につかまりながら下を
「――客人、追って来たぞ」
こう呼ばわる者は、駒ヶ岳のふもとの土民権之助で、見ると、あの百姓家にいた母親までを連れている。
その老母を牛の背にのせ、権之助は、例の四尺ほどの棒と手綱を持って、武蔵の姿を
「客人! いい所で会った。だまって俺の宿から逃げ出したのは、こっちの肚を察して、
――降りかけた足を止めて、武蔵は岩と岩の間の急な細道の途中で、しばらく、岩に
降りて来ない、と見たか、下なる権之助は、
「おっかあ、ここで見ていさっしゃい。なにも、試合するには、
母の乗っている牛の手綱を放し――小脇の杖を持ち直して――やにわに岩山の根へ取りつこうとすると、
「これ!」
彼の母はたしなめた。
「いつぞやも、そのような
なお何か、
その間に、武蔵は肚を決めていた。――やはりこの挑戦は避けるに
すでに自分は、勝っているのだ。彼の杖の技倆もわかっている。改めてなお勝つ要はさらにない。
のみならず、あの一敗を口惜しがって、母子してここまで自分の後を慕って来たところを見ると、

それにまた、武蔵は、子を盲愛するの余り人を呪う無知な老母の恐ろしさは、身にも骨にも沁みて、一日一度は必ず思い出すほどだった。
あの又八の母親――お杉ばばの影を。
何を好んで、また人の子の母から、呪いを買おう。どう考えても、これは逃げるの一手、ほかに当り
で、彼は無言のまま、半ばまで降りて来た岩山を、またふたたび上へ向って、のそのそと登りかけた。
「――あっ、お武家」
その背へ、下からこう呼んだのは、気の荒い息子の方ではなく、今、牛の背を降りて地上に立った老母の方であった。
「…………」
声の力にひかれて、武蔵は足もとを振りかえってみた。
見ると、老母は、岩山の根の辺りに坐って、じっと自分を見上げている。武蔵の眸が下へ振向いたと知ると、老母は両手をついているのである。
武蔵はあわてて、向き直らずにいられなかった。一夜の恩にこそ預かっているが、そして、なんの礼ものべずに裏口から逃げ出してしまってこそいるが、この長上から、地へ両手をついて、辞儀されることは何もしていない。
(お老母、勿体ない、お手を上げてください)
そういいたそうに、武蔵は思わず、伸ばしていた膝を
「――お武家、さだめし、
武蔵はなお、無言であった。けれど老母が、届きかねる声を一心に張って、こう下からいう言葉には、耳を洗って聞かなければならない
「このままお別れ申しては、どうにも残念でござります。ふたたび貴方のようなお相手に会えるやらどうやら。――なおなお、あの見苦しい敗れ方のままでは、この子も、この母も、以前は名だたる武門であった御先祖に、どう顔向けがなりましょう。意趣ではございませぬぞ。敗けるにしても、あれではただの土民がねじ伏せられただけのものでござります。折角、巡り会うた貴方のようなお方から、なにも得ずに過ぎては、それこそ口惜しい限りでございます。わしは、それを伜に叱って連れて参りました。――どうぞわしの願いをかなえて
いい終ると、老母は、武蔵の
武蔵は黙って降りて来た。そして
「権どの、手綱を持て、歩きながら話そう。――
と、いった。
次に彼は、黙々と、その背を母子の者に向けて歩いて行く。話しながら歩こうといったのに、その沈黙は変らない。
武蔵が何を迷っているか、権之助にはその肚が
応か。
牛の背の老母もまだ不安そうな顔に見えた。そして、十町か二十町も高原の道を歩いたかと思う頃、先に歩いていた武蔵が、
「ウム!」
と独り返辞をしながら、くるりと、
「――立合おう」
と、いきなりいった。
権之助は手綱を捨て、
「承知か」
即座にもと思ったらしく、もう足場を見まわすと、武蔵は、意気ごむ相手を眼の外に
「じゃが――母御」
牛の背へいうのである。
「万が一のことがあってもよろしいか。試合と斬合とは持ち物がちがうだけで、紙一重ほどの相違もないが」
念を押すと、老母は初めてにこと笑って、
「御修行者、お断りまでもないことを仰せられる。
「それまでにいうならば」
と、武蔵は、眸を一転して、権之助の捨てた手綱をひろい、
「ここは往来がうるさい。どこぞへ牛を繋いで、心ゆくまで、お相手いたそう」
いの字ヶ原のまっただ中に、枯れかけている一本の
「権どの。支度」
と、促した。
待ちかねていた権之助は、おうと武蔵の前に棒をひっ提げて立った。武蔵は直立したまま、相手を静かに見た。
「…………」
武蔵には木剣の用意がない。そこらの得物を拾って持つ様子もなかった。肩も張らず、二本の手は柔かに下げたままである。
「支度をしないのか」
今度は権之助からいった。
武蔵は、
「なぜ?」
と、反問した。
権之助は、
「得物を
「持っておる」
「無手か」
「いいや……」
首を振って、武蔵は、左の手をそっと忍ばすように、刀の
「此処に」
といった。
「なに! 真剣で」
「…………」
答えは、唇の端に
――真剣で。
武蔵がいったために、老母は急に
「ア。待って
ふいに横からいった。
だが、武蔵の眼、権之助の眼、そう
権之助の棒は、この高原の気をみんな吸って、一撃の唸りにそれを噴き出そうとするもののように、じっと小脇に含んで構え、武蔵の片手は、
もう二人は、内面において、斬り結んでいるのである。眼と眼とは、この場合、太刀以上、棒以上に相手を斬る。まず眼を以て斬り伏せてから、棒か
「待たッしゃれ!」
老母は、また叫んだ。
「――何か?」
と、答えるためには、武蔵は四、五尺も後へ身を退いていた。
「真剣じゃそうな」
「いかにも。――木剣でいたしても、真剣でいたしても、拙者の試合は同じことですから」
「それを止めるのではないぞえ」
「お分りならばよいが、剣は絶対だ……手にかける以上、五分までの、七分までの、そんな
「元よりのこと。――わしが止めたは、それではない。これほどな試合に、後で名乗り合わなんだことを悔やんではと――ふと思い寄ったからじゃ」
「うむ、いかにも」
「怨みではなし、しかし、どちらから見ても、会い難きよい相手、この世の
「はい」
権之助は、素直に一礼して、
「遠くは、木曾殿の幕下、太夫房
彼が口を結ぶと、武蔵も礼儀を返して、
「拙者の家は、
と、いった。そして、
「では」
と、立ち直ると、権之助も杖を
「では」
と、応じた。
松の根もとに坐りこんだ老母はその時、息もしていないように見えた。
降りかかった災難とでもいうならばともかく、われから求めて、追いかけて来てまで、わが子を今、
「…………」
べたんと、坐ったまま、肩をすこし前へ落し、行儀よく両手を膝にかさねている。幾人の子を生み、幾人の子を
――だが今、武蔵と権之助とが、何尺かの土の間に対峙して、
「では」
と、戦端を切ったせつなに、老母の眸は、天地の仏神が皆集まってそこから覗いているような、巨大な光を発した。
彼女の子は、すでに武蔵の剣の前に、その運命を
(はて、この人間は?)
と今、
いつぞや、わが家の裏で、不用意に闘って感得した敵とはまるでその
また、それが覚れる権之助であるから、いつぞやは自信にまかせて、滅多打ちに振りこんだ
「…………」
「…………」
いの字ヶ原の
――ぱッと、二人のあいだの空気が鳴った。飛ぶ鳥も落ちるような見えない震動である。それはまた、杖が空気を
――のみならず双方の五体と
権之助が振り落した一撃は、武蔵の体の外を
同時に、この場合も、武蔵の刀は、彼のみの持っている特質として、相手の身を
ために、第二撃を、敵に与える
かんと、彼の
引きもならない。
押してもゆけない。
これが、刀と刀との場合ならば、つば
杖には
けれど、丸い四尺の杖は、その全部が刃であり、切先であり、また、柄であるともいい得る。従って、これを上手に使われると、杖の千変万化なことは、到底、剣の比ではない。
剣の六感で、
(こう来るな)
というような測定をもったらとんだ目にあう。杖は、時によって、刀のような性格を持って、短槍と同じ働きもするからである。
十文字になった杖と刀の上から、武蔵が刀を引けない理由は、その予測がゆるされないからであった。
権之助の方はなおさらである。彼の杖は、武蔵の刀を、頭上に支えているのであるから、受身の
(得たり)
と、武蔵の刀は、そのまま一押しで、彼の頭を砕いてしまうであろう。
見ているまに、彼の顔は蒼白になって行った。下唇へ前歯がめりこんでいる。吊るしあがった眼じりから
「…………」
頭上に受けとめている杖と刀の十字が波を打ってくる。その下に、権之助の息が刻々に荒くなっていた。
――すると。
その権之助以上、蒼ざめた形相となって、松の根がたから凝視していた老母が、
「権ッ」
と、さけんだのである。
権――と絶叫した瞬間に老母はわれを忘れていたに違いない。坐っていた腰を伸び上げて、その腰を自分で
「腰じゃわえ!」
と
武蔵も権之助も、ふたりとも石に
武蔵の方からである。
しかし、その距離は、権之助の飛躍と、四尺の杖に、すぐ迫られて、
「――あッ」
と、武蔵は辛くも横へ払い
死地から攻勢に立ったとたんに払い捨てられたので、権之助は、頭を大地へ突っこむような勢いで、だッと、前へのめった。そして、強敵に会った
一本の雨のような細い閃光が、その背を切った。――うううっと、仔牛のように
そして、
「――負けた!」
と叫んだ。
武蔵がである。
権之助は声もない。
前のめりに仆れたまま、権之助はいつまでも動かなかった。――それを見入っているうちに、老母も
「みね打ちです」
武蔵は、老母へ向って、こう注意を与えた。それでもまだ、老母が起って来ないので、
「はやく、水をおやりなさい。御子息には、何処も怪我はない筈だ」
「……えっ?」
老母は、初めて顔を上げ、やや疑うように権之助の姿を見ていたが、武蔵のいうとおり、血にまみれてはいなかったので、
「オオ」
次には、
「怖れいりました」
いきなりその前へ行って土に
「いや、敗れたのは、
彼は、
「
いいながらも、武蔵はまだ、茫然としているのである。どうして敗れたかを理解し切るまでは。
同じように、権之助も老母も、彼の皮膚にある一点の紅い
武蔵は襟を合わせて、老母に訊ねた。――今、二人が試合のうちに、腰! と叫んだのは何のためか。あの場合、権之助殿の腰構えに、そも、どういう虚を見出されて、あんな声を発しられたのか。
すると、老母は、
「お恥かしいことじゃが、せがれはただ、あなたの刀を杖で支えるに必死となって、両足を踏まえておりました。
と、いう。
武蔵はうなずいた。よい教えを受けたと、この機縁に感謝した。
黙然と、権之助も聞いていた。彼にも何か会得するところがあったに違いない。これは、
木曾の一農夫権之助、後に、夢想権之助と称して、夢想流
“
なる秘術を
それはそうと、この
「この道筋を、武蔵という者が通らなかったであろうか。たしかに、この道へ来たわけだが――」
と、馬子の
どうも痛む……。
みずおちの中心を
彼は、下諏訪まで足を伸ばした。下諏訪まで行けば
湖畔の町は、町屋千軒といわれていた。本陣の前の屋根のある風呂小屋が一ヵ所見えたが、後は往来
武蔵は、着物を立木の枝に懸け、大小を
「ああ」
と、石を枕に、眼をふさいだ。
今朝から
と――その辺の油や荒物を売っている
「
と
「うわさはこの辺へも聞えておろう。京都一乗寺の下り松で、吉岡方の大勢を一身にうけ、近頃ではめずらしい、よい試合ぶりをした男だ。確かに通ったに違いないが、気づかなかったかの」
塩尻峠を越えると間もなくから、往来を訊いて歩いている例の武家であった。そのくせ、そうよくは知らないと見えて、問われた者から、服装や年頃などを反問されると、
「さあ、その程は」
と、あいまいなのである。
しかし、何の用があるのか、熱心は熱心で、そこでも見かけないという返辞を聞くと、ひどく落胆して、
「何とか、会いたいものだが……」
と、草鞋の
自分のことではないか。
武蔵は、畑越しに、湯の中からその武家を
笠の
「はて……覚えがないが」
考えている間に、武家は立ち去ってしまった。吉岡の名を口にしたところから見て、事によったら、吉岡の遺弟ではあるまいかなどとも思ってみる。
あれだけの門下のうちだ。気骨のある人間もいよう。
体を拭き、衣服を着けて、武蔵がやがて往来へ姿を現すと、何処からか出て来た最前の武家が、
「お訊ね申すが」
と、ふいに彼の前に会釈して、しげしげと顔を見ながらいった。
「もしや尊公は、宮本殿ではござるまいか」
不審顔に、武蔵がただ
「やあ、さてこそ」
と、自分の六感に凱歌をあげて、また、さもさも懐かしげに、
「とうとうお目にかかることが出来、大慶至極。……いや何かしら、今度の旅では、何処かでお目にかかれるような気持が、初めからいたしておった」
と、独りで
そして武蔵が、何を問う
「さりとて、決して不審な者ではござらぬ。こう申しては、
とつけ足した。
意にまかせて伴われてゆくと、外記は湖畔の本陣に泊りを
「風呂は」
と、自分で訊ねながら、すぐ自分で打ち消して、
「いや、尊公はもう、野天風呂でおすみじゃな。では失礼して」
と、旅装を解き、気軽に手拭を持って、出て行ってしまう。
おもしろそうな男ではある。しかし武蔵にはまだ分っていない。一体、何であんなに自分の後を尋ね、自分に親しみを持っているのか?
「おつれ様も、お召替えなさいませぬか」
と、宿の女が、どてらを出して彼へすすめる。
「わしは
「おや、左様でございますか」
開け放してある縁へ出て、武蔵はようやく暮れてきた湖水へ
「どうしたか?」
と物思わしく、彼女の悲しむ時の
うしろで女中が膳をすえている物音が静かにする。やがて
「……はてな、この道へ来たのは、方角を取り違えたのではないか。お通は
そんなことを考えたりしていると、耳に彼女の救いをよぶ声が聞えるような気がする。何事も天意だと達観していながら、すぐ居ても立ってもいられない心地がしてくる。
「いや、どうも、大きに失礼を
「さ、さ」
と早速、膳の前へ、着座をすすめたが、自分だけのどてら姿に気づいて、
「尊公も、どうぞ、お着替えくだされい」
と、
それを武蔵も、
「いや、それよ」
と、
「政宗公のお心がけは、行住坐臥、やはりそこにござる。かくもあろうお人とは思っていたが、ウウムさすがは」
と、燈火を横にうけている武蔵の顔を、穴のあく程、見惚れているのだった。
そしてわれに返ると、
「いざ。おちかづきに」
と、杯を洗って、これからの夜を心ゆくまで楽しもうとするもののように、
辞儀だけして、手は膝においたまま、武蔵は初めて訊ねた。
「外記殿。これは一体どうしたご好意でござりますか。路傍の拙者を追って、このお親しみは?」
改まって、何のために? と武蔵から訊かれると、外記は初めて、自分の独りのみ込みに気づいたらしく、
「いや成程、ご不審はごもっともじゃ。――しかしべつだん意味はないので、
と、いってまた、
「あははは。男が男に、惚れたのでござるよ」
と、いい重ねる。
石母田
男が男に惚れるということはあり得よう。けれど武蔵はまだ、惚れる程な男に会った経験がない。
惚れるという対象に持つには、沢庵は少し
かくて過去の知己を振向いてみても、男が惚れる男などが、そうある筈のものではない。――それをこの石母田外記は無造作に、
(あなたに惚れた)
と、自分へいう。
お
けれど外記の剛毅な風貌から見ても、そんな軽薄な徒ではないことは、武蔵にも何だか分る気がするのである。
そこで彼は、
「惚れたと仰っしゃるのは、いかなる意味でございましょうか」

「――実は、一乗寺下り松のお働きを伝え聞いて、失礼ながら、今日まで、見ぬ恋にあこがれておったのじゃ」
「ではその頃、京都に
「一月より上洛して、三条の

「立札で?」
「――されば、奈良井の大蔵とかをお待ちになる由を、札に書いて、道ばたの崖へ立てて置かれたであろう」
「ああ、あれを御覧になられたのですか」
武蔵はふと世の中の皮肉をおぼえた。――
だが、外記の心を聞いてみれば、この人の
「いや、それは面目ないことです」
武蔵は、心からいった。そして心から恥ずかしかった。こんな人に惚れられる資格など自分にないと思うのであった。
ところが外記は、
「百万石の
と、称揚して
「で、今夜は、それがしが
と、手の杯を洗い直した。
武蔵は心を開いて杯をうけた。そして例のごとくすぐ赤くなってしまう。
「雪国の侍は、みな酒が強うござるよ。――政宗公がおつよいので、勇将の
と、
酒を運ぶ女に、幾度か、灯を
「ひとつ今夜は、飲み明かし、語り明かそうではないか」
武蔵も腰をすえて、
「やりましょう」
と、笑みを含め、
「――外記殿は最前、烏丸のお
「ご懇意という程でもないが――主人の使いなどで、しげしげ参るうちに、あのように
「
「快活? ……それだけでござったかの……」
と外記はすこしその評に不満らしく、
「もっと長く話してみたら、必ずあの
「何分、場所が、遊里でござりましたゆえ」
「なるほど、それではあの
「では、あの方の、ほんとの
何気なく、武蔵が問うと、外記は坐り直して、ことばまで改め、
「
と、いった。
そして、なお、
「――その憂いはまた、幕府の横暴にあるのでござりまする」
と、いい足した。
湖水のゆるい波音のあいだに、白々と
「武蔵どの。――尊公はいったい、誰のために、剣を磨こうとなされるか」
こんな質問は、受けたことがない。武蔵は率直に、
「自分のために」
と、答えた。
外記は大きく、
「ム。それでいい」
と
「その自分は、誰のために」
と、たたみかける。
「…………」
「それも自分のためか。まさか尊公ほどな
話は、こんな
彼の話によると、今、天下は家康の手に
北条、足利、織田、豊臣――と長いあいだにわたって、いつも
信長は、ややその
「それを案じている者は、天下の諸侯中でも、わが主君伊達政宗公より
と、石母田外記は、いうのであった。
自慢というものは元より聞きづらいものだが、主人の自慢だけは聞いていても悪い気はしない。
わけてこの石母田外記は、主人自慢であるらしかった。今の諸侯の中で、心から国を憂い、また皇室へも、心から
「……ははあ」
武蔵はただそう
彼には、正直なところ、そう頷くだけの知識しかなかった。関ヶ原の以後、天下の分布図は一変したが、
(世の中がだいぶ変ったな)
と思うだけで、秀頼方の大坂系大名がどう動こうとしているか、徳川系の諸侯が何を
それも加藤とか、池田とか、浅野、福島などといえば、武蔵にも、二十二歳の青年なみの観察は持っているが、伊達などというと、もう
(
という以外、これぞという知識も持ち合せていない。
だから、ははあと、
(政宗とは、そんな人物か)
と、聞き入るのであった。
外記は、数々な例証をあげて、
「わが主人政宗は、一年二回は必ず国内の産物を挙げて、
といい、また――
「諸侯のうちで、城内に、帝座の
外記は、そういってなお、
「そうじゃ、こういうお話もある。それは、朝鮮御渡海のとき――」
と、話しつづける。
「あの

武蔵は、何しろ興味ふかく聞いていた。外記は杯を忘れている。
「酒が冷えた」
外記は手をたたいて女を呼んだ。そしてなお、酒をいいつけそうなので、武蔵はあわてて、
「もう十分です。私は
固辞すると、
「……何の、まだ」
と外記は、残り惜し気に
「では、飯を貰おうか」
と、女へいい直した。
湯漬を喰べながらも、外記はまだ頻りと主人自慢を話しつづけている。中で武蔵が心を傾けさせられたものは、政宗公という一箇の武辺を中心として、伊達藩の者がこぞって、
(如何に武士たるべきか)
と――武士の本分を、「士道」というものを、磨き合っている風の
今の社会に、「士道」はあるかないか、といえば、武士の興った遠い時代から、漠とした士道はあった。けれど漠としたままそれは古い道徳となり、乱世のつづくうちに、その道義も乱れ果てて、今では太刀を持つ人間の間に、かつての古い士道さえ見失われてしまっている。
そしてただ、
(武士だ)
(弓取りだ)
という観念だけが、戦国のあらしとともに強まっているのみである。新しい時代は来つつあるが、新しい士道は立っていない。従ってその武士だ、弓取りだと自負する者のうちには、

かつて。
それは姫路城の天主の一室へ、武蔵が、沢庵のために、三年のあいだ幽閉されて、陽の目もみずに書物ばかり見ていたあの頃である。
あの沢山な池田家の蔵書の中に、一冊の写本があったことを覚えている。それには、
それを読んで武蔵は、謙信の日常生活を知ると共に、あの時代、越後の富国強兵ないわれを知った。――けれど「士道」というものにまではまだ思い至らなかった。
ところがこよい、石母田外記の話をいろいろ聞いていると、政宗はその謙信にも劣らない人物と思われて来るのみでなく、伊達一藩には、この
「いや、思わず、それがしばかり勝手なことを
膳を下げてから、外記は、熱心にこうすすめたが、武蔵は一応、「考えた上で」と答えて、
べつな部屋へわかれて、枕についてからも、武蔵は眼が冴えていた。
――士道。
じっと、そこに、思索をあつめているうちに、彼は、
――剣術。
それではいけないのだ。
――剣道。
飽くまで剣は、道でなければならない。謙信や政宗が唱えた士道には、多分に、軍律的なものがある。自分は、それを、人間的な内容に、深く、高く、突き極めてゆこう。小なる一個の人間というものがどうすれば、その生命を托す自然と
――そう心に決定をつかんでから、武蔵はふかく眠りに落ちた。
眼をさますと、武蔵はすぐ思い出す。――お通はどうしたろう。また、城太郎はどこを歩いているだろう。
「やあ昨夜は」
と、朝の膳で、石母田外記と顔をあわせる。忘れるともなく話に
武蔵は、その行き来の流れに、絶えず無意識のうちにも眼をくばっていた。
似た人の後ろ姿にも、はっとして、
(もしや?)
と、すぐそれかと思う。
外記も気がついたのか、
「
と、訊く。
「さればです」
と、武蔵は
外記は、残念そうに、
「折角よい道連れと存じたが、それではぜひもござらぬ。――したが、昨夜も
「
「
そういって、一夜の友は、すたすたと和田峠の方へ一足先に行ってしまった。何となく心ひかれる姿だった。そして武蔵は心のうちで、いつか、伊達の藩地を訪ねてみようとその時思った。
その時代、こういう旅人に出会うことは、武蔵ばかりでなかったろう。なぜならば、まだ
「旦那、旦那」
後ろで誰か呼びかける。
一度和田の方へかかりながら武蔵がまた、足を
宿場人足といっても、
「――何か?」
と、武蔵はふり返った。
その姿を、無作法に眼で撫で廻しながら、人足たちは
「旦那あ。さっきからお連れを探している様子だが、お連れは
持たせる荷物もないし、
武蔵はうるさくて思って、
「いや……」
と、首を振ったのみで、黙々と、人足たちの群れを離れて、歩みかけたが、彼自身まだ、
(西せんか? 東せんか?)
心に迷っている姿だった。
一度は、何事も天意にまかせて、自分は江戸表へと、心にきめたが、やはり城太郎をふと考え、お通の身を思うと、そうも行かない。
(そうだ、きょう一日だけでも、この附近を尋ねてみよう。……もしそれでも知れなければ、ひとまず
彼の考えがきまった時、
「旦那、もしや何か、お探しになることでもあるなら、どうせあっしらは、こうして陽なたぼッこして遊んでいるのでございますから、お指図なすっておくんなさいまし」
また、寄って来た人足の一人がいうと、
「駄賃なんざあ、いくらくれとは申しません」
「一体お探しになっているのは、お女中でござんすか、ご老人ですかえ」
余りいうので、武蔵も、
「実は――」
と仔細を話して、誰か、そんな少年と若い女を、この街道筋で見かけた者はないかと訊くと、
「さあ?」
と、彼らは顔を見合わせ、
「誰もまだ、そんなお人は、見かけねえようですが、なあに旦那、こちとらが手分けをして、
「なるほど」
武蔵はうなずいた。大きにそれは理窟がある。土地にも不案内な自分が、いたずらに歩いてみたり焦躁するよりは、こういう
「――では頼む、ひとつ
率直にいうと、人足たちは、
「ようがす」
と、一斉にひき受けてから、しばらくがやがや手分けの評議をしていたが、やがて一名の代表者が前へ出て、
「ええ、旦那え。エヘヘヘ、
「おう、元よりのこと」
武蔵は当然に思って、貧しい路銀をかぞえてみたが、彼の要求する額には、その全部をはたいても足りなかった。
武蔵は金の貴重なことを人よりも身に沁みて知っている。なぜならば、孤独である。また旅にばかり暮しているから。――しかし武蔵はまた、金に執着を持ったことがない。それは、孤独の彼には、誰を扶養する責任もない。その身一つは、寺に宿り、野に臥し、時には知己の清浄を恵まれ、なければ喰べずにいても、そう
考えてみると、ここまで来た道中の
(お持ちになっていらっしゃいまし)
と、渡してくれたものだった。
そのお通からもらった全部を、武蔵は人足たちに皆渡して、
「これでよいか」
といった。人足たちは、
「ようがす。負けておきましょう。――じゃあ旦那は、
と、
八方、人手を分けて、探しているとはいえ、この一日を、空しく待っているのも智慧がないので、武蔵は武蔵で、高島の城下から、諏訪一円を歩き暮した。
お通と城太郎の消息を尋ね歩いていると、武蔵は、こうして暮れてゆく一日が惜しかった。彼の頭には、絶えず、この辺の地勢とか、水理とか、また、誰か聞えた武術家などはいないかなどと――そのほうへ頻りと心が動く。
だが、その両方ともに、大した収穫もなく、やがて
「ああ、疲れた」
気づかれというのか、こんな呟きが、
誰も来ない。
やや退屈を感じて広い境内を、一巡りしてまた戻って来た。
まだ約束した人足は一人も見えていなかった。
闇の中で、時々、
「御牢人、なんじゃ」
馬に
「何ぞ、社家に御用事でもあるのか」
そこで武蔵が、わけを話して、一応怪しい者でないことを弁明すると、
「あははは。あははは」
腹を抱えて笑い止まないのである。
「あんたは、そんなことで、よう旅が出来なさるの。なんであの道中の
と、いうのであった。
「では、手分けをして、探すといったのは嘘であろうか」
武蔵が
「お前さんは、
それから、その男は、この諏訪塩尻あたりの往還で、旅客が人足の悪手段にのって路銀をせしめられる

「わたる世間も同じ事ですよ、これからはよく御用心なさるがよい」
と、空になった
武蔵は、茫然としていた。
「…………」
何か、大きな未熟を自己に発見したような気持で。
剣を持っては、隙がないと自負している自身も、世わたりの俗世間に立ち交じる、無智の宿場人足にも
「……仕方がない」
武蔵はつぶやいた。
口惜しいとも思わないが、この未熟は、やがて三軍を動かす兵法のうえにも現れる未熟である。
これからは謙虚になって、もっと俗世間にも習おうと思う。
――そして彼はまた、楼門の方へ足を返して来たが、ふと見ると、自分の去った跡へ来て、誰か一人立っている。
「オ。旦那」
楼門の前で辺りを見廻していたその人影は、武蔵の姿を見つけると、石段を降りてきて、
「お探しになっているお人の、一方だけ分りましたから、お
と、いった。
「え?」
武蔵はむしろ意外な顔して――よく見るとそれは、今朝、半日の駄賃をやって、八方へ手分けして走らせた宿場人足の中の一人であった。
たった今、
(
と、
同時に彼は、自分から半日の駄賃と
(世間の全部が、
と分って、それが先ず、
「一方が分ったとは、城太郎という少年の方か、お通の方が知れたのか」
「その城太郎っていう子を連れている、奈良井の大蔵さんの足どりが分ったのでございます」
「そうか」
武蔵は、それだけでも、ほっと心の一面が明るくなった。
正直者の人足は、こう話した。
――今朝、駄賃をせしめた
「よく知らせてくれた」
武蔵は、この人足の正直と功労に対して、酒代を
(――でも、何かやりたい)
と、彼はなお、考えた。
しかし、身につけている物で、
「ありがとうございます」
正直者は、当然なことをして、過分な礼に会ったので、銭を
――もう一箇の銭もない。
武蔵は、無意識の中に、銭の後ろ姿を見送っていた。与えながら、与えた後は、ちょっと途方に暮れた気持になった。
けれど、あの銭が、あの正直者に持ち帰られれば、自分の空腹をみたす以上、何かよいことに
「そうだ……この辺で一宿の軒端を借りて朝を待つより、これから和田峠を越えて、先へ行ったという奈良井の大蔵と城太郎に追いつこう」
今夜のうち和田を越えておけば、明日は何処かでその人と城太郎に出会うかも知れない。――武蔵は忽ち思い立って、やがて
――独り夜を歩む。
武蔵は好きだった。
これは彼の孤独な生来から来るものかも知れない。自分の踏む
人中の賑やかな中にいると、彼のたましいはなぜか独り淋しくなる。淋しい
なぜならば、そこでは、人中では心の表に現れないさまざまな実相が
「……オ。
しかし――
行けども行けども闇の夜道に、ふと一つの燈を見出すと、やはり武蔵もほっと思う。
人の住む
われに返った彼の心は、人恋しさや、なつかしさに、
「――
と、足はおのずとその燈へ向って急いでいる。
もう
諏訪を出たのは宵だったが、落合川の
その二つの山の尾根と流れ合っている広い沢の辺りに、ポチと、
近づいてみると、たった一軒の立場茶屋だった。
「――さて?」
と、当惑した顔つきで、武蔵はその軒端に立ち迷った。
ただの百姓家か
どう考えても、金はもう一枚の
「そうだ、仔細をいって、
そう思いついた抵当の品というのは、背に負っている武者修行包みの中の一品だった。
「……ごめん」
彼がそこへ入るまでには以上のような当惑やら苦心のあげくであったが、中でがやがやいっていた連中には、まったく唐突な姿だったに違いない。
「……?」
びっくりしたように皆、黙ってしまった。そして彼の姿を、いぶかしげに見まもった。
土間の真ン中に大きな
それを
「なんだ?」
老爺に代って、そういったのは、中でも眼のするどい、五分
居合せた野武士ていの男が、何かいったが、それに答えもせず、ずっと通って、空いている
「おやじ、湯漬でもよい、はやく飯を支度してくれい」
亭主は
「夜どおしで、峠をお越えなされますか」
「ウム、夜旅じゃ」
武蔵はもう箸を取っている。
猪汁の二杯目を取って、
「きょうの昼間、奈良井の大蔵という者が、一名の
「さあ、存じませんなあ。――藤次どのや、他の衆のうちで、そんな旅の者を見かけた者はございませんか」
おやじが、土間炉の
「知らねえ」
武蔵は満腹して、一
最初に、
その時には、刀の
「おやじ、
いうと、案外気やすく、
「ええ、よろしゅうござりますとも。――したが、そのお品とは、なんでございますな」
「観音像じゃ」
「え、そんな物を」
「いや、
背に負っている武者修行包みの結び目を解きかけると、炉の向う側にいる三名の野武士たちは、杯を忘れて皆、武蔵の手を凝視していた。
武蔵は、包みを膝にのせた。それは
「……やっ?」
これは、茶屋のおやじとまた、炉の向う側にいた三名の口から出た声だった。――武蔵は自分の足元へ眼を落したまま、ただ
金の包みである。
慶長小判や銀や
(――誰の金?)
と、武蔵は思った。
四人も、そう疑ぐっているらしく、息をのんで、土間の金へ、眼を奪われていた。
武蔵は、もう一度武者修行袋を振ってみた。すると、金の上へ、さらにまた、一通の書面がこぼれた。
怪しみながら
それもたった一行、
当座の御費用に
外記
としか書いてない。けれど少なからぬ金である。この一行が何をいっているか。武蔵にはわかる気もする。要するにこれは、伊達政宗ばかりでなく、諸国の大名がやっている一つの政策である。
有為の人材を常に召し抱えておくことはむずかしい。しかし時代の風雲は、愈

いざ
その、大物どころでは、大坂城の秀頼が、後藤又兵衛に捨て扶持をやっていることは天下の周知である。九度山に引籠っている
閑居している
一乗寺下り松のうわさから、後を追いかけて来た伊達家の臣下が、すぐ武蔵の人物に、食指をうごかしたことは当然すぎる。――既にこの金が、明らかに、外記の
――困った金である。
なければ?
(そうだ、金を見たから、惑うのではないか。なければ、ないでもすむものを)
武蔵はそう思って、足もとに落ちている金を拾い集め、元通りに武者修行袋へつつみこんで、
「――では亭主。これを飯の代に、取っておいてくれい」
自分の手すさびに彫った
「いけませんよ旦那、これやあ、お断りしますべ」
と、手を出さない。
武蔵がなぜ? というと、
「なぜって、旦那は今、持合せが一文もねえと仰っしゃるから、観音様でもいいといったのじゃが……見ればないどころか、持て余している程、お金を持ってござらっしゃるではねえか。どうか、そんなに見せびらかさねえで、お金で払っておくんなさいまし」
最前から、酒の酔をさまして、
自分の金ではない――というような弁解をしてみるのも、この場合は、愚の至りである。
「そうか……では仕方がない」
武蔵は、やむなく一箇の銀片を出して、おやじの手に渡した。
「はて、
武蔵はまた、金を調べてみた。しかし包みは慶長小判と、それがいちばん小さくて安い
「
「それは、どうも」
と、おやじは急に打って変る。
もう手をつけた金なので、武蔵はそれを腹巻へ巻いた。そして、茶店のおやじから嫌われた木彫の観音像を、元のように、武者修行袋に入れて背中へ背負う。
「まあ、あたって行かっしゃれ」
と、おやじは
夜はまだ深い。けれど腹ごしらえもまずできた。
夜明けまでに、この和田峠から大門峠まで踏破してしまおうと思う。昼ならば、この辺りの高原は、
花といえば、空こそ、星のお花畑とも見える。
「おおオいっ」
立場茶屋を離れておよそ二十町も来た頃である。
「――今の旦那あ、お忘れ物をなされたぞよ」
さっき茶店に居合せた野武士ていの中の一人であった。
側へ駈けて来て、
「早いお脚だの、あんたが出て行ってから、しばらくしてから気づいたのじゃ。――このお金は、あんたの物じゃろうが」
いやそれは自分の物ではあるまいと武蔵はいったが、野武士ていの男は、かぶりを振って、確かにあなたが金包みを落した時、この一片が土間の隅へ転がったものに違いない、と押し戻して来る。
数えて持っている金ではないので、そういわれてみると、そうかも知れないと武蔵は思うほかなかった。
で、礼をいって、それを
「失礼じゃが、あんたは、武道を誰に
用がすんでからも、男は要らぬ話をしかけて、側へついて歩く。それもおかしい。
「我流ですよ」
と、武蔵は、投げっ放しな語調でいう。
「わしも、今は山に籠ってこんな
「ははあ」
「さっき居合せた者も皆そうじゃ。
「大坂方ですか、関東方でございますか」
「どっちでもいい。まずやはり旗色を見て加わらぬと、一生を棒にふるからなあ」
「はははは、大きに」
武蔵は、まるで相手にしない。なるべく足も大股に努めてみたが、男もそれにつれて大股になるので何の
そしてなお、気になることには、自分の左側へ左側へと、男は好んで寄り添ってくるのだった。これは、心ある者は最も忌むところの、抜討ちを仕かける時の姿勢である。
――だが武蔵は兇暴な道連れの狙っているその左側を、わざと
「どうじゃな修行者。もし嫌でなかったら、おれたちの住居へ来て、今夜は泊ってゆかないか。……この和田峠の先には、大門峠がある。夜明けまでに越えるというても、道馴れない者にはどうして大変だ。これから先は、道も
「ありがとう存じます。おことばに甘えて、泊めて戴きましょうかな」
「そうするがいい、そうするがいい。――だが何も、もてなしはないぜ」
「元より、体さえ横たえれば、それでいいのでございます。して、お
「この谷道から、左の方へ五、六町ほど登った所さ」
「えらい山中にお住いですな」
「さっきもいった通り、時節の来るまで、世から隠れて、薬草採りをしたり、
「そういえば、後のお二人は、どうなされましたか」
「まだ立場で飲んでいるじゃろう。いつも
「
「ム……その流れの狭い所の丸木橋を渡って、谿川づたいに、左へ登ってゆく……」
と、男は低い崖の途中に立ち止まっている様子だった。
武蔵は、振り向きもしない。
そして丸木橋を渡りかけていた。
崖の中途からぽんと跳んだ男は――いきなり武蔵の乗っている丸木橋の端に手をかけて、彼の姿を、激流の中へ振り落そうとして、持ち上げたが、
「何をする?」
と、河の中の声にぎょっとして首を上げた。
武蔵の足は、橋を離れて、
「――あッ」
――こんな場合、武蔵は、斬った死骸には眼もくれなかった。死骸がまだ
「…………」
果たして、ぐわあん! と谷間の
いうまでもなく、猟銃の
弾が土の中へ入った後から武蔵も同じところへ仆れた。そして対岸の沢を見ていると、蛍の火みたいな赤いものがチラチラする。
――二つの人影が、そろそろと河べりまで這い出して来る。
一足先に
それも、武蔵の考えていた通りであった。
猟師だとか、
けれど、さっき、
(時節が来るまで)
と、
どんな盗賊でも、子孫まで盗賊でやって行こうと考えている者は一人もあるまい。乱世の方便としての世渡りに、諸国には今、山賊と野盗と市盗が急激にふえつつある。そして、いざ天下の合戦となると、これが皆、一かどの
もう一人は、身を
「……大丈夫か」
と
鉄砲を持ち直したのが、
「確かだ」
と、うなずいて、
「
という。
それで安心して、二人は丸木橋を頼って、武蔵の方へ渡って来ようとした。
鉄砲を持った方の影が、丸木橋の中ほどまでかかって来ると、武蔵は起き上がった。
「――あッ」
引金に懸けた指は、もちろん、正確を失っていた。どうんと、弾は空へ走って、ただ大きな
ばらばらっと、二人は引っ返して、
「やいやい、逃げる奴があるものか、相手はひとり、この藤次だけでも片づくが、引っ返して助太刀しろ」
鉄砲を持たない方がけなげにもこういって立ち止まった。
自分で藤次と名乗っているし、物腰から見ても、これが
呼び返されて子分か分らぬが、もう一名の賊は、それに励まされて、
「おうっ」
と答え、火縄を
武蔵はすぐ感じた。これはそう根からの野武士ではない。わけても、山刀を揮って来た男の腕に多少筋がある。
――だが、彼のそばへ近づくと、賊の二人とも、一撃に
口程もなく、藤次と名乗った賊の頭目は、小手の傷を抑えながら、逃足早く、沢から上へ駆け上ってゆく。
ざざざ、と土の落ちてくる後を
ここは和田と大門峠の境で、
ボッと、そこに
家の内にも明りが
賊の頭目はばたばたっと、それへ向って逃げて行きながら、
「
と呶鳴った。
すると、
「どうしたのさ」
と、いった。
女の声であった。
「まあ、ひどい血になって――。
賊の頭目は、うしろから迫る跫音に、振向きながら、
「ば、ばかっ。はやくその燈を消してしまえ。家の中の燈も」
と、息を
彼が、土間の中へ転げ込むと、女の影も、燈をふき消して、あわてて姿を隠してしまった。――やがて武蔵が、その前へ来て立った時は、家の中の明りも洩れず、手をかけてみても、戸はかたく閉まっていた。
武蔵は怒っていた。
だが、この怒りは、卑劣だとか
「開けろっ」
いってみた。
当然、開ける筈はない。
足で蹴っても破れそうな雨戸だが、万一を
「開けないか」
戸の中は、なお、しんとしている。
武蔵は
戸の継ぎ目を狙ったので、二枚の戸が内側へ仆れた。その下から山刀が素っ飛び、続いて、一人の男が、這い起きて、家の奥へ逃げ
武蔵が跳びかかって、その
「あっ、
と、悪人が悪事に
そのくせ、
その小手技を、ぴしぴし封じて、武蔵が許す気色もなく、
「く、くそっ」
猛然、この男は、生来の暴勇をふるい起し、短刀を抜いて、突っかけて来た。
引っぱずして、
「この
と
武蔵を近づけまいとして、その
――やや灰が落着いたところで、よく見ると、それは賊の頭目ではない。彼はすでに、どこか強く打ちつけたとみえて、柱の下に長く伸びているのである。
――それなのになお、
「畜生、畜生」
と、必死になって、手当り次第に、物を取っては、武蔵へ向って投げつけて来るのは、賊の妻らしい女であった。
武蔵は、すぐその女を組み敷いた。――女は組み敷かれながらもまだ、髪の
「畜生」
と、突きかけていたが、その手を、武蔵の足に踏まれてしまうと、
「――お前さん、どうしたのさ! 意気地のない、こんな若僧に」
と、歯がみをしながら、もう気を失っている賊の
「……あっ?」
武蔵は、その時、思わず身を離した。女は男以上に勇敢だった。刎ね起きざま、良人の捨てた短刀を拾って、再び、武蔵へ斬りつけて来たが、
「……おっ、おばさん?」
武蔵が意外な言葉を与えたので、賊の妻も、
「――えっ?」
息をひいて、
「あっ、おまえは? ……。オオ
今もまだ、幼名の武蔵を、そのまま自分へ呼ぶ者は、本位田又八の母のお杉ばばを
怪しみながら、武蔵は、そう馴々しく自分を呼んだ賊の妻を見まもった。
「まあ、
さもさも懐かしそうな女のことばだった。それは、伊吹山のよもぎ造り――後には娘の
「どうして、こんな所にいるのですか」
「……それを訊かれると恥ずかしいが」
「では、そこに仆れているのは……あなたの良人か」
「おまえも知っておいでだろう。元、吉岡の道場にいた、
「あっ、では吉岡門の祇園藤次が……」
師家の傾く前に、藤次は、道場の
武蔵も、小耳にはさんでいる。その成れの果てがこの姿か――と、
「おばさん、早く介抱してやるがよい。あなたの亭主と知ったなら、そんな目に
「穴でもあったらはいりたい気がする」
お甲は藤次のそばへ寄って、水を与え、傷口を縛り、そしてまだ半ばうつつな顔つきへ、武蔵との縁故を話した。
「えっ?」
と、藤次は、活を入れられたように白眼を上げて、
「じゃあ
さすがに恥は知っている。藤次は頭を抱え、それへ詫び入ったまま、しばらくは上げる
武門を落ちて、
武蔵はもう憎む気もちを忘れていた。夫婦の者は、時ならぬ
「何もございませぬが」
と、酒など
「もう、山の立場で、腹はできておる。かもうてくれるな」
「――でも、久しぶりに、山の夜語り、わたしの心づくしを喰べてくださいませ」
と、お甲は、炉の上に鍋などかけ、酒壺を取ってしきりにすすめる。
「伊吹山のふもとを思い出しますなあ」
外は、ごうごうと、峰の夜あらしであった。閉めきっても、炉の焔は、黒い天井へめらめらと背を伸ばす。
「もう、いうて下さいますな。……それよりも、朱実はその後、どうしたでしょうか。何か噂を聞きませんか」
「
「では、あの子も」
と、お甲は自分の身にひき較べて、さすがに、暗い
お甲だけではない。
山賊まがいの藤次が、以前の祇園藤次に返ったところで、大した変りばえもないが、それだけ道中の旅人は明るくなれよう。
「おばさん、あなたも、もう危ない世渡りは、よした方がいいでしょう」
「なあに、あたしだって好きこのんで、こんなことをしているわけじゃないけれど、
相変らず、この女は、酔うと以前の
もう
お甲はそれに近い。
「……ねえ、お前さん」
と、藤次を顧みて、
「今、
「うむ、うむ」
と藤次は、膝を抱えて、生返辞を与えていた。
この男もまた、この女と同棲してみて、先にこの女から捨てられた本位田又八と、同じような後悔を、もう抱いているのではあるまいか。
武蔵は、藤次の顔が気の毒に見えた。そして又八の身を
「――雨ですか、あの音は」
武蔵が、黒い屋根を仰ぐと、お甲はほんのり酔ったながし眼で、
「いいえ、風がつよいから、木の葉や、木の小枝が、折れては降って来るんですよ、山の中というものは、夜になると、何か降らない晩はない。――月は出ても、星は見えても、木の葉が降ったり、山土がぶつけて来たり、霧が降ったり、滝の水がしぶいて来たり」
「おい」
藤次は、顔を上げて、
「――もうじきに夜が白んで来る頃だ。おつかれだろうから、あちらへ寝道具をのべて、おやすみになるようにしたらどうだ」
「そうしましょうかね。
「では、朝までお借りしようか」
彼の寝た板小屋は、谷間の崖に建てた丸太の上に支えられていた。夜なのでよくわからないが、おそらく床下は、すぐ
霧が降ってくる。
滝水が吹きつけてくる。
ぐわうという度に、寝小屋は、船のようにうごいた。
――お甲は、白い足を、
炉の火を見つめて、考えこんでいた藤次が、するどい眼を振向けて、
「……寝たか」
と、問う。
「寝たらしいよ」
お甲は、側へ膝を立てて、
「どうする、え?」
と藤次の耳へいう。
「呼んで来い」
「やるかえ」
「あたりめえだ。慾ばかりじゃねえ、
「じゃあ、行って来るよ」
どこへ行くのか。
お甲は、
深夜である。深山である。真っ暗な風の中を、
しかもその行動には、訓練があった。地を
「ひとりか?」
「
「金は持ってるのか」
などと

なお、その中から、べつに二、三人の賊は、崖の中途を這って、ちょうど武蔵の眠っている小屋の下へ
準備は出来たのである。
谷間へ
武蔵も、そこへ横になると、
自分の生れた
枕元には、
それは、
「ははあ」
彼の寝顔は、苦笑をうかべた。しかしまだ彼は木枕に顔をつけていた。――
しとしとと霧の音につつまれるように、ふしぎな気配をうつつに感じながら。
「……
障子の外へ、そっと
寝息を聞きすますと、すうと
「ここへ、お水を置きますからね」
わざと、寝顔へ断りながら、盆をおいて、また静かに、障子の外へもどって行った。
「いいか」
囁くと、お甲は眼に手つだわせて、
「ぐっすりだよ……」
藤次は、しめたというように、縁先から裏へ飛び出して、谷間の闇を覗きこみ、手に持っている火縄をチラチラ振って見せた。
それが合図であった。
武蔵の眠っている一棟の板小屋は、それと共に、崖の中途で、支えている
「それっ」
鳴りをひそめていた賊は、もう仕止めた
手に余る人間と見れば、彼らはいつも、こうして寝小屋もろとも、旅人を谷へ落して、その死骸からやすやすと、目的の物を
そして簡単な寝小屋はまた、次の日のうちに、絶壁へ
谷底にも
「どうした?」
上の人数も降りて来て、
「あったか」
と、共に探しまわる。
「見えねえぞ」
誰かいう。
「何が」
「死骸がよ」
「ばかあいえ」
しかしまた、やがて同じあぐねた声が放たれた。
「いねえや、はてな?」
誰よりも
「そんな筈はねえ。途中の岩にぶつかって、
その言葉の終らないうちに、彼の見廻している谷間の岩も水も
「――あっ?」
「――おやっ?」
賊は皆、
「あれえっ。あれえっ。来ておくれよっ」
ただ独りで、気も狂わんばかりな悲鳴をあげているのは、お甲にちがいない。
「大変だ、行ってみろ」
道を
いつの間に、どうして抜けたろうか。逃げたという武蔵が、賊には何だか信じられなかった。
「追っかけろ、これだけいれば――」
藤次はいう勇気もなかったが、武蔵を知らぬ他の賊はそのままではいる筈もない。
けれども武蔵の影はもう見当らなかった。道のない横道へ
甲州街道には、まだ街道らしい並木も整っていないし、
その昔――というほど遠くもない、
上方から来た者が、もっとも弱るのは、
ところが、
「やあ、きょうも通る――」
と、
やがて、がやがやとそれへ来た人数を見ると、なるほど、これは大変。
若い女郎衆だけでも、およそ三十名ぐらいはいよう。子守ッ子みたいな
その他、荷駄には、つづらや、長持や、一方ならぬ荷物を積み、この大家族の主人と見える四十がらみの男は、
「
と、坐りぐせのついている女郎衆を歩かせるのに、口を
(今日も通る)
と
新将軍の秀忠が江戸城に坐ってから、いわゆる
きょうこれまで来た女郎衆の親方は伏見の人で、どういう
「さあ、休め休め」
「すこし早目だが、ついでに、弁当をつかってしまおう。お
荷駄の上から、
どの女の皮膚も黄いろく、髪は、笠や手拭をかぶっても、みな白っぽく
「アア、お
親が聞いたら、涙をこぼすであろうような声を出して、しんから叫ぶ。
すると中の
「あら、いい恰好だ」
「ちょっとしてる」
などと囁き合っていると、べつな
「あの人なら、わたしゃあよく知っているよ。吉岡道場の門人衆と、たびたび来たことがあるお客だもの」
といった。
上方から関東といえば、関東の者が、みちのくを思うより遠かった。
(これからどんな土地で店を張るのやら)
と、心細い気持に
「どの人さ」
「どの人さ?」
と、忽ち
「大きな刀を背中へ懸けて、威張って歩いて来る若衆だよ」
「アアあの前髪の武者修行」
「そうそう」
「呼んでごらん、名前はなんていうの」
思いがけぬ小仏峠の上などで、自分がこんなに大勢の女郎衆に注目されているとは知らず、佐々木小次郎は、手を振って、荷駄や人足の間を通り抜けた。
すると、黄いろい声で、
「佐々木さん、佐々木さん――」
それでもまだ、まさか自分とは思わず、振向きもしないで行くと、
「前髪さん――」
と、来たので、これは
荷駄の脚元に坐りこんで、弁当をつかっていた
「何じゃ、御無礼な」
といって、小次郎の姿を仰ぐと、これはいつか、吉岡の門人達が大勢して、伏見の店へあがった時、挨拶に出た覚えがあるので、
「これはこれは」
と、草をはたいて立上がり、
「佐々木様ではございませんか。どちらへお越しなさいますか」
「やあ、
「てまえどもは、伏見を引払って、江戸の方へ移りますので」
「なぜあんな古い
「あまり
「御新開の江戸へ行ったところで、
「ところが、そうじゃございません。
「何よりも、住む家があるまいが」
「今、どしどし家を建てている町中の、
「なに、徳川家では、おぬしのような者にまで、何十町歩という土地をくれているのか。――それは
「たれが、
「ははあ……なるほど、それでは上方から、世帯を
「あなた様も、何か、御仕官の口でもあって」
「いいや、わしは何も仕官は望んでいないが、新将軍の
甚内は、黙ってしまった。
世間の裏、景気のうごき、人情の種々相にくわしい彼の眼から見て、剣術は上手かどうか知らないが――今の
「さあ、ぼつぼつ出かけようかな」
小次郎を
「おや、女郎衆の頭数が一人足らないじゃないか。いないのは一体誰だえ。――
まさか、江戸へ移住して行く女郎衆の同勢と、道連れになる気もないので、小次郎は先へ一人で歩き出したが、後に残った
「つい、その辺まで、私たちの中に、姿が見えていたのに」
「どうしたのであろ?」
「ひょっと、逃げたのではあるまいか」
などと頻りにうわさしては、二、三の者は、わざわざ探しに道を戻って行った。
その
「おいおいお直、逃げたとは、誰がいったい逃げたのだ」
自分の責任でも問われたように、お直と呼ばれた年よりは、
「
「見えないのか――その朱実が」
「逃げたのじゃないかと、今、若い者が麓まで見つけに行きましたが」
「あの娘なら、何も証文を取って、
今夜八王子泊りとなれば、あしたは江戸に入ることができる。
少しは、夜にかかっても、其処まではと、親方の甚内は、
すると、道の傍らから、
「皆さん、どうもすみません」
と、探しぬいていた朱実が姿をあらわして、もう歩き出している一行の中へ交じって、自分も共に
「どこへ行っていたのさ」
と、お直は叱るし、
「おまえさん、黙って横道へ行っちゃいけないよ。逃げるつもりならいいけれど」
と、朋輩の女郎たちはいかに心配したかということを、さも
「でもネ……」
と、朱実は、叱られても、怒られても、笑ってばかりいた。
「わたしの知った人が通ったから、会うのは嫌でしょう、だから、後ろの
着物を破いたことだの、
先に歩いていた甚内は、ふと小耳にはさんで、
「おい、娘っ子」
「わたしですか」
「ああ、朱実といったっけな。覚えにくい名前だな。ほんとに女郎衆になる気なら、もっと、呼びいい名にしなくちゃ困るが、おめえほんとに遊女になる覚悟か」
「遊女になるのに、覚悟なんているでしょうか」
「ひと月勤めてみて、いやになったら、やめるというような
「どうせ、わたしなんか、女の大事な
「だからといって、もっと滅茶苦茶にしていいという法はない。江戸へ着くまでのあいだに、よく考えておくがいいよ。……なあに、途中の
ゆうべ
下男に挟み
「参詣は明日とし、お宿にあずかり申したい」
と、
今朝は
「御修理の屋根
と、黄金三枚を寄進して、すぐ
薬王院の別当は、この奇特な人の少なからぬ寄進に驚いて、
「お名前をどうぞ」
と、訊ねたところ、他の僧が、
「いえ、宿帳にいただいてございます」
と、それを示した。
見ると、
木曾御岳山下 百草房 奈良井屋大蔵
とあるので、「――あああなた様が」
と別当は見上げて、ゆうべからの粗略を、かえすがえす口惜しげに詫び入った。
奈良井の大蔵という名は、全国到る所の神社仏閣の寄進札に見かける名であった。必ず黄金何枚ずつか――或る霊場には、黄金何十枚という寄進をしている所もあった――それは道楽か、売名か、まったくの奉公心か、本人以外に分らないが、とにかく、今の世の中に変った奇特家として、別当も
――で、
「しばらく江戸におるつもりですから、またそのうち拝観に出ましょう」
と、辞儀して去る。
「では、山門まで、お送り申しあげましょう」
と、別当は
「今夜は、府中でお泊りなされますか」
「いや、八王子でと思うているが」
「それならお楽に参れまする」
「八王子は今、
「ついこの頃から大久保長安様の御支配になりました」
「ああ、奈良奉行から移った――」
「佐渡のお
「えらい才人だからの」
山を下りると、陽の高いうちに、大蔵以下三人は、もう繁華な八王子二十五宿の往来に姿を見せて、
「城太郎、どこへ泊ろうかな?」
と、
城太郎は、直ちに答えた。
「おじさん、お寺は止そうよ」
そこで、町の中でも一番大きな
「ごやっかいになるよ」
大蔵の人品もよし、
「おはやいお着きで」
中庭を隔てた奥の間へ通して、下へも
だが、やがて陽も暮れて、どやどやと客の混む頃おいになると、
「まことにご無理なお願いでございますが、よんどころのない大勢の相客で、下座敷はかえってお騒がしゅうございましょうから、ひとつ二階へお部屋がえを……」
と、恐縮して、頼むのだった。
「ああ、いいとも。ご繁昌で結構だ」
大蔵は、気軽に承知して、手廻りの荷物を持たせ、急に二階へ引っ越しとなったが、それと入れ
「さてさて。とんだ
大蔵は、二階へ来てから、こう愚痴めいて、自分の落着きを見まわした。
時ならぬ混雑に、いくら呼んでも、召使は来ない。お膳も来ない。
やっと、食事が来たと思うと、こんどはそれを
それに、どたばたと、
片づかない部屋の中に、奈良井の大蔵は手枕で横になっていたが、ふと、何か思い立ったように首を
「
と、下男を呼んだが、見あたらないので、
「城太郎、城太郎」
と、呼び直して坐る。
その城太郎もまた、何処へ行ったか、影が見えないので、部屋を出てみると、中庭を下へ臨んで、ここの
その中に
「これ」
と、
「何を見ているのだ」
と、大蔵が眼で叱ると、城太郎は、家の中でも離さずにいる長やかな木剣を、畳につかえて坐りながら、
「だって、みんな見てるんだもの――」
と、
「みんなは、何を見ているのだい」
大蔵も多少、興をひかれていないわけでもない。
「何って……あの、
「それだけか」
「それだけだよ」
「何がそんなものおもしろい」
「わからない」
城太郎は、
大蔵を落着かせぬ原因は、雇人の跫音よりも、
「わしは少し、町を歩いて来るからな、なるべく、部屋にいなくてはいけないよ」
「町へ行くなら、おいらも連れて行っておくれよ」
「いや、晩はいけない」
「なぜ」
「いつもいっている通り、わしの夜歩きは、遊びではない」
「じゃあ、何さ?」
「信心だ」
「信心は昼間しているからたくさんじゃないか。神様だって、お寺だって、晩は寝てるだろ」
「社寺をお参りすることばかりが信心ではない。ほかに祈願もあることでな」
と、相手にしないで、
「その
「開かない」
「助市が鍵を持っているはずじゃ、助市はどこへ行ったな」
「
「まだ風呂場か」
「
「あいつもか」
と、舌打ちして、
「――呼んで来い、早く」
大蔵は、そういって、帯を締め直しにかかった。
四十人からの同勢である。
男たちは、帳場寄りの部屋に、
何しろ、賑やかを通り越して、
「あしたはもう、歩けんがなあ」
と、大根のような白い足に、大根おろしを
元気なのは、
「おいしそうだね、あたいにも、よこしなよ」
と、喰べ物を引ッ張りっこ。――また、
「あしたはもう江戸とやらへ、着くのかえ」
「どうだかね。ここで訊けば、まだ十三里もあるってえもの」
「勿体ないね、夜の
「おや、たいそう、親方思いだね」
「だって……。ああじれったい、髪の根がかゆくなった。
こんな風景でも、京女郎衆と聞くからに、男の眼はそばだったのであろう。風呂場から上がった下男の助市は、湯ざめをするのも忘れて中庭の植込み越しに、いつまでも、見惚れていた。
すると、後ろから耳を引張って、
「いい加減におしよ」
「ア痛」
と振向いて、
「なんだ、この城太郎め」
「助さん、呼んでるぞ」
「誰が」
「お前の主人がさ」
「うそいえ」
「うそじゃないよ。また、歩きに出かけるんだとさ。あの
「あ、そうか」
助市の後から、城太郎も駈出して行こうとすると、庭木の陰から思いがけなくも、
「城太さん――。城太さんじゃないの?」
と、呼ぶ者があった。
はっと、城太郎の眼が、真剣になって
今、呼んだのは、若い女の声であった。もしや? ――とすぐ胸がどきっとしたものとみえる。じっと、大きな八ツ手の陰をすかして、
「……誰?」
おずおず寄ると、
「わたし」
と、木陰の白い顔は、葉の下を
「なアんだ」
がっかりしたように、城太郎がいい放ったので、朱実は舌うちして、
「なあに、この子はまあ」
と、自分の寄せかけた感傷のやり場を失って、憎そうに、城太郎の背を打った。
「ずいぶん久し振りじゃないの。どうして、お前、こんな所へ来ているの」
「自分こそ、どうしたのさ」
「あたしはネ……知ってるだろ。よもぎの寮の
「あの……大勢の女郎衆と、一緒なのかい」
「でも、まだ、考えてるの」
「何をさ」
「
こんな子供にと思っても、朱実には、こんな
「……城太さん、武蔵様は今、どうしていらっしゃるの?」
やがて、そっといったが、彼女が初めから訊きたいことは、むしろそれだけらしかった。
武蔵の消息を訊かれると、城太郎は、そのことなら、
「知らないよ、おいらは」
「なぜ、あんたが知らないのさ」
「お通さんとも、お師匠様とも、途中でみんな、
「お通さんて――誰?」
朱実は、急に、彼のことばに、注意をかたむけ、そして、何か憶い出したように、
「……ああそうか。……あのひとは、いまだに武蔵様の後を追いまわしているのね」
と、
朱実が常に想像している武蔵は、行雲流水の修行者であった。
(
という弱気な
けれど、その武蔵の生活の影に、もうひとり、べつな女性の影が重なっていると想像すると――朱実の諦めは、到底、灰をかぶせられた
「城太さん、ここじゃ、他の人の目がうるさいから、
「町へかい」
出たくて耐らなかった折なので、そう誘われると、一も二もない。
二十五宿といわれる八王子の
「あたし、お通さんていうひとのことは、又八さんからよく聞いてたけれど、いったい、どんな
朱実は、ひどくそれが、気になり出したらしい。
武蔵のことは、ひとまず胸の隅へあずけておいて、彼女の胸には、お通という者に対して、何か、燃えるようなものが、
「いいひとだぜ」
と、城太郎がことさらに――
「やさしくって、思いやりがあって、綺麗でサ――。おいら、大好きだ、お通さんは!」
と、いったので、朱実の胸はよけいに、或る脅威を感じてきた。
けれど、そういう脅威は、どんな女性でも決してあらわには顔色に出さない。反対に、彼女も、ほほ笑むのであった。
「そう、そんないいひと」
「ああ、そして、何でもよくできるよ、歌もよむし、字もうまいし、笛も上手だしね」
「女が、笛なんか上手だって、なんにもなりやしないじゃないの」
「けれど、
「女には、誰にだって、いけない性分が沢山あるものよ。ただそれを、あたしみたいに、正直にうわべに出しているか、おしとやか
「そんなことないよ。お通さんのいけないのはたった一つしかないよ」
「どんな性分があるの」
「すぐ泣くんだよ。泣虫なのさ」
「泣くの。……まあ、どうしてそう泣くんでしょう」
「武蔵様のことを思い出しちゃあ泣くんだろ。一緒にいると、それだけが、陰気になって、おいら嫌いさ」
――もう大概に、相手の顔いろを見て
「いったい、お通さんて、
城太郎は、見較べるように、彼女の顔をながめて、
「
「わたしと?」
「だけど、お通さんの方が、もっと、綺麗で若いよ」
そのくらいでこの話題が打切れればよかったのに、朱実の方からまた、
「武蔵様は、人なみ以上、武骨だから、そんな泣虫のひとは嫌いだろう。そうだよきっと、そのお通ってひとは、泣いて男の気持をひきつけようとする――
どうかして、お通を、城太郎にだけでも、好く思わせまいと努めるのであったが、結果はかえって反対に、
「そうでもないぜ。お師匠様も、うわべは優しくしないけれど、ほんとは、お通さんが好きらしいんだよ」
とまで、いわせてしまった。
これが、子供相手でもなければ、もっといってやりたいことはあるけれど、城太郎の顔いろを見ては、その張合いもない。
「城太さん、おいで」
ふいに、彼女は、町の辻から横町の赤い
「ア、居酒屋じゃないか、そこは」
「そうさ」
「女のくせにおよしよ」
「何だか、急に飲みたくなったのよ。ひとりじゃ間がわるいから――」
「おいらだって、間がわるいや――」
「城太さんは、何でも喰べたいものを喰べればいいじゃないか」
覗いて見ると、幸いにも、ほかの客はいないらしい。朱実は、河へ飛び込むよりもっと強い
「……お酒を」
と、壁へ向っていった。
それから彼女は矢つぎばやに酒を体に
「うるさいね、何サ、この子は――」
と、
「もっと、お酒を……お酒をくださいな」
そのくせ、もう焔のような顔して、
「いけないよ、やっちゃあ」
城太郎が、間に立って、心配そうに断ると、
「いいよ、お前はどうせ、お通さんが好きなんでしょ。……あたしはね、泣いて男の同情を買うような、そんな女、大っ嫌いさ」
「おいら、女のくせに、酒なんか飲むやつ、大っ嫌いだ」
「わるかったね。……お酒でも飲まなけれやいられないあたしの胸は……おまえみたいなチンチクリンには分りません――だよ」
「はやく勘定をお払いよ」
「おかねなんて、あるかとさ」
「ないのかえ」
「そこの
「アラ、泣いてら」
「わるいかえ」
「だって、お通さんの泣虫を、さんざん悪くいった癖に、自分で泣くやつがあるもんか」
「あたしの涙は、あのひとの涙とは、涙がちがいますよ。――アア面倒くさい、死んでやろうか」
ふいに身を起すと、
こういう女客も、稀にはあるとみえて、居酒屋の者は笑っていたが、ふと、隅に寝ていた牢人者が、むっくり
「朱実さあん。朱実さあん。――死んじゃいけないよ」
城太郎は追いかけてゆく。
朱実は先へ走ってゆく。
暗い方へ、暗い方へと。
先が闇であろうと、沼であろうと無鉄砲に駈けているもののように見えるが、朱実は、城太郎が泣き声だして、後ろで呼んでいることを知っている。
ひそかな
(誰が、死ぬものか)
と、自分へいいながら、ただわけもなく、城太郎が後ろから駈けて来るのが面白くて、世話をやかせてやりたいのだった。
「あっ、あぶないっ」
城太郎は、呶鳴った。
彼女の先に、
たじろぐ彼女を後ろからひしと抱き止めて、
「朱実さん、およしよ、およしよ。死んだってつまらないじゃないか」
引きもどすと、よけいに、
「だって、おまえだって、武蔵様だって、みんなあたしを、悪者のように思ってるじゃないか。あたしは、死んでこの胸に、武蔵様を抱いてゆく。……そして添わせるものか、あんな女に」
「どうしたのさ。何が、どうしたのさ」
「さあ、その濠の中へ、あたしを突きとばしておくれ。……よ、よ、城太さん」
そして両手を顔に当て、さめざめと、泣きぬくのであった。
城太郎は、その姿を見て、ふしぎな
「……ネ。帰ろう」
と、
「ああ、会いたい。城太さん――探して来ておくれ。武蔵様を」
「だめだよ、そんな方へ歩いてゆくと」
「――武蔵様」
「あぶないッたら」
この二人が居酒屋の横町を駈け出した時から、すぐ後を
「こら、子ども。……この女は、おれが後から送り届けてやる。お前は帰ってもいい」
と、朱実の体を、いきなり小脇に抱きしめて、城太郎を突き
「おや?」
見上げると、
(強そうなやつだぞ)
と思ったのであろう。城太郎は
「いいよ、いいよ」
朱実を連れ戻そうとすると、
「みろ、この女は、やっと虫が納まって、いい気持そうに、おれの腕の中に締められて寝てしまった。おれが連れて帰ってやる」
「だめだよ、おじさん」
「帰れっ」
「……?」
「帰らないな」
ゆっくり、手をのばして、城太郎の襟がみをつかむと、城太郎は、
「な、なにをするのさ」
「この餓鬼め、
「なにをっ」
この頃は、体以上の木剣も、やや手について、ひねり腰に抜くがはやいか、牢人の横腰をなぐりつけた。
――しかし、自分の体も途端に、あざやかなもんどりを宙に打って、
ひとり城太郎に限らず子供というものはよく気絶する。大人のような
「おーい、子どもう」
「お客さん」
「子ども……ウ」
耳元で、かわるがわるに呼ばれて、城太郎は、大勢の中に介抱されている自分を、ぱちぱち見まわした。
「気がついたかい」
皆に問われて、城太郎は、間がわるそうに、自分の木剣を拾うが早いか、歩き出した。
「これこれ、お前と一緒に出た
宿屋の手代は、あわてて彼の腕をつかまえた。
そう訊かれて、彼は初めて、この人々が、奥に泊っている
誰が発明したのか、
「おまえと、角屋の女子が、侍につかまって、難儀をしていると、知らせてくれた者があるのだ。……何処へ行ったかおまえは知っているだろうが」
城太郎は、首を振って、
「知らない。おいらは、何も知らない」
「何も? ……ばかをいえ、何も知らぬことがあるものか」
「何処か、
城太郎は、とかく返辞をいいしぶった。
「どっちだ。その侍の逃げた方は」
「あっちだ」
指さしたのも、いい加減であったが、それっと、大勢が駈け出すとすぐ、ここにいた、ここにいたと、先で叫ぶ者がある。
「まあ、どうしたのじゃ」
提燈の明りに、それを見た人々は、すぐ或る犯行を直感したが、さすがに、口へいい出す者もなく、犯行者の牢人者を追うことも忘れていた。
「……さ、お帰り」
手をひくと、その手を払って、彼女は小屋の
「酔っているらしいね」
「何でまた、
人々は、しばらく、彼女の泣くにまかせて、見まもっていた。
城太郎も、遠くからその様子を覗いていた。彼女がどんな目に遭ったのか、彼にははっきり頭に描くことはできなかったが、彼はふと、朱実とはまるで縁のない過去の或る体験を思いだしていた。
それは、
「行こうッ――と」
すぐ、つまらなくなって、城太郎は駈けだした。駈けながら、たった今、あの世のてまえまで行った魂を、この世に遊ばせて歌いだした。
野なかの、野中の
金 ぼとけ
十六娘をしらないか
迷った娘を知らないか
打っても、カーン
訊いても、カーン
十六娘をしらないか
迷った娘を知らないか
打っても、カーン
訊いても、カーン
帰る
「おや、違ったかな?」
城太郎は初めて、自分の駈けている道に、疑いを抱き、前や後ろを見まわして、
「来る時には、こんな所は歩かなかったぞ」
と、やっと気がついたような顔つきである。
この辺には、古い
戦国以後に発達した
「あっ? ……誰だろう……あんな所から人間が?」
城太郎が
そして一方は、
その沼と田圃の
道もないし、石段も見えないから、恐らく、この辺は砦の
綱の先には、カギがついているとみえて、その綱の端まで降りてくると、足の先で、岩や木の根を探り、下から振ってカギを
――そして遂に、
「なんだろ?」
城太郎の好奇心は、自分の身が宿場の灯から遠い所へ迷って来ていることをも忘れさせてしまった。
「……?」
だがもう、彼がいくら眼をまるくしていても、何も見えて来なかった。
それだけにまた、彼の好奇心は、そこを去りかねた様子で、往来の
彼の期待は
「……なんだ
他人の山の薪を盗む土民は、一背負いの薪のために、夜を選んで、随分あぶない崖も越えるが、もしそんな者だったら――と城太郎はふとつまらない待ちくたびれを感じた。しかし再び、驚くべき事実を
――田圃の
「あっ!」
という声を出さなかったものである。
なぜなら、それは
けれど彼はまたすぐ、
「いや、
と、自分の眼で見た瞬間のものを、打ち消そうとした。
そう打ち消してみると、間違いかとも信じられた。――
そして背中には、なにやら重たげな包みを
見ていると、先へ行く人影は、また、往来から左の丘の方へ向って、曲がって行く。
べつに深い考えもなく、城太郎も後に
どっちにしても、彼も、帰る方角をきめて、歩き出さなければならない場合にあったので、ほかに道を問う人影はなし、漫然、その男の後に
ところが。
先の男は、横道へはいると、
「あら? ……変だな……やっぱり大蔵様に似ている人だ」
それから城太郎は、いよいよ不審を増して、今度はほんとに、見え隠れに、その男を
男が、もう丘の道を登っているので、後から、
首塚の松
このうえ
と、彫ってある。このうえ
「ああ、あの松か」
その
「いよいよ、大蔵様にちがいないぞ」
と、城太郎は
なぜならば、その頃、ここらの
だから、奥州の伊達侯などは、六十余万石の領主であり、大の煙草の
朝、お三ぷく
夕、御 四ふく
御寝 、ご一ぷく
などと誌されてある。夕、
そんなことは、城太郎の知ったわけのものでないが、城太郎にも、滅多な者が喫うべきものでないことは分っている。――また、それを奈良井の大蔵が、日常時をきらわず、陶器製の
「何をしてるんだろ?」
彼は、冒険に
やがてのこと。
悠々と、煙草入れを仕舞うと、男はぬっくと起ち上がった。そしてかぶっている黒い
覆面に使っていた黒布を、手拭のように腰に挟むと、彼は、大地にはびこっている巨松の根を、
「……?」
鍬を杖に立てて、大蔵はしばらく夜の景色でも眺めるように突っ立っている。城太郎もそれで気づいた。この丘は、町場のある本宿と、
「うむ」
大蔵は、独りでうなずいた。そしてやにわに、松の根の北側にある一個の石を転がし、その石のあった下を目がけて、ざくと、
鍬を振りだした大蔵は、わき目もふらずに、土を掘りのけた。
みているうちに、人間の体が立ったままであらかたはいるぐらいな穴になった。――そこで彼は、腰の黒い手拭で、ひと汗拭いた。
「……?」
草むらの石の陰に、石みたいになって、眼をまろくしていた城太郎は、その人間が、大蔵にちがいないと見てはいるが、それでもまだ、自分の知っている奈良井の大蔵とは、人がちがう気がしてならなかった。世の中に、奈良井の大蔵という者が、二人いるような気がして来るのだった。
「……よし」
大蔵は、穴の中にはいって、地面から首だけ出して、そういった。
穴の底を、足で踏み固めているのだった。
自分を埋めて、土をかぶるつもりなら、止めなければならない――と城太郎は考えていたが、そんな心配はいらなかった。
穴から跳び出すと、彼は松の木の下に置いてあった
風呂敷かと思ったら、それは
それだけかと思っていると、彼はこんどは帯を解いて、腹巻だの、背中だの、体じゅうから、慶長判に
土をかぶせる。
足で踏みつける。
そして石を、元のとおりな位置へすえ、新しい
「アア、
その後で、城太郎はすぐ、生き埋めになった黄金のあとに立ってみた。どう見ても、掘りかえしたらしい
「……そうだ。先へ帰っていないと、変に思われるぞ」
町場の
何喰わぬ顔をして、旅籠の二階へあがり、自分たちの部屋へ入ってゆくと、いいあんばいにまだ大蔵は戻っていない。
ただ、
「おい、助さん、
わざと、揺り起すと、
「あ。城太か……」
助市は、眼をこすって、
「こんな遅くまで、御主人様へも無断で、わりゃあ何処へ行っていたのだ」
「何いってんだい」
城太郎はやり返して、
「おいらはもう、とっくの昔に帰っていたじゃないか。寝ぼけて、知りもしないくせに」
「嘘をつけ。わりゃあ、
間もなかった。
そこへ奈良井の大蔵が、
「今もどったよ」
障子を開けて入って来た。
どう歩いても、十二、三里はある。陽のあるうちに江戸へ着こうとすれば、よほど早立ちをしなければならない。
角屋の一行は、まだ暗いうちに八王子を立った。奈良井の大蔵の組は、悠々、朝食をしたため、
「さて」
と宿を立ち出でたのが、もう陽のたかい時分。
挟み
「城太」
大蔵はふり向いて、浮かない彼の顔つきへ、
「どうした、きょうは」
「へ? ……」
「どうかしたのか」
「どうもしません」
「ひどく、きょうに限って、むっつりしているじゃないか」
「はい……、大蔵様。実は、こうしていてはお師匠様にいつ行き会えるか分らないから、おいら、おじさんと別れて捜そうと思うんだけれど……いけないかな」
大蔵は
「いけないな」
すると城太郎は、いつものように、
「どうして」
と
「一ぷくしよう」
大蔵はそういって、武蔵野の草に腰をおろした。そして挟み
「おじさん、おいら、どうしても、お師匠様をはやく捜したいもの。だから一人で、歩いたほうがいいと思って――」
「いけないというのに」
難かしい顔を示しながら、大蔵は
「お前は、きょうから、おれの子になるのだ」
と、いった。
問題が重大なので、城太郎は
「いやなこった。おじさんの子になんかなるのは嫌だ」
「どうして」
「おじさんは、町人だろ。おいらは
「奈良井の大蔵も、根を洗えば、町人ではない。きっと、偉い武士にさせてやるから、わしの養子になれ」
どうやら本気らしいので、城太郎は身ぶるいを覚えながら、
「なぜおじさんは、急にそんなことをいい出すのだい?」
――すると大蔵は、いきなり城太郎の手を引き寄せて、ぎゅっと、
「見たな! 小僧」
「……え?」
「見たろう!」
「……な、なにをさ」
「ゆうべ、おれがしたことを」
「…………」
「なぜ見た!」
「…………」
「なぜひとの秘密を見る!」
「……ごめんよ、おじさん、ごめんよ。誰にもいわないから」
「大きな声を出すな。もう見てしまったことだから、
ほんとに殺されるかも知れないと思った。生れて初めて
「ごめんよ、ごめんよ。殺しちゃ
抑えられた
そのくせ大蔵の手は、決して、彼の心臓がつぶれる程、強い力で締めつけているのではない。
やんわりと、膝のなかへ抱えこんで、
「じゃあ、おれの子になるか」
と、まばらな
その髯が痛い。
そのやんわりとした力がとても怖ろしい。大人臭いにおいが体を
どうしてだろう。城太郎にも分らなかった。危険というだけなら、これ以上あぶない目には何度も出会っているし、それに対しては、むしろ向う見ずな
「どっちだ。どっちがいい?」
「…………」
「おれの子になるか、殺されたほうがいいか」
「…………」
「これ、はやくいえ」
「…………」
城太郎はとうとうベソを掻き始めた。汚い手で顔をこするものだから、涙が黒いしずくになって小鼻のそばに
「なにを泣くか。おれの子になれば、倖せじゃあないか。
「だって……」
「だってなんだ」
「…………」
「はっきりいえ」
「おじさんは……」
「うむ」
「でも」
「
「……だってね……おじさんの商売は、泥棒だろ」
もし大蔵の手が、軽くでもかかっていなければ、途端に彼は、雲をかすみと駈け出していたに違いないが、その膝が深い
「あはははは」
大蔵は、泣きじゃくる背を、ぽんとたたいて、
「だから、おれの子になるのは、嫌だっていうのか」
「……う、うん」
城太郎がうなずくと、彼はまた、肩をゆすって笑いながら、
「おれは、天下を盗む者かもしれないが、けちな
「じゃあおじさんは、泥棒でもないの」
「そんな割の合わない商売はしない。――おれはもっと太い人間さ」
もう城太郎の思案では、どう答えていいか、背が足りなかった。
大蔵は、膝の上から、ぽんと彼を離して、
「さあ、泣かずに歩け。きょうからはわしの子だ。可愛がってやる代りに、

本位田又八の母が、江戸表へ来たのは、その年の五月末頃であった。
気候は、めっきり暑くなっていた。ことしは
「こんな草原や
江戸へ来て、彼女の第一印象は、そんな
京の大津を出てから約二ヵ月近くもかかって、彼女はやっと今、着いたのである。道は東海道をとって来たものらしく、途中では、持病やら信心詣りやら、道草も多いので、都をば
「――ア、なんじゃ?」
彼女は、目角を立てて、普請中の新しい民家の中を
中で笑う声がした。
左官屋が壁を塗っているのである。こての先から飛んできた壁土が、彼女の着物をよごしたのであった。
年は
「往来の者へ、壁土をはね返しながら、詫びもせず、笑うているという法があろうか」
郷里の畑でこういえば、小作や村の者は、
「なんだって。――変なばばあが、なにか、ぶつぶついってるぜ」
お杉婆は、いよいよ怒って、
「今、笑うたのは、いったい誰じゃ」
「みんなだよ」
「なんじゃと」
ばばが肩をいからせる程、職人たちは笑っていた。
年がいもない――よせばいいのにと、足を止めた往来の者は、はらはらしていたが、ばばの性格がそれではすまなかった。
黙って、彼女は土間の中へ入って行った。そして左官たちが、足場にして乗っている板へ手をかけながら、
「おのれであろうが」
と、板を
左官たちは、
「こん畜生」
「さあ、外へ出い」
婆は、脇差に手をかけて、少しも年よりらしい
その勢いに、職人たちは、気をのまれてしまった。こんな婆さんがあろうかと意外であった。すがたや言葉づかいから考えて、侍のおふくろであることは知れているし、へたな真似をしては――と、急に
「この後、今のような無礼をしやると、承知せぬぞよ」
これでいいのだ、ばばは気がすんだとみえて、往来へ出て行った。往来の者は彼女のきかない気らしい後ろつきを見送ってちらかった。
すると、かんな
「この、ばばめ」
いきなり、手桶のへどろを、彼女の体へぶちまけて、隠れてしまった。
「何するかっ」
振り向いた時は、もう
自分の背に浴びた壁土に気づくと、彼女の顔は、無念そうなうちに、泣き出しそうな顔を
「何を笑う?」
と、こんどは、笑っている往来の者へ向って、いいちらした。
「げらげらと、何がおかしゅうて、笑い召さるのじゃ。老いぼれは、わしのみではないぞえ。おぬしらも、やがては年を

「お江戸お江戸と、日本じゅうでは今、この上もない
これで、婆は少し胸がすいたとみえる。なお笑う群衆を捨てて、
町はどこを見ても、木口も壁も新しくて、ぎらぎらと眼を射るし、空地へ出ると、まだ埋めきれない土の下から、
「これが江戸か」
彼女は、事々に、江戸が気に入らなかった。新開発の江戸の中でいちばん古い物が、自分の姿のように思われた。
実際、ここの土に活動しているものは、
「尋ねる者でもない旅なら、こんな所に、一日とて、居てくれるのではないが……」
ぶつぶついっているまに、婆はまた、足を止めた。ここもまた、堀を掘っているので、道を曲がらなければならなかった。
掘り出した土の山は、どんどんと、土車で運ばれてゆく。そうして、
ここらは以前の千代田村と日比谷村のあいだを通っている奥州街道の
そして、昨日今日、急拵えにできかかっている新開地を見て、江戸の全体を考えているので、ひどく落着かないのであった。
掘りかけている
見ると、一字、
「ゆ」
と書いてある。
永楽のびた銭一枚を、湯番にわたして、ばばは、湯にはいった。汗をながすのが
時々、
襦袢一枚に、湯巻の上へ帯を巻いたきりで、これを待っているので、
すると、往来の向う側で、
「
「総坪で、八百坪からござんすよ。値だんは、申し上げたより負かりません」
「高いなあ。すこし、べら棒じゃないか」
「どういたしまして、土盛りの人足賃だって、安かあございません。――それにサ、もうこの
「なあに、まだ、あの通り埋立てているじゃないか」
「ところが、
「ほんとに、八百坪あるのかい、この地面は」
「だから念のために、
四、五名の町人どうしで、頻りと、土地売買の取引をしているのだった。
その値だんを、往来ごしに聞いて、お杉ばばは、眼をまろくした。田舎なら米のできる田が何十枚という値が、ここの一坪か二坪の値だった。
江戸の町人のあいだには今、熱病のように、土地売買の
「米も
と、彼女には、不思議でならなかった。
そのうちに取引の相談がまとまったのであろう。埋地に立っていた人影は、手打ちをして散らかって行った。
「――おやっ?」
ぼんやりと、そんな物を見ているうちに、誰か
「泥棒っ」
と、さけんだ。
小出しの財布はもう帯の間を抜けて、土工か
「――泥棒じゃっ」
自分の首を持って行かれたように、ばばは追い
「――来てくだされッ。往来の衆ッ。盗人じゃっ」
一つや二つ、顔を
「うるせえっ」
と、いいながら、足をあげて、ばばの
並たいていの老婆と心得たのがその小泥棒には不覚であった。うむうっ――と
「ア
財布を持った小泥棒は、ちんばを曳いたままそれでも十間ばかり逃げたが、
今、埋地で土地の手打をして、一人の
「――やっ? そいつあこの間まで、部屋にごろついていた甲州者じゃねえか」
「そうのようです。財布を握っていますぜ」
「泥棒という声が聞えたが、部屋を出ても、まだ
半瓦は、そういうと、逃げかけるちんばの襟がみを
「親分、そいつが、婆さんの財布を持っている筈ですが」
「財布はおれが
「たいして
「坐っているじゃねえか。起てねえのか」
「そいつに、
「よくねえ奴だ」
「
杭を打て――と聞くと甲州者の小泥棒は、刃物を当てられたより
「親分、それだけは、どうぞご勘弁を。以後は改心して、よく働きますから」
ひれ伏して、拝んだが、半瓦は首を振って、
「ならねえ、ならねえ」
その間に、走って行った乾児は仮橋
「この辺へ打ってくれ」
と、空地の中ほどを足で示して大工へいう。
ふたりの大工は、そこへ一本の
「半瓦の親分、これでようがすか」
「よしよし。野郎をそこへふん縛って、頭の上のあたりへ、板を一枚打ってくれ」
「なにか、お書きになるので」
「そうだ」
大工の墨つぼを借りて、それへ
一ツ 泥棒一ぴき
せんだって迄、半瓦の部屋の飯食い者、再度悪事のかど之有 り候につき、雨ざらし陽 ざらし、七日七晩きゅうめいさせ置候 ものなり。
せんだって迄、半瓦の部屋の飯食い者、再度悪事のかど
大工町
弥次兵衛
「ありがとう」墨つぼを返して、
「すまねえが、死なねえ程に、弁当飯のあまりでも、時々エサをやっといてくれ」
と、
一同は口を揃えて、
「承知いたしました。たんと笑ってやりやしょう」
と、いった。
笑ってやるということは、町人社会でさえ、この上もない制裁であった。年久しく武家は武家と戦争ばかりしていて、民治や刑法がゆき届かないために、町人社会はそれ自体の秩序のために、こういう私刑の方法を持っていた。
新興の江戸政体には、もう町奉行の組織だの、大庄屋制度をそのまま
けれど、私刑の風などは、新開発の半途にある混雑な社会には、まだ当分あってもよいものとして、町奉行でも、べつにこれを取締ることはしなかった。
「
「かあいそうに、この年して、ひとり旅の様子じゃねえか。……着物はどうしたんだ」
「風呂小屋の横に、洗濯して、
「じゃあ着物を持って、としよりを負ぶって来い」
「家へ連れて帰るんで?」
「そうよ、
日本橋は、
後の錦絵などで見るよりも、そこの河幅はずっと広くて、両岸から新しい石垣の
鎌倉船や、小田原船が、橋の
「……痛い。うう痛い」
ばばは、
半瓦は、乾児の背から、時々聞える
「もう
往来の者が、頻りと振向くので、こう注意したのである。
それからは、おとなしくなって、ばばは
二、三年前の大火以後、町の家は
(半瓦、半瓦)と、それが通り名になってしまい、自分も得意だった。
江戸へ移住して来た初めは、弥次兵衛はただの牢人者だったが、才気と
「親分」とよばれる特殊な権力家は、新しい江戸には今、彼のほかにも、
町の者は、武家をさむらいと尊敬するように、彼らの一族をも「男
この男伊達も、江戸へ来てから、風俗だの精神は大いに変化したが、江戸の町から発生した
ソノ装束ハ、赤裸 ニ茜染 ノ下帯、小王 打チノ上帯ハ幾重ニモマハシ、三尺八寸ノ朱鞘 ノ刀、柄ハ一尺八寸ニ巻カセ、二尺一寸ノ打刀 モ同ジニ仕立テ、頭ハ髪ヲツカミ乱シ、荒縄ニテ鉢巻ムズトシメ、黒革 ノ脚絆 ヲシ、同行 常ニ二十人バカリ、熊手、鉞 ナド担 フモアリテ……
そして群集はそれを見ると、(当時聞ゆる
と、
その茨組は、口には王義を唱えながら、時には、
(
と出かけ、市街戦の時には、
(正義を骨に、民衆を肉に、義と侠の男らしさを皮にして――)
新興男伊達なるものが、いろいろな職業や階級の中から今、名乗りをあげているのだった。
「帰ったぞ、どいつか、出て来ねえか。――お客さまをお連れ申しているのだ」
半瓦は、自分の家に入ると、大まかな町屋造りの奥へ向って、こう呶鳴った。
よくよく居心地がよいとみえ、お杉ばばが
その一年半の間、ばばは何をしていたかというと、体が、がっしり
(思わず長いお世話になりましたわいの。もうお
と、今日は明日はと、いい暮して来たに過ぎない。
しかし、暇を乞おうにも、
(まあまあ、そう気のみじかいことをいわずに、ゆるりと、
そういわれると、彼女もまた、ここの軒から立つ気も失せる。
初めのうちは、およそ江戸という土地がらや風俗を、
(江戸の人の親切さ)
を身に沁みて、
(何という、気ままな暮し)
と、目を細めて、この土地の人間を眺めるようになっていた。
わけても、半瓦の家はそうだった。ここには百姓出の怠け者もいるし、関ヶ原くずれの牢人も、親の金を
(男を磨きあう)
ということを
この六方者道場には、親分の下に
(ただ遊んでござるのが退屈だったら、若い者の世話などみてくれると有難い)
と、弥次兵衛にいわれたところから、お杉ばばは、
(さすがに、
がさつ者は、噂し合った。お杉ばばの厳格な起居と家政ぶりは、ひどく彼らを感嘆せしめた。また、それが六方者道場の風紀を正すうえに役立った。
六方者ということばは、無法者にも通じる。
「宮本武蔵という侍が立ち廻ったら、すぐあのばば殿へ知らせてやれ」
半瓦の身内は、等しくこう心がけていたが、すでに一年半からになるが、その武蔵の名は
半瓦弥次兵衛は、お杉ばばの口から、その意志や境遇を聞いて、甚だしく同情を抱いたのである。で、彼の持った武蔵
「えらい婆殿だ。憎むべき野郎は武蔵とやらだ」
そうして彼は、お杉ばばのために、裏の空地へ一室を建ててやったり、家にいる日は、
乾児が、彼に訊ねた。
「お客を大事になさるのはいいが、親分ともあろう者が、どうして、そんなに鄭重になさるんですかえ」
すると、半瓦はこう答えた。
「この頃おれは、他人の親でも年よりを見ると、親孝行がしたくなるんだ。……だから俺が、どんなに、自分の死んだ親には、親不孝だったか分るだろう」
町なかの野梅は散った。江戸にはまだ桜はほとんどなかった。
わずかに、山の手の崖に、山桜が白く見られる。近年、
「ばば殿、きょうは一つ、浅草寺へお供しようと思うが、行く気はないか」
半瓦の誘いに、
「おう、観世音は、わしも信仰じゃ。ぜひ
「では――」
と、いうので、お杉ばばも加えて、乾児の
お
堀から隅田のながれへ漕ぎ出すと、半瓦は、
「おばあさん、実は今日は、わしのおふくろの命日なのです。
と、杯を持って、
「そうか。……それはそれは優しいお心がけじゃな」
お杉はふと、自分にもやがて来る命日を考えた。それはすぐ、又八を考えることでもあった。
「さ、少しは
「御命日なのに、酒をのんでも、悪いことはござりませぬか」
「
「久しゅう、酒も飲まなんだ。――酒はたべても、このように、
お杉は、杯を重ねた。
「オオ、
「梅雨頃には、昼間も、昼ほととぎすが啼きぬくが……まだ
「ご返杯じゃ。……親分様、きょうは婆もよい供養のおこぼれにあずかりましたわえ」
「そう、
すると、
「親分、こっちへも、少し廻してもらいてえもので」
「てめえは、櫓がうまいから連れて来たのだ。行きに飲ますとあぶねえから、帰りにはふんだんに飲め」
「我慢は辛いものだ。大川の水がみんな酒に見える」
「お稚児、あそこで網を打っている船へ寄せて、
心得て、お稚児が漕ぎよせて、
山国で老いたお杉ばばには、目をみはるほど珍しかった。
船底にバチャバチャ生きている魚を見ると、鯉、
半瓦は、
「生ぐさは、よう喰べぬ」
と、ばばは首を振って、おぞけをふるった。
舟は間もなく、隅田河原の西へついた。河原を上がると、波打ち際の森の中に、すぐ浅草観音堂の
人々は河原へ降りた。ばばは少し酔っている。年のせいか舟から足を移すのに、よろめく気味であった。
「あぶない、手をとろう」
半瓦が手をひくと、
「なんの、やめてくだされ」
婆は手を振る。
年より扱いが元から嫌いな
するとその河原の石ころを起して、
「おじさん、買っとくれ」
「ばばさん、買っとくれよ」
と、半瓦とお杉のまわりに集まって来て、うるさく
子供が好きとみえて、半瓦の弥次兵衛はうるさがりもせず、
「なんだ
子供らは、一斉に、
「蟹じゃないよ」
と、着物の裾をふくろにしたり、ふところに入れたり、手に持っている物を示して、
「矢だよ、矢だよ」
と争っていう。
「なんだ、
「ああ、鏃だよ」
「浅草寺のそばの
「鏃は要らない。だが、銭をやるからいいだろう」
半瓦が、銭を与えると、子供たちはまた、散らかって、鏃を掘っていたが、すぐ附近の
「ちぇっ」
半瓦は、嫌な気がしたとみえ、舌打ちして、眼をそらしたが、ばばは
「この辺から、あのように
「よくは知らぬが、
話しながら、歩き出すと、
見れば、寺とは名のみの、ひどい
「……なんじゃ、これが江戸の衆がよくいう金龍山浅草寺かいな」
ばばは、一応失望した。
奈良京都あたりの古い文化の遺跡を見た眼には、余りにも原始的であった。
大川の水は、洪水の時、森の根を洗って
「やあ、おいでなされ」
不意に、頭の上で、挨拶する声が聞えた。
(――誰?)
と驚いて、ばばが眼をあげてみると、御堂の屋根の上に坐って、
半瓦の弥次兵衛の顔は、こんな町の端にも知られていると見える。下から挨拶を返しながら、
「ご苦労様。きょうは、屋根でござりますかな」
「はあ、この辺の木には、
堕落
不能損一毛
各執刀加害
念彼観音力
刀尋
初めは
一巻を
「――衆中八万四千衆生、
それからまた、
「又八めが、よい子になり、本位田家の栄えまするよう」
彼女の祈りが終った様子をさし覗いて、堂守の僧が、
「あちらへ、湯を沸かしておきました。渋茶などお上がり下さいまし」
半瓦も乾児も、ばばのために、しびれをさすりながら起ち上がった。
乾児の十郎は、
「もう、ここなら、飲んでもようございましょう」
許しをうけると早速、堂裏にある僧の住居の縁側に、弁当をひろげ、舟で買い求めた魚などを焼いてもらって、
「この辺に、桜はねえが、花見に来たような気がするぜ」
と、お
半瓦は、
「お屋根料の
と、
寄進の多くは、今彼がつつんだ程度の金か、それ以下の額であったが、中にたったひとり、ずば抜けた篤志家がある。
黄金十まい
しなの奈良井宿 大蔵
「お坊さん」しなの奈良井宿 大蔵
「はい」
「さもしいことをいうようだが、黄金十枚といっちゃ当節大金だ。いったい奈良井の大蔵というのは、そんな金持かな」
「よう存じませんが、昨年、年の暮に、ぶらりとご参詣なさいまして、関東一の
「気持のいい人間もあるものだな」
「ところが、だんだん聞きますと、その大蔵様は、湯島の天神へも、金三枚ご寄進なさいました。神田の明神へは、あれは
と――その時、河原と寺内との境の森を、向う見ずに、ばらばらと駈け込んで来る
「
番僧は、縁側に立って、こう呶鳴った。
駈け込んで来た子供らは、
「たいへんだよ、お坊さん」
「何処かのお侍さんと、何処かのお侍さん達が、河原で喧嘩してるよ」
「一人と四人で」
「刀を抜いて」
「はやく行ってごらんよ」
番僧たちは、聞くとすぐ草履へ足を下ろして、
「またか」
と、
すぐ駈け出そうとしたが、半瓦やお杉たちを顧みて、
「お客様方、ちょっと失礼いたします。なにせい、この辺の河原は、喧嘩には足場がよいので、なんぞというと、果し合いの場所になったり、
子供たちはもう、河原の森の
「斬合か」
嫌いでない半瓦の
お杉ばばは、一番後から森を抜けて、河原境の樹の根に立って見渡した。――だが、彼女の足がおそかったので、彼女がそこへ出てみた時は、なにも、それらしい者は見えなかった。
また、あれほど
「……?」
婆はいぶかしく思ったが、すぐ彼女も、同じように息をひそめ、ただ凝視の眼を、じっとすえていた。
見わたす限り、石ころと水ばかりな広い河原であった。水は澄んだ空と同じ色をしていた。燕の影が、その天地を独り自由に
――見ると今、そのきれいな流れと、石ころの道を踏んで、彼方から澄ました顔をして歩いて来る一名の侍がある。人影といっては、それしか見当らない。
侍はまだうら若い男で、背に大太刀を負っているのと、
「……ア。ア」
と、その時、ばばの近くにいた傍観者が、低い声をもらした。
ばばも、はっと、眼をひからした。
牡丹色の武者羽織が立ちどまった所から、約十間ほど後に、四つの死骸が、算をみだして、斬りふせられていたことがわかった。喧嘩の勝敗はもうそれでついていたのである。四人に対して、一人の若い武者羽織の方が、決定的に、勝ちを占めたものらしい。
ところが、まだその四人のうちには、
「まだッ、まだッ。勝負はまだだっ。逃げるなっ」
と、追いかけて来た。
武者羽織は、向き直って、尋常に待ちかまえていたが、火の玉のような
「まだ、お、お、おれはまだ、生きてるぞっ」
「これでも、まだかっ」
刀を
それから、流れで、手を洗っている。
度々、この辺で、斬合を見つけている者でも、その落着きぶりに、
「…………」
とにかく誰も、その間、一語を発しる者もなかった。
手を拭いた牡丹色の武者羽織は身を伸ばして、
「岩国川の水のようだ。……
と、つぶやいて、しばらく、隅田河原のひろさや、水をかすめて飛び
――やがて彼は、急に足を早めた。もう死骸が追いかけて来る憂いはなかったが、後の面倒を考えたらしい。
河原の
「やいっ、侍」
半瓦の乾児の、
こう木の間からいきなり呶鳴って、河原の水際へ駈け出して行き、
「その舟を、どうする気だ」
と、
武者羽織の体には、近づくとまだ
「……いけないのか」
解きかけた
「あたりめえだ。これは、俺たちの
「そうか。……駄賃をやったらよろしかろう」
「ふざけるな、俺たちは、船頭じゃあねえ」
たった今、そこで四人を一人で斬り捨てた侍に対して、こういう口がきける気の
「…………」
悪かったとはいわない。
しかし、牡丹色の武者羽織も、それに横車は押せなかったと見え、小舟から出ると、黙ってまた河原を
「小次郎どの。――小次郎どのじゃないか」
お杉はその前に迫って立っていた。顔を見あわすと、小次郎は、やあといって、初めて
「いたのか。こんな所に。――いや、その後は、どうしたかと思うていたが」
「身を寄せている半瓦の
「いつであったか、そうそう、
と、振りかえって、
「では、あれが婆殿の連れの者か」
「そうじゃ。親分というお人は出来ている人間じゃが、若い者たちは、ひどくがさつ揃いでの」
ばばが小次郎と馴々しく立話しを始めたことは、衆目をそばだたせたばかりでなく、半瓦の弥次兵衛も、意外であった。
で、半瓦はそれへ来て、
「なにか唯今、
と、丁寧に詫び、
「てまえどもも、もう帰ろうとしている所、何ならば、お急ぎの先まで、舟でお送り申しましょう」
と、すすめた。
帰りの小舟の中。
同舟という言葉があるが、ひとつ舟に身を託すとなれば、いやでもお互いに心の
まして、酒もある。
新鮮な
それに、婆と小次郎とは、以前からふしぎに、気心も合い、その後の話も積もるほどあって、
「相変らず、御修行かの」
と、ばばがいえば、
「そちらの大望はまだか」
と、小次郎が訊く。
ばばの大望とは、いうまでもなく「武蔵を討つ」ことにあるが、その武蔵の消息が、この頃はとんと知れないので――といえば、小次郎が、
「いや、昨年の秋から冬頃までの間に二、三の武芸者を訪れたうわさがある。まだ多分、江戸表にいるにちがいない」
と、小次郎が力づける。
「実は、手前も及ばずながら、ばば殿の身の上を聞いてお力添えをしておりますが、武蔵とやらの足どりが今のところ皆目、分らねえので」
と、話は婆の境遇を中心としてそれからそれへ結びつき、
「どうぞ、これからご懇意に」
と、半瓦がいえば、
「わしからも」
と、小次郎は、杯を洗って、彼のみでなく、
小次郎の実力は、たった今、河原で見ているので、打ち解けると、お
「渡る世間に鬼はないというが――ほんに小次郎殿といい、半瓦の身内の衆といい、わしのような老いさらぼうた者を、ようして
と、
話がしめっぽくなりかけたので半瓦が、
「――時に小次郎様。最前、あなた様が河原で討ち果しなすった四人は、あれはどういう人間どもでござりますな」
と、訊ねると、待っていたように、小次郎が、それからの得意な雄弁であった。
「アア、あれか――」
と、先ず最初は事もなげに一笑して、
「あれは、
とまた、肩で笑う。
「小幡というのは?」
と、訊ね返すと、
「知らんのか。甲州武田家の
「アアあの小幡様で」
と、
そして心の
(いったいこの若い侍は、まだ前髪でいるが、どんなに偉いのか?)
と、思った。
半瓦はすっかり、小次郎に傾倒してしまった。
(この人は偉い)
と思うと、こういう持前の男だては、一本槍に惚れこんでゆく。
「いかがでしょう一つ」
と、早速にも、相談であった。
「てまえどもには、しょッ中、ごろついている若い奴らが四、五十人はおります。裏には空地もあるし――そこへ道場を建ててもよろしゅうございますが」
と、小次郎の身を自宅で世話をしたいらしい
「それは、教えてやってもいいが、わしの体は、三百石での、五百石でのと、諸侯から袖を引かれて、弱っているのだ。自分は、千石以下では奉公せぬ所存で、まだ当分は――今の
と、いう。
それを聞くと、半瓦の
「それでも結構です。ぜひ一つお願い申したいもので」
辞を低くして、
「また、お遊びに」
と半瓦がいえば、お杉ばばも、
「待っていますぞよ」
と、小次郎のことばをつがえた。
小次郎は京橋堀へ舟が曲る角で、
「ここで降ろしてくれ」
と、
小舟から見ていると、
「たのもしい人だ」
と半瓦はまだ感心していたし、ばばも、口を極めて、
「あれが、
と、いった。
そして、ふと、
「せめて又八も、あのくらいに、人間が出来てくれれば……」
と
それから五日程後、小次郎はぶらりと、半瓦の家へ遊びに来た。
四、五十名もいる
「おもしろい
小次郎は、そういって、心から愉快になったらしい。
「ここへ、道場を、建てたいと思いますが、ひとつ地所を見てくださいませんか」
と、半瓦は、彼を誘って、家の裏へ連れ出した。
二千坪ぐらいの空地だった。
そこには、
「ここなら、往来の者が、立ちもすまいし、道場などは要るまい。野天でいい」
「でも、雨降りの日が」
「そう、毎日は、わしが来られないから、当分、野天稽古としよう。……ただし、わしの稽古は、
「元より、合点でございます」
半瓦は、乾児を集めて、承知の旨を誓わせた。
稽古日は、月三回、三の日と極めて、その日になると、半瓦の家へ小次郎の姿が見えた。
「
と、近所では噂した。小次郎の派手姿は、何処にいても、人目立った。
その小次郎が、
「次。――次!」
と、呼ばわりながら、紺屋の干し場で、大勢に稽古をつけている姿は、なおさら、目ざましかった。
いつになったら元服するのか、もう二十三、四歳にもなろうというのに、相変らず前髪を捨てず、片肌ぬぐと、眼を奪うような桃山
「枇杷の木で打たれると、骨まで腐ると申すから、それを覚悟でかかって来い。――さっ、次の者、来ないか」
それに稽古とはいえ、この指南者は、少しも
「――もうやめか、誰も出ないのか。やめるならわしは帰るぞ」
例の毒舌が出始めると、
「よしっ、一番おれが」
と、溜りの中から、ひとりの
小次郎の前へ出て来て、木剣を拾おうとすると、――ぎゃっと、その男は、木剣も持たずにへたばってしまった。
「剣法では、油断というものを最も
小次郎は、そういって、
へたばった男を、井戸端へ
「だめだ!」
「死んだのか」
「もう
後から駈け寄る者もあって、がやがや騒いでいたが、小次郎は、見向きもしなかった。
「これくらいなことに恐れるようでは、剣術の稽古などはしないがいい。お前らは、
「――考えてみろ、六方者。おまえらは、足を踏まれたからといっては喧嘩をし、刀のこじりに
小次郎は、胸を伸ばして、
「やはり修行を経た自信でなければ、ほんものの勇気でない。さあ、起ってみろ」
その広言を
「――
と、叫んだままその男は坐ってしまった。
「――もう今日はやめ」
小次郎は、木剣を
「近頃、たいへんな人出だそうだな、
と、笑っていった。
遊びたい時は、遊びたいというし、飲みたい時は、飲ませろという。
「
と、弥次兵衛は乾児のお
「ご案内してあげろ」
と、小次郎に付けて出した。
出かける際、彼らは親分の弥次兵衛からくれぐれも、
「今夜は、
といわれて来たが、
「なあ兄弟、こういう御用なら、毎日仰せつかってもいいなあ」
「先生、これから時々、葭原が見てえと、仰っしゃっておくんなさい」
と、はしゃいでいる。
「はははは。よかろう、時々いってやる」
小次郎は先に歩む。
陽が暮れる途端に、江戸は真っ暗だった。京都の端にもこんな暗さはない。奈良も大坂も、もっと夜は明るいが――と江戸へ来て一年の余になる小次郎でも、まだ足元が不馴れだった。
「ひどい道だ。
「
「でも、水溜りが多いではないか。――今も
堀の水が、
「先生、あそこです」
「ほう……」
眼をみはった時、三人は橋を渡っていた。小次郎は渡りかけた橋をもどって、
「この橋の名は、どういうわけだな」
と、
「おやじ橋っていうんでさ」
「それはここに書いてあるが、どういうわけで」
「庄司甚内ってえおやじがこの町を開いたからでしょう。
おやじが前の竹れんじ
その一節 のなつかしや
おやじが前の竹れんじ
せめて一夜と契 らばや
おやじが前の竹れんじ
いく世も千代も契るもの
ちぎるもの……
仇にな引くな
切れぬ袂 を
「先生にも、貸しましょうか」その
おやじが前の竹れんじ
せめて一夜と
おやじが前の竹れんじ
いく世も千代も契るもの
ちぎるもの……
仇にな引くな
切れぬ
「何を」
「こいつで、こう顔を隠してあるきます」
と、
「なるほど」
と、小次郎も
「
「よう似合う」
橋を渡ると、ここばかりは、往来も
「先生、隠したってもうだめですぜ」
「なぜ」
「初めて来たと仰っしゃいましたが、今、はいった
菰もお稚児も、そういうが、小次郎には覚えがなかった。
「はてな。どんな女が……?」
「
「まったく、初めてだが」
「
今出て来たばかりの
柱も廊下も、寺のように大まかな建築だが、まだ縁の下には枯れない
三人が通ったのは、往来に向いた二階の広座敷であったが、前の客の
下働きの女たちは、まるで女の労働者のように、ぶっきら棒にそれを片づける。お
「これが
と、小次郎は、
「いや、殺伐な」
と、苦笑した。するとお直は、
「これはまだ
と、弁解する。そしてじろじろ小次郎を見ながら、
「お武家様には、どこかでお目にかかっておりますよ。そうそう昨年、私たちが伏見から下って来る道中で」
小次郎は忘れていたが、そういわれて、
「そうか。……それは浅からぬ縁だ」
と、やや興に入る。菰の十郎は、
「それやあ、浅くねえわけでしょう。何しろ、
と、
こんな顔の、こんな衣裳の、と菰が説明するのを聞いて、
「ああ、わかりました」
お直は立って行ったが、いつまで待っても、連れて来ないのみか、菰とお稚児が廊下まで出てみると、なんとなく楼内が
「やいっ、やいっ」
二人が手をたたいて、お直を呼び、どうしたのだと極めつける。
「いないんでございますよ。あなたが呼べと仰っしゃった遊女が」
「おかしいじゃねえか、どうしていなくなったんだ」
「今も、親方の甚内様と、どうもふしぎだと、話しているのでございます。以前も、小仏の途中で、お連れのお武家様と甚内様が話していると、その間に、あの
「――
遠くのほうで呼ぶ声がする。山のように
「…………」
「……いやなこった。誰が出てやるものか」
初めは、客が小次郎と分っていたので、姿を隠したのであるが、そうしている間に、憎らしいものは、小次郎だけではなくなった。
清十郎も憎い、小次郎も憎い、八王子で、酔っている自分を
毎夜のように、自分の肉体をおもちゃにして行く遊客たちもみな憎い。
それはみんな男というものだ。男こそは
(似ている人でもいい)
と、彼女は思った。
もし似ている人に出会ったら、愛の真似事をしても、慰められるだろうと朱実は思っていた。だが、遊客の中に、そんな者は見つからなかった。
求めつつ、恋しつつ、だんだんにその人から遠くなるばかりな自分が朱実にはわかっていた。酒はつよくなるばかりだった。
「花桐っ……。花桐」
さんざん詫びをいわせたり、文句をいったあげく、三名の影は空地から往来の方へ出て行った。多分、あきらめて帰ったものと見える。朱実は、ほっとして、顔を出した。
「――あら花桐さん、そんな所にいたのけ?」
台所働きの女が、頓狂な声を出しかけた。
「……
朱実は、その口へ手を振って、大きな台所口を
「
「……え。お酒を」
「ああ」
彼女の顔いろに怖れをなして、かたくちへ
「……ア、何処へ。花桐さん、何処へ」
「うるさいね、足を洗ってあがるんだよ」
台所の女は、安心して、そこを閉めた。けれど朱実は、土のついた足のまま、有合う草履に足をかけて、
「ああいい気もち」
ふらふらと、往来のほうへ歩み出した。
赤い
「なんだいこの人間たちは」
と、
すぐ道は暗くなった。白い星が堀の中に浮いている。――じっと覗きこんでいると、後ろのほうから、ばたばたと駈けて来る跫音がする。
「……あ、角屋の
世間のあらゆるものが敵視されるのであった。朱実は、まっしぐらに、
したたかに小次郎は酔っていたのである。もちろん、その程度に、どこかの
「肩……肩だおい……」
「ど、どうするんで? 先生」
「両方から肩を貸せというのだ――もう、あるけない」
「だから、泊ろうと、おすすめしたのに」
「あんな
「およしなさい」
「な、なぜ」
「だって、逃げ隠れするような女を、むりに、つかまえて、遊んだって……」
「……む。そうか」
「惚れているんですか、先生はその女に」
「ふ、ふ、ふ、ふ」
「何を思い出しているんで」
「おれは、女になど、惚れたことはないな。……そういう
「先生の望みってえのは?」
「いわずとも知れている。剣を持って立つ以上、剣の第一人者にならずにはおかない。――それには将軍家の指南になるのが上策だが」
「
「治郎右衛門……あんな者が。……柳生とて
「……あぶねえ。先生、自分の足元の方を、気をつけておくんなさいよ」
もう
通う人影もとんとない。行きがけにも悩んだ掘りかけの堀端へ出て来たのである。盛り上げた土に柳の木が半分も埋まっているかと思うと、一方は低い
「
この
「――あっ」
叫んだのは、小次郎であったしまた、その小次郎に、突然、振り飛ばされた
「何者だっ」
と、小次郎は、
その声を、びゅっと、虚空へ斬りながら、背後から不意を襲った男の影は、自分の足先を、余勢に踏み
「わすれたか、佐々木」
と、何処かでいう。
「よくもいつぞやは、隅田河原で同門の四名を斬りすてたな」
べつな者の声である。
「おうっ」
小次郎は、
「――さては、
小次郎の手は肩越しに、背なかの愛剣、物干竿の
勘兵衛は元、武田家の
武田の滅亡後久しく野に隠れていたが、勘兵衛の代になって家康に召出され、実戦にも出たが、病体だし、もう老年なので、
(願わくは、年来の軍学を講じて、余生を奉じたい)
と、今の所へ移ったのである。
幕府は、彼のためにも、下町の一区画を宅地として与えたが、勘兵衛は、
(甲州出の武辺者が、
と、辞退して、平河天神の古い農家を屋敷構えに直し、いつも病室に閉じこもって、近頃は、講義にも滅多に顔を見せない。
森には、
と自ら名乗り、
(わしも、あの仲間の一羽か)
と、わが病骨を、さびしく笑ったりしていた。
病気は今でいう神経痛のようなものであった。
「……先生、少しはおよろしくなりましたか。水でも一口おあがりなされては」
いつも彼の側には、北条新蔵という弟子がつき添っていた。
新蔵は、北条
「……もうよい。……だいぶ楽になった。……やがて夜明け近くであろうに、さだめし眠たかろう。やすめ、やすめ」
勘兵衛の髪の毛は、まっ白であった。体は、老梅のように痩せて
「お案じくださいますな。新蔵は、昼寝しておりますから」
「いや、わしの代講ができる者は、そちのほかにはない。昼間も、なかなか眠る間もあるまい……」
「眠らないのも、修行と存じますれば」
新蔵は、師の薄い背中をさすりながら、ふと、消えかける
「……はての?」
枕に
その顔に、灯が冴えた。
新蔵は、油壺を持ったまま、
「何でござりますか?」
と、師の眼を見た。
「そちには聞えないか……水の音だ……石井戸の辺りに」
「オオ……人の気配が」
「今頃、何者か。……また、弟子部屋の者どもが、夜遊びに出おったのかもしれぬ」
「おおかた、そんなことかと存じますが、一応見て参りまする」
「よく、
「いずれにせよ、お疲れでございましょう。先生は、おやすみなされませ」
夜が白みかけると、痛みもやみ、すやすや寝つく病人であった。新蔵は、師の肩へ、そっと寝具をかけて、裏口の戸を開けた。
見ると、石井戸の流しで、
北条新蔵は、それを見ると、はっとしたらしく眉をひそめた。
「出かけたな! 貴様たちは」
と、いった。
その言葉には、あれほど止めたのに――と叱っても今は及ばないものを見た嘆息と驚きがこもっていた。
石井戸の陰には、二人が背負って来た
「あっ、新蔵殿」
手足の血を洗っていた同門の二人は、彼の姿を仰ぐと、男泣きに泣き出しそうな
「……ざ、残念です!」
弟が兄に訴えるような、甘えた
「馬鹿っ」
「馬鹿者っ」
と、もう一度つづけて、
「――貴公たちに討てる相手ではないから
「でも……でも……。ここへ来ては、病床の師を
「何が無理だ」
年こそ若いが、新蔵は小幡門中の高足であり、師が病床にあるうちは、師に代って弟子達に臨んでいる位置でもあった。
「貴公たちが出向いていい程なら、この新蔵が真っ先に行く。――先頃からたびたび道場へ訪れて来て、病床の師に、無礼な広言を吐きちらしたり、われわれに対しても、傍若無人な小次郎という男を、わしは怖れて捨てておいたのではないぞ」
「けれど、世間はそうは受けとりません。――それに、小次郎は、師のことや、また兵学上のことまでも、
「いわせておけばいいではないか。老師の真価を知っている者は、まさか、あんな青二才と論議して、負けたと誰が思うものか」
「いや、あなたはどうか知りませんが、われわれ門人は、黙っていられません」
「では、どうする気だ」
「
「わしが止めるのもきかずに、隅田河原では、四人も返り討ちにあい、また今夜も、かえって彼のために敗れて帰って来たではないか。――恥の上塗りというものだ。老師の顔に泥をぬるのは、小次郎ではなくて、門下の各

「あ、あまりなお言葉。どうして吾々が、老師の名を」
「では、小次郎を討ったか」
「…………」
「今夜も、討たれたのは、恐らく味方ばかりだろう。……各

喰ってかかるように、門下の一人は、そういう新蔵の胸いたへ不意に迫って来た。
「――だから、
「そうだ。そういわれても仕方がない」
新蔵は、
「わしの態度が、臆病者に見えるなら、臆病者といわれておこう」
――すると、地に
「水を……水をくれい」
「お……もう」
二人が、左右から掻い抱いて、
「待て。水を
二人がためらっている間に、
「…………」
朝の月に、
新蔵は、黙然と立ち去った。
家にはいると、彼はすぐ師の病室をそっと
読みかけの軍書が机のうえに開いてある。書に親しむ間もない程、毎夜の看護である。そこへ坐って、自分の体に
机の前に、腕を
道場には幾人かの内弟子もいるが、皆、武骨な軍学書生である。門に通う者はなおさら、威を張り、武を談じ、孤寂な老師の心情をふかく
すでに今度の問題にしてもそうである。
自分の留守のまに、佐々木小次郎が、何か兵書の質疑で、勘兵衛に
(いつでも相手になる)
と、いって帰ったとかいうのが原因なのである。
原因は常に小さい。しかし結果は大きなことになった。それというのも小次郎がこの江戸で、小幡の軍学は浅薄なものだとか、甲州流などというが、あれは古くからある
(生かしてはおけぬ)
と、
北条新蔵は、その議が持ち上がると、最初から反対した。
――問題が小さい事。
――師が病中にある事。
――相手が軍学者でない事。
それからもう一つ、老師の子息の余五郎が旅先にいることも理由として、
(断じてこちらから喧嘩に出向いてはならぬ)
と、
「……困ったことを」
新蔵は、消えかける
机に肘をのせて
ふと醒めると、何処かで騒がしい人声が
――だが、声のする所は遠かった。講堂を
新蔵は、草履を
裏へ出て、若竹のすくすくと青い竹林を越えると、垣もなく、平河天神の森へつづいてゆく。
見るとそこに、大勢してかたまっているのは、案のじょう、小幡軍学所の門下生たちだった。
明け方、石井戸で傷を洗っていた二人は、白い布で腕を
「……では何か、十名も行って、小次郎一人のために、その半分までも返り討ちになったというのか」
一人が問うと、
「残念だが、何分、
「村田、
「かえって、その二人などが、真っ先に、割りつけられ、後もみな
暗然と、皆、口をつぐんでしまう。平常、軍学に傾倒しているこの派の人々は、いわゆる剣というものを、あれは歩卒の
それが
「……どうしたものか」
と、そのうちに誰か
「…………」
重い沈黙の上に、きょうも
「おれの
「ばかな」
と、幾人もいった。
「そんな外聞にかかわることができるか。それこそ、師の顔に泥を塗るようなものだ」
「じゃあ……じゃあどうするか?」
「ここにいる人数だけで、もう一度佐々木小次郎へ、出会い状をつけようではないか。暗闇で待ち伏せるなどということはもうしない方がよい。いよいよ、小幡軍学所の名折れを増すばかりだ」
「では、再度の果し状か」
「たとい、何度敗れても、このまま
「もとよりだ。……だが、北条新蔵に聞こえるとまたうるさいが」
「勿論、病床の師にも、あの秘蔵弟子にも、聞かしてはならない。――では、
腰を上げて、大勢がひっそりと、平河天神の社家のほうへ歩みかけると、先に歩いていたのが不意に、あッと口走って、身を
「……や?」
誰の足も皆、とたんに棒立ちに
陽あたりのよい壁に、
大勢の顔は、一瞬、
そして、自分たちの眼を疑うように、廻廊の上に小次郎を見あげ、声を出すのはおろか、
小次郎は、
「今、そこで聞いていれば、まだ
例の壮烈な舌を
「それとも小幡の門人らは、果し合いをするにも、大安とか仏滅とか、
「…………」
「なぜ黙っている。生きている人間は一匹もおらぬのか。一人一人来るもよし、
「…………」
「どうしたっ」
「…………」
「果し合いは、見合せか」
「…………」
「骨のある奴はいないのか」
「…………」
「聞け。よく耳に留めておけ、刀法は富田五郎左衛門が歿後の弟子、抜刀の
「…………」
「貴様たちは、平常、小幡勘兵衛から何を学んでいるか知らぬが、兵学とは何ぞや? わしは今、その実際を汝らに、身をもって教訓してつかわしたのだ。――なんとなれば、広言ではないが、ゆうべのような暗討ちに出会えば、たとい勝っても、大概な者なら
「…………」
「佐々木は、剣術家ではあるが軍学家ではない。それなのに軍学の道場へ来てまで、
振向いていうと、拝殿の横で、へいと威勢のよい答えがする。
「先生。やるんですか、やらねえんですか?」
小次郎は、飲みほした
「訊いてみろ。あのぼやっとした顔に」
「あははは。なんてえ
小六が
「ざまあ見やがれ。意気地なしめ。……さ先生、行きましょう。どう見たって、一匹でも、
ふたりの
「……おのれ」
新蔵はつぶやいた。
それと共に、
「今に見ろ」
と、念じておくよりほか彼にはなかった。
出鼻を逆に衝かれて、拝殿の裏に立ち
小次郎が弁じ立てて行ったように、まったく、彼らは小次郎の戦法に乗ぜられてしまったのだ。
一度、臆病風に吹かれた顔に、最初の活気はもう
同時に、心頭に燃えるほどだった彼らの怒りも、
(おれが)
と、進んで追って行く者もなかったのである。
そこへ、講堂の方から、
「…………」
口をきくのも嫌になったように皆、それにも答える者がない。
「棺桶屋が、待っておりますが……」
と
「まだ取りにやった死骸が届かぬから、よく分らぬが、多分、もう一つぐらい要るだろうから、後のも頼んで、届いたのは、物置へでも一時仕舞っておけ」
と、重たい
やがて棺桶は、物置のなかにも積まれ、めいめいの頭の中にも、その幻影が、一個ずつ積まれた。
講堂で、
病室へは知れぬように、極めてそっと送ったが、勘兵衛もうすうすわけを知ったらしく見える。
しかし、何も訊かないのだ。
そこへ
激していた人々は、その日から殆ど
そうして彼は独り、
(今に、今に)
と、来る日を待っていた。
その待つ日の間に、彼はふと、或る日、病師の枕元から見える
その梟は、いつ眺めても、同じ所の
昼間の月を見ても、どうかすると、その梟は、ほうほうと啼くのであった。
夏を越えると、秋ぐちから、師の勘兵衛の
(近い、近い)
と、梟の声が、師の死期を知らせるように、新蔵には、聞えてならない。
勘兵衛の一子
どっちにせよ、北条新蔵には、自分の決意を果す日が近づいたのであった。彼は、もう
「無断で立ち去ります罪は、どうぞお
樹陰から、老師の病間へ向って、彼はいんぎんな挨拶を残して行った。
「もはや明日は、御子息余五郎様が御帰宅ゆえ、ご病間のことも、安心して去りまする。――したが、果たして、小次郎の
そこは
「――はてな?」
武蔵は、行き暮れた足を止めて、野路の
秋の陽は野末に落ちかけ、ところどころの野の水も赤い。もう足元も
武蔵は、
ゆうべも野に寝た。おとといの夜も山の石を枕に寝た。
四、五日前、
「どことなく潮の香がする……。四、五里も歩けば海があるとみえる。……そうだ、潮風を
と、彼はまた、野道を歩いた。
しかし、その勘があたるかどうかわからない。もし海も見えず家の灯も見えなければ、こよいも秋草のなかに、萩と
赤い陽が沈みきれば、こよいも大きな月がのぼるであろう。満地は虫の
自分に風流があるならば、この行き暮れた道をも楽しんで歩くことが出来ように――とは思うのであったが、武蔵は、
(汝、楽しむや)
と、自分へ訊ねて、
(
と、自分で答えるしかない気持であった。
――人が恋しい。
――食物がほしい。
――孤独に
――修行に肉体がつかれかけている。
と正直に思う。
元より、これでいいとしている彼ではない。
ちょうどあれから一年半余――武蔵は先に
なぜ、江戸を後にして、
「仙台家へ仕える程なら……」
武蔵は、
たとい修行に疲れ、
「おれは」
と、そのことを考えると、微笑がわいてくる。彼の大きな希望は伊達公六十余万石を挙げて迎えてくれても、まだ、満足とはしないに違いなかった。
「……おや?」
ふと、足の下で、大きな水音がしたので、武蔵は踏みかけた土橋に立ち止って、暗い小川の
なにか、ばちゃばちゃと水音をたてている。まだ野末の雲が赤いだけに、
「
と、眼を
しかし、彼はすぐ、幼い土民の子を、そこに見出した。人間の子とはいいながら、河獺と大差のない顔をしていた。怪しむように、その子は土橋の上の人影を下から見上げている。
そこで武蔵が、声をかけた。子供を見ると言葉をかけたくなるのは、彼には、いつものことで、特に理由のあることではない。
「子ども、何しているのだ」
すると土民の子は、
「
とだけいって、またざぶざぶ
「あ、泥鰌か」
なんの意味もないこんな会話も、この
「たくさん捕れたか」
「もう秋だから、そういないけど」
「拙者に少し分けてくれぬか」
「泥鰌をかい?」
「この手拭にひとつかみほど包んでおくれ。銭はやる」
「折角だけど、きょうの泥鰌は、お
「……
武蔵は、取残されたまま苦笑をうかべていた。
自分の幼い時の姿が思い出された。友達の又八にもあんな時があったなあと思う。
「……城太郎も、初めて見た頃は、ちょうどあのくらいな
――さて、その城太郎はその後どうしたろうか。何処に何をしていることぞ?
お
「ああ、もうあれも、十六歳になる」
彼はこんな貧しい自分をも、師とよび、師と慕い、師として仕えてくれた。――だが自分は彼に何を与えたか。ただ、お通と自分とのあいだに挟まりながら、旅路の苦労をさせたにすぎない。
武蔵はまた、野中に
城太郎のこと、お通のこと、さまざまな
ただ
「……お。家がある」
灯を見つけた。武蔵は、しばらく何もわすれて、その一ツ灯へ向って歩いた。
近寄ってみると、まったくの一ツ
彼が近づくと、突然、大きな鼻息を鳴らして怒るものがあった。家の横につないであった裸馬である。馬の気配ですぐ知ったとみえ、明りのついている家の中から、
「誰だっ」
と呶鳴る者があった。
――見ると、
「泊めてくれぬか。夜明けにはすぐ立去るが――」
いうと、子どもは、先刻とはちがって、武蔵の顔や姿をしげしげ眺めていたが、
「あ。いいよ」
と、素直に
これはひどい。
雨が降ったらどんなだろう。月明りが屋根からも壁からも洩る。
旅装を解いても、掛ける
「おじさん、先刻、泥鰌が欲しいといったね。泥鰌、好きかい」
童子は、前に
「…………」
武蔵は、それに答えるのを忘れて、この子供を見つめていた。
「……何を見ているのさ」
「
「え」
と、童子はまごついて、
「おらの年かい?」
「うむ」
「十二だ」
「…………」
土民の中にもよい
洗わない蓮根みたいに
「
「すまないなあ」
「お湯ものむのだろ」
「湯も欲しい」
「待っといで」
童子は、がたぴしと、板戸をあけて、次の部屋にかくれてしまう。
柴を折る音や、七輪をあおぐ音がする。家の中は忽ち煙で充ちてくる。天井や壁にたかっていた無数の昆虫が煙に追われて外へ出て行く。
「さ、できた」
無造作に、食べ物が
「うまかった」
武蔵がよろこぶと、人の
「うまかったかい?」
「礼をのべたいが、この
「起きてるじゃないか」
「どこに」
「ここに」
と、童子は、自分の鼻を指さして、
「ほかに誰もいないよ」
と、いう。
職業を訊くと、以前は少しばかり農もやっていたが、親がわずらってから、農はやめて自分が
「……ああ油がきれてしまった。お客さん、もう寝るだろう」
明りは消えたが、月洩る家は何の不便もなかった。
うすい
とろとろと眠りかけると、まだ風邪気が抜けきらないせいか、軽い汗が毛穴にわく。
そのたびに武蔵は、夢の中で雨のような音を聞いた。
夜もすがら啼きすだく虫の音は、いつか彼をふかい
「……や?」
彼は、ふと、身を起していた。
ずし、ずし、ずし――と微かに小屋の柱がうごく。
板戸の隣で、
武蔵はすぐ、枕の下の刀を握った。すると、隣の部屋から、
「お客さん、まだ寝つかれないのかい?」
どうして自分が起きたのを、隣の部屋で知ったろうか。
童子の敏感に
「この深夜に、なんで
すると少年は、げらげら笑いながら、
「なアんだ、おじさんは、そんなことに
武蔵は、沈黙した。
少年の姿を借りた
ごし、ごし、ごしっ……と童子の手はまた、
「……?」
で、板戸の隙間から覗いてみたのである。そこは台所と、
引窓から白い月明りが
「何を斬るのか」
隙間から武蔵がいうと、童子は、その隙間をちょっと振向いたが、一言も発せず、なお懸命に研いでいる。そしてやがてのこと、
「おじさん」
と
「これでね、おじさん。人間の胴中が、二つに斬れる?」
「……さ。腕に依るが」
「腕なら、おらにだっておぼえがある」
「一体、誰を斬るのか」
「おらのお
「何……?」
武蔵は、
「
「だれが、冗談など、いうものか」
「父を斬る? ……それが本気ならおまえは人間の子ではない。こんな
「ああ……。だけど、斬らなければ、持って行けないもの」
「どこへ」
「山のお墓へ」
「……え?」
武蔵は改めて眼を壁の隅へ向けた。
この仏は、生前
――とも知らずに、
(泥鰌を分けてくれぬか)
といった自分の心ない言葉が武蔵は恥ずかしく思い出された。同時にまた、父の遺骸を、山の墓地へ持って行くのに、一人の力では運ばれないから、死骸を両断して持って行こうという――この童子の剛胆な考え方に、舌を巻いて、しばらくその顔を見つめてしまった。
「いつ死んだのだ? ……おまえの父は」
「今朝」
「お墓は遠いのか」
「
「人を頼んで、寺へ持って行けばよいではないか」
「おかねがないもの」
「わしが、
すると、童子は、かぶりを振っていった。
「お父さんは、人から物を恵まれるのは、嫌いだった。お寺も嫌いだった。――だから、いらない」
一言一句、この少年のことばには、奇骨がある。
父という仏も、察するに、
武蔵は彼のことばに任せ、山の墓所へ、仏を運ぶ力だけ貸した。
それも、山の下までは、仏を馬の背にのせて行けばよいのであった。ただ
墓所といっても、大きな栗の木の下に、丸い
仏を
「
と、
――何の宿縁。
武蔵も共に仏の冥福を念じて、
「墓石もそう古くないが、おまえの祖父の代から、この辺に土着したとみえるな」
「ああそうだって」
「その以前は」
「
「それほどな家柄なら墓石にせめて、祖父の名ぐらい刻んでおきそうなものだが、
「祖父が、墓へは、何も書いてはいけないといって死んだんだって。
「その祖父の、名は聞いていたか」
「
「おまえは」
「三之助」
「身寄りはあるのか」
「姉さんがあるけれど、遠い国へ行っている」
「それきりか」
「うん」
「明日からどうして生きてゆくつもりか」
「やっぱり
と、いってすぐ、
「おじさん。――おじさんは武者修行だから、年中旅をして歩くんだろ。おらを連れて、何処までもおらの馬に乗ってくれないか」
「…………」
武蔵は
人間の力が土や水や自然の力を自由に利用する時、はじめてそこに文化が生れる。坂東平野はまだ人間が自然に圧倒され、征服され、人間の智慧の
陽がのぼると、そこらを、小さい野獣が跳ぶ、小鳥が
やはり、子どもは、子どもである。
土の下に、父を葬って帰るさには、もう父のことを忘れている。いや忘れてもいまいが、葉の露から昇る曠野の日輪に、生理的に、悲しみなどは、吹きとんでいた。
「なあ、おじさん、いけないかい。おらは、今日からでもいい――。この馬に、何処までも乗って行って、何処までも、おらを連れて行ってくんないか」
山の墓所を降りてからの帰り途――
三之助は、武蔵を、客として、馬にのせ、自分は、馬子として、手綱を引いていた。
「……ウム」
と、うなずいてはいるが、武蔵は明瞭な返辞はしない。そして心のうちでは、この少年に、多分な望みをかけていた。
けれど、いつも
すでに、城太郎という先例がある。彼は、素質のある子だったが、自分が流浪の身であり、また自分にさまざまな
(もし、あれで悪くでもなったら――)
と、武蔵は、いつもそれが、自分の責任でもあるかのように、胸をいためている。
――しかし、そういう結果ばかり考えたら、結局人生は、一歩も、あるくことが出来ない。自分の寸前さえ分らないのである。ましてや、人間の子、ましてや、育ってゆく少年の先のこと、誰が、保証できよう。また、
(ただ、本来の素質を、
それならば、できると彼も思う。また、それでいいのだと、自身に答えた。
「ね、おじさん、だめかい、いやかい」
三之助は
武蔵は、そこでいった。
「三之助、おまえは、一生涯、馬子になっていたいか、侍になりたいか」
「それやあ、侍になりたいさ」
「わしの弟子になって、わしと一緒に、どんな苦しいことでもできるか」
すると、三之助は、いきなり手綱を
「どうか、お願いです。おらを侍にしてください。それは死んだお
武蔵は、馬から降りた。
そしてあたりを見廻した。一本の枯れ木の手頃なのを拾い、それを三之助に持たせて、自分も有り合う木切れを取って、こういった。
「師弟になるかならぬか、まだ返辞はできぬ。その棒を持って、わしへ打ち込んで来い。――おまえの手すじを見てから、侍になれるかなれないか決めてやる」
「……じゃあ、おじさんを打てば、侍にしてくれる?」
「……打てるかな?」
武蔵はほほ笑んで、木の枝を構えてみせた。
枯れ木をつかんで立ち上がった三之助は、むきになって、武蔵へ打ちこんで来た。武蔵は、
(今に、泣き出すだろう)
と思っていたが、三之助は、なかなかやめなかった。しまいには、枯れ木も折れてしまったので、武蔵の腰へ武者ぶりついて来た。
「
と、わざと大げさに、武蔵は彼の帯をつかんで、大地へたたきつけた。
「なにくそ」
と、三之助はまた、
「どうだ、参ったか」
三之助は、

「参らない」
「あの石へ、叩きつければ、おまえは死ぬぞ。それでも参らないか」
「参らない」
「強情な奴だ。もう、貴様の敗けではないか。参ったといえ」
「……でも、おらは、生きてさえいれば、おじさんに、きっと勝つものだから、生きているうちは参らない」
「どうして、わしに勝つか」
「――修行して」
「おまえが十年修行すれば、わしも十年修行して行く」
「でも、おじさんは、おいらよりも、年がよけいだから、おらよりも、先へ死ぬだろう」
「……む。……ウム」
「そしたら、おじさんが、
「……あッ、こいつめ」
真っこうから一撃喰ったように、武蔵は、三之助のからだを、大地へ
「……?」
ぴょこんと
「弟子にする」
武蔵は、その場で、三之助に言葉をつがえた。
三之助の
二人は、一度、家へ戻った。――
そうして、翌る日の朝。
武蔵は、支度して、先へ軒を出ていた。
「――
「はい。今参ります」
三之助は、後ろから、飛び出して来た。着のみ着のままの支度である。
今、武蔵が、「伊織」と彼を呼んだのは、彼の祖父が、最上家の臣で、三沢伊織といい、代々伊織を称して来た家だと聞いたので、
(おまえも、わしの弟子となって、侍の子に返った
と、まだ元服には早い
しかし、今飛び出して来た姿を見ると、足にはいつもの
「馬を遠くの樹へ持って行って
「先生、乗って下さい」
「いや、まあいいから、
「はい」
きのうまでは、何かの返辞も、ヘイであったが、今朝からは急に、ハイに変っている。子供は、自分を改めることに、何のためらいも持たなかった。
遠くへ馬を繋いで、伊織はまた、そこへ帰って来た。武蔵は、まだ軒下に立っている。
(何を見てるんだろう?)
伊織には、不審であった。
武蔵は、彼の
「おまえは、この
「ええ」
と、武蔵の手をのせたまま、小さい
「おまえの祖父は、二君に仕えぬ節操をもって、この野小屋にかくれ、おまえの父は、その人の晩節を
「はい」
「偉くなれよ」
「……え、え」
伊織は、眼をこすった。
「三代、雨露をしのがせて貰った小屋に、手をついて、別れをいえ、礼をのべろ。……そうだ、もう名残はよいな」
いうと、武蔵は、屋内へはいって、火を
小屋は見るまに、燃えあがった。伊織は、熱い眼をして見ていた。その
「このままにして立ち去れば、後には野盗や
「ありがとうございます」
見ているうちに、小屋は
「さ。行きましょう」
伊織はもう先を
「いや、まだまだ」
武蔵は、首を振ってみせた。
「まだって? ……これからまだ、何をするんですか」
伊織は、いぶかしそう。
その不審顔を笑って、
「これから、小屋を建てにかかるんだよ」
と、武蔵がいう。
「え? どうしてだろ。……たった今、小屋を焼いちまったのに」
「あれは、きのうまでのおまえの御先祖の小屋。きょうから建てるのは、われわれ二人の
「じゃあ、またここへ住むんですか」
「そうだ」
「修行には出ないんですか」
「もう出ているではないか。わしも、おまえに教えるばかりではなく、わし自身が、もっともっと修行しなければならないのだ」
「なんの修行?」
「知れたこと、剣の修行、武士の修行――それはまた、心の修行だ。伊織、あの
指さす所へ行くと、いつの間にか、そこの草むらの中には斧だの
伊織は、大きな斧をかつぎ、武蔵の歩む後に
栗林がある。そこには松も杉もあった。
武蔵は、肌を脱ぎ、斧を
――道場を拵える? この平野を道場に修行する?
伊織には、いくら説明されても分る程度しか分らなかった。旅へ出ないで、この土地に止まることが何だかつまらない。
どさっ――と樹が
血のさした武蔵の栗色の皮膚には、黒い汗がりんりと流れ出した。この日頃からの
彼は昨日の未明、一個の農民で終った伊織の父の墓のある山から――坂東平野の未開をながめて、
(しばらく、剣を
という発願だった。
剣を
鍬を持つ中にも、剣の修行はあるはずだと思う。
しかも、この
武者修行は、由来、
けれど、一
武蔵は、百姓の
けれど、今日からする百姓は、朝夕の
さらにまた、
「伊織、縄を持って来て、材木をしばれ。――そして河原の方へ曳いてゆけ」
伊織は、縄を結びつけて、材木を曳いた。武蔵は、斧や
夜になると、手斧
「どうだ伊織、おもしろいだろうが」
伊織は正直に答えた。
「ちっとも、おもしろいことなんかないや。百姓するなら、先生の弟子にならなくたって、できるんだもの」
「今におもしろくなる」
秋が
夜ごとに、虫の音は減って行った。草木は枯れてゆくのである。
もうその頃には、この法典ヶ原に、二人の寝小屋が建ち、二人は毎日、
もっとも、それにかかる前に、彼は一応この附近一帯の荒地を足で踏んで、
(なぜ、この天然と人とが離反したまま雑木雑草に
を考査してみた。
(水だ)
と、まず第一に、治水の必要が考えられた。
小高い所に立ってみると、ここの荒野は、ちょうど応仁以後から戦国時代にわたる人間の社会みたいな図であった。
ひとたび、坂東平野に大雨がそそぐと、水は各

それらを収める主流というものがないのだ。天気の日眺めると、それらしいものは幅の広い河原を作っているが、天地の大に対する包容力が足らないし、元々、あるがままに出来た河原なので、秩序もないし、統制もない。
もっとなくてならないのに無いものは、群小の水を集めて、一体に指してゆくべき方角を持たないのだ。主体自らが、その折々の気象や天候にうごかされて、或る時は、野にあふれ、或る時は、林を貫き、もっと甚だしい時は、人畜を
(容易でないぞ)
と、武蔵は、踏査した日から思った。
それだけに、彼はまた、非常な熱と興味をこの事業に抱いた。
(これは政治と同じだ)
と思う。
水や土を相手に、ここへ
(そうだ、これはおれの理想とする目的と、偶然にも合致する)
この頃からのことである。――武蔵は剣に、おぼろな理想を抱き始めた。人を斬る、人に勝つ、飽くまで強い、――といわれたところで何になろう。剣そのものが、単に、人より自分が強いということだけでは彼はさびしい。彼の気持は満ち足りなかった。
一、二年前から、彼は、
――人に勝つ。
剣から進んで、剣を道とし、
――おのれに勝つ。人生に勝ちぬく。
という方へ心をひそめて来て、今もなおその道にあるのであったが、それでもなお、彼の剣に対する心は、これでいいとはしない。
(
と、
(よしおれは、剣をもって、自己の人間完成へよじ登るのみでなく、この道をもって、治民を
と、思い立ったのである。
青年の夢は大きい、それは自由である。だが、彼の理想は、今のところ、やはり単なる理想でしかない。
その抱負を実行に移すには、どうしても政治上の要職に就かなければできないからだ。
しかし、この荒野の土や水を相手としてそれをやる分には、要職もいらなければ、衣冠や権力をもって臨む必要もない。武蔵は、そこに熱意と歓びを燃やしたのであった。
木の
高い土を崩してならし、大きな岩は、水利の
そうして日々、
「何をしてるだ?」
と、いぶかり顔に、
「小屋あ、ほっ建てて、あんな所に、住む気でいるのか」
「ひとりは、死んだ三右衛門とこの
うわさが拡がる。
「そこなお侍よう、おめえッちら、そんなとこを、せッせと
幾日か経って、また来てみても、黙々と、伊織を相手に、武蔵が労働しているのを見ると、親切者も少し、腹を立てたように、
「おウい。くそ骨折って、つまらねえところに、水
また――数日おいて来てみたところ、相変らず、二人の耳のないような姿が働いているので、
「
と、こんどは、ほんとに怒ってしまい、そして武蔵を、ふつうの智恵のない馬鹿者と見なして、
「
「
「止めさらせ、そんなとこ、掘りちらすなあ」
「むだ骨折る奴あ、くそ袋もおんなじだよ」
鍬を打ち振りながら、武蔵は土へ向ったまま笑っている。
たしなめられてはいたが、伊織は時々、むッとして、
「先生、あんなこと、大勢していってるよ」
「ほっとけ、ほっとけ」
「だって」
と伊織は、小石をつかんで、
「これッ。師のことばを聞かぬやつは、弟子ではないぞ。――何する気かっ」
と、叱りつけた。
伊織は耳がしびれたようにハッとした。けれど、手に握った石は素直に捨てられもせず、
「……畜生っ」
と、近くの岩にたたきつけて、その小石が、火花を出して、二つに割れて飛んだのを見ると、何だか悲しくなってしまい、
(泣け、泣け)
といわないばかりに、武蔵は、それも
すすり泣いていた伊織は、だんだん声を高めて、果ては、天地にただ独りいるように、声をあげて、大泣きに泣き出した。
父の死骸を二つに
――お
――おっ母さん!
――
届かぬ地下の人へ、届けよとばかり、訴えているかのように、武蔵には、強く胸を打ってくる。
この子も孤独。われも孤独。
余りの伊織の泣き声に、草木も心あるもののように、
ポツ、ポツ、とほんとの雨もこぼれて来て――。
「……降って来た。ひと
小屋の中へ飛びこんだ時は、雨はもう真っ白に、天地を一色に降りくだいていた。
「伊織、伊織」
後から
窓から眺めやると、凄まじい
「…………」
竹窓のしぶきに顔を濡らしながら、武蔵は
こういう豪雨を見るたびに、風のすさぶ度に、武蔵は、もう十年近い昔になる――七宝寺の千年杉を思い出す、
まったく自分の今日あるのは、あの大樹の恩だと思う。
その自分が、今は、たとえ幼い童子にせよ、伊織という一弟子を持っている。自分に果たして、あの大樹のような無量広大な力があるか、沢庵坊のような肚があるか。――武蔵は顧みて、自分の成長を思うと気恥ずかしい心地がする。
だが、伊織に対しては、どこまでも自分は千年杉の大樹の如くであらねばならぬと思う。沢庵坊のような
「……伊織っ、伊織っ」
外の豪雨に向って、武蔵は再三再四呼んでみた。
何の返辞もない。ただ
「どうしたのか」
武蔵すら、出てみる勇気もなく、小屋に閉じこもっていたが、そのうちに、はたと雨が小やみになったので、外へ出て見まわすと、何という強情な性質の童子だろうか、伊織はまだ依然として、前にいた耕地の所から一尺も動かずに立っているのだった。
(すこし
とすら、疑えないこともない。
あんぐりと口を開いて、
武蔵は、近くの、小高い所まで駈けて行って、思わず、
「ばかっ」と、叱った。
「はやく小屋へはいれ、そんなに濡れては体に毒だ。ぐずぐずしておると、そこらに河が出来て、戻れなくなるぞ」
――すると、伊織は、武蔵の声をさがすように見廻して、にやりと笑って、
「先生は、あわてもンだなあ。この雨はやむ雨だよ。この通り、雲が
と、一指を天にさしていった。
「…………」
武蔵は、教える子に、教えられたような気がして、沈黙していた。
だが、伊織は、単純なのである。――武蔵のようにいちいち考えていったりしたりしているのではない。
「おいでよ、先生。まだ明るいうちにゃ、だいぶ仕事ができるよ」
と、その姿のままで、また、前の労働をつづけ始めた。
ここ四、五日青空をみせて、ひよ、もずの高音に穂すすきの根の土も乾きかけて来たかと思うとまた、野末の果てから背のびをした密雲が、見るまに坂東一帯を、
「先生、こんどは、ほんものが
と、心配そうにいった。
いううちにも、墨のような風が吹く。帰る所へ帰り遅れた小鳥は、ハタキ落されたように地に墜ち、草木の葉はみな葉裏を白く見せて
「一降り来るかな?」
武蔵が訊くと、
「一降りどころじゃないぜ、この空は――。そうだ、おらは村まで行って来よう。先生は道具をまとめて、早く小屋へ引揚げたほうがいいよ」
空を見ていう伊織の予言は、いつも
果たして、風も雨も、伊織のいったとおり、いつものとは変って、兇暴に
「――何処へ行ったのか」
武蔵はひとり小屋へ帰ったが、案じられて時々外を見た。
きょうの豪雨は常と違う。おそろしい雨量である。そして一瞬にハタとやむ。やんだかと思うと前にも増して降ってくる。
夜になった。
雨はよもすがらこの世を湖底としてしまうかとばかり降りぬいた。ほっ建て小屋の屋根はいくたびも飛ぶかと危ぶまれ、屋根裏に
「困ったやつ」
伊織はまだ帰らない。
夜が明けてもなお見えない。
いや夜が白みかけて、きのうからの豪雨のあとを見渡すと、なおのこと、伊織の帰りは絶望された。日頃の
ここの小屋は、やや高い所を選んであるので、幸いに、
「……もしや?」
武蔵はふと案じ出した。その濁流に流されてゆく
だが、彼はその時、ごうごうと地も空も水に鳴る
「せんせーいっ。……先生ーッ」
武蔵は、鳥の浮巣みたいにみえる
何処へ行ったのか、彼は牛の背に乗って帰って来たのだ。牛の背には自分のほかに、何か縄で
「おおう……?」
と見ているまに、伊織は、牛を濁流へ乗り入れた。
濁流の赤いしぶきと
「伊織! 何処へ行ったのだ」
半ば怒るように――半ばほっとしたように、武蔵がいうと、伊織は、
「何処へって、おら、村へ行って、食い物をうんと持って来たんじゃないか。この
武蔵は、伊織の悧発なのに
天候の悪兆候をみたら、すぐ食物の準備を考えておくことは、野に住む者の常識で、伊織は、
それにしても、牛の背から下ろした食物は、少ないものではない。
「これは
と、幾つもの袋をならべ、
「先生、これだけあれば、ひと月やふた月、水が
と、いう。
武蔵の眼には涙が
だが、自分たち師弟を、狂人呼ばわりしている村の者が、どうして、食物を施してくれたろうか。村の者自身さえ、この洪水では、自身の飢えにおののいているに違いない場合に。
武蔵が、その不審を
「おらの
と、いう。
「徳願寺とは?」
と聞くと、この法典ヶ原から一里余り先の寺で、いつも彼の
(おれの
といわれていたのを思い出し、常に、肌身に持っていたその巾着を預けて、寺の
「では
と武蔵がいうと、
「そうだ、古い家は焼いちゃったから、お
と、腰の
その野差刀も、武蔵は一見したことがあるが、生れからの野差刀ではない。無銘とはいえ、名刀の部に入ってよい品である。
思うに、この子の
「親の遺物など、滅多に、人に渡すものではない。いずれわしが、徳願寺へ行って、貰い返してやるが、以後は、手離すではないぞ」
「はい」
「ゆうべは、その寺に、泊めてもらったのか」
「和尚さんが、夜が明けてから帰れといいましたから」
「朝飯は」
「おらもまだ。先生も、まだだろう」
「ウム。
「薪なら、くれてやる程あるよ。――この縁の下は、みんな薪だよ」
こんな幼い者にでも経済の観念がある。誰がそれを教えたか。まちがえばすぐ飢え死ぬ未開の自然が生活の師であった。
「先生、水が
と、
外は、その日も終日、吹き
見ると、論語の一冊である。これもお寺で貰ったのだという。
「学問をしたいのか」
「ええ」
「今までに、少し
「すこし……」
「誰に教わった」
「お
「何を」
「小学」
「すきか」
「すきです」
伊織は、その体から知識を燃やしていった。
「よし、わしの知ってる限り教えてやろう。わしに及ばない所は、今に、学問のよい師を見出して就くがよい」
暴風雨の中に、ここの一軒だけは、素読の声と講義に一日暮れて、屋根はふき飛んでも、この師弟は、びくとも膝を立てそうもなかった。
翌日も雨。次の日も雨。
それがやむと、野は湖水になっていた。伊織は、むしろ欣んで、
「先生、今日も」
と、
「
「なぜ」
「あれをみろ」
武蔵は、濁流を指さして、
「河の中の魚になると、河が見えない。余り書物に
「だって、きょうはまだ、外へも出られないぜ」
「――こうして」
と、武蔵はごろりと横になって手枕をかいながら、
「おまえも、寝ころべ」
「おらも、寝るのか」
「起きているとも、足を投げ出すとも、好きにして」
「そして何するんだい」
「話をしてやろう」
「
と、伊織は、腹這いになって、魚の尾のように、足をばたばたさせ、
「何の話?」
「そうだな……」
武蔵は自分の少年時代を胸にうかべ、少年の好きそうな合戦の話をした。
多くは源平盛衰記などで聞き覚えた物語である。源氏の没落から平家の全盛にくると、伊織は憂鬱だった。雪の日の
「おら。義経は好きだ」
と、
「先生、天狗ってほんとにいるの」
「いるかも知れぬ。……いやいるな、世の中には。――だが、牛若に剣法を授けたというのは、天狗ではないな」
「じゃあ何?」
「源家の残党だ。彼らは、平家の
「おらの、
「そうそう、おまえの
「おらだって――先生、祖父のかわりに、今、時を得たんだろ。……ねえそうだろう」
「うむ、うむ!」
武蔵は、彼のその言葉が気に入ったとみえ、いきなり伊織の首を寝たまま抱きよせて、脚と両手で手玉に取って天井へ差し上げた。
「偉くなれ。こら」
伊織は、
「あぶないよ、あぶないよ先生。先生も僧正ヶ谷の天狗みたいだなあ。――やあい天狗天狗、天狗」
と上から手をのばし、武蔵の鼻を
五日たっても十日たっても、雨はやまなかった。雨がやんだと思うと、野は洪水に
自然の下には、武蔵も、じっと
「先生、もう行けるぜ」
伊織は太陽の下へ出て、今朝から呶鳴っている。
二十日ぶりで、二人は道具を
そしてそこに立つと、
「あっ……?」
と、ふたりとも茫然としてしまった。
二人が
――阿呆。
土民たちが
手の下しようもなく、黙然と立っている武蔵を見上げて、伊織は、
「先生、ここはだめだ。こんな所は捨てて、もっと
と、策を述べる。
武蔵はそれを容れない。
「いやこの水を、
「でもまた、大雨が降ったら」
「こんどは、それが来ないように、この石で、あの丘から堤をつなぐ」
「たいへんだなあ」
「元よりここは道場だ。ここに麦の穂を見ぬうちは、尺地も
水を一方に導き、
けれど、一雨降ると、一夜のうちに、また元の河原になってしまった。
「だめだよ先生。むだ骨ばかり折るのが、何も、
武蔵は、伊織にまでいわれた。
でも、耕地を変えて、ほかへ移る考えは、武蔵は持たなかった。
彼はまた、雨後の濁流と闘って、前と同じ工事をつづけた。
冬に入ると、

食物がなくなると、伊織は、徳願寺へもらいに行った。寺の者もよくいわないとみえて、戻って来ると、伊織の顔つきに、憂いが見えた。
そればかりでなく、この二、三日は武蔵も
「そうだ! ……」
或る時、何か大きな発見をしたように、武蔵は伊織へいうともなく、
「きょうまでおれは、土や水へ対して、
と、
「――間違いだった! 水には水の性格がある。土には土の本則がある。――その物質と性格に、素直に
彼は今までの開墾法をやり直した。自然を征服する態度を改めて、自然の従僕となって働いた。
次の
「これは政治にも」
と、彼は悟った。
同時に、旅手帳へも、
――世々の道に
と、自戒の一句を覚え書きしておいた。
長岡
江戸から七、八里あるので、一泊になる場合もある。従者はいつも侍三名に小者一名ぐらい召連れ、身分からすれば極めて質素であった。
「寺僧」
「はい」
「あまりかもうてくれるな。心づくしは
「恐れいります」
「それよりは、わがままに、くつろがせて貰いたい」
「どうぞお気ままに」
「無礼を許されよ」
佐渡は、横になって、白い
江戸の藩邸は、彼の体を寸暇もなく忙殺させる。彼は、寺詣りを口実に、ここへ
こよいも佐渡は
寺僧は、そっと、
「ああよい心地。このまま
手枕をかえた
「おかぜを召すといけません。夜風は露をふくんでおりますから」
注意すると、佐渡は、
「捨てておけ。戦場で鍛えた体、夜露でくさめをするような気遣いはない。この暗い風の中には、菜の花のにおいが
「とんと、分りませぬ」
「鼻のきかぬ男ばかりじゃの。……ははははは」
彼の笑い声が大きいせいでもあるまいが、その時、
――と思ううち、
「こらっ、
佐渡の
侍たちは、すぐ立って、
「何じゃ」
「何事じゃ?」
と見まわした。
その影を見ると、誰か、小さな跫音がバタバタと
「お詫びいたしまする、何せい土民の親なし子、お見のがし下さいませ」
「
「そうでござります。ここから一里ほど先の法典ヶ原に住んでいた馬子のせがれでございますが、
座敷の中に寝ころんでいた佐渡は、その話にふと起き直って、
「そこの
「はい。……アアこれは長岡様で、お目ざめに」
「いやいや
「おばさん、
と、一斗もはいる
「なんじゃこの餓鬼は。まるで貸した物でも取りに来るように」
大きな暗い台所から、寺の婆やは呶鳴りかえした。
いっしょに洗い物を手伝っていた
「お住持が、かあいそうじゃから遣れと仰っしゃるので、くれて遣るのじゃぞ。なんだ、大きな
「おらの顔、大きいかい」
「物貰いは、あわれな声を出して来るものだ」
「おらは、物乞いじゃない。和尚さんに、
「野中の一軒家の、馬子のおやじが、どれ程なおかねを餓鬼に
「くれないのかい、粟を」
「だいいちおまえは阿呆だぞ」
「なぜさ」
「どこの馬の骨かわからない
「大きなお世話だい」
「田にも畑にもなりッこないあんな土地を
「いいよウだ」
「おまえも少し、
「うるさいな、粟を出しておくれよ、はやく、粟をおくれよ」
「アワといわないで、アカといってみろ」
「アカ」
「んべ! ……だ」
ぐしゃっと、濡れ雑巾のようなものが、その顔へ貼りついた。納所坊は、きゃっと悲鳴をあげて青ざめた。彼の大嫌いな大きなイボ
「このお
納所坊はおどり出して、伊織の首根ッこをつかまえた。そこへ奥に泊っている
「なにか、粗相でもあったのか」
と、住持までが、案じ顔してそこへ来たが、いえいえただ佐渡様が
「それならよいが」
と住持はほっとしたが、なお、心配は去らないとみえて、伊織の手を引っぱって、自身、佐渡の前へ連れて来た。
書院の隣室には、もう夜の
「
と、訊ねた。
「十三。ことしから、十三になりました」
と伊織は、相手を心得ている。
「侍になりたいか」
と、訊かれると、伊織は、
「うん……」
と
「では、わしの屋敷へ来い。水汲みから、
というと、伊織は、黙ってかぶりを振った。そんな筈はない、きまりが悪いのじゃろう、明日は江戸へ連れて帰る――と重ねて佐渡がいうと、伊織は、
「殿様、お菓子をくれなければ嘘つきだぜ。はやくおくれよ、もう帰るんだから」
住職は青くなって、眼から離した彼の手を、ピシャリと打った。
「叱るな」
と、佐渡は、住職の気遣いを、かえって
「侍は嘘をつかぬ。今、菓子を
と、従者に、すぐいいつけた。
伊織は、それを貰うと、すぐ
「なぜ、ここで喰べぬか」
と、訊ねると、
「先生が、待ってるから」
「ホ……先生とは?」
佐渡は、異な顔をした。
もう用はないといった
「小僧、どうしたか」
「今、粟を背負って、帰ってゆきましたが」
と、そこにいる者の答え。
耳を澄ますと、真っ暗な外の何処かを、頓狂な木の葉笛の音が流れてゆく――
ぴき、ぴー
ぴッぴッき、ぴーの
ぴよ助、ぴゅー
伊織は、いい歌を知らないのが残念だった。馬子の唄うぴッぴッき、ぴーの
ぴよ助、ぴゅー
お盆になると、踊りにうたうこの地方の歌垣から
結局、彼は、
「おやっ?」
と、唇の木の葉を、
二筋の野川は、そこから一つになって、部落の方へ流れている。その土橋のうえに三、四人の大男が、顔を寄せて何かひそひそ声を交わしているのである。
伊織は、その人間たちを見たとたんに、
「――あっ、来た」
と、先おととしの秋の
子を持つこの辺の母親は、ふた言めにはすぐ、
(山神さまの
と、子を叱る。
小さい頭に
ずっと昔は、その山神様の白木の
ところが、戦国以来は、その山神様の徒党が、山の
この辺には、その
――やがてのこと。
彼方からまた、
「おうい」
と、土橋の上の影が呼ぶ。
「おおうい」
と、野の声が答える。
声は、幾つも、方々から聞えて来て、
「……?」
伊織は、息づまるような眼をみはって、
「それ――」
と、首領らしい男が手をさし挙げると、一
「たいへんだ!」
と、伊織は、藪の中から、首を伸ばして、怖ろしい光景を目に描いた。
平和な
「そうだ……徳願寺に泊っているお侍さまへ」
伊織は、藪を飛びだした。
そしてこの大変を、そこへ
「やいっ」
人間の声がした。
伊織は、つンのめるように、逃げだしたが、大人の足には及ばなかった。そこに張番していた二人の
「どこへ行く」
「なんだ、てめえは」
――声をあげて、わアと泣いてしまえばいいのである。だが、伊織には、泣けなかった。自分の襟がみを吊るしあげている逞しい腕を、
「こいつ、おれたちを見かけて、何処かへ、知らせに行くつもりか何かだぞ」
「そこらの田に叩ッこんでしまえ」
「いや、こうして置こう」
土橋の下へ、彼は蹴落された。すぐ後から飛び下りて来た
「よし」
と、見捨てて、二人は上へ跳ね上がって行った。
ごうん、ごうん……と寺の鐘が鳴りだした。もう寺でも、土匪の襲来は知ったものとみえる。
村の方に、火の手が揚がった。土橋の下を流れる水が、血のように赤く染まってみえる。
そのうちに、伊織の頭の上を、ぐわらぐわらと、車の
「畜生ッ」
「なにを」
「おらの
「
何か――土橋の上で始まった。土民と土匪との格闘だった。凄まじい
――と思うまに、伊織の前へ、
死骸は流れて行き、まだ息のある者は、水草につかまって、岸へ這い上がった。
「おらの縄を解いてくれ。おらの縄を解けば、
とさけんだ。
斬られた土民は、岸へは這い上がっても、水草の中に
「おいっ、おらの縄を解かないか。村の者を助けるんだ。おらの縄を解け」
伊織の小さい魂は、その小さい身を忘れて大喝した。意気地ない土民を叱咤して、命令するようにいった。
昏倒した者は、まだそれでも気がつかなかった。そこで伊織は、もう一度、自分の力で自分の縄目を切ろうとするらしく、懸命にもがいてみたが、
「おいッ」
彼は、体を
泥と血にまみれた顔を上げて――土民は、伊織の顔を、にぶい眼で見た。
「はやく、この縄を解くんだよ、解くんだよ」
土民は、這って来た。そして伊織の縄を解くと、そのまま、こときれてしまった。
「見てろ」
伊織は、土橋の上を見て、唇を噛んだ。
伊織は、水に沿って、
彼は、一目散に、野を駈けた。田も畑も家もない法典ヶ原を半里も駈けた。
武蔵と二人で住んでいる丘の小屋へやがて近づいた。見ると小屋の側に誰か立って空をながめている――武蔵であった。
「先生――っ」
「おお、伊織」
「すぐ行ってください」
「どこへ」
「村へ」
「あの火の手は?」
「山の者が
「山の者? 山賊か」
「四、五十人も」
「あの鐘の
「はやく行って、たくさんな人を、助けてやって下さい」
「よしっ」
武蔵は、一度小屋の中へ引っ返したが、すぐ出て来た。足拵えをして来たのである。
「先生、おらの後に、
武蔵は、首を振って、
「おまえは、小屋で待っておれ」
「え、どうして」
「あぶない」
「あぶなかないよ」
「足手
「だって、村へゆく近道を、先生は知るまい」
「あの火が、よい道案内。よいか――小屋の中でおとなしく待っているのだぞ」
「はい」
仕方なしに、伊織はうなずいたが、今までの、正義に
村は、まだ焼けていた。
その炎に、赤く見える
親や良人は殺され、子は見失って、
「やかましいっ」
「歩かねえか」
ひいイっと、一人が仆れる。
「こいつら、
「面倒だ、その綱を、馬に繋いでしょッ引かせろ」
馬の背には、どの馬にも
女たちは悲鳴をあげながら、駈ける馬と一緒に駈け出した。仆れる者は黒髪を地に引き摺って、
「腕が抜けるッ、腕が抜ける――」
とさけんだ。
わははは、あははは、大笑いしながら、土匪たちは、その後から一団になって
「やいやい、こんだあ少し早すぎら。加減しろやい」
後ろからいううちに、馬も女の群れも止まった。――だが馬の尻を打っていた土匪の仲間は、うんともすんとも答えなかった。
「あれ、こんだあ止めて待ってやがる。ドジめ」
げらげら笑う声がすぐそれへ近づいて行った。
「だ、だれだッ」
「…………」
「だれだッ、そこにいるなあ」
「…………」
彼らが認めた一個の人影は、のそのそと草を踏んで向って来た。手に提げている
「……や、や」
前の者から
武蔵は、その間に、賊の人数を目づもりで、ざっと十二、三人と読んで、その中にも、
「いのち知らずめ」
と、ひとりが
「――一体うぬあ、どこから来た風来人だ。よくも、仲間のものを」
いっている間に、
「……ぐわッ」
「知らぬかッ」
と、血けむる中で、武蔵は刀の切先を引きざまにいった。
「おれは、良民の土を護る、
「ふざけるな」
土匪が、自分らの力を過大に盲信し、ただ一名だという点に、敵を
けれど
(こんなことが一体あることか)
と、
(おれが)
と、気負って進む者から、次々に、醜い
駈け入って、一当て当ってみると、武蔵にはおよそ当面の敵の力量がもうわかっている。
数ではなく、一団の力をである。多数を制する剣法は、彼の得意とはしないまでも、彼にとっては、生死を賭した中にのみ学び得る大きな興味ではあった。個々の試合には体得し得ないものを、多数の敵から教えられるからであった。
で――彼はこの場合、最初、ここを離れた
こんな
相手の
だから彼は、容易に自分の物は抜かない。これはいつの場合でもである。敵の武器を奪って敵を斬る。その神速の技に、彼は知らず知らず練磨も積んでいた。
「うぬ、覚えてろ」
土匪は、逃げはじめた。
約十名余りが五、六人になって、元来た方へ走って行った。
村には、まだ沢山な仲間が残って、
武蔵は一応、そこで自分も一息入れた。
そして先ず後へもどって、数珠つなぎにされて、野に仆れている女たちの
彼女らは、もう礼をいう口さえ失っている。武蔵のすがたを仰いで、ただ
「もう安心するがよい」
武蔵はまずいって――
「村には、まだおまえたちの親や子や良人が残っているのだろう」
「ええ」
と、彼女らは
「それも救わなければなるまい。おまえ達だけが助かって、老いた者や、子たちが助からなかったら、おまえ達はやはり不幸だろう」
「はい」
「おまえ達は、自分を護り、人を救い合う力を持っている筈なのだ。その力をお前たちは、結びあうことも、出すことも知らないので、賊にいたされるのだ。わしが手伝ってやるから、おまえ達も剣を持て」
と彼は、
「おまえ達は、わしに
と、いいきかせ、土橋を渡って、村の方へ近づいて行った。
村は焼けている。しかし、民家が散在しているため、火の手は一部らしい。
道は火光に赤く
「おう」
「われか」
「いたのか」
と、そこらの物陰に逃げ
彼女らは、わが親、わが兄弟、わが子などの姿に出会うと、抱き合って号泣した。
そして、武蔵を指さし、
「あのお方に」
と、助けられた仔細を、
土民たちは、武蔵を見て、初めは皆、異様な眼をした。なぜならば、法典ヶ原の
武蔵は、その男どもへも、先ほど、彼女らに告げた時と同じ言葉をもって教え、
「皆、得物を
と、命じた。
ひとりも
「村を荒している賊は、すべてで何十人ぐらいいるか」
「五十名ばかしで」
と、誰か答える。
「村の戸数は」
と訊くと、七十戸ほどはあるという。まだ大家族的な遺風のある土民であるから、一戸当り少なくも十名以上の家族はあるとみていい。すると約七、八百名の土民が住んでいるわけで、そのうち幼児と老人と病人をのぞいても、男女五百名以上の壮者はいるであろう。それが五、六十名の土匪のために、年ごとの収穫を掠奪され、若い女や家畜など、
「しかたがない」
と、
それは、為政者の不備にもあるが、また彼ら自身に、自治と武力のないせいもある。武力のない者に限って、ただ漫然と武力に絶対な恐怖をもつが、武力の性質を知れば、武力はそう恐いものではなく、むしろ平和のために在るものである。
この村に、平和の武力を持たせなければ、この惨害は根を絶つまい。武蔵は、今夜の土匪を討つことが目標ではなく、それがすぐ意図されていた。
「法典ヶ原の牢人様。さっき逃げ込んで行った賊が、大勢ほかの仲間を呼んで、今こっちへやって来るだぞ」
駈けて来た一人の土民が、武蔵と村の者へ、手を振って、急を告げた。
得物は持っても、山の暴れ者は怖ろしいと先入主になっている土民たちは、すぐ浮き腰になって、動揺しはじめた。
「そうだろう」
武蔵は、まず彼らに安心を与え――そして命令した。
「道の
土民たちは、われがちに木の陰や畑にかくれた。
武蔵は一人残って、
「やがて来る賊は、わし一人で迎えて闘う。そしてわしは、一度逃げる」
彼らのかくれた左右を見まわして独り言のようにいう。
「――だが、お前たちはまだ出て来なくともよい。そのうちに、わしを追いかけて来た賊が、反対にまたここへ、
いっている間に、もう彼方から
彼らのいでたちや隊伍ぶりは、まるで原始時代の軍隊みたいだった。彼らの眼には、徳川の世もない、豊臣の世もない、山は彼らの天地であり、里は彼らのあらゆる飢えを一時に満たす所だった。
「あ、待て」
先頭の一人が、足を止めて、後に続くなかまの者を制した。
二十名も来たろうか、稀れな
「いたか」
「あれがそうじゃねえか」
すると、中のひとりが、
「オオ、あれだ」
と、武蔵の影を指さした。
約十間ほど隔てて、武蔵は、道を
これほどな殺到に、いっこう無感覚な様子で、彼が立っているのを見ると、この猛獣の群れも、
(おや、こいつ?)
と一応、自分の威勢を疑ってみたり、彼の態度に不審を起して、足をとめずにいられなかった。
――が、それは僅かな間だった。すぐずかずかと二、三名が進み出で、
「うぬか」
と、いった。
「うぬか、おれたちの邪魔に来た野郎というのは」
武蔵が、一言、
「――そうだッ!」
いった時は、ぶら下げていた彼の剣が、賊を真っ向に割りつけていた時であった。
わっ――と
しかし、片方は水田だし、片方は並木の
それと彼は、機を見て、
「あっ、野郎」
「逃げやがったッ」
「逃がすな」
土匪たちは、駈けてゆく武蔵を追いつめ追いつめて――やがて野の一端にまで誘われて来た。
地の利は、さっきの狭い場所よりも、ここの何物もない広い野原の方が、武蔵には当然不利に見えたが、武蔵は、
「かっッ」
一
また一颯!
血しぶきから血しぶきへ、武蔵の影は
「――来たっ」
「来たぞ」
道を挟んで、物陰にかくれていた土民たちは、そこへ逃げて来る賊の跫音を聞くと、
「わッ」
と、いちどに
「こなくそ」
「けだものめが」
竹槍、棒、雑多な得物を
そしてまたすぐ、
「かくれろ」
と、身を伏せ、やがて
「野郎」
「野郎」
「こいつら、口ほどもねえがよ」
土民たちは、
「また、来たぞ」
「ひとりだ」
「やってしまえ」
土民たちは、
駈けて来たのは、武蔵だった。
「おう、違う違う。法典ヶ原の御牢人だ」
彼らは、将を迎える従卒のように、道の両側へ身を交わして、武蔵の
血刀の刃は
「賊の死骸が持っている刀や槍を、おまえたちも拾って持て」
彼がいうと、土民の若者たちは、われがちに武器を拾った。
「さ、これからだ。おまえ達は力を
そう励ましながら、武蔵は先頭に駈け出した。
もう
女や老人や子供までが、得物を拾って、武蔵の後から走って行った。
村へはいると、昔ながらの大きな農家が、今、
家を焼いた火が竹林へ燃えついたとみえ、青竹の爆裂する音が、パンパンと、炎の中で凄まじくはねている。
また、何処やらで、
武蔵はふと、
「どこだ、酒のにおいがする所は?」
と、土民にたずねた。
土民たちは、煙にばかり
「
と、いい合った。
賊は、そこを
「わしに続け」
と、また駈けた。
その頃、
「
土民たちは、遠くから指さした。形ばかりの土塀に囲まれ、村では大きな家だった。近づいて行くと、そこらに酒の泉でも流れているように、酒の香が鼻を打ってくる。
土民たちが、附近の物陰へ隠れ込まないうちに、武蔵は、土塀をこえて、ただ一人、土匪の
「あわてるな」
土匪の首領は、なにか怒っていた。
「
そんな意味らしい言葉だった。そして今ここへ急を告げに来た手下を、頭から叱りとばしているのだった。
――その時、首領は、異様な声をすぐ外に聞いた。
「やっ、なんだ?」
一斉に突っ立ち、また無意識のうちに、得物をつかんだ。
その瞬間、彼らの前面は、心に何のまとまりもない
武蔵はその時、
「おのれかっ、賊の
声に振向いたとたん、彼の胸いたは、武蔵の突き出した槍に縫い
「うわっ」
と、血にまみれながら、その槍をつかんで起ちかけたが、武蔵が軽く手を離したので、胸に槍を突き立てたまま土間へ転げ落ちた。
もう彼の手には、次にかかって来た賊の手から引っ
その群れへ、武蔵は、刀を投げつけて、すぐその手へまた、死骸の胸いたから槍を抜いて持った。
「うごくな」
鉄壁でも――という勢いで彼は槍を横にしたまま外へ駈け出した。
多くは、そこで皆、村の者に打ち殺された。おそらく逃げた者も、片輪にならなかった者は少なかったであろう。村の者は、老いも若きも、女も、生れて初めての声を出して、しばらくは凱歌に狂い、少し経つと、わが子や、わが妻や、父母たちを見つけ合って、
すると誰かが、
「後の仕返しが怖い」
といった。土民たちは、またそれに
「もう、この村には来ぬ」
と、武蔵が
「――だがお前たちは、過信するな。お前たちの本分は、武器ではない
「見て来たか」
徳願寺に泊りあわせていた長岡佐渡は、寝ずに待っていた。
村の火は、原や沼の
ふたりの家臣は、
「はっ、見届けて参りました」
と、口を揃えていった。
「賊は、逃げたか。村の者の被害は、どんなふうだ」
「われわれが、駈けつける
「はてな?」
佐渡は、のみこめない顔つきである。もしそうだとすれば、佐渡は、自分の主人細川家の領土の民治についても、だいぶ考えさせられることがある。
とにかく今夜はもう遅い。
そう考えて、佐渡は、
「ちと、廻りになるが、ゆうべの村を通って参ろう」
と、駒をそこへ向けた。
徳願寺の寺僧が一名、案内に付いて来た。
村へかかると、佐渡は、二人の従者を顧みて、
「そち達は昨夜、何を見届けて来たのか。今、道ばたで見かけた賊の死骸は、百姓が斬ったものとは見えんが」
と、不審を抱いた。
村の者は、寝ずに、焼けた家やそんな死骸を片づけていたが、佐渡の馬上姿を見ると、みな家の中へ逃げこんだ。
「あ、これ。何かわしを思い違いしておるぞ。誰かすこし話の分りそうな土民を一名つれて来い」
徳願寺の僧が、どこからか一人連れて来た。佐渡はそれで初めて昨夜の真相を知ることが出来、
「そうだろう」
と、うなずいた。
「して、その牢人というのは、何という者か」
佐渡が、重ねて訊くと、その土民は首をかしげて、名は聞いたことがないという。佐渡は、ぜひ知りたいというので、寺僧はまた、聞き歩いて、帰って来た。
「宮本武蔵という者だそうでござります」
「なに、武蔵」
佐渡はすぐ、ゆうべの少年を思い起して、
「では、あの
「平常、あの子供を相手に、法典ヶ原の荒地を開墾し、百姓のまね事などをしておる、風の変った牢人にござります」
「見たいな、その男を」
佐渡は、つぶやいたが、――藩邸に待っている用事が思い起されて、
「いや、また参ろう」
と、駒をすすめた。
村の者心得べき事
鍬も剣なり
剣も鍬なり
土にいて乱をわすれず
乱にいて土をわすれず
分 に依って一に帰る
又常に
世々の道にたがわざる事
「ウウム……誰が書いたか、この高札は」鍬も剣なり
剣も鍬なり
土にいて乱をわすれず
乱にいて土をわすれず
又常に
世々の道にたがわざる事
「武蔵さまでござりまする」
「おまえ達に、分るのかこれが……」
「今朝、村の衆が、みな集まっている中で、このわけを、よく説いて下さいましたで、どうやら分りまする」
「――寺僧」
佐渡は振向いて、
「戻ってよろしい。ご苦労であった。残念じゃが、心が
と、駒を早めて去った。
当主の細川三斎公は、
江戸には、長子の
忠利は
「――若殿は?」
と、長岡佐渡は探していた。
御書見の
藩邸の地域はずいぶん広かったが、まだ庭などは整っていない。一部には元からの林があり、一部は
「若殿は、どちらにお
佐渡は、馬場の方から戻りながら、通りかかった若侍にたずねた。
「お
「ああお弓か」
林の
――ぴゅうん
と、
「おう、佐渡どの」
呼びとめる者があった。
同藩の岩間角兵衛である。実務家で
「どちらへ」
と、角兵衛は寄って来た。
「御前へ」
「若殿は今、お弓のお稽古中でござるが」
「
行き過ぎようとすると、
「佐渡どの、お急ぎなくば、ちとご相談申したいことがあるが」
「なんじゃの」
「立話でも――」
と、見まわして、
「あれで」
と、林の中の数寄屋の
「ほかではないが、若殿との間に、何かのお話が出た折に、ひとり御推挙していただきたい人物があるのじゃが」
「御当家へ奉公したいという人間かの」
「いろいろな
「ほ。……人材は御当家でも求めておるのじゃが、ただ、職にありつきたい人間ばかりでなあ」
「その
「岩国とあれば、
「いや、岩国川の郷士の子息で、佐々木小次郎といい、まだ若年でござるが、
と、口を極めて角兵衛は、その人間を佐渡に
誰でも、人物の推薦には、一応このくらいには肩入れするものである。佐渡はそう熱心に聞いていなかった。――むしろ彼は、彼の意中に、一年半も持ち越したまま、つい忙しいままに忘れていた、べつな人間を、ふと思い出していた。
それは、
武蔵という名は、彼の胸に、あれ以来、忘れ得ないものになって深く刻まれていた。
(ああいう人物こそ、御当家でお
と、佐渡は、
だがもう一度、法典ヶ原を訪れ、親しくその人物を見極めた上で、細川家へ推挙するつもりでいたのである。
今――思い出してみると、そういう考えを抱いて帰った徳願寺の一夜から、いつか、一年の余も経っていた。
公務の忙しさにも
(どうしているか)
と、佐渡がふと、ひとの話から思い出していると、岩間角兵衛は、自分の
「御前へ参られたら、どうぞひとつ、
と、くれぐれも頼んで立ち去った。
「承知した」
と、佐渡は答えた。
けれど彼の胸には角兵衛から頼まれた小次郎のことよりも、やはり武蔵という名に何となく心が惹かれていた。
彼の侍者が、或る時、
(これからの戦場では、鉄砲がもっぱら用いられ、槍が次に使われ、太刀、弓などは、余り役立たぬように変遷しておるようにござりますから、お弓は、武家の飾りとしても、作法だけの御習得でよろしくはないかと存じますが)
と、
(わしの弓は、心を
と、かえってその侍者に反問したという若殿である。
細川家の臣は、大殿の三斎公には勿論、心から心服していたが、そうかといって、その三斎公の余光に伏して、忠利に仕えている者は一人もなかった。忠利の身辺に近侍している者は、三斎公が偉くあってもなくっても、問題ではなかった。忠利その人を心から、英主と仰いでいるのだった。
――これはずっと晩年の話であるが、その忠利をどんなに藩臣が畏敬していたかというよい話がある。
それは細川家が
当時の一国の国守が「城」に対してどれほど厳粛な観念を抱いていたか、また、家臣がその「
長岡佐渡はお弓場へ来て忠利の姿を見ると、すぐさっき岩間角兵衛へわかれ際に、うっかり、
(承知いたした)
と、いってしまった軽率なことばを胸に悔いていた。
若侍の中に
今、一息ついて、何か侍臣たちと哄笑しながら、弓場の
「
と、いった。
「いや、このお仲間では、
と、佐渡も戯れると、
「何をいう。いつまでわし達を
「されば、てまえの
「はははは、始まったぞ、佐渡どののご自慢が」
侍臣たちが笑う。
忠利も苦笑する。
肌を入れて、
「何か用か」
忠利は、真面目に返った。
佐渡は、公務の用向きを、ちょっと耳に入れて、その後で、
「岩間角兵衛から、誰か御推挙の人物がある由でございますが、その
と、訊ねた。
忠利は、忘れていたらしく、いやと、顔を振ったが、すぐ思い出して、
「そうそう。佐々木小次郎とかいう者を、頻りと、推挙しておったが、まだ見ておらん」
「御引見なされてはいかがでござりますな。有能の人物は、諸家でも、争って高禄をもって誘いますゆえ」
「それほどな者かどうか?」
「ともかく、一度、お召寄せのうえで」
「……佐渡」
「は」
「角兵衛に、口添えを頼まれたかの」
と、忠利は苦笑した。
佐渡はこの若い殿の英敏を知っているし、自分の口添えが、決してその英敏を
「御意」
と、いって笑った。
忠利はまた、
「角兵衛の推挙いたした人物も見ようが、いつか、そちが夜話しに申した、武蔵とかいう人物も一度見たいものだな」
といった。
「若殿には、まだご記憶でございましたか」
「わしは覚えておるが、そちは忘れておったのではないか」
「いや、その後はついぞ徳願寺へも、
「一箇の人材を求めるためには、
「怖れいりました。したが、諸方より御奉公申したいと、御推挙も多い所、それに若殿にも、お聞き流しのようでござりましたゆえ、ついお耳に入れたまま、怠っておりましたが」
「いやいや、余人の
佐渡は、恐縮して、藩邸から自分の邸に帰ると、すぐ駒の支度をさせ、従者もただ一人連れたきりで、
こよいは、泊っていられない。すぐ行ってすぐ帰るつもりである。心が
「源三」と従者を顧みて、
「もはやこの辺りが、法典ヶ原ではないかの」
「てまえも、そうかと存じますが――まだここらには、御覧の通り、青田が見えますから、開墾しておる場所は、もそっと、野の奥ではございますまいか」
と、答えた。
「――そうかの?」
もう徳願寺からかなり来ている――これより奥へすすめば、道は
陽が暮れかけた――青田には、白い
「おお、御主人様」
「なんじゃ」
「あれに沢山、農夫がかたまっておりますが」
「……ム? ……なるほど」
「訊ねてみましょうか」
「待て。何をしているのか、代る代るに地へ
「ともあれ、参ってみましょう」
源三は、馬の口輪をつかみ、河原の浅瀬を瀬ぶみしながら、主人の駒をそこへ導いた。
「これ、百姓たち」
声をかけると、彼らはびっくりした眼をして、群れを崩した。
見ると、そこに一箇の掘建小屋がある。また、小屋の横には、鳥の巣箱ほどな、小さい御堂が出来ていて、彼らは、それを拝んでいたのだった。
一日の労役を終えた土民たちは、およそ五十名もそこにいた。めいめいがもう帰る
「これはこれは、
「おう、おぬしは、昨年の春、村に騒ぎのあった折、身の案内に立たれた徳願寺の僧侶じゃの」
「さようでござります。今日もご参詣でございましたか」
「いやいや、ちと思い立って急に出向いて来たまま、真っ直にこれまで参ったのじゃ。――早速に訊ねたいが、その折、当所で開墾していた牢人の武蔵と申す者と――伊織という
「その武蔵様は、もうここにはいらっしゃいませぬ」
「なに、いない?」
「はい、つい半月ほど前に、ふと何処かへ、立ち去っておしまいになりました」
「何ぞ、
「いえ。……ただその日だけは皆の衆も仕事を休んで、このように水ばかり出ていた荒地が、青々と、新田に変りましたので、青田祭りの欣びをいたしました。すると、その翌朝はもう、武蔵様もあの伊織も、この小屋に姿が見えなかったのでござりまする」
と、その僧侶は、まだそこらに武蔵様がいるような気がしてなりませぬ――といいながら、次のような仔細を話すのであった。
あの時以来。
――法典の御牢人さま。
とか、または、
――武蔵さま。
とか敬称して、今まで
(わしにも、お手伝いをさせて下され)
というように、変ってしまった。
武蔵は、誰にも平等に、
(ここへ来て手伝いたい者は手伝え。豊かになりたい者は来い。自分だけ喰って死ぬことは
そういうと忽ち、
(わしも、わしも)
と、彼の開墾地には、日々四、五十人ずつ、手空きの者が集まった。農閑期には、何百人も来て、心を
その結果、去年の秋には、今までの
土匪は来なくなった。村の者は気をそろえてよく働き出した。若い者の親たちや女房たちは、武蔵を神のように慕い、草餅や初物の野菜ができると、小屋へ運んで来た。
(来年は、田も畑も、この倍になるぞ。その次の年には、三倍になる)
と彼らは、土匪征伐と村の治安に信念を持つと共に、荒地の開墾にも、すっかり信念を持った。
その感謝の
その時、武蔵がいった。
「わしの力じゃない。おまえ達の力だ。わしはただ、おまえ達の力を引出してやっただけのものじゃ」
そして、その祭りに来あわせていた徳願寺の僧へ、
「わしの如き、一介の
と、一体の
その翌朝――来てみると武蔵はもう小屋にいなかった。伊織を連れて、行く先も告げず、夜明け前に、何処かへ旅立ったものと見え、旅包みもなかった。
「武蔵さまがいない!」
「どこぞへ、消えてしまいなすった――」
土民たちは、慈父を見失ったように、その日は、仕事も手につかず、ただ彼のうわさと哀惜に暮れた程だった。
徳願寺の一僧は、武蔵のことばを、思い当って、
「それでは、あの方にすむまいぞ、青田を枯らすな。畑を
と、一同を励ました。そして小屋のそばに、小さい堂を作り、そこへ観音像を納めると、土民たちは、いわれるまでもなく、朝夕仕事にかかる前、仕事の終った後には、武蔵へ挨拶するように、必ずそこへ
――僧の話はそれで終った。だが、長岡佐渡の悔いはいつまでも、胸を噛んで、
「……ああ遅かった」
卯月の夜は、
「惜しいことをした……こういう怠慢は、ひとつの不忠も同じこと。……遅かった、遅かった」
何度も口のうちで
両国という地名も橋が出来てから後のことである。まだ両国橋も、その頃はなかった。
けれど、
渡し場には、関門と呼んでよいくらいな、厳しい木戸があった。
そこには、江戸町奉行の職制ができてから、初めての初代町奉行、青山
「待て」
「よろしい」
などと、いちいち通行人
(ははあ、だいぶ江戸の神経も、
と、武蔵はすぐ思った。
三年前、中山道から江戸へ足を入れて、すぐ奥羽の旅へ向った時、まだ、この都市の出入りはさほどでなかった。
それが、急激にこう厳重になったのはなぜか?
武蔵は、伊織を連れて、木戸口に順々に並んでいる間に考えた。
都市が都市らしくなって来ると必然に、人間が
それもあろう。
がまた、ここが徳川家の将軍所在地となると共に、大坂方に対する警戒も、日に増して厳密を要するのであろう。――何しろ大川を隔てて見ても、この前、武蔵が見た江戸とは、家々の屋根が
「御牢人は――?」
そう呼ばれた時は、もう
べつな役人が、側から厳しい目で詰問した。
「御府内へ、何用を帯びて行かっしゃるか」
武蔵はすぐ答えた。
「何処とて、
「
と、
「修行するという的があるではないか」
「…………」
苦笑を見せると、
「生国は?」
と、たたみかける。
「
「主人は」
「持ちませぬ」
「然らば、路用その他の出費は、誰から受けておらるるか」
「行く所でいささか余技の彫刻をなし、
「ふーム……。で、いずれからお越しなされた」
「
「連れの
「同所で拾い上げた
「江戸で泊る先はあるのか。無宿の者、縁故のない者は、一切入れぬが」
「あります」
「何処の、誰か?」
「柳生
「何、柳生どのへ」
役人は、ちょっと、鼻白んで黙った。
武蔵は、おかしく思った。柳生家とは、われながら、いみじくも思い付いたものだと自分で感心する。
かねて
(そんな人間は知らぬ)
とは柳生家でも答えまい。
ひょっとしたら、その沢庵も江戸表へ来ているような気がする。石舟斎には、遂に、
そう、日頃から思っていたのが――思わず直ぐ行く先かのように、木戸役人の質問に出てしまったのである。
「いや、それでは、柳生家に御縁故のあるお方でござったか。……失礼いたした。何分、うろんな侍どもが、御府内に入り込むため、牢人方と見れば、
役人は、こう言葉も態度もあらためて、後の調べは、ほんの形式だけですまし、
「お通りなさい」
と、木戸口から送った。
伊織は後から
「先生、なぜ侍だけ、あんなにやかましいんだろ」
「敵方の
「だって、間者なら、牢人のふうなんかして、通るもんか。お役人って、頭がわるいね」
「聞えるぞ」
「たった今、
「待つ間に富士でも眺めておれというのだろう。――伊織、富士が見えるぞ」
「富士なんて、めずらしくないや。法典ヶ原からだって、いつも見えるじゃないか」
「きょうの富士はちがう」
「どうして」
「富士は、一日でも、同じ姿であったことがない」
「同じだよ」
「時と、天候と、見る場所と、春や秋と。――それと観る者のその折々の心次第で」
「…………」
伊織は、河原の石を拾って、水面を切って遊んでいたが、ひょいと跳んで来て、
「先生、これから、柳生様のお屋敷へ行くんですか」
「さあ、どうするか」
「だって、あそこで、そういったじゃないか」
「一度は、行くつもりだが……
「将軍家の御指南役って、偉いんだろうね」
「うむ」
「おらも大きくなったら、柳生様のようになろう」
「そんな小さい望みを持つんじゃない」
「え。……なぜ?」
「富士山をごらん」
「富士山にゃなれないよ」
「あれになろう、これに成ろうと
「渡船が来たよ」
子供は、人に遅れるのが嫌いだ。伊織は、武蔵をさえ捨てて、真っ先に乗合の
広い所もあれば、狭い所もある。河の中には
渡船の
空の澄んだ日は、水も澄み切って、
「どうだろう、このまま天下泰平に治まるものだろうか」
「そうは行くめえなあ」
と、ひとりがいう。
その連れが、連れの者の言葉に裏書して、
「いずれ、
話は、
だが、お
「その証拠には、ここの渡船の木戸調べでもそうだ。こう往来
「そういえば、この頃、大名屋敷へよくはいる盗賊があるそうだ。――外聞に洩れては、見っともないので、はいられた大名は皆、口を拭いているらしいが」
「それも、隠密だろうぜ、いくら金の欲しい奴でも、大名屋敷などは、
渡船の客を見渡すと、これは江戸の一縮図といっていい。
船が着くと、それらの人々がぞろぞろと、流れになって、岸へ上がって行く。
「もし、御牢人」
武蔵を追いかけて来た男があった。見ると、船の中にいた背のずんぐりした無法者で――。
「お忘れ物をなすったろう。こいつあ、おめえさんの膝ッ子から落ちたんで、拾って来たが」
と、赤地錦の――といっても余りに古びて
武蔵は、顔を振って、
「いや、てまえの所持品ではありませぬ。誰ぞ、ほかの乗合の衆の物でござろう」
いうと、その横合から、
「ア、おらのだ」
と、無法者の手から、いきなりそれを
武蔵の側にいると、あまり背の違いがあるので、よく見ないと気がつかないほど小さい、伊織であった。
無法者は、怒った。
「やいやい、いくら
無法者の怒りようも大人げなく思われたが、伊織の仕方も重々よくない。――だが子供のことであるから自分に免じて
「兄か、主人か、何か知らねえが、じゃあおめえの名を聞いておこう」
と、いう。
武蔵は、辞を低く、
「名乗るほどの者ではありませんが、牢人宮本武蔵という者です」
すると、無法者は、
「えっ?」
と、目をみはって、しばらく凝視していたが、
「これから気をつけろ」
伊織へ
「待てっ」
処女のように柔和だった者の口から、こう不意に一
「な、なにしやがんでい」
つかまれている脇差のこじりを

「汝の名を申せ」
「おれの名」
「ひとの名を聞いたまま、会釈もなく立ち去る法があろうか」
「おらあ、
「よし、行け」
突っ放すと、
「覚えてやがれ」
と、菰はのめッたまま素っ飛んで行った。
伊織は、自分のかたきを打って貰ったように、
「いい気味だ、弱虫」
またとない頼母しい人のように武蔵を見上げて、その側へくッついた。
町へと、歩き出しながら、
「伊織」
「はい」
「今までのように、野原に住んで、
「はい」
「人と人とが円満に住んでゆければ地上は極楽だが、人間は生れながら神の性と、悪魔の性と、誰でも二つ持っている。それが、ひとつ間違うと、この世を地獄にもする。そこで、悪い性質は働かせないように、人なかほど、礼儀を重んじ、体面を尊び、また、お上は法を設けて、そこに秩序というものが立ってくる。――おまえが
「はい」
「これから、何処へどう旅して行くか知れぬが、行く先々の
噛んで含めるようにいい聞かせると、伊織は、
「分りました」
と、早速に言葉もていねいになったり、取って付けたようなお辞儀もしてから、
「先生、また落すといけませんから、これを、済みませんが、先生のふところに持っていて下さい」
と、さっき
それまでは、かくべつ気にも止めなかった武蔵は今、手にしてふと思い出した。
「これはお前が父から
「ええそうです。徳願寺へ預けておいたら、今年になって、お住持さんが、黙って返してくれた。おかねも元のままはいっているよ。なにか
「ありがとう」
武蔵は、伊織へそういった。
他愛もない言葉ながら、伊織の気持は
「では、借りておくぞ」
おしいただいて、武蔵は、彼の巾着を
そして歩きながら思うには、伊織はまだ子供だが、幼少から、あの痩せた土と
それに較べると、武蔵は自分ながら、自分には「かね」を軽視し、経済を度外視している欠点があることに気づく。
大きな経策には関心をもつのであるが、自己の小さい経済には、ほとんど無関心なのである。そして幼い伊織にさえその「私の経済」には、いつも心配を
(この少年は、自分にはない才能を持っているようだ)
武蔵は、馴じむほど、伊織の性格の中に、次第に磨かれてくる聡明をたのもしく思った。それは彼自身にもまた、別れた城太郎にもないものだと思った。
「どこへ泊ろうな、今夜は」
武蔵には、
伊織は、めずらしげに、町ばかり見廻していたが、やがて異郷の中に、自分の友達でも見つけたように、
「先生、馬がたくさんいるよ。町の中にも馬市が立つんだね」
と軽い昂奮をして指さす。
従者をつれた武家の者が、頻りと名馬を探し求めていた。
世間に人材が乏しいように、馬の中にも、名馬が少ないものとみえ、その侍は、
「もう帰ろうわえ、一匹も殿へお
こういい放って、馬の間から大股に身を
「おう」
と、その侍は、胸を
「宮本
武蔵もその顔を見つめて、同じように、
「おう」
と、顔を
それは
「いつから江戸表へござったな。意外な所で、お目にかかったのう」
と、助九郎は、武蔵のすがたを見て、武蔵が今なお、修行の
「いや、たった今、
「ご無事でござる。したが、もう何分、ご高齢でな」
といって、すぐ、
「いちど但馬守様のおやしきにも、お越しがあるとよい。お
と助九郎は、何の意味か、武蔵の
「貴公の美しい落し物が、お邸へ届いておるぞ。ぜひ一度、訪ねてござらっしゃい」
――美しい落し物。
はて? 何だろう。助九郎は
ここは裏町――つい今し方、武蔵の
隣も
泊り賃が安いので、武蔵と伊織はそこへ泊った。ここの家にもあるが、何処の旅籠屋にも、
「お侍さま、表の二階だと、少しは
と、博労でない客の武蔵を、ここの旅籠では少し持ち扱い気味。
勿体ない、きのうまでの開墾小屋の生活から較べれば、ここはこれでも畳のうえ。――にも
(ひどい蠅だなあ)
と
だが――好意のままに、武蔵と伊織は、表二階へ移った。ここはまた、かんかんと
「よしよし。ここでいい」
と、独り
ふしぎなのは人間をつつむ文化の雰囲気である。つい昨日までいた開墾小屋では、強い西陽は
汗の肌にたかる蠅を、土に働いている時は気にもならないし、むしろ、
(おまえも生きているか。おれも生きて働いているぞ)
といいたいくらい、自然の中に生命を持つ友達にさえ思えるのに、大河を一つ越えて、この
(西陽があつい。蠅がうるさい――)
などという神経と共に、
(なんぞ
と、思う。
そういう人間の横着な変り方は、伊織の顔にもありありと出ている。むりもないことには、すぐ横隣で博労の一群れが、鍋に物を煮て、騒がしく酒を飲んでいるのだ。法典の開墾小屋では、
「伊織、蕎麦を喰おうか」
武蔵がいうと、
「うん」
と、伊織は
そこで
蕎麦のできて来る間、西陽の窓に頬杖ついて、下の往来をながめていると、すぐ
それを先に見つけたのは、眼のはやい伊織で、さも驚いた顔しながら、
「先生、あそこに、御たましい研所と書いてあるけれど、何の商売でしょう?」
「本阿弥門流とあるから、刀の
そう答えて、武蔵は、
「そうだ、わしの刀も、いちど手入れしておかねばなるまいな。後で、訊ねてみよう」
と、呟いた。
その時、
「伊織。隣の衆へ、少しお静かにしてくださいと申せ」
といいつけた。
そこの境を開ければ、すぐ事は済むが、武蔵の横になっている姿が先に見えるので、伊織は、わざわざ廊下へ出て、隣の部屋へ、いいに行った。
「おじさん達、あんまり騒がないでおくれよ。
すると、
「何?」
と、博労たちは、賭博の
「なんだと、小僧」
伊織は、その無礼に、むっとして口を
「蠅がうるさいから、二階へ越して来たら、またみんなが騒いでいて
「てめえがいうのか、てめえの主人でも、そういって来いといったのか」
「先生がさ」
「いいつけたんだな」
「誰だって、うるさいよ」
「ようし、てめえっちのような、兎の
秩父の熊か
その
起してはいけないと思って、伊織はそのまま黙って、また往来を
こちらから持って行った抗議の衝動をうけて、賭博の紛争は沙汰止みになったらしいが、その代り今度は団結して、無礼にも、境のふすまを細目に開けて覗いたり、暴言を放ったり、
「ええこう、どこの牢人か知らねえが、江戸の真ン中へ風に吹かれて来やがって、しかも博労宿にのさばりながら、うるせえもねえもンじゃねえか。うるせえなあ、おれっちの持ち前だ」
「つまみ出しちまえ」
「わざと、ふてぶてしそうに、寝ていやがるぜ」
「侍なんぞに、驚くような骨の細い博労は、関東にゃいねえってことを、誰か、よく聞かして来いよ」
「いっただけじゃだめだ、裏へ
すると
「まあ、待て。ひとりや二人の
「おもしれえ」
と、博労たちは、
その者たちから見ると、頼みがいある
「へい、御免なすって」
と、
武蔵と、伊織のあいだに、
「……あ、来たよ先生」
伊織はびっくりして、そこを
「おい牢人。喰うなあ後にしちゃあどうだ。胸につかえているくせに、何も落着きぶって、無理に喰うにゃあ当らねえだろうに」
――聞えているのかいないのか、武蔵は笑いながら、次の箸にまた蕎麦をほぐして、
熊はかん筋を立てて、
「止せっ」
と、ふいに呶鳴った。
武蔵は、箸と、蕎麦汁の茶わんを持ったまま、
「そちは、誰だ?」
「知らねえのか。博労町へ来ておれの名を知らねえ奴あ、もぐりか、つんぼぐれえなものだぞ」
「拙者もすこし耳が遠いほうだから、大きな声でいえ。どこのなにがしだ」
「関東の博労なかまで、秩父の熊五郎といやあ、泣く子もだまる暴れ者だが」
「……ははあ。馬仲買か」
「侍あいての商売で、生き馬を扱ってる人間だから、そのつもりで挨拶しろい」
「なんの挨拶?」
「たった今、その
「心得ておる」
「心得ていながら、おれっちが遊び事をしている場所へ、何でケチをつけやがるんだ。みんな腐って、あの通り、壺を蹴とばして、てめえの挨拶を待っているんだ」
「――挨拶とは?」
「どうもこうもねえ、博労の熊五郎様、
「おもしろいな」
「な、なにを」
「いや、おまえ達の仲間でいうことは、なかなかおもしろいと申すのだ」
「たわ言を聞きに来たんじゃねえ。どっちとも、はやく返答しろい」
熊は、自分の声に、昼間の
「返答に依っちゃ、ただは
武蔵は、笑みをつつみながら、
「――さ。どっちにしたがよいかなあ」
汁茶碗の手を少し下げ、箸の手を蕎麦箱へ伸ばして、蕎麦のたまにたかっている
「…………」
てんで相手にされていないふうなので、熊は青筋を太らせて、ぐいと眼だまを
「……?」
ふと、その箸の先に気のついた熊は、剥いた眼を、いやが上にも大きくして、息もせずに、武蔵の箸に、気もたましいも抜かれてしまった。
「……
伊織が、それを持って、外へ出ると、その隙間に、博労の熊も、消えるように隣の部屋へ逃げこんで行った。
しばらくごそごそしていたかと思うと、またたくまに、部屋替えをしたものとみえ、
「伊織、せいせいしたな」
笑い合って、蕎麦を食べ終えた頃、夕陽も
「どれ、おもしろそうな前の研師へ
だいぶ荒使いをして
「お客さん、どっかのお侍が手紙を置いて行かしゃりましたが」
と、黒い
(はて、何処から?)
と封の裏を見ると、
助
とただ一字しか書いてない。
「使いは?」
武蔵が問うと、宿のおかみさんは、もう帰りましたといいながら、帳場に坐る。
梯子だんの途中に立ったまま武蔵は封を切ってみた。「助」の字は、きょう馬市で出会った木村助九郎のこととすぐ読めた。
けさ程のお出会い、殿のお耳に入れ候処、但馬守 様、
なつかしき男と被仰 され候
お越しの日、いつ頃にやとのおことば、折返してお便り待入申候
なつかしき男と
お越しの日、いつ頃にやとのおことば、折返してお便り待入申候
すけくろう
「お「こんなので、よろしゅうございましょうか」
「うむ……」
と帳場のわきへ立ち寄って、助九郎の手紙の裏へ、
武辺者には、ほかに用もなし。ただたじま守 様、御試合たまわるなれば、何時なりと伺候 申すべく候
政名
政名というのは武蔵の名のりである。そう書いて巻き直し、封も先の裏をつかって、
柳生どの御内
助どの
と宛てて書く。助どの
梯子だんの下から見上げて、
「伊織」
「はい」
「使いに行ってくれ」
「どこへですか」
「柳生但馬守さまのお
「はい」
「所はどこか、知っておるまい」
「聞きながら参ります」
「む、賢い」
と、武蔵は頭をなでて、
「迷わずに行って来いよ」
「はい」
伊織はすぐ草履を
宿のおかみさんはそれを聞いて、柳生様のお邸なら誰でも知っているから、聞きながら行っても分るが、ここの本通りを出て、街道をどこまでも真っすぐに行き、日本橋を渡ったら、河に沿って左へ左へとおいで――そして
「あ。あ。わかったよ」
伊織は、外へ出られるのが
武蔵も、草履を
(すこし
と、ふとそんなことを思いながら――宿の
店といっても、格子のないしもた
はいるとすぐ、奥の
「御免」
と、武蔵は土間に立った。――わざわざ奥へ向っていったのではない。――すぐそこの何もない壁の下に、たった一つある頑丈な刀箱に頬杖をついて、絵に描いた
それが亭主の
「ごめん!」
少し声を張って、武蔵はもう一度、荘子の寝耳を訪れた。
武蔵の声が、ようやく耳にはいったとみえ、厨子野耕介は、百年の眠りから今
「……?」
おや、といいたげに、武蔵のすがたを、まじりまじり眺めている。
「いらっしゃいまし」
やっと、自分が居眠っていたところへ客が来て、何度も起されたことを
「何か御用で」
と、膝を直していう。
怖ろしく
だが、武蔵が、
「これを」
と、自分の一腰を差し出して、
「拝見いたします」
さすがに、刀に
人間が来た時には、ぶあいそに下げもしなかった頭を、刀に対しては、まだそれが名刀か鈍刀かも知れないうちから――まず鄭重にこの男は礼儀をする。
そして懐紙をふくみ、
ぱちんと、鞘におさめ、何もいわずにまた、武蔵の顔を見ていたが、
「お上がりくだされい」
ずっと膝を
「では」
と、武蔵は辞退せずに上がって坐った。
刀の手入れも手入れであるが、実をいえば、ここの板看板に
だが耕介は、元よりそんな縁故を知ろうはずもないので、並扱いにしているにちがいないが、武蔵の腰の
「お刀は、重代のお持ち
と、訊く。
武蔵は、いやべつにそんな来歴のある品ではないと答えると、耕介はまた、では戦場で使った刀か、それとも常用の刀かなどと訊ね、武蔵が、
「戦場で使ったことはない。ただ、持たないには
と、説明すると、
「ふむ……」
と、耕介は、相手の顔を見まもりながら、
「これを、どう
と、いう。
「どう研げとは?」
「斬れるように研げと仰っしゃるのか、斬れぬ程でもよいと仰っしゃるのか」
「元より、斬れるに越したことはない」
すると耕介は、さもさも驚嘆するような顔をして、
「え。この上にも」
と、舌を巻いていった。
斬れるべく研ぐ刀である、斬れるだけ斬れるように研ぐのが研師の腕ではないか。
武蔵が
「てまえには、この刀は、お研ぎできません。どうか
と、武蔵の腰の
わけのわからない男、なぜ研げないというのかと、断られた武蔵は、やや不快な顔いろをつつめなかった。
――で、彼が黙っていると、耕介も、ぶあいそに、いつまでも、口を
すると門口から、
「耕介どん」
と、近所の者らしい男が覗きこんで――
「お宅に、
と、いった。
すると耕介は、他にも、機嫌のわるいものが胸にあったところとみえて、
「わしの家には、殺生をする道具などはないっ。ほかで借りたがいい」
と、呶鳴った。
近所の男は、びっくりしたように行ってしまった。――そして後は、武蔵を前に、
だが、武蔵は、漸くこの男のおもしろさを見出していた。そのおもしろさというのは、才や機智のおもしろさではない。古い
そういえば、耕介の横びんに
武蔵は、こみあげて来るおかしさを、顔には見せぬ程に
「御主人」
と
「はい」
と気のない答えよう。
「――なぜこの刀は、研げないのでござろうか。研いでも
「うんにゃ」
と、耕介は首をふって、
「刀は、持主のそこもと様が、誰よりようご存じじゃろが、
「ほ。……なぜで」
「誰も彼も、およそ刀を持って来る者が、一様にまずいう注文が――斬れるように――じゃ。斬れさえすればいいものと思うておる。それが気に喰わぬ」
「でも、刀を研ぎによこすからには」
いいかける武蔵のことばを、耕介は、手で抑えるような恰好をして、
「まあ、待たっしゃい。そこのところを説くと話は長くなる。わしの家を出て、門の看板を読み直してもらいたい」
「
「さ。そこでござる。わしは刀を研ぐとは看板に出しておらぬ。お侍方のたましいを研ぐものなりと――人は知らず――わしの習うた
「なるほど」
「その教えを奉じますゆえ、ただ斬れろ斬れろと、人間を斬りさえすれば偉いように思うているお侍の刀などは――この耕介には研げんというのじゃ」
「ウム、一理あることと聞え申した。――してそういう風に子弟に教えた宗家とは、何処の誰でござるか」
「それも、看板に
師の名を名乗る時は、それが自分の誇りのように、耕介は猫背をのばして
そこで武蔵が、
「光悦どのなら、実は自分も面識のある間で、
と、その当時の頃の思い出を一つ二つ話すと、
「ではもしや貴方は、一乗寺下り松で、一世の剣名を
と、眼をすえていう。
武蔵は、彼のことばが、誇張に聞えて、少しむず
「されば、その武蔵でござる」
いうと耕介は、貴人へ
「よもや武蔵様とは知らず、先ほどから
「いやいや、御亭主のお話には、拙者も教えられるふしが多い。光悦どのが、弟子に
「ご承知の通り、宗家は室町将軍の中世から、刀のぬぐいや
「む。いかにもな」
「それゆえ、師の光悦は、よい刀を見ると、この国の泰平に治まる光を見るようだと申し――悪剣を手にすると、
「ははあ」
と、思い当って、
「では、拙者の腰の
「いや、そうした
「そこへ、拙者までが、
「あなた様の場合は、また違いまして――実は先ほど、お腰の物を見たせつなに、余りにひどい刃こぼれと、むらむらと、
耕介の口を
「おことばの数々、よう分りました。――なれどお案じ下さるまい、物心ついてより持ち馴れている刀なので、その刀の
耕介は、すっかり気色を好くして、
「ならば、研いでさし上げましょう。いや、あなた様のような侍のたましいを、研がせていただくのは研師の
と、いった。
いつか
刀の
「失礼ですが、代りの差料をお持ちでござりますか」
と、耕介がいう。
ないと答えると、
「では、たいして良い刀ではございませんが、
と、奥の部屋へ招く。
そして刀
「どれでも、お気に召した物を、どうぞ」
と、いってくれた。
武蔵は、眼も
けれど、良い刀には、必然な魅力がある。武蔵が今、数本の中から握り取った刀には、
抜いて見ると、案のじょう、吉野朝時代の作かと思われるにおいの
「では、これを――」
と、所望した。
拝借するといわなかったのは、もう是非に
「さすがに、お目が高い」
耕介は後の刀を、仕舞いながらいった。
武蔵は、その間も、所有慾に
「耕介どの、これを拙者に、お譲りくださるわけにはゆかないでしょうか」
「差上げましょう」
「お代は」
「てまえが求めた元値でよろしゅうございます」
「すると何程」
「金二十枚でございます」
「…………」
武蔵は、よしない望みと、よしない煩悶を、ふと
「いや、これは、お返しいたしましょう」
と、耕介の前へ戻した。
「なぜですか」
と、耕介はいぶかって――
「お買いにならずとも、いつまでも、お貸し申しておきますから、どうかお使いなさいまして」
「いや、借りておるのは、なおさら心もとない。一目見ただけでも、持ちたいという慾望にくるしむのに、持てぬ刀と分りながら、しばしの間身に帯びて、またそちらへ返すのは辛うござる」
「それほど、お気に召しましたかな……」
と耕介は、刀と武蔵とを見くらべていたが、
「よかろう、それまでに、恋いなされた刀なら、
すると耕介が、あなたは彫刻をなさるそうで、そんなことを、師の光悦から聞いていましたが、何か、観音像のような物でも、ご自分で彫った物があったら、それを手前に下さい。それと取換えということにして、刀は差上げましょう――と、彼の
手すさびの観音像は、久しく旅包みに負って持ち歩いていたが、法典ヶ原に
で数日の余裕を与えてくれれば特に彫っても、この刀を所望したい――と武蔵がいうと、
「元より、直ぐでなくても」
と、耕介は当然のこととしているのみか、
「
と、願ってもないことだった。
では、
「それでは一応、そこの部屋を見ておいて下さい」
と、奥へ案内する。
「然らば」
と、武蔵は
「あれが、
と
いつの間に
「まあ、一
と、夫婦してすすめる。
杯が交わされてからは、客でもなく
その刀のこととなると、耕介は眼中に人もない。青い頬は少年のように
「刀は、わが国の神器だとか、武士のたましいだとか、皆口だけでは仰っしゃるが、刀をぞんざいにすることは、侍も町人も神官も、みな甚だしいものですな。――てまえは或る志を抱いて、数年間、諸国の神社や旧家を訪れ、古刀のよい物を
――それからまた、彼は、こうもいう。
「伝来の刀とか、秘蔵の名剣とか、聞えている物ほど、ただ大事がるばかりで、
と、ここでは口ばたの
「刀は、刀ばかりはですな。どういうものか、時代が下るほど、悪くなります。室町から下って、この戦国になってからは、

と、いうと、何思ったか、ふと立ち上がって、
「これなども、やはり
と、怖ろしく長い太刀作りの一刀を持ち出して来て、武蔵の前へ、話題の実証として置いた。
武蔵は、その長剣を何気なく見て、はっと驚いた。これは佐々木小次郎の所有する「物干竿」にちがいなかった。
考えてみれば不思議はない。ここは
けれど、佐々木小次郎の刀を、ここで見ようとは思いがけないことと、武蔵は追想に耽りながら、
「ほ、なかなか
と、いった。
「さればで」
と、耕介も合点して、
「多年、刀は
物干竿の
「ごらんなさい、惜しい
「なるほど」
「幸い、この刀は、鎌倉以前の稀れな名工の鍛刀ですから、骨は折れますが、
「お納めを」
と、武蔵もまた、刃を自分のほうに向け、みねを耕介の方にして刀を返した。
「失礼ですが、この刀の依頼主は、この
「いえ、細川家の御用で伺いました時、御家中の岩間角兵衛様から、戻りに
「
「太刀作りなので、今までは肩に負って用いていたが、腰へ差せるように、
と、耕介も、それを見ながら、呟くようにいった。
酒も体にまわり、だいぶ
外へ出てすぐ感じたことは、町の何処一軒も起きていない暗さであった。そう長い時間とも思わなかったが、案外長坐していたものとみえる。夜はもうよほど
しかし
「まだ帰らぬのであろうか」
武蔵は、ふと、案じられた。
馴れない江戸の町――どこをどう道に迷っているのかもわからない。
梯子だんを降り、そこに寝そべっている寝ずの番の男を揺り起して訊ねると、寝ぼけ
「まだ帰っておいでなさらねえようですが、旦那と一緒じゃなかったのでございますか」
と、武蔵が知らないことを、かえって
「――はてな?」
このまま寝られもしない。武蔵は再び
「ここが
と、伊織は疑った。
そして途々、道を教えてくれた者に対して、
「こんな所に、お大名の家なんかあるものか」
と、腹を立てて独り思った。
彼は、河岸に積んである材木に腰かけて、
材木の
それ以外は、
水に近い所には、材木と石ばかりが、山をなしていた。考えてみると、江戸城も
「困ったな」
草には夜露がある。板みたいに硬くなった草履を脱いで、
尋ねる邸は知れないし、余りに夜も更けてしまって、伊織は、帰るにも帰れなかった。使いに来て、使いを果さずに帰ることは、子ども心にも、恥辱に思われた。
「宿屋のおばあが、いい加減なことを教えたから悪いんだ」
彼は、自分が、
――もう訊く人もいない。このまま夜が明けてしまうのかと思うと伊織は、突然悲しくなって、木挽小屋の者でも起して、夜の明けないうちに、使いを果して帰らなければならないと、責任感に責められて来た。
で――彼はまた、歩き出した。そして掘建小屋の灯を頼りに歩き出した。
すると、一枚の
鼠鳴きして、小屋の中の者を、呼び出そうとしては、失望して、
伊織は、そういう種類の女が、何を目的にうろついているのか、元より知らないので、
「おばさん」
と、馴々しく声をかけた。
壁みたいな白い顔をしている女は、伊織をふり
「てめえだろ、さっき、石をぶつけて逃げたのは」
と、睨みつけた。
伊織は、ちょっと、驚いた眼をしたが、
「知らないよ、おらは。――おらはこの辺の者じゃないもの」
「…………」
女は歩いて来て、ふいに、自分でおかしくなったように、げたげた笑いだした。
「なんだい。何の用だえ」
「あのね」
「かあいい子だね、おまえ」
「おら、使いに来たんだけど、お
「どこのお邸へゆくのさ」
「柳生但馬守様」
「何だって」
女は、何がおかしいのか、下品に笑い
「柳生様といえば、お大名だよおまえ」
と女は、そんな大身の所へ用があって行くという伊織の小さな身なりを、
「――おまえなんぞが行ったって、御門を開けてくれるもんかね。将軍様の御指南番じゃないか。中のお長屋に、誰か知ってる人でもあるのかえ」
「手紙を持って行くんだよ」
「誰に」
「木村助九郎という人に」
「じゃあ、御家来かい。そんなら話は分ってるけれど、おまえのいってるのは、柳生様を懇意みたいにいうからさ」
「どこだい、そんなことはいいから、お邸を教えておくれよ」
「堀の向う側さ。――あの橋を渡ると、紀伊様のおくら屋敷、そのお隣が、
女は、堀の向うに見える、浜倉だの、塀だのの棟を、指で数えて、
「たしか、その次あたりのお屋敷がそうだよ」
と、いう。
「じゃあ、向う側も、
「そうさ」
「なあんだ……」
「人に教えてもらって、なあんだとは何さ。だけど、おまえは可愛い子だね。あたしが、柳生様の前まで、連れて行って上げるからおいで」
女は、先に歩き出した。
「ちゅっ」
と、鼠鳴きして、女の
すると女は、連れている伊織のことなどは、すぐ忘れて、男のあとを追いかけて行き、
「あら、知ってるよこの人は。――いけない、いけない、通すもんか」
男を
「はなせよ」
「いやだよ」
「かねがないよ」
「なくてもいいよ」
女は、モチみたいに男にねばりついたまま、ふと、伊織の呆ッ気にとられている顔を見て――
「もう分ってるだろ。わたしはこの人と用があるんだから先へおいで」
と、いった。
だが伊織は、まだ不思議な顔して、大人の男と女が、むきになって争っている
そのうちに、女の力が勝ったものか、男がわざと曳かれて行くのか、
「……?」
伊織は、不審を覚えて、こんどは橋の欄干から、下の河原をのぞいた。浅い河原には雑草が
ふと、上を見廻すと、女は、伊織が覗きこんでいるので、
「ばかッ」と、怒った。そして、
「ませてる餓鬼だね」
と、投げつけた。
伊織は、胆をつぶして、橋の彼方へ、どんどん逃げだした。曠野の
河を背なかにして、倉がある、塀がある。また、倉がつづく、塀がつづく。
「あ、ここだ」
伊織は、独り言に、思わずそういった。
浜倉の白壁に、二階笠の紋が、夜目にもはっきり見えたからだ。柳生様は二階笠ということは、
倉のわきにある黒い門が、柳生家にちがいない。伊織は、そこに立って、閉まっている門をどんどん叩いた。
「何者だっ」
叱るような声が、門の中から聞えた。
伊織も、声いっぱい、
「わたくしは、宮本武蔵の門人でございます。手紙を持って、使いに参りました」
と、呶鳴った。
それからも、ふた
「なんだ今時分」
と、いった。
その顔の先へ、伊織は、武蔵からの返事をつき出して、
「これを、お取次して下さい。ご返事があるなら、貰って帰ります。なければ、置いて帰ります」
門番は、手に取って、
「なんじゃ……? ……おいおい子ども、これは、御家中の木村助九郎様へ持って来た手紙じゃないか」
「はいそうです」
「木村様はここにはおらんよ」
「では、どこですか」
「
「へ。……みんな木挽町だって、教えてくれましたが」
「よく世間でそういうが、こちらにあるお邸は、お住居ではない。お蔵やしきと、
「じゃあ、殿様も御家来方も日ヶ窪とやらにいるんですか」
「うむ」
「日ヶ窪って、遠いんですか」
「だいぶあるぞ」
「どこです」
「もう御府外に近い山だ」
「山って?」
「
「わからない」
伊織はため息をついた。
だが、彼の責任感は、なおさら彼をこのままで帰る気持にはさせない。
「門番さん、その日ヶ窪とやらの道を、絵図に書いてくれないか」
「ばかをいえ。今から、
「かまわないよ」
「よせよせ、麻布ほど、狐のよく出る所はない。狐にでも
「わたしの先生が、よく知っているんです」
「どうせ、こう遅くなったんだから、米倉へでも行って、朝まで、寝てから行ったらどうだ」
伊織は、爪を噛んで、考えこんでしまった。
そこへ蔵役人らしい男も来て、仔細を聞くと、
「今から、子供一人で、麻布村へなど行けるものか。辻斬りも多いのに――よく博労町から一人で来たものだな」
と、つぶやき、門番と共に、夜明けを待てとすすめてくれた。
伊織は、米倉の隅へ、鼠のように、寝かしてもらった。しかし彼は、余りに米が沢山にあるので、貧乏人の子が黄金の中へ寝かされたように、少しとろとろとすると
寝るともう直ぐ、正体もない顔つきは、伊織も、まだやはり他愛のない少年でしかない。
蔵役人も、彼を忘れてしまい、門番からも忘れられて、米倉の中にぐっすり眠り込んだ伊織は、翌る日の
「おや?」
がばと、
「たいへんだ」
と、使いの任務を思い出して、狼狽した眼をこすりながら、
陽なたへ出ると、彼は、ぐらぐらと眼が
「子ども。今起きたのかい」
「おじさん、日ヶ窪へ行く道の絵図を書いておくれよ」
「寝坊して、
「ペコペコで、眼がまわりそうだよ」
「ははは。ここに一つ、弁当が残っているから喰べてゆくがいい」
――その間に、門番は、麻布村へ行くまでの道すじと、柳生家のある日ヶ窪の地形を、絵図に書いてくれた。
伊織は、それを持って、道を急ぎだした。使いの大事なことは、頭に
門番の書いてくれた通り、
この辺は、何処も
日比谷の原には
武蔵の原の
りんどう、
花はとりどり
迷うほどあるが
あの
手折れぬ花よ
露しとど
ただ
新しく、石垣を築く、物を建てる、創造する。そうした空気は少年の魂と、ぴったり合致して何となく、胸がおどる。空想が飛びひろがる。
「ああ、早く、
彼は、そこらに監督して歩いている侍たちを見て、恍惚としていた。
――そのうちに、濠の水は、
「あ。もう陽が暮れる」
と、伊織はまた、急ぎ出した。
眼をさましたのが、
暗やみ坂とでも
江戸の麻布の山まで来ると、人家は稀れで、わずかに、彼方此方の谷底に、田や畑や農家の屋根が、点々と見えるに過ぎない。
遠いむかし、この辺りは、
「くたびれた……」
一息に上って来たので、伊織はつぶやきながら、芝の海や、渋谷、青山の山々、今井、
彼のあたまには、歴史も何もなかったが、千年も生きて来たような木だの、
どーん
どん、どん、どーん
「おや?」
どこかで太鼓の音がする。
伊織は、山の下をのぞいた。
鬱蒼とした青葉の中に、神社の屋根の
それは今、登って来る時に見て来た、
この辺には、御所のお米を作る
大神宮さまとは、どなたを
――だからこの頃急に、江戸の人たちが、
(徳川様、徳川様)
と、
今も、たった今、江戸城の大規模な改修工事をながめ、大名小路の
(徳川のほうが偉いのかしら)
と、単純に
(そうだ、こんど、武蔵さまに訊いてみよう)
やっと、そのことは、それで頭にかたづけたが、肝腎な柳生家の屋敷は? ――さてここからどう行くのか。
これはまだちっともはっきりしていないのである。そこで彼はまたふところから門番にもらった絵図を出し、ためつすがめつ、
(はてな?)
と、小首を
何だか、自分のいる位置と絵図とが、ちっとも、符合しないのだ。絵図を見れば、道が分らなくなり、道を眺めると、絵図が分らなくなる。
(変だなあ)
よく陽のあたる障子の中にいるように、辺りは陽が暮れるほど反対に、明るくなって来る気がするが――それへ薄っすらと
「けッ! こん畜生っ」
何を見つけたか。
伊織は、やにわに跳ね飛んで、いきなり後ろの草むらを目がけ、いつも差している野刀の小さいので抜き打ちに斬りつけた。
ケーン!
と、狐が躍った。
草と、血とが、虹いろの夕陽の
枯れ尾花のように、毛の光る狐だった。尾か脚かを、伊織に斬られて
「こん畜生」
伊織は、刀を持ったまま、やらじとばかり追いかける。狐も
野に育った伊織は、母の膝に抱かれていた頃から、狐は人を
――だから今、草むらの中に居眠りしていた狐を見つけると、彼は、とたんに、道に迷っている自分が、偶然でない気がした。こいつに
殺してしまわないとまた
そう思ったから伊織はどこまでも追いかけたのであったが、狐の影は、忽ち、雑木の生い茂った崖へ跳びこんでしまった。
――だが伊織は、
草にはもう夕露があった。赤まんまとよぶ草にも、ほたる草の花にも露があった。伊織は、へなへなと坐りこんで、
それから――彼はようやく肩で息をつきはじめた。とたんに滝のような汗がながれてくる。心臓が、どきどきと、あばれてうつ。
「……アア、畜生、どこへ行ったろう?」
逃げたら逃げたでいいが、狐に
「きっと、何か、仇をするにちがいないぞ」
という覚悟を、持たざるを得なかった。
果たせるかな。――すこし気が落着いたと思うと、彼の耳に、妖気のこもった
「……?」
伊織は、キョロキョロ眼をくばった。
妖しい音は近づいて来る。それは笛の音に似ていた。
「来たな……」
伊織は、眉に
見ると、彼方から女の影が
馬には、音楽が分るとかいうが、いかにも笛の音が分るように、馬上の女がふく横笛に聞き
「化けたな」
と、伊織はすぐ思った。
うすずく陽を
伊織は、青蛙のように、小さくなって、草むらに
そこはちょうど、南の谷へ降りる坂道の角になっていた。――もし女が馬上のまま、ここまで来たら、不意に斬りつけて、狐の正体を
真っ赤な日輪は今、渋谷の山の端に沈みかけて、
――おつうどの。
ふと、何処かで、そんな声がしたようだった。
(――おつウどの)
伊織は、口のうちで、口真似してみた。
疑ってみると、その声も、何だか人間放れのした五音であった。
(仲間の狐だな)
狐の友が、狐をよんだ声にちがいない。――伊織は、近づいて来る騎馬の女を、狐の化けたものと、飽くまで信じて疑わないのであった。
草の中からふと見ると、馬の背へ横乗りになった麗人は、もう坂の角まで来ていた。
この辺りには、樹が少ないので、馬上の姿は、宵闇の地上からぼかされて、上半身は、赤い夕空に、くッきりと明瞭に描かれていた。
伊織は、草むらの中に、身づくろいをしながら、
(おらの隠れていることを知らないな)
と、思って、刀をかたく持ち直していた。
そして彼女が、もう十歩ほど出て、南の方の坂道を降りかけたら、飛び出して、馬の尻を斬ってやろうと考えていた。
狐というものは大概――化けている
だが。
騎馬の女性は、坂の口のてまえまで来ると、ふと、駒を止めてしまい、吹いていた笛を、
「……?」
何か、探すような眼をして、鞍の上から見まわしているのであった。
――おつうどのう。
またしても、どこかで同じ声が聞えた。――と思うと、馬上の佳人は、ニコと白い顔を
「お。――
と、小声にさけんだ。
するとやっと、南の谷から、坂道を上って来たひとりの侍の影が――伊織の眼にも分った。
――オヤッ?
伊織は、
何とその侍は、
その間に、騎馬の女と、跛行の侍は、何か、ふた
(今だ!)
と、伊織は思ったが、体がうごかなかった。――のみならずその
その
で――伊織は、思わず草の中に
坂は急であった。
兵庫は、駒の口輪をつかみ、
「お通どの、遅かったなあ」
鞍の上を振り仰いでいった。
「――参詣にしては、余り遅いし、日も暮れかかるので、叔父上は案じておられる。――で、迎えに来たわけだが、何処ぞへ、廻り道でもして来たのか」
「ええ」
お通は、鞍の前つぼへ、身を
「
と、いって、駒の背から降りてしまった。兵庫は、足をとめて、
「なぜ降りるのじゃ。乗っておればよいのに」
と、顧みる。
「でも、あなた様に口輪を
「相変らず遠慮ぶかいなあ。さりとて、女子に口輪をつかませて、わしが乗って帰るのもおかしい」
「ですから、二人して、口輪を
と、お通と兵庫は、駒の
坂を降りるほど、道は暗くなった。空はもう白い星だった。谷の所々には、人家の明りがともっている。そして渋谷川の水が音をたてて流れてゆく。
その谷川橋のてまえが、
その橋手前から北側の崖一帯は、看栄
坂の途中に今見えた「
柳生家の邸は、ちょうど、その大学林と向い合って、南側の崖を占めているのであった。
だから、谷あいの渋谷川に沿って住んでいる農夫や、
柳生兵庫は、門生たちの中に交じっているが、宗家石舟斎の孫にあたり、但馬守からは
兵庫は二十歳を出ると間もなく、加藤清正に懇望されて、破格な高禄で、いちど肥後へ召抱えられてゆき、禄三千石を
(宗家の大祖父が危篤のため)
というよい口実を得た折に、いちど大和へ帰り、その以後は、
(なお、修行の望みあれば)
と称して、それなり肥後へ帰らず、一両年のあいだ諸国を修行にあるいて、去年からこの江戸柳生の叔父の許に、足をとめている身であった。
その兵庫は、ことし二十八歳であった。折から、この但馬守の屋敷には、お通という一女性も居合わせた。年頃の兵庫と、年頃のお通とは、すぐ親しくなったが、お通の身の上には複雑な過去があるらしいし、叔父の眼もあるので、兵庫はまだ、叔父にも彼女にも、自分の考えは、一度も口に出したことはなかった。
――だが、なおここで、説明しておかなければならないことは、お通がどうして、柳生家に身を寄せていたかということである。
武蔵の側を離れて、お通が、その消息を絶ってしまったのは、もう足掛け三年も前――京都から木曾街道を経て、江戸表へ向って来た――あの途中からのことだった。
福島の関所と、奈良井の宿のあいだで、彼女を待っていた魔手は、彼女を脅迫して、馬に乗せ、山越えを押して、甲州方面へ逃げのびた足どりだけは前に述べておいた。
その
何処に。
また、何をして。
と――今それを
又八は、江戸へ着くと、
(とにかく喰う道が先だ)
と、職を捜した。
元より、職をさがして歩くにも、お通は一刻も放さない。
(上方から来た夫婦者で――)
と、どこへ行っても、自称していたのである。
江戸城の改築をしているので、
(どこか、夫婦して働けるような所か、家にいてやる筆耕みたいな仕事でもありますまいか)
と、相変らず、優柔不断なことばかりいい歩いているので、多少肩身を入れかけてくれた者も、
(いくら江戸でも、そんな虫のいい、お前方の注文どおりな仕事があるものか)
と、あいそをつかして、見向きもされなくなってしまうという風であった。
――そんなことで、幾月かを過ごすうち、お通は、努めて、彼に油断させるよう、貞操にふれない限りでは、何でも、素直になっていた。
そのうち、彼女は或る日、往来を歩いていると、二階笠の紋をつけた
(あれが、柳生様じゃ)
(将軍家のお手をとって、御指南なさる
――お通はふと、大和の柳生ノ庄にいた頃を思い出し、柳生家と自分との
(オオ、やはり、お通どのだ。――お通どの、お通どの)
と、路傍の人々の散らかる中を捜し求めて、後ろからこう呼び止めた人がある。
今、但馬守の駕わきに歩いていた
慈悲光明の
(オ。あなたは)
と、又八を捨てて、彼のそばへ走り寄った。
その場から、彼女は、助九郎に連れられて、日ヶ窪の柳生家へ救われて行った。もちろん
(話があるなら、柳生家へ来い)
と、助九郎の一言に、口惜しげに
石舟斎はいちども江戸表へは出て来なかったが、秀忠将軍の指南役という大任をうけて、江戸に新邸を構えている但馬守の身は、本国柳生ノ庄にいながらも、たえず案じているらしかった。
今、江戸はおろか、全国的にまで、
(御流儀)
といえば、将軍家の学ぶ柳生の刀法のことであり、
(天下の名人)
といえば、第一指に、誰しも、但馬守
けれど、その但馬守でも、親の石舟斎の眼から見れば、
(あの癖が出ねばよいが)
とか、
(あの気ままで勤まろうか)
などと、昔ながらの子供に思えて、遠くから、明け暮れ取りこし苦労をしていることは、およそ剣聖と名人の
殊に、石舟斎は、昨年あたりから
また、その四高足の中の一人、木村助九郎を
以上で、ざっと、柳生家のここ両三年の消息は伝えたと思うが、そうした江戸柳生の新邸へ――否、もっと家庭的に、但馬守の
それが、お通と、柳生
助九郎がお通を連れて来た場合は、それが石舟斎に
(心おきなく、
と、気軽であったが、後から甥の兵庫も来て、共に寄食するようになると、
(若いふたり)
という眼をもって
――だが、甥の兵庫という人物は、
(お通どのはいい。お通どのはわしも好きだ)
と、いって
(妻に)
とか、
(恋している)
とか、そんなことは、叔父にもお通にも、決して口に出すことはなかった。
さて。
――その二人は今、駒の口輪を挟んで、とっぷり暮れた日ヶ窪の谷へ降り、やがて南面の坂を少し上ると、すぐ右側の柳生家の門前に足をとめ、兵庫がまずそこを叩いて、門番へ呶鳴った。
「平蔵、開けろ。――平蔵。――兵庫とお通さんのお戻りだぞ」
彼は、
その点が、
大御所家康から柳生家に、
(誰ぞひとり、秀忠の師たるべき者を江戸へさし出すように)
と、いう
(
と、いいつけたのも、宗矩の聡明と温和な性格が、適していると見たからであった。
いわゆる御流儀といわれる柳生家の
――天下を治むる兵法
であった。
それが石舟斎の晩年の信条であったから、将軍家の師範たるものは、宗矩のほかにないと推挙したのであった。
また、家康が、子の秀忠に、剣道のよい師をさがして、それに就かせたのも、剣技に長じさせるためではなかった。
家康は、自分も奥山
(見国の機を悟る――)
にあると常にいっていた。
だから御流儀なるものは、従って、個人力の強い弱いの問題よりも、まず大則として、
――天下統治の剣
であること。また、
――見国の機微に悟入する
のが、その眼目でなければならなかった。
だが、勝つ、勝ちきる、飽くまで何事にも打ち勝って生き通す――ことが剣の発足であり、また最後までの目標である以上、御流儀だから個人試合においては弱くてもよいという建前はなり立たない。
いや、むしろ、他の諸流の誰よりも、柳生家はその威厳のためにも、絶対に、優越していなければならなかった。
そこに、絶えず、宗矩の苦悶があった。――彼は、名誉を負って江戸へ上ってから一門のうちで一ばん恵まれた幸運児のように見えているが、事実は、最も辛い試練に立たされていたのだった。
「甥は
と、宗矩はいつも、
「ああなりたいが」
と思っても、彼には、その立場と性格から、兵庫のような自由にはなれないのだった。
その
ここの邸は、豪壮を尊んで建築させたので、
「叔父上」
と、兵庫がそこをさし覗いて、縁に膝まずいた。
宗矩は、知っていたので、
「兵庫か」
中庭の坪へ眼をやったままで答えた。
「かまいませぬか」
「用事か」
「べつに用でもございませぬが……ただお話に伺いましたが」
「はいるがよい」
「では」
と、兵庫は初めて
礼儀の実にやかましいことは、ここの家風であった。兵庫などから見ると、祖父の石舟斎などには、ずいぶん甘えられる所もあったが、この叔父には寄りつく
宗矩は、ことば数も
「お通は」
と、訊ねた。
「戻りました」
と、兵庫は答えて、
「いつもの、氷川の
「そちが迎えに行ったのか」
「そうです」
「…………」
宗矩は、それからまた、
「若い
「……ですが」
兵庫は、やや異議を抱くような
「身寄りもなにもない、
「そう思い遣りを懸けたひには限りがない」
「心だての好いものと――
「気だてが悪いとは申さぬが――何せい若い男ばかりが多いこの邸に、美しい女がひとり立ち交じると、出入りの者の口もうるさいし、侍どもの気もみだれる」
「…………」
暗に自分へ意見しているのだ、とは兵庫は思わなかった。なぜなら、自分はまだ妻帯していないし、またお通に対しても、そう人に訊かれて恥じるような不純な気持は持っていないと信じているからだった。
むしろ、兵庫は、今の叔父のことばを、叔父自身が、自身へいっているように思われた。宗矩には格式のある権門から
こん夜も、浮いた顔いろでないが――時々、宗矩が、表の部屋で、ただひとり
(何か奥であったのではないか)
と、兵庫のような、独身者の神経にも、思い
(黙っておれ)
と、一
表に対しては、将軍家師範という大任を感じていなければならない良人はまた、妻室へはいっても何かと
――といって、そんな顔いろも愚痴も人には示さない宗矩だけに、ふと、
「助九郎とも、相談してお
叔父の心を察して、兵庫がいうと、宗矩は、
「はやいがよいな」
と、つけ加えた。
その時、用人の木村助九郎がちょうど、次の間まで来て、
「――殿」
と、
「なんじゃ」
振顧ると、その宗矩の
「お国
「――早馬?」
宗矩は、思い当ることでもあるように、声を
兵庫も、すぐ察して、
(さては)
と、思った。しかし口に出していいことではないので、無言のまま助九郎の前から文筥を取次ぎ、
「何事でございましょうか」
と、叔父の手へ渡した。
宗矩は、手紙を
本国柳生城の家老――庄田喜左衛門からの早打であって、筆のあとも走り書きに、
大祖(石舟斎)さま御事
又々、御風気のところ
此度は御模様ただならず
畏れながら旦夕 に危ぶまれ申候
然し乍 ら、猶御気丈に在 し、
たとえ身不慮のことあるも、
但馬守は将軍家指導の大任あるもの故、
帰郷に及ばずとの仰せに候
さは仰せられ候ものの臣下の者、
談合のうえ、とりあえず先 は飛札かくの如くにござ候
月 日
「……御危篤」又々、御風気のところ
此度は御模様ただならず
畏れながら
然し
たとえ身不慮のことあるも、
但馬守は将軍家指導の大任あるもの故、
帰郷に及ばずとの仰せに候
さは仰せられ候ものの臣下の者、
談合のうえ、とりあえず
月 日
宗矩も、
兵庫は、叔父の顔いろの中に、もうすべてが解決しているのを見た。こういう場合にあたっても
「兵庫」
「はあ」
「わしに代って、すぐに
「承知いたしました」
「江戸表の方――すべて何事もご安心なさるように――」
「お伝えいたします」
「ご看護もたのむ」
「はい」
「早打の様子では、よほどおわるいらしい。神仏の御加護をたのみ参らすばかり……急いでくれよ。お枕べに、間にあうように」
「――では」
「もう行くか」
「身軽な拙者。せめて、こんな時のお役にでも立たねば」
兵庫は、そういって、すぐ叔父に
彼が、旅支度をしている間に――もう国許の凶報は、召使の端にまで分って、邸内には、どこともなく、人々の
お通も、いつのまにか旅支度をして、彼の部屋を、そっと訪れ、
「――兵庫様。どうぞ私も、お連れ遊ばしてくださいませ」
と、泣き伏して頼んだ。
「できないまでも、せめて、石舟斎様のお枕べに参って万分の一の御恩返しでもさせて戴きとうございます。柳生ノ庄でも深い御恩をうけ、江戸のお邸においていただいたのも、恐らくは、大殿様の御余恵と存じあげておりまする。……どうぞ、お召し連れ下さいますように」
兵庫は、お通の性質をよく知っていた。叔父なら断るであろうと思いながら、彼は、その願いを断れなかった。
むしろ、
「よろしい。しかし、一刻も争う旅。馬や
と、念を押した。
「はい。どんなにお急ぎ遊ばしても――」
と、お通は
お通はまた、
「おお、行ってくれるか。そなたの顔を見たら、さだめし御病人もお
と、宗矩も異存なく、
「大事に参れよ」
路銀や小袖の
家臣たちは、門をひらき、
「おさらば」
と、兵庫は一同へあっさり挨拶を残して出て行く。
お通は腰帯を
乗物は、
まず大山街道へ出て、玉川の
「道玄坂」
と、兵庫が独り言のように教える。
ここは鎌倉時代から、
「さびしいかね」
兵庫は、大股なので、時々足を止めて待つ。
「いいえ」
にことして、お通は、そのたびに幾分か脚を早めた。
自分を連れているために、柳生城の御病人の枕元へ着く日が、少しでも遅れてはすまないと心のうちに思う。
「ここは、よく山賊の出たところだ」
「山賊が」
彼女が、ちょっと、眼をみはると、兵庫は笑って、
「昔のことだ。和田
「そんな怖い話はよしましょう」
「さびしくないというから」
「ま、お意地のわるい」
「はははは」
兵庫の笑い声が、
なぜか兵庫は、心が少し浮いていた。祖父の危篤に
「――あらっ」
何を見たか、お通は、ぎくと脚をもどした。
「なにか?」
兵庫の手は無意識に、その背を
「……何かいます」
「どこに」
「おや、子供のようです。そこの
「……?」
兵庫が近づいて見ると、それは今日の暮れ方、お通と邸へもどる途中、草むらの中にかくれていた見覚えのある童子であった。
兵庫とお通のすがたを見ると、
「――あっ」
何を思ったか、伊織は、やにわに跳ね起きて、
「ちくしょうッ」
と、斬りつけて来た。
「あれっ」
お通がさけぶと、お通へも、
「狐め。この狐め」
子供の小腕だし、刀も小さいが、
「狐め。狐め」
伊織の声は、老婆みたいにシャ
「――どうだッ!」
伊織は、その刀を
「どうだ! 狐」
と、肩で息をついているのであった。
その
「かあいそうに、この
「……ま、そういえば、あの恐い眼は」
「さながら狐だ」
「助けてやれないものでしょうか」
「
兵庫は、伊織の前へ廻って、彼の顔をじいっと、
くわっと、眼をつりあげた伊織はまた、刀を持ち直して、
「ち、畜生、まだいたかっ」
起ち上がろうとする出鼻を、兵庫の大喝が、彼の耳をつきぬいた。
「ええーいッ」
兵庫はいきなり、伊織の体を、横抱きにして駈け出した。そして坂を下ると、さっき渡った街道の橋がある。そこで、伊織の両脚を持って、橋の下から欄干の外へ吊り下げた。
「おっ
「お
兵庫はまだ、離さずに、吊り下げていた。すると三声目は、泣き声で、
「先生っ。たすけて下さいっ」
といった。
お通は後ろから駈けて来て、兵庫の
「いけません、いけません、兵庫さま! よその子を、そんな
いう間に、兵庫は、伊織の体を橋の上へ移して、
「もうよかろう」
と、手を離した。
わあん、わあん……と伊織は大声で泣き出した。この世に自分の泣き声を聞いてくれる者が一人もないことを悲しむように、愈

お通は、そばへ寄って、彼の肩をそっと触ってみた。もう先刻のように、その肩は硬く尖っていなかった。
「……おまえ、どこの子?」
伊織は、泣きじゃくりながら、
「あっち」
と指さした。
「あっちって、どっち」
「江戸」
「江戸の?」
「ばくろ町」
「まあ、そんな遠方から、どうしてこんな所へ来たの」
「使いに来て、迷子になっちまったんだ」
「じゃあ、昼間から歩いているんですね」
「ううん」
と、かぶりを振りながら、伊織はすこし落着いて答えた。
「
「まあ。……二日も迷っていたのかえ」
お通は、
彼女は、重ねて、
「そして、お使いとは、どこへお使いに?」
訊くと、伊織は、訊いてくれるのを、待っていたように、
「柳生様」
と、言下だった。
そしてそれ一つだけは、
「そうだ、柳生様の中にいる、木村助九郎様ってえ人へ、この手紙を持って行くんだよ」
と、さらにいい加えた。
ああ、伊織は何でその手紙を、折角、親切な人へ、ちょっとでも見せないのか。
使命を重んじているのか。
または、目に見えない運命の何ものかがこんな場合、物の陰にいて、わざとそうさせずにいるのか。
伊織が、彼女のすぐ前で、
それをまた。
――知らないということはぜひもない。お通もべつに、眼をとめて、見ようともせず、
「兵庫さま、この子は、お邸の木村様を尋ねて来たのだそうです」
と、あらぬ方へ、顔を向けてしまう。
「ではまるで、方角ちがいを
「また、狐に
と、お通は危ぶむ。
だが、伊織は、ようやく霧のはれたような心地がして、もう大丈夫と自信を持ったらしく、
「ありがとう」
と、駈け出した。
渋谷川に沿って、少し行ったかと思うと、彼は、足をとめて、
「左だね。――左の方へ登るんだね」
と、念を押しながら、指さしていう。
「うむ」
兵庫は
「暗い所があるぞ。気をつけて行けよ」
――もう返辞もしない。
伊織の影は、若葉のふかい
兵庫とお通は、まだ橋の
「鋭いな、あの
「賢いところがありますね」
彼女は、胸の中で、城太郎と思いくらべていた。
彼女の描いている城太郎は、今の伊織に少し背を足したぐらいなものであるが、数えてみると、今年はもう十七歳になる。
(どんなに変ったろう)
と、思う。
ひいてはまた、武蔵を恋う痛いような物思いが、胸さきへ
(いや、ひょっとしたら、思いがけない旅先で、かえってお目にかかれようも知れぬ)
と、
「おう急ごう。こよいは仕方がないが、この先々では、もう道ぐさはしておられぬぞ」
兵庫は、自分を
――かくてお通も、道を急いだが、心は道の
(あの草の花も、武蔵さまが踏んだ草ではなかろうか)
などと、連れにも語れぬ想いばかりを独り胸に描いては歩いた。
「オヤ、おばば、手習いか」
今、外から戻って来たお
そこは、
ばばは振向いて、
「おいのう」
と答えたのみで、うるさそうにまた、筆を執り直し、何か書き物に余念がない。
お菰は、そっと側へ坐って、
「なんだ、お
と、
ばばが耳も傾けないので、
「もういい年よりのくせに、今から手習いなんぞして、どうするつもりだ。あの世で手習い師匠でもする気かえ」
「やかましい。写経は、無我になってせねばならぬ。
「今日は外で、ちと耳よりな拾い物をしたので、はやく聞かしてやろうと思って帰って来たのに」
「後で聞きましょう」
「いつ終るのか」
「一字一字、
「気の永げえこったな」
「三日はおろか、この夏中には、何十部も
「ヘエ、千部も」
「わしの悲願じゃ」
「その写した経文を、親不孝者へ遺すというのは、いったいどういう
「おぬしも、不孝者か」
「ここの部屋にごろついている極道者は、みんな親不孝峠を越えて来た崩れにきまってらアな。――孝行なのは、親分くれえのもんだろう」
「嘆かわしい世の中よの」
「あはははは。ばあさん、ひどくおめえ
「あいつこそ、親泣かせの骨頂。世に、又八のような不孝者もおろうかと、この
「じゃあ、その父母恩重経とやらを、生涯に千部写して、千人に
「一人に
と、お杉はいつか筆を
「――これを
と、
お
「ところで」
と、身を交わすように、急に話のほこをすげ替えた。
「――おばば、てめえの信心が届いたか、今日、
「何。えらい者に会ったとは」
「おばばが、
「えっ、武蔵に出会ったと?」
聞くと、ばばはもう、写経どころではない。机を押しやって、
「して、どこへ行きましたぞえ。その行く先を、突き止めてくれたかよ」
「そこは、お
「ウウム、ではこの
「そう近くもねえが」
「いや近い近い。きょうまでは、諸国をたずね、幾山河を隔てている心地がしていたのが、同じ土地にいるのじゃもののう」
「そういやあ、ばくろ町も日本橋のうち、大工町も日本橋の内、十万億土ほど遠くはねえ」
ばばは、すっくと立って、袋戸棚の中をのぞきこみ、かねて秘蔵の伝家の短い一こしを
「お菰どの、案内してたも」
「どこへ」
「知れたことじゃ」
「おそろしく気が永げえかと思うとまた、怖ろしく気が短けえなあ。今からばくろ町へ出向く気か」
「おいの。覚悟はいつもしていることじゃ。骨になったら、
「まあ、待ちねえ。そんなことになったひにゃあ、折角、耳よりな手懸りを見つけて来ながら、おれが親分に叱られてしまう」
「ええ、そのような、気遣いしておられようか。いつ武蔵が、旅籠を立ってしまわぬとも限らぬ」
「そこは、大丈夫、すぐ部屋にごろついているのを一匹、張番にやってある」
「では、逃がさぬことを、おぬしがきっと保証しやるか」
「なんでえまるで……それじゃあこっちが恩を着るようなものじゃねえか。――だがまあ仕方がねえ、年よりのことだ、保証した保証した」
と菰は、なだめて、
「こんな時こそ、落着いて、もちッとその写経とやらをやっていなすっちゃどうだ」
「弥次兵衛どのは、きょうもお留守か」
「親分は、講中のつきあいで、
「それを待って、相談をしてはおられまいが」
「だから一つ、佐々木様に来てもらって、ご相談をしてみなすっちゃどうですえ」
翌る日の朝。
ばくろ町へ行って、武蔵の張番に立っている若い者からの
(武蔵はゆうべ
とある。
お杉ばばは、それ見たことかといわんばかりに、
「見やれ、先も生きている人間じゃ、じっと、
と、お
だが、ばばの気性は、お菰も
「いくら武蔵だって、羽が生えているわけじゃなし、まあそう、
菰がいうと、
「なんじゃ、小次郎殿のところへ、
と、ばばは、自分の部屋にあって、もう身支度に
佐々木小次郎が江戸の住居は、細川藩の重臣で岩間角兵衛が邸内の
――と、眼をつぶっても行けるように、半瓦の部屋の者が、教えて聞かすと、
「わかった。分った」
お杉ばばは、年よりの
「造作もない道、
草履の
何か用をして、ふと、出て来た菰の十郎が、
「おや、ばあさんは」
見廻して、訊ねると、
「もう、出かけましたぜ。佐々木先生の
「しようのねえ婆さんだな。――おいおい小六
広い若者部屋へ、声をかけると、遊び事をしていたお稚児の小六が、飛び出して来て、
「なんだ
「なんだじゃねえ、おめえが呑み込んだまま、ゆうべ佐々木先生の所へ行かなかったものだから、ばあさんが、
「自分で行ったら、行ったでいいだろう」
「そうもゆくめえ。親分が
「口は達者だからな」
「そのくせ、体はもう、
「ちぇっ、世話がやけるな」
「すまねえが、今出かけて行ったばかりだから、ちょっくら、追いかけて行って、小次郎先生の
「てめえの親の面倒さえ見たことがねえのに」
「だから、
遊び事を半ばにして、小六はあわてて、お杉のあとを追いかけて行った。
部屋は三十畳も敷ける広さで、
板壁には、ここに
誰かが、或る時、
(何だ、こんな物を)
と、
(外しちゃいけねえ。それは佐々木先生が掛けといたんだから)
と、いったことがある。
理由を
「野郎どもばかりを大勢部屋に詰めておくと、
と、説明した。
しかし――女の小袖と蒔絵の鏡台ぐらいでは、なかなかここの殺気は
「やい、
「だれが」
「てめえがよ」
「ふざけるな、いつおれが」
「まあ、まあ」
今も、大部屋の真ん中では、壺か
菰は、その
「よくも飽きもせず、やってやがるなあ」
ごろんと仰向けに寝て、脚を組んだまま、天井を見ていたが、わいわい連の勝った負けたに、昼寝もならない。
そうかといって、三下の仲間にはいって彼らのふところを
「ちぇっ、きょうは、よくよく芽が出ねえ」
と、矢も
ひとりがひょいと、
「菰の
彼の
「お経じゃねえかこれやあ。がらにもねえ物を持ってるぜ。
と、めずらしがる。
やっと少し眠くなりかけていた
「ム……それか。そいつあ、本位田のばあさんが、悲願を立てて、生涯に千部写すとかいってる写経だよ」
「どれ」
少し文字の見えるのが、手へ奪って、
「なるほど、ばあさんの
「じゃあ、
「読めなくってよ、こんな物」
「ひとつ、節をつけて、
「じょうだんいうな。小唄じゃあるめえし」
「なあにおめえ、遠い昔にゃあ、お経文をそのまま、
「この文句は、和讃の節じゃあやれねえよ」
「何の節でもいいから聞かせろッていうに。聞かせねえと、取っちめるぞ」
「やれやれ」
「――じゃあ」
と、そこで男は、余儀なく仰向けのまま、写経を顔の上にひらいて、
仏説父母恩重経 ――
かくの如くわれ聞けり
ある時、ほとけ
王舎城の耆闍崛 山中に
菩薩、声聞 の衆といましければ
比丘 、比丘尼 、憂婆塞 、憂婆夷
一切諸天の人民
龍神鬼神など
法を聴かんとして来り集まり
一心に宝座を囲繞 し
またたきもせで尊顔を
仰ぎ瞻 たりき――
「なんのこッたい」かくの如くわれ聞けり
ある時、ほとけ
王舎城の
菩薩、
一切諸天の人民
龍神鬼神など
法を聴かんとして来り集まり
一心に宝座を
またたきもせで尊顔を
仰ぎ
「比丘尼ってえな、近頃、鼠色におしろいを塗って、
「しっ、黙ってろい」
一切の善男子善女人よ
父に慈恩あり
母に悲恩あり
そのゆえは
人のこの世に生るるは
宿業を因とし
父母を縁とせり
「
「みろ、
「よし、もう黙ってるから、先を
――父にあらざれば生れず
母にあらざれば育せず
ここをもって
気を父の胤 に稟 け
形を母の胎内 に托 す
母にあらざれば育せず
ここをもって
気を父の
形を母の
この因縁を以ての故に
悲母 の子を念 うこと
世間に比 いあることなく
その恩、未形に及べり
こんどは、余り皆、黙っているので世間に
その恩、未形に及べり
「オイ聞いているのか」
「聞いてるよ」
始め胎 を受けしより
十月 をふるの間
行 、住 、坐 、臥
もろもろの苦悩をうく
苦悩休 む時なきが故に
常に好める飲食 衣服 を得るも
欲執の念を生ぜず
一心ただ安く生産 せんことを思う
「くたびれた、もういいだろ」もろもろの苦悩をうく
苦悩
常に好める
欲執の念を生ぜず
一心ただ安く
「聞いてるのに、なぜやめるんだよ。もっと
月充 ち日足りて
生産 の時いたれば
業風 ふきて是 を促 し
骨節 ことごとく痛み苦しむ
父も心身おののき懼 れ
母と子とを憂念し
諸親眷族 みな苦悩す
すでに生れて草上に堕 つれば
父母、欣び限りなく
猶、貧女 の如意珠 を得たるが如し
初めはふざけていた彼らも、次第に意味が父も心身おののき
母と子とを憂念し
諸親
すでに生れて草上に
父母、欣び限りなく
猶、
――その子、声を発すれば
母も此の世に生れ出たるに似たり
爾来
母の懐 を寝処 とし
母の膝を遊び場とし
母の乳を食物 となし
母の情けを生命 となす
母にあらざれば、着ず脱がず
母飢 えに中 る時も
哺 めるを吐きて子に啗 わしめ
母にあらざれば養われず
その闌車 を離るるに及べば
十指の爪の中に
子の不浄を食らう
……計るに人々
母の乳をのむこと
一日八十斛
父母 の恩重きこと
天の極 まり無きがごとし
「…………」母も此の世に生れ出たるに似たり
母の
母の膝を遊び場とし
母の乳を
母の情けを
母にあらざれば、着ず脱がず
母
母にあらざれば養われず
その
十指の爪の中に
子の不浄を食らう
……計るに人々
母の乳をのむこと
一日八十
天の
「どうしたんだい、おい」
「今、
「オヤ、泣いてるのか。ベソを掻きながら誦んでやがら」
「ふざけんない」
と、虚勢を出してまたつづけた。
母、東西の隣里 に傭 われ
或は水汲み、或は火焼 き
或は碓 き、或は磨 ひく
家に還るの時
未だ至らざるに
わが児家に啼き哭 して
我を恋い慕わんと思い起せば
胸さわぎ心愕 き
乳ながれ出でて堪 うる能 わず
乃 ち、走り家に還る
児、遥かに母の来るを見
脳 を弄 し、頭 をうごかし
嗚咽 して母に向う
母は身を曲げて、両手を舒 べ
わが口を子の口に吻 く
両情一致、恩愛の洽 きこと
復 たこれに過ぐるものなし
――二歳、懐 を離れて始めて行く
父に非ざれば火の身を焼く事を知らず
母に非ざれば刀 の指を堕 すを知らず
三歳、乳を離れて始めて食らう
父に非ざれば、毒の命を落すを知らず
母に非ざれば薬の病 を救うを知らず
父母、外 の座席に往 き
美味珍羞 を得るあれば
みずから喫 わず懐 に収め
喚 びて子に与え、子の喜びを歓ぶ
「やい。……またベソを掻いてんのか」或は水汲み、或は火
或は
家に還るの時
未だ至らざるに
わが児家に啼き
我を恋い慕わんと思い起せば
胸さわぎ心
乳ながれ出でて
児、遥かに母の来るを見
母は身を曲げて、両手を
わが口を子の口に
両情一致、恩愛の
――二歳、
父に非ざれば火の身を焼く事を知らず
母に非ざれば
三歳、乳を離れて始めて食らう
父に非ざれば、毒の命を落すを知らず
母に非ざれば薬の
父母、
美味
みずから
「何だか、思い出しちまった」
「よせやい、てめえがベソを掻き掻き
無法者にも、親があった。
粗暴な、
ただここの仲間では平常、親のことなど口にすると、
(てッ、
と、片づけられるので、
(ヘン、親なんぞ)
と、
その父母がふと今、彼らの心の底から
初めは、鼻からちょうちんを出すように、ふざけた節をつけて、
(おれにも親があった)
ことを思い出すと、その身が、乳をのみ、膝に
「ヤイ……」
と、そのうちに一人が、
「まだ、その先が、あるのか」
「あるよ」
「もちっと、聴かしてくれ」
「待てよ」
と
――子、やや成長して
朋友 と相交わるに至れば
父は子に衣 を索 め
母は子の髪を梳 り
己 が美好はみな子に捧げ尽し
自 は故 を着、弊 れたるを纒 う
――既に子、婦 を索 めて
他の女子 を家に娶 れば
父母をば転 、疎遠にして
夫婦は特に親近にし
私房の中に語らい楽しむ
「ウーム、思い当るぞ」父は子に
母は子の髪を
――既に子、
他の
父母をば
夫婦は特に親近にし
私房の中に語らい楽しむ
と、誰かうなる。
……父母年高 けて
気老い、力衰えぬれば
倚 る所の者はただ子のみ
頼む所の者はただ婦 のみ
しかるに朝 より暮まで
未だ敢えて一たびも来り問わず
夜半衾 冷 ややかに
五体安んぜず、復 談笑なく
孤客の旅寓 に宿泊するが如し
――或は復 、急に事ありて
疾 く子を呼びて命ぜんとすれば
十たび喚 びて、九たび違い
遂に来りて給仕せず
却って怒り罵 りていわく
老い耄 れて世に残るよりは
早く死なんに如 かずと
父母聞きて怨念 胸に塞 がり
涕涙 、瞼 を衝き目くらみ
噫 、汝幼少の時
吾れにあらざれば養われざりき
吾れに非ざれば育てられざりき
噫 、吾れ汝を……
「もう、おらあ、おらあ……気老い、力衰えぬれば
頼む所の者はただ
しかるに
未だ敢えて一たびも来り問わず
夜半
五体安んぜず、
孤客の
――或は
十たび
遂に来りて給仕せず
却って怒り
老い
早く死なんに
父母聞きて
吾れにあらざれば養われざりき
吾れに非ざれば育てられざりき
経を
ひとりとして、声を出す者がない。横になっている者も、仰向けにひっくり
同じ部屋の、すぐ向うの組では、勝った敗けたの賭け事に、慾の餓鬼が修羅のまなじりを吊りあげているかと思えば――ここの一組は、がらにもない無法者が、しゅくしゅく
その奇妙な部屋を見まわしながら入口に立って、
「
佐々木小次郎が、ぶらりと訪れて、姿を見せた。
一方では、賭け事に熱中しているし、ここでは皆、沈みこんで泣いているし、返辞をする者もないので、小次郎は、
「これ、どうしたのだ」
両腕で顔をおおい、仰向けに寝ている
「あ。先生で」
菰も、
「ちっとも、存じませんで」
と、
「泣いておるのか」
「いえ、なあに、べつに」
「おかしな奴だの。――
「おばばに
「わしの住居へ」
「へい」
「はて、本位田のばばが、わしの住居へ、何用があって出かけたのか」
小次郎の姿が見えたので、賭博に
菰は、きのう自分が、
「
――武蔵と聞くと、小次郎の眼には、ひとりでに
「ううむ、然らば武蔵は今、ばくろ町に
「いえ、
「ほ。それはふしぎな」
「何がふしぎで」
「その耕介の手許には、わしの愛刀
「ヘエ、先生のあの長い刀が。――なるほどそいつあ奇縁ですね」
「実はきょうも、もうその研ができていてもよい頃と、取りに出かけて来たのだが」
「えっ、じゃあ耕介の店へ寄ってお
「いや、ここへ立ち寄ってから参るつもりで」
「ああ、それでよかった。うッかり先生が知らずに行ったりなどしたら、武蔵が
「なんの、武蔵如きを、そう恐れるには当らん。――だが、それにしても、ばばがおらねば何の相談もならぬが」
「まだ
小次郎は、奥で待った。
――やがて
ばばが町駕に
夜、奥では
小次郎は、
菰もお稚児も、相手は近頃うわさにも上手と聞えた武蔵ではあるが、小次郎ほどの腕とは、どう高く買っても想像できない。
「じゃあ、やるか」
となる。
ばばは元より、
「おう、討たいでおこうか」
と、気がつよい。
けれどただ、ばばも
翌日の昼間。
彼女は
そして、
――でも、
いや、もっと驚くべき用心は、金入れの底にはいつも、次のように書いた一札を入れていることである。
わたくし事、老齢にてありながら、大望のためさすらい居り候えば、いつなん時、返り討たれんも知れず、行路に病躯をさらし候わんも計られず、その砌 は、御ふびんと思召し、このかねにていかよう共、御始末たまわりたく、途上の仁人とおやくにん様方へ、おねがい申上げおきそろ
作州吉野郷士
本位田後家 すぎ
自分の骨の届け先にまで心が届いていた。さてまた、腰には一刀、
「
と、生ける人へいうように、しばらく、
おそらく旅で死んだ、河原の権叔父へ告げているのであろう。
障子を細目に、
「おばば、まだか」
「支度かの」
「もう、よさそうな時刻だから――小次郎様も待っている」
「いつでもよいがの」
「いいのか。じゃあ、こっちの部屋へ来てくれ」
奥では、佐々木小次郎と、お
ばばのために床の
「
と、三方の
次に小次郎。
順に飲みわけて――ではと四名はそこの灯を消して立ち出でた。
おれも、てまえもと、こよいの
「お待ちなすッて」
と、
外は、雨雲の空もよう。
ほととぎすのよく鳴くこの頃の闇であった。
犬がしきりと闇で吠える。
どこか四人の影に、
「……はてな?」
暗い辻で、お
「なんだ、小六」
「変な奴が、さっきから、後を
「ははあ、部屋の若い奴だな。なんでもかんでも、助太刀に一緒に連れて行けと
小次郎のことばに、
「しようのねえ奴だな。
「
で――気にも止めず、そのまま四名は、ばくろ町の角を曲がった。
「ム……そこだな。
遠く離れて、向い側の
もうお互いに、声をひそめて、
「先生は、今夜、初めて来たんですか」
「刀の研を頼む折は、岩間角兵衛どのの手から頼んだからな」
「で。どうしますか」
「先程、打合わせておいた通り、おばばも、其方たちも、そこらの物陰に
「だが、悪くすると、裏口から逃げやしませんか、武蔵のやつ」
「大丈夫、武蔵とわしとの間には、意地でも
「じゃあ両側の軒下に、わかれていますか――」
「家の中から、わしが武蔵を連れ出して、肩を並べながら往来を歩いて来る。足数にして、十歩ほども、歩いた頃に、わしが一太刀、抜き打ちに浴びせておくから――そこを、おばばに斬ってかからせるがよい」
お杉は、何度も、
「ありがとうござりまする……。あなた様のおすがたが、八幡の
と、
自己の影を拝まれながら「
彼と、武蔵のあいだには、初めから、そう宿怨というほどなことは何もなかった。
ただ、武蔵の名声が高まるにつれて、小次郎は、何となく
それが数年も前から続いて来たのである。要するに、当初は双方がまだ若く、
だが――
顧みると、京都以来、吉岡家の問題を挟み、また、火を
――ましてや、小次郎が、お杉ばばの観念を、そのまま自己の観念に加えて、あわれむべき弱者を
「……寝たのか。……刀屋、刀屋」
耕介の店の前に立つと、小次郎は、閉まっているそこの戸を、かろく叩いた。
戸の隙間から明りが洩れている。店に
「――どなたで?」
小次郎は、戸の外から、
「細川家の岩間角兵衛どのの手から、
「あ、あの長剣ですかな」
「ともあれ、開けてくれい」
「はい」
――やがて戸が開く。
じろりと、双方で
耕介は立ち
「まだ
無愛想にいう。
「――そうか」
と、返辞をした時は、小次郎はもう
「いつ研げる?」
「さあ」
耕介は自分の頬を
「あまり日数がかかりすぎるではないか」
「ですから、岩間様にも、お断りしておいたわけで。日限のところは、おまかせ下さいと」
「そう長びいては困る」
「困るなら、お持ち帰りねがいたいもので」
「なに」
職人ずれがいえる口幅ではない。小次郎は、そのことばや形を見て、人間の心を
で、かくなっては、早いがいいと考え、
「時に、話はちがうが、其方の家に、作州の宮本武蔵どのが泊っているということではないか」
「ほ……。どこでお聞きなさいましたな」
それには、耕介も少し不意を受けた顔つきで、
「おるには、おりますが」
と、いい
「久しく会わぬが、武蔵どのとは、京都以来存じておる。ちょっと、呼んでくれまいか」
「あなた様のお名前は」
「佐々木小次郎――そういえばすぐわかる」
「何と仰っしゃいますか、とにかく申しあげてみましょう」
「あ、ちょっと待て」
「なんぞまだ」
「余り唐突だから、武蔵どのが疑うといけないが、実は、細川家の家中で、武蔵どのとよく似た者が、耕介の店におると話していたので、訪ねて来たわけだ。よそで一
「へい」
耕介は、
小次郎は後で、
(万一、逃げないまでも、武蔵がこっちの手にのらず、出て来ない場合にはどうするか? いっそ、お杉ばばに代って、名乗りかけ、意地でも、出て来ずにいられぬように仕向けるか?)
二段、三段の策までを、その間に考えていると――突然、彼の想像を遥かに跳び越えて、
「――ぎゃっ」
と、ただの肉声ではない。
――しまったっ。
と、小次郎は
――こっちの策は破れた!
いや、策のウラを掻かれた!
武蔵はいつのまにか、裏口から
「よしっ、その分なら」
彼は、闇の往来へ、ぱっと躍り出した。
時は来た!
と、思う。
体じゅうの肉がぎゅっと
(いつかは剣を
それは
忘れてはいない。
その時が来たのである。
たといお杉ばばは返り討ちになっても、ばばの冥福には自分が武蔵の血をもって供養してやろう。
――と瞬間、小次郎の頭には、そんな義侠と正義の念が、火花みたいに突きぬけたが、十歩も跳ぶと、
「せ、先生っ」
道ばたに、苦悶していた人間が、彼の跫音に
「やっ、小六?」
「……
「十郎は、どうした。……お
「お菰も」
「なにっ」
見れば、そこから五、六間離れたところに、もう虫の息となっているお菰の十郎の
見えないのはお杉ばばの影である。
だが、それを探す眼の
「小六、小六」
ことぎれかかるお
「武蔵は――武蔵はどこへ行ったか。武蔵は?」
「ち、ちがう」
小六は、上がらない首を、地で振りながら、やっといった。
「武蔵じゃねえ」
「何」
「……む、武蔵が、相手じゃねえのです」
「な、なんだと?」
「…………」
「小六っ、もういちどいえ。武蔵が相手ではないというのか」
「…………」
お稚児はもう答えなかった。
小次郎の頭は、もんどり打ったように掻き乱れた。武蔵でなくて誰が、一瞬にこの二人を斬って捨てたか。
彼は、こんどは、菰の十郎の仆れているそばへ行って、血でびしょ濡れになっている襟がみをつかみ起した。
「十郎っ、
すると、菰の十郎は、びくっと眼を開いたが、小次郎の訊ねたこととも、この場合の事件とも、まったく関聯のないことを、
「おっ母あ、……おっ母あ……ふ、ふ、不孝を」
きのう、彼の血の中に
――小次郎は知らず、
「ちいっ、何をくだらぬ」
と襟がみを突き放した。
――と。何処かで、
「小次郎どのか。小次郎どのかよ」
と、お杉ばばの声がする。
声をあてに、駈け寄ってみると――これも無残な。
下水
「上げて下され。はやく、上げて下され」
と、手を振っている。
「ええ、この
むしろ腹立ち
「今の男は、もう何処ぞへ走ってしもうたか」
と、小次郎の問いたいことを、却って問う。
「ばば! その男とはそも、何者なのだ」
「わしには
「いきなり、菰とお稚児へ、斬りつけて来たのか」
「そうじゃ、まるで
「して、どっちへ逃げたか」
「わしも、
「河の方へだな」
小次郎は宙を駈けた。
よく馬市の立つ空地を駈けぬけ、柳原の
「オオ、駕屋」
「へい」
「この横丁の往来に、連れの者がふたり斬られて仆れている。それに下水溜りへ墜ちた老婆とがいるから、駕にのせて、大工町の
「えっ、辻斬ですか」
「辻斬が出るのか」
「いやもう、物騒で、こちとらも、
「下手人はたった今、そこの横丁から逃げ走って来たはずだが、其方たちは、見かけなかったか」
「……さあ、今ですか」
「そうだ」
「嫌だなあ」
駕かきは、
「旦那、駄賃はどちらで戴くんですえ?」
「半瓦の家でもらえ」
小次郎はいい捨てて、また、そこらを駈け廻った。河べりを覗いてみたり、材木の陰を
(辻斬だろうか?)
少し戻ると
すると。
桐林の道のわきから、ふいに刃らしい光がうごいた。ハッと眼を向ける間もなかった。頭の上の桐の葉が四、五枚ばさっと斬れて散りながら、その
「――卑怯ッ」
と、小次郎はいった。
「卑怯でない」
と二の太刀は、ふたたび、彼の
三転して、小次郎は、七尺も
「武蔵ともあろう者が、なぜ尋常に――」
と、いいかけたが、そのことばを途中から驚きの声に変えて、
「やッ、誰だっ? ……。おのれは何者だ。人ちがいするな」
と、いった。
三の太刀まで交わされた男の影は、はや肩で息をついていた。四の太刀はもう、自己の戦法の非を知って、中段にすえたまま、眼を刀の
「だまれ。人違いなどいたそうか。
「あっ、小幡の弟子か」
「ようもわが師を恥かしめ、また重ねて同門の友を、さんざんに討ったな」
「武士の
「おおっ、討たいでおくか」
「討てるか」
「討たいでか」
尺――また二寸――三寸。
詰め寄って来るのを見つめながら、小次郎はしずかに、胸をひらき、右手を腰の大刀へ移して、
「――来いっ」
と誘う。
はっと、その誘いに、相手の北条新蔵が、
――ちりん!
次の瞬間に、彼の刀の
むろん、
だが――
新蔵の体は、まだ
――と。その体を挟んで、
「あっ? ……」
これは、小次郎の声とも、後ろの闇でした声とも、どっちつかない所から起ったのである。小次郎もそれに依ってすこし
「おおっ、どうなされた」
駈けつけて来たのは、耕介であった。棒立ちの男の姿勢が、すこしおかしいと思ったので、抱き支えようとすると、とたんに北条新蔵の体は、どたっと朽木だおれに、あやうく大地へ仆れかけた。
耕介は、両の手に不意の重みをかけられて驚きながら、
「やっ、斬られてるな。――誰か来てくれいっ。往来の衆でも、この近くのお人でも、誰か来てくれ。人が斬られているっ――」
と、闇へ向ってどなった。
その声と共に、新蔵の首すじから、ちょうど
ぼとっ――と、時折、中庭の闇で青梅の
(こんな育て
と、よく母を
――彼は今、心のうちで、その母をふと思いうかべ、
「…………」
いや、たった今し方。
ここの中二階の障子の外から、この
(まだ、御精が出ていらっしゃいますか。ただ今、店先へ佐々木小次郎とかいう者がみえ、お目にかかりたいようなことをいっていますが、お会いなさいますか、それとも、もうお
二、三度、部屋の外でいったようには思ったが――武蔵はそれに返辞をしたかしないか――自分自身で
そのうちに、耕介が、
(あっ?)
と、何か物音を聞きつけて、
彼は、観音像を彫ろうとしていた。――耕介から申し受けた無銘の名刀のかわりに――観音様を彫ってやる約束をしたので、きのうの朝から、それにかかっているのである。
ところで、その依頼について、
それは何かというと、
(折角あなたに彫っていただくものなら、自分が、年来秘蔵している古材があるので、それをお用い下さいませんか)
とて、
だが、こんな古材木の切れ端がなんで有難いのか、武蔵には
木目はよし、小刀の
――がたんと、庭の
「……?」
武蔵は顔を上げた。
そして、ふと、
「伊織ではないかな?」
と、
案じている伊織が戻って来たのではなかった。また裏の木戸が開いたのも風のせいではないらしい。
「はやくせい、女房。なにを
耕介のほかに、その怪我人を
「傷口を洗う
とか――
「医者へは、わしが飛んで行ってくる」
とか、ややしばらく、ごたごたしている気配であったが、やがてひと落着きすると、
「ご近所の衆、どうも有難うございました。どうやら、お蔭様で命だけは、取り止めそうな様子でございますから、安心して、お
挨拶しているのを聞くと、どうやらここの
そこで、捨て置けない気がしたのであろう、武蔵は、膝の
「……オオ、まだ起きておいでなされましたか」
振返って、耕介は、そっと席をひらく。
静かに、武蔵も、枕元へ坐って、
「どなたでござるか」
燈下の蒼い寝顔をのぞきながら訊くと、
「驚きました……」
と、耕介はさも驚いたふうを示して、
「知らずにお
「ホ。この
「はい。北条新蔵と
「ふーム」
武蔵は、新蔵の首に巻いてある白い
髪一すじ――とよくいうが――この
傷口に依って考えると、この太刀は、下からしゃくり上げて、しかも
――燕斬り!
ふと、武蔵は、佐々木小次郎が得意とする太刀の手を思いうかべ、とたんに先刻の、
「事情は、分っておるのか」
「いえ、何もまだ」
「そうであろう。――しかし、下手人は分った。いずれ、
武蔵はそういって、自身のことばに自身で
部屋へ戻ると、彼は手枕で、木屑の中へごろりと横になった。
夜具が
きょうで二日ふた晩。
伊織はまだ帰って来ない。
道に迷っているにしては永すぎる。もっとも使い先が柳生家であり、木村助九郎という知人もいるので、子供だし、まあ遊んで行けと、ひき止められて、いい気になっているのかも知れない――
で、案じながらも、それについては、さして心を労してはいないが、きのうの朝から、
武蔵は、その彫りに向って、技巧を心得ている
ただ彼の心のなかには、彼の描いている観音の
そこで彼は、折角、彫るところの物が、観音の形になりかけると、それを削って、また彫り直し、また乱れては、また彫り直し――何度もそれを繰り返しているうちに、ちょうど
――
「今度こそ」
と、起きると共にすぐ思う。
裏の井戸へ行って、顔を洗う、口を
サク、サク、サク……
と、眠らない前と、眠った後とでは、小刀の刃味までが違ってくる。古材の新しい木目の下には、千年前の文化が細やかな渦を描いている。もうこれ以上彫り損じては、この貴重な古材はふたたび木屑から一尺の角材に帰るよしもないのだ。どうしても、今夜はうまく彫り上げなければならないと思う。
剣を
背も伸ばさない。
水も飲みに立たない。
夜が白んで来たのも――小鳥の声がし始めて来たのも――またこの家の戸が、彼の部屋を余す以外すべて開け放されたのもまったく知らずに――彼は三
「武蔵さま」
どうしたのか? ――と案じて来たように、
「……ああ、だめだ」
初めて、小刀を投げていった。
見るともう、削り削りして痩せた木材は、その原型はおろか、
耕介は、眼をみはって、
「……あっ、だめですか」
「ウム、だめだ」
「天平の古材は」
「みんな削ってしまった。――削っても削っても、木の中から、とうとう
こう、われに
「だめだ。これから少し禅でもやろう」
と仰向けに寝ころんだ。
そして、眠るべく目を閉じてから、やっと、種々な雑念が去って、なごんだ脳膜のうちに、ただ「
朝立ちの客が物騒がしく土間から出てゆく。多くは
伊織は、今朝、そこへ帰って来て、すたすたと二階へ上がりかけると、
「もしもし。子ども衆」
と、宿の
梯子段の中途から、伊織は、
「なんだい」
と、振向いて、お内儀さんの
「どこへ行きなさるのかね」
「おらか?」
「ああさ」
「おらの先生が二階に泊ってるから、二階へ行くのに、ふしぎはあるまい」
「へえ……?」と、呆れ顔して、
「一体、おまえさんは、
「そうだなあ?」
指を繰って――
「おとといの前の日だろ」
「じゃ、先おとといじゃないか」
「そうそう」
「柳生様とかへ、お使いに行くといっていたが、今帰って来たのかえ」
「あ。そうだよ」
「そうだよもないものだ、柳生さまのお邸は江戸の内だよ」
「おばさんが、
「どっちにしたって、三日もかかる所じゃないじゃないか。狐にでも化かされていたんだろ」
「よく知ってるなあ。おばさん、狐の親類かい」
「もう、おまえの先生は、
「嘘だい」
伊織は、ほんとにせず、駈け上がって行ったが、やがてぼんやり降りて来て、
「おばさん、先生は、
「もうお立ちになったというのに疑ぐりぶかい子だね」
「えっ、ほんとかいっ」
「嘘だと思うなら、帳面をごらんよ、この通り、お勘定だって済んでいる」
「ど、どうしてだろう、どうして、おらの帰らないうちに、立っちまったんだろ」
「あんまり、お使いが遅いからさ」
「だって……」
伊織は、ベソを掻き出して、
「おばさん、先生は、どッちへ立って行ったか、知らないか、何か、いい置いて行ったろ」
「何も聞いてないね。きっと、おまえみたいな子は、お供に連れて歩いても、役に立たないから、捨てられたんだよ」
眼いろを変えて、伊織は往来へ飛び出した、――そして西を見、東を見、空をながめて、ぽろぽろ泣き出した様子に、
「嘘だよ、嘘だよ。おまえの先生は、すぐ前の刀屋さんの中二階へ引っ越したのさ。そこにいるから、泣かずに行ってごらん」
今度は、ほんとのことを教えてやると、その言葉が終るや否、内儀さんのいる帳場の中へ、往来から馬の
寝ている武蔵のすその方へ、伊織は
「ただ今」
と、いった。
彼を、ここへ通した耕介は、すぐ跫音をひそめて、
どことなく、きょうのこの
それに、武蔵の寝ているまわりには、木屑がいっぱい散らかっていて、
「……ただ今」
叱られることが、何よりも彼の心配であった。で、大きな声が出ないのであった。
「……誰だ」
武蔵がいう。
眼をあいたのである。
「伊織でございます」
すると武蔵は、すぐ身を起した。そして足の先にかしこまっている伊織の無事をながめると、ほっとしたように、
「伊織か」
と、いったが、それきり何もいわなかった。
「遅くなりました」
それにも何もいわず、伊織がふたたび、
「すみません」
と、お辞儀しても、べつだん次の問いを発せず、帯を締め直して、
「窓を明けて、ここを掃除しておけ」
いいつけて、出て行った。
「はい」
伊織は、家人に
井戸端のまわりには、青梅の
「耕介どの。怪我人の容態はどうじゃな」
武蔵は、顔を拭きながら、そこから裏の端の部屋へ、ことばをかけていた。
「だいぶ、落着いたようで」
と、耕介の声もする。
「おつかれでござろう。後で少し代りましょうかな」
武蔵がいうと、耕介は、それには及ばない由を答えて、
「ただ、このことを、平河天神の
と、相談する。
それなら、自分が行くか、伊織を使いに出すから――と武蔵がひきうけて、やがて中二階の箱段をのぼって来ると、部屋は手ばやくもう
武蔵は、坐り直して、
「伊織」
「はい」
「使いの返事は、どうであったな」
――多分、いきなり叱られるに違いないと
「行って参りました。そして柳生様のお邸にいる木村助九郎様からここに、御返事をもらって来ました」
「どれ。……」
武蔵は手を伸ばし、伊織は、膝をすすめてその手へ渡した。
木村助九郎からの返辞には、ざっと、こうした文言が
(――せっかくの御所望ではあるが、柳生流は将軍家のお
と、結んで、
(その時にはまた、自分が御周旋申しあげてもよい)
と、追伸してある。
「…………」
武蔵は、ほほ笑みながら、長い巻紙をゆるゆる巻き納めた。
彼の微笑を見ると、伊織はよけい安心した。その安心をしたところで、窮屈な脚を伸ばして、
「先生、柳生さまのお
「伊織」
武蔵の眉が、すこし
「はい」
と改まる。
「道を間違えたにせよ、きょうは三日目、あまり遅過ぎるではないか。どうしてこんなに遅く帰って来たか」
「麻布の山で、狐に化かされてしまったんです」
「狐に」
「はい」
「野原の一軒家に育って来たおまえが、どうして狐になど化かされたのか」
「わかりません。……けれど半日と一晩中、狐に化かされて、後で考えても、何処を歩いたのか、思い出せないんです」
「ふーム……。おかしいな」
「まったく、おかしゅうございます。今まで狐なんか、何でもないと思っていましたが、田舎より江戸の狐のほうが、人間を化かしますね」
「そうだ」
彼の
「そちは、何か
「ええ、狐が
「そうじゃない」
「そうじゃありませんか」
「うム、あだをしたのは、眼に見えた狐でなくて、眼に見えない自分の心だ。……ようく落着いて考えておけ。わしが帰って来るまでに、その
「はい。……けれど先生は、これから何処かへ行くんですか」
「
「今夜のうちに、帰って来るんでしょうね」
「はははは、わしも狐に化かされたら、三日もかかるかも知れぬぞ」
きょうは伊織を留守において、武蔵は
平河天神の森は、
「ここだな」
武蔵は、足を止めた。
昼間の月の下に、物音もしない一構えの建物がある。
「たのむ」
まず玄関に立ってこう訪れた。
――しばらく経つと、奥の方から跫音がして来た。やがて彼の前に、取次の小侍とも見えぬ青年が、
「
立ちはだかったままでいう。
年ばえ二十四、五歳、若いが、
武蔵は、姓名を告げて、
「
「そうです」
青年は、
次にはさだめし、兵法修行のため諸国を遊歴しておる者で――と武蔵がいうに違いないと、見ているような
「御当家の一弟子、北条新蔵と申さるる
と述べると、
「えっ、北条新蔵が、返り討ちになりましたか」
と、青年は驚愕して、気を落着けると、
「失礼いたしました、わたくしは勘兵衛
「いやいや、一言、お伝えすればよいこと、すぐお
「して、新蔵の生命は」
「今朝になって、いくらか持直したようです。お迎えに参られても、今のところでは、まだ動かされますまいから、当分は耕介の家に置かれたがよいでしょう」
「何分、耕介へも、頼み入るとお
「伝えておきましょう」
「実は当方も、父勘兵衛がまだ病床から起ち得ぬところへ、父の代師範をつとめていた北条新蔵が昨年の秋から姿を見せませぬため、このように講堂を閉じたまま、人手のない始末、
「佐々木小次郎とは、何かよほどな御宿怨でもござるのか」
「私の留守中ゆえ、詳しくは存じませぬが、病中の父を、佐々木が恥かしめたとかで、門人たちの間に遺恨を
「なるほど。それでいきさつが相分った。――しかし、これだけは御忠告しておく。佐々木小次郎を相手にとって争うことはおやめなされ。彼は、尋常に刃向っても勝てぬ相手、策をもってもなお勝てぬ相手。――
武蔵が、小次郎の凡物でない点を揚げて称揚すると、余五郎の若い眸には、ありありと不快ないろが燃えた。武蔵は、それを感じるのでなおさら、未然の警戒を、繰返したくなって、
「誇る者には誇らしておくに限る。小さな宿怨に、大禍を招いてはなりますまい。北条新蔵が仆れたからには、自分がなどと重なる遺恨を追って、また、前車の血の
そう忠言すると、彼は、玄関先からすぐ帰って行った。
――その後で、余五郎は、壁に
多感な
「残念な……」
と、
「新蔵までが、とうとう、返り討ちにされたのか……」
うつろな眼で、天井を見る。広い講堂も
自分が旅先から帰って来た際には――新蔵はもういなかったのである。ただ、自分へ宛てた遺書だけがあった。それには、佐々木小次郎をきっと討って帰るとあった。討てなければ今生でお目にかかる折はもうあるまいとしてあった。
その、
新蔵がいなくなってから、兵学の授業も自然やすみとなり、世間の評は、とかく小次郎に加担して、この兵学所に通う者を卑怯者の集まりのように、また、理論だけで実力のない人間の
それを、
「……父にはいうまい」
彼は、すぐそう心に決めた。
「――後は後のことだ」
とにかく、老父の重病に手を尽すことが、子としては、今は最善なつとめだと思う。
しかし、その恢復は、到底、
――後は後のこと。
と、そこで悲しい我慢が胸をさするのだった。
「余五郎っ。余五郎っ」
奥の病室から、こう父の声がその時聞えた。
子の眼からは、今にもと危ぶまれる病父も、何かに激して、子を呼ぶ時の声は、病人とも思われなかった。
「――はいっ」
あわてて、余五郎は、駈けて行った。
そして次の間から、
「お呼びですか」
ひざまずいて見ると、病人はいつも寝くたびれた時するように、自分で窓をあけ、枕を
「余五郎」
「はい。ここにおります」
「今――門の外へ行った武士があったな。――この窓から、後ろ姿だけを見たのだが」
もう、父はそれを知っていたのかと、包んでいるつもりだった余五郎は、ややうろたえた。
「は……。では……ただ今見えた使いの者でございましょう」
「使いとは、どこから」
「北条新蔵の身に、ちと変事がござりまして、それを知らせに来てくれた――宮本武蔵とか申すお人です」
「ふム? ……宮本武蔵。……はてな、江戸の者ではあるまいが」
「作州の牢人とか申しておりましたが――お父上には只今の人間に、何ぞお心当りでもあるのでござりまするか」
「いや――」
勘兵衛景憲は、白い
「なんの
あまり長く話してもいけない――と医者からも注意されている病人である。
――呼んでこい。
と、病人が、やや昂奮していうだけでも、余五郎は、父の容態に
「かしこまりました」
一応は、病人に従って、彼はこういったが立とうとはせず、
「しかしお父上、今のさむらいの何処がそんなにお気に召しましたか。この御病間の窓から、後ろ姿をご覧になっただけでしょうに」
「おまえには分るまい。――それが分る頃になると人間も、もはやこの通り
「でも、何か
「ないこともない」
「お聞かせ下さいませ。余五郎などには後学にも相成りましょう」
「わしへ――この病人にさえ――今の侍は油断をせずに行った。それが偉いと思う」
「父上が、こんな窓の中に、お
「いや、知っていた」
「どうしてでしょう」
「門をはいって来る時、そこで一足止めて、この家の構えと、明いている窓や明いていない窓や、庭の抜け道、その他、
「では、今の侍は、そんな
「話したら、さだめし尽きぬ話ができよう。すぐ追いかけて、お呼びして来い」
「でも、お体に
「わしは、年来、そういう知己を待っていたのだ。わしの兵学は、子に伝えるため積んで来たのではない」
「いつも、お父上の仰っしゃっておらるることです」
「甲州流とはいうが、勘兵衛
「…………」
「余五郎」
「……はい」
「そちに伝えたいのは山々だ。だけど、そちは今の武士と、面と
「面目のう存じます」
「親のひいき目に見てすらその程度では――わしの兵学を伝えるよしもない。――むしろ他人の
「……ち、父上、散らないでください。散らないように、御養生遊ばして」
「ばかをいえ、ばかを申せ」
二度繰り返して、
「はやく行け」
「はい」
「失礼のないように、よくわしの旨を申しあげて、これへ、お連れ申して来るのじゃぞ」
「はっ」
余五郎は、いそいで、門の外へ駈け出して行った。
――追って行ったが、武蔵の影はもう見えなかった。
「しかたがない。――また折があろう」
余五郎は、すぐ
父がいうほど、彼にはまだ、武蔵がそれほど
それに、武蔵が帰り際に、
(佐々木小次郎を相手になさるのは愚かである。小次郎は凡物ではない。小さな宿怨はお捨てになったほうがお為であろう)
などといった言葉も、頭のどこかに
(何の!)
と、いう気持が、当然、それに対して、彼にはある。
小次郎に対しても抱くが如く、武蔵に対しても、それの軽いものを抱いているのだ。――いや、父に対してすら、従順には聞いていたが、心の
(私とても、そうお父上が
と、
一年、時には二年、三年と、余五郎も許された
(すこし貴様も見ならえ)
と、いわないばかりな
「――戻ろう」
と、決めて、家のほうへ帰りながら、余五郎はふと淋しかった。
「親という者は、いつまでも子が乳くさく見えてならないのだろうな」
いつかはその父に、お前もそんなになったかといわれてみたい。しかし、その父は明日も知れない病身である。それが淋しかった。
「おう、余五郎どの。――余五郎どのじゃないか」
呼びかける声に、
「やあ、これは」
と、余五郎も
細川家の家士で、近頃はあまり見えないが、一頃はよく講義を聞きに来ていた
「大先生の御病気はその後いかがでございますな。公務に追われて、ごぶさたを致しておりますが」
「相変らずでございます」
「なにせい、御老齢のことでもあるしの。……オオ時に、教頭の北条新蔵どのが、またしても、返り討ちにされたという噂ではござらぬか」
「もうご承知ですか」
「つい今朝方、藩邸で聞きましたが」
「ゆうべのそれを――もう今朝細川家で」
「佐々木小次郎は、藩の重臣、岩間角兵衛殿の
余五郎の若さでは、それを冷静に聞いていることはできなかった。そうかといって、顔いろの動きを見られるのも嫌だった。さり気なく範太夫には別れて家へ戻ったが、その時はもう、彼の肚は決まっていた。
耕介の妻は、
奥の病人のためにである。
その台所を覗いて、
「おばさん、もう梅の
と伊織が教えた。
耕介の妻は、
「ああ、
と、なんの感激もない。
「おばさん、どうして、梅の実を漬けないのさ」
「小人数だもの。あれだけ漬けるには、塩だって沢山いるだろ」
「塩は腐らないけれど、梅の実は漬けとかないと腐っちまうじゃないか。小人数だって、戦争の時だの、洪水の時には、ふだんに要心しておかないと困るぜ。――おばさんは病人の世話で忙しいから、おらが漬け込んでやるよ」
「まあ、この子は、
伊織はもう、物置へ入って、
そっと寄って、伊織は、蝉をおさえつけた。蝉は彼の
自分の
血がない蝉でも、死ぬか生きるかの境には、火のような熱を体から燃やすのであろう。――伊織は、そこまでは考えなかったが、ふと怖くなって、また可哀そうになって、その
蝉は、隣の屋根へぶつかって町の中へ
かなり大きな樹だった。
人間の世界を離れた別な世界を覗いたように、伊織は、

そして手近の枝から、揺すぶり始めた。落ちそうに見えていて、梅の実は案外落ちない。手の届く実は手で

「――あっ、畜生っ」
何を見たのか、伊織はふいにそう呶鳴って、家の横手の露地へ向って、ぱらぱらッと、三ツ四ツ梅の実を投げつけた。
垣根へ懸け渡してあった物干竿が、それと共に、大きな音を立てて地へ落ちた。続いて、
きょうも、武蔵は外出していて、その留守中のことなのである。
細工場で、余念なく、刀を
「なんだ? 今の音は」
と、眼をまるくした。
伊織は、樹の上から、飛び降りて――
「おじさん、露地の陰へ、また変な男が来て、しゃがみ込んでたよ。梅の実を
と、細工場の窓へ告げた。
耕介は、手を拭きながら出て来て、
「どんな奴だった?」
「無法者だよ」
「
「こないだの晩も、店へ押し
「猫みたいな奴らだ」
「何を狙いに来るんだろ」
「奥の怪我人へ、仕返しにやって来るのだ」
「あ。北条さんか」
伊織は、病人のいる部屋を、振返った。
病人は
その北条新蔵の
「――御亭主」
新蔵がそこから呼ぶので、耕介は縁先へ歩いて行って、
「いかがですな」
と、
食事の盆を片寄せて、新蔵は坐り直した。
「耕介どの。思わぬお世話に相成った」
「どういたしまして。仕事があるのでつい行き届きませんで」
「何かとお世話ばかりでなく、拙者を狙う
「そんなご
「いやそれに、この通り、体も恢復いたしたから、今日はもうお
「え、お帰りですって」
「お礼には、後日改めてお伺いする」
「ま……お待ち下さい。ちょうど今日は、武蔵様も外へ出ていらっしゃいますから、帰った上で」
「武蔵どのにも、
「でも、半瓦の家にいる無法者たちは、いつぞやの晩、
「何の、菰やお稚児を斬ったのは、こちらには、堂々と理由のあること。彼らのうらみは逆恨みじゃ。それを、事を構えて仕懸けて参れば――」
「と、いっても、まだその体では心もとのうござりまする」
「ご心配は
と、新蔵はもう、身支度を直して、立ち上がった。
ひき止めても、きかないので、夫婦もぜひなく、送り出すと、ちょうどその店先へ、
出合いがしらの眼をみはって、
「や。北条どの、何処へ出かけられるか。――何、御帰宅と。――そういう元気になってくれたことは
と、武蔵はいった。
一応は辞退したが、
「何。――まあよい」
武蔵は受けつけない。
で、好意に甘えて、北条新蔵は彼に
「久しく歩かれなかったから、ご大儀ではないか」
「何か、こう、地面が高く見えるようで、足を踏み出すのに、
「無理もない。平河天神まではだいぶある。
武蔵がいうと、
「申し遅れましたが、小幡兵学所へは帰りませぬ」
「では、
「……面目ない気もいたしますが」
と、新蔵はさし
「――一時、父の許へ帰るといたしまする」
と、いった。そして、
「牛込です」
と、行く先を告げた。
武蔵は、町駕を見つけ、
「あ。駕へ乗せやがった」
「こっちを見たぞ」
「騒ぐな、まだ早い」
駕と武蔵が、

牛ヶ
「やいっ、待て」
「野郎、待て」
「待て」
「待て」
すでに前から
卑怯と見られることは無念なように、北条新蔵は、刀を抱えてすぐ、駕から這い出し、
「待てとは、わしか」
と、突っ起って、応戦の身構えを取った。武蔵は、彼の身を
「用事をいえ」
石の飛んで来る方へいった。
無法者たちは、浅瀬を探るように、だんだん寄り詰めて来たが、
「知れたことっ」
叩き返すようにいって、
「その野郎を渡せばよし、小生意気なまねをすると、てめえも共に生命がねえぞ」
味方の言葉に気勢が揚がって、無法者たちはそこで、どっと殺気を
――といって、誰あって、先に
「半瓦とか申す無法者の親分はその中におるのか。おるならばそれへ出てもらいたい」
時ならぬ時分に、武蔵がこういった。すると、無法者の中からも、
「親分はいねえが、部屋の留守は年寄役でおれが預かっている。おれは、
と、
武蔵はいった。
「其方たちは、なんで、この北条新蔵どのに、恨みを抱くのか」
すると、念仏太左衛門は、一同に代って肩をそびやかした。
「部屋の兄弟分を二人まで叩っ斬られて、黙っていちゃあ、無法者の顔にさわる」
「だが、北条どのにいわせれば、その前に、
「それはそれ、これはこれ、おれたちの兄弟分がやられた時は、おれたちの手で仕返しせねば、無法者の飯を喰って、男でござると歩いていられねえのだ」
「なるほど」
武蔵は、肯定を与えておいてからまた、いった。
「それは、おまえ達の住む世界ではそうだろう。だが、侍の世界は違う。――侍の中では、いわれのない意趣は立たぬ。
「何、おれたちの振舞いが、女々しいと?」
「佐々木小次郎を先に立て、侍として、名乗り来るなら分っておるが、手伝い人の騒ぎ立てを、相手に取るわけにはゆかぬ」
「侍は侍のごたく。何とでもぬかせ。おれたちは無法者だ。無法者の顔を立てにゃあならぬ」
「一ツの世間に、侍の仕方、無法者の仕方、二ツが立とうとすれば、ここばかりではない、街のいたる所に、血まみれが生じる。――これを裁くものは奉行所しかない。念仏とやら」
「なんだ」
「奉行所へ参ろう。そして是非を裁いて戴こう」
「くそでもくらえ。奉行所へ行くくれえなら、
「おぬし、
「何」
「よい
「つべこべと、理窟はおけ。こう見えても、太左衛門、喧嘩に
――太左衛門が脇差を抜いたのを見ると、後ろにひしめいていた無法者たちも、一度に声をあげて、
「やッちまえ」
「
と、かかって来た。
武蔵は、太左衛門の脇差をかわして、太左衛門の
そしてまた、無法者の群れへ駈け入ると、その乱争の間から、北条新蔵の体を拾って、横抱きに
牛ヶ淵とか、九段坂とかいったのも、勿論ずっと後世の地名である。当時まだその辺は、蒼古とした樹林の崖や、外濠の淵へあつまる渓流だの、青い沼水を
――呆っ気にとられている無法者の群れを捨てて坂の中腹まで、駈けて来ると、
「もうよい。北条どの。さあ、逃げよう」
武蔵はいって、新蔵の体を、小脇から下ろし、ためらう彼を
無法者たちは、初めて、
「あっ、逃げたっ――」
と、われに
「逃がすな」
と、坂の下から、追い上がりながら、口々に
「弱虫」
「口ほどもねえぞ」
「恥を知れ」
「それでも侍か」
「よくも、部屋がしらの太左衛門を、お濠へ叩っこんだな。返せ、野郎」
「もう武蔵も、相手だ」
「ふたりとも、待てっ」
「卑怯者め」
「恥知らずめ」
「駄ざむらいめ」
「待たねえか」
――その他、あらゆる
「逃げるに
と、呟いて逃げ出し、
「逃げるのも、なかなか楽ではない」
などと笑いながら、足のかぎり、彼らの追撃から
振りかえってみると、もう追って来る影も見えない。病後の新蔵は、駈けただけでも、
「お疲れだな」
「い……いえ……さほどでもありませぬが」
「彼らの
「…………」
「はははは。落着いてから分って来ます。逃げるのも、時には、心地よいものだということが。……そこに流れがある。水で口でもお
赤城の森はもう見えていた。北条新蔵の帰る家は、赤城明神の下だという。
「ぜひ、屋敷へ寄って、拙者の父にも会っていただきたい」
と、新蔵はいったが、武蔵は、赤土の土塀が見える段の下で、
「また、お目にかかる折もあろう。ご養生なさい」
と、いって、そこで別れて立ち去った。
――こういうこともあって、武蔵の名は、それから後、いやが上にも、江戸の街に有名になった。
――彼は、喰わせ者だ。
――卑怯者の張本だ。
――恥知らず、武士道よごしの骨頂だ。あいつが京都で吉岡一門を相手にしたなどというのは、よくよく吉岡が弱かったか、逃げの一手で、巧く逃げて、虚名を売ったに違いない。
有名とは、そうした悪評の有名であって、誰ひとり、武蔵を弁護する者もなかった。
なぜならば、その後、半瓦の部屋の者が、口を極めて、いいふらしたばかりでなく、街の辻々に、公然と、こういう立て札を幾十となく江戸中へ建てたからであった。
いつぞや、おら衆に、うしろを見せて、突ン逃げた、
宮本武蔵へ、物いうべい。
本位田のおばばも、讐 と尋ねてあるぞ。おら衆にも、
兄弟ぶんの意趣があるぞ。出て来ずば、侍とはいわれまいが。
宮本武蔵へ、物いうべい。
本位田のおばばも、
兄弟ぶんの意趣があるぞ。出て来ずば、侍とはいわれまいが。
半瓦いちまきの者