学問は朝飯前に。昼間は、藩の時務を見たり、時には江戸城へ詰めたり、その間に、武芸の
「どうだな、何か近頃、おもしろい話は聞かぬか」
忠利がこういい出す時は特にあらためて、無礼講とゆるされなくても、家臣たちは、
「されば、こういう事がございますが……」
と、いろいろな話題を持ち出すのをきっかけに、――礼儀こそ
主従という段階があるので、忠利も、公務の場合は、
それに、忠利自身が、まだ多分に、一箇の若侍といったふうだから、彼らと膝を組んで、彼らのいいたいことを聞いているのが好きであった。好きばかりでなく、
「岡谷」
「はあ」
「そちの槍は、だいぶ
「上がりました」
「自分で申すやつがあるか」
「人がみな申すのに、自分だけ
「ははは。しぶとい自慢よの。――どれほどな
「――で、はやく、御合戦の日が来ればよいと、祈っておりますが、なかなか参りませぬ」
「参らずに、仕合せであろう」
「若殿にはまだ、近頃のはやり歌を、ご存じありませぬな」
「なんという歌か」
「――
「うそを申せ」
忠利が笑う。
一同も笑う。
「あれは――名古谷山三は一の
「ヤ。ご存じで」
「それくらい」
と、忠利は、もっと、下情の
「――ここでは、平常の稽古に、槍を致しておる者と、太刀を致しておる者と、いずれが多くあるな?」
と訊ねた。
ちょうど、七名いたが、
「拙者は槍」
と、答えた者が、五人で、
「太刀」
といった者は、七名のうち、二人しかなかった。
で、忠利は重ねて、
「なぜ、槍を習うか」
と、その者たちへ訊ねたところ、
「戦場において、太刀よりも利がござれば――」
と、一致した答えだった。
「では、太刀の者は?」
と、訊くと、
「戦場においても、平時においても、利がござれば」
と、太刀を稽古しているという二人が答えた。
槍が利か、太刀が利か。
これは、いつも、議論になることだったが、槍の者にいわせると、
「戦場では、平常の
太刀の利を説く者は、
「いや、われわれは戦場だけを武士の働き場所と考えていない。常住坐臥、武士は太刀をたましいとして持っているので、太刀を習練するのは、常に魂を
これは、果てしない問題になりそうである。忠利は、どっちへも加担せずに聞いていたが、太刀に利があると、力説していた松下
「――舞之允。今のは、どうもそち自身の
と、いった。
舞之允は、むきになって、
「いえ、てまえの持論で」
と、いったが、
「だめじゃ。わかる」
と、忠利に観破されて、
「実は――いつぞや、岩間角兵衛どのの、伊皿子のお住居へ招かれた節、同じ議論がわき、居合せた佐々木小次郎と申す、その家の
と、白状した。
「それみい」
忠利は、苦笑しつつ、胸のうちで、ふと、藩務の一ツを思い出していた。
それは、かねて、岩間角兵衛から推挙している――佐々木小次郎という人間――を召抱えるか、否か、聞きおいてあるまま、いまだに宿題として、決めかねていたことである。
推薦者の角兵衛は、
(まだ若年ゆえ、二百石を下し置かれれば)
といっているが、問題は
一人の侍を養うことが、いかに重大か。殊に新参を入れる場合においては、なおさらであることは、呉々も、父の細川三斎からも、彼は教えられていた。
第一が、人物である。第二が、和である。いくら欲しい人間でも、細川家には、細川家の今日を築き上げた
一藩を、石垣に
天下には、
殊に――関ヶ原の乱後には、たくさんある筈であった。けれど、手頃でどこの垣へでも
そういう点で、小次郎が、若年者であってしかも
まだ、石とまではならない、若い未成品だからである。
佐々木小次郎という者を思い出すと、細川忠利は、同時に、宮本武蔵なる者をも、自然胸の中で思いくらべた。
その武蔵のことは、初め、老臣長岡佐渡から聞いたのである。
かつて佐渡が、今夜のような
(近頃、変った侍をひとり、見出してござるが――)
と、例の法典ヶ原開墾のことを話したのである。そして、その法典ヶ原から立ち帰って来た次の折には、
(惜しいことに、その後、行方も相分りませぬ由で)
と、嘆息と共に復命した。
だが、忠利は断念しきれず、ぜひ見たいものだといって、
(心がけておるうちに、居所も知れよう。佐渡、なおも心がけよ)
と、命じておいた。
――で。忠利の胸には、岩間角兵衛から推薦の佐々木小次郎と、武蔵とが、いつのまにか、較べられていた。
佐渡の話を聞けば、武蔵のほうは武に
また、岩間角兵衛にいわせれば、佐々木小次郎は、名門の子で、深く剣に参じ、軍法に通じ、まだ年ばえも若いのに、すでに
隅田河原で小幡門下を、四人も斬って平然と、帰って行ったということ。
神田川の堤でも。――また、北条新蔵までも、返り討ちにしたというようなことが、よくうわさに上るのだった。
それにひきかえて、武蔵という名はとんと聞かない。
数年前に、京都の一乗寺で、その武蔵が、吉岡一門の何十名を相手にして打ち勝った――というようなことは一時
(あの噂は、
とか、
(武蔵というのは、売名家で、派手にはやったが、いざとなった場合は、
とか。――その
いずれにしろ、武蔵の名が出るところには、何かすぐ悪評がまとっていた。――さもなければ、黙殺されて、彼という剣人などは、剣人の仲間に、いるかいないか、存在の程度すらない程だった。
それに、
「……そうだ」
忠利は、思い出した手を、膝に打って、若侍たちを見廻しながら、武蔵について、居合す者たちに訊いてみた。
「誰か――そち達の中に、宮本武蔵という者を、存じておる者はないか。――何か、うわさでも訊いたことはないかな?」
すると直ぐ、
「武蔵?」
と、顔を見合せて、
「つい近頃、その武蔵の名は、街の辻々に出ておりますので、誰でも名だけは存じておりますが」
と、若侍のほとんどが、皆それを知っているような
「ほ。――武蔵の名が、辻々に出ておるとは、どうした
忠利は、目をみはった。
「立て札に書かれてあるのでござる」
若侍のひとりがいうと、森
「その立て札の文言を、
「ウム、読んでみい」
「これで――」
と、森某は、
いつぞや、おら衆に、うしろを見せて、突ン逃げた、
宮本武蔵へ、物いうべい。
皆クスクス笑った。宮本武蔵へ、物いうべい。
忠利は、真面目だった。
「それきりか」
「いや」
と、森某は、
――本位田のおばばも、讐 と尋ねてあるぞ。おら衆にも、兄弟ぶんの意趣があるぞ。出て来ずば、侍とはいわれまいが。
と、読みつづけた。そして、「これは、
と説明した。
忠利は、ほろ苦い顔をした。自分が胸に持っていた武蔵とは、それでは余りに違うからである。その
「ふム……武蔵とはそんな人物か」
忠利が、なお一
「どうも、つまらぬ男のようでござります」
といったり、
「いや、何よりも、よほどな卑怯者とみえまする。素町人などに、こうまで、恥かしめられても、いッこう姿を見せんそうですから」
と、一同がいった。
やがて、
けれども彼の考えは、あながち衆と一致していなかった。むしろ、
「おもしろいやつ」
と、思った。武蔵の立場になって、複雑に考えてみることに、興があった。
あくる朝、いつもの
「佐渡、佐渡」
と、呼びかけると、老人は振り向いて、朝の礼儀を、庭先から
「その後も、心がけておるか」
忠利のいい方が、佐渡には、唐突に聞えたとみえて、ただ眼をみはっていると、
「武蔵のことじゃよ」
と、忠利がつけ加えた。
「――はっ」
と、佐渡が頭を下げると、
「とにかく、見つけたら、いちど屋敷へ召連れい。人間が見たい」
――同じ日。
いつもの
忠利は、弓を
「忘れておった。――ウム、いつでもよい、いちどその佐々木小次郎とやらを、この弓場まで召連れて来い。――抱えるか、抱えぬかは、見たうえのことじゃが」
と、いった。
ここは伊皿子坂の中腹、岩間角兵衛が私宅の赤門の中。
小次郎の
「おいでか」
と、
小次郎は、奥に坐って、静かに、剣を
愛剣の
これはここの
ところが、あの事件。
その後、耕介の家とは、いよいよ
無論、
そう思って、小次郎は、座敷の真ん中に坐って、
「……まるで、見直してしまったな」
小次郎は、飽かず
ここの座敷は、月の
「お留守かの。――小次郎どのはお
間を
「
刀を鞘におさめて、
「小次郎はおりますが、用事なら柴折から縁へ廻ってくだされい」
いうとすぐ、
「やれ、いるそうな」
と、いう話し声がして、お杉ばばと、一名の無法者が、縁先へ姿をあらわした。
「誰かと思うたら、ばば殿であったか。暑い日中を、よう見えたの」
「ご挨拶は後。――
「そこに石井戸があるが、ここは高台なので、怖ろしく深いぞ。――
井戸で、汗をふいたり、足を洗って、やがてお杉ばばは、座敷へあがり、挨拶をすますと、吹き通す風に眼をほそめて、
「涼しい家じゃが、こんな家に閑居してござったら、よい怠け者になりはせぬか」
と、いった。
小次郎は、笑って、
「お息子の又八とは違う」
ばばは、ちょっと、淋しげな眼をしばたたいていたが、
「そうじゃ、何の土産もないが、これはわしが写経したもの、一部進ぜましょう程に、
と
小次郎は、かねてばばの悲願を聞いていたので、それか――とよい程に眺めたのみで、
「そうそう。そこの
と、後ろにいる無法者へ向って訊ねた。
「いつぞや、わしが書いて
「――武蔵出て来い。出て来ずば侍とはいわれまいが……っていう、あの高札でござんしょう」
大きく
「そうだ。辻々へ手分けして、建てておいたか」
「二日がかりで、目抜きな場所へは、たいがい建てておきましたが、先生はごらんになりませんので」
「わしは、見る要もない」
ばばも、その話に、側から割りこんで――
「きょうもの、ここまで来る途中、その立札を見かけたが、札の建っている所には、街の衆がとり巻いて、くさぐさの噂ばなし。――よそ耳に聞いていても、胸がすいて、おもしろうござったわ」
「あの立札を見ても、名乗って出ぬとすれば、武蔵の侍はもう
「なんの。いくら人が
「ふふム……」
と、小次郎は、彼女の一念を見やって、
「さすがは、ばば殿、
と、
「時に、きょうござったのは、何用かな」
と、訊ねた。
ばばは、改まって告げた。――
「どうであろ?」
と、相談顔に、
「武蔵も、まだ当分は、出て来る様子もないしの、せがれの又八も、この江戸にはいるにちがいないが、居所が知れぬし……で、
と、小次郎へ
小次郎に、元より異議はない。そうするもよかろうという程度だった。
実をいえば、小次郎も、一時は興味もあり利用もしたが、この頃は、無法者達とのつきあいも、少々うるさくなって来た。
岩間家の
「武蔵から、何か申して来た節は、すぐ当方へ使いをよこせ。――わしも近頃ちと体が忙しいから、当分は無沙汰じゃと思うてくれ」
そういって、二人を、陽の暮れぬうちと、追い立てるように帰した。
ばばが帰ると、小次郎は、ざっと室内を掃いて、
「きょうも、角兵衛どのは、
母屋に煙る
……その頃である。
坂下の墓地から、垣を破って、この伊皿子坂の崖へ、一人の若い侍が、
いつも、藩邸へは騎馬で通っているので、岩間角兵衛は、坂の下まで来ると、そこで馬を捨てる。
彼の姿を見ると、寺門前の花屋が出て来て、馬を預かってくれるのだ。
ところが、きょうの夕方は、花屋の軒をのぞいても、
「おう、旦那様で」
老爺は、寺の裏山から駈けて来て、いつものように、彼の手から馬を受取りながら、
「――たった今、墓地の垣を破って、道もない崖へ上って行くおかしなお武家があるので、そこは抜け道ではござらぬ、と教えてやると、怖い顔して、こちらを振向いたまま何処ともなく行ってしまいましたが……」
と、問わず語りをして、
「あんなのが、近頃やたらに大名屋敷へ忍び込むといううわさの盗賊ではございますまいかの」
と、まだ気に懸けて、黒々と暮れた青葉の奥を見上げていた。
角兵衛は、気にもとめない
「はははは。あれは、単なる噂にすぎない。寺の裏山などへもぐる盗賊なら、
「――でも、ここらは、東海道の街道口に当りますので、他国へ逃げ出す奴が、よく行きがけの駄賃という荒仕事をやりますので、夕方など、風態のわるい人間を見ると、その晩は、嫌な気もちがいたしまして」
「変事があったら、すぐ駈けて来て、門をたたけ。うちの
「あ。佐々木様でございますか。あんな
小次郎のいい噂を聞くと、岩間角兵衛は、鼻が高い気がした。
彼は、若い者が好きだった。とりわけ現今の気風として、有為な青年を家に養うということは、侍として、高尚な美風とされていた。
一朝、事のある場合に、ひとりでもよけいに、
自己を、考えるような奉公人では、侍奉公の者として、
さればといって、岩間角兵衛が、不忠者かといえば、決して一かどの武士以下の者ではない。ただ当り前以上に出ない
「戻ったぞ」
伊皿子坂は、ひどく急なので、わが屋敷の門へかかって、彼がこういう時には、いつも少し息を
妻子は、
「お帰りなさいまし」
出迎える召使たちへ、
「うむ」
と、
「佐々木どのは、きょうは家におるか、それとも外出か」
角兵衛はすぐ訊ねた。
――今日は終日、家にいた様子だし、今も、寝転んで涼んでおります、と召使から聞いて、
「そうか。では、酒の支度をしての。支度ができたら、佐々木どのを、こちらへお呼びして参れ」
――その間に、風呂に入ってと、角兵衛はすぐ汗になった衣服を脱ぎ、風呂場で
書院へ出て来ると、
「お帰りか」
小次郎は、
酒が出る。
「まず、一
と、角兵衛は
「きょうは、
「ほ。……吉い事とは」
「かねて、
さだめし小次郎が
「…………」
小次郎は、無言のまま、杯の端を
「ご返杯」
そういったのみで、
だが角兵衛は、それを不服と思わないのみか、むしろ尊敬さえ抱いて、
「これで、お頼みをうけたそれがしも、
と、さらに、
小次郎は初めて、
「お心添え、かたじけない」
と、少し頭を下げた。
「いや何、
「そう過大にお買いくだされては困る。元より、
「いやいや、身共は少しも、其許の
「こうして、毎日、
小次郎は自嘲するように、若々しい歯ならびを見せて、
「べつに拙者が、出色しているわけではない。世間に
「忠利公には、いつでも召し連れいと仰せられたが……して、
「
「では、明日でも」
「よろしかろう」
と、当り前な顔つきである。
角兵衛は、それを見て、なおさら彼の人物の大きさに傾倒したが、ふと、忠利から念を押された一言を思い出して、
「しかし、君侯には、とにかく一度、人間を見た上でという仰せでござった。――とは申せ、それは形式で御仕官の儀は、もう九分九厘まで、きまったも同じようなものではあるが――」
と、小次郎へも、一応はと考えて、断っておいた。
すると、小次郎は、杯を下へおいて、角兵衛の顔をじっと正視した。そして、
「やめた。角兵衛どの、折角だが、細川家へ奉公は、見合せる」
酔うと
「……ほ。なぜ?」
と角兵衛は、さも当惑そうに、彼を見まもった。
小次郎は一言、
「気にそまぬゆえ」
と、にべなくいったのみで、理由は口に出さないのである。
だが、小次郎が急に、不機嫌になったのは、角兵衛が今、君侯のお断りとして、
(召抱えるか否かは、当人を見た上で)
といった――その条件が気に
(何も、細川家に抱えて貰わなければ、困る体ではない。何処へ持って行っても、三百石や五百石は――)
と、平常それとなく示している小次郎の誇りに、角兵衛のありのままな伝え方が、ぐいと当りが悪く
小次郎は、他人の気持に
「ふ、ふ、ふ……」
何を思い出したか、独りでこう笑いだしながら、
「とにかく、正直者だな、あの角兵衛は」
と、つぶやいた。
ああいったら、角兵衛が主君に対して困ることも――また、どう振舞っても、角兵衛が自分に対して怒らないことも――何もかもよく知りぬいている彼だった。
(禄に望みはない)
と、かねて自分からいってはあるが、彼の満身は、野望に満ちていた。その彼に禄の望みがないわけもなく、自分の力で能う限りの名声も、また立身も望んでいた。
さもなくて、何で、苦しい修行などやる必要があろう。立身のためだ、名を揚げるためだ、
だから、彼の一進一退は、すべてこの目的と
(甘いものだ)
と、思わざるを得ないのであった。
――いつか小次郎は、そうした夢を抱いて、寝てしまった。月は畳の目を一尺もうごいたが、まだ醒めなかった。窓の
――すると、その頃まで、蚊の多い崖の陰にかくれていた一つの人影は、
(よし!)
と、頃を見定めたように、
――這い寄って、
「…………」
その人影は、縁先から、ややしばらくのあいだ、じっと、屋内を
月明りを避けて
「…………」
小次郎の
やがて。
人影は、ぬっくと立った。
そして刀の
「くわッ」
と、歯を喰いしばって、斬りつけたと思うと、小次郎の左の手から、黒い棒が
振り下ろした
だが、その下に在った小次郎の姿は、水面を打たれた魚が
手には、愛剣の物干竿を、二ツにして持っていた。――つまり左の手には鞘を。右の手にはその
「誰だ」
こういった彼の
「わ、わしだッ」
それにひきかえて、襲った者の声は割れていた。
「わしでは分らん。名をいえ。――寝こみを襲うなどとは、武士らしくもない卑怯者め」
「小幡
「余五郎!」
「おお……よ、ようも」
「ようも? 如何いたしたと申すのか」
「父が病床にあるのを、よい事にして、世間に小幡の悪口をいいふらし」
「待て。いいふらしたのは、わしではない。世間が世間へいいふらしたのだ」
「門人どもへ、果し合いの誘いをかけ、返り討ちにしおったのは」
「それは小次郎に違いない。――腕の差だ、実力の差だ。兵法の上では、こればかりは致し方ない」
「いう、いうなっ。
「それは二度目のこと」
「何であろうと」
「ええ、面倒な!」
小次郎は
「恨むなら、いくらでも恨め、兵法の勝負に、意趣をふくむは、卑怯の上の卑怯者と、よけい、もの笑いを重ねるのみか――またしてもそちの一命まで、申しうけるが、それでも覚悟か」
「…………」
「覚悟で来たかっ」
さらに一歩ふみ出すと、それと共に伸びた物干竿の切先一尺ほどに、軒の月が白く
きょう
ひとに仕官の斡旋を頼んでおきながら、主君とする人のことばが気に喰わないなどと、間際になって、わがままをこねる。
岩間角兵衛は、弱って、
(もう
と、思った。そして、
(後進を愛すのはよいが、後進の間違った考えまで、甘やかしてはいかん)
と、自省した。
けれど角兵衛は元々、小次郎という人間が好きだった。
(いや、あれが彼の、偉いところかも知れぬ)
と、考え直して来た。
(
と善意に
で、四日ほど後。
それまで、彼は
「小次郎どの。――きのうも
と、気をひいてみた。
小次郎がにやにや笑って答えないので、彼はまた、
「仕官をするなれば、一応お目見得をすることは、どこにでもある例じゃから、何も、
「だが、御主人」
「ふム」
「もし、気に入らぬ、断るといわれたら、この小次郎は、もう
「わしのいい方が悪かったのだ。殿の仰せは、そういう意味あいではなかったが」
「然らば、忠利公へ、どうお答えなさったの」
「――いやまだ、べつにどうとお答えはしておらぬ。それで、殿には殿で、心待ちにしておられるらしい」
「はははは。恩人のあなたを、そう困らせては相済まぬな」
「こよいも、
「よろしい」
小次郎は、恩にでも着せるように、
「行って上げましょう」
といった。
角兵衛は欣んで、
「では、今日にも?」
「左様、今日参ろうか」
「そうして欲しい」
「時刻は」
「いつでもという仰せでござったが、
「承知した」
「相違なく」
と、角兵衛は、念を押して、先に藩邸へ出かけて行った。
その後で、小次郎は悠々身支度をした。
「馬はないか」
と、訊ねた。
坂下の花屋の小屋に、主人の乗換馬の白が預けてあるからと聞いて――小次郎はその花屋の軒に立ったが、きょうも
そこで、
何があるのか――と小次郎もそこへ行ってみた、見ると、
死者の身許は分らない。
年頃は若い。
そして侍だという。
肩先から、思いきって深く斬られているのである。血しおは黒く乾いていた。持物は何もないらしい。
「わしは、この侍を、見かけたことがある。四日ほど前の夕方じゃった」
花屋の
「……ほ?」
と、僧侶や近所の人々は、彼の顔を見まもった。
老爺は、なおも、何か
「おぬしの小屋に、岩間殿の
「お、これは」
あわてて辞儀をして、
「お出ましで」
と、老爺は、小次郎と共に急いで家の方へ戻った。
小屋から、曳き出して来た月毛を撫でて、
「良い馬じゃな」
「はい。よいお馬でございまする」
「行って来るぞ」
老爺は、鞍の上へ移った小次郎のすがたを見上げて、
「お似あいなさいます」
小次郎は、巾着の中から、
「おやじ、これで、線香と花でも
「……へ?
「今の死人へ」
小次郎は、そういって、坂下の寺門前から、
ベッと、彼は馬上から
「怨まれる筋はない」
彼は、心のうちで、自分の行為に、弁明していた。
炎天を打たせて、彼の白馬は、往来を払って行った。町家の者も、旅人も、歩いている侍も、彼の馬前を避けて、そして皆、振顧った。
実際、彼の馬上姿は、江戸の街へはいっても目につくほど立派だった。――どこのお武家だろうと、人々は見るのであった。
細川家の藩邸についたのは、約束どおり暑い真昼中だった。駒をあずけて、邸内へかかると、岩間角兵衛はすぐ飛んで来て、
「ようお出で下された」
と、まるで自分のことのように
「すこし、汗でも拭いて、お控えでおやすみ下さい。唯今、殿へお取次ぎをする間」
と、麦湯、冷水、煙草盆と、下へも
「では、お弓場へ」
と、間もなくべつの侍が案内をしに来る。勿論、彼が自慢の物干竿は家臣の手にあずけ、小刀のみで、
細川
大勢の近侍が、忠利を取り巻いて、矢を抜きに駈けたり
「手拭、手拭」
忠利は、弓を立てた。
汗が眼に流れこむほど、射疲れていた。
角兵衛は、その
「殿」
と、側へひざまずいた。
「なんじゃ」
「あれに、佐々木小次郎が参って御拝謁を待っております。おことばを戴きとうぞんじまする」
「佐々木? ああそうか」
忠利は眼もくれないで、もう次の矢を
忠利ばかりでなく、家臣たちも誰ひとり、控えている小次郎に、眼をくれる者はなかった。
やがて百射が終ると、
「水、水」
忠利は、大息でいった。
家臣たちは、井戸水を揚げて、大きな
忠利は、諸肌をぬぎ、汗を拭いたり、足を洗った。
よく拭きもしない足をすぐ草履にのせて、ずかずかと忠利は、
「角兵衛、会おうか」
と、
角兵衛に
「
と、いった。
床几を受ければ客である。小次郎は膝を上げて、
「おゆるしを」
会釈しながら、それへ腰をおろして、忠利と
「仔細、角兵衛から聞いておるが、生国は岩国と申すか」
「御意にござります」
「岩国の
「遠くは
などと家系や、縁類などの質問があって後、
「侍奉公は、初めてか」
「まだ
「当家に望みがあるやに、角兵衛から聞いておるが、当家のどこがようて、望んだか」
「死に場所として、死に心地の好さそうなお家と存じまして」
「む、む」
忠利は、
気に入ったらしく見える。
「武道は」
「
「巌流?」
「自身発明の兵法にござりまする」
「でも、
「富田五郎右衛門の富田流を習いました。また、郷里岩国の隠士で片山
「ははあ、巌流とは――岩国川のその
「御賢察のとおりです」
「一見したいな」
忠利は、床几から、家臣の顔を見まわして、
「誰か、佐々木を相手に、起つ者はおらぬか」
と、いった。
この男が、佐々木か。近頃、よくうわさに上る、あの著名な人間なのか。
(それにしては、思いのほか、若いものだな)
と感心して、
(誰か、佐々木を相手に、起つ者はないか)
といった言葉にまた、顔を見あわせた。
自然、その眼はすぐ、小次郎の方へ移ったが、彼には、迷惑そうな気色もなく、むしろ、
(望むところ)
と、いわんばかりな紅潮が
だがなお、さし出がましく、我がと名乗って、起つ者もないうちに、
「
と、忠利が、名指した。
「はっ」
「いつぞや、槍が太刀に勝る論議の出た折に、誰よりも、槍の説を取って
「は」
「よい折だ、かかってみい」
岡谷五郎次は、お受けすると、次に、小次郎の方へ向い直って、
「
と、訊ねた。
小次郎は、大きく、言葉を胸で
「お願いいたしましょう」
幕の裡で、
朝夕、武芸を口にし、太刀や弓を
仮に――
(戦場へ出て戦うのと、平常の場合、試合に立つのと、どっちが怖いか)
ということを、ここにいる大勢の侍に、正直に告白させたら、十人が十人まで、
(それは試合だ)
というに違いないのである。
戦争は集団の行動だが、試合は
――
(彼なら負けまい)
と、思った。
細川藩には、従来、槍術の専門家という者はいなかった。幽斎公三斎公以来、数々の戦場で人と
けれど、その中でも、岡谷五郎次などは、藩での
「しばし、ご猶予を」
と、五郎次は、主君と相手の者へ、そう会釈をして、静かに、
身を開け放した姿で、小次郎は、突っ立っていた。
借りうけた三尺の木太刀を
殊に、
(どうしたか?)
相手に立つ岡谷五郎次へは、家中の者の友情がわいた。小次郎の異彩を見るにつけ、彼の腕のほどが案じられ、彼が支度にかくれた幕の方へおのずと不安な眼がうごいた。
だが、五郎次は、落着きすまして身支度を終えていた。それになお、手間どっているわけは、槍の先に濡れ
小次郎は、見やって、
「五郎次どの。それは何のお支度だな。てまえに対する万一のお気づかいなら無用なご配慮だが」
と、いった。
ことばは尋常に聞えるが、意味は
「――真槍でいい」
それを見ながら、小次郎は、彼の徒労をすでに
「無用ですか」
キッと、五郎次が、彼を見ていうと、君侯の忠利も、君側にいる彼の友も、皆、
(ああいうのだ)
(かまわん)
(突き殺してしまえ)
と、いわんばかりに、眼でぎらぎらと、
小次郎は、早くと、
「そうだ!」
と、眼をすえた。
「然らば」
巻きかけた濡れ
「お望みにまかせる。しかし、それがしが真槍を
「いや、これでいい」
「いや、ならぬ」
「いや」
と、小次郎は、彼の
「藩外の人間が、いやしくも他家の君前で、真剣を
「でも」
五郎次がなお、心外らしく、唇をかむと、忠利は、彼の態度を、もどかしく思ったように、
「岡谷。卑怯ではない。相手のことばに任せ。
明らかに、忠利の声の中にも、小次郎に対する感情がうごいていた。
「――では」
二人は、目礼を交わした。するどい血相が双方の顔に
だが、小次郎の体は、モチ
五郎次は槍を繰り出す暇がなく、ふいに身を向き
――ぱッん、と石突きの先が
「ち。ち。ち!」
五郎次は、踏み
さらに横へ跳んだ。
息もつかず、また、避けた。また跳び交わした。
――だがもう、

「ちと、やり過ぎましたかな? ――今日の御前では」
「いや
「忠利公には、わしの帰った後で、何というておられたかな」
「べつに」
「何か、いわれたろうが」
「何とも、仰せられずに、黙って、お座の間へお
「ふむ……」
小次郎は、彼の答えに、不満足な顔を見せた。
「いずれ、そのうち、お沙汰があるでござろう」
角兵衛が、いい足すと、
「
角兵衛の眼にも、小次郎の
きのう、忠利の面前では、少なくも四、五名は相手にしてみせるつもりだったが、最初の岡谷五郎次との試合が、余りに残忍であったせいか、
(見えた。もうよい)
と、忠利の声で、終ってしまったのである。
五郎次は、後で蘇生したというが、
だが、未練はまだ、十分にある。将来、身を託す所として、伊達、黒田、島津、毛利に次いで、細川あたりは
小次郎には、その見通しがついていた。三斎公という者がまだ国元に光っているうちは、細川家は泰山の安きにあるものと見ていた。将来性も十分にあるし、同じ乗るなら、こういう親船に乗って新時代の
(だが、いい家柄ほど、
小次郎は、やや
何を思いついたのか、それから数日後のこと、小次郎は急に、
「岡谷五郎次どのを見舞って来る」
と、いって出かけた。
その日は
五郎次の家は、
「いや、試合の勝負は、腕の相異、わが未熟は恨むとも、なんで
と、微笑をみせ、
「おやさしい、お
と、眼に露を見せた。
そして小次郎が帰ると、枕辺に来ていた友へ、
「ゆかしい侍だ。
と、洩らした。
小次郎は、彼が、そういうであろうことを、
ちょうど、来ていた見舞客の一名は、もう彼の思うつぼに、彼の敵たる病人の口から、小次郎の讃美を聞かされていた。
二日おき、三日おきに、前後四たび程、小次郎は岡谷の家を見舞った。
或る日、魚市場から、生きた魚など、慰めにと、届けさせた。
夏は、土用に入った。
空地の草は、家を
――武蔵出てこい。出て来ずば、侍とはいわれまいが。
と、
「どこぞで、飯を」
と、小次郎は、空腹を思い出して、
京とちがって、奈良茶というような家もまだない。ただ、空地の草ぼこりに、
どんじき
と書いた旗が見える。
葭簀の陰から這ってゆく煙は草にからみついて、いつまでも消えない。近づいてゆくと、煮物のにおいがする。まさか、握り飯を売るわけでもあるまいが、とにかく、喰べ物屋には違いない。
「茶をいっぱいくれい」
日陰へはいると、そこの腰かけに、ひとりは酒の茶碗、ひとりは飯茶碗を持って、がつがつ喰っている二人づれがある。
「おやじ、何ができるのか」
「めし屋でござります。酒もございまするが」
「どんじき――と看板に書いてあるが、あれは何の意味だな」
「皆さまがお訊きになりますが、てまえにも分らないので」
「おぬしが書いたのではないのか」
「はい、ここでお休みなされた旅の御隠居らしいお人が、書いてやるといって、書いて下さいましたので」
「そういえば、なるほど、達筆だな」
「諸国を、御信心に歩いているお方だそうで、木曾でも、よほど豪家な金持の御主人とみえましてな、
「ふム、何という者か、その
「奈良井の大蔵と仰っしゃいます」
「聞いたようだな」
「どんじき、などと、お書きくださって、なんの意味か、通じはしませぬが、そういう
おやじは、笑った。
小次郎は、そこに並んでいる瀬戸物鉢をのぞき、
前に腰かけていた二人の侍のうち――一人はいつの間にか立って、
「来たぞ」
連れを
「浜田、あの
といった。
あわてて、箸をおいて、もうひとりの男も立ち上がった。そして葭簀へ顔を並べながら、
「む、あれだ」
と、何か物々しく
草いきれの炎天を、西瓜売りは
それを追って「どんじき」の葭簀の陰から出て行った牢人は、いきなり刀を抜いて、天秤の
――もんどり打つように西瓜と西瓜売りが前へ転んだ。
「やいっ」
「お濠ばたの石置場で、このあいだまで、
一人が責めると、一人が刀を鼻先へ突きつけて、
「いえ。
「そちの
と、
「こんな
と、刀の平で、西瓜売りの頬をたたいた。
西瓜売りは、土気色になった顔を、ただ、横に振るだけだったが、隙を見ると、憤然一方の牢人を突きとばし、
「やるかっ」
と、牢人は呶鳴って、
「こいつ、満ざら、ただの西瓜売りでもないぞ。浜田、油断するな」
「何、
と、浜田
――すると彼の
「――やっ!」
馬乗りになっていた西瓜売りの体の上から
「何者だッ……な、なに者だっ
だが。
佐々木小次郎なのである。
刀は、いうまでもなく、いつもの長刀
「…………」
「あっ……佐々木……佐々木……佐々木小次郎どの。助けてくれっ」
と、大地から呶鳴った。
小次郎は、見向きもしない。
ただ、抜き合せたまま、後へ後へ、果てなく
もう青白くなって来た浜田某は、その耳に、佐々木小次郎の名を聞くと、
「えっ、佐々木?」
物干竿は、宙を
「何処へッ」
と、いうや否、浜田某の片耳を
彼がすぐ、縄目を切ってやっても、西瓜売りは、草むらから顔を起さなかった。
坐り直しはしたが――いつまでも
小次郎は、物干竿の血をぬぐい、
「大将」
と、西瓜売りの
「何もそう面目ながらないでもいいじゃないか。――おいっ、又八」
「はあ」
「はあ、じゃあない、顔を上げろ。さてもその後は久しぶりだな」
「あなたも、ご無事でしたか」
「あたり前だ。――しかし、貴様は妙な商売をしておるじゃないか」
「お恥かしゅうございます」
「とにかく、西瓜を拾い集め――そうだ、あの、どんじき屋へでも、預けたらどうだ」
小次郎は原の中から、
「おおウい、おやじ」
と、
そこへ、荷や西瓜をあずけ、矢立を取出して、どんじきの掛障子のわきへ、
空地の死体ふたつ
右、斬捨て候ものは
伊皿子坂月の岬 住人
佐々木小次郎
後日の為のこす
こう書いて、右、斬捨て候ものは
伊皿子坂月の
佐々木小次郎
後日の為のこす
「おやじ、ああしておいたから、其方に迷惑はかかるまい」
「ありがとう存じまする」
「あまり、有難くもないだろうが、死者の
そして、
「参ろう」
と、
本位田又八は、
彼も、江戸へ来た当初は、お通に対してだけでも、男らしく、
殊に、お通に逃げられてからの彼は、よけい、薄志弱行の一途を
だが、それが不思議とも思わないほど、小次郎も、彼の性情は前から知っている。
ただ、どんじき屋へ、ああ書いておいた以上、やがて何とかいって来るものと心得ていなければならない心構えのために、
「いったい、あの牢人どもから、どんな恨みをうけたのか」
と、
「実は、女のことで……」
と、いい
又八が生活を持つ所、何か必ず女の事故が起っている。彼と女とは、よくよく前世から
「ふム、相変らず貴様は色事師だの。して、その女とは、どこの女で、そしてどうしたという
いい渋る口を割らせるのは骨だったが、伊皿子へ帰っても、かくべつ用を持たない彼には、女と聞くだけでも、
ようやく、又八が、打明けていう事情というのを聞くと、こうであった。
そこの一軒に、人目をひく
ところが、自分も時折、西瓜を売上げた帰りになど、休みに寄るうち、或る時、娘がそっと
(わたしは、あのお侍が嫌いでならないのに、茶屋の持主は、あのお侍と遊びにゆけと、
と、いうので、
「おかしいじゃないか」
小次郎は、
「なぜですか」
と、又八は、自分の話のどこがおかしいのかと、すこし反抗を見せて、突っこんでゆく。
小次郎は、彼の、
「まあいいわ。ともかく貴様の住居へ行って、ゆるゆる聞こう」
すると、又八は足を止めてしまった。ありありと、迷惑そうにその顔つきが断っているのである。
「いけないのか」
「……何しろ、ご案内申すような、家ではないので」
「なあに、かまわぬ」
「でも……」
又八は、謝って、
「この次にして下さい」
「なぜじゃ」
「すこし今日は、その」
よくよくな顔していうので、
「ああそうか。然らば、折を見て、そちの方からわしの住居へ訪ねて来い。伊皿子坂の途中、岩間角兵衛どのの門内におる」
「伺います。ぜひ近日」
「あ……それはよいが、先頃、各所の辻に立ててあった高札を見たか。武蔵へ告げる
「見ました」
「本位田のおばばも尋ねておるぞと、書いてあったろうが」
「は。ありました」
「なぜすぐに、老母をたずねて参らぬのじゃ」
「この姿では」
「ばかな。自分の母親に何の
彼の意見じみた言葉を、又八は素直に聞けなかった。
「はい。そのうちに」
と、渋った返辞をのこして、芝の辻でわかれた。
――小次郎は人が悪い。別れると見せて、実はすぐまた、引っ返していた。又八の曲がった狭い裏町を、見え隠れに
幾棟かの長屋がある。
道などは、後のことで、人が歩けば、それからつくし、下水なども、戸ごとから、行水の水や台所の汚水で、流るるままに出来たものが、自然小川へ落ちて行く――でいいとしている。
何しろ、急激に
「又八さん、帰ったのか」
隣の井戸掘りの親方がいった。親方は、
「やあ、行水ですか」
今、家へ戻って来た又八がいうと、
「どうだい、わしはもう上がるところだが、一浴びやっては」
「有難うございますが、宅でもきょうは、
「仲がいい」
「そんなでもございません」
「
「ヘヘヘヘ」
そこへ、彼女が来たので、又八も親方もだまってしまった。
朱実は、提げてきた大きな盥を、柿の木の下におき、やがて、手桶の湯をあけた。
「又八さん、加減を見てよ」
「すこし、熱いな」
車井戸の音がきりきりする。又八は裸で駈けてゆき、手桶の水を取って来て、自分でうめて、すぐ
「ああいい湯だ」
親方はもう
「きょうは、西瓜は売れたかい」
と、訊く。
「知れたもんですよ」
又八は、指の股に、血が乾いていたのを見出して、気味わるそうに、手拭で落していた。
「そうだろうな、西瓜なんぞ売るよりはまだ、井戸掘り人足になって
「いつも、親方が、おすすめしてくれますが、井戸掘りになると、お城のなかへはいるんですから、滅多に、家へ帰れないでしょう」
「そうさ。御作事方のお許しが出なくっちゃ、帰るわけにゆかねえな」
「それじゃあ、朱実がいうには、淋しいから、やめてくれといいますんでね」
「おい、のろけかい」
「決して、あたし達は、そんな仲じゃございません」
「そうめんでも
「――ア痛っ」
「どうしたい」
「頭の上から、青い柿が落ちて来やがったんで」
「ははは。のろけるからよ」
親方は
この長屋の入口に、
お城御用あなほり土方口入 れ
いどほりうん平宅
と立札にあるのは、この親方の家のことである。いどほりうん平宅
許可がなければ、家には帰さないし、仕事中も監視はつくし、留守宅の家族は、
工事が終るまで、寝泊りも、御城内の小屋でするから、
――だからそうして一ツ、辛抱してから、それを
「もし、又八さんが、お城仕事へ行くなら、わたしはすぐ、逃げちまうからいい」
と、
「行くもんか、お前ひとり置いて――」
又八も、そんな仕事はしたくないのである。彼がさがしているのは、体が楽で、もっと、体裁のいい仕事だった。
行水から彼が上がると、次には朱実が、囲いの戸板を
「少しぐらい金になるからって、
冷し豆腐に、
「そうともさ」
と、湯漬を喰べながらいった。
「一生に一遍でもいいから、意気地のあるところを見せてやりなさいよ。――世間の人に」
朱実が、ここへ来てから、長屋では、夫婦者と見ているらしかったが、彼女は、こんな歯がゆい男を、自分の
彼女の、男を見る眼は、進んでいた。江戸へ来てから――殊に
その朱実が、又八の家へ逃げて来たのは、一時の方便にすぎなかった。又八を踏み台にして、再び、立ってゆく空をさがしている小鳥だった。
――だが、いま又八に、お城仕事になど行ってしまわれるのは、都合が悪かった。というよりも、身の危険であった。
「そうそう」
飯が終ると、又八は、そのことについて、話し出した。
浜田につかまって、ひどい目に
「えっ、小次郎に、出会ったんですって」
朱実は、もう顔いろを失いながら、息をついて、
「そして私が、ここにいるなどということをいったんですか。まさか、いいはしないでしょうね」
と念を押した。
又八は、彼女の手を、自分の膝へ取って、
「誰が、あんな奴に、おまえのいることなどいうものか。いったが最後、あの執念ぶかい小次郎がまた……」
――あっと、そこで、又八はふいに呶鳴って、自分の横顔を抑えた。
誰が
裏の方から飛んで来た青い柿の
もう夕月の
「――先生」
と、伊織は追う。
その伊織の
「はやく来い」
武蔵は、振向いて、草の中を泳いで来る
「道があるんだけれど、分らなくなっちまう」
「さすがに、十郡にわたるという武蔵野の原は広いな」
「どこまで行くんです」
「どこか、住み心地のよさそうな所まで」
「住むんですか、ここへ」
「いいだろう」
「…………」
伊織は、いいとも、悪いともいわない。野の広さと等しい空を見あげて、
「さあ? どうだか」
「秋になってみろ、これだけの空が澄み、これだけの野に露を持つ。……思うだに気が澄むではないか」
「先生は、やっぱり、町の中はきらいなんだな」
「いや、人中もおもしろいが、あのように、悪口の高札を辻々に立てられては、なんぼ武蔵が厚かましゅうても、町には居づらいではないか」
「……だから、逃げて来たの」
「ウむ」
「くやしいな」
「何をいうか、あれしきのこと」
「だって、どこへ行っても、先生のことを誰もよくいわないんだもの。おいらは、くやしいや」
「仕方がない」
「仕方がなくないよ。悪口をいうやつを、みんな打ち
「いや、そんな、
「だって、先生なら、無法者が出て来たって、どんな奴が
「負けるな」
「どうして」
「衆には負ける。十人の相手を打ち負かせば、百人の敵が
「じゃあ、一生、人に
「わしにも、名には、潔癖がある。御先祖にもすまない。どうかして、嗤われる人間にはなりとうない。……だから、武蔵野の露にそれを捜しに来たのだ。どうしたら、もっと嗤われない人間になれるかと」
「いくら歩いても、こんな所に、家はないでしょう。あれば、お百姓が住んでるし……また、お寺へでも行って、泊めてもらわなければ」
「それもいいが、樹のある所へ行って、樹を
「また、法典ヶ原にいた時のように?」
「いや、こんどは、百姓はせぬ。毎日、坐禅でもするかな。――伊織、おまえは
甲州口の
行くほどにやがて、笠を伏せたような、松の丘があった。武蔵はそこの地相を見て、
「伊織、ここに住もう」
と、いった。
行く所に天地があり、行く所に生活が始まる。鳥が巣を作るのから較べれば、二人の住む一庵を建てるのは、もっと簡素だった。近くの農家へ行って、伊織は一人の日雇いと、
草庵とまではゆかない、ただの小屋でもない、妙な家が、とにかく数日の間に、そこに建った。
「
武蔵は、外から、わが家をながめて、独り興に入っている。
木の皮と竹と
その家の中の壁とか、小障子とかに、ほんのわずかばかり使用されている
しかも、朗々と、
「伊織」
「はいっ」
はいっ――と返辞した時は、伊織はもう彼の足もとに来てひざまずいていた。
近頃、厳しく慣らした
以前の
武蔵自身がそう育てられて来たからである。――だが、年と共に、彼の考え方も変化して来た。
人間の本来の性質の中には、伸ばしてもいい自然もある。だが、伸ばしてはならない自然もある。
この草庵を建てるので、草や木を刈ってみても、伸びて欲しい植物は伸びず、
応仁の乱この方、世の中の
だが、この永い乱麻の世相は、もう一転する
それは、乱麻から整理へ。また、破壊から建設へ。――要するに、求めても求めなくても、次期の文化が、人心の上へひたひたと
武蔵は、独り思うことがある。
(生れたのが、遅かった)
――と。
(せめて、二十年も早く生れていたら、いや十年でも、間に合ったかも知れない)
――と。
自分が生れた時がすでに、天正十年の小牧の合戦のあった年である。十七歳には、あの関ヶ原であった。もう、野性の人間が用をなす時代はその頃から過ぎてしまったのだ。――今思えば、
武蔵は、伊織へ
「先生。なにか御用でございますか」
「野末に大きな
「はいっ」
伊織は、二本の木剣を持って来て、武蔵の前におき、
「おねがい致します」
ていねいに頭を下げた。
武蔵の木剣は長い。
伊織の木剣は短い。
長い木剣は、
「…………」
「…………」
草より
「…………」
「…………」
稽古である。勿論、伊織は武蔵の構えを真似て、自分も構えているのであった。打ってもいい、といわれているので、伊織は打って行こうとするが、思うように体が動かせないのである。
「…………」
「眼を」と、武蔵がいう。
伊織は、眼を大きくした。武蔵がまたいう。
「眼を見ろ。……わしの眼をくわっと見るのだ」
「…………」
伊織は、懸命に、武蔵の眼をにらもうとする。
だが、武蔵の眼を見ると、自分のにらみは
それでもなお、じっと
「眼を!」
と、注意される。
いつのまにか眼は、武蔵の眼の光から逃げるように、そわそわ動いているのだ。
はっと、それに心をあつめると、手に持っている木剣まで、伊織は忘れてしまうのだった。そして、短い木剣が、百貫の鉄の棒でもささえているように、だんだん重くなってくる。
「…………」
「眼。眼」
いいながら、武蔵が少しずつ前へすすんで見せる。
この時、伊織が、どうしても後へ
この時、
(何を!)
と、伊織の幼い精神の中にも、
武蔵は、それを感じると、すぐ、彼の気を誘って、
「来いっ」
いいながら、魚が交わすように、さっと、肩を落しながら身を
伊織は、あッといいながら、飛びかかる。――武蔵の姿はもうそこにはいない。――一転して振り向くと、自分のいたところに武蔵はいる。
そして、最初の時と同じ姿勢にまた、
「…………」
「…………」
いつかそこらは、しとどに夜露が
「…………」
「よし、これまで」
武蔵が、木剣を下ろして、それを伊織の手へ渡した時、伊織の耳に初めて、裏の杉林のあたりに、人声が聞えた。
「誰か来たな」
「また、泊めてくれと、旅の人が迷って来たんでしょ」
「行ってみろ」
「はい」
伊織は、裏へ廻って行った。
武蔵は竹縁に腰かけて、そこから見える武蔵野の夜をながめていた。もう
「先生」
「旅人か」
「違いました。お客様です」
「……客?」
「北条新蔵様が」
「お。北条どのか」
「野道から来ればよいのに、杉林の中に迷いこんで、やっと分ったんですって。馬を向うに
「この家には、裏も表もないが――
「はい」
家の横へ駈け廻って、
「北条さん、先生はこちらにいます、こっちへお出でなさいまし」
伊織が呶鳴る。
「おう」
武蔵は、立って迎え、すっかり、壮健になった新蔵の姿にまず、
「ご無沙汰いたしました。怖らく人を避けてのお
新蔵のあいさつに、会釈しながら武蔵は、縁へ誘って、
「ま。お掛け下さい」
「いただきます」
「よく分りましたな」
「ここのお住居で」
「されば。誰にも告げてないはずだが」
「
「ははあ、ではその折、伊織がここの
「お詫び申さねばなりませぬ」
と、新蔵は、頭を下げて――
「みな、てまえのことからご迷惑を」
「いや、お身のことは、
「その佐々木小次郎のために、またしても、小幡老先生の御子息、余五郎どのが、殺害されました」
「えっ、あの子息が」
「返り討ちです。わたくしが仆れたと聞かれたので、一途に、
「……止めたのに」
武蔵は、いつか小幡家の玄関に立った若い余五郎の姿を思いうかべ、
「しかし――御子息のお気もちも分るのです。門下はみな去り、かくいうてまえも仆れ、老先生も先頃病死なされました。――今は、というお気もちを抱いて、小次郎の家へ襲ってゆかれたものと察しられます」
「うむ。……まだわしの止め方が足らなかった。……いや止めたのが、かえって、余五郎どのの壮気をあべこべに駆りたてたかも知れぬ。かえすがえすも惜しいことを」
「――で、実はわたくしが、
北条新蔵がことばの中に、父安房守といったのを、武蔵はふと、聞き
「北条安房守どのと申せば、甲州流の小幡家と並んで、北条流の軍学の宗家ではありませぬか」
「そうです、祖先は遠州に
「その、軍学の家に生れた
「父の安房守にも、門人はあり、将軍家へも、軍学を御進講しておりますが、子には、何も教えませぬ。他家へ行って、師事してこい、世間から苦労を先に
新蔵の物ごしや、そういう人がらのどこかに、そう聞けば、
彼の父は、北条流のながれを汲む三代目安房守
「つい、余談に
と、新蔵はそこで辞儀をし直し、
「こよい、急に、お訪ねいたしたのも、実は、父安房守のいいつけで、本来、父の方からお礼に伺うところであるが、折からちょうど珍しいお客様も来あわせて、屋敷にお待ちいたしておるので、お迎えいたして来いと、いいつけられて参ったのでござりますが」
と、武蔵の顔いろを
「はて?」
武蔵は、まだ彼のことばが、よく
「珍しいお客が、
「そうです。恐縮ながら、てまえがご案内いたしますほどに」
「これから直ぐに?」
「はい」
「いったい、その客とは、
「御幼少からよくご存知のお方でござります」
「何、幼少から?」
愈

(誰だろう?)
幼少からといえば懐かしい。本位田又八か、或は、竹山城の侍か、父の旧知か。
ひょっとしたら、お通ではあるまいか? ――などと思いながらまた、その客とは一体誰かと訊くと、新蔵は窮した
「お連れして参るまで、名は明かさずにおれ。会って意外と欣び合ったほうが興があるから――と申されるのです。……お越しくださいましょうか」
と、いうのである。
武蔵は、頻りと、その分らぬ客に会ってみたくなった。お通ではなかろう。そう思いながら、また、心のすみで、
(お通かも知れないし)
と、思われたりする。
「参ろう」
武蔵は立って、
「伊織。先に
と、いった。
新蔵は、使いの面目が立ったと欣んで、早速、裏の杉林に
駒の鞍もあぶみも、秋草の露に、しとどに濡れていた。
「どうぞお召しを」
と、北条新蔵は、馬の口輪をつかんで、武蔵へすすめた。
武蔵は、敢て辞退せず、
「伊織、先に
伊織も、外まで出て、
「行っていらっしゃいまし」
と、見送った。
萩、
伊織は、ぽかんと、独りぼッちになって、竹縁に腰かけていた。この草庵に、独り留守をすることも、珍しくはない。また、法典ヶ原の一ツ家にいた頃のことを思えば、淋しくもない。
(眼。……眼)
伊織は、稽古のたび、武蔵からいわれることが、頭にこびりついて、今もすぐ、銀河の空を仰ぎながら、ぽかんと、それを考えていた。
(どうしてだろ?)
なぜ、武蔵の眼に睨まれると、あの眼を見ていられなくなってしまうのか、伊織には分らなかった。そして、少年の純な口惜しさが大人以上の一途となって、それを幼い思念で解こうとしていた。
そのうちに、彼は、草庵の前の一本の樹に
「……おや?」
生き物の眼である。それは師の武蔵が、木剣を持って自分を見る眼にも劣らない光を帯びている眼だった。
「……

伊織は、
「……畜生め。おいらが意気地がないと思って、むささびまでひとを睨んでやがるな。負けるか、おまえなどに」
伊織もまた負けない気になって、むささびの眼を、きつく睨み返した。
彼が、竹縁から、
――負けるか! 汝ごときに。
と、伊織も、見つめる。
長い間を、まったく
「ざまをみろ」
伊織は、誇った。
彼はびっしょり汗をかいていたが、何だか胸がせいせいして、こんど師の武蔵と立合う時には、今みたいに睨み返せばいいんだと思った。
彼は、
――彼自身では、横になると同時に、すぐ眠りにはいった気がしていたが、頭の中には、何か光る珠のような物が、ぎらぎらしていて、それがだんだん、むささびの顔のように、夢うつつの境に見えて来るのだった。
「……ウウム。……ううむ」
何度も彼は
そのうちに、どうしても、その眼が夜具の
「アッ、畜生っ」
枕元の刀を
「畜生」
その藺すだれもズタズタに斬り、外の野葡萄も、乱離と斬って、なお、野を見廻していた伊織は、二ツの眼の行方を、天の一角に見つけた。
それは、青い大きな星だった。
どこかで、
馬でこそ、一
「ここです」
一方は赤城神社のひろい境内であり、坂の道を隔てて、それに劣らぬ広い土塀をめぐらした宅地がある。
土豪の門のような、そこの構えを見て、武蔵は
「御大儀」
と、新蔵へ手綱を返す。
門は開いていた。
彼が曳き込む駒のひづめが
「お帰り」
と、出迎えて、彼の手からまた駒を受けとり、そして客の武蔵の先に立って、
「ご案内いたしまする」
と、新蔵と共に樹々の間を縫って、大玄関の前まで来る。
すでに、そこの式台には、左右に明るい燭台を備え、用人らしい者以下、
「お待ちうけでござります。どうぞそのまま」
「――御免」
武蔵は、箱段を上って、家人の導くままに歩いた。
ここの家造りは変っていた。階段から階段へ、上へばかり登って行くのである。赤城坂の崖へ依って、
「しばらく、御休息を」
一室へ通して侍たちは
「…………」
音もなく、
美しい小間使が、
その
しばらくすると、小姓を
「や。ようお越し」
と、
「――聞けば
と、扇の先に、手を重ねて、高い
「恐れ入る」
と、武蔵も、かろい会釈をして、安房守の年輩を見ると、もう前歯は三本も抜けているが、皮膚の
(子沢山な老人らしい。そのせいか、若い者にすぐ親しまれそうな人である)
武蔵はそう感じながら、彼もまた気軽にすぐ訊ねた。
「御子息から伺えば、私を存じおるお客が御当家に来合せておられる由。いったい
「今、お会わせする」
安房守は落着いて――
「よう
「では、客どのは、お二人とみえますな」
「どちらも、わしとは親しい友達、実はきょう御城内で出会ったのじゃ、そしてここへ立寄られて、よも山の話のうちに、新蔵が挨拶に出たことから、
そんなことばかり述べたてていて、安房守もなかなか客が
だが、武蔵は、うすうす解けて来た心地がした。にっと、
「わかりました。
と、いってみると、
「やあ、あてたわ」
果たして、安房守は、小膝を打って、
「よう、お察しじゃ。いかにも、きょう御城内で出会うたのは、その沢庵坊。おなつかしかろう」
「その後は、実に久しく、お目にかかりませぬ」
一人の客が、沢庵であることはこれで分った。だが、もう一名は誰か、思い当りもない。
安房守は、案内に立って、
「ござれ」
と、部屋の外へ導いた。
そして外へ出ると、また、短い階段を上り、
その辺で、ふと、先にいた安房守の姿が見えなくなった。廻廊も階段もひどく暗いので、勝手を知らぬ武蔵の足が、遅れがちであったせいもあろうが――それにしても、気の短い老人ではある。
「……?」
武蔵が足を止めて
「
と安房守がいう。
「お」
眼は答えたが、武蔵の足は、一歩もそこから出ていない。
「なぜござらぬ? ――武蔵どの、
安房守は、また呼んだ。
「……はい」
武蔵は、そう答えずにいられない所に立っている。だが、彼はやはり前へ歩まなかった。
静かに、足を
「……あ。そこから」
と安房守は、何か、出し抜かれたような顔して、座敷の端から
「……おう」
と、座敷の内へ呼びかけて、床の正面に坐っている沢庵へ、心の底から笑顔を向けた。
「おう」
と、同じように、沢庵も眼をみはり、席を立って迎えながら、
「武蔵か」
と、これも懐かしそうに、待っていた、待っていた、と何度も繰返していうのだった。
さて、久しい
しかも、場所も場所。
武蔵にとっては、なんだか、この世の対面とも思われぬ心地がするのだった。
「――まず、その後の事ども、わしから話そうか」
と沢庵はいう。
そういう沢庵は、昔ながらの、
武蔵が、かつての野育ちから洗われて、昔ながらの一野人でも、どこかに温厚を加えて来たように、沢庵もようやく、その人間に、風格というようなものや、禅家の深みを備えて来たものであろう。
もっとも、武蔵とは、
「この前、お別れしたのは、京都であったのう。――京都以来か。あの折、わしは母の危篤で、
こう語り出して、
「母の
「ほ、では、近頃のお下向でござりましたか」
「右大臣家(秀忠)とは、大徳寺でも、二度ほど会うているし、大御所には、しばしば
「私もつい、この夏の初め頃から――」
「だが、だいぶもう、関東でも、おぬしの名は、有名なものじゃの」
武蔵はぞっと、背すじに恥を覚えながら、
「悪名ばかり……」
と、
沢庵は、その
「いや何、おぬしぐらいな年頃に、早くも、美名の高いのは、むしろどうかな? ……。悪名でも
と沢庵はいって、
「さて、次には、そちらの修行――また、今の境遇など、訊きたいが」
と、問い出した。
武蔵は、この数年のあらましを語って、
「今もって、未熟、不覚、いつまで、真の
と、述懐した。
「む。そうなくては」
と、むしろ沢庵は、彼の嘆息を正直な声として、
「まだ三十にならぬ身が、道のみの字でも、分ったなどと高言するようじゃったら、もうその人間の
ふたりが、話に熱しているまに、いつか、膳や
「……おう、そうそう。安房どの、亭主役じゃ。もう
と、沢庵が気づいていう。
膳は、四客分くばられてある。そしてここにいるのは、沢庵、安房守、武蔵と三名だけである。
姿の見えぬもう一名の客とは誰か?
武蔵には、もう分っていた。しかし彼は黙って控えていた。
沢庵にそう催促されると、安房守は、少しあわてた顔いろで、
「お呼びするかの?」
と、ためらった。
そして、武蔵の方を見て、
「ちと、こちらの画策が、
と、意味ありげに、言い訳を先にする。
沢庵は、笑って、
「敗れたからには、
と、いった。
「元より、わしの負けだ」
安房守は、そう
「――実は、
安房守は、今さら、人を試すようなことをした
「……それゆえに、実はわざと、てまえが
と、武蔵の顔を見入っていうのだった。
「…………」
武蔵は、ただ
そこで、沢庵がいうには、
「いや、安房どの。そこが軍学者のお許と、剣の武蔵どのとの差じゃな」
「はて、その差とは」
「いわば、智を基礎とする
「心機とは」
「禅機」
「……では、沢庵どのでも、そうしたことがおわかりになるかの」
「さあ、どうだか」
「何にしても、恐れ入りました。わけて、世の常の者ならば、何か、殺気を感じたにしても、度を失うか、または、覚えのある腕のほどを、そこで見しょうという気になろうに――後へもどって、庭口から木履をはいてこれへお見えになった時は、実はこの
「…………」
武蔵自身は、当然なことと、彼の感服にあまり興もない顔つきだった。むしろ、自分が
「どうぞ、
と、いった。
「ええ」
これには、安房守ばかりか、沢庵もちょっと驚いて、
「どうして、但馬どのと、お許に分っておるのか」
と、訊ねた。
武蔵は、但馬守に、上座を譲るべく、席を
「暗うはござりましたが、あの壁の陰にひそと澄んでいた剣気、またここのお顔ぶれといい、但馬様を
と、答えた。
「むむ、御明察」
と、安房守が感嘆して、
「その通り、但馬守どのに相違おざらぬ。あいや、物陰のお人、もう知れておる。これへござあってはどうか」
室外へ向っていうと、そこで笑い声がひびいた。やがてはいって来た柳生
その前に、武蔵はすでに、末席に身を
「身が、又右衛門宗矩でござる、お見知りおき下さい」
武蔵もまた、
「初めて御意を得ます。作州の牢人、宮本武蔵と申す者、何分、この後は御指導を」
「先頃、家臣木村助九郎から、お
「石舟斎様には、その後の御容態、いかがにございまするか」
「
と、語尾を消して、
「いや、あなたのことは、その父の手紙にも、また沢庵どのからも、よく聞いておりました。――わけて、唯今のご要意には感じ入る。不作法には似たれども、かねがねこの身へ御所望の試合も、これで果したと申すもの。お気に
温厚な風が、武蔵の貧しい姿を
「おことば、痛み入りまする」
武蔵は自然、彼の挨拶以上に、身を低くして、そういわざるを得ない。
但馬守は、たとえ一万石でも、諸侯の列に
同席して、こう語りあうことすらが、すでに当時の人の観念では破格であった。だが、ここには旗本学者の安房守もいるし、また、野僧の沢庵も、極めて、そういう隔てにはこだわらずにいるので、武蔵も救われた心地で坐っていた。
やがて、杯を持つ。
銚子を
談笑がわく。
そこには、階級の差もない、
武蔵は、思うに、これは自分への待遇ではなく、「道」の徳であり、「道」の
「そうだ」
沢庵は、何を思い出したか、杯を下におきながら、武蔵へ、
「お
と、ふいに訊ねだした。
その唐突な問いに、武蔵は、ちょっと顔を紅らめ、
「どうしておりますやら、その後はとんと……」
「とんと、知らんのか」
「はい」
「それは
宗矩がふと、
「お通とは、柳生谷の父の許にもいたことのあるあの
と、いう。
「そうじゃ」
沢庵が代って答えると――それならば今、甥の兵庫と共に、
「武蔵どのとは、そんな以前からの、お知り合いか」
と、眼をみはる。
沢庵は、笑った。
「お知り合いどころではおざらぬよ。はははは」
兵学家はいるが、兵学の話はしない。禅僧はいるが、禅のぜの字もいわない。剣の但馬守、剣の武蔵もいながら
「武蔵どのには、ちと
と、沢庵が、かろく
「この
と、それを基礎に、暗に武蔵の身の落着きを、但馬守と安房守へ計るような、沢庵の口うらであった。
ほかの雑談のうちにも、
「もう、武蔵どのも御年輩。一家を構えられてもよかろう」
と、但馬守もいい、安房守も共に、
「御修行も、これまで積めばもう十分――」
と、口を
但馬守の考えでは、今すぐではなくても、お通を柳生谷から呼び戻し、武蔵に
沢庵の気もちも、安房守の好意も、ほぼそうした考えに近かった。
殊に、安房守としては、子息の新蔵が受けた恩義に
(ぜひ、武蔵どのを将軍家御師範の列に御推挙したい)
と、いう考えを抱いていて、それは新蔵を使いにやって、武蔵をここへ呼び迎える前に、話し合っていたことなのである。
(一応、彼の人間を見て)
というので、話は決まっていなかったが、武蔵を試した但馬守には、もうそれも分っている筈だし、素姓、性格、修行の履歴などは、沢庵が保証するところであるから、これにも、誰も異議はない。
ただ、将軍家の師範に推挙する場合は、当然、旗本に列しなければならない。これには、三河以来の譜代者がたくさんいて、徳川家が、今日を
だが、これも沢庵が口添えしたり、両人の推挙があれば、通らないこともなかろう。
もう一つの困難と想像されるのは家柄のことである。武蔵は勿論、系図書などは持っておるまい。
遠祖は赤松一族で、平田
だが、関ヶ原以後、たとえ敵方であった牢人でも、ずいぶん召抱えられている例はある。また、家格のことも、小野治郎右衛門のごときは、伊勢松坂にかくれていた北畠家の一牢人であったのが、
「――とにかく、推挙してみようが、ところが、かんじんな、
沢庵が、こう話の結びへ持って来て、武蔵に
「身に過ぎたお心添えにござります。――なれどまだ、この身一つの
いいかけると、
「いやいや。それゆえ、もう
沢庵は率直に問いつめた。
お通をどうするか。それを問われると、武蔵は、責められる心地がする。
(不運となるとも、わたしはわたしの心で)
とは、彼女が、沢庵へもいったことだし、武蔵にも常にいっていることばであったが、ひとは許さない。
ひとは、男の責任とする。
女が、女自身の心でうごいて来ても、その結果のいいわるいは、男のせいにあると
――自分のせいではない。などとは武蔵も決して思いはしなかった。いや思いたくない心のほうが強い。やはり彼女は恋にひかれて来たと思う。そして、恋の罪は、ふたりが負うべきものと知っていた。
けれど、さて、
(彼女の身をどうするか)
と、なると、武蔵には、胸のうちだけでも、的確な答が出て来ない。
その根本には、
(まだ、一家など構えるのは、自分としては早過ぎる)
と、いう考えが、
もっと、打割っていえば。
武蔵の胸には、法典ヶ原の開墾からこっち、剣に対するそれまでの考えが一変して、まったく従来の剣術者とは観点のちがった方へ、彼の探求は向って来ている。
将軍家の手をとって、剣を教えるよりは土民百姓の手をとって、治国の道を切り拓いてみたい。
征服の剣、殺人の剣は、かつての人々が
武蔵は、開墾地の土に親しんでから、その上へ行く剣を、道を――どんなにつきつめて考えてみたことか。
修める、護る、磨く――この生命と共に、人間が
それからは――彼は敢て、単なる剣技を好まなくなった。
いつか伊織に手紙をもたせて、但馬守の門を
で――武蔵の今の希望としては、将軍家の師範となるよりは、小藩でもよい、政機に参与してみたい。剣の持ち方を説くよりも、正しい政治を
おそらく今までの剣術者が、彼の抱負を聞いたら、
(大それた!)
と、いうか、
(若いやつだ)
と、一笑するか、さもなければ、政治に触れたら人間は堕落する、殊に純潔を尊ぶ剣は曇ってしまう――と、彼を知る者なら、彼のために、惜しむであろう。
ここにいる三名の人々も、自分の真底をいえば皆、前のうちのどれか一つの言を
で――武蔵は、ただ未熟を理由として、何度も、断ったが、
「まあ、よい」
沢庵は、簡単にいうし、安房守もまた、
「とにかく、悪いようにはいたさぬ。われわれに任しておかれい」
と、のみ込んでしまう。
酒は尽きないが、
「まことに、よいお話で。皆様の御推挙が通り、それが実現すれば、柳営武道のためにも、武蔵どののためにも、もう一
と、父へもいい、客たちへもいった。
――今朝、起きてみると、姿が見えないのである。
「
又八は、台所から首を出して、呼んでみた。
「……いねえぞ?」
小首を傾げる。
前から、予感がないでもなかったので、押入を開けてみると、ここへ来てから作った、彼女の新しい衣裳もない。
又八は、顔いろを変え、すぐ土間の草履を
隣家の、井戸掘り親方の運平のうちも
又八は、いよいよあわて気味に、
「うちの朱実を知りませんかね……」
長屋から、往来の角まで、
「見たよ、
と、いう者がある。
「ア。炭屋のおかみさんですか、どこで見かけましたか」
「いつもと違って、
「え。品川へ」
「あっちに、身寄りがあるのかえ」
この
「へい。……じゃあ、品川へ行ったのかもしれません」
追いかけて――というほど強い執着ではない。なんとなく、ほろ
「……勝手にしやがれ……」
そのくせ、ぶらんと放心した顔つきで、浜のほうへ歩いて行った。浜は、芝浦街道を横ぎると、ついそこだった。
その魚が、砂の上に、今朝もこぼれていた。まだ生きているのもある。だが、又八は拾う気も出なかった。
「どうなすったえ、又さん」
背を打たれて、おや誰か、と振向いてみると、五十四、五の
「あ。表の質屋の旦那でしたか」
「朝はいいね、
「ええ」
「毎日、朝めし前には、こうして海辺をお
「どういたしまして、旦那のような御身分なら、歩くのも養生かもしれませんが……」
「顔いろがよくないな」
「へえ」
「どうかしたのかい」
「…………」
又八は、一握りの砂を拾って、風の中へ
急場の算段をしに行くたびに、又八も朱実も、いつもこの質屋の旦那とは、店で顔を突きあわせていた。
「そうだ。いつか折があったらと思い思い、いい
「なんですか。行ったって行かなくたって、西瓜や梨を売っていたんじゃ、どうせ
「
「旦那――」
と、又八は、悪いことでも詫びるように、頭を掻いて、
「あっしゃあ、釣はきらいですが」
「何さ、嫌いなら、釣らなくてもいい。――そこにあるのは
「へい」
「まあおいでよ。おまえに、小千両も儲けさせてやろうという相談だ――。嫌かい」
芝浦の浜から五町も沖へ出たが、そこらもまだ、
「旦那、あっしに、金を儲けさせてやるってえのは、一体どんなお話ですか」
「まあ、
と、質屋の旦那という男は、
「又さん、そこの釣竿を
「どう出しておくんで?」
「釣をしていると見えるようにさ。――海の上だって、あの通り人目があらあな。用もない舟で、二人が首を突き合せていたら、疑われるだろうじゃないか」
「こうですか」
「む、む、それでいい……」
と、
「わしの肚をはなす前に、又八さんに訊くが、おまえの住んでいる長屋の衆などは、この
「お宅のことですか」
「そう」
「質屋といえば、
「いや、そんな質屋稼業のことでなく、この奈良井屋の大蔵を」
「よいお人だ、お慈悲ぶかい旦那だと、まったく、お世辞ではなく皆申しておりますが」
「わしが、信心家だということは誰もいわないか」
「さ、それだから、貧乏人を
「奉行所の
「そんなことは……どういたしまして、あるわけがない」
「はははは、つまらないことを訊くと思うだろうな。だが、実をいえば、この大蔵は、質業じゃない」
「へ……?」
「又八」
「へえ」
「金も小千両と
「……多分、それやあ、そうでございましょうね」
「つかまないか、ひとつ」
「何をで?」
「その大金の
「ど、どうするんです」
「おれに約束すればよい」
「へ……へい」
「するか」
「します」
「途中でことばを
「何を――いったい――やるんですか?」
「井戸掘りだ。仕事は、造作もないこった」
「じゃあ、江戸城の中の」
大蔵は海を見まわした。
材木や伊豆石や、
藤堂、有馬、加藤、
「……勘がいいなあ、又八」
大蔵は、
「その通り――ちょうどおめえの
「それだけでげすか。……井戸掘りに行きさえすれば、何かあっしに、
「ま。……あわてるな、相談というなあ、それからだよ」
――晩に忍んで来い。
そう約して別れた。
又八の頭には、大蔵のいったその言葉しか、残っていない。
その代償として、
(やるか)
と大蔵から持ち出された条件に対しては、その内容を
(やる!)
と、いったことだけしか後に覚えていないのである。しかし、そう答えた時、怪しく
何としても、又八にとっては、金が魅力であった。しかも途方もない額である。
年来の不運はその金だけで埋め合せがつく。そして生涯の生活を保証される。
いや彼の心には、そうした慾望そのものよりも、きょうまで、自分を小馬鹿にした世間の、ありとあらゆる奴らに、
(どうだ)
と、見返した顔をしてやりたい――とする、その魅惑のほうが強かったに違いない。
舟から
「そうだ、運平さんに、頼んでおかなくっちゃあ……」
思いついて、
「じゃあ、晩にまた」
と、家へ帰って来たが、熱病に
それからやっと、彼は、海の上で質屋の大蔵に命じられたことを思い出して、ぶるぶると人もいない裏藪や表の露地を見まわした。
「いったい、何だろ? あの人は……」
今になって、それを考えてみるのだった。それと共に、舟の上で大蔵から命じられたことを思い出してみた。
井戸掘り人足は、江戸城の中の、西の丸
(機を
と、いうのであった。
また。
それに使う短銃は、こちらの手で城内へ
その場所は、
もちろん、作事場の監視は厳密にちがいない。奉行、
ぽかん、と天井を見ながら又八は、大蔵から
肌がそそけ立ってくる。
あわてて、
「そうだ、とんでもないこった。今のうちに断って来よう!」
と、気がついたが――また、あの時、大蔵から、
(――こう話したからには、もしお前さんが、嫌だといえば、気の毒だが、おれの仲間が三日のうちに、きっと寝首をもらいにゆくぜ)
と、いわれたのが、その時の凄い眼つきと共に、そこらに見えて来る気がした。
西久保の辻を、高輪街道の方へ曲って、もう
いつも見る質屋倉の壁を、横に仰いで、又八は露地の裏木戸をそっと叩いた。
「
中ですぐ誰かがいう。
「お……旦那で」
「又八さんか。よく来てくんなすった。倉へ行こう」
と、雨戸をはいって、廊下づたいに、すぐ土蔵の中へ導かれた。
「さ、坐るがいい」
「隣の運平親方のところへ行ってみたかね」
「へい」
「で――どうしたい?」
「承知してくれました」
「いつ、お城へ入れてくれるというのか」
「あさって、新規の人足が、十人ばかりまたはいるそうで、その時に、連れて行ってやろうといってくれました」
「じゃあ、その方は、きまったんだな」
「町名主と、町内の五人組の衆が、
「そうか。はははは。おれもこの春から、町名主のすすめで、
「へ。旦那も」
「何を驚いた顔しているんだ」
「べつに、驚いたわけじゃございませんが」
「はははは、そうか、おれみたいな物騒な人間が町名主の下役をする、五人組衆にはいっているので
「へ、へい」
又八は、何かしら、急に胴ぶるいをしながら、早口を
「や、やります! だ、だから手付の金をおくんなさい」
「お待ち」
手燭と一緒に立って、大蔵は倉の奥へ首を入れ、棚の手文庫から三十枚の
「
「ございません」
「これにでも巻いて、胴巻へしっかり抱いてゆくがいい」
そこらにあった
――と、又八は数えもせず巻き込んで、
「何か、受取でも、書いて参りましょうか」
「受取?」
思わず笑って、
「可愛らしい正直者だのう、おめえは。受取はいい。間違ったら、そこに持っている首を
「じゃあ、旦那、これでお
「待て待て。
「覚えております」
「御城内の西の丸裏御門の内――そこにある
「鉄砲のことで?」
「そうだ。近いうちに、
「え。誰が埋けにゆくんで」
又八は、
口入れ親方の運平の手から、町名主や五人組の
そして、約束どおり半月後に、西の丸裏御門の内の
又八が、そう疑って、まじまじと大蔵の
「ま、その方のことは、おめえが気を
と、大蔵は深くいわず、
「まだ、ひき受けたものの、おめえも
「自分も、それを頼りに思っていますが」
「その肚が、ぐっと出来てから、うまく
「へい」
「それと、抜かりはあるめえが、今渡した金だ。仕遂げてしまう後までは、どこか人目にかからぬ所へ隠しておいて、手をつけちゃあならねえぞ。……とかく未然に事の破れるのはいつも金からだからの」
「それも考えておりますから、ご心配には及びません。……ですが旦那、首尾よく仕遂げた後で、
「ふ、ふ。……又さん、口幅ったいようだが、この奈良井屋の
手燭を揚げて、大蔵は
「お疑いしたわけじゃございませんが」
と、言い訳して、なお、半刻ばかりそこに密談していたが、やがて、やや元気になって、元の裏口からそっと帰って行った。
彼が、出て行くとすぐ、
「おい、
大蔵は、灯りのついている障子の内へ、顔を入れて、
「あの足ですぐ、金を
湯殿口から、誰か出てゆく跫音がした。見ると今朝、又八の家から姿を消したばかりの朱実ではないか。
近所の者に出会って、
(品川の親類へゆく)
などといったのは、勿論、彼女のでたらめであった。
質ぐさを抱えて、何度か、
もっとも、彼と彼女とは、近頃初めて会ったわけではない。彼女が、中山道を江戸下りの女郎衆と共に、八王子の宿まで来た時、そこで泊り合せた
(女手がなくて、困っているところだが)
と、大蔵が謎をかけると、朱実は一も二もなくここへ逃げて来てしまった。
大蔵にとれば、その日から、朱実も役に立ち、又八も役に立つのであった。又八の始末はすると前からいっていたが、思い合すと、それが今日のことらしかった。
……何も知らない又八の影は、朱実の先を歩いて行った。いちどわが
朱実が、それを見届けて来て、大蔵に告げると、大蔵はすぐ出て行った。――そして彼が帰って来たのは明け方だったが、掘出して来た金を、土蔵の中で調べてみると、三十枚渡した黄金が、どう数えても二枚不足しているので、損失でもしたように、頻りと小首をかしげていた。
悲心の闇、
「いるのか」
「誰じゃ」
「
「いつも、お心深いことのう、弥次兵衛どのによろしゅういって下されよ」
「どこへ置こうか」
「水口の流し元へ置いといて下され。後で仕舞うほどに」
小机の側に灯を
千部写経の悲願をたてた、例の
この浜町の原の一軒家をかりうけて、昼間は、病人に
「あ。ばば殿」
「なんじゃ」
「夕方、若い男が、訪ねて来なかったかい」
「灸点のお客か」
「うんにゃ、そうでもねえ様子だったぜ、なんだか用ありげに、大工町の部屋へ来て、おばばの引っ越し先を教えてくれといって来たが」
「
「そうさ、二十七、八かな」
「
「どっちかといえば丸っこい――そう背は高くなかったな」
「ふム……」
「来なかったかい、そんな人は」
「来ぬがの……」
「ばば殿のことばと、
使いの男は、帰って行った。
その跫音が去るとまた、やんでいた虫の音が、雨のようにこの家をつつんだ。
ばばは、筆を
ふと、彼女が思いだしたのは、
明けても暮れても
宵ごとに
そうして、憂いたり、喜んだりした。
遠い娘時代の
「もしや、又八じゃないか」
そう思うともう、筆も持っていられない。彼女は
がさっ――と裏口で何やら物音がして、ばばの、うつつを
さっき、男が置いて行った野菜物の上に、何か、手紙のような物が見える。何気なく
まだ会う顔も候わず、もう半年ばかりの不孝、平におゆるしをと、そっと窓よりお別れを告げて、立ち去り申し候
又八
と書いてあった。草を蹴って駈けて来た一人の
「浜田、違ったのか」
と、寄って来るなり
大川端に立って、河原を見まわしていた方の侍は二人で、浜田とよばれたのは、まだ部屋住みらしい若者で、
「むむ……違った」
と、
「たしかに、
「いや船頭だった」
「船頭か」
「追いかけて来たところ、あの船へはいってしもうた」
「でも、何ともしれぬぞ」
「いや調べてみた。まったく別人なのだ」
「はてな?」
と、こんどは三人して、河べりから浜町の原を振り向いて、
「夕方、大工町でちらと見かけて、確かに、この辺までは追いこんだものを。――逃足の早い奴」
「どこへ
川波の音が、耳につく。
三名はなお

――すると。
又八……。又八……。
少し
「又よう……。又八っ……」
初めは、耳のせいと疑っていたのであろう。三名とも黙っていたが、急に、眼を見あわせて、
「や。又八と呼んでおるぞ」
「
「又八といえば、
「そうだ」
浜田という部屋住みの若者がまっ先に駈け出し、後の二人もつづいて駈けた。
声を目あてに、追いついたのは造作もなかった。先は、老婆の足である。それに、彼らの跫音を聞くと、かえって、お杉ばばは、自分の方から駈け寄って、
「その中に、又八は居やらぬか」
と、呼びかけた。
三名は、ばばの両手、
「その又八を、われわれも追い廻しておるのだが、一体、そちは、何者だ」
返辞の前に、
「何しやるッ」
と、ばばは、怒った魚のように、

「おぬしらこそ、何者じゃ」
「われわれか、われわれは小野家の門人。これにおるのは、浜田
「小野とは何じゃ」
「将軍秀忠公の御師範、小野派一刀流の小野治郎右衛門様をしらぬのか」
「しらぬ」
「こいつ」
「待て待て、それよりは、このばばと、又八の縁故を先に聞け」
「わしは、又八の母じゃが、それがどうぞしたか」
「では、おのれは、西瓜売りの又八の母か」
「何をほざく。他国者と
耳もかさず、一人が、
「おい、面倒だ」
「どうする?」
「引っ
「
「おふくろとあれば、取りに来ずにはいられまい」
それを聞くと、ばばは、骨ばった体を
おもしろくないこと
寝ぐせがついて、近頃は寝てばかりいる。月の
「
それを抱いて、仰向けに、畳へじかに転がりながら
「この名刀、この腕の持主が、五百石に足らぬ
そういって、
「盲め!」
と、寝なりに宙を
「あざやかでございますな」
と、縁先から、岩間家の
「居合のお稽古でございますか」
「ばかをいえ」
小次郎は、
「こいつが、
「ア、虫を」
「
「いえ……つい申しおくれました。左様ではございません」
「なんだ」
「大工町の使いの者が、手紙をおいて帰って行きました」
「手紙……どれ」
この頃、そこにも余り関心がない。少しうるさくなったのである。寝そべったまま、彼はそれを
ちょっと、彼の顔色がうごいて来た。――
それが分ったのは例の、どんじき屋の
佐々木どのへ申す
又八の母預り置く者、
小野家内 、浜田寅之助 なり
――弥次兵衛の手紙にはそんなことまで又八の母預り置く者、
「……来たな」
眸を天井へ上げながら、口の
きょうまで、その小野家の内から、沙汰のないのが物足らない所であった。二名のそれらしい侍を、どんじき屋の側の空地へ斬り捨てて来た時、公明正大にあそこの
――来たな。
と、
それから間もなく。
高輪街道から駄賃馬に乗って行く小次郎の姿が見かけられる。駄賃馬は
以前は、
それが神田山の小野家だった。神田山からは、富士がよく見えるし、近年、駿河衆が移住して来て、邸宅の地割がこの辺に当てられたので、この山一体を、近頃は
「……はて。
小次郎は、そこを登りきって、
きょうは富士が見えない。
崖ぷちから深い谷を覗く。樹々の
「先生、ちょっと、探してきますから、ここにお待ちなすって」
と、道案内について来た半瓦の若い者は、ひとりで何処かへ駈けて行った。
しばらくすると戻って来て、
「分りました」
と告げる。
「何処だ」
「やっぱり、今、登って来た坂の途中ですぜ」
「そんな屋敷があったかな」
「将軍家の御指南と聞いていたんで、あっしゃあ、柳生様のような屋敷かとばかり思っていたら、さっき右側に見えた汚い古屋敷の土塀がそうなんでさ。――あそこは以前、何とかいう
「そうだろう。柳生は一万一千五百石。小野家はただの三百石だからの」
「そんなに違うんで」
「腕はちがわないが、家柄がちがう。――柳生などはその点では、先祖が七
「ここです……」
と、足を止めて指さすのを眺め、
「なるほど、ここか」
と、小次郎も立ち止まって、まずその家構えをしばらくながめていた。
馬奉行時代の古い土塀が、坂の途中から裏山の
「帰っていい」道案内の男へいって――
「晩までに、お杉ばばの身を受取って帰らなかったら、小次郎も骨になったと思え――と、弥次兵衛へ伝えておけ」
「へい」
男は、
柳生へは、近づいて行っても無駄である。彼を負かして、彼の名声を、自分の名声へ転じようと計っても、柳生は、お
それに反して、小野家の方は、無禄者でも、強豪の聞え高い者でも、随分、相手にとって試合にも応じると聞いている。どう転んでも三百石だ。柳生の
――しかし、小野家へ行って、小野派一刀流を
世上では、柳生家を、尊敬している。けれど、強いのは、小野だと誰もいう。
小次郎は、江戸へ出て来て、それらの事情を知った時から、この
(
と、
――その門は今、彼の眼の前にあった。
浜田
今――
何気なく、道場わきの支度部屋と呼んでいる部屋の窓から、外を眺めていた同門の沼田
「来たぞ、来たぞ」
小声で――ひどく早口に告げながら、道場の真ん中にいた彼のそばへ、飛んで来て、
「浜田。参ったらしいぞ。――参ったらしいぞ」
と、もう一度、告げた。
浜田は答えない。
ちょうど木剣をかまえて、ひとりの後輩へ稽古をつけていた折であるから――それを背中で聞いたまま、
「いいか!」
と、正面へ向って、こう攻撃の予告を与え、木剣を真っ直に伸ばして、だ、だ、だっ――と
そして道場の北の隅まで、その勢いのまま行ったと思うと、どたっと、後輩はもんどり打って、木剣は
寅之助は、初めて振向いて、
「沼田。来たとは、佐々木小次郎がか?」
「そうだ。今、門をはいって来た……。すぐ見えるぞここへ」
「思いのほか、早くやって来たな。やはり、
「だが、どうする」
「何が」
「誰が出て、どう挨拶してやるかだ。充分、備えておらぬと、一人でここへやって来るほど剛胆な奴――不意に何をやり出すかもしれぬ」
「道場の真ん中へ通して坐らせるがいい。挨拶はおれがする。各

「ウム。これだけいれば……」
と、荷十郎は居合わす人々を見まわした。
その同輩たちは皆、先頃からの
寅之助の兄というのは、ろくでもない人間らしく、ここの道場でも評判のよくない男だったが、それにしても、佐々木小次郎に対する怒りは、小野派の者として、
(捨て
程度に
殊に浜田寅之助は、小野
そこへ、
寅之助や荷十郎などが、何処からか、ひとりの老婆を
(それは、よい
と、いい合った。そして、だが来るか、来まいか、などとつい今朝も、
大部分の者が、来まい、と予想していた佐々木小次郎が今、荷十郎の言によれば、
――門をはいって来た。
と、あるので、
「何。来たと?」
居合せた人々の顔は、白木の板みたいに
浜田寅之助以下、広い道場の床を、しいんと開けて、
今に、道場の玄関へ、声がかかるか、今に小次郎の訪れがあるかと、待ち構えていたのである。
「……おい、荷十郎」
「うむ?」
「門をはいって来るところを確かに見たのか」
「見た」
「じゃあもう、これへ見えそうなものじゃないか」
「来んなあ」
「……遅すぎる」
「はて」
「人違いじゃなかったのか」
「そんなことはない」
「御一同」
と、外から、同輩の顔が一つ、背伸びして、中を覗きこんだ。
「おう、何だ」
「待っていても、佐々木小次郎は、こっちへは見えぬぞ」
「おかしいな。でも、荷十郎がたった今、門内へ通って来たのを見たといっておるに」
「ところが、彼は、お
「えっ。大先生と」
これには先ず浜田寅之助が、どぎもを抜かれた顔つきであった。
兄が斬り捨てにされたことも、原因を洗うと、ろくでもない兄の不行跡が必然に出て来るにきまっている。――で、師の小野治郎右衛門などには、
「おい、ほんとか」
「誰が、嘘をいう。――嘘だと思ったら、裏山の方へ廻って、庭ごしに、大先生のお書斎の次の客間をのぞいてみたまえ」
「弱ったなあ」
しかし
「何を、弱ることがある。おれたちが行って、様子を見て来てやる」
道場の入口から、
住居の方から、何事か起ったように、顔いろを変えてこっちへ駈けて来る娘がある。――アアお
「皆さん、来てください。伯父様がお客様と、
お光は治郎右衛門
それはとにかく、色白で愛くるしい娘だった。
おどろくと、そのお光が、
「伯父様が、お客様と、なにか大きな声をし合っていたかと思うと、庭で斬り合っているんです。――伯父様のことですから、万一のことはないでしょうが」
告げるのを、皆まで聞かず、亀井、浜田、根来、伊藤などの
「やっ?」
と、いったのみで、何を問うまもなく、駈けて行った。
道場と住居とは離れていて、住居の庭へ行くには垣と
「ヤ、閉まっている」
「何、開かない?」
ひしめいた門人達の力は、門の竹編戸を押し破ってしまった。そして、裏山を
――はっと、その有様に誰も一瞬、眼が
「…………」
立ち合っている双者の間には、断じて、横あいから、手出しを許さないほど、森厳なものがある。無知
「ああ」
と、真剣の荘厳に打たれ、そのせつなには愛憎も忘れて、ただ、見まもる気になるのだった。
けれど、それは一瞬の、忘失的作用にすぎない。すぐ感情は全身をくわっと
「うぬ」
「お助太刀」
とばかり二、三の者が小次郎の後ろへ駈け迫ろうとした。
すると忠明が、
「寄るなっ!」
と、叱咤した。
声も常とはちがう。霜のような気を帯びていた。
「……あ」
と、乗り出した身を
――けれども、少しでも、忠明の方に、敗色が
小づくりであるが、腰の
小次郎は、それに
だが、忠明は、彼を剣の先に立たせて見たせつなに、
(これは――)
と、
(善鬼の再来か!)
とさえ思った。
善鬼――そうだ善鬼以来、こんな当るべからざる覇気を持った剣には久しく
その善鬼というのは、彼がまだ青年の頃、名も
善鬼は、
師が老いてゆくと、善鬼はその師を
(われ生涯の誤りは、善鬼にあり)
と嘆いた程だった。また、
(善鬼を見ると、おのれの内にある悪いものを、みな持って、躍っている化け物にみえる。――だから善鬼を見ると、自分という人間までが
と、述懐したこともある。
しかし、典膳にとっては、その善鬼があったため、よい
――今。
佐々木小次郎を見て、彼はその善鬼を思いだしたのである。善鬼には、強さはあっても、教養はなかったが、小次郎には、それへ加うるに、当世的な鋭智があり、侍の教養も身についていて、それは彼の剣に、
それを、じっと見て、
(自分の敵するところではない)
と忠明はすぐ
柳生に対してだって、彼は決して
(おれも、そろそろ時代に取り残されて来たかな?)
と、剣の老いを覚えたのである。
誰かのいった言葉に、
先人ヲ追イ越スハ易 ク
後人ニ超サレザルハ難 シ
と、あるが、その語を、今ほど痛切に覚えたことはない。柳生とならび称されて、一刀流の全盛を見、老来やや人生に安んじているまに、社会の後からはもう、こんな後人ニ超サレザルハ
双方とも、固着したまま、姿勢の上にはいつまでも、なんの変化も見えなかった。
だが、小次郎も忠明も、肉体の内には、怖ろしい生命力を消耗していた。
その生理的変化は、
「――
忠明が叫んだのである。――叫びながら、
けれど、その言葉が、待てっ、といったように響いたのかも知れなかった。小次郎の体は、とたんに、動物的な跳躍を
――しかし、忠明が、肩を落しながら
「理不尽!」
忠明が今、
(
と、いったことばで、双方の立合が、喧嘩ではなく、試合であったことは明白である。
だのに、小次郎は、むしろその隙を得たりとなして、
彼が、そういう不徳を敢てして出た以上、もう、手を
「うっ――」
「うごくな」
小次郎へ向って、すべてが、どっと駈け
「勝負。見たか」
――俺が勝ったぞという名乗りをあげたつもりであろう。忠明は彼方で、
「見えた」
と、答えた。そして門人達へ向い、
「ひかえろ」
と、叱った。
刀を
「お光」
と、
「もとどりを
と、ぱらぱらになった髪の毛を撫で上げていた。
お光に髪を上げさせているうちに、初めてほんとの
「ざっとでよい」
そして、お光を、肩越しに見て、
「あちらにいるお若い客へ、おすすぎを上げて、元の座敷へ、お上げ申しておけ」
「はい」
忠明はしかし――その客間へは通らなかった。草履を
「道場の方へ集まれ」
と、命じて、自身が先に彼方へ歩いて行った。
どうした
門人らには、分らないのである。第一、かりそめにも、師の治郎右衛門忠明が、小次郎に対して
(あの一声は、きょうまでの無敵小野派一刀流の誇りを、一敗地にお
と、青白な
道場へあつまれ――と呼ばれてそこに坐った者は、約二十名ばかり、三列になって、板の間に、ぎしっと固くなって、坐っていた。
治郎右衛門は、上座の――一段高い席に、
「さてさて、わしも
これが、やがて忠明の
「過去、自分の来た道を
「…………」
門人達は、師が、何をいおうとしているのか、まだその意が
で、
「思うに」
忠明は、そこから
「――これは誰にもある人間の通有性だ。安息に
「…………」
「たとえば、伊藤弥五郎先生。今はもう、生きて
堪らなくなったように、
「せ、先生っ」
「敗れたと仰っしゃいますが、あのような
「事情? ……」
一笑の
「かりそめにも、真剣と真剣との立合、その
「と、とは申せ」
「まあ待て」
静かに、
「手早く話そう。あちらには、佐々木殿もお待たせしてある。――そこで各

――自分はきょう限り、道場から身を
「これが一つの
と、治郎右衛門忠明は、弟子一同へ告げるのだった。
――弟子の中の伊藤孫兵衛は
「これが二つの頼みである」
といった。
次に、この機会に、いい渡しておくこととして、
「わしは、若輩の佐々木殿に負けたということを、そう恨みには思わぬ。しかし、彼の如き新進が他から出ているのに、まだ小野の道場から一名の
「あいや、先生。お言葉中にはござりますが、決して、われわれとても、そのような
と、
「だまれ」
と、忠明は、彼の顔を睨まえて師の座から一言に
「弟子の怠りは、師の怠りである。わしはわし自身を
沈痛な彼の誠意は、ようやく弟子たちの
弟子の座に居ならぶ者は、みな
「浜田」
忠明が、やがていった。
浜田寅之助は、ふいに、名を指されて、
「はっ」
と、師の顔を見た。
忠明の眼は、彼をきっと
寅之助は、その眼に、さし
「立て!」
「はい」
「立て」
「は……」
「寅之助、立たんかっ」
と、忠明は、声を励ました。
三列に坐っている弟子たちの中から、寅之助だけ直立した。彼の友達や後輩たちは、忠明の心を
「寅之助、おぬしを、今日限り、破門する。――将来、心を改め、修行を励み、兵法の
「せ、先生っ。
「兵法の道を
「仰っしゃって下さい! 仰っしゃって下さい! 仰せなくば、寅之助、この席を去るわけには参りません」
「――然らば、いおう」
と、忠明は、やむなく、寅之助に破門をいい渡した理由を、その寅之助を立たせておいたまま、一同へも、釈明した。
「
「いや、それも、小次郎をこれへ
寅之助が、躍起となって、抗弁しかけると、
「さ。それが卑怯と申すものじゃ。小次郎を討たんとするなら、なぜ自身、小次郎の
「……そ、それも、考えぬではござりませんでしたが」
「考える? 何をその
「…………」
「――単身わしの前へ来て、卑劣な弟子など、相手に取るに足らぬ。弟子の非行は師の非行、立ち合えとばかり、
弟子の座の人々は皆、さては、最前のいきさつは、そうした動機から起ったことかと――
忠明は言葉をつづけ、
「しかも、ああして、真剣と真剣とで、立ち向ってみた結果は、この治郎右衛門自身の中にも明らかに、恥ずべき非が見出された。わしはその非に対して慎んで
「…………」
「寅之助、これでもそちは、自身を
「……恐れ入りました」
「去れ――」
「去ります」
寅之助は、
「先生にも、御健勝に」
「うむ……」
「御一同にも」
と、さすがに、声が暗くなって、後はかすかに、別れの挨拶をした。そして、
「――わしも、世間を去る」
と、忠明も立った。弟子の座の中に
愁然と、うなだれ合っている弟子達の頭を、ながめて、
「励めよ、皆」
忠明は、最後の――師の言として――師愛をこめていった。
「なにを憂い悲しむのか。おまえ達は、おまえ達の時代を、この道場へ、
やがて――道場の方から
「失礼いたした」
と、最前から控えている小次郎へ向って、こう中座を
その顔いろには、なんの動揺も読まれなかった。平常と変った点はなかった。
「さて――」
と、忠明は口を切って、
「門人の浜田寅之助は、ただ今あちらで、破門をいい渡し、
いうと、小次郎は、
「満足でござる。拙者がすぐ連れて戻ります」
今にもと、立ちかけた。
「そうきまれば――何もかも水に流して、一
と、手をたたいて、
「酒の支度を」
と、
さっきの真剣の立合で、小次郎はありったけの精神を消耗してしまったような気がしていた。その後、独りでぽつねんとここに待たされていた時間も長かったので、すぐ帰りたかったが、臆しているように思われてもと、腰をすえて、
「では、おもてなしに甘えようか」
と、杯を取った。
そして小次郎は飽くまで、忠明を眼下に見た。心で眼下に見ながら、口では、――自分も今日まで随分、達人にも出会ったが、まだ貴公のごとき剣に対したことはない。さすがに、一刀流の小野と音に響いただけのものはある――などと褒めて、おのれの優越感を、その上へもっと高めた。
若い、強い、覇気満々だ。酒を飲んでみても、
けれど、
(この素質を、よく磨けば、天下の
そう惜しんで、忠明は、
(弟子ならば)
と、その忠言を
そして小次郎の言葉には、なんでも、謙虚に笑って答えた。
雑談のうちに、武蔵のうわさなども出た。
――近頃、忠明が聞いたこととして、北条安房守や僧沢庵の推薦で、また新たに、宮本武蔵という無名の一剣士が、抜擢されて師範の席に加わるかも知れない――という話なども、彼が洩らした。
「……ほ?」
小次郎は、そういったきりだったが、心の安からぬ顔いろをした。
「帰る」
と、いい出したので、忠明は、姪のお光にいいつけ、
「お
と、いった。
(将軍家にも、
(うまく勤め上げれば、いくらでも出世の先があったものを)
と、彼の
(小野治郎右衛門忠明は、発狂したのだそうだ)
と、いい伝えた。
恐かった。ゆうべの風は。
――あんな
二百十日、二百二十日。
そういうものの
「アアもう
崖の肌やら、
だが、被害は、
それを
(火を
と、いって出たまま、まだ戻って来なかった。
「――
伊織は、火を焚き始めていた。その
「今夜、寝る家だった」
と、考えると、煙が眼に沁みてくる。火は出来た。
武蔵は戻らない。
ふと見ると、そこらに、まだ割れていない
朝飯に、伊織は、そんな物を火に
「あ。そんな指図をしに行ったのか」
と、伊織は、やっと、武蔵が夜明けに出て行った用事が分った。
伊織は、武蔵のためにも、死んだ小鳥の毛をむしって
「食い物は、わしらがとこに、幾らでもあるで」
と、甘い物、辛い物、何くれとなく運んで来る。
伊織の好きな餅もあった。
死んだ鳥の肉は
「家も、こんどは、
と、年
その老百姓の家は、この近村ではいちばん
「……おや?」
寝てからのことである。
伊織は、隣に眠っている、武蔵の方へ、寝返りを打って、小声でいった。
「先生」
「……ウむ?」
「遠くの方で、
「聞えるようでもあり、聞えないようでもあるが」
「変だな。こんな
「…………」
寝息はするが、武蔵の返辞はしないので、伊織もいつか、眠ってしまった。
朝になって、
「先生。
「ここからでは、幾らもあるまいな」
「連れて行っておくんなさい。――お
なにを思い出したのか、今朝、急に伊織がいい出したのである。
わけを訊いてみると、彼は、ゆうべの神楽の音が気になって、起きるとすぐ、
音楽と舞踊との、壮大なものといえば、伊織は、神楽よりしか知らないのである。しかも三峰神社のそれは、日本三大神楽の一つといわれるほど、古典なものであると聞かされたので、彼は、矢も
「よう、よう、先生」
と、伊織は甘えて、
「どうせ、まだ草庵は、五日や六日じゃ出来ないし……」
と、
伊織にこう甘えられると、武蔵はふと、別れている城太郎を思い出した。
城太郎を
だが、伊織には、滅多にそんなことがない。――時にはふと武蔵の方で、そのよそよそしさが淋しくなるほど、伊織にはその子供ッぽさがない。
城太郎とは、
その伊織が、めずらしく、甘えてねだると、武蔵は、
「……ウム」
生返辞して、考えてはいたが、
「よし、連れて行ってつかわそう」
伊織は
「天気もいいし」
と、もうおとといの晩の空への怨みも忘れ果てて、俄かに、この
「さあ、参りましょう」
と、武蔵を
老百姓は、お帰りの頃までに、草庵を建て直しておきます――といって送り出すし、
三峰の例祭は、三日間とある。こう決まって出て来ればもう、伊織とてそう急ぎもしない。間に合わぬ心配はないからである。
そこの通れるようになるのを待っている間に、伊織は、
「あらあら、
出水に洗われた川砂を掘りちらして、伊織は、
「あ……? 人間の骨」
と、手をすくめた。
武蔵は、それを見て、
「伊織。その白骨を、ここへ持って来い」
いちど、知らずに手には触れたが、伊織は、もう手を出す気になれない顔して、
「先生、どうするんです」
「人の踏まない所へ
「だって、一つや二つじゃありませんよ」
「橋の
と、河原の背を見まわし、
「あの
「
「その折れ刀で掘れ」
「はい」
伊織はまず穴を掘った。
そして、拾い集めた
「これでようございますか」
「ム。石をのせておけ。それでよい。――よい供養になった」
「先生、この辺に合戦のあったのは、
「忘れたか。おまえは
「忘れました」
「太平記の中にある、元弘三年と正平七年の両度の合戦――新田義貞、義宗、義興などの一族と、
「あ、小手指ヶ原の合戦のあった所か、そんなら何度も、先生の話を聞いているから知っています」
「では」
と、日頃の伊織の勉学力を試すように、武蔵は、
「その折、
「います」
伊織はすぐいって、空の碧さに、一羽の鳥影が、
「――思いきや、手も触れざりしあずさ弓、起き
武蔵は、ニコとして、
「そうだ、では。――同じ頃、武蔵の国に打ち越えて、小手指ヶ原という所に――という
「……?」
「忘れたな」
伊織は負けん気に、
「待って、待って」
と、首を振った。
そして思い出すと、こんどはひとり
君のため
世のため
なにか惜しからむ
すててかひある
いのちなりせば
「……でしょう。先生」世のため
なにか惜しからむ
すててかひある
いのちなりせば
「意味は」
「わかってます」
「どう? わかってるか」
「いわなくたって、このお歌がわからなかったら、
「ウム。……だが伊織。それならお前はなぜ、白骨を持ったその手を、さも汚いように、先刻から
「だって白骨は、先生だっていい気持じゃないでしょ」
「この古戦場の白骨は皆、
「ア、そうですね」
「たまたまの戦乱があっても、それはおとといの
武蔵の一語一語に、伊織は、何度もこっくりした。
「わかりました。じゃあ、今
武蔵は、笑って、
「何も、お辞儀はせんでもよい。心のうちに、今申したことさえ
「……だけど」
伊織はやはり気が済まなくなったらしい。秋草の花を折り集めて石の前に
「先生」
と呼び、何か、ためらい顔にいい出した。
「――この土の中の白骨が、ほんとに、先生が今いったような、忠臣ならいいけれど、もし足利
この返辞には、武蔵も窮した。伊織は、武蔵の明答がない限りは、滅多に掌をあわせない様子を示して、彼の顔をながめながら、その答えを待っていた。
――ふと、きりぎりすの声が耳につく。仰ぐと昼間の薄い月が目にとまった。しかし、伊織に与える返辞はなかなか見つからない。
やがて、武蔵はいった。
「十悪五逆の徒にも、仏の道では救いがある。即心即
「じゃあ、忠臣も逆賊も、死ねば同じものになるんですか」
「ちがう」
と、厳しく、そこに句点を打って、
「そう早合点してはならぬ。
「そんならなぜ仏様は、悪人も忠臣も、同じみたいなことをいうんですか」
「人間の本性そのものは皆、もともと、同じ物なのだ。けれど、名利や慾望に眼がくらんで、逆徒となり、乱賊となるもある。――それも憎まず、仏が即心即仏をすすめ、
「ああそうか」
分ったような顔して、伊織は、急に声に
「――だけど、
「どうして」
「名が残るもの」
「うむ!」
「悪い名を残せば悪い名が、――いい名を残せばいい名が」
「むむ」
「白骨になってもね」
「……けれど」
と武蔵は、彼の純真な知識慾が、一途に呑みこんでしまうことを
「だが、その
伊織はもう黙っている。
黙って――土中の白骨に花を供え、素直に
その人々はやがて、山頂の
ここは坂東四箇国に
「ア。
ゆうべから、武蔵と共に、別当の
「先生、もう始まりましたよ」
と、捨てるように箸を置く。
「
「見に行きましょう」
「ゆうべ見たから、わしはもういい。一人で行って来い」
「だって、ゆうべは、二座しかやらなかったでしょ」
「まあ、急がんでもいい。今夜は
なるほど、武蔵の木皿には、まだ
「今夜も、星が出てますよ」
「そうか」
「このお山の上に、何千人という人がきのうから登ってるから、雨が降っちゃあ可哀そうだ」
武蔵は、
「じゃ、行って見るかな」
「ええ、行きましょう」
飛び上がって、伊織は先に玄関へ駈け出し、そこの
別当所の前も、山門の両わきにも、
湖水のように深い色をした夜空には、銀河がキラキラ煙っていた。その
「……あら?」
伊織は、その人混みに
「先生はどこへ行っちまったんだろう。たった今、いたのに」
笛や太鼓が、山風に
「先生――」
伊織は、人のあいだを
武蔵は、そこから少し先の
「先生」
と、袖を引いても、黙ったまま、仰向いて、見つめていた。
無数の寄進者からかけ離れて、
武州芝浦村
奈良井屋大蔵
「……?」奈良井屋大蔵
奈良井の大蔵といえば、かつて数年前、木曾から
その大蔵が、
「武州の芝浦といえば?」
所もつい先頃まで、自分もいた江戸ではないか。ゆくりなくも今、大蔵の名を見出して、武蔵は茫然――別れた者たちを、思い出しているのだった。
常でも、忘れているわけではないが。
伊織が、日に日に、成長してゆくにつけても、何かにつけ、思い出されていたのだが――
「もう、夢のように、三年余りになる」
武蔵は、城太郎の年を、心のなかで数えてみた。
神楽殿の
「ア。もう
と、伊織は、心をもうそこへ飛ばして、
「先生、何を見てるんです」
「べつに、さしたることではないが――伊織、おまえは一人で神楽を見ておれ、ちと、用事を思い出したゆえ、わしは後から行く」
そういって、彼を追い
「寄進者のことについて、ちとお伺いいたしたいが」
と、いうと、
「ここでは、扱いませぬが、別当総役所へ、ご案内いたしましょう」
と、少し耳の遠い
総別当
老禰宜が、玄関で長々と何か告げている。
程なく非常に鄭重に、
「どうぞ」
と、役僧が、奥へ案内した。
茶が出る。見事な菓子が運ばれてくる。やがて、二の膳であった。また、美しい
しばらくすると、
「ようこそご登山下されました。山菜のみで、なにもお構いできませぬが、どうぞお
と、いんぎんにいう。
はてな?
武蔵は少し、勝手のちがう気持だった。
で、杯も手に取らず、
「実は、寄進者のことについて、ちとお調べ願わしく、参った者でござるが」
と、いい直すと、五十
「え?」
と、眼を
「調べとは」
と、さも
武蔵が、寄進札の中にある武州芝浦村の奈良井の大蔵というのは
「では、なんじゃな。
「お聞き違えでござりましょう。拙者が寄進したいと申すのではなく、奈良井の大蔵という
いいかけると、
「それならそれと、玄関ではっきりいわっしゃればよいに。――見れば、御牢人らしいが、素姓もよう知れぬ者に、寄進者のお身元など、滅多にいうて、ご迷惑がかかっては困る」
「決して、左様なことは」
「まあ、役僧がどういうか、聞いてみなされ」
何か損でもしたように、僧正どのは、袖を払って、立ってしまった。
寄進者の台帳なるものを役僧が引っ張り出して、おざなりに調べてはくれたが、
「べつに、こちらにも、詳しいことは何も書いてない。お山には、度々
と、
それでも武蔵は、
「お手数をかけました」
と礼をのべて外へ出た。そして
彼は、武蔵がその樹の下へ来たことも知らない。全く放心して、神楽殿の
黒い
「…………」
武蔵もいつか、伊織と共に、舞台へ眼を向けていた。
彼にも、伊織とおなじ日があった。
ゆるい
神がきの、みむろの山の
さか木葉は
神のみまえに、しげりあいにけり
しげりあいにけり
さか木葉は
神のみまえに、しげりあいにけり
しげりあいにけり
すめ神の、みやまの杖と、
やま人の、ちとせを祈り
きれるみ杖ぞ
きれるみつえぞ
また――やま人の、ちとせを祈り
きれるみ杖ぞ
きれるみつえぞ
この鉾 は、いずこの鉾ぞ
天 にます
豊 おか姫の、宮の鉾なり
みやのほこなり
神楽歌の幾つかは、武蔵も幼い頃には覚えていたものである。自分がみやのほこなり
よもやまの
人のまもりにする太刀を
神の御前 に祝いつるかな
いわいつるかな
その人のまもりにする太刀を
神の
いわいつるかな
「あっ、あれだ! ……二刀は」
と、突然、辺りをわすれて大きく
樹の
「おや、先生、いたんですか」
伊織は、武蔵の呻いた声に、びっくりして
「…………」
武蔵は、彼を、見上げもしなかった。神楽殿の
「……ウウム、二刀、二刀、あれも二刀も同じ理だ、
それは、二刀の工夫であった。
生れながら、人間には、二つの手がある。けれど剣をとる場合には、人間はそれを一つにしか使っていない。
敵がそうだし、衆が皆、それを習性としているからいいが、もし、二つの手を、完全に二つの剣として働かして来た場合は一つの者はどうなるか。
実例はすでに武蔵の体験の中にある。それは一乗寺下り松の闘いに、吉岡方の大勢に対して、身一つで当って行った時である。あの時、戦いが終ってから気づいてみると、自分は両手に剣を持っていた。――右に大剣と、左の手に小刀を。
それは、本能がしたのである。無自覚のうちに二本の手が、各

大軍と大軍との合戦でも、両翼の兵を完全に駆使しないで、敵に当るという兵法はあり得ない。まして一箇の体にはなおのことである。
日常生活の習性は、しらずしらず不自然を自然に思わせて、不思議ともしなくなるものである。
(二刀がほんとだ。むしろ、二刀が自然なのだ)
武蔵は、あの時以来、そう信じていた。
けれど、日常生活は日常の所作であり、生死の境は、生涯にそう何度もあるものではない。――しかも剣の極意は、その生死の要意を日常化するにある。
無意識でなく、意識あっての働き――
しかも、その意識が、無意識のように自由な働き――
二刀は、そうしたものでなければならぬ。武蔵は常にその工夫を胸に
それを、彼は今、はっと受け取ったのである。神楽殿の上で、太鼓をたたいている
太鼓を打つ二つの撥は、二つであるが発する音は一つである。そして左と右――右と左――意識があって、意識がない。いわゆる
五座の
「伊織、まだ見ておるか」
武蔵が、梢を仰いでいうと、
「ええ、まだ」
と、伊織は、返辞もうわの空だった。神楽舞に魂を飛ばして、自分も舞い
「
いい置いて、武蔵は、別当の
――すると彼の後ろから、大きな黒犬に手綱をつけて、のそのそ
「おい。おい」
と小声に、闇へ手招きした。
犬は、
山犬のお
また、ほんもののお犬もこの山には沢山いた。
人に飼われ、
それらの
それはとにかく。
――武蔵の姿を別当の観音院の前まで
彼が常に
「しッ」
と、飼主は、手綱をちぢめて、尾を振る尻を一つ打った。
その飼主の顔も、
だが、寺に勤めている身なので、服装はきちんとしていた。胴服ともみえ、
「梅軒さま」
そっと、闇の中から寄って来た女はいった。
犬は、その
「こいつ」
梅軒は、
「お甲。……よく見つけたな」
「やはり、あいつでしょう」
「うむ。武蔵だ」
「…………」
「…………」
二人は、それきり口を
「どうします」
「どうかせねば」
「折角、山へ上って来たのに」
「そうだ、無事に帰しては、勿体ない」
お甲はしきりに眼をもって梅軒の決心をけしかける。梅軒はだが容易に肚がきまらないらしい。
しばらくして、
「藤次はいるか」
「え。祭の酒に酔って、宵から店で寝ておりますが」
「じゃあ、起しておけ」
「あなたは」
「何せい、おれは
「じゃあ、宅の方へ」
「む。おぬしの店へ」
赤い
山門を出ると、お甲の足は、小走りになった。
門前町は二、三十戸ある。
多くは、土産物屋と、休み茶屋であった。
たまたま、煮物や酒のにおいの中に人声の賑やかな小屋もある。
彼女のはいった家も、そうしたふうの一軒で、土間には腰掛が並べてあり、軒先には「
「うちの人は」
帰るとすぐ、彼女は、
「寝てるのかい」
叱られたと思って、小女はあわてて、何度もかぶりを振った。
「おまえじゃないよ。うちの人のことを訊くのだよ」
「あ。お旦那なら、眠ってござらっしゃります」
「それ、ごらんな」
舌打ちして、
「祭だっていうのに、こんな薄ぼんやりしているのは、うちだけだよ、ほんとに」
お甲は、そういいながら、暗い土間を見まわした。
表口で、雇い男と
「もし、おまえさん」
お甲は、一つの床几の上に、長々と寝こんでいる姿を見かけて、側へ寄った。
「ちょっと、眼を醒ましておくれよ。――もしおまえさんたら」
軽く肩を持って、揺すぶると、
「なに」
むくりと、寝ていた男は、起き上がった。
お甲は、
「おや……?」
と、退いて、男の顔を見まもった。
それは、彼女の亭主の藤次ではなかった。丸っこい顔に、大きな眼をもった
「ホ、ホ、ホ」
彼女は、自分のそそッかしさを笑いに
「お客様でしたか。どうも、相すみませんでした」
在郷の若者は、床几の下にすべり落ちている
木枕の前に、何か食べかけた盆と、茶碗がおいてある。菰の裾からにゅッと出ている二本の足には、土だらけな
「お客かえ、あの若い衆は」
小女に訊くと、
「はい。一眠りしたら、奥の院へ登りに行くだから、眠らせてくれといいなさるで、木枕を貸してあげましただ」
と、いう。
「そうならそうとなぜいわないのさ。うちの人と間違えてしまったじゃないか。一体、うちの人はどこに――」
といいかけると、かたわらの破れ障子の内から、片脚を土間におろして、体は
「べら棒な。ここにいる俺がわからねえのか。――てめえこそ、店を
と、寝起きの悪い声をして、起き上がった。
勿論この男は、かつての
藤次が怠け者なので、自然、女がそうならなければ、生活してゆかれないせいでもあろう。和田峠に
その山小屋の巣も焼き払われてしまったので、手足にしていた手下も散ってしまい、今では、藤次は冬場だけ
寝起きのせいもあろうが、藤次の眼は、まだ赤く濁っていた。
その眼が土間の
お甲は、
「いくら祭だって、お酒も程々にしたがいい。――
「何」
「油断をおしでないということさ」
「何かあったのか」
「武蔵が、この祭に来ているのを、おまえ、知っておいでかえ」
「え。武蔵が」
「ああ」
「武蔵とは、あの宮本武蔵か」
「そうさ。きのうから、別当の観音院へ来て泊っているんだよ」
「ほ、ほんとか?」
水瓶いっぱいの水を酔醒めに浴びたよりも、武蔵の二字は、藤次の顔をいちどに
「そいつあ大変だ。お甲、てめえも店へ出ていないがいいぞ。野郎が、山を下りるまでは」
「じゃあおまえは、武蔵と聞いて、隠れている気かえ」
「また、和田峠の二の舞を、やるまでもねえだろう」
「卑怯だね」
お甲は、せせら笑って、
「和田峠でもそうだが、武蔵とおまえは、京都で、吉岡とのいきさつ以来、恨みのかさなっている相手じゃないか。女のわたしでさえ、あいつのために、後ろ手に
「だが……あの時は、手下も大勢いたが」
藤次は、自分を知っていた。彼は、一乗寺下り松の人数のうちには加わらなかったが、その後、武蔵の手なみは、吉岡の残党の者からも聞いてもいたし――和田峠では、直接、体験もしていたし――到底、彼に対して、勝目は考えられなかった。
「だからさ」
お甲は、
「――おまえ一人では無理だろうが、この山には、武蔵にふかい遺恨のある人が、もう一人いるだろうじゃないか」
「……?」
そういわれて、藤次も思い出したのである。彼女のいうその人というのは、山の総務所、高雲寺
ここに、茶店を持たせてもらったのも、その梅軒の世話からであった。
和田峠を追われて、旅へ出た末、ここの
後になってだんだん話しあってみると、その梅軒は、以前、伊勢鈴鹿山の
ここよりもっと奥の武甲の深山には、まだまだ、野武士以上、
宝蔵には、社寺の宝物ばかりでなく、寄附者の浄財が、現金である。
この山中、それは常に、山の者の襲撃に、
その宝蔵の番犬として、宍戸梅軒は、実に打ってつけな人物に違いなかった。
野武士、山の者などの、習性とか、襲撃法とか、そういうことにも通じているし、もっと重大な資格としては、彼は、
前身が前身でなかったら、しかるべき主君もとれる人間だった。けれど、彼の血統は余りにどす黒い。彼の血をわけた兄も、辻風典馬といって、伊吹山から野洲川地方へわたって、生涯、血なまぐさい中に
その辻風典馬の死は、もう十年も以前になるが、武蔵がまだ「たけぞう」といっていた頃――ちょうど関ヶ原の乱後――伊吹山の裾野で、武蔵の木剣のために血へどを吐いて終ったものであった。
宍戸梅軒は、自分たちの没落の原因が、時代の推移と考えるよりも、その兄の死が、ケチのつき初めと考えていた。
で、
その後。
梅軒と武蔵とは、伊勢路の旅の途中、
だが、武蔵は、死地をのがれて、姿を
――お甲は、彼から幾度となくその話を聞いていた。同時に、自分たちの身の上も彼に洩らした。そうして梅軒との親密を濃くするために、武蔵への怨みを、よけいに強く語った。そんな時、
(今に。――永い生涯のうちには、きっと)
と梅軒は、あの眼を、
そうした人間のいるこの山。――武蔵にとっては、恐らく、これ以上、危ない地上はない
お甲は、店の中から、その姿をチラと見て、おやと見送ったが、祭の雑沓に見失ってしまった。
で、藤次に計ろうとしたが、藤次は飲んで歩いてばかりいる。けれど、気懸りでならないので、宵の手すきに、別当の玄関を
いよいよ、武蔵にちがいない。
彼女は、総務所へ行って、梅軒を呼び出した。――梅軒は、犬を引っ張って出て来た。そして、武蔵が、観音院へ帰って行くまで、
「……ムム。そうか」
藤次は、それを聞いて、ようやく力を得た心地がした。梅軒がぶつかる気なら――と、やや勝目が考えられて来た。三峰の奉納試合に、梅軒が八重垣流の
「……そうか。じゃあ、梅軒さまの耳へもそのことは入れてあるのだな」
「後で、御用がすんだら、ここへ来るといっていましたが」
「
「元よりでしょうね」
「だが、相手が武蔵だ。こんどこそ、よほど巧くやらねえと……」
胴ぶるいと共に、思わず大きな声が出たのである。お甲は、気がついて、薄ぐらい土間の片隅を振り
「
お甲に、いわれて、
「ア。誰かいたのか……?」
藤次は、自分の口を抑えた。
「……誰だ?」
「お客だとさ」
お甲は、気にかけなかった。
だが、藤次は、顔をしかめて、
「起して、出しちまえ。――それにもう、宍戸様が来る頃だろう」
と、いった。
それに越したことはない。お甲は小女にいいふくめた。
小女は、隅の床几へ行って、若者の
「わあ、よく眠った!」
伸びをして、若者は土間に立った。旅ごしらえや、
「どうも、お邪魔さん」
と、お辞儀して、外へ飛び出して行った。
「お茶代は置いて行ったのかい。変なやつだね」
お甲は、小女を振向いて、
「床几を、畳んでおしまい」
と、いいつけた。
そして彼女も、藤次も、
そこへ、のっそりと、
「お、お越しで」
「どうぞ、奥へ」
梅軒は黙って、草履を脱ぐ。
黒犬は、そこらに落ちている喰い物を、
荒壁の破れ
「……先ほど、神楽堂の前で、武蔵が連れの子供に洩らした言葉に依れば、明日は、奥の院へ登るつもりらしい。それから先に、
と、いった。
「じゃあ、武蔵はあしたの朝、奥の院へ……」
とお甲も藤次も息をのんで、
尋常一様なことで、武蔵を打てないことは、藤次以上、梅軒は
宝蔵番のうちには、彼のほかに屈強な番僧が二人いる。同じく、吉岡の残党で、この神領に小さな道場を建て、部落の若い者に稽古などをつけている男もある。なお
藤次は、手馴れの鉄砲を持つがよいし、自分は、いつもの
藤次は、驚いて、
「へえ、もうそんな手廻しがついているので?」
と、疑わしい眼をした。
梅軒は、苦笑した。
梅軒をただの寺僧と見馴れているから意外とするのであろうが、前身の辻風典馬の弟黄平としてみれば、これくらいな早仕事は、眠りをさました
まだ、霧が深い――。
小さい残月も、谷から高く離れている。
大岳は眠っていた。
そこの谷川橋に、黒々と、霧につつまれた人影がかたまっていた。
「藤次」
と、
梅軒の声である。
同じ低声で、群れの中から、藤次が答える。
「
と、いう注意を梅軒がする。
あとは地侍や、ならず者の徒であろう。服装は雑多だが、
「これだけか」
「そうです」
「何名?」
お互いに、頭数を読み合う。誰が数えても、自分を加えて、十三名と読む。
「よしっ……」
梅軒はいって、行動する手筈をもういちどそこで
是ヨリ三十一町
奥之院道
谷川橋の奥之院道
人が去ると、その間、
これから奥の院まで、無数に見かける猿の群れだった。
猿は、崖の上から、小石を転がし、
橋を駈けまわる。橋の裏へかくれ込む。谷間へ飛ぶ。
霧は、その影を、追い廻すように、猿と戯れた。――もしここに一人の神仙が降りて、彼らに、仙語をもって、
(汝ら、生をうけて、何ぞこの
とでも呼びかけたら、雲はみな猿となり、猿はみな雲と
――そんな幻想さえ催すほど、猿は、遊んでいた。残月の光に、その猿の形は霧へ映って、二つずつに見えた。
わんッ!
わん、わん、わんッ!
犬の声は、
とたんに、さながら秋の末の
「くろっ、くろ
後から追って来たのは、お甲であった。
梅軒たちが、
彼女はやっと、
「畜生」
彼女は、犬が好きでない。振り
そして、
「お帰り!」
と、元来た方へ曳き戻そうとすると、
――うわんッ
と、吠え始めた。
縄はつかまえたが、彼女の力では動かなかった。無理に引っ張れば、
「なぜこんな物を、連れて来たんだろう。宝蔵の犬小屋へ
と、彼女も
こんなことをしている間に、もし別当の観音院を今朝立つ筈の――武蔵が早くも来かかったら、不審に思われるにちがいない。この犬が、この道に、うろうろしているだけでも、機敏な彼に
「ちいッ、しようがないね」
お甲は、持て余した。
黒犬は吠えやまないのである。
「仕方がない――お
やむなく彼女は犬を曳いて、いや犬に曳かれて――先へ登った人々の道を後から
それきり
一夜中、うごきやまずに動いていた霧が、谷間へ、厚ぼったい雪のように落着いて、武甲の山々や、妙法や、白石や、雲取の
「先生、どうしてだろ?」
「何が」
「明るくなったのに、お日様が見えないもの」
「おまえの見ている方角は、西ではないか」
「あ、そうか」
伊織は、その代りに、月を見つけた。峰の
「伊織」
「はい」
「この山には、おまえの親友がたくさんいるな」
「どこにですか」
「それ。あそこにも――」
武蔵が、指さした谷間の樹をのぞくと、親猿を真ん中にして、子猿が、かたまっていた。
「いたろう。はははは」
「何だあ……。だけど先生……猿は
「なぜ」
「親がいるもの」
「…………」
道は
「あの、いつか、先生に預けといた、
「落しはせぬ」
「中を、見て下さいましたか」
「見ない」
「あの中に、お
「ウむ」
「あれを持っていた時分は、私にはまだ、難しい字は読めなかったけれど、今ならもう読めるかもしれません」
「何かの時、おまえ自身で、開けてみるとよい」
一歩一歩に夜は白んで来る。
武蔵は、道の草を見ながら踏んだ。自分の踏んで行く先に何者の
とたんに、伊織は、
「あっ、日の出!」
指さして武蔵を
「オオ」
武蔵の顔も、
見る限りが、雲の海である。坂東の平野も、甲州、上州の山々も雲の
「…………」
伊織は、口をむすんで、姿勢を正して
余りに大きな感動は、少年を
自分の体じゅうを
だから伊織は、
(太陽の子だ)
と、自分を思ったが、それではまだ、彼の感動と、人間精神とが、ぴったりしなかった。
で、彼はなお黙って、
「
振向いて、武蔵へ、
「ね、先生。そうでしょう」
「そうだ」
伊織は、両手を高く
「お日様の血も、おれの血も、同じ色だ」
その手で、伊織は、
――猿には親がある。
――おれにはない
――猿には
――おれにはある!
と、思って、歓びに
その涙の
「――タラン、タン、タン、タン。――どどん、どん……」
あずさ弓
はる来るごとに
すめ神の
豊 のあそびに
あわんとぞおもう
あわんとぞ思う――
気がつくと、武蔵はもうはる来るごとに
すめ神の
あわんとぞおもう
あわんとぞ思う――
道はまた、樹林のあいだへはいって行く、――もう参道が近いのではあるまいか。樹々の姿におのずから統一がある。
足
――と、ふいに二人の踏んでいる大地が揺れたような気がした。そう思った瞬間、ずどんッ! 烈しい音響だった。
「あっ」
伊織は、耳を抑えて、熊笹の中へ
「伊織。立つな」
熊笹の中へ首を突っ込んでいる伊織へ、武蔵は、杉の樹陰から、そういった。
「――踏まれても、立つではないぞ」
「…………」
伊織は、返事もしなかった。
「……?」
物陰から
今――ぎゃッといった凄いうめき声が、武蔵に与えた
鉄砲の音と共に、熊笹の中に、熊の子みたいに、尻だけ出してじっとしている伊織の姿は、誰の眼にも見えた。――伊織はちょうど、八方の眼と、
「…………」
起つでないぞ――と何処からかいわれたような気がしたが、毛の根に迫ってくるような恐さと、
われを忘れて、
「せッ、先生っ。――たれかそこに、隠れてるぞ!」
と、伊織は絶叫してしまった。
そして、跳ね起きるなり、ぱっと無性に駈け出そうとすると、
「この餓鬼っ」
と、彼の見た刃が、そこの陰から躍って来て、悪鬼のように伊織の上へ、振りかぶった。
その横顔へ、ぐさっと、一本の
「――うっ、く、くそっ」
槍を繰り出した法師である。武蔵はその槍を一方の手に引っつかんでいた。しかし、右の片手はなお、今小柄を放っただけで、完全に
およそどれ程の敵の数か、亭々たる木の幹に
――するとまたも、どこかで、
「ぐわっ」
と、石でも頬張ったような
同時に思いがけない方で、武蔵とは関係なく、相手の中から裏切でも起ったのか、凄まじい格闘が始まった様子なのである。
「はて?」
武蔵が、それへ眸を
「――おっ」
武蔵は、両脇へ槍をつかんだ。
「かかれッ」
「何してる!」
と、叱咤した。
その呶号より高く、
「何者だっ。何者がこの武蔵を討たんとはするのか。名乗れ。――名乗らずば、皆、敵と見るぞっ。この神域、血に
と、いった。
つかんでいた二本の槍を振り廻すと、法師は二人とも跳ね飛ばされた。武蔵は飛びかかって、抜き打ちにその一人を斬り伏せ、身を
道はせまい。
武蔵は、その道をいっぱいに、じりじり押した。
白刃をならべた三名に、横からまた二名ほど加わって、相手は、肩をすぼめ合いながら、
心もとないことには、伊織の姿が見えない。武蔵は、当面の敵へは単に、備えておくに
「伊織っ……」
と、呼んでみた。
ふと見ると、杉林の中に、追い廻されている者がある。それが伊織だった。今討ち洩らした一名の法師が、槍を拾って、伊織を追い駈け廻しているのだった。
「ア、おのれ」
彼の救いに――その方へ武蔵が身を
「やるなッ」
どっと、前の五名は、
疾風を起して、武蔵は、
血の音、肉の音、骨の音までがした。ふた声三声、つづけざまに絶鳴がその中に
「――わっ」
二人ほどが、のめるように、逃げ出した。追いかけざま、
「何処へ」
ひとりの後頭部へ、左剣を浴びせた。
びゅっ――と黒い返り血が、武蔵自身の眼へ
武蔵は、左剣の手を顔へ――思わず眼へ当てた。とたんに、異様な金属の音が、後ろから、風を裂いて、その顔へ飛んできた。
――あっ、と無意識のまに彼の右剣が、それを払った。
いや、払ったと意識したのは、単なる意識でしかない。
(しまった!)
と、心にさけんだ時はすでに、ガリガリガリッと、刀身と細い
「武蔵っ」
鎌を、手元に持って、分銅
「――忘れたか、おれを」
「おおっ?」
武蔵は、くわっと見て、
「――鈴鹿山の梅軒だな」
「辻風典馬の弟よ」
「あ。さては」
「知らずに登ったのがてめえの運のつきだ。針の山、地獄の谷、
梅軒は、徐々に、その鎖を手元に
その鎌に対しては、武蔵は、左の小剣を持って備えていたが、今にして思えば、もし、右の大刀のみだったら、すでに身を防ぐ何物もなかったのである。
「ええいッ!」
梅軒の
同時に、梅軒の体も、
はからずも、武蔵は今日という今日、一代の不覚を取ったものではあるまいか。
鎖鎌という特殊な武器。それに対する予備知識がないではないのに。
かつて。
この
その折、武蔵は、
(――ああ見事)
と、
妻ですらこのくらいにつかうとしたら良人の梅軒の
同時に、この滅多に出合わない――天下に使い手も少ない、特殊な武器の性能の怖るべきものだということも、十分に、
鎖鎌についての知識は、自分でも今日まで、知り得たものとしていた。
だが、知識というものが、いかに生死の大事などにぶつかった
しかも、梅軒だけに、彼は全力を向けていられなかった。――
梅軒は、誇った。
鎖をしぼりながら、にゅっと歯で笑ったようだった。武蔵は、その鎖に
二度目の、えおほッ、と
「オッ!」
武蔵は、
鎌は、彼の頭上をかすめ、鎌が消えると、分銅が飛んできた。――分銅が
鎌か、分銅か。
そのどっちに対しても、身を
体ぐるみ、武蔵は、絶えまなく位置を移した。それも、目にとまらないほどな
(われ、遂に、敗れるか)
彼の五体は、
鎌と分銅に対して何よりの戦法は、樹を
――すると何処かで、きゃっ、と澄んだ悲鳴がながれた。
「あ。伊織?」
武蔵は、振り向けなかった。肚の底で、
「くたばれ!」
梅軒の
武蔵がいったのでも勿論ない。――武蔵のうしろで何者かが、こう呶鳴ったのであった。
「武蔵どの、武蔵どの。何でそれしきの敵に、手間どりなさる。――
そしてまた、同じ声で、
「くたばれっ、
地ひびき――絶叫――熊笹を蹴荒す跫音――。何者か、
(――誰か?)
と、疑った。思わざる後ろの味方であった。だが
武蔵は、
梅軒へ向って、一方に、心をあつめることができた。
だが、彼の手には、すでに小刀一本しかなかった。大剣は、梅軒の鎖に、噛み
迫ろうとすれば、梅軒は、すぐ感じて、後ろへ跳ぶ。
梅軒にとって、何よりも大切なのは、敵と自己との距離だった。鎌と分銅と、二分された鎖の長さが、彼の武器の長さである。
武蔵にすれば、その距離より一尺遠くてもよい。或は、一尺近くはいってもよいのである。――だが、梅軒はそうさせない。
武蔵は、彼の秘術に、まったく舌を巻いた。難攻不落の城に当って、攻めあぐねたような疲れを感じるのである。――だが、武蔵は彼の秘妙な
鎖は一本であるが、分銅は右剣であり、鎌は左剣である。そしてその二つの物を、彼は一如に使いこなしているのだった。
「
武蔵は、そう叫んだ。その声はもう、自分の勝利を信念していた。――飛んで来た分銅から五尺も後ろへ跳び
梅軒の体は、彼を追って、前へ躍って来る姿勢にあった。――飛んで来た小剣に対して、梅軒はそれを払う何物もなかった。
思わず――あッと、身を捻じったのである。
小剣は、
「ちっ」
悲壮なさけびが、梅軒の口から洩れたか否かの
「おうっ」
と、鉄球のように、梅軒の体に向って、自分の五体をぶつけていた。
梅軒の手は、刀のつかをつかみかけたが、武蔵の手が、その小手を
(――惜しいっ)
心のうちにそう念じながら、武蔵は、梅軒の大刀をもって、梅軒を真二つに斬り下げていた。
「……ああ」
誰か後ろで、武蔵のその呼吸を、うけ継ぐように嘆声でいった者がある。
「からたけ割り。――初めて見ました」
「……?」
武蔵は、振り顧った。
四尺ほどな丸棒の杖をついて、一人の若い
「やっ……?」
「わたくしです。――しばらくでござりました」
「木曾の、
「意外でございましょう」
「意外だ」
「三峰権現のおひきあわせだと私は思います。また、わたくしに
「……では、母御は」
「亡くなりました」
茫然たるまま、とりとめもなく、語りかけたが、
「そうだ。伊織が?」
と、武蔵の眼はすぐ、彼の姿を探した。すると、権之助は、
「お案じなさいますな。てまえが救って、あそこへ登らせておきました」
と、空を指さした。
伊織は、樹の上から、不審そうに二人をじっと見まもっていたが、その時、杉林の奥で、ワン、ワン! と猛犬の吠えたけびが、
「おや?」
と、眼を
手をかざして、伊織が、樹の上から、猛犬の吠えている方角をさがすと、ずっと奥の――杉林の
黒犬は、樹に
そして側にいる、女の
女は必死で、逃げようとしているが黒犬が離さない。
しかし、袂を
梅軒の加勢に来て、さっき伊織を杉林の中で追い廻した法師が、頭から血を出して、槍を杖に、よろめきながら、女の先に歩いていたが、女は忽ち、
――わ、わ、わんッ
――と思ううち、遂に、猛犬はその縄を切って、黒い
穂先で撲られたので、黒犬の顔が少し切れた。
――きゃんッ!
犬は横へ
「先生」
伊織は、上から告げた。
「女が逃げてったよ。――女が」
「降りて来い、伊織」
「杉林の向うを、まだもう一人、
「もうよい」
――伊織がそこを降りて行った頃には、武蔵は、夢想権之助の口から、あらましの次第を聞いていた。
「女が逃げて行ったといいますから――きっと今申した、お甲にちがいありません」
権之助はゆうべ、彼女の茶店の腰掛に眠っており、
武蔵は深く謝して、
「――では、最初に物陰から鉄砲を撃った者を、打ち殺したのも、
「いや、私ではありません。――この
権之助は、
「彼らが討とうと計っても、余人ならぬ
――それから二人して、一応そこらの死骸を
「非は、こちらにないにせよ、ここは神域、不問ではすまされまい。神領の代官へ、自訴いたそうと思う。――その後のことも問いたし、こちらのことも語りたし、ではあるが、落着いた上として、一先ず観音院まで戻ろう」
だが。――その観音院まで戻らぬうちに、神領代官の役人たちが、谷川橋に
「縄を打て」
と部下へ命じた。
(――縄を?)
武蔵は、予期しなかったことに驚いた。自訴した者に、無法だと思う。神妙な仕方を、暴で
「歩けッ」
すでに、囚人の扱いである。武蔵は
門前町まで来るうちに、百人以上にもなって、縄付きの武蔵ひとりを
「泣くな、泣くな」
権之助は、その泣き声を、抑えつけるように、伊織の顔を、
「泣かいでもいい。――男じゃないか、男のくせに」
なだめ
「男だから……男だから、泣くんだい。……先生が
と、権之助の
「捕まったのじゃない。武蔵どのから、自訴なされたのだ」
と、いってみたが、権之助も心のうちでは不安だった。
谷川橋まで出向いていた役人の群れが、なにしろ、物々しく殺気立っていたし、その他、十名、二十名ずつの
(神妙に、自訴して出た者を、あんなにしないでも)
と、思うしまた、疑われもする。
「さ、行こう」
伊織の手を引っ張ると、
「嫌っ」
伊織は、首を振って、まだ泣いていたいように、谷川橋から動かないのである。
「はやく来い」
「嫌だ。嫌だ。――先生を、呼んで来てくれなければいやだ」
「武蔵どのは、すぐお帰りになるにきまっている。――来なければ、置いて行ってしまうぞ」
――でもなお、伊織は動かなかったが、その時、
「あっ、おじさん!」
と、権之助のそばへ飛んで行った。
権之助は、この小がらな少年が、かつては、
「くたびれたのだろ」
と、慰めた。
そして、
「
と、背中を向けた。
伊織は、泣きやんで、
「ああ」
と、甘えながら、彼の背中へ抱きついた。
祭は、ゆうべで仕舞だった。あれほどな人出が、木の葉を掃いたように下山して、三峰権現の境内も、門前町のあたりも、ひっそりしていた。
群衆の残して行った竹の皮や紙屑が、ただ小さい
すると、背中の伊織が、
「おじさん。――さっき山にいた女のひとが、この家にいたぜ」
「いる筈だ」
権之助は、立ちどまって、
「武蔵どのが縛られるくらいなら、あの女が先に
といった。
たった今、家へ逃げ帰って来たお甲は、帰るとすぐ、有合う金や持物を身につけ、旅へ走る
「畜生」
と、家の中から振り向いてつぶやいた。
伊織を負ぶったまま、軒下に立った権之助は、お甲の憎怨にみちた眼へ、
「逃げ支度かね」
と、笑い返した。
奥にいたお甲は、
「大きなお世話というものだよ。――それよりも、おい、
「ホ。何だ」
「よくも今朝は、わたし達の裏を掻いて、武蔵へよけいな助太刀をおしだね。そして、わたしの亭主の藤次を打ち殺したね」
「自業自得。しかたがないというものだろう」
「覚えておいで」
「どうする」
権之助が、いうと、背中から伊織までが、
「悪者っ」
と、
「…………」
お甲はついと奥へはいってしまって、そこからせせら笑った。
「わたしが悪者なら、おまえたちは、
「何」
背中の伊織を下ろして、権之助は土間へはいって来た。
「盗賊だと」
「白々しい」
「もう一度、申してみろ」
「わかるよ、今に」
「いえっ」
むずと彼女の腕をつかむと、お甲はいきなり隠していた
例の

「山の衆っ、来てくださいっ。宝蔵破りの仲間がっ――」
何で先刻からそういうのか、とにかくそう叫びながら、お甲は往来へ
権之助は、くわっとして、

――すると、何処に
「あっ、あの犬の眼」
伊織はおどろいた。それは、発狂の相をあらわしていたからである。
だが、犬の眼どころではない。この山上の人間は、
夜も昼も、人と
勿論、外部の
単なる噂ではないらしい。この山上に、さっきも、あれ程な役人や捕吏が来合せていたということも、思い合せば、原因はその方にあったかもしれないのである。
いや、もっと
「ここだ。この中だ」
「宝蔵破りの徒党が逃げこんでいる」
と、遠巻きにして、得物を持ったり、石を拾って、家のうちへ投げこんだりし始めた。それを見ても、山上の住民の興奮が、ただならぬものであることがわかる。
山づたいに二人はようやく逃げのびて来たのであった。そこは
(宝蔵破りの盗賊の一類)
と、竹槍や
権之助と伊織とは、そうして自分らの安全は得たが、武蔵の安否はわからなかった。いや、よけい不安が濃くなった。今になって考えると、武蔵は、宝蔵破りの
「おじさん、武蔵野が遠くに見えて来たよ。だけど、先生はどうしたろうな。まだ役人に捕まっているかしら?」
「ウむ……。秩父の
「権之助さん。先生を助けてあげることはできないの」
「できるとも。むじつの罪だ」
「どうか、先生を助けてあげてください。この通りおねがいします」
「この権之助にとっても、武蔵様は、師と同様なお方。頼まれなくても、きっとお助けする考えでいるが――伊織さん」
「え」
「小さいおまえがいては足手まといだ、もうここまで来れば、武蔵野の草庵とやらへ、一人でも帰れるだろう」
「あ。帰れることは帰れるけれど……」
「じゃあ。一人で先に戻っておれ」
「権之助さんは?」
「おれは秩父の町へもどって、武蔵様のご様子をさぐり、もし、役人どもが理不尽にいつまでも先生を獄につないだまま、むじつの罪に
そういいながら、権之助が
「賢い、賢い」
と、権之助は
「無事に先生を救い出して、一緒に帰る日まで、おとなしく、草庵に留守をして待っているのだ」
そう
で、伊織は、独りぼっちになった。けれど
ただ、彼はやたらに眠かった。三峰から山づたいに逃げ廻って来るあいだ、ゆうべは一
秋の陽をほかほか浴びて、黙って歩いてゆくうちに、彼は慾も得もなく眠くなってしまい、ついに、坂本まで来ると、道わきへはいって、草の中へごろんと横になってしまった。
伊織の体は、何か、仏様の彫ってある石の陰にかくれていた。やがてその石の
一人は石に、一人は木の切株に腰かけて、しばし休んでいる
そのふたりの乗用とみえ、少し離れたところの樹に、二頭の荷駄が
西丸御普請 御用
野州御漆方
と、その打札から考えをすすめれば、両名の侍は、江戸城の改築に関係のある
だが、伊織が草の陰からそっと
一方はもう五十を越えている老武士で、これは体つきも肉づきも、
また、それに向いあっている侍の方は、十七、八歳の痩せぎすな青年で、前髪立ちのよく似あう顔に、
「どうです、おやじ様、
その前髪がいうと、おやじ様とよばれた一文字笠は、
「いや、貴さまもだいぶ、
「だんだんのお仕込みでございますから」
「こいつ、皮肉なことをいう。もう四、五年も経ったら、今にこの大蔵のほうが、お前に
「それは当然そうなりましょうな。若い者は抑えても伸び、老いゆく者は、
「焦心っているとみえるかの。貴さまの眼から見ても」
「お気のどくですが、
「わしの心を
「どれ、参りましょうか」
「そうだ、足もとの暮れぬうちに」
「縁起でもない。足もとはまだ十分に明るうございます」
「はははは、貴さまは血気に似あわず、よく
「そこはまだ、この道に日が浅いので、十分、舞台度胸がついていないせいでしょう。風の音にも、何となく、そわそわされてなりません」
「自分の行為を、ただの盗賊と同じように考えるからだ。天下のためと思えば、
「いつもいわれるお言葉なので、そう思ってみますものの、やはり盗みは盗みに相違ございません。どこやら後ろめたいものに襲われまする」
「何の、意気地のない」
頬かぶりの前髪も、身がるく鞍へとび乗った。そして、先に出ようとする馬の前を追い越し、
「露はらいは、先に出ましょう。何か見えたら、すぐ合図いたしますから、ご油断なく」
と、後の荷駄を
道は、武蔵野の方へ向って、南へと、
石のうしろに寝ていた伊織は、はからずも二人の話をそのまま聞いていたのであるが、ただ怪しげなと不審を起しただけで、話の内容を解くことはできなかった。
だが、荷駄に乗った二人がそこを立つと、伊織もすぐ後から歩き出した。
「……?」
一、二度、怪しむように、先の二人は馬の背から彼を振向いたが、年齢や姿を見極めて、警戒するに足る程な者でないと考えたか、それから後には、少しも意に介していない様子であった。
それと間もなく夜になって、
「オ、おやじ様。あれに、
と一方の、若い頬かぶりをした前髪の影が、鞍の上から指さした頃――ようやく道もやや
先へ行く二人には何の警戒心もなかったようだが、後からついてゆく伊織は、子ども心にも、細心な気をくばって、二人に怪しまれないように注意していた。
(あの二人は泥棒にちがいない)
と――それだけは彼にも分っていたからである。
盗賊というものが、どんなに怖いか――これは彼の生れた法典村が一年おきに
それほど怖いものならば、なぜ伊織は、はやく横道へでも曲がってしまわないか――と疑われるが、その彼は、
(三峰の権現さまの
と、心のうちで、決めてしまっているからである。
さっき石の後ろで、怪しいと思ったとたんに、伊織の頭にひらめいたのはそういう考えであった。少年の直感には、それをまた、反覆してみたり他を顧みたりしている迷いがない。てっきりこいつだと思いこんだらもう
やがて彼も、荷駄の影も、扇町屋の宿場の中を歩いていた。後ろの荷駄に乗っている一文字笠は、先へゆく頬かぶりの前髪男へ手をあげて、
「城太、城太。この辺で腹を
と、鞍の上でいった。
うす暗い
その間、伊織もよそで買喰いをしていた。そして荷駄の二人がまた、宿場の先へ進んで行くのを見ると、口をうごかしながら、後ろから追いかけて行った。
道はまた、暗くなった。しかし武蔵野の草から草の平地である。
鞍の上から、鞍の上を顧み合って、荷駄のふたりは、時々話しかけてゆく。
「城太」
「はい」
「木曾の方へ、前ぶれの飛脚は出しておいたろうな」
「手筈しておきました」
「では、首塚の松へ、木曾の衆が来て、こよい待ち合せているわけだの」
「そうです」
「時刻は」
「
老いたるほうは連れの者を城太とよび、若い方は一方を、おやじ様とよんでいる。
(この盗賊は親子だろうか)
伊織はそう考えて、なおさら怖ろしく思った。そしてもとより、自分の力では到底捕まえることはむずかしいが、二人の帰ってゆく
彼の考えているように、そううまく行くかどうかは疑問だが、三峰の怪盗と直感した彼の童心のひらめきは、そう見当違いなものでもないらしい。
あたりに人もなしと思って、大声で語り合ってゆく話しぶりといい、また、あれからのこの両名の行動といい、いよいよ怪しい節ばかりなのである。
川越の町はもう沼みたいにしいんと眠りに落ちていた。灯のない屋なみを横に見て、二頭の荷駄は首塚の丘へのぼって行った。登り口の道ばたに、
首塚の松
このうえ
と、このうえ
丘の上には、
「おう、大蔵様だ」
と、登って来た二頭の荷駄を迎えて、
やがて、夜の明けぬうちにと、何事かいそぎ始めて、大蔵のさしずのもとに、一本松の下の
前髪に頬かぶりの――城太とよばれた若者もまた――ここまで乗って来た荷駄の背から、
漆桶の中から出たものは漆ではなかった。三峰権現の宝蔵から影を隠した砂金やなまこである。穴の中から掘り出したものと、それとを合せれば何万両という額にのぼる金銀がそこに積まれたのであった。
さて、それをまた、幾つものかますに分けて詰込むと、三頭の馬の背に
「これでよし、これでよし。――まだ夜明けにはだいぶ間がある。まあ、一ぷくつけようか」
大蔵は、そういって、松の根かたに坐りこみ、ほかの四名も、土を払って車座になった。
信心の
彼の
のみならず、去年あたりからは江戸城下の芝あたりに居宅をもち、質店を構え、町の五人組衆の一人にまでなりすまして、町内の信望もあつい彼である。
その大蔵が、先には、本位田又八を芝浦の沖へ誘って、新将軍の秀忠を狙撃しないかと、金で
世の中はおそろしい。およそ分らぬものは人間の表裏である。とはいえ、すべてをそう疑ぐっていたら
そこで、聡明であろうと、誰も心がけるが、たまたま、その聡明を欠いている又八などが、
恐らく、又八は今頃は、もう江戸城の中にいるだろう。そして大蔵と約束したとおり、
それが自己の破滅の日とも知らずに。
何にしても、大蔵は怪人物である。又八の如きが他愛なく
――おやじ様
と、敬称するような境遇になり果てている事実である。
いかにとはいえ、盗賊の彼につかえて、おやじ様と呼ぶほどな人間になったと――その城太郎の変りようを知ったら、武蔵よりは、あのお
それはとにかく。
くるま座になった五名は、半刻近くもそこでいろいろな評議をこらしていた。その結果、奈良井の大蔵はもうこの辺で木曾へ姿をかくし、江戸へは戻らぬほうが安全だろうということになった。
しかし芝の質店の方には、家財などはともかく、焼いて捨ててしまわなければならない書類などもあるし、
「城太がよい。それには、城太をやるがいちばんです」
と、異口同音に決まってしまったのである。
で、やがて。
かますを積んだ三頭の馬に、大蔵を加えた四名の木曾の衆は、まだ夜明け前の暗いうちに、そこから甲州路のほうへ
丘のうえには
「さあ、どっちへ
と迷った目をして、まだまだどっちを眺めても真暗な、
きょうも秋の空は澄みきっている。つよい
彼はあだかも、これからの時代に、大いに意志を
ただ時々、城太郎の目が、何か気にするように後ろをふり向いた。それとて、決して、うしろ暗い自分の陰に
(迷子かしら)
と考えたが、なかなか迷子になるような薄ぼんやりな顔つきではないし、
(何か用でもあるのか)
と待っていれば、どこかに影を
そこで城太郎も、これは油断がならないと思いだし、わざと道のない尾花の
「……おやっ?」
と、そこへ来るなり狼狽の眼をせわしなくうごかし、頻りと、城太郎の影をさがしている様子なのである。
城太郎はきのうのように、例の
「小僧」
と、ふいに呼びかけた。
小僧小僧とよく呼ばれたのは、つい四、五年前までの城太郎自身であったが、今は、ひとをそう呼ぶような背丈に彼もなっていた。
「……あっ」
伊織はおどろいて、無意識に逃げかけたが、所詮、
「なんだい?」
平気な顔して――わざと先の方へとことこ歩き出して行った。
「おいおい、何処まで行くんだ。おいチビ、待たないか」
「何か用?」
「用は、そっちにあるんじゃないか。かくしてもだめだ。川越からおれを
「ううん」
――首を振って、
「おら、
「いいや、そうじゃない。たしかにおれを
「知らないよ」
「いわないか」
「だって……だっておら……何も知らないんだもの」
「こいつめ」
と、すこし締めて、
「おのれは、役所の手先か誰かに頼まれたに違いあるまい、
「じゃあ……おらが密偵の子に見えるなら……おまえは
「何」
ぎょっとして、城太郎が、その顔を
「――あっ、こいつ」
城太郎もすぐそれを追う。
草の彼方に、土蜂の巣をならべたような
この部落には、
「泥棒っ、泥棒っ」
道ばたにふいに、呶鳴っている子があった。
伊織はその人々へ、手をふり廻して、
「
と、大きな声して告げた。
部落の人たちは、余りに唐突な彼のわめきに、最初はあっ
けれども百姓達は、依然として、その近づいてくるのをただ見ているだけの様子なので、伊織はまた、
「宝蔵破り、宝蔵破り。嘘じゃない。ほんとにあれは、秩父の大泥棒の片割れだよ。はやく捕まえないと逃げちまう!」
と、さけんだ。
そうして伊織は、勇気のない兵を指揮する将みたいに、声をからしたが、部落の穏やかな空気はなかなか震動しない。
そのうちにもう城太郎のすがたは、すぐ眼の前へ来てしまったので、伊織はいかんともする
(手出しをする者があるなら出て来い――)
と、いわんばかりに落着きすまして、悠々と通り抜けて行ったのである。
その間、部落の者は、息もしないで、彼の姿を見送っていた。宝蔵破りの泥棒とどなった声を聞いているので、どんな兇猛な野武士かと思っていたらしいが、案に相違して、まだ十七、八の目鼻だちもよく、
一方の伊織は、あんなに声をからしても、誰も、泥棒に向おうとする正義の人がいないので、大人の卑劣さに愛想をつかしたが、さりとて、自分の力ではどうにもならないことも知っているので、これは早く中野村の草庵に帰ってあの近所の懇意な人々にも告げ、官へも訴えて、捕まえてやろうと考えた。
で、
すると彼の前に、横手をひろげた者がある。横道からふいに出て来た城太郎であった。伊織はとたんに、頭から水を浴びたような気がしたが、ここまで来ればもう自分の国のように気が強かったし、逃げてもだめだと思ったので、跳び
「ア、畜生」
と、
刃物を抜いたにしろ、
襟がみをつかんでしまうつもりであったが、伊織は、
「――ちイ!」
と、さけびながら、城太郎の小手をすりぬけて、横へ十尺も跳びのいてしまった。
「いぬの子!」
城太郎は、
「ヤ。やったな」
城太郎は伊織を睨む目を新たにした。伊織は、いつも武蔵から教えられた通りに
眼。
眼。
眼。
いつも師からやかましくいわれている力が、伊織のひとみへ無意識にぐっと上がった。顔じゅうを眼にしたような伊織の顔だった。
「生かしておけない」
睨み負けしたように城太郎が
その跳びつき方も、常々、武蔵へかかってゆく仕方と同様であるから、それは受けはしたものの城太郎には、意外な圧倒感を、腕にも精神的にも、受けたことに間違いない。
「生意気なっ」
もう城太郎も全力だった。殊にどうしてか、宝蔵破りの件を知っているこのチビは、自分たち一類のためにも生かしておけないと思った。
躍起になって、斬りつけてくる伊織の攻勢を無視して、城太郎は、まっ向に一太刀あびせてやろうと押して行った。けれど、伊織の
「
と、城太郎は思った。
そのうちに、伊織はふいに駈け出した。逃げるのかと思うと、踏み
西陽はとうに薄れかけていたので、林の中はもうじっとりと夕闇がこめていた。先へ走りこんだ伊織を追って、城太郎はするどい血相をもって追いかけて来たが、彼のすがたが見当らないので、一息つきながら、
「チビめ、どこへ
すると、側の大きな樹のこずえから、樹皮の
「そこだな」
と、城太郎は、宙を見あげてどなった。こずえの空はこんもりと暗く、白い星が一つ二つ見えるだけだった。
果たして、がさっと樹の空で何か動いた。
追い上げられた伊織は梢の
「小僧っ」
「…………」
「翼がなければもう逃げられぬぞ。
「…………」
梢の
そろ、そろ、と下から城太郎は登り詰めて行った。だが、飽くまで伊織が黙っているので、その足のあたりへ手を伸ばし、
「…………」
伊織はなお、黙ったまま、もう一つ上の枝へ足を移した。で、城太郎は、彼が足を
「うぬ」
と、身を伸ばしかけると、伊織は待っていたように、右手に隠していた刀で、その横枝の股を
生木の枝は、
「どうだ、泥棒」
伊織は、宙からいった。
傘をひらいて落ちたように、木の枝が、木の枝に
「やったな、よくも!」
と、ふたたび宙を睨むと、今度は
伊織は、刀を下へ向けて、滅茶滅茶に枝の間をふり廻していた。
体は小さいが、伊織には智がある。
そうしているうちに、この林の杉木立の彼方で、尺八をふく人間があった。もちろんその人間が見えるわけでもないし、
伊織も城太郎も、その音を聞くと一瞬、争いをやめて、真っ暗な木の葉の宇宙で、毛穴から
「……チビ」
城太郎は、沈黙から
「見かけによらない強情なところは、感心なものだといっておこう。誰にたのまれて、おれの後を
「あかといえ」
「何」
「こう見えても、宮本武蔵の一の弟子、
城太郎はびっくりした。その大木から大地へ
「な、なんだって。もう一ぺんいってみろ、もう一ぺん」
そう訊き直す彼の言葉が、度を
「よく聞け、宮本武蔵の一の弟子三沢伊織といったのだ。おどろいたか」
「おどろいた」
城太郎は、神妙に
「おいっ、お師匠さまは、ご丈夫か。そして今は、どこにいらっしゃるのだ」
「なんだと」
こんどは伊織が気味わるがって、じりじりと寄って来る彼を、
「――お師匠さまだと。武蔵さまは、泥棒の弟子など持っていやしないぞ」
「泥棒とは人聞きが悪い。この城太郎は、そんな悪心は持っていない」
「エ。城太郎」
「ほんとに、おまえが武蔵様の弟子なら、何かの折、噂に出たこともあるだろう。おれがまだ、おまえみたいに小さい頃、何年もおれは武蔵さまの側に
「嘘っ、嘘をいえ」
「いや、ほんとだ」
「そんなてにのるものか」
「ほんとだというのに」
師の武蔵に
伊織には、信じられない。城太郎が自分の体へ手を廻して、おまえとおれとは兄弟
「あっ、待てったら!」
城太郎は、窮屈な
当然、ふたつの体は、
この場合は、先に城太郎が墜ちた時と違って、ひどく重量と速度をかけて墜落したため、二羽の若鳥は、うーむと、胸を
ここの雑木林は杉林につづいている。その杉林の
だが、武蔵が
――で、もう屋根と柱だけは新しくなっていた。
武蔵はまだ帰らないのに、その壁も戸もない屋根の下に、今夜は
独りということはしかしこの世の中ではあり得ないこととみえる。沢庵がここにぽつねんと
さっき雑木林のほうまで聞えた尺八は、この老いたる薦僧が沢庵へ聞かせたものであろう。時刻もちょうど、彼が
眼病なのか、老眼で衰えきっているのか、
べつに沢庵から望んだわけでもないのに、一曲ふきましょうといって吹いた尺八も、素人の手すさびのように
けれど沢庵は、こういうことをその間に感じた。彼の吹いている尺八には、非詩人の詩のように、無技巧な真情がある。
ではこの老い朽ちたる世捨人の
じっと、沢庵は、それを聞いているうちに、この薦僧の通って来た生涯がどんなものであったかが分るような心地がした。偉い人間といっても凡人といっても、人間の内的な生涯などというものはそう変りのあるものではない。偉人と凡物の相違は、その等しい人間的な内容や
「はてな、どこかでお見かけしたようだが……」
その後で沢庵が呟いたのである。すると薦僧も、眼をしばたたいて、
「そう仰せられますなら、わたくしも申しまするが、最前からてまえも何だか、聞いたようなお声に思われてなりませんのです。もしやあなたは、
といいかける言葉の途中から、沢庵もはっと思い出したらしく、隅にあったほの暗い灯皿の
「あ。……青木丹左衛門どのじゃないか」
「おう、ではやはり、沢庵どのでございましたか。おお穴でもあればはいりたや。変り果てたこの身のすがた。宗彭どの、むかしの青木丹左と思って見てくださるな」
「意外や、ここでお目にかかろうとは。――もう十年の前になるのう、あの七宝寺の頃からは」
「それをいわれると、
「子ゆえにと? その子とは、そも何処にいて、どう暮しておるのか」
「うわさに聞けば、そのむかしこの青木丹左が、
「なに、武蔵の弟子」
「されば――そう聞いた時の
「では、城太郎というあの
このことは、沢庵にはまったく初耳であった。どうしてか、あんな知合いでいながら、ついぞお通からも武蔵からも、その
――といって、過去の
だから悪くすれば、彼は今、生涯の望みとしている――武蔵に会って一言の詫びをいうことと、わが子の成人ぶりを見て、その将来に安心を抱くことをしてしまえば――すぐそこらの雑木林へ行って、
沢庵は、そう思った。この男には、子に会わせるよりも先にまず、
こう考えたので沢庵は、とりあえず丹左に向って、御府内の一禅寺を教えてやった。わしの名をつげてそこに幾日でも逗留しておるがよいというのである。そのうち自分が暇の時に出向いてゆるゆる話もしようし聞きもしよう。子息の城太郎については、心当りがないでもないから、他日必ずわしが尽力して会わせてやる。余りくよくよせず、五十歳、六十歳から先でも、長命を考える楽土もあれば、する仕事のある人生もある。わしが行くまで禅寺でちとそんなことでも和尚から聞いておかれるがよろしかろう。
――こんなふうに
そこは丘なので、下へ降りる道の、
「……?」
そのうちにふと、丹左の杖の先になにかつかえたものがあった。まったくの盲人ではないので、丹左は身を
どう思ったのか、丹左は、道をもどり出した。そして、元の草庵の
「沢庵どの。……今お
――こう告げると、沢庵は、
「
といった。
沢庵は承知して、すぐ草履を
屋根の下から人影が出て、丘の草庵を仰いでいる。そこに住んでいる百姓のおやじであった。沢庵はその影へ向って
その
もし丹左が、最初に迷って行った道のとおり歩いて行けば、
だが、それが不幸か
竹筒の水と松明とを持って早速やって来た百姓は、きのうも今日も、この草庵の修繕に手伝った村の者の一人で、何事があったのかと
やがてすぐ、その松明の赤い明りは、先に
――そこへ松明の光と人の跫音を感じたので、城太郎は忽ち夜の
「……おや?」
沢庵の立った側から、ぷすぷすと燃える松明を、百姓のおやじが突き出していた。城太郎は
――おや? と沢庵がいったのは、気を失っているはずの者が、そこに坐っていたからであったが、双方からじっと姿を眺め合っているうちに、その「おや?」という一語は、そのまま重大な
沢庵から見た城太郎は、余りに体も大きくなっていたし、顔も姿もちがっていたからややしばらくは分らなかったが、城太郎から見た沢庵は一目で沢庵とすぐ知れた筈であった。
「城太郎ではないか」
沢庵はやがて、眼をみはっていった。
自分を仰いだと思うと、その城太郎が、はっと、手をつかえてしまった
「はい。……はい、さようでございまする」
沢庵の姿を仰ぐと、以前の
「ふうむ、そちがあの城太郎か。いつの間にやら大人びて、たいそう鋭い若者になったものよの」
彼の成人ぶりに
抱いてみると体温はたしかである。竹筒の水を与えると、すぐ意識はよび戻した。伊織はあたりを見て、きょろきょろしていたが、突然大声を出して泣き出した。
「痛いのか。どこか、痛いのか」
沢庵がたずねると、伊織はかぶりを振って、どこも痛くはないが先生がいない、先生が
彼の泣き方も訴え方も、余りに唐突であったから、沢庵も容易にその意味を汲むことができなかったが、だんだんと仔細を聞いて、なるほどそれは容易ならぬことが起ったものと、ようやく伊織と同じ憂いを抱くことができた。
するとそれを傍らで聞いていた城太郎は、身の毛をよだてたように、卒然と、
「沢庵さま。申しあげたいことがあります。どこか人のいない所で……」
と、少し声をふるわせていい出した。
伊織は、泣きやんで、疑いの眼を光らしながら、沢庵へ寄り添うと、
「そいつは、泥棒の一類だよ。そいつのいうことは、嘘に決まってる。油断しちゃだめだよ、沢庵さん」
と指をさした。
城太郎が睨むと、伊織はなお、いつでもまた、戦ってやるぞという眼をもって、それに
「ふたりとも、喧嘩するな。おまえ達は、元々、兄弟
道を引っ返して来ると、沢庵はふたりに命じて、草庵の前に
だが沢庵と城太郎とが、
そして沢庵と城太郎とが
「……ええそうです。お師匠さまの側を離れてから足掛け四年にもなります。その間わたくしは、奈良井の大蔵という者の手に育てられ、その人の教えをうけ、またその人の大きな望みや世の中の行くてを常に聞くにつけ、この人のためなら生命を投げ出しても惜しくないという気持になりました。それから今日まで、大蔵どのの仕事を助けて参りましたが――でも泥棒呼ばわりなどは心外の極みです。わたくしも武蔵先生の弟子、おそばを離れてからでも、お師匠さまの精神とは、一日も別れてはいないつもりですから」
城太郎は、いいつづけた。
「――大蔵どのと私とは、天地の
彼の語るのを、沢庵はだまったまま、ただ
「では、宝蔵破りの仕事は、おまえと大蔵の
「はい」
城太郎のその答えは
ぎらっと、沢庵は、その眼を見つめた。城太郎は、前の言葉に似ず、つい眼を伏せてしまった。
「じゃあ、やはり泥棒じゃないか」
「いえ。……いえ、決して、ただの盗賊ではありません」
「泥棒にふたいろも三いろもあるかの」
「でも、われわれは、私慾を持ちませぬ。公民のために、ただ公財を動かすだけです」
「わからんな」
沢庵は、ぽいと
「然らば、おまえのやっている盗みの種類は、義賊というようなものなのか。支那の小説などによくあるな。
「その弁解をいたしますと、自然大蔵どのの秘密を
「はははは。かまにはかからんというわけだな」
「ともあれ、お師匠さまを救うために、私は自首いたします。どうぞ、後で武蔵様へも、御坊からよろしくお
「そんな取做しは沢庵にはできぬ。武蔵どのの身は元より
「仏に?」
と、彼は考えてもみないことをいわれたように問い返した。
「さればよ」
と、沢庵は当然なことを
「おぬしの
「自己の一身など考えていては天下の大事はできませぬ」
「青二才」
沢庵は、一
「自己が
「いや、わたくしは、自己の慾望などは考えないといったのです」
「だまれ、おまえはおまえ自身が、人間としてまだ
寝ろといわれたのである。寝るしかなくなって、城太郎はそこらにある
沢庵も寝た。伊織も眠った。
だが城太郎は寝つかれなかった、獄窓にある師の武蔵のことが夜もすがら考えられて、すみません――と胸の上に
仰向いていると、
さはいえ、人には洩らさぬと、大蔵と誓った秘密は誰にも明かしようはない。夜が明けたらまた、沢庵から
「…………」
城太郎はそう考えてそっと身を起した。壁も天井もない草庵は抜けるには都合がよい。彼はすぐ
「――こら。待て」
歩みかけた城太郎は、後ろの声にぎょっとした。自分の影みたいに沢庵が立っているのだ。沢庵はそばへ来て、城太郎の肩へ手をかけた。
「どうしても、自首して出る気かの」
「…………」
城太郎はだまって
「そんなに、犬死がしたいか。浅慮なやつだ」
「犬死」
「そうだ、おまえは、自分という下手人さえ名乗って出たら、武蔵どのを
「…………」
「それでも、犬死でないと思うか。真に、師の
「…………」
「沢庵は
「…………」
「それも嫌ならもう一つ方法がある。計らずもわしはゆうべ、おまえの父、青木丹左衛門にここで出会うたのじゃ。いかなる仏縁やら、すぐその後で子のおぬしにまた会おうとは。……丹左の行く先はわしが
「…………」
「城太郎。おまえの前に、三つの道がある。わしが今いうた三つの方法じゃ。そのどれなと選ぶがよい」
沢庵はいいすてて元の
「お、まって下さいっ。……沢庵さん、いいます! いいます! 人にはいわぬと大蔵様とは誓ったことですが、御仏に……ほとけ様に一切を」
ふいにそう叫ぶと、彼は、沢庵の
城太郎は自白した。暗闇の中で長い独りごとをいいつづけているように、一切を声にして、胸の奥から吐いてしまった。
沢庵はそれを、最初から終りまで、一口も挟まず聞いていた。
「もういうことは何もありません――」
と、城太郎が沈黙すると、初めて、
「それだけか」
と、いった。
「はい、これ
「よし」
沢庵もそれでまた黙ってしまった。半刻も黙っていた。杉林の上が水色に
「……えらい者の仲間に引きこまれたものじゃな。この大きな天下の歩みが、どう動いてゆくかも見えぬとは、
そう呟いた時の沢庵は、もうなにも
「一刻もはやくせぬと、そちの身ばかりか、親にも師にも、災難をかけることに相成ろうぞ。遠国へ
「お師匠様のお身はどうなりましょうか。わたくしのためにああなったと思うと、このまま他国へも」
「その段は、沢庵がひきうけておく。二年なり三年なり
「……では」
「待て」
「はい」
「立ちがけに江戸に廻れ。
「はい」
「これに大徳寺衆の印可がある。正受庵で笠や
「どうして、僧体にならなければいけませんか」
「あきれたやつ。自身犯している罪をすら知らぬのか。徳川家の新将軍を狙撃し、その
「…………」
「行け、
「沢庵さま。もう
「……知らん」
沢庵は怖い眼で彼の理窟をただ睨みつけた。その説明は誰にもできないのである。城太郎を承服させるぐらいな理論を立てることは、沢庵にできないはずはなかったが、彼自身の得心できる理由がまず確然とつかめていないのだ。しかし一日一日と、徳川家に弓をひく者を謀叛人と呼んでもふしぎでない社会に変りつつあることは
その日、沢庵は伊織をしりに
「お
小僧へ問うと、
「は。お待ちを」と、奥へ駈けこむ。
出て来たのは子息の新蔵だった。父は登城して不在ですがまずお上がり下さいと招じるのであった。
「御城中とな。ちょうどよい」
沢庵はそういって、すぐ自分もこれから御城内へ参るが、この伊織を、当分ここに留めておいてくれまいかと頼んだ。
「お
と、新蔵はちらと見てわらう。伊織とは知らない仲でもないからである。――そして御坊は御登城とあるならば、
「頼みたいの」
駕籠の用意のできるあいだ、沢庵は
「そう、江戸の奉行職は、何といわれたの」
「町のですか」
「されば、町奉行という職制が、新たに設けられておるが」
「堀
駕籠が来る。
伊織はもうそこにいない。
「そうだ、
ようやくひとり解釈して、よくよく馬の顔を見ていると、馬の顔でも、武家の
馬は小さい時からの友だちだった。伊織は馬が好きだった。見ていても飽きないのである。
――すると玄関の方で、新蔵の大きな声がした。伊織は、自分が叱られたのかと思ってふり
「居留守をつかうとは何事をほざくか。そちのような見知らぬ老いぼれに、父が居留守をつかう要はない。いないからいないというたのだ」
老婆の態度が新蔵をむっとさせたらしかった。その語気にまた、老婆は年がいもない怒りを駆りたてて、
「お気に
「何度、訪ねたかしらぬが、父はひとに会うのを好まぬほうだ。会わぬというのに、無理に来るほうがわるい」
「ひとに会うのは好まぬと。片腹いたい仰せ言じゃの。ではなぜ、おぬしの父は人中に住んでおざるのじゃ」
お杉ばばはまた、いつもの歯を
てこでも動かないという俗言がある。ばばの
若い新蔵には、およそ苦手な応対であった。ヘタをいえば
無礼者っ。
と、
「――父は留守だが、まあ、それへ腰かけてはどうだな。わしで分る話なら、わしが聞いておこうではないか」
虫を抑えていってみると、これは新蔵が予期していた以上、
「大川の
すぐ式台の端へ腰をおろして、脚をさすり出したが、舌の根はくたびれる気色もなく、
「これ、お息子よ。――今のように、物柔らかにいわれると、このばばも、つい大声したことが、面目のうなるが、それでは用向きを話すほどに、安房どのがお帰りなされたら、よう伝えてたもれよ」
「承知した。して、父の耳へ入れたいとか、注意したいとかいうた用件とは」
「ほかでもない。作州牢人の宮本武蔵がことじゃ」
「ム。武蔵がどうしたか」
「あれは十七歳の折、関ヶ原の
「ま、待て、
「いいえいの、まあ、聞いて
「ちょっと、ちょっと」
新蔵は、手で抑えて、
「いったい、ばばの目的は何じゃ。武蔵の悪口をそうしていい歩くことか」
「あほらしい。天下のお為を思うてじゃ」
「武蔵を
「ならいでか」
ばばは開き直って、
「――聞けば、当家の北条安房どのと、沢庵坊の推挙で、どうあの口巧い武蔵が取入ったやら、近いうちに、将軍家の御指南役のひとりに加えられるという噂じゃが」
「誰に聞いたか、まだ御内定のことを」
「小野の道場へ行った者から、確かに洩れ聞いておる」
「だから、どうだと申すのか」
「――武蔵という人間は、今もいうた通りな札つき者、そのような侍を、将軍家のお側へ出すさえ
新蔵は信じている。武蔵をである。父や沢庵が将軍の師範へ推薦したことも、もちろんいい事をなされたと
で――ばばのいいぐさを、虫をこらえて聞いていても、おのずから顔いろが変っていた筈であるが、口ばたに
「じゃに依って、安房どのに、お
と、なお
新蔵は、もう聞いているのが、不快になって、うるさいっ、と大喝してやろうと思ったが、それではまた、かえって
「わかった」
と、不快な
「話の趣、よく分った。父へもその由、伝えておくであろう」
「くれぐれもの」
と、念を押して、ばばはようやく目的を達したように、
すると、どこかで、
「くそばば」
と、いった者がある。
足を止めて、
「なんじゃと」
ねめ廻して、そこらを探すと、樹陰に見えた伊織の顔が、ヒーンと、馬の真似して歯を
「これでも喰らえ」
と、固い物を
「ア痛」
ばばは、胸を抑えながら、地に落ちた物を見た。そこらに幾つも落ちている
「こいつ」
ばばは、べつに実を一つ拾って、手をふり上げた。伊織は、悪たれをたたきながら逃げこんだ。
馬の
「…………」
伊織は、遠くに逃げて、物陰から顔を出していた。
ばばの前へ行って、
高い崖のうえの部屋で、新蔵が呼んでいる。伊織は救われたように、崖づたいに駈けて行った。
「おい、夕方の赤い富士山が見えるから来てみい」
「あ。富士山」
それで何もかも伊織は忘れてしまった。新蔵もまた、忘れ果てた顔していた。元よりきょうのことを父の耳へ伝えようなどとは、聞いているうちから思いもしないことではあった。
秀忠将軍はまだ三十をすこし出たばかりであった。父の大御所は一代の覇業をまず九分どおりまでは仕上げたというすがたで今は老いを駿府城に養っている。ここまでは父がした、後はおまえがやるのだと、将軍の職を秀忠は三十そこそこで父から任せられたのである。
父の業績は一代を通じての戦争であった。学問も修養も家庭生活も婚姻も、戦争の中でなかったことはない。その戦争はさらに
応仁の乱以後の長期な戦乱つづきである。世人は平和の招来に
家康は秀忠に職をゆずる時、
(そちのなすことは何か)
と、
秀忠はすぐ、
(建設にあると思います)
と、答えたので、家康は大いに安んじたということが側近から伝えられていた。
秀忠の信条は、そのまま今の江戸にあらわれている。大御所の認めていることでもあるし、彼の江戸建設は思いきって大規模で急速だった。
それに反して、太閤の遺孤秀頼を擁する大坂城では、戦争に次ぐ戦争の再軍備にせわしかった。将星はみな謀議の黒幕にひそみ、教書は密使の手から諸州に
(今にも、また、合戦が)
と、
(これからは、ほっとできよう)
と、いうのが江戸城を
必然――
庶民のながれは続々と、不安な上方から建設の江戸へ移り出した。
それはまた一般が、
事実、乱国につかれた庶民は、豊臣方が勝って、なお戦乱がつづくよりも、ここで徳川家が終局を
そういう世相は、関東上方のいずれに子孫を託すかと今、去就の半ばにある各藩の大名やその臣下の眼にも移って、日一日と、江戸城を中心とする
きょうも秀忠は、野支度で、旧城の本丸から新城の工事場のほうへ
すると大工たちの働いていた
「野郎っ」
「野郎っ」
「野郎っ、待てっ」
と、
脱兎のように、一人の井戸掘り人足が逃げ廻って行く。材木の間にかくれ左官小屋の裏へ走り、またそこから飛び出して、土塀足場の丸太へ
「ふてえ奴」
追い詰めて来た土工のうちの二、三名はすぐ、丸太の上の人間の足をつかまえた。井戸掘り人足男は、
「こいつめ」
「胸くそのわるい」
「叩きのめせ」
胸いたを踏みつける。顔を蹴とばす。
「…………」
井戸掘りは、痛いとも何ともいわなかった。ただ大地が唯一の頼みのように、地面にへばりついている。蹴転がされても、襟がみをつかまれても、すぐへばりついて必死に地を抱きしめた。
「どうしたのだ」
すぐ
「しずまれ」
と、押し分けた。
大工のひとりは、
「
「ま。しずかに申せ」
「これが、静かにできるものか。お武家が刀を土足でふまれたら、何となさいますえ」
「わかった。――じゃが、将軍様には今し方
「……へい」
一度は鳴りをしずめたが、
「じゃあ、この野郎を、
「
「ひとの曲尺を踏みつけておきながら、気をつけろといえば、謝りもせず、口答えをしやがったんです。このままじゃ、仕事にかかれません」
「分った、分った。きっと処分いたしてくれる」
と職方目付は、
「顔をあげい」
「……はい」
「や。そちは、井戸掘りの者じゃないか」
「……へ。そうです」
「紅葉山下の作事場では、お書物
「そうでさ」
と、大工たちは、職方目付の不審に、いい足して、
「この井戸掘りめ、
「そんなことはどうでもよいが。……これ、井戸掘り、何の用があって、そちは用もない西丸裏御門のお作事場などをうろついておったのか」
職方目付は、井戸掘りのまっ蒼な顔を見つめた。井戸掘りにしては男ぶりのよい又八の
その見張役の者は、作事場の中の些細な事故にも、すぐ眼をひからせているので、何事かと、又八がふくろ叩きになった現場へ駈けて来た。
そして職方目付の者から説明を訊きとると、
「上様のお目ざわりになるから、お目に触れぬ方へ立ち去られたがよかろう」
と、注意した。
尤もな言葉であるから、職方目付は、大工頭梁の侍に計って一同をめいめいの仕事の持場へ追い遣り、
「この井戸掘り人足の男は、ほかにちと調べることもあるから」
と、又八の身は、目付方で処置を取ることとして
御作事奉行配下職方目付詰所というのは、工事場に幾つもある。現場監督の役人たちが休んだり交替で起居をしているほんの仮小屋だった。土間
又八はその小屋の裏にくっ付いている、
「この井戸掘り人足は、不審のかどがある者だから、取調べのすむまで押込めて注意しておれよ」
小屋仲間は、又八の監視をいいつけられたが、そう厳重に縄目などはかけなかった。罪人と決まっている者ならば、すぐその方の手へ渡すだろうし、またこの工事場そのものが、すでに江戸城の厳重な
職方目付はその間に、井戸掘り親方やまたその方の監督者に交渉して、又八の身元とか平常の素行など洗ってみるつもりらしかったが、それも彼の容貌が根からの井戸掘り人足らしくないというだけの不審で、べつにどういうことをしたというわけでもないから、小屋に
――がしかし、又八自身は、その一刻一刻が死へ歩み寄っているような恐怖だった。
彼は、彼ひとりで、
「あのことが、
と、決めていた。
あのこととは、いうまでもなく、彼が奈良井の大蔵に
大蔵にその決行を迫られて、井戸掘り親方の運平らの口入れで城内へはいったからには、すでに又八の胸にはいちかばちかの覚悟がついている筈であるが、又八はあれから今日に至るまで、幾度も、秀忠将軍の工事場御巡視の機会には出会っていながら、
大蔵に脅迫された時は、いやといえば即座に、殺されそうだったのと、金も欲しかったので、
(やる)
と、誓ってしまったが、江戸城の中へはいってみると、たとえこのまま一生涯、井戸掘り人足で終ろうとも、将軍家を狙うなどという怖ろしいことは、自分にはできないと思い直して、大蔵との約束も努めて忘れるように、土まみれになって、他の人足たちの間に働いていたのである。
――ところが彼にとって、そうしていられない
それというのは、西裏御門の内にある大きな
井戸掘り人足のたくさんはいっている
で――彼は、
そして、いつか人目のない隙に、その木の下を掘って、鉄砲を他へ捨ててしまおうと考え、ひとり苦慮していたのである。
だから彼が、そこで
その恐怖は、その後も去らず、暗い小屋の中で毎日つづいた。
槐の木はもう移し植えられたかもしれない。根を掘れば地下から鉄砲が発見される。当然、取調べが始まる――
(こんど曳き出される時には
又八は毎晩、夢うつつに、あぶら汗をかいた。
或る夜、彼はまた、母親の夢をありありみた。おばばは、今の自分の境遇をあわれともいってくれず、
――ごめんなさいっ。
――おっ母さん。
子どものような悲鳴をあげたと思うと、彼は眼をさましていたのである。眼がさめるとまた、かえって夢よりも切実に
(そうだ……)
又八はこの恐怖から自分を救うために、ひとつの冒険へ
江戸城の要害は、小屋そのものにもあるわけではない。江戸城の外へ出ることはとてもできないが、この小屋から槐の木の側まで行ってみることは、さして困難ではあるまいと思いついたのだ。
もちろん小屋にも
材木置場だの、石置場だの、掘り返してある土の山陰などを這って、又八は、西裏御門の辺りまで来た。そして、見まわすと、
「……ああ」
又八は、ほっと胸をなでた。まだこの木が根移しされていないために、自分の生命もつながっていたのだと思った。
「今だ……」
彼は、どこかへ行って、やがて
「…………」
一鍬掘っては、その音のひびきに胸を騒がせて、鋭い眼が
いいあんばいに見廻りも来ない。鍬は次第に大胆に振りつづけられた。そして穴のまわりに新しい土の山ができた。
土を掻く犬のように、彼は夢中でその辺りを掘り起した。だが、いくら掘っても、土中からは土と石しか出なかった。
(誰か先に掘り出してしまったのではあるまいか)
又八は懸念しだした。
そしてよけい、徒労の鍬を
顔も腕も、汗にぬれて、その汗に土が
戛――
つかれた鍬と、つかれた
そのうちに、何か、どすっと鍬の刃にぶつかった。細長い物が穴の底に横たわっている。彼は鍬を
「あった」
と、
だが、鉄砲ならば、
でも、幾分の期待をかけて、
「…………」
又八は、もう鍬を拾う気力もなかった。何かまた、夢をみているのではないかと自分を疑った。
「…………」
なければないで、又八の不安は去らない。掘りちらした槐のまわりを歩きだした。そして足で土を蹴ちらしてまだ探していた。
――すると誰か、彼のうしろへ歩き寄って来た者がある。今来た様子でなく、意地わるくさっきから物陰で彼のなすことを眺めていたらしかった。又八の背をふいに打って、
「あるものか」
と耳元で笑った。
軽く打たれたのではあるが、又八は背中から五体がしびれて、自分の掘った
「……?」
振向いて、じっと、しばらく
「――お
「…………」
又八の体は硬直したまま動かなかった。沢庵の手をすら、冷たい爪の先で

「来ないか」
「…………」
「お
きっと沢庵が眼をもって叱るようにいうと、又八は
「そ、そこを。……そこの、後を……」
と、
沢庵は、あわれむように、
「よせ。むだのことを。人間が地上に
動かないので、彼は又八の耳たぶを持って引っ立てて行った。
彼が
「起きんか。誰か起きんか」
と、戸をたたいた。
小屋
「へい、何か」
「何かじゃないよ」
「へ……?」
「味噌小屋か漬物小屋かしらないが、そこをお
「その小屋には今、御不審の井戸掘りを押込めてございますが、何ぞお出しになる物でも」
「寝ぼけていてはいけない。その押し込め人は、窓を破って脱出しているではないか。わしが捕まえて来てあげたのだ。虫籠へきりぎりすを入れるような訳には参らぬから、戸をお開けというのだよ」
「あ。そいつが」
小屋
目付の侍はあわてて出て来て、怠慢のかどを
沢庵はただ
(どうしたものか?)
と顔を見あわせ、去りも出来ず、外に
すると沢庵がまた、戸の間から顔だけ出して、
「おぬしらのつかう
と、いう。
何にするのかと疑ったが、この坊さんにそんなことを訊ねていいものか悪いものかの判断もつきかねるのである。ともあれ剃刀を
「よしよし」
と、それを受取って、沢庵は中から、もう用事はないから
中は暗い。
だが、破れた窓から星明りはかすかに
「又八」
「…………」
「
「…………」
「わしなら掘り出してみせる所じゃがのう。だが鉄砲ではないぞ。
「……はい」
「はい、というたところで、おぬしにはその実相も何も分っておるまいが。――まだ夢ごこちに違いない。どうせおぬしは
「二十八になりました」
「武蔵と同年じゃなあ」
そういわれると又八は、両手を顔にやって、しゅくしゅくと
泣きたいだけ泣かしておけといわぬばかりに、沢庵は黙ってしまった。そして又八の
「怖ろしいとは思わぬか。槐の木はおろか者の墓標になるところじゃった。おぬしは自分で自分の墓穴を掘っていた。もう首まで突っ込んでいたのだぞよ」
「――たっ、たすけて下さい。沢庵さまっ」
又八は、いきなり沢庵の
「眼、眼が……やっと醒めました。わたしは、奈良井の大蔵に
「いや、まだほんとに、眼がさめてはおるまい。奈良井の大蔵は、おぬしを騙したわけではない。慾張りで、お人よしで、気が小さくて、そのくせ並の者ではできぬ大胆なこともしかねない、天下一の愚か者を見つけたので、上手にそれを使おうとしたのだ」
「わ、わかりました。自分の馬鹿が」
「いったいおぬしは、あの奈良井の大蔵を、何者と思うて頼まれたか」
「分りません。それは今になっても、分らない
「あれも関ヶ原の敗北者の一人、石田
「げっ、では、お尋ね者の残党でしたか」
「さもなくて、秀忠将軍の御寿命を
「いえ、わたしにいったのは、ただ徳川家に怨みがある。徳川家の世になるより、豊臣の世になったほうが、万民のためになる。だから自分の怨みばかりでなく、世上のためだというような話で……」
「そういう折、なぜおぬしは、その人間の底の底まで、じっと考えてみないのか。
「ああ、どうしよう」
「どうしようとは」
「沢庵さま」
「離せ。――いくらわしにしがみついてももう間にあわぬ」
「で、でも、まだ将軍様へ、鉄砲を向けたわけではありませんからどうか、助けてください。生れ変って、きっと、きっと……」
「いいや、鉄砲を
「え? 城太郎というのは。……もしや」
「いいや、そんなことは、どうでもよい。ともあれおぬしが
「では、では、どうしても」
「あたりまえだ」
「お慈悲ですッ」
しがみついて泣き吠える又八を、沢庵は立ち上がりざま蹴放して、
「ばかっ」
と小屋の屋根も吹き飛ぶような
うらめしげに又八はその眼を見ていたが、がくと、観念の
沢庵は、
「又八……。どうせ死ぬなら、
閣老部屋はひとつの密室でもある。ここの政議が洩れないために、
先頃から、沢庵と北条
「木曾からの使者がもどりました」
と、その日、表から閣老部屋へ報告がはいった。
閣老たちは、
「
と、待ちかねていた
使者は信州の松本藩の家来なのである。数日前に閣老部屋から早打が立って、木曾奈良井
家宅捜索をした結果、町家にあるまじき武器弾薬や、大坂方ととり
「遅かったか」
閣老たちは、舌打ちした。打った大網に
次の日。
これは閣老の中の酒井侯へ、酒井家の臣が、川越から来ての報告である。
「おいいつけに依りまして、即日宮本武蔵なる牢人の身は、
このことはすぐ、酒井忠勝から、沢庵の耳に伝えられた。
沢庵は、
「
と、かろく謝した。
自分の領地内のまちがい事なので、忠勝はかえって、
「武蔵とやらにも、
と、詫び返した。
沢庵が胸に持って来たことは、こうして江戸城
一夜、沢庵は、秀忠の室へ近づいて、秀忠に、
「こうなりました」
と、一切の始末を告げた。
そして、
「天下にはまだ無数の奈良井の大蔵がいることを、夢おわすれあってはなりません」
といった。
秀忠は、うむ、と強くうなずいた。この人にはものが分ると思うので沢庵はなお言葉をついで、
「その無数のものを、いちいち捕えて
秀忠は、そう小心ではない。沢庵の一言は百言に噛みくだいて、自己の反省としているので、
「手軽に、処置しておけ。この度は、御坊の進言に依ること、御坊の処置にまかすであろう」
と、いった。
沢庵は、それについて、親しく礼の旨を述べた。
その後で、
「野僧も、思わず月余を、御府内に逗留いたしましたが、近いうちに
と、併せて、別れの
秀忠は、ふと、石舟斎と聞いて、思い出を呼んだらしく、
「柳生の
と、訊ねた。
「このたびは、但馬どのも、おわかれぞと、覚悟のていに伺いました」
「では、むずかしいのか」
秀忠は、幼い頃、相国寺の陣中で、父の家康のそばに坐って謁見した、石舟斎
「次に」
と、その沈黙の
「かねて閣老衆にも計り、おゆるしも得ている儀にござりますが、安房どのからも野僧からも、御推挙申し上げておきました宮本武蔵、御師範へお取立てのことも伏してお願い申しておきまする」
「うむ。そのことも聴きおいてある。かねて、細川家でも
これで何もかも、沢庵は用事がすんだ心地だった。間もなく彼は秀忠の前を
けれど、それでもとかく、人の口はさがないものであった。沢庵は政治に
ところで、将軍家にまた当分の別辞を述べ、江戸城から出て来る前に、沢庵は、ひとりの男を、弟子として連れて来た。
彼は、秀忠から任せられた権限で、退出する間際の足を、工事場の職方目付の小屋へ向けたのであった。そして、そこの裏手の小屋を開けさせた。
闇の中に、きれいに頭を丸めた若い坊さんが、ぽつねんと
「……あ」
若い
「おいで」
沢庵は、外から手招きした。
「…………」
今道心は、立ち上がったが、脚が腐りかけてしまったように
沢庵は、その手を、掻い抱いてやった。
「…………」
いよいよ刑罰に処される日が来た――と又八は観念しきった眼をふさいでいた。脚の
「歩けるか」
「…………」
何かいったつもりだが、声は出なかった。沢庵に支えられている腕の上で、又八は力なく
中門を出る、多門を通る、
沢庵の後に
――なむあみだぶつ
――なむあみだ、なむあみだ
――なんまいだぶ……
又八道心は、一歩一歩が、死の刑場へ近づいているのだと思って口のうちで
それを唱えていると、死の

山の手の屋敷町が見える。
(ああ、この世だ)
又八は、改めて、そう観じずにいられなかった。そしてもいちど、あの浮世の中へ
――なんまいだ
――なんまいだ
彼は眼をふさいだ。
沢庵はふり
「これ、はやく歩け」
「ここで、待っておれ」
沢庵にいわれて、彼は原の中に
「はい」
「逃げてもだめだぞ」
「…………」
もう半分死んでいるような顔を悲しげに
沢庵は原を出て、往来の向うへ渡って行った。すぐ前に、まだ職人が白土を塗りかけている土塀があった。土塀につづいて高い
「……あ。ここは」
又八道心は
「……?」
また、急にがくがく
どこかで、
「……今のうちに」
と、彼は逃げようかと考えてみた。自分の身体には、縄も手錠もかけてはない。逃げれば逃げられないこともない気がする。
いや、いや、もうだめだ。この原の鶉のように
――お
彼は、胸のうちで、絶叫した。今さらながら、母の
お甲、
「お
もう一度生きのびられるものだったら、今度こそはお
又八道心は、誓ってそう思ったが、それもよしない後悔にすぎない。
今にも、飛ぶ首――
(雁が
逃げたい気もちがうずうずと体を
「今だ」
起ち上がった。
そして、駈け出した。
すると、どこかで、
「こらっ!」
と、呶鳴った者がある。
それだけで又八道心はもう必死の気を折られてしまった。思いがけない所に、棒を持って立っていた男がある。奉行所の刑吏だった。飛んで来るなりいきなり又八道心の肩さきを打ちすえて、
「どこへ逃げる!」
と、棒の先で、
そこへ沢庵が見えた。沢庵のほかに、奉行所の刑吏が――
その一かたまりが又八の側へ寄って来た頃、さらにまたもう一名の縄付を曳いて四、五名の
頭立った役人は、
「では、お立会いを」
と、沢庵を
刑の執行人たちは、ぞろぞろと
棒の先に抑えつけられていた又八道心は、
「起てっ」
と、どなられて体を
新しい
「……あ。又八さん?」
その時、誰か側でいった。又八はぎょろりと横を見た。――見ると自分と並んで
「ヤッ。……ああ
いった途端に、
「口をきいてはならん」
と、二人の刑吏が間にはいって長い
沢庵のそばにいた頭立った役人は、その時、
朱実は泣いていなかったが、又八は人前もなく涙をこぼした。で役人からいい渡された罪状もよく耳には通らないのであった。
「打てっ」
床几へつくと、すぐその役人は
「
数えながら又八と朱実の背を撲り出した。又八は、悲鳴をあげた。朱実はまっ蒼な顔を
「
割竹は割れて、竹の先から煙が立つように見えた。
原の外の往来に、ぼつぼつ人が立ち止まって、遠くから眺めていた。
「なんでしょう」
「お
「ア。百叩きですか」
「痛いだろうな」
「痛いでしょうね」
「まだ百には、半分もあるよ」
「勘定していたんですか」
「……ア。もう悲鳴も揚げなくなってしまった」
棒をかかえて、刑吏がやって来た。その棒で草を叩いて、
「立っちゃいかんっ」
往来の者は、歩き出した。振顧ってみると、百叩きも終ったらしく、
「ご苦労でござった」
「御大儀で」
沢庵と、主なる役人とは、正しく礼儀を交わし合って、立ち別れた。
役人小者たちは、どやどやと奉行所の門内にはいり、沢庵はなおしばらく、
「…………」
「…………」
人が去ると、
「…………」
「…………」
朱実も、又八道心も、いつまでもじっとうごかなかった。けれどまったく気絶してしまったわけではない。体じゅうは火みたいに痛んでいるし、また、天地に恥かしくて顔が上がらないのであった。
「……オ。水が」
朱実が先に
自分たちの
がぶっ……
かぶりつくように朱実は先にそれをのんだ。又八へすすめたのはその後からであった。
「……飲みませんか」
又八道心は、やっと手を伸ばした。ごくごくと水が
「又八さん……おまえ坊さんになったのかえ」
「……いいのかしら?」
「何が」
「お
「首なんか斬られてたまるものかね。
「何といって?」
「江戸表から追放を申しつけると。
「あっ。……じゃあ
頓狂な声を出した。よほど
朱実は、手を髪へやって、乱れ毛を掻きあげていた。襟を直し、帯をしめ直した。そうしている間に、又八道心の姿はもう草の彼方に小さくなっていた。
「……意気地なし」
彼女は
もうこの屋敷へ預けられてから数日。
伊織は、
「沢庵さんはどうしたのだろ?」
そう訊ねる彼のことばの裏には、沢庵の帰りよりは、師の武蔵を案じる憂いがこもっていた。
北条新蔵は、その気持を、いじらしく思って、
「父上もまだお
「じゃあ、あの馬、借りてもいい?」
「いいとも」
伊織は、厩へ飛んで行った。彼は、良い馬を選んで引っぱり出す。きのうも、おとといも、その馬には乗っていたが、新蔵には黙って乗って行ったのである。――けれど今日は許されたので大威張りであった。
馬に
屋敷町――畑道――丘――田や野や森や、晩秋の風物が見るまに駒のうしろになって行く。――そしてやがて、銀いろに光る武蔵野の
伊織は駒を立てて、
「あの山の
と、師のすがたを思う。
涙の頬を、野の風が冷たく撫でる。秋の更けたことは、あたりの草陰に真っ赤な
「そうだ! 会って来よう」
伊織は、思うとすぐ、馬のしりへ
駒は、尾花の波を跳んで、またたくまに
「いや、待てよ。ひょっとしたら草庵にお帰りになってるかもしれないぞ」
その日に限って、何となくそんな気がしたのである。伊織は、草庵へ行ってみた。屋根も壁も、壊れた所はみな
「おいらの先生を知らないかあっ……」
「馬なら一日で行けるだろう」
どうしても彼は、秩父までの遠乗りを決心しなければならなかった。行きさえすれば、武蔵に会えると思い、
いつぞや城太郎に追いつめられて覚えのある
「ア。通れないや」
往来止めではないが、通るには鞍から下りて、駒を曳かなければならないのである。伊織は、面倒と思って道を引っ返した。道に不便はない武蔵野の原であるし――
すると、飯を喰べかけていた
「オイ、どん栗坊主。待て」
と、呼んだ。
三、四名つづいて駈け寄って来るのであった。伊織は、駒の首をめぐらして、
「なんだと?」
と、怒ってみせた。
なりは小粒であるが、乗っている駒も鞍も、堂々たるものだった。
「降りろ」
伊織は、何のわけか分らなかったが、仲間どもの
「何さ。何も、降りなくたっていいだろう。――後へ戻るとこだもの」
「何でもいいから降りろ。つべこべいわずと」
「嫌だっ」
「いやだと」
いうより早く、ひとりの仲間が、彼の足を
「御用のあるお方があちらで待っているのだ。ベソを掻かずに、早う来いっ」
襟がみをつかまれて、立場の方へずるずる引戻されて行った。――と、
「ホホホホ。捕まったの」
と
「あ」
伊織は、真向きに、老婆のまえに立った。いつぞや北条家の邸内へ来た時、
いや、そんなことは、伊織に考えている
「
「…………」
「これ」
杖の先で、ばばは、彼の肩をとんと突いた。伊織は戦闘的に身を直したが、部落の中にはいっぱいな侍がいる。それが皆このばばの味方になったら
「武蔵は、よい弟子ばかり持つことわいな。おぬしも、その一人かよ。ホホホホホ」
「な、なんだと……」
「よいわ。武蔵のことは、このあいだ北条どのの息子にも、口の
「お、おいらは、おまえなんかに用はないや。帰るんだ。帰るんだっ」
「いいや、まだ用はすまぬ。――いったい今日は、誰の
「だれが、てめえなどの、後に
「口ぎたない餓鬼よ、
「よけいなお世話だい」
「その口から、泣きほざかぬがよいぞ、さあ来やい」
「ど、どこへさ」
「どこへでもよい」
「帰るんだ、おらあ、帰るっ」
「誰が――」
と、ばばの杖は
伊織は思わず、
「痛いっ」
と、いって坐った。
ばばの眼くばせのもとに、
そこにいたのは、
捕まって来た伊織を見ると、その侍はにやりと笑った。気味のわるい人である。伊織は
その小次郎へ、おばばは、得意そうに、
「見なされ、やはり伊織めであったがな。武蔵
と、
「……ウむ」
小次郎も、そう考えているように、
「逃げるといかぬ。逃げぬように、小次郎どの、
小次郎はまた、薄笑いをうかべて、顔を横に振った。――その笑い顔の前では、逃げることはおろか、起つこともできないと、伊織はあきらめていた。
「小僧」
小次郎は、当りまえな言葉で話しかけた。
「――今、ばば殿が、ああいうたが、その通りか。それに違いないか」
「ううん、ち、ちがう」
「どう違う?」
「おらはただ、馬に乗って、
「そうだろう」
と、小次郎は一応、得心して見せたが、
「武蔵も武士の端くれならば、よもそのような卑劣はすまい。……だが、突然わしとばば殿とが、打揃うて、細川家の家士のうちに
と、独りぎめして、伊織のいいわけなど、耳に入れない。
伊織もまた、そういわれてから初めて、彼やおばばの境遇に、改めて不審を持った。二人の身に、何か最近、変ったことが起ったに違いない。
なぜならば、小次郎の特徴であった髪や
ただ、変らないのは、愛刀
ばばも旅支度だし、小次郎も
そう考えてくると、細川
岩間角兵衛だの、新参の小次郎だのの一行は、その先発として、本国
同時にまた、おばばの身にも、どうしても一度、郷里に帰らなければならない事情が起っていた。
跡取りの又八は家出し、大黒柱ともいうべき彼女は、ここ幾年も帰ったことはなく、親類中でも頼りとする河原の権叔父までが、旅先で落命しているので、郷里にある本位田家にも、その間、いろいろな問題が
で、おばばは、なお武蔵にもお通にも依然として他日の報復は期しているが、小次郎が豊前小倉まで下るのをよい
――だが、このばばのことであるから、武蔵に対しては、一時でもただ
小野家から小次郎に洩れ、小次郎から彼女の耳へはいった噂によると、武蔵は近く、北条安房や沢庵の推挙によって、柳生、小野の二家に加わって、将軍家師範の一員となるということだった。
それを小次郎から聞かされた時の、ばばの不快そうな顔色といったらなかった。そうなっては将来、手出しのし
で、彼女は、沢庵にだけは会えなかったが、北条安房守の玄関に立ったり、柳生家へわざわざ出向いたりして、極力、武蔵が取立てられることの非を鳴らした。推薦者の二家ばかりでなく、
もちろん小次郎は、それを止めもしないしまた、
(――わしが小倉へ参っても、いつか一度は、武蔵とまみえる日がきっと来る。また、いろいろな関係が、宿命的にもそうなっている気がする。ここはしばらくほっておいて彼が出世の
小次郎からも、今度の小倉下向に、
(あれも、今に眼がさめて、後を追うて来るじゃろう)
と、武蔵野の秋も暮れるこの頃を――
だが。
そういう二人の一身上の変化などは、もとより伊織の知るところでもなし、いくら考えても、分ることではなかった。
逃げるにも逃げられないし、涙など見せては、師の恥になると思って彼は、恐ろしい中にも、じっと我慢して、小次郎の
小次郎も意識的に、その眼をにらみつけた。だが伊織は眼を
どんな目に遭わされるかと思っているらしい伊織の戦慄は、子ども心の憂いに過ぎなかった。
小次郎には、おばばのように、子どもと対等になる気など毛頭ない、まして今日の彼には地位もできていた。
「ばば殿」
と、ふと呼ぶ。
「おいの。なんじゃ」
「矢立をお持ちか」
「矢立はあるが、墨つぼが乾いておる。なんぞ筆が
「武蔵へ、手紙を
「武蔵へと」
「されば。辻々へ
「何と書きなさる?」
「文飾などはいらぬ。また、わしが豊前へ下ることも、
「そのような……」
と、ばばは手を振って、
「――気の永いことは困る。作州の家へ帰っても、わしはまたすぐ旅に出るつもりじゃ。そしてこの両三年がうちには、きっと武蔵を討たねばならぬ」
「わしにまかせておけ。おばばの望みも、わしと武蔵との事の
「じゃが、なんせい、
「養生をなされ。長生きをして、わしが
受取った矢立を持って、小次郎は近くの流れに手を
「これに飯粒が」
と、ばばは弁当
細川家家中佐々木巌流
と、書いた。「小僧」
「…………」
「恐がらないでもよい。これを持って帰れ。そして中には大事な用向きが書いてあるから、きっと、師の武蔵へ手渡すのだぞ」
「……?」
伊織は、持って行ったものか、きっぱり断ったほうがいいものか、考えているふうだったが、
「……うん」
そして、
「こん
「今、おばばへ話したような意味だ」
「見てもいいかい」
「封を切ってはならん」
「でも、もしか先生に無礼なことでも書いてある手紙なら、おいらは、持って行かないぜ」
「安心せい。無礼なことばなどは書いてない。かつての約束は忘れておるまいなということと、たとえ豊前に下るとも、必ず再会の日を期しておるということが書いてあるだけだ」
「再会というのは、おじさんと先生と、会うことかい」
「そうだ、生死の境に」
と、うなずく小次郎の頬に、薄っすらと血が冴えた。
「きっと届けるよ」
伊織は、手紙を、
そしてすばやく、
「あばよ!」
おばばと小次郎の間から六、七間も跳び離れて、
「ばかっ」
と、いい放った。
「な、なんじゃと」
ばばは、追おうとした。
だが、小次郎が手を抑えて離さなかったのである。小次郎は苦笑して、
「いわしておけ。子どものことだ……」
伊織は、もっと何か、胸につかえていたものをいおうとして、踏み止まったのであるが、眼は
「なんだ小僧。――ばかといったようだが、それきりか」
「そ、それきりだいッ」
「あはははは。おかしな奴だ。はやく行け」
「大きなお世話だよ。見ていろ、きっと、この手紙は、先生に渡してやるから」
「おお届けるのだ」
「後で後悔するんだろ。おまえたちが、歯ぎしりしたって、先生が、負けるものか」
「武蔵に似て、負けない口をきく小僧
「餓鬼っ」
小次郎の眼が、はったと、自分のほうを見た。見たというよりは、眼の球がとびかかって来たような衝動だった。いつかの晩のむささびの眼などまだまだ弱いくらいだった。
「…………」
「…………」
武蔵野のまん中に、彼は息をきって坐りこんでいた。
二刻もそうしていた。
そのあいだに、伊織はおぼろげながら、わが師と頼む人の境遇を、初めて考えてみたのだった。敵の多い人だということが子供ごころにも分った。
(おいらも偉くなろう)
いつまで、師の身を無事に、そして永く師を奉じるためには、自分も一緒に偉くなって、師を護る力をはやく持たなければならないと思った。
「……偉くなれるかしら、おいらなんか」
正直に、彼は、自分を考えてみる。さっきの小次郎の眼光が思い出されてまた、ぞっと身の毛がよだったのである。
ひょっとしたら、自分の先生でも、あの人には
「…………」
草の中に、膝をかかえているまに、
そうだ。新蔵様は心配するかも知れないが、秩父まで行ってしまおう。
伊織は立って、野を見まわした。
「どこへ行ったろ? おいらの馬は?」
北条家の
水か霧か、うすい煙のようなものが、草の間を、低くうごいてゆく。――そこらに、駒の跫音がするような気がして駈けて行けば、駒の影もなく、水の流れもない。
「おや?
と、何やら黒いものの動くのを見て、また駈けてゆくと、それは
野猪は、伊織のそばをかすめて、萩むらの中へ、
「……?」
だが、霧かと眺めているうちに、霧はせんかんと水音を立て、やがて、小川のせせらぎの上に鮮やかな月の影を浮かべてくる。
「…………」
伊織は怖くなって来た。彼は幼時からいろいろな野の神秘を知っている。
彼はふいに、大きく声をしゃくって、泣きはじめた。
馬が見つからないので、泣きたくなったわけでもない、急に父母のない身が悲しくなったとも見えない。
こういう時、少年の涙は、彼自身にも甘かった。
人間以外の、星か、野の精が、もし彼に向って、
――何で泣くか。
と訊ねたら、彼は泣きやみもせずいうにちがいない。
――わからないや。分ることなら泣きなんかしないや。
それをもっと
――おいらは、
独り泣く
「伊織。伊織ではないか」
「おお、伊織だ」
彼のうしろで突然そういう人声がした。伊織は泣き
「――ア。先生」
伊織は馬上の人の足元まで、のめるように駈け
「先生っ。先……先生」
あぶみへ、しがみつきながら叫んだのであった。――だがふと、夢ではないかと疑うような眼をして、武蔵の顔を見上げ――また、馬のわきに
「どうした?」
と、馬上から見おろしていう武蔵の顔は、月のせいか、いたく
「――こんな所を、どうして独りで歩いていたのだい」
それは次にいった権之助のことばである。権之助の手は、すぐ伊織の頭の上へ来て、自分の胸へかかえ寄せた。
もし前に泣いていなかったら、伊織はここで泣いたかも知れなかったが、彼の頬は月にてらてら乾いていた。
「先生のいる
いいかけてふと、伊織は、武蔵の乗っている駒の鞍や毛並を見つめ、
「オヤ。この馬は……おいらの乗って来た馬だ」
権之助は、笑って、
「おまえのか」
「ああ」
「誰のか知らぬが、
「アア、野の神さまが、先生の迎えに、わざとそっちへ逃がしたんだね」
「だが、おまえの馬というのもおかしいではないか。この鞍は、千石以上の侍のものだが」
「北条様の
武蔵は降りて、
「伊織、ではそちは今日まで、
「はい。沢庵さまに連れられて――沢庵さまがいろといったんです」
「草庵はどうなっている」
「村の人たちがすっかり
「では、これから戻っても、
「……先生」
「うむ。なんじゃな」
「
「
「その牢舎を、どうして出て来たんですか」
「後で、権之助から、ゆるゆる聞くがよい。ひと口にいえば、天の御加護があったか、
権之助が、すぐいい足した。
「伊織、もう心配すな。きのう川越の酒井家から、急使が来て、平あやまりに謝り、むじつのお疑いが晴れたわけだ」
「じゃあきっと、沢庵さまが、将軍様に頼んだのかも知れないよ。沢庵さまはお城へ上がったきり、まだ北条様のおやしきへ帰らないから」
伊織は
それから、城太郎と出会ったことや、その城太郎が、実の
「あ。それからね、先生、まだたいへんなことがあるよ」
と、
「なに、小次郎からの書状? ……」
武蔵はむしろ、心待ちしていた消息でも手にしたように、
「どこで会ったか」
と、その
「
と、伊織は答え、
「――あの、恐いおばばも、一緒にいましたよ」
「おばばとは、本位田家のあの年よりか」
「
「ほ……?」
「細川家のお侍たちと一緒でね……詳しいことはその中に書いてあるでしょう。――先生も、油断しちゃだめですよ。しっかりして下さい」
武蔵は書面を
「小次郎って人も、強いんでしょ。先生は何か怨みをうけているの? ……」
と、それからそれへと問わず語りに、きょうの始末を、
やがて何十日ぶりで、草庵にたどり着いた。早速に欲しいのが、火と食物。――夜は更けていたが、権之助が
火ができる。
あかあかと燃える一
「あら?」
伊織は、袖口にかくれている師の腕だの、襟元などに、まだ傷口の割れている
「先生、どうしたんです。身体じゅうに……そんなに」
「何でもない」
武蔵は、話を
「馬にも、何かやったか」
「ええ、
「あの駒を、明日は北条どののお邸へ、かえして来なければいけないぞ」
「はい。夜が明けたら、行って参ります」
伊織は寝坊しなかった。
そして、朝飯前に
「ああ!」
伊織は、駒を止めて、驚きの眼をすえていたが、急に駒を返して、草庵の外から、
「先生、先生。早く起きてごらんなさい。いつかみたいな――秩父の峰から拝んだ時みたいな――それはそれは大きなお
「おう」
と、武蔵がどこかでいう。武蔵はもう起きて、小鳥の声の中をあるいていた。行って来ます、と元気よく駈けてゆく
一夜ごとに落葉がたまる。邸内を
「
「へい」
「栗毛はゆうべ帰らなかったな」
「馬よりは、あの子はいったい、何処へ行っちまったんでしょう」
「
「いくら子供は風の子だって、まさか夜どおし、駆け歩いているわけでもないでしょうに」
「心配はない。あれは、風の子というよりは、野の子だからな。ときどき、野原へ出てみたくなるに違いない」
門番の
「若旦那さま。お友達の方が大勢して、あれへお越しなさいましたが」
「友達が」
新蔵は歩き出して、玄関前にかたまっている五、六名の青年たちへ声をかけた。
「やあ」
すると、青年たちも、
「ようっ」
と
「しばらく」
「お揃いで」
「ご健勝か」
「この通りだ」
「お怪我をなされたとうわさに聞いていたが」
「何。さしたるほどではない。――早朝から諸兄おそろいで、何事か御用でも」
「む、ちと」
五、六名は顔を見合わせた。この青年たちは皆、旗本の子弟とか、
また先頃までは、
「あれへ行こうか」
新蔵は、平庭の一隅に燃えている落葉の山を指さした。その
「寒くなると、まだここの傷口が痛んでな……」
と
新蔵のその刀傷を、青年たちはこもごも覗いて、
「相手はやはり、佐々木小次郎と聞きましたが」
「そうだ」
新蔵は、目にいぶる煙に、顔を
「きょうご相談に参ったのは、その佐々木小次郎についてでござるが……。亡師勘兵衛先生の御子息、余五郎どのを討ったのも、小次郎の
「多分……とは思っていたが、何か、証拠があがりましたか」
「余五郎どのの死骸が発見されたのは、例の芝
「……ム。では余五郎どのは、単身でその小次郎の所へ」
「返り討ちにおなりなされたのです。死骸として、裏山の崖から発見された前日の夕方、花屋のおやじが、それらしいお姿を、附近で見かけたということで……かたがた、小次郎が手にかけて、崖へ死骸を蹴込んでおいたことは、もはや疑う余地もございません」
「…………」
話はそこで
「で? ……」
新蔵は火にほてった顔を上げ、
「それがしに相談とは」
青年の一人が、
「師家の今後です。それと、小次郎に対するわれわれの覚悟のほどを」
「あなたを中心に決めておきたいというわけで」
と、いい足した。
新蔵は考えこんでしまう。――青年たちは、なお口をきわめて、
「お聞き及びかも知れぬが、佐々木小次郎は、折も折、細川
「新蔵どの、残念ではないか。小幡門下として、このままでは」
誰かが、煙に
新蔵は依然、黙りこくっていたが――果てしない同門たちの悲憤の
「何せい拙者は、小次郎から受けた刀の

「細川家へ談じ込もうと思うのです」
「何と」
「
「受け取って、どう召さる」
「亡師と御子息の墓前に、
「縄付で下さればよいが、細川家でもそうはいたすまい。われわれの手で討てる相手なら、今日までにも

「さすれば、やむを得ぬ。最後の手段をとるばかりだ」
「まだほかに手段があるのですか」
「岩間角兵衛や小次郎の一行が立ったのはつい昨日のこと。追いかければ道中で行き着く。貴公を先頭にして、ここにいる六名、そのほか小幡門下の義心ある者を
「旅先で討つといわれるのか」
「そうです。新蔵どの、あなたも
「わしは嫌だ」
「嫌だと」
「嫌だ」
「な、なぜです。聞けば貴公は、小幡家の
「自分の敵とする人間のことは、誰しも、自分より優れていると思いたくないものだが、公平に、われと彼とを較べれば、剣に依っては、
「では、指を
「いやこの新蔵にせよ、無念は一つだ。ただわしは、時期を待とうと思う」
「気の永い」
一人が舌打ちすると、
「逃げ口上だ」
と
入れ違いに、門前で鞍から下りた伊織は、馬の口輪を引ッぱって、
「新蔵おじさん。こんな所にいたの」
「おお帰ったか」
「何を考えているの。え、喧嘩したのかい、おじさん」
「なぜ」
「だって今、おいらが帰って来ると、若い侍たちが、ぷんぷん怒って出て行ったもの。
「はははは。そのことか」
新蔵は笑い消して、
「それよりは、まあ焚火にでもあたれ」
「焚火なんかにあたれるものか。武蔵野から一息に飛ばして来たので、おいらの体は、この通り湯気が立っているよ」
「元気だな。ゆうべは何処に寝たか」
「ア。新蔵おじさん。――武蔵さまが戻って来たよ」
「そうだそうだな」
「なんだ。知ってるの」
「
「沢庵さんは?」
「奥に」
と、眼でさして、
「伊織」
「え」
「聞いたか」
「なにを」
「おまえの先生が出世なさる吉事だ。途方もない歓び事だ。まだ知るまいが」
「何。何。教えてよ。先生が出世するって、どんなことさ」
「将軍家御師範役の列に加わって一方の
「えっ、ほんと」
「
「うれしいとも。じゃあもう一ぺん、馬を貸してくれないか」
「どうするのだ」
「先生の所へ
「それには及ばぬ。今日のうち正式に、閣老から武蔵先生へお召状がさがるはず。それを持って明日は、
「じゃあ、先生が、こっちへ来るの」
「うむ」
うなずいて、新蔵は、そこを離れて歩き出しながら、
「朝飯は食べたか」
「ううん」
「まだか。はやく食べて来い!」
彼と話しているうちに、新蔵はいくらか
それから一刻ほど後、閣老からの使いが見えた。沢庵へ宛てた書簡と共に、明日、辰の口
新蔵は、その旨をうけて、騎馬となり、べつに一頭の美々しい乗換馬を
「お迎えに」
と、訪れると、武蔵はちょうど、権之助を相手に、陽なたで小猫を膝にのせて、何か話していた折だったが、
「いやこちらから、お礼に出るつもりでいたところ」
と、そのまま、すぐ迎えの駒に乗った。
獄から解かれた武蔵にはまた、将軍家師範という栄達が待っていた。
だが武蔵は、それよりも沢庵という友、
翌る日。
すでに北条父子は、彼のために
「めでたい日、おこころ爽やかに行って参られい」
と、朝の膳は、赤い御飯、
この温情に対して、また、沢庵の好意を酌んでも、武蔵は、自分の望みばかり固持していられなかった。
法典ヶ原の開墾に従事して、およそ二ヵ年足らずのあいだ、土に親しみ、農田の人々と一緒に働いてみて、自己の兵法を、大きな治国や
豊臣と徳川と、これは宿命的にも、大きな戦争をまだ敢てやるだろう。思想も人心も、為に、なお混沌たる暴風期を衝き抜けなければならない。そして関東か、上方か、いずれかに統一を見るまでは、聖賢の道も、治国の兵法も、いうべくして行われるわけはない。
明日にも、そうした大乱があるとする――その場合に、自分はいずれの軍へつくべきだろうか。
関東に加担するか。上方に走って味方するべきか。
それとも、世をよそに、山へ分け入って、天下の鎮まるのを、草を喰って待っているべきだろうか。
(いずれにせよ、今、将軍の一師範になって、それを以て、甘んじてしまったら、自分の道業もまずは知れたものといえよう)
朝の陽のかがやく道を、彼は式服を着、見事な鞍の駒にまたがり、栄達の門へと、そうして一歩一歩近づいておりながら、なお、心のどこかでは、満足しきれないものがあるのだった。
「下馬」
と、高札が見える。
伝奏屋敷の門だった。
玉砂利をしきつめた門前に、駒つなぎがある。武蔵がそこで降りていると、すぐ一名の役人と、馬預りの小者が飛んでくる。
「昨日、御老中よりの御飛札により、お召しを承って
この日、武蔵はもとよりただ一名であった。しばらく待つ間に、
「お沙汰あるまでこれにお控えください」
蘭の
茶菓が出る。
人の顔を見たのはそれだけで、後はおよそ小半日も待たされた。
襖の小禽は啼かず、描いた蘭は
やがて、閣老の一名であろう、
「武蔵どので
と、あっさりそれへ出て来て坐った。ふと仰ぐと、川越の城主である酒井忠勝であった。けれどここでは江戸城の一
「お召しに依って」
と、武蔵が――これは先方が威儀作ろうと否とにかかわらず――長者に対するいんぎんな礼を
「作州牢人、
忠勝は、肥えたふたえ
「大儀、大儀でおざった」
と、受けた。
そしてややいい渋った面持に、気の毒そうな眼を持ちながら、
「時に――かねて沢庵和尚や
といって、忠勝は慰めることばもないように――また、
「
――武蔵は、平伏のまま、
「……はっ」
と、なおひれ伏していた。
忠勝の言葉は、むしろ耳に温く聞えた。同時に胸の底から、わき出ずる感激が身をひたした。
反省はあっても、彼とて人間である。もし無事に任命があったら、このまま幕府の一吏事となって、かえって
「お沙汰の趣、相分りました。ありがたく存じまする」
自然そういったのである。不面目などという気は毛頭なかった。皮肉もない。彼としては、将軍以上のものから、一師範役以上のもっと大きな任を――その時、神のことばをもって、胸に授けられていた。
神妙な――と忠勝はその
「余事であるが、聞けば、
「…………」
武蔵が、彼のことばを心に解いているうちに、忠勝は、
「後刻までに」
と、席を立った。
忠勝の言葉のうちには、毀誉褒貶とか、俗人たちの中傷とか陰口とかいうことが、幾度か、意味ありげに繰返されていた。――それに答える要はないが、潔白な武士の心操は示しておけ! 暗にそういったように武蔵には解かれた。
「そうだ、自分の面目は、泥に委そうと、自分を推挙し給わった人たちの面目をけがしては……」
武蔵は、広間の一隅にある純白な六曲
子どもの頃は誰でも画を描く。画を描くのは、歌をうたうも同じだ。それが大人になるときまってみな描けなくなる。
武蔵も、幼少の時は、よく画を描いた。環境の淋しかった彼は、特に画が好きだった。
だがその画も、十三、四から二十歳過ぎまでの間は、ほとんど忘れていた。――その後、諸国を修行中、多くは宿泊する寺院で、或る時は貴顕の邸宅で――しばしば、床の間の軸や壁画に接する機会が多くなり、描かないまでも、また、興味を持つようになった。
いつだったか。
多分、あの頃からであったろう。彼がふたたび画に眼をひらき出したのは。
北宋、南宋の
自然、その中に彼の好き
また、洛外の滝の本坊にいるという隠操の雅人、
で、時には。
人には示さぬものとして、
厭になって、もう止した。――だがまたふと、何かに感興をよび起されて、人知れず描いてみる。
「……よし!」
それを今、彼は、描いてしまった。しかも六曲半双へ、一気に。
試合の後――ほっと息づくように胸をあげて、静かに、筆洗へ筆の先を沈めると、描きあげたわが画に一
「――門」
武蔵は、そこの豪壮な門を
入るが栄達の門か。
出るが栄光の門かと。
人はなく、まだ濡れている屏風のみが残されてあった。
いちめんに武蔵野之図が描いてあった。大きな旭日だけを、わが丹心と誇示するように、それだけに朱が塗ってあって、後は墨一色の秋の野だった。
酒井忠勝は、その前に坐ったまま、黙然と腕を
「ああ、野に虎を逸した」
と、独り
武蔵は、何か思うところあったのか、その日、辰の口御門を去ると、牛込の北条家には戻らず、武蔵野の草庵へ帰ってしまった。
留守をしていた権之助は、
「オオ、お戻り」
と、すぐ駒の口輪を取りに外へ飛び出して来る。
いつになく
「おめでとうござりました。……はや明日からでも、御出仕でござりますか」
武蔵が坐ると、
武蔵は笑って、
「いや、沙汰止みになった」
「えっ……?」
「よろこべ、権之助。今日になって、
「はて。
「問うに及ばん。理由など
「でも」
「其方まで、わしの栄達が、江戸城の門にばかりあると思うか」
「…………」
「――とはいえ、自分も一時は野心を抱いた。しかしわしの野望は、地位や禄ではない。
「何者かの、
「まだいうか。
「いえ、そんなことはござりませぬ。よい
「それは誤りはないが、それは理論で、実際でない。学者の部屋の真理は、世俗の中の真理とは必ずしも同一でない」
「では、われわれが
「ばかな」
と、武蔵は
「この国のあらん限り、世の
「……は」
「だが深く思うと、
そういった後で、武蔵はにやにやと笑った。抑えきれない自嘲を洩らすように。
「……そうだ。権之助。
何か書面を
「権之助。大儀ながら、使いに行ってもらいたいが」
「牛込の北条どののお邸へでございますか」
「そうだ。委細、武蔵のこころは書中にある。沢庵どの、安房どのへ、そちからも宜しゅうお伝え申しあげてくれい」
武蔵は、そう告げて、
「そうそう、ついでに伊織より預かりおる品、そちの手から彼へ、戻しておいてほしい」
取出して、書面と共に、権之助の前へさし出した物を見ると、それはいつか伊織から武蔵へ預けた――父の
「先生」
権之助は、不審顔に、膝をすすめ――
「いかなる
「誰とも離れて、武蔵はまた、しばらく山へ分け入りたい」
「山ならば山へ、町ならば町の中へ、何処までも、弟子として、伊織も手前もお供いたす所存にござりますが」
「永くとはいわぬ、両三年が間、伊織の身は、そちの手に頼む」
「えっ。……ではまったく、
「まさか――」
武蔵は笑いながら、膝を解いて、うしろに手をつかえ、
「乳臭いわしが、今から何で――。先にいった大望もある。あれやこれ、慾もこれから。迷いもこれから。――誰が歌か、こういうのがあった」
なかなかに
人里近くなりにけり
あまりに山の
奥をたづねて
武蔵が人里近くなりにけり
あまりに山の
奥をたづねて
「ともあれ、夜にかかりますゆえ急いで参ります」
「ウム。拝借の駒、お
「はい」
「本来、辰の口より今日すぐに、安房どののお邸の方へ戻るべきなれど、この度のこと、お取止めの
「承知いたしました。……とにかく手前も、今宵のうちに、直ぐ戻って参りますから」
もう赤々と野末に夕陽は沈みかけている。権之助は、駒の口輪を
赤城下に行き着いたのは、夜も
――どうしてまだ帰って来ないのか?
と、北条家では案じていたところなので、権之助はすぐ奥へ通され、書面も沢庵の手で、即座に封を切られた。
使いとして、権之助がここに見える前に、この席の人々は、武蔵の就任取止めの沙汰を、或る方面から洩れ聞いていた。
或る方面というのは、やはり幕閣の一員で、その者がいうには、
不合格となった、何よりもいけない点は、
――彼は仇持ちだ。
という風評が専らにあることだった。しかも非は彼にあって、彼を仇と狙って永年辛苦している者は、もう
どうして、そんな誤解が生じたのかについては北条新蔵が、
(いや、そのことなら、その
と、留守中、本位田家のばばが、武蔵の悪たいを並べて立ち去ったことを、初めて、父と沢庵の耳に入れたのだった。
それで分った、原因が。
しかし、わからないのは、あんな婆の
所へ、武蔵の使いとして、権之助が書面を
委細、権之助よりお聞え上げ賜わるべし。さる人の歌に
なかなかに
人里ちかくなりにけり
あまりに山の
奥をたづねて
人里ちかくなりにけり
あまりに山の
奥をたづねて
近頃おもしろく覚え候うて、又いつもの持病かや、旅にさまよい出で候
左の一首は、又の旅出に即興の腰折れ、おわらい賜わるべく候
左の一首は、又の旅出に即興の腰折れ、おわらい賜わるべく候
そのまま庭と
見るときは
われは浮世の
家の戸ざかひ
「辰の口から一応は御当家へ帰って、委細、申しあげるのが順でございますが、すでに幕閣より、御不審の目をもって見られたる身が、心
そう聞くと、一しお、北条新蔵も、安房守も、名残が惜しまれて
「何のご遠慮ぶかい。――このままでは、こちらの心も何となくすまぬ。沢庵どの、呼び迎えても来ぬかも知れぬ。これより駒をつらねて、武蔵野まで訪れようか」
起ちかけると、
「あ。お待ちください。手前もお供仕りますが、伊織へ返せと、師から申しつかって来た品があるので。――恐れ入りますが、伊織をこれへ、お呼びくださいませぬか」
と、彼へ手渡す例の古びた
伊織はすぐ呼ばれて来て、
「はい。何ですか」
目ばやく、眼はもうそこに置いてある自分の革巾着を見つけている。
「これを、先生からお前にお返しになった。お前の父の
権之助は、それと共に、師の武蔵がしばらくわれわれと別れて御修行の途に上るから、おまえは今日以後、当分はわしと共に暮すことになろうということをもいい渡した。
伊織はすこし不服顔。
だが、沢庵がいるし、安房守もいるので、
「はい」
と不承不承うなずく。
沢庵は、その革巾着が、彼の父親の遺物と聞いて、伊織の素姓についていろいろ
何代前かに、主家の没落にあい、戦乱の中で一族は離散してしまい、その後は諸国を
「ただ、よく分んないのは、おらに姉さんがあるっていったけれど、お
率直な伊織の答えを聞きながら、沢庵はその
「伊織。その姉なら、父三右衛門の筆らしいこの書付に書いてあるが」
「書いてあっても、何のことか、おらにも、徳願寺のお住持でも分らないんです」
「よく分っておる。この沢庵には……」
と、その一紙片を人々の眼の前に拡げて沢庵が読んだ。文章は数十行に亘るが前の方は略して、
――飢エ仆 ルル共、二君ヲ求ムル心無ク、夫婦シテ流転年久シク、賤 シキ業 シテ歩クウチ、一年 中国ノ一寺ニ、一女ヲ捨テ、伝来ノ天音一管ヲ襁褓 ニ添エテ、慈悲ノ御廂 ニ、子ノ末ヲ祈願シ奉リテ又他国ニ漂泊 ウ。
後、コノ下総原ニ一茅 ノ屋 ト田ヲ獲、年経ルママ思エドモ、山河ヲ隔テ、又消息ヲ絶ツノ今、カエッテ子ノ幸 ニ如何アルベシナド思イ、イツシカ歳月ノ流レニマカセ了 ンヌ。
浅マシキ哉、人ノ親。鎌倉右大臣モ歌イケル
ものいはぬ
四方 の獣 すらだにも
あはれなるかなや
親の子をおもふ
サアレ二君ニマミエ、私ヲ負イ名ヲ争ウテ、武門ノ果ヲ汚サンヨリハ祖先モアワレト見ソナワシ給ウベシ。ワガ子モ亦、コノ父ノ子ゾカシ。名ヲ惜ムトモ、サモシキ粟 食ベルナ。
「会うことができるぞ。この姉なら、わしも若年からよう知っておる。武蔵も存じておる。伊織、さあおまえも行け」後、コノ下総原ニ一
浅マシキ哉、人ノ親。鎌倉右大臣モ歌イケル
ものいはぬ
あはれなるかなや
親の子をおもふ
サアレ二君ニマミエ、私ヲ負イ名ヲ争ウテ、武門ノ果ヲ汚サンヨリハ祖先モアワレト見ソナワシ給ウベシ。ワガ子モ亦、コノ父ノ子ゾカシ。名ヲ惜ムトモ、サモシキ
沢庵は、席を立った。
だが、その夜、武蔵野の草庵へ急いだ人々も、遂に武蔵とは会えなかった。
夜の明けかけた野末の果てに、一