さて、その後またどうしたろうか、お
かの女の今の環境はしずかであった。
部屋の前はひろい河原で、玉砂利と雑草とを
そこは、京の
河原に向った数寄屋作りは、お千絵のために建てたように
お千絵はそこの窓から、毎日、加茂の水を見ていた。今も、侍女とは口もきかずに、じっと、そうしているのである。
「弦之丞様……弦之丞様は?」
と、ひねもす河原に
しかし、その愛人の消息はおろか、まだ自分自身の境遇さえ、いったい、どう変って、どこへ向っているのか、夢のようで思い当たれないお千絵であった。
病気は、江戸にいた頃から、少しずつよくなっていたので、
「お千絵様、殿様はいつもこうおっしゃっておいででございます――」と、そばに
「ある時節がまいりますまで、あなたは松平家の御息女のおつもりで、夏は夏を、秋は秋をたのしんで、気を賑やかに、わがままに、こうしておいでになればよろしいのじゃと……」
「だって私は……」とお千絵は、慰められる言葉にいつも気が沈んで……。
「そんな気もちになっていられませぬ」
「なぜでございますか。殿様の仰せつけ、お気がねはいりませぬのに」
「でも、誰ひとりとして、私のたずねることに、はっきり
「それは、お千絵様、あなたのお体を思うからでございます」
「……じゃあ私は……といっても、また教えてくれないかも知れぬが、どうして、この京都へくるようになったのでしょう?」
「別に深い意味でございませぬ。あなた様のお体を預かっている
「そして、よく私を慰めて下さった、
「御用があって、大阪表へお越しになったとやら? ……それもよくは存じませぬが」
「じゃ、そなた、万吉という人を知りませぬか」
「存じませぬ」
「お綱という人の噂は?」
「聞いたこともございませぬ」
「では……法月弦之丞という方の御様子を、どこかで耳にしたことはないかえ?」
「あ、今日もまた、昨日のお客様が奥で殿様をお待ちになっておりまする」
と、お千絵の気をまぎらわそうとして、
「あのお武家様おふたりは、はるばる江戸から御密談で
と、顔をさし
なんの意味もなく、急に涙がさしかけてきたので、お千絵は窓へ顔を逃げた。
見る心は違うが、庭向うの別室に来ているふたりの侍も、しきりと、そこから見える四
ふたりは、昨日京へ着いたばかりの、江戸町奉行の使いであった。その用向きを伝えて二条
にわかな役替えで、二条城へ移ってきたばかりの左京之介には、公務のうけつぎがつかえていて、体をぬく隙がなかった。ふたりは、今日もおよそ待ちくたびれを覚悟している。
と、その
「や、似ている女もあるものではないか」
とささやきだした。
「あの横顔……な、どうだ」
「ウウム、なるほど」
「左京之介様には御息女がなかった。
「たいそう沈んでいる、
ふたりは、一種の好奇心をもってうしろに置いた
そして、一枚ひろげたのは、女の人相書である。それをお千絵と見くらべていた。
「ウーム、似ている」
「
と、小声を重ねて、不審がっていた末、
「場所がここでなければ、どんな姿をしていようと、無論、
「役儀がら
「しかし、念のため、人違いにしろ一応……」と一人が懐疑の誘惑にやまれぬように、とうとう、庭下駄をはいて、お千絵の姿を、もっと間近から見なおそうとした。
ところが、そこへ、左京之介が見えられたという知らせである。で、茶荘の用人が、すぐ別席へと案内に立った。
庭に出ていた者は、あわてて席へ戻り、ひとりのほうもちょっとうろたえて、ひろげていた人相書を振分の下へ
左京之介が待っていた。
ふたりは、その前へ、
「南町奉行
「私めは、
と、挨拶をした。
ウム、と左京之介はうなずいてみせるだけだった。評定所与力と町与力ふたり組で密使をよこしたのは何か、公然と大目付のくるよりは重要な使いだな、と察している。
案の
「評定所七の日の
「大儀だった」
左京之介はその場では読まないで、封皮の
左京之介はその後で、まだ読まない評定所からの書状をもって居間へ入った。
ここは公務の疲れをいやす茶荘で、
人なき一室で、とっくりとそれを読んでゆくうちに、かれの
問題は――かれが心ひそかに待っていた蜂須賀家の
ところが、今かれの手へ届いた書状によってみると江戸表にも一つの事件が起こった。
密訴の者があって、それを知った幕府の老中たちが、今さらのように狼狽している様が、左京之介に見えるようだった。
「
「しかし、弦之丞はどうしたであろうか。彼さえ、首尾よく戻ってくれば、もう、反逆人どもの機先を制して、徳島城をはじめ天下の野心家どもを、一網に取りくじいでいい時分だが」
と、
「誰じゃ?」
左京之介は不意に立って、廊下を二、三度行き戻りする小侍を呼び止めた。
「は、最前の方でござります」
「最前の?」と、
「どうも見当たりませぬ」
と、左京之介には覚えのないことを復命した。
「なにが、見当たらぬのじゃ」
「はい、只今お帰りになった、江戸表のお役人ふたりが、振分を持ってお帰りでございましたが、その下へ、取り急いで四ツに折った紙片を忘れて行ったと、また戻ってみえたのでござります」
「ふム? ……しかし紙片とは何なのか。あまり
「よくお話になりませぬが、なんでも、これから京都町奉行所の方とお打合せをするための人相書だそうでございます」
まがきの
ひと風さわさわとそよいだら、今にも、萩の枝を離れて加茂の河原へ逃げてゆきそうに、先刻からヒラヒラしている。
いくら座敷をたずねても見当たらない筈であった――風の
青くなって、取りに戻った江戸の与力両名は、ぜひなく、後の発見を用人に頼んで帰ったが、用人は雑事にまぎれてふたりが帰るとともに忘れていた。
で、萩に吹きよせられている紙片は、誰にも探しだされずにあるが、ふと目にとめたのは窓によっていたお千絵様。しかしまた、お千絵は皆がそんなに騒いでいたものとは知らない。
ただ、さっきからの空虚な目のやりばとしていた。
すると。
白い紙きれはまた少しの風に萩の枝を離れて、お千絵の視線を慕ってきた。
「おや?」
かの
だがお千絵は、それを見たとたんに不思議とひきつけられて、思いがけない人に逢ったような
「どこかで見たようなお方? ……」
と、ジッと見つめていると、単調な線描きの女の顔が、自分に微笑を向けてくるように感じられだした。
その
――身長
――
「あっ……」
お千絵は針で突かれたような記憶をさました。
駿河台の墨屋敷で、すでに焼け死ぬところを助けだしてくれた恩人! あの
「女スリ? ……あのお綱様が、おそろしい女賊? ……」嘘のような気がする。いや、嘘にちがいないとお千絵は信じた。
現に、自分は、弦之丞の消息を忍ぶにつれて、たえず、この
その
「いまわしい……きっと誰かの
お千絵様は口惜しく思った。
「鴻山様のお口が洩れたこともあったが、お綱様とおっしゃるお方は、そんな、悪いお人ではないわけじゃ」
細かに破り裂いて、河原へ捨ててしまおうと思ったが、また、この不愉快な人相書も、あの
「お千絵様」
いつの間にか、後ろに立っていた小間使のお
「――何を見ていらっしゃいますの? ……」とそばへ坐った。
「こんなものが、あの萩垣根の下に落ちていたので」
「まア! ……」とお君は
不用意に、突然そういってしまってから、小間使のお君はハッと思った。
お千絵の顔色もうすく変っていた。
「これはあの、さっき、江戸表からお越しになった与力方が、殿様とお話中に見えなくして、たいそうさがしておりました人相書、御用人様へ返してあげて下さいませ」
子供をすかすように取りあげて、せかせかと持って行った
その晩から、お千絵はまた寝苦しい様子……秋の長夜。
「生うつし!」と口走ったお君の言葉も、妙に心のこだわりとなって、無意味を有意味に考えられてならない。
それに。
周囲の者はみな左京之介に命じられて、かの女にかの女の境遇を知らせまいとしていたが、お千絵の心は、だんだんに、その秘密の霧をとおして、断片的ないろいろの不審を、想像の糸でかがっていた。
そして、おぼろに
――それから四、五日後であった。
「お千絵殿……お千絵殿……」
と、寝所の戸の外で呼ぶものがある。
加茂は暗い深夜であった。
その晩も、寝つかれずに悩んでいたかの女は、また時たって、
「お千絵どの」
と、どこかで呼ぶ声に、つい雨戸を開けた。
見ると――
細い明りがさしたのを知って、すぐ垣の
「こなたへ――」
と、萩の外から顔を伸ばして手招きをしている。
ゾッと身の毛を立てて、お千絵は戸を閉めてしまった。そして、巣にもぐった小鳥のように、おびえた目をして、夜具の中で動悸を抑えた。
「小間使たちを起こそうかしら……」お千絵はふるえながら考えていた。そして、後悔していた。
「なぜ私はうかつに戸などを開けたのだろう?」と。
しかし、心の迷いがあるから、
「今のお方……」
外の男は、そこを去らずに、
「もし、お千絵殿。弦之丞殿から、頼まれてまいったものだが……」
「えっ、弦之丞様に?」
お千絵はまた起き上がった。
内と外で、しばらく返辞を待つ心が探りあっていた。あたりの虫の音がまたしげく聞かれる程、外の影もジッとしている。
「お千絵どの」
「はい」
釣り込まれるように返辞をしてから、いよいよ身を
「わしは
「オオ、では……」と皆まで聞かずに、お千絵の恐怖は別なものにおどって、乱れ
「ぜひ、あなたに会いたいといって、弦之丞殿が待っておられる」
と、向うの影が、前のように手招きした。
お千絵はもう弦之丞自身が、そこへ来ているような気もちに誘われていた。ありあわす小間使の草履をはいたかの女の足は、一寸先の闇に向いて、なんの分別もなかった。
ふらふらと
「用があるならば待っていそうなものを」と、お千絵はそこでまたちょっと不審を起こして足を止めた。すると、先の虚無僧の影、ヒラリとふりかえって、
「早く」
と、手を振ってまたさしまねいて行く――。
「もし……」
糸にひかれているように、お千絵は思慮もなく走った。ひとたび闇へ進んだかの女は、闇の怖ろしさを忘れていた。
そして、追いすがらずにはいられない場合のように、
「……弦之丞様は、弦之丞様は?」
と影について息をせいた。
「まだ。まだ。まだ!」
虚無僧は次第に大股になって行った。河原づたいから三本木の
「待って下さいまじ! ……もし!」
と半ば、涙声になって虚無僧の
「なんだい?」
と、
「黙ってサッサと歩きねえよ。そしたら、やがてお
「露にしめって、草履の緒が、少しほぐれかけてまいりましたので……」
「じゃ、
「
「そうさな」
冷然と、
「あの山の向う側だと思えばいい」
「そこの普化宗の僧院にまいれば、あの……弦之丞様が私を待っておいで遊ばすのでございますね?」
「弦之丞?」
突然、その虚無僧、クックッと妙な笑いをこみあげて、
「なるほど、あいつが深い
みはっている純な眼は、何を
怪しげな虚無僧姿の男、やがて、白ばッくれた調子で言い放した。
「ナニ、僧院へ行けば弦之丞がいるかって? 誰がそんなことをいったい? 弦之丞なんてやつが今頃そこらにいてたまるものか」
「ええッ」
お千絵は水をかけられたようにすくんだ。
そう知って逃げ
「第一、山科に虚無僧寺なんてあったかい? おめえはほんとに、可愛らしいお人形様だ」
「じゃあ……そなたは……」必死に男の指を一本一本もごうとして
「さっき、弦之丞様に頼まれて来たといやったのは、この身を、誘いだす
「知れている!」
「ア、あれッ――」
「おッと、お姫様、手を折りますぜ、今になって逃げようたッて、
「おのれ、無体なことをしやると……ちッ……離して! 離してッ」
「何も無体はしやしねえ。弦之丞には逢わせかねるが、江戸表以来
「……シ、知らぬッ、離せ」
お千絵が帯をさぐるのを、男は冷笑して見ていた。唯一の守り刀は、腕をつかみ取られた途端に、道のむこうへ捨てられていた。
「この先はもう岡崎の
「……頼みじゃ、
「勝手なことをいうもんじゃない。自分からついてきたんじゃねえか。まあ俺の話を聞け、その上、逃げようとも人を呼ぶとも勝手の思案にしろ」
と、天蓋のかげには怖ろしい眼が光った。
「――江戸
男は、そこで言葉の息をついた。
墨屋敷――あの焼けた自分の
「どうぞ、情けと思うて、私をここから帰して下さい。加茂のお屋敷を無断で出ては、左京之介様や
と、ありのままの心に叫んだ。
一方は、そんな哀訴に耳もかさないで、
「いいさ、いいさ。末の心配などは、男にすべて任せるこッた」と別な意味にすげ違えて、
「――今もいった通り、そなたを連れて帰ろうという男は、今度徳川家にとってある重大な
と、ニヤリとした。
「――しかし、以上の話だけでは、まだ胸に落ちまいから、彼という人間の姓名だけを洩らしておこう。いいかい、お千絵殿、つまり未来の
不意に、ぷツリと、言葉を切ったかと思うと、いきなりお千絵の口へ
そして、ザワザワと一方の
垂れをあげて刀にもたれ、うつらうつらと駕の中の武士、編笠をうつむけて居眠っていたらしいが、そこまで来ると、駕屋の爪先に何かカラリと蹴られた音があったので眼をさまして、
「これ、駕屋」
「へい」
「ちょッと待て、駕をおろせ」
と、不意に足を止めさせた。
「――何か今、息杖の先で、刀の
「さあ? ……」
「でなければ、短刀、そんな物を」
「何しろ、千本屋敷まで急げとおっしゃったんで、夢中で駆けておりましたので」
「ウム、気がつかなかったか。では、その
「へい」
と、棒鼻からはずした提灯を取って、駕屋がそのあたりをかざして見せると、侍は、駕から半身をのり出して、黄色く浮きあがった夜露をジッと眺め廻していた。
笠の
剣山は常時の
あれから、夜明けに、山を下って
「ふたりは、わしが討ってとった」
と、力強くいったことばを、誰とて信じて疑わない。
当然、そうあるべき帰結のように、耳から耳へ
「隠密を殺せば不吉がおこる、殺してはならぬという蜂須賀家の
いったん川島へ帰った老人は、
その途中で、次郎がきいた。
「
「ウム」
「どうも私には分りませぬ」
「なにが?」
「剣山のことでございます」
「あの時のわしの処置を知っているのはお前だけだ。面白かろう、徳島の城下へ行って評判するか」
「ど、どういたしまして、決して、おくびにも洩らしは致しません」
「そう秘密にせんでもよろしい。いずれ、今にばれてくる。殺さぬものを殺したといったところで、その人間がいつまで世間を歩かずにはいないからな」
「で、なおのこと、次郎めには、あなた様の心のうちが解せませんので」
「よいではないか、分らなければ分らぬなりで」
「ところが、分らぬこと程、よけいに聞いてみたいので困ります」
「貴様、やはり秘密をしゃべる
「しゃべらぬつもりでございますが、やはりそんな
「冗談じゃ。お前は口が固い」
「では、お話し下さいませ」
「またか」
「うるさい奴でございます」
「考えてみろよ。分るじゃないか」
「ずいぶん考えておりますが」
「法月弦之丞という男、どうも、わしの気に入ったのさ。好きな人間は殺せまいが、おぬしにしたところでな」
「ははあ、それだけでございますか」
「理由をつければ幾らもある。第一、弦之丞やお綱を殺さぬことは、蜂須賀家のおんため、後にいたっていいことなのだ」
「なぜでございましょう」
「幕府の怒りを少なくする」
「でも公然と、討幕の兵をさえ挙げますのに」
「ところが、それはものにならない。いざとなる
「とすると、お家はどうなりましょう」
「一番損な立場になる。阿波守様のあの御気質がそれを招いた。上手にという技巧をなさらないお方だからな」
「ではなおさら、弦之丞を無事に江戸へ帰すのは、お家の不利でございませぬか」
「あれは江戸の武士であっても徳川家の味方ではない。大義の正しいことを心得ておる人物だ。むずかしくいえば、思想的には尊王家で、身は江戸方に籍を置く人間なのだ。したがって、かれの肉親や周囲のきずなは、みな幕府の人につながっている。かれの
次郎にはわからぬ点もあったが、常に天下の機微をみている老人のことば、ひとつの信仰をもって聞いた。
「悪いというのは、何よりも、この際、無謀な兵をあげてしまうことだ。やってしまってはおしまいだ。幕府に気味悪がられる程度はいいが、
徳島へついてみると、城下はすばらしく景気だっていた、
そして、
鳴門音頭、そこぬけ
踊りの陣にまじる人は、武士と町人の階級なく、若い娘と後家の恥らいなく、老人も青年も、百姓も
蜂須賀家の
「これや、見ておく値打がある」
と、旅川周馬はお十夜をムリに誘って見物に出た。
ふたりは剣山から一緒に帰った竹屋三位卿の屋敷にいる。三位卿の屋敷といっても、めったにかれはそこに落ちついていないが、元槍組
その日も有村はいない。
城中に祝宴があるので出かけた。
で――周馬とお十夜は町へ出かけた。
「踊らないか、周馬」
踊りの輪を眺めながらお十夜が冗談にいうと、周馬は
「踊りたいな。踊りたいよ、拙者も」
「踊ったらいいじゃねえか、遠慮はいらない」
「だが、踊れない……」
「でたらめでいいのさ、あの中へ飛びこめば、ひとりでに踊れてくる」
「手振のことじゃない。あの気持になりきれないというのだ。お十夜、お前、踊ってみる気になれるか」
「そうだな……」と考える。
「踊れまい」
「ばかばかしいのが先に立って」
「実はそこに、自分を
と、周馬はニキビを押しながら、踊りの流れを軒下へよけて、
「遠い昔は、踊りたいと思えば、いつでも踊るのが人間の当り前な動作で、それを、賢そうな顔をして、
「そうかな?」
「そうとも、本能だもの」
「くだらねえ講釈、よそうぜ。――踊る
「真理だ、皮肉だ」
「そんなに感服するなら踊れよ、周馬」
「貴公もおれも踊れない人間だ。ああして、何もかも忘れ果てて踊るべく、あまりに
「おれや今のところ、屈託も何もねえつもりだが」
「嘘をつけ、お十夜。周馬をそんなに甘くみるな」
「いやにからんだ言い方をする!」
「そうさ、そっちで水臭い
「何をひがんでいるんだ。踊りを見に来て、そんなまずい
「どこへでも案内してくれ、少し、飲みながら談判がある」
「おそろしい
「ついてくるならついてこい、いやなら帰れ!」そういわないばかりの態度。
周馬の
「おい、お十夜お十夜」と、茶屋の門口へまですがってゆき、そこで、
「貴公、何か少し勘ちがいをしている。そう悪くとらんでもいいじゃないか」
また、何かくどくどと言いわけをしているうちに、赤前だれの茶屋の女が、秋草を植えこんだ奥の浜座敷へふたりを案内した。
気まずくなった気持はなかなか
「なんだか酒がうまくねえ」
こじれたお十夜は、酔うほど青くなり、周馬は胸にいちもつ、かれの狂酔を恐れるように、
「おれが悪かったよ……」
とうつむいていた。
「なにもお
周馬が折れて出たので、お十夜の機嫌も少し
「イヤ、拙者があまり愚痴ッぽかった」と、その上にも相手のこじれたふうをなだめて――「重々拙者の
「ウム」
お十夜は不承不承に杯を出したが、
「おれや、奥歯に物の挟まったような話は、大嫌いだからな」と、熱いのをグッと
「どうも拙者には一ツよくない性格がある。物を明らさまにいえないことだ」
「いったいお
「まったく拙者は陰険だ。計画的な悪事はやりとげてみせるが、貴公のように、線の太い押しのある
「ばかに今夜は
「いや、これからは、永く貴公の
「ウム?」孫兵衛はだいぶ気分をなおして、しきりと、手酌をかさねていた。
「――貴公を兄と慕っているだけに、あれを秘密にしているのは、どう考えても水臭くっていけない。ふたりの友情にヒビの入る
「何を?」
「剣山でよ」
「剣山で……?」と、孫兵衛はそらうそぶく。
「天堂一角の
「何も、
「じゃ、見せてくれてもいいではないか」
「それ程、大したものじゃねえというのに、お
「それや、拙者にしたって気になるよ。あの
「ふン……」と、孫兵衛は薄笑いを含んでいたが、
「じゃ話すが、実は、あれや何の値打もねえものだぜ」
「なぜ?」と、周馬は、思わず鋭くなった自身に気がついて、食慾のない
「――見たところ、血で書いたような文字が、
「なるほど、それはそうあるはず。隠密組には、甲賀派、伊賀派、おのおの別な暗語、隠語ができている。世阿弥のものも、おそらくその隠文で
「そうか、そりゃ俺も初めて知った」
「だから物は何事も打明けてみるものだよ。して、その一帖は、今も貴公がそこに持っているのか」
「なアに。三位卿をへて太守のお手元へ差し出してしまった」
「また見えすいた嘘をいうぜ」と、周馬は冗談のようにいって、
「そんなにじらさずに、拙者に見せてくれてもいいじゃあないか」
「いや、めったにお
青白く酔った唇から、
周馬は
孫兵衛は酔ってきた。
「……てめえは口先じゃ、御当家へ推挙してくれの、俺を兄と思っているのと、うめえことをいっているが、ど、どうして! まだなかなか毛色の分らねえ
「……それで?」
「と――おれは睨んでいるのさ!」
「ふウン……」
「この間から、俺が黙って様子を見ていれば、京都の
「出している」
「内通していやがるんだろう! 所司代へ出した密書だろうッ」
周馬は
「そんなものか、あれあ、色女の用向きだ」
と澄ましていた。
「し、白をきるなッ……周馬」
「
「くッ、く……」
「どうしたえ? おい、お十夜孫兵衛殿」
「ううウ……」
「しっかりしたまえ」
「……よ、酔った! あーッ苦しい!」と、孫兵衛、いきなり、膳の上へ、妙な形にかがみこんでしまった。
不意に、部屋の中の灯を周馬が吹ッ消すと、それとともに、水明りの映る浜座敷の丸窓へ、ボウと、ふたりの虚無僧の影法師がさした。
それから一
孫兵衛は胃の
浜座敷のひと間はまッ暗だった。新町川に燃える祭りの灯に、そこの天井板へかすかな波紋がゆれている。
橋を練りわたる踊り手の列や、また、ほかの座敷はみな宵のような賑わいだが、自分のまわりだけが、明りをさらわれて墓場のようだった。
周馬の姿が見えない!
何よりも先に、こう気がついたことで、孫兵衛ははじかれたように突ッ立った。
「あの野郎、悪く
かれはあわてて手を鳴らして、仲居を呼ぼうとするらしかった。が、ふと、頭巾の結び目が解けているのに気がついて、
「あっ! ち、畜生」
思わず胴ぶるいをさせて、ドッタリと坐ってしまった。
「うぬ、おれの袖やふところの中まで、すっかり探って行きやがったな……」
と、ハミ出している胴巻や、めくり返されている襟元などを掻きあわせている間に、かれの両眼、
「だ、だれかいねえか! 仲居! やい! 仲居はいねえのか」
――その仲居たちはさっきから、庭先へなだれてきた花笠、
「ちぇッ、こうしちゃアいられねえ、悪くすると周馬の野郎め、後へ戻っておれの留守を……」と、わななく怒りの手に、そぼろ助広をつかんだ孫兵衛、いざるようにして縁側へ出たが、そこの
「いけねえ! ……どうもただな痛みじゃねえ。うーム……」と、強気だが、よほど胸苦しいとみえて、縁側に仰むけに寝てしまった。そして、腰の
手を伸ばして、
ゴク、ゴク……と飲み
しばらくかがみ込んでいるうちに、毒気のさめた孫兵衛の顔――白く青味の蔭をもって、常の悪相に加えて、ひときわ鋭い
「青二才奴!」
助広をひっさげて走りだした。
茶屋の裏であったか表だったか、出た所すら彼自身知っていない。
なにせよ、三味、笛、太鼓の
悪魔そのままな
そして、仮の住居、住吉島の屋敷へ飛んで帰った。
門が開かない。
されば周馬と一緒にここを出た時は、召使のない屋敷なので、表門は
だが、この際、裏門へ廻ってゆくのも面倒と、見越しへ手をのばしてヒラリと
と――雨戸が一枚はずれている。
三位卿帰ったらしい様子もなし、下男も門番もいないこの家に、先に入ったものがあるとすれば、それは、周馬以外に思いあたる人間はない。
だのに? ――かれが塀を越えると一緒に、その、はずれている雨戸の内から、風のように出ていったのは、ふたりの虚無僧。
たしかに、
「やッ? ……」
それは孫兵衛の
「はてな? ……」と、いぶかしさにうたれているまに、虚無僧は開け放しになっている裏門から闇へ走りだしてしまった様子。
あとには、
とにかく、かれは一応、その部屋の安否をたしかめなければ胸さわぎがしずまらない。そこには、彼が剣山で手に入れた秘帖、
周馬にちょっと口を
どう転んでも、あの鍵をさえ握っていれば、生涯安楽な大禄にありつけることはあきらかだ。
「周馬の奴がジロジロするのもムリはない」
と常に、油断はせずに、肌身を離さずにいると見せて、実は、その部屋の
「あッ!
部屋へ入るやいなや、何より先に、その壺の中へ手をつっこんだ孫兵衛は、みるまに顔色をかえて叫んだ。
けれど――壺はまったくの
壺の底には巻紙がまるめ込んであった。
何か? と孫兵衛、ズルズルと畳へ長くひき伸ばしてみると、どうだろう! まるで
あわれむべき小悪 よ!
汝はきょうまで余の手先に踊らされていた悪魔の子分だ!
ういやつ!
秘帖は貰ってゆく!
おれは元来阿波を見物にきた閑人 ではない!
一角はこの嘲笑と徒労を知らずに死んだ幸福者!
さらば、余は急がねばならぬ、帰府のゆくてには出世の栄座と恋人と新しき屋敷とが待っているので!
去るにのぞんで名乗っておこうか! おぼえておけ! 大府駿河台墨屋敷の隠密組旅川周馬。
庭前の大石にあたって汝はきょうまで余の手先に踊らされていた悪魔の子分だ!
ういやつ!
秘帖は貰ってゆく!
おれは元来阿波を見物にきた
一角はこの嘲笑と徒労を知らずに死んだ幸福者!
さらば、余は急がねばならぬ、帰府のゆくてには出世の栄座と恋人と新しき屋敷とが待っているので!
去るにのぞんで名乗っておこうか! おぼえておけ! 大府駿河台墨屋敷の隠密組旅川周馬。
「岡崎の港だ!」
痛烈な響きを
だがまた、ふと不審を起こして、巻紙の一端をつかんでみる。
見ると、巻紙には筋目の
と怪しむとひとしく、またかれの錯覚を起こしてくるのは、帰った途端に、この部屋から消え去った
周馬が秘帖を盗み去った後へ、あの虚無僧がここへ入り、同じ
しかし、今はそれを考えて、前後の処置をとっている落ちつきも時間もなかった。
何はともかく、本土に近い海路の
うまうまと永い間、こっちのふところへ飛び込んでいて、あくまで一角や自分へ加担をするとみせかけ、最後のどたん場へ来て、仮面をぬぐやいな、秘帖をさらって逃げたニキビ侍! きゃつを捕えて思いしるほど
きゃつを油断のならない人物とは、
「あいつも、うわべは悪人であるが、真に愛すべきところがあるよ!」
などと、一角がいうので自分までが、いつか周馬を皮相に見、かれの
もともと、かれは江戸で、お千絵様という女性を
返す返すも不覚だった。
といって、もう追いつく沙汰じゃあない。そんな愚痴や
「くそウ! そう鮮やかな芸当を、まんまとやり遂げさせてたまるものか」
お十夜は、ふたたび、裏門を蹴って町へ走りだした。
城下の辻は夜もすがらの笛だ、太鼓だ! 踊ってる! 踊ってる! 踊ってる! かれが
「ちイッ!」と、かれは歯ぎしりを噛んだ。
まるでこの人間どもは、おれの今を
なにが面白い
何がなんで踊りを踊る晩なんだ。
全身はあぶら、
いきなり、景気のいいひと
――どッと、孫兵衛の狂気じみた影が、十数
「お
「お退りなさい!」
徳島城の奥用人たちは、手をひろげて、ひとりの興奮した老人を、廊下へ押し出してくるのであった。
「殿様は、ただならぬお怒りですぞ」
「お目どおりはならんという
「お沙汰をお待ちなさい!」
最前までこの城中も、奥は夜宴に、お表は
「邪魔をするなッ」
「わしは原士の
「いや、上意です」
「かまわん! 御立腹をおそれて
「なんとおっしゃろうが、お目通りはかないませぬ。老人! あなたも少々気がたかぶっておいでられる」
「ばかな」
「とにかく、お表の
家臣たちは
「――殿のおことばを伝えます」
こう言い放して厳格にかまえた。
「…………」
老人は不平にみなぎっていたが、とにかく上意を聞くべく、態度を改めて坐りなおる。
「高木龍耳軒!」
三位卿は読みあげるようにひと息で言った。
「――
それに対して、老人が何か叫ぼうとするまに、有村は身をかわすように、フイと部屋の外へ出てしまった。
大手の玄関へ出てみると、そこにも若侍の多くが右往左往して騒いでいた。
すでに盟約のある
そこへ突然、龍耳老人が登城したのであった。目通りに出ると
――で、それからのこの騒動。
何よりも、阿波守や三位卿が驚いたのは、法月弦之丞を逃がしていると老人のいった一言である。
「わたくし一存の信念をもって、御当家後事のおんためと、かれの一命助けました」と、老人は平然と御前で言ってのけた。
乱心者ッ!
阿波守が
狼狽と困惑は、徳島城を
奉行所へ、船手組へ、各郡代官所へ、急に
その中にまじって、ひとり、有村も阿波守の
淡路街道と
「あ、あぶないッ」
と有村、突然に手綱をしぼったので、馬は棒立ちになって横へ狂った。
すると、
「孫兵衛ではないか」
と、馬上からだしぬけにいわれて、
「お? ……」
と、一方は、暗闇を探るような眼。
あぶなく、
「どこへゆく? 孫兵衛」
「あ、三位卿。あなたはどこへ?」
「孫兵衛! 実にしまったことが起こった」
有村は気が
「えっ、何か?」
「されば! 味方の内に思わぬ異端者があって、大事はついにくつがえされたぞ」
「周馬でござろう! 裏切者は」
「イや、原士の
「えッ、龍耳老人?」
「法月弦之丞を討ったといつわり実は剣山から逃がしおった! あの、お綱という女までも」
と、手綱に口惜しさをふるわせる。
「じゃアあの時……ウーム……」
と
「ちぇッ、いまいましいおやじ」と、孫兵衛は歯ぎしりをかみ鳴らした。
「そして、どういうことになったんで」
「なんといっても、きゃつは原士を自由に動かす権力家、殿のお怒りもなみではないが、目下の場合に内部から騒乱が起こってはならぬと、ひとまず川島へ
「ウウム、なんてえ
「なに、この上にも、一大事があるッ?」
「周馬のやつが寝返りをうって、この孫兵衛の手もとから、世阿弥が、書き残した
「秘帖? ……」
「
「あ! それは剣山で、わしがいつか落したものだ」
「その余白へいちめんの細字、血汐で書いた隠密の暗号文字。そいつをさらって周馬のやつ、たッた今、風を食らって逃げだしやがった」
「オオ、それも江戸へやっては大変だ」
有村は落馬しそうな目まいを感じながら、
「察するに、世阿弥の血書は、かれが半生に知り得た阿波の秘密全部であろう。それが幕府の手へ入っては、もう万事休すとせねばならぬ。
あぶみを踏ン張って悲痛な
孫兵衛はその時、住吉島の家で自分と入れちがいに影を消した、ふたりの虚無僧を思いうかべていた。
「もしや、あれが、弦之丞とお綱ではなかったろうか」
いまさら、しきりと、そう考えだせてならない。
「そうだ!」
「――弦之丞とお綱にとっても、なくてはならないあの秘帖だ。ふたりがまだ生命のあるものとすれば、当然、つけ狙っていたろう。ことによると周馬とおれとの話も、どこかで聞かれていたかもしれねえ。そして周馬が家探しをして出た後へふたり忍んでゆき、そこへおれが帰ったんじゃねえかしら? ……」
その想像を
そこに、有村の姿を見ると、
「オオ!」バラバラと馬首をあつめてきて、口々に、各方面の模様を告げる。
城下、諸街道の口、海の要所、すでに十分な手が廻ったが、まだ弦之丞に似よりの者も見当らない。残るは、岡崎口、鳴門の方面。
で、万一の場合を案じて、阿波守から命じられた人々、ここへ三位卿の助勢に追いついてきた。それは、藩のうちでも屈指な剣道家ばかりで、中にただひとり、
周馬のことを城内へ報じるため、中のひとりを徳島へ帰して、三位卿まッ先に急ぎだした。
お十夜はその者の馬を借り、道太郎や他の人々とあとに続く――だが、騎馬にかけては三位卿、めったに余人の
またたくまに岡崎の船関。
「すわ!」
乗りつけてみると案の定、水はここの堤をきったか、関の
「さては!」
と、馬をすてるが早いか、ばらばらと一同、番所の黒門へかかる。
柵門に常備の六尺がいないので、駆けこんで、波うち際の
見張のきびしい岡崎の船関をやぶって、対岸
関所やぶり!
番所の
浦から浦へそれを伝える太鼓、いんいんと水にひびいてものすごい。
が――その前後に明らさまに手形を示し、鳴門村へ越えたふたりの虚無僧を
やがて……。
疲れたように警鼓の音もやみ、捕手の灯の数も減るともなく気抜けして、別な方角へ散ってしまった頃。
旅川周馬だった。
周馬は、大丈夫――と見る、ソッと立って、
ポト! と冷やッこい
びっくりしたように首すじを撫でて上を仰ぐと、松の枝が堂の屋根にかぶさっている。しかし、それを揺するものは静かな潮風。
「ある……ふン……」
周馬はニンマリと笑って、内ぶところへ両手を突っこみ、品物を確かめながらその触覚を楽しんでいるふうだ。
お綱から一角が奪い、一角の死骸からお十夜がかすめ取った世阿弥の
ふところの体熱は、今、しっかりと幸福の卵をだいて
「天堂一角もお十夜も、おれから見れば善人だよ」
周馬はひとりで空うそぶいた。
「いや、世の中自体が甘えもンだ。これでおれが帰府すれば、幕府のやつらは驚嘆して、旅川周馬様の隠密術に礼拝するぜ。お上は御加増、御
――なんだか彼はおかしさがこみ上げてきた。
「ちょっとした頭の働き――
つぶやきながら、そこを立った。
捕手の網も、もうだいぶゆるんでいるとは思ったが、大事をとって忍び忍び潮明寺の門を出ようとすると、
「あっ? ……」
出会いがしら?
ひとりの虚無僧が、ちょうど今、門を入ってこようとした。そして、周馬の姿を見つけたとたんに、飛鳥のごとく後へ戻って、闇へ低く――
「弦之丞様ッ……弦之丞様ッ……」
と、呼びたてている様子。
「やッ? ……」――周馬は度を失った。おぼえのある女の声、そしてたしかに、弦之丞と呼んだ。ふたりはとッくに、龍耳老人の手にかかって、世に
水をかけられたように、ぎょッとして、元の貫之堂まで、夢中で駆け戻ってきた。
「はてな? ……」とそこで、
「お綱……どうもお綱のようだった。しかし、あいつや弦之丞が生きている
と、ジッと
周馬はあわててまた逃げ出した。
土塀のそばに一本の
それへ跳びついて手をかけると、
「周馬ッ、周馬――ッ」
と後ろの者は、もうすぐそこまで飛びこんできた。
「あっ、
かれの体は
パラパラッと青い
途端に。
下へ駈けよった虚無僧の手が、
「待てッ、旅川!」
と、次の片足をつかんだのと、かれが夢中で、椋の枝から手を放したのと一緒だった。
足をつかまれて、土塀の上にしがみついた周馬。
「うぬッ」
抜き落しに、一刀、下の影をサッと
「お綱ッ――」
という声を頭上で聞いた。
腰をなでている間もない周馬、夢中で走ったかと思うと、また突然、雑木の
「お綱ッ、拙者につかまれ!」
「はい」
「手を、手を」
上から引きあげて、枝づたい、土塀へ移るやいな、ふたつの影、ヒラリと外側の闇へとび降りた。
「あ
塀を越えたはずみに弦之丞、右の肩を
「あ……またそこのお痛みが」
ふと、お綱の声であった。吾にもあらず寄りつくのを、振りもぐようにして眸は先に、
「いや、気づかうなッ」と鋭く――「それよりはあの
と、まッしぐら。
窪地の茂みへ一散に駈け下りて、逃げゆく影をのがさじと追いまくる。
周馬は時々、狐のような目をしてふりかえりながら、
「弦之丞? 弦之丞? 弦之丞?」
と、口の
逃げても逃げても天蓋の影、屈せずに後を慕ってくるので、周馬の
雑木帯の丘の
時々ふところへ手をやった。そして、あることを確かめた。秘帖はいつかしら生命以上の値うちになって、かれに抱きしめられている。
ドドドドブン……ザアーッ……と珠を洗うような波の音。
闇に白くうねうねと鳴門へつづく千鳥ヶ浜。
――二丈あまりの石山の上から、旅川周馬、目をねむって飛びおりた。ザクッと、足が埋まりこんだが、案の定そこは砂地――しめたッ――と躍る姿は海風にばたばた鳴って、つづく限りの波明りに添い、時々、どぶりッと
「おッ、
一瞬のまをおいて、同じ波うち際を二ツの影が
千鳥ヶ浜、二十余町、またたくまに駈けちぢめた。そして、やがてジッと立つならば、鳴門の渦潮百千の
「あ、あっ!」
と、先の周馬が狼狽した。
行く手をさえぎっている砂山の松木立から、ボカリと浮きだした朱文字の
問わでわかる船関の役所じるしだ。
「ちぇッ」と周馬、舌うちを鳴らして――「まずい所へ来やがった」
あわてて横へ飛んでそれたが、向うもいちはやく怪しいと知って、かれの先へ廻るようにバラバラと迫ってきた。
振り向けた黄色い明りに、ひと目、
「オオ、関所やぶりの旅川周馬だッ」とうしろへどなった。
そして提灯を振りあげたが、その時、周馬の抜いた大刀は、かがみ腰に横へ流れて、男の胴を通っていた。
「なにッ、周馬だ?」
と三、四人、血煙の立った所へ、砂を蹴ってとんでくると、すばやく、周馬は位置をかわして、かえって、それを追ってきた
「や、や、やッ!」
偶然! そこで稲妻と稲妻とがぶつかったように、会うやいな、こっちも向うも、パッと後へ飛びひらいて、
「オオ、てめえは弦之丞とお綱だなッ」
と叩きつけるようなお十夜孫兵衛の声であった。
「ウーム」と弦之丞、天蓋をむしり取って、
「――三位卿と孫兵衛であるか!」
「いい所であった」
と、そぼろ助広、抜いて躍らんとする先に、
「お綱ッ」
と叫んで、それにかまわず、先の周馬を追おうとした。
秘帖をもって逃げる周馬と、剣山を脱してきた弦之丞にお綱。
そのいずれへ向おうか? 瞬間、三位卿は迷ってしまった。
明瞭な分別もなく、大きな声で何か叫んだ。そして自分も疾走しながら、
二、三度、お十夜が斬りつけた時、弦之丞の手からひらめいた刀は
「きゃつ、右の腕が利かないぞ!」
孫兵衛も、三位卿も、
意外な敵が横からひとつ
そこの
しかし、関を破って一散に、ここへ逃げてきた周馬である。本土へのがれる確信と相応な用意はしてある筈だ。
ヒュッと何か投げたかと思うと、松にひとすじの縄を廻して、その結び目を送るが早いか、スルスルと断崖を
そこを降りれば
どうして? といえば。
最初にそれへ気がついたのが三位卿で、ここの天険に軍船の配置をする場合のため、
まだ書きかけであった鳴門水陣の一帖は、その後、かれが剣山で落し、甲賀世阿弥の血汐とぎらん草の汁に染まって、転々、今では周馬のふところの
で――周馬は怖れ気もなく、木の葉みたいな
「ざまア見ろ!」
かれは絶壁を仰いで渦の中から嘲笑した。
「あははははッ……もう追ッつくめえ。斬りあえ! 斬り合え! そこで弦之丞とお十夜と、お綱と三位卿とで、双方傷だらけになるまで斬りあっていろ。ばかめッ。そのまにおれは本土へ帰るよ。じゃア阿波の国! おさらばだぜ!」
浪にゆられながら、
「あっッ――」
縄をつかむとその力で、舟はグルグル
舟と舟をつなぐ不思議な捕縄!
それは渦に巻かれ込みながら、両方の危険を助けあっていた。――しかし、周馬にとってはまったく不意な敵である。致命な縄だ。
「えいッ、畜生」
片手に巻き込んだ捕縄を、いきなり
ぶつッと縄が切れてはねる! とたんに周馬その者は、剣光を空にひらめかし、ドンと舟底へもんどりを打つ。
一
「いけねえッ」
と、後の一艘は絶叫している。
「巻かれこんだぞ! 悪い渦に!」
「
「アっ、岩だ、底を噛まれた」
「なに、大丈夫だ、鈎を早くッ」
「おっと!」
舟の中に、クルクル舞いしていた男ふたり、ひとりがつかんだ
幾たびかはずし、幾たびか死神の
「ウム、しめた!」
と、ひとりはすばやく磯へ飛びあがって、
「今の野郎といい、さっきの、浦一帯の
と、登るたよりもなさそうな絶壁の岩脈をズウと見上げた。
そこを見上げると、周馬が断崖へ垂らしておいた一本の綱が目にとまる。
「おお、今の奴の置き捨てだな」
男はグンと引っぱって試した上に、それへつかまったが、また舟の者を顧みて、
「
「おう」
「この上へあがると、たしか、阿波守の
「ウム」
「事件は今夜だという気がするが、もし夜が明けたら、おれはそこへ
「承知した、安心して探ってきねえ」
そう返辞をする声は、弦之丞とお綱を剣山の手まえまで見送って
「おれも
「ウム、若布採りは思いつきだ」
「変ったことがあったら合図だぜ」
「合点だ、忘れやしねえ」
男は綱にすがって絶壁に足をかけ、ひと握りずつ
ふりあおいでいる大勘は、
その男?
かれは天満の目明し
弦之丞とお綱とが、阿波へわたる船出の間際に、猫間川に兇刃をあびて、
その後――。
腰、肩、二ヵ所の深い太刀傷も、平賀源内の
かれは弦之丞がお吉に残していった手紙から、体が本復するとすぐに四国屋のお
そこには、お
万吉は自分の落伍に落胆していた。ところが、ある夜、
それが、大勘だった。
こうして、ふたりは淡路から鳴門附近に幾日か小舟をただよわせて、弦之丞がその後の消息を探っていた。
常に気をつけている岡崎の船関で、今夜、時ならぬ
「今夜だ!」
そう叫びあって飛島の蔭へ舟をつけた。
関所破り!
その声は、弦之丞とお綱が、剣山から斬りぬけてきた騒ぎに違いない。と――思っていると、旅川周馬、秘密の
――飛んだのは万吉が、絶えて久しぶりに腕っかぎり試みた、
しかし、距離、闇、渦、
……一方。
周馬が断崖へ
この場合、弦之丞は、後からくるお十夜を先に討つべきか、それとも、旅川周馬を先に追おうか? 前後の敵、
が、
世阿弥が精血をそそいだ
それが
今は――それが最後の努力をかける焦点だ。あれを周馬の手で江戸へ持たれて、かれの野望に功名をとげさせては、自分の周囲にある者の不幸さ加減はどうだろう。
いや、生ける者の不幸とともに、あの
「わしの精血を恥かしめるな、わしの苦心を悪人に利用せしめるな、わしは浮かばれぬぞ! 秘帖を
暗い天に、そういう、しわがれた世阿弥の声がきこえるようだ。
周馬の影が、渦潮のしぶきに見失われた頃、ふたりは、かれが残した
ばらばらとこぼれゆく岩のかけらに、磯の下からよじ登ってきた万吉。
「あっ……」
土に目をふさいで、途中の岩角へ足を休ませた。――と知らずにお綱と弦之丞の体は、ズズズズ――と急激にかれの頭の上へ
刹那。
断崖の上へ来た一
同じ綱を頭の上から
とたんに。
目の前をふたりの虚無僧が、落ちるような勢いで辷って行った。
「あっ!」と、のぞき込んだ時に、綱は切れて空から磯へ落ちた。
「戻って来いよーッ」
しばらくすると、下で、大勘の呼ぶ声があわただしく聞こえる。その前に万吉は、足がかりを探していたが、いくら
「早く来い」
「おウ、今ゆく」
大勘はまだ何か狂ったように叫んでいる。そして万吉を早く早くと呼ぶのを止めない。
綱の切られたせつな、弦之丞もお綱ももう磯の砂辺に近かったので、さしたる
大勘のおどろき、奇遇のよろこび。
それを早く万吉に知らせてやりたいと呼び立てるのだった。
万吉はすッ飛んできた。
「おお……」
「そちか! ……」
「や? ……お綱さんッ……」
海潮の激音と風の間に、きれぎれな声がかすれて飛んだ。白い激浪の泡立つ瀬戸に、四人の影はひとつ舟の中にかたまった。
――みるまに渦潮のかなたへ。
夜が明けた。
竹屋三位と、お十夜と
夜来の疲れで、刀を抱いて、寝ていた。
柔和な
ソヨソヨと撫でる微風。
秋の陽だけがカッと強く帆や船板や、三人の肩に照りついている。
* * *
「おい、お千絵様。おめえがそうメソメソ泣いてばかりいると、飯も酒もまずくってしようがねえ」
旅川周馬と同腹になって、お千絵を
あぐらをくんだ
「いい加減にしやアがれ」
と、口をゆがめた。
大津絵が
「ばかな女だ!」
グイと、横にくわえた鮒焼の
「――考えてみるがいい、お
「嫌です……」
お千絵は泣きふしながら
「嫌だ?」
「…………」
「罰があたるぞ、
「いやです……」
「生意気な」
くわえていた鮒の串を
と、かれは、縁がわの方へ足を運んだ。
飛脚屋が何か渡して、破れ垣根の外へ出てゆくのを見送ってから、
「……噂をすれば……」
うなずいて封を切る。
そして切った封を裏返してみて、
「――おう、旅川はもう大阪表へ来ていたのか」
とつぶやきながら読みだした。
伊太夫の顔の筋が異様にひきしまってきた。読むと、周馬は今大阪の某所に潜伏しているとのこと、しかし
で、そのために、万一を思って、この手紙にも居所を書かないが、自分は今、今の潜伏している場所を出るために、鳴門の渦潮をのがれ出た時以上の苦しみをしているという消息。
「ウム、なるほど」
伊太夫はうなずいて次へ移った。
――しかし、ここまで来て、いつまで
日は、およそ××日。
落ちあう場所は――大阪から
どっちが早くとも、必ず、一方の
等、等、等、なおさまざまにわたるしめしあわせであった。
日の来るのを待つらしく、酒のみの堀田伊太夫、ロクにない浪宅の道具を片っぱしから
その朝は、いきなりお千絵に猿ぐつわをかけて、押入れに押しこみ、板戸の外から
黄八丈に襟かけの丹前、茶いろになった
朝酒に赤い
「駕屋で達者なやつを、六人もというと……この村にはあるめえな」
と
肩つぎなしに江戸まで通しの
――道具もなければ人もいない留守の浪宅はがらんとしている。たまたま赤とんぼがぶつかってくる。
すると、窓の外で、
「ははあ、駕をあつらえに行きやあがったな」
と、伊太夫を見送って、
のそり、のそり、きたない足で畳の上へあがってきた。そして、家のまん中に立って、
「ふうん……?」
うなりながら、見廻していた。
「……なんにもねえや、徳利と茶碗、火鉢が一ツ、あとは、戸棚に女? ……」と感心して、それから悠々と壁に懸けてあった
周馬から伊太夫へ来た手紙だけをひき抜き、あとは元の通り壁へかけた。
むさぼるように、その手紙を読みはじめて、
「オオ……ウウム……じゃ、最後に周馬のやつが? ……こりゃ大事、江戸へ……蜂須賀家の致命傷だ……ウム、なるほど、それで……そうか」
乞食の顔に
驚いたりうなずいたりして、しきりと、手紙の文面をくり返していたその乞食は、森啓之助の成れ果てた姿であった。
――三位卿に
お米の死骸はその晩のうちに、大川へ捨てたが、その時の女の死顔と血のにおいは、いつまでもかれについて廻った。
木賃宿でひどい
ある晩のこと。
そのかまぼこ小屋の近くで、怪しげな偽虚無僧が、品のよい娘を
毎日、浪宅のまわりをウロウロしている間に、その堀田伊太夫と旅川と微妙な関係があるのを知って、いっそう気をつけていると、その旅川周馬からの飛脚。
あの日も、
「ウム……」周馬の手紙をふところにねじ込んで――「そうだ!」と啓之助、今、いつになく生々と顔色をかがやかせた。
「――帰参のかなう日が来たぞ。この、重大なことを安治川屋敷へ知らせてやれば、その功は、おれの前の不始末の罪を
泥の
「アア! もしッ……」と不意に、うしろの押入れで苦しそうな女の声。
「おや」
ふりかえってみると、中から揺すぶる板戸の
「どなた様か存じませぬが、こ、ここを、どうぞ出して……。でなければ、二
「あ、いつかの晩、かどわかされてきた娘だな……」とはすぐに分ったが、啓之助の心はもう別なほうへ
あられのぶッ
その役人と配下の者数名が、わらじがけの足をそろえて、池のふちを歩いてくると、こっちへ向って駆けてきた乞食が、ふいと、反対のほうへ戻りだした。
「? ……」
眉をよせて立ち止まった菅笠。
かれは、所司代への密使をかねて、江戸南町奉行所の命をうけ、お綱の人相書を携えてその
京奉行所の諒解をえて、弥惣兵衛は、人相書の女スリを召捕るため、先頃から京大阪の間にその手がかりを
今、挙動の妙な非人を見ていた弥惣兵衛は、
「あいつ、ふところに何か持っているな」
と、
さきごろ、
何か起こるぞ。
そういう空気が京都に濃くなった。
重なる役人は帰宅をとめられ、目を赤くして、固く口を結んでいた。
「中西弥惣兵衛と申す方から御急報でござります」
連日の多忙に疲れている下役の者が、こういって、所司代左京之介の役室の次の間へ、一封の書状を置いた。
かれは
「――中西?」
いつぞや茶荘へ人相書を取りに戻った、与力のひとりを思い浮かべながら封を切った。
中に巻きこんである別な手紙があった。それは、中西弥惣兵衛が
「さては」
左京之介は二つの文面を読みくらべて、
「お千絵をかどわかしたのも旅川の
「な、なんでござりますと? ――」鴻山は待ちきれずに膝を進めて、同じ所に目を
「やっ、周馬め、秘帖をつかんで江戸へ」
「ウム、そうなっては、弦之丞の立場があるまい」
「ござりませぬとも!」
鴻山は暗然と――強く、
「すぐに、早飛脚を立てて、この手紙のままを、万吉の家へ廻して急を知らせてやりとう存じます」
「よかろう、さっそく、取り計らっておくように」
「承知いたしました。では、一刻も早く」
「待とう」と、ひき止めた。
「は」
「お千絵のほうは?」
「――なんとも心がかり、拙者自身で、
周馬の筆跡を
しかし。
かれがそこを尋ねあてた時にはもう家主の男が、中の
堀田伊太夫は、
禅定寺までは半日の道のり、周馬の手紙に明日とあるので、さまでに急がなかった不覚を悔いて、鴻山は、大津へ出る本街道を逆に
…………
構えにふさわしくない所司代公用の
「なんであろう?」
と、お
ふりかえってみれば、剣山の
周馬の身辺をつけ廻しつ、めったに、家にいることのない万吉と弦之丞、ふたりもちょうどいあわせて、
「おお、どこから?」
あわただしく
吉報!
その刹那のお綱の笑顔。弦之丞の
時機は来た――悪魔め!
万吉は
大阪へ
ほとぼりのさめたところと
大阪城代の蔵屋敷、ことに、本田某は酒井家の権臣で、指もささせぬぞというふうがあった。どうしても周馬がその門を出ないうちは、秘帖を
阿波のほうでも、うすうす周馬の潜伏をつきとめてはいた。
しかし、これも手が出ない。
初めは万吉も阿波のほうでも、根くらべに、昼も夜中も蔵屋敷を見張っていたが、これでは、周馬がそこを出るはずがないと察して、わざと近頃は、双方で少し見張りをゆるめていた折。
吉報は思わぬ方角から来たものである。
それからしばらく、中二階ではひそかな話し声がつづく。
お吉は、静かに
やがて、家の中から天蓋をつけた
「じゃ、おふたり様」
と、後について、草履を突っかけて外へ出た万吉。
「
とだけいって、意味は言外に、小腰をかがめると、
「ウム」
弦之丞もうなずいただけで、そこから左右に
ふっ……と涙ぐましいものがこみあげてくるのをまぎらすべく、万吉は、ひと足先に駆けだした。
まもなく、かれが行きついた家は、四国屋の寮であった。
そこでも、お
* * *
「御門番。おい、御門番」
同じ夜の宵の口。
安治川屋敷の
「御門番」
それも、よくよく思いきって呼ぶのらしく、一声かけては、またあとへ戻ったり、うろうろと帰ってきたりして、その
「ちょッと顔を貸してくれんか、オイ、御門の衆」
と、こわごわ首をさし伸ばしている。
「誰じゃい」
と、不承不承な
コトンと、六尺棒を突く音がして、てらりとした
「おう、喜平だな」
と、妙に人なつこく、外の影が寄ってきた。
「なんだ、てめえは……」
門番の喜平おやじ、六尺棒を中に隔てて、わざと、近寄りがたい構えをする。
そういわれると、
「――
「すまなかった、実は……」
「なにが実はだ、この野郎、少し
きたない物でも
「おいッ、お、おれは、森啓之助だよ……」
と顔を寄せた。
あッけにとられて、
「ヘエ……?」と、いったまま喜平おやじ、しばらく
「どうなさいましたえ? ……森様」
「面目ない。実に、きまりが悪い」
「お屋敷を出た後に、たいそうひどいご病気で
「しかし、今夜は、きまりが悪いも面目ないもいっていられない急用で、
「先頃からお越しでございます」
「……どう考えても、あの人には会えない」
「なんぞ火急な御用でも?」
「お家の興亡にかかわるほどの大事をお告げしに来たのだ、あの、
「剣山で御最期です」
「えっ、一角が死んだ? フーム、そうか。孫兵衛はどうしているな?」
「いらっしゃいまする」
「じゃ、気の毒だが、ちょッとここまで顔を貸すように伝えてくれないか」
そう頼んで、塀の蔭にうずくまっていた。
啓之助が何か火急なことを告げにきたと聞いて、孫兵衛は、何かというふうに、奥から出てきた。
ふたりは、ちょろちょろと水のせせらぐ
「もういちど、お船手へ帰参のなるように運動をしてくれぬか」というのが、啓之助の要求するところで、その代りに、旅川周馬の行動について、かれが山科で、ふと知り得たところは、残らずその
物蔭には、三位卿、そっとたちぎきして、苦笑していた。
そして、孫兵衛と啓之助が話しているまに、屋敷の中へ隠れて、
外ではお十夜。
「よいことを
と、啓之助を残して、屋敷の中へ隠れた。
内部ではもうなんとなく物々しい空気だった。
有村と密談しばらく、やがてふたたび、門の外へ姿をあらわして、
「おい……」と、塀に貼りついている影を手招きする。
耳打ち……。
「ウム、ウム、じゃ、おれはそのほうへ」
啓之助はうなずいて、
かれはそこで旅川周馬の出立を見届け、安治川屋敷の者たちは、未明、淀川を小舟でさかのぼって大阪の外に出、
で、啓之助は、
「このひと役さえ
と。かなたの浜蔵の
宿をとりそこねた旅人のように、
だが、眼だけは、たえず
間もなく――もう雀の声が聞かれる頃、ガタン、蔵屋敷の
だが、周馬らしい者は出てこない。
「おや?」
万吉がちょっと目を放している間に、啓之助は、すっぽり、
で、万吉も、あわててそこを立ち上がる。
ちょうどその時、細目に
柿色の
中から四、五人の声が、門の内でその傀儡師を見送った。男も挨拶をつげ、礼をのべているふうだったが、すぐと、要心深い挙動をして、霧の深い町の辻へスタスタと
「……オオ周馬!」
「傀儡師――なるほど、考えやがったな。今日ということを知らなけりゃ、うまうまと、あいつに出し抜かれていたかもしれねえ」
万吉は笠に隠した横目で、巧妙なそして周馬らしい機智の変装ぶりを眺めながらついてゆく。
茶店を出ると、またどこからか、酒菰をかぶった啓之助が、後先について歩いてくる。で万吉は、いちはやく、阿波方のものも今日のことを知って、周馬の行く先を
「はて、邪魔な野郎だ、どうしてやろうか? ……」と万吉、
「おい、お
と、手をあげた。
啓之助、ちょっとふりかえったが、聞こえぬ振りをして急ごうとすると、万吉はまた、
「待たねえか、そこへゆく
「ヘエ、私のことですか」
先を気にしながら立ち止まった。
「そうよ、
「ありがとうぞんじます……ですが」
「ですが、なんだ」
「少し、先を急いでいますので」
「ふふん……」お
「よしねえ、今日は、急いだところでムダだろう」
「? ……」
「それよりは、
「やッ」啓之助は初めて気がついて、
「てめえは万吉だなッ」
と、胸板を突いてくるのを、
「何をしやがる」
と、十手でその手を叩きつけた。
啓之助は驚いて前へ駆けた。しかし、二、三間ゆくといつのまにか体についていた
グルグル巻きに縛りあげて、万吉は啓之助を
「オオ」
あなたを見ると、周馬の姿はもう遠い……。
江戸に限りのない栄達を夢み、お千絵に思いの遂げられるのを夢みして、旅川周馬の足は軽い!
――急ぐほどに津田の
そこで、
けれど、考えてみると、自分の姿は、人形箱と柿色の頭巾
「ああ、びっくりした」
次の
「どうして
津田の辻の
「あぶねえ、あぶねえ」
おびえがさめて安心がつくと、周馬、こんどは先頃手紙をやっておいた堀田伊太夫の方の首尾を案じだした。
お千絵を
とかく、それも悪くない心配だ。空想は道のりを忘れさせて、いつか
寺は峠路の口にあった。
先に来ていれば、たいがいこの辺にいるはずと思ったが、見当らないので、周馬は山門の石段の下に腰を下ろし、しばらく、秋の
柿色の投頭巾に、
「おや、
「人形使いの飴屋さん」
そこいらへ栗拾いに来た子供たちが、
じろじろとかれの姿を見て、何か物いいたそうであったが、首をあげた周馬の目のおそろしさに驚いて、無邪気な少童少女は、散るともなく、顔を見あって、こそこそ村のほうへ帰ってしまう。
その後は、絵のような秋の
一
だが、周馬は退屈しなかった。
待つという
そう考えて落ちついていると――。
やがてであった。
しっかりした道中
禅定寺の門前にかかると、ぴたりと足が止まる。一挺のタレをはねて堀田伊太夫、
「ご苦労」
と、草履をとらせて外へ出た。
「オオ伊太夫、ここだ、ここだ」
と、周馬は手をあげて、その姿を呼んだ。
「やあ、旅川。ばかにちょうどよく出会ったな」
「少しもちょうどいいことはない。最前から
「実は、山科のほうは、昨日のうちに引き払って出たんだが、途中からつけてくる、うさんくせえ奴をまくために、思いのほか暇どってしまった」
「そうか……がまず、何より心配なのはお千絵だが?」
「お察し申すよ」
「笑ってくれるな、真剣だ」
「あの駕の中にいるから、ひと目
「そういわれると、少しテレるな。しかし、あらかた
「どうして、これからウンといわせるには、まだなかなか骨が折れるふうだぜ」
「江戸へ着くまでの間には、なんとか始末がつくだろう。オ……駕が来れば、もうこんな物をつけている必要はなかった」
胸にかけていた人形箱、頭巾、袖無、脱いでひとつにクルクルとまとい、自分の乗るべき
下には周馬、いつもの
ついでに、もうひとつの駕をのぞいて、
「お千絵殿、少し駕の外でも眺めてはどうだな」と、
手には縄、ほつれ髪、青い顔には猿ぐつわ。
「お千絵殿、江戸にいたころから見ると、だいぶ頬がやつれましたなあ」
周馬は、駕の棒にもたれて、白い
「……だが、美女のやつれというやつは、美しさに
「可哀そうに」
と、お千絵の猿ぐつわだけはずしてやる。
「――むごいようだが、手のほうは道中だけ辛抱して貰おうか。その代り江戸表へ入りさえすれば、どんな気まま、どんな
と、からかい半分、頬へ指をついてゆくと、冷やかに、覚悟を決めてきたお千絵の耳元が、怒りに血の色をさしてきた。
きりっと吊りあがった
「気の狂った男! お前はなにをいっているんです」
「狂ってはいない、真剣だ」
「千絵には、何の意味やらいうことが分りませぬ」
「おぬしは拙者の妻だぞということをいい聞かせているのじゃないか。もしお千絵殿、そなたがよく
「おだまり、千絵はまだ、そなたのような
「ちッ、また優しさに
と、襟がみをつかんで引きずり出した周馬、無情な平手でお千絵の頬をピシリと打った。そしてまた打ち、また打ちした。それが一種の快感であるように、周馬は打つ手を止められなかった。
自分の腕が疲れた時に、蹴こむようにお千絵を駕にぶちこんで、
「おい堀田、出かけようぜ」
と、見ぬふりをして休んでいる駕屋へも声をかける。伊太夫は
「旅川、お
「そうでもないが、つけあがるからよ。それにお千絵の姿を見ると、なんだかおれは昔から
「旦那!」
駕屋はそろって肩を入れた。
「やりますぜ――峠の上りへ」
「オオ、やってくれ」
ギシッ。三つの
「陽のあるうちに越えきれるかな」
「まだまだ」と、駕かきはいさぎよく
「こんなくらいじゃゆっくりでさ」
タッタッタッと加速度に足がそろってくる――禅定寺の大屋根から吹きおろす秋らしい力のある風に、満地の
「待て待てッ、その駕に用がある」
否やをいわせず、
ひょいと、まン中の駕の内から、顔を出した周馬が、あっ弦之丞! とおどろいて向うへ抜けだそうとすると、お綱がすばやく駈け寄って、
「おのれ」
と、駕の
「わっ……」と、満顔に染まる血を吹いて、周馬、やぶれかぶれの声で、
「伊太夫、手を貸せッ」
お綱へ
「卑怯者――ッ」
と
「うーむッ……」とおめいたが、旅川周馬、
万吉であった。お綱も駆けよった。
弦之丞はすぐに
「お綱、
万吉やかの
疎林の影をよぎってまっしぐらにこなたへ向ってくる一群の武士、まごうべくもあらず、安治川屋敷の原士たちと、三位卿、孫兵衛、助太刀の
朝まだきに淀川を
「来やがった!」
周馬の体に秘帖が隠されていないので、もしやと、伊太夫の死骸をみていた万吉は、それにも絶望しながら、近づいてくる殺気を眺めた。
一難、また一難。
周馬は斬り仆したが大事な
どうしよう? この場合を。
万吉の足どりにも
ともあれ、かれは急いでお千絵の縄目を切ることを先にした。――と、もう安治川屋敷の者はすぐそこまで近づいて、鮮血を踏んで立ったお綱と弦之丞の姿を指さしながらひしめいて迫る。
「ウム、まいったな、またここへも」
弦之丞は動じない
と。早口でふりかえった。
「お綱ッ。そちはお千絵どのを助けて、
「お、それがいい」
と万吉はお綱の帯をもって引きずるように
「ここにいてはかえって弦之丞様の足手まとい、早く早く」と手を振って峠路へ追い立てる。
この際、何をいい返す間があろう! お千絵の
この日のかれの働きに、やや
万吉も道中差をふりかぶって、命をまともに斬り廻った。腕というよりはその暴れかたに、阿波方の者は
その間に。
たえずかれの
その箱のそばにまた、
首の細いお
「おッ!」
つかんだ触覚で秘帖と分った。
「しめたッ――」と三位卿、
「秘帖あった!」
道中差を振るってヒラリと飛び
「弦之丞様、秘帖は万吉が手に入れましたぞ!」
と、かれに力をつけさせるべく叫んだ。
今や、道太郎とお十夜を
「オオ、お綱の手へ――お千絵をたのむ」
「合点です!」と、高く返辞を投げたものの、万吉はたじろがざるを得なかった。
右の
「死ぬ気だな――弦之丞様は?」と万吉、どうしてもそこを去りかねて、道太郎の横を
「何をぐずぐずしているのじゃ。万吉、早く行かぬかッ」と弦之丞がまた叱りつけた。
ぜひなく万吉。
「おのれその秘帖を」
と追いすがる有村へ、脇差を投げつけて、両手でおさえたふところの秘冊! 幾多の
――危機は刻々とせまる、かくて、弦之丞の青白い
そこを避けて、一方、禅定寺の
お綱は、心をあとに残して、
あの人のことである、今に血路をひらいて、きっと追いついてくるに違いない。と、道々もふりかえっては、お千絵のために安全な地を探した。
ひとつの山蔭を廻った時である。
仰むいてみた崖の上を、幾人もの足が土をくずして駆けたかと思うと山蔭にすがって、ばらばらと目の前へ
寝耳に水といおうか。
菅笠、
「見返りお綱、御用だッ――」
と、なんたる不意! 眼に痛いような磨きすました十手を向けた。
「あっ……」と、お綱は真っ青になった。
「
この時ほど、お綱の気の弱々しく、そして
旧悪! まったくお綱の記憶は自分の過去のそれを忘れていた。ことに今この場合、突然、女スリと呼びかけられた刹那の驚きは、胸のわるいめまいと、浅ましい嘆きだった。
よろめきそうな足を、一心にふみしめていたかの女は、やがて、
「
「なに?」
弥惣兵衛は意外なというふうに、
「支度をする間か」
「いえ……ここしばらくの間……幾日かたてば、きっと、奉行所へ私から名乗って出ます」
「だまれ、法は
「ああ! わたしは、もう心から生れ代ったお綱だと思っていたが……」
「御法のさばきをうけぬうちは、
「でも今は、たとえ何とおっしゃっても、また、この上罪が重なろうとも、お縄をうける訳にはゆきません」
「ぜひがない!」
弥惣兵衛は身を
「それ、召し捕ってしまえ」
「お願いです! ……」新藤五の刀を構えながら、お綱は、神に祈るように、
「お見のがし下さいまし、お慈悲! お願いでございます」
「
「どうしても、あることの終りを見届けないうちには――」
叫ぶのも終らぬまに、捕手は前後から打ってかかった。絶体絶命、縄をうけるか切りぬけるか、このふたつよりない
お綱は突然ひとりを切った。わッと捕手の
わっと乱れたが、すぐにまた捕手は彼女へ追いかかった、「御用」「御用」「御用」それは
中西弥惣兵衛は割羽織をぬぎすてて、
「うぬ、
のめるようにかけだして、きゅっと
「待ってくれ」と絶叫した。
「何?」
手もとを狂わせて、弥惣兵衛は、腹立たし気な目をその男にくれた。
「私は
「だまれ、そちは天満組の名をかざしてこの捕り物に故障をいおうとするか」
「いえ、決してそういうわけではございませぬが、今ここでお綱がお手あてになりましては、ある一つの事件と、さる方々の上に、実に当惑する難儀がひそんでおるのでございます。で、どうか、今この場だけを御寛大に」
「いや、うすうすそんな様子も察しているが、わしの役儀は町方与力だ。たとえ、事情や場合はどうあろうと、あくまで、
と中西弥惣兵衛、頑として
「ごもっともでございます、けれど、わっしも天満組の目明し、必ずそちらのお役目に泥をぬるようなことは致しませぬ。どうか
中西与力も強硬だが、万吉もまた、熱誠を
それにうたれたか弥惣兵衛は、
「では、天満組の目明し」
「へい」
「誓って、そちの手でお綱に縄をかけて、このほうへ渡すというか!」
と、開きなおった。
「…………」万吉はグッと返辞につまってしまった。けれど、顔色を悟られないうちに、キッパリと断言しなければ、弥惣兵衛の
鉛の熱湯をのむよりは苦しい、あとはどうこの気持がもてるか、自分にさえ分らぬ万吉、目をねむって一時のがれに、
「え……へい、きっと、承知いたしました」
「間違いあるまいな!」と強く念を押して、
「では、そちが召捕ってくる猶予として一
そう言いわたして中西弥惣兵衛は、少し横道に隠れ、附近の
「アア……」
ひとつの難を切り抜けてホッと息をつくと、万吉は瞬間、頭の
が、こんなことで、と万吉は自分にむちを打って心をしめなおした。そして、白い尾花が
すると、思わぬ所の崖道から、低い木をゆすぶって、誰か、
「万吉か?」と呼びとめた。
「オオ」ふりかえってみると、弦之丞であった、血ぬられた太刀を左にさげて上がってきた。
「そちが秘帖を持って駆けだした後を、湧井道太郎が追いかけて行ったが、別条はなかったか」
「へい、道太郎にも逢いませぬし、秘帖もここに持っております」
「それが案じられて拙者も近道を廻ってきたのじゃ。しかし、まだ油断はならぬぞ。わしの後からは原士をつれた孫兵衛と有村、また道太郎めもやがて追いついてくるに相違ない」
と話しながら、
「やっ?」
「――道太郎じゃ! いつの間に」
「
ふたりは足を飛ばして駆けた。いつのまに抜け道をしたか、ひとりの巨漢が白刃をかざして、小鳥のようなお千絵を追っかけ廻している。そして自分の身に代えて防いでいるのはお綱であった。
それさえハラハラさせられているところへ、また
ところが――意外の上にまた一ツの意外が重なった。
逃げ場を失ったお千絵様、
驚きひるむ原士の前に、降って湧いたように立っていた編笠は、前の日、
「やあ、阿波の人々、そこにいる三位卿もよく聞かれい!」と、かれは道太郎を斬った勢いで大音をあげた。
「――今日を期して幕府の
機智は功を奏して、鴻山の高くいった声は、青天のへきれきほど
むらがってきた原士は、足もとの大地を
「ウーム、では、幕府に先手を打たれたのか」
と、悲痛なつぶやきに、
突如――それは三位卿の、口から血を吐いたような叫びであった。
「大事は破れたッ……ああ京都……王室の御迷惑、
とたんに、かれは
「やっ?」
「あ、有村様ッ」
「おおっ、三位卿が自刃された」
八、九人の原士は、かれのまわりへ黒くなって集まった。だが、抱き起こされた三位卿はもう悲壮な死顔をしていた。
鴻山も万吉も、口もとを固くして、それを見つめる。
「かれも一個の志士であった。世に
人は知らず、弦之丞だけは、ひそかに一
すると、その様子などには目もくれないで、ひとり無念そうにたたずんでいた孫兵衛は、
「ええ、気が
と自他を
かれの眼に映じたものは第一にお綱であった。狙われたお綱は、サッと見た
「うぬ、てめえと弦之丞だけは」
悪鬼は破れかぶれとなって、
「――
と盲目的に斬ってかかるやつを「野郎!」と万吉、飛びついて孫兵衛の腕くびをねじおさえ、
「もうこの辺が運のつきだろう、往生ぎわをよく観念してしまえ」
「ちッ、くそでもくらえ!」
荒れ狂う助広の光に、草の葉が
だが、途端に孫兵衛、わッと
お綱お綱と、鴻山に声をかけられて、かの女はハッと吾に返った。新藤五の刀で夢中で孫兵衛の
「ううっ……」と、仰むけにぶっ仆れたお十夜は、ひとつ、大きな波を
「…………」
瞬間は無言。
皆、ほっと、息を
原士の残る者たちは、阿波本国の
「……頭巾を? ……」
兇悪な孫兵衛を討ち止めるとともに、ふと、剣山での父の死を目にうかべて、熱い涙がにじみだしてくるのを感じていたお綱は、どこかで、こういう声にささやかれた。
「孫兵衛の頭巾を? ……」
それは、
このことは、桃谷の家で、弦之丞にも万吉にも話してあった。で今、弦之丞は
鴻山も一種の猟奇心に駆られてジッと立っている。今は、解かれることを拒み得ないお十夜頭巾。
めくりだされるものはなんであろうか? 一同、思わず
「しばらく」
と、一同の
「? ……」
だしぬけに
「私の役目は、
と、ばかにていねいな切口上で、その侏儒がまたいった。
「そちはいったい何者であるか?」
こう訊ねたのは鴻山である。
侏儒はやや
「はい、私は阿波の者でござります」と悪びれずに――「ご承知でもございましょうが、原士の
侏儒は、その
「――で手前は役目としまして、月に一度は某所某時刻で、きっと孫兵衛の頭巾のうちをあらためることになっておりました。そして、龍耳老人に別状のない儀を知らせてまいりました。けれど、その関屋孫兵衛も、ここに最期を遂げましたからには、自然、手前の役目も終ったわけで、もう用のない体、阿波へ立ち帰ろうと存じまする」
万吉もお綱も、奇異な侏儒の話は、幻奇な物語を聞くような心地がしていたが、弦之丞には、かれの頭巾と侏儒の関係が、今は明らかにうなずけて、鴻山に代って一歩前へ出た。
「龍耳老人、あの方なら拙者も存じておる。してそちが今、吾々に願いがあるといったのは、どういうことであるな?」
「ほかでもございませんが」
「うむ、申してみい」
「関屋孫兵衛の首をお貰い申したいのでございます。かれの首を持って、阿波へ立ち帰りたいと存じますので」
「孫兵衛の首をくれろというのか」
「役目を終りました
「しかし、待て、一応は、かれの頭巾を
というと、
「もう徳島城の御陰謀も、幕府のほうへ知られました今日、ほかの、小さな秘密を固持する必要はございますまい。――といったところで、それはこのたびの事件とは、まったく縁のない、別のものでございますが」
「おお、ではそちの手であれを解くか」
「明らさまに申し上げましょう、しばらく、そこにお待ちを願います」
こういうと侏儒は、
その
「……?」
斬りさいなんでも飽きたらない
いつか、お千絵は、まだやまないふるえを歯の根にかんで、お綱の
弦之丞、鴻山、万吉。
いよいよ不思議な侏儒の
侏儒は、首となった孫兵衛の頭巾を、その人々の
「関屋孫兵衛の悩みはこれでございました」
黒布を
兇悪遂に身をほろぼした、かれの
髪は浪人たぶさに結っている。
「
侏儒が黒布を解いたせつなに、生首の
弦之丞をはじめ五人の人々が、
――ごらん下さいまし、これがどうして、孫兵衛の
ご存じはございますまい。
これも阿波では他国へ秘密としていた一ツでございますから。
関屋孫兵衛の母。
あのお方は、イサベラ様とおっしゃいます。
孫兵衛の
あのお方のことを思うので、私はつい涙ぐまれるのでございます……。
そんないいお人のイサベラ様の子に、
ですが。
どうしてそういう人が、阿波にいるかというご不審をおもちでしょう。川島郷の七人衆の原士、あの方々も
孫兵衛の母イサベラ様の幾代目かの御先祖――
そのような話、冬ごもりの
当時、阿波の御領主は、有名な
マリヤの笄は代々孫兵衛の家につたえられ、仏間と見せかけて実は
慈恩の笄でございます、母性愛の光でございます、子を
申すまでもなく、切支丹は禁教。
頭巾をとけば禁教者とみなされ、
孫兵衛の悩み。
十夜頭巾の呪縛。
もう、これで、皆様にも、すべてお分りでございましょう。
けれど私は、孫兵衛の永い間の苦痛よりも、その悩みを子に与えて、かれを
信仰の力もございましょう。しかし、女親の愛、ことに悪人の子をもったイサベラ様、深い慈愛をお見せ下さいました。弦之丞殿の手にかかって、孫兵衛はついに無残な死を遂げましたようなものの、もし、愛の呪縛がなかったら、もっと世の中に悪名を売り、一族を
慾でかかった仕事とはいい条、恩義のある阿波方に組して、これ以上の悪名をのがれただけでも、母親のお心に届いております。
で……手前、孫兵衛の首を郷里に持ち帰り、龍耳老人や七家の衆に、この次第をつぶさに話し、白金の笄は、イサベラ様の墓石の下へお返しいたしたいと存じますので。
どうか、孫兵衛の首は笄をさしたまま、私におつかわし願いとうございます。はい、最前お頼みと申しましたのは
と、
「あっ?」
色をかえた人々の目は、とびつくように、弦之丞の手もとを見あった。
「よし、孫兵衛のことは、そちの自由にするがよい」
キッパリといった上に弦之丞は、二つに破った
「これは?」
「これは龍耳老人へおくる弦之丞の寸志じゃ。帰国の上は、何もいわずに、孫兵衛の
ああ、さてはと、いちどは
お綱と弦之丞とは、さきに、剣山でとうていのがれ得ぬはずの危地を、龍耳老人のために救われている。それは、老人の思想と主家の将来を思うところによるとはいえ、救われた者には、大なる恩義であらねばならぬ。
理由もいわずに弦之丞が、せっかく手に入れた秘帖の一端を裂いて老人へ贈ったのは、それに
「ありがとうぞんじます」
侏儒はそれをふところに納め、孫兵衛の
「では、皆様」と、もう一度辞儀をして、阿波川島の郷里へ帰るべく、急ぎ足に
後に思いあわせれば――。
徳島城の
しかし、それは後日になって、当面の人たちだけが思い当たって感謝したことだ。……今、侏儒の姿が麓へ小さく隠れてゆくのを見送っている弦之丞には、頬の微笑と、快い感情の波が人知れず胸にうった。
かれは手に残った秘帖の一部を鴻山に渡して、これは自分の使命のしるし、所司代松平左京之介殿の手をへて、幕府へ委細の復命をたのみたいといった。
「いや」
と鴻山は固く辞退した。
「この事件になんの功もない拙者が、それを
と、すすめるのを、弦之丞は手を振って、
「御厚意のほどはありがたく思いまするが、実は、自分の一個の存念で、このまま、江戸へは帰らぬ覚悟でござります」
「えっ」
と鴻山は、その心を計りかねるように、
「そりゃ、なぜでござるか?」と
「何か、徳川家に対して、ご不平でも? ……」と探るように顔色を見た。
なぜ?
それはお綱にも万吉にも、同時に怪しまれたことだった。ことに、お千絵はなつかしい人の姿を目の前にしながら、まだあたりの人の手前、ひとことも口をかわされないでいたが、にわかに悲しげな色が眉を曇らしている。
「決して」
弦之丞は鴻山の言葉を否定して、
「不平などはみじんござりませぬ。そう誤解して下されては困る。そのことは、とうから心にもっていた拙者の宿望です。――幸いにして、なかるべき筈の一命をたもち、
「いや、それでは、お千絵殿をはじめ、他の者も、第一この鴻山にしても、自身の本望はとげたにしても寝ざめのよくない心地がする。ぜひ、貴殿もいちどは江戸へ御帰府あるようにおすすめいたす。いや、お願いする!」
と、鴻山は熱をこめて言った。
その言葉は、お千絵の秘している心を代弁してくれるようであった。同時に、万吉もいわんとする気持を鴻山がつくしてくれたような気がした。
しかし、お綱の考えはどうであったろうか? すくなくも今のお綱の胸のうちは
いつか
と――あなたの小高い林をぬけてくる人数が見えた。奥甲賀の
弦之丞はまたこういった。
「自分は純然たる幕府方の人間のようであって、まことは幕府に忠実な者ではござらぬ。それは今、秘帖の一半を裂いて阿波へ返してやった不審な行為でもお分りになろう」
と、あくまで、鴻山の切なすすめを拒んで、
「――
と、
江戸に籍をおく身であって、一面、反幕府派と称せらるる皇学中心の運動をも、どうしても否定しきれないところに、かれの憂鬱が常にあった。
その
今またその告白をくり返して――
「なんでこのふた心と矛盾を抱いて、これ以上、幕府の
というのだった。
「多少、江戸表にも、心のひかれることがない身ではござらぬが、果てしのない凡情の延長へ
もう鴻山にも万吉にも、出世の無理
で――黙然とうなだれてしまったが、その沈黙がくるとすぐに、わっと、こらえを破って泣く声をきいた。
はっと、皆の目は、泣き伏したお千絵の姿に吸いつけられる。
お千絵は最前から弦之丞の心もちをきいているうちに、あたりが真っ暗におぼえる程な失望に血を
「ああ……」
しかし、その痛々しい姿は、弦之丞の心をみだし、また責める。
ひとつの矛盾をしりぞければ、また新しくひとつの矛盾がなだれてくる。
神のごとき純なお千絵に、生涯の
また、ちょうど同じこの
理性はそれを問う、良心は弦之丞にそれを責める。
といって?
ここまで永い苦難をともにしてきたお綱を。ああ、お綱をどうしよう?
弦之丞も今はそのお綱を、分りきっている嘆きの底に突き落して顧みぬほど、
ましてや、ふたりは義理のある仲である。かれも、それを思いこれを思う時は、凡智の男になって断腸の思いがするのだ。いや、弦之丞でなくとも、誰かよくこの
「ゆるしてくれ」
苦しい、心の遠くで、
「旅だ、果てのない旅だ。わしは未来の
と思いきる。
ふと、かれは唇のふるえを噛んで、あらぬ
さっきから、お綱は何ごともいわず、化石したように、じっとうつむいたきりであったが、苦悶の横顔に、ありありと弦之丞の胸を察して、今は、いたたまれないような気持に迫られていた。
と――不意に、お綱は自身から、悲嘆や
「もし! ……」
と叫んで、その人の足もとへ、ふっさりした黒髪を体ぐるみ投げ伏せた。
「弦之丞様!」
両手をついて、紙のような顔色をあげたが、目や鼻へ熱いものが胸もとからこみあげて、激情の
「弦之丞様! もし弦之丞様! 今のおことば、ご無理ではございませぬが、お可哀そうなお人のために、どうか、江戸表へ帰って上げて下さいまし、わ、わたしも、一緒になってこの通りお願いします……、お、お千絵様をつれて、どうぞ江戸へ……」
と一念になって言ったが、自分でも何を叫んでいるのか分らない
その時。
ガサ、ガサとこっちへ寄ってきた中西与力と捕手の者は、もう約束をすぎて、夕月さえ見る刻限となったので、少し、じれだしながら、
無情を公明という
ギクッと胸に釘を打たれながら天満の万吉、前には、お綱の今の言葉に泣くまいとする程男泣きの涙がもろくこぼれるし、うしろのほうへは、人知れずハラハラと気がねをして、
「頼む、頼む、もう少しの間」
と、それも口には出せず、目まぜで哀願しているのであった。
中西弥惣兵衛の考えでは、万一そこにいる者たちが違約をして、お綱を逃がすことがないとも限らぬ――という
万吉は板ばさみの苦境に立った。
固い
自身十手もちの目明しでありながら、十手にびくびくおびやかされなければならない万吉も、弦之丞がもつ苦しみとともに、これまた、人情が生んだ不思議な矛盾だ。
「どうぞ思いなおして、お千絵様のために、江戸へ帰って上げて下さいまし」
と、重ねて手をついて頼むお綱の手を、吾知らず、弦之丞はすくい取っていた。
「お前の心はよく分る!」
というように。
指へ痛くしびれてくるふるえが、お綱の涙をいっぺんに誘いかけた。だが、お綱は、ここでは決して泣き顔を見せまいとして、暴風のような激情と闘っていた。
「わしは幕府へ仕える気がすすまぬのだ。ゆるしてくれ、このわがままを。何と思いなおしても、江戸へ帰る気にはなれない拙者だ。で……それよりは、お前たち
と弦之丞は、お千絵の顔をジッと見て、
「ゆく末、むつまじく暮らしてくれ」
と力をこめて、ふたりにいった。
「えっ……?」
お千絵は耳を疑った。
姉妹? 誰と?
今、弦之丞はそういったのではないか。と泣きはれた目をみはったが、思い当たったものか、サッと顔の色をさめさせて、その眸を、お綱のほうへ向けかえたのであった。常木鴻山も、今はつつんでいた仔細を話して、お千絵に義理の姉をひきあわせる時機であろうと考えて、唇をうごかしかけたが、
「いいえ! いいえ!」
と、その間もないような早口で、お綱はすべてをさえぎって、名乗ることも避けて言った。
「弦之丞様、もうなんにも申しますまい。江戸へ帰ってくれともお頼みいたしません。ですけれど、たとえ旅から旅でお暮らしなさるにしても、お千絵様の身だけは永く見てあげて下さいね……ご、後生でございます。お綱があなたに最後のお願いは、たった、それひとつでございます。それさえかなえて下されば、わ、わたしは、自分があなたと暮らす身になったのと同じように、うれしいと思います! ……本望です! ……江戸の女の負け惜しみではございませぬ、心の底から、蔭にいても、おふたりのお幸せを祈っています」
「…………」
「返辞はどうなさいました。おっしゃって下さい、弦之丞様、承知したというひと
「や! ……」とふりかえる弦之丞。
鴻山もお千絵も、いつぞやの人相書を思いあわせて、初めて、救いがたいお綱の危機が、支度をしてのぞんでいる
弦之丞は何ともいえぬすくみを、自身におぼえた。そして、棒立ちになっている万吉とともに、暗然とした顔を見あわせてしまったが、やがて、
――待ちくたびれた様子の捕手は、果てしがないと見てか、急にいらいらとした空気をゆるがせて、
「まだか!」
と、むこうで呶鳴りだした。
エヘン! と職分、ただそれにだけ忠実な中西
「おお……」と万吉。
あれ程な男も、今は、
「もうしばらく……もうしばらく」
と、一
その、切なげな万吉の立場は、お綱の心に映っている。
で――覚悟をきめたらしく、ほつれ髪を指で
「それでは、皆さま」
と、声を澄ませた。
一
「とうとう時節がまいりました、おそろしい程間違いなく、旧悪の埋合せを取りに来ました。けれど、見返りお綱の兇状を、いっそ、
ひとりひとりへ
「ア……お綱さま」と、お千絵が悲しげな声を風にかすらせる。
「おお、お綱、待て」
と、弦之丞も、剣をとる時の彼とは別人のように、みだれた音を重ね呼びに、
「――お綱、お綱」
と無意識に止めたが、それにさえ、耳をおさえて逃げるように、かの女は、疲れきった姿の細い影法師を、ふらふらと、青い月の色へよろめかせて行った。
大地いッぱいに光る草露は、みんな、泣かぬ自分の涙かとも思えて、
「ああ、ぜひがねえ」
今は! ……と天満の万吉。
飛び寄ったが万吉、うしろから廻した手はいたわるようにそっと抱き止めて、
「お綱、御用……」
と、力のない涙の
やわらかに掛けて廻した。
かの女の指は帯のうしろで、自分から捕縄をつかんでいた。そして、かれと自分との
「……万吉さん」
と、感慨を目にこめてふりかえった。
すぐに、中西弥惣兵衛は
「歩けッ!」
と、月にひとすじのむごたらしい縄が、黒い影と影とをつないで、万吉も鴻山もお千絵も思わず
ひとり、弦之丞だけは、黙然とそこを去って、あなたの
すると、ちょうどその夕暮に、
「さぞ疲れたろう、くたびれたろうね。お前たちの足では無理な道だったもの。けれど、寺の人の話から推して考えてみても、きっと、この上にいるに違いない。もう少しの道だろうから、辛抱おしよ、ね、我慢をして歩いておくれ」
こういっているのは四国屋のお
「おばさん、おいらはちっとも足が痛くないよ、こんな道ぐらい何でもないや」
と、それに答えて元気なのは、手をひかれている乙吉だった。
「あたいだって……」
と姉のお三輪も負けない気でいう。
「暗くっても怖くはない。お綱姉さんに会えるんだもの。ねエ、おばさん」
「ほんとに、お綱姉さんはこの上にいるの?」
と、乙吉はその尾について、足を
「
「うれしい!」
「あたいの姉ちゃん! お綱姉ちゃん!」
ふたりは童心を躍らせた。
月光はむごく冴えつける。
お綱は、あさましい自分の影を大地に見た。
「お前は、なんていう
そして――
「歩けッ」「いそぐんだ!」
と、口癖にどなる捕手に
が――より以上、切ない、胸苦しいかたまりは、むしろ、無情な成行きを、傍観的に見送っていなければならない、後の人々に残された。
お千絵は泣きはれた目を――鴻山は
それが、見えなくなった後も、
突然! 谷底へでも突き落とされたような悲鳴が、ヒイーッと山の
「姉ちゃアン! 姉ちゃんを助けてッ……」
と、たった一声。
「あっ……そうだ!」
と万吉は、初めて、どやされたように思いだしたことがあって、
「悪かった! 途中で出っ
と、足もとも見ずに、駈け下りて行った。
と、やがて万吉は、お久良と一緒に汗をかいて、泣きわめくお三輪と乙吉を、ひきずるように抱えてきた。
けれど聞き分けのない童心は、どんなになだめすかす言葉もうけ入れないで、あらん限りの声を
「いやだ、おさえちゃいやだッ」
「助けてよう! 姉ちゃんがつれられてゆく」
「お綱姉ちゃアん! ……」
「離してッ、おさえちゃいやだ。おじさん、ばか! ばか! ばか!」
と、抱き止めるものの手を夢中で引ッ掻いた。
だがそれも、どこからか、思いがけない
弦之丞はそこへ来ていた。
心の平調をとり戻すことにかれは苦しんだ。そして、ふと珍しく
大津
* * *
かれが裂いて返した秘帖の一片で、阿波は一城とりつぶしの
後に、秋元家から徳島へ帰ったが、幽閉は解かれず、
一国の大名として
江戸へ差立てになるかと思ったお綱は、京都町奉行所の
無論、背後に、松平左京之介の
鴻山はすぐにお綱の身がらを引取りに出た。けれど、かの女はその夜、両手にお三輪と乙吉を連れて出たまま、どこともなく姿を隠した。お綱のあの性格が、どこまでもそういう運命を作るようにできているのか、ついに、その行方さえ知らずとなん。