その迅速を競って。
一方――
「待てっ」
「馬をおりろ」
関門へかかるや否や、彼は関所の守備兵に引きずりおろされた。
「先に中央から、曹操という者を見かけ次第召捕れと、指令があった。そのほうの風采と、容貌とは人相書にはなはだ似ておる」
関の
「とにかく、役所へ引ッ立てろ」
兵は
関門兵の隊長、道尉
「あっ、曹操だ! 吟味にも及ばん」と、一見して云いきった。
そして部下の兵をねぎらって彼がいうには、
「自分は先年まで、洛陽に吏事をしておったから、曹操の顔も見覚えている。――幸いにも
そこで、曹操の身はたちまち、かねて備えてある鉄の
日暮れになると、酒宴もやみ、吏事も兵も関門を閉じて何処へか散ってしまった。曹操はもはや、観念の眼を閉じているもののように、檻車の中によりかかって、真暗な山谷の声や夜空の風を黙然と聴いていた。
すると、夜半に近い頃、
「曹操、曹操」
誰か、檻車に近づいてきて、
眼をひらいて見ると、昼間、自分をひと目で観破った関門兵の隊長なので、曹操は、
「何用か」
「おん身は都にあって、
「くだらぬことを問うもの
「曹操。君は人を
「なんだと」
「怒り給うな。君がいたずらに人を軽んじるから一言
意味ありげな言葉に、曹操も初めの態度を改めて、「然らばいおう」と、檻車の中に坐りなおした。
曹操は、口を開いた。
「なるほど
と語気、熱をおびてきて――
「
白面細眼、
「…………」
黙然――ややしばらくの間、檻車の外にあってその態を見ていた関門兵の隊長は、
「お待ちなさい」
いうかと思うと、檻車の鉄錠をはずして、扉を開き、驚く彼を中から引きだして、
「曹操どの、貴君はどこへ行こうとしてこの関門へかかったのですか」
「故郷――」
曹操は、
「故郷の
「さもこそ」
隊長は、彼の手をひいて、ひそかに自分の室へ
「思うに違わず、ご辺は私の求めていた忠義の士であった。貴君に会ったことは実に喜ばしい」
「では御身も董卓に恨みのある者か」
「いや、いや、
「それは、意外だ」
「今夜かぎり、てまえも官を棄ててここから
「えっ、真実ですか」
「なんで嘘を。――すでにこういう前に、貴君の縄目を解いているではありませんか」
「ああ!」
曹操は初めて、回生の大きな歓喜を、その
「して、貴公は一体、何とおっしゃるご仁か」と、訊ねた。
「申しおくれました。自分は、
「ご家族は」
「この近くの東郡に住まっています。すぐそこへ参って、身支度を代え、すぐさま先へ急ぎましょう」
陳宮は、馬をひきだして、先に立った。
夜もまだ明けないうちに、二人はまた、その東郡をも後にすてて、ひた急ぎに、落ちて行った。
それから三日目――
日夜わかたず駆け通してきた二人は、
「今日も暮れましたなあ」
「もうこの辺までくれば大丈夫だ。……だが、今日の夕陽は、いやに黄いろッぽいじゃないか」
「また、
「あ、胡北の
「どこへ宿りましょう」
「部落が見えるが、この辺はなんという所だろう」
「先ほどの山道に、
「あ。それなら今夜は、訪ねて行くよい家があるよ」
と、曹操は明るい眉をして、馬上から行く手の林を指さした。
「ほ、こんな
「父の友人だよ。
「それは好都合ですな」
「今夜はそこを訪れて一宿を頼もう」
語りながら、曹操と陳宮の二人は、林の中へ駒を乗り入れ、やがてその駒を樹につないで、尋ね当てた呂伯奢の門をたたいた。
主の呂伯奢は驚いて、不意の客を迎え入れ、
「誰かと思ったら、曹家のご子息じゃないか」
「曹操です。どうもしばらくでした」
「まあ、お入りなさい。どうしたのですか。一体」
「何がです」
「朝廷から各地へ、あなたの人相書が廻っていますが」
「ああその事ですか。実は、
「お連れになっている人はどなたですか」
「そうそう、ご紹介するのを忘れていた。これは道尉
「ああそうですか」
「義人。――どうかこの曹操を
と、曹操の父の友人というだけに、先輩らしく
そして呂伯奢は、いそいそと、
「まあ、ごゆるりなさい、てまえは隣村まで行って、酒を買って来ますから」
と、
曹操と陳宮は、旅装を解いて、一室で休息していたが、主はなかなか帰ってこない。
そのうちに、夜も初更の頃、どこかで異様な物音がする。耳をすましていると、刀でも
「はてな?」
曹操は、疑いの目を光らし、
「そうだ、……やはり刀を磨ぐ音だ。さては、主の呂伯奢は、隣村へ酒を買いに行くなどといって出て行ったが、県吏に密訴して、おれ達を縛らせ、朝廷の恩賞にあずかろうという気かも知れん」
呟いていると、暗い
「さてこそ、われわれを、一室に閉じこめて、危害を加えんとする計にうたがいなし。――その分なれば、こっちから斬ッてかかれ」
と、陳宮へも、事の急を告げて、にわかにそこを飛び出し、驚く家族や召使い八名までを、またたく間にみな殺しに斬ってしまった。
そして、曹操が先に、
「いざ逃げん」と、促すと、どこかでまだ、異様な
厨の外へ出て見ると、生きている
「ア、しまった!」
陳宮ははなはだ後悔した。
この家の家族たちは、猪を求めて来て、それを料理しようとしていたのだ――と、分ったからである。
曹操は、もう闇へ向って、急ごうとしていた。
「陳宮。はやく来い」
「はっ」
「何をくずぐずしているのだ」
「でも……。どうも、気持が悪くてなりません、
「なんで」
「無意味な殺生をしたじゃありませんか。かわいそうに、八人の家族は、われわれの旅情をなぐさめるために、わざわざ
「そんなことを悔いて、家の中へ、掌を合わせていたのか」
「せめて、念仏でも申して、
「はははは。武人に似合わんことだ。してしまったものは是非もない。戦場に立てば何千何万の
曹操には、曹操の人生観があり、陳宮にはまた、陳宮の道徳観がある。
それは違うものであった。
けれど今は、一
二人は、闇へ馳けた。
そして、林の中につないでおいた駒を解き、飛び乗るが早いか、二里あまりも逃げのびてきた。
――と、彼方から、
「おや、お客人ではないか」
それは今、隣村から帰って来た
曹操は、まずい所で会ったと思ったが、あわてて、
「やあ、ご主人か。実は、きょうの昼間、これへ来る途中で寄った茶店に、大事な品を忘れたので、急に思い出して、これから取りに行くところです」
「それなら、家の召使いをやればよいに」
「いやいや、馬でひと
「では、お早く行っておいでなさい。家の者に、猪を
「は、は、すぐ戻ってきます」
曹操は、返辞もそこそこに、馬に鞭打って呂伯奢と別れた。
そして四、五町ほど来たが、急に馬を止め、
「君!」と、陳宮を呼びとめ、
「君はしばらく此処で待っていてくれないか」
と云い残し、何思ったか、再び道を引っ返して馳けて行った。
「どこへ行ったのだろう?」と、陳宮は、彼の心を解きかねて、怪しみながら待っていたところ、やがてのこと曹操はまた戻ってきて、いかにも心残りを除いて来たように、
「これでいい! さあ行こう。君、今のも
と、いった。
「えっ。呂伯奢を?」
「うん」
「なんで、無益な殺生をした上にもまた、あんな善人を殺したのです」
「だって、彼が帰って、自分の妻子や雇人が、皆ごろしになったのを知れば、いくら善人でも、われわれを恨むだろう」
「それは是非もありますまい」
「県吏へ訴え出られたら、この曹操の一大事だ。背に腹はかえられん」
「でも、罪なき者を殺すのは、人道に
「否」
曹操は、詩でも吟じるように、大声でいった。
「我をして、天下の人に
――怖るべき人だ。
曹操の一言を聞いて、陳宮はふかく彼の人となりを考え直した。そして心に
この人も、天下の苦しみを救わんとする者ではない。真に世を憂えるのでもない。――天下を奪わんとする野望の士であった。
「……
陳宮も、ここに至って、ひそかに悔いを噛まずにいられなかった。
男子の生涯を
けれど。
すでにその道は踏み出してしまったのである。官を捨て、妻子を捨てて共に
「悔いも及ばず……」と、彼は心を取りなおした。
夜がふけると、月が出た。深夜の月明りをたよりに、十里も走った。
そして、何処か知らぬ、
「陳宮」
「はい」
「君もひと寝入りせんか。夜明けまでには間がある。寝ておかないと、あしたの道にまた、疲労するからな」
「
「ムム。そうか。……ああしかし惜しいことをしたなあ」
「何ですか」
「
「…………」
陳宮には、それに返辞する勇気もなかった。
馬を隠して、しばらくの後、またそこへ戻って来てみると、曹操は、古廟の軒下に、月の光を浴びていかにも快よげに熟睡していた。
「……なんという大胆不敵な人だろう」
陳宮は、その寝顔を、つくづくと見入りながら、憎みもしたり、感心もした。
憎むほうの心は、
(自分は、この人物を買いかぶった。この人こそ、真に憂国の大忠臣だと考えたのだ。ところがなんぞ計らん、狼虎にひとしい大野心家に過ぎない)
と、思い、また敬服するほうの半面では、
(――しかし、野心家であろうと
と、ひとり心のうちで思うのであった。
そして、そう二つに観られる自分の心に
「今ならば、睡っている間に、この曹操を刺し殺してしまうこともできるのだ。生かしておいたら、こういう姦雄は、後に必ず天下に
陳宮は、剣を抜いた。
寝顔をのぞかれているのも知らず、曹操はいびきをかいていた。その顔は実に端麗であった。陳宮は迷った。
「いや、待てよ」
寝込みを殺すのは、武人の本領でない。不義である。
それに、今のような乱世に、こういう一種の姦雄を地に生れさせたのも、天に
「ああ……。なにを今になって迷うか。おれはまた
思いとどまって、剣をそっと
さて。――日も経て。
曹操はようやく父のいる郷土まで行き着いた。
そこは河南の
「どうかして下さい」
曹操は、家に帰ると、事の次第をつぶさに告げて、幼児が母に菓子でもねだるような調子でせがんだ。
「――義兵の旗挙げをする決心です。誰がなんといっても、この決心はうごきません。そこで、父上にも、ひと肌ぬいでいただきたいんですが」と、いうのである。
父の
「ウーム……。偉いことをしでかして来おったな」
と、呆れ顔に、
「どうかしてくれって、どうすればよいのじゃ」と、
「軍費が要り用なんです」
「軍費といったら、わしの家のこればかしな財産では、いくらの兵も養えまいが」
「ですから、父上のお顔で、
「じゃあ、
「衛弘って誰ですか」
「河南でも一、二を争う財産家だがね」
「じゃあ、父上が
「おまえのいうことは、なんでも簡単だな」
「大きな仕事を手軽にやってのけるのが、大事を成す秘訣ですよ」
衛弘は、曹操をながめて、
「都へ行っていたと聞いていたが、いつのまにか、よい青年になったなあ」
などといった。
曹操は、彼を待遇するに、あらゆる
そして、話のはずんできた頃、胸中の大事を打明けて、援助を依頼してみた。
もし嫌だといったら、生かしては帰さないという気を、胸にふくんでの真剣な膝づめ談判であったから、静かに頼むうちにも、曹操の眸は、
ところが、衛弘は聞くとすぐ、
「よろしい。ご辺の忠義にめでて、ご援助しましょう。近ごろの天下の乱れを、わしも嘆いていたが、わしの器量にはないことだから、時勢の成行きを眺めていた折です。――いくらでも軍用金はご用立てしよう」と、承知してくれた。
曹操は、よろこんだ。
「えっ、ではお引きうけ下さるか。しからば、私は早速、兵を集めにかかるが」
「おやんなさい。けれど、敗れるような
「軍費のほうさえ心配なければ、どんなことでもできます。河南をわが義兵をもって埋めてごらんに入れるから見ていて下さい」
父の曹嵩には、幾つになっても、子は子供にしか見えなかった。曹操のあまりな豪語に、衛弘がすこし乗り過ぎているのじゃないかと、かえって
まず彼は、近郷の壮丁を狩り集め、白い二
「われこそ、朝廷から密詔をうけて、この地に
と唱えだした。
今でこそ、地方の一郷士に落ちぶれているが、なんといっても、曹家は名門である。嫡子の曹操もまた
「密勅をうけて降ったものである――」
という曹操の声に、まず近村の壮丁や不遇な郷士が動かされた。
「陳宮、こんな雑兵じゃ仕方がないが、もっと有力な諸州の
時々、彼は陳宮へ計った。
陳宮は献策した。
「忠義を旗に書いて待っているだけでは駄目です。もっと憂国の至情を
「どうしたらいいか」
「
「おまえ、書いてくれ」
「はい」
陳宮は、檄文を書いた。
彼は、心の底から国を憂えている真の志士である。その文は、読む者をして奮起せしめずにおかないものであった。
「――ああ名文だ。これを読めば、おれでも兵を引っさげて馳せ参ずるな」
曹操は感心して、すぐ檄を諸州諸郡へ飛ばした。
英雄もただ英雄たるばかりでは何もできない。覇業を成す者は、常に三つのものに恵まれているという。
天の時と、
地の利と、
人である。
まさに、曹操の檄は、時を得ていた。
日ならずして、彼の「忠」「義」の旗下には続々と英俊精猛が馳せ参じてきた。
「それがしは、
と、名乗ってくる者や、
「――自分らは
と、いう頼もしい者が現れてきたりした。
もっとも、その兄弟は、曹家がまだ郡にいた頃、曹家に養われて、養子となっていた者であるから、真っ先に馳せつけて来るのは当然であったが、そのほか毎日、軍簿に到着をしるす者は、
山陽
彼の
一方、それらの兵に対して、曹操は、衛弘から充分の軍費をひき出して、武器糧食の充実にかかっていた。
「あのように、軍資金が豊富なところを見ると、彼の
形勢を見ていた者までが、その隆々たる軍備の急速と大規模なのを見て、
「一日遅れては、一日の損がある――」といわんばかり、争って、東西から来り投じた。
(河南の地を兵で埋めてみせん)
と、いつか衛弘にいった言葉は、今や空なる豪語ではなくなったのである。
従って、富豪衛弘も、投財を惜しまなかった。いや、彼以外の富豪までが、みな乞わずして、
「どうか、つかってくれ」と、金穀を運んできた。
すでに曹操はもう、多くの将星を左右に
「あ、さようか。持って来たものなら取っておいてやれ」
と、いうぐらいのもので、会ってやりもしなかった。
さきに都を落ちて、
「曹操が旗をあげた。この檄に対して、なんと答えてやるか」
袁紹は、腹心をあつめて、さっそく評議を開いた。
彼の幕下には、壮気にみちた年頃の大将や、青年将校が多かった。
また――
などという
「誰か、一応、その檄文を読みあげてはどうか」
とのことに、顔良が、
「しからば、てまえが」と、大きく読み出した。
檄
操等 、謹ンデ、
大義ヲモッテ天下ニ告グ
董卓、天ヲ欺 キ地ヲ晦 マシ
君ヲ弑 シ、国ヲ亡ボス
宮禁、為ニ壊乱
狠戻 不仁、罪悪重積 ス
今
天子ノ密詔ヲ捧ゲテ
義兵ヲ大集シ
群凶 ヲ剿滅 セントス
願ワクバ仁義ノ師 ヲ携 エ
来ッテ忠烈ノ盟陣 ニ会シ
上、王室ヲ扶 ケ
下、黎民 ヲ救ワレヨ
檄文到ランノ日
ソレ速ヤカニ奉行サルベシ
「これこそ、我々が待っていた天の声である。地上の大義ヲモッテ天下ニ告グ
董卓、天ヲ
君ヲ
宮禁、為ニ
今
天子ノ密詔ヲ捧ゲテ
義兵ヲ大集シ
願ワクバ仁義ノ
来ッテ忠烈ノ
上、王室ヲ
下、
檄文到ランノ日
ソレ速ヤカニ奉行サルベシ
幕将は、口を揃えていった。
「――だが」と、袁紹は、なお少し、ためらっている風だった。
「曹操が、密詔をうけるわけはないがなあ? ……」
「よいではありませんか。たとえ密詔をうけていても、いなくても。その為すことさえ、正しければ」
「それもそうだ」
袁紹も遂に肚をきめた。
評定の一決を見ると、さすがに名門の出であるし、多年の人望もあるので、兵三万余騎を立ちどころに備え、夜を日についで、河南の陳留へ馳せのぼった。
来てみると、その
まず――
第一
第二鎮
第三鎮
予州の刺史
第四鎮
第五鎮
第六鎮
陳留の太守
第七鎮
東郡の太守
そのほか、済北の
「自分も参加してよかった」
ここへ来て、その実状を見てから、袁紹も心からそう思った。時勢の急なるのに、今さら驚いたのである。
第一鎮から第十七鎮までの将軍はみな、一万以上の手兵を率いて各の本国から参集してきた一方の雄なのである。
その中にはまた、どんな豪強や英俊がひそんでいるかも知れなかった。
わけて、第十六鎮の部隊には、時を待っていた
北平の太守で奮武将軍の
「しばらくっ、しばらくっ!」
と、大声をあげて、公孫の馬を止めた者がある。
「何者か?」と、旗本たちが振りかえると、かたわらの桑畑の中を二、三
「や? 何処の武士どもか」と、疑っている間に、それへ現れた三騎の武人は、家来の雑兵約十名ばかりと共に公孫の馬前にひざまずいて、
「将軍、願わくば、われわれ三名の者も、大義の軍に入れて引具し給え。不肖ながら犬馬の労を惜しまず、討賊の先陣に立って、尽忠の誠を、戦場の働きに見せ示さんと、これにてご通過を待ちうけていた者でござります」と、いった。
公孫は、初めのうち、さてはこの辺の郷士かとながめていたが、そういう三名の中に、一名だけ、どこかで見覚えのある気がしたので、思いよりのまま試みに、
「もしや貴公は、
と、訊ねてみると、
「そうです。ご記憶でしたか、自分は劉玄徳です」
との答え。
「おう、さてはやはり――」と、驚いて、
「黄巾の乱後、洛陽の外門でちょっとお会いしたことがあるが、その後、ご辺にはいかなる官職につかれておらるるか」
「お恥かしいことですが、碌々として、何の功も出世もなく、この片田舎の県令をやっていました」
「それはひどい微職だな。貴公のような人物を、こんな片田舎に埋めておくなどとは、もったいないことだ。――してまた、お連れの二人はいかなる人物か」
「これは、自分の義弟たちです」
「ほ、ご令弟か」
「ひとりは関羽、また次にひかえておる者は、張飛と申しまする」
「官職は」
「関羽は
「いずれも頼もしげなる大丈夫を
「では、おゆるし下さるか」
「願うてもないことだ」
「必ず逆臣
玄徳も、関羽も、恩を謝して誓った。そして再拝しながら起ちかけると、張飛は、
「だからおれがいわぬことじゃない」と、ぶつぶついった。
「
玄徳は、聞き咎めて、
「張飛。何を無用なたわ
と、叱った。そして自身もわざと、中軍より後の列に加わり共に曹操の大計画に参加したのであった。
かくて――
曹操の計画は、今やまったく確立したといってよい。
布陣、作戦すべて成った。
会合の諸侯十八ヵ国。兵力数十万。第一鎮より第十七鎮まで備えならべた陣地は、二百余里につづくと称せられた。
吉日を
「われらここに起つ!」
と、旗挙げの式を執り行った。
その式場で、諸将から、
「今、義兵を興し、逆賊を討たんとする。よろしく三軍の盟主を立て、総軍の首将といただいて、われら命をうくべし」と、いう発議が出た。
「然るべし」
「そうあるべしだ」と異口同音の希望に、
「では、誰をか、首将とするべきか?」
となると、人々はみな譲り合って、さすがに、われこそとあつかましく自己推薦をする者もない。
で結局、曹操が、
「
と、指名した。
「袁紹は元来、漢の名将の
彼のことばに、
「いや、自分は到底、その
と袁紹は謙遜して、再三辞退したが、それは他の諸将に対する一片の儀礼である。遂に推されて、
「では」
と、型の如く承諾した。
次の日。
式場に三重の壇を築き、五方に旗を立てて、
「赤誠の大盟ここになる。誓って、漢室の不幸をかえし、天下億民の
香を焚いて、祭壇に、拝天の礼を行うと、諸将大兵みな涙をながし、
「時は来た」
「天下の
「日ならずして、洛陽の逆軍を、必ず地上から一掃せん」
と、歯をくいしばり、腕を
袁紹はまた、諸将の礼をうけてから、
「われ今、
と、命令の第一言を発した。
「万歳っ。万歳っ」と、雷のような声をもって、三軍はそれに応えた。
袁紹は、第二の命として、
「わが弟の
それにも、人々は、支持の声を送った。
「――次いで、直ちに我軍は、北上の途にのぼるであろう。誰か先陣を承って、
すると、声に応じて、
「われ
と、旗指し物を上げて名乗った者がある。長沙の太守
この暁。
洛陽の
次々と着いてくる早馬は、
「
「お目ざめになりました。いざ」と、
「なんだな、早朝から」
董卓は、脂肪ぶとりの肥大な体を、相かわらず重そうに
「大事が
「また、宮中にか?」
「いや、こんどは遠国ですが」
「草賊の乱か」
「ちがいます――かつてなかった叛軍の大がかりな旗挙げが起りました」
「どこに」
「
「では、主謀者は
「さようです。たちまちのうちに、十八ヵ国の諸国をたぶらかし、われ密詔を受けたりと偽称して、幕営二百余里にわたる大軍を編制しました」
「そいつは捨ておけん」
「もとよりのことです」
「で――まだ詳報はこないか」
「昨夜、夜半から
「孫堅。――ああ、長沙の
「上手なはずです。なにしろ、兵法で有名な
「孫子の末裔だと」
「はい、呉郡富春(浙江省・富陽市)の産で、孫、名は堅、
と、李儒は、かねて聞き及んでいる彼の人がらについて、こんな話をした。
それは、孫堅が十七歳の頃のことである。
孫堅は父に伴われて、
ある夕べ、孫堅が父と共に、港を歩いていると、海岸で何十人という海賊どもが、海から荷揚げした財貨を山分けするので騒いでいた。
孫堅は、それを見かけると、わずか十七歳の少年のくせに、いきなり剣を抜いて、海賊の群れへ躍り入り、賊の頭目を真二つに斬って、
(我は、沿海の守護なり)
と叫んで、阿修羅のごとく、暴れまわった。
賊は驚いて、あらかた逃げてしまった。ために、山と積まれてあった盗難品の財宝は、後に、それぞれ被害者の手にかえった。その中には、銭塘の富豪が家宝とした宝石の
以来、彼の名は、弱冠から南方にひびいて、その人望は、抜くべからざるものになってきた――という話なのである。
「ふーム。そいつは相当な男だとみえる。しからばこちらからも、
董卓もさすがに、慎重になって、
「はて、誰がよいか」と、思案していた。
すると、
「丞相丞相、それがしのあるを、なにとて忘れ給うか」と、不平そうにいう者があった。
「誰だ。帳の蔭でいう者は」
董卓が
「
呂布は、一礼して、
「何をお迷いなされますか。たかの知れた曹操や袁紹
と、むしろ責めるような語気で、なお云った。
「この呂布を、お差向けねがいます。
「いや、たのもしい」と、董卓も大いによろこんで、
「そちがおればこそ
時すでに、丞相室の帳外には、変を聞いて馳けつけてきた諸将がつめあっていたが、
「呂布どの、待たれよ。鶏を裂くに、なんぞ牛刀を用うべき。敵の先鋒には、それがしまず味方の先鋒となって、ひと当り当て申さん」と、云いながら、はいってきた一将軍があった。
諸人、
すなわち、
「おお、華雄か。いみじくも申したり。まず汝、
と、董卓は大いによろこんで、ただちに、印綬を彼にゆるし、与うるに五万の兵をもってした。
華雄は再拝して退き、
北軍到る!
北軍南下す!
飛報は早くも袁紹、曹操たちの革新軍へも聞え渡った。
先手を承った孫堅の陣はもちろん、
「来れや、敵」と、覚悟のまえの緊張を呈していた。
その後陣に、
「どうだ弟。おまえがひとつ、小勢をつれて間道を
「やりましょう」
「実は、長沙の孫堅が、いちはやく先手を承ってしまったので、このままにいれば、われわれは彼の名誉の後塵を拝するばかりだ。残念ではないか」
「私もそう思っていたところです」
「では、すぐ行け。首尾よく関内に突撃したら、火をつけろ。煙を合図に外からおれが大挙して攻めかけるから」
「心得ました」
鮑忠は、兄の鮑信としめし合わせ、夜のうちに五百騎ばかり引いて道なき山を越えて行った。
しかし、それはすぐ、敵の華雄の知るところとなってしまった。物見の小勢につり込まれて、深入りした鮑忠は、難なく取りかこまれて五百の兵と共に敵地で全滅の憂き目に会ってしまった。
その際。
華雄は、自身馬をすすめて、鮑忠を一刀のもとに斬り落し、
「
と、首を取って、その首を早馬で洛陽へ送った。
董卓からは、感状と剣
味方の鮑忠が、抜け馳けして、早くも敵に首級を捧げ、敵をよろこばせていたとは知らず、先手の将、孫堅は、
「いで、ひと押しに」
と、戦術の正法を行って、充分な備えをしてから、
「逆臣を
華雄はこれを聞いて、
「笑うべきたわ
と、自分の周囲を見まわして、
「誰か、孫堅が首を取って、この関城に、第一の功を誇ろうとする者はないか」と、いった。
副将の
「それがしに命じ給え」と、名乗り出た。
「胡軫か、よかろう」
すなわち、華雄から五千の兵を分ち与えられて、胡軫は直ちに、関を下った。
だが、華雄はなお不安と見たか、さらにまた、自身一万の兵をひいて、関の側面から出て行った。
関下の激戦は、もう始まっていた。
孫堅は、槍を押っとり、
「出で来りし者は、胡軫と見えたり。いでや来れ」
寄せ合うと、胡軫も、
「なんの
と、
すると、孫堅の旗本、
「この狼め。ご主君の手をわずらわすまでもない。くたばれッ」と、横あいから槍を投げた。
風を切って飛んだ投げ槍は、ぐざと、
北軍の華雄は、
「死なしたり」
と、
「
と、水関へひとまず兵をおさめて、関の諸門を閉め、勢いに乗じて、間近に寄せてきた敵へ、石、大木、鉄弓、火弓など、雨のように浴びせかけた。
せっかく、敵の副将は討ち取ったが、そのため、孫堅は部下に多数の犠牲を出してしまった。
「かくては、益もなし」と、はやく機を察して、孫堅もまた、さっと見事な退陣ぶりを見せて、
そして、
「兵糧を送られたい」と、云ってやった。
ところが、本陣のうちに、孫堅へ恨みをふくむ者がいた。軍の
「それは考えものですぞ」と
「彼――孫堅という人間は、江東の虎です。彼を先手として、もし洛陽を陥しいれ、董卓を殺し得たとしても、それは狼をのぞいて、虎を迎えてしまうようなものです。あの功に
袁紹は、そう聞くと、
「
と、その説を容れ、とうとう兵糧を送らなかった。諸州十八ヵ国から集まってきた将軍同志の胸には味方とはいえ、おのおの虎視
「どうもこの頃、孫堅の陣には、元気が見えません。おかしいのは
李粛は、それを聞きおいて、次の日、べつな方面から、また二名の細作を呼び寄せて
「近頃、寄手の後方に変りはないか」
「敵の糧道はどうだ」
「ここ一ヵ月半ばかり、糧車は通ったことはありません」
李粛はうなずいて、もう一名の細作へ向い、
「敵の馬は、よく肥えているか」
「このごろ妙に痩せてきたように見られます」
「敵の兵隊は、どんな歌を
「
「よろしい」
細作たちを退けると、李粛はすぐに、大将華雄に会って、一策を献じた。
「寄手の孫堅を
「成功の見込みがあるかね」
「ありますとも。てまえが探り得たところでは、孫堅はなにか疑われて、後方の味方から兵糧の輸送を絶たれているようです。そのため兵気はみだれ、戦意は
「そうか。――今夜は月明だな」
「絶好な
「よし、やろう」
秘策は、夕方までに一決した。
その夜、李粛は、一軍の奇兵をひいて、月明りをたよりに、間道をすすみ、梁東の部落を本拠に布陣している寄手の背後へまわって、突如、
「わあッ――、わあッ」
闇にまぎれて、孫堅の幕中へ突き入り、諸所へ火を放ち、弓の弦を切って迫った。
梁東の空に、赤い火光を見ると、かねての手筈である、華雄は、水関の大扉を、八文字にひらかせて、
「それっ、孫堅を生擒りにしてこの門へ迎え捕れ」
と、ばかり万軍の中に馬を駆って、あたかも峡谷を湧きでる山雲のように、関下へ向って殺到した。
なんでたまろう。梁東の寄手は、たちまち駆けみだされた。
「退くな」
「あわてるな」
と、孫堅の旗本は、善戦して部下を励ましたが、その兵は、甚だしく弱かった。
一ヵ月も前から、なぜか、味方の後方から兵糧の輸送が絶えていたため、彼らは不平に燃え、軍紀は行われず、兵も痩せ、馬も痩せていたからである。
「無念」
と、思ったが孫堅も、ほどこす
旗本の
それと見るや、敵将の華雄は、飛ぶが如く馬を打って、
「孫堅、卑怯なり、返せっ」
と呼ばわった。
「何を」
孫堅は、振向いて馬上から、弓をもってそれに酬いた。二すじまで射たが、弓はみな
「しまったッ――」
折れた弓を投げ捨てて、孫堅また駒をめぐらし、林の中へと逃げ入った。
「ご主君、ご主君」
祖茂は、馳けつづいて来ながら、孫堅にいった。
「――
「や、そうか」
道理で、ひどく追い矢が集まると思い当ったので、孫堅は頭にかぶっていた「
見ていると、――案のじょう、そのへ雨霰のように、敵の矢が飛んできた。
だが、いくら射ても、射てもは燦爛として、位置も変らないので、射手の兵は怪しみだし、やがて近づいてきて、
「や、孫堅はいない」
「ばかりだ」と、立騒いでいた。
林の上に、月は
その中に、華雄の姿もあった。
孫堅の臣、
「うぬっ、
眼ばやく、ちらと、こちらへ眸をうごかした華雄は、
「敗残の匹夫、そこにいたかッ」
と、雷喝した声は、まるで大樹も裂くばかりで、
青い血けむりを後に、
「誰か、今の首を拾って来い」
と、兵に云い捨てて華雄は悠々とほかへ駒を向けて立去った。
「……ああ、危なかった」
後に。――孫堅はほっと辺りを見まわしていた。首のない祖茂の胴体がほうりだされてあるすぐ近くの灌木の茂みの中に、孫堅も息をこらして
「……祖茂よ、ああ
孫堅は落涙した。祖茂が日ごろの忠勤を思い出して、胸が痛んだ。
さはいえ、敵の重囲のなかだ。孫堅は気を取り直して、血路を思案した。矢傷の苦痛もわすれて二里ばかり歩いた。
やがて、逃げのびてきた味方を集めたが、それは全軍の十分の一にも足らない数だった。ほとんど、全滅的な敗北を遂げたのである。
悲痛なる夜は明けた。
敗れた者の傷魂のように、その晩、残月のみが白かった。
「先鋒の味方は全滅したぞ」
「敵の大軍は、勝ちに乗って刻々迫って来つつある――」
後方の本陣は大動揺を起した。
総帥の
「いかがすべき?」と、いわんばかり、すっかり意気
それか、あらぬか。
袁紹、曹操を始めとして、十七鎮の諸侯は、その日、本営の一堂に会して、
総帥の袁紹も、はなはだ冴えない顔をしていたが、ふと座中の
「公孫、貴公のうしろに侍立している人間は誰だ。いったい何者だ」
と、
袁紹に訊ねられて、公孫は、自分のうしろをちょっと振向いて、
「あ、この者ですか」と、それを
「これは
曹操は、眼をみはって、
「オオ、ではかつて、黄巾の乱の折、
「そうです」
「道理で――どこかで見たことがあるような気がしていたが。……そうそう潁川の合戦で、賊を曠野につつんで焼打ちした時、陣頭でちょっと会釈を交わしたことがある。だいぶ前になるので、とんと見忘れていた」
袁紹も、初めて疑いを解いて、ぶしつけな質問をした不礼を詫び、
「楼桑村に名族の子孫ありとはかねがね耳にしていた。その玄徳どのとあれば、漢室の宗親である。誰か、席を与え給え」と、いった。
一将軍が、座を譲って、
「おかけなさい」と、すすめると、玄徳は初めて口をひらいて、
「いやいや、私は、将軍方とは比較にならない小県の令です。身分がちがいます。どうして諸公と並んで席に着けましょう。これで結構です」
と、かたく辞退し、そのまま公孫のうしろに侍立していた。
袁紹はかぶりを振って、
「ご遠慮には及ぶまい。なにもご辺の公職に席を上げようといったのではなく、ご辺の祖先は前漢の帝系であり、国のため功績もあったことだから、それに対して敬意を払ったわけだ。遠慮なく席に着かれるがよい」
公孫も、共にいった。
「折角のご好意だから、頂戴したがよかろう」
諸将軍も、またすすめるので、
「――では」
と玄徳は、堂上の一同へ、拝謝をした上、初めて一つの席を貰った。
で、関羽と張飛のふたりは、歩を移して、改めて玄徳の背後に
――時しも。
暁天に始まって、すでに半日の余にわたる大戦は、いよいよたけなわであった。
先頃からの勝ちに誇って、
「十八ヵ国十七鎮の大兵と誇称するも、反逆軍は
と、甘く見た華雄軍は、その
「味方の二陣は、ついに、突破されました」
「三陣も!」
「残念。中軍もかき乱され、危うく見えます」
刻々の敗報である。
そして、敵の華雄軍は、長い
ひきもきらぬ伝令が、みな味方の危機を告げるばかりなので総大将袁紹をはじめ、満堂の諸将軍もさすがに色を失って、
「いかがせん!」と、
曹操は、さすがに、
「狼狽してもしかたがない。こんな時は、よけい
と、侍立の部下をかえりみて、
「酒を持ってこい」と、命じた。
「はっ」
酒杯は、各将軍の卓にも、一ツずつ置かれた。曹操は、杯をもつと、ぐびぐび飲んでいた。
わあっッ……
うわあっ
百雷の鳴るような
また、血まみれの斥候が一名、堂の階下へ来て、
「だっ、だめですっ」
絶叫してこときれてしまった。
すぐまた、次の二、三騎が、
「味方の中軍は、敵の鉄兵に
「本陣を、至急、ほかへ移さぬと危ないと思われます。包囲されます」
「あれあれ、あの辺りに、もはや敵の先駆が――」
告げ来り、告げ去り、もはやここの本陣も、さながら暴風の中心に立つ一木の如く、
「つげ」
曹操は、部下に酒をつがせ、なお腰をすえていたが、酔うほどに蒼白となった。
「包囲されては」と、早くも、本陣の退却を、ひそひそ議する者さえある。
酒どころか、諸将軍の顔の半分以上は、土気色だった。
万丈の黄塵は天をおおい、山川草木みな血に
――時に、突如席を立って、
「云いがいなき味方かな。このうえは、それがしが参って、敵勢をけちらし、味方の
と、
「行け」
袁紹は、壮なりとして、彼に杯を与えた。
兪渉は、ひと息に飲んで、
「いでや」とばかり、兵を引いて、敵軍のまっただ中へ駆け入ったが、またたく間に、彼の手兵は敗走して来て、
「兪渉将軍は、乱軍の中に、敵将華雄と出会って、戦うこと、六、七合、たちまち彼の刀下に斬って落された」
とのことに、満堂の諸侯は、驚いていよいよ肌に
すると、太守
「さわぎ給うな。われに一人の勇将あり。いまだかつて、百戦におくれをとったことを知らない
袁紹は、よろこんで、
「どこにおるか、その者は」
「たぶん、後陣の右翼におりましょう」
「すぐこれへ呼べ」
「はっ」
潘鳳は、召しに応じて手に大きな
「いかさま、頼もしげなる豪傑だ。すぐ馳け入って、敵の華雄を打取ってこい」
袁紹の命に潘鳳はかしこまって、直ちに乱軍の中へはいって行ったが、間もなく潘鳳もまた、華雄のために討ち取られ、その首は、敵の凱歌の中に、手玉にとられて、敵を歓ばしめているという報らせに、満堂ふたたび興をさまし、戦意も失ってしまったかに見えた。
「ああ、惜しいかな。こんなことになるならば、わが臣下の、
席を立って、地だんだを踏んだり、また席に返って、
「その顔良、文醜の両名は、後詰めの人数を催すために、わざと、国もとへのこして来てしまったが、もしそのうちの一人でもここにいたら敵の華雄を打つことは、手のうちにあったものを! ……」
と、一座は黙然。
袁紹の叱咤ばかり高かった。
「ここには、国々の諸侯もかくおりながら、その臣下に、華雄を討つほどの大将一人持っていないとあっては、天下のあざけりではあるまいか。後代までの恥辱ではあるまいか」
とはいえ、総帥の彼自身が、すでに及ばぬ悔いばかり呶鳴って、焦躁に駆られているので、満座の諸侯とて言葉もなく、皆さしうつ向いているばかりだった。
すると、その沈痛を破って、
「ここに人なしとは誰かいう。それがし願わくば、命ぜられん。またたく間に、華雄が首をとって、諸侯の台下に献じ奉らん」と、叫んだ者があった。
諸人、驚いて、
「誰か」
と、階下を見ると、その人、身の丈は長幹の松の如く、髯の長さ
「彼は、何者か。いったい誰の手に属している大将か」
袁紹が訊ねると、
「されば、ここにおる玄徳の弟で、関羽という者です」
「ほ。玄徳の弟か。して、いかなる官職にあった者か」
「玄徳の部下として、
聞くなり袁紹は非常に怒って関羽を見下し、
「ひかえろ、汝、足軽の分際でありながら、諸侯の前もはばからず、人もなげなる広言。この
と大喝して叱った。
すると、曹操が
「待ち給え。味方同士、怒り合っている場合でない。この人物も、かく諸侯列座のまえで、大言をはくからには、よもいたずらのたわ
「いや、曹操の仰せも、一理あるが如しとはいえ、足軽者の馬弓手などを出して駆け向わせたら、敵の華雄に笑われて、よい土産ばなしと、洛陽までもいい伝えられようが」
「笑わば笑え。曹操が見るところでは、この男、一馬弓手とはいえ、世の常ならぬ面だましいを備えおる。――はや敵も間近、時おくれては、この本陣も蹂躙されん。是非の軍法は後にして執り行えばよし。――関羽。関羽。この酒をひと息のんで、すぐ駆け向え。はや戦え」
曹操が、酒をついで与えると、関羽は、杯を眺めただけで、再拝しながら、
「ありがたい
と、八十二斤と称する大青龍刀を横ざまに擁し、そこにあった一頭の馬をひきよせ、ぱっと腰を鞍上へ移すや否、
関羽の
はるかに、味方の陣を捨て、むらがる敵軍の中へ馳け入るなり、
「華雄やある。敵将華雄はいずれにあるぞ。わが雄姿に恐れをなして潜んだるか。出合えっ」
と、呼ばわった。猛虎が羊の群れを追うように、数万の敵は浪打って散った。
「戦況いかに?」
と、袁紹、曹操をはじめ、国々の諸侯みな総立ちとなって、
すると、やがて。
敵も味方も、鳴りを忘れて、ひそとなった一瞬――まるで血の池を渡って来たような黒馬にまたがって、関羽は静々と、数万の敵兵をしり目に、袁紹、曹操たちの眼のまえに帰ってきた。
ひらと、駒を降りるや、
「いざ、諸侯のご実検に」
と、階を上がって、中央の卓の上に、まだ生々しい一個の首級を置いた。
それは、敵の大将、華雄の首であったから、満堂の諸侯も、階下の兵も、われをわすれて、
「おお、華雄だ」
「華雄の首を打った」
と、期せずして、万歳をさけぶと、その
関羽は、数歩すすんで、曹操の前に立ち、血まみれな手のまま、先に預けておいた
「――では、このご酒を、頂戴いたします」
と、胸を張って、ひと息に飲みほした。
酒は、まだあたたかだった。
曹操は、彼の労を多として、
「見事だ。もう一
と、手ずから
「いや、ひとりそれがしの誉れとしては済みません。どうか、その一献は、全軍のために挙げて下さい」
「そうか。いかにも。――では万歳を三唱しよう」
すると、玄徳のうしろから、
「あいや、勝利に酔うのはまだ早い。義兄関羽が、華雄を
人々が、振向いてみると、それは一丈八尺の
袁紹の弟、
「いらざる雑言を申すな。諸侯高官、国々の名将も、
と、叱った。
曹操が、なだめると、袁術はなおつむじを曲げて、
「かような軽輩を用いて、吾々と同視するなら、自分は自分の兵をまとめて、本国へ帰る」
と、憤然としていった。
むずかしくなりそうなので、曹操は、
そして、夜になってから玄徳のところへ、ひそかに酒肴を贈って、悪く思わないようにと、三名の心事を慰めた。
――
――華雄軍崩れたり
敗報の早馬は、洛陽をおどろかせた。
「味方は、どう崩れたのだ」
「
「関を出るなと命じろ」
「取りあえず、援軍の行くまで、そうしておれと命令しておきました」
「どうして、あの華雄ほどな勇将が、むざむざ討たれたのだろう」
「なんといっても、
「袁紹の叔父、
「
「物騒千万だ。この上、もし内応でもされたら、洛陽はたちまち
「てまえも案じていますが」
「由々しいものを見のがしておった。すぐ除いてしまえ」
太傅袁隗のやしきへ、すぐ
表裏から火を放って、逃げだしてくる男女の召使いも武士も、みな殺しにしてしまった。もちろん、袁隗も逃がさなかった。
即日、二十万の大兵は、洛陽を発した。
その一手は、
また、別の一手は。
これは十五万と
董卓を守る旗本の諸将には、李儒、
董卓は、そこに本陣を定めると、
「そちは関外に陣取れ」
と、三万の精兵を授けた。
この要害に、董卓自ら守りに当って、十二万の兵を鎮し、さらに三万の精兵を前衛に立てて、
かく、十州の通路を断たれて、諸侯が各その本国との連絡を脅かされてきたので、寄手の陣には、動揺の兆しがあらわれた。
「由々しいこととなった。今のうちに、
袁紹は、曹操へ耳打ちした。
曹操も、同感であるとて、さっそく評議をひらき、軍の方針を明らかにした。
敵が、二手となって、南下して来たので、当然、こちらの兵力も二手とした。
で、一部を水関に残し、あとの軍勢は挙げて、虎牢関に向うこととなった。総兵力は八ヵ国といわれ、その八諸侯は、
曹操は、遊軍として臨んだ。味方の崩れや弱みを見たら、随意に、そこへ加勢すべく、遊兵の一陣を擁して、控えていた。
「……来たな」と、北軍の呂布は、例の名馬赤兎にまたがり、虎牢関の前衛軍のうちから、悠々、寄手の備えをながめていた。
呂布、その日のいでたちは。
「あれこそ、呂布か」と、眼をみはらせるばかりだった。
そのうちに寄手の陣頭から、
「呂布を討って取れ」
と、呼ばわりながら、河内の強兵をすぐって、呂布の軍へ迫った。
敵が打鳴らす
「動くな。近づけろ」
呂布は、味方を制しながら、落着き払っていたが、やがて敵味方、百歩の間に近づいたと見るや、
「それっ、みな殺しにしてしまえ」
と号令一下、呂布自身も、またがれる赤兎馬に鉄鞭一打ちくれて、むらがる河内兵の中へ突入して行った。
「わッしょっ」
呂布の懸け声だ。
「えおオッ! ……」
と振るたびに、敵兵の首、手足、胴など血けむりといっしょに、吹き飛んでゆくかと見えた。
「やあ、口ほどもないぞ、寄手の
無人の境を行くが如しとは、まさに、彼の姿だった。何百という雑兵が波を打ってその前をさえぎっても、
馬は無双の名馬赤兎。その迅さ、強靱さ、逞しさ。赤兎の
洛陽童子でも、それは唄にまで謡っている――
牧場に駒は多けれど
馬中の一は
赤兎馬 よ
洛陽人は多けれど
勇士の一は
呂布奉先
従って、かねて聞く五原郡の呂布を討ち取った者こそ、こんどの大戦第一の勲功となろうとは――寄手もひとしく思い目がけているところだった。馬中の一は
洛陽人は多けれど
勇士の一は
河内の猛将方悦は、
「われこそ」
と、呂布へ槍を突っかけたが、二、三合とも戦わぬうちに、呂布の方天戟の下に、馬もろとも、斬り下げられた。
太守
「おのれ、匹夫」
と、みずから半月槍を揮って、呂布へ駒を寄せ合わせたが、「太守危うし」と、加勢にむらがる味方がばたばたと左右に噴血をまいて討死するのを見て、色を失い、あわてて駒を引返した。
「
呂布がうしろから笑った。しかし、王匡の耳には入らなかった。
もっともその時。味方の危機と見て、
うわッっ……
うわあ……っッ
と、鼓を鳴らし、矢を射、砂煙をあげて、牽制して来たのだった。
赤兎馬は、
北海の太守
呂布にはもう敵がなかった。
無敵な彼のすがたは、ちょうど
彼の行くところ八州の勇猛も顔色なく、彼が馳駆するところ八鎮の太守も駒をめぐらして逃げまどった。
曹操も腕をこまぬいて、
「呂布のごとき武勇は、何百年にひとり出るか出ないかといってもよい人中の鬼神だ。おそらく尋常に戦っては、天下に当る者はあるまい。――この上は、十八ヵ国の諸侯を一手として、遠巻きに攻め縮め、彼の疲れを待って、一斉に打ちかかり、
「自分もそう思う」
と、袁紹はすぐ軍令を認めて、
すると。
その伝令が十騎と出ない間に、
「呂布だっ」
「呂布来る」
と、耳を突き抜くような声がしはじめた。
さながら怒濤に押されて来る
「すわ」
とばかり袁紹のまわりには、旗本の面々が、
「
「かかれ、かかれっ」
「呂布、何者」
「総がかりして討取れ」
などと、口々には励ましたが、誰あって、生命を捨てに出る者はない。ただ陣中は混乱をきわめ、
その間に、
「呂布なり、呂布なり。――曹操に会おう。敵将
と、明らかに、呂布の声が聞えたが、袁紹はいち早く雑兵の群れへまぎれこんでいたので、遂に彼の眼に止まらず、呂布の赤兎馬は、暴風のごとく、陣の一角を突破して、さらに、次の敵陣を蹴ちらしにかかった。
それこそは、劉備玄徳の従軍していた
呂布は、直ちに、林立する
「公孫、出合えっ」
と、
数十
「おのれ、よくも」
公孫は、歯がみをして、秘蔵の戟を舞わし、近づいて戦わんとしたが、
「いたかっ」
と、赤兎馬を向けて、
「口ほどにもない奴、その首を置いてゆけ」
千里を走るという駒の
「待てっ、呂布。
と、一丈余りの
「何ッ」
呂布は、赤兎馬を止めて、きっと振返った。
見れば、威風すさまじき一個の丈夫だ。
「下郎っ。退がれッ」
と、呂布はただ大喝を一つ与えたのみで、相手に取るに足らん――とばかりそのまままた進みかけた。
張飛は、その前へ迫って、駒を躍らせ、
「呂布。走るを止めよ。――劉備玄徳のもとに、かくいう張飛のあることを知らないか」
早くも、彼の大矛は、横薙ぎに赤兎馬のたてがみをさっとかすめた。
呂布は、
「この足軽め」
「おうっッ」
吠え合わせながら、
意外に手ごわい。
「こいつ
呂布は、真剣になった。もとより張飛も必死である。
貧しい郷軍を興して、無位無官をさげすまれながら、流戦幾年、そのあげくはまた僻地に埋もれて、
今、天下の諸侯と大兵が、こぞって集まっているこの晴れの戦場で、天下の雄と鳴り響いた呂布を相手にまわしたことは、張飛としてけだし千
とはいえ、呂布は名だたる豪雄である。やすやすと討てるわけはない。
両雄は実に火華をちらして戦った。丈八の蛇矛と、
さしもの張飛も、
「こんな豪傑がいるものか」
と、心中に舌を巻き、呂布も心のうちで、
「どうしてこんなすばらしい
と、おどろいた。
幾度か、張飛の蛇矛は、呂布の紫金冠や
あまりの目ざましさに、両軍の将兵は、
「あれよ、張飛が」
「あれよ、呂布が――」
と、しばし陣をひらいて見とれていたが、呂布の勢いは、戦えば戦うほど、精悍の気を加えた。それに反して、張飛の蛇矛は、やや乱れ気味と見えたので、遥かに眺めていた曹操、袁紹をはじめ十八ヵ国の諸侯も、今は、内心あやぶむかのような顔色を呈していたが、折しも、突風のようにそこへ馳けつけて行った二騎の味方がある。
一方は、関羽だった。
「
と、加勢にかかれば、また一方の側から、
「われは劉備玄徳なり、呂布とやらいう敵の勇士よ、そこ動くな」
と、名乗りかけ、乗り寄せて、玄徳は左右の手に大小の二剣をひらめかし、関羽は八十二斤の青龍刀に気をこめて、義兄弟三人三方から、呂布をつつんで必死の風を巻いた。
いくら呂布でも、今はのがれる
そう見えたが、
「なにをっ」
と、猛風一
「
と呂布はまだ
両軍の陣々にあった国々の諸侯も、みな酒に酔ったように、遥かにこれを眺めていた。そのうちに呂布の一撃が、あわや玄徳の面を突こうとした刹那、
「えおうッ」
「うわうッ」
双龍の水を蹴って、一つの珠を争うごとく、張飛、関羽のふたりが、呂布の駒を挟んだ。
呂布の鞍と、関羽の鞍とが、
ダダダダ――と赤兎馬は、蹄を後ろへ退いた。とたんに、
「こは
と思ったか、呂布は、
「後日再戦」
と三名の敵へ云いすて、いっさんに馬首をかえして、わが陣地のほうへ引返した。
――ここで彼を逸しては。
とばかり玄徳、関羽、張飛の三騎も駒をそろえて追いかけた。
「あす知れぬ
と玄徳がさけぶと、
――ぴゅッん
と呂布から一矢飛んできた。
呂布は、駒を走らせ走らせ、振返って、獅子皮の帯の
「
とまた、一矢放った。
三本まで射た。
そして、またたく間に、虎牢関の内へ逃げこんでしまった。
「残念っ」
張飛も関羽も、歯がみをしたがどうしようもない。
それもその筈、一日千里を走る赤兎馬である。張飛、関羽らの乗っている凡馬とは、ほんとに走るだんになると
しかし。
呂布が逃げたので、一時はさんざんな
敵軍は、呂布につづいて、虎牢関へ引き退いたが、その大半は、関門へ逃げ入れないうちに討たれてしまった。
関羽、張飛は関門のすぐ真下まで来て、踏み破らんと
――時に、ふと。
関上遥けき一天を望むと、
張飛は、くわっと口をあいて、思わず大声をあげ、
「おうっ、おうっ。――あれに見える者こそまさしく敵の総帥
と、真先に、城壁へすがりついて、よじ登ろうとしたが、たちまち櫓の上から巨木岩石が雨の如く落ちてきたので、関羽は、地だんだ踏んで口惜しがる張飛を
この日の激戦は、かくて引き別れとなった。世に伝えて、これを
味方の
そのうちに、討取った敵の首級何万を検し
「この何万の首のうちに、一つの
曹操がいうと、
「いや、張飛や関羽などという雑兵に負けて逃げるようでは、呂布の首の値打ちも、もう以前のようにはない」と、
勝てば皆、
凱歌と共に、杯を挙げて、一同はひとまず各の陣地へもどった。すると、誰か、
「待ち給え
袁術は、袁紹の弟で、兵糧方を一手に指揮している者だ。誰かと思ってふりかえると、それは、さきに
「やあ。孫堅か。
「いや、貴公の陣地へ、わざわざ貴公を訪ねて来たのだ」
「――とはまた、どんなご用で」
「ほかでもないが、さきごろ、それがしが先鋒を承って、水関の攻撃に向っていた際に、何ゆえ、貴公は故意に兵糧の輸送を止めたか。返答あらば承ろう」
剣の柄に手をかけて
袁術は、蒼くなって、
「いや、あのことか、あのことについてならば、一度足下に
「そんなことを
孫堅の人物は
「ま、ま。そう怒らないで。――まったく、後では自分も申し訳なく思っていた。それにつけても憎ッくい奴は、足下の
平謝りに謝って、袁術は自分の命惜しさに、前に自分へ向って、兵糧止めを進言した隊中の部将を呼びつけ、理由も告げず縛らせて、
「この男です。この男が足下のことをあまり讒言するので、つい口に乗ったわけで――。どうかこれをもって、
左右の家臣に命じて、即座に部将の首を刎ねてしまった。
こういう小人をあいてにとって怒ってみてもはじまらないと考えたのか――孫堅は苦笑いして、わが陣地へ帰ってしまった。そして久しぶりに、
「……何か?」と、身を起していると、常に彼の傍らに警固している
「太守。起きておいでですか」と、帳の間から小声でいった。
「なんだ、夜中」
孫堅は、寝所の帳を払って、腹心の程普にたずねた。
程普は、彼の耳へ、顔を寄せんばかり近寄って、
「この深夜に、陣門を叩く者がありました。何者かと思えば、敵方の密使二騎で、ひそかに太守にお目にかかりたいと申しますが」
「何。
孫堅は、意外に思って、
「ともかく会ってみよう」と、使者を室へ入れて見た。
生命がけで来た敵は、孫堅のすがたに接すると、懸命な弁をふるって云った。
「それがしは、董相国の幕下の一人、
みなまで聞かぬうちに、
「だまれッ」
孫堅は、一
「順逆の道さえ知らず、君を
と、痛烈に突っぱねた。
鉄面皮な使者は、少しも
「そこです。将軍……」
となお、くどく云いかけるのを、孫堅は耳にもかけず、押しかぶせて呶鳴った。
「汝らの首も斬り捨てるところだが、しばらくのあいだ預けておく。早々立帰って董卓にこの由を申せ」
使者の
そして、ことの仔細を、ありのままに丞相へ報告に及んだ。
董卓は、
「
李儒はいう。
「遺憾ながら、ここは将来の大策に立って、味方の大転機を計らねばなりますまい」
「大転機とは」
「ひと思いに、
「
「さればです。――さきに虎牢関の戦いで、呂布すら敗れてから、味方の戦意は、さっぱり振いません。
東頭一箇ノ漢
マサニ
李儒の説を聞くと、董卓は、にわかに前途が展けた気がした。その天文説は、たちまち、政策の大方針となって、朝議にかけられた。――いや独裁的に、百官へ云い渡されたのであった。
けれどこの時は、さすがに、百官の顔色も
第一、帝もびっくりされた。
「……遷都?」
事の重大に、にわかに、賛同の声も湧かなかった。代りにまた、反対する者もなかった。
すると、司徒の
「丞相。今はその時ではありますまい。関中の人民は、新帝定まり給うてから、まだ幾日も、安き心もなかった所です。そこへまた、歴史ある洛陽を捨てて、長安へご遷都などと発布されたら、それこそ、百姓たちは、
太尉
「そうです。今、
続いて、
「もし今、挙げて、王府をこの地から
つづけざまに異論が沸きそうに見えたので、董卓は、形相をなして呶鳴った。
「わずかな百姓が何だっ。天下の計をなすのに、いちいち百姓のことなど按じていられるか」
荀爽は、またいった。
「百姓は
「おのれ、まだいうかっ。
董卓は、云い捨てて、
すると、その途上を、街路樹の木蔭で待ちうけていたらしい若い
「丞相、しばらくっ」
「しばらくお待ち下さい」
と追いかけてきて、
「なんだ、汝ら、わが途上をさえぎって」
「無礼なお咎めは、覚悟のまえで申上げにきました」
「覚悟のまえだと。なにをわれに告げようというのか」
「今日、宮中において、
「内定ではない。決議だ」
「洩れ伺って、われわれ末輩まで、驚倒いたしました。伝統ある都府は、一朝一夕にはできません。いわんや漢室十二代の光輝あるこの
「
「いかほどお怒りをうけましょうとも、天下の為、坐視はできません」
「坐視できぬ。さては敵の廻し者か。生かしておいては、後日の害だ。こやつらの首を刎ねろっ」
云い放って、
そこを、董卓の家臣たちが、背から突き、頭から斬り下げたので、車蓋まで鮮血は飛び、車の歯にも
それを見た洛陽の市民はみな泣いた。また、遷都のうわさは半日の間にひろまって、聞く者みな茫然としてしまった。
夜に入ると、心なしか、地は常よりも暗く、天は常よりも怪しげな妖星の光が跳ねおどっていた。
「遷都だ。遷都のお
「ここを捨てて長安へ」
「後はどうなるのだろう」
洛陽の市民は、寝耳に水の驚きに打たれて、なすことも知らなかった。
それにきのうの白昼、董相国の輦に向って
――斬れっ。
というただ一喝のもとに、武士たちの刀槍の下に寸断された
「ものをいうな」
「何もいうな」
「殺されるぞ」
と、ひたすら
危うい
「李儒、李儒」
「はっ、これにいます」
「遷都の発令はすんだか」
「万端終りました」
「朝廷においても、公卿百官もみな心得ているだろうな」
「引移る準備に狂奔しております。それから都門へ高札を立て、なおそれぞれ役人から触れさせましたから、洛内の人民どもも、おそらく車駕について大部分は長安へ流れてきましょう」
「いや、それは貧乏人だけだ。富貴な金持は、たちまち家財を隠匿して、閑地へ散ってしまう。丞相府にも朝廷にも、金銀はすでに乏しかろう」
「さればです。遷都令と同時に軍費徴発令をお発しありたいと存じます」
「いいようにやれ、いちいち法文を発するには及ばん」
「では、ご一任ください」
李儒は五千人を選んで、市中に放ち、遷都と軍事の御用金を命ずると称して、洛中の目ぼしい富豪を片っぱしから襲わせた。そして金銀財宝を山のごとくあつめ、それを駄馬や車輛に積んでは、そばからそばから長安へ向けて輸送した。
洛陽は、無政府状態となった。
官紀も、警察制度もすべての秩序も一日のまに
富家の財宝を没収するやり方も実にひどかった。
狂風に躍る暴兵は、ここぞと思う富豪の邸へ目をつけると、四方を取囲んでおいて、突然、邸内へ乱入し、家財金銀を担ぎだして手むかう者は立ちどころに斬り殺した。年若い女子の悲鳴が、その間に、陰々と、人目のない所から聞えてきたり、また公然と、さらわれて行ったり、眼もあてられない有様だった。
また、発令の翌日。
乳のみ児を抱えた女房や、老人、病人を負った者や、なけなしの
鬼畜の如き暴兵は、手に刀を、たえず鞭の如く振って、
「歩け、歩け、歩かぬやつは斬るぞ」
「病人など捨てて歩け」と、脅しつけたり、白昼人妻に戯れたり、その良人を刺し殺したり、ほしいままな
ために、流民の号泣する声が、野山にこだまして、天も曇るかと思われた。
同じ日――
董卓もその私邸官邸を引払い、私蔵する財物は、八十輛の馬車に積んで連ね、
「さらば立とうか」と、彼も
彼にはこの都に、なんの惜し気もなかった。もともと一年か半年の間に
けれど、公卿百官のうちには、長い歴史と、祖先の地に、恋々と涙して、
「ああ、遂に去るのか」
「長生きはしたくない」
と、
そのため、遷都の発足は、いたずらに長引きそうなので、董卓は、李粛を督して、強権を布令させた。
今朝
という命である。
ひとつは、やがて必ず殺到するであろう
なににしても、急であった。
その混乱は、名状しようもない。そのうちに、寅の刻となった。
まず、宮門から火があがった。
紫金殿の
「幾日燃えているだろうな」
董卓は、そんなことを思いながら、この大炎上を後に出発した。
彼の一族につづいて、炎の中から、帝王、皇妃、皇族たちの車駕が、哭くがごとく、列を乱して
また、先を争って、公卿百官の車馬や、後宮の女子たちの
また、呂布は。
かねて、董卓から密々の命をうけていて、これはまったく、別の方面へ出て働いていた。一万余人の百姓や人夫を動員し、数千の兵を督して、前日から、帝室の
帝王の墳墓には、その時代時代の珍宝や珠玉が、どれほど同葬してあるかしれない。皇妃皇族から諸大臣の墓まで数えればたいへんな物である。中には得がたい宝剣や名鏡から、大量な朱泥金銀などもある。もとより
これは車輛に積むと数千輛になった。値にすれば何百億か知れない土中の重宝だった。
「夜を日についで長安へこれを運べ」
呂布は、兵をつけて、続々とこれを長安へ送り立てると同時に、一方、今なお虎牢関の守りに残っている味方の
「関門を
「疾風の如く、長安まで退け」と、命令した。
「長安までとは、どういうわけだろう」
と、怪しんだがともかく関をすてて全軍、逃げ来って見ると、すでに洛陽は炎々たる火と煙のみで、人影もなかった。
先に、知らせると、守備の兵が動揺して、遷都の終らぬまに、敵軍が
もちろん。
呂布もいち早く、掘りあばいた帝王陵の
当時、寄手の北上軍のほうでも、ここ二、三日、何となく敵方の動静に、不審を抱いていた。
折から、諜報が入ったので、
「すわや」と色めき、
「一挙に
「おお、焼けている!」
「洛陽は火の海だ」
そこに立てば、すでに関中は指呼することができる。
――これがこの世の天地か。
一瞬、その
孫堅は、馬をとばして、まず先に市中の巡回を開始し、惨たる灰燼に、そぞろ涙を催したが、熱風の
「火を消せ。消火につとめろ、財物を私するな、逃げおくれた老幼は保護してやれ、宮門の焼け
諸侯の軍勢も、各、地を選んで陣を劃したが、
「何もお下知が出ないようですが、この機をはずさず、長安へ落ちて行った董卓を追撃すべきではないでしょうか。なんで、悠々閑々と、無人の焼け址に、腰をすえておられるか」
「いや、月余の連戦で、兵馬はつかれている。すでに洛陽を占領したのだから、ここで二、三日の休養はしてもよかろう」
「焦土を奪って、なんの誇るところがあろう。かかる間にも、兵は
「君は予を奉じた者ではないか。追討ちにかかる時には、軍令をもって沙汰する。いたずらに私言をもてあそんでは困る」
袁紹は、横を向いてしまった。
「ちぇッ……」
持ち前の気性が、むらむらと曹操の胸へこみあげてきた。一喝、彼の横顔へ、
「
「進軍っ。――董卓を追いまくるのだっ」と、叫んだ。
彼の手勢としては、
「追えや、追えや。敵はまだ遠くは去らぬぞ」
と、曹操は急ぎに急いだ。
× × ×
一方――
帝の車駕をはじめおびただしい洛陽落ちの人数は、途中、行路の難に悩みながら、
「曹操の軍が追ってきた」
との諜報に、色を失って、帝をめぐる女子たちの車からは悲しげな
「さわぐことはありません。
李儒は、
帝陵の丘をあばいて発掘した莫大な重宝を、先に長安へ輸送して任を果たし終った呂布軍も、一足あとから陽の地を通りかけた。
するといきなり彼の軍へ向って城内から
「太守
と、呂布は激怒して、合戦の備えにかかった。
「やあ、呂布であったか」
城壁の上で声がした。見ると李儒だった。
「――敵の追手が迫ると聞き、曹操の軍と見ちがえたのだ。怒り給うな、今、城門をあけるから」
早速、呂布を迎えて仔細を告げて詫びた。
「そうか。では相国には、たった今落ちのびて行かれたか」
「まだ、この城楼から見えるほどだ。オオ、あれへ行くのがそうだ。見給え」
と、楼台に誘って、彼方の山岳を指さした。
やがてそれは雲の裡にかくれ去った。
呂布は、眼を辺りへ移して、
「この小城では守るに足らん。李儒、貴公はここで曹操の追手を防ぐ気か」と、たずねた。
李儒は、頭を振って、
「いやこの城は、わざと敵に与えて敵の気を
李儒の謀計を聞いて、
「心得た」
呂布もいさぎよく山へかくれた。
かかる所へ、曹操は一万余の手勢をひいて、ひたむきに殺到した。
またたく間に、
不案内な山道へ誘いこまれたのである。しかもなお、曹操は、
「この分なら、董卓や帝の車駕に追いつくのも、手間ひまはかからぬぞ、殿軍の木ッ端どもを蹴ちらして追えや追えや」と、いよいよ意気を
なんぞ知らん。
鹿を追うこと急にして、彼ほどな男も、足もとに気づかなかった。
突如として。
四方の谷間や断崖から、
「伏せ勢?」
気のついた時は、すでに曹操ばかりでなく、彼の一万余兵は、まったく袋の中の鼠になっていた。
道を求めんと、雪崩れ打てば、断崖の上から大石が落ちてきて道を埋め、渓流を渡って、避けんとすれば、彼方の沢や森林から雨のごとく矢が飛んできた。
曹操の軍は、ここに大敗を遂げた。
「あれも斃れたか。おお、あれも死んだか」
曹操は、自分の目の前で、死を急いでゆく幕下の者を見ながら、なお戦っていた。
時分はよしと思ったか、呂布は谷ふところの一方から、悠々、馬を乗り出して、彼へ呼びかけた。
「おうっ、
呂布は、死にもの狂いの曹操を雑兵の囲みにまかせて、自分は小高い所から眺めていた。
曹操は、見つけて、
「おのれ、あれなるは、たしかに呂布」と、さえぎる雑兵を蹴ちらして、呂布の立っている高地へ近づこうとしたが、
「曹操を
「曹操を逃がすな」
「曹操こそ、乱賊の
と、口々に呼ばわって、伏兵の大軍すべて、彼ひとりを目標に渦まいた。
八方の沢や崖から飛んでくる矢も、彼の前後をつつむ剣も
しかも曹操の身は今や、まったく危地に墜ちていた。うまうまと敵の策中にその生殺を捉われてしまった。
――君は戦国の
と、予言されて、むしろ本望なりとかつてみずから祝した
奇才縦横、その熱舌と気魄をもって、白面の一空拳よく十八ヵ国の諸侯をうごかし、ついに、董卓をして洛陽を捨てるのやむなきにまで――その鬼謀は実現を見たが――彼の夢はやはり白面青年の夢でしかなく、はかない現実の末路を
そう見えた。
彼もまた、そう覚悟した。
ところへ、一方の血路を斬りひらいて、彼の臣、
そしてここの態を見るや否や、「主君を討たすな」と、一角から入りみだれて猛兵を突っこみ、
「ぜひもありません。かくなる上は、お命こそ大事です。ひとまず麓の
夏侯淵は、わずか二千の残兵を擁して踏みとどまり、曹操に五百騎ほど守護の兵をつけて、
「早く、早く」と促した。
曹操は、麓へ走った。
しかし、道々幾たびも、伏兵また伏兵の奇襲に脅やかされた。従う兵もさんざんに打ち減らされ、彼のまわりにはもう十騎余りの兵しか見えなかった。
それも、馬は傷つき、身は
みじめなる落武者の境遇を、曹操は死線のうちに味わっていた。
人心地もなく、迷いあるいて、ただ麓へ麓へと、うつろに道を捜していたが、気がつくと、いつか陽も暮れて、
「ああ、故郷の山に似ている」
ふと、曹操の胸には父母のすがたがうかんできた。大きな月のさしのぼるのを見ながら、
「親不孝ばかりした」
「清水が湧いている……」
馬を降りて、彼は清水へ顔を寄せた。そして、がぶとひと口飲み干したと思うと、またすぐ近くの森林から執念ぶかい敵の
「……やっ?」
ぎょッとして、駒の背へ飛び移るまに、もう残るわずかな郎党も矢に
追いかけて来たのは、陽城太守の徐栄の
「しめたッ」
ひきしぼった鉄弓の一矢を、ぶん! ――と放った。
矢は、曹操の肩に立った。
「――しまったッ」
曹操は叫びながら、駒のたてがみへうつ伏した。
またも、徐栄の放った二つの矢が、びゅんと耳のわきをかすめてゆく。
肩に突っ立った矢を抜いている
その矢傷から流れ出る血しおに駒のたてがみも鞍も濡れひたった。駒は血を浴びてなお狂奔をつづけていた。
すると、
「あっ、曹操だっ」と、いう声がした。
それは徐栄の兵だった。
馬は高くいなないて、竿立ちに狂い、曹操は大地へはね落された。
「
仰向けに仆れたまま、剣を抜き払って、曹操は二人を斬っただけで、力尽きてしまった。
落馬した刹那に、馬の
時に。
曹操の弟
「や。……今のは兄の愛馬の声ではないか」と、馳けつけてきて、月明りにすかしてみると、今しも兄の曹操はわずかな
「くそッ」
跳ぶ如く馳け寄って、一人を後ろから斬り伏せ、一人を
「兄上っ、兄上。しっかりして下さい。曹洪です」
「あ、おまえか」
「お気がつきましたか。――さっさっ、私の肩につかまってお
「だ、だめだ……曹洪」
「なんですと?」
「残念ながら、矢傷を負い、馬に踏まれた胸も苦しい。この身は打捨てて行け。おまえだけ、早く落ちて行ってくれ」
「心弱いことを仰っしゃいますな。矢傷ぐらい、大したことはありません。いま、天下の大乱、この曹洪などはなくとも、曹操はなくてはなりません。一日でも、生きてゆくのは、あなたの天から
曹洪は、こう励まして、兄の着ている
果して。
わあっ……と、徐栄の手勢が、後から追って来た。
曹洪は、心も空に、片手に兄を抱え、片手に手綱をとり、眼をふさいで、
「この身はともかく、兄曹操の一命こそ、大事の今。
と、
逆落しに、山上から曠野まで馳せおりて来た心地がした。
「やれ、麓へ出たか」と、思ってふと見ると、満々たる大河が行く手に横たわっているではないか。それと見た曹操は、苦しげに、弟をかえりみて、
「ああ、わが命数も極まったとみえる。曹洪、降ろしてくれ、いさぎよくおれはここで自害する。――敵のやって来ないうちに」と、死を急いだ。
曹洪は、兄を抱いて、馬から降りたが、決して抱いている手をゆるめなかった。
「なんです、自害するなんて、平常のあなたのご気性にも似あわぬことを!」と、わざと叱咤して、
「前にはこの大河、うしろからは敵の追撃、今やわたし達の運命は、ここに終ったかの如く見えますが、
河岸に立つと、白浪のしぶきは岸砂を洗い、流れは急で、
身に着けている重い物は、すべて捨てて、曹洪は一剣を口にくわえ、
江に接していた低い雨雲がひらくと、天の一角が鮮明に
流れは烈しいし、
しかし、ついに
「もうひと息――」と、曹洪は、必死に泳いだ。
対岸の緑草は、ついそこに見えながら、それへ寄りつくまでが容易でなかった。激浪がぶつかっては、渦となって波流を渦巻いているからだった。
すると。
その河畔からやや離れた丘に徐栄の一部隊が小陣地を布いていた。河筋を監視するために、二名の歩哨が立って、暁光の美観に見とれていたが――
「やっ? なんだろ」
一人が指さした。
「怪魚か」
「いや、人間だっ」
あわてて部将のところへ
部将もそれへ来て、
「曹操軍の落武者だ。射てしまえ」と、
まさかそれが曹操兄弟とは気づかなかったので、
びゅっん――
ぶうっん――
弦は鳴り矢はうなって、
曹洪は、すでに岸へ這いついていたが、前後に飛んでくる敵の矢に、しばらく、死んだまねをしていた。
その間に、「どう逃げようか」を、考えていた。
ところがかえって、遥か河上から、一手の軍勢が、河に沿って下って来るのが見えた。朝雲の晴れ渡った下にひるがえる
「あれに見つかっては」と、曹洪は、気も
曹操も、矢を払った。二人か一人か、それは遠目には分らないほど、相擁しながら馳けたのである。
丘の上の隊も、河に沿って来た一群の軍勢も、曹操兄弟が矢風の中を
「さては、名のある敵にちがいないぞ。逃がすな」
と、たちまち砂塵をあげて、東西から追いちぢめ、そのうち一小隊は、早くも先へ馳け抜けて、二人の前をも立ちふさいでしまった。
丘から射放つ矢は集まってくる。
一難、また一難。死はあくまで曹操をとらえなければ止まないかに見えた。
「この上は、敵の屍を山と積み、曹家の兄弟が最期として、人に笑われぬ死に方をして見せましょう。兄上も、お覚悟ください」
曹洪も、ついに決心した。
そして兄曹操と共に、剣をふりかざして、敵の中へ斬りこんだ。
敵は、さわいで、
「やあ、曹家といったぞ。さては曹操、曹洪の兄弟と見えたり」
「思いがけない大将首、あれを
すると。
彼方の野末から、一陣の黄風をあげて、これへ馳けて来る十騎ほどの武士があった。
ゆうべから主君曹操の行方をさがし歩いていた
「おうっ、ご主君これにか」
十槍の穂先をそろえて、どっと横から突き崩して来た。
「いざ、
と曹兄弟に、駒をすすめ、夏侯惇はまっ先に、
「それっ、落ちろっ」と気を揃えて逃げだした。
矢は
「敵か、味方か?」
物見させてみると、
「おお、君には、ご無事でおいで遊ばしたか」
と、楽進、曹仁らは、主君のすがたを迎えると、天地を拝して歓び合った。
戦は、実に惨憺たる敗北だったが、その悲境の中に、彼らは、もっとも大きな歓びをあげていたのだった。
曹操は、臣下の狂喜している様を見て、
「アア我誤てり。――かりそめにも、将たる者は、死を軽んずべきではない。もしゆうべから暁の間に、自害していたら、この部下たちをどんなに悲しませたろう」と、痛感した。
「
敗戦に訓えられたことは大きい。得がたい体験であったと思う。
「戦にも、負けてみるがいい。敗れて初めて
負け惜しみでなくそう思った。
一万の兵、余すところ、わずか五百騎、しかし、再起の希望は、決して失われていない。
「ひとまず、
曹操はいった。
夏侯惇、曹仁たちも、
「それがよいでしょう」
兵馬に令してそこを
一
途すがら、
「――君は乱世の奸雄だと、かつて予言者がおれにいった。おれは満足して起った。よろしい、天よ、百難をわれに与えよ、奸雄たらずとも、必ず天下の一雄になってみせる」
――一方。
洛陽の焦土に残った諸侯たちの動静はどうかというに。
ここはまだ
七日七夜も焼けつづけたが、なお大地は
諸侯の兵は、思い思いに陣取って消火に努めていたが、総帥
「仮宮も出来あがったから、とりあえず、
袁紹は、諸侯の陣へ、使いを派して、参列を求めた。
いと粗末ではあったが、形ばかりの祭事を行って後、諸侯は連れ立って、今は面影もなくなり果てた禁門の
そこへ、
「
という報らせが入った。
諸侯は、顔見合わせて、
「あの曹操が……」とのみで、多くを語らなかったが、袁紹は、
「それ見たことか」と、聞えよがしにいった。
そしてまた、
「董卓が洛陽を捨てたのは、李儒の献策で、余力をもちながら、自ら先んじて、都府を
と、その
半焼となっている内裏の
折ふし
諸侯はみな帰ったが、孫堅は二、三の従者をつれて、なお去りがてに、
「ああ……そこらの花陰や泉の
ひとり建章殿の
「
すると、階下にいた彼の郎党のひとりが、
「殿。……なんでしょう?」
怪しんで指さした。
「なにが?」
孫堅も、
「さっきから見ていますと、この御殿の南の井戸から、時々、五色の光が
「ムム、なるほど。……そういわれてみれば、そんな気もする。
「はっ」
郎党たちは馳けて行った。
程なく、井戸のまわりでかざし合う炬火が彼方にうごいていた。そのうちに、郎党たちが、なにか、大声あげて騒ぎだした様子に孫堅も近づいてそこを覗いて見ると、水びたしになった若い女官の死体が引揚げられてあった。――すでに日も経ているらしいが、その装束も
いや、そればかりではない。
死美人の
孫堅は、そばへ寄って、近々と死体をながめていたが、
「なんだろう。はて、この嚢を取りあげてみろ」
郎党に命じて身を退いた。
彼の従者は、すぐ死美人の頸からそれをはずし取って、孫堅の手へ捧げた。
「おい、
「はっ」
従者は、彼の左右から、炬火をかざした。
「……?」
孫堅の眼は、なにか、非常な驚きに輝きだしていた。紫金襴の嚢には、金糸銀糸で
可愛らしい黄金の錠がついている。鍵は見当らない。孫堅は、歯で
中から出てきたのは、一
「おい、
孫堅は、あわてて云った。
そしてなおも、
「はてな? ……これは尋常の
と、掌中の名石を、
程普が来た。
息をきって、使いの者と共に、ここへ近づいて来るなり、
「なんぞ御用ですか」と、訊ねた。
孫堅は、印顆を示して、
「程普。これをなんだと思う?」と、鑑識させた。
程普は、学識のある者だった。手に取って、一見するなり驚倒せんばかり驚いた。
「太守。あなたはこれを一体、どうなされたのですか」
「いや、いまここを通りかかると井戸のうちから怪しい光を放つので、調べさせてみたところ、この美人の死体が揚ってきた。それはこの死美人が頸にかけていた錦の嚢から出てきた物だ」
「ああもったいない……」と程普は自分の掌に礼拝して、
「――これは
「えっ、玉璽だと」
「ごらんなさい。
程普は、炬火のそばへ、玉璽を持って行って、それに彫ってある
「むむ」
「これはむかし
「ウーム……。なるほど」
「二十八年始皇帝が
玉璽を
そしてひそかに、思うらく、
(どうして、こんな名宝が、おれの掌に授かったのだろうか?)
なにか恐ろしい気持さえした。
程普は、語りつづけて。
「――今、思い合せれば、先年、十
「ウーム、自分もそう思う。……まったくこれはただ事ではない」
孫堅も
程普は、主君の耳へ口をよせて、
「――天が授けたのです。天が、あなた様をして、
孫堅は、大きくうなずいて、
「そうだ」と、深く期すもののように、眼を輝かして、居合わせた郎党たちへ云い渡した。
「こよいのことは、断じて、他言は相成らぬぞ。もしほかへ洩らした者あらば、必ず首を刎ねるからそう心得よ」
やがて、夜も更けて。
孫堅は、自分の陣へこっそり帰って寝たが、程普は味方の者へ、
「ご主君には、急病を発しられたゆえ、明日、陣を払って、急に本国へお帰りになることになった」
と、
ところが。
その混雑中に、孫堅についていた郎党のひとりが、
だから袁紹は、あらかじめ玉璽の秘密を知っていた。
夜が明けると、孫堅は、何喰わぬ顔して、暇乞いにやって来た。孫堅はわざと、
「どうも近頃、健康がすぐれないので、陣中の務めも
云いかけると、袁紹は、
「あはははは」と、横を向いて笑った。
孫堅はむっとして、
「何で総帥には、それがしが真面目に別辞を述べているのに、無礼な笑い方をなさるのか」
と、剣に手をかけて
袁紹は露骨に、
「君は、
「な、なにっ?」
「あわてんでもよい。こら孫堅、身のほどを知れよ。建章殿の井のうちから、昨夜、拾いあげた物をこれへ出せ」
「そんなことは知らん」
「不届きな! 汝、天下を奪う気か」
「知らん。なにをもって、このほうを
「だまれ。国々の諸侯が、義兵をあげて、この艱苦を共にしているのは、漢の天下を扶けて、
「なにを、ばかなっ」
「ばかなとは、何事だ」
袁紹も、彼に対して、あわや剣を抜こうとした。
「や、剣に手をかけたな。――汝、この孫堅を斬ろうという気か」
孫堅がいえば、
「おうっ」と、袁紹もいきり立って、
「貴様の如き
「なにをっ」
孫堅は、いうより早く剣を抜いた。袁紹も、大剣を払い、双方床を蹴って躍らんとした。
「すわや!」と、満堂は殺気にみちた。
袁紹が後ろには、顔良、
「主人の大事」と、ばかり各、
洛陽入りの後はここに戦いもなかった。長陣の
だが、驚いたのは、満堂の諸侯で、総立ちになって、双方を押しへだてた。――日頃、
「まあ、まあ、ここは」
「孫堅も、あれまでに、身の潔白を云い立てておるのですから、よもや仮病などではありますまい」
「総帥も、お立場上、自重してくださらなければ困る」
諸侯の仲裁で、やっと、
「では、各に任すが、孫堅はきっと、玉璽を盗んでいないか。その
袁紹がいうと、孫堅は、
「われも漢室の旧臣、なんで伝国の玉璽を奪って謀叛などせんや。――天地神明に誓ってさようなことはない」と絶叫した。
その血相に、誰も、「あれほどいうからには」と、信じきって、仲直りに、杯を挙げて別れたところが、なんぞ計らん、それから一刻も経たないうちに、孫堅の陣地には、もう一兵の影も見えなかった。
「さては、怪しい?」と、袁紹も
袁紹は、折も折とて、彼に計ろうと酒宴を設け、諸侯を呼んで、曹操を慰めると、曹操はむしろ憤然として、
「口に大義を唱えても、心に一致する何ものもなければ、同志も同志ではない。いたずらに民を苦しめ、無益の人命と財宝を滅すのみだ。小生はしばらく山野へ帰って考え直す。諸氏も、熟慮してみたがよかろう」と、即日、洛陽を去って
その頃、孫堅はすでに、ひた走りに本国へさして逃げ帰っていた。
途中。
袁紹の追討令で、追手の軍に追われたり、諸城の太守に
舟中の身辺をかえりみると、幕下の将兵わずか数名しかいなかった。けれど、彼のふところには伝国の玉璽がまだ失われずにあった。
破壊は一挙にそれをなしても、文化の建設は一朝にしては成らない。
また。
破壊までの目標へは、
初めの同志は、同志ではなくなってくる。個々の個性へ返る。意見の衝突やら
曹操、袁紹らの挙兵も、今やそこへ
当初の理想もいま何処へ。
まず、その狼煙を最初に揚げて、十八ヵ国の諸侯を
また。
廃墟となった禁門の井戸から、計らずも玉璽を拾った孫堅は孫堅で、
そんな折も折。
東郡の
諸侯の間でさえそんな状態であったから、以下の将校や卒伍の乱脈は推して知るべきであった。
掠奪はやまない。酒は盗む。喧嘩はいつも女や賭博のことから始まった。――軍律はあれど威令が添わないのである。洛陽の飢民は、夜ごと悲しげに、廃墟の星空を仰いで、
(こんなことなら、まだ前の
夜となれば人通りもなく、たまたま闇に聞えるのは、人肉を喰って野生に返った野良犬のさけびか、女の悲鳴ばかりだった。
「太守、お呼びですか」
公孫は、彼に告げた。
「ほかではないが、このごろ、つくづく諸侯の心やまた、
「はい……」
「君もそう思うだろう。君を始め、関羽、張飛などにも、抜群な働きをさせて、なんの酬いるところもなくて気の毒だが、ひとまず洛陽を去って、ご辺も平原へ帰ってはどうか。――自分も陣を引払って去ろうと考える」
「そうですか。――いやまた、時節がありましょう。ではお
玄徳は、別れを告げた。
かくて彼は、関羽、張飛のふたりにも、事態をつげて、平原をさして行った。
洛陽には入ったが、ついに、何物も得るところはなく――である。従兵馬装、依然として貧しき元の
けれど、関羽も張飛も、相かわらず朗らかなものだった。馬上談笑して、村へ着けば、時折に酒など買い、
「おい、飲まないか。まだおれ達の祝杯は、前途いつのことだか分らないが、生命だけはたしかに持って帰れるんだから――少しくらいは祝ってもよかろう。馬上で飲み廻しの旅なんて、
などと張飛は笑わせて、いつも日々
さて、その後。
――焦土の
「兵の給食も、極力、節約を計っていますが、このぶんでゆくと、今に乱暴を始め出して、民家へ掠奪に
兵糧方の部将は、それを憂いて幾たびも、袁紹へ、対策を促した。
袁紹も、今は、見栄を張っていられなくなったので、
「では、
と、書状を書きかけた。
すると、
「
「逢紀か。いや、ほかに策があれば、なにも韓馥などに借米はしたくないが、なにか汝に名案があるのか」
「ありますとも。冀州は
「それはもとより望むところだが、どういう計をもってこれを
「ひそかに
「むム」
「必ずや、公孫も食指をうごかすでしょう。そうきたら、将軍はまた、一方韓馥へも内通して、力とならんといっておやりなさい。臆病者の韓馥は、きっと将軍にすがります。――その後の仕事は
袁紹は歓んで直ちに、逢紀の献策を、実行に移した。
冀州の
(北平の公孫、ひそかに大兵を催し、貴国に攻め入らんとしておる。兵備、怠り給うな)
という忠言だった。
もちろん、その袁紹が、一方では公孫を
「この忠言をしてくれた袁紹は、先に十八ヵ国の軍にのぞんで
群臣の重なる者は、みなその意見だった。[#「だった。」は底本では「だった」]
韓馥も、また、「それはよからん」と、同意した。
ひとり長史
けれど、彼の直言は、用いられなかった。評定は
耿武も遂に、用いられないことを知って、
「やんぬる
けれど、彼は忠烈な士であったから、みすみす主家の亡ぶのを見るに忍びず、日を待って、袁紹が冀州へ迎えられる機会をうかがっていた。
袁紹はやがて、韓馥の迎えによって、堂々と、国内の街道へ兵馬を進めてきた。――忠臣耿武は、その日を剣を握って、道の辺の木陰に待ちかまえていた。
すでに袁紹の列は目の前にさしかかった。
耿武は、剣を躍らせて、
「汝、この国に入るなかれ」
と、さけんで、やにわに、袁紹の馬前へ近づきかけた。
「
侍臣たちは、立騒いで防ぎ止めた。大将
「無礼者っ」と、一喝して斬りさげた。
耿武は、天を睨んで、
「無念」と云いざま、剣を、袁紹のすがたへ向って投げた。
剣は、袁紹を貫かずに、
袁紹は、無事に冀州へ入った。太守
袁紹は、城府に居すわると、
「まず、
と、太守韓馥を、
韓馥は、
「ああ、われ過てり。――今にして初めて、耿武の
と、悔いたが、時すでに遅しであった。彼は日夜、
一方。
北平の
「約定のごとく、冀州は二分して、一半の領土を当方へ譲られたい」
と、申込むと、袁紹は、
「よろしい。しかし、国を分つことは重大な問題だから、公孫自身参られるがよい。必ず、約束を履行するであろう」と、答えた。
公孫越は満足して、帰路についたが、途中、森林のうちから
それと聞えたので、公孫の怒りは、いうまでもないこと。一族みな、血をすすって、袁紹の首を引っさげずに、なんで、再び郷土の民にまみえんや――とばかり
橋を挟んで、冀州の大兵も、ひしめき防いだ。中に袁紹の本陣らしい
公孫は、橋上に馬をすすませて、大音に、
「不義、
と、いった。
「何を」と、袁紹も、馬を躍らせて来て、共に盤河橋を踏まえ、
「韓馥は、身不才なればとて、この袁紹に、国を譲って、閑地へ後退いたしたのだ。――破廉恥とは、汝のことである。他国の境へ、狂兵を駆り催してきて、なにを
「だまれっ袁紹。先つ頃は、共に洛陽に入り、汝を忠義の盟主と奉じたが、今思えば、天下の人へも恥かしい。
「おのれよくも雑言を。――誰かある、
大将袁紹の命に、
「おうっ」
と、答えながら、橋上へ馬を飛ばして来るなり、
「下郎、
槍を合わせて、公孫も
――これは
と思うと、公孫は、橋東の味方のうちへ、馬を打って逃げこんでしまった。
「汚し」と文醜は、敵の中軍へ割って入り、どこまでも、追撃を思い止まらなかった。
「
「やるな」と、大将の危機と見て、公孫の旗下、侍大将など、幾人となく、彼に当り、また幾重となく、文醜をつつんだが、みな蹴ちらされて、
「おそろしい奴だ」
公孫は、
すると後ろで、
「
またも文醜の声がした。
公孫は、手の弓矢もかなぐり捨てて、生きた心地もなく、馬の尻を打った。馬はあまりに駆けたため、岩につまずいて、前脚を折ってしまった。
当然、彼は落馬した。
文醜はすぐ眼の前へ来た。
「やられた!」
観念の眼をふさぎながら、剣を抜いて起きなおろうとした時、何者か、上の崖から飛下りた一個の壮漢が、文醜の前へ立ちふさがるなり、物もいわず七、八十合も槍を合わせて猛戦し始めたので、「天の扶け」とばかり公孫は、その間に、山の方へ這い上がって、からくも危うい一命を拾った。
文醜もついに断念して、引っ返したとのことに、公孫は、兵を集めて、さて、
「きょう不思議にも、自分の危ういところを助けてくれた者は、一体どこの
と、部将に問うて、各の隊を調べさせた。
やがて、その人物は、公孫の前にあらわれた。しかし、味方の隊にいた者ではなく、まったくただの旅人だということが知れた。
「ご辺は、どこへ帰ろうとする旅人か」
公孫の問いに、
「それがしは、
眉濃く、眼光は大に、見るからに堂々たる偉丈夫だった。
「そうか。この公孫とても、
公孫のことばに、趙子龍は、
「ともかく、止まって、微力を尽してみましょう」と、約した。
公孫は、それに気を得て、次の日、ふたたび
公孫が、白い馬をたくさん持っていることは、先年、
「やあ、なかなか偉観だな」
対岸にある袁紹は、河ごしに、小手をかざして、敵陣をながめながら云った。
「
「はっ」
「ふたりは、左右ふた手にわかれて、両翼の備えをなせ。また、屈強の射手千余騎に、
「心得ました」
命じておいて、袁紹は旗下一千余騎、
大河をはさんで、戦機はようやく熟して来る。東岸の公孫は、敵のうごきを見て、部下の大将
「いでや」と、ばかり河畔へひたひたと寄りつめた。
公孫は、きのう自分の一命を救ってくれた
両軍対陣のまま、
たちまち、
時分はよしと、東岸の兵は、厳綱を真っ先にして、橋をこえ、敵の先陣、
鳴りをしずめていた麹義は、合図ののろしを打揚げて、顔良、文醜の両翼と力をあわせ、たちまち、彼を包囲して大将厳綱を斬って落し、その「帥」の字の旗を奪って、河中へ投げこんでしまった。
公孫は、
「退くなっ」
と、自身、白馬を躍らして、防ぎ戦ったが、麹義の猛勢に当るべくもなかった。のみならず、顔良、文醜の二将が、「あれこそ、公孫」と目をつけて、厳綱と同じように、ふくろづつみに巻いて来たので、公孫は、歯がみをしながら、またも、崩れ立つ味方にまじって逃げ
「戦は、勝ったぞ」と、袁紹は、すっかり得意になって、顔良、文醜、麹義などの
さんざんなのは、公孫の軍だった。一陣破れ、二陣
その兵は、約五百ばかりで、主将はきのう身を寄せたばかりの客将、趙雲子龍その人であった。
なんの気もなく、
「あれ踏みつぶせ」と、麹義は、手兵をひいて、その陣へかかったところ、突如、五百の兵は、あたかも
白馬の毛は、紅梅の落花を浴びたように染まった。きのう公孫から、当座の礼としてもらった駿足である。
子龍は、なおも進んで敵の文醜、顔良の二軍へぶつかって行った。にわかに、対岸へ退こうとしても、盤河橋の一筋しか退路はないので、河に墜ちて死ぬ兵は数知れなかった。
深入りした味方が、趙子龍のために粉砕されたとはまだ知らない――
盤河橋をこえて、陣を進め、旗下三百余騎に射手百人を左右に備え立て、大将
「どうだ田豊。――公孫も口ほどのものでもなかったじゃないか」
「そうですな」
「白馬二千を並べたところは、天下の偉観であったが、ぶッつけてみると一たまりもない。旗を河へ捨て、大将の厳綱を打たれ、なんたる無能な将軍か。おれは今まで彼を少し買いかぶっておったよ」
云っているところへ、俄雨のように、彼の身のまわりへ敵の矢が集まって来た。
「や、や、やっ」
袁紹は、あわてて、
「何処にいる敵が射てくるのか」と、急に備えを退いて、
「袁紹を討って取れ」
とばかり、趙雲の手勢五百が、地から湧いたように、前後から攻めかかった。
田豊は、防ぐに
「太守太守、ここにいては、流れ矢にあたるか、
袁紹は、後ろを見たが、後ろも敵であった。しかも、敵の矢道は、縦横に飛び交っているので、
「今は」と、絶体絶命を観念したが、いつになく奮然と、着たる鎧を地に脱ぎ捨て、
「大丈夫たるもの、戦場で死ぬのは本望だ。物陰にかくれて流れ矢になどあたったらよい物笑い。なんぞ、この
身軽となって真っ先に、決死の馬を敵中へ突き進ませ、
「死ねや、者ども」
とばかり力闘したので、田豊もそれに従い、他の士卒もみな獅子奮迅して戦った。
かかるところへ逃げ崩れて来た顔良、文醜の二将が、袁紹と合体して、ここを
この日。
両軍の接戦は、実に、一勝一敗、打ちつ打たれつ、死屍は野を埋め、血は大河を赤くするばかりの激戦で、夜明け方から
今しも。
趙雲の働きによって、味方の旗色は優勢と――公孫の本陣では、ほっと一息していたところへ、怒濤のように、袁紹を真っ先として、田豊、顔良、文醜などが一斉に突入して来たので、公孫は、馬をとばして、逃げるしか策を知らなかった。
その時。
彼は生きたそらもなかった。
二里――三里――無我夢中で逃げ走った。
袁紹は勢いに乗じて急追撃に移ったが、五里余りも来たかと思うと、突如、
「待ちうけたり袁紹。われは平原の
と、名乗る後から、
「速やかに降参せよ」
「死を取るや、降伏を選ぶや」
と、関羽、張飛など、平原から夜を日に次いで駆けつけて来し
袁紹は、仰天して、
「すわや、例の玄徳か」と、われがちに逃げ戻り、人馬互いに踏み合って、後には、折れた旗、刀の鞘、
闘い終って。
公孫は、劉玄徳を、陣に呼び迎え、
「きょうの危機に、一命を拾い得たのは、まったくご辺のお蔭であった」
と、深く謝して、また、「先にも、自分の危ういところを、折よく救ってくれた一偉丈夫がある。ご辺とはきっと心も合うだろう」と、
子龍はすぐ来て、
「何か御用ですか」と、いった。
公孫は、
「この人物です」と、玄徳へ紹介して、きょうの激戦で目ざましい働きをした子龍の用兵の上手さや、その人がらを、口を極めてたたえた。
子龍は、大いに
「太守、それがしを召しおいて、知らぬ人の前なのに、そうおからかいになるものではありません。穴でもあらば、隠れたくなります」と、謙遜した。
その笑みを見て、趙子龍も、
「やあ」
ニコと、笑った。
玄徳の
彼の秋霜のような眼光。
それが、初めて相見て、笑みを交わしたのであった。
公孫は、玄徳をさして、
「こちらが、劉備玄徳といって、きょう平原から馳けつけて、自分を
と、姓名を告げると、趙子龍は、非常に驚いて、
「では、かねがね噂に聞いていた関羽、張飛の二豪傑を
と、機縁をよろこんで、
「それがしは、
と、辞を低うして、
玄徳も、
「いや、ご丁寧に、恐縮なごあいさつです。自分とてもまだ
二人は、相見た一瞬に、十年の知己のような感じを持った。
玄徳は、ひそかに、
(これはよい人物らしい。
と、心中に頼もしく思い、趙雲子龍も同じように、
(まだ若いようだが、かねて噂に聞いていた以上だ。この劉玄徳という人こそ、将来ある人傑ではあるまいか。――主君と仰ぐならば、このような人をこそ)
と、心から尊敬を抱いた。
玄徳も、子龍も、ふたりともに客分といったような格で、公孫にとっては、その点、すこし淋しい気もしたが、しかし、二人を引合わせて、彼も共にうれしい気がした。
玄徳には、後日の賞を約し、子龍には自分の愛馬――
子龍は、拝領の白馬にまたがって、わが陣地へ帰って行ったが、意中に強く印象づけられたものは、公孫の恩ではなく、玄徳の風貌だった。
彼は、天子を擁して、天子の後見をもって任じ、
ある日。
彼の秘書官たる
「相国」
「なんじゃ」
「先頃から、
「ム。そうらしいな。どんな形勢だ」
「袁紹のほうが、やや負け色で、盤河からだいぶ退いたようですが、なお、両軍とも対陣のまま、一ヵ月の余も過しております」
「やるがいい、両軍とも、わしに
「いや、ここ久しく、朝廷におかれても、遷都後の内政にいそがしく、天下の事は
「なにか、策があるのか」
「相国から奏上して、天子の
「なるほど」
「両方とも、おびただしい痛手をうけて、戦い疲れている折ですから、和睦の勅使を下せば、よろこんで承知するでしょう。――そしてその恩徳は、自然、相国へ対して、帰服することとなって来ましょう」
「大きにもっともだ」
董卓は、早速、帝に奏して、詔を奏請し、
勅使馬太傳は、まず袁紹の陣へ行って、旨を伝え、それから公孫の所へ行って、
「袁紹さえ異存なくば」
と、一方がいえば、一方も、
「彼が兵を
との云い分で、両方とも、渡りに舟とばかり、勅命に従った。
そこで馬太傳は、
袁紹も、公孫も、同日に兵馬をまとめて、おのおの帰国したが、その後、公孫は、長安へ感謝の表を上せて、そのついでに、劉備玄徳を、
朝廷のゆるしは間もなく届いた。公孫は、それを以て、
「貴下に示す自分の微志である」と、玄徳に酬いた。
玄徳は、恩を謝して、平原へ立つことになったが、その送別の宴が開かれて、散会した後、ひそかに、彼の宿舎を訪れて来た者がある。趙雲子龍であった。
子龍は、玄徳の顔を見ると、
「もう、今宵かぎり、お別れですなあ」
と、いかにも名残り惜しげに、眼に涙すらたたえて云った。
そして、いつまでも、話しこんで帰ろうともしなかったが、やがて思いきったように、子龍は云いだした。
「
と鬼をあざむく英傑が、処女の如く、さしうつ向いていうのであった。
玄徳もかねてから、趙子龍の人物には、傾倒していたので、彼に今、別離の情を訴えられると、
「せっかく陣中でよい友を得たと思ったのに、たちまち、平原へ帰ることになり、なにやら自分もお別れしとうない心地がする」と、いった。
子龍は、沈んだ顔をして、
「実は、それがしは、ご存じの如く、
こう嘆いてから、彼は、玄徳に向って、自分の本心を訴えた。
「劉大兄。お願いです。それがしを平原へお
子龍は、床にひざまずいて、真実を面に、哀願した。
玄徳は、
「いや、私はそんな大才ではありません。けれど、将来において、また再会のご縁があったら、親しく今日の
「では、時を得ましょう」と、涙ながら後に留まった。
翌日。
玄徳は、張飛、関羽などの率いる一軍の先に立って、平原へ帰った。――即ち、その時から彼は
× × ×
ここに、南陽の太守で、
袁紹の弟である。
かつては、兄袁紹の旗下にあって、兵糧方を支配していた男だ。
南陽へ帰ってからも、兄からはなんの恩禄をくれる様子もないので、
「
彼は、書面を送って、
「先頃からの賞として、
と兄へ申入れた。
袁紹は、弟の
袁術は大いに怨んで、それ以来、兄弟不和となっていたが、兵馬の資財はすべて兄のほうから仰いでいたので、たちまち、経済的に苦しくなって来た。
で、
「こいつも兄の指し金だな」
袁術は、憤怒を発して、とうとう自暴自棄の
彼の密使は、暗夜ひそかに、呉へ渡って、呉の孫堅へ一書を送った。
文面は、こうであった。
異日、印を奪わん為、洛陽の帰途を截 ち、公を苦しめたるものは袁紹 の謀事 なり。今また、劉表と議し、江東を襲って、公の地を掠 めんと企 つ。いうに忍びず、ただ、公は速やかに兵を興して荊州を取れ。われもまた兵を以て助けん。公荊州を得、われ冀州 を取らば、二讐 一時 に報ずるなり。誤ち給うなかれ。
ここは揚子江支流の流域で、城下の市街は、海のような
ふと見ると、
「いったい、どこにそんな大戦が起るというのか」
従者をして、船手方の者にただしてみると、よく分らないが、孫堅将軍の命令が下り次第に、荊州(揚子江沿岸)の方面の戦争にゆくらしいとのことだった。
「はてな」
彼はさっそく太守の孫堅に
「承れば、
孫堅は笑って、
「いや程普、それくらいなことは、自分も心得ておるよ。袁術はもとより
「けれど、兵を挙げるには、正しい名分がなければなりません」
「袁紹は先に、洛陽において、わしをあのように恥かしめたではないか。また、劉表はそのさしずをうけて、予の軍隊を途中で
程普も、それ以上、
吉日をえらんで、五百余艘の兵船は、大江を発するばかりとなった。――早くもこの沙汰が、荊州の劉表へ聞えたので、劉表は、
「すわこそ」と、軍議を開いて、その対策を諸将にたずねた。
時に、
「なにも驚き騒ぐほどな敵ではありません。よろしく
人々も皆、
「もっともな説」と、同意して、国中の兵力をあつめ、それぞれ防備の完璧を期していた。
湖南の水、湖北の岸、揚子江の流域はようやく波さわがしい
さて、ここに。
孫堅方では、その出陣にあたって、
彼の正室である呉氏の腹には、四人の子があった。
長男の孫策、
第二子孫権、字は仲謀。
第三男、
第四男、
などの男ばかりだった。
また、呉氏の妹にあたる孫堅の
また、
――明日は出陣。
と聞えた前夜のこと。その大勢の子らをひきいて、孫堅の弟孫静は、なにか改まって、兄孫堅の閣へたずねて来た。
「
孫堅は、上機嫌だった。
弟の孫静は、
「いや兄上」と改まって、
「あなたのお子たちをつれて、こう皆して参ったわけは、ご出戦をお
「なに。諫めに?」
「はい。もし大事なお身に、間違いでもあったら、この大勢の
「ばかをいえ、この
「でも、敗れて後、
「不吉なことを申すな」
「すみません、しかし兄上、これが、天下の乱にのぞんで億民の救生に起つという戦なら、私はお止めいたしません。たとえ三夫人の七人のお子がいかにお嘆きになろうとも、孫静が先に立ってご出陣を慶します。――けれどこんどの
「だまれ、おまえや女子供の知ったことじゃない」
「いや、そう仰っしゃっても」
「黙らぬかっ。――汝は今、名分のない戦といったが、誰か、孫堅の大腹中を知らんや。おれにも、
「ああ」
孫静は、ついに黙ってしまった。
すると、呉夫人の子の長男孫策は、ことし紅顔十七歳の美少年だったが、つかつかと前へ進んで、
「お父上が出陣なさるなら、ぜひ私も連れて行ってください。七人の兄弟のうちでは、私が年上ですから」と、いった。
にがりきっていた孫堅は、長男の
「よくいった。幼少からそちは兄弟中でも、英気すぐれ、物の役にも立つ子と、わしも見込んでいただけのものはあった。明日、わしの立つまでに、身仕度をしておるがよい」
孫堅は、さらに、大勢の子と、弟とを見まわして、
「次男の孫権は、叔父御の孫静と心をあわせて、よく留守を護っておれよ」と、云い渡した。
次男の孫権は、
「はい」と、明瞭に答えて、父の面に、じっと
孫策の母の呉夫人は、叔父と共に諫めに行った長男が、かえって父について戦に
「とんでもない。あの子を呼んでおくれ」
と、侍女を迎えにやったが、それがまだ夜も明けない頃だったのに、長男の孫策は、もう城中にいなかった。
孫策は、もし母が聞いたら、必ず止めるであろうと、あらかじめ察していたし、また、彼は鷹の子の如く俊敏な気早な若武者でもあったから、父の出陣の時刻も待たず、
「われこそ一番に」と、まだ暗いうちに大江の
孫堅は、長男の孫策が、すでに夜の明けないうち、十艘ばかり兵船を率いて、先駆けしたと聞いて、「頼もしいやつ」と、口には大いにその健気さを賞したが、心には初陣の愛児の身に万一の不慮を案じて、
「孫策を討たすな」と、急ぎに急いで、敵の城へ向った。
孫策は、父の本軍より先に来て、わずかな兵船をもって、一気に攻めかかっていたが、陸上から一斉に射立てられて、近づくことさえできなかった。
その間に、味方の五百余艘が、父孫堅の龍首船をまん中にして、江上に船陣を布き、
「孫策、はやまるな」
と、小舟をとばして伝令して来たので、孫策もうしろへ退いて、父の船陣の内へ加わった。
孫堅は、充分に備え立て、各船の
「いざ、進め」と、白浪をあげながら江岸へ迫った。
そして、射かける間に、各親船から小舟をおろし、
しかし、敵もさるものである。
防禦陣の大将黄祖は、かねて
「
そして、充分、機を計って、
「よしっ」
と、黄祖が、一令を発すると、陸上に組んである多くの
両軍の射交わす矢うなりに、陸地と江上のあいだは矢の往来で暗くなった。黄濁な揚子江の水は岸に激して凄愴な
「退けや、退けや」
孫堅は、戦不利と見て、たちまち船陣を矢のとどかぬ距離まで退いてしまった。
彼は、作戦を変えた。
夜に入ってからである。さらに、附近の漁船まで狩りだして、それに無数の小舟を
江上は、真っ暗なので、その火ばかりが物すごく見えた。陸上の敵は、
「すわこそ」と、昼にもまして、弩弓や
しかしそれには、兵は乗っていなかったのである。舟をあやつる
夜が明けると、小舟も漁船も、敵に正体を見られぬうちに、四散してしまった。そして、夜になるとまた、同じ策を繰返した。
こうして七日七夜も、毎夜、
船手の水軍は、すべて曠野へ上がって、雲の如き陸兵となった。
そして、乱軍となるや、「孫堅を始め、一人も生かして帰すな」とばかり、張虎、陳生らは、血眼になって馳けまわり、孫堅の本陣へ突いてくると、大音で
「汝ら、江東の鼠、わが大国を犯して、なにを求めるかっ」
聞いて、孫堅は、
「口はばったい
幕下の
「われこそ」と、刀を舞わして、張虎へ当り、戦うこと三十余合、火華は
陳生、それを見て、
「助太刀」と、呼ばわりながら、張虎を
さしもの韓当もすでに危うしと見えた時である。――父孫堅の傍らにあった孫策は、従者の持っていた弓を取りあげて、キリキリと
「おのれ」と、
箭は、ぴゅっと、味方の上を越えて、彼方なる陳生の面に立った。
陳生は、物すごい叫びをあげて、どうと鞍から
「や、やっ」
張虎は、怖れて、にわかに逃げかけた。やらじと追いかけて、韓当はそのうしろから、張虎の
――二将すでに討たる!
と聞えて、全軍敗色につつまれ出したので、黄祖は狼狽して、
「黄祖を
「
若武者孫策は、槍をかかえて彼を追うこと急だった。
幾たびか、孫策の槍が、彼のすぐ後ろまで迫った。
黄祖は、も捨て、ついには、馬までおりて、
この一戦に、荊州の軍勢はみだれて、孫堅の
孫堅は、ただちに、漢水まで兵をすすめ、一方、船手の軍勢を、漢江に
× × ×
「黄祖が大敗しました」
早馬の使いから、次々、敗報をうけて、劉表は色を失っていた。
「この上は、城を固めて、一方、袁紹へ急使をつかわし、救いをお求めなされるがよいでしょう」
すると、
「その計、
劉表も、それを許した。
孫堅は、各所の敵を席捲して、着々戦果を収めて来た勢いで、またたちまち、山の敵も撃破してしまった。
蔡瑁は、口ほどもなく、みじめな残兵と共に、襄陽城へ逃げ帰って来た。
大兵を損じたばかりか、おめおめ逃げ帰って来た蔡瑁を見ると、初めに、劉表の前で、卑怯者のようにいい負かされた
「それみたことか」と、
蔡瑁は、面目なげに、謝ったが良は、
「わが
と、軍法に照らして、その首を
劉表は、困った顔して、
「いや今は、一人の命も、むだにはできない場合だから」
と、なだめて、ついに、彼を斬ることは許さなかった。
――というのは、蔡瑁の妹は絶世の美人であって、近ごろ劉表は、その妹をひどく愛していたからであった。
「頼むは、天嶮と、袁紹の救援あるのみ」
と、良は、悲壮な決心で、城の防備にかかった。
この襄陽の城は、山を負い、水をめぐらしている。
荊州の
と、いわれている無双な要害であったから、さすが寄手の孫堅軍も、この城下に到ると、攻めあぐんで、ようやく、兵馬は遠征の疲労と退屈を兆していた。
するとある日。
ひどい狂風がふきまくった。
野陣の寄手は、砂塵と狂風に半日苦しんだ。ところが、どうしたことか、中軍に立っている「帥」の文字をぬいとってある将旗の旗竿が、ぽきんと折れてしまった。
「帥」の旗は、総軍の大将旗である。兵はみな不吉な感じにとらわれた。わけて幕僚たちは眉をくもらせて、
「ただ事ではない」と、孫堅をかこみ、そしておのおの口を極めていった。
「ここ
すると孫堅は
「わははは。其方どもまで、そんな
彼は、気にもかけていなかった。しかし、士気に関することであるから、孫堅も、真面目になって云い足した。
「風はすなわち天地の呼吸である。冬に先立って、こういう朔風がふくのは冬の訪れを告げるので旗竿を折るためにふいてきたのではない。――それを怪しむのは人間の
いわれてみれば、道理でもあった。諸将は二言なく、孫堅の説に服して、また、士気をもり返すべく努めた。
翌日から、寄手はまた、
しかし、襄陽の城は、頑としていた。
霜が降りてくる。
襄陽城の内で、
「きのうの天変は
「ムム。あの狂風か」
「昼の狂風も狂風ですが、夜に入って、常には見ない
「不吉を申すな」
「いや、味方に取っては、憂うべきことではありません。むしろ、壇を設けて祭ってもいいくらいです。
劉表は、うなずいて、
「誰か、城外の囲みを突破して、袁紹のもとへ使いする者はないか」と、家臣の列へ云った。
「参りましょう」
「強い馬と、精猛な兵とを、五百余騎そろえて
「なるほど、名案ですな」
呂公は、勇んで、その夜、ひそかに鉄騎五百を従えて、城外へ抜けだした。
馬蹄をしのばせて、
細い月が懸かっていた。――と敵の
「誰だ」と、大喝した。
どっと、先頭の十騎ばかりが、跳びかかって、たちまち五人の歩哨を斬りつくした。
すぐ、そこは、孫堅の陣営だったから、孫堅は、直ちに、馳けだして、
「今、馳け通った馬蹄の音は敵か、味方か」と、大声で訊ねた。
答えはなく、五人の歩哨は、二日月の下に、
孫堅は、それを見るなり、
「やっ。さては」と、直覚したので、馬にとび乗るが早いか、味方の陣へ、
「城兵が脱出したぞっ。――われにつづけっ」
と、呼ばわって、自身まっ先に呂公の五百余騎を追いかけて行った。
急なので、孫堅の後からすぐ続いた者は、ようやく、三、四十騎しかなかった。
先の呂公は振りかえって、
「来たぞ、追手が」
かねて計っていたことなので、驚きもせず、疎林の陰へ、射手を隠して、自分らは遮二無二、山上へよじ登って行った。そして敵のかかりそうな断崖の上に、岩石を積みかさねて、待ちかまえていた。
――程なく。
十騎、二十騎、四、五十騎と、敵らしい影が、林の中から山の下あたりへ、わウわウと殺到して、なにか口々に
中に、孫堅の声がした。
「敵は、山上に逃げたにちがいない。――なんの、これしきの断崖、馬もろとも、乗り上げろっ」
猛将の下、弱卒はない。
孫堅が、馬を向けると後から後から駈けつづいて来た部下も、どっと、
けれど、足もとは暗く、雑草の
断崖の上からうかがっていた呂公は、今ぞと思って、
「それっ、落せっ、射ろ」と、山上山下へ、両手を振って合図をした。
大小の岩石は、一度に、崖の上から落ちてきて、下なる孫堅とその部下三、四十人を埋めてしまうばかりだった。しかも、あわてて
「しまった!」
孫堅の眼が、二日月を睨んだ。とたんに、彼の頭の上から、一箇の巨大な
ずしんっ――
地軸の揺れるのを覚えた刹那、孫堅の姿も馬も、その下になっていた。あわれむべし血へどを吐いた首だけが、磐石の下からわずかに出ていた。
孫堅、その時、年三十七歳。
初平三年の
呂公は、自分の殺した三十余騎の追手中に、敵の大将がいようなどとは、夢にも気がつかなかったのである。
が――
「これこそ孫堅だ」
と、その死体を、狂喜して城内へ奪い去り、呂公は、連珠砲を鳴らして、城内へ異変を告げた。
寄手の勢もにわかの大変に、その狼狽や動揺はおおうべくもない。――号泣する者、喪失して茫然たる者、血ばしって弓よ刀よと騒動する者――兵はみだれ、馬はいななき、早くも陣の備えはその態を崩しはじめた。
「孫堅、洛陽に
黄祖、
すでに大将を失った江東の兵は戦うも力はなく、打たるる者数知れなかった。
漢江の岸に、兵船をそろえていた船手方の
「いでや、主君の
とばかり、船から兵をあげて、折りから追撃して来た敵の黄祖軍に当り、入り乱れて戦ったが、怒れる黄蓋は、獅子奮迅して、敵将黄祖を、乱軍のなかに
また。
「よい獲物」とばかり孫策を狙って、追撃して来たので、程普は、
「
両軍の戦うおめき声は、暁になって、ようやくやんだ。
何分この夜の激戦は、双方ともなんの作戦も統御もなく、一波が万波をよび、混乱が混乱を招いて、闇夜に入り乱れての乱軍だったので、夜が明けてみると、相互の死傷は驚くべき数にのぼっていた。
孫堅の長男孫策は漢水に兵をまとめてから、初めて、父の死を確かめた。
ゆうべから父の姿が見えないので、案じぬいてはいたがそれでもまだ、どこからか、ひょっこり現れて、陣地へ帰って来るような気がしてならなかったが、今はその空しいことを知って声をあげて号泣した。
「この上は、せめて父の
孫策は、悲痛な声して、
「この敗軍をひっさげ、父の屍も敵に奪られたまま、なんでおめおめ生きて故国へ帰られよう」
と、いよいよ、
黄蓋は、慰めて、
「いやゆうべ、それがしの手に、敵の一将黄祖という者を
すると、
桓楷は、ただ一人、襄陽城におもむいて、劉表に会い、
「黄祖と、主君の屍とを、交換してもらいたい」
と、使いの旨を告げると、劉表はよろこんで、
「孫堅の死体は、城内に移してある。黄祖を送り返すならば、いつでも屍は渡してやろう」と、快諾し、また、
「この際、これを機会に、停戦を約して、長く両国の境に、ふたたび乱の起らぬような協定を結んでもいい」と、いった。
使者
「では、立帰って、早速その運びをして参りましょう」
と、起ちかけると、劉表の側に在った
「無用、無用」と、叫んで、主の劉表に向かって諫言した。
「江東の呉軍を破り尽すのは、今この時です。しかるに、孫堅の屍を返して、一時の平和に安んぜんか、呉軍は、今日の雪辱を心に蓄えて、必ず兵気を養い、他日ふたたびわが国へ仇をなすことは火を見るよりも明かなことだ。――よろしく使者桓楷の首を
劉表は、ややしばらく、黙考していたが、首を振って、
「いやいや、わしと黄祖とは、心腹の交わりある君臣だ。それを見殺しにしては、劉表の面目にかかわる」と、良のことばを退けて、遂に屍を与えて、黄祖の身を、城内へ受取った。
良は、そのことの運ばれる間にも、幾度となく、
「無用の将一人をすてても、万里の土地を
「ああ、大事去る!」と、独り長嘆していた。
一方、呉の兵船は、
年十七の初陣に、この体験をなめた孫策は、父の業を継ぎ、賢才を招き集めて、ひたすら国力を養い、心中深く他日を期しているもののようであった。
「呉の孫堅が討たれた」
耳から耳へ。
やがて長安(
「わが病の一つは、これで除かれたというものだ。彼の
と、独りよろこぶこと限りなかったとある。
その頃、彼の
天子の
弟の
みな彼の手足であり、眼であり、耳であった。
そのほか、彼につながる一門の長幼縁者は端にいたるまで、みな
そこは、長安より百余里の郊外で、山紫水明の地だった。董卓は、地を
そして、
「もし、わが事が成就すれば、天下を取るであろう。事成らざる時は、この
明らかに、大逆の言だ。
けれど、こういう威勢に対しては、誰もそれをそれという者もない。
地に拝伏して、ただ
沿道百余里、
「太師。お召しですか」
天文官の一員は彼によばれて、ひざまずいた。
その日、朝廷の
「なにか変ったことはないか」
董卓の
「そういえば昨夜、一陣の
「そうだろう」
「なにかお心あたりがおありでございますか」
すると董卓は、はったと睨みつけて云った。
「そちらの知ったことではない。我より問われて初めて答えをなすなど
「はっ。恐れ入りましてございます」
天文官は、自分の首の根から黒気の立たないうちに、蒼くなってあたふた退出した。
やがて、時刻となると、公卿百官は、宴に
「失礼します」と、董卓のそばへ行って、その耳元へなにやらささやいた。
満座は皆、杯もわすれて、その二人へ、神経をとがらしていた。
――と、董卓は、うなずいていたが、呂布へ向って
「逃がすなよ」
呂布は、一礼して、そこを離れたと見ると、無気味な眼を光らして、百官のあいだを、のそのそと歩いて来た。
「おい。ちょっと起て」
呂布の腕が伸びた。
酒宴の上席のほうにいた
「あッ、な、なにを」
張温の席が鳴った。
満座、
「やかましい」
呂布は、その怪力で、鳩でも掴むように、無造作に、彼の身を堂の外へ持って行ってしまった。
しばらくすると、一人の料理人が、大きな盤に、異様な料理を捧げて来て、真ん中の卓においた。
見ると、盤に盛ってある物は、たった今、呂布に掴み出されて行った張温の首だったので、朝廷の諸臣は、みなふるえあがってしまった。
「呂布は、いかがした」と呼んだ。
呂布は、悠々、後から姿をあらわして、彼の側に
「御用は」
「いや、そちの料理が、少し新鮮すぎたので、諸卿みな杯を休めてしまった。安心して飲めとお前からいってやれ」
呂布は満座の蒼白い顔に向って、
「諸公。もう今日の余興はすみました。杯をお挙げなさい。おそらく張温のほかに、それがしの料理をわずらわすようなお方はこの中にはおらんでしょう。――おらない筈と信じる」
彼が、結ぶと、董卓もまた、その肥満した体躯を、ゆらりと上げて云った。
「張温を
宴は、早めに終った。
さすが長夜の宴もなお足らないとする百官も、この日は皆、
中でも司徒
「ああ。……ああ」
歎息ばかり洩らしていた。
折ふし、宵月が出たので、彼は気をあらためようと、杖をひいて、後園を歩いてみたが、なお、胸のつかえがとれないので、
そして、冷たい額に手をあてながら、しばらく月を仰ぎ、
「……誰か?」
王允は見まわした。
池の彼方に、水へ臨んでいる
「
近づいて、彼は、そっと声をかけた。
貂蝉は、
まだ母の乳も恋しい幼い頃から、彼女は生みの親を知らなかった。
薄命な
楽女とは、高官の邸に飼われて、賓客のあるごとに、宴にはべって
けれど、
「貂蝉、風邪をひくといけないぞよ。……さ、おだまり、涙をお拭き。おまえも
「……なにを仰っしゃいます。そんな浮いた心で、貂蝉は悲しんでいるのではございません」
「では、なんで泣いていたのか」
「
「わしが可哀そうで……?」
「ほんとに、お可哀そうだと思います」
「おまえに……おまえのような女子にも、それが分るか」
「分らないでどうしましょう……。そのおやつれよう。お
「むむう」
王允も、ほろりと、涙をながした。――泣くのをなだめていた彼のほうが、
「なにをいう。そ……そんなことはないよ。おまえの取りこし苦労じゃよ」
「いいえ、おかくしなさいますな。
「賤しい楽女のわたくし、お疑い遊ばすのも当り前でございますが、どうか、お胸の悩みを、打明けて下さいまし。……いいえ、それでは、
「…………」
「大人。……仰っしゃって下さいませ。おそらく、あなたのお胸は、国家の大事を悩んでいらっしゃるのでございましょう。今の長安の有様を、憂い
「
急に涙を払って、王允は思わず、痛いほど彼女の手をにぎりしめた。
「うれしい! 貂蝉、よく云ってくれた。……それだけでも、王允はうれしい」
「私のこんな言葉だけで、大人の深いお悩みは、どうしてとれましょう。――というて、男の身ならぬ貂蝉では、なんのお役にも立ちますまいし……。もし私が男であるならば、あなた様のために、生命を捨ててお
「いや、できる!」
王允は、思わず、満身の声でいってしまった。
杖をもって、大地を打ち、
「――ああ、知らなんだ。誰かまた知ろう。花園のうちに、回天の名珠をちりばめた
こういうと、王允は、彼女の手を取らんばかりに誘って、画閣の一室へ伴い、堂中に坐らせてその姿へ
貂蝉は、驚いて、
「大人。何をなさいますか、もったいない」
あわてて
「貂蝉。おまえに礼をほどこしたのではない。漢の天下を救ってくれる
貂蝉は、さわぐ色もなく、すぐ答えた。
「はい。大人のおたのみなら、いつでもこの生命は捧げます」
王允は、座を正して、
「では、おまえの真心を見込んで頼みたいことがあるが」
「なんですか」
「
「…………」
「彼を除かなければ、漢室の天子はあってもないのと同じだ」
「…………」
「百姓万民の
「はい」
「おまえも薄々は、今の朝廷の
「ええ」
「――が、董卓を殺そうとして、効を奏した者は、きょうまで一人としてない。かえって皆、彼のために殺し尽されているのだ」
「…………」
「要心ぶかい。
「…………」
「それを殺さんには……。天下の精兵を以てしても足らない。……貂蝉。ただ、おまえのその
「……どうして、私に?」
「まず、おまえの身を、呂布に与えると
「…………」
さすがに、貂蝉の顔は、そう聞くと、梨の花みたいに
「わしの見るところでは、呂布も董卓も、共に色に溺れ酒に
貂蝉は、ちょっと、うつ向いた。珠のような涙が
「いたします」
きっぱりいった。
そしてまた、「もし、仕損じたら、わたしは、笑って白刃の中に死にます。世々ふたたび人間の身をうけては生れてきません」と、覚悟のほどを示した。
数日の後。
呂布は、驚喜した。
「あの家には、古来から名剣宝珠が多く伝わっているとは聞いたが、洛陽から
彼は、武勇
王允は、あらかじめ、彼が必ず答礼に来ることを察していたので、歓待の準備に手ぬかりはなかった。
「おう、これは珍客、ようこそお出でくだされた」と、自身、中門まで出迎えて、下へも置かぬもてなしを示し、堂上に
善美の
「自分は、
「これは異なお
王允は、酒をすすめながら、
「将軍を饗するのは、その官爵を敬うのではありません。わしは日頃からひそかに、将軍の才徳と、武勇を尊敬しておるので、その人間を愛するからです」
「いや、これはどうも」と、呂布は、機嫌のよい顔に、そろそろ
「いやいや、計らずも、お訪ねを給わって、名馬赤兎を、わが邸の門につないだだけでも、王允一家の面目というものです」
「大官、それほどまでに、この呂布を愛し給うなら、他日、天子に奏して、それがしをもっと高い職と官位にすすめて下さい」
「仰せまでもありません。が、この王允は、董太師を徳とし、董太師の徳は生涯忘れまいと、常に誓っておる者です。将軍もどうか、いよいよ太師のため、
「いうまでもない」
「そのうちに、おのずから栄爵に見舞われる日もありましょう。――これ、将軍へ、お杯をおすすめしないか」
彼は、ことばをかえて、室内に
そして、その中の一名を、眼で招いて、
「めったにお越しのない将軍のお訪ね下すったことだ。
と、小声でいいつけた。
「はい」
侍女は、退がって行った。間もなく、室の外に、
「……いらっしゃいませ」
貂蝉は、客のほうへ、わずかに眼を向けて、
「……?」
呂布は、恍惚とながめていた。
王允は、自分の前の杯を、貂蝉にもたせて云った。
「おまえの名誉にもなる。将軍へ杯をさしあげて、おながれをいただくがよい」
貂蝉は、うなずいて、呂布のまえへ進みかけたが、ちらと、彼の視線に会うと、眼もとに、まばゆげな
「……どうぞ」
「や。これは」
呂布は、われに返ったように、その杯を持った。――なんたる
貂蝉は、すぐ退がって、
「貂蝉。――お待ち」
王允は、彼女を呼びとめて、客の呂布と等分に眺めながら云った。
「こちらにいらっしゃる呂将軍は、わしが日頃、敬愛するお方だし、わが一家の恩人でもある。――おゆるしをうけて、そのままお側におるがよい。充分に、おもてなしをなさい」
「……はい」
貂蝉は、素直に、客のそばに侍した。――けれど、うつ向いてばかりいて、何もいわなかった。
呂布は、初めて、口を開いて、
「ご主人。この麗人は、当家のご息女ですか」
「そうです。
「知らなかった。大官のお
「まだ、まったく世間を知りませんし、また、家の客へも、めったに出たこともありませんから」
「そんな
「一家の者が、こんなにまで、あなたのご来訪を、歓んでいるということを、お酌み下されば倖せです」
「いや、ご歓待は、充分にうけた。もう、酒もそうは飲めない。大官、呂布は酔いましたよ」
「まだよろしいでしょう。貂蝉、おすすめしないか」
貂蝉は、ほどよく、彼に杯をすすめ、呂布もだんだん酔眼になってきた。夜も更けたので、呂布は、帰るといって立ちかけたが、なお、貂蝉の美しさを、くり返して
王允は、そっと、彼の肩へ寄ってささやいた。
「おのぞみならば、貂蝉を将軍へさしあげてもよいが」
「えっ。お
「なんで偽りを」
「もし、貂蝉を、この呂布へ賜うならば、呂布はお家のために、犬馬の労を誓うでしょう」
「近い内に、吉日を選んで、将軍の室へ送ることを約します。……貂蝉も、今夜の容子では、たいへん将軍が好きになっているようですから」
「大官。……呂布は、すっかり
「いや、今夜ここへお泊めしてもよいが、
「間違いはないでしょうな」
呂布は、恩を拝謝し、また、何度もくどいほど、念を押してようやく帰った。
王允は、後で、
「……ああ、これで一方は、まずうまく行った。貂蝉、何事も天下のためと思って、眼をつぶってやってくれよ」と、彼女へ云った。
貂蝉は、悲しげに、しかしもう観念しきった冷たい顔を、横に振って、
「そんなに、いちいち私をいたわらないで下さい。おやさしくいわれると、かえって心が弱くなって、涙もろくなりますから」
「もういうまい。……じゃあかねて話してある通り、また近いうちに、
「ええ」
貂蝉は、うなずいた。
次の日、彼は、
「毎日のご政務、太師にもさぞおつかれと存じます。
と、彼の遊意を誘った。
聞くと、董卓は、
「なに、わしを貴邸へ招いてくれるというのか。それは近頃、歓ばしいことである。
と、非常な喜色で、
「――ぜひ、明日行こう」と、諾した。
「お待ちいたします」
「明日は
次の日。――やがて巳の刻に至ると、
「
王允は、朝服をまとって、すぐ門外へ出迎えた。
――見れば、太師
「ようおいでを賜わりました。きょうはわが王家の棟に、
王允は、董太師を、高座に迎えて、最大の礼を尽した。
董卓も、全家の歓待に、大満足な容子で、
「主人は、わが傍らにあがるがよい」と、席をゆるした。
やがて、
「太師、ちとこちらで、ご少憩あそばしては」
王允は誘った。
「ウム……」
と、董卓は、主にまかせて、護衛の者をみな宴に残し、ただ一人、彼について行った。
「こよいは、星の色までが、美しく見えます。これはわが家の秘蔵する長寿酒です。太師の寿を万代にと、初めて
「やあ、ありがとう」
董卓は、飲んで、
「こう歓待されては、何を以て司徒の好意にむくいてよいか分らんな」
「私の願うようになれば私は満足です。――私は幼少から天文が好きで、いささか天文を学んでおりますが、毎夜、天象を見ておるのに、漢室の運気はすでに尽きて、天下は新たに起ろうとしています。太師の徳望は、今や
「いや、いや。そんなことは、まだわしは考えておらんよ」
「天下は一人のひとの天下ではありません。天下のひとの天下です。徳なきは徳あるに譲る。これはわが朝のしきたりです。
「ははははは。もし董卓に天運が恵まれたら、司徒、おん身も重く用いてやるぞ」
「時節をお待ちします」
王允は再拝した。
とたんに、堂中の燭はいっぺんに
客もなく、主もなく、また天下の何者もなく、
舞う――舞う――貂蝉は袖をひるがえして舞う。教坊の奏曲は、彼女のために、糸竹と管弦の
「ウーム、結構だった」
董卓は、うめいていたが、一曲終ると、
「もう一曲」と、望んだ。
貂蝉が再び起つと、教坊の楽手は、さらに粋を競って弾じ、彼女は、舞いながら
一片ノ
知ラズ誰カコレ
「
「お気に召しましたか。当家の楽女、
「そうか。呼べ」と、斜めならぬ機嫌である。
「貂蝉、おいで」
王允は、さし招いた。
貂蝉は、それへ来て、ただ
「
「…………」
答えない。
貂蝉は、小指を、唇のそばの
「ははは、恥かしいのか」
「たいへんな
「いい声だの。すがたも、舞もよいが。……
「貂蝉。あのように、今夜の大賓が、求めていらっしゃる。なんぞもう一曲……お聴きしていただくがよい」
「はい」
貂蝉は、素直にうなずいて、
一点ノ桜桃絳唇 ヲ啓 ク
両行 ノ砕玉 陽春ヲ噴 ク
丁香 ノ舌ハ※鋼 [#「衙」の「吾」に代えて「眞」、U+8860、77-9]ノ剣ヲ吐キ
姦邪 乱国 ノ臣ヲ斬ラント要ス
「いや、おもしろい」董卓は、手をたたいた。
前に歌った歌詞は自分を讃美していたので、今の歌が自分をさして暗に
「神仙の仙女とは、実に、この貂蝉のようなのをいうのだろうな。いま、
「太師には、そんなにまで、貂蝉がお気に入りましたか」
「む……。予は、真の美人というものを、今夜初めて見たここちがする」
「献じましょう。貂蝉も、太師に愛していただければ、無上の幸せでありましょうから」
「え。この美人を、予に賜わるというのか」
「お帰りの車の内に入れてお連れください。――そういえば、夜も更けましたから、
「謝す。謝す。――
董卓は、ほとんど、その満足をあらわす言葉も知らないほど歓んで、
王允は、心のうちで、しすましたりと思いながら、貂蝉と董卓の車を
「……では」と、そこの門で、董卓に暇を乞うていると、ふと、
「では、これにて」
王允は、もういっぺん、くり返して云った。それは貂蝉へ、それとなく返した言葉であった。
貂蝉のひとみは、涙でいっぱいに見えた。王允も、胸がせまって、長くいられなかった。
あわてて彼は、わが家のほうへ引っ返してきた。すると、彼方の闇から、二列に
近づいてくると、その先頭には赤兎馬に踏みまたがった
「おのれ、今帰るか」
と、馬上から
「よくも汝は、先日、貂蝉をこの呂布に与えると約束しておきながら、こよい董太師に供えてしまいおったな。憎いやつめ。おれを小児のようにもてあそぶか」と、どなった。
王允は、騒ぐ色もなく、
「どうして将軍は、そんなことをもうご存じなのか。まあ、待ち給え」と、なだめた。
呂布は、なお怒って、
「今、わが邸へ、董太師が美女をのせて、相府へ帰られたと、告げて来た者があるのだ。そんなことが知れずにいると思うのか。この
と、従う武士にいいつけて、はや引ったてようとした。
王允は、手をあげて、
「はやまり給うな将軍。あれほど固く約したこの王允を、なにとて、お疑いあるぞ」
「やあ、まだ
「ともあれ、もう一度邸へお越しください。ここではお話もしにくいから」
「そうそう何度も、貴様の舌には
「その上でなお、お合点がゆかなかったら、即座に、王允の首をお持ち帰りください」
「よしっ、行ってやる」
呂布は彼について行った。
密室に通して、王允は、
「仔細はこうです」と、言葉巧みに云った。
「――実はこよい、酒宴の果てた後で、董太師が興じて仰せられるには、そちは近頃、呂布へ貂蝉を与える約束をした由だが、その女性を、ひとまず予が手許へあずけて置け。そして吉日を
「えっ。……では、董太師が、おれの艶福をからかう
「そうです。将軍のてれる顔を酒宴で見て、手を叩こうという、お考えだと仰っしゃるのです。――で、折角の尊命をそむくわけにも参りませんから、貂蝉をおあずけした次第です」
「いや、それはどうも」と、呂布は、頭をかいて、
「軽々しく、司徒を疑って、何とも申しわけがない。こよいの罪は、万死に値するが、どうかゆるしてくれい」
「いや、お疑いさえ解ければ、それでいい。必ず近日のうちに、将軍の艶福のために、盛宴が張られましょう。貂蝉もさだめし待っておりましょう。いずれ
呂布は、そう聞くと、三拝して、立帰った。
春は、丈夫の胸にも、悩ましい血を沸かせる。
「――どうしているだろう、
そんなことばかり考えた。
呂布は、
「ああ」
彼は、独り
「こんなに心のみだれるほど想い悩むのは、俺として生れてはじめてだ。――貂蝉、貂蝉、おまえはなぜ、あんな
彼は、夜明けを待ちかねた。
――が、朝となれば、彼は毅然たる武将だった。邸にも多くの武士を飼っている彼だ。朝陽を浴びて颯爽と、例の
べつに、そう急用もなかったのであるが、彼は早速、
「太師はお目ざめですか」と、護衛の番将に訊ねた。
番将は
「まだ
「ほ」
呂布は、何かむらむらと、不安に襲われたが、わざと
「もう
「後堂の廊も、あの通り
静かに、
――寝殿は帳を垂れたまま
呂布はおおい
「太師には、昨夜、よほどお寝みがおそかったとみえますな」
「ええ、王允の邸へ、饗宴に招かれて、だいぶごきげんでお帰りでしたからね」
「非常な
「や、将軍もそれを、もうご存じですか」
「ムム、王允の家の
「それですよ、太師のお目ざめが遅いわけは。昨夜、その美人を
「あちらで待っているから、太師がお目ざめになったら知らしてくれ」
呂布は、思わず、憤然と眉に色を出して、そこから立去った。
相府の一閣で、彼はぼんやりと腕ぐみしていた。気にかかるので、時折、池の彼方の閣を見まもっていた。後堂の寝殿は、
「太師には、ただ今、お目ざめになられました」
さっきの番将が告げに来た。
呂布は、取次も待たずに、董卓の後堂へ入って行った。そして、廊にたたずみながら奥をうかがうと、
呂布は、われを忘れて、臥房のすぐ
「オ……。貂蝉」
彼は、泣きたいように胸を締めつけられた。七尺の偉丈夫も、魂を掻きむしられ、
そして、煮え
「貂蝉はもう昨夜かぎりで、
彼の蒼白い顔は、なにかのはずみに、ふと室内の鏡に映った。
貂蝉は、
「あら?」
びっくりして振向いた。
「…………」
呂布は、怨みがましい眼をこらして、彼女の顔をじっと睨んだ。――貂蝉は、とたんに、雨をふくんだ梨花のようにわなないて、
(――ゆるして下さい。わたくしの本心ではありません。胸をなでて……
哀れを乞うような、すがりついて泣きたいような、声なき想いを、眼と
すると、壁の陰で、
「貂蝉。……誰かそれへ参ったのか」と、董卓の声がした。
呂布は、ぎょっとして、数歩
「呂布です。太師には、今お目ざめですか」と、常と変らない
春宵の夢魂、まだ醒めやらぬ顔して、董卓は、その巨躯を、
「誰かと思えば、呂布か。……誰に断って、臥房へ入って来た」
「いや、今、お目ざめと、番将が知らしてくれたものですから」
「いったい、何の急用か」
「は……」
呂布は、用向きを問われて口ごもった。――臥房へまで来て命を仰ぐほどな用事は何もないのであった。
「実は……こうです。夜来、なんとなく寝ぐるしいうちに、太師が病にかかられた夢を見たものですから、心配のあまり、夜が明けるのを待ちかねて、相府へ詰めておりました。――がしかし、お変りのない容子を見て、安心いたしました」
「何をいっておるのか」
董卓は、彼のしどろもどろな
「起きぬけから
「恐れ入りました。常々健康をお案じしておるものですから」
「嘘をいえ」と、叱って、「そちの容子は、なんとなくいぶかしいぞ。その眼の暗さはなんだ。その挙動のそわそわしている
「はっ」
呂布は、うつ向いたまま、一礼して悄然と、影を消した。
その日、早めに邸へ帰って来ると、彼の妻は、良人の顔色の冴えないのを憂いて訊いた。
「なにか太師のごきげんを
すると呂布は、大声で、
「うるさいっ。董太師がなんだ。この呂布を
と、妻に当って、どなりちらした。
呂布の容子は、目立って変ってきた。
相府への出仕も、休んだり遅く出たり、夜は酒に酔い、昼は狂躁に
「どうしたんですか」
妻が問えば、
「うるさい」としかいわない。
床を踏み鳴らして、
そうこうする間に、一月余りは過ぎて、悩ましい後園の春色も衰え、
「お勤めはともかく、この際、お見舞にも出ないでは、大恩のある太師へ
彼の妻はしきりと諫めた。
近頃、
呂布もふと、
「そうだ。出仕もせず、お見舞にも出なくては、申し訳ない」
気を持ち直したらしく、久しぶりで、相府へ出向いた。
そして、董卓の病床を見舞うと、董卓は、もとより、彼の武勇を愛して、ほとんど養子のように思っている呂布のことであるから、いつか、叱って追い返したようなことは、もう忘れている顔で、
「オオ、呂布か、そちも近頃は、体が
「大したことではありません。すこしこの春に、大酒が過ぎたあんばいです」
呂布は、淋しく笑った。
そしてふと、傍らにある
(初めは、心にもなくゆるした者へも、女はいつか、月日と共に、身も心も、その男に
董卓は、
その間に、呂布は、顔いろをさとられまいと、
すると、貂蝉は、董卓の耳へ、顔をすりよせて、
「すこし静かに、おやすみ遊ばしては……」
とささやいて、
呂布の眼は、焔になっていた。その全身は、石の如く、去るのを忘れていた。貂蝉は、病人の視線を隠すと、その姿を振向いて、片手で袖を持って、眼を拭った。……さめざめと、泣いてみせているのである。
(――辛い。わたしは辛い。想っているお方とは、語らうこともできず、こうして、いつまで心にもない人と一室に暮らさなければならないのでしょう。あなたは無情です。ちっともこの頃は、お姿を見せてくださらない! せめて、お姿を見るだけでも、わたしは人知れず慰められているものを)
もとより声に出してはいえなかったが、彼女の一滴一滴の涙と、濡れた
「……では、では、そなたは」
呂布は、断腸の思いの中にも、体中の血が狂喜するのをどうしようもなかった。盲目的に彼女のうしろへ寄って行った。そして、その白い
「呂布っ。何するか」
病床の董卓は、とたんに、大喝して身をもたげた。
呂布は、狼狽して、
「いや、べつに……」と、
「待てっ」と、董卓は、病も忘れて、額に青すじを立てた。
「今、おまえは、わしの眼を
「そんなことはしません」
「ではなぜ、屏風の内へはいろうとしたか。いつまで、そんな所に物欲しそうにまごついているか」
「…………」
呂布は、いい訳に窮して、真っ蒼な顔してうつ向いた。
彼は、弁才の士ではない。また、機知なども持ち合わせない人間である。それだけに、こう責めつけられると、進退きわまったかの如く、
「不届き者めッ、恩寵を加えれば恩寵に
と、董卓の怒りは甚しく、口を極めて
どやどやと、室外に、武将や護衛の
「もう、来ません!」
云い放って、自分からさっと、室の外へ出て行った。
ほとんど、入れちがいに、
「何です? 何か起ったのですか」と、
まだ怒りの
「困りましたなあ」
李儒は冷静である。にが笑いさえうかべて聞いていたが、
「なるほど、不届きな呂布です。――けれど太師。天下へ君臨なさる大望のためには、そうした小人の、少しの罪は、笑っておゆるしになる
「ばかな」
董卓は、
「そんなことをゆるしておいたら、士気はみだれ、主従のあいだはどうなるか」
「でも今、呂布が変心して、他国へ
「…………」
董卓も、李儒に説かれているうちに、やや激怒もおさまって来た。ひとりの寵姫よりは、もちろん、天下は大であった。いかに
「だが李儒。呂布のやつは、かえって
「そうお気づきになれば、ご心配はありません。呂布は単純な男です。明日、お召しあって、金銀を与え、優しくお諭しあれば、単純だけに、感激して、向後はかならず慎むでしょう」
李儒の忠言を容れて、彼はその翌日、呂布を呼びにやった。
どんな問罪を受けるかと、覚悟してきて見ると、案に相違して、黄金十
「きのうは、病のせいか、
と、なだめられたので、呂布はかえって心に苦しみを増した。しかし主君の温言のてまえ、
その後、日を経て、
彼はまた、その肥大強健な体に
呂布も、その後は、以前よりはやや無口にはなったが、日々精勤して、相府の出仕は欠かさなかった。
董卓が朝廷へ上がる時は、呂布が
或る折。
天子に
壮者の
ふと、彼は、
「きょうは必ず董卓の退出は遅くなろう。……そうだ、この間に」と考えた。
むらむらと、思慕の炎に駆られだすと、彼は矢も楯もなかった。
にわかに、どこかへ、駆けだして行ったのである。
董卓の留守の間に――と、呂布はひとり相府へ戻って来たのだった。そして勝手を知った後堂へ忍んで行ったと思うと、
「貂蝉。――貂蝉」と、声をひそめながら、寵姫の室へ入って、
「誰?」
貂蝉は、窓に
「オオ」
と、馳け寄って、彼の胸にすがりついた。
「まだ太師も朝廷からお
「貂蝉。わしは苦しい」
呂布は、
「この苦しい気もちが、そなたには分らないのだろうか。実は、きょうこそ太師の退出が遅いらしいので、せめて
「では……そんなにまで、この貂蝉を想っていて下さいましたか。……うれしい」
貂蝉は、彼の火のような眸を見て、はっと、
「ここでは、人目にかかっていけません。後から直ぐに参りますから、園のずっと奥の
「きっと来るだろうな」
「なんで嘘をいいましょう」
「よし、では鳳儀亭に行って待っているぞ」
呂布はひらりと庭へ身を移していた。そして、木の間を走るかと思うと、後園の奥まった所にある一閣へ来て、貂蝉を待っていた。
貂蝉は彼が去ると、いそいそと化粧をこらし、ただ一人で忍びやかに、鳳儀亭の方へ忍んで行った。
柳は緑に、花は
呂布は、
曲欄の下は、
「呂布さま」
「おう……」
ふたりは亭の壁の陰へ
「……おや、貂蝉、どうしたのだね」
「…………」
「ええ、貂蝉」
呂布は、彼女の肩をゆすぶった。――彼の胸に顔をあてていた貂蝉が、そのうちにさめざめと泣き出したからであった。
「わしとこうして会ったのを、そなたはうれしいと思わないのか。いったい、何をそんなに泣くのか」
「いいえ、貂蝉は、うれしさのあまり、胸がこみあげてしまったのです。――お聞きください。呂布さま。わたくしは
「ウむ。……ムム」
「ところが、その後、
貂蝉は、あたりへ聞えるばかり
「呂布さま。どうか貂蝉の心根だけは、
と、叫びざま、曲欄へ走り寄って、蓮の池へ身を投げようとした。
呂布は、びっくりして、
「何をする」と、抱き止めた。
その手を、怖ろしい力で、貂蝉は振りのけようと争いながら、
「いえ、いえ、死なせて下さい。生きていても、あなたとこの世のご縁はないし、ただ心は日ごと苦しみ、身は
「愚かなことを。来世を願うよりも
「えっ……ほんとですか。今のおことばは、将軍の真実ですか」
「想う女を、今生において、妻ともなし得ないで、
「もし、呂布さま。それがほんとなら、どうか貂蝉の今の身を救うて下さいませ。一日も一年ほど長い気がいたします」
「時節を待て。それも長いこととはいわぬ――また、今日は老賊に従って、参殿の供につき、わずかな
「もう、お帰りですか」
貂蝉は、彼の袖をとらえて、離さなかった。
「将軍は、世に並ぶ者なき英雄と聞いていましたのに、どうしてあんな老人をそんなに、怖れて、董卓の
「そういうわけではないが」
「私は、太師の
なお、寄りすがって、紅涙雨の如き
「はて。貂蝉も見えないし、呂布もどこへ行きおったか?」
董卓の眸は、
今し方、彼は朝廷から退出した。呂布の
「さては」
と、彼は、侍女を
二人は鳳儀亭の
「あっ……来ました」と、あわてて呂布の胸から飛び離れた。
呂布も、驚いて、
「しまった。……どうしよう」
うろたえている間に、董卓はもう走り寄って来て、
「
と、怒鳴った。
呂布は、物もいわず、鳳儀亭の朱橋を躍って、岸へ走った。――すれ
「おのれ、どこへ行く」と、彼の
呂布が、その
「
董卓は、その巨きな体を前へのめらせながら、
「待てっ。こらっ。待たぬかっ、匹夫め」
すると、彼方から馳けて来た李儒が、過って出会いがしらに、董卓の胸を突きとばした。
董卓は、樽の如く、地へ転げながら、いよいよ怒って、
「李儒っ、そちまでが、予をささえて、不届きな匹夫を
と、呶号した。
李儒は、急いで、彼の身を扶け起しながら、
「不義者とは、誰のことですか。――今、てまえが後園に人声がするので、何事かと出てみると、呂布が、太師狂乱して、罪もなきそれがしを、お手討になさると追いかけて参るゆえ、何とぞ、助け賜われとのこと、驚いて、馳けつけて来たわけですが」
「何を、ばかな。――董卓は狂乱などいたしてはおらん。予の目を
「道理で、いつになく、顔色も失って、ひどく狼狽の態でしたが」
「すぐ、引っ捕えて来い。呂布の首を
「ま。そうお怒りにならないで、太師にも少し落着いて下さい」
李儒は、彼の
そして、閣の書院へ伴い、座下に降って、再拝しながら、
「ただ今は、過ちとはいえ、太師のお体を突き倒し、罪、死に値します」
と、詫び入った。
董卓はなお、怒気の冷めぬ顔を、横に振って、
「そんなことはどうでもよい。速やかに、呂布を召捕って来て、予に、呂布の首を見せい」
といった。
李儒は、あくまで冷静であった。董卓が、怒るのを、あたかも痴児の
「恐れながら、それはよろしくありません。呂布の首を刎ねなさるのは、ご自身の
「なぜ悪いかっ。なぜ、不義者の成敗をするのが、よろしくないか」
董卓は、そう云いつのって、どうしても、呂布を斬れと命じたが、李儒は、
「不策です。いけません」
頑として、彼らしい理性を、変えなかった。
「太師のお怒りは、自己のお怒りに過ぎませんが、てまえがお諫め申すのは、
と、李儒は、例をひいて、語りだした。
それは、
すると――宴半ばにして、にわかに涼風が渡って、満座の燈火がみな消えた。
荘王、
(はや、
(これも涼しい)と、興ありげにさわいでいた。
――と、その中へ、特に、諸将をもてなすために、酌にはべらせておいた荘王の寵姫へ、誰か、武将のひとりが戯れてその唇を盗んだ。
寵姫は、叫ぼうとしたが、じっとこらえて、その武将の
そして、荘王の膝へ、泣き声をふるわせて、
「この中で今、誰やら、暗闇になったのを幸いに、
と、自分の貞操をも誇るような誇張を加えて訴えた。
すると荘王は、どう思ったか、
「待て待て」と、今しも燭を点じようとする侍臣を、あわてて止め、
「今、わが寵姫が、つまらぬことを予に訴えたが、こよいはもとより心から諸将の武功をねぎらうつもりで、諸公の愉快は予の愉快とするところである。酒興の中では今のようなことはありがちだ。むしろ諸公がくつろいで、今宵の宴をそれほどまで楽しんでくれたのが予も共にうれしい」
と、いって、さてまた、
「これからは、さらに、無礼講として飲み明かそう。みんな冠の
そしてすべての人が、冠の纓を取ってから、燭を新たに
その後、荘王は、
王は、彼の
「安んぜよ、もうわが一命は無事なるを得た。だが一体、そちは何者だ。そして如何なるわけでかくまで身に代えて、予を守護してくれたか」と、訊ねた。
すると、
「――されば、それがしは先年、楚城の夜宴で、王の寵姫に冠の纓をもぎ取られた
と、にこと笑って答えながら死んだという。
――李儒は、そう話して、
「いうまでもなく、彼は、荘王の大恩に報じたものです。世にはこの佳話を、
董卓は、首を垂れて聞いていたが、やがて、
「いや、思い直した。呂布の命は助けておこう。もう怒らん」
李儒はかねて、呂布が何を不平として、近ごろ董卓に含んでいるか、およそ察していたので、
――困ったものだ。
と、内心、
それゆえ、「絶纓の会」の故事をひいて、
「忘れおこう、呂布はゆるせ」と、釈然と悟った
董卓は、李儒を
「何を泣くか。女にも
董卓が、いつになく叱ると、貂蝉はいよいよ悲しんで、
「でも、太師は常に、呂布はわが子も同様だと仰っしゃっていらっしゃいましょう。――ですから私も、太師のご養子と思って、敬まっていたんです。それを今日は、恐い血相で、
「いや、深く考えてみると、悪いのは、そなたでも呂布でもなかった。この董卓が
「なにをおっしゃいます。太師に捨てられて、あんな乱暴な
いきなり董卓の剣を抜きとって、
貂蝉は、
「……わ、わかりました。これはきっと、李儒が呂布に頼まれて、太師へそんな進言をしたにちがいありません。あの人と呂布とは、いつも太師のいらっしゃらない時というと、ひそひそ話していますから。……そうです。太師はもう、私よりも、李儒や呂布のほうがお可愛いんでしょう。わたしなどはもう……」
董卓は、やにわに、彼女を膝に抱きあげて、泣き濡れているその頬やその唇へ自分の顔をすり寄せて云った。
「泣くな、泣くな、貂蝉、今のことばは、
次の日――
李儒は改まって、董卓の前に伺候した。ゆうべ、呂布の私邸を訪い、恩命を伝えたところ、呂布も、深く罪を悔いておりました――と報告してから、
「きょうは幸いに、吉日ですから、貂蝉を呂布の家にお送りあってはいかがでしょう。――彼は単純な感激家です。きっと、感涙をながして、太師のためには、死をも誓うにちがいありません」
と、いった。
すると董卓は、色を変じて、
「たわけたことを申せ。――李儒っ、そちは自分の妻を呂布にやるかっ」
李儒は、案に相違して、唖然としてしまった。
董卓は早くも車駕を命じ、
「はてな?」
窓を排して、街の空をながめていた。
「今日は、日も
車駕の
「おいっ、馬を出せっ、馬を」
呂布は、
飛びのるが早いか、武士も連れず、ただ一人、長安のはずれまで
呂布は、丘のすそに、駒を停めて、大樹の陰にかくれてたたずんでいた。そのうちに車駕の列が
――見れば、金華の
ふと、彼女の眸は、丘のすそを見た。そこには、呂布が立っていた。――呂布は、われを忘れて、オオと、馳け寄らんばかりな容子だった。
貂蝉は、顔を振った。その頬に、涙が光っているように見えた。――前後の兵馬は、畑土を馬蹄にあげて、たちまち、その姿を彼方へ押しつつんでしまった。
「…………」
呂布は、茫然と見送っていた。――李儒の言は、ついに、偽りだったと知った。いや、李儒に偽りはないが、董卓が、頑として、貂蝉を離さないのだと思った。
「……泣いていた、
彼は、気が狂いそうな気がしていた。沿道の百姓や物売りや旅人などが、そのせいか、じろじろと彼を振向いてゆく。呂布の眼はたしかに血走っていた。
「や、将軍。……こんな所で、なにをぼんやりしているんですか」
白い
呂布は、うつろな眼を、うしろへ向けたが、その人の顔を見て、初めてわれにかえった。
「おう、あなたは
「なぜ、そんな意外な顔をなされるのか。ここはそれがしの
「ああ、そうでしたか」
「
「王允、何しにとは情けない。
「はて。その意味は」
「忘れはしまい。いつか貴公はこの呂布に、貂蝉を与えると約束したろう」
「もとよりです」
「その貂蝉は老賊に横奪りされたまま、今なお呂布をこの苦悩に突きおとしているではないか」
「……その儀ですか」
王允は、急に首を垂れて、病人のような嘆息をもらした。
「太師の所行はまるで
「言語道断だ。今も、貂蝉は、車のうちで泣いて行った」
「ともかく、ここでは路傍ですから……、そうだ、ほど近い私の
王允は、慰めて、白驢に乗って先へ立った。
そこは長安郊外の、
呂布は、王允に
「いかがです、おひとつ」
「いや、今日は」
「そうですか。では、あまりおすすめいたしません。心の楽しまぬ時は、酒を含んでも、いたずらに、口にはにがく、心は燃えるのみですから」
「王司徒」
「はい」
「察してくれ……。呂布は生れてからこんな無念な思いは初めてだ」
「ご無念でしょう。けれど、私の苦しみも、将軍に劣りません」
「おぬしにも悩みがあるか」
「あるか――どころではないでしょう。折角、将軍の室へ
「世間がおれを
「董太師も、世の物笑いとなりましょうが、より以上、天下の人から笑い
王允がいうと、
「いや、貴下の罪ではない!」
呂布は、憤然、床を鳴らして突っ立ったかと思うと、
「王司徒、見ておれよ。おれは誓って、あの老賊をころし、この恥をそそがずにはおかぬから」
王允は、わざと
「将軍、
「いいや、もうおれの
「おお、将軍。今の
「ウーム、だが……」
呂布は牙を噛んで
「――今となって、悔いているのは、老賊の甘言にのせられて、董卓と義父養子の約束をしてしまったことだ。それさえなければ、今すぐにでも、事を挙げるのだが、かりそめにも、義理の養父と名のついているために、おれはこの憤りを抑えておるのだ」
「ほほう……。将軍はそんな非難を怖れていたんですか。世間は、ちっとも知らないことですのに」
「なぜ」
「でも、でも、将軍の姓は
「ああ、そうか。おれはなんたる智恵の浅い男だろう」
「いや、老賊のため、義理に縛られていたからです。今、天下の憎む老賊を斬って、漢室を扶け、万民へ善政を
「よしっ、おれはやる。必ず、老賊を
呂布は、剣を抜いて、自分の
呂布の帰りを門まで送って出ながら、王允は、そっとささやいた。
「将軍、きょうのことは、ふたりだけの秘密ですぞ。誰にも洩らして下さるな」
「もとよりのことだ。だが大事は、二人だけではできないが」
「腹心の者には明かしてもいいでしょう。しかし、この後は、いずれまた、ひそかにお目にかかって相談しましょう」
――思うつぼに行った。
と独りほくそ笑んでいた。
その夜、王允はただちに、日頃の同志、
「呂布の手をもって、董卓を討たせる計略だが、それを実現するに、何かよい方法があるまいか」
と、計った。
「いいことがあります」と、孫瑞がいった。
「天子には、先頃からご
「え。
「されば、それも天子の御為ならば、お咎めもありますまい」
「そしてどういうのか」
「天子のおことばとして――
「それは、
「禁門に力ある武士を大勢伏せておいて、彼が、参内する車を囲み、有無をいわせず
「偽勅使には誰をやるか」
「
「
「そうです」
「あの男は、以前、董卓に仕えていた者ではないか」
「いや、近頃勘気をうけて、董卓の
「それは好都合だ。早速、呂布に通じて、李粛と会わせよう」
王允は、翌晩、呂布をよんで、
「李粛なら自分もよく知っている。そのむかし赤兎馬をわが陣中へ贈ってきて、自分に、養父の
深夜、王允と呂布は、人目をしのんで、
「やあ、しばらくだなあ」
呂布はまずいった。李粛は、時ならぬ客に驚いて唖然としていた。
「李粛。貴公もまだ忘れはしまいが、ずっと以前、おれが養父丁原と共に、董卓と戦っていた頃、赤兎馬や金銭をおれに送り、丁原に叛かせて、養父を殺させたのは、たしか貴公だったな」
「いや、古いことになりましたね。けれど一体、何事ですか、今夜の突然のお越しは」
「もう一度、その使いを、頼まれて貰いたいのだ。しかし、こんどは、おれから董卓のほうへやる使いだが」
呂布は、李粛のそばへ、すり寄った。そして、王允に仔細を語らせて、もし李粛が不承知な顔いろを現したら、即座に斬って捨てんとひそかに剣を握りしめていた。
ふたりの密謀を聞くと、李粛は手を打って、
「よく打明けて下すった。自分も久しく董卓を討たんとうかがっていたが、めったに心底を語る者もないのを恨みとしていたところでした。
と喜んで、即座に、誓いを立てて
そこで三名は、万事を
「天子、李粛をもって、勅使として降し給う」と、城門へ告げた。
董卓は、何事かと、直ぐに彼を引いて会った。
李粛は
「天子におかれては、度々のご不予のため、ついに、太師へ
そういって、じっと董卓の面を見ていると、つつみきれぬ喜びに、彼の老顔がぱっと紅くなった。
「ほ。……それは意外な
「百官を
聞くと、董卓は、いよいよ眼を細めて、
「司徒王允は、何といっておるかの」
「王司徒は、よろこびに堪えず、
「そんなに早く事が運んでいるとは驚いた。ははは。……道理で思い当ることがある」
「なんですか。思い当ることとは」
「先頃、夢を見たのじゃ」
「夢を」
「むむ。巨龍雲を起して降り、この身に
「さてこそ、
「この身が帝位についたら、そちを
「必ず忠誠を誓います」
李粛が、再拝しているまに、董卓は、侍臣へ向って、
そして彼は、馳けこむように、
「いつか、そなたに云ったことがあろう。わしが帝位に昇ったら、そなたを
貂蝉は、チラと、眼をかがやかしたが――すぐ無邪気な表情をして、
「まあ。ほんとですか」と、狂喜してみせた。
董卓はまた、後堂から母をよび出して、事の
「……なんじゃ。俄に、どこへ行くというのかの」
「参内して、天子の御位をうけるのです」
「誰がの?」
「あなたの子がです」
「おまえがか」
「ご老母。あなたも、いい
「やれやれ。わずらわしいことだのう」
九十余歳の
「あははは、張合いのないものだな」
董卓は、
すでに十里ほど進んで来ると、車の中の
「どうしたのだっ」と、咎めた。
「お車の輪が折れました」と、侍臣が
「なに。車の輪が折れた」
彼は、ちょっと機嫌を曇らし、
「沿道の百姓どもが、道の清掃を怠って、小石を残しておいたからだろう。見せしめのため、
彼は、傾いた車を降りて、
そしてまた、六、七里も来たかと思うと、こんどは馬が暴れいなないて、
「
「車の輪が折れたり、馬が轡を噛み切ったり、これは一体、どういうわけだろう」
「お気にかけることはありません。太師が、帝位に
「なるほど。明らかな解釈だ」
董卓はまた、機嫌を直した。
途中、一宿して、翌日は長安の都へかかるのだった。ところがその日は、めずらしく霧がふかく、行列が発する頃から狂風が吹きまくって、天地は
「李粛。この天相は、なんの
事毎に、彼は気に病んだ。
李粛は笑って、
「これぞ、
やがて長安の外城を通り、市街へ進み入ると、民衆は軒を下ろし、道にかがまり、頭をうごかす者もない。
王城門外には、百官が列をなして出迎えていた。
「おめでとう存じあげます」と、慶賀を述べ、臣下の礼をとった。
董卓は、大得意になって、
「相府にやれ」と、車の
そして丞相府にはいると、
「参内は明日にしよう。すこし疲れた」と、いった。
その日は、休憩して、誰にも会わなかったが、王允だけには会って、賀をうけた。
王允は、彼に告げて、
「どうか、こよいは悠々身心をおやすめ遊ばして、明日は
「ご気分はいかがです」と、誰かその後から
呂布であった。
董卓は、彼を見ると、やはり気強くなった。
「オオ、いつもわしの身辺を護っていてくれるな」
「大事なお体ですから」
「わしが
「ありがとうございます」
呂布は、常のように
その夜は、さすがに彼も、婦女を寝室におかず、眠りの清浄を守った。
けれど、明日は、
――と、室の外を。
と、誰か歩く靴音がする。
むくと、身を起し、
「誰かっ」と咎めると、帳の外に、まだ起きていた李粛が、
「呂布が見廻っているのです」と、答えた。
「呂布か……」
そう聞くと、彼はすっかり安心してかすかに
――遠く、深夜の街に、子どもらの
眼に青けれど
運命の風ふかば
十日の
生き得まじ
彼は、それが耳について、
「李粛」と、また呼んだ。
「は。まだお目をさましておいででしたか」
「あの童謡は、どういう意味だろう。なんだか、不吉な歌ではないか」
「その筈です」
李粛は、でたらめに、こう解釈を加えて、彼を安心させた。
「漢室の運命の終りを暗示しているんですから。――ここは長安の帝都、あしたから帝が代るのですから、無心な童謡にも、そんな予兆が現れないわけはありません」
「なるほど。そうか……」
憐れむべし、彼はうなずいて、ほどなく
後に思えば。
童謡の「千里の草」というのは「
千里草
何青々
十日下
猶不生
と街に歌っていた声は、すでに彼の運命を何者かが嘲笑していた暗示だったのであるが、李粛の言にあやされて、さしもの何青々
十日下
猶不生
朝の光は、彼の枕辺に
董卓は、斎戒沐浴した。
そして、
その白旗に、口の字が二つ並べて書いてあった。
「なんじゃ、あれは」
董卓が、李粛へ問うと、
「気の狂った祈祷師です」と、彼は答えた。
口の字を二つ重ねると「呂」の字になる。董卓はふと、呂布のことが気になった。
――と、もうその時、儀杖の先頭は、宮中の
「やっ?」
董卓は、車の内でさけんだ。
見れば、
彼は、何か異様な空気を感じたのであろう。突然、
「李粛李粛。――彼らが、抜剣して立っているのは如何なるわけか」
と、呶鳴った。
すると、李粛は車の後ろで、
「されば、
と、大声で答えた。
董卓は、仰天して、
「な、なんじゃと?」
膝を起そうとした途端に、李粛は、それっと懸け声して、彼の車をぐわらぐわらと前方へ押し進めた。
王允は、大音あげて、
「
声を合図に――
「おうっ」
「わあっ」
馳け集まった御林軍の勇兵百余人が、車を
「
「この
「うぬっ」
「天罰」
「思い知れや」
無数の
巨体を大地に
「――
すると、呂布の声で、
「心得たり」と、聞えたと思うと、彼は
黒血は霧のごとく噴いて、陽も曇るかと思われた。
「うッ――むっ。……おのれ」
戟はそれて、右の
董卓は、
呂布は、その胸元をつかんで、
「悪業のむくいだ」と罵りざま、ぐざと、その
禁廷の内外は、怒濤のような空気につつまれたが、やがて、それと知れ渡ると、
「万歳っ」
と、誰からともなく叫びだし、文武百官から
李粛は、走って、董卓の首を打落し、剣尖に刺して高くかかげ、呂布はかねて
「聖天子のみことのりにより、逆臣董卓を討ち終んぬ。――その余は罪なし、ことごとくゆるし給う」
と、大音で読んだ。
董卓、ことし五十四歳。
千古に
大奸を
「このままではすむまい」
「どうなることか」と、
呂布は、云った。
「今日まで、董卓のそばを離れず、常に、董卓の悪行を
「そうだ。誰か行って、丞相府から李儒を
王允が命じると、
「それがしが参ろう」
李粛は答えるや否、兵をひいて、丞相府へ馳せ向った。
すると、その門へ入らぬうちに、丞相府の内から、一団の武士に囲まれて、悲鳴をあげながら、引きずり出されて来るあわれな男があった。
見ると、李儒だった。
丞相府の
「日頃、憎しと思う奴なので、董太師が討たれたりと聞くや否、かくの如く、われわれの手で搦め、これから禁門へつきだしに行くところでした。どうか、われわれには、お
李粛は、なんの労もなく、李儒を
王允は、直ちに、李儒の首を
「街頭に
なお、王允がいうには、
「
すると、声に応じて、「それがしが参る」と、真っ先に立った者がある。
呂布であった。
「呂布ならば」と、誰も皆、心にゆるしたが、王允は、李粛、
塢には、
「董太師には、禁廷において、無残な最期を遂げられた」
との飛報を聞くと、愕然、騒ぎだして、都の討手が着かないうちに、総勢、
呂布は、第一番に、塢の城中へ乗込んだ。
彼は、何者にも目をくれなかった。
ひたむきに、奥へ走った。
そして、秘園の帳内を覗きまわって、
「
と、彼女のすがたを血眼で捜し求めた。
貂蝉は、後堂の一室に、黙然とたたずんでいた。呂布は、走りよって、
「おいっ、歓べ」と、固く抱擁しながら、物いわぬ体を揺すぶった。
「うれしくないのか。あまりのうれしさに口もきけないのか。貂蝉、おれはとうとうやったよ。董卓を殺したぞ。これからは二人も晴れて楽しめるぞ。さあ、怪我をしては大変だ。長安へお前を送ろう」
呂布はいきなり彼女の体を引っ抱えて、後堂から走り出した。城内にはもう皇甫嵩や李粛の兵がなだれ入って、
金銀珠玉や穀倉やその他の財物に目を奪われている味方の人間どもが、呂布には馬鹿に見えた。
彼は、貂蝉をしかと抱いて、乱軍の中を馳け出し、自分の
「董卓が一族は、老幼をわかたず、一人残らず斬り殺せ」と、厳命した。
董卓の老母で今年九十幾歳という
「
わずか半日のまに、
それから金蔵を開いてみると、十庫の内に黄金二十三万斤、白銀八十九万斤が蓄えられてあった。また、そのほかの庫内からも
王允は、長安から命を下して、
「すべて、長安へ移せ」と、いいつけた。
また、穀倉の処分は、「半ばを百姓に
その
長安の民は賑わった。
董卓が殺されてからは、天の
「これから世の中がよくなろう」
彼らは、他愛なく歓び合った。
城内、城外の百姓町人は、老いも若きも、男も女も祭日のように、酒の瓶を開き、餅を作り
「平和が来た」
「善政がやって来よう」
「これから夜も安く眠られる」
そんな意味の
すると彼らは、街頭に
「董卓だ董卓だ」と、騒いだ。
「きょうまで、おれ達を苦しめた張本人」
「あら憎や」
首は足から足へ蹴とばされ、また首のない
生前、人いちばい肥満していた董卓なので、
また。
董卓の弟の
李儒は、董卓のふところ刀と日頃から憎しみも一倍強くうけていた男なので、その最期は誰よりも惨たるものだった。
こうして、ひとまず
するとそこへ、一人の吏が、
「何者か、董卓の腐った屍を抱いて、街路に嘆いている者があるそうです」
と、告げて来たので、すぐ引っ捕えよと命じると、やがて縛られて来たのは、
蔡は、忠孝両全の士で、また曠世の逸才といわれる学者だった。だが、彼もただ一つ大きな過ちをした。それは董卓を主人に持ったことである。
人々は、彼の人物を惜しんだが、王允は獄に下して、
都堂の祝宴にも、ただひとり顔を見せなかった大将がある。
「
長安の市民が七日七夜も踊り狂い、酒壺を叩いて、董卓の死を祝している時、彼は、門を閉じて、ひとり
「
それは、わが家の後園を、狂気のごとく
そして、小閣の内へかくれると、そこに横たえてある貂蝉の冷たい体を抱きあげてはまた、「なぜ死んだ」と、頬ずりした。
貂蝉は、答えもせぬ。
彼女は、
「もう
やがて帰って来た呂布は、それまでの夢を打破られてしまった。
貂蝉の自殺が、
「なぜ死んだか」
彼には解けなかった。
「――貂蝉は、あんなにも、おれを想っていたのに。おれの妻となるのを楽しんでいたのに」
と思い迷った。
貂蝉は、何事も語らない。
だが、その死顔には、なんの心残りもないようであった。
――すべきことを為しとげた。
微笑の影すら
彼女の肉体は獣王の
呂布の
きのうも今宵も、彼は飯汁も喉へ通さなかった。夜も、後園の小閣に寝た。
月は
晩春の花も黒い。
「おや、何か?」
彼は、貂蝉の肌に秘められていた
女の皮膚は弱いというが
鏡にかえて剣を抱けば
剣は正義の心を強めてくれる
わたしはすすんで荊棘 へ入る
父母以上の恩に報いる為に
またそれが国の為と聞くからに
楽器を捨て、舞踊する手に
匕首 を秘めて獣王へ近づき
遂に毒杯を献じたり、右と左にそして最後の一盞 にわれを仆 しぬ
聞ゆ――今、死の耳に
長安の民が謡う平和の歓び
われを呼ぶ天上の迦陵頻伽 の声
「あ……あっ。では……?」鏡にかえて剣を抱けば
剣は正義の心を強めてくれる
わたしはすすんで
父母以上の恩に報いる為に
またそれが国の為と聞くからに
楽器を捨て、舞踊する手に
遂に毒杯を献じたり、右と左にそして最後の一
聞ゆ――今、死の耳に
長安の民が謡う平和の歓び
われを呼ぶ天上の
呂布もついに
彼は、貂蝉の死体を抱えて、いきなり馳け出すと、後園の古井戸へ投げこんでしまった。それきり貂蝉のことはもう考えなかった。天下の権を握れば、貂蝉ぐらいな美人はほかにもあるものと思い直した
「伏して、
と、恭順を示した。
ところが、
「断じて
と、使いを追い返し、即日、討伐令を発した。
西涼の敗兵は、大いに恐れた。
すると、謀士の聞えある
「動揺してはいけない。団結を解いてはならん。もし諸君が、一人一人に分離すれば、田舎の小役人の力でも召捕ることができる。よろしく集結を固め、その上に、
「なるほど」
四将は、その説に従った。
すると、西涼一帯に、いろいろな
「長安の王允が、大兵を向けて、地方民まで、みなごろしにすると号している」と、いう噂だ。
その人心へつけ入って、
「坐して死を待つより、われわれの軍と共に、抗戦せよ!」と、四将は
集まった雑軍を入れて、十四万という大軍になった。
気勢をあげて、押し進むと、途中で董卓の
いよいよ意気は
だが、やがて敵と近づいて
「これはいかん」と、四将の軍は、たちまち意気
それは、有名な
「呂布にはかなわない」と戦わぬうちから観念したからであった。
で、一度は
ところが、敵は案外もろかった。
その陣の大将は呂布でなく、董卓誅殺の時、
油断していた李粛は、兵の大半を討たれ、三十里も敗走するという醜態だった。
後陣の呂布は、
「何たるざまだ」と、激怒して、「戦の第一に、全軍の鋭気をくじいた罪は浅くない」と、李粛を斬ってしまった。
李粛の首を、軍門に
牛輔は、逃げ退いて、腹心の
「呂布に出て来られては、とても勝てるものではない。いっそのこと、金銀をさらって、逃亡しようと思うが」
「そのことです。足もとの明るいうちだと、私も考えていたところで」
四、五名の従者だけをつれて、未明の陣地から脱走した。
だが、この主君の下にこの家来ありで、胡赤児は、途中の河べりまで来ると、川を
そして、呂布の陣へ走り、
「牛輔の首を献じますから、私を取立てて下さい」と、降伏して出た。
だが、仲間の一人が、胡赤児が牛輔を殺したのは、金銀に目がくれて、それを奪おうためであると、陰へ廻って自白したので、呂布は、
「牛輔の首だけでは取立ててやるには不足だ。その首も出せ」
と、胡赤児を
牛輔の死が伝えられた。また、それを殺した胡赤児も、呂布に斬られたという噂が聞えた。
「この上は、死か生か、決戦あるのみだ」と、敵の四将も
四将の一人、
その間――
「長安が危ない。はやく引返して防げ」と、
好まない戦だが、応戦しなければ
結局、空しく、進退を失ったまま、幾日かを過ごしていた。
一方。
長安へ向って、殺到した張済、樊稠の軍は、行くほどに、勢いをまして、
「
「朝廷をわが手に奉ぜよ」と、潮の決するような勢いで、城下へ肉薄して行った。
しかし、そこには、鉄壁の外城がある。いかなる大軍も、そこでは喰い止められるものと人々は考えていたところ、なんぞ計らん、長安の市中に潜伏して
「時こそ来れ」と、ばかり白日の下におどり出して、各城門を内部からみな開けてしまった。
「天われに
雑軍の多い暴兵である。ひとたび長安の巷におどると、
ついこの間、酒壺をたたき、
どこまで呪われた民衆であろうか。
無情な天は、そこからあがる黒煙に、陽を潜め、月を隠し、ただ
変を聞いて。
呂布は、一大事とばかり、ようやく山間の小競り合いをすてて引返して来た。
だが、時すでに遅し――
彼が、城外十数里のところまで駆けつけて来てみると、長安の彼方、夜空いちめん真赤だった。
天に
「……しまった!」
呂布は
茫然と、火光の空を、眺めたまましばらく自失していた。
やんぬる
「そうだ、ひとまず、袁術の許へ身を寄せて
そう考えて、軍を解き、わずか百余騎だけを残し、にわかに道をかえて、夜と共に
前には、恋の
好漢惜しむらくは思慮が足らない。また、道徳に欠けるところが多い。――天はこの稀世の勇猛児の末路を、そも、
騒乱の物音が遠くする。
夜も
昼間も
宮中の奥ふかき所――
長安街上に躍る火の魔、血の魔がそのお眸には見えるような心地であられたろう。
「皇宮の危機が迫りました」
侍従が云って来た。
しばらくするとまた、
「
――こんどは朝廷へ
「ウム。……むむ」
うなずかれただけだった。
事実、朝臣すべても、この際、どうしたらいいか、
すると侍従の一人が、
「彼らも、帝座の重きことはわきまえておりましょう。この上は、帝ご自身、
献帝は、
「天子だ」
「ご出御だ」
と、その下へ、わいわいと集まった。
「しずまれっ。鎮まれっ」
と、にわかに味方を抑え、必死に暴兵を鎮圧して、自分らも、宣平門の下へ来た。
献帝は門上から、
「汝ら、何ゆえに、
すると、
「陛下っ。亡き
その声を聞くと、全軍、わあっと雷同して、献帝の答えいかにと要求を迫る色を示した。
献帝は、ご自身の横を見た。
そこには王允が侍している。
王允は、蒼ざめた唇をかんで、眼下の大軍を睨んでいたが、献帝の眸が自分のもとにそそがれたと知ると、やにわに起って、
「一身何かあらん」と、門楼のうえから身をなげうって飛び降りた。
なんで
「おうっ、こいつだ」
「
「
寄りたかった剣槍は、たちまち、王允の体をずたずたにしてしまった。
兇暴な彼らは、要求が容れられても、まだ退かなかった。この際、天子を
「だが、そんな無茶をしても、恐らく民衆が服従しないだろう。おもむろに、天子の勢力を
「はや、軍馬を返せ」と、ふたたび
すると壁下の暴将兵は、
「いや、王室へ功をいたしたわれわれ臣下にまだ
と、官職の要求をした。
宮門に軍馬をならべて、官職を与えよと、強請する暴臣のさけびに、帝も浅ましく思われたに違いないが、その際、帝としても、如何とする
彼らの要求は認められた。
で――
また、
こういう政府が、長く人民に平和と秩序を
果たして。
それから程なく、西涼の太守
李たちの四将は、「どうしたものか」と、謀士
賈は、一策を立てて、消極戦術をすすめた。
長安の周囲の外城をかため、塁の上に塁を築き、溝はさらに掘って溝を深くし、いくら寄手が
百日も経つと、寄手の軍は、すっかり意気を
機をうかがっていた長安の兵は、一度に四門をひらいて寄手を蹴ちらした。大敗した西涼軍は、ちりぢりになって逃げ走った。
すると、その乱軍の中で、并州の
韓遂は、苦しまぎれに、以前の
「
「ここは戦場だ。国乱をしずめるためには、個々の
「とはいえ、おれが戦いに来たのも、国家のためだ。貴公が国士なら、国士の心もちは分るだろう。おれは君に討たれてもよいが、全軍の追撃をゆるめてくれ給え」
樊稠は、彼のさけびに、つい人情にとらわれて、軍を返してしまった。
翌日、長安の城内で勝軍の大宴がひらかれたが、その席上、四将の一人
「裏切者っ」と、突然、首を刎ねた。
同僚の張済は驚きのあまり床へ坐って、
「君にはなんの
樊稠のことを叔父に密告したのは李の
「諸君、こういうわけだ」と、樊稠の罪を、席上の将士へ、大声で演舌した。
最後に、李はまた、張済の肩をたたいて、
「今も甥がいったようなわけで樊稠は刑罰に附したが、しかし、貴公はおれの腹心だから、おれは貴公になんの疑いも抱いてはおらんよ。安心し給え」
と、樊稠隊の統率を、みな張済の手に移した。
諸州の浪人の間で、
「近ごろ
聞きつたえて、州(山東省西南部)へ志してゆく勇士や学者が多かった。
ここ山東の天地はしばらく静かだったが、帝都長安の騒乱は、去年からたびたび聞えて来た。
「こんどは、
とか、
「西涼軍は、木ッぱ
とか、また、
「李という男も、朝廷を切ってまわすくらいだから、前の董卓にもおとらない才物とみえる」
などと大国だけに、都の乱もひと事のように語っていた。
そのうちに青州地方(済南の東)にまた
朝廷から
「討伐せよ」と、命が下ってきた。
曹操は、近頃、朝廷に立ってほしいままに兵馬政権をうごかしている新しい廟臣たちを、内心では認めていない。
だが、朝廷という名において、命に服した。また、どんな機会にでも、自分の兵馬をうごかすのは一歩の前進になると考えるので、命を奉じた。
彼の精兵は、たちまち、地方の
けれど、その
討伐百日の戦に、賊軍の降兵三十万、領民のうちからさらに屈強な若者を選んで総勢百万に近い軍隊を新たに加えた。もちろん、済北済南の地は
時は初平三年十一月だった。
こうして彼の門には、いよいよ諸国から、賢才や勇猛の士が集まった。
曹操が見て、
「貴様は我が
と許したほどの人物、
荀はわずか二十九歳だった。また甥の
わけても、
「嘘だろう」
曹操も信じなかったが、
「さらば、お目にかけん」と、典韋は、馬を躍らせて、言葉のとおり実演して見せた。ちょうどまた、その折、大風が吹いて、営庭の大旗がたおれかかったので、何十人の兵がかたまって、旗竿をたおすまいとひしめいていたが、強風の力には及ばず、あれよあれよと騒いでいるのを見て、典韋は、
「みんな
「ウーム、
曹操も舌を巻いて、即座に彼を召抱え、
悪来というのは、昔、
曹操は、一日ふと、
「おれも今日までになるには、随分親に不孝をかさねてきた」と、故山の父を思い出した。
彼の老父は、その頃もう故郷の陳留にもいなかった。
山東一帯に地盤もでき、一身の安定もつくと、曹操は老父をそうしておいては済まないと思い出した。
「わしの厳父を迎えて来い」
彼は、泰山の太守
迎えをうけて、曹操の父親の
「それみろ」と、曹嵩の息子自慢はたいへんなものだった。
「あれの叔父貴も、親類どもも、曹操が少年時分には行く末が案じられる不良だなどと、口をきわめて、悪く云いおったが――なアに、あいつは見所があるよと、大まかに許していたのは、わしばかりじゃった。やはりわしの眼には狂いがなかったんじゃ」
落ちぶれても、一家族四十何人に、召使いも百人からいた。それに家財道具を、百余輛の車につんで、曹嵩一家は、早速、
折から秋の半ばだった。
「
「こんな詩ができたがどうじゃ。――ひとつ曹操に会ったら見せてやろう」
などと興じていた。
途中、
「ぜひ、こよいは城内で」と、徐州城に迎え、二日にわたって下へもおかないほど歓待した。
「一国の太守が、老いぼれのわしを、こんなに待遇するはずはない。曹操が偉いからだ。思えばわしはよい子を持った」
曹嵩は、城内にいる間も、息子自慢で暮していた。
事実、ここの太守陶謙はかねてから曹操の盛名を慕って、折あれば曹操と
「陶謙は好い人らしいな」
曹操の老父は、彼の人物にふかく感じた。陶謙が温厚な君子であることは、彼のみでなく、誰も認めていた。
恩を謝して、老父の一行は、三日目の朝、徐州を出発した。陶謙は特に、部下の
青白い電光が
「通り雨だ。どこか、雨宿りするところはないか」
「寺がある。山寺の門が」
「あれへ逃げこめ」
馬も車も人も雨に打ち叩かれながら山門の陰へ隠れこんだ。
そのうちに、日が暮れてきたので、
「こよいはこの寺へ泊るから、本堂を貸してくれと、寺僧へ掛合って来い」
と、
彼は日頃、部下にも気うけのよくない男と見え、濡れ鼠となった兵隊は皆何か不平にみちた顔をしていた。
冷たい秋の雨は、
暗い廊に眠っていた張は、何思ったか、むっくりと起きて、兵の伍長を、人気のない所へ呼びだしてささやいた。
「宵から、兵隊たちが皆、不平顔をしているじゃないか」
「仕方がありません。なにしろ日頃の手当は薄いし、こんなつまらぬ役をいいつかって、州まであんな老いぼれを護送して行っても、なんの
伍長は、
「いや、もっともだ、無理はない」と、むしろ煽動して、
「なにしろ、俺たちは、もともと黄巾賊の仲間にいて、自由自在に、気ままな生活をしていたんだからな。――陶謙に征伐されて、やむなく仕えてみたが、ただの仕官というやつは、薄給で窮屈で、兵隊どもが、不平勝ちに思うのも仕方がない。……どうだ、いっそのこと、また以前の黄色い
「――といっても、今となっちゃあ
「なあに、金さえあればいいのだ。幸い、俺たちの護衛して来た老いぼれの一族は、金もだいぶ持っているらしいし、百輛の車に、家財を積んでいる。こいつを横奪りして
こんな悪謀がささやかれているとは知らず、
夜も三更に近い頃――
突然、寺のまわりで、
「やっ。何事だろう」と、寝衣のまま、廊へ飛び出したところを、物もいわず、張が剣をふりかざして斬り殺してしまった。
――ぎゃっッ。
という悲鳴が、方々で聞えた。曹嵩のお
「ひッ、ひと殺しっ」
と絶叫しながら、方丈の
護衛の兵は、兇悪な匪賊と変じて、一瞬の間に殺戮をほしいままにしはじめたのである。
老父の曹嵩も
曹操から迎えのため派遣されて付いていた使者の
――酸鼻な夜は明けた。
まだそぼ降っている秋雨の中に、山寺は火を放たれて焼けていた。そして、張一味の兇兵は、百余輛の財物と共に、もう一人もいなかった。
× × ×
「老父をはじめ、我が一家の縁者を、みな殺しにした陶謙こそ、
と、
彼はあくまで、老父の遭難を陶謙の罪として怨んだ。
若年の頃、自分の邪推から、叔父の一家をみな殺しにして、平然とすましていた曹操ではあったが、それと似た兇変が今、自分の身近にふりかかってみると、その残虐を憎まずにいられなかった。その
「徐州を討て」
即日、大軍動員の令は発せられた。軍の上には
復讐の大軍を催して、曹操が徐州へ攻進するという噂が諸州へ聞えわたった前後、
「ぜひ会わせて下さい」と、曹操を陣門に訪ねて来た者があった。
それは
陳宮は、かつて曹操が、都から落ちて来る途中、共に
(この人は、王道に
「君は今、何しているか」
曹操に訊かれると、陳宮は、すこし間が悪そうに、
「東郡の
すると曹操は、皮肉な笑みをたたえながら、早くも相手の来意を読んでいた。
「じゃあ、徐州の
「お察しの通りな目的で来ました。小生の知る陶謙は、世に稀な
「ばかをいえ」
曹操は、今までの微笑を一
「父や弟の恨みをそそぐのが、なんでわが声望の失墜になるか、君は元来、逆境の頃の予を見捨てて走った男ではないか、人に向って
陳宮は、顔赤らめて、辞し去ったが、その不成功を、陶謙に復命する勇気もなく、そこから陳留の太守
かくて「
行く行くこの猛軍は人民の墳墓をあばいたり、敵へ内通する疑いのある者などを、
徐州の老太守陶謙は、
「曹操の軍には、とても敵しようもない。彼の恨みをうけたは皆、自分の不徳である。――自分は
諸将を集めてそう告げた。しかし、将の大部分は、
「そんなことはできません。太守を見殺しにして、なんで自分らのみ助けをうけられましょうや」
と、策を議して、
折からまた、黄巾の残党が集結して、各所で騒ぎだしていた。北平の
公孫は、むしろ不賛成で、
「よしてはどうだ。なにも君は曹操に恨みがあるわけでもなし、陶謙に恩もないだろうに」
と、止めた。
けれど、玄徳は、義の
太守陶謙は、手をとらんばかり玄徳を迎え、
「今の世にも、貴君のごとき義人があったか」と、涙をたたえた。
城兵の士気は
老太守の
「今日からは、この陶謙に代って、あなたが徐州の太守として、城主の位置について貰いたい」
といった。
玄徳は驚いて、
「飛んでもないことです」と、極力辞退したが、
「いやいや、
陶謙のことばには真実がこもっていた。うわさに聞いていた通り、私心のない名太守であった。世を憂い、民を愛する仁人であった。
けれど劉備玄徳は、なお、
「自分はあなたを扶けに来た者です。若い力はあっても、
と、どうしても、彼もまた、
張飛、関羽のふたりは、彼のうしろの壁ぎわに
「つまらない遠慮をするものだ。どうも大兄は
老太守の熱望と、玄徳の謙譲とが、お互いに相手を立てているのに果てしなく見えたので、家臣
「後日の問題になされては如何ですか。何ぶん城下は敵の大軍に満ちている場合ではあるし」
と、側から云った。
「いかにも」
二人もうなずいて、即刻、評議をひらき、軍備を問い、その上で、一応はこの解決を外交策に訴えてみるも念のためであるとして、劉玄徳から曹操へ使いを立て、停戦勧告の一文を送った。
曹操は、玄徳の文を見ると、
「何。……私の
と、それを引っ裂いて、
「使者など斬ってしまえ」と、一喝に
時しもあれ、その時、彼の本領地の
「たいへんです。将軍の留守をうかがって、突如、
と、次々に報らせが来た。
× × ×
呂布がどうして、曹操の空巣をねらってその根拠地へ攻めこんできたのであろうか。
彼も、都落ちの一人である。
すると
「ああ、近頃は天下の名馬も、無駄に肥えておりますな」
呂布の顔の側へきて、わざと皮肉に呟いた男があった。
――変なことをいう奴だ。
呂布は
それは、
先頃、陶謙に頼まれて、曹操の侵略を
「なんで吾輩の馬が、いたずらに肥えていると嘆くのか。よけいなおせっかいではないか」
呂布がいうと、
「いや、もったいないと申したのです」と、陳宮はいい直して、
「駒は天下の
「そういう君は一体誰だ」
「陳宮という無名の浪人です」
「陳宮? ……。では以前、
「そうです」
「いや、それはお見それした。だが、君は吾輩に今、謎みたいなことをいわれたが、どういう真意なのか」
「将軍は、この名馬をひいて、生涯、食客や遊歴に甘んじているおつもりか。それを先に聞きましょう」
「そんなことはない。吾輩にだって志はあるが
「時は眼前に来ているではありませんか。――今、曹操は徐州攻略に出征して、
呂布の顔色に血がさした。
「あっ、そうか。よく云ってくれた。君の一言は、吾輩の
それからのことである。
州は兵乱の巷になり、虚を衝いて侵入した呂布の手勢は、曹操の本拠地を占領してから、さらに、勢いにのって、
× × ×
「不覚!」
曹操は、唇を噛んだ。
われながら不覚だったと悔いたがもう遅い。彼は、徐州攻略の陣中で、その早打ちを受けとると、
「どうしたものか」と、進退きわまったものの如く、一時は
けれど、彼の頭脳は、元来が非常に明敏であった。また、太ッ腹でもあった。一時の当惑から脱すると、すぐ鋭い機智が働いて、常の顔いろに返った。
「最前、城内からの劉備玄徳の使者は、まだ斬りはしまいな。――斬ってはならんぞ。急いでこれへ連れて来い」
それから彼は、玄徳の使いに、
「深く考えるに、貴書の趣には、一理がある。仰せにまかせて、曹操はいさぎよく撤兵を断行する。――よろしく伝えてくれい」
と、
偶然だが、玄徳の一文がよくこの奇効を奏したので、城兵の
「ぜひ自分に代って、徐州侯の
しかし玄徳は、なんとしても
曹操は、大軍をひっさげて、国元へ引っ返した。
彼は、難局に立てば立つほど、壮烈な意気にいよいよ
「呂布、
とばかり、すでに相手をのんでいた。奪われた
軍を二つに分け、旗下の曹仁をして州を囲ませ、自身は
濮陽に迫ると、
「休め」
と、彼は兵馬にひと息つかせ、真ッ紅な夕陽が西に沈むまで、動かなかった。
その前に、旗下の曹仁が、彼に向って注意した言葉を、彼はふと胸に思い出した。
それは、こういうことだった。
「呂布の大勇にはこの近国で誰あって当る者はありません。それに近頃彼の側には例の陳宮が付き従っているし、その下には
曹操は、その言葉を今、胸に反復してみても、格別、恐怖をおぼえなかった。呂布に勇猛あるかも知れぬが、彼には智慮がない。策士陳宮の如きは、たかの知れた素浪人、しかも自分を裏切り去った卑怯者、目にもの見せてやろうと考えるだけであった。
一方。
呂布は、曹操の襲来を知って、
「曹操、何かあらん」という意気で、陳宮の諫めも用いず、総軍五百余騎をもって
曹操の
で、暗夜に山路を越え、
呂布はその日正面の野戦で曹操の軍をさんざんに破っていたので、
「西の
「寨は我一人でも奪回して見せん。汝ら入りこんだ敵の奴ばらを、一匹も生かして帰すな」
と、指揮に当ると、彼の
山間の嶮をこえて深く入り込んだ奇襲の兵は、もとより大軍でないし、地の理にも
乱軍のうちに、夜は白みかけている。身辺を見るとたのむ味方もあらかた散ったり討死している。曹操は死地にあることを知って、
「しまった」
にわかに寨を捨てて逃げ出した。
そして南へ馳けて行くと、南方の野も一面の敵。東へ逃げのびんとすれば、東方の森林も敵兵で充満している。
「
彼の馬首は、行くに迷った。ふたたびゆうべ越えて来た北方の山地へ
「すわや、曹操があれに落ちて行くぞ」
と、呂布軍は追跡して来た。もちろん、呂布もその中にいるだろう。
逃げまわった末、曹操は、城内
「最期だっ。予を助けよ。誰か味方はいないか!」
さすがの曹操も、思わず悲鳴をあげながら、身に集まる箭を切り払っていた。
――時に、彼方から誰やらん、おうっ――と吠えるような声がした。
見れば、左右の手に、重さ八十斤もあろうかと見える
「ご主君、ご主君っ、馬をお降りあれ。そして地へ這いつくばり、しばらく敵の矢をおしのぎあれ」
矢攻めの中に立ち往生している曹操へ向って、彼は近よるなり大声で注意した。
誰かと思えば、これなん先ごろ召抱えたばかりの
「おお、悪来か」
曹操は急いで馬を跳び下り、彼のいう通り地へ這った。
悪来も馬を降りた。両手の戟を風車のように揮って矢を払った。そして敵軍に向って濶歩しながら、
「そんなヘロヘロ矢がこの悪来の身に立ってたまるか」
と、豪語した。
「小癪なやつ。打殺せ」
五十騎ほどの敵が一かたまりになって馳けて来た。
悪来は善く戦い、敵の短剣ばかり十本も奪い取った。彼の戟はもう
「――逃げ散りました。今のうちです。さあおいでなさい」
彼は、
けれど矢の雨はなお、主従を目がけて
「おいっ、士卒」と、後ろへどなった。
「――おれは、こうしているから、敵のやつが、十歩の前まで近づいたら声をかけろ」
と命じた。
そして、
「十歩ですっ」
と、後ろで彼の従者が教えた。
とたんに、悪来は、
「来たかっ」
と、手に握っていた短剣の一本をひゅっと投げた。
われこそと躍り寄って来た敵の一騎が、どうっと、鞍からもんどり打って転げ落ちた。
「――十歩ですっ」
また、後ろで聞えた。
「おうっ」
と、短剣が宙を切って行く。
敵の騎馬武者が見事に落ちる。
「十歩っ」
剣はすぐ飛魚の光を見せて
そうして十本の短剣が、十騎の敵を突き殺したので、敵は怖れをなしたか、土煙の中に馬の尻を見せて逃げ散った。
「笑止なやつらだ」
悪来はふたたび曹操の駒の
山の麓まで来ると、旗下の
「そちがいなかったら、千に一つもわが生命はなかったろう」
曹操は、悪来へ云った。――夜に入って大雨となった。越えてゆく山嶮は
帰ってから悪来の
ここ呂布は連戦連勝だ。
失意の
「この土地に、
謀士の陳宮が、唐突に云い出したことである。呂布も近頃は、彼の智謀を大いに重んじていたので、また何か策があるかと、
「田氏か。あれは有名な富豪だろう。召使っている
「そうです。その田氏をお召出しなさいまし。ひそかに」
「軍用金を命じるのか」
「そんなつまらないことではありません。領下の富豪から金をしぼり取るなんていうことは、自分の蓄えを気短かに喰ってしまうようなものです。大事さえ成れば、黄金財宝は、争って先方がご城門へ運んで来ましょう」
「では、田氏をよびつけて何をさせるのか」
「曹操の一命を取るのです」
陳宮は、声をひそめて、なにかひそひそと呂布に説明していた。
それから数日後。
ひとりの百姓が、竹竿の先に
「
「これを大将に献じたい」と、伏し拝んでいう。
「密偵だろう」
と、有無をいわさず、曹操の前へ引っぱって来た。すると百姓は態度を変えて、
「人を払って下さい、いかにも私は密使です。けれど、あなたの不為になる使いではありません」
と、いった。
近臣だけを残して、士卒たちを遠ざけた。百姓は、鶏の
見ると、城中第一の旧家で富豪という聞えのある田氏の書面だった。呂布の暴虐に対する城中の民の恨みが綿々と書いてある。こんな人物に城主になられては、わたくし達は他国へ
そして、密書の要点に入って、
(――今、
曹操は、破顔してよろこんだ。
「天、われに先頃の雪辱をなさしめ給う。濮陽はもう掌のうちの物だ!」
使いを
「危険ですな」
策士の
「念のため、軍を三分して、一隊だけ先へ進めてごらんなさい。呂布は無才な男ですが、陳宮には油断はできません」
曹操も、その意見を可として、三段に軍を立てて、徐々と敵の城下まで肉薄して行った。
「オオ、見える」
曹操はほくそ笑んだ。
果たせるかな、大小の敵の
「もはや事の半ばは成就したも同じだ」
曹操は左右へいって、
「――だが、夜に入るまでは、息つきの
と、
城下の商戸はみな戸を閉ざし、市民はみな逃げ去って、町は昼ながら夜半のようだった。曹操の軍馬はそこ此処に
果たして、城兵は奇襲して来た。辻々で少数の兵が衝突して、一進一退をくり返しているうちに陽はやがて、とっぷり暮れて来た。
薄暮のどさくさまぎれにひとりの土民が曹操のいる本陣へ走りこんできた。捕えて詰問すると、
「田氏から使いです」と密書を示していう。
曹操は聞くとすぐ取寄せてひらいてみた。紛れもない田氏の筆蹟である。
城上に
機、逸し給うなかれ、
衆民、貴軍の
全城を挙げて閣下に献ぜん
曹操は、密書の示す策によって、すぐ総攻撃の配置にかかった。
しかし李典は、城内の空気に、なにか変な静寂を感じたので、
「一応、われわれが、城門へぶつかって、小当りに探ってみますから、御大将には、暫時、進軍をお待ちください」と、忠言してみた。
曹操は気に入らない顔をして、
「兵機というものは機をはずしては、一瞬勝ち目を失うものだ。田氏の合図に手違いをさせたら、全線が狂ってしまう」
といって
月はまだ昇らないが満天の星は宵ながら
「やっ、なんだっ」
寄手の諸将はためらい合ったが、曹操はもう
「田氏の合図だっ。何をためらっているか。この機に突っこめっ――」と、振向いてどなった。
とたんに、正面の城門は、内側から八文字に開け放されていた。――さては、田氏の密書に嘘はなかったかと、諸将も勢いこんで、どっと門内へなだれ入った。
――が、とたんに、
「わあっ……」
と、闇の中で、
すると、どこからともなく、石の雨が降って来た。石垣の陰や、州の政庁の建物などの陰から、同時に無数の
「や、や、やっ?」
疑う間に投げ松明だ。軍馬の上に、大地に、
「いかんっ。――敵の謀計にひッかかった。退却しろ」
と、声をかぎりに後ろへ叫んだ。
敵の計に陥ちたとさとって、曹操が、しまったと馬首をめぐらした
彼につづいて突入してきた全軍は、たちまち混乱に墜ちた。奔馬と奔馬、兵と兵が、方向を失って渦巻くところへなお、
「どうしたっ?」
「早く出ろ」と、後続の隊は、後から後からと押して来た。
「退却だっ」
「退くのだっ」
混乱は容易に救われそうもない。
石の雨や投げ松明の雨がやんだと思うと、城内の四門がいちどに口を開いて、中から呂布の軍勢が、
「寄手の奴らを一人も生かして帰すな」と、東西から
度を失った曹操の兵は、網の中の魚みたいに意気地もなく
さすがの曹操も狼狽して、
「不覚不覚」
と憤然、唇を噛みながら、一時北門から逃げ退こうとしたが、そこにも敵軍が充満していた。南門へ出ようとすれば南門は火の海だった。西門へ
「ご主君ご主君。血路はここに開きました。早く早く」
彼を呼んだのは悪来の典韋であった。典韋は、歯をかみ
曹操は、
「おういっ。……わが君っ」
悪来が捜していると、
「典韋じゃないか」と、誰か一騎、馳け寄って来た味方がある。
「オオ、
「自分も、それを案じて、お捜し申しているところだ」
「どう落ちて行かれたやら」
兵を手分けして、二人は八方捜索にかかったが、
――すると彼方の暗い辻から、一団の
近づいて見るまでもなく敵にちがいない。曹操は、
「
何ぞ計らん、従者の松明に囲まれて
ぎょっとしたが、すでに遅し! である。曹操は顔をそ向け、その顔を手で隠しながら、何気ない素振りを装ってすれ違った。
すると呂布は、何思ったか、戟の先を伸ばして曹操の
「おい。曹操はどっちへ逃げて行ったか知らんか。――敵の曹操は?」
「はっ」
曹操は、作り声で、
「それがしも彼を追跡しているところです。何でも、毛の黄色い駿足にまたがって、彼方へ走って行ったそうで」と、指さすや否、その方角へ向って、一散に逃げ去った。
「やっ、怪しい……?」と、後見送りながら、呂布が気づいた時は、すでに曹操の影は、町中に立ちこめている煙の中に見えなくなっていた。
「ああ、危うかった」
曹操は、夢中で逃げ走ってきてから、ほっと駒を止めて呟いた。真に虎口を脱したとは、このことだろうと思った。
――が、一体ここは何処か。西か東か。その先の見当は依然として五里霧中のここちだった。
そうしてさまよっているうちに、ようやく自分を捜している
「やあ、ここも出られぬ!」
曹操は、思わず嘆声をあげた。駒も大地を
それも道理。街道口の城門は、今、さかんに焼けていた。長い城壁は一連の炎の
「どうッ。どうッ。どうッ……」
熱風を恐れて駒は狂いに狂う。鞍つぼにも、
曹操は、絶望的な声で、
「悪来。戻るより外はあるまい」と、後ろを見て云った。
悪来は、火よりも赤い顔に、
「引っ返す道はありません。ここの門が
楼門は一面焔につつまれている。城壁の上には、沢山な
しかし、活路はここしかない。
悪来の乗っている馬の尻に、びゅんッと凄い音がした。彼の姿はとたんに馬もろとも、火焔の洞門を突破して行った――と見るや否、曹操も、
一瞬に、呼吸がつまった。
眉も、耳の穴の毛までも、焼け縮れたかと思われた時は、曹操の胸がもう一歩で、楼門の向う側へ馳け抜けるところだった。
――が、その刹那。
楼上の一角が、焼け落ちて来たのである。何たる惨! 火に包まれた巨大な
「――あっ」
曹操は、仰向けにたおれながら、手をもってその火の
「……ウウム!」
彼は手脚を突っ張ってそり返ったまま焔の下に、気を失ってしまった。
しきりと自分を呼ぶ者がある。――どれくらい時が経っていたか、とにかくかすかに意識づいた時は、彼は、何者かの馬上に引っ抱えられていた。
「悪来か。悪来か」
「そうです。もうご安心なさい。ようやく敵地も遠くなりましたから」
「わしは、助かったのか」
「満天の星が見えましょう」
「見える……」
「お
「ああ……。星空がどんどん後ろへ流れてゆく」
「後から馳け続いて来るのは、味方の
「……そうか」
うなずくと曹操はにわかに苦しみ始めた。安心すると同時に半身の大火傷の痛みも分ってきたのである。
夜は白々と明けた。
将も兵もちりぢりばらばらに味方の
しかも、生きて還ったのは、全軍の半分にも足らなかったのである。
そこへ、悪来と
「何。将軍が戦傷なされたと?」
「ご重傷か」
「どんなご容体か」
聞き伝えた幕僚の将校たちは、曹操の抱えこまれた陣幕の内へ、どやどやと群れ寄ってきた。
「しッ……」
「静かに」
と、中の者に制されて、なにかぎょっとしたものを胸に受けながら、将校たちは急に厳粛な無言を守り合っていた。
手当てに来ていた典医がそっと戻って行った。典医の顔も憂色に満ちている。それを見ただけで、幕僚たちは胸が迫ってきた。
――すると、突然
「わははは、あははは」
曹操の笑う声がした。
しかも、平常よりも快活な声だ。
驚いて一同、彼の横臥している周りを取巻いて、その容体をのぞきこんだ。
右の肱から肩、
「もう、いい。心配するな」
片目で幕僚を見まわしながら、曹操は強いて笑いを見せて、
「考えてみると、何も、敵が強いのでもなんでもない。おれは火に負けたまでだ。火にはかなわんよ。――なあ、諸君」と、いってまた、「それと、少し軽率だった。たとえ、
すこし身をねじろうとしたが、体が動かない。無理に首だけ動かして、
「夏侯淵」
「はっ」
「貴様に、予の葬儀を命ずる。葬儀指揮官の任につけ」
「不吉なお言葉を」
「いや、策だ。――今暁、曹操遂に死せりと、
「はっ……」
「馬陵山の東西に兵を伏せ、敵をひき寄せ、円陣のうちにとらえて、思う存分、
「わかりました」
「どうだ、諸君」
「ご名策です」
幕僚は、その場で皆、
――曹操死す。
の声が伝わった。まことしやかに
「しめた、おれの強敵は、これで除かれた」
と膝を叩き、念のため、
馬陵山の葬儀日を狙って、呂布は濮陽城を出て、一挙に敵を葬り尽そうとした。ところがなんぞ計らん。それは呂布を
起伏する丘陵一帯の陰から、たちまち鳴り起った
呂布は、命からがら逃げた。一万に近い犠牲と面目を馬陵山に捨てて逃げた。――以来、それにこりごりして、濮陽を堅く守り、容易にその城から出なかった。
穴を出ない虎は狩れない。
曹操は、あらゆる策をめぐらして、呂布へ挑んだが、
「もうその策には乗らない」と、彼は容易に、
そのくせ、前線と前線との、偵察兵や小部隊は日々夜々小ぜりあいをくり返していたが、戦いらしい戦いにもならず、といってこの地方が平穏にもならなかった。
いや、世の乱脈な兇相は、ひとりこの地方ばかりではない。土のある所、人間の住む所、
こういう地上にまた、戦争以上、百姓を悲しませる出来事が起った。
或る日。
一片の雲さえなく晴れていた空の遠い西の方に、黒い綿を浮かべたようなものが
「いなごだ。いなごだ」
百姓は騒ぎ始めた。
いなごの襲来と伝わると、百姓は茫然、泣き悲しんで、
「ああ。しかたがない」
絶望と
いなごの大群は、
地上を見れば、地上もいなごの洪水であった。たちまち稲の穂を
後からくるいなごは、喰う稲がない。遂には、
――が、その浅ましい光景は、虫の社会だけではない。やがて人間も噛み合い出した。
「喰う物がない!」
「生きて行かれないっ」
悲痛な流民は、喰う物を追って、東西に移り去った。
糧食とそれを作る百姓を失った軍隊は、もう軍隊としての働きもできなくなってしまった。
軍隊も「食」に
「やんぬる
曹操は、これには、策もなく、手の下しようもなかった。
戦争はおろか、兵が養えないのである。やむなく彼は、陣地を引払って、しばらくは他州にひそみ、衣食の節約を令して、この大飢饉をしのぎ、他日を待つしか方法はあるまいと観念した。
同じように、
「曹操の軍も、とうとう囲みを解いて、引揚げました」
そう報告を聞いても、
「うむ。そうか」とのみで、彼の
彼もまた、
「細く長く喰え」
と、兵糧方に厳命した。
自然――
双方の戦争はやんでしまった。
いなごが、人間の戦争を休止させてしまったのである。
とはいえ。
また、春は来る、夏は巡って来る。大地は生々と青い穀物や稲の穂を育てるであろう。いなごは年々襲っては来ないが、人間同士の戦争は、遂に、土が物を実らせる力のある限り
ここに、徐州の
「やはり、
彼はもう年七十になんなんとしていた。ことにこんどは重態である。自ら
「お前らはどう思う」
枕頭に立っている重臣の
「ことしは、いなごの災害のために、曹操は軍をひいたが、来春にでもなればまた、
「ごもっともです」
「もう一度、劉玄徳どのをお招きになって、
陶謙は、重臣の同意を得、少し力づいたものの如く、
「早速、使いを派してくれ」と、いった。
使いをうけた玄徳は、取る物も取りあえず、
陶謙は、枯木のような手をのばして、玄徳の手を握り、
「あなたが、うんと承諾してくれないうちは、わしは安心して死ぬことができない。どうか、世の為に、また、漢朝の城地を守るために、この徐州の地をうけて、太守となってもらいたいが」
「いけません。折角ですが」
玄徳は、依然として、断りつづけた。そして――
(あなたには、二人のご子息があるのに)と、理由を云いかけたが、それをいうとまた、重態の病人が、出来の悪い
「私は、その
そのうちに、陶謙は、ついに息をひきとってしまった。
徐州は
「太守が生前の
と、再三再四、懇請した。
すると、また、次の日、小沛の役所の門外に、わいわいと一
「オオ、劉備さまだ」と、一斉に大地へ坐りこんで、声をあわせて訴えた。
「わたくしども百姓は、年々戦争には禍いされ、今年はいなごの災害に見舞われて、もうこの上の望みといったら、よいご領主様がお立ちになって、ご仁政をかけていただくことしかございません。もし、あなた様でなく他のお方が、太守になるようでもあったら、私どもは、闇夜から闇夜を
中には、号泣する者もあった。
その
劉玄徳は、ここに初めて、一州の太守という位置をかち得た。
彼の場合は、その一州も、無名の暴軍や
さて、彼は、徐州の
それから陶謙の徳行や遺業を表に
また、
こうして「いなご飢饉」と戦争に、草の芽も枯れ果てた領土へのぞんで、民力の
ところが、百姓たちの謳歌して伝えるその名声を耳にして、
「なに。――劉玄徳が徐州を領したと。あの玄徳が、徐州の太守に坐ったのか」
いかにも意外らしく、また、軽蔑しきった口ぶりで、こう洩らしたのは、曹操であった。
彼はその新しい事実を知ると意外としたばかりでなく、非常に怒って云った。
「死んだ陶謙は、わが亡父の
曹操は、いずれ自分のものと、将来の勘定に入れていた領地に、思わぬ人間が、善政を布いて立ったので、違算を生じたばかりでなく、感情の上でも、はなはだ面白くなかったのであろう。
「予と徐州のいきさつを承知しながら、徐州の
曹操は、直ちに、軍備を命じた。
すると、それを諫めたのは、
(そちは我が張子房なり)と、いわれた人物であった。
荀がいうには、
「今いるこの地方は、天下の要衝で、あなたにとっては、大事な根拠地です。その
「しかし、食糧もない飢饉の土地に、しがみついているのも、良策ではあるまいが」
「さればです。――今日の策としては、東の地方、
「よかろう。汝南へ進もう」
曹操は、気のさっぱりした男である。人の善言を聴けば、すぐ用いるところなど彼の特長といえよう。――彼の兵馬はもう東へ東へと移動を開始していた。
その年の十二月、曹操の遠征軍は、まず陳の国を攻め、汝南(河南省)
――曹操
――曹操来る。
彼の名は、冬風の如く、山野に鳴った。
ここに、黄巾の残党で、
「なに曹操が寄せて来たと。曹操には州という地盤がある。偽ものだろう。叩きつぶしてしまえ」
羊山の麓にくり出して、待ちかまえていた。
曹操は、戦う前に、
「悪来、物見して来い」と、いいつけた。
「心得て候」とばかり馳けて行ったが、すぐ戻って来て、こう復命した。
「ざっと十万ばかりおりましょう。しかし
戦の結果は、悪来のことば通りになった。賊軍は、無数の死骸をすてて八方へ逃げちるやら、または一団となって、降伏して出る者など、
「いくら鳥なき里の
曹操をめぐる猛将たちは、羊山の上に立って笑った。
すると、次の日、一隊の
この
「やあやあ、俺を誰と思う。この地方に隠れもない、
と、どなった。
曹操は、おかしくなって、
「誰か、行ってやれ」と、笑いながら下知した。
「よし、拙者が」と、旗本の李典が行こうとすると、いやこのほうに譲れと、曹洪が進み出て、わざと馬を降り、刀を引っ提げて、
「真の曹将軍は、貴様ごとき
斬りつけると、何曼は怒って、大剣をふりかぶって来た。
この漢、なかなか勇猛で、曹洪も危うく見えたが、逃げると見せて、急に膝をつき後ろへ
李典は、その間に、駒をとばして、賊の大将
すると、突然――
一方の山間から旗印も何も持たない変な軍隊がわっと出て来た。その真っ先に立った一名の壮士は、やにわに路を
「うぬ何者だ」
と、槍を持ち直したが、壮士はいちはやくのしかかって、何儀を縛りあげてしまった。
何儀についていた賊兵は、怖れおののいて皆、壮士の前に降参を誓った。壮士は、自分の手勢と降人を合わせて、意気揚々、もとの山間へひきあげて行こうとした。
こんなこととは知らず、何儀を追いかけて来た悪来典韋は、それと見て、
「待て待て。賊将の何儀をどこへ持って行くか。こっちへ渡せ」
と、壮士へ呼びかけたが、壮士は肯かないので、たちまち、両雄のあいだに、
この壮士は一体何者だろう。
悪来典韋は、闘いながらふと考えた。
賊将を生擒って、どこかへ
といって、自分に刃向って来るからには、決して味方ではなおさらない。
「待て壮士」
悪来は、
「無益な闘いは止めようじゃないか。貴様は
すると壮士は、哄笑して、
「曹操とは何者だ。汝らには大将か知らぬが、おれ達には、なんの恩顧もない人間ではないか。せっかく、自分の手に生擒った何儀を、縁もゆかりもない曹操へ献じる理由はない」
「おのれ一体、どこの何者か」
「おれは
「賊か。浪人か」
「天下の農民だ」
「うぬ、土民の分際で」
「それほど俺の生擒った何儀が欲しければ俺の手にあるこの宝刀を奪ってみろ。そうしたら何儀を渡してやる」
悪来典韋はかえって、許のために
悪来は、
でも、悪来はまだかつて自分を恐れさせたほどな強い敵に出会ったことはないとしていたので、「この男、味をやるな」ぐらいに、初めは見くびってかかっていた。
ところが、刻々形勢は悪来のほうが悪くなった。悪来が疲れだしたなと思われると、俄然、許の勢いは増してきた。
「これは!」
と、悪来も本気になって、生涯初めての
こうして、両雄の闘いは、
曹操は、後から来て、この勝負を高地から眺めていたが、そこへ悪来がもどってくると、
「明日は偽って、負けた振りして逃げることにしろ」と、云いふくめた。
翌日の闘いでは、曹操にいわれた通り、悪来は三十合も戟を合わせると、にわかに、許にうしろを見せて逃げ出した。
曹操も、わざと、軍を五里ほど退いた。そしていよいよ相手に気を
許は彼のすがたを見ると、
「逃げ上手の卑怯者め。また
悪来は、あわてふためくと見せかけて、味方へは、懸れ懸れと下知しながら、自分のみ真ッ先に逃げ走った。
「おのれ、きょうは
許は、まんまと、曹操の術中へ躍り込んでしまった。およそ一里も追いかけて行くかと見えたが、そのうちに、かねて曹操が掘らせておいた大きな
それとばかり、四方から馳け現れた伏兵は、坑の周りに立ち争って、許の体を目がけて、熊手や
罠にかかった許は、たちまち、曹操の前へひきずられて来た。
まるで材木か
「ばかっ。縄目にかけた人ひとりを捕えて来るに、なんたる騒ぎだ」と、曹操は叱りつけた。
そしてまた、部将や兵に、
「貴様たちには、およそ人間を観る目がないな。士を遇する情けもない奴だ。――はやくその縄を解いてやれ」と、案外な言葉であった。
それもその筈。曹操はこの許と悪来とが、火華をちらして夕方に迫るまで闘っていた一昨日の有様を、とくと実見していたので、心のうちに(これはよい壮士を見出した)と早くも、自分の幕下へ加えようと、目算を立てていたからであった。
曹操から、俺の敵と睨まれたら助からないが、反対に彼が、この男はと見込むと、その
彼は、士を愛することも知っていたが、憎むとなると、憎悪も人一倍強かった。――許の場合は、一目見た時から、愉快なやつと
「彼に席を与えろ」
と、曹操は、引っ立てて来た部下に命じ、自ら寄って、許の縄目を解いてやった。
思わぬ恩情に、許は意外な感に打たれながら、曹操の面を見まもった。曹操は、改めて彼の素姓をたずねた。
「
許は、そう告げてから、その間にはこんなこともあったと苦心を話した。
賊軍の襲来をうけても自分の抱えている部下は善良な土民なので彼らのように武器もない。そこで常に砦のうちに
また、或る時は――
砦の内に米がなくなってしまい何とかして米を手に入れたいがと思うと、幸い、二頭の牛があったので、賊へ交易を申しこみました。すると賊のほうでは、すぐ承知して米を送って来ましたから、即座に牛を渡しましたが、賊の手下が牛をひいて帰ろうとしても牛はなかなか進まず、中途まで行くと暴れて私たちの砦へ帰って来てしまいます。
そこで私は、二頭の
「あはははは、すこし自慢ばなしでしたが、まアそんなわけで、今日まで、一村の者の生命を、どうやら無事に守ってきました。――けれど貴軍の力で、賊を
出稼ぎの遠征軍は、風のままにうごく。
近頃、風のたよりに聞くと、
「今なら討てる」
曹操は、直感して、軍の方向を一転するや、剣をもって、州を指した。
「われわれの郷土へ帰れ!」
新参の
「お目見得の初陣に、あの二将を手捕りにして、君前へ献じましょう」といって、駆け出した。
見ているまに、許は、薛蘭、李封の両人へ闘いを挑んで行った。面倒と思ったか、許は、李封を一気に斬ってしまった。それにひるんで、薛蘭が逃げ出してゆくと、曹操の陣後から、
州の城は、そうして、曹操の手に還った。が、曹操は、
「この勢いで
呂布の謀臣陳宮は、
「出ては不利です」と、籠城をすすめたが、
「ばかをいえ」と、呂布はきかない。
例の気性である。それに、曹操の手心もわかっている。一気に撃滅して、州もすぐ取返さねば百年の計を誤るものだと、全城の兵をくり出して、物々しく対陣した。
呂布の勇猛は、相変らずすこしも老いていない。むしろ年と共にその騎乗奮戦の技は
「おうっ、自分にふさわしい好敵手を見つけたぞ」
「いで、あの敵を!」と、目がけてかかった。
だが、呂布は、彼如きを近づけもしないのである。許は、歯がみをして彼の前へ前へと、しつこくつけ廻った。そして
そこへ、悪来
「助太刀」と、喚きかかったが、この両雄が、挟撃しても、呂布の戟にはなお余裕があった。
折からまた、
わが城門の下まで引揚げて来た。だが、呂布はあッと駒を締めて立ちすくんだ。こは
城門の吊橋がはね上げてあるではないか。何者が命令したのか。彼は、怒りながら、大声で、
「門を開けろ。――橋を下ろせ! ばかっ」
すると、城壁の上に、小兵な男が、ひょッこり現れた。かつては呂布のために、曹操の陣へ、
「いけませんよ。呂大将」
田氏は歯をむいて城壁の上から嘲笑を返した。
「きのうの味方もきょうの敵ですからね。わたくしは初めから利のあるほうへ付くと明言していたでしょう。もともと、武士でもなんでもない身ですから、きょうからは曹将軍へ味方することにきめました。どうもあちらの旗色のほうが良さそうですからな。……へへへへ」
呂布は
「やいっ、開けろ、城門を開けおらんか。うぬ、憎ッくい
と、口を極めて罵ってみたが、どうすることもできないのみか、城壁の上の田氏は、
「もうこの城は、お前さんの物ではない。曹操様へ献上したのだ。さもしい顔をしていないで、足もとの明るいうちに、どこへでも落ちておいでなさい。――いや、なんともお気の毒なことで」
といよいよ、
利を
かくと聞いて、陳宮は、
「田氏を用いて、彼に心をゆるしていたのは、自分の過ちでもあった」
と、自責にかられたか、急遽、城の東門へ迫って、内部の田氏に交渉し、呂布の家族たちの身を貰いうけて、後から呂布を追い慕って行った。
城地を失うと、とたんに、従う兵もきわだって減ってしまう。
(この大将に
だが、ひとたび敗軍を喫して漂泊の流軍に転落すると、大将や幕僚は、結局そうなってくれたほうが気が安かった。何十万というような大軍は養いかねるからである。いくら掠奪して歩いても、一村に千、二千という軍がなだれこめば、たちまち村の穀倉は、いなごの通った後みたいになってしまう。
呂布は、ひとまず
「この上は、
陳宮は、さあどうでしょう? と首をかしげて、すぐ賛成しなかった。呂布の人気は、各地において、あまり
で、一応、先に人を派して、それとなく袁紹の心を探らせてみているうちに、袁紹は伝え聞いて謀士の
審配は、率直に答えた。
「およしなさい、呂布は天下の勇ですが、半面、
「大きにそうだった」
袁紹は、直ちに、部下の
呂布はうろたえた。
逆境の流軍はあてなく歩いた。
「そうだ。近頃、新しく徐州の封をうけて、
「そうですな。徐州の新しい太守は、世間の噂がよいようです。先さえ吾々を容れるものなら、徐州を頼るに越したことはありません」
そこで、呂布は、玄徳のところへ使いを立てた。
劉備は、自分の領地へ、呂布一族が来て、仁を乞うと聞くと、
「あわれ。彼も当世の英雄であるのに」
と、関羽、張飛をつれて、自ら迎えに出ようとした。
「とんでもないことです」
家臣の
糜竺はいうのである。
「呂布の人がらは、ご承知のはずです。
側にいた関羽も張飛も、
「その意見は正しい」と、いわんばかりの顔してうなずいた。
劉玄徳も、うなずきはしたけれど、彼はこういって、
「なるほど、呂布の人物は、決して好ましいものではない。――けれど先頃、もし彼が曹操のうしろを衝いて、
「……は。そう仰っしゃられれば、それまでですが」
糜竺も口をつぐんだ。
張飛は、関羽をかえりみて、
「どうも困ったものだよ。われわれの兄貴は人が好すぎるね。
玄徳は車に乗って、城外三十里の彼方まで、わざわざ呂布を迎えに行った。
「なんでそれがし如きを、かように
と、いうと、劉備は、
「いや私は、将軍の武勇を尊敬するものです。志むなしく、流亡のお身の上と伺って、ご同情にたえません」
呂布は、彼の謙譲を前に、たちまち気をよくして、胸を張った。
「いや、察して下さい。天下の何人も、どうすることもできなかった
と、親しみを示すと、劉備は、それには答えないで、
「将軍。これをお譲りしましょう。陶太守の逝去の後、この地を管領する人がないため、やむなく私が代理していましたが、閣下がお継ぎ下さればこれに越したことはありません」
「えっ、それがしに、この牌印を」
呂布は、意外な顔と同時に、無意識に大きな手を出して、次にはすぐ、(しからば遠慮なく)と、受取ってしまいそうな容子だったが、ふと、玄徳のうしろに立っている人間を見ると、自分の顔いろを、くわッと二人して睨みつけているので、
「ははははは」と、さり気なく笑って、その手を横に振った。
「何かと思えば、徐州の地をお譲り下さるなどと、あまりに望外過ぎて、ご返辞にうろたえます。――それがしは元来、
と、云いまぎらわすと、側にいた彼の謀臣陳宮も、口をあわせて辞退した。
そこから劉玄徳は先に立って、呂布の一行を国賓として城内に迎え、夜は盛宴をひらいて、あくまで篤くもてなした。
呂布は、翌る日、
「その答礼に」と、披露して、自分の客舎に、玄徳を招待したいと、使いをよこした。
関羽、張飛のふたりは、こもごも、玄徳に云った。
「お出でになるつもりですか」
「行こうと思う、折角の好意を無にしては悪いから」
「なにが好意なものか。呂布の肚の底には、この徐州を奪おうとする
「いや、わしはどこまでも、誠実をもって人に接してゆきたい」
「その誠実の通じる相手ならいいでしょうが」
「通じる通じないは人さまざまで是非もない。わたしはただわしの
玄徳は、車の用意を命じた。
関羽、張飛も、ぜひなく供について、呂布の客舎へのぞんだ。――もちろん、呂布は非常な歓びで、下へもおかない歓待ぶりである。
「何ぶん、旅先の身とて、充分な支度もできませんが」と、断って、直ちに、後堂の宴席へ移ったが、日ごろ質素な玄徳の眼には、
宴がすすむと、呂布は、自分の夫人だという女性を呼んで、
「おちかづきをねがえ」
と、玄徳に
夫人は、
呂布はまた、機嫌に乗じてこういった。
「不幸、山東を
玄徳は、微笑をふくんで、ただうなずいていたが、今度は、彼の手を握って、
「はからずも、その徐州に身を寄せて、賢弟の世話になろうとは。――これも、なにかの縁というものだろうな」
と酔うに従って、呂布はだんだんなれなれしく云った。
始終、気に入らない顔つきをして、黙って飲んでいた張飛は、突然、
「何、なんだと、もういちどいってみろ」と、剣を握って突っ立った。
なにを張飛が怒りだしたのか、ちょっと見当もつかなかったが、彼の権まくに驚いて、
「こらっ呂布。汝は今、われわれの長兄たり主君たるお方に対して、賢弟などとなれなれしく
酔った張飛が、これくらいなことを云いだすのは、歌を唄うようなものだが、彼の手は、同時に剣を抜き払ったので、馴れない者は仰天して色を失った。
「これっ。何をするっ」
劉備は、一喝に、張飛を叱りつけた。関羽も、あわてて、
「止さないか、場所がらもわきまえずに」と張飛を抱きとめて、壁ぎわへ押しもどした。
が、張飛は、やめない。
「ばかをいえっ。場所がらだから承知できないのだ。どこの馬の骨か分りもしない奴に、われわれの主君たり義兄たるお方を、手軽に賢弟などと、弟呼ばわりされてたまるか」
「わかったよ、分った」
「そればかりでない。さっきから黙って聞いていれば、呂布のやつめ、自分の野望で
「止せといったら。それだから貴様は、真情ですることも、常に、酒の上だと人にいわれるのだ」
「酒の上などではない」
「では、黙れ」
「ウウム。いまいましいな」
張飛は、憤然たるまま、ようやく席にもどったが、よほど腹が
劉備は、当惑顔に、
「どうも、折角のお招きに、醜態をお目にかけて、おゆるしください。舎弟の張飛は、竹を割ったような気性の
笑いにまぎらしながら詫びた。
呂布は、蒼白になっていたが、劉備の笑顔に救われて、
「いやいや、なんとも思っておりはしません。酒のする
それを聞くと、張飛はまた、
(何ッ?)
と云いたげな眼光を呂布へ向けたが、劉備の顔を見ると、舌うちして、黙ってしまった。
宴は白けたまま、浮いてこない。呂夫人も、恐がって、いつの間にか姿を消してしまった。
「夜も
客を見送るべく呂布も門の外までついて出た。すると、一足先に門外へ出ていた張飛が馬上に槍を横たえて突然呂布の前へ立ち現れ、
「さあ、星の下で俺と三百合まで勝負しろっ。三百合まで
劉備は驚いて彼の乱暴を叱りつけ、関羽もまた劉備と共に躍り狂う駒の口輪をつかんで、
「いい加減にしろっ」と、必死に喰い止めながら、遮二無二帰り道へひいて行った。
その翌る日、呂布は少し
そして、いうには、
「あなたのご厚情は、充分にうけ取れるが、どうもご舎弟たちは、それがしを妙に見ておられるらしい。所詮、ご縁がないのであろう――ついては、他国へ行こうと思うので、今日は、お暇乞いに来たわけです」
「それでは私が心苦しい。……どうもこのままお別れではいさぎよくありません。家弟の無礼は、私から謝します。まあ、しばらくお
一銭を盗めば賊といわれるが、一国を
当時、長安の中央政府もいいかげんなものに違いなかったが、世の中の
曹操は、自分の
(乱賊を鎮定して、地方の平穏につくした功によって、
と、
で、曹操は、またも地方に勢威をもりかえして、その名、いよいよ中外に聞えていたが、そうした中央の政廟には、相かわらず、その日暮しな政策しか行われていなかった。
長安の大都は、先年革命の兵火に、その大半を焼き払われ、当年の暴宰相
けれど誰も、それを大声でいう者はない。司馬
ここに
「このままでは、国家の将来は実に思いやられます。
暗に、二奸の
献帝は落涙され、
「おまえたちがいうまでもない。
「いや、ないことはありません。帝の御心さえ決するなれば」
「どうして討つか」
「かねて、臣の胸に、ひとつの策が蓄えてあります。
「そう行くかの」
「自信があります。その策というのは、郭の妻は、有名な
帝の内意をたしかめると、
「どうだな。この頃は、
と、両手を妻の肩にのせながら、いつになく優しい良人になって云った。
楊彪の妻は怪しんで、良人を
「あなた。どうしたんですか、いったい今日は」
「なにが?」
「だって、常には、私に対して、こんなに機嫌をとるあなたではありませんもの」
「あははは」
「かえって、気味が悪い」
「そうかい」
「なにかわたしに、お頼みごとでもあるんでしょ、きっと」
「さすがは、おれの妻だ。実はその通り、おまえの力を借りたいことがあるのだが」
「どんなことですか」
「郭の夫人は、おまえに負けない嫉妬やきだというはなしだが」
「あら、いつ私が、嫉妬なんぞやきましたか」
「だからさ、おまえのことじゃないよ。郭夫人が――といっているじゃないか」
「あんな
「おまえは良妻だ。わしは常に感謝している」
「嘘ばかり仰っしゃい」
「冗談は止めて。――時に、郭の夫人を訪問して、ひとつ、おまえの口先であの人の嫉妬をうんと焚きつけてくれないか」
「それがなんの為になるんですか。他家の奥さんを
「国家のためになるのだ」
「また、ご冗談を」
「ほんとにだ。――ひいては漢室のお為となり、小さくは、おまえの良人楊彪の為にもなることなのだから」
「分りません。どうしてそんなつまらないことが、朝廷や良人の為になりますか」
「……耳をお貸し」
楊彪は、声をひそめて、君前の密議と、意中の秘策を妻に打明けた。
楊彪の妻は、眼をまろくして、初めのうちは、ためらっていたが良人の眼を仰ぐと、くわっと、恐ろしい決意を示しているので、
「ええ。やってみます」と、答えた。
楊彪は、
「やってみるなんて、
翌る日。
彼の妻は、盛装をこらし、美々しい
「まあ、いつもお珍しい贈り物をいただいて」と、郭夫人は、まず珍貴な
「よいお召服ですこと」と、客の着物や、化粧ぶりを褒めた。
「いいえ、わたくしの主人なんかちっとも衣裳などには構ってくれませんの。それよりも、令夫人のお
「オヤ、あなたは、わたくしの顔を見ながらなんで涙ぐむのですか」
「いいえ、べつに……」
「でも、おかしいではございませんか、なにか
「……つい、涙などこぼして、
「どうしたんです、一体」
「では、おはなし申しますが、ほんとに、誰にも秘密にして下さらないと」
「ええ、誰にも洩らしはしません」
「実はあの……
「え。わたしが、可哀そうになってですって。――可哀そうとは、一体、どういうわけで。……え? え?」
郭夫人は、もう躍起になって、
楊彪の妻は、わざと同情にたえない顔をして見せながら、
「ほんとに夫人様は、なにもご存じないんですか」
と、空おそろしいことでも語るように声をひそめた。
「なにも知りません。……なにかあの、宅の主人に
「え、そうなんですの……奥さま、どうか、あなたのお胸にだけたたんでおいて下さいませ。あの、お綺麗なんで有名な
「
「だから夫人様は、ほんとにお人が
「えっ。主人と、李夫人が?」
郭の妻は、さっと、顔いろを変えて、
「ほ、ほんとですか」と、わなないた。
楊彪の妻は、「奥さま。男って、みんなそうなんですから、決して、ご主人をお怨みなさらないがようございますよ。ただ私は、李夫人が、憎らしゅうございますわ。あなたという者があるのを知っていながら、何ていうお方だろうと思って――」と、すり寄って、抱かないばかりに慰めると、郭夫人は、
「道理でこの頃、
楊彪の妻が、帰ってゆくと、彼女は病人のように、室へ籠ってしまった。その夜も、折悪しく、彼女の良人は夜更けてから、微酔をおびて帰って来た。
「どうしたのかね。おい、
「知りません! うっちゃッておいて下さい」
「また、
「…………」
夫人は、背を向けて、しくしく泣いてばかりいた。
四、五日すると、
「およしなさい。あんな所へ行くのは」と、血相を変えて止めた。
「いいじゃないか。親しい友の酒宴に行くのが、なぜ悪いのか」
「李司馬だって、あなたを心で怨んでいるにちがいありません」
「なぜ」
「なぜでも」
「分らんやつじゃな」
「今に分りましょう。古人も
「はははは。なにかおまえは、勘ちがいしてるんじゃろ」
「なんでもようございますから、今夜は行かないで下さい。ね、あなた、お願いですから」
果ては、胸にすがって、泣かれたりしたので、
――と、次の日
郭は何気なく、
「
「大事なお体なのに、他家から来た喰べ物を、毒味もせずに召上がるなんて、飛んでもない」
と、その箸をもって、料理の一品をはさんで、
「……やっ?」
郭は驚いた。見ているまに、犬は
「おお! 怖ろしい」
郭夫人は、良人にしがみつきながら、
「ごらんなさい。
「ウむむ……」と、郭もうめいたきり、目前の事実に、ただ茫然としていた。
こんなこともあってから、郭の心には、ようやく
「はてな、あの
それから一ヵ月ほど後、朝廷から退出して帰ろうとする折を、李に
「きょうは、少し心祝いのある日だから、充分に飲んでくれ給え」
例によって、李司馬は、豪奢な食卓に、美姫をはべらせて、彼をもてなした。
郭はつい
だが、帰る途中で、彼はすこし酔がさめかけた。――というのは
「まさか、今夜の馳走には、毒は入っていなかったろうな?」
と、いつぞや毒にあたって死んだ犬の
「……大丈夫かしら?」
そう神経が手伝いだすと、なんとはなく胸がむかついて来た。急に
「あ。これはいかん」
彼は、額の汗を指で撫でた。そして車の者に、
「急げ、急げ」と、命じた。
邸へ戻るなり、彼は、あわてて妻を呼び、
「なにか、毒を
と、
夫人は、
「オオ。いい
「ああ、苦しかった」
「もうお生命は大丈夫です」
「……ひどい目に遭った」
「あなたもあなたです。いくら
「もう分った。われながら、おれはあまり
蒼白になった額を、自分の
李の方にも、いちはやく、そのことを知らせた者があるので、
「さては、此方を除いて、おのれ一人、権を握らんとする所存だな。いざ来い、その儀ならば」
と、すでに彼のほうにも、充分な備えがあったので、両軍、
一日ごとに、両軍の兵は殖え、長安の城下にふたたび大乱状態が起った。――その混乱の中に、李司馬の甥の
「そうだ。……天子をこっちへ」
と、気づいて、いちはやく
「李司馬の甥が、天子を
部下の急報を聞いて、
「ああ、抜かった。天子を奪われては、一大事だ。それっ、やるな!」
にわかに、後宰門外へ、兵を走らせたが、もう間にあわなかった。
奔馬と狂兵にひかれてゆく龍車は、黄塵をあげて、
「あれだあれだ」
郭の兵は、騒ぎながら、ワラワラと追矢を射かけた。しかし、敵の
「出し抜かれたか。くそいまいましいことではある」
郭は、自分の不覚の鬱憤ばらしに兵を率いて、
そればかりか、すでに帝もおわさず、
「この上は、あくまで戦うぞ」と、その炎を見て、いたずらに
一方――
帝と皇后の
以来、献帝並びに皇后は、塢城の幽室に監禁されたまま、十数日を過しておられた。帝のご意志はもとよりのこと、一歩の自由もゆるされなかった。
帝は、
「侍従どもが、餓鬼のごとく痩せてゆくのは、見ている身が
献帝は、そう仰っしゃって、李司馬の許へ使いを立て、一
「今は、
と、帝へ向って、臣下にあるまじき
「ああ。これが彼の良心か」
侍従たちは、その腐った物の
帝は、いたく憤られて、
「
と、
侍臣のうちに、
彼は、断腸の思いがした。
自分の妻に、反間の計をふくめて、今日の乱を作った者は、誰でもない楊彪である。
計略図にあたって、
「陛下。おゆるし下さい。そして李の残忍を、もうしばらく、お忍び下さい。そのうちに、きっと……」
云いかけた時、幽室の外を、どやどやと兵の馳ける
折も折である。
帝は、
「何事か?」と、左右をかえりみられた。
「見て参りましょう」
侍臣の一人があわてて出て行った。そして、すぐ帰って来ると、
「たいへんです。
帝は、
「前門には虎、後門には狼。両賊は
「
そのうちに、城門外では、ひと合戦終ったか、
「逆賊
すると、城内の陰から李、さっさっと駒をすすめて、
「笑うべきたわ
「だまれっ。守護し奉るに非ず、天子を押しこめ奉る大逆、かくれないことだ。速やかに、帝の御身を渡さぬにおいては、立ちどころに、その素っ首を百尺の宙へ刎ねとばすぞ」
「なにをっ、小ざかしい」
「帝を渡すか、生命を捨てるか」
「問答無用っ」
李は、槍を振って、りゅうりゅうと突っかけてきた。
郭は、大剣をふりかざし、おのれと、唇をかみ、
「待ち給え。両将、しばらく待ち給え!」
ところへ。
城中から
楊彪は、身を挺してふたりに向って、
「ひとまず、ここは戦をやめて、双方、一応陣を退きなさい。帝の御命でござる。御命に
その一言に、双方、兵を収めてついに
楊彪は、翌日、朝廷の大臣以下、諸官の群臣六十余名を
誰もまだ気づかないが、もともとこの戦乱の火元は楊彪なのである。ちと薬が効きすぎたと彼もあわてだしたのだろうか。それともわざと仲裁役を買ってことさら、仮面の上に仮面をかむって来たのだろうか。彼もまた複雑な人間の一人ではある。