呉侯の妹、玄徳の夫人は、やがて呉の都へ帰った。
孫権はすぐ妹に
「周善はどうしたか」
「途中、江の上で、張飛や趙雲に
「なぜ、そなたは、
「その阿斗も、
「会うがよい、母公の
「ではまだ……ご容体は」
「至極、お達者だ」
「えっ。お達者ですって」
「女は女同士で語れ」
いぶかる妹を、
「予の妹は、玄徳の留守に、その家臣どもから追われ、今日、呉へ立ち帰った。かくなる上は、呉と荊州とは、事実上、なんらの縁故もないことになった。即時、大軍を起して、荊州を収め、多年の懸案を一挙に解決してしまおうと思う。それについて、策あらば申し立てよ」
すると、議事の半ばに、江北の
「曹操四十万の大軍を催し、赤壁の仇を報ぜんと、刻々、南下して参る由」と、あった。
俄然、軍議は緊張を呈した。
ところへまた、内務吏から、
「重臣の
「なに、張紘が死んだ」
折も折である。呉の建業以来の功臣。孫権は涙しながらその遺書を見た。
張紘の遺書には
「忠義なものである。この忠良な臣の遺言をなんで
孫権は、一方には、刻々迫る戦機を見ながら、一面直ちに、その居府を、建業(
かくてその地には、白頭城が築かれ、旧府の市民もみな移ってきた。
また、
もちろんこれは、やがて来るべきものに対する国防の一端である。来るべきもの、それは曹操の南下だ。
曹操はそれよりもずっと早くから宿望の南征と呉への報復にもっぱら軍備の拡充を計っていた。
すでに四十万の大編制は、
「いつでも」と、いう態勢を整えたので、いよいよ許都を発しようとすると、長史
「およそ古来から、臣として、丞相のような大功をあげられた御方は、これを歴史に見ても、求めることはできません。周公も
どんな英傑でも、
むかし青年時代、まだ宮門の一警手にすぎなかった頃の曹操は、胸いっぱいの志は燃えていても、地位は低く、身は貧しく、たまたま、同輩の者が、上官に
実に、かつての曹操は、そういう颯爽たる気概をもった青年だった。
ところが、近来の彼はどうだろう。赤壁の役の前、観月の船上でも、うたた自己の老齢をかぞえていたが、老来まったく青春時代の逆境に
彼もいつか、むかしは
いま重臣
(この際、魏公の位に登って九錫を加えられては如何ですか)
と、すすめられると、曹操はなにをはばかる考えもなくすぐに、
(そうだ、なぜ自分は、今まで九錫を持たなかったろう)
と、すぐその気になって、朝廷にそのゆるしを求めた。もちろんその意のままになる。彼は以後、魏公と称し、出るも入るも、九錫の儀仗に護られる身となった。
九錫の礼というのは、
一 車馬 大輅 、戎輅 。大輅ハ金車、戎輅ハ兵車ノ事。黄馬八匹。
二 衣服 王者ノ服。袞冕赤
。朱 ノ履 タル事。
三楽県 軒県 の楽 、堂下ノ楽。昇降必ズ楽ヲ奏ス。
四朱戸 門戸ハ紅門 ヲ以テ彩 ル。
五納陛 朝陛 ヲ登ル自由。
六虎賁 常時門ヲ衛ル軍三百人、虎賁軍 トイウ。
七
鉞
鉞各
一、
ハスナワチ金斧 、銀斧ナリ。
八 弓矢
弓 一、
矢 百、※弓 [#「玄+旅のつくり」、U+7388、151-2]十、※矢 [#「玄+旅のつくり」、U+7388、151-2]一千、朱弓、黒弓 ナリ。
九秬鬯 祭祀 ヲ行ウタメノ酒。
これをみた二 衣服 王者ノ服。

三
四
五
六
七




八 弓矢


九


「丞相。すこしあなたも、お年をお召しになり過ぎはしませんか」
「なぜだ」
「愚に返ったところがお見うけされます」
「予が九錫の礼を持ったことをいうのか」

「そうです。功いよいよ高きほど、ご自身は、
涙をふくんで
「おいおい、
以来、荀

「このたびはお供できません」
と、参加を辞した。
ついに、使者が来た。
「
と、使者は、食物の入っている一器を彼の前に贈った。
見ると、器の上には、「曹操
「お気持は分った。……ああ」

すでに南征の大軍は、水陸から続々と呉へ下っていた。
途中、曹操へ、都から知らせがあった。
「荀

「……自害したか」
曹操は瞼をとじた。ほろ苦い眉をひそめて。
しばらく黙っていたが、やがて、
「荀

それきり何もいわなかった。多少、悔ゆる色がないでもない。
日をかさねて、行軍は
「まず、敵の大勢を見よう」
曹操は、山へ登った。そして遥かに、呉の陣を見わたすと、長江の支流は百
敵はその辺りを
「ああさすがに呉は南方の強国だ。この士気では油断はできぬ。汝らも努めてふたたび赤壁の不覚をくりかえすなよ」
左右の大将を戒めながら彼が山を降りかけた時である。
「すわ」
と、さわぎたつ間もない。山の麓近くの江から
「
曹操は、山を降りると、敢然、陣頭に出て乱れ立つ味方をととのえた。
すると彼方の堤の上に、
「赤壁の亡将、まだ生命をぬすんでいたか」
その声に、曹操は振り向いた。
「何者だっ」
わざと曹操は大喝した。自分よりはるかに若い孫権と、剣槍をもって闘う気はない。威だけを示して逃げようとした。
「逃ぐるなかれ。魏賊」
と、その気を察して、孫権の左右から、
危地に陥ったかと曹操の身が困難に見えたとき、彼の味方もまた、鼓を鳴らして、孫権のうしろを突きくずし、乱軍の

この晩、いちど退いたかとみえた呉軍が
遠征の疲労にあった魏の兵は、不覚にも不意をくって、呉の勢に馳け破られ、おびただしい死者をすてて総軍五十里ほど陣を退くのやむなきに立ち至った。
「われながら、まずい
曹操は
なにか、天来の妙計を、それから求めようとしている悶えがわかる。

「丞相。おつかれではありませぬか」と、声ひくく慰めた。
「……おお、程

「そもそも。このたびのご出陣は
その晩、曹操は、ふしぎな夢を見た。
あくる日。
五、六十騎をつれて、彼は陣中を見まわり、何気なく
ちょうど真っ赤な夕陽が、江の上流の山に沈みかけていたので、曹操はゆうべの夢を憶い出して、
「昨夜ふしぎな夢を見たが、吉夢だろうか、凶夢だろうか」
と、左右の将に語っていた。
すると、夕陽の光線と、江の波光とが相映じて、まばゆいばかりぎらぎら燃えている彼方の赤い
「や。敵?」
いうまもない。
黄金の

「国を
「孫権か。予は、曹操である。王室の順に従わぬ者は討てとの、勅を奉じて下った天子の軍である」
「あら、笑止」
孫権は、
「天子の尊きは、誰も知る。故に、天子の御名を
これを聞くと曹操の気は怒るまいとしても怒らざるを得なかった。彼はまたも、敵の仕掛けた戦に誘われて戦った。この日の戦闘も、惨烈をきわめたが、結果は、魏の大敗に帰してしまった。
「どうも、こんどの遠征は、いつもの丞相らしい冴えがない」
諸将はいぶかった。
許都を発するとき

いずれにせよ、連戦連敗をかさねて、その年の暮れてしまったことは現実だった。
翌建安十八年、正月となっても、はかばかしい戦況の展開はなく、二月に入ると、毎日、ひどい大雨がつづいて、戦争どころでなくなってしまった。
人類がこの地上で遭遇した大雨の記録を破ったろうと思われるほどな雨量だった。日夜大雨はやまず、陣小屋も馬つなぎも、ことごとく流され、曹操の中軍すら、
次には当然、食糧難が起ってきた。兵はうらみを含み郷愁を思う。
諸将の意見もまちまちだった。硬論を主張するものは、陽春の候もやがて近し、死馬を喰って頑張っても、その時を待って一戦を決せずんば、遥かに南下した
こういう状態の中へ、呉侯孫権から一書が来た。文に
予モ君モ共ニ漢朝ノ臣タリ、マタ民ヲ泰 ンズルヲ以テ徳トシ任トスル武門ノ棟梁 デハナイカ。仁者相争ウヲ嘲 ッテカ天ハ洪々 ノ春水ヲ漲 ラシ、君ノ帰洛ヲ促シテイル。賢慮セヨ君、再ビ赤壁ノ愚ヲ繰返スコトナキヲ。
建安十八年春二月呉侯孫権書。
ふと、書簡の裏を見ると、また、建安十八年春二月呉侯孫権書。
曹操は苦笑して、次の日、
「帰ろう」
あっさりと、引揚げを命令した。
呉軍も、それを見て、みな
孫権はすっかり自信を得て、
「曹操すら恐れて帰った。いま玄徳は蜀境に動いている。この時をおかず荊州へ進もうではないか」と、群臣に
宿老の張昭は、いつも若い孫権に歯止めの役割をしていたが、このときも次のようにいった。
「
攻めるも
両軍は悪戦苦闘のままたがいに譲らず、はや幾月かを過していた。
「曹操が呉へ攻め下ったという報らせが来た。濡須の堤をはさんで、魏呉、死闘の大戦を展開中であるという。……

玄徳がたずねた。答える者は、

「遠い遠い江南の大戦。ここの戦局には、何もかかわりはないでしょう」
「いや、大いにある」
「なぜです?」
「もし曹操が勝てば、ひるがえって、荊州も
「孔明がおります。荊州の留守について、そんなご心配を征地で抱かれるなどと聞いたら、孔明は嘆きましょうよ。――自分はまだそんなにも君のお力となるに足らない者かと」
「そうかな……」
「むしろこの際、その聞えを利用して、蜀の
「ちと、求めるのが、莫大すぎはしないか」
「同宗のよしみと、こんどのことを恩にきせて、ともあれそれくらいな要求をしてみると、劉璋の心底も見当がつきましょうし、巧く望みどおりの力を貸してくれれば、そのあとで

「それもよかろう」
使者は、成都へ向って行った。
途中、

「玄徳の部下らしく、小旗を持った荊州の使者が、今これへかかって来ます。通しますか、拒みますか」と、蜀の二将、
山中の退屈まぎれに、二人は碁を囲んでいたが、玄徳と聞くと、すぐ
「待て待て。
成都におもむく使者は、玄徳の書簡を、関門役人に内示した。見せなければ通さん、というのでぜひなく証拠として示したのである。高沛と楊懐は陰で読んでしまった。
「お通りなさい」
ゆるされて、書簡も返されたが、大将楊懐が兵をつれて、
「成都までご案内申す」と、ついて来た。
いまや蜀の内部には、反玄徳気勢がたかまっていた。楊懐もそのひとりで、早速、劉璋の前へ出て、こう進言した。
「玄徳から莫大な兵と
劉璋は相かわらず煮えきらない顔いろである。恩義もあるし、同宗の
「わが君。私情にとらわれて国を亡し給うな。彼に
居合せた
「
と、口をすっぱくして
こう重臣のすべてが反対では劉璋もそれに従わざるを得ない。
しかしただ断るのもわるいというので、戦線には用いられないような老朽の兵ばかり四千人と穀物一万石、それに廃物にひとしい武具馬具などを車輛に積んで、使者と共に、玄徳へ送りとどけた。
玄徳はその冷淡に怒った。
彼が怒ったのはめずらしい。
劉璋の返簡を、使いの前で裂き捨てて見せた。
「わが荊州の軍は、はるばるこの蜀境に来て、蜀のために戦い、多くの人命と資材を費やしているのに、わずかな要求を惜しんで、
輸送に当ってきた奉行はほうほうの態で成都へ帰った。
そのあとで、

「由来、皇叔というお方は仁愛に富まれ、怒ることを知らない人といわれていましたのに、今日のご立腹は近ごろの
「たまにはよいものと思った。――が先生、このあとの策は予にないのだ。何ぞ賢慮はないかな」
「策は三つあります。どれでもわが君の意に召した計をお採りになるがよいでしょう。一策は、今からすぐ昼夜兼行で道をいそぎ、
「む、む」
「第二は、いま

「む、む。もう一計は」
「ひとまず、兵を退いて、白帝城にいたり、荊州の守備を強固となし、心しずかに、次の段階を
「……下策はとりたくない。また第一の案も急に過ぎて、一つ
「では、中計を」
「
日を経て、成都の劉璋の手許へ、玄徳の一書がとどいた。それには、呉境の戦乱がいよいよ拡大して来たことを告げ、荊州の危急はいま
「それみい、玄徳はかえるというて来たではないか」
劉璋はかなしんだ。
しかし、反玄徳勢力は、ひそかに胸で
ひとり悶えたのは、
「そうだ」
邸に帰ると、張松は、筆をとって、玄徳へ激励の文を書いた。折角、ここまで大事をすすめながらいま荊州へ引揚げては、百事水泡に帰すではないか。何ぞ一鞭して、あなたはこの成都へやって来ないか。実に遺憾だ。成都の同志は首を長くしてあなたの兵馬を待っているものを。
そう書いているところへ「お客さまです」と、家人が告げにきた。
張松はあわてて手紙を
「なんだ。あなただったのか」
「顔いろが悪いじゃないか」
「つかれですよ、公務がいそがしいので」
「つかれなら薬を飲め。さあ、
張松も思わず酒をすごした。兄はなかなか帰らない。
翌る日、市街の辻に、首斬りが行われた。みな張松の一家であった。罪状書の高札には、売国奴たる大罪が箇条書してある。直訴人はその兄だったと街のうわさは


「お聞き及びのとおり、にわかに荊州へ立ち帰ることとなった。明日、関門をまかり通る」
と、使いをやって開門を促しておいた。
「
と、ここでは二人が手に唾して夜の明けるのを待っていた。
翌る日、玄徳は大行軍の中にあって、


すると、一陣の山風に、
「や、や。これは何の凶兆か」
と、駒を止めた。

「これは天が前もって凶事を告知してくれたものです。故に、凶ではありません。むしろ吉兆というべきでしょう。――思うに楊懐、高沛がきょうこそ君を刺殺せんと待ちうけているものと考えられる。わが君、ご油断あそばすな」
「そのことならば」
と、玄徳は、身に

すでに、関門の
楽を奏しながら、
真先に来た大将がいった。
「今日、荊州へご帰還あるという

「これはこれは過分な礼物。皇叔にもいかばかりお歓びあるやしれません。高沛、楊懐の二兄にもよしなにお伝えおき下さい」
「いずれ後刻、陣中お見舞に伺う由ですが、とりあえず、酒肴をお目にかけよとのことに、あれへ品々を
一行はそこに幕舎を張って、酒の瓶を開き、山野の風物に一息いれながら、杯を傾けて休息していた。そこへ高沛と楊懐が、兵三百を供につれて、
「お名残り惜しいことです。せめて今日は、親しくお杯を賜わりたいもので」
と、素知らぬ顔をもって陣中見舞に訪れた。
「さあ、どうか」
迎え入れて、幕舎の酒宴は賑わった。――玄徳が常に似合わずよく飲むので、

そして引返すと二人は幕の陰からおどり出て、
「刺客っ。神妙にしろ」
と、不意に、
「何をするかっ。客に対して」
楊懐が、
「これを何に使うつもりで来たか」
と、突きつけると、
「剣は武人の護りだっ」
と、屈せずにいう。
関平、劉封は共に腰なる長剣を抜いて、
「武人の護りとは、こういう正々堂々の剣をいうのだ。この護りは、以て、卑劣なる汝ら害獣を
と、幕外へひき出して、有無をいわせず、二つの首を落してしまった。
「わが君。何を無言にふさぎこんでおられますか」
「今、ここでともに酒をのんでいた高沛、楊懐がもう首になったかと思うと、あまり快い気がしない」
「そんなお気の弱いことで、よく今日まで、百戦を経ておいでになりましたな」
「戦場はまたちがう」
「ここも戦場です。まだ

「高沛、楊懐が供につれて来た三百の関門兵はどうしたか」
「そっくり捕虜にしてあります。いま一網にして酒をのませ、
「なぜ
「

日の暮るるまで、幕舎のまわりでは、歌曲の声が湧き、時々歓声があがり、酒宴はやまずに続いているような態であった。
「星が出た」
一


先頭には、捕虜の関門兵三百を立たせていた。この者どもはもう完全に寝返って、

「楊将軍、高将軍のお戻りであるぞ。開門開門」
昼間の出来事は何も知らない関門の蜀兵は、声に応じて、
「おうっ」
と、
「すすめっ」

玄徳は直ちに、諸軍をわけて要害の部署につかせ、
「蜀すでにわが掌にあり」
と、
山谷のどよめく中に、
玄徳も昼から酒に親しんでいたので、夜半から暁にかけて、幕僚の将を会して杯をかさねると、泥のように酔ってしまった。
大きな酒瓶にもたれて、彼は前後も知らず眠り始めた。ふと、眼をさましてみると、

「まだ、夜は明けぬか」

「とうに小鳥がさえずっていますよ。どうです、もう一
「いや、夜が明けたら、酒どころではない」
「でも、人生の快味は、こういう時ではありませんか」
「そうだ。ゆうべは実に愉快だったな。酒を飲みつつ一城を
「ヘエ、そんなに愉快でしたか」
と、

「――人の国を奪って、楽しみとするは、仁者の兵にあらず、あなたらしくもありませんな」
玄徳は酔後の顔を逆さまになであげられたような気がしたのだろう。むっとして色をなしてすぐ云った。
「昔武王は、

大睡の後、眼をさまして、衣を着かえていると、近侍の者から、
「今朝ほどは、大へんなご剣幕で、さすがの

と、酔態を語られて、
「えっ、そんなに彼を叱ったか」
と玄徳は急に、衣を正して、

「先生。今暁の無礼は、酔中の不覚、ゆるしてください」
といった。

「君臣ともに、酔中の
と、共々、手をたたいて、朗らかに笑った。
玄徳、

とりわけ成都の混乱と、太守
「
と、痛嘆する一部の側臣を尻目にかけ、

「それ見たことか」
と、自分たちの先見を誇ってみたものの、いまは内輪もめしていられる場合でもない。
「お案じあるな、われわれ四将が、成都の精鋭五万をひっさげ、直ちに馳せおもむいて、

劉璋もいまは、迷夢からさめたように、
「よいように」
と、それらの人々に防ぎを一任するしかなかった。
大軍の立つ日である。四将のひとり
「前々から聞いていたことだが、
張任は笑って、
「ばかを云いたまえ、一国の興亡を負って、その軍を指揮するものが、山野に住む一道士の言を訊かねば、戦う自信が持てないようなことでは、士気を昂揚することもできはしない」
「いやいや、何も戦に臆して、吉凶を
「それほどに仰せあるなら、何も強いて止めはせん。貴公ひとりで訪ね給え」
「よろしい、行ってくる」
部下数十騎をつれて、
一窟の前に、紫虚上人は、霧を吸って、
劉※[#「王+貴」、U+749D、175-6]がひざまずいて、
「上人。何が見えますか」
と、たずねた。
紫虚上人は、ぶあいそに、
「蜀中が見えるよ」
と、いった。
かさねて、
「西蜀四十一州だけですか。天下は見えませんか?」
すると、紫虚上人は、
「よけいなことを訊かいでもいいじゃろう。御身の知りたがって来たことだけに答えてやる。童子」
と、うしろにいた子供に命じて、紙と筆をとりよせ、一文を書いて、劉※[#「王+貴」、U+749D、175-15]へさずけた。
読んでみると、
一
「
「われわれ四将の気数運命はどうでしょう」
「定業の外ではあり得ない」
「というと?」
「それだけだよ」
「では、玄徳の軍は、蜀において成功しますか、それとも失敗しますか」
「一得一失。それに書いてあるのを見ないか。くどい。もう問うな」
眼をふさぐと、石みたいに、もう何を訊いても、返辞をしなかった。
劉※[#「王+貴」、U+749D、176-18]は、山を降りて、
「慎まねばいかん。どうも蜀にとって良い予言ではないようだ」
と、三将へ伝えると、張任はひどくおかしがって、
「いやはや、劉※[#「王+貴」、U+749D、177-3]は迷信家だ。山野の狂人の
と、即日、軍をすすめた。




「蜀の四将が、全軍五万を、二手にわけて、一は


玄徳はすぐ諸将に
「敵の先陣は、蜀の名将、

すると、幕将のうちでもいちばん老いぼれて見える老将
「此方にお命じください」と、いった。
云い終るか終らぬうちに、それとはまるで声からしてちがう若者が、
「あいや、老黄忠のお年では、ちと敵が強過ぎよう。その先陣は、それがしにお命じ賜わりたい」
と、横からその役を買って出た。
誰かと見れば、
「これは
と、老黄忠も黙っていない。
「ご辺が
詰め寄ると、魏延、
「あらためて申すまでもない。老いては血気弱く、あなたばかりではなく、誰にせよ、強敵を破るはまず難しいというのが常識であろう」
「お黙りなさい。老骨は必ず若い者に敵せぬという定則はない。むしろご辺のように、ただ若きにのみたのむ者こそ危ないといわねばなるまい」
「お年寄とゆるして程よく答えておれば口幅ったい広言。しからばいま君前において、いずれの志力腕力が秀でておるか勝負に及ばん。黄忠どの、起てっ」
「おう、
と、黄忠も階をおり、魏延も堂をおりて、すんでに、
「ふたりとも控えぬか。ここに私闘を演じてわが軍に何の利があるぞ。敵を前に両名とも大人げない争い。断じて汝らには、わが先鋒の大役は命ぜられぬ」
叱られて、黄忠も魏延も、共に地へひざまずき、面目なげに、うつ向いてしまった。
――と、

もとより玄徳も本心から怒ったのではない。むしろ幕下の大将がかくまで旺盛な戦意を抱いていることは彼としてよろこばしいほどであったから、
「

で、

「いま蜀の



黄忠、魏延は勇躍して進軍した。

「あのふたりは必ず途中で味方喧嘩をしますよ。君にも即刻、兵をつれて彼らの後陣におつづき下さい」
「

「

「さらば」と、玄徳もまた用意して、関羽の養子関平と、劉封の二将をつれ、その日ただちに

黄忠勢、魏延の勢、ほとんど一軍のように、やがて敵前に、先鋒の備えを立てた。
魏延は、物見の兵に訊ねた。
「どうだ。黄忠の軍勢も、もう布陣を終ったか」
「整然と終っています。夕刻を過ぎてから、ふたたび兵糧を
「そいつは、油断がならぬ。ぐずぐずしていると、黄忠にだし抜かれよう」
魏延の眼中には早、敵はない。ただ味方の黄忠に先んじられて、味方の者に面目を欠くことのみいたくおそれた。
いや、黄忠を押しのけて、独り功名を誇ろうとする気ばかり
「わが隊は、二
魏延の命令は、士卒たちの予想をこえて、ひどく急だったから、一同は大いにあわてた。
元来、

(黄忠は敵の

と約束してきたのであるが、ここに来てから魏延の思うらく、
(それだけでは、さまでの功ともいえない。自分一手で、冷苞の陣も破り、続いて、

そこで彼は、にわかに、陣払いの時刻を早め、道もかえて、黄忠の進むべき左の山へ進路をとった。
夜どおし山を踏み越えてゆくと未明に敵陣が見えた。
「見ろ。敵は霧の底にまだ眠っている。一気に蹴やぶれ」
どっと、山を離れて、敵営へ迫った。
「来たか、魏延」
思いがけなくも、敵は八文字に営門をひらいて、堂々、彼の軍を迎え一斉に弓鉄砲を撃ちだした。
冷苞はその中から馬をすすめて魏延に決戦を挑む。望むところと魏延は大いに戦ったが、そのうちに後方から崩れだした。
「はて?」と、気をくばってみると、不覚不覚、山路のほうから敵の伏兵が現れたらしい。いつのまにか魏延の隊は腹背ともに
「南無三」
魏延は冷苞を捨てて野の方、五、六里も逃げ退いた。
ところが、野末の森や山ぎわからむらむらと起ってきた一軍が、
「魏延魏延。どこへ行く気か」
「快く降参してしまえ」
と、口々に呼ばわりながら鼓を鳴らし
「やや。

魏延は、狼狽して、また逃げ道をかえた。
「卑怯ッ」
誰か、追ってくる。
振り向いてみると、これなん蜀の猛将

「待て、魏延ッ」

あわや、槍は飛んで、魏延の背を
そのとき一本の



するとたちまち、堂々の金鼓、颯々の旗、一彪の軍馬は、野を横ぎって、冷苞勢の横を打ってきた。
「黄忠ここにあり、
真先にあるは老将黄忠であった。弓を持っている。矢を放って、先に彼の危急を救ったのも、彼だった。
この奇襲に、冷苞の勝色は、たちまち変じて、敗色を呈し、算をみだして、
先に廻って、ここを占領していたのは、玄徳の命をうけた関平の一軍だった。
「や、や。いつのまに」
冷苞は帰るに陣もなく、狼狽の極、馬をめぐらして
「かかったぞ。網の中に」
たちまち、熊手や投げ縄が、八方の
「大物を捕ったぞ」
ここに彼を待って奇功を獲たのは、魏延であった。魏延の得意なことはいうまでもない。
実は、彼としては、軍法を犯してまで黄忠を抜駈けしたものの、序戦には大敗を喫し、多くの兵を損じたので、(何か一手柄たてねば味方の者にあわせる顔もないが)と、独り焦躁していたところに敵の一大将を捕虜にしたのであるから、その満足感はなおさら大きかった。
蜀兵の捕虜は、このほかにもおびただしく玄徳の後陣へ送られてきた。とまれ第一戦はまず味方の大勝に帰したわけであるから、玄徳は将士に恩賞を
ときに、老黄忠は、玄徳の前に出てこう訴えた。
「抜駆けは軍法の大禁。魏延はまさに公然それを犯したものです。ご処分を下し給わねば軍紀の
「魏延を呼べ」
玄徳の使いに、魏延は直ちに、
それを見ると玄徳は、この若い勇将を軍法に処す気になれなかった。その愛を内に秘めて彼はこう魏延を叱った。
「聞けばそちは、すでに危ういところを、黄忠の矢に救われたというではないか。予のまえで黄忠に恩を謝せ」
魏延は、黄忠に向って、
「貴公の一

玄徳はそれを見ながら、もう一言詫びよといった。魏延は抜駈けのことだと察したので、
「それがし、若輩のため、気のみはやって、時刻や進路をあやまり、自ら危地へ
黄忠はもう何もいえなくなった。玄徳は老黄忠の年にめげなき働きを賞して、
「目ざす成都に入城したあかつきには必ず重く賞すであろう」と、約した。
玄徳はまた捕虜の大将冷苞を説いて、
「君に

縄を解かれた上、ねんごろに陣外へ放されたので、冷苞は大よろこびで

「あいつ、きっと、帰ってきませんぞ」
と、いまいましげに呟いたが、玄徳は、
「帰らなければ、彼が信義を失うので、予の仁愛の主義に傷はつかない」
と、いった。
果たせるかな、冷苞は帰らない。

「いちどは敵に生け捕られたが、番の兵を斬り殺して逃げてきた」
と偽り、序戦は敗れたかたちだが、玄徳の如き、何ものでもない。などと敗将の気焔はかえって旺盛なものだった。
「何よりは、もっと兵力を」
と、この三将から成都へ
ほどなく、劉璋の嫡子

だが
「いま、

呉懿はここへ着くとこういう命令を出した。そこで五千の

奪取した二ヵ所の陣地に、黄忠と魏延の二軍を入れて、


折からまた、遠くへ行った
「呉の孫権が、漢中の
玄徳は驚倒せんばかり顔いろを変えた。すぐ

「もし葭萌関を張魯に
「
すぐ孟達は呼ばれた。けれど彼はこう献策して、もう一人の大将を求めた。
「もと荊州にいて、劉表の中郎将だった
「望みにまかせる」
ゆるされて、霍峻にも同様の命が下り、即日ふたりは
その出立を励まして、

「変なお客が見えましたが」と、主人の意を伺いにきた。
「変な客? ……いったいどんな風采をした男かね」
「
「どれ、どれ」
無造作な
見ると、玄関を上がって、そこの床の上に、仰向けに寝ている男がある。浪人生活は自分も長年体験している

「おい。先生」
「やあ、君が主人か」
「主人かもないもんだ。いったい足下は、どこの何者だ」
「汝は客を敬うことを知らんか。まず礼を尽せ。その後に天下の大事を語ろう」
「おどろいたな」
「何を

「はははは。まず起き給え」
「まず酒食の支度をさきにしろ」
「もうできている」
「では通ろう。どこだ」
「こちらへ来給え」
室へ導いて、上座を与え、酒食をすすめると、遠慮などはしない。実によく喰う。また痛飲する。
だが、天下の大事はなかなか云いださない。そのうちに、飲むだけ飲むと、ごろりと横になって寝てしまった。
「ひどい奴もあるものだ」
その不敵さに、舌を巻いていると、
「やあ、ご足労をわずらわして申しわけない。実は、そこに大酔して眠っている人間だが、いったいこれは何者ですかな」
法正は、その寝顔をのぞきこむと、手を打って、
「
その声に眼をさまして、永年はむくむくと起き出した。
そして顔を見合うと、
「なんだ、法正か」と、おたがいにまた、手をたたいて笑った。

「親友か、おふたりは」と、たずねた。
「そうです」と、法正は誇るように肯定して、かつ紹介した。
「この人は、
「わははは」
蜀に入る前は、蜀は弱しと聞いていた。国に人物なしという評も信じていた。ところが、案外である。士卒は強く、人材は多い。
真の国力は、その国に事が起ってみないと分らない。

「せっかく先生の
と、いうと、法正は、
「どうだね永年。

永年はきっぱりと、
「行くとも、云いにきたのだ。玄徳に会えるならなお張り合いがある」と、いう。
三名は連れ立って、早速、

「この眼で小生がみるところでは、

「黄忠、魏延の二陣をさして仰せあるか」
「もちろん」
「危ないとは、何故ですか」
「あの辺一帯の平地は、
「え。湖の底に」
「されば、

玄徳は驚いた。

「よくぞご忠言下された」
敬って、彼を
「堤防に心せよ」
と警報した。
こういう注意があったため、魏延の陣地でも、黄忠のほうでも、連絡を密にして、昼夜巡見を怠らずにいた。
そのため、

とかくするうち一夜、雨風が烈しく吹きすさんだ。
「こよいこそは」と、五千の鋤鍬部隊は、墨のような夜をひそかに出て、

ところが、思いもよらず、うしろのほうから、突如として伏兵が起った。暗さは暗し、敵の行動も人数もわからずで、鋤鍬部隊の五千は、同士討ちを起すやら、方角をちがえて後戻りしてくるやら、大混乱の中に、この夜の大将であった冷苞も見失ってしまった。
冷苞は、逃げ走る途中、魏延に待たれて、またまた彼の手に生捕られてしまったのだった。
蜀の呉蘭、雷同の二将は、それと知って、彼を奪り返すべく、

で、冷苞は、翌る日ふたたび捕虜として、

玄徳は、彼の不信を責めて、
「予は、足下に武人として礼を与え、また足下に仁義をもって
云い渡すと、すぐ将士に渡して城外で、首を刎ねさせた。
魏延、黄忠へは、賞状を送り、
「実に、あなたの一言は、わが軍に幸いした」
と、あつく礼遇した。
この前後、荊州から馬良が使いに来た。馬良は、荊州の留守をまもる孔明の命をうけ、その書簡を肌深く秘めて
「あら、なつかしの文字」
玄徳は、孔明の書簡をひらくと、まずその墨の香、文字の姿に、眸を吸われてから、読み入った。

側に人のいるのも忘れて、玄徳は繰り返し繰り返し、孔明の書簡に心をとられている。
その真情の濃さ。遠く離れているせいもあろうが、何たる君臣の仲の美しさか。
「…………」

「先生。孔明は留守にあっても絶えず予の身の上を案じているらしい。荊州は至極無事とは書いてあるが、近頃、天文を按じてみると、西方になお
「ほ。そうですかな」

「――で、つらつら思うに、大事は急を思ってはならない。ひとまず使いの馬良は先に返し、予も荊州へ一度立ち還って、孔明と会った上よく協議してみたいと思う。それが万全と思うがどうだろう」
「さあ……?」

彼は彼自身と胸のなかで闘っていた。抑えようもなく心の底にむらむら起ってくるふしぎな
「これは意外な御意。命は天にあり、
ここまでいうと、



「

励まされて、玄徳は、次の日

「

以前、張松から彼に贈った西蜀四十一州図をひろげて、玄徳はそれと睨みあっていた。
法正がまた一本の絵図を携えてきて、
「



仔細に見くらべると、まさにその通りであった。
玄徳は、信念を得て、
「軍を二つに分ち、統先生には北方の道をすすむがいい。予は一手をひきいて南から山を越えてゆき、目ざす


「ゆうべ、夢に

もとより


「軍師、なぜこんな癖の悪い馬に乗られるのか。馬をかえては

「年久しく乗り馴れている馬で、かつてこんな悪癖を出したことはないのですが」
と、首を傾けた。
玄徳はふと眉を曇らせた。出陣に臨んでこんなことのあるのは決して吉兆ではない。自身の乗用していた素直な白馬の手綱をひいて、
「軍師。これへ乗ってゆくがいい。これなら過ちはない」と、彼に贈った。
君恩のありがたさに、

後に思いあわせれば、進撃にやさしい大路へ向ったのが、かえって

蜀軍随一の名将

「御座んなれ。この時」と、ばかり、張任は各将軍と手筈をさだめ、自身は何か思うところあるか、屈強な射手三千人を選りすぐって、山道の嶮岨に伏せ、
「見えました。確かに」
やがて、
「ご推察にたがわず、これへ向ってくる敵軍の大将らしき者は、まさしく鮮やかな月毛の白馬に乗っています。今しも、その大将の指揮の下に、敵全軍は、炎熱をおかして、えいやえいやとこれへ
聞くと、張任は、
「さてこそ!」
膝を打って歓んだ。
「その白き馬に乗りたる者こそまぎれもなき劉玄徳。これへかからば、白馬を目じるしに狙いをあつめ、
射手は、心得たりと、
――時は、夏の末。
草も木も猛暑に

そのうちに、ふと前方を仰ぐと、両側の絶壁は迫り合って、樹木の枝は
陽かげに入って、

「おそらく、こんな嶮しい山道は、蜀のほかにはあるまい。ここはそも、何という地名の所か」
と、途中で捕虜にした敵の兵にたずねた。
降参の兵は、言下に、
「
「なに、落鳳坡?」

「わが道号は
彼は馬を向け直した。そしてにわかに全軍へ向って、
「もどれ。もどれっ。道をかえて、ほかから越えろ」
と、鞭をさしあげて振った。
その鞭こそ、彼自身、死を呼ぶ合図となってしまった。
突然、峰谷も崩るるばかり石砲や
「あっ」
身をかくす

蜀の張任は、白馬の主を、玄徳とばかり思いこんでいたので、絶壁の上から遠く

「敵の総帥は射止めたぞ。すでに首将を失った荊州の残兵ども一兵ものこさず蹴ちらして谷を埋めよ」と、歓喜して号令した。
山もゆるがす

このとき、魏延は

「後続部隊に戦闘が起った――」
という伝令を受取って、
「さては、先鋒と主隊との連絡を断とうとする敵の作戦だろう」
ぐらいに考えて、進路を後へ引っ返してきた。
ところが、途中、
「だめだ。伏兵がいる」
「人馬の死骸と岩石のために、洞門の口も
前隊の者が押し返してきてのことばに、魏延もいまは進退きわまってしまった。
「よし、この上は、単独で

ふたたび考え直すと、魏延は馬をめぐらして、さらに予定の前進をつづけた。
ようやく、


当然、それらの門々は、敵を見るや、
「みなごろしにせよ」
と、魏延をかこんだ。
指揮するものは呉蘭、雷同、音に聞えた蜀の大将である。中軍をあとに残して、頭部だけで敵地に入った魏延はもとより討死を覚悟した。ただ、
「死出のみやげ」と、当るにまかせて血闘奮力の限りを尽した。
ときに突然、背面の山から、またまた、金鼓を鳴らし、
「うれしや、劉皇叔か」と思えば、何ぞはからん、張任の軍隊だった。
「全滅、ぜひなし」
魏延も、いまは観念した。
ところへ、南路の山道から、
「黄忠これに来る。魏延安んぜよ」
と呼ばわりながら、玄徳の先鋒が駆けつけて来た。玄徳の中軍も来た。ために、双方の戦力は伯仲して、いよいよ激戦の相をあらわしたが、玄徳は、

「

関平、劉封などの留守隊は、

「軍師

玄徳の悲嘆はいうまでもない。
「虫の知らせであったか」
と、後になっては、かずかずの

魏延、劉封などの若武者は、
「

と、雪辱に
「決して出るな」と、ただ堅きを守った。
そして
城内の街々は、紅燈青燈に
荊州の城中でも、毎年の例なので、孔明は、主君玄徳の留守ながら、祭を
すると、夜も
「ああ、破軍星」
孔明は、杯を落して、哀しいかなと、ふいに叫んだ。
満座の人々は、酔をさまして、
「軍師、なにをそのように、悲しまれるのですか」と、皆杯を下にした。
「諸公。今日からは皆、かならず遠くへ出給うな。凶報かならず数日のうちに到らん」
と、予言した。
果たして、それから七日の後、玄徳の使いとして、関羽の養子関平が征地から帰ってきた。
「軍師


さらに、玄徳の書簡を出した。
孔明はそれを読んで泣いた。そしてすぐ主君の救援におもむくべく準備を令したが、案ぜられるのは、自分が出たあとの荊州の守りである。
「関羽、貴公と関平とで、あとの留守を固め、東は呉に備え、北は曹操を防ぎ、君公のご出征中を、寸地もゆずらず守っていてくれまいか。この大任は、蜀に入って戦う以上の大役である。貴公に
孔明から説かれて、関羽は、
「桃園の義を仰せられては一言の
「では」
と、孔明は、玄徳から預けられていた荊州総大将の
関羽は、拝受して、
「大丈夫、信をうけて、しばしなりと、一国の大事を
孔明はよろこばない顔をした。関羽に、死を軽んずるような口ぶりがあったからである。一国を司どる者が、そのように一死を軽んずるようでは留守が案ぜられる。で彼は、関羽に、試問を呈してみた。
「貴公のことだ。万に一も過りはあるまいが、もし呉の孫権と、北の曹操とが、同時にこの荊州を攻めてきたときはどう防ぐか」
「もちろん兵を二分して、二手にわかれ、一を撃破し、また一を討ちます」
「危ない、危ない。それがしが、八字を以て、貴公に教えておく」
「八字の兵法とは」
「北ハ曹操ヲ
「なるほど……。
「たのむ」
すなわち印綬の授受はすんだ。
関羽を輔佐する者としては文官に、
そして、孔明のひきいて行った荊州の精兵といえば、わずか一万に足らなかった。
張飛をその大将とし、
「まず張飛は、


二道に軍を分って立つ日、野宴を張って、
「どっちが先に

と、杯を挙げて、おたがいの前途を祝しあった。
別れにのぞんで、孔明は、張飛に忠言した。
「蜀には、英武の質が多い。貴下のごとき豪傑は幾人もいる。加うるに地は

張飛は拝謝して、勇躍、さきへ進んだ。
彼の率いた一万騎は、
やがて
蜀の名将
張飛は、城外十里へ寄せて、使いを立て、
「
と云い送った。
「笑止なり。放浪の
厳顔は、使いの耳と鼻を切って、城外へつまみ出した。張飛が
「みろ。きょうの中にも、巴城を
まっ先に馬をとばし、
けれど、城内は、城門を閉じ、防塁を堅固にして、一人も出て戦わなかった。のみならず、矢倉から首を出して、さんざんに張飛を悪罵したので、張飛は、
「その舌の根を忘れるな」と日没まで猛攻をつづけた。
しかし、頑として、城は墜ちない。無二無三、城壁へとりついて、攀じ登ろうとした兵も、ひとり残らず、狙い撃ちの矢石にかかって、空壕の埋め草となるだけだった。
張飛は、そこに野営して、翌日も早天から攻めにかかった。すると矢倉の上に、老雄厳顔が初めて姿をあらわして、
「先頃、使いの口上で、満城を血にせんといったのは、さては、寄手の
張飛の顔は
「よしっ。汝を生捕って、汝の肉を
云った途端である。
厳顔の引きしぼった強弓の弦音が朝の大気をゆすぶって、ぴゅっと、一矢を送ってきた。張飛が、
「あっ」
と、馬のたてがみへ、身を伏せたので、矢は彼の
幸いにも、鉢金は射抜けなかったが、じいんと烈しい金属的な衝撃が
さすがの張飛も、ふらふらと
「きょうはいかん」と、
「なるほど、蜀には相当な者がいる」
張飛が敵に感心したことはめずらしい。しかし、敵を尊敬することによって、彼も、ただ力ずくな攻城がいかに労して効の少ないものかを教えられた。
城の一方にかなり高い丘陵がある。ここに登って彼は城内をうかがった。城兵の部署隊伍は整然としていて甚だ立派だ。張飛は、声の大きな部下を選んで、ここからさまざまな悪口を城中へ放送させた。
けれど、城の者は、一人も出てこないし、相手にもならない。
誘いの兵を少しばかり近づかせて、偽って逃げる
「彼の戦法は、まるで児童の
と、
百計も尽きたときに、苦悩の果てが一計を生む。人生、いつの場合も同じである。
張飛は、一策を案出した。
「集まれ」
七、八百の兵をならべて命じた。
「貴様たちはこれから鎌を持って山路を尋ね、
鎌をたずさえた草刈り部隊は、おのおの、城の裏山へ分け入った。
次の日も、次の日も、草刈り隊はさかんに草を本隊へ運んだ。城中の厳顔は、これを知って、
「はて、張飛のやつ、何のつもりで、にわかに山の草を刈りだしたのか?」
いかに城外から挑んでも、城を閉じて、相手にしなかったので、張飛もこの城へ手を下しようがなく、先頃から
「鎌を持て。そして城の
厳顔は、十名の物見を選んで、こういいつけた。
密偵の者は、鎌を携えて夕方搦手門に集まった。厳顔が出てきて、こう密命をくだした。
「夜のうちに、裏山へ入りこみ、夜明けとなって、張飛の兵がやってきたら、巧みに、彼の草刈り隊にまぎれこみ、終日、草を刈って馬に積んだら、そのまま張飛の兵になりすまして、敵の本陣へついて行け。そして、彼らが何のために働いているか探り知ったら、早速、脱け出してその真相を城へ告げい。早く正しい報告を持って来た者へ順に恩賞を与えるであろう」
草刈り兵になりすました厳顔の密偵たちは、心得て、おのおの夜のうちに山へかくれていた。
翌日の夕方。
例のとおり張飛の兵は、馬に草を積んでぞろぞろ本陣へ帰って行ったが、そのうちの組頭が、張飛の顔を見るといった。
「大将、決して労を惜しむわけではありませんが、

すると、張飛は初めて知ったように、眼をみはって、
「何、何。そんな間道があったのか。馬鹿野郎っ。そのような道のあることを存じながら、なぜ今日まで黙っていたのだ」
張飛の大喝は、獅子の
「猶予はならん。すぐ進発の準備をしろ。ここの巴城などは打ち捨て、一路

にわかの軍令に、宵闇は一時大混雑を起した。
二更、兵糧をつかう。
三更、兵馬の隊伍成る。
四更、月光を見ながら、
厳顔の廻し者はかくと知るや、宵の間に、ここを脱出して、城中へ前後して走り帰った。
一番に戻ってきた者も、二番に帰ってきた者の言葉も、次々の者のいう報告も、すべて一致していたので、
「さてこそ」と、厳顔は手を打っていった。
「あくまで、城方が出て戦わぬに気を悩まし、遂にここを避けて、間道より

厳顔もまた城中の勢をことごとく手分けして、勝手を知る間道の要所要所に、兵を伏せて待っていた。
おそらくは、張飛の先陣、中軍が山を越える頃、
やがて、木々のしげる間を、黒々と敵の先鋒中軍は通って行った。まぎれもない張飛の姿も見えた。それをやりすごして、輜重部隊の影を見た頃、
「今ぞ」
と、厳顔は、合図の鼓を高らかに打たせた。
四面の伏兵は、
すると、おどろくべし。すでに先刻、中軍にあって先へ通って行ったはずの張飛が、その輜重隊から躍りでて、
「
と、大声にいった。
厳顔は仰天して、馬からころげ落ちそうになった。
振り向けば、
「おうっ、出会うたは、幸いである。張飛うごくな」
部下のてまえぜひなく彼は、敢然、馬をとばして、張飛の大矛へ、甲体を投げこんで行った。
「年よりの冷や水」
あざ笑いながら、張飛は、丈八の矛も用いず、片手をのばして、厳顔の
「それっ、受取れ」
と、自分の部隊の中へほうり投げた。
さすが、武芸のたしなみ深い老将なので、投げられても、
さきに中軍を率いて通った張飛らしいのは、部下の似ている者を偽装させた影武者だった。その先鋒も、またたちまち、取って返してきて城兵を蔽いつつんだ。
「厳顔はすでにわが軍の
張飛の声を聞くと、城兵は争って
法三条を出して、
民ヲ
旧城文物ヲ破壊スナ
旧臣土民ヲ愛撫セヨ
と掲げたので、巴城の土民は、
(張飛という大将は、聞くと見るとは、大きなちがいだ)
と、みな彼になついた。
張飛は、厳顔をひかせて、庁上から彼を見た。
厳顔はひざまずかない。
張飛は、眼をいからして、
「汝、礼を知らぬか」と、叱咤した。
あざ笑って、厳顔は、
「われ、敵にする礼を知らず」と、冷やかに
張飛は、
「老匹夫、たわ言をやめろ。今のうちに、降参するといわぬと、もうその首が前に落ちるぞ」
「そうか。……首よ。わが多年の首よ。おさらばであるぞ。……張飛、猶予すな、いざ、斬れっ」
みずから
張飛はふいに彼のうしろへ寄ってその縄を解いた。そして手を取って庁上へいざない、みずから膝を折って再拝した。
「厳顔。あなたは真の武将だ。人の節義を辱めるはわが節義に恥じる。さっきからの無礼はゆるしたまえ」
「君。節義を知るか」
「聞かずや厳顔。皇叔と関羽とこの張飛との桃園の誓いを」
「ああ、聞いておる。君ですらかくの如し。関羽や玄徳はどんな立派な人だろう」
「どうか、その人々と、ともに交わって、蜀の民を安んじてやって下さい」
「君も味なことをいう男だ」
厳顔は張飛の恩に感じて、ついに降伏をちかい、成都に入る計を教えた。
「ここから

事実、彼を先鋒に立てて進むほどに、関は門を開き、城は道を
孔明が荊州を立つときに出した七月十日
「おう、水陸二手にわかれ、即刻、蜀へ急ぐべしとある。――待ち遠しや、孔明、張飛のここにいたるは

「皇叔。この頃、寄手のていをうかがってみますと、蜀兵も、この

これは、ある日、黄忠が玄徳に呈した言であった。
思慮ふかい玄徳も、
「一理ある」と、意をうごかされた。

もちろん、夜陰奇襲したのである。案のじょう野陣の寄手はさんざんに混乱して逃げくずれた。面白いほどな大快勝だ。途中、莫大な兵糧や兵器を

この城の南は二条の山道。北は

けれど、陥ちない。びくともしない。まる四日間というもの、声も
蜀の張任は、
「もうよかろう」と、呉蘭、雷同の二将軍へいった。二将軍もよかろうという。
すなわち、ここまでは、本心の戦をなしていたのではない。要するに誘引の計を以てひき出し、さらに、玄徳軍の疲労
南山の間道から、蜀兵はぞくぞく山地に入り、遠く野へ降りて迂回していた。また、北門は江へ舟を出して、夜中に対岸へあがり、これも、玄徳の退路を断つべく、
「城内の守りは百姓だけでよい。一部の将士のほかは、みな城を出て、玄徳の軍をこの際徹底的に
張任は、こう勇断を下して、やがて一発の
時刻は
あたかも黄河の決潰に、人馬が濁流にながされるのを見るようだった。まったくひと支えもせず、八方へ逃げなだれた。
「それ撃て」
「すすめ」
と、その先には、山と江から迂回していた蜀兵が、手に
「あな、あわれ。こんなことが、いったいなぜ昨日にも
玄徳は、悲痛な顔を、馬のたてがみに沈めながら、魂も身に添わず、無我夢中で逃げていた。
見まわせば、一騎とて自分のそばにはいなかった。
彼は、鞭打って、疲れた馬を、からくも山路へ追いあげた。
だが、うしろから蜀兵の声がいつまでも追ってくる。
谷や峰にも、蜀兵の声がする。
「天もわれを見離したか」
玄徳は
しかし、たちまち、山上から駆け下ってくる一軍のあるを知って、きっと涙をはらい、静かに最期の心支度をととのえた。
「名ある敵の大将とみえるぞ。生捕れっ」
はや、殺到した軍馬の中からそういう声が、玄徳の耳にも聞えた。
すると、聞きおぼえのある声で、
「待て待て。手荒にするな」と、将士を制しながら、玄徳のそばへ馬乗り寄せてきた者がある。見れば、何事ぞ、それは張飛ではないか。
「おうっ、そちは」
「やあ、
張飛は馬を飛び降りた。そして玄徳の手をとって、この奇遇に涙した。
蜀兵は山のふもとまで迫っている。事態は急なり、仔細のお物語はあとにせんと、張飛はたちまち全軍を配備し、蜀兵を反撃してさんざんに追い討ちした。
蜀将
「
と、全軍を収容して、見事に鳴りをしずめてしまった。後に、人々は云った。
(あの日の敗戦には、当然、劉皇叔もすでにお命はないはずであったのに、巴郡を越えて、山また山を伝い、

ともかく玄徳は、無事

「老将軍。これは当座の寸賞です。あなたのお力がなければ、とうてい、この義弟もかく早く、途中三十余ヵ城の要害を踏破して来ることはできなかったでしょう」と、ななめならず歓んだ。
事実、厳顔が説いて、途中三十余ヵ城を



「
「しかず、この上は、のるかそるかの一戦をこころみ、一方、成都に急を告げて、さらに大軍の増派を仰ごう」と、いきりぬいた。
名将張任は、沈痛にいった。
「それもよいが、まず、こうしてみては」
筆をとって作戦図を書きながら、何事かささやいた。
翌日、張任は、一軍の先に馬を飛ばして城門から繰り出した。張飛が見かけて、
「張任とは汝よな」
丈八の
「あなや。あなや」
叫びながら張任は逃げ
城北は、山すそから谷へ、また

「あの
と、蜀兵の重囲は張飛の部下をみなごろしにしてしまった。ひとり辛くも、張飛は血の中を奔って

「おういっ、張飛。おれだ、おれだ。引っ返して、共に雑兵を蹴ちらしてしまえ」
その大将の声に、味方の誰かと怪しみながら戻ってみると、それは荊州を共に立って、途中、孔明とひとつになって別れた常山の子龍
長江から

敵の雑兵を蹴ちらして後、趙雲が、そう語ると、
「では、軍師には、もう

「急ごう」
と、急に連れ立って、

趙雲は、入城の手土産に、途中で生捕った蜀の呉懿をひっさげていた。
玄徳がやさしく、
「予に従わないか」
というと、呉懿は、彼のただならぬ人品を仰いで、心から降参した。
孔明も、そこに来ていた。この降将に上賓の礼をあたえて、
「

呉懿はいう。
「劉※[#「王+貴」、U+749D、224-16]はともかく、張任は智謀機略、衆をこえています。まず蜀中の名将でしょう。容易に、

「ではまず、その張任を生捕ってから、

孔明が、座談的に、まるで卓上の
(この人、
と、あやしむような眼でその面を見まもった。
あくる日、呉懿を案内に、孔明は附近の地勢を視察にあるいた。
帰ってくると、魏延、黄忠をよんで、
「

望楼から兵機をながめていた張任は、寄手の後方に連絡がないのを見て、
「孔明兵法に
と思った。
「よしっ。出ろ」
八門をひらいて、城外へ出る。同時に、南北の山すそに
「時は、今ぞ」
張任は、ついに陣前へあらわれた。荊州兵を根絶する日、このときをおいて他日なしと、みずから指揮し、みずから戦い、金雁橋をこえること二里まで奮迅してきた。
「しまった」
そのとき振り向くと、うしろに敵の一団が見える。しかも金雁橋はめちゃめちゃに破壊されている。
「油断すな。敵の趙子龍がうしろにいるぞ」
あわてて
「残念、南へ退け」
しかし、そこもすでに荊州の兵が占めていた。
ぜひなく、

浅瀬をこえて、ようやく対岸の広野へわたる。――ところが、そこも怪しげなる一陣の兵がまんまんと旗を立てて一輛の四輪車を護っていた。
「や。あの車上に坐し、
張任が、部下へきくと、あれこそ新たに玄徳の陣に加わったと聞く軍師の孔明でしょうと、誰かうしろで答えた。
「あははは。あれが孔明か」
張任は肩をゆすって笑った。
――なぜならば、孔明の四輪車を囲んでいる兵は、みな弱そうな老兵であり、そのほかの兵もみなぶよぶよに肥えて、見るからに
「いやはや、目前に見る孔明と、かねて耳に聞いていた孔明とは、大きなちがいである。用兵神変、孫子以来の人だなどと、
張任の一令に、なお背後にのこっていた数千の兵は、どっと
四輪車は逃げだした。
右往左往のていで。
「車上の片輪者待て」
手づかみにして、生捕ることも易しと、張任は馬を打ってとびこみ、雑兵には目もくれず、あわや
「捕ったっ」
それは足もとの声だった。何事ぞ、いきなり下から馬の脚をかついで引っくりかえした猛卒がいる。
ずでんと、見事な落馬だった。たちまち、またひとりが跳びかかる。これも雑兵にしてはおどろくべき怪力の持ち主だった。
それもそのはず、この二人は、雑兵の中にかくれていた魏延と張飛だった。
破壊したと見せた
山地へ谷間へ逃げこんだ蜀兵もあらまし討たれるか降伏した。
その中には、つい前日成都から援軍に来たばかりの
張飛、黄忠、魏延などの諸隊も、各

「ああ、蜀の
捕虜として

「蜀の諸将はみな降った。貴公ひとり降伏せぬ法もなかろう」
というと張任は、
「不肖ながら、自ら蜀の忠臣をもって任ずるものである。
と、
玄徳はその人物を惜しんで、いろいろ説いたがどうしても、
「
孔明は見るに見かねて、
「余りにくどく
と、玄徳にすすめた。
すなわち、張任の首を斬り、その屍を収めて、金雁橋のかたわらに、一基の忠魂碑をたててやった。
かくて

降参の大将、
「無益な籠城は、いたずらに城内の民を苦しめるばかりであろう。我らすら降ったものを、汝らの手で
すると、矢倉の上に、残る一将の
「蜀の恩顧をわすれた人間どもが何をいうか」と、罵った。
とたんに彼は、矢倉の窓から下へ蹴落されていた。何者かが後ろから弱腰を突いたものとみえる。同時に、城門は内から開いた。
たちまち、城頭に、玄徳の旗がひるがえった。城中の者、ほとんど七割まで、降伏した。
劉璋の嫡子
「劉※[#「王+貴」、U+749D、230-8]を矢倉から蹴落したものはたれか」
占領後、玄徳がただすと、
「――武陽の人張翼、
と、侍側から
すなわち

「やれやれ、ありがたいお
と、高札を囲んで、新しい政道を謳歌した。
孔明は、微行して、一巡城下の空気を視察してもどると、
「ご威徳はよく下まで行き渡ったようです。この上は、成都の攻略あるのみですが、功を急いで、足もとを浮かしてはなりません。まず

「いかにも」
と、玄徳も同じ気もちであったとみえ、すなわち隊を分って、各地方へ
すなわち、厳顔、
また張翼、呉懿には、趙雲を添えて、

それらの諸隊が、地方宣撫の
「この

降参の将がいう。
「まず、要害といっては、
そこへ、法正が来た。法正も早くから内応して、玄徳の
「いずれ後には、成都の人民はご政下につくものです。その民を驚かし、苛烈な戦禍におびえさせることは好ましくありません。まず、四方に仁政を示し、徐々恩徳をもって、民心を得ることを先とすべきでしょう。一方それがしから書簡をもって、よく成都の劉璋を説きます。劉璋も、民の離れるのをさとれば、自然に来て降るにちがいありません」
「貴下の言は大いによい」
孔明は法正の考えを、非常に賞揚し、その方針によることにきめた。
一方、成都のうちは、いまにも玄徳が攻めてくるかと、人心は動揺してやまず、府城の内でも
太守劉璋を中心に、
「いかに、防ぐか」の問題が、きょうも軍議され、その席上で従事
「国家の急なるときは、自然、防禦の力も数倍してくる。官民一致難に当るの決意をもてば、長途遠来の荊州軍など何の怖れるほどのことがあろう。いかにここまでは、彼の侵略が功を奏してきたにしても、占領下の蜀の民は、まだ心から玄徳に服しているのではない。今、

たれも黙っていた。すると、太守
「むかしから、国王は、国をふせいで民を安んずるということは聞いておるが、まだ、民を流離させて敵を防ぐということは聞いたことがない。それはすでに敗戦の策だ。おもしろくない」
と、いつもに似げない名言を吐いて、鄭度の策を否決した。
するとそこへ、法正から正式の書簡が来た。書中には、大勢を説いて、いまのうちに玄徳と講和するの利を弁じ、また、そうして、家名の存続を保つことの賢明なことをすすめてあった。
「国を売って敵へ走った忘恩の徒が、何の面目あって、わしにこの
劉璋は怒って、法正の使いを斬ってしまった。
直ちに、
建安十八年の秋八月である。この蒙古軍の大将は、さきに曹操に破られて、どこへか落ちて行った
「父の仇、曹操を
「何度でも再起する。曹操の首を見るまでは、倒るるもやまじ」
とする意気があるので、
ところが、ここに
城の大将は
「中央の
という夏侯淵の返書に、韋康は落胆して、
「それではとうてい、この小勢でこの城は保ち難い。見ごろしに見ている味方をたのむよりは」
と、ついに降伏を思った。
同僚に参軍の
「よしっ」
馬超は、降を容れて、城中へなだれこむとともに、韋康以下、その一類四十余人を
「この時になって、降伏するなどという人間は、義において欠けるし、味方に加えても、どうせ使いものにはならんやつらだ」
と、悔いも惜しみもしなかった。
侍臣が、図に乗って云った。
「楊阜はお斬りにならないのですか。彼は韋康を
「それが義だ。弓矢の道だ。楊阜は斬らん」
馬超は、かえって、楊阜を助けたばかりか、用いて参事となし、
「わたくしの妻は、もうふた月も前に、故郷の

馬超は即座に、
「よしよし。行ってこい」
楊阜は、帰郷した。しかし目的は、
「
「――面目もありませぬ」
叔母なる人に会うと、楊阜は床に伏して
「残念です。いま私は、甘んじて敵に飼われています。けれど心まで馬超にゆるしてはいません。今日、これへ来たのは、ほかに心外なことがあるからでした」
「楊阜、なぜそんなに
「有難うぞんじます。――が、私が哭いたのは、自分の
「おや。どうしてだえ?」
「この歴城にありながら、乱賊馬超の
「……たれかいませんか。
彼女が、侍女の部屋へ、こう告げると、一方の
「母上。姜叙はこれにおります。お起ちには及びません」
と、ひとりの青年が入ってきた。これなん歴城の
いうまでもなく
当然、歴城の兵をひきいて、韋康を
「さきほどから
若い
すると楊阜はかえってその意気を歓び、自分の降伏は、一時の
「もし
姜叙、もとより多感な青年である。義のためには一身を亡ぼすも惜しみはないと、ここに義盟を結び、ひそかに兵備にかかった。
歴城のうちに、姜叙が信頼している二名の士官がいる。統兵校尉の
趙昂の子の趙月は、冀城落城このかた、馬超のそば近くに小姓として仕えている。趙昂は家に帰ると、妻へ嘆いた。
「きょう姜叙の君から命をうけて、馬超を討つ兵備をせよと命じられたが、いかにせん、わが子は敵の城に在る。もしその父が姜叙に味方していると知れたら、たちまち、趙月は殺されてしまうだろう。いったいどうしたらよいか。そなたに何か名案はないか」
「ひとりの子を顧みて、主命を
多年連れ添ってきた妻ながら、彼女の良人は、自分の妻の立派なことばに今さらの如く驚いた。
「よし。もう惑わぬ」
姜叙、楊阜は歴城に
すると、趙昂の妻は衣服や髪飾りを、のこらず売り払って、祁山の陣へ行き、
「門出の心祝いです。どうかこれを収めて、士卒のはしにいたるまで、一
「これは、
そういい聞かされて、兵隊たちへ酒をわかつと、みな感激して、涙とともに飲み、士気は
一方、このことはすぐ冀城に聞えたので、馬超の怒りはいうまでもない。
「
一令、全軍を血ぶるいさせた。

するとあたかも
「亡主の
と、弔い合戦を決意した郷兵軍が、悲壮な陣を布いていたものであった。
「
馬超は一笑して、雪を蹴立つがごと、白色軍を蹴ちらし始めた。
馬超の勇は万夫不当だ。当然のように歴城の兵はふみつぶされてしまった。姜叙、楊阜もその敵ではなく、さんざんに敗れてひき退く。
しかし、
「このためにわれここにあり」
と、いわんばかり、突如、鼓をならして、馬超の側面へかかった。
「馬超、
と、郷兵の士気をはげましつつ側面へ出た味方と呼応して挟撃のかたちをとった。
馬超の軍勢も一時は苦境に立った。けれど、装備の悪い地方郷党軍と、完全な装備を持った
たちまち馬超軍は、その陣形の不利をもり返して、反撃に出てきた。またも、姜叙の歴城軍は、算をみだし、死屍を積み、いまや潰滅に
ところへ、思わざる新手の大軍が、山をこえて、馬超軍のうしろからひた押しに攻めてきた。これなん長安の
「今や、曹丞相のお下知によって乱賊馬軍の征伐に
もとよりこの手勢は訓練もあり装備もすぐれている中央軍なので、さしもの馬超軍もさわぎ乱れ、
「よし、その分ならば出直して――」と大将馬超も逃げるしかなくなった。
馬超は
「ばか者っ。うろたえるな。よく眼をあいて我を見ろ」
叱りながらなお城門の前へかかると、壁上から彼の眼のまえへ、いくつもの
「や。やっ?」
見ればその一つは、わが妻の
なお、限りなく、城の上から死骸をほうり落してくる。そのすべてが、馬超の縁につながる肉親や一族たちであった。
「ううむっ……」
胸ふさがって、さすがの馬超も馬から転げ落ちんとした。そこへ、

「城中の
と、促して
忽然と、朝霧の中に、一城の門が見えた。馬超は大いに恐れて、
「ここはどこか」
すると

「敵の歴城ですよ」
「えっ、歴城?」
馬超はたじろいだ。つき従う味方の兵は、
こういう窮極の壁を突破することによって、

「姜叙の旗本である」と、怒鳴りながらどんどん城門内に入ってしまった。
夜来、続々、勝ち戦の報を聞いて誇りぬいていた城兵は、突然、自分たちの懐の内から、大混乱が起ったので、上を下へと騒動した。
城中へ入った馬超の一党は、姜叙の住居を襲って、その母を殺した。
また
手薄な城兵も、みな逃げるか討たれるかして、歴城はわずか五、六十名の馬超軍によって占領されたが、しかし、それはたった一夜の安眠でしかなかった。
あくる日になると、夏侯淵、

ともあれ、
夏侯淵は、その治安の任を、姜叙に託すとともに、
「君はこのたびの乱に当ってよく中央の威権を保った勲功第一の人だ」
と、楊阜を敬って、車に乗せ、
やがて、車が許都へつくと、曹操はその忠義をたたえ、
「以後、
楊阜は、かたく辞して、
「冀城に主を失い、歴城に一族を鬼と化し、なお馬超は生きている今、何の面目あって、身ひとつに栄爵を飾れましょう。恥かしい極みであります」
と、恩爵をうけなかったが、かさねて曹操から、
「ご辺の進退、その
と、いうことばに、楊阜もついに
× × ×
さて、馬超とその部下、馬岱、

張魯に年頃のむすめがある。張魯の思うには、
「馬超は世にならびなき英傑といってよい。年も若いし、
これを、一族の大将
「さあ、どうでしょうか?」と、すこぶる難色ある顔つきだ。
「いけないかね」
「考えものでしょうな」
「どうして」
「勇はあっても、才略のない人ですからな。それに馬超その人の性行をみるに、父母妻子をかえりみず、ただ世に功名をあせっているんじゃないでしょうか。自分の父母妻子にすらそのような人間が、どうして、他人を愛しましょう」
これで縁談は止んでしまった。
ところが、それを馬超が小耳にはさんで、
「助けて下さい。何とか考えて下さい」と、泣訴した。
ところへ蜀の太守劉璋の密使として、
黄権がいうには、
「先頃から正式に使いをもって、たびたび張魯将軍へ
そしてさらに黄権は、もし漢中の兵をもって、玄徳を退治してくれるなら、蜀の二十州を
「よろしい。もういちど、張魯将軍の御前で評議してみましょう」
楊松は、尽力を約して、張魯の法城へのぼった。そしてこの懸案を再度議していると、折から見えた馬超が、
「それがしに一軍をお貸しあれば、
馬超が
日は没しても戦雲赤く、日は出でても戦塵に
玄徳軍と、蜀軍と。
いまや成都は
ここが
「や。あれは?」
玄徳は今、その本陣にあって、耳を
「綿竹関第一の勇将
「おお、その凱歌か」
玄徳は、伸び上がって待ち受けていた。
魏延が、捕虜の李厳をひいて来た。玄徳は魏延の功を称するとともに、李厳の縄を解いて敬った。
「平時ならば、人の
李厳は、恩に感じて、随身の誓いを入れ、同時に暇を乞うて、綿竹関へひとたびかえった。
綿竹関の大将
「君がそれほど賞めるくらいなら、玄徳はまさしく真の
費観は伴われて、城を出た。かくて綿竹関も、ついに玄徳の入城をゆるした。
この前後のことである。地理的にみて、ほとんど、遠い異境の英雄とのみ思われていた
しかも、
「さては、成都の
玄徳は孔明に対策をたずねた。孔明は意を体して、張飛をよびよせ、「時に、相談があるが」といった。
「何事ですか」
「関羽のことだが」
「関羽がどうかしましたか。荊州の留守中に」
「いや、どうもせぬが、関羽をよばねばならないことが起った。ご辺と、留守を交代してもらおうかと思って」
「それがしを留守に廻して関羽を召し呼ばれるとはどういうわけでござるか」
もう張飛は顔色に出している。不平なのだ。理由によってはと、開き直りそうな構えである。
孔明は、あっさり話した。葭萌関へ新たにかかって来た敵は馬超という西涼第一の豪雄である。
関羽ならでは、よくその馬超に敵し得まい。故に、ご辺と代ってもらおうかと考慮中であるが――という。
「こは、
孔明は、なお微笑して、
「しかし馬超の勇は、おそらくその長坂橋の豪傑以上と自分には思われるが」と、首をかしげた。
張飛は、指を噛んで、
「もし、この張飛が、馬超にやぶれたら、いかなる軍罰にも処したまえ」
と、誓約書をかいて、血をそそぎ、
「それまでに云うならば」と、すなわち張飛に参加をゆるしたが、孔明は、入念にも、その先鋒には
葭萌関は
「玄徳の新手が着かないうちに」と、連日、猛攻撃をつづけていたのだった。
しかし、すでにその先手も中軍も、関内へ到着して、この日、城頭には、新たな
「急変にあわてて、長途を駆けつけて来た玄徳以下、何の怖るることがあろう」
馬超の勢は、猛攻の手をゆるめず、いよいよ急激に関門へ迫っていた。
すると、関上から一
「知らぬか、玄徳の
魏延と聞いて、漢中の
「よき敵」と、駆け寄って、十合あまり戦ったが、もろくも
「卑怯、卑怯っ」
勝ちに乗って、追いかけると、魏延はつい止まるのを忘れて、敵の中へ深く入ってしまった。
すでにそこは西涼の
「これこそ馬超だろう」と思いこんで、
馬岱は、
「強敵。油断ならじ」と思ったものか、とっさ、馬をめぐらして、楯の蔭へ逃げこもうとした。
「待てッ」
魏延の声に振り向きながら、
「これかっ」
と、答えて、馬岱は、
魏延が身を沈めた。
そのまに、馬岱は、腰の半弓をはずして、
矢は、魏延の右の
これを
すると関上から、改めて、さらに一人の猛将が駆け下りてきた。――自ら大声に名乗るを聞けば、
「桃園に義をむすんだる燕人の張飛!」
という。
聞くや、馬岱は、
「長年、出会いたいと思っていた張飛とは汝か。願うてもない好敵。いざ」
と、大剣を鳴らして迫った。
すると張飛は、
「貴様は馬超か」と、訊いた。
「いや。俺は馬超の一族、馬岱というものだ」
「なに、馬岱。そんな者では相手にならん。馬超を出せ」
「だまれ。おれの手並を見てからものをいえ」
馬岱はもう斬りかけていた。
しかし、一丈八尺の
「こらっ馬岱。その首を置いてゆけ」
と張飛は、ほとんどからかい半分に呶鳴りながら追おうとした。
すると、関門の上から、張飛を呼びとめる人がある。戻ってみると、主君玄徳だった。玄徳はいう。
「あまりに敵を軽んじてはいけない。きょうはここへ着いたばかり。兵馬も疲れておる。関門を閉じて、兵にも馬にも休息を与えよ」
それから玄徳は矢倉へのぼって、敵陣を

「ああ。馬超馬超。いま世上の人々が、馬超の英姿をたたえて、西涼の
玄徳が賞めちぎっているのを聞くと、張飛は
馬超は、関門の下へ来て、
「張飛はどこへ隠れたか。わが姿を見て逃げ
と呼ばわっていた。
張飛は、矢倉の上から、
「おのれ、その口を」と、全身を
「きょうは出るな」と、どうしても許さなかった。
翌日も馬超の軍は、これへ来て前日のように、城門へ
「いまは行け」
と、ついに玄徳のゆるしを得、そこを八文字に開くやいな、丈八の矛を横たえて繰りだし、
「われこそ、燕人張飛なり。見知ったるか」と、立ちはだかった。
馬超は、哄笑した。
「わが家は、世々、公侯の家柄だ。なんで汝のような田舎出の匹夫など知るものか」
ここに両雄の凄まじい決戦が行われだした。その烈しさは、見る者の
百合余り戦っては、馬を換えてまた出会い、五、六十合火をふらしては、水を求めてまた戦闘した。
このあいだ両軍の陣は遠くに退いて、ただ
時間にすると、中天の
そろそろ陽が
「
そこで、双方同時に、
時をおいて、ふたたび張飛が、関門を出ようとすると、玄徳が、
「夜に入った、
万一、張飛が負けて、馬超に討たれでもしてはと、きょうの合戦を見てから、にわかに、心配になったからである。
ところが寄手は、夜に入っても退かず、明々の
「張飛、もう出てくる精はないのか」と、あざ笑った。
「何をっ」
ついに、玄徳の命に
馬超は、もろくも逃げだした。もとより
「きたないぞ、馬超。最前の広言はどこへ置き忘れた」
と、追いかけ、追いかけ、つい深入りしてしまった。
急に、駒をとめたと思うと、馬超は振り向いて、矢を放った。張飛は身をかがめたまま、馬の鼻を突進させてゆく。
弓を捨てると、馬超は、
「待て。張飛」
うしろの声だった。
玄徳が追ってきたのである。玄徳は、馬超へ向って云った。
「自分は天下へ向って、仁義を旗じるしとし、きょうまで、まだ一度もあざむいたことはない。――自分を信じて、きょうは
終日の戦に、さすが疲れていた馬超は、それを聞くと、
「さらば」
と、玄徳に一礼を投げ、きれいに陣を退き去った。
その夜、軍師孔明が、ここに着いた。
「戦況如何に」と案じて来たものであろう。つぶさにその日の状況を聞きとると、やがて玄徳の前に出て忠言した。
「馬超と張飛と、このまま、幾たびも戦わせておいたら、かならず一方は討死するにきまっています。両方とも、稀世の英傑。これを殺すことは
孔明はまず、その愚を止めた。玄徳ももとより同じ気持だった。しかし、敵の英傑を助けるには、その人を、味方に招く以外に方法はない。さもなければ、味方の禍いであり、あらゆる手段を以てしても、これを除く工夫をしないわけにゆかない。
「――天恵です、それに一案があるのです。かならず馬超はお味方へ招いてみせます。私がにわかにこれへ来たのもそのためにほかならないのです」
孔明はいう。そして、疑う玄徳にむかい、その理由ある
「このところ、馬超が、つねにも増して、強いわけは、今や彼の立場は、進んでも敵、退いても敵、進退両難に陥っているためで、いわゆる
こう冒頭して――
「なぜ馬超が、そんな苦しい立場に陥っているかというに、実は、それもかくいう臣孔明が、手をまわして、そのたねを
「なるほど」
玄徳は孔明の遠謀に、今さらながら
「――交渉数回、もともとそれに野望のある張魯ですし、楊松へもいろいろ好条件をつけてやりましたから、私と漢中との、秘密外交はまとまっているのです。で、漢中の方針は、急角度に一変し、ここへ攻めてきている馬超に対して、即時引き揚げよと、張魯から幾たびも早馬が来ておるはずです」
「ほう。そうであったか」
「しかしです。――馬超が素直にそれを

「――む、む」
「張魯の心証は、俄然、馬超に対して悪化しました。弟の
「張魯のこころは?」
「同様に怒り立って、ついに張衛に兵を与えて国境に立たせ、たとえ馬超が帰るも、漢中に入るるなかれと命令し、かつ、使者をもって、馬超の陣へ臨ませ――汝、命にそむいて、ここを引き揚げぬからには、一ヵ月のあいだに三つの功を遂げよ。一、蜀を取る。二、
「軍師みずから行って馬超を説かんといわれるのか」
「そうです。それくらいな誠意をこちらも示さねば……」
「危ない。万一、不慮の事が生じたら取り返しがつかぬ」
「いや、ご心配はありません。明日、朝の光を見たら、直ちに行って、馬超に面会を求めましょう」
「まあ、今夜一晩、考えてからにしよう」
玄徳は容易にゆるさない。しかし次の日となると、はからずもここへ、ひとりの適当な人物が、天の配剤かのごとく、玄徳を訪ねて来た。
その人は、
「孔明軍師がこちらへお出でになったでしょう」
「昨夜、関中に着いた」
「馬超を招き
「どうしてわかる」
「俗に、
「待て待て。それはおいて、ご辺はここへ何しに来たか」
「馬超を説かんとして来ました」
「ふうむ。……馬超を説いて、予の
「あります。孔明軍師を除いては、おそらく、その使いをなすものは、私のほかにありますまい」
「しかし、ご辺はさきに、
「
孔明は
「
玄徳の一書を持って、李恢はやがて、関外へ出て行った。
馬超は、その本陣で、彼の訪問をうけると開口一番に、
「汝は、玄徳に頼まれてきた説客であろう」といった。
李恢は悪びれもせず「そうだ」と、うなずき、
「しかし、頼まれてきたのは、玄徳ではないよ」
「では、誰だ」
「御身の亡き父親から」
「なに」
「不孝の子をよく
「この風来人め、
「幸いに、その剣が、そういうご自身の首を試みるものにならなければよいが」
「まだいうか」
「前途ある青年馬超を惜しむのあまりわしはいう! 聞き給え馬超、いったいおぬしの父親は誰に殺されたのだ。――そもそも、西涼の兵馬をあげて、
「…………」
「その曹操のため、敗れて漢中に
「……ううむ」
「何が、ううむだ。思え、泉下の父の無念を。……たとえ御身が玄徳に勝ったところで、歓ぶものは誰だか知っておるか。それは曹操ではないか」
「賢士。目がさめた。ゆるしたまえ。ああ誤った」
馬超は、がばと、身をくずして、李恢のまえに
このとき李恢は満身から声を発して、
「悪いと気がついたら、なぜ幕外に潜めておる兵を退けんかっ」と、あたりを睨まえた。
隠れていた武士たちは胆をつぶして、こそこそ消えた。李恢は、馬超の腕をとって
「さあ、行こう。劉玄徳は御身を待っている。決して、
馬超は弱い。決して強いばかりの人間ではなかった。理に弱い。情にも弱い。
「玄徳は、仁義にあつく、徳は四海に及び、賢を
伴われて、玄徳に会った。
この英気ある青年の良心的な降伏に対して、間の悪いような思いをさせる玄徳でもない。
「ともに大事をなし、他日の
ほとんど、
青年馬超の感激はいうまでもなかった。恩を謝して、堂を降るとき、
「いま初めて、雲霧を払って、真の盟主を仰いだここちがする」
心からそういった。
そこへ腹心の
「以て、それがしの心証としてごらんください」
馬超はそれを玄徳に献じた。
こうして、
綿竹へ着いた日も、ここは合戦で、蜀の

にもかかわらず、留守していた黄忠や
「おめでとう存じます」と、玄徳に凱旋の賀をのべた。
そのうちに趙雲が、
「ちょっと、中座いたします」
と、杯をおいて、城外へ出て行ったと思うと、やがて敵将馬漢と劉

「賀宴のおさかなに」と披露した。
一堂の将はみな手をたたいた。馬超もこの中にいたので、
「ああ、さすがに英傑がいる」と、ひそかに舌をまいて
そこで、馬超は、玄徳に向って、
「ご奉公の手始めに、私と、私の従弟の
玄徳は、孔明に
「もし劉璋が、君の言に服さなかったときは、こうこうし給え」と。
それから十数日の後。馬超と馬岱は、蜀の府城、成都門の壕ぎわに、駒をたてて、
「太守劉璋に、一言せん」と、呼ばわっていた。
城楼の遥かに、劉璋が立った。
馬超は、声を張って、
「公は、漢中の援けを待って、籠城しておられるのだろうが、百年お待ちになっても、張魯の援軍などは参りませんぞ」と、
「たとい、来たところで、それは蜀を救いにくるのでなく、蜀を横奪に来るのです。漢中の内情と、張魯一族の野望とは、公がお考えになっているようなものではない。現に、この馬超すら、彼らにあいそをつかし、楊柏を討って、劉玄徳に従ったほどです」とその
劉璋は、落胆のあまり、昏倒しかけた。侍臣にささえられて、楼台の内へかくれた様が、馬超と馬岱にも見えた。
ふたりは、馬を
城中では、主戦派、籠城派、また和平派など幾つにもわかれて、二日二晩の評定に大論争がもつれていた。しかし結局は、玉砕か降伏か、その二つを出なかった。
この間にも、劉璋を見限って、城中を抜け出す投降者は続出していた。蜀郡の
「成都も今が終りか」と、一晩中、
あくる日、
「ともあれ迎えよ」というので、案内すると、簡雍は車のまま城中へ通ったのみか、ひどく尊大ぶって、迎えの将士を
「こらっ、ここをどこと心得る。蜀の本城に人はいないと思うかっ」
と、剣を抜いて、車上の者の
「先生のこれへ来られたのは何事ですか」
しかし劉璋は、彼を軽んじることなく、堂上に請じて、
「謹んで太守の賢慮を仰ぎ、蜀中の民を救わんがためです」
簡雍は、口を極めて、玄徳の人間をたたえ、その性は
劉璋は、一晩、簡雍を泊めて、次の朝、
玄徳はみずから迎え立ち、劉璋の手をとって云った。
「私交としては、人情にうごかされるが、時の勢いと、
玄徳の眼には、熱い涙すらみえたので、劉璋は、むしろ降伏の時を遅くしたことを、自身の罪と思ったほどであった。
成都の民は、平和を謳歌した。香を焚き、花を
「蜀は、あらたまって新しい統治の下に、きょうを以て、その更生第一日とする。なお昨日にひとしい錯覚をいだいて、この一新に不平あるものは去れ」
府堂にのぼって、玄徳はこう宣言した。
蜀中の大将文官は、ほとんど階下に集まって、異存ない旨を誓ったが、ただ黄権と
「憎むべき反骨」
「なお異心あるにちがいない」
騒然と、その二人に対して、非難の声が起ったが、玄徳は、険悪な空気を予察して、
「もし私的に、二人へ危害を加えなどしたら、その者は大罪に処して、三族をも亡ぼすであろう」
と、かたく盲動を禁じた。
式が終ると、彼は自身足を運んで、
「ああ、われ誤る」
と、まず黄権が出て、門外に
成都は収められた。こうして、蜀中は平定した。
孔明は、玄徳へすすめた。
「いまはもうよい時です。劉璋を荊州へお送りなさい」
「蜀の実権は、すでに劉璋にないのだから、あえて、遠くへ送る必要もないのではなかろうか。
「一国に二人の主なし。そんな婦人の仁にとらわれてはいけません」
「……げにも」
玄徳はうなずいた。しかし彼としては、勇気を要した。
孔明がすべてを取り計らった。即ち劉璋を
ここに劉璋は蜀を去って、荊州の南郡に移り、まったくその地位と所をかえて余生する身となった。
玄徳は次に、恩爵授与の大令を発した。譜代の大将部将
封爵、栄進の恩に浴した将軍たちの名はいちいち挙げきれないが、玄徳は、この栄を留守の関羽に
関羽のみでなく、その下にあって、よく後方を守ってくれた将士軽輩にいたるまで、恩典から洩れないようにした。そのために成都から黄金五百
なお、蜀中の窮民には、
何にしても、蜀の国始まって以来の
「予は初めて、予の国をもった」
玄徳も万感を抱いたであろう。国ばかりでなく、このときほどまた、彼の左右に人物の集まったこともない。
軍師孔明。
征西将軍黄忠。
揚武将軍魏延。
そのほか、孫乾、

前将軍
蜀郡太守法正。
掌軍中郎将
長史
営中司馬

左将軍
右将軍黄権。
などという錚々たる人物があるし、なお、

「自分が国を持ったからには、それらの将軍たちにも、
ある時、玄徳がこう意中をもらすと、趙雲はそれに反対した。
「いけません、いけません。むかし
「善い
「蜀の民は、久しい悪政と、
なおこの前後、孔明は、政堂に籠って、新しき蜀の憲法、民法、刑法を起算していた。
その条文は、極めて厳であったので、法正が
「せっかく蜀の民は今、仁政をよろこんでいる所ですから、漢中の皇祖のように法は三章に約し、寛大になすってはいかがですか」
孔明は笑って教えた。
「漢王は、その前時代の、秦の
孔明はなおいった。
「民に、恩を知らしめるは、政治の要諦であるが、恩に
「おそれ入りました。深いおこころもわきまえず、無用なことを申上げ、かえって、恥入りました」
法正は心から拝服して、以来、孔明を敬うこと数倍した。
数日の後、国令、軍法、刑法などの条令が布告され、西蜀四十一州にわたって、兵部が設けられた。内は民を守り、外は国防にあたり、再生の「蜀」はここに初めて国家の体をそなえた。
× × ×
千里の上流から、江を下って、漢中、西蜀あたりの情報はかなり迅く、呉へも聞えてくる。
「玄徳はすでに成都を占領した」
「着々治安を正し、蜀中に新政を布告したという」
「もとの太守劉璋は、後方へ送られて、荊州の公安へ移ってきたというではないか」
呉の諸臣は、政堂に会するたび、おたがいの早耳を交換していた。
一日、呉主孫権は、衆臣の中でこういった。
「蜀の国を取れば、かならず荊州は呉へ返す。――これは玄徳が、かねがね呉に向って、口癖にいっていた約束である。然るに、今、蜀四十一州を取りながら、まだ何らの誠意も示してこない。予の忍耐にもかぎりがある。いっそのこと、大軍をさしむけて、荊州をこっちへ収めてしまおうと考えるが、各

すると、宿将
「まだ、まだ」と、独り
孫権がみとめて、
「昭老はこのことに不同意であるか」と、問いかけた。
彼は、うなずいた。
「蜀、魏、呉の三国のうちで、いま最も恵まれている国は呉です。呉の位置です。国は安寧で、民は富を積み、兵は充分に英気を養っていられるところです。求めて大軍を起すにあたりますまい」
「しかし、このままにしておいたらいつの日、荊州が呉にかえるぞ」
「手を袖にして、荊州を取り返してご覧にいれましょう」
「そんな名案があるのか?」
「あります。――玄徳のたのみとする人物は
「なるほど。……孔明は情に悶え、玄徳は義理に悩もう。……その計は大いによい。しかし瑾は、この孫権に仕えてからまだ一ぺんの落度すらない誠実な君子。なんでその妻子を獄に下せようか」
「いや。君のお旨を、よく申し聞かせ、
次の日、諸葛瑾は、君命をうけて、呉宮の内へ召されていた。
蜀の玄徳は、一日、やや
「先生の
「昨夜、客館に着いたそうです」
「まだ会わんのか」
「兄にせよ、呉の国使として参ったもの。孔明も蜀一国の臣。私に会うわけにはまいりません」
「何しに見えたのであろう」
「もとより荊州の問題でしょう」
孔明は、座へ寄って、玄徳の耳もとへ、何かささやいた。
「……そういうお気持で」
「む、む。わかった」
玄徳はいささか眉をひらいた。
その晩、孔明はふいに、客舎にある兄を訪ねた。孔明に会うと、
「兄上。いったい、どうなすったのです」
「聞いてくれ、
「荊州を還さぬという問題をとらえてですか」
「そうじゃ。亮……察してくれよ」
「お気づかいには及びません。荊州さえ還せばみな獄から解かれましょう。兄上の妻子にまでご災難の及んでゆくのを、なんで孔明が坐視しておりましょう。君へ申しあげて、きっと荊州は呉へ還します」
「おお……そうしてくれるか」
「これは、呉侯からのご書簡ですが」
と、孫権からの一書を呈すると、玄徳はそれを
諸葛瑾は、はっとした。側にいた孔明も、眼をみはった。玄徳の手にその書簡は引き裂かれ、その眸は、天の一方を見て、
「無礼なり孫権。――もとより荊州はいつか呉へ還さんとは思っていたが、汝、いたずらに小策を
胸中の憤怒を一時に吐いたような玄徳の激色に、ふたりは打たれたように一瞬沈黙していたが、そのうちに孔明が
「もし
仰いでは、涙をのみ、伏しては肩を打ちふるわせた。
玄徳は、なお怒気
「そう嘆かれては、予の胸もつらい。さりとて荊州は還し難し、軍師の悲嘆は黙し難し。……そうだ、ではこうしてつかわす。荊州のうち
「かたじけのう存じます」と孔明は拝謝し、また感激して、
「では、その
玄徳はすぐ書簡を書いて、
「予の
と注意してやった。
諸葛瑾は、成都を去って、
関羽のそばには、養子の関平が
諸葛瑾は、玄徳の書簡を示して、さて、
「このたび荊州の内、三郡だけを呉へお還し給わることになりましたから、早速、そのお手配をねがいたい」と、いった。
関羽は、うんもすんもいわない。瑾を
「もし将軍がおきき入れなく、三郡すらお還し下さらぬときは、瑾の妻子は立ちどころに誅せられ、私も呉へ帰る面目はありません。どうか、苦衷を察してください」と、泣訴した。
関羽は、剣の
「ならんっ。断じて還さん。それはみな呉の計略というもの。ふたたび無用な口を開くと、この剣が答えるぞ」
と、大喝した。
関平は父をなだめた。
「このお方は、孔明軍師の
「知っておる。孔明の兄でもなければ、生かして帰すところじゃない」
と、関羽はなお恐ろしい形相をおさめないのである。
諸葛瑾は、とりつくしまもなく、ここを去って再び蜀へもどり、玄徳へ訴えようとしたが、その玄徳は折から病中とあって典医が面会を許さず、弟の孔明に会おうとすれば、その孔明は郡県の巡察に出張して、しばらくは成都に帰るまいという。
千里の往来も空しい旅となって、瑾はぜひなく一応、呉へ帰って来た。呉主孫権は、それもこれもみな策士孔明のからくりにちがいないと、足ずりして怒ったが、
「さりとて、汝にも、汝の妻子にも罪があるわけではない」
と、仮に獄中へつないでおいた瑾の家族はみな家へ帰した。
孫権はまた、諸官吏を、荊州へ派して、
「すでに玄徳が還すといった長沙、零陵、桂陽の三郡は、臣下の関羽が、なんと拒もうと、まさしく呉が接受すべきものである。強硬に交渉して、関羽の下の地方官吏を追い払い、汝らの手で郡の政庁を奪って代れ」と、厳命した。
もちろん軍隊もついて行った。しかしほど経てからそれらの官吏はみな逃げ帰ってきた。反対に関羽の部下に追い払われてきたのだという。しかも軍隊などはほとんどひどい目に遭わされて、生きて帰ってきた兵は三分の一しかなかった。
「とても、尋常一様な手段では荊州は還りますまい。私にご一任賜るなら、遠く
これは
呉中一といっても二と下らない賢臣の言だ。反対者もあったが、孫権は然るべしと、その計を採用することに決し、
「いまをおいて、いつの日か荊州をわが手に取り還さん。はや行け」と、励ました。
船に兵を積み、表には、親睦の使いととなえて、魯粛は、揚子江を遠く溯って行った。そして陸口城市の河港に近い風光明媚の地、臨江亭に盛大な会宴の準備をしながら、一面、
臨江亭は湖北省にある。荊州はいうまでもなく湖南の対岸。――魯粛の使いは、舟行して江を渡った。しかもその使いは、ことさら華やかに装い、従者に麗しい日傘をかざさせて、いかにも
彼はやがて、荊州の江口から城下に入り、謹んで、書を関羽に呈した。書面の内容はもとより魯粛の名文をもって礼を尽し、蜜の如き交情をのべ、どうしても断れないように書いてあった。
「参る。よろしくいってくれ」
簡単に承諾して、関羽は使いを返した。
関平は驚いた。かつ危ぶんで、父に
「
「案じるな」
関羽はあくまで簡単にいう。
「供は、周倉一名をつれて行く。そちは精兵五百人に
「かしこまりました」
関平は、父の命に従うしかなかった。
その日になると、関羽は、緑の
また、小舟には、
「……や、ひとりで来る」
「あれが関羽か?」
対岸では、呉の人々が、
ところが案に相違して、関羽は常にもなく華やかに装い、供ひとりを従えてきたので、
「さらば、第二段の計で」
と、はやくも眼くばせを交わし合っていた。
会場臨江亭の庭後には、屈強な武士ばかり五十人を伏せて、ここへ関羽を迎えたのである。もちろん沿道の林間、園内随所の林泉の陰にも、雑兵は充満している。ひとたびここへ入ったからには、天魔鬼神でも生きて出ることはできないようになっている。とはいえもちろん客の視野には、一すじの
亭は花や珍器に飾られ
しかし酒
「将軍もよくご存じでしょう。むかし荊州の問題で、呉侯の命をうけ、たびたび劉皇叔の御許へ、交渉の使いにまいりましたが、いやはや、えらい目に遭いました。あればかりは忘れられませんよ」
「どうしてです」
「すっかり
「そんなことはないでしょう。わが主劉皇叔はかりそめにも信義には背かないお方です」
「けれどついに、今もって荊州はお返しして下さらないではありませんか」
「あはははは」
「笑いごとではありません。ために、呉侯からこの問題について使いを命じられたものはみな実に面目を欠いています。――やがて蜀四十一州を取ったら返すなどと
「考えてもごらんなさい。わが皇叔以下、われわれ臣下は、かの
「待って下さい。……過去をいうならば、この当陽の戦に、将軍たちをはじめ皇叔一族も、惨澹たる敗北をとげ、帰るに国もなく、拠るに味方もなく、百計尽き果てたところを助けてあげたのは、どこの誰でしたろう、呉の恩ではなかったでしょうか」
魯粛も呉の大才である。こう口を開いて、この会談の目的にふれてくると、その
「いや、恩着せがましく申しては、ご不快かも知れぬが、あの折、敗亡
「…………」
理の当然に、関羽も答えにつまって、
「
と、云いのがれた。
魯粛はすかさず、なお語気に攻勢をとって、
「皇叔とあなたは、むかし桃園に義をむすんで、心もひとつぞ、生死も共にと、お誓い合った仲と承る。なんで、
すると、関羽の側に立っていた周倉が、主人の旗色悪しとみたので、突然、
「天上地下、ただ徳ある者が、これを保ち、これを
はっと、色を変じながら、関羽は席から突っ立った。そして周倉に持たせておいた
「周倉、だまれっ。これは国家の重大事である。汝ごときが、みだりに舌をうごかすところではない!」と、叱りつけた。
騒然と、亭中は色めき立った。関羽がやにわに巨腕を伸ばして、魯粛の
「さあ、来給え」
関羽は、大酔したふうを装いながら、次第に大股を加え、
「すくなくも一国の大事を、軽々と酒間に談じるのは、よろしくない。かつは甚だしく
人々が、あれよと立ちさわぐ間に、もう亭を降り、園を抜け、門外へ出ていた。魯粛の肥えた体も、関羽の手にはまるで小児を提げて行くようであった。
魯粛は、酒もさめ果て、生きた空もない。耳のそばを、ぶんぶん風が鳴ったと思うと、たちまち、江岸の波打ちぎわが見えた。
ここには呂蒙と
「待て」
「
と、制し合っていた。
そのまに、周倉が寄せた小舟へ、関羽はひらりと飛び乗ってしまった。そして初めて、魯粛を岸へ突っ放し、
「おさらば」
と、一語、岸を離れてしまった。
甘寧、呂蒙の兵が、弓をならべて、矢を江上へ射ったが、一舟は悠々帆を張って、順風を負いながら、対岸から出迎えにきた数十艘の
交渉、ここに破れ、国交の断絶は、すでに避け難い。
魯粛のつぶさな書状を捧じて、早馬は呉の
呉の国都には、これと同時に、べつな方面から、
魏の大軍が呉へ
嘘でもなかったが、早耳の誤報だったのである。
この冬を期して、曹操が宿望の呉国討伐を果たそうとしたのは事実で、すでに南下の大部隊を編制し、各部の諸大将の任命も内々決定していたのであるが、参軍の
一、今はその時でない事
一、漢中の張魯、蜀の玄徳などの動向の重大性
一、呉の新城
一、魏の内政拡充と臨戦態勢の整備
等の項目にわたって
新たに、文部の制を設け、諸所に学校を建てて、教学振興を計った。
彼がこうして少し、善政を
宮中の
「曹丞相はもう魏王の位に即かるべきだ。魏王になられたところで、何のふしぎもない」
と、運動をしはじめた。
うわさを聞いて、
「さきに
これが人伝てに、曹操の耳へ入ったのである。もちろんその間に、為にする者の肚も入っているから、曹操は非常な不快を感じた。
「荀攸もまた、

非常に立腹して、そう罵ったと聞えたから、それをまた、人伝てに耳にした筍攸は、いたく気に病んで、門を閉じて自ら謹慎したまま遂に、その冬、病死してしまった。
「五十八歳で世を去ったか。……彼も功臣のひとりだったが」
死んでみると、曹操は、
で、魏王に
「……趙儼が、市へひきだされて、斬られたそうです。おそろしい曹操」
玉座へこう告げにきた。
帝も、玉体を震わせ給うて、
「つい今朝までも、禁裡に仕えていたものが、夕べにはもう市で命を失うていたか。
幽宮の秘窓に、おふたりの涙は渇かなかった。事実曹操の威と、許都の強大が、
「こうして朝夕、針の
伏皇后は、ついに思いきって帝の御意をこう動かした。
もとより献帝のご隠忍は年久しいことだったので、胸中の
これを
朝臣のうちにも、曹操のまわし者たるいわゆる「
すぐ密告して、曹操の耳へこう伝えた者がある。
「何かそそくさした様子で、穆順が
勘のよい曹操には、すぐ何かぴんと響くものがあったに違いない。彼は、わずかな武士をつれて、自身、内裏の門にたたずみ、穆順がもどって来るのを待っていた。
もう深更だった。
穆順は何も知らずに、帰ってきた。門の衛士には、出るとき賄賂をやってある。あたりに人影はない。すたすたと内裏の門へさしかかった。
「待て待て」
ふいに物蔭から呼び止める声がした。ふと横を見れば、曹操が立っているのだ。穆順はゾッとして
「何処へ参った」
「は。……はい」
「はいではない。返辞を求めるのだ。今頃、何処へ使いに出たか」
「実はその、お
「うそをつけ」
「いえ。ほ、ほんとです」
「宮中にも典医はおる。なにしに
闇のほうへさしまねいて、武士達を呼び、「こいつの体を
武士達は、穆順の衣服を
虎の口をのがれたように、穆順は衣服を着直すとすぐ走りかけた。
すると、頭にかぶっていた帽子が、夜風に落ちた。
あわてて拾いかけると、
「こらっ、待て」
曹操は、自分でその帽子を取って、仔細に
帽子の中からも、何も出なかった。汚い物を捨てるように、
「行け」
と、投げ返してやると、穆順は、両手に受けて、真蒼になった顔の上に、それをかぶった。
「いやいや、まだ行くな」
曹操は、三度呼びとめた。そして今度は、穆順がかぶり直した帽子を引きちぎって、その下の
「果たして!」
曹操は舌を鳴らした。一通の紙片があらわれたのだ。細字で綿密に書いてある。伏完の筆蹟で、むすめの伏皇后にあてたものであった。
――こよい
文意はあらまし右のようなものだった。怒りの極度というものはかえって氷塊の如く冷やかである。曹操は一笑をたたえて、伏完の返簡を袖に納めると、
「そいつを
夜明け頃、獄吏が、階下にひざまずいて、
「穆順を拷問にかけて、夜どおし責めましたが、一言も吐きません」
と、吟味に疲れた
一方、伏完の宅を襲った兵達は、帝の内詔を発見して持ってきた。曹操は冷然と、武将に命をさずけた。
「伏完以下、彼の三族を召し捕って、獄につなげ。縁故の者は一名も余すな」
さらに、

「魏公の命だ――」
ということは彼らにとって絶対だった。世はまさに

折ふし、帝は外殿に出御しておられたが、物音におどろかれて、
「何事ぞ」と、侍従たちを顧みられた。

「仔細これあり、今日、魏公曹操のお旨により、皇后の
「さては」と、早くもお胸のうちに、
すでに内裏のほうではただならぬ震動のうちに女官たちの悲鳴がながれていた。土足で後宮を馳けまわる暴兵たちは、口々に、
「
伏皇后は、いちはやく、宮女に扶けられて、内裏の朱庫の内へかくれておられた。ここには二重壁があって、壁の中へ身を塗りかくしてしまう仕掛けがしてあった。

「この中が怪しい。

と、協力をうながし、共に朱庫の扉を破って、内部へおどりこんだ。
けれどもここにも見えなかった。


「助けよ」と、呼ばると、華

「直接、魏公に会って
「われかつて、汝を殺さざるに、かえって、汝われを殺さんと
その悲鳴や曹操の罵る声は、外殿の廊まで聞えてきたほどだった。帝はお
「こんなことが、天日の
血も吐かんばかりな有様に、

曹操は、毒に酔える人みたいに、もうどんなことでも平然とやってのけた。伏完の一門から穆順の一族縁類の端まで、総計二百何十人という男女老幼を、この日たった半日のまに残らず捕えて、
とき建安十九年十一月の冬、天もかなしむか、曇暗許都の昼を閉じ、枯葉の
「陛下。承れば
曹操は、一日、朝へ出て、幽愁そのものの裡に閉じ籠っておられる帝へ奏した。
そしてまた、自身の
(――急に、魏公が、あなたと

「なんだろう?」
曹仁は、洛中の邸から、すぐ内府へ急いだ。
ここの政庁の府でも、曹仁は魏公の一門に連なる身なので、肩で風を切るような態度で、どこの門も、大威張りで通った。
すると、曹操のいる中堂の入口まで来ると、
「こらっ、待て」と、何者かに
見ると、

「なんだ、許

「なんだではない。閣下には、どこへお通りあるつもりか」
「魏公にお目にかかりに来たのだ。わしの顔を知らぬ貴様でもあるまいに、なんで咎めるか」
「魏公にはただ今、お昼寝中である。通ってはならん」
「
「いや、いかん」
「何だ。上官に対して。――おれは魏公の肉親だぞ」
「たとい、どれほど親しいお方であろうと、断じて、君のおゆるしを仰がぬうちは、ご身辺へ寄せることは相ならぬ。許

どうしても通さない。頑として曹仁を入れなかった。
やむなく、待っているうちに、ようやく曹操は昼寝から起きたとある。曹仁はやっと通されて、魏公に会うと、
「いや、きょうはひどい目にあった。許

と、ありのまま話した。曹操は聞くと、
「それは、

間もなく、夏侯惇も来た。

「ほかでもないが」と、曹操は、三名を揃えてから、きょうの用向きを語りだした。
「近ごろ、よくよく考えると、どうも蜀をあのまま放っておくのは、将来の大患だと思う。何とか、いまの内に、玄徳を蜀から切り離す方法はないだろうか」
夏侯惇がすぐ答えた。
「それをなすには、まず問題は、漢中ということになるでしょう。漢中は西蜀の扉のようなものですから」
「大きにそうだが、漢中の状況はどうだ」
「いまならば、一
「では、西征の大旅団を、至急編制して、まず
「あそこを取れば蜀の兵は、
それは賈

漢中は、まもなく、騒動した。
「――魏の大軍が、三手にわかれて来るとある。一手は夏侯惇、一手は曹仁、一手は夏侯淵と

「どうして防ぐか」
「まず、漢中第一の嶮要、
張衛を大将に、
陽平関は、その左右の山脈に森林を擁し、長い裾野には、諸所に
関をへだつこと十五里。すでに魏の西征軍の先鋒は、陣地を構築しはじめていた。
この陽平関の序戦では、魏の先鋒が、大敗を喫した。
敗因は、魏の兵が地勢に暗かったことと、漢中軍がよく奇襲を計って、魏の先鋒を、各所で寸断し、その孤立した軍を捉えては
「若い若い。汝らの攻撃を見ていると、まだまるで
曹操は、自己の中軍へ、前線からなだれ打って逃げてきた先鋒の醜態に怒って、その大将夏侯淵と

そして自身、先陣を編制し、許

陽平関の敵が見える。曹操は鞭をさして、
「あれが張衛の陣か、程の知れた布陣、何ほどのことがあろう」と、いった。
そのことばと同時に、背後の一山から、
「網中の
この日から次の日の戦争にかけて、魏軍はまたしても莫大な兵を損じた。三日目にも挽回がつかず、曹操も苦戦に陥ちて、万死のうち一生を拾って逃げ帰ったほどである。
陣を七十里ほど退いて、対峙すること五十余日、曹操も、容易に抜き難いことをさとったか、
「ひとまず許都へ還って、さらに出直そう」
と、
一夜のうちに、魏の
「いまこそ退く魏兵を追って、徹底的に殲滅すべし」となす
「いやいや、曹操は謀計の多い人物だ。うかとは追えない」
という楊任の説とが対立していたが、結局、楊昂は我説を張って、遂に、五
漢中の破滅はこれが重大な一因を成した。せっかくこれまで勝ちつづけていたものを、曹操の計に乗って一ぺんに無にしたものであった。
なぜならば、その日、
「開門っ、開門っ」
と、陽平関の下で、軍馬がひしめき叫ぶので、必定、味方が帰ったものと考え、門をひらくとともに、何ぞはからん、魏の夏侯淵が三千の精鋭をつれて、どっと突き入ってきたのだった。
奇襲好きな漢中軍へ、こんどは逆手を取って、奇襲したものである。魏兵は城内へ混み入るなり八方へ火をかけた。夜に入るし、留守は手薄であったため、焔の城頭たかく、たちまち、魏の旗が立てられてしまった。
総司令の
「待っていた」とばかり穏れていた許

残る楊任も、張衛のあとを追って
「それ以上、退く者は、即座に首を刎ねる」
と、厳重な督戦令を出した。そのため
曹操の大軍は、切りひらく先鋒の快足につづいて、陽平関を抜き、続いて、南鄭関までひと息に来てしまった。
漢中の府は、すでに
「いまや存亡の最後に迫った。誰かこの危急に当って、漢中を救うものはないか」
と、文武の百官に大呼した。
「それは


漢中の一将、
「馬超はすでにこの国にいないのに、馬超の一族の

人々の中では、いぶかる者もあったが、張魯はもちろん知っていた。
馬超が、蜀の

「なるほど、彼ならば!」
と、張魯は膝を打って、閻圃の進言を容れ、すぐ呼びにやった。

「この国へ来て、一日の恩養をこうむる以上、この国の難を傍観しては義に
と、一言のもとに伏して、張魯の手から将旗を受領し、兵一万余騎を併せうけて、直ちに前線へおもむいた。
――

と、聞くと曹操は、
「彼は、西涼の勇将でまた、馬超の

「さらば彼を
しかし


「さすがは、西涼の

敵ながら天晴れなと、魏の全軍中で、大きな評判になった。
「さもあらん」と、曹操もほくそ笑んで、あたかも森林の中で、美しい
「何とか、生捕れんか」と、爪を噛んだ。

そのせいか、翌る日の戦では、魏軍は崩れ立って、十数里退いた。

果たせるかな、その夜半、魏の大軍が四方から起ってきた。

占領した陣屋には、たくさんな兵糧や軍需品があったので、それらの
ところが、この戦利品搬入の雑軍の中に、魏の間諜が変装してまじっていたものとみえ、城内に住む楊松の邸へ、その男がそっと訪ねてきた。
「てまえは、魏公曹操の腹心の者ですが――」と、男は
「まず、ご一覧ください」と、いった。
楊松は漢中の重臣だが、つねに
のみならず曹操の文には、彼が夢想もしなかった
「よろしい。畏まった」
一も二もなく、楊松は、内応を約した。
彼は、漢中へ行って、すぐ張魯へ

「馬超の身内は、やはり馬超の身内でしかありません。彼は本気で戦っていないのです。せっかく、魏の陣屋を占領しながら、たちまち、それを敵に返し、
張魯はこの

何事かと、取るものも取りあえず帰ってみると、張魯は、

「この忘恩の徒め。よくも曹操と内通して、わが軍を売ったな」
と、思いもよらぬ怒り方で、果ては首を刎ねんと罵った。
「まず、まず、そうお怒り遊ばしては、

これは、かたわらに在った閻圃のとりなしであった。
結局、張魯は、閻圃の
「――では、一命をあずけておくが、再び前線へ出て、大功を立てぬときは、必ず軍律に照らして、その
と、ひとまずゆるした。

「つらいかな一日の恩!」
彼は、あえて無謀な戦闘へ突入した。悲壮な自滅を覚悟したものとみえる。単騎、敵陣へ深く斬り入って帰ろうとしなかった。
そのとき一つの丘の上に、曹操のすがたが見えた。曹操は、そこから呼びかけた。
「


「なにを!」

しかるに、彼は忽然と、丘のふもとで、その影を地上から失ってしまった。深さ二十尺もある
美禽はついに曹操の籠に入ったのだ。

――伝え聞いた張魯は、
「楊松のいったとおりだ」と、いよいよ楊松を信頼して、何事も彼に
すでに外郭の防禦も抛棄して、味方は四散しだしたと知ると、張魯の弟の
「全市全城を焼き払おう」と、焦土戦術を主張し、楊松は反対して、
「すみやかに降伏し給え」と、無血譲渡をすすめた。
張魯は、
「国財は、民の
と、よく事理を分別して、城内の財宝
占領後、曹操は、
「官庫の財宝を封印して、兵火や掠奪から救い、そのまま、次代の司権者に渡すとなした張魯の行いは、けだし張魯一代の善行といえよう。神妙な仕方というべきだ」
人を
楊松は、すすめたが、張衛は何としてもきかない。勝ち目のない抗戦をつづけ、我から求めて討死してしまった。
残敵を掃蕩しながら、曹操が巴中へ出馬して来たおりに、張魯は城を出て、ついにその馬前に拝伏した。
もちろん楊松が側についていた。楊松は内心、自分の功を、非常に高く評価している顔つきである。
それには眼もくれず、曹操は馬を降って、張魯の手を取った。そして慰めていった。
「
なお、旧臣のうち、五人を選んで、列侯に加えたが、その中に、閻圃の名はあったが、楊松の名は洩れていた。
楊松は、ひそかに自負すらく、
「おれには、もっと大きな
漢中平定の祝賀日。
街の辻に、首斬りが行われた。罪人の首は細々と痩せている。見物人は物を喰いながら、早く細首を落せと面白そうに騒いでいた。うらめしげに罪人は、見物人を見まわした。なんぞはからん、それが楊松であった。
戦後経営の施政などにはもっぱら参与して、その才能と圭角をぽつぽつ現わし始めていたが、一日、曹操にこう進言した。
「
重臣の
「仲達の意見は、まったくわれわれの考えを代表しています。年月を経ては、文治に孔明あり、武門に関羽、張飛、趙雲、黄忠、馬超などの五
と、しきりに云った。
これが以前の曹操だったら、一議に及ばぬことであろうが、赤壁の頃から、すでに彼も老齢に入る
「
一面。蜀の実情は、魏軍の目ざましい進出に対して、たしかに深刻な脅威をうけ、流言
何分にも、更生の蜀は、玄徳によって、新秩序が立てられてから、まだ日も浅いので、玄徳自身、多大の
その対策について、相議する時、孔明は明確に、方針を説いた。
「魏が

「計は甚だ遠大だが、さて、そんな外交的手腕を、誰が任じてゆくか」
玄徳が、座中を見まわした時、ふと一人の者と眼を見あわせた。その者はすぐ起って、
「私が行きましょう」
と、神妙にいった。諸人が、誰かと見ると、それは
「伊籍ならば」と、孔明もうなずいたし、満座もみな彼に
呉へ着く前、伊籍は、荊州へ上陸して、ひそかに関羽に会った。もちろん玄徳の内意と孔明の遠謀を語って打合せをすましておくためである。
呉では、この交渉をうけて、諸論
「断じて受けるな」といい、ある者は、
「それを
また、使者の伊籍が説くには、
「――それと共に、呉が合

だから、三郡を受取るには、条件付のようなものだった。結局、張昭や
荊州の領土貸借問題は、両国の国交上、多年にわたる
そこで、三郡の領土接収が無事にすむと、呉と蜀とは、初めて修交的な関係に入り、呉は、大軍を出して、
「まず、魏の

と、大体の作戦方針をそうきめた。
しかし※[#「白+宛」、U+24F82、314-12]城の攻略は、決して楽でなかった。
呉としては、
満城の血潮もまだ乾かぬ中で、孫権は、占領の日、
「戦はこれからだ。しかも
ところへ、
「残念なことをした。もう二日も早く着いていたら、この一戦に間に合ったものを」
と、凌統が左右の人々に語っていると、
「いやいや、まだ先には、


見ると、甘寧であった。
甘寧は、こんどの※[#「白+宛」、U+24F82、315-8]城陥落の際、一番乗りをしたので、きょう祝賀の宴に、呉侯孫権から錦の
「……ふふん。甘寧か」
凌統は、鼻さきで笑った。さっきから上機嫌な甘寧の
(……うぬ)と思ったせいか、甘寧のほうでも、
(この青二才が)
といわぬばかりな眼光を与えて、
「凌統。何を
と、色を変えた。――いや、凌統が無意識に手をかけた剣の
凌統はハッとした。まったく時も場所がらも忘れて、剣にかけていた自分の手に、気がついたからだった。
「――あいや、私にはまだ武勲がないので、せめて座興に、剣の舞でも舞って、諸兄の労をお慰め申さんかと存じまして」
いいながら彼はすぐ起って、剣舞をしはじめた。甘寧もさてはと、うしろの
「いや面白い。君が剣をもって舞うなら、それがしは戟をもって興を添えん」
と、両々たがいに閃々たる光を交え、舞うと見せて、実は、心中の遺恨を
「やあ、ちと面白すぎる。まるで炎と炎のようだ。俺が水を差してやろう」
すわ、大事と見たので、
初めは、何気なく見えていたが途中から孫権も気づいて、酔も醒めんばかりな顔していた。しかし呂蒙の機転に、ふたりとも血を見ずに、座へもどったので、彼はほっとしながら、
「さてさて、鮮やかに舞ったな。ふたりとも優雅なものだ。杯を与える。揃って、わが前へ来い」
と、さしまねき、両手の杯を、同時にふたりの手に授けて、
「いまや、呉は初めて、魏の敵地を踏んだところだ。呉の興亡を
と、くれぐれ

ここは、魏の境、国防の第一線と、身の重責を感じていたからである。
ところが、呉軍十万の圧力のもとに、前衛の

また、漢中に出征中の曹操からも、変を聞いて、
「丞相の作戦には、守備とあるか、籠城せよとお示しあるか。はやくお開き」
同じ城にある副将の楽進と李典は、
「では聞き給え、読み聞かせよう。……呉ノ積極ニ出デ来レル
「…………」
李典は、日頃、張遼と仲がわるい。そのせいか、黙りこんだまま返辞もしない。
一方の楽進は、すぐ云った。彼の意見は反対である。
「由来、守る戦で、勝てた戦はない。ましてこんな小勢で」
張遼はみなまで聞いていなかった。この際、議論は無用と肚はきまっていたからである。
「議論がやりたいなら、一人で議論してい給え。余人は知らず張遼には、私心をもって君の言をやめることはできない。――漢中からのご指揮どおり、我はまず城を出て、一戦に敵の出鼻をたたき、その後は、静かに籠城にかかるのみだ」
云い捨てて馬を呼び、はや戦場へ馳せ向おうとした。
すると、それまで黙然としていた――日頃は彼と不和な李典が、ぬっくと起って、
「そうだ、これは国家の大事、
と決然、張遼につづいて、城門から馳け出して行くのを見て、楽進もひとりで議論しているわけにもゆかず、続いて城外へ馬を出した。
呉の大軍は、すでに
「われに当る者あらんや」
といよいよ勝ち
そして、逍遥津の地を離れかけた頃、突然、
先手の
後陣の
だが、はるかに、中軍の旗が、裂かれる如く、乱れ立ったのを見て、凌統は、
「すわ、何事か、凶事か?」と、部下をも置き捨て、単騎、これへ馳けつけて来た。
見れば、孫権以下、中軍の旗本七百ばかりは、敵の奇襲に包囲されて、まったく
凌統は、声をあげて、乱軍のなかの孫権へ叫んだ。
「君っ、君っ、わが君。雑兵ごときを相手となし給わず、ひとまず
耳へとどいたか、孫権はふり向いて、
「おお、凌統か。案内せよ」
と云いながら、こちらへ向って、一目散に馳けてきた。
だが、二人して小師橋まで
「やあ。しまった」
馬は、水におどろいて、竿立ちになっていななく。
うしろからは、張遼の兵、三千ほどが、ふたりの影を認めて、雨のごとく、
「
孫権は、馬と共に、鞍上で身を揉んだ。
「いや、おさわぎになるには当りません。てまえのするようにして、後から続いておいでなさい」
凌統は、水ぎわから遠くへ、馬をかえして、改めて、勢いよく馳け出した。そして破壊された橋の水ぎわへ近づくや否、鞭も折れよと、馬のしりを打った。
馬は高く跳び上がって、水面を飛びこえ、後方の橋の端へ立った。孫権も、その
河の上に、後陣の徐盛や董襲の船が見えた。凌統は、半分になっている橋の上から、
「主君をここへ置いてゆくから
遠く先へ出過ぎた甘寧と呂蒙もにわかに後へもどって、魏軍と接戦していたが、何分にも、虚を衝かれたため、その備えは、中軍や後陣と一致せず、各所で魏軍に包囲されたり、寸断されたりして、おびただしい戦死者を出してしまった。
わけて、惨たる潰滅をうけたのは、凌統の隊だった。孫権の急場を救うために、まったく隊形を失い、主将を見失っている間に、魏の李典軍の包囲下に圧縮されて、これはほとんど一人の生存者もなかったほど、ひどい
隊長の、凌統も、二度目に引返してきたときは、すでに部下の大半以上討たれていたので、その苦戦ぶりは言語に絶し、ついに全身数ヵ所の
もう彼には、馬に鞭を加えて、そこを一跳びに越すような気力などがとうていなかったし、流れ入る血しおに、眼もかすんで、河も水も見えないような姿だった。
河中の舟から孫権が、その姿を見つけた。孫権は舟べりを叩いて、
「あれ助けよ。凌統に違いない」と、声も
ようやく一つの舟が、岸へ寄って、彼を拾ってきた。そのほか敗残の味方も、次々に河の北へ収容した。敵に追われて、舟を待ついとまもなく、
「不覚、不覚。なんたるまずい戦をしたものか」
孫権は、敗軍をまとめて、その損傷の莫大なのに、胆をすくめながら、無念そうにくり返してばかりいた。
重傷の凌統は、全身の
「思い合せれば、
「
孫権も涙を流してつぶやいた。
しかし、大事はここに一頓挫をきたした。呉軍は、新手を加えて、再装備の必要に迫られ、ついに大江を下って、呉の
呉の国では、幼い子どもまでが、魏の
以ていかに、張遼の勇と、その智が、呉兵の胆にふかく刻みこまれたかがわかる。
張遼は、みずから、
「これは、望外な
すぐ急使を漢中に送り、ひとまず戦況を報告して、なお他日のために、大軍の増派を要請した。
「このまま、蜀へ進まんか。ひとたび還って、呉を討つがよいか」
曹操も、この二大方向の
いま漢中は
いわんや、呉といえば、あの赤壁の恨みが
「漢中の守りは、

曹操は決断した。壮図なお老いずである。江を下る百帆の兵船、陸を行く千車万騎、すでに江南を呑むの概を示して、大揚子江の流れに出で、呉都
「来れ、遠路の兵馬」と、呉軍は待ち構えていた。彼が長途のつかれを討つべく。
その先陣を希望して、われに、自分にと、争った者は、またしても、宿怨ある
「ふたりで行け、凌統を第一陣に、甘寧を二陣として」
孫権も、他の諸大将と、輪陣を作って、堂々、あとから押出した。
濡須一帯は、戦場と化した。曹操の先鋒は、泣く子も黙る
「凌統が危ない。
「おうっ」
と、呂蒙は一軍を率いて駈け出した。
そのあとへ、甘寧が来て、
「案外、敵は堅固です。総勢約四十万、さすがにどの陣も、疲労を見せておりません。これに、長途の疲労あるものと、正面からかかっては、大きな誤算となりましょう。てまえに、屈強の兵百人をおさずけ下さい。今夜、曹操の本陣を脅かしてごらんに入れます」
「わずか百人で」
「仕損じたらお
「おもしろい」と孫権は彼の希望を容れた。特に直属の精鋭中から百人を選んで与えた。
甘寧は夕方、その百勇士を自分の陣所に招いて、一列に円くなって坐り、酒十樽、羊の肉五十
「これは呉侯からの拝領物だから、存分に
と、まず自身、
肉を喰い、酒をあおり、百名は遺憾なく近来の慾をみたした。そこで甘寧は、
「もっと飲め、もっと喰え。今夜この百人で、曹操の中軍へ斬込むのだ。あとに思い残りのないようにやれ」と告げた。
一同は顔を見あわせた。酔った眼色も急にうろたえている。こんな百人ばかりの勢でどうして? ――といわんばかりな顔つきだ。
甘寧は、さッと、剣を抜き、起って、
「呉の大将軍たる甘寧すら、国のためには、生命を惜しまぬのに、汝ら身を惜しんでわが命令にひるむかっ」
違背する者は斬らんという前触れである。ここで死ぬよりはと、百勇士はことごとく、剣の下に坐り直して、
「ねがわくは将軍に従って死をともにしたいと思います」
と、ぜひなく誓った。
「よし。ではめいめい、

と、白い
夜も二更を過ぎると、この一隊は
「それっ、
柵へ近づくや、立ちどころに
たちまち、諸所に火の手があがる。
暗さは暗し、曹操の旗本は、右往左往、到る所で、同士討ちばかり演じた。
甘寧は、思う存分、あばれ廻った。時分はよしと、百人を一ヵ所にあつめ、一兵も損ぜず、風のごとく引返してきた。
「将軍の胆は、さだめし曹操の魂を
孫権は、刀百
魏に張遼あるも、呉に甘寧あり――と、呉の士気は、ために大いに振るった。
昨夜の雪辱を期してであろう。夜が明けるとともに、
「きょうこそは、
呉の凌統も、手に
凌統は、馬上、刀をひっさげて、疾風のように斜行し、
「来れるは、張遼か」
と、斬りつけた。
「おれは、楽進だ」
とその者は、槍をひねって、直ちに応戦してきた。
人違いか――と、舌打ちしたが、もうほかを顧みるいとまもない。楽進を相手に、五十余合も戦った。
すると、彼方の張遼のうしろから、曹操の御曹司曹丕が、鉄弓を張って、ぶんと矢を放った。
凌統を狙ったのだが、すこし
「しめたっ」
と楽進は、槍を逆しまにして、地上へ向けた。凌統が勢いよく落馬していたからである。
ところが、その時また、どこからか一本の矢がひょうッと飛んできた。楽進の
呉の将も倒れ、魏の将も傷ついたので、両軍同時にわっと混み合って、互いに味方を助けて
「またしても、不覚をとりました。残念でなりません」
孫権の前に出て、凌統が面目なげに詫びると、孫権は、
「兵家のつねだ」と慰めて、「きょう汝を救った者は誰ぞと思うか」といった。
凌統は、座の左右を見まわした。甘寧が黙ってひかえている。はっと思うと、孫権はかさねて、「楽進の眉間を射たものはそこにいる甘寧だ。日頃の友誼をさらに篤く思うだろう」といった。
凌統は、涙をたれて、甘寧の前に手をつかえた。以来ふたりは、まったく旧怨をわすれ、生死の交わりをむすんだという。
次の日、魏の軍は、前日に倍加した勢いで、水陸から、呉陣へ迫った。
「さては曹操も、
呉陣も、それに応ずる大軍を展列して、
この日、目ざましかったのは、徐盛、
しかも董襲の兵船は、河の中で沈没し、そのほかの兵船も、帆を裂かれ、彼方此方の岸にぶつけられ、さんざんな目に遭ったところへ、新手の魏軍が、徐盛の兵を包囲して、その半ばを、殲滅してしまった。
「あれ、救え」
と孫権の指揮をうけて、陳武が呉陣から馳け出して来ると、魏の一軍が、堤の蔭からつと起って、
「ひとりも余すな」と、またまた、ここに

かくて、この荒天の下、呉の旗色は、急に悪くなって、今は、総敗軍のほかなきに至ったが、若い孫権は、
「何事かあらん」
と、自身、中軍を引いて、濡須の岸へ、繰りだしてきた。ところがここには、張遼、徐晃の二手が待ちかまえていた。
曹操は百戦練磨の人。孫権は体験少なく、ややもすれば、血気に
いまや、
曹操は小高い
「今ぞ。孫権を
それは自分を励ました声と、

呉兵の死屍はいやが上にも
呉の一将周泰は、その中をよく奮戦して、一方に血路をひらき、河流の岸までのがれて来たが、顧みると、主君孫権はなお囲みから出ることができず、彼方にあって揉みつつまれている様子。
「周泰はここにいますっ。周泰はこれにありっ。早く此方へ来給え」
呼ばわりつつ、周泰は敵の背後へまわって、その包囲を脅かし、一角の崩れを見ると、
「いざ、いざ、こうなっては、何事もあとに任せて」
と、孫権と駒を並べ、ほとんど、わき目もふらず、敵の矢道を走り抜けた。
そこへ折よく、呂蒙の一軍が、中軍の大敗を案じて引っ返して来た。周泰は、
「舟をっ。舟をっ」と水へ向って声を
けれど、あとの戦場は、なお土煙や血煙に、濛々としている。孫権は、悲痛な声してさけんだ。
「
「見て来ましょう」
周泰は、ふたたび戻って、むらがる魏の人馬の中へ、没していった。孫権は、思わず、ああと、
「自分を救い出すため、血路をひらいては、またあとへ戻ること三度。さらにまた、徐盛を助けるために、敢然、死地へ入って行った。――天よ、わが忠勇の士に、加護をたれ給え」
眉をふさいで、
周泰は帰ってきた。しかも徐盛を
けれど二人とも、満身
呂蒙はその間に、射手百人の弓陣を布いて、追い迫ってくる敵を喰いとめ、さらに、その弓陣を、船上に移し、孫権の身を守りながら、徐々と下流へ退陣した。
ここに悲壮な討死をとげたのは、呉の陳武だった。彼は



曹操は、前夜、自己の中軍を
「あれ見失うな」と、自身江岸に沿って、士卒を励まし、数千の射手に、絶好な
その上、いよいよ広やかな河の合流点まで来ると、本流長江のほうから呉の兵船数百艘がさかのぼって来た。これなん一族の
孫権は初めて蘇生の思いをなした。
十万の味方を見ても、孫権以下の諸将は、みな重軽傷を負っているので、
「きょうの戦もこれまで」
と、
「このまま総退軍しては、曹操は呉に対して、いよいよ必勝の信念を持つ。また味方の兵も、魏は強しと、ふかく彼を恐れ、勝ちを忘れるにいたるであろう。――退くにせよ、呉にもなお後備の実力のあることを示してからでなければならん」
陸遜は壮語して、孫権や重傷者は船中にのこし、その余の残兵にこれを守らせておき、新手の十万をすべて岸へ上げて、呉のために死せよと命令した。
まず、曹操は、この新手の堅陣が射る確かな矢風に射立てられ、
「こはそも如何に」
形勢の悪化に、狼狽せざるを得なかった。
「敵はみだれ出したぞ」
陸遜は、彼の
何しても、その兵数において、その新手の精気において、陸遜軍は圧倒的にすぐれていた。打ち取った

かくて陸遜は、魏の勢を遠く追って、完全なる呉の勝利を取りかえしたばかりでなく、きょう孫権が大敗した戦場まで行って、味方の死体や旗やおびただしい陣具まできれいに収容して来た。
その結果、部下の陳武は討たれ、
「せめて、董襲の死骸なりともさがし求めよ」
と、水練に長じた者を入れて、その
さて、
「周泰。汝は呉の功臣だぞ。今日以後、われは汝と
と云い、その盃を彼の手に持たせた。
そしてまた、
「先頃の傷はどんなか」と、肌を脱がせて、その
「ああ、この
と、孫権は周泰の背をなでて、果てしなく彼の
彼は、周泰の功を平常にも
もちろん陸遜以下そのほかの諸将にも、各

「呉の強さはかくの如し。北国の魏賊、何かあらん」
と、全軍の末輩にいたるまで、意気いよいよ
対陣一ヵ月の余になった。
曹操は、そのあいだみだりに動かなかったが、黙々と、戦備を充実し、兵力を加え、さらに大規模な次期の作戦をえがいているように思われた。
呉の老臣、張昭がいった。
「決して、楽観をゆるしません。何といっても、曹操は曹操です。
孫権のほうから、やがて
「中央の府に対し、毎年、
けれど、真の平和の到来でないことは、魏にも呉にも分っていた。曹操は全軍を引いて都へ帰り、孫権は

呉に年々の
侍中の
「そう皆がいうなら……」
と、曹操も王位に昇ろうという色を示していた。ところが諸人の議場で、尚書の

「ご無用になさい。そんなばかなことをおすすめするのは」と、媚態派の人々を
諸官は怒って、
「ばかなこととはなんだ。貴様も丞相から睨まれて、


「およそ、
「何だと」
大喧嘩になった。
曹操の耳に聞えた。もちろん媚態派の
「舌でも噛め」と、獄へほうり込ませた。
崔

「漢の天下を奪う逆賊は、ついに曹操ときまった」
と、大声で罵りちらした。
それを聞くと曹操は、さっそく
「やかましいから黙らせろ」と、いいつけた。
崔

建安二十一年五月。もろもろの官吏軍臣は、帝に奏して、
――魏公曹操、功高ク、徳ハ宏大ニシテ、天ヲ極メ、地ヲ際 ル。伊尹 ノ周公モ及バザルコト遠シ。ヨロシク王位ニススメ、魏王ノ位ヲ賜ワランコトヲ。
と、いうのである。帝はやむなく、

「聖命もだし
と、曹操は王位をうけた。
十二旒の
さっそく、

曹操には四人の子がある。みな男子だった。
このうちで、曹操が、(わが
嫡男の
(……怪しからん)と、不満に思った。曹家は自分が

「……こうなさいませ」
賈

だが曹丕は、賈

曹操は、あとで考えた。
「詩は巧み、珠玉の字をつらねているが、曹植のその才よりも、曹丕の無言のほうが、もっと大きな真情をもっているのじゃないかな?」
それから彼の子をみる眼がまたすこし変った。
曹丕はその後も、父曹操の近習たちへ、特に目をかけて、金銀を与えたり、徳を施したり、歓心を得ることにぬかりなく努めたので、
「ご嫡男にはもう仁君の徳を自然に備えておいで遊ばされる」
と、もっぱら彼の評判はよかった。
曹操もやがて、すでに魏王の位にも昇ると世嗣のことが、彼の意中にさし迫る問題となっていた。そこである時、思いあまって、賈

「――曹丕をあとに立てるべきだろうか。それとも曹植がよかろうか」
賈

「それは、私にお
劉表も袁紹も、世子問題では、大きな内政の
「いや、そうか。人間というものは、案外、分りきっていることに分別を迷うものだ。はははは、よし、よし」
心は決したのである。その後間もなく、
――嫡子
と、発表した。
冬十月。魏王宮の大土木も竣工した。その完成を祝う祝宴のため、府から諸州へ人を派して、
「各州、おのおの、特色ある
と布達した。
呉の福建は、

「ご苦労さまだな。みな疲れたろうに」
片輪の老人は、白い藤の花を
人夫のひとりが冗談にいった。
「爺さん。助けてくれ。これからまだ千里もあるんだ」
「よしよし」
老人は本気になって、一人の人夫の荷を
「おぬしらの荷は、みなわしが担ってやるぞ。わしのおる限り
風のように先へ走りだした。
一荷でも失っては大変と、あとの者は、あわてて続いた。ところが、老人のいったとおり、荷を担いでも、ほんとうに身軽のようで、少しも重さを感じないので、疑い怪しまぬ者はなかった。
別れ際に、人夫の宰領が、老人に素性をたずねた。老人は、答えていう。
「わしは、魏王曹操とは、同郷の友で、
やがて

「呉の奉行を
奉行は調べられてもただ
「はてな?」と、首を傾けている。同郷の友といえば少年時代のことだ。あまりに
ところへ、王宮の門へ、
「大王にお目にかかりたい」
といってきた一老人があるという。召し入れて見れば、その左慈だった。曹操は、彼を見るや否や、柑子の
「そんな筈はない。どれどれ」
と、自身で柑子を取って割ってみせた。芳香の高い果肉は彼の掌から甘い
「大王。まあこの柑子を一つ、召上がってごらんなさい。いま木からもいだように水々としていますから」
曹操は、驚いたが、油断ならずと思ったか、左慈に向って、
「まず、毒味をせよ」と、いった。
左慈は笑って、
「柑子の美味を満喫するなら、てまえは一山の柑子の樹の実を、みな喰べなければおさまりません。ねがわくは、酒と肉をいただきたいもので、柑子は口直しに後でいただきます」と、答えた。
酒五斗に、大きな羊を、丸焼きのまま銀盤に供えて
「これは凡人でない」
と思ったか、曹操も、やや
左慈は、答えて、
「郷を出てから、
「……ふむ。それも一理ある言だな。しかし、まだ天下はほんとに治まっていないし、朝廷におかれても、この曹操にかわって、
「その辺は、ご心配ないでしょう。劉玄徳は、天子の宗親。彼にまかせれば、大王がおられるよりも、万民は安んじ、朝廷もご安心になろう」
見る見るうちに曹操の顔は激色に
「よく
有無をいわせず、武士たちは左慈を
「この上は眠らせるな」
鉄の
ところが、すこし時経つと、すぐこころよげな
曹操は、聞いて、
「
「いったい、汝は魔か人間か」
ついに、獄から出して、曹操がたずねると、左慈は、
「一日に千疋の羊を食べても飽くことは知らないし、十年喰わずにいても飢えることは決してない。そういう人間をつかまえて、大王のしていることは、まったく天に向って
魏王宮落成の大宴の日が来た。国々の美味、山海の珍味、調わざるなく、参来の武人百官は、雲か虹のごとく、魏王宮の一殿を埋めた。
ときに、高い
「やあ、お揃いだね」
と、なれなれしく諸官を見まわした。
曹操は、きょうこそこの
「こら、招かざる客。汝は、きょうの賀に、何を献じたか」
と、いった。左慈は、直ちに、
「されば、季節は冬、百味の
「花なら
「てまえも、そう思っていました」
左慈は、ぷっと、唇から水を噴いた。
王宮の千客は、みな眼をこすり合った。眼のせいか、気のせいかと、怪しんだのであろう。
ところへ、各人の卓へ、
「魏王が一代のご馳走といってもいいこの大宴に、名も知れぬ魚の料理とは、貧弱ではないか。大王、なぜ
と、人もなげにいった。
曹操は、赤面しながら、
「
「はて、さて、造作もないのに」
「左慈、あまりに、戯れをいって客の興をみだすまいぞ」
「いや、ほんとですよ。
左慈は、一
「大王、何尾ほど、ご入用ですか。松江の鱸は」
「左慈、汝の釣ったのは、みな予が池に放しておいた鱸だ。その鱸ならば、料理番でも釣っておる」
「嘘をおいいなさい。松江の鱸は、かならず
試みに、客が、鱸の腮を調べてみると、どれもこれも、まさしくエラが四枚あった。
曹操も、客も、
「いにしえから、松江の
「おやすいこと」
左慈は、左の袂へ手を入れた。そして幾つかみもの薑を黄金の盆へ盛ってみせた。
「怪しげな?」と呟きながら、曹操は、近侍の者に、盆をこれへと命じた。近侍が、盆を捧げた。しかるに、いつのまにか、薑は一巻の書物に変っていた。
見ると「孟徳新書」という
「左慈。これは誰の書いた書物か」と、空とぼけて訊いてみた。
「は、は、は、は。さて誰の著書でしょうな、どうせ大したものじゃありますまい」
試みに、曹操は手に取ってひらいてみると、自分の書いたものと一字一句も違わないので、いよいよ心中に、この怪士、生かしおくべからずと誓った。
左慈は、側へすすんできて、
「大王に、不老の
と、冠の上の玉を取って、盃の中ほどに一線を描き、その半分をまず自分が飲んで、曹操に献じた。
曹操が、その酒をふくんでみると、まるで水ッぽくて、飲めたものではない。思わず盃を下に置いて、
人々は、あッと、眼をあげた。
あれよ、あれよ、とばかり満座みな怪しみうろたえている間に、左慈のすがたは、いつのまにか消えていた。それと気づいて、曹操が、
「しまった。宮門を閉じろ」
あわただしく、近侍から諸門へ
「青い衣を着、藤の花を冠にさした怪奇な老人は、もう靴を鳴らして、城外の街をうろついている由です」
と、外門の将からいって来た。
「とらえて来い。いかなる犠牲を払っても」
曹操の峻烈な命は、すなわち


左慈のすがたに追いついた。
やがて、山の麓へ来た。
とうてい、追いつくべくも見えないので、

「射止めろ。弓で」と、大汗で励ました。
五百弓の
「てッきり、この中にいる」と、許

そして、引っ返してくるとその途中、おいおいと泣いている一人の童子に会った。
「こら、子供。何を悲しむか」
許

「おらの飼っている羊を、自分の手下にみな殺させておきながら、何を悲しむかもないもんだ。ばかやろう」
童子は、罵って、逃げだした。一人の部下は、あれも怪しいと、矢をつがえて、うしろから放った。
いくら射っても、矢はヘロヘロと地に落ちてしまった。その間に、童子はわが家へとびこんで、もっと大きな声して泣きぬいていた。
翌る日、童子の親が、王宮へ謝まりにきた。――きのう家の腕白が、お城の大将にむかって、羊を殺されたいまいましさの余り、悪口をたたいて逃げたそうですが、今朝起きてみると、一夜のうちに、死んだ羊がみな生きかえって、いつものように牧場で群れ遊んでいる。ふしぎでたまりませんが、事実なので、何はともあれ、小せがれの罪をおわびに参りました――というのである。
今朝、許

「どうあっても探しだせ。どうあっても打ち殺してしまわねばならん」
王宮の画工を招いて、左慈の肖像を画かせた。その人相書を原本として、各地へわたり、数千の同じ図を配布した。
「召し捕りました」
「
三日もするうちに、各県郡から四、五百人も同じ左慈を差し立ててきた。王宮の獄は、左慈だらけになってしまった。なぜならば、そのどれを見てもびっこで、
「よいよい。いちいち調べるのもわずらわしい」
曹操は命じて、城南の練兵場に、破邪の祭壇をしつらえさせた。そして羊や
すると、
――
と、宇宙から呼ばわった。
曹操は、諸将に下知して、雲も裂けよと、弓鉄砲を撃ちかけた。すると、たちまち狂風吹き起って、
この日、太陽は妙に白っぽく、雲は酔人の眼のように、赤い無数の虹を帯びていた。市人も、
「これはいったい何の
あとで聞けば。
練兵場に積みあげられた四、五百の屍が、またたく間に、みなむくむく起きだして、それが一かたまりの
さしも豪胆な魏の諸大将も、これにはみな慄えあがり、曹操もまた、諸人に
「何となく
「風邪気味のせいか、物の味がわるい」
などと云い始めていた。
太史丞の
曹操は、起きていたが、以来、何となくすぐれない容態である。
「許都に、
「大王、卜の名人ならば、許都にお求めになるよりは、この近くにおりますが」
「それは倖せだ。何というものか」
「
「
「たくさん聞いております」
許芝は、語りだした。
「――まず、素姓からいうならば、
「神童。――神童に、長じてまで神童だった者はないぞ」
「ところがです。管輅は、今もって、その名を
――家鶏 野鵠 モオノズカラ時ヲ知リ風雨ヲ知リ天変ヲ覚 ル。イカニ況 ンヤ人タルモノヲヤ。豈 、天文グライヲ知ラナイデ人間トイエマスカ。
そう答えたそうです。また長ずるに及んでは、「そんなのは、世間、いくらもあるじゃないか。学究というものだ。しかもこの学究、案外、学究のほかではつかいものにならん」
「いや、
「すこしは学者らしいところがあるな。しかし、
「それが大したもので。――ある折、旅の宿を求めると、家の主が、易者と知って、いまし方、わが家の屋根に、山鳩が来て、いつになくあわれな声で啼き去った。
――午 ノ刻ニ、主 ノ親シキ者、猪 ノ肉卜酒トヲタズサエテ、訪 イ来ラン、ソノ人、東ヨリ来テ、コノ家ニ、悲シミヲモタラス。
と予言したそうです。果たしてその時刻に、主の曹操はまだそう感心したような顔を見せなかった。
「安平の太守
「ふうむ……どんなふうに」
「まず燕の卵と、蜂の巣と、
その一には、
気ヲ含ンデスベカラク変ズ。堂宇 ニ依ル。雌雄容 ヲ以テ、羽翼ヲ舒 ベ張ル。コレ燕ノ卵ナリ。
その二には、

「……それから?」
曹操は、いくらでも、例話を聞きたがった。病中のつれづれには、またなく興味をひいたらしい。
「――
――北渓ノ西ヘ行ッテミナサイ。下手人ガ七人オル。皮ト肉トハ、未ダアルダロウカラ。
と。――そこで女が行ってみると、果たして一軒の茅屋に、七人の男が車座で、牛を煮て喰いながら酒もりしていたそうです。すぐ所の役人へ訴えたので、七人の泥棒は捕まり、皮と肉は、女の手へ戻されたそうです」「おもしろいものだな。
「今申し上げた牛飼の女のことが、太守に聞えたので、管輅を召し、山鶏の毛と、印章の
「ふふむ……」
「それから
「それだ」と、曹操は、待っていたように、
「過ぎ去ったことだの、
「人命はすなわち天命、人事及びがたし。――断ったのです。けれど老父も美少年も泣いてやみません。あわれを覚えて、つい管輅が教えました。一

――誰が何といっても今は観ないと聞くと、曹操は急に、眼を
「呼んでこい、ぜひ、その管輅を魏宮へつれて来い。どこにいるのか、今は」
「平原の郷里にかくれています」
「おまえが行ってこい。迎えの使いに」
「かしこまりました」
管輅はかたく召しを拒んだ。けれど許芝が再三の懇望と、魏王の命というのにもだし得ず、ついに伴われて、曹操の前に出た。
曹操は、まずいった。
「
管輅は笑って答えた。
「大王はすでに
「しからば、予の病について卜え。何か妖者の気でも
と、彼は近頃しきりに気になっている左慈の事件を仔細にはなした。
すると管輅はなお笑って、
「それはみな世にいう幻術というものです。幻語幻気を吐いて、巧みに人の心眼を惑わし、即妙の振舞をして見せるものですが、もとより実相のものには非ず、大王何ぞ御心に病むことやある。奇妙というにも足らないではありませんか」と、いった。
曹操は急に気のはれ上がったような顔をした。本来の彼の知識も彼を
「いや、そうか。そういわれてみると、
「茫々たる天数、何で、小さい人智を以て、測り得ましょう。訊くほうがご無理です」
管輅はあえて天眼を誇らない。むしろ凡々と装って、そういう大事に語を避けた。
けれど曹操が、世間ばなしの如く、打ちとけた態をもって、諸州の形勢をものがたり、玄徳、孫権などの噂に及び、それとなく各国の軍備や兵力、また文化の進展などについて、飽くなく話しかけると、管輅もそれにつられて、自己の見解をのべ、天数運行の理をもって、事ごとに、判断を下した。
曹操はすっかり傾倒してしまった。彼も天文や陰陽学には並ならぬ興味をもっているので、管輅が世の常のいわゆる
「汝を
と、心をひいてみた。
管輅は、首を振って、
「折角ですが、私の人相は、官吏になる相ではありません。額に

「さすがによく
「それは、大王のお
とのみで、あえて、明答しなかった。
曹操はかさねて、
「このところ、呉の国の吉凶はどうだろう」
と、敵の運命を
管輅は言下にいった。
「呉では、誰か有力な重臣が死ぬと思われます」
「蜀は?」
「蜀は兵気さかんです。察するに、近日、界を
すると、幾日もたたないうちに

「呉の功臣
さらに、曹操を驚かせたものは、漢中からの使者による、
「蜀の玄徳、すでに内治の功をあげ、いよいよ馬超、張飛の二軍を先手として、漢中へ進攻の気勢を示す」
という情報であった。
管輅の予言は、二つとも、的中していた。曹操はすぐ出馬を計ったが、管輅はふたたび予言して、
「来春早々、都のうちに、かならず火の禍いがありましょう。大王はめったに遠くへ
と、告げたため、彼は、曹洪に五万騎をさずけてさし向け、身は、

漢中の境を防ぐため、大軍を送りだした後も、曹操は何となく、安からぬものを抱いていた。
「都というからには、もちろん、この

「許都に入らず、許都の郊外に
司馬懿仲達が、側で眉をひそめた。
「王必を御林軍の師団長に任ずるのはいかがなものでしょうか。彼は酒を好み、
「いや、王必の短所は、予も知っているが、あれも長らく
曹操には、曹操にもあるのかしらと思われるような、こういう一面の寛度と情味もあった。ここらが、彼に仕える人物が長く彼を離れないでいる一つの理由というよりはうま味というものであったろう。
ともあれ、命をうけた夏侯惇は、兵をひきいて、許都の府外に宿営し、王必はそういうわけで、御林軍の長となって、日々、禁門や市街の警備にあたり、その営を東華門の外においていた。
これは曹操にしてみれば災いを未然に防ぐ消極的な一工作に過ぎなかったが、皇城を中心として、彼の魏王
「近衛の司令を、王必に替え、府外に三万の兵を待機させておくは、何か容易ならぬ企みがあるに違いない」
「おそらく、曹操がこの次に望んでいるものは、魏王以上のものだろう。近いうちに、不逞な実行をあえてして、おのれ漢朝の世代を継いで皇帝を名乗らんとする下心にちがいない」
早くもこういう見解が、一派の漢朝の忠臣間にささやき伝えられた。さなきだに曹操が魏王を称して、天子にひとしい車服儀仗を用いるを眺めて、
「捨ておくべきでない」と、同志のあいだに、密々、連絡をとっていた。
ここに、
「いつかは」と、時節を期していたところが、この情勢なので、当然、大きな衝動をうけ、
「われら漢朝の旧臣たるもの、
と、ひそかに友の
韋晃もいった。
「坐して、その大悪を見ているにも忍びない。むしろ、彼らの機先を制し、かねての大事をこの時に挙げるに
「それは頼もしいが、魏王に
「漢の



「そりゃあ、あてにならん」
「


「いやいや。王必の交わりと、自分との交わりとは、まったく意味がちがう」――と、韋晃は自信をもって、
「試みに、君と僕と、ふたりして

「さらば、金

「これはおめずらしい。せっかくのお越しでも、何もないが、ゆるりと茶でも煮て語りましょう」
「いやご主人。きょうは友人の
「わしに、お頼みとは?」
「余の儀でもありませんが、近いうちに、魏王曹操には、いよいよ漢朝の大統をみずからお継ぎになろうとするのではありませんか。――何となく情勢から推してそんな気がするのですが」
「ふむ。……そうかの」
「――と、なれば、きっと、尊台にも、ご栄職につかれ、いよいよ官位もお進みになりましょう。その折には、ぜひわれら両名にも、何か役儀を仰せつけ下すって、日頃のよしみにお引立てくださるよう。今からお願い申しに来たわけです」
ふたりが揃って

「こんな客に茶など出さなくてもよい」
と、盆ぐるみとり上げて、庭園へほうり捨てた。
むっとした色を見せて、
「こんな客とは何だっ、こんな客とは!」
「客というもけがらわしい。
「怪しからぬ暴言を。――ははあ読めた。やがて自分の出世も約束されているので、もう高位顕官を気どり込み、われわれ如き末輩とは同席もならんというわけか。はてさて日頃の誼みなどというものは頼りにならんものだ。おい
すると今度は、主の金

「待てっ、虫けらどもっ」
「虫けらとは、聞き捨てならん。汝こそ、常日頃の友達がいも知らぬ犬畜生。いてくれといっても、もういてやるものか。そこを
「たれが、引止めるものか。しかし一言いって聞かせることがある。よく聞け。そもそも、汝の如き若輩でも心の友よと、ひそかにわしがゆるしていたのは、ただただ互いに漢朝の旧臣たり、また、年久しき帝の御悩みやら、朝儀の御式微を相嘆いて、いつかはこの浅ましき世を建て直し、ふたたび回天の日を仰ぎ見んものという志を同じゅうする者と思えばこそであった。――しかるに何ぞや、いま黙って聞いていれば、魏王がやがて漢朝の代を

「…………」
そして、うなずきあうと、
「今のおことばはご本心ですか」
と、左右からすり寄った。
金

「あたりまえだ。本心でなくてこんなことがいえるか。さあ、文句をいわずに出て行き給え」
と、身をひらいて、
「先刻からの無礼はおゆるし下さい。実は、あなたのお心を試したのです。鉄石の如き
韋晃も、また耿紀も、そういって、彼の足もとへひざまずいた。
金

そこで初めて、二人は意中を打明けた。今にして日頃の素志を貫かなければ、ついに曹操の大野望は、難なくここに実現を見ることになろうと、近時の形勢から推論して、
「まず、彼に先んじて、

「誓って国賊を除かん」
と、
以来、日々夜々、同志は人目をしのんでは、金


「卿らも、或いはご承知だろうが、亡き

「それはぜひ呼んで下さい」
「異存なければ」と、

若い

かかるうちにその年も暮れた。そして正月十五日の夜は、
一同は、この夜を、大事決行の時と、手ぬかりなく、
その手筈は。
東華門の
一面、

(天子の勅命によって、こよい国賊を伐つ。民は安んじて、ただ朝廷をお護りし奉れ。若き者は、錦旗のもとに馳せつけ、一かたまりとなって、


と呼ばわらせ、御林軍のほかに、民兵も大いに集めて、気勢を昂げようというのであった。
各



「郊外へ
と称し、ひそかに武具を揃え、馬をひきだし、物見を放って、街の空気をうかがわせていた。
さて、もう一名の同志

街は戸ごとに
王必の営中では、宵の口から酒宴がひらかれ、将士はもとより、馬飼の小者にいたるまで、怪しげな鳴物を叩いたり、放歌したり、踊ったり、無礼講というので、いやもうたいへんな賑いだった。
「もう、もう……

「いつになく、早いじゃないか。酒宴はこれからだ。まあ座に戻り給え。おいおい、金

盃を持った手を高くあげて、遠くから声をかけていると、そのとき営中の二ヵ所から火が出たと告げる者があって、酒席は一瞬のまに暗黒となった。
「どこだ」「何事か」「過失か、
騒然たる口々の声もすでにむせるような煙につつまれだした。火はまさしく営内のすぐ裏と南門の傍から燃えだしている。
金

そのとき西門、南門から営中へ斬り込んできた一隊の叛乱軍がある。王必を射たのは、その先頭に立ってきた
「余人や雑兵に眼をくるるな」
と、見す見す落馬していたものを馬蹄の下にして、先へ
王必は、そのため、命びろいしたようなものである。混乱の中に馬をひろい、燃えている南門の外から市街へ逃げ出した。彼の想像では何万という敵が足もとから起ったように感ぜられたに違いない。
わっわっと、後ろから黒い人影が追ってくる。彼の部下なのだ。しかし彼はそれすら、敵ではないかと、生きたそらもないらしい。
郊外にある
「そうだ、金


すると、邸のうちには、門番もいなければ、

金

「オオ。お帰り遊ばせ。今すぐに開けまする。……王必は首尾よくお討ち取りになりましたか」
「えっ?」
王必は仰天した。
さては、こよいの叛乱は、

「いや、門違いした。ご免」
と云い捨てるや否、倉皇と馳け出して、こんどは、曹休の邸へ行った。
曹休の郎党は、みな
「王必が、血まみれになって来ました」
と、家人の取次ぎに、曹休はすぐ彼に会った。そして仔細を聞き取ると、
「それは容易ならぬ計画のもとに行われた仕事に違いない。すぐ宮中へ行って、帝の御座を護れ」
と、居合わす一族と郎党をひきいて、火の粉の降りしきる下を禁門へ向って馳け出した。
市中といわず、禁門の中といわず、火の狂うところには、
「
という声があった。
また、
「死ねや死ねや。漢朝のために――」
と、悲壮な叫びが聞えた。
けれど、曹休をはじめ、曹氏の一族は、市街に戦い、禁門に争い、これもまた、命を惜しまず、叛乱兵と斬りむすび、よく宮中を守っていた。
かかるうちに、火は東華門から
そのうち城外五里の地に屯している
「ただならぬ空の赤さ。何事か
と、早くも出動を開始して、続々、市街へ入ってきた。
こうなってはもう


当然、韋晃は苦戦に陥ったのみならず、こういう手違いと情勢の不振を見たため、御林軍の多くは、二の足を踏んでしまい、予定のとおり錦旗の下に集まって、反魏王、反曹一族の声明をすることすら避けてしまった。
あわれを止めたのは、太医吉平の子、


「昨夜、洛内を騒がした

曹操は、この訴えに、
「さてこそ、
と、思い当ると共に、朝廷の内深くひそんでいる漢朝旧臣派の根づよい結束に身の毛をよだてて、
「こういう時は、根を刈らねばならん。およそ漢朝の旧臣と名のつく輩は、その位官高下を問わず、

もちろんそれは、今度の魏王

熱血児耿紀は、うしろ手に縛されて、大路をひかれて行きながら、天を睨んで、
「曹操曹操。今日、生きて汝を殺すあたわずとも、死して鬼となり、かならず数年のうちに、汝を鬼籍に招いてやるぞ。待っておれっ」
と、罵ってやまなかったという。
同志の韋晃は、刑場に坐って、すでにその
「待てっ」
と、刑吏をにらみつけて、からからと自嘲を洩らしたと思うと、
「恨むべし、恨むべし。天にあらず、微忠のなお至らざるを」
と、大きく叫んで、頭上の一閃も待たず、自らその頭を大地へ叩きつけて、歯牙も頭蓋骨もこなごなに砕いて死んでしまった。

わずかに、心から市人の胸を慰めたものは、御林軍の大将王必が、
代々漢朝の臣であり、

ここへ来て、彼らは初めて曹操の魏王宮を見、その華麗壮大なのに、
そして、心ひそかに、
「ああ、もう都は、許都にはなく、

と、つぶやき合った。
曹操は、この汚い百官の群れを、その壮麗な魏宮の庭園に立たせ、
「先頃の乱のとき、汝らのうちには、門を閉じて、ただ慄えあがっていた者もあろうし、また、敢然出て火を鎮めんと、働いた者もあるであろう。いちいち調べるのは、面倒くさい。あれに紅白二旒の旗が立ててあるから、火を防ぎに出た者は、
まるで
「……?」
官人たちは、お互いに右をみ、左をみ、どっちへ行こうかと、迷っているふうだったが、期せずして、全人員の八割までが、ぞろぞろと、紅い旗の下へ馳け集まった。
これは、各

「もし、門を閉じて、出なかったといえば、きっと過怠なりといって、咎めを受けるにちがいない。都下の
という心理であった。
ところが、曹操は、高台の上からそれを見届けるや、叱呼して、武将に命じた。
「よしっ。

驚いたのは、四百余名の官人たちである。彼のいる高き
「罪なし、罪なし。われらに、何の罪があってぞ」
「非道ではないか」
「無情ぞや、魏王」
しかし曹操は、耳のない人のように、いや涙すらない巨像のように

残るわずかな官人――白旗の下に立った者だけは、これを
同時に宮廷の侍側、閣員、内外の諸官人などに、


また曹休を、王必亡きあとの、御林軍総督に任じ、さらに侯位勲爵の制を、六等十八級にさだめて、金印、銀印、
従って、曹操の一族とか、その一族に附随する者どもとかの専横、独善、
その曹操も
「実に、よくあたった。実に汝の予言に従わず、予が漢中に遠征していたら、大事はもっと大事と化し、それこそ一夜に消せない火の災いとなっていたろう。――褒美をやる。管輅、何なりと望め」と、いった。
すると、管輅は、
「私には、火を防ぐ力も、水を支える力もありません。大王が

どうしても彼はそれを受けなかった。
四川の
魏兵五万は、漢中から積極的に蜀の境へ出、その辺の
「寸土も
正面の敵は、馬超だった。――馬超は下弁方面に、張飛は巴西から漢中をうかがって来たのだ。
そして、魏のほうの総大将は曹洪、その下に

序戦は、その主力と馬超の部下、
「なぜ、敵を軽んじるか。以後は嶮を守って、めったに動くな」
馬超は、呉蘭の
曹洪は、怪しんで、
「どうしたのだろう。いくら攻めても、馬超は動かん。あの
緒戦の戦果を、後の大きな損害の代償にすまいと、曹洪は大事をとって、一応、

「将軍、何だって、せっかくの勝運を、図に乗せないで、退がったのですか」
「都を出るとき、
「あははは。これは意外。閣下もすでに、五十に近いご年齢。しかるに、卜などに心を惑わし給うとは。しかも鬼神も避けしめるという武将でありながら。――あははは、どうも人にはどこか弱いところがあるものですな」
それから後、張

「てまえに、兵三万をお
曹洪は、彼が、張飛をあなどっている様子を、かえって危うく思い、
「めったにはなるまい」と、容易にゆるさなかった。しかし張

「人はみな張飛をひどく恐れますが、てまえの眼には、小児のようにしか見えない。もし将軍が少しでも彼を恐怖するようだと、士卒までが、張飛と聞いただけで、負けるものときめてしまいますよ。それでもよろしいのでござるか」
と、嫌味まじりに、なお
曹洪も、そこまでいわれては、自分が戦って見せるか、彼の乞いを許すしかない。しかし、なお
「そんなにいうが、もしそういう貴公が敗れを取ったらどうするか」
「ご念には及びません。もし張飛を生捕ってこなかったら、軍法に正して、どう罰せられても、恨みとは存じ申さん」
「よろしい。
「もちろんどんな誓紙でも書きます」
ついに、張

この巴西方面から


一ノ陣を、
「いかにやいかに。敵も見よ」
と、まずその布陣を誇って、兵力の半数をそこに置き、あとの一万五千をひきいて、みずから敵の
張飛は、部下へ
「どうだ雷同。――来たそうだが」
「来たのは、

「一万五千。
「地勢のけわしい所です。出かけて行って、不意をついたほうが、面白いかもしれません」
「よかろう。出陣だ」
各

はからずも、この軍と、魏の張


「見たぞ、張

張飛は、獅子を飛ばすように、馬を使って、渓谷や山間の敵を蹴ちらし始めた。
張

「はてな?」と、自分の位置を、
振りかえってみると、後方の山にも、蜀の旗が立っているし、はるか下のほうにも、蜀の旗が見える。彼は、退路に、危険を感じた。
こういう心理が首脳にうごいたとき、もう全軍は支離滅裂であった。いや張

「おおういッ、待たんか」と、呼ばわり呼ばわり追いかけてくる張飛にうしろを見せていた。
つい先頃、曹洪の前で吐いた大言を、彼はとたんにどこかへ忘れ飛ばしていた。それに張飛が飲み友達でも呼ぶように、
「退けや、退けや。ひとまず退け」
部下にも、逃げることのみ励ました。そして、蜀の旗が見える山は避けて廻ったが、それはみな
――が、そう知ったときは、すでに遅い。いちど崩れた陣形は、すぐ立て直しがつかなかった。ことに嶮岨な山岳地帯では。
「
辛くも、たどりついた一
「戦うなかれ」
を、旗じるしにしてしまった。
張飛もまた、彼方の一山にまで来て、山陣を張り、ここに山と山と、人と人と、相対して、
「いざ、来い――」の態勢をとった。
ところが、張

「味な真似をしおるぞ」
張飛は、むずがゆい顔して、その
「――おい、雷同。見たか」
「癪ですな。御大将」
「ひとつ、思い知らして来い。だが、いずれあんなことを誇示するときは、敵に計略があるときときまっている。下手な手に乗るな」
「心得ました」
雷同は、一手の勢をひきいて、向うの山の下へ迫った。そして、声かぎり、口のかぎり、張

「――いかんわい。何の手ごたえもありはしない。出直そう」
いたずらに、口ばかりくたびれさせてしまった。――戦うなかれ、の敵の鉄則はひどく固い。
次の日も、繰り返した。
そして、前の日にも勝るほど、声をそろえて、彼を
「かかれっ! 攻め登れッ」
とうとう雷同は
そのときたちまち万雷の一時に崩れてくるかのような轟きがした。巨木、大岩石、雨のごとき矢、石鉄砲など。
「待っていた」と、ばかり
張飛の心は甚だ安らかでない。この上はみずから乗り出すよりないと、翌る日、向うの山の下へ部下を伴って迫り、雷同に命じたように、自分でもまた、声かぎりにさまざまな悪罵をあびせた。
張飛の悪口となると、なかなか雷同などの比ではなく、
「敵もさるもの。よく辛抱する。これでは壁に
幾日かすると――。
何としたことか、今度は、

遥かに望めば、魏兵が山上にうち揃い、一せいに大声を発し、悪たれをついているのだ。雷同はこれを眺めて切歯した。
「なかなか憎い致し方、この上は一挙に……」
と、真っ赤になっていきまくのを、張飛は、
「いまこちらが動いては、まんまと敵の術中に陥るというもの、しばらく待て」と、おさえた。
しかし、こんな状態が五十日余りも続いては、部下の兵士も安らかではない。不穏な形勢さえ見えてきたので、張飛は一策を案じてまた山を下って敵前に陣を構えた。そしてそこへ酒を運ばせ部下とともに酒宴を張り、大いに酔っては、山上に向って悪罵すること、前よりもはげしかった。いい気持になって部下どもも、大いに声を張り上げて、張飛に和して罵りつづけた。
だが、張

「張飛も遂に
と、命じたので、山中はかえって静まりかえってしまった。
成都にあって、軍勢
やがて、使者のもたらした報告は、
「張飛の軍、



玄徳は驚いて、早速、孔明をよび、張飛が悪い癖をだしている様子であるが、どうしたものかと問うた。
委細を聞いて、孔明はカラカラと笑い、
「

「とんでもないこと、大体、張飛は今までも、酒のために色々と失敗をしている。その上、成都の美酒を送れとは、

孔明は、またニコリとして、
「あなたは、張飛とはずいぶん長い年月、兄弟のように交わっていられながら、彼の本当の胸のうちをまだご存じないと見えます。張飛が、いつぞや、蜀に入る時に、


孔明の言葉は、玄徳を見つめたまま、熱をおびていた。
「必ずや、張

玄徳はうなずいて、
「そうは思うが、どうも不安でならないのじゃ。言葉にしたがって、
孔明は玄徳の命をうけると、魏延を呼びよせて、
「成都の名酒五十樽を早速に調達せよ」と命じた。魏延は何事があるかといぶかりながらも、ただちに集めて、孔明に示せば、孔明は黄色の旗に「陣前公用の美酒」と書きつけ、
「これを三輛の車に立て、ただちに宕渠の陣にある張飛がもとに届けよ、とく行け」と、急がせた。
魏延はかしこまって、酒の輸送にあたった。
沿道の住民は、この異様な車輛に、目をみはって、何のおめでたかと噂し合った。
宕渠の陣に着いた魏延から、この贈物をうけた張飛は、大いに喜んで、その酒樽を拝した。
「わが事、これにて成就疑いなし」
といって、魏延と雷同を呼び、
「魏延は、わが右翼にあれ、また雷同は同じく左翼に陣せよ、軍中紅き旗振るを合図として、その折は、全力をもって討って出よ」
と命じ、陣中に美酒を迎え、
久しく軍旅にあって、口にしたくもできなかった、成都の銘酒、宴ははずむばかりで、笑声山間に鳴るの感があった。
この様子をつぶさに眺めた張


「珍しきこともあるかな、どれ」
と、張

対陣も久しきにわたっているし、心もそろそろ安らかでなくなっていた張

「張飛のやつ、いい気になって、あまりにも小馬鹿にした振舞い、よし、今夜は山を下り、一気に敵陣を蹴散らして、目にもの見せてくれようぞ」と、
敵前に近づいてから、なお眺めれば、依然として張飛は酒を飲んでいる。
折もよし、
「突っこめ!」の命とともに二ヵ所の勢、
張

「やあ!」と、一鎗に突き通した。
しかし、その手応えに、張

「しまった」と、あせり気味で後に退こうとすると、突然、鉄砲が響いた。それと同時に、一人の大将を先頭に、一群の兵が道をふさいだ。
先頭の大将は、と見れば、
「やあ張

と云いざま、張

張

その間に、雷同、魏延の左右の軍も、それぞれ蒙頭、
味方の崩れを見ながらも張

その上、退路も絶たれる様子に、このまま手間取っては、一命も危うしと感じたか、寸隙をねらって、馬に一鞭をあたえて逃げてしまった。
張飛は、この優位逃すべからずと、全軍になおも追撃をゆるめるなと号令して、遮二無二突進した。
張飛の軍勢はすさまじい勢いで進撃した。


痛快極まる勝ち戦は、張飛の
玄徳の喜悦もまたひとしおで、
「孔明の明や深遠、清澄。

瓦口関にまで逃げた

曹洪はこの
「張

と、峻烈な命を返してよこした。
曹洪の怒りを聞いて、張

「ものども、ぬかるなッ」と、厳命して、自ら一隊を率い、敵前に進み出た。
これを見た蜀の大将雷同、馬を飛ばして来て張



「

このさまを見ていた張飛は、



引上げた張飛は、早速魏延を呼びよせ、
「張

「して、そのお考えは」
魏延は友将を失って、
「うむ、われは一軍を率いて、明日、また正面より張


魏延は喜び勇み、配下の精鋭をすぐって、配備についた。
翌日。
張飛堂々と軍を進めて魏軍の正面を攻めた。
張


ここは山の腰のあたり、路は一筋、退路を断てば、敵の首筋を握ったと同然の地の利である。
「よし」と、思わず息をはずませ、馬首をめぐらし、追い寄せきた張飛の軍めがけて、一度に逆襲の形をとった。
雷同を討って、全軍気をよくしている矢先である。きょう目ざすは張飛だ。

本軍と意気を合わせ、伏兵もたちまち左右から起って、張飛の後ろをさえぎろうとしたが、なんぞはからん、目の前に立ちふさがったのは蜀の兵であった。逆に虚をつかれた張

その上に、柴の車をもって細道をふさぎ、一斉にこれに火をかけたので、火焔は天に

この一戦は、終始張飛の圧倒的な優勢裡にすすめられて、残り少ない敗残の手兵をあつめ、張

魏延を率いて、ここまで追いつめた張飛は、一気にこの関も破るべく、数日にわたって攻めたが、さすが、名ある瓦口関である。要害は堅固で、また地勢
張飛は正面攻撃をあきらめ、二十里後方に
ある日。
山道からふと見ると、百姓らしい男や女が幾人か、背に荷を負い、
張飛はこれを見て、魏延を側に招き、馬上に鞭をあげて、
「魏延、あれを見たか。瓦口関を破る策は、あの百姓たちが訓えてくれるに違いない。それよりほかに破り得ることは不可能だ」と、確信にあふれた言葉。
魏延は直ぐには、この意味が解し得ない様子で、
「…………」
遥かに山上に姿を消してゆく人影を見送るばかりであった。
「誰か、直ちにあの百姓を追いかけ、驚かさぬようにして、ここへ連れてこい」と張飛は命じた。
間もなく、兵は六名ほどの百姓を連れてきた。若い者も、老人もまじっていて、いずれも何かおびえた顔を土につけた。
張飛は、静かに、つとめて優しく、
「お前たちは、どうして、こんな嶮しい山路をたどって、この山を越えようとしているのか」
と、訊ねた。
年のいった百姓は、代表の格で幾分たじろぎながら、
「はい、わたくしたちは、みんな漢中のものでございますが、いま、故郷へ帰ろうと此処まで参りますと、なんでも、本道には激しい合戦があると聞きましたために、
「うむ」
大きくうなずきながら、張飛は再び質問を発した。
「この路は、瓦口関とよほど離れているか」
「いや、それ程ではございません。梓潼山の小路は、瓦口関の背後に通じております」
老人の答えは、思ったよりはっきりしていた。この答えに、張飛はいかばかり喜んだか知れなかった。百姓たちを本陣に連れて帰り、それぞれ褒美を与え、酒をふるまってねぎらった。
張飛は魏延を呼び寄せ、
「早速に兵を率い、瓦口関正面に攻めかかれ、われは、あの百姓を案内とし、精兵五百あまりをひきつれ、小路を走って敵が背後に廻り、一気に張

と、全軍に下知し、張飛はすぐりの兵をつれ、魏延と瓦口関に勝利の再会を約して、左右に別れて発足した。
瓦口関に構えて一息ついていた張

しかし、待てど、暮せど、友軍の来そうな気配が見えない。
日の経つにつれて、追々と心細くなってくるのを、どうすることもできない。物見を四方に立て、一刻も早く援軍来るの報を得ようと
「只今、関の正面に軍馬らしきもの近づいて参りました」と、物見の報告である。
「何、友軍か?」
「しかとは分りませんが、魏延の兵とおぼえます」
「何っ!」
張

「敵であれば、厳重に関を固めよ、そして、一部の兵はわれとともに来れ、堅塁を
と、魏延の兵と一戦を交えようと、みずからも関を下って攻めかえそうとした。
その時、瓦口関の背後、八方から火の手があがり、たちまち燃えひろがる様子。
その煙の中を使者が駆け来って張

「いずこの兵か分りませんが、突如火を放ち、背後から攻めてきて、関の兵は残念ながら乱れたっております」
張

彼は色を失った。
闘志はとうになくなっている。逃げることだけが彼のすべてであった。
関の横を通じている小路をめがけ、馬を走らせたが、歩いて通るのもやっとの道であり、岩石が多く、馬は
そこを逃しはせじと、張飛はひたむきに追いかけてくる。
これまで、と、馬を乗り捨て、張

やっと、追手をのがれてあたりを見ると、自分とともに助かったものは、情けなくも十四、五人、すごすごと
曹洪は張

「われ再三、出ることなかれと命じたるに、汝は、勝手に軍令状を書いて、無用なる戦をなし、あまっさえ敗戦あまたたび、貴重なる兵三万を失い、しかもなお汝のみ生きて帰るとは言語道断である。引出して首を刎ね、この罪を謝さしめん」という。
曹洪の怒りを聞いて、行軍司馬の官にあった
「三軍は得やすく、一将は求め難し、と古人のことばにもございます。張

「もし、この度のご命令もまた失敗するようでありましたならば、その時になってやむを得ぬことでございます。二つの罪によって、彼を
曹洪はこの言を容れ、張


この関を守るは、蜀の孟達、
張

霍峻の説は、
「天然の要害にある葭萌関を、わざわざ出でて戦うは愚である。関をたのんでよく守るが良策と思う」であった。
孟達はこれに反し、敵の来攻を待つは戦略の
いく度かの議は


孟達が逃げ戻ってきたのを見て、霍峻は驚き、成都に向って救いの早馬を送った。
玄徳はこれを聞き、孔明を呼んで、策を議した。
孔明は全軍の大将を集めて、
「只今、葭萌関から急使があった。一刻も早く誰か

これに対し、法正が立って、
「お説ではありますが、私の思いますに、張飛はいま瓦口関に兵をとどめ、




と、説をのべた。孔明はこれを聞いて笑いを浮べ、
「張

この言葉の終るか終らぬうち、激しく気色ばんだ老将の一人が立ち、声も荒々しく、
「軍師、貴殿は何ゆえあって人を

と、一気にいった。
一座の
孔明は、ゆっくりとうなずき、
「あなたのお言葉、まことに勇壮です。しかしながら、あなたは年すでに老い、とても張

黄忠は怒りに燃え、白髪さかしまに立てて、
「それがし、年老いたりとは申せ、
「いや、貴殿はすでに七十に近いのです。誰が老いていないと申せようか」
頑とした孔明の返事に、黄忠は
黄忠のこの意気を眺め、覇気をみとめて孔明は、
「よろしい、では貴殿を救援に差し向けましょう。しかし、必ず副将をつれてゆくことを命じます」
黄忠はいたく喜び、
「かたじけなし。厳顔はそれがしと共に、年老いています。共に参って、必ず敵を破り、万一あやまちあれば、老将二名、いのちに未練はありません。白髪の首を奉りましょう」
と、覚悟のほどを申しのべた。
終始、孔明と黄忠の論をうかがっていた玄徳は、老将の言葉にいたく満足して、黄忠の進発を許した。
玄徳の英断を、意外に思ったのは並いる諸将であった。わけても
「いま張


と、
「御身たちはみな、この二人の老人を見て軽んじているが、よろしくない。張

孔明の言を聞いて、いうこともなく、冷笑して退散してしまった。
黄忠、厳顔の二将は、兵を率いて葭萌関に到着した。これを見た孟達、霍峻は年老いた将の救援軍を大いに笑い、
「孔明は人を見る明がない。こんな老人は、戦争に出なくとも間もなく死んでしまうものを」
と、
黄忠、厳顔は、二人の旗を山上に立て、敵にその名を知らしめた。そして黄忠がひそかに厳顔にいうには、
「諸所での噂を聞きましたかな、いずこでも、われら二人の老年を嘲笑しておりますぞ。ひとつ力を合せて、大なる功をあげ、奴らを驚かせてくれよう」
と、誓いも堅く、兵を揃えて出馬した。
この

「汝、その年まで生をむさぼり、なお恥をも知らず、陣前に出て戦わんとするか、笑止、笑止!」
黄忠大いに怒り、
「汝、わが年の老いたるを笑うといえども、手の中の刃は、いまだ年をとらぬ。わが




曹洪は、この度もまた張

「只今罪を問われるならば、張



張

「黄忠、年老いたりといえども、思慮深く、勇気もあり、その上厳顔も必死に協力しているので、軽々しくは戦えません」
といえば、韓浩が口を開き、
「われ長沙にある折、よく黄忠が人となりに接していた。彼は、
覚悟のほどを
韓浩は、夏侯尚とともに新手の兵を率い、陣を構えて敵を待った。
黄忠は毎日、あたりの地理を調査しつつあった。きょうも、地勢を調べに歩いていると、厳顔が思い出したように、
「この近くに
と申し出で、天蕩山攻略についての計を、つぶさに黄忠に語った。
厳顔は黄忠と攻略手段を打合せ、一軍を率いていずこかに進発して行った。
居残った黄忠は、夏侯尚の軍が寄せてきたと聞いて、陣容を整えてこれを待つと、魏の軍中より、
「逆賊黄忠いずこにありや、見参!」と鎗をかまえて打ってかかった。
黄忠が刀をまわし、立ち出でれば、夏侯尚は彼が背後へ、背後へとまわらんとする。
情勢不利と見て、黄忠は折を
彼の誘導作戦である。
夏侯尚は追いまくって、黄忠の陣を奪取した。
次の日も、同じような戦が行われて、またも二十里ほど進み、夏侯尚の意気は当るべからざるものがある。韓浩も気勢をあげ、これにつづき、先に奪いとった黄忠の陣に着くと、すぐ

張

「黄忠ほどの剛の者が、やすやすと二日にわたって負けているのは解せない。必ず彼に何かの計があるに違いない。軽々と深追いせぬ方がよろしいと思うが」
と注意したが、
「汝がごとき、臆病者は、敵をおそれるばかりゆえ、
と、張

次の日も、敵は二十里退去した。
こうして、次々と敗走した形で、とうとう葭萌関に逃げ込んだまま、今度はどうしても出てこなくなった。
夏侯尚は、関前に陣を構えた。
この様子を見た孟達は、大事
「お驚きになることはありますまい。これは黄忠が
と、平然たる答えである。
しかし、
劉封の兵が葭萌関に着くと聞いて、黄忠はいぶかり、
「なにゆえに、兵を伴ってここに来たか」と、問うた。
劉封は答えて、
「わが父、将軍の苦戦を知り、わたくしに援軍の命が下ったのです」
黄忠は笑って、
「これは、わしが驕兵の計じゃ。今宵の一戦に、見事敵を叩きのめすであろう。五ヵ所の陣を捨てたは、暫時敵にこれを貸し与え、つとめて兵粮などを貯えさせ、数日間の敗を一日にして取り戻さんためだ。よく見物してゆくがよい」といい、全軍に戦闘準備を命じていそがした。
その夜半。
黄忠はみずから五千余騎を従え、直ちに門を開いて攻撃の火蓋を切った。
この時、魏の軍勢は、ここ数日敵は静まりかえっていることとて、すっかり心をゆるめ、ことごとく眠っていたので、思いもかけぬ
夏侯尚も、韓浩も、ともに乗馬さえ見当らず、辛うじて徒歩で逃げて、一夜のうちに、せっかく取った陣のうち、三ヵ所まで奪取され、死傷の数もおびただしく生じた。
黄忠は、敵の遺棄していった、兵粮、兵器等を孟達に運搬を命じ、息もつかずなお猛攻を続けた。劉封は、
「配下の兵は、大変に疲れた模様に見受けられます。しばらく、ここで休息を与えられたらいかがです」と進言したが、黄忠は首を振り、
「古より、虎穴に入らずんば虎児を得ずといわれている。身を捨ててこそ、手柄も高名もあがる。息ついてはならぬ。者ども進めッ」と、みずから真ッ先に立って
五千の精兵、真に飛ぶが如く、追撃に追撃である。勢いにのった鋭さは乱れ立った魏の勢のよく及ぶところではない。
一ヵ所といえど、よく
漢水に入って、我に還った張

「
夏侯尚は答えて、
「米倉山には、わが叔父の夏侯淵が大軍を率いて陣取り、
と、張

「……黄忠、驕兵の計を用い、われを関の前におびき寄せ、勢いにのって逆襲し来り、終夜追われたため、兵粮、武具を捨ててこれまで逃げて参った」
と敗戦のさまを語れば、夏侯徳はうなずき、
「よろしい。全山に十万の兵あれば、汝これを分けて、再び押し寄せ、その陣屋を奪取したがよかろう」
といえば、張

「いや、攻めてはならぬ、ただあくまでも、此処を守って、敵の行動を看視するがよろしいと思う」
その言葉の終るか終らぬうち、突如として、鼓の音響き、
「黄忠の軍が攻めてきたぞ」
口々に叫び合う声もする。
夏侯徳は、悠然と笑って、
「黄忠、ここに攻め寄せてくるとは兵法を知らざるも甚だしい。勢いにのった
張

「いや、さに非ず、必ず
「なんの、蜀軍は遠路を戦いつづけ、終夜軍を進めて疲労甚だしい筈である。それを、軽々しくなお進めて、この重地に攻め入るなどは、兵法を知らざるも甚だしいと思う」

「早計に、そう決められるは如何かと思われる。必ず敵に大なる計ありと見て、この陣を固め、必ず守勢を持して、出撃せぬが良策と存ずる」と強硬な態度を示した。
韓浩には、折角のこの言葉も無駄であった。
「われに、三千余騎を与え給え、これより突きすすみ、老将が首をひっさげて帰りましょう」
と、いえば、夏侯徳は
韓浩は武者振いして三千余騎を従え、山を下って行った。
一方、黄忠は、ひたむきに馬を進めて、止るところを知らず、日もすでに西山に没し、天蕩山の
「日もすでに暮れ落ち、軍勢の疲労もますますつのるばかりです。長追いは無用かと思いますれば、このあたりにて、一応軍を留めては如何ですか」といった。
劉封のいさめを、黄忠はあざ笑って云った。
「昔、哲人は時に
まっしぐらに上り、鼓を打たせ、喊をつくって勢いをあげた。
韓浩はこれをむかえ、坂路の途中に防ぎ、みずから馬を出して黄忠に挑みかかったが、かえって黄忠の水車の如く廻す刀にかかり、一刀にして斬り伏せられた。
夏侯尚は、韓浩斬らるの報を聞いて急に兵を率いて、黄忠の軍に迫れば、山上より
そのうちより一団の軍勢が討って出た。陣中にあった夏侯徳、大いに驚き、手兵に下知して消火につとめていた。これを見た厳顔は、刀をまわして討ってかかり、夏侯徳を馬より下に斬って落した。
かくするうち、諸所より上がった火焔は、みるみるうち、峰を焦し、谷に満ち、凄絶限りがなかった。
計の順調に運びたるを見て、黄忠、厳顔は心を合せ、前後より攻め立てた。張

黄忠、厳顔はこの大勝を喜び合い、成都に早速この勝報を伝えた。玄徳は早馬をうけて限りなく喜び、諸大将を招して祝勝の宴を張った。
この席上、法正は進み出て、
「昔、曹操が一鼓の進撃に

声は堂中にひびき、居並ぶ将星も彼の言葉に聴き入っている。
「……今、曹操は、都のうちにあり、内変のためみずから外征に赴くことができず、いわんや、夏侯淵、張

一座は、かすかながらこの言に動いた。
「漢中攻略の後は、兵粮を貯え、士卒の整備訓練に重点を置き、なお王室を尊んで、固く
玄徳は、この法正の言の真なるを感じた。
即刻、十万の兵に動員は下り、よき日を選んで出撃すべく、手配はぬかりなく指令された。
時に建安二十三年秋七月。
玄徳十万の軍は、趙雲を先手とし、葭萌関に出でて、陣を据え、使者を立てて、黄忠、厳顔を天蕩山より呼びよせ、重き恩賞を賜い、
「諸人、汝ら両名を老武者とあなどりたるも、孔明はよくその能を知り、敵軍に向わしめた。果たして世にまれなる勲功を立てたるはわが最も喜ぶところなり。漢中の定軍山はすなわち
黄忠は欣然として命をうけ、早速に兵を率いて出発せんとすれば、孔明これをとどめていうに、
「ご辺はまことに勇ありといえど、所詮、夏侯淵が相手ではありますまい。彼は深く

思いがけぬ孔明の言葉に、老将黄忠の
「昔、
孔明は、なお聴かない。黄忠は幾度となく、執念深く許しを乞うので、ついに孔明も折れて、
「
と条件を附して許した。
黄忠は文字通り勇躍、兵を率いて出発した。その後、孔明はひそかに玄徳に向い、
「老将黄忠、ただ簡単に許しては駄目なのです、ああして言葉をもって励まして、初めて責任も一層強く感じ、相手の認識も新たにすると申すものです。ただいま出発致しましたが、別に援兵を送る必要がありましょう」といって、許しを乞い、早速
「ご辺、一手の兵を率い、小路より奇兵を出し、黄忠に力を添えて欲しい。しかしながら、黄忠の軍勝ちにあらば、決して出ることなかれ、彼が敗色濃きおりを見て援けよ」と命じ、また劉封、孟達は、ともに三千余騎をひきいて、山中の

孔明がひとたび断を下してからの進行ぶりは見事にも鮮やかなものである。
こちらは、天蕩山を追われ、定軍山に逃げのびて来た張

「味方は大将を討たれ、多くの兵を損じたり。その上、玄徳みずから蜀の大軍を配し、漢中を攻めんとの説あらば、即刻、魏王に救援の兵をもとめ給え」
と進言。夏侯淵大いに驚き、この旨を曹洪に向って報じ、曹洪はまた早馬を飛ばして都の曹操に通じた。
曹操はこの報に接し、いそぎ文武の大将を召集して、緊急会議を開いた。
席上、長史
「漢中は土壌
曹操は
「さきごろも、汝が言を用いずして、今これを後悔している」
と称し、一議もなく、即時四十万の大軍を起し、七月都を発って、九月には長安に入った。
ここで陣容を整え、先ず全軍を三手に分った。
即ち、主力の中軍に曹操。
先手陣、夏侯惇。
後陣、曹休。
曹操は白馬にまたがり、黄金の鞍をそなえ、
錦の
また、龍虎になぞらえた近衛兵二万五千、これを五手に分け、いずれも五色の旗を持って、
絢爛たる軍容粛々とあたりを払って、
曹操は、遥かに樹木の生い繁った所を見て、
「あれは、いずくぞ」と、従者に問う。
「

近侍の[#「近侍の」は底本では「近待の」]答えに、曹操は往事を思い出して、山荘を訪れようといった。
むかし、蔡




蔡

とりわけ、
この曲が、いつしか伝え伝わって、中国に

胡の左賢王も、曹操が勢いの盛んなるを知っていたので、渋々ではあったが、蔡

曹操はよろこんで、

いまはからずも、蔡

ちょうど主人の董紀は所用で留守であったが、曹操がわざわざの来駕と聞き、蔡

曹操は、堂に坐して、健勝をよろこび、堂内をうち眺め、壁に一つの碑文を書した画軸のあるのに気づき、
「これは、いかなるものか」
と訊ねた。蔡

「これは、
曹操は、感じ入ったごとく、まじろぎもせず、蔡

「……それから五日目のことでございます。その娘が、父の

蔡

「
と八字が書かれてあった。
曹操は、この文を読み下して、

「汝、この八字の書の意味を知るか」と訊ねた。
蔡

「父が書きました書、その
曹操は席にあった大将たちに向って、
「誰か、この文意を解したものがあるか」
と見廻したが、誰も解き得ないと見え、揃ってただ首をうなだれて答える者はない。
すると、そのうちから一人、
「それがし、解き得たように存じます」
と立ち上がった者があった。見れば、
曹操は楊修が、その文意を語りだそうとするのを押えて、
「さようか、しかし、しばらくそれをいわずにおるように、予も考案して見よう」
と馬にまたがり、山荘を出て行ってしまった。
しばらくして、
「汝の考えを申して見よ」
という。楊修がかしこまって、
「これは確かに隠し詞に違いございません。
よどみなく説明した。
曹操大いに
漢中にあった曹洪はうやうやしくこれを出迎え、まず張

曹操は、
「これは張

と、温かい心を示した。
曹洪は目下の情勢を、
「敵は玄徳みずから大軍を指揮致し、黄忠に命じて定軍山を攻めさせた様子ですが、夏侯淵はどうしたことか、大王がおいでになると聞いて、固く守るのみで、戦闘を致さぬ模様でございます」
と報告した。曹操はこれを聞き、
「いや、そんなことをしていてはならぬ。戦を挑まれながら、出でて戦わざるは、臆していると見られる。早く使者をつかわして予が令を伝え、いさぎよく出でて戦うよう計らえ」と命じた。
劉曄はそばから、
「夏侯淵は性急の上に剛直ですから、おそらく敵の計略にかかって痛い目に逢うに違いありません、おやめになったほうがよろしいでしょう」
と
夏侯淵は、いつか必ず王命のあることと期待していた折であったので、喜んで親書を開いた。それには、

「只今、魏王の大軍は漢中に到着、予に命じて、敵を討たしめんとす。予、久しくこの所を守って、一度も会心の勝負をなさず、
張

「どうぞ軽々しく出撃なさらぬよう。黄忠は智勇ともに備え、加うるに法正と申すは、戦略にたけたる者、この地は幸いにして要害堅固なのですから、進まずに、堅く守られるが賢明と存じます」
と極力思いとどまらせようとした。

「予がこの地を守り、陣をなすこと久しい。この度の決戦に、万一他の将に功を奪わるるが如きことあらば、なんの面目あって魏王に
「誰ぞ、制先の勢となって、敵の様子をうかがい来れ」
と下知すれば、夏侯尚は勇んで立ち、
「それがし、先鋒となって進みましょう」
「うむ、汝先陣となるか。されば黄忠と
夏侯尚は命の通り、三千余騎を率いて山を下って行った。
その頃、黄忠は兵を従えて、法正とともに、定軍山の
間もなく、その斥候から、山上より魏兵来る、と報告してきたので、黄忠はみずから出陣しようとすると、大将の
「老将軍みずから、なんで敵に当る必要がありましょう。私に千騎を任せられるならば、背後の細道より山上に向い、両方より挟みうちに致して討ち果たしましょう」
という。黄忠は
陳式は山の後ろに廻って、
しばらくするうち、夏侯尚は計略通り、わざと負けたふりをして、逃げ上った。陳式はこれを見ていよいよ勢い立ち、逃さじと追って行った。
黄忠はこの様子を見て、敵に計ありと気づき、陳式を救うべく軍を動かしたが、山上から大木を投げ落し、あるものは鉄砲を撃ち出したりしてきたため、進路をはばまれてしまった。
陳式も敵の気配を感じて、途中から引返そうとしたが、この機をうかがっていた夏侯淵が猛烈に進撃をはじめ、ついに生捕られてしまった。陳式の部下も、意気地なく、魏軍に降ってしまった。
黄忠はこれを聞いて驚愕した。早速法正と協議すると、
「夏侯淵は性急で、ただ蛮勇ばかりの男です。意気を
黄忠はこの言に従って、早速諸軍に恩賞を与えて大いに励まし、みずから陣屋をつくり、数日そこに
夏侯淵はこれを眺めて、敵の近接を知り、そのままにいることはならぬと、すぐにも出撃しようとするのを、張

「これは反レ客為レ主の計に違いありません。必ず軽々しく出てはなりませぬ。出てゆけばきっと敗れましょう」といったが、夏侯淵は耳をかさず、夏侯尚を呼んで、敵にかかれと命令した。夏侯尚は直ちに数千の兵を引きつれ、夕闇をついて黄忠の陣に攻め入った。
しかし、張

魏の兵は乱れて逃げ帰り、夏侯淵に、
「大将夏侯尚どの、敵の
「しまった」と夏侯淵は顔色を失った。
そして考えた案は、陳式と夏侯尚との俘虜交換であった。まず黄忠のもとに、
「陳式いまだ生きてわが陣にあり、願わくは夏侯尚と換えんことを」
と申し送った。黄忠からも、
「われもまた望むところなり。すなわち明日、陣前において快くこれを交換せん」
と返事があって、妥協は成立した。
翌日。
両軍ともに、
「魏の将、夏侯尚をつれ申した」
「蜀の将、陳式、
と、問答の上、武装解除された二人を、素速く交換すると、
「やッ」
とばかり声を合せて、自陣に引上げたが、夏侯尚がまさに、軍列に入ろうとする時、どこからか、一本の矢が飛んできて、彼の背にあたり、ばたりと地上に倒れた。
黄忠の策で、彼の射た矢であった。
夏侯淵は大いに怒り、黄忠めがけて馬を飛ばし、討ってかかって、十余合戦ううち、魏の陣に突如退陣の
何事か、と夏侯淵は驚きあわてて黄忠との刃合せの隙を見て戻ろうとすれば、黄忠は敵の動揺に感づき、勢いこめてうってかかり、魏の勢もまたさんざんに
本陣に辛うじて着いた夏侯淵は語気も荒々しく怒り、
「ばかめ、何で鉦など鳴らしたのだ」
と詰問した。すると、
「あの時、四方の山の間より、にわかに蜀の兵が起り、蜀の旗が無数に現れたので、おそらく伏兵であろうと思い、軍を収めたのです」
との返事なので、怒りのやりばもなくなってしまった。
それから、夏侯淵は固く守って、出ようともしない用心ぶりを示した。
黄忠は、おもむろに定軍山に迫り、法正としきりに軍議を重ねた。
きょうも、法正を伴って地形を調べていると、法正は遥かな山を指し示して、
「定軍山の西に、
という。黄忠もこれを聴きながら、その山を仰げば、相当な高さの山で、頂上はいくぶん平らかに見え、頂上附近にわずかの兵が守っているらしいのが分る。
その夜二更、黄忠は兵を引いて、
この山は、魏の副将
簡単に攻略を終った黄忠は、定軍山と並び占めた位置を利して、敵状偵察に余念がない。
法正はその資料に基いて兵略を立てた。
「敵がもし攻め寄せて来ましたなら、味方の兵を制して動かず、かれが退いてゆくところを見定めて白旗をかかげ、それを合図として、将軍みずからも山を下って討ってかかり、敵の陣構えの崩れたところを攻め給わば、これ即ち、
黄忠もこの言にうなずいて、早速に明日を期して、まず敵軍の来襲をうながすようにと、山中の随所に旗を立てさせ、兵を動かしたりして、しきりに誘導戦法をはじめた。
山を逃げ下った
張

「あの山を敵が攻略したのは、きっと法正が計でありましょう。将軍よ必ず出給うなかれ」
夏侯淵はこれを
「なにを申す、黄忠いま対山の頂にあり、日々わが陣の虚実をうかがう。

山麓に押し寄せ、敵陣めがけて
山上からひそかにこの様子を望み見た法正は、魏軍の疲労甚だしく、大半は馬上で居眠りなどしている様子に、折もよしと、さっと白旗をもって合図をすれば、待機の黄忠勢、山上より一度にどっと進撃を開始、鼓を鳴らし、角を吹き
黄忠もこの一戦を
魏の勢これを見て、ますます崩れ立ち、右往左往に逃げのびてゆく。黄忠は勝ちに乗じ、さらに攻撃の手をゆるめず、定軍山に攻め上った。
張

すると

趙雲がここに合して攻めてくるようでは、退路をも失うかも知れぬ。一刻も早く、定軍山の本陣へ戻って、陣容を整え、新たな作戦に出なければならぬと、別の路から退こうとした所へ、
「定軍山の本陣、ただいま蜀の大将劉封、孟達どもに奪われてしまいました」と報じた。
張

敗将両名、見るも気の毒な姿である。
杜襲は張

「夏侯淵が討たれた今、この陣に大将軍なきことになります。このままでは人心も動揺する憂いがありましょう。あなたが仮に都督を名乗って、人民の心を安んじたがよろしいと思います」
と忠言した。
張

曹操は報を受けて
それにしても戦の初めに、
「三八縦横といったのは、すなわち建安二十四年にあたり、
曹操は深く感じ入って、
「まことに
と彼を訪ねしめたが、すでに管輅はその地になく、行方も
夏侯淵の首を獲たことは、なんといっても老黄忠が一代の誉れといってよい。
彼はそれを携えて
「ご一見を」と、見参に供えた。
玄徳がその功を称揚してやまないこともいうまでもない。即座に彼を、征西大将軍に封じ、
「老黄忠のために賀をなさん」と、その夜、大酒宴を張った。
ところへ、前線の大将
「夏侯淵が討たれたと聞いた曹操の憤恨は、ひと通りなものでありません。自身二十万騎をひきい、先陣には
孔明は、すぐ情勢を判断して、玄徳に対策を洩らした。
「察するに、曹操は、二十万という大兵を持ってきたため、その兵粮が続かなくなるのをおそれて、あらかじめ食糧の確保に心を用いているものと思われる。要するに、彼の弱点がそこにあることを自ら
傍らで聞いていた黄忠は、
「軍師。わしに命じられい。ふたたび行って、わしがその事を実現してみせる」と、望んだ。
孔明は冷静な
「老将軍。――こんどの敵の


黄忠は老いの眼をぎらと光らした。そして、
「では副将として趙雲をつれておいでなさい。何事も趙雲と、協議のうえで作戦するように」
と、なお黄忠を危ぶむかのような口ぶりでゆるした。
それでも黄忠は勇躍して、席を退いた。趙雲は、漢水まで来ると、黄忠に訊いた。
「将軍、あなたは今度のことを、何の苦もなく引請けてしまわれたが、一体、ご胸中には、いかなる妙計がおありなので?」
「妙計。そんなものはない。ただ事成らねば、死を期しているだけだ。この度ばかりでなく、それが常に老黄忠の戦に臨む心事でござる」
「いや、あなたにそんな危地を踏ませることはできない。先陣はそれがしがする」
「何の、強いて命を乞うた黄忠が先に立つのが当然。足下は副将、後陣につけ」
「同じ君に仕え、同じ忠義を尽さんとするのに、何の主将副将の差別があろう。では、先陣後陣のことは
「鬮で? それはおもしろい」
そこで二人は鬮を引いた。黄忠が「先」を引き、趙雲は「後」を引いてしまった。
「もし自分が、
黄忠はそう云い残すと、一軍をひきいて敵境深く入って行った。趙雲はそれを見送った後、心もただならぬように、部下の張翼へこう告げていた。
「老将軍が午の刻までに帰らなかったら、自分は直ちに漢水を渡って遮二無二敵の中へ深く駈けこむであろう。その時には、汝はしかと本陣を守り、滅多にここを動いてはならぬぞ」
一方――老黄忠はわずか五百の部下をつれて未明に漢水を渡り、夜明け頃には、敵の糧倉本部たる北山のふもとへ粛々と迫って、山上の兵気をうかがっていた。
「柵はきびしいが、守備は手薄と思われたり。それっ、駈け上って、満山の兵粮へ火を放て」
錆びたる声で、老黄忠は、一令を下した。それを耳にするや否、蜀の兵は朝霧をついて諸所の柵を打ち破り、まだ眠っていたらしい魏兵の夢を驚かした。
はるか漢水の東に陣していた張

「すわ一大事」
と、仰天した。
にわかに兵を下知して、自身、真っ先に立ち、北山に駈けつけて来てみた頃は、すでに全山の糧倉は、炎につつまれ、諸所の山道や坂路では、黄忠の部下と、ここの守備の兵とが、入り乱れて戦いの最中であった。
「しまった」――と張

山上山下、木も草も燃ゆるなかに、組む者、突きあう者、血みどろな白兵戦は、陽の高くなるまで続けられた。
早くもこのことは、曹操の本陣にも達したし、またそこからも、北山の黒煙がよく見えた。
「徐晃、行け」
曹操はさらに増援を送った。
このとき、すでに
「――まだ午の刻にはすこし間があるが、あの黒煙が空に見えだしてから時も経つ。いでこの上は、老黄忠の安否を見届けん――」と腹をすえて、部下の張翼に、
「さきにも云った通り、汝は
云い残すや否、三千の兵をさし招き、野を馳せ、数条の流れを越えて、ひたぶるに北山の黒煙へ近づいた。
「見つけたり。どこへ行く」
とばかり、魏の
「うい奴だ。迎えにきたか」
と趙雲は、ただ一突きに、突き殺して、血しぶきの中を、駈けぬけて行く。
「やあ、味方かと思えば、敵の新手か。大将、これへ出よ」
北山の麓まぢかく、重厚な一軍を構えて、こう呼ばわり
「われこそ魏の大将
趙雲は前へすすんで、
「先にきた蜀の一軍はどこにいるか」
と、いった。焦炳は、
「なにを寝ぼけておるか。黄忠を始め、蜀の木ッ端どもは、一兵のこらず討ち殺した。汝もまた、わざわざ骨を埋めに来たか」
云いつつ馬上から鋭い三
「ほんとか!」と趙雲は、ありッたけな声で、相手へ吼えかかったかと思うと、
「では、
とばかり、焦炳の胸いたへ、ぶすと槍を突きとおし、大空へ刎ねあげて、
「知らないか、趙子龍がこれへ来たことを」
と魏軍のまん中へ馬を突っ込んだ。
兵か煙か、渦巻く中に、ただひとつ、彼の影のみは、堂々無数の
そのうちに、張

「趙将軍だ。趙将軍だ」
北山のここかしこで、敵の重囲に陥ち、
五百の兵は、三分の一に討ちへらされていた。それでもその中に黄忠の顔が見えた。趙雲は黄忠の身を抱えんばかり鞍を寄せて、
「お迎えにきた。もう安心されい」と一散に走りだした。
黄忠はなお振り向いてばかりいて、部下の
曹操は高きに登って、その日の戦況を見ていたが、大いに
「あれは常山の趙子龍であろう。子龍以外にあんな戦いぶりをする者はない。軽々しく前に立つな」と、急に、陣鼓を打たせて、味方の大衆に、無用の命をすてるなかれと
たち騒ぐ味方をまとめて、曹操は漢水のこなたに、陣容を
すでに首尾よく黄忠や張著を救いだして、わが
「思えば、危うい一戦だった」と、祝杯の用意を命じていた。
ところへ、
「すわや、たいへんだぞ。諸門を閉めろ。
と、まるで雷鳴の下に耳をふさぐ女子のように打ち震えていう。
趙雲はまだ杯を持たない間に、この騒動を耳にしたので、
「何事か」と部下に問わせた。
張翼はそこへ来て、祝杯どころではないといわんばかりな顔をして告げた。
「一大事です。曹操が来ました。自身大軍をひきいてやがてこれへ来ます。いやその軍容の物々しさ、何万騎やらただ真ッ黒になって漢水を越えてきます」
すると趙雲は
「すべての陣門を敵へ開け。
かくて、しばらくすると、まったく鳴りをしずめた城内から壕橋へかけて、
見れば、趙雲ただ一騎、槍を横たえてそこに突っ立っている。手をかざして彼方を眺めれば、里余にわたる黄塵の煙幕をひいて、魏の大軍がひたひたとこれへつめよせて来る。
――が、その
「いぶかしいものがあるぞ、敵の城には」
「人もないようにしんとしておる。大手の門を開け放して」
「誰かひとり濠橋の上に立っているようだが――よもや人形でもあるまいに」
「何か深く
魏兵の先鋒は、疑心暗鬼にとらわれてそこから進み得なかった。
中軍にいた曹操は、
「何をためらっているか」と、みずから陣前へ出て、かかれかかれとばかり、下知した。
日は暮れかけていた。

だが、橋上の趙雲は、なおびくとも動かないので、徐晃も張

すると初めて、趙雲が、
「やあ、魏の人々。せっかく、これまで来ながら、ものもいわぬまに逃げ帰る法やある。待ち給え、待ち給え」と、呼びかけた。
はや曹操までが後から続いてきたので、張

魏の人馬は、嘘のように、バタバタ仆れた。曹操は
横道から米倉山の一端へ出て、
これらの別働隊は、もちろん孔明のさしずによって、遠く迂回し、敵も味方も不測な地点から、
それにしても、二人の功は大きい。わけて趙雲のこんどの働きには、平常よく彼を知る玄徳も、
「満身これ
と、今さらのように嘆称した。
その後、敵状を探るに、さしもの曹操も、予想外な損害に、すぐ立ち直ることもできず、遠く
(この敗辱をそそがでやあるべき)と、ひたすら軍の増強を急ぎつつあるという。
ここに
「河を渡って陣を取らん」というのに、王平は反対して、
「水を背にするは不利だ」と、互いに、意見を異にしていた。
けれど徐晃は、
「韓信にも背水の陣があったことを知らぬか。孫子もいっている。死地ニ生アリ――と。ご辺は、歩兵をひきいて岸に
と、ついに浮橋を渡して、漢水を越えてしまった。
一歩対岸を踏んだらば、必ず蜀の
玄徳のそばにいて、この日、敵のなすままにさせていた黄忠や趙雲は、
「ははあ、夜に入る前に、徐晃の手勢も
玄徳も、その機微を察したか、急に令を下して、二人を急き立てた。勇躍した黄忠と趙雲は、やがて薄暮の野に兵をうごかし始めた。
「臆病者めが、ようやく今頃になって、居たたまれずに出てきたな」
「まさしく黄忠。老いぼれ、またしても逃げるか」
敵の旗じるしを見て、彼は奮迅した。黄忠の部下は、一時、鼓を鳴らし、喊声をあげ、甚だ旺んに見えたが、もろくも潰えて、蜘蛛の子のように夕闇へ逃げなだれた。
「逃げ上手め、魏の徐晃が、それほど怖ろしいか」
徐晃はわざと敵を
はっと、驚いて、振り向くと、漢水の浮橋が、炎々と燃えているのだった。不覚不覚、退路を敵に断たれている。徐晃は急に引っ返し、全軍へ向って、
「
「ひとりも生かして帰すな」と、叫びに叫ぶ。
徐晃はようやく危地を切り抜け、ほとんど身一つで、漢水の向うまで逃げてきた。その敗戦の罪を、あたかも副将の罪でもあるかのごとく当りちらして、味方の王平へ罵った。
「なんだって足下は、おれの
王平は黙然と、彼の
「招かずして、王平が
と、玄徳は彼を容れて、
徐晃のしたまずい戦は、すべて王平の罪に
一水をへだてて、玄徳は孔明と共に、冷静にそのうごきを眺めていた。
孔明がいう。
「この上流に、七
「誰をやればよいか」
「万一、敵に見つかると、一兵のこらず、
次の日、孔明はまた、べつな一峰へ登って、魏の陣勢をながめていた。この日、魏の一部隊は、渡渉してきて、しきりに、矢を放ち、
魏兵も、より以上、軽々しく進出はしなかった。夜に入るとことごとく陣に収まり、
すると突然
「すわっ、夜襲だぞ」
「いや、敵は見えぬ」
「近くもなし、遠くもない?」
上を下への騒動である。曹操は安からぬ思いを抱いて、四方の闇を見まわしていたが、彼にも何の発見もなかった。
「いたずらに騒ぐをやめよ。立ち騒ぐ兵どもを眠らせろ」
曹操も枕についたが、またまた、爆音がする。
三日のあいだ、毎晩である。曹操は士卒がみな寝不足になった容子を昼の彼らの顔に見て、
「これはいかん」
急に、三十里ほど退いて、曠野のただ中に、陣を営み直した。
孔明は笑って、
「曹操も
四日目の夜が明けてみると、蜀の軍は、その先鋒から中軍もみな河を渡り、漢水をうしろに取って陣容を展開していた。
「なに、背水の陣をとったと」
曹操は、疑いもし、かつ敵の決意のただならぬものあるを覚って、今は、
「明日、五界山の前にて会わん」と、玄徳へ戦書を送った。
戦書、すなわち決戦状である。玄徳もこころよく承知した。次の日、総軍の威風をあらゆる軍楽と旌旗に誇示しながら、蜀は前進した。
たちまち、
「玄徳。あるや」
鞭をあげて、曹操が馬上からさしまねいている。蜀の陣から玄徳は、劉封、孟達の二人を左右に従えて、騎をすすめた。
「久しや曹操。君はむなしく、今日を以て、死なんとするのか」
曹操は怒って云い返した。
「だまれ。予は汝の忘恩を責め、逆罪をただしに来たのだ」
「この玄徳は、大漢の
戦線数里にわたる大野戦はここに展開された。
「追うな、
曹操は急に、軍を収めた。なぜかと、魏の諸将は疑ったが、曹操は、蜀兵の潰走が、ほんとでないとみたので、大事をとったものだった。
ところが、魏が軍を退くと、果然、蜀は攻勢に転じてきた。どうも事ごとに、曹操は、自分の智慧と戦ってその智に敗れているかたちだった。
智者はかえって智に
かくて、曹操が自負していた智謀も、かえって曹操の黒星を増すばかりとなって、ここ甚だしく生彩を欠いた魏軍は、
蜀の大軍は、すでに南鄭、

時に、陽平関の魏軍へ、またしても、味方の

「この際、
千余騎は、許

「このご来援がなかったら、おそらくあと二日か三日の間には、ここにある兵粮軍需品、すべて蜀の手へ奪られていたに違いありません」と、いった。
嬉しさのあまりか、奉行はすこし許


「安心しろ。万夫不当の許

宵に出て、
「敵は下の渓にいる。岩石を落してみなごろしにしろ」
地の利をとって戦う気でいるといずくんぞ知らん、自分たちの頭の上から先に岩や石ころが落ちてきた。
伏兵は、山の上下にいる。寸断された

「許


不覚にも許

張飛の二の

危うい中を、許

時すでに陽平関は炎につつまれていた。敗れては退き、敗れては退き、各前線からなだれ来る味方は、関の内外に充満し、魏王曹操の所在も、味方にすら不明だった。
「すでに、北の門を出、
と味方の一将に聞いて、許

曹操は、その
彼は馬上にそれを見、
「やや、あれも孔明の伏兵か。もしそうであったら、我も生きる道はない」と、色を失った。
ところがそれは、彼の次男
「なに、北国の乱も平げた上、さらに、父の加勢にきたというか。ういやつ、ういやつ。勇気はそれだけでも百倍する。もう玄徳に負けるものか」
よほどうれしかったとみえ、曹操は馬上から手をさしのべてわが子の手を握り、しばらくその手を離さなかった。
ここまでは敗走一路をたどってきた曹操も、わが子曹彰に行き会って、その新手五万の兵を見ると、俄然、鋭気を新たにして、急にこういう軍令を宣した。
「ここに
かくて、戦の様相は、ここにまたあらたまって、両軍とも整備と休養を新たにし、第二次の対戦となった。
玄徳は、諸将と共に、陣前に出て云った。
「おそらく曹操は、こんどの序戦に、わが子曹彰を自慢にして出すだろう。そのとき曹彰を迎えて、一撃に討ち、彼の気をくじくならば魏の雑兵何万をころすよりも、この戦局を一変し得るが……。たれが曹彰の首を完全に挙げられるだろうか」
「それがしこそ」
「いや、わたくしが」
ひとしく進み出たのは、孟達と
が――孟達は、劉封も望んで出たので、ちょっと、遠慮する容子を示した。劉封は、玄徳の養子。曹彰は曹操の実子。――これは劉封としてはぜひとも買って出たい名誉の一戦であろうと
しかし玄徳は、将に対しても士に対しても、公平を期しているものの如く、劉封がわが家の養子だからといって特に彼ひとりを選ぶようなことはしなかった。
「では、二人に命じる。おのおの五千騎をひきいて、先鋒の左右にひかえ、曹彰が出てきたら思い思いに功名をせい。その働きによって恩賞するであろう」
「ありがとう存じます」
若い二人は勇躍して、おのおの五千騎を擁して、先頭の左右両翼に陣していた。
果たせるかな、やがて陣鼓堂々、斜谷に拠っている敵方の一軍が平野へ戦列を布いたかと思うと、ただ一騎、その陣列を離れて、
「玄徳はいるか。魏王の次男曹彰とは我である。父に代って一戦せん。玄徳、これへ出よ」
と、大声あげて、さしまねいている若武者がある。遠目に見ても
孟達は、左翼から出ようとしたが、まず養子の劉封にここは譲るべきだと思ってひかえていた。すると右陣の劉封は、父玄徳の威をうしろに負って、これも華やかな
だが、曹彰の前に近づいて、十合とも戦わないうちに、その一騎討ちは、誰の眼にも、曹彰の勝利と分った。劉封の武芸は、とうてい、曹彰の相手ではなかったのである。
孟達は、急に駈け出して、
「
と、入れ代って、自身、曹彰にぶつかった。
劉封は、一言もいわず、うしろを見せて、逃げ走っていた。曹彰は、孟達の邪魔を、振りのけながら、
「逃げるのか劉封。養父の玄徳を
と
ところが、彼のひきいる魏の手勢が、うしろのほうから崩れだした。驚いて引っ返すと、蜀の
曹彰は、父に似て、兵機をみるに敏だった。すでに多少の損害をうけたが、その禍いのまだ致命とならない間に、さっと軍をまとめ、敵将呉蘭の陣中を突風のごとく蹴ちらして、首尾よく斜谷の本陣へ引揚げてしまった。しかもその途中、道をさえぎる敵将の呉蘭を、馬上のまま一
劉封は面目を失った。
「自分の負けが、よけいぶざまに見えたのは、彼が横から出しゃ張って、曹彰を追いのけたせいもある」と、変な
以来、劉封と孟達とは、なんとなく打ち解けない仲になった。劉封は武勇に乏しいのみか器量においても玄徳の養子というには多分に欠けているものがあった。
しかし曹操のほうでも、序戦以後は、日ごとに士気が衰えて行った。一曹彰が一劉封に勝ったと一時は歓んでみても全面的には、刻々憂うべき戦況にあったのである。蜀の張飛、
曹彰も、劉封には勝ったが、それ以後の合戦に出るたびごとに、蜀の猛将たちから目のかたきに追いまわされ、手も足も出せなかった。
ここは都に遠い斜谷(陝西省漢中と西安との中間)の地。もしこれ以上の大敗を喫して、多くの将士を失うときは、本国まで帰ることすら甚だ覚つかないことになろう。――曹操も重なる味方の敗色につつまれて、心中悶々たるものがあった。
「兵を収めて、

こよいも彼は、
ところへ、膳部の官人が、
「お食事を……」と、畏る畏る膳を供えてさがって行った。
曹操は思案顔のまま喰べはじめた。温かい
すると、夏侯惇が、
「こよいの用心
これは毎夕定刻に、彼の指令を仰ぐことになっている。つまり夜中の警備方針である。曹操は何の気なしに、
「
鶏の骨をしゃぶっていたので、無意識に云い違えたものだろう。だが、夏侯惇は、曹操の言なので、何か
「はっ」と、そこを退がるや、城中の要所要所を巡って警固の大将たちへ、
「こよいの用心布令は鶏肋との仰せである。鶏肋鶏肋」
と、布令廻った。
諸将は怪しみ合った。鶏肋とはいったいなんのことか? 誰にも解けない。諸人は疑義まちまち、当惑するばかりだった。ときに行軍主簿の
「都へ帰る用意をせい。荷駄行装をととのえて、お引揚げの命を待て」と、急にいいつけた。
夏侯惇はおどろいた。自分が布令たことであるが、実は自分にも分っていないので、早速、楊修に向って訊いた。
「どういうわけで、貴公の隊ではにわかに引揚げの用意にかかられたか」
「されば、鶏肋というお布令を案じてのことでござる。それ鶏の
「なるほど」
夏侯惇は感服して、おそらく魏王の
その夜も曹操は、心中の
「
彼はもってのほか愕いた顔している。馳けつけて来た夏侯惇のすがたを見るや否やこう訊ねた。
「諸将の部下どもは、なんでにわかに引揚げの支度をしておるのか。いったい誰が、軍旅の荷駄をまとめよなどと命令したか」
「主簿の楊修が、わが君の御心を察して、かくは一同、用意にかかりました」
「なに、楊修が。――楊修をこれへ呼べ」
「こよいの用心布令は
と、
自分の
「鶏肋とは、その意味で申したのではない。慮外者め」
と、一喝したのみか、直ちに夏侯惇をかえりみて、軍律を
暁寒き陣門の柱に、楊修はすでに首となって
「ああ、
さすが武骨の将たちも、
実に、楊修の一代は、才をもって彩られていた。しかしその豊かな才も、あまりに曹操の才能をも越えて、常に曹操をして、怖れしめていたため、かえって、彼の
かつて、こういう事もあった。――

曹操は、善いとも悪いともいわなかった。ただ帰る折に、筆を求めて、門の額をかける横木へ「活」の一字を書いて去った。
(どういう思し召だろう)
そこへ楊修が通りかかった。人々が彼に当惑を告げると、楊修は笑って、
「何でもない事ではありませんか。魏王のお胸は、花園にしては余りにひろすぎるからもっとちんまり造り直せというご註文にちがいない――なぜかとお訊ねか。はははは。門の中に活という文字をかけば、即ち
(なるほど)
皆、感心してすぐ庭を造り直し、再度曹操の一遊を仰ぐと、曹操もこんどはひどく気に入ったらしく、
(たれが自分の心を酌んでこう直したのか)
と、たずねた。――で、庭造りの役人が、
(楊修にて候)
と答えると、曹操は急に黙って、喜ぶ色を
なぜというに、楊修の才には、曹操もほとほと感心しながら、余りに、自分の意中をよく読み知るので、その感嘆もいつか妬みに似た
魏王の位についてからの曹操は当然、次の太子は誰に譲ろうかと、わが子をながめていた。ある時、彼は侍側の臣に命じて、
(明日、長男の

次に曹子建が来た。同じように関門の将士が、通過を拒むと、
(王命を奉じて通るに何人か我を拒まん。召しをうけて行くは弦を離れた
曹操は聞いて、さすがは我が子だと、大いに子建を賞めたが、後になって、それは子建の学問の師楊修が教えたものだとわかり、がっかりすると共に、
(よけいな智慧をつけおる)と、彼の才に、その時も眉をひそめた。
また楊修は「
(もし父君から何か難しいお訊ねのあったときは、これをご覧なさい)
と、いっていた。答教のうちには、父問三十項に対する答がかいてあった。
こういう風に、曹子建には、楊修のうしろ
(父子、
けれど、楊修の言は、楊修が死んでから三日とたたないうちに、そのことばの理由ある
蜀軍は、その日も次の日も、斜谷の陥落もはや
ことに、最後の日は、両軍の接戦、惨烈を極めて、曹操自身も、乱軍の中に巻きこまれ、蜀の魏延と
「斜谷の城中から、裏切者が火の手をあげた」
という混乱ぶりであった。
だが、魏の陣中からあがった火の手は、裏切りがあってのことではなく、蜀の馬超が、斜谷の
しかし城を出て戦っていた魏軍の狼狽はひと通りでない。
「すわ、総くずれだ」と、後方の騒動に前軍も混乱して、まったく統一を失い、収拾もつかぬ有様に、曹操は剣を抜いて味方の上に擬し、
「誰にもあれ、みだりに陣地を捨て、背を見せて
しかしその姿を見て、蜀の魏延、張飛などが、
「我こそ、彼の首を」と、
かくと見て、曹操のそばへ、馬をとばして助けにきたのは

「いざ、今のうちに、一方の血路をひらいて、早々落ちたまえ」と主の前に立ちふさがり、魏延の手勢、張飛の部下など、入れ代り立ち代り寄りたかって来る敵を、わき目もふらず防いでいた。
すると後ろであッという声がした。まさしく曹操の発したものである。

「如何なされましたぞ」と、曹操のいるところへ駈け戻ってきた。
曹操は落馬していた。のみならず両手をもって、口を抑えていた。
遠矢に
「軽傷です。お気をたしかにおもちなさい」

すでに斜谷の関城は、全面、焔につつまれ、山々の樹木まで焼けつづけている。
魏軍は完敗した。今さらのごとく楊修のことばを思い出し、
(あのとき引揚げていたら――)と、思うもの、ただ魏の将士のみではなかった。
曹操の面部は
その途中、
「……そうだ。楊修の
氈車の中で、うわ言のように呟いていた。
さらに、また来ると、途中を邀して待ちかまえていた蜀軍が、曹操の首をとらんと、猛烈に包囲して来た。車はようやく
魏の勢力が、全面的に後退したあとは、当然、玄徳の蜀軍が、この地方を
「いまは誰のために戦わん」といって、みな蜀軍の
玄徳は、布告を発して、よく軍民の一致を得、政治、軍事、経済の三面にわたって、画期的な基礎をきずいた。
こうして彼の領有は、一躍、
時を観ていた孔明は、折々、諸大将と意見を交わして、
「いまや東西
と、即位進言のこころを
「そうなくてはならない。ぜひ折を見て、
と、同意を表した。
孔明は、諸臣の代表として、法正を伴い、ある時、改まって、玄徳に
「君にもはや、
というと、玄徳は、さもさも驚いたように、その面を左右に振った。
「何をいうぞ、軍師。予は漢室の一族にはちがいないが、なお許都には、皇帝がおわす。いついかなる所にあっても、身は臣下の分を忘れたことはない。もし王位を僭称し、曹操の
「いやいや、帝位を
玄徳はなお容易に
けれど孔明以下、法正も張飛も趙雲もたびたび、進言して、玄徳の積極性をうながしたため、ついに彼もそれを許容することになり、ここに文官の

建安二十四年の秋七月。

同時に、嫡子
軍師孔明は、依然、すべての兵務を総督し、その下に、関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲の五将をもって、五虎大将軍となす旨が発布され、また魏延は、漢中の太守に封ぜられた。
即位の後、玄徳は、ふたたび表をもって、その趣を天子に奏した。
先に都へ使いを立てて、捧げた表は、
表はいずれも長文で、辞句荘重を極めている。朝廷はその秋ただちに、劉備玄徳にたいして、
「漢中王領大司馬」の
「なに、むかし
魏王曹操が、ために大きく衝動をうけたことは、いうまでもない。
「起てよ、わが百万の
魏王は、
時に大議事堂に満つる群臣の中から起って、
「否とよ大王、一旦のお怒りに駆らるるは、上乗に非ず、すべからく蜀の内部に衰乱の
諸人が、
曹操はじろと見て、
「――うむ、それもよかろう。しかし仲達、蜀の衰亡を、ただ
「さればです。臣の察するに、呉の孫権は、先に妹を玄徳に嫁し、のち取り返して、以後、絶縁のままになっているものの、その心中には、歯をくいしばるの恨みをのんでおりましょう。――いま魏王の御名をもって、使いを呉に立て、呉が荊州を攻むるならば、魏は呼応して、呉を
「呉を。……そうか、呉をしてまず、戦わせるか」
「荊州の危うきときは、
「善言善言」
仲達の考えは容れられた。使者には
さてここに、呉の孫権も、遠く魏蜀の大勢をながめ、呉の将来も、決して今日の安泰を、明日の安泰としていられないものを自覚していた。
ところへ、魏使が着いた。
孫権はまず
「おそらく修交を求めてきたのでしょう。ともあれ会ってごらんなさい」
孫権はそれに従った。満寵を引いて、主賓の座を分ち、礼おわって、来意をたずねた。満寵はつつしんで使いの旨をのべ、
「魏と呉とはもとより何の仇もなく、ただ孔明の
使者の
(この外交は成功する)と、信じていた。
彼は酔って客館にさがった。だが、呉宮の殿堂は、深更まで、緊張を呈していた。重臣はみな残って、孫権を中心に、
(魏の申し出にどう答えるか)と、その修交不可侵条約の求めにたいして、検討評議にかかったのである。
「もちろん魏の大望は、天下を統一して、魏一国となすにあるので、これは曹操の
これは顧雍の説だった。
そのほか有力な呉人の国際観も、たいがい同じ見解をもっている。
要するに、不和不戦、なるべく魏との正面衝突は避け、他をもって戦わせ、そのあいだにいよいよ国力を充実し、起つ機会を充分にうかがうべし――という意見である。
「ひとまず使者の満寵はお帰しあって、呉よりも改めて、一使を魏に派遣されたらいかがです。そのあいだに別な使者を荊州へ送るのです。いま荊州の守りは、例の関羽ですが、これに我が君より書簡をつかわし、大勢を説いて、呉に協力させまする。もし関羽だに承知して、呉に
張昭が中途で訊ねた。
「もし関羽が断ったら?」
「そのときは、直ちに魏の申し入れを容れ、相携えて荊州を攻め取るばかり」
「妙変、臨機、大いによろしい。けれど諸葛兄、それはほとんど、後者にきまっていよう。玄徳の信任も篤く、忠誠無比といわれる関羽が、一片の書簡に変じて、呉に協力しようとは思われん」
「さよう。単なる外交では望みはありますまい。けれど彼は情にもろい豪傑です。私の計とは、婚姻政策です。関羽には一男一女がありますから、呉の世子にその娘を迎えたいがといったら、親心として、大よろこびで応じてくると考えますが」
孫権は
魏の船が出ると、すぐ後から瑾の乗っている船が出た。その船は荊州へ着いた。
孔明の兄とは知っているが、呉の使者として来たと聞くと、関羽は出迎えもせず、悠然、これを待って対面し、
「何です。ご辺の用向きは」と、応対まことに武骨だった。
瑾は不快とも思わない。むしろ武弁で正直な関羽の人柄に敬慕をおぼえながら話した。
「将軍のお娘御も、もう妙齢とうかがいましたが、主人孫権にも一男あり、呉の人はみな、好世子とたたえております。いかがでしょう、ご愛嬢を、呉の世子に嫁がせるお心はありませんか」
聞くと、関羽は、毛ぶかい顔をゆがめて、さも
「ないなあ、そんな気は」と、
瑾がかさねて、
「なぜですか」とたたみかけると、関羽は勃然と、
「なぜかって、犬ころの子に、虎の娘を誰がやるかっ」と、吐き出すように云った。
瑾は
「推参なる
孫権は、荊州攻略の大兵をうごかさんとして、その建業城の大閣に、群臣の参集を求めた。
参謀の
「荊州進攻は、断じてご無用です。それは
然りとする者、否とする者、議場は喧騒した。隠忍久しき呉も、いまや自信満々である。諸将の面上には、かつてのこの国には見られなかった
歩隲はかさねて云った。
「反対に、魏の兵馬を、呉の用に供せしめてこそ、上策と申すべきに、さる深慮もめぐらさず、ただひしめいて手ずから荊州を奪らんとするなど、一州を奪るにもどれほどな兵力と軍需を消耗するものか、国力の
すると、主戦的な人々は、声をそろえて、
「そんな巧いわけにゆくものか。犠牲なくして、国運の進展なし。また、国防なし」
と、あちこちで呶号した。
歩隲は、衆口を
「まず黙って聞き給え。いま曹操の弟曹仁は、
孫権は、歩隲の策を
呉の外交官の一行が、入府したとき、曹操は歯医者を招いて入れ歯をさせていた。
「できたできた。これでもう声も漏れないし、なんでも噛める」
そういいながら、彼は用の終った歯医者を捨てて、大股に
要するに、曹操の肚では、何よりも玄徳と孫権との提携をおそれていたのである。いまその蜀呉
呉から提示していた条件というのは、もちろん魏の即時荊州進攻の実行にある。曹操は、調印直後、
蜀はこの間に、もっぱら内治と対外的な防禦に専念し、漢中王玄徳は、成都に宮室を造営し、百官の職制を立て、成都から
もとよりこういう治民経世の策はその一切が孔明の頭脳から出ていたといってよい。孔明はかかる忙しい中に、荊州からの急使をうけたのである。即ち、魏の曹仁が、突如、堺を
「関羽がおります。ご心配には及びますまい」
漢中王の驚愕をなだめて、彼は常とかわりなく、沈着にその事を処置した。
司馬
関羽に会うと、彼は、漢中王の王旨であるといって、
「荊州の運命は、いまや将軍の一肩にある。よろしく州中の兵を起して、ただ守るにとどまらず、敵の樊城をも攻め奪られよ」と、伝えた。
関羽は、自分を信頼してくれる玄徳の依然として
費詩はまた言を重ねて、
「ついてはこの
関羽は例の
「五虎大将軍とは何ですか」
「王制の下に、新たに加えられた名誉の職です。つまり蜀の最高軍政官とでも申しましょうか」
「誰と誰とがそれに任ぜられたのか」
「閣下のほかには張飛、
「ははは。
「馬超は亡命の客将。黄忠はすでに老朽の
「羽将軍には、ご不満らしいが、五虎大将軍の職制は、要するに、
関羽は急に費詩の前に拝伏して
――然り、然り、もし足下のあきらかな忠言を聞くのでなかったら、自分はここにおいて、君臣の道のうえに、ついに取返しのつかぬ過誤を
即ち、彼は卒然と、自分の小心を恥じて、その印綬をうけ、
「小弟の愚かな放言をおゆるしください」と、はるか成都のほうへ向って詫びた。
荊州城の内外には、一夜のうちに彼の
彼の将士は、万雷のような拍手をもってそれに答え、各

先陣は
満城、その夜は
関羽もすっかり身を鎧って「
「……あっ」
と、愕きざま、抜き打ちに猪を斬ったかと思うと――眼がさめていた。夢だったのである。
「どうなさいました」
父の声に、養子の関平が来てたずねた。夢ではあったが、猪に咬まれたあとが、まだズキズキ痛むような気がするといって――関羽は苦笑した。
「
「人間五十に達すれば、吉夢もなし、凶夢もなし。ただ清節と死所にたいして、いささか
曹仁の大兵は、怒濤となって、すでに
(関羽が全軍をひきいて、荊州を出た)
という情報に、にわかにたじろいで、襄陽平野の西北に物々しく布陣して敵を待っていた。
魏の進撃が、思いのほか遅かったのは、曹仁が樊城をたつときから、参謀の満寵と
で、たちまち関羽軍は、襄陽郊外に来て、彼と対陣した。
魏の

一鼓一進、たがいに寄って、歩兵戦は開始され、やがてやや乱軍の相を呈してきた頃、廖化は偽って、敗走しだした。
その頃、夏侯存と戦っていた関平もくずれ立ち、荊州軍は全面的な敗色につつまれたかに見えたが、やがて二十里も追われてきた頃、こんどは逆に、追撃また追撃と狂奔してきた曹仁や夏侯存などの魏軍が、突然、乱脈にさわぎ始めて、
「どこだ、どこだ?」
「あの鼓は。
濛々たる塵煙の中に、味方ならぬ旗さし物や人馬が見えだした。わけて鮮やかなのは「帥」の一字をしるした関羽の中軍旗であった。
「すわ、退路を断たれるぞ」
あわてて引っ返してゆく大将曹仁のまえに、さながら火焔のような尾を振り流した赤毛の
これなん
「――あっ、関羽」
と、思わず声を発して、
「やよ、
と、手の青龍刀を遊ばせながら高々と笑った。
偽って敗走した関平、廖化の二軍は、はるかうしろに味方の鼓を聞くと、にわかに
作戦は成功したのである。魏軍は網中の魚にひとしい。けれどその朝、関羽からいわれている旨もあるので、
(序戦はまず敵の
で、荊州軍としては、ほとんど、損害という程度の兵も失わず、しかも敵に与えた損害と、心理的影響とは、相当大きなものだった。
なぜならば、曹仁は

第二日、第三日も曹仁は、不利な戦ばかり続け、ついに襄陽市中からも撤退のやむなきにいたり、襄陽を越えて遠く退いてしまった。
関羽軍は、襄陽に入った。
城下の民衆は、旗をかかげ、道を掃き、酒食を献じたりして、
「羽将軍来る、羽将軍来る」と、慈父を迎えるような歓迎ぶりを示した。
司馬の
「幸いに、
「よく気づいた。自分の憂いも実はそこにある。陸口に変あらばたちまちそれを知るような工夫はなかろうか」
「要所要所に
「ご辺に命じる。奉行となって、すぐその築工に取りかかれ」
「承知しました」
王甫はまず設計図を示してから関羽の工夫も取りいれ、急速にその実現を計った。
王甫はいちど荊州へ帰って、人夫工人を集め、地形を視察したうえ、烽火台工築に着手した。
烽火台は一箇所や二箇所ではない。陸口の呉軍に備えるためであるから、そこの動静を遠望できる地点から、江岸十里二十里おきに、適当な
そして、ひとたび、呉のうごきに、何か異変があると見るや、まず第一の監視所の
第三、第四、第五、第六――というふうに、一瞬のまにその烽火が次々の空へと走り移って、数百里の遠くの異変も、わずかなうちにそれを本城で知り得るという仕組なのである。
この「つなぎ烽火」の制は、日本の戦国時代にも用いられていたらしい。年々やまぬ越後上杉の進出に備えて、善光寺平野から甲府までのあいだを、その烽火電報によって、短時間のまに急報をうけ取っていたという川中島戦下の武田家の兵制などは、その
「着々、工事は進んでいます。――あとは人の問題ですが」
王甫はやがて襄陽へ戻ってきて、関羽に告げた。
「江陵方面の守備は、
「……うむ。……人は大事だが」
関羽は生返事だった。自ら選んで留守をあずけ、或いは江岸の守備に当らせた以上、その者を疑う気にはなれない彼である。考えておこうという程度に王甫の言は聞き流してしまった。
「まず、後の憂いもない」
として、彼は、襄陽滞陣中に、充分英気を養った士卒をして、襄江の渡河を決行させた。
もちろんこの間に、
ところが、大軍は難なく、舟航をすすめ、何の抵抗もうけず、続々、対岸へ上陸してしまった。
ここでも、
さきに逃げ帰った曹仁は、その生命を保ってきただけに、以後、関羽の武勇を恐れること一通りでない。
すでに荊州軍が、歴然と、渡河の支度をしているのを眺めながらも、
「どうしたらよいか」と、参謀の満寵に、ひたすら策を求めているような有様だったのである。
満寵は初めから関羽を強敵と見て、曹仁が襄陽へ陣を出すのをさえ極力いさめていたほどな守戦主義の参謀だったから、二言なく、
「城を堅固に、守るが第一です。出て戦っては、勝ち目はありません」と、いった。
ところが、城中一方の大将たる
――敵、半バヲ渡ルトキハ、即チ討ツ。
と用兵の機微を教えてある。そこをつかまないで、どこをつかむか。機微の妙を知らないような大将と共に城を同じゅうするとは、何たる武運の尽きか、と痛嘆した。
前の夜、その激論に暮れてしまった。翌る朝には、もう関羽の旗が、こちらの岸へのぼっていた。
呂常はなお自説を曲げず、
「このうえは、われ一人でも出て戦ってみせる」
と豪語し、勇ましく一門を押しひらいて、なお上陸中の荊州軍を襲ったはよいが、関羽の雄姿を目に見ると呂常の部下は、
「あれが有名な
と、戦いもせず、彼をおいて、われ先にみな城門のうちへ逃げこんでしまうといったような有様だった。
(――急遽、来援を乞う)
との早馬は、魏王宮中を大いに憂えさせた。曹操は評議の席にのぞむと、列座を見まわして、
「
と、その一大将を指さした。
魏王の指名をうけるなどということは、けだし大いなる面目といわねばならぬ。けれどそれだけに于禁は重責を覚えた。わけて曹仁は魏王の弟でもある。彼は、命を受くるとともに、こう願った。
「誰ぞもう一名、先手の大将たるべき豪勇の人を、お添え給われば倖せにぞんじますが」
「おう、よかろう。たれか先陣に立って、関羽の軍を踏みやぶるものはいないか」
すると、声の下に、
「いまこそ国恩に報ずる時かと存ずる。ねがわくはそれがしにお命じ下さい」
人々の目は、期せずしてその偉丈夫にあつまった。面は灰色をおび髪は茶褐色をしている。西涼の生れというから、

曹操が思うに、

「うむ、

曹操は念に念を入れた。七手組とは、彼の親衛軍七手の大将で、魏軍数百万のうちから選び挙げた豪傑たちであった。
面々、
「われわれ一同も、あなたを大将にいただいて征くことは、この上もない光栄ですが、副将として

「ほほう? それはいかなる仔細かの」
「



「いや、いかにも。七手組の不安は、無理ではない。早速、大王にお目通りして、ご意見を伺ってみよう」
夜中だし、発向の準備に、
つぶさに聞くと、曹操も安からぬ気持に駆られた。でひとまず于禁には、
「聞きおく」として、急遽、べつに使いを出して、

そして、軍令の変更を告げ、ひとたび彼にさずけた印綬を取上げた。

「いったい、どういうわけですか。大王の命を奉じて、明朝は打ち立たんと、今も今とて、一族や部下を集合し、馬や
と、面色を変えて訴えた。
「されば――予としては
さもさも心外でたまらないような面持をたたえて、

「汝に二心ないことは、予においては、充分わかっておるが、衆口はなんとも防ぎようがない。悪く思うな」
「…………」

「それがし漢中以来、大王のご厚恩をうけて、平常、いつか一身を以て、ご恩に報ぜんことのみを思っておりました。しかるに今日、かえって、衆口の疑いを起し、お心をわずらわし奉るとは、何たる不忠、何たる武運の

――と。曹操は、みずから手を伸ばして彼の身を
「もうよい。もうよい。汝の忠義は誰よりもこの曹操がよく知っておる。一応、諸人の声を取上げたのも、わざとそちに真実の言を吐かせて、諸人にそれを知らせんためにほかならぬ。いまの言明を聞けば、于禁の部下も、七手組の諸将も、釈然として疑いを消すであろう。――さあ
印綬はかくて


彼の家には、出陣の

そして、女房の
「お客はみな賑やかに飲んでいるか」
「宵から大勢集まって、あのようにあなたのお帰りを待っていらっしゃいます」
「そうか、ではすぐ席へ参るから、その前に、この柩を、酒席の正面に飾っておいてくれ」
「ま、縁起でもない。これは葬式に用いるものではありませんか」
「そうだよ。女の知ったことじゃない。おれの云うとおりにしておけばよい」

「やあ、失礼いたした。――実は、明朝の出陣をひかえて、突然、魏王からお召しがあったので、何事かと伺ってみると、実に思いもよらぬおことばで――」と、
「――明日、
それから、女房の李氏へは、
「われもし関羽を討ち得なければ、われかならず関羽のため討ち果されん。われ亡きのちは子を護り、父に
悲壮な主の決心を知って、満座みな袖をぬらしたが、妻の李氏は、かいがいしく侍女や
夜が白むと、

貝の音もする、

見れば、彼の兵は、列の真っ先に、
「一同、怪しむをやめい」
馬上ゆたかな姿をそこに現した

語をつづけてさらに
「日頃、その方どもの心根にも、おれは深く感じておる。もしこの


思い極めた大将の覚悟は、部下の心にも映らずにいない。かくて

「うム、そうか、よし、よし」
曹操は聞くと、喜悦をあらわした。

「大王、何をお歓びですか」と、いった。曹操は、問うも野暮といわぬばかりに、われ

すると、賈

「おそれながら、大王には、ちとご推測を過っておられるようです。関羽は世の常の武将ではありません。すでに天下に彼の名が轟いてから三十年、未だいちどの不覚を聞かず、不信の沙汰なく、無謀のうわさを知りません。いま、その武勇にかけて、関羽と対立し、よく互角の勝負をする者は、おそらく


「や。実にそうだ」
曹操はすぐ使いを派した。――

使者は、追いついて、告げた。
「王命です。――戦場に着いても、かならず軽々しく
「かしこまって候う」
謹んで答えたが、使者が帰ったあとで、

「何をお笑いになるので?」と、諸人が訊くと、
「いや、大王のご入念が余りにも過ぎると、かえって、この

と、いった。
「概すでに敵を呑む将軍の意気は大いによろしいが、魏王の
「三軍すでに征旅に立つ。何の

魏の援軍数万騎と。
曰く、
大将于禁、副将


またいう。
先鋒の

この報告を聞くと、関羽は、勃然と面色を変じ、その長い
「匹夫、われを

直ちに、駒を寄せてまたがり、また養子の
「父が、

関平は、父の乗馬の口輪をつかんだ。そしてその前に立ちふさがり、
「こは父上らしくもないことです。たとえ

「うむ。……まず試みに、おまえが行って当ってみるか」
関羽は子の忠言に、よろこびを示した。父をいさめるようにまで、わが子関平も成人したかと思うのであろう。
「行ってきます。
若い関平は、たちまち馬上の人となり、部下一隊を白刃でさしまねくと、
やがて前方に、雲か

関平は、駒をとどめて、
「

と、大音で呼んだ。
遠く眺めていた

「あの青二才は何者か」と、左右にたずねた。
誰も知る者はいなかった。
けれど、云っていることは、一人前以上である。ついに怒気を発したか、
「小僧、
と、陣列を開かせて、颯々、関平の前にあらわれた。
「

「知らないか。われこそは五虎大将軍の首席関羽の養子、関平という者だ」
「あはははは。道理で乳くさい小せがれと遠目にも見ていたが、関羽の養子関平か。――帰れ帰れ。われはこれ、魏王の命をうけて、汝の父の首を取りにきた者で、汝のようなまだ
「――なッ、なにを!」
関平は馬もろとも、いきなり

閃々、刀を舞わし、

ついに相引きの形で引きわかれたが、さすがに若くて猛気な関平も、肩で大息をつきながら、満身に湯気をたてていた。
関羽は合戦の様子を聞いて、次にはかならず関平が負けると思ったらしく、にわかに、その翌朝、部下の
そして、きょうは自分が、

戦場の微風は、関羽の髯をそよそよとなでていた。
「

と一
「おうっ」
という答えが聞え、それを
渦巻く味方の物々しい声援に送られて、ただ一騎、

まず

「われはこれ、天子の
関羽は苦笑してそれに答えた。
「


「なにをっ」
馬蹄の下からぱっと黄塵が煙った。


戦えば戦うほど、両雄とも精気を加えるほどなので、双方の陣営にある将士はみな酔えるが如く手に汗をにぎっていたが、猛戦百余合をかぞえた頃、突然、蜀の陣で


これは養子の関平が、いかに英豪でも年とった父のこと、長戦になっては万一の事もあろうか――と急に
関羽は、本陣へ引いて、休息をすると、諸将や関平に向って、話していた。
「なるほど

「父上。
関平は
一方の

「今日までは、人がみな関羽と聞くと、
けれど、

「これほどの敵に会って、晴れの決戦を避けるくらいなら、初めから、武人にならないほうがましだ。明日こそ、さらにこころよく一戦して、いずれが勝つか
あくる日、

「関羽、出でよ」
と、敵へ挑みかけた。
きょうは

戦い五十余合に至って、

「偽って、刀を引くは、大将らしからぬ戦いではないか。

と、追いすがった。
すると不意に、陣地の内から馬を飛ばして駈け出してきた関平が、
「父上っ、彼の

父の危機と見てうしろから注意した。
とたんに早くも

「父上っ」
関平は馬を寄せて父を抱いた。そして父を救うて戻ろうとしたが、かく見るや、

すわとばかり蜀の陣は鼓を打って動揺した。魏の陣も突貫してきた。双方はたちまち乱軍状態になる。そのあいだをくぐって、関平は無二無三に、父を扶けて味方のうちへ駈け込んだ。
そのとき魏の中軍では、さかんに

「どうしたのです。何が起ったのであるか」と、訊ねた。
ところが于禁の答えは、彼にとって実に心外きわまるものだった。彼はいう。
「いや別に何が起ったというわけではないが、都を立つ時、特に魏王から

また一部の将の間には、それは于禁が自分の功を

ともあれこの一日に、関羽は一
「次には、われの一刀を、

傷口は浅いようだったが、薬の
それをよいことにして、敵は毎日のように


「どうしても誘いに乗らん。このうえは策を変えて、わが先鋒の中軍は一手となり、彼の陣を突破して、一挙に

「関羽ほどの者が、正面から敵に突破されるような陣構えをしているわけはない。足下の言は策というものではなく、ただ自己の勇に信念がお強いというだけのものだ。ところが戦争そのものは、一人の勇よりも万夫の結束と、それを用いる智によって勝敗のわかれるものだからな。まずまずおもむろに機を待つとしよう」と、容易に



父の
「もう心配はない。この上は一転して、攻勢に出で、魏の慢心を
ところが魏軍はにわかに陣容を変えて、樊城の北方十里へ移ったという報告に、
「さては早くも蜀の攻勢を怖れて、布陣を変えたとみえる」
と、
「どう陣立てを変えたか? ――」を見るべく、関羽は高地へ登って、遥かに手をかざした。
まず、樊城の城内をうかがえば、すでにそこの敵は外部と断たれてから、士気もふるわず旗色も
また一方、城外十里の北方を見ると、その附近の山陰や谷間や河川のほとりには、なんとかして城中の味方と連絡をとろうとしている魏の七手組の大将が七軍にわかれて、各所に陣を伏せている様子が明らかに遠望された。
「関平。土地の案内者をここへ呼べ」
「――連れて参りました。この者が詳しゅうございます」
しきりと、地勢をながめていた関羽は、案内者へ向ってたずねた。
「敵の七軍が旗を移したあの辺りは、何という所か」
「

「なお、附近の河は」
「
「谷は狭く、うしろは嶮岨だが、ほかに平地は少ないのか」
「されば、あの山向うは、樊城の
「そうか、よし」と案内者を退けてから、関羽は何事かもう勝戦の成算が立ったもののように、
「敵将
諸将は、彼の意をはかりかねて、その仔細をたずねたが、関羽は
「

「陸戦をするのに、何だってこんなに船や筏ばかり作らせているのだろう」と、将卒はみなこの命令を怪しんでいたが、やがて秋八月の候になると、明けても暮れても、連綿と長雨が降りつづいた。
関羽は、高きに登って、敵の七陣を毎日見ていた。岸に近いところの陣も、谷間の陣も次第に増してくる水におわれて、毎日毎日少しずつ高いところへ移ってゆく。……しかし背後の山は
「関平関平」
「はい」
「もうよかろう。かねて申しつけておいた上流の一川。そこの堰を切って押し流せ」
「心得ました」
関平は、一隊をひきつれて、雨中をどこかへ駈けて行った。襄江の
その日、
「いつ晴れるか知れないこの長雨です。万一、襄江の水がこれ以上増したら諸陣は水底に没してしまいましょう。一刻も早く、この

とすすめていた。
「よろしい、よろしい。もう分っておる。足下はちと多弁でしつこすぎる」
于禁は苦りきって、無用な説を拒むような顔を示した。
「いくら降ったところで、襄江の流れが、この山を
成何は恥じ怖れて本陣を辞去した。けれど彼の憂いと不満は去らなかった。彼はその足で


「貴公もそこに気がついていたか、貴説、まさに当れりである。しかし于禁は総大将という自負心が強いから、とうてい、我らの意見を用いるはずはない。この上は軍令に


「やっ、何事だ?」
「や、や。
しかし、その
「筏にすがり、船へ
関羽は兵船の上から悠々下知していた。
この日関平が上流の一川の

関羽は夜どおし洪水の中を漕ぎ廻り、多くの敵を水中から助けて降人の群れに加えていたが、やがて朝の光に一方の山鼻を見ると、そこにまだ魏の旗がひるがえって、約五百余の敵が一陣になっている。
「おう、あれにおるは、魏の

蜀の軍卒は、その兵船や筏をつらねて、旗の群れ立つ
矢は疾風となってそこへ集まった。五百の兵は見るまに三百二百と減って行った。董起や成何は、所詮逃げる途はないと
「この上は、白旗をかかげて、関羽に降を乞うしかあるまい」
と云ったが、ひとり

「降る者は降れ、おれは魏王以外の他人に膝を
と云って、矢数のある限り、射返し射返し、奮戦していた。
「わずかな敵を、持てあまして、いつまで手間取ってるか」
と、関羽の一船もそこへきて短兵急に矢石を
魏の将士は、ばたばた仆れては水中へ落ちてゆく。しかもなお

「勇将ハ死ヲ

成何も今は死を決し、おうっとそれへ答えるや否や、槍を揮って、崖下へ駈け出した。敵の一つの
だが、近づくが早いか、成何は大勢の敵に、滅多斬りにされてしまった。蜀の兵は


「汝ら、何を望むか」
と、頭上へ落した。血と肉と岩石は、粉になって飛んだ。
彼は手近な岩石をあらかた投げ尽した。いかに
人も筏もその下にはみな影を没し去っていた。

なお、ばしゃばしゃと


またたくまに船中の兵七、八名を斬殺すると、彼は悠々岬を離れて、濁流の中へ棹さして
すると、まるで

「やったな、見事」
「誰だ、あの大将は」
蜀軍はそれを見て、みな声をあげ、手を振って賞めた。不死身の

ところが、彼を葬った蜀の一将は、それをもって満足せず、直ちに、自分も濁流の中へ身を躍らした。そして渦巻く波を切って泳ぎ、当の相手

戦いすでに終ったので、関羽は船を岸に返し、その勇士が

関羽の前には、魏の総司令
「犬ころを斬っても仕方がない。荊州の獄へ送ってやるから沙汰を待て」と、云った。
次に


「汝の兄の

と諭すと、

「誰がそんなことを頼んだ。要らざるおせっかいはせぬがいい。おれは魏王のほかに主というものを知らん。久しからずして玄徳もおれのような姿になって魏王の前に据えられるだろう。そのとき汝は、玄徳に向って、魏の
関羽は激怒して、
「よろしい。汝の望み通り、汝の用意した
と大喝した。

雨はやんでも、洪水は容易に減水を示さなかった。

一方、その地方の大洪水は、当然、樊川にもつづいて、樊城の石垣は没し、壁は水びたしの有様となった。さなきだに籠城久しきにわたって、疲れぬいていた城中の士気はいやが上にうろたえて、
「天なんぞこの城にかくも
と、ただ自然を恨み、明日を
けれどただ一つの
その間に、城将の多くは、首将の曹仁をかこんで、評議の末、
「今はもう餓死か落城かの二途しかありません。むしろこの隙に夜中ひそかに舟を降ろし、城をすてて何処へなりとも一時御身を隠さるるが賢明かと思います」
と勧め、曹仁もその気になって、脱出の用意をしかけていた。
「
「この洪水は、長雨の山水が
そう説明して、彼はまた曹仁のために、この際、処すべき道をあきらかにした。
「いやしくも将軍は魏王の御舎弟。そのあなたという者のうごきは魏全体に大きな影響をもちましょう。よろしくここは孤城を守り通すべきです。もしこの城を捨て給わば、関羽にとっては思うつぼで、たちまち、黄河以南の地は、荊州の軍馬で平定されてしまうにちがいない。しかる時は、なんの
満寵のことばは、曹仁の
「もし足下の教えがなければ、おそらく自分は大事を誤ったろう」
と、それまでの敗戦主義を城中から一掃するため、諸将をあつめて訓示した。
「正直にいう。自分は一時のまちがった考えにいま恥じておる。国家の厚恩をうけ、一城の守りを任ぜられ、かかる一期の時となって、城を捨てて
曹仁は剣を抜いて、日頃自分の乗用していた白馬を両断にして、水中へ斬り捨てた。諸将はみな顔色を失って、
「かならず、城と運命を共にし、
と、異口同音に誓った。
果たしてその日頃から、徐々に水はひいてきた。城兵は生気をとりもどし、壁を
「いざ、来れ」
と、大いに士気を
二十日足らずののちに、洪水はまったく乾いた。関羽は、

時に、次男の
「これを漢中王におとどけせよ」
と、使いを命じて、成都へやった。