十月。晩秋の好晴。
北条高時は江ノ島の
「なに。わしを
あの特有なかなつぼ
「ばかを申せ。すれや元々、北条家は“平家”であるには、ちがいないが」
と、ぺろと上唇を
猫の目より変りやすいごきげんなのだ。人々は、それを言い出した北条
「わが娘を
波映が、酔の面をよぎる。
三ツ
「高時は、堂上などに、
と、嘲侮をうかべ、
「さるによ」と、やや怒ッた青すじを、
「じたい、量見のおせまい天皇以下、事ごとに、関東を
「…………」
「が、わしは清盛でない。清盛には、
急に彼は、海に
「
と、海へ向って、子供のように、胸を張った。
「いや、
「茂時どのが申されたのは、今日の江ノ島詣りと、平相国の
「高時と清盛とを、くらべたわけではないと申すか」
「さようです。清盛公は、福原から厳島へ、
「その点も、似ていないな。わしの方が、ずんと不信心らしい。ははあ、それでか。……それで過日、江ノ島弁財天の夢見などしたわけよな」
道誉の助け舟で、茂時もほっとし、近習ばらも、わざと話題をほかへ、
いつか、華麗な船列は、海中の一ノ大鳥居の下を通って、鎌倉の浜についていた。
浜は、出迎えの
「なに、早打ちどもが?」
高時は、耳にしたが、驚いたふうもない。
事実、早馬早打ちには、鎌倉の上下とも、麻痺していた。
ここと都との通信機関は、早馬の往復だけが、
「なぜ、こんな所で、飛脚どもは待つのか」
座につくと、高時は、
「ここは浜御所、せっかく海上の疲れを、一ト休めと思うたに、
「はっ」
「おるす中といえ、急使の飛状は、その
ついと、高時は横を向く。
「茂時」
それから、また、
「道誉」
と、名ざしのもとに、
「ふたりして、飛脚状を収め、また委細を、早打ちの武士どもから、訊きとっておけ。……わしは、こうしていてもまだ船の上に揺られているような心地だ。ちと、ねむっておきたい」
茂時と道誉が、そこを立つまに、女房たちが、大きなお枕をささげて来て、高時の青い
高時は他愛がない。頭もまろいし、大きなぼんちみたいな寝相である。このままの人ならば、
が、あいにく北条家九代の
すでに、
高時はいちど、執権職を
そのころの高時は、世に“うつつなき人”といわれたほど、しばしば、
「や。……ようおやすみだ」
「どうしましょう?」
ほどなく、もどって来た道誉と茂時は、そこの“うつつなき人”のお寝相に、顔見合せて、たじろいだ。
へたに起せば、ごきげんを損じよう。そして、こじれ出したら、ご持病のお物狂いもおこりかねない。
「……まずは、もすこし、お目ざめまで、待ち申そう」
道誉の分別にしたがって、
浜御所の広間である。いかにも、こころよげな高時のうたた寝だった。波音も、眠りをあやす
が、道誉の耳には、この波音も、時勢の吠え声に聞えていた。
「…………」
茂時とは、ほんとの胸など一語の語り合いもできないが、道誉はその茂時とたった今ふたりで、六波羅の急使たちと、表ノ間で対面し、風雲の急を、聞きとって来たばかりなのだ。
刻々、変ってゆき、また悪くばかりなってゆく国々の形勢図が、波と聞え、眼にも見えるここちがする。
「……だのに、寝てござる」
いま、耳にした六波羅飛報によれば。
――そのご、行方も知れず、といわれていた大塔ノ宮
“義兵ヲ
の
また。とかくこの鎌倉では「名もない土豪の小さかしい野心沙汰」と見て、軽視の風がある
その楠木と大塔ノ宮とが、歯と唇のように密接なのは、いうまでもない。――いわばその二つの主峰は、一時雲に隠れていたものが、ふたたびその健在な姿を、
はやくも、それにこたえて。
四国の河野党も怪しい。九州の菊池党も、どうやら、あぶない。なお疑えば、あなたこなたに、
だが、道誉には、それすら甘い
彼は、この六月、
「鎌倉は
と、ひそかに、自分の居る位置も、そっと、見まわさずにいられない。
しかも、高時という
道誉は、にっと、冷ややかな笑みをふくんで、彼を見ていた。高時の明日の運命が、彼には、見えていたからである。
「道誉! 何を笑う」
ふと、彼はきもを冷やした。高時が言ったのだ。高時はいつのまにか、薄目をあいて、いたずらッぽく、逆に道誉の顔を見ていたのだった。
道誉はドキとした。
この暗愚な
「や、お目ざめで」
と、
高時は、起きて、大
「……夕になったら」
と、高時は女房たちへ、註文をつけていた。
浜御所の廻廊すべての
踊る宗教といわれる
高時は自分もやってみたくなり、もう何度か、この浜御所に、鎌倉中の妓をあつめて、夜もすがら、踊りに踊ってみたのである。
「おもしろい!」と彼は絶讃していた。そして従来の
「あいや、今宵は、お見あわせを」
道誉が、止めた。
いい出しかねている茂時の色を見て、それに代って、いかにも、忠臣が諫言するような、おもてで言った。
「太守。ご歓楽は、長い先の春秋で、いくらでも
「あ。飛脚のことか。そうそう、まだ聞いていなかったな」
と、高時は坐り直し、
「どうなのだ? 六波羅状の一つ一つは」
「
「そのために、評定所がある。まった武者所と
「が、これまでの程度ならば、でございまする」
「こんどは違うか」
「しさいは、
と、道誉はゆずって、あとは茂時に語らせた。
大塔ノ宮の旗上げ、その吉野城と、金剛山との結びつき、四国九州にわたる宮方の危険な
「ふーむ、たいへんだな」
高時は、
「なるほど、大英断を要しよう。すておけん」
と、天井を仰いで言った。
「こんな夜、わしが踊り明かしていると、お耳にしたら、またまた、あの心配性な、母の
彼が恐い人は、妻の
その尼公の病因は、しばしば、子の高時の盲愛に迷うためといわれているが、高時も母思いでないことはない。
踊りも宴も見あわせて、彼はその夕、若宮大路の柳営の内へ、座を移した。
高時の私生活は、高時だけのものである。
彼の
いまも
「ご帰館――」
とつたえ、また、
「中御所へ
と
事あれば、ここには一族、重臣、元老、それに
そして、たれも心のうちでは、一個の驕児高時を、あてにはしていなかった。
北条氏である!
九代の幕府である!
その組織が彼らの主人であった。一世紀半にわたって、日本全土に根を張ってきた政体の
「太守(高時)は、おかざりものでよい。たとえ少々、ご奇矯であろうとも、執権職の空座をめぐッて、内輪争いを見るよりは、やはり、ご正嫡をあがめておくに
という考えなのである。ここ数日らいの難局もまた、全北条の主脳だけで、閣議にあたまをいためていたのだ。
それにしてもである。
さいごの“
で、やがてのこと。
「さっそくながら」
と、中御所へは、一族の名越、
「まことに、ここひきつづいて、おもしろからぬことのみ、お耳にいれ、恐縮にござりまするが、いまは鎌倉の存亡にもかかわる大事と見えますれば、なにとぞ、ご勇断のもとに、さいごのおさしずを下したまわりたく」
と、さしせまった地方情勢の険を、絵で画くように、わかりやすく、
高時は、台座にあぐらして、つんと胸をそらしていた。
どれも親類のおじさんみたいな人ではある。が、こう偉いのが顔をそろえて、あだかもこの自分を、神の天童のごとく、
「そのことなら、もう聞いてる、聞いてる!」
とつぜん、
「そうくどく、説明にはおよばん。浜御所での休息中に、飛脚どもから聞きとっておる。そこで、皆はどうしたいのだ。またぞろ、軍勢を出そうというのか」
「御意……」
と、おだやかにうけて、
「それも、このたびは、去年の笠置攻めに数倍する大軍をおつかわしなくば、なかなか、事むずかしいかと思われます」
子を
「むむ」
と、高時は
「やるからにはな。ざっといって、どれくらい?」
「十万とぞんじます」
「十万?」
そんな兵力が、どこにあるか、と言いたげに、高時は眼をまろくした。
「いや、公称十万。じつの数は六、七万で足りましょうか。いずれにせよ、去年の三倍四倍の兵を要しまする」
「それではまるで、
「まだしも、蒙古の
「こんどは」
「吉野、赤坂、金剛山。そのほか、
「評議は、まとまったのか」
「ご裁可さえ給われば、ただちに、諸大名へ、兵の割当てと、発向の日を、
「
「まず、この二階堂
「それから」
「ご一族では、
「
「おまちください」
道蘊は、席次のつぎにいる工藤高景をかえりみて、代ってもらった。
やがて、武者所の
千葉ノ大介、宇都宮三河守、小山政朝、武田伊豆ノ三郎、小笠原彦五郎、土岐伯耆 、芦名ノ判官、三浦若狭 、千田太郎、城 ノ大弐 、結城 七郎、小田の常陸ノ前司 、長江弥六左衛門、長沼駿河守、渋谷遠江守、伊東前司、狩野七郎、宇佐美摂津ノ判官、安保 の左衛門、南部次郎。
工藤は、ここでつけ加えた。「なお、私も右の内に入る者でございまする」
「ほかには」
「甲斐、信濃の源氏。北陸七ヵ国の
「すれや、十万も超えるであろうが」
「が、
「なるほど」
「
「わかった」
高時は、裁可を与えた。
一同が中御所をさがったのは、もう夜に入っていた。それからのこと。武者所は徹夜だった。
――
と、海道沿いの子供らは、歌にうたった。
――夕焼け、小焼け
の声と似て、何か、明日の晴雨を物思わせたにちがいない。
そんな或る日を。
西から東へ、とぼとぼ、牛車にまかせて来た忍び下向の公卿がある。かねて幕府では、わかっていた人か、四
高時は、
「しさいない、いつでも」
と、いっている。
しかし周囲は、このさいであり、警戒のいろ濃く、あらかじめ、下向の内意をきいてから、やっと、ゆるした。
公卿は、後醍醐の
いや、そういうよりも、正中ノ変の寸前に、宮中の陰謀を、幕府へ密告した公卿といった方が、いまではたれにでも分りがいい。
宮方の“裏切り公卿”としてである。――この鎌倉で、まっさきに、宮方の張本として首斬られた日野俊基などは、
「いちど吉田
と、死すまで、恨んでいたほどである。
あまつさえ、笠置のあとも、吉田大納言定房だけは、
およそ以前は、後醍醐の
「その、辱知らずが」
と、鎌倉武士にしてからが、彼を、
「……何を、また?」
と、高時との会見にも、要心をおこたらなかったが、しかし会見は、定房ののぞみで、人交ぜもせず、
「ほ。……これはまた、大納言どのには、いたく老い込まれたご容子じゃな。たんだ両三年、お会いせぬまに」
高時のお
「人から
「ふうむ……」と、高時はふしぎそうに「それが、あなたのお道楽ですかな?」
「はははは。ま、そうでしょうな。風月を楽しめる世ではありませんから、道楽かといわれれば、そんなところを、
「そして、こんどのお下向のお心は」
「さきに、しばしば、書状にこめて、定房の
「あ、なるほど、たびたび拝見いたしておる。あなたはさすが、文も筆蹟も、お上手だな」
定房は気がねれている。
大宮人のしなやかな辛抱づよさを笑みにもって、相手の風向きに逆らわず、
「ハハハ、お
と、高時の
老躯の、しかも大納言ともある身で、こんなさい、関東のまッただ中へ、しのび下向を踏み切って来るなど、よほどな勇気と目的でなければならぬはずだった。……が、そんなあせりは少しもない。根気よく高時の他愛ない話し相手になっていた。
とはいえ、いつかしら、定房は上手に、驕児の耳を、自分の言へも、かたむけさせていた。――支那の春秋左氏伝の史話などひいて、世間ばなしに事寄せているので――高時もはじめのほどは、おもしろげに聞いていたが、だんだん聞いてみると、
「一日も早く、隠岐の先帝を、お解き返しください。それが天下
と、いう意味のことを、るると説いているのであった。
高時は、はっと、定房の目的に気がついて「こやつ、なにをいうか」とばかり急に態度を
「よう、
彼としては、いい答であった。政所や、評定所衆という機関のあるのを忘れていない。
「……なにとぞ」
と、老大納言は、
「そこで、もひとつ、ここに。
と、いった。
父皇後醍醐とともに、軍事にたずさわった皇子らは、みな遠くへ流されたが、都の内には、なお中宮やら、十歳以下の幼い宮たちが幾人も、六波羅監視のもとにある。
「……申さば、あどけない
と、幕府の寛大を――わけてこんどの大軍上洛にあたって万一の乱暴などないように――と、定房は、その
「よろしい」
高時は、初めて、権力の快を感じた。
「よいことだ、一存で承知した。母の覚海尼公も、そういうことなら、お耳にいれると、たいそうよろこぶ。案じられな……大納言殿」
夜は、小御所の
冬ざれが来た。
こがらし、冬の海鳴り。それさえ長くて、高時はたまらなく嫌いなのに、ほかの人間がみな、狂気に見えてくるような、明けても暮れてもの、戦ばなしだ。
「十二月だぞ」
高時は、つまらない。
「すぐ
戦時下が窮屈で、またこの人には、退屈なのだ。
ひょこと、評定所だの政所にあらわれては、そこの引付衆や重臣をみて
ここといい、武者所といい、見馴れた顔は、めっきりと減っていた。一方の大将として次々に出征したのだ。それにつれ、鎌倉中の人口の
「いや、まだまだ、足りるどころではございませぬ」
居合せた
「――初春には、なお第三陣、四陣のご軍勢をも、
「
「
「応じない大名がある?」
「はい」
「そんなのは懲罰にふして、さっさと、当面の戦争をかたづけてしまえんものか」
「
「それよ、
始終、つつましく、彼に
「なに、近江へもどりたいと。この上、そちがいなくなっては、いとど淋しいぞ。なぜ急にさようなことを印し出るか」
「いま伺えば、出陣の
「では、出陣を望むのか」
「わが四ツ目
「しおらしい」
高時は、
「まあ、そちまでが、
「いや、ぜひとも、おつかわしを」
「なんの、武者所の
「ご府内の住人で」
「目のさきにおりながらよ」
「そのような不所存者は、そも誰でございますか」
「高氏じゃよ。あの足利だ!」
高氏――
という響きは、いろんな意味で、道誉を複雑にさせずにいない。
始終、胸につかえている名である。道誉の家は二階堂だ。
「そ知らぬふりで、いちど立ち寄ってみてやろうか?」
しかし、何やら、うしろめたい。さすが、そこまでの厚顔には、なりきれない。
かたがた。
高氏とて、この風雲や、関東大出兵の急もみていように、なんでしいんと大蔵の門をとじて、出仕もなまけているのだろうか。ここらの高氏の心境なども、道誉には的確にまだつかめていない。この鎌倉に多い
「まずは、ヘタに
と、いつも通りすぎていたのである。――それをいま、高時が、さも憎げに「この時もよそにして、久しく顔も出しおらん」と、怒りをもらしたので、道誉にすれば、高氏の
「……なるほど、仰せのとおりでございますな。私もこの春、
「病気だと称しておる」
「そんな噂も、ちらとは、耳にしていますが」
「そちにしても、まにはうけまい」
「が。ご不快では」
「いやいや、よく
「去年の出兵も、出渋ったのでございましたか」
「もっとも、陣触れをうけた前日に、父の貞氏が、あいにくと病死した。子としては、
「ははあ、そんなことですか。もし戦陣なら親の
「そうは、とらんのだ。ゆらいあのうすあばたは、この高時に心から馴じめぬらしい。過ぐる年の闘犬興行でも、大勢の中で、高時の愛犬に
「でも、赤橋殿の
「それよ、その若夫婦を、祝うてくりょうと、
妖霊星……ようれいぼし……。
そろそろ、藤夜叉の名も、出かねない。
道誉は懐紙を出して、
「いかがなものでしょう」
道誉は、すすめた。
「ひとつ、
「いや、見舞の使いは、いくどかやっておるはずだ」
「公式にすぎますまい。さような儀礼一片でなく、太守のご心配ひとかたならずと、かくべつに」
「いらんことだ」
と、高時は感情まる出しに。
「なぜ高氏ずれに、そこまでの機嫌をとらねばならんか」
「これはてまえの言い方が不行届きで。要は、探りをやってみてはと申しあげてみたわけです」
「たれをやる?」
「てまえが行きましょう」
「おもしろいな」
と、たちまちニヤとして。
「
「手にはのらぬつもりでございまする」
「よかろう。申しつける」
数日後のことだった。
日ごろは横目に素通りしていた大蔵の足利屋敷の門へ、道誉はいい口実をえて、駒をつないだ。
すでに
「……はてな」と見まわして「
邸内もひっそりだった。
考えてみると、足利家の門の繁昌も、赤橋守時が執権中だけのことで、そのごは守時の
「そのせいか」
やがて、書院の客座につく。
下賜の鮮魚や品々の目録を披露して、道誉は、家臣一統へ、申しいれた。
「ご当主には、だいぶお長い御病気、どんなか、よう見舞うてこいとの
「あいや」
家臣たちの狼狽気味はありありだった。「……しばし、お待ちのほどを」とばかり、
ははん……。思った通りであったと思う。
高時にはうとまれるしで、とかく不遇な高氏だ。ここは冬眠をよそおって石垣の穴から首を出すまいとしているのだろう。それならそれで大いに話せる。こっちも伊吹の蛇ではある。
「が、さて。何と出てくるか」
道誉はだいぶ待ちしびれた。
だが、こう乗りこんできた以上、彼は高氏にあえて
すると。ずしっ、ずしっと大きな跫音。つづいてすぐ、大書院の袖のあたりで、
「やあ、どうも、どうも」
と、ひどく馴れ馴れしいガラ声がひびいた。
来たな。
と感じたものの、それはどうもすこぶる不愉快な予感だった。それにまだ一度も会ったことはない人物に思われた。
入って来た男は、人間以前の人間の毛ぶかい痕跡を手の甲や耳の穴にまだ持っている四十がらみの侍だった。
なんとも
おや?
道誉ですら何かこの男を見たとたんには、意味なく
「……これは」
男の
「長々お待たせ申しておざる。ただおひとりここへおいて、おかまいも申しあげず、いやどうも、ご無礼を」
と、わび入った。
道誉はすでに、ごつんと来ている。そんな
「ではすぐ御病間へ案内してもらおうか」
「いや、主人よりは、御前てい、ただ、何とぞ、よしなに御披露を、とのことにござりまする」
「会えんのか。高氏どのへは」
「が。せっかくお越しの佐々木殿へは、身に代って、心からなおもてなしをして
「やめよ。もてなしをうけに来たのではない」
「ごもっとも」
と、黒地に
「おもてなしとは、つまり主人高氏に代り、何なと、おはなし相手を仕れとのおいいつけで、決して、さもしき意味で申したわけではおざりません」
「そちは当家の何をしておる者か」
「申しおくれました。――足利ノ庄の国元にいて、久しく留守の家職(国家老)を勤めおりまする
「
「その国家老の師直が、いまは当所へまいっておるのか」
「いえいえ。この歳末とて、藩用のために、ちょうど、お国元より出て来ておりました者で」
「大蔵には人も多かろうに、なんで高氏どのには、さような田舎勤めの家臣を、わしの応対に突ン出されしか」
「はははは」と、師直は大きく笑った。「――主人はなかなか人を
道誉にも今はわかった。
高氏以下ここの家中は、結束して、殻のような要心をかたく守っているのらしい。
つまり“毒には毒を”という制し方を取って、こんな男をわざと応対に出したものに相違なかろう、と彼は観る。
「師直とやら」
「はっ」
「せっかくな好意だ。饗応にあずかろう。かたがた、もっとくわしく、高氏どのの病状など訊いて帰らねば、台下へのご復命もできかねる」
「や、ごもっとも」
これが口癖か、師直は取ッてつけたような相ヅチの下に、
「ありがとう存じまする。ではご迷惑ながらべつな席まで少々お運びを」
と、先に立った。
外廊の
彼の案内にまかせて、道誉は大庭をななめに庭つづきの山すそをだいぶ歩いた。おかしいと感じ出したのは、もう庭ではなく、
「師直。邸内の庭座敷などではなかったのか」
「いやまあ、お庭内も同様な閑静な所でおざる。陰気なお屋敷では、せっかく、お気散じにはなるまいと存じましてな」
「陰気なと申されたが、しかし御家中の
「お気づきでしたか」
師直は先に立って、いつか
「ちとお答えに窮しますな。……いや何、
「ははあ。正月にも正月をせぬと、御先代の霊へお誓いとは、何かよほどな願望でおわそうな。ひとつ訊いてみたいものだが」
「次第によっては」
と、師直は色気をもたせながら、そのとき小腰をかがめていた。
「さあ、どうぞお先へ――」
見ると武家の別邸らしくもない。
「? ……。師直、ここは」
「よう御存知でございましょうがの」
「いや知らん」
「ま。ずっとお通りを」
師直は、濡れ光った玄関からおくへむかって、手を打ち叩きながら大声で言っていた。
「
と聞いて、道誉は驚いた。白龍とは、柳営へもしばしば呼ばれてくる鎌倉でも一流の白拍子なのである。
白龍はおくから走り出てくるなり、人前がなければ抱きつきもしそうな
「まあ、ようこそ。こんな
とばかり、出迎えながら、一方では
「みんな何しているの。しようがないわね、お
なにしろ家じゅうの騒ぎである。師直からの前ぶれも、今しがた受けたばかりで
道誉はとたんに「――師直め、計りおッたな」と、式台を踏むのも二の足だったが、しかし、
妓たちは、
「どうした風の吹きまわしなんでしょう?」
「伊吹さまと師直さまの、お連れ合いなんて」
「変ね」
「変よ」
「どっちも、むずかしいお顔をしてさ」
「ホ、ホ、ホ、ホ」
彼女たちは、恐れを知らない。柳営に
今も、である。
師直の命で、あらかじめ、
「ちょいと、
「なあに」
「どうしたの、あんたも」
「だって」
と、彼女は三日月様みたいな
「だからおすすめしたらどう?」
「そう、勇を
於呂知は、銚子のつるを
「おれか」
「あい」
「それやお門違いだろ」
師直が軽く肩を突く。すると、こころえたものである。於呂知は大ゲサにしかも
妓たちはわあっと
にやと
「飲むぞ」
宣言して飲みだした。それまでは、飲むまいとしていた顔であったと分って、妓たちは
「これや師直、まんまと、わしをだましたな。が、足利家の内にも、師直の如き婆娑羅がいたとは意外だった。この家の白龍は、そちの馴じみか」
「ご眼力」
と、師直も妓の中に埋もれながら横着な居ざんまいで、自若と答えた。
「白龍はてまえに首ッたけな
「いうたな、大言を」
「されば
「それや大した内助だ。いくら
妓たちはすぐ言った。
「狒々とは何でございますえ」
「和漢
「ま、おひどい。お口のわるい近江さま」
「したが、そちたちはわしを“
「どうしてです」
「人間に似ている」
「人間に」
「人間以上だ」
「どこが」
「全身毛深うて」
「おおいやらしい」
「そして女に眼がない、酒に眼がない、すべて
興にのッて、言いたい放題を、道誉は腹いせに言いちらす。しかし師直は辛抱づよく彼の
見ようによれば、これは当代武家極道の両雄が、一方は
なにしろ男女ともみな泥酔した。この宵、妓家の
しかも、灯を見ると、道誉は、ひょろけもせずに立ち上がって、
「
と、外へ出た。
師直もまた、泥酔はしたが、正気は失っていない様子で、
「心得まいた。
とばかり、
どこなのか、わからない。
「師直。いやさ陪臣!」
「なんでおざる」
「わしはもう大蔵などへは戻らんぞ。どこへわしを送る気だ」
「てまえも、お送りする気などはありません。お勝手に召されい」
「では何で、わしの駒の
「師直、今日まで、ずいぶん
「さすが狒々もか」
「……が、こうして、馬の口輪にぶら下がって歩けば、足もとも心配なく、馬がどこへか連れて行ってくれましょう」
「無礼者、吠えづらかくな。いつ馬の腹へ
「どっこい」
師直はあざ笑いながら、馬上の影を振り仰いだ。その白眼は「なんたる凄い眼の男か」と思わせた。
「やって
「それ、
「だいじょうぶ。馬の方が悧巧でおざる。さては
「今日のことはみな、高氏のさしずだったか」
「何の、師直が一存でおざる。自体、わが殿は、おとなし過ぎる。さればこそ、伊吹の鵺殿ごときに
「いや高氏の腹は汲めた。嬲り返しに、今日はこの道誉を嬲ったものに相違ない」
「どうなとお取りなされ。仮病と見たら、君前へ、仮病と御披露あるもよし。……ただこちらとて、佐々木殿のお内輪事なら、聞いていないこともない」
「何」
「それは、遠い過去なれど、伊吹ノ城の茶堂で、わが殿へお洩らしあった一事もおざろう。……近くは、あなた様がさんざん追い廻した小右京ノ君からも、いろんな秘事を伺うておる」
「こやつ、何を」
鞍に挟んであった
「おや、ご立腹か」
「いわせておけば」
「わが殿は無口な
「しゃっ、この下郎っ」
馬は驚いて、かたわらの溝川を
年はこえて、すぐ正月がきていた。
けれど新しい年の紀号も、
元弘三年
正慶二年(北方)
と、敵味方によって
ただ高時の
柳営の門にも、例年の
ただ例外なのは、花街の大繁昌だった。
すでに、一陣二陣と先に立って行った友軍の戦場からは、たくさんな戦死者報が、留守の家族へ聞えて、悲涙をしぼらせていたのである。
「こんどはちがうぞ。いままでにない大戦の様相だ」
とは、いわず語らず、たれの
もっと奇形なのは、征途に去る者、残る者の悲壮もよそに、折々鎌倉の夜の闇を、
その鉦を、どう聞いてか。
諸家に飼われている闘犬や、鳥合ヶ原のお犬小屋の犬どもは、ここへ来て夜も昼も、けんけんと異様な
「むりもないよ」
と、犬ずきは、気にもしないのである。
「なにしろ、ここのとこ、しばらくは高時公の闘犬の御上覧もないからね」と。
道誉の私邸、佐々木の門は、鳥合ヶ原から遠くない。
彼はこの正月を、寝たっきりであった。いや
暗い
このごろ、風邪はややよく、邸内でぶらぶらしていたが、頭の
もちろん、見栄坊な彼、
「このていでは」
と、まだ柳営へも出なかった。
「はやく顔をみせよ」
と、慰問の使いは度々であり、道誉はあの日の報告を、
「不審重々のまま、いずれ君前にまかり出て、つぶさに言上申しあげまする」
とだけ、つたえてある。
もちろん、高氏の仮病を、彼は弁護しようなどとは思っていない。むしろ、
「どうして、この報復を」
と、呪っていた。
高氏はおもしろい奴、行く末なにか大ばくちでも打ちそうな奴。利用すべき男で、敵にまわすべきではない。
従来は、こっちでやや男惚れの嫌いがあった。まま
「敵だ」
と、はっきり彼に見切りをつけた。そして、
「しょせん、高氏とは、どっちも相容れぬものをもっているのだ。すこしでも未練をもつ方が負けになる。もう色気はもたん」
と、腹をすえたふうだった。
とはいえ、その報復を急ぐのは危険と思う。こっちの

姿は、風雅である。
しかし彼の心には、彼も気づかぬ本然の妄執がいつかうごいていた。春蘭のしなやかな葉も
あんな大それた無礼きわまる所行は、師直一個の量見から出たものではよもあるまい。やらせたのは高氏にきまっている。――そして大蔵の足利屋敷では、あのあと家中一同で手をたたいておれをわらったものだろう。
「……よろしい、きっとこの返報は」
つい
ところへ。
「ほう、いつ来ておったか。それやめずらしい、通せ通せ」
といった口ぶりにも、よほどな好意をもつ者にちがいなかった。
まだ頭の繃帯もとれていず、正月の客もみなことわっていたのである。そこへ通されて来たのは、一見、遠来の武者だった。まずあいさつ、以後のぶさたの詫びなどあって、客は言った。
「一昨日、ご府内に着き、昨一日は、柳営の
それは
隠岐ノ判官佐々木清高は、佐々木党の一支族で、いうまでもなく、道誉は
で、先年の先帝島送りのさいには、清高は島から出雲の美保ヶ関までお身柄を受けとりに来ていた。そして道誉から親しく引き継ぎをうけ、また何かと帝のおとりあつかいや将来についても、ひそかな密語を交わして別れた仲だ。
それだけに、道誉は、
「なに、召しをうけて?」
と、どきとした色で。
「では、きのう一日、問注所にて、配所のお
「なんとも、身のあぶらを
「ふウむ」
「先年、美保ヶ関でお引き継ぎをうけたさい、殿のお耳打ちもありましたことゆえ、島では、先帝以下、三名の
「むむ。あの折は、おぬしへ、確かにそう耳打ちしておいた」
「ところが」
「どうしたのか」
「事々、この鎌倉表へ、知られております。――御酒は禁断なのに、御酒をさし上げたこと。配所外への、ご歩行は一切まかりならずとあるに、ご歩行をおゆるししたのはいかなるわけか。――また、鎌倉の許可なく、余人を近づけ奉るべからずという厳令をやぶって、
「わかっていたのか」
「ぎょッといたしました。千里の先を、鏡にかけて見るかのような、一々の質問で」
「……ははあ」
「お心当りがございますか」
「帝のおそばの典侍のひとり、
「それはこの清高も、知らぬではございません。しかし島のことです。どうあっても、鎌倉へ内報の手だてはないはずでございましたが」
「いや。待て清高」
何のつもりか、道誉はつよく首を振った。清高は自分の申し述べが、道誉の意志にそぐわぬ色を見て戸惑った。
「やめるがいい。もう従来の陰の骨折りは
「では。……?」
「では何だ」
「美保ヶ関でお耳打ちのことは」
「あれは取り消す」
道誉はあっさり言ってのけた。しかし彼自身にすれば、
「そこで、
「いやまだ、再三の呼び出しはまぬかれますまい」
「すててはおけぬ。わしも明日から柳営へ
「なにとぞ、ご
「そちばかりではない、佐々木一族の禍い、坐視できぬのは当然だ。案じるな」
道誉は言った。たのもしい宗家の族長と見えもするが、しかし清高は、何とも腹のわからないお人であるとも、ひそかに思った。
そのまま
「腹のわからないお人」の腹も、どうやらその帰りがけには、彼にもわかった気がしていた。すべて道誉には一貫した方針などはないのであった。時々刻々の変にしたがって行こうとする機会主義が本領でもあるらしい。
「じつをいえば、おれはどっちへも賭けていない。その腹を裏返せば、宮方へもすこし賭けているし、また、北条氏へも賭けていることになる」
臆面もなく道誉は彼に打ち明けたことだった。
「それゆえ……問注所では、あくまで北条氏へ忠節をちかい、どんな
清高は、こう吹き込まれて帰ったのだ。
宗家ではあり、高時の
三日ほどして、清高は問注所へ出頭を命ぜられた。
それから中二日おいて、また呼び出され、そのつど彼は、
一説には。
かくて何回かの査問中、ある日、清高は幕府の重臣数名だけしかいない密室で、
とまれ、やがて連署の名で、彼は嫌疑をとかれ、同時に、
「帰国してよい」
との、ゆるしをうけた。
これにはもとより、あの日から柳営へ出仕していた道誉が、陰で高時をうごかしていた力が大きくものをいっていたのはいうまでもないことだろう。――彼はさっそく道誉の私邸へ、その報告と礼に出向いた。
けれど道誉はいなかった。
いらい道誉はまた昼夜、柳営に詰切りだとのことである。思うに、いよいよ時勢は大きなわかれ目、今は高時のそばを寸分も離れまいと近侍しているのだろうか。そこで、ぜひなく、
「清高、明日、帰国仕ります。先夜、おさずけの御方針など、充分、心得おきましたゆえ、ただ、よろしくお聞え上げを」
とだけ、家中へ伝言をたのんで、鎌倉を離れ去った。
隠岐への道は、京から
そして
お山から
隠岐の国みれば
島が
「古事記」だの「
と、よばれ、
京ヲ去ル九百一十里
ともいわれていた。
そのころの一里は後世の三十六町でなく、一里は六町単位であったから、文字どおり本土からは“千里
我れこそは
にひ島守よ
おきの海の
あらき波風
心して吹け
の、悲調な一首もにひ島守よ
おきの海の
あらき波風
心して吹け
ことし元弘三年は、その承久からちょうど百十年目。
なんたる
またも同じ運命の、同じお人の生れ代りみたいな“流人の帝”を、島は去年から、配所に迎えていたのである。
その後醍醐以下、
こんども――
鎌倉の召喚をからくもすませて、出雲から海上まる一日を揺られて来た彼の船は、やっといま、
「さて」
と、清高のおもてには、どこにもほっとした容子はない。長い旅から帰って、久しぶり自領の灯を見たくつろぎもあるはずなのに、それとは逆な、
「これからだ! ……。むずかしいのは」
独り呟いているかのような硬めた眉の
船は八尾川の西へ着く。
古い国府の跡である。暗い潮の香に吹かれながら、岸には無数の
清高の家ノ子郎党たちであろう。やがて彼の影は、それらの人々にかこまれた馬上となって、近くの小高い山上の
その
とにかく清高の立場は、
「隠岐殿にはまだ、帝のご配所へもお顔出しもしておらんそうな」
「なにか重い幕命をうけて来られたのではないか?」
島全体は、さっそく危惧や不安の眼で彼をとりまいていた。
鎌倉へ
「お疲れか」
「お顔の色もひどく冴えぬ」
と、いっている。
ほんらいなら、帰島と共に、国分寺の配所へは、さっそくにも出向いて、
帝にはお変りないか。
侍座の公卿も。
また、典侍たちも。
と自身、警固の状なども任務上、見廻っておくべきであり、清高もそれを知らぬわけはない。しかし知りつつ、それをおこたって、甲ノ尾にひきこもっていたのだから、島じゅうの危惧臆測が
ここに、彼の妻は浮橋といって、三人の子もあった。
浮橋は、鎌倉から帰ってからの良人が、人がかわったように無口になって、とじこもっているのを怪しんで、ある折、
「さし出がましゅうございますが、なにか重いお悩みでも、お持ち帰りでございましたか」
と、そっと良人へ訊ねた。
「ようきいてくれた。……じつはの、浮橋」
「何ぞ家の浮沈にでもかかわるような?」
「弱った。どうしてよいか」
「仰っしゃってくださいませ。女の身には、何もできませぬが、子たちの上や、家のことならば」
妻の真剣さをみると、清高は初めて、多年つれそいながらまだ知らなかった、べつな妻を見いだした思いで、
「……こうなのだ。じつは」
と、鎌倉表における
「それだけなら、まだよいが」
と、あとは妻へも洩らし切れぬ秘事かのように口ごもった。
が、もとより妻として、もう聞きのがすはずはない。浮橋の涙につめよられて、清高は、
「では、はなすが、ゆめ他言はならぬぞ」
と、ついその一事も、声をひそめて打ち明けていた。
「……ま、そ、そんなおそれ多いことを」
浮橋は、まっ青になって、わなないた。そのふるえを、後悔して眺めるように、小心な清高は、こわい顔になって言った。
「まあ仕舞いまで聞くがいい。――もし首尾よく果せば、後日、恩賞の領土を加えて、六波羅の一員にも列せしめよう、というありがたいご内約だが……しかし、それにそむけば、やがてわが家の没落は知れている」
「……で、あなたのお覚悟はどうなのでございますか」
「迷うのだ。妻子をみると」
「いいえ」彼女はさけんだ。
「そんな出世を、私たちは望んではおりません。ただ、あなたがあなたらしく、出雲源氏の誇りさえお忘れくださらなければ」
「なに」
清高は、妻の涙を
「わしに、出雲源氏のほこりを持てというのか」
「ええ」
「そんなものを力に、そなたは生きてゆけるのか。いやさ、生きてゆける今の時勢と甘くみているのか」
「でも、それしかないではございませんか」
浮橋も必死であった。かたく自分の信に
この
“名”だの、“武門のほこり”のとは、かつての平家の
名誉とは、立身出世のことである。
清高などは、それと割りきってもいない島武士だったが、たまたま京や鎌倉へ出てみては、
だから、こんどの鎌倉召喚のばあいでも、
「いかにして身を保つか」
また、
「いかにこのさい、立身の
が、彼の胸いっぱいだったので、その点からいえば、幕府の或る密命も、宗家道誉の暗示的な言も、彼には好都合としていいはずなものだった。
ところが、島の現状ではそうもいかない。
かんたんに、それをよろこべない複雑なものが、帝の配所をめぐって、すでに出来上っていたのである。――なぜといえば、従来、清高は、宗家のさしがねに従って、帝の周囲をきわめて自由にまかせてきたのだ。で、しぜん島の配所には、かなり顕著な宮方の一勢力がとりまいており、俄に、それらの人物を駆逐するわけにゆかない実状にある。かりに力をもって、しようとすれば、血をみるにきまっていた。
「それも一ト騒動だし?」
と、彼は悩む。また幕府からうけた“密室の秘命”にしても、それの実行を思うと、肌に
「やむなきばあいには、先帝を
鎌倉の

しかも、古い型の女の妻は、それには絶対な反対をいっている。――その古い美徳につくべきか、新しい考え方で行くべきか、隠岐ノ判官清高はいま、三人の子の父、年も四十幾つとなって、踏み迷った。
隠岐ノ島は大別二つにわかれている。
本土寄りの南の
「もう来たか」
居眠っていた能登ノ介は、すぐ舟から跳んで上がり、
都万は島後の南端にある小さな港だが、ここばかりでなく、およそ舟出入りのある浦には、番所がもうけられていた。――帝の配所と外界との遮断のためであるのはいうまでもない。
「ご苦労だな」
彼の声と知った番卒たちは、びっくりして小屋から飛びだしてくるなり礼をそろえて言った。
「これは、別府様(彼の別称)でございますか。いずれへお越しで」
「甲ノ尾へ行くのだ。わずか二里余でしかないが、この間の大雪が、まだ途中に残っているそうな。馬を一頭出してくれい」
「甲ノ尾の
「おおよ、なぜ訊く」
「甲ノ尾からも、これへお先ぶれがございましたが」
「なんと申して」
「判官の殿が、
「ほ。相違ないのか」
「ご
「そうか。それではここでお
番所へ入って、彼はそこの大きな
一
やがて、その甲ノ尾の判官清高が、馬でこれへくるのがみえた。わざわざ
「やあ、おやかた」
「おう、別府殿か。どうしてこれに」
どっちからも訪ねようとして、ここで会ったのは、偶然でないとして、二人はすぐ舟の方へあるき出した。
期せずして、はなしは秘中の秘にわたるのをお互いに意識し、そこに支度してあった舟を選んだものだった。
「
小者も水夫も追いはらって、清高は叔父とただふたりで、舟のうちに向い合った。
「別府殿、ここなら安心、なんでも話せる。――ところで、きのう妻の使いが、別府のご辺の許へ、何か訴えては行かなかったか?」
清高の小心な善良さにひきかえて、叔父の能登ノ介は、ひと癖もふた癖もありげな男で、島武士ながら世事にも抜からぬ風貌の持主だった。
きのう彼はその清高の室から「――良人の大事について、ぜひ会って話したい」との使いをうけていたし、清高の帰島にたいする臆測さまざまな噂も耳にはしていたのである。
が、内容については、何もまだ詳しいことは知っていない。――清高の口からいま、打ち明けられて、初めて、
「ふうむ」
と、大きく
「では、奥方の御心痛とやらも、そのことでございましたか」
と、甥の二の句もまたず、
「それこそ、時が与えてくれた幸運だ。つかまねば自然の命にそむく。いや、いたさぬことには、鎌倉殿へも相すむまい」
と、大乗り気で励ました。
「しかし、妻は」
と清高が、その妻の反対している家庭内の苦悩をはなすと、能登ノ介はまた、わざとのように、甥の気弱さを、あざわらった。
「奥方が御同意なきはむりもない。かかる大事を女に計れば、一応どんな女でも、おののき
彼は、骨の髄からの武辺でまた功利一方の人間らしい。元来、鎌倉幕府があることは知っても、朝廷などは念頭にもない者だったとみえる。清高の抱いている
むしろ彼から小首をかしげて、
「……が、むずかしい」
と言い出したのは、その鎌倉の密命に従って、後醍醐を
帝は、いわば配所の孤帝。
ふたりの公卿と三名の妃は、かしずいているが、まったくの無力である。遠い幕府の眼からはなおそう観えているだろう。けれど、じっさいには、警固の中に加わっている
それは、知りながらも、宗家道誉の命で、きのうまでは、見すごして来たのであった。しかし、こうなれば、それが大きな邪魔になる。
「おやかた、判官の殿」
「…………」
「いかがなされた。まだお迷いでおざりますか」
「いや、もう腹はきめた。迷ってはおらん。したが、あとの策に当惑するのだ」
「何の取り越し苦労を。これより能登も甲ノ尾へ御同道いたしましょう。諸事の段取りは、手前の胸におまかせおきを」
二人は船を出た。出るとすぐ大満寺山の雲が異様に目についた。
小雨であった。島の二月初めはまだ寒くて、春雨とも言いがたい。
そのかみの国分寺の
そこをいま、
「
女は、はるか大屋根の端の廊をまがって、一
帝の
「あれは?」
と、彼女は要心ぶかく、すぐ口をつぐんだ。
忠顕は言った。
「ご心配な者ではございません」
廉子は、いくらか警戒の眉を解いて。
「……では、みかどの
「そうです。岩松
「ならばよいが、ひょっと、番の武士にでも知られたら、一大事でしょうに」
「いえ。それも今は、心の知れている成田小三郎と
「お
「あれはさしあげただけですが、もし何でしたら、成田に申しつけて、甲ノ尾の
「いえ、余人の手をへたお薬などは、めったにお口にもなされませぬ。……それに、昨夜はしとどなお汗をかいて、お熱はさがっておられますし」
それでか。廉子も寝不足のような皮膚をしていた。
まだ二月の寒さなのに、後醍醐にはさき頃、この破れ屋根の内陣にすわって、二七日の祈願をこめられ、そのムリな
「そのご容態とあれば、一両日中には、岩松の使いの儀も、ご
「
「もとより宮方の吉報です」
「ならば、ご気分を伺って、わらわからそっと、ご内意を拝してみましょう。あすにでも」
彼女が立ち去るとすぐ、彼方の
「成田ではないか。あわただしげに何事だ」
「千種さま、ご要心を」
柵の武士、成田小三郎はこうまず告げた。
「ただいま甲ノ尾から、隠岐ノ
「清高が」
「鎌倉からは、とうに帰っていたものですが」
「いらい顔も見せぬ彼が、前ぶれもなく?」
「何かただならぬ幕命をうけて帰ったらしいとのこと。それに別府の能登ノ介清秋も、甲ノ尾の
「こころえた」
忠顕は飛びこむように、後ろの侍者の間へ、さっとかくれた。
成田小三郎というのは、
もっとも、そうした武士は彼だけではない。――
「いつかは」
と、帝の脱島の機をうかがい合い、しかもその機会の容易につかめぬことを、すでに久しい思いでいたのである。
ところが、つい昨夜。
年に二度ほど島へ交易にくる
密書には“
これは阿波の小松島から勝浦ノ庄へかけて
忠顕は
「信じるに足る男だ」
として、忠顕はその書面を疑わなかった。しかも商人に化けてはるばるこれまで来た者は、経家の実弟
「岩松」
部屋へ入るやいな、
「気のどくだが、床下へかくれてくれ。いまこれへ、隠岐ノ判官が来るとの知らせだ。見つかっては一大事ぞ」
彼の慌てぶりに、
「それは」
と、一条行房も色をなして、座敷の
もうどこかには、人声がしていた。出てみると、柵門に馬をおき、雨中を濡れてきた隠岐ノ清高が、
「御侍者、清高でござる。鎌倉より立ち帰り、時おくれましたが、ごあいさつに罷り出ました」
と、階を上った所に立って言っていた。
ここでは、清高は絶対な支配力をもっている。帝のお座所以外ならどこへでも、いつなんどきでも、ずかずか通って来るだけの職権があるし、またいつもそうしていた。
「お。いつ鎌倉からお帰りか」
忠顕と行房とは、彼を迎えながら、いま知ったように、わざと言った。
「さればちと旅疲れで、帰島以来、引き籠っておりました。きけばお上にも御不例とか」
「いや、お熱もさがって、今日はややおよろしい方なのです」
「おかぜですな」
清高は一歩、本堂のうちへ入って、坐る所をさがすかのように見まわした。大床のどこもかしこも、雨漏りのしずくであったが、
「ちと、折入って」
と、あらたまって彼が座をとったので、ふたりも床の冷えを忍んで坐った。
「余の儀でもありませんが、じつはこの清高、鎌倉へ
「なんぞ、職務上の儀で」
「そうです。従来、よくおわかりでもあろうが、配所のご起居については、清高一存にて、ずいぶんご自由にと、
「なにか?」
「以てのほかな
「ほ。では現状より厳しくせいとの厳命でも?」
「どうもここの朝夕を、内々、鎌倉へ通じていた者があったに相違ありません」
「…………」
忠顕と行房は、思わず顔を見合せた。思い当りがなくもないからであった。
「ついては……」と、清高はそこで、重々しく威儀づくったが、ごくと
と言って、また言い
「幕命とは、何事を」
さてはと、ふたりも、ひそかに抱いていた危惧を眉に反撥してかたくなった。
「まことに、お痛わしくは存じるが、お上の御快気次第、ここの御所をよそへお移し申しあげることになろう。一そう外部との接触を断ち、もそっと孤立した警固によい地形におけとの厳命でござりますれば」
どこ? と訊いても、清高はかたらなかった。
叔父能登ノ介から出た策だったのはいうまでもなかろう。帝の配所がこの国分寺にあっては、手の
ここは島第一の港の西郷や
配所がえは、古来いくらもある例で、
清高はその帰りに、柵門わきの警固所へも立寄って、
「このたび、帝の御所を、島内のべつな地へお移し申すによって、ここの警固所も一応解体する」
と、諸武士へ宣した。
すべては、鎌倉殿の命であると、彼らの動揺を見て、前提しながら、
「ついては、

と、その
名簿の中には、
成田小三郎
富士名ノ二郎義綱
名和悪四郎泰長
など、日ごろからたれにもそれと分っていた宮方色の警士十幾人の名がほとんど洩れなくあげられていた。
「すわ、何かの前ぶれだぞ」
と、ここの動揺はその直後からあらわなものがあった。
といっても、常備二百人以上はいる警兵のあらましは、清高の家来であり、また
「どうする?」
一人がまずいえば、
「どうも仕方があるまい」
と、分別顔はなだめにかかる。
「島を離れぬといってみても、公命をたてにされては、論にならぬし、暴れてみても、これしきの同志では歯がたたん」
「だが、みすみす、みかどの御一命もあやぶまれるのに」
「いや、御座所をほかへ移しても、よも臣として、帝のおいのちまでを
「わかるものか」
べつな声は
「吉野、金剛、中国、そのほか各地は大動乱だと聞えている。もし一朝、鎌倉の旗いろが悪いとなったら、やぶれかぶれの鎌倉はどんな
「それはあり得る」
分別派もそれはみとめて。
「したが、ここで無謀なまねをしたら、よい口実を敵に与えることになろう。やはりおれどもは一応、おとなしく島を去って、外部から帝の脱島の計を一日も早くすすめることだ。あとは運を天にまかす。それしかない」
集会のあと、彼らは
しかし、大満寺山の集会でも、さいごまで「おれは島を離れぬ。帝がお還りの日でなくばおれも還らん」と、いい張っていた者もある。
成田小三郎、名和悪四郎などは、その組だった。彼らは一たん本土へ送り返されてもまた
一方。帝の左右の人々は、
「お
と、一日のばしに、ここの配所がえを拒否していた。
夜々日々が
「ご油断はなりませぬ」
妃たちは、風の音にもつい
とくに帝のお口にされる朝夕の
が、後醍醐は声なく笑って。
「お
そんな戯れさえいったが、
「しかし、
「はい」
「配所がえはぜひもないが、次の配所の地を明示せぬ法があろうか。北条の手下をよんで、問いただしてみい」
帝は一切、ここの支配者をさして、判官とも清高ともよばなかった。「北条の手下」或いは単に「北条北条」とよんでおられる。
すると、日ならぬうち、清高の甲ノ尾からそれの指示があった。すなわち
島内の
とのことだった。
同時に、
「ここ海上も
と、もう猶予はゆるさんとする沙汰でもあった。
その夕、一条行房は、
「
と、行宮から北の方の大きな神木の
それによって、彼らの二心ない結束がくずれていないことはまず分った。
とくに富士名義綱は、
「これを機会に、出雲
と、たのもしげな意図をそれに残していた。
あとで行房からそのことをお耳に入れると、帝はおん眉をひそめて、
「あぶないぞ、それは」
と、かえって御懸念のようだった。
それにひきかえ、先ごろ四国の阿波からここへ来ていた海賊岩松の使者へは、大きな御期待のかけようで、その宵も。
「岩松の密使をここへ呼べ。もそっと詳しゅう彼の
密使の
帝座といっても、廃寺の一院を補修したにすぎない行宮だ。それもこよいかぎりよそへ移される沙汰なので、妃たちは席にも見えなかった。
吉致は
「若いの」
帝は吉致を見た初めに仰っしゃった。
で、行房がたずねた。
「何歳に相なるのか」
吉致はそれに答えて、自分は岩松家の三男で二十五歳、長兄経家は三十三歳ですと言い。
「なおその間に、次男の兼正がおりますが、これは母系の一族、上野ノ国の新田義貞殿の領内、岩松と申す地に久しく在住でございまする」
帝はすぐ、お耳をとめ。
「岩松は、新田一族なのか」
「さればで」
と、忠顕がいいたした。
「新田のみならず、足利とも、浅からぬ家系でございまする」
「新田、足利は隣国だったな」
「はい。――ひとくちに申せば、岩松家の祖先時兼は、足利家六世の
「それが岩松の祖か」
「は」
「四国の阿波を領したわけは」
「その時兼が、承久ノ乱でうけた恩賞の地の由ですが、いらい本地よりは、阿波に住みついて、同所の仁和寺領や石清水八幡領の“領所預かり”などをしながら、しだいに海賊としての大きな地盤を、小松島ノ浦や勝浦ノ庄にかためてまいったものらしゅうござりまする」
「忠顕は詳しいようだが、当主岩松経家とは、前々から知るところがあったのか」
「石清水八幡の宮司、田中
ここまで聞くと、後醍醐も初めて「そうか」と大きくうなずかれ、お心もゆるして来た風だった。
石清水八幡の宮司田中陶清の後妻は、日野
「ようわかった」
帝はそこで。
「もひとつ、たずねるが、その海賊岩松経家が、これへ使いをよこした動機は何か。ただ宮方への味方を誓ってまいっただけのことか」
「いえ」
と、吉致が直答した。
「それだけではございませぬ。……じつは去年いらいの鎌倉の動員にて、上野の新田義貞殿も出兵を命ぜられ、金剛、吉野の攻略に参加しておりまする」
「む……。なるほど」
「その
帝はすでに
しかし岩松吉致は、じきじきの拝謁をえたうえに、望みの
で、あとのひそひそ声は、
「気をつけてまいれよ」
「綸旨を人手に奪われるな」
侍者のふたりの注意やら、別れのことばなどだった。
ほどなく。
行宮のうちは、それからが眠りの夜だった。でもかなりな時間は眠られたようである。やがて
「いつでも」
と、次の運命の
この日、清高は晴れいでたちで、軍兵二百余人をつれ、やがて階下へ来て、
「よい日です。あちらには、万端のご用意もできておりますれば、ご心配なく、おわたましを願いまする」
と、御立座をうながした。
帝には、あじろ
また、三名の妃には、貧しげな
八尾川ぞいに、西郷の港へと思いのほか、軍兵の列は、島奥の原田の方へえんえんと流れて行った。――港の人目をわざと避けたものにちがいない。――歌木の山地を迂回してやがて淋しい島南の磯へ出た。
船手の
たそがれ頃、帝はせまい島と島の両ぎしを船のうちから眺められた。はや島前へ着いたのである。かねて聞く後鳥羽法皇の
そして、その御船の
ときおり船尻の幕が舞いあがると、帝の
「……?」
帝のお肌はなにかぞくとするようなものを男から感じた。殺気という眼はあれではないか。
「わしに害意をもっておるな」
皮膚が教える。
まもなく、別府へつくと、すぐお分りになったことだが、この男こそ、能登ノ介清秋であったのだ。
後醍醐はゆうべ初めて、独り寝の夜を過ごされた。
国分寺の
「これもよいな」
そのため、夜すがら眠りにつけないような帝でもない。
朝の
粗末な
「お顔を洗い召されるか」
と、そこの
「ほ。金若だの」
「はい」
「そちだけは以前の所から、配所仕えとして、これへついて来たか」
「はい」
「典侍らは、昨夜、どこで眠ったの?」
「ぞんじませぬ」
「侍者どもは」
「知りません」
「何事も答えてはならんと、ここの代官、能登ノ介清秋から、かたくいわれておるか」
「はい」
帝は苦笑される。
朝の清掃から、お食事をはこんでくるのも、すべてこの小僕ひとりがするのであった。
また、それで事足るほどな狭さなのだ。ゆうべはよく分らなかったが、今朝あらためて、あたりの景やら室内のさまを御覧あるに、これはまったく急拵えな丸木づくりのほっ建て小屋といっていい。
「いや有り余る風流よ」
帝は、孤独をもてあそぶかのように、自分を自分の外に観た。
するとここはすばらしいともおもわれた。別府とよぶ
「……どうかなる」
自暴でも滅失でもない。
しかし、それからまもないことだった。
そのいやな眼の持ち主が、足音をしのばせ、そして帝の
「たれだっ」
と、帝は物蔭の男へ不意にお声をかけた。
いったいに日頃も
「あっ」
木蔭の男は、
「北条の手下だの。もそっと前へすすみ出い」
「……は」
「犬好きな北条の手下は、みな犬真似が上手よの。なぜ前へ出て来んか」
「は」
男は、その武者面を
「名はあるのか」
と、後醍醐は
「…………」
これはひどい侮辱だ。
男はむかっとしたようだが、ものを知らない天皇なら我慢せずばなるまいと、胸をさすって。
「隠岐ノ判官の叔父、別府の住人、能登ノ介清秋にておざる」
「では、ここの別府を守る
「されば、昨夜よりはこの能登が、おからだ一切を預かることに相なりました」
「そちの手へか」
「いかにも」
能登はやっと、相手の気位に
けれどそれも長くは自分の視力にたえなかった。帝の眸はふしぎなものをたたえていた。これは一朝一夕にできた眸ではない。天皇の座にあって生れながら誰をも下に見つけている
能登はかえって、底知れぬ
「能登とやら」
「は」
「妃たちをなぜ離した?」
「いや、御用なればいつでも、郎党に付き添わせて、丘の下よりお呼びしましょう。それぞれべつな
「それも鎌倉のさしずとか」
「
「忠義な犬よの」
けわしい沈黙をすこしおいて。
「能登!」
「は」
「さぞ、そちの腰の
「…………」
「行くところまで行く世の波は
「ご親切に」
能登は
「仰せを聞けば、いつかまた
「そうかの」
帝は柔軟である。微笑されて、
「しかし
「わはははは」
能登は
「さようさよう。そんなお夢をみつつ、ここの松風波音を友に、まずはお独りを慰めているがいい。ならば無事と申すもの」
「そのうち必然に、北条幕府は亡び去る。能登っ、そちには信じられまいがの」
「…………」
「信じられまい」
「…………」
「むりはない。こんな島にいては、井の中の
「……どれ」
と能登はわざと、耳もかさない容子で地から腰を
「いずれ朝となく夜となく、自身しげしげ見廻りにまいる。みかど! ほかに何ぞ、頼まれておく御用でもないか」
「ない」
「ありませんかの」と
「抜かりはないの」
「あって
いい捨てると、彼はその野性の野臭をほこるかのように、大きな肩幅と尻を帝にむけて、のっそ、のっそ、立ち去った。
後醍醐はおん眼のすみからそれを見やっていた。
が、ふしぎに腹も立って来ないのだった。
むしろ爽快な感すら覚えたようである。野人の無礼は難なく帝の皮をひン
それにせよ、ずいぶん秘すべきことをまで放胆にいってしまわれたが、すでに判官ノ清高には、こうならぬ前に国分寺では、かなりご腹蔵の底を洩らされておられたのだ。いまさら能登にだけ隠してみても始まらない。
だから何もかも、ご観念の上ではあった。
さりながらその観念なるものも、生死一髪の秒間ならまだしやすいが、明けても暮れても静かな起居のあいだに、持続していることは後醍醐ならずともむずかしい。
言明どおり、能登は朝に夕に、いや時刻さだめず、
能登は四六時中、ひとり胸の中でつぶやいていた。「……造作はない、
彼の大太刀は、丘上の黒木の御所を仰ぐたび、
「恩賞には」
と、枕についても考える。
「――恩賞には、いったい、どれほどな領土を幕府はおれにくれるだろうか」
これについては、判官ノ清高も鎌倉の確約を取っていたわけではない。「北条幕府への忠節」というだけのものである。
「清高も青くさい。なぜ、出雲、伯耆で何郡をくれるぐらいな言質をとっておかないのか。……帝は
しかし、彼は、
「幕府のことだ、まさかけちなまねは」
と、絶大な幕府崇拝の先入主までは疑いもしなかった。
ところが彼の耳にも近ごろはひんぴんと幕府の権威も疑われるような風声のみが
「はて。甥めは、何をぐずぐずしているのか」
能登は気が気でなくなっていた。
二月は過ぎる。
ただし今年は
おそらく、念入りで小心な判官ノ清高は、さっそく、配所がえの処置を鎌倉へ報じ、そしてもいちど、最後の断についての命を待っているのであるまいか。
事が事である。――いかに
「どれ、都の女でもまた見て来るか」
彼は、彼の住む別府ノ
黒木の御所を見廻るよりは、彼にはここを覗くことのほうが興ふかい。――三位ノ典侍
「男と生れたからには、いちどはあんな女を」
と、いやしげな連想にふと
しかし、もう一名の妃、
「ほ。……お
と、知るべの家の縁にでも立ち寄ったように腰をおろして、片あぐらをすくい上げ、
「はやく都へ帰りたいことでおざろうな」
などと、世辞よく話しこむ。
三つの妃小屋のうち小宰相の囲いだけは、どこか警固がゆるやかだし、また何かと待遇などもちがっていた。
この典侍だけは、鎌倉方に気脈をつうじている女性と、さきに甲ノ尾の清高からも、内々の指示があったからである。
で、小宰相の方も、能登ノ介清秋を、こわらしい武者などと恐れてはいず、今も、
「お美しいなあ、いつも」
能登は無遠慮に、ほれぼれと、その人の顔を見つめて。
「それでもうひと
「そうですか」
「はての?」
「なぜじっとそのように、私の顔を見るのです」
「でも、妙じゃと思うて」
「なにを」
「わが女房の
「え」
「まさか、あれではありますまいな」
「あれとは」
「帝のお
「…………」
小宰相はしいんと眸を澄まして、そういう能登の
「や、違ったかな」
能登は眼をそらした。自分でいい出して自分で頭を掻いたものである。
「男には分らん。分らんものを、見当違いな
「…………」
「これやしまった。お
「いいえ。それほど
「むりはないことだ。いやつまらん冗談をつい先にしてしまったが、小宰相どの、近ごろ何ぞ、京か鎌倉の便りがお手に入りましたかな? ……。いろんな噂は島にもつたわって来ておるが」
「いいえ」
彼女もどこかほっとしたように、その話題へは急いで答えた。
「どうしたのでしょう。このところ、ぷつんと絶えて、何の便りもありません。あれば必ず、甲ノ尾のお手を通るはずですが」
「ところが、そのおやかたもさっぱり
「それはもう六波羅も血まなこでしょうし、鎌倉表も軍務にたいへんなのでしょう。そのため遠い隠岐ノ島のことまでは顧みていられないのかもしれません」
「そうとみえる」
能登はいやいやうなずいた。彼としておもしろくない本土の形勢にふと気が重かったものだろう。彼はそこから黒木の御所を仰いだ。「――そちには信じられまい」と、いつか帝にいわれたあのことばがふと頭に泛かぶ。
「どうだな、小宰相どの」
「…………」
「ここでは、みかどの夜のお伽にまだいちども、
「え。ゆるして給うのですか」
腹はわからぬが、とにかく能登は、彼からすすめて、小宰相ノ局にのみ、その夕から翌朝まで、帝のおそばへ
「あなたは、味方だ」
と、いや味な笑い方をして、彼はまた、
「お耳を」
彼女の横顔へ、身をズリ寄せた。
「いずれは、一断に御処分し奉ることになろうが、ずいぶんズバズバ物を仰っしゃるみかどだ。もっといろんな秘事を聞きおきたい。よいかの、お
「わかっています」
小宰相は、あわてて彼のたまらない口臭の熱気から身を離して。
「みかどのお命をちぢめよとは、たれのいいつけなのですか」
「もとより鎌倉の秘命だが、まださいごの一令は言って来ぬ。とかく煮えきらぬ判官殿が、また妻に
「…………」
小宰相の唇が白っぽく息をのんだ。その眸の奥もよく見ずに、能登はなお
「むごいとでも思うのか。いや、あのみかどは、もうそれも感づいておる。だからいいおきたいことも今ならいうに相違ない。……といっても、あなたからは触れぬがいいぞ。みかどはすごく
だいぶ話し込んだと自分でも気がついてか、能登は、やっと縁先を離れかけて。
「小宰相どの。男と女というものはまたべつだ。
「お案じなされますな」
彼女はもういつも能登が見ている彼女と変りがなかった。
「都には、現朝廷(光厳帝)にお仕えしている肉親たちがあまたおります。もし私が心変りして、鎌倉どのの密命を裏切れば、その者たちの破滅ではござりませぬか」
「む。うむ」
いかにもと、能登はなんどもその
「この能登も、ここで一つの功を立てれば、いずれは
思い入れたっぷりな言い方だった。それを言いたいための長尻であったかもしれない。さすがに口に出してはてれたのだろう。のっし、のっし、すぐ彼方へ行ってしまった。
「身のほども知らない男」
さげすみと、身ぶるいを抱いて、小宰相は
まだ陽は高かったので、それからの半日あまりを彼女は長い想いにたえなかった。
六波羅の獄いらい、おそろしい心をかくして、帝をあざむきつづけて来たが、ほかの二人の妃にたいする反抗と憎しみなども手つだって、さして罪とはそれを思わずにいた彼女だったが、ようやくこのごろは、そうでない。
どうやら、
小宰相はもともと単純なあかるいたちの女性であった。
姉も叔母なるひとも、みな新しい光厳帝の
いつごろから後醍醐に
そのため、遠い島まで、帝との
幼少から持明院派の公卿家庭に育てられてきたのである。
事々、大覚寺派への敵愾心やら蔭口のなかで人となり、また事実、そのころは後醍醐方の圧迫から持明院派はみな日蔭者の貧しさと、さげすみの目にひしがれていたものだった。
それが身に
かつは、彼女の考え方も、
「後醍醐おひとりが、天皇ではない。持明院統から立たれた光厳帝さまも、ひとしく、まぎれない、天子さまではないか」
にあった。
だから彼女にすれば、自身の行為は反逆ではない。新朝廷への忠節であるとさえ信じていたのだ。新しい朝廷を確立するための
けれど、ただここに。
いいようのない辛さがあった。
後醍醐の愛は、すこぶる
しかし何といっても、一人の男性を囲んで三人の女が共にせまい配所で起居するかたちは不自然な
それもまた、べつな意味で、小宰相の女ごころを、つよい反抗と復讐へ駆りたてていた。いつかは廉子が号泣して、とり乱す日が来るだろうとして、その日を見るのも彼女のひそかな愉楽でさえあったのだ。
ところが。
「どうしてぞ……?」
と、彼女自身ですら自身が
なによりの原因は、彼女の意志とはべつに、彼女の女のからだが、日にまし帝を
そのうえ
「ちょうど今朝、髪を洗っておいて……」
よかったと、彼女は思う。
待ちかねた夕になると、彼女はその黒髪に香を
「近うおざるが、ご案内にまいった。そろそろお立ち出でを」
やがて外で、迎えの兵の声がする。
彼女は
「ご苦労ですね」
すぐ白い足に草履をはいた。
松の丘の西がわに、残照の影が美しい。東がわの湾は暮色を深くして、もう波音は夜の階音といっていい。
「もし」
登りかけて行く兵の背へ。
「すこしそのへんを巡ってみたい。ほかの妃たちの
「あれに」
と、兵のひとりが指さした。
「権大納言ノ局のお小屋。また三位どの(廉子)の住むお小屋は、もすこし先の山蔭です」
彼女はだまって小道をそっちへ選んで行った。――こうして兵の案内でそぞろ黒木の御所へ登って行く自分を知れば、ほかの妃たちがきっと今夜の自分の
小宰相はそれを意識し、また帝のやさしい
そして、今夜の
「それには、能登を
帝のお命のあやうさに思いいたると、彼女のほかの考えは一切消えて、ここの松風はただまっ黒なものになった。そのことも今宵は帝にささやいて、帝のよいご分別をうながさねばならぬ。……さもなくば、ご一命は風前のともし火。身にやどしたお
「いやこの身とて、生きてはいられない」
小宰相は夕風を抱いた。いつからこんな気もちに変ってきた自分かと、自分をあやしむゆとりもなかった。――彼女とすれば、いま遠廻りの小道を曲がって来たように、ちっとも不自然ではなかったのである。そして、過去にもっていた“女目付”の役などは振り返りもしていなかった。
「黒木の御所は」
と、兵はやがて足をとめた。
「そこでおざる。明朝、お迎えにまいるまでは、ごゆるりと」
彼女を残して立ち去った。
「お待ちですよ」
と、童僕の金若がすぐほの暗い中から言った。
「オ、金若か」
「はい」
「昼のうちに、私のことは、ここへお知らせがあったのですね」
「はい」
「みかどは」
金若は黙ッて奥の灯を
「小宰相か」
ふっくらと情のこもったお小声だった。
後醍醐もこの宵は“待つ宵の男”みたいな、そぞろ心地でお待ちだった。
「もう、どんなに」
と彼女は、身を崩折るなり、
「……お目にかかりたさで、苦しかったかしれません」
と、帝の
波音だけがしばらくする。
「…………」
帝は皇太子の頃から、女という女の型はあまた知りつくしておいでなのだ。めったに盲目的になるなどの例はない。
だが、別府の配所では、久しく
夜半になると、ここを繞る波音は、なおさら高い。
生理的にも
ついに、彼女はゆうべ、
「私は悪い女でした」
と
「それは六波羅の
と、驚きもなさらない。
また、能登ノ介の腹ぐろい害意をお告げしても、
「わかっている」
帝は彼女以上にも、ご存知な風だった。
ただいささか、ご当惑に見えたのは、帝のおたねをやどして早や三月か四月にあることを、彼女が

けれど、それも決して女性の猜疑を刺すほどではなく「だいじにせよ」と、一そうな
帝は何か、かたい自信を持っておいでらしいのだ。具体的にはお洩らしもなかったが、さしあたっては、
彼女はすっかり安心した。その朝の
そして時々顔を見せる能登ノ介へは、それ以後よけい愛想よくむかえ、ふと手など握れば握らせておいて、しかも
どこだろう。海上もまだ、くらいうちだった。いんいんと事ありげな貝の音が尾を曳いている。
「
別府の
やがてようやく、東方の
「オオ
と、すぐその由を近くの別府屋敷へしらせた。
能登ノ介は、腹巻や太刀の
「なぜ寺船など寄せつけたか」
と、寝起きづらを、一そうまずいものにして、柵の兵どもを叱りちらした。
「たとえ鰐淵寺の船であろうが大社船であろうが、かまえて許可なく
「はっ」
「目付島の見張りも何しておるのだ。船を見いだしてから、慌てて貝を吹いたとて何の役に立つとおもうか」
「いえ、昨夜から今暁へかけては、めずらしいほどな濃霧でございましたので」
「たわけ者」
大喝して。
「そうした時こそ、いちばい警戒を密に、浦々から
しかし、そのときはもう美田院の荒磯のほうから二人の僧をとりかこんだ一群の兵が、ついそこへ見えていたのだった。
「はや、船の使僧を連れてまいった様子でございますが」
能登は、聞くと、
「よしっ、引いて来い」
と床几にかかって、
やがて、ひきすえられた若い使僧ふたりは、そんなやかましい
そして能登が、威たけだかに、何者かという詰問にたいしては、
「出雲
と答え、
「師の頼源は、昨年八月十九日、みゆるしを得て、
と、どこ一点怪しむかどもない明瞭な陳弁だった。
かつは鰐淵寺は、都の比叡山延暦寺の有力な末寺であり、元徳三年のころ、ときの叡山の
で、去年。頼源僧都が帝をお見舞いしたとき、したしく後醍醐からおたのみをうけていた漢書や歌書などがやっと見つかったので、それのついでに、
だが、そんな程度で、すぐ疑いを解くような能登でもない。
「よろしい」
能登は、一応
「それなら、そのおとどけ物が、みかどのお手許へわたればそれでよいのだろうが」
「いえ」
年下の使僧がいった。
「はるばる
「それは御僧たちの勝手。こっちの知ったことではない」
「でも、師の
「みかどへ、おことづてだと」
能登は耳をとがらせて。
「それも能登が取次いで
「なりませぬか」
ぜひなげに使僧の二人は腰をあげた。そして携えて来た軽い包み物一箇を、彼の手に託してスゴスゴ引っ返したが、そのあとで、
「しまった」
能登は衝きあげられたように、急に馬へのって、使僧のあとを追ッかけて行き、その乗船の内を点検した。
寺船はもっぱら寺領輸送に使われるものなので、大きいのは見のがし得るとしても、船艙には必要以上な食糧がかくしてあった。そのほかどうも大勢の人間を乗せて来たらしい形跡がある。
それについて、能登はここでも二人の使僧をさんざん厳問した。
けれど使僧はあくまで、
「いや船中の者は、われら二人と六人の
と、強硬に言いはり、船頭たちも口をあわせて抗弁する。
疑えばきりがなかった。濃霧の海上をそっとすべり入って、朝までにそこらの荒磯から人間を上げてしまえば、それまでのことである。
島は狭いとはいえ、
自問自答、やっと、能登は呑みこみ顔をみせて。
「帰ったら、寺中へ申し触れるがいい。いかなる船も、無断、
ほどなく。
柵へもどった能登は、すぐ人なき所で、検閲を始めていた。さきの使僧から託された――頼源
ところが、出てきたのは。
あどけない童女の人形一コと、
あとは十冊の書物だった。
書物はみな難しくて、能登には
と、
「なんだ、くだらぬ物ばかり」
童女人形も書冊も、能登には、そう見えただけのことらしく、
「さしつかえあるまい」
と判断の下に、その一ト包みは、やがて黒木の御所へ届けられていた。
とした童女人形は、一とき、後醍醐のお眼を涙にした。
瓊子内親王は、帝の何番目かの皇女である。――去年、都から父皇を慕って出雲まで来たが、会うこともかなわず、絶望のあまり
「さては瓊子の形見か」
帝はしばし人形でない瓊子を抱いてやっているお気もちだった。しかし、うごかない人形の眸が、むごい親心を責めているようだった。いかにもおつらそうに、帝はすぐ横へやってしまわれた。
察するに。
その瓊子もよそながら、以後は
帝はすぐ、べつな十冊の書物を
そのどれにも、欄外には、漢文のむずかしい
また、文の行間にも、
帝はその
――あきらかに頼源のことばである――つまり
せっかく、吉野大衆を
しかし金剛や千早のまもりは堅いとある。
中国、四国、九州の宮方は、いよいよ
「もう、ご猶予はなりません。時を過ごさば、ふたたび巡ってくる機会は、果てなく遠くになるでしょう」
頼源の暗文は、それのおすすめが眼目となっていた。いや暗文はもっと具体的だった。帝の
時期は、月のすえ。
その宵から夜半までに、配所の西方、
「今日は早や十七日」
帝は俄に身のまわりを見まわされた。事はまったく急だった。
一日おいて。
つまり十九日の昼。
丘の下へ水汲みに行った童僕の金若が、水屋から這い上がって、帝のお机の
「みかど……。磯の上でいま、こんな物を、みかどへお渡ししてくれとたのまれました」
「たれから」
「知らない人です」
「何か? それは」
竹の
その中からは密書が出てきた。帝は読むとすぐ細かに裂いて、
「金若、
「ございます」
「これを燃やしてしまえ」
「はい」
「そして、ここへ寄れ」と、さしまねき、お声をひそめて。
「そちは都へ行きたいのか。……そんなことを、成田小三郎にはなしたことがあったのか」
「ええ、国分寺の柵にいた頃」
「よしっ」
にっと、帝は見すえて。
「連れて行ってやる」
「はいっ。……?」
「だが金若。口外すなよ。もし洩れたら連れては行けぬぞ」
「言いませぬ。死んでも人に洩らすことではありません」
「おお、それほどの心なら、行く末、侍にもなれるだろう。……して、この竹筒の文は、成田小三郎から渡されたのか」
「いいえ、漁夫のような人でした。けれど国分寺の
「むむ」
話題を変えて。
「ここの
「いまのに、そんなことまで書いてありましたか。――能登は、何か急用で島後の判官殿に呼ばれて行き、きのうからここにおりません」
「そうか。……あとでまた呼ぶ。……ゆめ、いまのことは人にさとられるな」
帝はお独りになった。
二十四日までだ。あと幾夜もない。
はからずいまお手にした成田小三郎の密書によると、すでに彼らはこの
おこころ丈夫に。
と、意味は
「げに、勇気が
帝のおこころ支度は、それのみでなかった。
二人の侍者はともかく、三人の妃という者がある。それらの足弱な女性をどう連れてここを落ちのびられようか。
おそらくは、能登ノ介が留守を奇貨とし、その隙にという
「いえ。月うちは帰らないかもしれませんよ」
金若が、帝へ

この
「金若、どうしてそちに、それがわかる?」
「でも、柵門の番卒
「月内は帰らぬ、とか」
「そうは言ってませんでしたが、島後の
「ふうム」
この時局に、鎌倉の特使が渡島したとあれば、よも、ただの配所検分などではあるまい。
出雲の塩冶高貞が、そこへ会同したというのもおかしい。――さきに国分寺の
それが、不成功に終ったことは、さきに鰐淵寺の
「……と、すれば」
帝は思う。
それやこれ、
「金若」
「はい」
「
「ええ、付いています」
「隙はないか。そちが近づいて、すばやく、
「できないこともありません」
「ならば、これを」
と、帝は四通の結び文を金若へ託された。二通は侍者ふたりへの連絡である。そしてほかの一通は権大納言ノ局へ。もう一つは三位ノ局阿野廉子の手へと、かたく、おいいつけになって、
「たのむぞ」
と、仰っしゃった。
「みかど。……小宰相さまのが、ありませんね」
「
どう足手まといであろうとも、脱島には、妃たちもみな連れて逃げるお覚悟のようらしい。わけて阿野廉子は皇后以上にも思っておいでなのだから、たとえお身を賭けても、彼女を島へ置き去りにして行くなどは、忍びえず、としておられた。
自然、きのうも今日も、お心はもうここの配所の外だった。ただ
「あとは天命あるのみ」
と、余す一日を
「みかど。……なんだか今日はすこし変ですよ」
「金若か。何を見たの」
「能登が帰ったかどうかとおもって、町へ探りに行ってみたら、一ト晩のうちに、おッそろしく兵隊がふえています。どこから来たのかしれませんが」
「能登は帰ったのか」
「帰っていません」
「ならば、能登の留守を、いちばい堅固にと、
「は」
「めったに柵外へ出て、兵の眼の中をうろつくなよ。……お、それよりは、きのうそちに託したものは、いかがいたした」
「はい。
「それ聞いて
それは帝自身へいっていることでもあった。とかくこの両三日は夜半の物音にもすぐ眼がさめる。すると果てない将来へ、天下再建の構想へ、そのうつらうつらがつづいてしまう。
愚である。
と、帝は、自己妄想の愚は、ご承知だった。
難なく、脱島が成功すればだが、ふとすれば、死を招くかもわからない。一切が水泡に帰し終るかもしれないのだ。
その公算もかなり多い。
しかしながら、やむにやまれぬものが、身を鬼にしているのだと、観ておられた。
ここの御所からは、別府湾をへだてて、
「やわか、自分は」
後醍醐は、おくちを噛む。
ここでは必然に、後鳥羽の
「一死か。一挙の成功か」
賭けは、すでに笠置
しかも、である。
機は熟したものとまずいえようか。島内にはだいぶ宮方の士も入り込んでいるようだし、海上には海賊岩松の船手が期して待つとある。
「坐して死をまつよりは」
やがて。その日も暮れる。
「ここも、こよいかぎり……」
その宵、小宰相が、そっと帝の許へ忍んで来ていた。
兵の眼にかかっても、小宰相だけには
また、すっかり帝の
「……みかど」
更ける夜を、彼女は惜しむように、沁み沁み言った。
「こよい限りでございますのね。こうして、みかどに
「大事はあすの夜だ。そなたは身おも。ここを出る折、他の者におくれるなよ」
「ですが」
彼女の案じるところと、後醍醐の案じるところとは、女と男の距離ほどもちがっていた。
「……島にいればこそですが、ふたたび都にお還りの後は、もうこんなにはしていただけないのではございませぬかしら」
「では、そなたは島にいたいのか」
「ええ、みかどとならば」
帝はぎょっとされた。
女人を
「そんなことはない」――かろくうけ流し「よしや幸いに、本土の彼岸へつくことができても、まだまだ、都へ坐るまでには容易でない。転々と戦場暮しがつづくであろう。そなたこそ、その身おもで耐えられるか」
「耐えないでどういたしましょう……」ポロと露をこぼして。
「みかどの、お
「なぜ、疑う」
帝はつよい抱擁の中で、彼女の濡れた頬をゆすぶッて仰っしゃった。
「……さ、こよいは戻れ。あすの夜は、途中どんな苦難やらもしれぬぞ。よう身を休めておかねばなるまいが」
むりに追うように、帝は、たって彼女を丘下へ返したのだった。そして深夜の独り居を、ほっとしておいでになった。ところがなお濡れ縁の端に、白い女の顔がじっとかがまっている気配であり、去りもせず、入っても来ぬ様子なので、おもわず舌打ちと共に、こう叱った。
「小宰相、まだ
すると。
返辞はまったく質の違ったまろみのない声だった。
「みかど。その小宰相はつい今、泣き泣き、丘の下へ帰ってゆきました」
「あ。……
「はい」
「いつ、そこに」
「お驚かせしてはと
「なぜ、はいって来ぬ。なぜ、そのような水臭いまねを」
「でも、みゆるしを待たいでは」
三位ノ廉子は、やっと帝のおん前へ来て坐った。
どう番兵の眼を
もとより廉子は皇后ではない。都には皇后の
が、その自意識において彼女は皇后とおなじ気位をほこっていた。三人の典侍中では年上であり、またなによりは帝の
それにこの
その
それには、帝もあたまが上がらなかった。――都にある名ばかりの皇后とはちがった意味の皇后――いや皇后以上なものと彼女をゆるすしかなかった。同時に廉子は、帝にとって姉か母かのようだった。愛情とはべつな
「…………」
いま。その廉子の眼は、意地のわるいほど、いつまで
後醍醐は、まのわるさを、おおいきれなかった。去ったばかりな小宰相の残り香が、その涙のシミが、まだ、ご自身の袖や膝に乾いていない。
「よう脱けて来られたの」
「参らずにおられましょうか」
これきりで、彼女と帝のあいだは、またしばらく、深夜の波音だけだった。
「あすの夜だ。……明夜迎えが見え次第、ここの木戸を破って逃げる」
帝はわざと、彼女が言いたそうにしていることの眸の矢ジリをほかへ
「金若から知らせたこと。心得ているだろうな。およその時刻、身じたく、覚悟のほども」
「……ですが」
「不安か」
「いいえ、みかどと、ご一しょでしょう。何の恐れでもありはしませぬ。けれどそのご決行は、何者のおすすめなのですか」
「
「でも、わらわには、
「なぜの?」
「さほどな御大事を、あの小宰相へ、おもらしではございませぬか」
「いや、疑うな。
「ホ、ホ、ホ、ホ」
廉子は、はじめて顔をほぐした。が、その
「みかど。それはそのはずではございませぬか。小宰相は
「ぜひもないではないか」
「では、やはり連れて落ちるお心でいらせられますか」
「つれて行く!」
すると廉子はキュッと唇の端を緊めた。しかし、一だん美しくホホ笑んでいるのではあった。
「おお、おつれなされませいな」
後醍醐は、
「さても女とは、不びんなものだ。そなたを初め……」
と、呟いた。
「いいえ」
廉子はすぐ強く言った。
「ご
「
「そうですか」
いくぶん安心したように。
「では、おいさめはいたしますまい。かけがえのない玉体ですから、万一にも、おぼつかない
「そなた。番卒の眼は、どうして掠めてきたのか」
「番の者へは、
「もう、いうな」
帝は、彼女の刺すような眸からお顔を
けれど女性の棘は必ずしも拒否の表情とは限らない。
むしろその逆である。廉子も暁にいたるまで帝に
断崖の男女はきまってこんなときその悲調な
ほどなく暁を潮に、夜の物蔭が退いてゆくと、彼女もいつか黒木の御所から消えていた。
その日。二十四日である。
「今夜ぞ」
と、お胸もさすが只ならなかった。それをしいて、物静かなうちに、午さがり頃から帝は小机に
「たれだっ」
と、水屋明りの方を、恐いお眼でにらまえた。
「み、みかど。た、たいへんでございます」
「金若ではないか。慌ただしゅう、どうしたのだ、何事だ」
「能登が帰ってまいりました。まだ帰るまいと思ッていた能登が、今日にかぎッて、下の柵門に来ております」
能登が
が、彼はそのまま船手を
「異状はないか」
をただし、つい今しがた柵に姿を現わしたものだった。
島後の会合では、何事が
いつか
「……よいか」
能登は、耳打していた。
番卒の頭らしい男の肩をつかまえてである。
「いずれあとではわかることだが、ここのところは極秘なのだ。自然、長い月日にわかるのはいいが、いま島民を動揺させてはちとまずい。……で、おれが今夜行った先で、どんな物音がしようと叫びが聞えようと、決して駈けつけて来るにはおよばんよ。いいか。あとの心得は、あとで申しつける」
「……はっ」
組頭の顔は、土け色になって、返辞も喉の辺だった。
能登はもう丘へ向っていた。左の手を大太刀の鯉口に当て、右手で自分の
おそらく清高の島後の
「ここ両三日来、見つけない怪船が、幾十となく、
という情報が、そこの人々を驚かせたからだったに相違ない。
「あきらかに“
とも、べつな警告は告げていた。――で、鎌倉の特使と会同していた塩冶高貞なども、大いそぎで出雲へ帰ってゆき、能登もまた帰るやいな、ここの浦々の巡視を、まッ先にしていたわけだった。
つかみようのない怪聞ともいえるが、事実宮方のうごきだとすれば一大事である。本土の情勢からもまた、ありえないとは断じきれない。とまれ禍根は黒木の御所のお人にある――となして鎌倉の特使もかねての最後手段を、能登へいそがせたものだろう。能登はもとより「こころえたり」と、ふくんで帰って来たものにちがいない。
「だが」
丘の中腹で、彼はふと、足をとめた。足の関節がガクついてきたふうでもある。おれらしくもないと、しているらしいが、なぜか日ごろの武力自慢をも超えるものがぞくとその背を寒くしていた。
「ご観念をと、すすめたところで、なかなか、おあきらめを持つみかどではあるまい。……といって、じたばた
そこからは、這うように行き、やがて黒木の御所のうちをそっと
能登は、狐のようにキョトついた。根気よく、帝座の灯のあたりをうかがいながら、
「はてな」
と、もう幾足かを忍ばせて行った。
帝がいつも寝所としている北廂のぬれ縁の方へである。そこの雨戸へひたと片耳を寄せたのであった。すると、
「――
ふいな一
「なにしておる!」
と、能登の狼狽をどこかで見ているような落着いた言い方でもある。
能登は、後ろへ跳んだ。――驚きの余りにではあるが――つい大太刀のこじりを
「おうっ。そこにおいでか」
急に地へ片膝をついて見せたものの、はや言いくるめようはないと
が、帝の影はさりげなかった。
「あいにく、月はないが」
と、お独りごとみたいに、
「春の夜だ。そぞろ歩きにそこらの磯まで出てみようと思う。下郎、供をせぬか」
はや、松の木の間を彼方へ歩いておられたのである。
能登は身を起した。しかし、どういうものか、せつなをつかんで抜打ちに跳びかかる気も、失っていた。虚をつかれた戸まどいを、とりもどすひまもなく、つい曳きずられて行くような恰好をぜひなくしていた。
とはいえ、それも、数十歩のことでしかない。
能登は何度も息をのんだ。餌にかかる
「能登、能登。……まだ早い。
そして、誰へともなく、
「まあ、おちつけ」
木の根にお腰をすえてしまった風なのである。能登にはいよいよ相手がわからなくなっていた。何もかも知りぬいているようであり、知っていないようでもある。
「みかど……」
ひからびた声が、すでに殺意に
「……お、お覚悟をねがいまする。ぜひない幕命でおざる。おみぐるしくないように」
「そうか」
帝は騒ぎもなさらない。
能登もまた、肩で大きな呼吸をみせた。
「およそは、察していた。いかにも、みぐるしくはしたくないの。……さればこそ、我から遠くへそちを誘うて来たのだ。あわてるにはおよばん」
「なんぞ、お言いのこしでもありますか」
「お、それをいいたい」
「仰せられい」
能登は眼を研ぎすました。
帝は、言った。
「能登。どこを見ておるのだ、そちの眼は」
あきらかな殺意に
能登は、気をのまれてつい、
「えっ?」
と、いった。
待っていたものを見たように、帝のお唇のへんには微笑がのぼった。
「やはり、そちは島武士の小胆者か。自分以外に何もその眼は見えておらんな」
「…………」
「あわれな奴!」
このときは、声にもらして、笑い出された。
「そちはわしを殺そうとの一念らしいが、なんぞ知らん、
「しゃッ」
能登は狂気したように、体じゅうの凄気で自分の耳をおおった。
「そ、そんな、たばかり事にたれが乗ろう」
しかし、本能的に、能登はその行動を思うせつな、無意識に後ろを見た。すると、いなみようなく、眼にみえたものがある。
けれどそれが、どんな人間なのか、幾人ぐらいなのか。また、後ろばかりでなく横の木蔭やらそのほかにもまだ居るのか否か。そういうことまでは見さだめる余裕もなかった。というよりは、帝のおちつきぶりと思いあわせて、全身、
「能登。残念か」
「む、む」
彼は唸った。
もう能登のからだにあった殺意の
「さても下郎の浅智恵とはそちのこと。だが、おののくには当らぬ。そちを斬るはやすいがここは一命を助けてとらす」
「…………」
「北条の手下としては、忠義なやつだ。また欲心のためでもあろう。一領の大名ともなって都へも出、宿の
「やっ、それまでを」
「小宰相すら非を悔いておるに、なんでそちの眼は世にめくらなのか。宮方について働け。いまからでも」
そのとき、帝の横顔からあたりの木々の肌までが赤く染まったように見えた。どこかに大きな火の手があがって、夜空を焦がしていたのである。能登はそれを知るとおどり起って、牛のようにあばれかけた。
「浦屋敷だっ、別府の柵が焼けている!」
けれど途端に、彼はどっちへも動けなかった。しずかに迫って来た人数の
「いざ」
とばかり、西の方へ走り出していた。
後醍醐は
走りながら
「妃たちもあとから来るであろうな」
「まいられます」
「足弱な三名が三名とも、洩れなく追っついて来られようか」
「お案じにはおよびません」
「行房と忠顕も?」
「はや今ごろは、小屋をやぶって、おあとを慕っておりましょう」
答える一語一語はみな声がちがっている。どれも若い、そしてたのもしげな語気で、帝をはげまして行くのだった。
その中には、成田小三郎の顔がみえる。
また土着の島武士、近藤弥四郎、村上六郎なども加わっていた。
すべてこの晩の決行には、島内の土着武士と島外の宮方との、緊密な一致があった。しかしこの
まず、彼らは努めて、帝に近づかないことを
それも帝のお身一つでなく、三人の妃、二人の公卿侍者をもあわせてという救出なので、その万全には、よほどな準備をもたぬかぎり、踏み出せなかった。
が、
そこで、すでに今夕には、西島や中ノ島にひそんでいた一味はみな黒木の御所附近へ入り込んでいたのである。
そのうえ、頃をはかって、浦の民家から代官屋敷附近へ火を放って、守備兵をそっちへ引きよせる計もべつに立てていた。そしてこの策もほぼ図に中った。いや何も知らなかった能登にとってはただ仰天のほかはなかった。彼がここへのぞむ以前に、はや帝の身は、成田小三郎らの一味に擁されていたのである。そして暗がりの面々が、その火の手があがるのを待っていた折であったなどとは、あとからやっと覚りえたことだった。わかったときは、能登も、もうどうしようもなかったのだ。
その能登は、十数人の宮方武士にとりかこまれて、
「歩け」
と、さきに後醍醐が急いだ方へあとから追い立てられていた。
宮方の面々は、すべて抜刀していたが、能登は丸腰だった。小刀までも取り上げられていたのである。
「止まれ」
四、五町来ると、一人が言い、ほかの白刃も、能登をかこんだまま後の方を振り向いた。
「ちと早すぎたな」
「む、余りこちらは順調すぎた」
「万一があるといけない。お妃方の来るのを待とう」
待つほどもないうちだった。
彼方から一トかたまりの人影がこっちへさして駈けてくるのがみえる。中で一人の典侍は、一人の武士の背なかに負われていた。
問うまでもなく分っていたが、あえて一同で、
「何者だ」
と、声をかける。
すると、眼の前へ来た一群の方でも、その声に応じて、
「妃のおひとり、
と、こたえた。
「よしっ、そのまま急げ」
と同勢は、元の位置についたままで、この一ト組を先の道へ見送った。その中の武士のひとりに負ぶさって行った権大ノ局の白い顔は、人心地もないような瞼をふさいでいた。
まもなく。また七、八名の武士にたすけられて、小宰相がここを通った。
彼女は身おもである。やはり男の背に負われていたが、それにしてさえ、
「みかどは?」
と、すぐたずねた。
名和悪四郎が、それに答えた。
「成田に守られて、ひとまず
悪四郎たちに囲まれていた能登は、誰よりは複雑な眼で、彼女の通過を、むなしく見ていた。
やがてまた。
三位ノ局
遅かったわけは、この
それに、侍者の忠顕や行房とも一つになり、いわばしんがりのかたちにおかれたことも、逃げ難かった
「みな、大儀でしたね」
廉子は、女将軍のように、ここで言った。
その威儀に、
「はっ」
と、名和悪四郎以下みな、ひざまずかずにいられなかった。
「みかどは、ご無事でいらせられましょうね」
「は。万端の用意がととのうまで、
「それ聞いて安心しました。知夫の港とやらへは」
「あといくらもございませぬ」
「そう……」と、さすがほっと
「三位さま」
武士の一名は、彼女の足もとへかがまって、わが背をすすめた。
「お疲れでしょう。どうぞおつかまり下さい。
「いいえ」目もくれず――「千種どの(忠顕)一条どの(行房)行きましょうか」
「なお、おひろいで?」
「みかどのご苦労を思えばなんでもありません。それよりは、すぐここへ、柵の兵が追っかけて来ましょうぞ。それはよいかの」
「こころえました」
と、名和悪四郎が起って答えた。
「そのための
浦の代官屋敷をはじめ、別府じゅうは一刻、叫喚に煙っていた。
諸所の火の手もだが、
その能登殿は、宵のくち「何事が起っても登って来るな」と柵の
「おかしいぞ」
誰からともなく、
「三つの妃小屋が三つとも、こよいにかぎって灯を見せぬ。ともあれ山上へ行ってみろ」
それからの狼狽さは、いうまでのこともない。彼らにもはじめて、事態の全貌がわかったのだ。
仰天して、組頭は、貝を吹き鳴らした。
高い所から流れた非常貝の音は、目付島や美田院の番所へ、この
「どうしたことだ?」
彼らはなすところも知らず、ただ右往左往の影をいつまで丘の上下にえがいていた。
「たわけよ。無駄貝ばかり吹き鳴らしたとて、追いつくことか」
おくれ
「ここに見えぬなら、西へ落ちたときまっているわ。つづいて来い」
と、まっ先に立って駈け出した。
はたして、一団の人間を道のかたわらに見いだした。いや逆にこっちを待っていたふうで、
「待てっ」
向うから声があった。
すわと、空間をおいて、殺気が一瞬を冷たくした。矢をつがえ、太刀、長柄もすぐ戦闘を展じうる姿勢となって、由良弥惣次を楯に、くろぐろと、息をのんだ。
「能登の身内と、
わざわざ道へ出て立ちふさがって見せたのは、名和悪四郎なのである。後ろの群れを、眼でさして。
「あわてるな。お身らが捜している能登ノ介清秋はここにおる。いま、能登の口から直接なにか話があるだろう。はやまって、主人の一命に、とどめを刺すようなまねはせぬがよかろう」
「なに?」
信じられない動揺だったが、
「おおっ、能登殿か」
弥惣次以下、つい、おろおろせずにいられなかった。
能登はうなだれていた。その影は日ごろの彼自身を失って、十数名の白刃の中に悄然とかこまれていた。
「能登。申せ」
悪四郎がそういって、彼の背を小突くと、能登は二、三歩よろめき出て、さてそれから、泥土のようなその面を、重たそうにやっと上げた。
「みんな、
「えっ。……?」
「後日をまたず、
うしろに山を負っている星明りの暗い漁港だった。
湾はその内そとに、
「オ、やっと参られたらしい」
「お見えか」
「あれにちがいない」
近づく櫓音につれて四、五そうの小舟の影も見えてきた。するとそこの人影はみな黒い
ほどなく、近くに着いた小舟から、幾つもの人影が次々に浜へこぼれた。わずかな時間だが長かった。すぐ声なき列が波打ちぎわをあるいて来る。
人影の一つは、まぎれもない後醍醐だった。
すこし離れて、三名の妃。
つづいて、二人の侍者も
この老人はよほど土着武士中でも重きをなしているものか。
黒木の御所を脱した帝は、山越えをとって、ひとまず、彼のやしきで
「われらは陸路をまわって、おあとより追っつきまいらせますれば、お舟にて早やかねての場所までお渡りを」
とあったので、
「いざ、今は」
と、老人の案内で、小迎の磯からここまで落ちのびてきたものだった。
しかしその成否と、ほんとの脱出は、これからなのだ。
港には、大型な帆船一隻と、軽快な
ともあれ帝以下、その
ほどなく、さいごの成田や名和も、能登を
「おさらばでおざる。……都までも
一群の島の者をうしろにおいて、老人は最上の礼儀を何度となく海上へ送っていた。――月もない
船が隠岐の口を離れるまでには、なお幾つかの
「番所の者、怪しむまい。おれは別府の能登だ。昨夜にひきつづき、こよいも浦々を巡視してゆく」
と呶鳴ッては通りこして行った。いやそう強制されていた彼だった。しかし、――すでに隠岐の陸影もうしろに薄れると、名和悪四郎は、ただちに能登の体を縄目にくくし上げて、帆ばしらの根にくくってしまった。
能登は
「約束がちがうッ。こんなはずではない」
「ではすぐ首をぶち落してくれとでもいうのか」
「みかどに伺ってみろ」
「匹夫下郎の処分まで、いちいち
「うんにゃ、おれはみかどのおことばなればこそ、節を変えて、勤めたのだ」
「節を変えて。ふふん、おのれにも節はあったのか。知らなかった」
「みかどは、うそをつくまい。随身せよと仰っしゃった。今からでもと」
「だまれ。うぬのような奴は、宮方では使い物にならん。ただ、
悪四郎は後ろの仲間となにか目交ぜし出していた。すぐ死の予感をもった能登は近づく者の手に体をちぢめたが、彼に与えられたのは猿ぐつわだった。
船が洋上へ出るにしたがい、さすが波のうねりは高く、またどこかには月の色が
こう三ぞうの速舟に守られたその親船は、ほかの舟との速度にたえず気をつかいながらも、
「ここまで来れば――」
といういっぱいな安心感をも乗せていた。
しかし、そこの
はたして、青い月の波間に、やがて視線をひいた物がある。速舟の上に盛られている人影はみな弓や長柄をとって惣立ちになった様子である。だが小三郎だけは、船艙の底に身をうずめている帝や妃たちを驚かすまいためにか、いつまでもその唇もとをむすんでいた。
「……あ。火縄を振って合図をしている」
どこかで誰かのほっとしたような声があがる。声はすぐ潮風に飛んでゆく。
「岩松の党だ」
小三郎も言って腰をあげた。
相互から近づきあうまで、彼方の火合図はつづけられていた。それはこちらの速舟よりはやや大型な五そうの舟群で、この地方では見ない、むしろ熊野舟の型に近いものだった。
「岩松か」
小三郎が呼びかける。
潮の中からは、
「去年、国分寺の御配所へまかりました岩松経家の舎弟
という答え。
「おおお待ちかねだ。吉致一人だけ、こなたへお移りなされ」
と、小三郎はすぐたぐり綱を投げさせた。
親船へ移って来た岩松吉致は、すぐ
その吉致からの、或る報告を聞きおわると、
「それは一曙光だ」
と、喜悦しあって、
「さっそく
と、忠顕だけが一人船艙の底へ、手さぐりで五、六段降りて行った。
暗い魚油の灯が一つ
帝はと見れば。
「みかど。もうご安泰にございまする。岩松の党も、海上のお迎えに来合せました」
「吉致が再度来たのか」
「はい」
忠顕は奏上した。
さきに、岩松家へ賜わった
「成否はもとより天にありますなれど、勅を奉じた岩松経家が、ともあれ、その好都合な立場から新田、足利両家の仲に立って、あらゆる手を打つ所存であるとのことでございまする。……もしそれが実をむすべば、関東のかたちは一変して、幕府は足もとからたちまち
「むむ」
後醍醐はにっとされた。
ところで岩松党では、吉致を代表として、べつにこういう希望も寄せていた。
このままお船の帝座を、自領の阿波ノ国へお迎えしたいというのである。
もし阿波へ御動座あれば、楠木の金剛山、大塔ノ宮の吉野とも近く、京畿の宮方はふるいたつに違いない。――その
しかし、後醍醐には、
「その儀は、
とばかり、なんらお迷いの風でもない。
「かねてからの方針がある。浪の誘い、風の変りに、いちいち進路を惑うていたら限りがない。予定は変えまいぞ」
ともつけ加え、
「一路、
と命ぜられた。
ついにまだ、隠岐の追手の船らしい船影にも出会わない。
おそらく隠岐ノ判官清高は、やっと今頃、
次の日のひる。
帝は海上から本土の陸影を見ておられた。
出雲の人煙である。美保ヶ関の松である。また、
陸からは、鯨の一群みたいに見えたであろうその船影は、出雲を避けて、依然、東への船脚をつづけていた。
一書には、このさい、出雲へ上陸するお考えから
島の配所の一年間。そのあいだじゅうの人々の腐心は、ただ今日の計にあったのである。脱島後のあてもない軽挙であろうはずがない。
まして、出雲ノ守護塩冶高貞は、敵性とわかっている。
ほんらいなら出雲沿岸の塩冶の船手が、怪しいと見て、すぐなんらかの行動にも出るべきだった。――その気ぶりもなかったのは、大社の
また沿岸には、さきごろ、海賊岩松の
いずれにしろ、帝のお心あては、伯耆ノ国にあったようだ。
伯耆の名は、
と呼んだのが、自然
天神川を幹流とする東の
やがて、海上も
「では
と、千種忠顕が勅命をおびて、その親船からべつな小舟へ移っていた。
どこへさして上陸するのか、忠顕のほか、供としては、名和悪四郎一人だけがついて行った。
人々の顔は、
「
と祈るような眼でその小さい勅使舟の行方を見ていた。
春の
「はやくても使いの
と、観られていたからだろう。
低い煙がそこらの水面を這いはじめた。
それぞれの船が夜食にかかる
「やっ、あの無数の火は?」
と突然、まわりの
「隠岐ノ判官の船手にちがいないぞ」
「すわ、追手船だ」
「油断すな」
船上の人影は、すぐ逃げ支度のため、帆綱や
帆のほか、
ときどき船は大きく揺れ傾いた。七そうの速舟との間に、行き場を
「大丈夫!」
速舟の一そうからは、岩松吉致が親船を仰いで、何度となくいっていた。
「こうとは、あらかじめ分っていたこと。岩松の党があるかぎり、お案じにはおよびません!」
しかし、親船の
初め、追手船が迫ったと知ったせつな、小宰相はすぐ帝のいる船底の口へ逃げようとしかけた。けれど、立ち
「これしきのことに」
と、廉子はわざと、権大ノ局のほうへ叱った。
「みぐるしいうろたえなどしてなりましょうか。お上のそばにお仕えしているからには、わらわたちとて、いざといえば、打物を
ぜひなく、権大ノ局も小宰相も、そのまま艫の端で、
もちろん、こなたでも、成田小三郎らが、舷に立ち並んで射返している。
それだけに気を奪われ、その一とき、廉子が

「そなたは、忠義者。……が、あの小宰相は、そなたも知ってであろうが、元々、鎌倉方の廻し者じゃ。帝のお為にならぬ悪い女子なのじゃ」
なお何を、

それからまもなく、
せつな、異様な水音を下に聞いたし、白い水玉をもかぶったので、彼女はわれを忘れて、そこに茫然と棒立ちになっていた金若の影へむかい、
「
と、狂気したようにむしゃぶりついた。
「…………」
よほど昂奮しているらしい金若は、夢みる唖みたいな
「ま。かわいそうな。金若の
そのとき、味方同士ぶつかったのか、船は裂けるような響きをたてた。
けれど、終始、
「大丈夫です」
と、岩松吉致が予言していたとおりなものが、ほどなく敵の脚いろに見え出していた。――次第にその舟影は遠ざかり、不知火の一ツ一ツは
が、その夜半ごろまでも、帝の親船以下、みな漂いをつづけていた。
「もはや、ご
「再度、隠岐ノ判官がよせて来る
「大事ございませぬ」
「でもこの広い
「いやいや。おつつがなく帝を
「ならば」
と、行房は小三郎にも計って、船を西へ向けかえた。いつかゆうべのような下弦の月がおぼろに低い。
おぼろなままに、春がすみの
その間、帝は船底の
「
「はっ。まだ何の沙汰も聞えてはまいりません」
「
「いえ、
陽が
「
彼女と
「……小宰相が見えんの。
「いいえ」
すぐ廉子がお答えを引きとった。なんのわだかまりもない
「いずれそのことは、目前のおん大事もすんでから、み気色のお
「むむ」
帝のお心も、ついそこになく、
「そうだ。それどころでない」
と、霞のうえの
五十三、四か。まだ老人というほどな彼ではない。
骨ぼそだが四肢は長く、人には引けない
長い顎から禿げ
「お変りもなく」
と、その兄の姿を見上げながら、悪四郎
もっとも、兄との対面は、何年ぶりやらわからない。
しかもこの深夜、とつぜん故郷の門をたたいて、兄の長年やら
「いや変ったさ。わしもな」
長年は見よがしに、薄い髪の毛をなでまわした。
壮年からもう若禿げの方だったが、なるほど地肌も透くばかりとなっている。その少ない髪では
「変らぬのは、悪四郎、おぬしじゃないか。……もう寝所に入りかけていたところだったよ。びっくりしたわさ。あいかわらず
「この数年間、一片のお便りだにせず、いきなりこんな深夜飛びこんでまいりまして」
「いやまあ、それはいいが、人払いしてくれとは、いったいどういう用なのだ。まずそれを聞こうじゃないか」
「兄上」
ずっと、膝をつめて来て。
「じつは今夕。隠岐のみかどのお供をして、近くの浦までご案内してまいりました」
「……?」
長年は、返辞もしなかった。
ただ穴のあくほど弟の顔を見まもってはいる。そしてつく息も忘れている。
弟とはいえ、ほんらいなら門を
それを、亡父の行高は、盲愛していた。末子の甘やかし程度でなく。
「いまどきの若い者なら、悪とよばれるほどでなければ、行くすえ
と、言ったりしたので、この
のみならず、あげくには長年の家臣
「兄上。こう申しても、てまえの言では、なかなか、ご信用もございますまいな」
「いう通りだ。事にこそよる」
「ですが」
「まあ待て。おぬしはこれまでどこにいたのか」
「隠岐にいました。隠岐の配所の
「ふうむ。誰の手について」
「
「それはここ一年のことだろう。それいぜんは何していたな?」
悪四郎は急にあたまを掻く。すると以前の悪冠者らしいツラだましいが、その薄笑いの底にチラとする。
「イヤ
「なにさ」
長年は打消して。
「いまさら
「まっすぐいってしまいます。郷里を出奔してから三、四年は都にいて、酒、ばくち、喧嘩の口きき、時には火つけ押込みまでやりましたが、或る時、恐ろしく強い相手に出会って、これこのとおり」
と、左の肩の狩衣を少しはだけて、古い刀傷の
「死ぬ目に会ったのが、いい境目になりました。女とも別れて、ひとつえらい坊主にでもなろうかなんて思い立ちましてね」
「僧門に入ったのか」
「ところが寺を覗いてみたら、これまたばからしくて居られやしません。またぞろ諸国を流浪です。けれど年も三十と気づいたら、急に矢もたてもなくなりました」
「なにを感じて」
「いまという世に生れたのに、
「む。そして」
「するうちに、その義綱が、隠岐の配所の警固方に命ぜられ、どうだ、貴様も行かないかというすすめです。こっちはどうせ食客の体、否やはありません。すぐ
「そうだったのか。いやあらまし分った」
「あとは兄者人にも、ご明察がついておりましょう。何となれば、ここ
「いかにも」
長年は
「そのことには、なにも驚きはしておらんよ。意外なのは、おぬしが帝のお使いに立って来た一事だ。どうして今日まで、隠岐におることを、そっとでも、この長年へ告げていなかったのか」
「郷党へも兄者人へも、悪名のみを刻みこんで、多年、郷里を離れていた四郎泰長です。白々しい消息などは書けません。それよりは事実を以て、お詫びの日を期していたわけでした。ですが兄者人」
「なにか」
「帝の御使には、べつなお方が渡られたのです。てまえは御勅使の案内者にすぎません」
「えッ、ほかにどなたが?」
「六条ノ少将
「なぜ早くそれをいわぬ」
長年は、叱った。
「勅使にたいしてご無礼な。悪四郎、すぐ走り戻って、お迎えしてまいれ」
「ですが、念のため申しまする。
「なるほど」
ちょっと、黙考して。
「こよいの
「一人でも異心がいては、うかとご案内はできません」
「というて、長年から館を出て行けば、
「こころえました。――御船のみかども、一刻千秋のおもいで沖に待ち漂うておられましょう。――お館の方でもお抜かりはございますまいが、いやが上にも、お緊密に」
「よしッ、はやく行け」
長年が奥へ入るのを見て、悪四郎も、つと中廊下の果てから外へ消えた。――この夜、海上の
名和家の門のひそかな人出入りはそれからだった。ここは
正装した長年が、
「異存ないな」
と、一同へむかって、念を押したときは、どことなく、春の朝が、人々の顔をほのかに見せだしていた。
また一族では、甥の鬼五郎助高をはじめ、
けれど、これだけは、長年がどんなにも心をゆるしうる者たちだった。
ただ親心として、ここに欠けている顔が一つ気にかかる。それは六波羅の召しに応じて、否みようなく、幕軍の一隊として、中央へ出ている嫡子の太郎義高だけがいなかった。
「……それにしても、うかつであったよ」
長年は、一同への話をもどして、心の底のものを、つかみ出すように
「よもや、まだかと、時機をはかっておるうちに、勅使はすでに、この里へお臨みなのだ。帝は沖のお船で
「ご念にはおよびませぬ」
揃って言った声が、長年の耳をほがらかにした。朝の花明りは見るまに明るさをましている。
そのとき、小走りに廊へ見えた郎党が、勅使の忠顕と悪四郎の訪れを告げていた。
悪四郎の案内で、やがて勅使は名和家の大床へ通ってきた。
そこは水を打ったよう。
名和又太郎長年をはじめ、腹巻狩衣の一族は、一様にヒレ伏して、しばらく仰ぎ見もしない。
どこかの山桜が、朝風に身をゆすぶッていた。その白い
やがて、上座の辺で、
「――
と聞えたので、一同はすこし頭を上げた。けれど、
「みことのりです!」
と次いでの声に、背の波は一せいにまたしいんと沈んだ。
「かねて、当家をば」
忠顕の発音も、しばしは口の
彼自体が、ひどい疲労に耐えていたのでもあるが、成否の重大さにも、硬ばらずにいられなかったことだろう。その身なりも名和一族のきらびやかにひきかえて、彼は島以来の
「……
「…………」
「さ候えば、即刻、みかどをお迎えし奉ッて、かねがねの
忠顕はわざと、語尾のにごりを残して、
「お受けあるや否や。事は
と、語をむすんだ。
長年はすぐ答えた。
「かしこまりました。伝来の弓矢も、かかる日のお頼みに会うは、面目というものです」
「義心お変りないか」
「否やはございません。――なれどこの地の近郷にも、幕府方の武豪輩があまた虎視を光らしておりまする」
「それや、さもあろう」
「かつは、この名和ノ荘といい、名和の館と申せ、平野の小丘です。
「船上山へ」
「そこも
「ではその由を」
と、悪四郎をかえりみて。
「悪四郎、めでたいな。事は成就とみえた。沖のお船でも、みな首を
とばかり、すぐ立った。
長年は大床から退がるとすぐ、末子の竹万丸を一室へよびよせていた。
「竹万、いまからすぐ
「お手紙でも持ちますか」
「筆をとる暇もない。たった今、そちも勅使のお旨をみなと一しょに伺っていたであろうが」
「はっ」
「あの通りを、叔父さまの
竹万丸は、ことし元服をひかえている十五歳だった。
だいじな連絡にこんな
ここで寸言すれば。
名和ノ庄の大地主、名和又太郎長年の“長年”という名のりは、あとで後醍醐帝から賜わったものである。このときはまだ“長高”といっていた。
が便宜上、長年を使ってゆく。
それと「伯耆巻」「船上記」「増鏡」「梅松論」すべてが、帝の
長年の立場からいおう。
名和家は平安朝いらいの旧家で、北日本海第一の大岳といわれる
だが藤原氏の衰微につれ、大山もさびれて来たし、ひいては名和家も今は
時しも、といっていい。
はるか吉野にある大塔ノ宮や、正成の手にかくれている
隠岐からもまた再三、
「……
こんな大事をその日にひかえた彼ともみえない。
梶岡ノ入道
よも山の話のすえ、
「世も変りましたな」
長年がそろそろ、談を時勢の昨今へ持ってゆくと、
「変り過ぎるわ」
と、永観は憤慨した。
あさましい事だらけだと、この老人は嘆じてやまない。
老人の論法はすべて今と昔の“比較”に基準をおいている。
また、北条
「じたい今の天皇家もなっておらんわ。王道がどこにある。利己、栄誉欲、喧嘩、すべて
口吻でもあきらかなように、永観は徹頭徹尾な北条支持者であった。――幕府もいけないが中世幕府ごろの善政に醒めるべきである。流血は無用だ。改革の次に何が来るかだッてわかりはしない。承久の愚を二度もくりかえすな、というのが持論なのである。
「ですが、ご老体」
「ですが? なんじゃの」
「かりに一天の
「どうもこうもないわさ」
「ご老体でしたら」
「ただちに浜へ弓矢を
「でも、窮鳥フトコロニ入レバの古語すらあるではございませんか。わけて武門の情け、この国の者として」
「嘘よ」
永観は一笑し去って。
「長年どの。そういうお腹の底には、家のほまれ、またあわよくば、潮に乗って、という欲心も道づれじゃろ。武門おおむねの
「しかし名を尊び家を興すは、武門の伝統ではありますまいか。時にし会えば」
「人間、無事にめぐまれていると、ふと、ひょんな気もおこるものだ。……何かの、ここらの里へも、そのような風が吹いて来たとでもいう仰せか」
「いや万一の日の心得に、お伺いしてみたまでです」
「わしは知らんな、そんな賭け事は」
「さよう、知らぬことにしておいていただければ倖せだ。
「夢か。夢をみるなともまさかいえまい」
「いっても
「ま。一
永観は酒を出させた。
多くは飲まなかったが、昼酒にぼうっとして、長年はやがて門を辞した。それがもうたそがれ近い。
浜まで、一里にも足らない道。
「鬼五郎、松葉をいぶせ」
長年が、甥に命じる。
そして波打ちぎわを前に、一族四、五十騎はヒソとかたまりあいながら、沖のこたえに
落日と共にあらゆる
このとき帝を待った名和党は一説には、五、六百騎ともあるが、近郷の小波、赤崎、中山谷などには幕府方の地頭、守護代がそれぞれ土着していたのである。――事は電光石火な離れ業にもひとしい。――何でわざわざ人の耳目を引くような大人数をうごかそうや、である。
ほどなく、何かを波間にみとめたのだろう。静かに、長年がまた言った。
「……一同、下馬いたせ。下にいてお迎えせい」
浜は遠浅らしい。
「名和。名和はどこに」
おぼえのある今暁の声を聞きとめて、長年が
また、忠顕の横には、黙然と物に腰をおろしているただならぬお人影と二人の女性のかしずいているのも見えた。
はっと、長年は一そう身を低めて、とたんに何かいいしれない感奮に血を熱くした。眼に見て、想像以上な傷ましさに打たれたのだった。かりに天皇でないただの漂流人であったにしても一片の同情は禁じえなかったことだろう。ましてやと思う。それも昼、梶岡の永観入道が彼へ皮肉ったような功利を
「名和。ご用意は」
「は、すぐお供つかまつります」
「加茂村の社へか」
「一時そこへと存じましたが、梶岡の入道をば、説き伏せ切れず、やむなく予定がえして、ただちに山上の方へ」
「はなはだしいお疲れでおわせられるが」
「山坂もわずかな間。道はここから三里ほどしかございません。どうか
「おお急ごう。……では」
と、忠顕はなぎさを振り向いて、ここで別れ去る者へ、深いひとみを送った。
悪四郎は徒歩で駈けた。――自分へ貰った裸馬の背へ、例の、能登ノ介の体をくくし付けていたのである。
二里余りを来て、野中で一ト息入れ、それからの山坂道では、名和長年が自身、後醍醐の大きなおからだを、わが背に負ってうんうんいいながら登って行った。じかでは畏れ多いといって背に
老人のつねで梶岡の永観入道もきまって夜半に
が、永観はいちど起きたもののまたすぐ寝所へ入った。それきり
「ご隠居さま。一大事です」
やがて、家人の騒ぎにやっと永観はそこから出て来て、
「何っ、怪し火じゃと。
と、仰天を装って共に立ち騒ぎ出したものだった。
すぐ続々と知らせが来る。
「火災は丘の名和殿です」
「
「なお不審なのは、
なおそれ以前に、籾倉の食糧は、近村の老若が一荷一荷かついで山地へ運び去ったという風聞も聞えて来た。
「しゃッ、奇怪千万。そこらの百姓女房二、三人をひッからめて来い」
永観はさっそく、それらの
まだ宵のころ。
領下の農家全般へ布令が廻った。足達者なものはよい
なるほど、籾倉の前には、
百姓たちは
「よし、おまえらに
永観はその者たちを解き放してから、ただちに少ない家の子郎党を一つ庭へよせ集めた。
「ひる、あれほど意見しておいたのに、名和殿は自分の勇を
すると、そのとき近郷の
「永観どの、大変だ。折も折、夜見ヶ浜からの早馬には、天皇がこの地方へ逃げ込んだという沙汰だぞ。そのため隠岐ノ判官の追手三百余人が、いま上陸中だとある。名和は早くも裏切りとみえるが、当家の向背はどうなのだ。ただちに隠岐の追手へご加勢か、それとも裏切り者の名和と一つ腹か」
「心外なご疑念を」
と、永観は門外へ出て来て、言い放った。
「たとえ同族でも、長年めの裏切りはゆるしがたい。われらは鎌倉殿へ二心のない者、いざすぐ隠岐の判官の追手へ力をかし申さん」
彼の家の子郎党といっても、わずか三、四十人にすぎなかったが、全家をあげて稲井瀬ノ五郎の手へ合流し夜見ヶ浜のほうへ急いだ。
そのころ、淀江あたりを中心に、浜では、隠岐の追討勢があらまし上陸を終っていた。
しかし首将の清高以下、兵の二百余人はみな
むりもない。
帝の脱出とわかって、大あわてに
そのうえ途中で
もっとも能登ノ介清秋が宮方の手に
清高は、
あのさい、べつな方向へ、遮二無二逃げてゆく一舟群を見たのである。
追っかけてみると、その舟群からは猛烈な抵抗があり、それこそ天皇坐乗のものにちがいなしと直感された。そこで彼は、全船列の舟かがりを滅灯させ、どこまでもと、追跡して行ったものだった。
ところが、夜が明けてみると、そこはもう
このため彼は岩松党を相手に、半日以上にもわたる喧嘩腰の交渉につい時をつぶしてしまった。結果は、先方の船をのこらず見せてもらって落着した。もとより後醍醐はいなかった。帝はおろか宮方臭い一人もいない。
どっと舟べりで沸く笑いを浴びて、清高以下の隠岐勢はもとの海路へひきあげ去った。彼も兵もくたくたになったのは当然である。でも
「おそかったぞ、隠岐どの」
浜迎えに出た小波の田所
「不覚はわれらにもあるが、目標のお人は早や船上山の上らしいのだ。事ごと、出し抜けを食わされておる」
小波の城は、淀江から南へ半里だ。
稲井瀬ノ五郎や梶岡の入道永観も駈け合わせて来て、ここはたちどころに、幕府方の拠る船上山攻めの本陣のかたちとなった。
北日本の平和は一夜に様相を変えていた。
急を告げる早馬は、六波羅や鎌倉へ、狂気のようなムチを打ちつづける。
同時に、地方武士から在国の間でも、これまでの
船上山の宮方か。
幕府勢の寄手につくか。
の去就をせまられたことでもあった。
何といっても地方ではまだ幕府依存の根がつよい。寄手は日ましにさかんな
中でも、船上山から北三里の赤崎城にいる地頭三河守清房は、まッさきに小波城の隠岐勢にこたえをみせた。
また、船上山へはもっとも近いところに位置している中山谷の
とくにこの糟谷は生ッ粋な鎌倉武士だ。それに伯耆の守護代でもある。だから彼は、
「隠岐の武士どもは、昼寝でもしていたのか。野良猫に籠の鳥を取られるのも知らずにいたとは何たるうつけだ」
と、
このほか小鴨城の
これを戦図上でみれば、船上山をかこむ西、北、東、あらましは有力な幕軍である。――小波の城を本拠としてやや心身の疲れをとりもどしていた隠岐ノ判官清高も、
「このぶんなら」
と、やや眉をひらいた。
が、じっさいには彼として苦慮にたえない空気がみえる。
寄手は随所に奮い立ったが、しかしそれを統率する大将というものはない。六波羅から特命の将でも下ってくればだが、清高は、隠岐一島の守護にすぎないし、それに帝の脱島を追って来た、いわば不始末を起した下手人でしかないのである。
そんな不覚者を、首将といただいて、彼を助けようとするような人のいい地方武者は一人もいない。みな「おれこそは」の気ぐみなのだ。清高の失脚などは意に介するところでない。わが手に後醍醐を捕って、賞にあずからんとする方がみな急だった。
ために船上山攻めは、おそろしく急速に、また気負い込んでくり返されたが、そのほとんどが惨敗だった。個々、てんやわんやの戦列や突撃が因をなしたのはいうまでもない。
「隠岐殿っ。……能登ノ介と申す者が、山上から逃げ落ちて来た。島から捕われて行ったあの能登ではあるまいか」
彼が、こう聞いたのは、田所種直や稲井瀬ノ五郎や入道永観らと共に、船上山へむかって、野陣を
「えっ。能登が生きて?」
清高は、半信半疑に、
「能登といえば、わが叔父御にちがいありません。どこへ来ていますか」
仮屋としている農家の土倉から出てみると、なるほど、見知らぬ一人の武士と姿を並べて、茫然と変りはてた能登ノ介が、眼もうつろに
季節は三月に入っている。
「信濃坊」
長年がよんでいた。
折りえぼしに、卯ノ花おどしの、背のたかいその姿を、信濃坊
「おう
「どこへ行く」
「西坂が危ないそうですから」
「案じるな。鬼五郎助高、鳥屋彦七らに、山上の兵を引ッ下げさせて、さっそく助勢にやってある」
「でも若い者まかせでは」
「いや若いのにまかせておけ。それよりも、もっと大策を講じておきたい」
帝を背負って、ここへよじ登った夜から早や半月余だ。
二人は黙然と三所権現の杉木立をうしろに腰をおろした。帝の御所は、はるか奥の院のほうである。
「源盛、これを見てくれ」
兄長年が、よろいの袖から取り出して見せた一書状を手に。
「や、永観入道の筆ですな。……あの
「まあ読んでみい」
「……は」
黙読してゆく源盛の瞼は赤くうるんでみえた。
永観はこう書いている。
――先頃はつらい別れ方をしたが、これでわしもさっぱりした。正直、おまえ方の亡父行高どのに、名和家の後事やおまえ方の後見などを頼まれて死なれたことは、ずいぶん多年の間の心の荷だった。
しかし昨日今日、船上山にひるがえる無数な旗幟 をはるかに見て、これでわしの任はすんだと、ひそかにはうれしい気もする。
だが、わしは根ッからの鎌倉武士だ、まだ弓勢 に年は老 らせていないつもりだ。そのつもりで貴さまら兄弟も善戦してみせてくれ。わしも決して弓の手を弛 めはしまい。
ただひとこと言っておくが。
ゆくすえ再び名聞や利欲の争いに踏み迷うなよ。わしなどは古びた最後の鎌倉武士なのかもしれないが、年の功とやらでそれぐらいな将来は眼に見える心地がするのだ。
いずれ拝面しようが、そのときはおそらく無言の対面となろうから、なつかしきままの一筆を。
「……しかし昨日今日、船上山にひるがえる無数な
だが、わしは根ッからの鎌倉武士だ、まだ
ただひとこと言っておくが。
ゆくすえ再び名聞や利欲の争いに踏み迷うなよ。わしなどは古びた最後の鎌倉武士なのかもしれないが、年の功とやらでそれぐらいな将来は眼に見える心地がするのだ。
いずれ拝面しようが、そのときはおそらく無言の対面となろうから、なつかしきままの一筆を。
えいかん頑老
状を巻いて、それにお辞儀をしながら、源盛は長年の手へ返した。
「おっ、ここにおいでか」
そのとき、末弟の名和悪四郎が何事か息をせいて駈けて来た。
ひどくあわてているらしい末弟の様子である。長年も源盛も共に腰をあげて。
「悪四郎、何が起ったのか」
「どうも面目がありません」
「何がそう面目ない」
「抜かりました」
「とは?」
「土牢へぶち込んでおいた能登ノ介めが、合戦のすきに逃げ失せたのです」
「一人ではできないことだ、たれだ手引きした者は」
「かねがねてまえに恨みをもっていた末吉真吾でした」
「末吉真吾か」
長年は苦笑した。
「ありそうなことではある。とは承知しつつ、ここにおいていたのも長年の落度だった。まあいいじゃないか」
「よくはありません。これで山上の機密は、のこらず寄手にわかってしまいましょう」
「わかっても仔細はない」
「そんな無茶な」
「いや暴言でなくだ。ほんとに、そう大した影響はあるまいよ」
「どうしてです」
「寄手の攻め振りをみると、隠岐ノ判官以下、
そして長年は、二人の弟へ、
「記録所まで来ないか。――今日も各地からの
と、先に歩いた。
記録所には、
「や、打揃うて」
忠顕は
「何事だな?」
と言った。
この公卿はすでに
かつは、後醍醐の
「さきに発せられた諸州へのお召しにたいし、今日も武士の
「おおぞくぞく
すみに
「すべては
忠顕は、次を読んだ。
しかし、児島高徳の名も、ここの参陣の“
彼は“簿”を閉じて。
「とまれ、大物小物といわず、諸方の武士の
「
と長年は苦笑をみせた。
帝事にかぎらず、軍の上にも臨んで、はやくも公卿大将気どりでいる忠顕のことばが、武士の彼には
「われら弓取りは、必然、代々の名和ノ庄から妻子
「が、守るに専念で、まだいちども攻勢に出ておらんな」
「敵の疲れを待っています」
「したが、敵にも刻々援軍があろう。もう汐はいいはず。信濃坊、功を見せよ」
と、
「はっ」
源盛も悪四郎もちょっと恥じた顔をした。――長年の防禦一点ばりの戦法は二人もじつは内心いさぎよしとはしていなかった。
で、忠顕の命令をたてに、その晩悪四郎は、鬼五郎助高や鳥屋彦七らとしめしあわせ、敵の小波城へ夜襲をかけた。
また信濃坊源盛も、べつに一手をひきいて、夜半、中山谷の敵へ突いて出た。
「それみろ」
と、長年はその翌日、ふたりへ言ったものである。
夜襲はさんざんな敗北に帰したのだった。しかし長年は、その日をさかいに、
「攻勢に一転する」
と全山へ言明した。
このままな消極策は士気にかかわると観たのだろう。彼自身一陣をひきいて、いちばん遠い小鴨城へ
「
悪四郎
「隠岐ノ判官は、海上へ取り逃がしましたが、ごらん下さい。――能登ノ介の首、末吉真吾の首、小波のあるじ田所五郎左の首まで、かくの如くでござります」
と、それらの首級十幾ツをならべて検分に入れた。
長年が順に見てゆくと、その中には変りはてた梶岡の隠居、永観入道の首もまじッていた。
「ああ、永観どのか」
長年はそのしなびた法師首を抱き取った。そしてしばらくは涙と追憶になってしまった。
「信濃坊、供養をたのむ」
と彼へ首をあずけた翌日、長年はふたたび出て、中山谷を撃破した。――かくて寄手はほとんど伯耆の山野に影をひそめ、隠岐ノ判官清高は、残兵を載せて、島へ逃げ帰った。
けれど清高は、自領の隠岐も捨てて、またすぐほかへ逃げていった。なぜなれば、島全体が彼にそむいて、はや寝返っていたのであった。
船上山の攻防は、ほぼ二十日たらずで下火になった。
いかに名和長年の一族がよく戦ったとはいえ、これには地方における幕府への信頼感も一度に
功名の慾は慾でも、
「鎌倉どのの恩顧にこたえん」
として寄手に拠った多くの
わけて、あわれをとどめたのは、隠岐ノ判官清高だ。
敗れ帰ったあげく、本国の島民からも追われて、ぜひなく越前の
“君を悩まし奉りける天罰のほど不思議なれ”
と古典太平記の筆者はいい気味みたいにいっているが、そうではあるまい。こういう小心で正直で乗せられやすい、そして官僚肌からも脱けられない憐れむべき人物は、いつの世のどんな場所にもいる。しかも平凡な日頃の中にえてしている。
また、太平記的な、春秋の筆法では、この合戦中にも、いろんな奇瑞や天変があったとしている。たとえば八幡大明神の加護が見えたとか、奇鳥の群れがお座所の上をめぐったとか、事ごと、奇を
「ことしは
と
「長年、お召しぞ」
ある日、彼は忠顕から沙汰をうけた。
「追っては、
祝酒はべつな部屋でくつろいでいただいた。帝も簾をへだてて杯をとり、そこには妃の起ち居する気配もうかがわれた。
「かえりみると、隠岐を脱して伯耆へ上がるまでの日夜は忘れがたい」
後醍醐は言った。
そして、千種忠顕へ、
「そちは絵が描けよう。丸の中に
「何になされますか」
「名和の家の紋に与えよう」
「これは破格な」
即座に描いて、
「これでよろしゅうございましょうか」
と、お見せした。
後醍醐はそれに和歌を添えて、長年へくだされた。――時運の風を満帆に孕んで、この天皇軍を、さらに都まで押し進めよと、それはなお長年へ宿命を負わせているような図であった。
恩賞の配与には当時もずいぶん気を
帝が、当座の嘉賞として、
帆かけ舟の紋
を長年に与えたなどは、いかにも当意即妙でよく武将の心をつかんでいる。名和家の子孫は江戸時代の頃までも、それを家紋として、祖先の船上山の功を誇りにしていたとのことだ。長年の感激はいうまでもなかったろう。
もちろん、その日につづいて、彼以外の戦功者にも嘉賞はそれぞれ行きわたった。特に、
成田小三郎
名和悪四郎
の二人は、島の配所いらいの殊勲者だし、ほかにも功労者は多い。しかし、さしあたって与える物もないので、帝は隠岐脱出のさいに召されていたボロの狩衣を細かに
「まずは後日に恩賞を与える手形ぞ」
と、その
そのさい帝は、長年の末子の竹万丸にまで、
「これを」
と、日常使用されていた
そんな或る日、
「富士名ノ二郎義綱が見えました。――出雲の守護職、塩冶判官高貞をつれ、御陣の下へ、高貞の降伏を誓わせにまいッてござります」
こう麓から山上へ伝令がきこえて来た。
「なに、高貞が」
武士の多くはいきり立ったが、富士名と一体の名和悪四郎のとりなしで、高貞の帰順は容れられた。なんといっても出雲の守護高貞の投降は、山陰道の
また
「春は来た」
との実感が、日ましに
――遠くから望んでも船上山の春は、春の花よりも諸州から
「この上は、一日も早く」
と、千種忠顕は口ぐせに、長年らへいう。
「途々の敵を払って、めでたく元の
「いやまだ」
と、長年はいつも止める。
「天下は蜂の巣の状です。夜の明けるたび各地からいろんな飛報は入りますが、情勢はまだ
この前後であった。
さきに幕府の召しに応じて中央へ出征していた、長年の嫡子義高と、弟の
「六波羅の内部は、どんな有様か?」
また、
「正成の千早城のささえはどうか?」
などを、義高はさっそく、下問された。
彼のはなしで、千早城の根づよい抵抗ぶりから、昨今の洛中の混乱ぶりまでを、人々は手にとるように聞き知った。
後醍醐は、義高へ、
「千早城を包囲しておる関東勢は何万か。――正成以下の士気はどうか。――籠城はなお幾月も維持できそうか」
などを仔細におたずねあって、河内の戦況には、特に関心の強さをしめされた。
義高は、その千早攻めにも加わっていた者なので、
「正成はいぜん健在です。それになぜか楠木の名は鬼神か天魔のように人々の間に
と前提して、知るかぎりを、言上した。
それと彼は、ここへ帰って来る途中で見聞した赤松勢の情況もおつたえした。
播磨の赤松円心は、とうに宮方同心の一族ではあり、かねて播磨の
「帝の都還りのお道は、わが赤松勢が先駆してみせる」
といって、二月早々に
六波羅ではあわてて一万騎の新手を急派し、また阿波の小笠原勢三千もそれへ向けかえて、破竹の赤松軍をやっと尼ヶ崎附近にとらえ、そこでは完全に打ちたたいた。
ために大敗を喫した赤松父子は、わずか十数騎で乱軍からのがれたほどだが、なにしろ円心入道というのは、よほどねばりづよい男らしいのである。またたちまち残兵をかりあつめて勢いを盛り直し、じわじわ敵を押し返しながら、今やまた洛外淀川から山崎近傍の山野も染めるばかりな旗じるしを林立させ、
「両六波羅へも、都の内へも、ほどなく赤松円心の兵が、一番乗りを名のるだろう」
と豪語して、いよいよ意気衝天の軍威である。
しかしこの猛気の軍勢に、一歩でも洛内の地を踏むことをゆるしたら、それこそ北条氏総司令部たる六波羅の府は、たちどころな大混乱におちいってしまうほかはない。
そこで六波羅全軍も今は死力の形相を呈していた。
一方には難攻の千早、金剛をひかえながら、また一方には、破竹の赤松勢を、洛外桂川の一線でくいとめていたのである。――以上が、名和義高のごく最近な中央報告の一端だった。
× ×
そのころ四国方面では、伊予の
後醍醐推戴
の旗上げをふれ、土佐や長門へ打って出ていたし、また
時直はやぶれて、闇夜に関門海峡を逃げわたり、一時九州へかくれたが、その九州もまた、昨今、八荒兵乱の
九州での、世にいう“博多合戦”なるものは、そのとし元弘三年三月十三日のことだった。うごかせない傍証もあるのでこれはほぼ確実といってよい。
だが。
船上山の上に後醍醐がおちつかれたのも、月の初めの
どうもこれには裏面がある。帝の隠岐脱出と同時の頃に、べつに発せられた密使があったにちがいない。
でなければ、それ以前に、
とにかく、
船上山の詔
は九州だけでなく、山陰山陽から四国にまで発せられ、それの
それの一例とみられるものに「博多日記」の三月二十日の
今日、辻の木戸で怪しの男が捕まッた。八幡弥四郎と名のッて、さまざま口実を構えていたが、体じゅうから密書が出てきた。それは大友、筑州、菊池、平戸、日田、
「
九州探題の北条
「ここも?」
と、予感せずにいられなかった。
そこで彼は、時局の談合に名をかりて、日ごろ怪しいと見ている武門たちを、いちど博多に呼びあつめ、その真意を確かめておこうとした。――彼の黒表にのぼっていたおもなる大族は菊池、
その召集をうけた肥後の菊池武時は、
「ただではすむまい。いッそ迎え潮と申すもの」
と覚悟して、日ごろの盟友、
すでにこの一月にはこんなこともあったのだ。
彼と
途上で大塔ノ宮の令旨をうけたのだ。そして、それいらい両者は阿蘇の麓でじっと
そのことは「
菊池武時には、べつに、
の法名もあり、入道姿だが、年はまだ四十三、四の壮者だった。
「行って来る」
彼の馬上姿は、あまり立派ではなかった。小づくりなうえ色が黒い。それに彼は頭巾や烏帽子を愛さない。いつも素頭である。その素頭も毎日
「行ってらっしゃい」
彼を見送った一族大勢の中には
息ノ浜の宿営地から街の探題邸までは、入江に沿った松原つづきで、途中に
「…………」
その前で、彼はちょっと馬をとめた。降りようとした風である。しかし降りもせず黙祷もせず過ぎ去った。
博多の探題邸は一城郭のおもむきをなしていた。いわば
「肥後の
すると、探題の侍所、広田新左衛門が中門で立ちはだかった。
「ご遅刻もはなはだしい。武時入道には何しておられた。すでに御会議はすすんでおる」
「ほ。さほどな遅参とも心得ぬが」
「それじたいが、いかに今日の時局へも無関心かを、尊公みずから言っているようなもの。お帰んなさい」
「なに立ち帰れと」
「着到に
「そうか」
「ご会議は明日もおこなわれる。明日は
「む。出直そう」
武時は栗の皮のハジケたような笑いを一つ見せて、素直にそこは
しかし
童や老人は、ちりぢりに、どこへともなく落ちて行き、そしてあとの三百人ほどな屈強だけは、いつのまにか具足、よろい、
「オオ、いい
兵士たちはふと耳をすました。
「父上、一とさしお目にかけましょう」
こんどは父や一族の前で、頼隆は立って舞いはじめた。――もう探題御所へ朝討ちをかける時刻に迫ッていたのである。――物蔭から見ていた兵士たちはつい眼を熱くしてしまった。頼隆はつい先ごろ結婚したばかりで、
あけがたの桔梗色の空の下に幾ヵ所となく炎が立った。博多じゅうの辻はすぐ
「われらは勅命によって、逆賊北条一族を討つものだ。これまでの悪政はやみ、世の中はずんとよくなろう。わずかの間の
大声でこう言いながら、逃げまどう市民の中を探題御所の方へ駈けて行った馬上の将があった。つづく兵があった。
それを見たし、市民はまた、いままで見たことない一
菊池一族の三百騎ほどは、息ノ浜から松原口まで、
「待て」
武時の命に、一ト息入れた。
「頼隆、おかしいぞ」
「どうしたのでしょう。約束の
「よも違約はあるまいが、念のため、使いを待とう」
少弐も大友も、共に、船上山からの密詔と錦旗をうけていた者だし、それ以前からの同志でもある。
で、こんどの博多召集には、火の手をあいずに各自の宿営地から起って、九州政庁の探題邸を一挙に占拠してしまおうという密盟の下に、国を出て来たことなのだった。
ところが、まもなく。
大友貞宗の陣営へやった使いの二人のうち、一人だけが、蒼白になって逃げ帰って来た。――貞宗はどう俄に気が変ったのか「そんな不逞なくわだてに同心した覚えない」とシラを切ったのみでなく、使いのひとりを斬りすてたというのである。
菊池父子は愕然とした。
一方、少弐筑後守のほうへ、出兵の催促にやった使いもまた、もどって来ない。
「頼隆、おれの落度だ」
「…………」
頼隆はそう言ったせつなの父を見るにたえなかった。そんな父の顔を子として見たことがなかったのである。
「人間の皮をかぶっただけの畜生を、ひとつ宮方だの、やれ同志のと
「なんの頼隆は悔いません。元々、王事のためなればこそ起ったのでしょう。私とて、けちな功名心ぐらいなら、あの
「頼隆、よくいわれた」
武時の弟、次郎三郎
「それっ、御旗を先に振れ。御旗につづいてすすめ」
すでに生きることは考えられなかった。火の玉となった一族は、辻堂方面の炎をくぐって、櫛田浜を突進し、そして探題邸の一門へせまった。
このときの九州探題は、さきにもいったが、北条
英時は、この博多でもう在職十年からになる。
ゆらい九州は統治にむずかしい所とされていた。
人柄といえば。――彼は、一時鎌倉の執権職にもついた赤橋守時の実弟なのだ。赤橋家のひとりなのである。
だから足利高氏へ
ここで、思いあわされるのは、ずっと後年ではあるが、その
いや、話をもどす。
その朝は、探題英時のほうでも、ひとつの作戦ちがいを犯していた。
「菊池はやるぞ。むほんの
とは、彼もとうに察知していたことである。
そして前夜、大友貞宗や少弐筑後守などをも説き伏せて「――菊池とは手を切る」という一約破棄の
「やがて、菊池父子がこれへ曳かれてくるのは、朝飯前」
としていたのだった。
なぜなら、探題軍は暗いうちに道を迂回して行って、
「次郎、ここへ来い」
かちどきと、血ぶるいの中で、菊池武時は嫡子の次郎武重へ、
「これはそちの母へのかたみだ。これを持っておまえはここから肥後へ帰れ。……何、何、父と一しょにだと。ばかをいえ。今日だけが世の終りではない。早く落ちろ」
渡したのは、ゆうべ懐紙に書いていた一首の歌と、ひたたれの袖だった。
「この上は、探題英時の首をあげ、九州の北条城を枕に討死をとげよう。落ちたい者は落ちるがいい。武時は身の本分へ進むばかり」
この決死と猛攻の中に煙った探題邸では、さきに所属の兵が大部分出てしまったので、ほとんど手薄だったらしい。
わずかな守兵は次々に仆れてゆき、英時もいまはと、自刃を思う眼をふさいだ。
博多合戦はただの一日でかたづいた。
いや三月十三日の
しかしこんな小合戦ですら、それは
ただ探題英時は助かった。
一時はそこも陥落し、彼も自刃かとみえたが、すでに武時を裏切っていた
そこで、菊池党三百人は、ことごとく戦死した。
大将の菊池武時、子息の三郎
このほか、市中から街道すじにかけても、むざんな死者が、かなりあった。
それらの打首は、人目だかい諸所方々でさらされたが、わけて犬射ノ馬場の光景は、あまりにも
むほん人 誰々
と、
これまでにも、何かとよく引用書の名をさしはさんで来たが、この博多日記なるものは、とくに異色のあるものなので、ちと余談にはなるが、あえて余談に入ってみたい。
当時、
僧籍は京都東福寺の法師。
おそらくは九州東福寺領への赴任者として永らくこの地に住んでいた一僧にちがいあるまい。なにしても、この良覚法師は、偶然にも、博多に来ていて、三月十三日の博多合戦を、
思うに、旅人の彼も、旅籠かどこかで、暁の合戦に寝耳に水のおどろきを浴び、血のちまたやら黒けむりの下を逃げまどった群衆の中の一人であったのではあるまいか。
その恐ろしかった見聞を、彼は後日、なんという目的でもなく、ただ目に見た社会事件として、生々と記録していた。
それの用紙には、
――東福寺領肥前ノ国
といったような文書の
だから博多合戦は、後醍醐の隠岐脱出や、また船上山の合戦などからみれば、比較にならないほど小さい一局地の騒ぎであったにかかわらず、その詳細までがよく後世に残されたわけなのだった。――それとまた、筆まめな良覚法師は、合戦以外の、いくつかの哀話や
その戦後哀話の一つ。
ここに。
そのうちにシトシトと晩春の雨が降りけむる夜などには、たれいうとなく、青い陰火が燃えるといったり、断末の声がするなどという噂も立ち、いつかそのあたりへ立ち寄る者はなくなっていた。
すると四月四日のこと。
ひとりは年のころ四十
「……オオ」
水晶の数珠は、はらと、その足もとに落ち、全身をきざみ上げる悲泣に被衣は脱げて地にまみれた。
その様子に、ふと、異常を感じたのであろう。連れの年上の婦人もまた、
「あ……?」
と、かろい叫びをあげ、
「
走り寄って、彼女の
「……
おそらくは婦人は
「ホ、ホ、ホ、ホ」
妙子は袂の片方を空へ振って
そして、何が彼女のひとみには見えるのだろうか、
「ちョめ」
と、袂で交互にそこらを打ち払い、また、やにわに、そこの
「これっ」
「何をし召さる」
と、抱きとめた。
といっても、妙齢なひとではあり、粧いからみても、いやしからぬ家柄の息女とは思われたので、手加減をしていたためか、逆に彼らは、おもちゃのように手玉に取られて地へ振り捨てられ、
「ホホホホ」
狂女は一転、ヒラと、街へ走り出していた。
「や、狂女だ」
「オオ狂美人」
「なんとあの
「やれ、気のどくな」
こんな辻騒ぎがまだ消え去らないうちだった。
ちょうど、よそから帰って来た探題北条英時は、さっそく役人を呼んで、事のしさいをたずねていた。
「女は二人連れと申すが、博多の者か、よそ者かの」
「ついぞ見かけたことのないもので、ひとりは四十がらみの
「何で発狂したのか」
「わかりません。とつぜん犬射ノ馬場で
「して、どこへ?」
「
「……。
英時は、従者のうちの安富
「いずこの何者か、女の宿所をたずねて、たしかめて来い」
「はっ」
と、彼が立ちかけると、
「やよ浄明、腰の大太刀などは
と、言い直した。
「こころえました」
浄明は、すぐ去った。狂女の輿の行くさきを途々人にききながら、やがてその宿をさがしあてていた。
櫛田ノ浜の松原を東へ、なおも松に飽き飽きするほど歩いて、そこも松林のうちだった。――見れば何かの
「はてな」
浄明はゾクと襟もとを寒ム気に吹かれた。
考えてみると、ここは?
つい先ごろ。菊池ノ寂阿入道武時以下の一族が、探題邸へ決死の朝討ちをかける前夜、
それさえあるに、やがておとずれていた一堂の玄関もまたひどく
「さあ何と仰っしゃいますか分りませぬが」
家来は、そういって引っ込んだきり、いつまで顔も見せなかった。つまり取り合ってもくれぬものらしい。といって安富浄明は、主命、むなしく帰りもならず、いつか夕せまる方丈の庭などうろうろしていた。
するうちに、そこの障子の内で、すすり泣くような狂女の気配をふと耳にした。
浄明は、しめたと思い、そこの濡れ縁から障子の内へ。
「もし、ご息女……。いかがなされましたか」
そして、内の
他人の声が狂女にもわかったのか、すすり泣きはすぐやんで、サヤサヤと近づく
「……たれじゃ」
「旅の僧でございます」
「旅の僧とは、どこの旅の僧かよ?」
「されば……」
浄明は、
障子をへだてたままなのである。だから声は今泣いていた狂女にちがいない気はしたのだが、ことばには物狂いの様子もなく、また女性とも思われない。どこかりんとした響きさえあったので、彼は、自分が探題の家臣とはや内の人に
「されば、これは国々の
「なに。鳳儀山の僧とか」
……つづいて。
「やれ、なつかしや」
声のせつなに、障子の内のひとは、みずからそこの障子をサッとあけた。
浄明はその不意なのにおどろいた。濡れ縁を跳び退くやいな、庭面の遠くで片手と片膝を地についた。そしてさて、
やはりうら若い女性なのだが、それは尋常一様な容姿ではない。この世のものではないといえよう。しいていうなら
ホツレ毛を帯びた梨の花のような白い顔は泣いたところだけをほの紅く
「…………」
手にも彼女は男扇を持っている。いや彼女は亡き
「聞きねかし、旅僧……
われは菊池入道の子、三郎頼隆と申す者、童名 菊一とて、有智山 の稚子 にて候 ひし、人みな知つて候ふ……
さるに、菊池の庄にて、新妻を迎へ、わづか十六日と申すに、合戦の沙汰に会ひ、その朝、出陣の袴 を着候ひしに、わが妻、わが袴の腰を当てつつ、あはれ、相構 へて二度 見奉 つらばやと言ふに、我が額の髪を切つて妻に与へ、妻の髪をば、わが守り袋に入れ、犬射ノ馬場にて死ぬ日まで肌身に持つて候ひし……」
見るまにそのさるに、菊池の庄にて、新妻を迎へ、わづか十六日と申すに、合戦の沙汰に会ひ、その朝、出陣の
「ただその日、目ざす敵をも討たで、死にたるこそは、くちをしけれ……
また我れ、息 ノ浜 を打ち出でし時、夜更くるまで酒を飲み、水の欲しく候ひしを、水をも呑まで打ツて出で、炎の中に、斬り死にして候ひし……
水が欲しう候ふ。旅僧、水を給 び候へ。水を……」
彼女は、求めながら庭へ降りて来たが、すぐバタと仆れてしまった。水が欲しう候ふ。旅僧、水を
しかも、彼女はなお、身をもたげて。
「水を、水を……
旅僧、水が欲しう候ふ……
水を給 び候へ」
と、狂女の本相そのものをあらわして叫ぶので、安富浄明は何も思わず、うしろの井戸から水を
すると、ふるえつくように、彼女は二タくち三くち……四くち……さも美味しそうに飲みつづけた。ほつれ毛も唇もしずくにした。そしてこんどは、
「我れ
酒飲み候はん……
おん僧も飲み候へ」
と、またも狂いやまないので、浄明はもう身の立場もわすれ、おん僧も飲み候へ」
「どなたか、おいでください。お内の人、お内の人」
と、大声で呼ばわった。
おそらく狂女の身寄りたちは、彼女が一ト間のうちですやすやおちついているものとのみ安心していた隙だったことなのだろう。
「…………」
浄明は黙って立ち去った。
なぐさめる言葉もなかったのだ。彼はその晩のうちに探題北条英時の前へもどって、見とどけたかぎりのことを、事こまかに復命していた。
「そうか」
英時も
「では察していたとおり、
「は。わざと問わずに戻りましたが」
「そして、
「それも
「頼隆の供養をしてやれ」
英時の命で、まもなく息ノ浜の松蔭に、一つの
「博多日記」はなお、そのほかにも、同じ頃、探題の手に捕まッた菊池方の若党が、いくら
しかし、以上の事柄だけでも、九州における武門の
それと。――当時もなお、筑紫諸豪のあいだには、いまは
そしてまたその地熱は、地底をとおして、
摂津、和泉、紀伊、大和。わけて河内は中心といってよい。
いたるところの野や川すじや
すべて去年の冬いらい、幕府の一令下に出征してきた天下の諸大名あらましの陣旗であった。「太平記」はその景観を、いつもの古典的筆法で、
日本、小国といへど
か程に人は多かりしと
ただ驚かるるばかりなり
と言い、また元弘三年正月の“現地着到帳”の上では、か程に人は多かりしと
ただ驚かるるばかりなり
諸国の軍勢八十万騎
これを三手に分かちて
吉野、赤坂、金剛山
三つの城へぞ向けられける
としているが、しかしもとより数字は誇張にすぎない。じっさいは「これを三手に分かちて
吉野、赤坂、金剛山
三つの城へぞ向けられける
それにせよ金剛山をめぐるわずかな一地方に、五万余という人口の急増率は、山河の形貌も変え、住民の生態をさえ根こそぎ
また、いわゆる戦争景気の異常昂奮も吹きまくッて、それをめあてに、他州から流れ込んで来たいろんな人種も、いつか法外な数にのぼっている。そして軍民のけじめもなく、ここの狂気の土壌を、さらに異常な地熱帯としているさまであった。
「や、なんだ、なんだ?」
「お
「ほ。金儲けやな」
「そんなケチなものではない。たれであろうと、それをなせば、すぐ小大名ほどな身分になれる。どうだ、そこらの衆」
と、ひとりの男は、じぶんの“
一、大塔ノ宮ノ御事
先ニハ、捕ヘ奉レトノ沙汰、再三ニ及 ブモ向後ニオイテハ、須 ラク、誅戮 シ奉ルモ、構 ヒナシ
諸寺諸山、非職員ノ住侶 、又、タトヘ凡下放埒 、与党賊徒 ノ輩タリトモ、忠節ノ実 ヲイタス有 ラバ、賞トシテ、近江国麻生 ノ庄ヲ宛 テ賜ハルベキ也
二、楠木兵衛尉 ノ事
右、正成ノ首、持参ノ者ニオイテハ、丹後国船井ノ庄ヲ宛 テ行 ハルベシ
賞ハ、卑賤 ニ依ラズ、一切仔細ニカカハラザルコト、同前ナリ
おそらくこの公示は、各地に建てられたものだろうが、朝夕、金剛山をすぐ目の前にしている河内石川、先ニハ、捕ヘ奉レトノ沙汰、再三ニ
諸寺諸山、非職員ノ
二、
右、正成ノ首、持参ノ者ニオイテハ、丹後国船井ノ庄ヲ
賞ハ、
「やっ、親分。もしや
「えっ?」
気をとられていた高札から眼をふりむけて、
「なんだ、
そこの辻を、石川河原の方へ下がった所に、戦場が生んだ“
生きるにたくましい散所民の男女が、寄手の雑兵目あてにムシロ小屋や野天売りを張っているもので、もしここも合戦の場となれば、風のごとく小屋をたたみ、またどこかの野ヅラに一夜で市を開いていた――。それは
「飲まねえのか。おい」
忍ノ大蔵は、相手へ言った。
小酒屋めかした野天の腰かけ板へ、
「権三」
「へい」
「まさか、牛の肉は食いませんなンていう
「へ、肉だけをいただきます」
「なぜ飲まねえんだよ」
「でも、あっしはすぐ顔へ出てしまう方でしてね。親分もご存知のように」
「いいじゃねえか。酔のさめるまで、そこらの草ッ原でころがって
「ところが、今日はそうしちゃいられねえんです。へい。……本庄鬼六さまから、千早城の真下にいる寄手の、名越遠江守さまのお手許まで届けろといわれて、大事な物をおあずかりして来た途中なんで」
「そうかい」
ふンと笑っただけで、わる
「どうも親分、ヘンに他人行儀をいって、申しわけございません」
「お役目の途中じゃ仕方がねえ。……だが権三、今日はひょんな所で出会ったな。別れて三年ぶりだろ」
「まったく、びっくりしましたぜ、あの高札場の人込みで、ひょいと、お見かけしたときは」
「おれだって、ぎょッとしたよ。たしかその三年前か、
「そいつあ、親分も同じですぜ。
「はははは。するとおたがいは、
「いったい親分はどうなすったんです。……あれは先おととしの元徳二年の三月でしたぜ」
「そうだ、山伏の八荒坊と姿を変えて、日野俊基のあとをつけまわし、高野街道から
「それから先は」
「いやはや、面目ねえ。ま、もすこし
なるほど今日の大蔵は山伏でもない。半袖、半袴、
大蔵はしじゅう辺りへ眼をくばる。いつまでも黙っている。
権三へ話しにくいわけでもなく、酔を待つのでもないらしい。腰かけには、ほかの客もいたからだった。
「権三、出よう」
「ここがいい」
やっと河原べりの傾斜を見つけて、彼は鮎の石焼きみたいになって寝そべッた。二月の若い草が、石コロの間々に青かった。
「権三、寝ころべよ。坐ッてるなんざ、人が見てもおかしいや」
「へい」
ぜひなく、権三もずんぐり太い体を腹ン這いにして、ふと。
「何だか、こうやってると、天気はいいし、金剛山の楠木勢の眼からここの二人が見えるような気がしますぜ」
「ほんとだ」
山を振り仰いで、大蔵も一笑した。
そしてその眼を、河原の蔭の小さい支流の岸へやった。ふと人声がしたのである。
散所民の女子供たちが、
おそらくは必死な稼ぎなのだろう。――合戦のあるたびに、戦場のあとから谷やら峰道を、暗夜、命がけで
だから彼らの貧土には、この大乱もまったくちがう意味の
「…………」
大蔵は急にその頬杖を
「おい権三。おれのつらは変ったろ」
「変ったどころか。こうしていても、いぜんの忍ノ大蔵とは思えませんぜ」
「そうだろう、この
笑うと、その赤黒い痕は、一そう彼の顔に凄味を加えた。右びたいから眼の下の頬へかけての
かつての年、楠木
という仔細をかたって。
「じつはな、権三。……それからずっと、おれはいま言った加賀田の隠者に飼われて来たんだよ。意気地のねえはなしだが」
「それはまた、どういうわけで」
「どうたって仕方がねえ。あっちが偉すぎて、こっちが背イ足らず、人間と人間の勝負で負けたというまでのことだ」
「たしか加賀田の隠者ってえのは、正成、正季に兵法を教えた師匠だとかいうこってすが」
「そうよ、それほどな爺さんだ。おれが参ッたのも、むりはねえと察してくれ」
腹ン這いと腹ン這いとが並んで、寝牛のような二人だった。大蔵が言いつづける。
「とにかく、その加賀田の隠者は、おれには命の恩人だった。あぶなく楠木正季らに殺されるとこを助けてくれて、まア山荘の下男にでも使ってやるからというままに、それなりずっと山に飼われて来たわけさ」
「じゃあ今では、山荘の下男勤めをしてるんですかい」
「そんなンじゃねえ」
声をゆがめて、
「あいかわらず、俺あ、伊賀者の生れつきにものをいわせて、
「へえ。……あれッきり六波羅へも帰らずにね。いったい、誰のためそんなクソ働きをしてるんですえ?」
「知れたこッた。人間、
「だけど、あの世捨て人が、なんだってまた、そんなに戦のもようを知りたがるのか。そして隠者の腹は、宮方なのか鎌倉方なのか、そこはいったいどうなんです?」
「いや、あの毛利時親ッてえ爺さんには、宮方も関東もねえんだよ。……ただの学者さ、兵学者だ。……家につたわる大江家伝来の和漢の軍書にとッ
「なるほどね」
「ところが今、目のさきでは、兵書の理くつではないほんとの
急に、大蔵は身をおこした。そして相手が痛い顔するほどその腕くびを握りしめた。
「なあ権三。それよりは、さっきおめえは、寄手の名越殿へとどける大事な物を持ってるといったッけな。なんだいそれは」
「え?」
権三は急にふところを意識して
「ままよ親分だから言ッちまいますがね、じつあ、自分たち放免組が
「ふム。ちょっと見せねえか」
「何をで」
「その水ノ手の何とかをよ」
「じょ、じょうだんでしょ。親分、そいつだけは、かんべんしておくんなさい」
「見せられねえってのか。じゃあいい」
大蔵は突ッ放すようにいって、そっぽを向いた。
が、その横顔のけわしさに、権三はふるえ上がらずにいられなかった。“
「親分、怒ったんですかえ」
「怒りゃあしねえよ。ただこっちは、いぜんの
「すみません、親分」
「なにがよ」
「そうお気を悪くなさらねえでおくんなさいよ」
権三は腹巻をゆすぶッて、革の
「なにしろ、お見せしようにも、こう
「いいのかい」
「へ。どうぞ」
言った下から。
「あっ親分」
「なんだよ、おれの手を抑えやがって」
「封蝋を破ッちゃいけませんよ。権三の首がなくなります」
「なんでえ、その泣きッ面は。もうまにあわねえよ。封蝋は破ッちまった。……だが、てめえの首はおれがスゲ替えてやるから心配するな」
無造作に、大蔵は股ぐらのうえに、中の物をひろげだした。
名越遠江守どの御床几 へ
と宛ててある。ゆらい敵の金剛山には、
とよばれる水みちと、
七ツ井戸
の給水源があるのだとは、敵味方なくいわれていた。
事実、半年ちかくも山上にたてこもりながら、すこしも楠木勢におとろえがみえないのは、その水ノ手の確保にあると、寄手方では観察している。
すでに、力攻めでは、何千人もの死傷を出して、攻めあぐねのかたちだった。ところがこの二月一日、寄手は初めての凱歌をあげた。
楠木勢の前線のかなめ、すなわち金剛山の中腹の
これは、
「どれ、行こうか。権三」
「ど、どこへです親分」
「だまってついて来い。……こいつはおれが預かっとくぜ」
「じょ、じょうだんを」
「てめえこそ腹をすえろよ。さっきの
権三の異名は
が、じつは貪欲でまた
「やい」
立ちどまって、再三後ろへ。
「早く歩かねえかよ。おい」
「だって親分」
権三は半分泣き面だった。
「いったい、どこへ行こうってんですか。どこへ」
「もう一ぺんさっきの
その高札場の辻は、もう彼方に見えていた。入れ代り立ち代り、さっきとも変りのない人群れだった。
――まぎれ込んで、大蔵は、権三の顔のそばへ顔をよせる。
そして小声で、
「……よしか。初めが『大塔ノ宮ノ御事』ってんだが、それはおいて、次の『楠木兵衛尉ノ事』。そこだけ読むぜ。
右、正成ノ首、持参ノ者ニオイテハ、丹後国船井ノ庄ヲ宛 テ行 ハルベシ
とある。権三、わかるか」「…………」
「それから次の文句には
賞ハ、卑賤 ニ依ラズ、一切仔細ニカカハラザルコト、同前ナリ
つまり大蔵は、相手の腕をくむばかり寄りそいながら、またすぐ辻を捨ててズンズン山の方へ歩き出していた。
山とはもちろん金剛山のことでしかない。けれど金剛十方の裾はひろい。麓の村々から上へ越え出ても、さらに丘あり断層あり、また峰から峰がるいるいと重なっていて、どの辺が千早、金剛の主峰なのやらも、ふと、山ふところでは分らなくなるのであった。
「権三」
「へ」
「いやに元気がねえな」
「むりでサ親分。いったい、あっしをどこまでお連れなさるおつもりなんで?」
「来てるじゃねえかよ。ここはもう金剛山の内、桐山の大根田部落だ。……ム、どこかそこらの峰で一ト息つこうぜ」
ここまでには、もちろん寺元村の木戸、観心寺の
それらの木戸ではいちいち当然な訊問をうけるが、そのたび権三は六波羅
「どうだい、ここの見晴らしは。山は大繁昌という景色だな」
大蔵は腰をおろした。そして、大金剛の西面から北面、また頂上の空までを見上げ見下ろして権三へ言った。
「ここから眼に入るだけでも、何万人ていう寄手の軍勢だ。花なら一目千本といえるが、みんな鼠色になった旗やら
しかたなしに権三も、大蔵に
「……面白くもねえ」
と、いった顔。
その彼にかまわず、大蔵はひとり、ここからの
赤茶けた山火事の
「ああ、やっぱり
大蔵は嘆声をもらした。
「上赤坂は、金剛山のヘソ
彼が何を見、何を思うのかは分らない。
が、彼の眼を仮りて、ここで大金剛一帯の守備と寄手の配置とを見ておくのは、無用であるまい。
大蔵がいま、
「上赤坂は金剛山の
といったが、いみじくもよく言った。おそらく楠木正成は、そこを正面防禦の中心として、全山にわたる他の幾ツもの
しかしその要害も、攻防共に、
正季が脱したその逃げ道は、上赤坂の三面の谷あいを除く一条の馬ノ背道の
が、そのあたりも、いまは全面にみな、勝ちほこった関東勢の占領下だった。
そして、上赤坂のあとには、総大将の
また猫背山には田村
七ヶ瀬に桜田三河守。渋谷安芸。さらに本間山城守は吉年村近傍に。
そのほか、関東の大族、
その千早の下へ、もっとも近々とせまって、対峙している寄手は、
大仏陸奥守の一軍
金沢右馬助の数千騎
名越遠江守のそれにまさる一軍団。――ほか遊撃隊の五百、三百、あるいは百ぐらいな侍によってなる、いわゆる無数な小隊の
これが、遠くは麓の観心寺や
それにたいして、千早には、正成、正季の下に、どれほどな守兵があるのか。
忍ノ大蔵は知っていた。
わずか千か、せいぜい千二、三百をこえていない。
大蔵の眸は、その
五、六万騎とみえる寄手に、千早城の一千人は、五十対一でしかない。いかになんでも少なすぎる。
けれど、上赤坂も陥ち、さいごの千早も籠城百日をこえた頃には、もっと少なかったかもしれないのだ。
それが事実である。
かつては“金剛山大要塞説”という、おそろしく幻想的な過大視もおこなわれていた。徳川時代の兵法者流の錯覚である。また明治、大正以後の極端な
たとえば、それによると。
河内金剛山の海抜四千尺から、前面の石川平野、大和川、住吉、堺までを作戦地域とし、
装備、食糧、運輸、そんな兵力がうごかせようはずもなし、またついきのうまでは、
正成死せり
と世上にいわせて、身をひそめていた彼なのだ。
いかに、彼にたましいの光があり、錦の旗があったにしろ、すでに関東の大兵が山野をうずめ、それも新朝廷をいただいて、逆に楠木をさして、
賊軍
と呼んでさえいるのである。どうして畿内の武士があげて正成の
かりに、もっと譲って。
正成がそれほど兵力を持ち、そして、数十の“連珠式大要塞”の構想をじッさいに配置していたとしたら。……これはおかしい。遠征の関東五、六万騎などは、随所で粉砕していなければならないし、からくも千早一城をささえたなどは、特にたいしたことではなくなる。つまりはひいきのひき仆しというものだろう。
とまれ、是非の論はいらないのである。論をなしたい人は、秋でもいい、春でもいい。金剛の細道を幾うねり登ッて、今日でもあまり山容の変っていない千早の
だから当初の配備は、
上赤坂城に、楠木正季、平野
千早の
北山
また遊撃隊として、点々の小隊が、諸所の
そんなものではなかったか。
そのうえ上赤坂城はすでに陥ち、平野将監らも
ただ以上のほか、金剛山の絶頂にある転法輪寺では、公卿の四条隆資が指揮をとって、そこの山伏党をつかっていた。山伏の働きはすべて“陰の活躍”だったのはいうまでもない。
「……おう、いつのまにか霧が巻いて来たぜ、権三」
大蔵は腰を上げて。
「千早の内へ入り込むには、夜でもなくッちゃ危なッかしいと思っていたが、この霧はおあつらえだ。すぐ行こう」
「えっ、千早へですッて」
「そうよ。正成の首を狙うには城中へ入るしかあるめえが」
「ちょっと待っておくんなさいよ。いくら親分だって、そいつはちと」
「二の足か」
「滅茶ですよ、何ぼ何でも」
「いやおれには方寸がある。権三、てめえはまだびくついているな」
「だって」
「じゃあ打明けてやろう。さっき、てめえから預かった水ノ手の調べが、正成へ近づくいい口実のタネになる。もしあれが寄手の名越殿へ渡れば、千早城はおそかれ早かれ落城だ。……だからそれを手土産に正成をよろこばせ、隙をみて寝首を掻くんだ」
「そ、そんなことで、寝首をかかれる大将でもねえでしょう。それに、こち
「おいおい、権三。てめえは俺をまだいぜんの放免頭と思い違いしてやしねえか。おれの名は六波羅放免組からは、とうに消えているんだぞ」
「それやあ知ってますよ」
「そしてだ。三年が間も、おとなしく加賀田の山荘に仕えてきたんだ。――だからこの大蔵はすッかり改心した人間とおもわれて、楠木兄弟にも深く信用されているんだよ」
「へえ?」
「こんど、吉野から帰って来たのも、加賀田の隠者へ、報告かたがた、千早のうちへも、べつな一ト役をおびているんだ。――その上によ、寄手に渡る水ノ手の秘図を、以前の仲間の者から手に入れましたと、正成へ届けてやってみろ。どんなに頼もしく思うか知れめえ」
「…………」
「権三、
もう深い霧の中を歩いて行きながらの話し声なのである。
霧は、二人の声さえも、数歩のほかには出ない白い壁をなし、灰色の二つの影を、やがて
「……?」
這いすすんで行ってみると、それは屍を焼いている火であった。山とばかり薪を積み、戦うごとに数百数干の屍を運んで来ては、仮の