醤油仏

吉川英治





 五月雨さみだれは人を殺す? ……
 人入れ渡世の銅鑼屋どらやの亀さんの部屋にいる、日傭取ひようとりの人足達も、七人が七人とも雨で、十日も仕事にあぶれて、みんな婆羅門ばらもんの行者みたいに目をへこましていた。
 左次郎は隅っこに寝ていた。
 うすい蒲団へ柏餅かしわもちにくるまって、気の小さい目をしながら、みんなの馬鹿話を聞いていると、何時までも飽きない気がする。
 話というと、この部屋では、色気と食い気よりほかになく、就中なかんずく、十日も仕事がなくなっている時は、食い気の方の話に花が咲いて、勘、竹、由、うし、六、三公、みんな胃袋そのもののような顔をして、
「馬鹿ア言ってやがら、化物じゃあるめえし、一人で蕎麦切そばきり三十ぱいに笹屋のさばずしを四十五なんて、食える理窟があるもんか」
「いや、食おうと思や、食えるさ」
「命がけだって食えねえ」
「なに食える」
「食えねえ」
 と、食い意地の張った話から、果ては、賭食かけぐいのことでつばを飛ばし合っている様子だった。
 すると、三公が言い出した。
「おれの国にゃ、蜜柑みかんを一箱、食えるか、食えるもんかで、かけをした奴があったっけ」
「蜜柑の一箱ぐらいなら、おれだって、今すぐ此処で食って見せる」
「皮も箱も縄も、きれいに食ってしまうんだぜ」
「そ、そいつあ、無茶だ、賭にならねえ」
「ところが、食うと言って勝った奴があるから妙だろう。その代り条件があった、どうして食ってもいいという条件があったんだ」
「へえ、でも、食ってしまったのかい」
「蜜柑の実を食う前に、皮と縄と箱を焼いて、灰を団子だんごにしてペロリとやってしまった。食われた方の奴は、五両賭をしたんで、世帯をつぶしてしまやがッた」
 三公の話が終ると、うしが待っていたように口をとがらして、
「――だもの、この番附だって、嘘とは言えねえぜ」と威張りだした。
 仲間はずれになって寝ていた左次郎は、何かと思って、亀首かめくびもたげてみると、丑がみんなの前にしわをのばして見せつけているのは、乾物袋になっていた番附の切れっ端「御世みよ泰平鼓腹こふく御免、大江戸大食番附」
 という反古ほごだった。


 近年、柳橋の万八や中洲の芝清しばせいなどで、賭食かけぐいではないが、大食競べの催しが度々あった。
 一方では黒船を打払え、佐幕がどうの、勤王方が旗上げするのと、騒いでいるから、御禁制の布令ふれが出ても出ても、岡場所にかく売女ばいたは減らないし、富興行はひそかに流行はやるし、万年青おもと狂いはふえるし、強請ゆすり詐欺かたりは横行するし、猥画わいが淫本いんぼんは相変らず秘密に版行されて盛んに売れるという世の中。
 そんな江戸の時世でいながら、銅鑼亀どらかめさんの部屋にいる日傭取ひようとりなどは、食う話ばかりしていて箪食壺漿たんしこしょうにたんのうしたことなどは夢にもない。
 だから番附に勘亭で刷ってある「御世泰平鼓腹御免」なんていう文字をみると、躍起になって、しゃくにさわってこんな番附が当てになるもんけえ――と言いたくなる。
 だが、奇矯人ききょうじんの大食会が流行の因をなして、この手輩てあいの仲間にも、この頃の賭食かけぐいは一つの流行はやりものになっているので、その反古に書いてある、筆頭連中の名は偉なる英雄のごとく見えて、のし餅十枚に煮小豆にあずき二升を平げた大関や、大沢庵十六本以上とかかじってみせた小結の肩書には、自ら敬意を表したくなってしまった。
 そのなかで、ひとり土俵死という印のついた名があった。
「おや、こいつあ、たった醤油を七合飲んで死んでやがる」
 三公が、そのはかなき名を見つけ出して笑いこけると、年長としかさの由造が、尤もらしく首を振って、
「うんにゃ、醤油しょうゆを七合飲んだのは偉い」
「どうして偉い? 七合くらい、酒だと思って飲みゃあ」
「ばかを言え、酒とちがって、四合も飲みゃ眼がくらんでしまって、カーッと逆上あがると何が何だかわからなくなる。俺も一度醤油賭をして、二合五勺まで飲んだが鼻血が出ちまってあとの二合が飲めなかった。それを七合も飲みゃあ死ぬのは当りめえだ。第一他のものならいいが醤油を飲ませた行司が物の分らねえ奴だ」
「そうかなあ」
 と、一同は由の該博がいはくに感心した。ところが感心しない者がひとりいた。割合にむっつりな六である。
「だってお前、おれが一度仕事に行った浜町の砂利場にゃ、平気で一升がけをする奴があるぜ」
「醤油をか?」
「そうよ、一升賭をしちゃ、きっとペロリとやって、そいつに勝たれてしまうんで、誰でも相手にしねえっていうくらい、評判になっている男があるんだ」
「おかしいな、それで生きてるかい」
「何ともありゃしねえ、毎日砂利場か、深川の佐賀町河岸へ荷揚げに出て来るから確かなものさ」
「嘘だろう、どう考えても、醤油を一升も飲みゃ死ぬ筈だ」
「だッて、現在、生き証拠があるんだから為様しようがあるめえ。嘘だと思ったら今度行って、賭をやってみるさ」
「よしきっとやってやる。なんてえ男だ、そいつあ?」
「佐賀町で、醤油賭の伝公といや、知らない者はない。だが伝公は小さい勝負じゃ、首を振るぜ」
「一朱か二朱か」
「何しろ、その帳場にいる者が、十五人二十人と組んで二両とか三両とか束になってまとめなくっちゃ、どうしてもやろうと言わねえそうだ」
「そんな事を大きな口を叩いて、もし伝公が負けたらどうするんだ。まさか水揚人足や砂利場の軽子稼かるこかせぎで、一人で二両三両という金は出せまい」
「ところが、その伝公って奴は、なかなか金を持ってるんだとよ」
「ふーむ……」
「だから誰も、ツイ追目になって、引ッ懸るんだというから面白いや」
「ひどい野郎だな」
 みんなが笑うのに釣込つりこまれて、左次郎もウッカリ蒲団の中でクスクス笑った。
「おや、いたのかおめえ」
「はい」
「いい若い者のくせにして、物臭え男だな。雨があがったから明日は仕事にありつけら、元気を出せよ、元気を」
「どうも、しばらく休んだせいか、体が痛くって……」
 と左次郎はまた、油気のない前髪の頭を見せただけで、夜具の中へ丸まってしまう。
「左次さん」――そこへ、大坂格子の向うで、銅鑼亀どらかめのお内儀かみさんの声がして、
「親方が呼んでるよ、ちょっと奥へ来て貰いたいって」


「お前さん、お武家の息子だね」
 銅鑼屋どらやの亀さんの前に坐ると、いきなりこう云われたので、左次郎はまごついた様子だった。
「そう見えましょうか」
「見えるな」
 と、銅鑼亀はそこで一服って、質草を包んでいる女房の出かけてゆくのを待っていた。
 親方の米櫃こめびつからだとみえる。――左次郎はそんなことを考えながら、銅鑼という通称をとった彼の菊花石あばたを眺めていた。
「失礼だがお前さん、何か、敵討でも望んでいる身の上じゃないのか」
 急に声をひそめられて、左次郎はいよいよあわてながら、
「飛んでもない、決して、左様な者じゃございません」
「だが、お侍のお伜だろう?」
「はい、そりゃあ」
「幾つ? お年は」
「十九でございます」
「その青白い蒲柳きゃしゃな体で、日傭取稼ひようとりかせぎはこてえましょう。うちの部屋へ来てまだ二月くらいだろうが、たとえ二月の間にしろ、よく働いたもんだと感心する。またその辛抱は、何か希望のぞみがなければ出来ない芸だとおれは思うが……」
 左次郎は畳のチリをむしっていた。
 垢のついた仕事着にちょッ切帯きりおび、身なりはひどいが、襟元の奥が肌白く見えて、この寄子よりこ部屋ではどうしても掃溜はきだめに鶴。
「ほかの事情ならなおのこと、打明けても差しつかえあるまい。ろくな力にもならない癖に、江戸の人間の悪い性分で……どうも聞かずにいられない」
「では親方、ほかの者には、内緒にしておいて下さいまし」
「だれが、他人ひとになんぞ話すもんか」
「実は少し、尋ね物があって、殿様からお暇を戴いて来た体でございます」
「それ見ねえ、おれの眼は、やっぱり違っていなかったのだ。して国元はどちらだね」
「鳥取の池田家に仕えます者で、はい、因州です。父は納戸方なんどかたで七十石ほど頂戴しておりましたが、先頃死亡いたして、家名もそのままつぶれかかっているような次第で」
「意気地のねえ話じゃないか、お前さんに跡目がげないのか」
「でもございませんが、実は、私の養母お咲と申す者が、六年程前に仲間ちゅうげんひとりを連れて上方かみがたへ出ましたまま、とうとう帰宅いたしません。――ところがその節、同藩の重役から二百金の金を預かりまして、烏丸からすまの某家から譲り受ける約束をした元贇焼げんぴんやき花瓶はないけ安南絵あんなんえの壺を受け取って来てもらいたいとの事で、ついでに、頼まれて出立いたしました」
「なるほど」
「然るに、養母のお咲も、同行した仲間の一平という者も、そのまま鳥取へ立ち帰りませんのみか、頼りも沙汰もなく、足かけ六年打過ぎてしまいました。当惑したのは、貧困な父でした」
「そうだろうとも」
「おまけに生来病弱であったため、それを苦患くげんにして、幾分天寿てんじゅを早めたかと思われます」
「で、その金の方も、安南絵の壺とかも、いまだに話のかたがつかねえという理由わけかい」
「一方の方は父の上役ゆえ、きびしい御催促もなさいませんが、何せい、家中ではとかくな評判が立ってしまい、また、元贇げんぴんの安南絵の壺も、前に一度殿様のお耳に入れてあってぜひ見たいという仰せのあった品物ゆえ、今さら、養母がそれを持たずに手ぶらでは帰れぬ事になっております」
「ふーむ、成程、厄介な筋だな。それじゃお前さんも、安閑あんかんと跡目願いも出されまい」
「まったく、私も、実に困ってしまいました。実の母なら気心も分りましょうが、何しろ、十二、三の時に、たった二年程しか、一緒にいなかった養母ははなんで」
「家中の評判っていうのは、どんな事を言い立てているのか、お前さんも小耳に挟んでいなさるだろうが」
「それが……」と、左次郎は急に口籠くちごもって、赤らめた顔を俯向けながら、
「お咲殿は帰るわけはない、以前から、仲間の一平とは主従以上に親しかったから――という風に申します。父の病体も永年のことゆえ、そんな噂が立つのも道理かと思われます」
「ウム、ウム、大きに」
 と、銅鑼亀親方の世事に馴れた考えも、それと一致したものか、二つばかり頷いた。
「で、左次さんが、国元を出て来たのは」
「何でも、この江戸表にいるという噂があるもんですから」
男女ふたりが?」
「左様でございます」
「しかし、六年もって、尋ね出したところで、安南絵の壺を持歩いているわけもなかろうし、金もねえと来たひには、どうにもならない話だろうぜ」
「武士ってうるさいものでして、家中の者たちは、左次郎も十九になれば、父の怨みを晴らすだろうとか、不徳な養母をあのままにして置く法はないなどと申します。また、縁類の者は、所詮、二百金の大枚を御返却することは出来ぬし、また殿様のお耳にも入っている品物の事だろう。その壺を手に入れる法がなければ、せめて、仲間の一平の首だけでも持って鳥取へ帰ってくれと、こう因果をふくめられました。――で江戸へ出て参りましたが、もう路銀も尽きました上に、養母のお咲と一平が、どこに暮しているものか、皆目、見当はつきませず、途方に暮れた末親方の部屋でお世話になるようなことになりました」
「そうか、じゃ二百両もする安南絵の壺よりも、その一平という奴の首を探して帰った方が、侍らしいし、第一、無償ただだから手に入れ易いというものだ」
「ところが生憎あいにくなんです」
「何が生憎だ」
「父が弱かったせいか、私も御覧の通りな虚弱でして、所詮しょせん、左様なことが出来るかどうか、心配に堪えませんので」
「おいおい左次さん、七十石の小禄でも、侍の息子じゃねえか。しっかりおしよしっかり。体が弱いと思ったら、日傭を稼いでいるうちに、ウンと天秤棒てんびんぼうきたえておくさ。相手が腕利きの浪人とか何とかじゃ、少し困るが、なアに、おめえ、もと仲間している男だっていうなら、どんな頑丈だって多寡たかのしれたものだ。居所の分ったときは、俺も腕をかしてやる」
 銅鑼屋の亀さんは乗り気になった。
 梅雨もあがりそうなので、明日の仕事を見越し、質屋から帰って来た内儀さんに、酒を買わせた。
 湿気払いを飲んで、羅漢らかん雑魚寝ざこねのように高鼾たかいびきになった寄子部屋の隅っこで、左次郎だけはマジマジと眼をあいていた。
 そして、寝入ったかと思うと、何かしきりに、囈語うわごとを言っていた。


 部屋で一番元気者の三公がしおれていた。
 毎日、稼ぎに出ていながら、湯にも行かずすしの立食いにも出かけず、粉煙草をハタいて、ふさぎこんでいる。
「おい、どうしたい」
 うしや由造が訊くと、とうとう白状した。
「実はやられちまッたんだ」
「やられたって、何をよ」
「伝公と醤油賭をして、この間の前借をみんなアッパッパにしてしまった」
「こん畜生」
 背中をどやしつけて――
「人に黙って、抜け駆けをしようとするから、そんな目にやがるんだ。ざま見やがれ」
 と、笑って、兄弟分のために、奉加帳ほうがちょうを廻した。
 それで、当座の煙草銭が出来たので、三公はすっかり元気が恢復して、太平楽にその晩、寝物語でこう話した。
一昨日おととい、深川の帳場で、例の伝公と一緒になった。しあいいのに昼休みに、オイ伝公、一升五合飲むなら二両賭をしてやろうと言い出しゃアがった。すると伝の野郎フンていうようなつらして、一升五合なら五両賭でなくっちゃ嫌だとかしやがる。そこで、一升三合で折れ合って、始まることは始まったが、二両と来ちゃ大金なんで、此方組こっちぐみが頭数が足らなくなった。そこで、おれもツイ誘い込まれたというわけさ」
「そしてどうしたい、伝公は」
「いつもより三合も多い醤油をどんぶりに入れて、ツウときれいに吸ってしまって、今日は二両の日当になったから、左様なら――とか何とか、涼しい事をかして、半日で帰ってしまった」
忌々いまいましい野郎だな」
「聞いただけでも忌々しいだろう。だもの、おれの身になってくれ、口惜しくって、寝つかれねえ」
「もう止せよ、これにりて」
「意地だ、こんだあ一升五合賭をやって、あいつに血へどを吐かしてやらなくッちゃ虫が納まらねえ」
「だが、不思議だなあ」
 もう寝たのかと思っていた由造が、突然、尻ッ尾の方でうなっていた。
「勝ち負けはとにかく、それで生きてるっていうのが余っ程不思議だよ、何しろそいつは、ただの人間じゃねえぜ」
 それ以来左次郎は、醤油賭の話ばかり耳にしていた。で、方々へ仕事に出る度に、それとなく伝公の姿を物色する程になっていたが、まだ、一度も見かけたことはない。
 浜町の砂利場へ廻されて来た日だった。
 ここの仕事は荒っぽいので日傭ひやといでも肩肉の盛り上がってるのが揃っている。
 で、常に仕事先をかばっている亀親方が、左次郎だけは、わざとここへ廻さないようにしていたが、ほかの出先が途切れたので、しばらく辛抱してくれという話だった。
 二の丸のお城普請ぶしんへ行く玉川砂利をこの河岸で上げる。
 小普請の役人が、床几しょうぎに掛って見張っていた。
 砂利場使いのパイスケ二百本ぐしが一人前の仕事。舟から河岸へ一荷ごとに担いでゆく度、小頭から竹箆たけべら一本ずつ渡されて、それが夕方の勘定高になる。
 体のいいのは一人半も串数を稼ぐ。
 腕っこきという帳場だから、みんなわき目もふらない。
 汗をダクダクしぼって、砂利の音、足どり、掛声、すべて一種の調子に乗ってくる。
「どじ! 何をしてやがるッ」
 おかの砂利山で、突然荒っぽい声がした。
「なんだ此奴は、さっきから人の鼻ッ先にヒョロヒョロしてやがって、後がつかえてしようがねえ」
「どうも済みません、不馴れなものですから」
 左次郎は鼻で息をしながら、青白くなっていた。
「ばか! 馴れねえと承知していたら、こんな帳場へ臆面もなく稼ぎに来るな。どこの馬の骨だ、てめえ」
銅鑼どら屋の亀さんの家におります」
「銅鑼屋の部屋にも、てめえのような意気地なしがいるのか。明日は、米の飯を食ってくるんだぞ」
 朝の二刻ふたときばかりで、すッかり肩の皮がけ、ヒリヒリと熱をもって来た。かれは、汗をふくようにみせて、始終涙をこすっていた。
 充分気をつけていたつもりだが、何しろ、二刻もつづくと、腰の骨が持ち耐えられなくなって、また誰かの足元へ、ドサッと、天秤てんびんを落してしまった。
 ハッと思うと、途端に、
「ヒョロがえるめ!」
 と、左次郎は、砂利場のますから下へ蹴飛ばされていた。
 するとそれを見た一人の男が、左次郎を蹴って行った軽子のうしろへ呶鳴りつけた。
「やい! やい! 大人気もねえ真似をするないッ。前髪じゃねえか。少しゃ庇ってやるもんだよ」
 男もやはり砂利場の仲間だった。
 腰をさすって、ぼんやりしている左次郎の側へよって来て、
「おい前髪のンちゃん。おれが介添えしてやるから、気をおとさずに稼ぎねえ。それにパイスケの縄をこう詰めてしまうから余計に足の調子が取れやしねえ、どれ、直してやるから持っておいで」
 と、自分の天秤を肩から投げた。


 男は親切に、それから絶えず左次郎のうしろにいた。
 天秤を前寄りに肩へ当てて、後荷の縄の一端をうしろの男に持って貰ったから、左次郎は前よりも楽になり、足の調子もよくとれた。
「お蔭で、今度は楽になりました」
 昼飯の時、そばへ寄って、改めて、礼をのべると、
「まだ、そんな肩をしていちゃ、砂利場の仕事は無理だからな」
 と、男は三人前もある弁当箱を抱えて、うまそうに頬張っていた。
 弁当箱も大きいが、男の恰幅かっぷくもすばらしい筋肉で出来上っていた。硬緊かたじまりに肥えて、骨太で、上背丈うわぜいがある。年頃は三十二、三という見当。
 左次郎は、この男のザラザラした毛脛けずねも、日に焦けた皮膚も光る目も、すべて親切気に富んだ特質のように見えて、一ぺんに頼もしくなった。
 なお、話しているうちに、どこか因州訛いんしゅうなまりのある男のことばも、一層、この境遇と他郷にあるかれの心に、ある慕わしさを起させた。
 ふと、吸っている煙草入れを見ると、それも鳥取の古市ふるいちで名産としている漆革細工うるしかわざいくなので、
「もしも、貴方は鳥取じゃありませんか」
 男は、砂利の中へ落していた火玉を煙管きせるで掻き分けていたが、ひょいと、横に顔を上げて――
「なぜ?」
「でも、古市の漆革を持っておいでですから」
「ウ、これか……」と、煙草入れを見直して、
「こりゃ、四、五年前に、誰かの土産みやげに貰ったのよ。……するとおめえは鳥取かい?」
「いいえ」
 左次郎は自分が訊ね出したことにあわてて、
「私も鳥取ではございません……」
 少し男の機嫌が悪いように見えたので、その話はそれなりにして、口をつぐんだ。
 だが、昼過ぎの仕事にも、かれの親切気は変りがない。
 何かに、面倒を見通してくれた。
 夕方も、
「おい、おれの分を少しやるから、勘定場へ持ってゆきねえ」
 と、自分の竹箆たけべらを減らして、数の少ない左次郎の方へ足してくれる。
 辛い仕事場が、左次郎には、一日ごとに楽しみになった。朝、砂利場への河岸で、男の雄大な体躯を見るのが、かれのその日を心強くする上に、なくてはならない物になった。
 そんな風に、左次郎の心に少し余裕がついて来て、ちょうど十日目頃。
 何時も、部屋は三筋町なので、大川端から新堀を一本道に帰るのだが、親方の言伝ことづてを頼まれて、本所の同職の家へ廻り、少し遅くなって、葉柳の闇が狭く水をつつんでいる割下水わりげすいの辺まで来ると、――
「もし……」
 と低い声で、誰か呼んだ。
 白粉おしろいの濃い女である。
 白い手が、柳の蔭で、招いていた。
 左次郎はオドオドしながら、ちょうど、人通りがないので、後へ戻った。この辺に、夜鷹よたかが出るということや、夜鷹の相場や、夜の女の様々のれ話は、いつも部屋の者が話すのを聞かない振りをしつつ、ある好奇心が熱心に覚えさせていた。
「ね……」
 夜鷹は鼠啼ねずみなきをして、
「ね……ちょいと」
 ニッと、みだらな笑みを向けた。
 年増としまらしいが、やせぎすで、飢えと好奇の目には、あざやかにおんな――
 左次郎は、砂利をかついでいるよりも、ひどい動悸をさせながら、
「い、いくら? ……」
 と、乾いた声で、女の方へ吸いつけられて行ったが、何かの途端に、
「あっ!」
 と言うと、すべての意識を押っぽり出して、一目散に逃げてしまった。
 役人でも来たのかと、巻ぞえを食って驚いた夜鷹も、それと共に手拭をくわえながら、ウロウロと近くの路地へ駈け込んだ。


 どう無理工面をしたのか、銅鑼どら部屋の連中が、五両という金をそろえて腕拱うでぐみをしていた。
 そこへ、左次郎が帰ってくると、
「おい、待っていたんだ」
 と、すぐに三公が調子づいて、
「おめえも、この頭割りに入っているんだから、そのつもりでいな」
「な、なんですか、それは」
「馬鹿に息をあえいでいるじゃねえか、どうしたんだ」
「遅くなったので、少し駈けて来たんです」
「そんな事あ、まアどっちでもいいや。此方だけ承知しといてくれねえと困るからな」
 と、由造が中を割って、
「みんなの日当もおめえの手間も、七人分だけ、引ッくるめて、今夜無理に親分から前借した訳だ。金はここにある、見ておいてくれ」
「どうなさるんです、それを」
「部屋の交際つきあいだと思いねえ」
「それは宜しゅうございますが……」
「明日から七日だけ、おれ達も、砂利場へ仕事に行くことになった。ところで三公の奴が、どうしてもしゃくで堪らねえから、もう一度、醤油賭をするって言うんだ。それへ、みんな半肩乗ったわけだから、勝てば、倍になって返ってくる。その代り、取られても泣言なきごとをこぼしちゃ困るぜ」
 醤油賭の腹いせに熱している仲間の話も、かれには何の興味もない。
 よい程に聞いて、蒲団をかぶった。
 そして、夜具の中で、ジッと目をつぶりながら、さっきの夜鷹の顔を思いうかべた。だがあの瞬間に強く襲われた白粉の顔も、もう種々な疑惑に掻き乱されて、まとまりもつかない印象となっていた。
「まさか!」
 と、彼は無理に心を落着けようとして、
「……人違いだ、気のせいだ……いくら何でも、まさか養母ははが夜鷹などに」
 と、心で叫んだ。
 しかし、その一方では、またすぐに、
「だが、よく似ていた。白粉こそ濃く、六年前よりも若く見えたけれど……」


 とうとうその晩は、お咲のことや、安南絵の壺のことや、亡父ちち臨終いまわのことなどを考え出してマンジリとも眠れなかった。
 で、翌朝。
「少し、風邪を引いたあんばいですから、今日だけ一日休ませて貰います」
 亀親方に言って、また一日簑虫みのむしのようにくるまってしまった。
 ゾロゾロ部屋の者が出払ったあとで、親方の銅鑼屋の亀さんも、中風の身をおかして珍しく何処かへ出て行った。
 左次郎は何にもさまたげられずに、好きな事を考えていられた。もし養母ままのお咲が江戸にいたって、裕福である気遣いはなし、仲間ちゅうげんの一平と往来で出会っても、討つ力がないことは、自分にも分っている。
 と言って、叔父の手前、申し訳ばかりにこんな事していても、なおさら自分の身が立たない。
「江戸から姿を隠して、叔父にも鳥取の者にも、一生会わないことにしよう」
 こう考えたりした。
 しかし醤油賭のまきぞえを食って、七日分の日傭賃ひようちんも親方から借出されてしまってある。当座の小遣こづかいだけでも持たずには、まさか、この裸一貫で、何処へ行って何をしようもない。
 こんな引込思案は、左次郎の持前だった。
 そうこうするうちに、日が暮れると、今日から砂利場へ出かけた連中がゾロゾロと帰って来たが、みんなグンニャリして、ろくすっぽ口数もきかない。
「おれも明日から、左次公と一緒に風邪ッぴきになるよ。もう、働くのは嫌になった」
 と、誰かが、たった一度、大きな声で言ったきり、みんな脚気かっけのように足を伸ばして、湯に行こうと先に立つ者もない。
 そこへ、亀親方がのっそりと帰って来て、
「話がある、みんな、まるくなれ」
 と、どっかり坐った。
 菊花石あばたの顔を少しけわしくして、電光いなびかりのように、しきりと右の眼をしかめている様子。
 おいでなすったぜ――という風に、一同、元気なく膝を直したが、左次郎だけは起きなかった。空寝入りでなく、ほんとにその頃になって、彼はやっとトロトロした風だった。
「なんですか、親方」
「てめえ達ゃ、今日取られてきたな」
 のっけに醤油賭の敗北を言いあてられて、ガンと鉄鎚てっついを食ったように、
「へい」
 と六人とも、悄気しょげた首を垂れてしまった。
「馬鹿に大人しいじゃねえか、取られてベソを掻くくらいなら博奕ばくちをするな」
「へい……怖れ入りました」
「何も怖れ入る事はねえ、ほんとだ、博奕をやるくらいな量見のくせに、取られたからって、餌乾えぼしになったキリギリスみてえに、いやにひッそりして歯軋はぎしりを噛んでる奴があるものか」
「もう、りました。口惜しくッて堪りませんが、もう諦めます」
「意気地のねえことを言うな。明日――と言っちゃ少し早いが、四、五日置いてもう一番やって見ろ」
「え? ……」
「おれがきっと勝たしてやる」
「まったくですか親方」
 みんなが息を吹っかえしたように、
「じゃ親方、すみませんが、今度は、あっし達の体を抵当かたに、十両ばかり工面しておくんなさい。そして、野郎に嫌が応でも二升五合賭で果し合いを申込んで、こっちが飢え死するか、伝公の奴が血ヘドを吐くか、最後の勝負をしてやります」
「いいとも、質草入れても、十両こしらえてやる」
「有難てえ、拝みます、親方」
「だが、今までのようなやり方じゃ駄目だ」
「へえ? ……やり方がありますか」
「実は今だから話すが、何でも五両貸してくれと言う様子が変だから今日てめえ達が仕事に出たあとで、おれもちょっと砂利場へ様子を見に出掛けたんだ」
「じゃ親方も、昼休みにやっていた醤油賭の様子を見ていたんで?」
「ウム、眺めていた、見事なもんだ、あれじゃ幾ら一升飲め、一升五合飲めとかかったところで、半白半分はんぱくはんぶんに巻き上げられてしまうだろう」
「そうかなア」
「だが、おれも少しゃ、博奕で懲りている人間だし、若い時の覚えもある。あれから伝公が、仕事を半人で切上げて、涼しい顔をして帰るのを見届けたから、奴のあとをけて、近所隣で少しばかり平素の行いを洗い上げて来た。それで今夜は遅く帰って来たが、その代りにゃ土産があるぜ……」
 と言って、銅鑼屋の亀さんはさも得意気に、顔の菊花石あばたが一粒一粒笑うようにニヤニヤとした。
 それから三日ほど経つと、
「左次さん、今日は手不足だから、嫌でも仕事に出て貰いてえな」
 と、亀親方も帳場支度で、朝早くから左次郎の枕元へ来ていた。


 仕事先が二ツになるというので、竹、六、勘、由、亀親方の五人は両国から別の方にわかれ、丑、三公、左次郎の三人だけは、何時もの砂利場へ軽子かるこに来た。
 背丈せいが高いので、漆革うるしかわの煙草入れを持ったあの親切な男の姿は、すぐ左次郎の目に映った。
 左次郎がその男に馴々しくしていると、仕事のすきに三公が、
「左次ッ、てめえ、あいつと懇意なのか」
 と、不服そうに睨んだ。
 何の気もなく頷いて言った。
「ええ、あんな親切な人は、見たことがありません」
「けッ、何を言ってやがるんでい!」
 左次郎は蹴飛ばされるのかと思って、飛び退いた。
 本当は、部屋の者と一緒に食べなければ悪いと思ったが、その事があるので、左次郎は昼飯の弁当も、久し振りな男のそばへ持って来てムシャムシャやっていた。
 すると、丑と三公が、飯を噛み噛み意気込んで来て、
「さ、伝公、二升五合賭で来い」
 と、腕捲りをして前へ立った。
「伝公ッて? ……」
 左次郎はヒョイと男の顔を盗み見た。
 例の漆革の煙草入れを指に挟んで、ふーッとその面へ煙を吐いた男は、クスクスッと肩で笑いながら、
「まア、今日は止そうよ」
「逃げ張るねい、この間何と言った、五両賭でも十両賭でもしてやるが、砂利場中の者の金を寄せても、それだけはまとまるまいとかしたろう」
「賭に遺恨なしだぜ、取られたからってえるなよ」
「な、何を吐かしゃアがる。はばかりながら、五両やそこらの目腐めくされ金を取ったって取られたって、それでお天気の変る男じゃねえんだ」
「ほう……豪勢だの」
「こうなりゃ意地だ、てめえが血ヘドを吐くか、俺達が飢え死にするかだ。さ、こい!」
「いけないよ、お断りだよ」
「いけねえ? なぜいけねえ」
「何故って銭なしが二人ばかり、残ら肩をそびやかしたって、相手になりゃしねえじゃねえか。醤油賭は命がけだぜ、昼休みの番茶じゃねえんだから、二升五合賭なんて大口叩くなら、金主を見つけて出直して来い」
「こん畜生」
 三公は真っ赤になって、両手をふところに押し込んだ。
 倶利迦羅紋々くりからもんもんでも見せるのかと思うと、グッと襟を割って、
「その口を忘れるなよ、梅忠じゃねえけれど、贋金にせがねじゃねえから目をつぶすな」
 と、亀親方から工面して貰って来た小判十枚、伝公の前に叩きつけた。


 左次郎は気をのまれてウロウロした。
 自分に親切な男が、醤油賭の伝公だった。
 それが伝公であったにしろ、左次郎が好意をもっていることに少しも変動はない。むしろ、三公のキザな科白せりふが小にくらしく思えた。
 だが――また始まる! とそこへワラワラ寄ってきた砂利場の軽子は、皆んな一度は伝公にせしめられている組なので、三公の梅忠もどきの啖呵たんかに手を叩いて気勢を添える。
 伝公は、口を結んで、砂利山にぬッと立った。
「よし、賭けてやる」
「てめえも見せろ、正金なまで十両、あるか」
「ふん……」
 煙草入れから十両出して、
「粉だけまけてやらあ。さ、支度をして来い」
「二升八合だぞ」
 退ッぴき出来ないようにしておいて、丑がそこで、また約束より三合割を掛けた。
「いいとも」
 伝公はひるまなかった。
 立派だ、侍が果し合をするようだ――と左次郎は感心して、かれの堂々とした体躯にみとれていた。
 すぐ酒屋へ飛んで行った者がある。升を探して来る奴がある。知らない者をワザワザ呼び立てる者がある。そんな騒ぎに、小普請こぶしん小屋の役人や、川番所の番太郎まで、何事かと、この人輪へ駈け集まる。
「おれが、よしというまで、いじゃいけねえぞ」
 伝公は少し居場所をかえて、大谷石おおやいしを二ツ重ねた上へ、悠々と腰を下ろした。
 そしてしばらく大川を睨んでいた。
 さすがに、この間は、弥次を言う者もなく、初めのうちは、
「無智にも程があったもの、あんな馬鹿な真似をして、何が面白いのか」
 と苦笑していた役人達の顔までが、妙に引緊ひきしまって来て、目瞬まじろぎもしない。
「さ、注いでくれ」
 言ったかと思うと、伝公の顔は、もう大きな丼に隠れていた。
 ガボ、ガボ、と真ッ黒な液体が腹の中へ波を打って流れ込んで行く様は、理窟を考える暇なく、ただ、驚目きょうもくみはらせてしまった。
「お蔭様で、また今日も半日遊ばして貰えたな。じゃ十両は貰ってゆくぜ」
 と、伝公は煙草入れへ二十両の金を詰込んで、まだ呆ッ気に取られている周りの者へ、
「あばよ」
 と、人のいい顔を作って笑った。


 伝公は世帯を持っていた。
 家は浅蜊あさりの貝殻を踏みつけた高橋際たかばしぎわの路地にあった。
 大川を向うへ越えて、渡舟わたしを上がった途端から、伝公の挙動が少し違って来た。どうも先刻の悠々然たる伝公とは調子が違う。
 そそくさと、一本道に自分の家へ帰って来る。
 女気はあるらしいが、留守と見えて、そこらに、ふだん着の長襦袢ながじゅばんが見えるばかり。
 かれは上がるとすぐに仕事着を脱ぎ捨てた。そして、引っかけ浴衣ゆかたに手拭一本ぶら下げると、大股に横町を出て、角の銭湯へ急いで来たが、戸に手を掛けて見ると、ガタッと鳴っただけで、開かない。
「おや……」
 と気がついて見ると、千鳥湯という、いつもくぐ暖簾のれんが外してあったので、
「あっ……休みか」
 はじかれたように、そこを出て、次の風呂屋へ飛んで行った。
 ところが、そこの暖簾も仕舞ってあって、盲目格子がシーンと閉まっている。
 いなせ者が多い深川のことだ。昼や朝湯がこう休みの筈はない。かれはその裏通りの喜撰湯きせんゆを思い出して、一目散に駈け出した。
「休みだ!」
 伝公は狼狽した。
 血相をかえて、風呂屋の戸をガンガンと叩きながら、何か大声で呶鳴っていたが、カランという小桶の音も聞えない。
「ちぇッ」と、かれは地団太ふんで、さらに奔馬ほんばのような勢いで往来へ出た。もう思い出す湯はこの近くに小町湯とお豊風呂の二軒しかなかった。
「やッ、休みだ!」
 唾を吐きかけるようにして叫んで、次の一軒へ来てみると、ここもまた申し合せたような休業札。
「今日は幾日だろう」
 伝公はクラクラする頭を押えながら考えてみた。休み日じゃない! 風呂屋の休み日にしろ、こう揃って、何処も彼処かしこも休みという筈がない。
 それから伝公は気違いのようになって、湯屋湯屋と血眼で探して歩いたが、もう目眩めまい嘔吐気はきけに堪らなくなったらしく、両手で頭を抑えたまま、真ッ青になって、自分の家に転げ込むや否や、
「ウーム……」
 と弓弦ゆみづるを張られたように身をらして、柱の根元へ獅噛しがみついた。

十一


「野郎、今日ばかりは、余ッぽどあわてやがったようです」
 蛤鍋屋はまなべやの奥で、町内の顔役が笑っていた。
「どうも、有難う存じました。お蔭様で仕返しをしてやる事が出来たというもんで」
 銅鑼屋の亀さん以下、四人の者が、そこで揃って礼を述べた。
 今日の風呂屋の休業は、このかしらの口ききだった。無論それを頼み込んだのは、亀親方。
 なぜ、風呂屋へ目をつけたかというと、伝公が醤油賭をした時は、きっと、半日で仕事をやめて帰る事と、すぐに必ず近くの銭湯へ行くことを聞き出したからであった。
 で、その銭湯のおやじに聞くと、
「ははあ……」とうなずけた顔をして、
「家でも、変だ変だと言いあっていたんです。何しろ伝さんが飛び込んできて、ウームと熱い湯に長いことひたっていると、あとの湯が妙によごれて、おまけにすッかり塩ッぽくなっちまうんです。――え、醤油賭をするんですって、なるほど」
 と、その効能を説いて、さらに言うには、
「蛇を食う山国の者は知っていましょうよ。たとえば、蟒蛇うわばみの味噌漬なんかをひどく食べすぎた時、熱い湯に入って、ウンとこらえておりますと、全身の毛穴から強い精分や塩分はみんな絞り出されてしまうのです。そのでさ。そこから思いついた芸当に違いありません。万八の大食会で一升も飲まされた人が、死んだと聞かされた時、私は江戸の人間は、案外智慧なしだと思ってましたよ」
 こう聞いたので、銅鑼亀さんは、しめたと町内の顔役からほんの二刻ばかり、風呂屋総休みの交渉をやって貰った訳である。
 ――で賑やかにそこで一杯飲んでいると、
「大変です、伝公が血を吐いて、死んだそうです」
 と、知らせに来たものがある。
 まさか、死ぬ程のこともあるまいと思っていたので、
「えっ!」と色を変えて総立ちになった。
「死んだとなると、こいつア検死が面倒だ、とにかく、っちゃおけねえ」
 今さら驚いて顔役と亀親方だけが、例の浅蜊あさりをザクザク踏みしめる路地の奥を訪れた。
 白粉よごれのした女が、伝公の死骸にすがって泣いていた。
 自業自得じごうじとくとは言いながら、気の毒にもなって、だんだん事情を聞き取ってみると、銅鑼屋の亀さんは吃驚びっくりした。その女が、前々話を聞いていた、左次郎の養母ははに当るお咲だった。
 すると、もしや――と思ったので、男の方を聞いてみると、醤油賭の伝公というのは、江戸へ来てからの変名で、もとは左次郎の父に仕えていた仲間ちゅうげんの一平。
 だが、一平は、醤油賭をやり始めてから、すッかり昔と体質や容貌まで変ってしまったというから、左次郎には気がつかなかったものと見える。
 お咲は隠しなくすべてを話した。
 自分が今、割下水で、恥かしい夜鷹をして人の袖を曳いていることも。
 なぜ、そうまでして、男女ふたりが金のために体まで売ったり賭けたりし始めたかというと、それは、あの元贇焼げんぴんやきの安南絵の壺を求めて、どうかして、もう一度、鳥取へ帰りたいという望みが動機だった。
 その代金として、最初、国元から預かって来た金は、まったく道中の誤ちで、お咲が胡麻の蠅にられたのだった。仲間の一平はそれに同情して、自分の郷里へでも行って金の工面をしようと計って、日を過ごすうち、遂に、あても何もかもはずれて、鳥取へ帰る機会を失ってしまった。
 ただ稼いで、何百両という金をめるのは一生かかっても難しいことと、一平が悪智慧わるぢえを出して、醤油賭をやるようになってから、お咲も、自分の体を犠牲にえにしてもという気で夜鷹に身を落したが、実は、もう安南絵の壺を求めるだけの金は、とっくに余るほど、貯まっていた。
 だが――金の額が越えるほど貯まってくると、こんどは、一平もお咲も、急にその執着しゅうじゃくが捨てられなくなった。
 で、まったく、主従のへだてを破って、夫婦になったのは、つい去年の事だと言う。
 その話に嘘はなさそうであった。
 銅鑼屋の亀さんは、何しろこの奇遇を少しでも早く左次郎の耳に入れてやろうと、その晩、滅多に乗らない町駕を飛ばして帰った。
 だが、左次郎は、今日の砂利場の帳場から姿を隠したまま、どこへ行ったものか、銅鑼部屋へは帰らなかった。





底本:「治郎吉格子 名作短編集(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年9月11日第1刷発行
   2003(平成15)年4月25日第8刷発行
初出:「改造」
   1928(昭和3)年5月号
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月14日作成
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